カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・ピエモンテ(その7)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
アルバからすぐ北側のタナロ川(ポー川の支流)を渡り、左岸側を通る幹線道(SS231号)で、17キロメートル西にある「ブラ(Bra)」にやってきた。アルバと同じ、ピエモンテ州のクーネオ県の基礎自治体で、アルバの次に人口が多い3万人弱である。ターナロ川左岸に位置することからロエロ地区となる。幹線道はブラの南側を東西に走っており、目的のリストランテ、ボッコンディヴィーノ(Osteria Boccondivino)は、400メートルほど北に行った町の中心部にある。繁忙期ではないためか町は閑散としている。


店舗前には、店名看板とイタリア国旗がはためき、入口の柱には、スローフードと書かれた看板が掲げられている。スローフードは、拡大を続けるファストフード文化に対して、その土地の伝統的な食文化や食材を見直すことなどを目的にし、1986年にイタリアのカルロ ペトリーニにより提唱された国際的な社会運動で、現在ではイタリア国内で4万人、世界各国に8万人以上の会員を有する国際組織(協会)となっている。なお、シンボルマークのカタツムリは、思慮深い、ゆっくりの意味である。


正面のアーチをくぐると中庭になっている。1階には、スローフード協会本部の事務所があり、ボッコンディヴィーノは正面の階段を上った2階にある。


ワインは、グラス ワインメニューから注文することにした。メニューには、地元産の14種類があり、カナーレ産、カステッリナルド産、ディアーノ ダルバ産などのワインを注文した。ちなみに一番価格が高いワインが、バローロ ロッチェ(Rocche、05)で6ユーロ。次にバルバレスコ マルカリーニ(Marcarini 06)で5.5ユーロ。他は2.5ユーロから4ユーロ程度とかなり良心的な価格設定である。


ランチ メニューには、アンティパスト、プリモピアットなどの標記はなかったが、アンティパスト8種、プリモ4種、セコンド6種、チーズ1種、コントローリ3種が、順番に書かれていた。料理には、お店のお勧めマークがあり、そのお勧めの一つ、ピエモンテの伝統料理の3点盛り「ラルド、サルシッチャ ディ ブラ、カルネ クルーダ」(Lardo,salsiccia di Bra e carne cruda、8.50ユーロ)を注文する。一目で鮮度が高いと感じる色合いで、実際に食べてみると上質のマグロのようである。さすがにスローフード協会のおひざ元のリストランテといったところ。
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付け合わせ(コントローリ)は、シンプルな「ミックスサラダ」(Insalata Mista、4ユーロ)にした。バルサミコ酢をたっぷりかけて頂く。こちらも収穫したてといった感じで、大変みずみずしい。
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「ズッキーニとトマトのニョッキ」(Gnocchi di patate con zucchini e pomodoro fresco、8.5ユーロ)。ジャガイモ ニョッキは思ったより柔らかく、新鮮で酸味のあるトマトとの相性が素晴らしい。
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こちらは、お馴染みのピエモンテの伝統料理「アニョロッティ デル プリン」(Agnolotti del plin al burro e rosmarino、9ユーロ)。詰め物はやや小ぶりで思ったより柔らかいので食べやすい。ローズマリーの香りの強いが、かえって食欲が増す。
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最後に「パンナコッタ」(5ユーロ)と「カフェ」(1ユーロ)をいただいて食事を終えた。
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セコンド ピアットでは、お勧めとして、仔牛肉のツナソース(8.5ユーロ)、カルマニョーラ産ウサギのトンノ、バルサミコ添え(8.5ユーロ)、仔牛肉の煮込みシチュー(12.5ユーロ)などがあったが注文しなかった。実は、今夜こそ、昨夜行けなかったリストランテに行くことにしているため、昼は軽めにしておいた。結果、お腹には余裕もあり正解だったが、どの料理も美味しかったので少し心残りとなった。

次にクーネオ県バローロに向かった。バローロの名称は、最高級のイタリアワインの一つとして世界的に知られている。タナロ川を渡り右岸沿いを走るSP7号線で、アルバ方面に戻り途中からSP3号線(アルバ通り)に乗り換え南下する。ブラから30分ほどでバローロ村の北側にあるコルベルト広場に到着する。

コルベルト広場の正面にある狭い石階段を上ると、ムニチピオ広場に到着する。広場の北側に面した建物の裏には、三角形の敷地の展望台があり、左前方(北東方向でアルバ方面)にランゲの丘陵地の稜線が望める。手前の中程には「サン ドナート教会」の鐘楼、右側に、バローロ城の胸壁のある塔が聳えている。ワインで有名なバローロだが、人口は700人足らずと少なく、集落はバローロ城を中心に丘の上に広がっている。
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再びムニチピオ広場に戻り、東方向へ延びる起伏のあるローマ通りを進むと、正面に「バローロ城」(正式にはファレッティ城という)が見えてくる。お城はもともと小さな丘にあった要塞を利用して建設したもので、下部には、石を幾層にも積み重ねて築かれた要塞の名残りがある。城には三層のアーチ窓があり、その屋上南側には胸壁が備え付けられているが、西側にはなく、小さな窓が並んでいる。屋上には胸壁のある小円塔と、大きな塔が建っている。
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バローロ城へ向かうルートには、他に、麓となる北側から直接、城の周囲に沿って延びる細い通路を利用することもできる。そちらは、近道にはなるものの、かなり急勾配の坂道となっている。

バローロ城を建設したのは、1250年に当地を引き継いだファレッティ家である。ただし、現在のバローロ城は、16世紀に戦争で大きな被害を受けた後に再建したものとされている。ファレッティ家とは、12世紀初頭にアスティ、アルバなど、ピエモンテの都市を起点に、金融及び商業の分野で富を築いた貴族の系統で、ジェノヴァ、チュニス、アヴィニョンなどに金融事業を拡大し財を成し遂げている。そして1730年には侯爵となっている。

胸壁のある南側の2階と3階の二連のアーチ窓の上部には、歴代の侯爵の浮彫があり、コーニス下の面取りには、ファレッティ家の紋章が飾られている。
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城への入口は、南側の外壁を回り込んだ北側にある。城内は「エノテカ レジョナーレ」(バローロ州立ワイン展示館)になっており、ワインの製造工程の紹介やバローロ ワインに関する展示がされている。こちらの部屋の壁面には、ブドウ畑とバローロ ワインボトルを背景に、科学者風の男性が顕微鏡を覗いたり、書類に目を通したり、ワイン醸造に関する研究場面を思わせる一場面を劇画タッチで描いたパネルが展示されている。
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パネルは大きく、視線を移すと、トーガを脱ぎ、裸でワインを飲むローマ人風の男女や、その姿を眺める骸骨などが描かれた場面もある。他にも、キリストをワイン圧搾機に乗せ、流れ出る血をワイン樽に注ぎ込むシュールな場面などもあるが、あまり相応しいと思えない展示だった。

こちらには正方形のフローリングの部屋がある。周囲の壁には伝統衣装を身に着けた人物パネルが数多く飾られ、事務机と椅子だけがポツンと、すみに置かれただけで、何のための部屋なのか分からないが、窓からの眺めは素晴らしく、時折吹き込む風が心地よい。


こちらには、多くのバローロ ワインが展示されている。そして有料で試飲もできるコーナーもある。現在、“ バローロ ” と表示することができるワインは、DOCGに指定され、ランゲ丘陵周辺の11の地域となっている。中でも有名な生産地域は、お膝元のバローロ (Barolo)地域を始め、北側のラ モッラ(La Morra)、北東側のカスティリオーネ ファッレット(Castiglione Falletto)、東側のセッラルンガ ダルバ(Serralunga d’Alba)、南東側のモンフォルテ ダルバ(Monforte d’Alba)の5か所とされている(バローロ ワインの主な生産地域図)。
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バローロ ワインが、長期熟成の辛口赤ワインとなったのは、1807年、バローロ侯カルロ タンクレーディ ファレッティに嫁いだ、ジュリエット コルベール(太陽王ルイ14世の宰相コルベールのひ孫にあたる)が、バローロの土地と気候が、高品質のワインを生み出すことができると確信し探求を続けたことが始まりである。彼女は1864年に亡くなりファレッティ家は断絶してしまうものの、彼女の意思を受け継いだ後継者たちにより、バローロは「王のワイン」としての地位を築いていく。壁には1871年の古いバローロ ワインのラベルなどが展示されている。
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高い名声を築いたバローロ ワインは、1970年代には、消費者の嗜好の変化などにより、長期熟成の伝統的なスタイルが流行遅れとなっていく。しかし、1980年代には、バローロ ボーイズと呼ばれた若手生産者により、従来の大樽から小樽による熟成方法の変更、熟成期間の3年から1年への短縮など、果実実あふれるニュースタイルのバローロが次々と開発される。こちらにはそんな過渡期の1983年のラ モッラ産バローロ ワインが飾られている。
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4階には展望テラスに出られるアーチ門がある。テラスから南側を振り返ると、丸瓦が敷き詰められた切妻屋根の中程に2つの塔が伸びている。煙突の様にも見えるが、胸壁があることから、防衛上の櫓(側防塔)だったと思われる。
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そして、展望テラスからは、東、北、西側3方向の眺望を見渡せる。周囲には、大人の腰あたりの高さの手すりと、その先に煉瓦が積み重ねられた胸壁が設けられている。

テラス北側真下には、城への正面入口前の小さな広場があり、その向かい側(北東側)に「サン ドナート教会」が建っている。そして、その教会の鐘楼の後方には、300メートルから400メートルの高低差の丘一面に、バローロ生産地域のぶどう畑が大波のうねりのように続いているのが確認できる。見渡すばかりに、ぶどう畑は続き、北東方向となる右後方はカスティリオーネ ファッレット生産地域となり、その先がアルバになる。
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やや左側に視線を移すと、同じくバローロ生産地域のぶどう畑の斜面が広がっている。そして、その先となる北側の4キロメートルほど先の丘の上の街並みが、人口約2,700人の基礎自治体(コムーネ)「ラ モッラ」で、標高500メートルほどに位置している。ラ モッラは、バローロ生産地域では最大面積を誇っており、標高差のある畑から様々なタイプのワインが生み出されるが、ミネラルをたっぷり含んだ石灰土壌であることから、一般的には、エレガントなスタイルのバローロが産まれるとのこと。
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次に、アルバ方面に6キロメートルほど戻り、カスティリオーネ ファッレットを過ぎたグリンツァーネ カブールに向かった。ここには、ガリバルディ、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される、カミッロ カヴール伯爵の城(Castello di Grinzane Cavour)がある。

駐車場は、なだらかな坂を上った右側にある。その駐車場には眺めの良い見晴らし台があり、起伏のあるぶどう畑の丘を見渡せる。車道から東方向に分岐し上っていく歩行者専用の直進の石畳道を進むと、左前方の丘の上に「カミッロ カヴール伯爵城」が現れる。
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カヴールとは、1852年、サルデーニャ王国の最後の国王ヴィットーリオ エマヌエーレ2世に首相に選ばれ、国王と共にイタリア統一戦争に終止符を打ち、リソルジメント(イタリア統一運動)を成し遂げた人物。その後は、オーストリアやフランスなど大国からの干渉という難題を抱えながらも、卓越した外交術を駆使してイタリア統一を完成させる。こちらはカヴールの石膏肖像で、城内の展示室に飾られている。


カヴールは政治的評価だけでなく、ワイン醸造にも貢献し今のバローロ ワインの礎を築いた人物である。19世紀初頭、ピエモンテの農地は、ナポレオンのイタリア侵略で荒廃していたが、この時期、フランス人のワイン醸造専門家ルイ ウダール(Lois Oudart)にワイン醸造について調査・研究を依頼している。

この結果、ネッビオーロ種の潜在力が引き出され、1850年代にはネッビオーロ種100%の辛口ワイン「バローロ」の生産に成功する。そして、瞬く間に「ワインの王様」の称号を獲得している。こちらのスクリーンではそのカヴールの功績が紹介がされている。
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このカブール城は、初期のバローロ研究の中心地でもあったことから、城内には、カヴールの遺品や、ワイン研究に関する資料、写真などが多数展示されている。
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部屋の中央には、大型のワイン圧搾機が飾られている。中央には樽が置かれ、左端の大きなねじを回すことで、太い横柱に圧力を加え、樽内のブドウを搾る仕組みになっている。他にも、様々な形の絞り樽や、収穫に使用された道具類などが展示されている。
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城内には、エノテカ レジョナーレ(州立ワイン展示館)があり、ワインの試飲や販売がされている。隣にはピエモンテ料理とワインを堪能できるリストランテも併設されている。
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そのリストランテの入口を入ってすぐのテーブル席には、見晴らしの良い大きなアーチ門があるので、コーヒーを飲みながら休憩する。真下は、城が建つ土台となる広い敷地で見晴らしの良い展望台となっているが、こちらは、やや高い場所になり、より眺めが良い。左端が北東になるので、丘の向こうがアルバ方面になり、右側の丘の上の街並みが、ディアーノ ダルバになる。
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次に、やや右側に移動すると東になり、ディアーノ ダルバのサン ジョヴァンニ バッティスタ教会の鐘楼が確認できる。この場所から直線距離で概ね3キロメートルほどの距離となる。
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更に右側は、南東側でホテルのあるモンテルーポ アルベーゼ方面となるが、教会の鐘楼らしき塔は確認できない。手前の丘には、見渡すばかり、ぶどう畑が広がる風景となっている。
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時刻は午後6時半を過ぎたところ。今夜は、昨夜訪問できなかったリストランテに向かうことにしている。グリンツァーネ カブールからは、一旦、ホテルに戻り着替えて向かうことにしている。駐車場からは、三叉路からSP157号線を東に向かい、ディアーノ ダルバを経由して南に進むと20分ほどでホテルに到着する。

今夜は、トレイゾ(Treiso)にあるミシュランの一つ星「ラ チャウ デル トルナヴェント」(R La Ciau del Tornavento)を予約している。トレイゾは、ホテルからは、17キロメートルほど北東にあり、アルバからは、7キロメートルほど南東に位置している。丘の間を曲がりくねって延びる道が多く、気を抜くと、方向感覚が分からなくなるので、大変に難しい。。事前に一応ルートは調べているが、標識を見落とさないことを心掛け出発した。

交差点の標識や道路の様子を確認しながら、北に向かって進むと、丁字路のロータリーに、テレイゾ、アルバ方面の標識があり、左折した先に鐘楼のある教会が見えてくる。その教会前にある交差路から教会の右側を通り過ぎた隣の邸宅が目的のリストランテである。2階建てで中央に煉瓦を積み重ねたポーチと両側を大きな植え込みの植物が一体となり豪華なファサードを形成している。時刻は午後8時15分。ぎりぎり日の入り前に到着することができた。
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店内は長方形の大広間といった雰囲気で、4~5人掛けの丸テーブルが10数台並び、かつテーブル間の距離も十分離れて配置されている。入口の反対側となる南側には、一面窓ガラスで覆われ、ランゲ丘陵地が一望できるゴージャスな空間となっている。

コースはデギュスタツィオーネ(Degustazione)でお願いする。最初のワインは、バローロ南東側のモンフォルテ ダルバのシャルドネを十分に熟成させて造ったスプマンテで、カンティーナ(生産者)ロッケ デイ マンゾーニによる「ヴァレンティーノ ブリュット リゼルヴァ エレナ」である。ランゲ地方で初めて造られたシャンパン製法のスプマンテ(メトド クラッシコ方式(瓶内二次発酵))とのこと。
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最初にサーモンをいただく。スプマンテと良く合っている。この日は、何故かメニューを撮影しておらず、提供された料理の詳細が分からないままとなってしまった。
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テーブル席は、南東側の窓際席を案内してくれたので大変眺めが良かったのだが、前菜が運ばれる前に日が暮れてしまった。ホテルからの眺めもそうだったが、街の灯りがないため、日が沈むと真っ暗になってしまうのが、少し残念である。
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次のワインは「ジェンマ ヴィティス」。ピエモンテ州の西部に位置するカンピリオーネ産の赤ワイン。
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野菜のフラン(タルトパイ)。
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バルベーラ ダルバ ヴィニェーティ チェッレート(barbera d'alba vigneti cerreto)。カンティーナは、ロベルト ヴォエルツィオ(Roberto Voerzio)で、ラ モッラ中心部にある。バルベーラ種100%で造られ、輝きのあるルビー色をしている。フランボワーズやジャムを思わせる香り、凝縮した果実味としっかりとしたアルコール感があり、まろやかな酸味とシルキーな喉越しを持つ。
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フォンドゥータソースを使った料理だが料理名は不明。タルトゥフォ ビアンコ(白トリュフ)をたっぷりとかけてくれた。
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バルバレスコ セッラボエッラ(Barbaresco Serraboella)。伝統的な大樽と近年流行している小樽を使用したチリューティの自信作と言われる。
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こちらは、ピエモンテの家庭料理で、細麺の卵入り手打ちパスタ「タヤリン」。ハーブ風味のバターソースでいただく。
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最後のワインは、バローロ ワインになる。ロ ゾコライオ バローロ ラヴェラ(Lo Zoccolaio Barolo Ravera)で、ロ ゾコライオはバローロ生産地域のカンティーナで、村の中心地からやや南の標高350メートルに位置する。ゾコライオは大きな白い木(ギンドロ)で命の木とも呼ばれており、ラベルにもデザインされている。ミネラル香とスパイスをほのかに感じ、コクがあり溢れるような豊かさと広がりのある香りが特徴。
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メイン料理の前にウエイターが希望する肉のサイズを聞きに来たので少なめでお願いした。他のテーブル席に運ばれる大きさを見て驚いていたのを察知されたのかもしれない。こちらは豚肉で、旨味が凝縮された肉と皮のカリッとした焼き上げとのバランスが抜群である。
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こちらは、何の肉だったか覚えていない。サイズもちょうど良く、美味しかったことは間違いない。。
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本日のコースには、チーズが付いており、女性スタッフが大きなガラスケースのチーズワゴンを運んできた。
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チーズの種類が多く、選べないで悩んでいると、笑顔で、全種類を盛りつけてくれた。
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今夜もピエモンテ伝統料理だったのだが、洗練された料理や多くの種類のチーズ、お店の雰囲気やサービスも良く、フランス料理を味わった様な気持ちになった。ワインも大変美味しく、グラスの量が少なくなると、愛想良く、どんどん注いでくれた(計175ユーロ(レート114.092))。日本人シェフも働いており、少し会話することができたのも良かった。デザートが提供された頃は、午後11時を過ぎ、多くの客は帰宅して、ほとんど最後の客となっていた。
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翌朝は、ホテルからミラノ マルペンサ空港に向かい、午前12時20分発のアエロフロート ロシア航空に乗り、モスクワを経由して、成田国際空港に翌朝、午前10時20分に到着・帰国した。今回の旅は、かなりの距離の移動となり、計画通り進まなかったことも多かったが、大きなトラブルなく無事終えたのは良かった。
(2011.8.6~7)
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イタリア・ピエモンテ(その6)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
こちらは、トリノ中心部から10キロメートルほど東に位置するスペルガの丘に建つ「スペルガ聖堂」(Basilica di Superga)で、南側にある駐車場から眺めた様子になる。聖堂は、4メートルほどの高さの基壇の上に、円形のボディと大きなバロック様式のドーム(クーポラ)を中心に、側面左右に鐘楼を、西側には新古典主義の8つのコリント式柱を持つローマのパンテオン風のプロナオスを備えている。1997年には「サヴォイア王家の王宮群」として世界遺産に登録されている。
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こちらのスペルガ聖堂までは、今朝、ホテルをチェックアウトし、トリノ市内の主要幹線道を東に進んだ後、南から北に流れるポー川を渡った右岸沿いの幹線道から、坂道を上って到着した。ホテルからの所要時間は40分ほどだった。

スペルガ聖堂は、サヴォイア公ヴィットーリオ アメデーオ2世(1666~1732)が、トリノの戦い(1706年5月14日~9月7日)(スペイン継承戦争の一つ)で、フランス包囲軍に勝利した記念として、宮廷建築家フィリッポ ユヴァッラ(1678~1736)に依頼し、1717年から14年の歳月をかけて後期バロック古典主義様式で造営したもの。ユヴァッラはトリノで活躍する前に、ローマで修業していたこともあり、サンピエトロ大聖堂のミケランジェロのドームを参考にしたと言われている。また、左右の鐘楼は、ローマを中心に活躍したバロック建築家フランチェスコ ボッロミーニ(1599~1667)の影響を受けているとされる。
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もともとこの場所には古い教会があったが、大規模な聖堂建設のための礎石を敷くために、100名の作業員が1年かけて40メートルほど丘を掘り下げたと言われている。現在この場所は標高669メートルとなっている。

高さ75メートルある聖堂中ほどのドームの周囲には、細い通路と落下防止のための手すりが張り巡らされた展望エリアがあり見学が可能である。その展望エリアへは、正面階段(17段)を上りプロナオスの奥の正面入口を入ったすぐ右側から螺旋階段で上っていくが、階段は130段とビルの7階~8階に相当するため結構上りごたえがある。
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展望エリアに上り、北鐘楼の横から西側のトリノの街並みを見渡すと、やや曇っていた。その上、撮影している際は気が付いていなかったが、カメラのレンズが汚れていたことから、一層、霞がかかった様な、ぼやけた画像となった。。しかも、この後も汚れに気が付かず、同様の暗い画像になったことは不覚だった。

スペルガ聖堂は、南北に流れるポー川右岸の河岸段丘の上(スペルガの丘)にあるが、ポー川についてはトリノ郊外から大きく右に曲がり東に向っており、80キロメートルほど先のピエモンテ州境まで右岸沿いに河岸段丘が続いている。スペルガの丘を含め、一帯の丘陵地はピエモンテ州の地域保護自然地域となっている。

こちらは、ファサード側から南鐘楼越しに東方向を眺めた様子で、鐘楼の先には丘陵地の稜線が続いている。手前の鐘楼自体は南北とも同じ形状をしているが、南鐘楼にのみ時計が備え付けられている。
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次に聖堂内を見学する。広い円形身廊の周囲には、8本のコリント柱が上部のドームを支えている。中央には会衆席が設置され、後陣のある東奥にはアゴスティーノ コルナッキーニが、受胎告知を題材に手掛けた主祭壇がある。南北側の身廊後方にも同規模の彫刻祭壇を配する礼拝堂があるが、これら聖堂内の装飾彫刻については、 コルナッキーニの他に、ベルナルディーノ カメッティが携わっている。そして四方間(北東・北西・南東・南西)の身廊奥には小礼拝堂があり、こちらにはセバスティアーノ リッチが描く小祭壇が飾られている。
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身廊の8本のコリント柱が支える上部のドーム円周の先には広いドーム空間が広がっている。奥行きが分かりにくいが、ドーム天井までは身廊と同程度の高さがある。円周の上から伸びる8本の白いコリント柱とリブ ヴォールトが支えるドーム天井は、その柱間にある8つのアーチ窓と8つの丸窓から差し込まれる外光により美しい装飾を見せている。更に中央部の尖塔内に、側面から光が差し込むもう一つの空間が続いている。
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地下にあるロイヤルクリプトの見学は、ガイドツアー(イタリア語)に参加しなければならない。階段を下りた最初の突き当たりの半円形の部屋には、アントニオ カノーヴァの弟子であるカルロ フィネッリによる大天使ミカエル像が飾られている。ミカエルは、悪魔を倒す天使であることから、墓の象徴的な防御のためにこの場所に設置されたと言われているが、以前は大聖堂のエントランス ホールに展示されていた。
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地下室はラテン十字の形で、5つの部屋に分かれ、サヴォイア王朝の王、王妃を始め66の大理石の棺が納められている。鮮やかな流れ模様を持つ大理石の柱や、金の縁取り、白大理石の彫像群など豪華絢爛な装飾は見応えがあるが、写真撮影が禁止の上、45分のガイドツアーは少し長い印象だった。

スペルガ聖堂建設のきっかけとなった、スペイン継承戦争は、アン女王戦争と共に、1713年にユトレヒト条約(講和条約)として、フランス・スペインとイギリス、オランダ、プロイセン、サヴォイア公国とのあいだで締結している。勝者側となったサヴォイア公国は、シチリア王国を獲得し、サルデーニャ島と交換してサルデーニャ王国になった。その後、サルデーニャ王国は、19世紀にイタリア王となっている。スペルガ聖堂は、イタリアの扉を開く象徴的な建造物となったと言えるのかもしれない。

1時間半ほどの見学を終え、スペルガの丘を下り、ポー川に沿って延びる幹線道を南に進んでいる。これで、トリノを離れ、次にピエモンテ州南部にあるクーネオ県の基礎自治体(コムーネ)「カナーレ(Canale)」に向かう。
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トリノ市内からSP29号線で約1時間半、カナーレに到着したのは午後1時半だった。その街の中心、マルティーリ広場の北西側に「アル エノテカ(All'Enoteca)」がある。こちらでランチ予約をしているが遅い到着となったためか、ローマ通りに面した外門(南門)には鍵がかけられていた。営業時間が終了したのかと不安になりながら、ブザーを押すと、スタッフが現れ開けてくれた。そして庭を通って煉瓦色の建物の2階に向かった。ちなみに、西隣には大きな鐘楼を持つ「サン ヴィクトール修道院」が建っており、当初、修道院の外門かと思ってしまった。
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アル エノテカとは、2000年、当時28歳で、ミシュラン一つ星を取得したダビデ パルダ(Davide Palluda)氏が提供するリストランテで、トリノに住むサヴォイア貴族の食卓を支えてきたランゲ・ロエロ地区の郷土料理を、良質な食材を使い洗練された料理で提供してくれる。評価が高く人気のミシュラン店である。ちなみにランゲ・ロエロ地区とは、クーネオ県を東西に流れるターナロ川を挟んで右岸(南)がランゲ地区、左岸(北)がロエロ地区と呼ばれ、ここカナーレはロエロ地区にあたる。

階段で2階に上がり店内に入ると6組ほどが座れるテーブル席があったが、お客は誰もいないうえ、白いカーテンは閉じられたままだった。まるで営業時間外に訪問した様な雰囲気だった。


中央付近のテーブル席に案内されたが、料理を待っている間に窓際のカーテンを開けるとマルティーリ広場が見渡せる。広場には人出もほとんどなく、車もほとんど通らない。トリノの喧噪の状況から一転して静寂な世界に迷い込んだ様な印象だった。数台が駐車する正面の切妻屋根の建物には、黄色い文字でスーパーマーケットの看板が掲げられ、扉口に人影が見えたので営業しているようである。


注文は、デグスタツィオーネ コースをお願いした。最初は「ミッレジマート2005」(メソド クラシコ)で、生産者は地元カナーレのエンリコ セラフィーノ(Enrico Serafino)である。すっきりとした喉ごしでフルーティーな香りが特徴のワインである。
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料理は、ストウッツィキーノ(アミューズ)として、ピエモンテ名物の「丸唐辛子の詰め物」からいただく。


2番目のワインは「ドルチェット ダルバ(Dolcetto d'Alba)」、D.O.C. ピアンカヴァッロ(Pian Cavallo)で、ドルチェットと呼ばれる固有ブドウ品種で、ネッビオーロとバルベーラに並んで希少価値が高い。生産者はネグロ ジュゼッペ(Negro Giuseppe)で、カンティーナはバルバレスコ近郊にある。
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アンティパストは「ファッソーネ牛の盛り合わせ」(II Fassone dalla testa ai piedi)で、 ピエモンテ産の最高品質を誇るファッソーネ牛の各部位を様々な調理法で盛り合わせたもの。左端は生肉(Carne cruda)でキノコのスライスが乗っている。
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アンティパストの温菜は、ワンスプーンで提供される。
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3番目のワインは「バルベーラ ダルバ」。生産者はカッシーナ カロッサ(Cascina Carossa)で、カンティーナは地元カナーレにある。バルベラ種は、タンニンをあまり含まず、果実味が多く渋みが優しい黒ブドウの品種である。
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プリモピアットは、ピエモンテ州名物の「アニョロッティ デル プリン」で、牛、豚、うさぎなどローストされた複数の肉と、ホウレン草を練り込み固めた詰め物パスタ。料理は、白ナプキンがかぶされた状態で提供されたが、これが伝統スタイルとのこと。併せて、ローストしたときに出てきた肉汁を使ったスープが付いてくる。こちらの詰め肉は、淡白な肉で脂分が少ないことから一つ一つがしっかりとした食感で食べ応えがある。


さて、次のワインは「バローロ ポデーリ スカローネ DOCG 2000」(Poderi Scarrone)である。ネッビオーロを品種とし、地元農家と生産者協同組合とのコラボで造られたテッレ ダ ヴィーノ社が手掛けるワインの王様でイタリアを代表するワイン。
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セコンドピアットは「厚切り牛カルビ」(Costata di manzo midollo pinoli e tatin di cipolla)で、松の実と甘辛い肉汁のソースがかかっている。付け合わせとして、玉ねぎのタルトタタン(煮詰めて柔らかくなった玉ねぎ)、カルドン、カリフラワー、ズッキーニ、人参、ポテトチップスなどが添えられている。
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デザートは、クリームとスライスしたドライアプリコットを使ったシンプルな「パンナコッタ」。しかし、肉料理を食べている途中から、急にお腹が苦しくなった。アニョロッティがかなりのボリュームだったのが満腹感の原因と思うが、もしかしたら、他にも一品提供されていたかもしれないが思い出せない。


ワインは、クーネオ県カスティリオーネ ティネッラ(ランゲ地区)にある生産者カウドリーナ ディ ロマーノ ドリオッティ(Caudrina di Romano Dogliotti)による微炭酸ワインで、デザートワインになる。品種は白いマスカットと言われるややアルコール度数の高いミュスカ ブラン ア プティ グランとのこと。
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2番目のデザートはピエモンテ名物の「ボネ」で、アマレットリキュールの香りが特徴なチョコレート風味のココアプリンだが、こちらはケーキ生地でボリュームがある。このため、一層お腹が苦しくなった。。が、料理の味は大変素晴らしいものであった(計189ユーロ(レート114.096))。ただ、なぜ他にお客がいなかったのかは、わからないままだった。。


食後、腹ごなしを兼ねて広場前のスーパーマーケット内を見学して、今夜の宿泊ホテルに向かった。まずは、トリノから繋がるSR29号線を更に10キロメートル南に下り、ターナロ川を渡りランゲ地区に入る。すぐにクーネオ県の2番目に大きな基礎自治体(コムーネ)アルバ(Alba)となるが、市内に入らず、西側の外環道から迂回して通過し、SP32号を更に南下しモンテルーポ アルベーゼ(Montelupo Albese)に向かう。

モンテルーポ アルベーゼは、人口500人ほどのクーネオ県の基礎自治体(コムーネ)で、その南側の高地に建つホテル(Ca' del Lupo)に今夜から2泊することにしている。ホテルは、標高600メートルほどの山頂南側に、駐車場とエントランスがあり、外観は2階建ての長方形で、細い木材を幾層にも重ねた造りとなっている。


内装も木造パネルをベースに洗練されたデザインと独創的な空間が織りなすデザイナーズホテルといった雰囲気で、チェックインの際には、空いていたのか、追加料金なしで部屋をアップグレードしてくれた。部屋は、地階(宿泊棟は斜面沿いに建っている。)の北向きの広い部屋で、大きな窓からの眺望が素晴らしかった。日没後は、遠くに見えるわずかな光のみとなったが、漆黒と静寂の世界は、日ごろ味わえない体験だった。

夜は、外のリストランテに出かける予定だったが、まったくお腹が減らない。。結局、少し遅い時間にホテル併設のリストランテの料理をルームサービスしてもらうことにした。メニューには、スターターが10種類、フレッシュ パスタ ホームメイドが3種類、メインコースが3種類、デザートが7種類あり、スモークハムとライトチーズのミック野菜サラダと、肉とトマトソースのタヤリン(卵黄をたっぷり練り込んだ細いパスタで、セージバターを絡めて、白トリュフをふりかける)を注文し、手持ちのワインと共に頂いた。
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**********************************

翌朝、斜面沿いにあるテラス席で朝食をいただいた。朝食会場は、エントランスのあるロビーと同じ1階フロアで、テラス席は広いスペースで北側斜面側を向いている。ちなみに座った席付近の地階が宿泊した部屋になる。


その宿泊した部屋のもう一段斜面下には、1階建ての建物が建っており、その先にはホテル専用のプールがある。しかし、その先は、霧が立ち込めよく見えない。しばらくすると、左前方にうっすらと鐘楼のあるモンテルーポ アルベーゼの街並みが見え始めた。ホテルからのこの眺望が一つの売りになっているらしく僅かでも確認することができたのは良かった。
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食事を終え、クーネオ県アルバに向う。ホテル正面からは、東回りでプール下を走るSP32号線に入りモンテルーポ アルベーゼを経由して北方面に向かう。5キロメートルで、ディアーノダルバ(Diano d'Alba)の標識があり、高台に「サン ジョヴァンニ バッティスタ教会」が見えたので立ち寄った。この場所には14世紀頃に既に教会があったが、現在の教会は1769年に新古典主義様式で建てられたもの。正面に小さな窓と装飾のない三角形のペディメントを持つアーチ型のプロナオスがあり、ファサード上部には洗礼者ヨハネの像が飾られている。
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ファサードは、南南西側を向いている。右奥には1834年に完成したネオバロック様式の鐘楼が聳えている。コーナーピラスターで装飾された角状で、上部には八角形をベースにした尖頭がそびえ頂部に十字架が飾られている。小さい村にも関わらず、大変大きな教会と言った印象。
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ファサード前の広場の東側は、展望台になっており、北東方向にブドウ畑の丘が続いているのが確認できる。このディアーノ ダルバは、バルバレスコ(北東側)とバローロ(南西側)との中間に位置しており、この一帯は、ランゲ地区の中でも最高級ワイン(DOCG)を生み出すエリアである。
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アルバに到着した。アルバはピエモンテ州の南部に位置しており、有数のワイン銘醸地を擁するランゲ地区の中心地でもある。このアルバの町は、道幅の広い環状道路に取り込まれた中にあり、その中心を南北にまっすぐ伸びるメインストリートが、ヴィットリオ エマヌエーレ通りで地元では、マエストラ通りとも呼ばれている。

そのヴィットリオ エマヌエーレ通りの途中から東に100メートルほど離れた場所にあるのが、13~14世紀に建造されたサン ドメニコ教会(Chiesa di S. Domenico)になる。正面ファサード中央には、彩色煉瓦を使って扇状に形作られており、ロンバルディア州で見られる様式である。
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正面アーチは赤白の迫石が交互に組まれており、扉口の上部には分厚いまぐさ石が乗せられ神の子羊が彫られている。ティンパウム(タンパン)には聖母子像が描かれたフレスコ画が見える。
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教会内の柱は白黒の縞模様でデザインされている。
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柱や側廊の壁面には多くのフレスコ画が残されているが、剥落が激しいのが残念である。壁面の中央には祈る聖カタリナと車輪が描かれている。聖カタリナは4世紀ローマ皇帝マクセンティウス治世に大釘を打ち付けた車輪により拷問を受けた後、斬首され殉教したと伝えられている。左の塔内には、マクセンティウス帝らしき人物が描かれている。
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隣には、無残にも斬首される聖カタリナの場面と、天使が聖カタリナの遺体をシナイ山に運んでいる場面が描かれている。
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こちらのアプスには、十字架降架が描かれている。十字架から下ろされたイエスの周りには、福音記者ヨハネ、聖母マリア、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母、ニコデモ、アリマタヤのヨセフが描かれている。デューラー・エングレービング(版画の凹版技法)に由来すると説明があった。
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こちらの壁画は興味深い。赤い衣を着てサンダルを履く人物が描かれているが、これは、18世紀に上書きされた壁が剥離して、初期(16世紀)に描かれていたオリジナル画面が現れているのである。視線を上に移すと上部も大きく剥離している。
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こちらには、赤い衣を着た人物の手が描かれているが、その手には鍵らしきものが見える。キリストから天国の鍵を受け取ったペトロが描かれていると思われる。
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次に、ヴィットリオ エマヌエーレ通りを、北側にしばらく進むと終点となり、リゾルジメント広場(Piazza Risorgimento)の西端に到着する。この日、広場では特設の市場が開かれていた。その広場の東側に面したポルチコのある赤い煉瓦の建物は「サン ロレンツォ大聖堂」(Cattedrale di San Lorenzo)である。
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サン ロレンツォ大聖堂は、12世紀前半に建てられた教会を前身とし、現在の建物は1486年から1517年に改築された姿を基礎としている。ポルチコのあるファサード中央にはバラ窓があり、その下には聖ロレンツォ像(1878年作)が飾られ、左右の4本の柱には、それぞれ、福音書記者のマタイ(天使)、マルコ(獅子)、ルカ(雄牛)、ヨハネ(鷲)の彫刻が並んでいる。これらの福音書記者は、頭文字ALBAの順で配置されているとのこと。
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教会の内部は、ロマネスク・ゴシック様式で、それぞれ4つのベイからなる3つの身廊に分かれている。側廊に沿って各側に3つずつ(翼廊の礼拝堂と左右に小礼拝堂)、計6つの礼拝堂がある。後陣の主祭壇にはバロック様式の祭壇画があり、左右側面には、聖ロレンツォの生涯のエピソードが描かれたフレスコ画がある。
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身廊沿いの白とアーモンド色との縞模様の2色の柱は、上部で先頭アーチを形成し、星空に金色の交差リブ ヴォールトが描かれた鮮やかなアーチ型天井を支えている。
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リゾルジメント広場の西側には、左側(ヴィットリオ エマヌエーレ通り沿い)と右奥に2本の角柱の塔が聳えている。アルバでは14~15世紀にかけて多くの塔が建てられ、" 100塔の都市 " と呼ばれていたが、現在は多くは屋根の高さや建物の中に組み込まれたりと下げられ、ほとんど残っていない。現在では貴重な塔となり、中でも右側の塔は塔の中で最も高い40メートルある。
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右側の塔の裏側(西側)となる「エルヴィオ ペルティナチェ広場」(Elvio Pertinace)には、白トリュフで有名なショップがあると聞き、やってくると、同じく特設の市場が開かれていた。こちらは、左側にあるサン ジョヴァンニ バッティスタ教会のファサード前から広場の北側を眺めた様子である。
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その広場北側に面した建物の1階ポルチコ内に、白トリュフ ショップ「Tartufi Morra」があるが、残念ながら今日は定休日だった。。トリュフは、森の地中から採れるキノコの一種であり、その香りの高さと産出量の少なさから食通たちに珍重され、食卓のダイヤモンドと言われ、このランゲ地区はトリュフの生産地として世界的に知られている。


そのトリュフの中でも高級品とされるのが、アルバの白トリュフ(タルトゥフォ ビアンコ)(Tartufo Bianco d'Alba)で、独特の強い香りを持ち、深い味わいがあることで人気が高く、丸く表面が滑らかなものが最高級とされている。そんな白トリュフの収穫が始まる毎年10月初めから12月初めまでの週末に、アルバでは「白トリュフ祭り」が開かれ、世界中から多くの食通人が集まり大いに盛り上がると言う。

白トリュフは、人の手の加わっていない森の中の樫や菩提樹、ポプラや楡といった特定の木のそばに育ち、愛犬を連れたトリュフ ハンターと呼ばれる人々が、愛犬との連携により地中(40~50センチメートル)から漂う微かな匂いを頼りに白トリュフを探し当てる。白トリュフの育つ理想の環境は、川からほど近い丘に生えている木の根とも言われているが詳しいことはわかっていない。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

再び、ヴィットリオ エマヌエーレ通りに戻り、南に向かう。サン ドメニコ教会への交差路を過ぎ少し行った右側に「Ratti Elio - Tartufo」と書かれたトリュフショップがあった。こちらのお店も白トリュフで有名なお店だが、ショーケースの上には黒トリュフが並んでいた。


トリュフは大きく分けて、Tartufo Bianco d'Alba(10月~1月)、Tartufo Bianchetto(春)、Tartufo Nero Invernale(12月~3月)、Tartufo Nero Estivo(黒トリュフ)(6月~11月)の4種類があるが、この時期(8月)は黒トリュフとなる。カウンター内のおじさんは、満面の笑みで黒トリュフも美味しいよと奨めてくれ、値段が手ごろだったこともありお土産に購入した。
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他にも、ショーケース内には、各種パスタ、トリュフのスライス、チーズ、総菜など美味しそうな食材が並んでいたが、お昼は近郊の村で別途予約しているリストランテがあるため、食材購入は諦めて、アルバを後にした。
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(2011.8.5~6)
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イタリア・ピエモンテ(その5)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
「パシフィック ホテル フォルティノ(Pacific Hotel Fortino)」でトリノ3日目の朝を迎える。やや古いホテルだが、部屋は清潔でリラックスできる。トリノ中心部から北西に2キロメートルと、少し離れているが、ドーラ リパリア川右岸(南側)に位置しており、川のせせらぎが感じられる居心地の良い場所にある。


昨夜は、帰りが遅かったので、今朝は遅めの朝である。朝食は、さまざまな種類のハムやベーコン、チーズに加え、スクランブルエッグやゆで卵など充実しており有難い。食後は、昨日に引き続きトリノ観光で過ごす予定にしている。


最初に「カリニャーノ宮殿(Palazzo Carignano)」に向かった。トリノ中心部の歴史的中心地区「カステッロ広場」からアカデミア デッレ シェンツェ通りを100メートルほど南に下った左側にある。なお、右前方には昨日訪れたエジプト博物館がある。


こちらは、カリニャーノ宮殿の西側ファサードにあるポータル門から建物をくぐり、中庭から建物を振り返った様子になる。重量感のある円柱が埋め込まれた様なボディに、八芒星をモチーフとした装飾縁取り、エンタブラチュア(コルニーチェ)の繰形装飾など、華麗で個性的なバロック様式の外観となっている。


正面入口となる西側ファサードも華麗バロック装飾で、レンガ造に波打つような楕円状の曲面に、中央に鮮やかな白いポータル門がある。対する中庭を挟んだ東側ファサードは、優美な白亜のファサードとそれぞれ個性的なデザインとなっている。

カリニャーノ宮殿は、サヴォイア家の分家カリニャーノ家(1620~1831)のエマヌエーレ フィリベルト(在位:1656~1709)が、トリノを代表するバロックの建築家グァリーノ グァリーニ(1624~1683)に依頼し1679~85年に建設された。こちらの宮殿では、サルデーニャ王国の第7代国王(カリニャーノ公)カルロ アルベルト(1798~1849)の長男で、後のイタリア初代国王のヴィットリオ エマヌエーレ2世(1820~1878)が誕生している。その後、宮殿は国会議事堂として使われ、現在は王立リソルジメント博物館となっている。

次に、カステッロ広場に戻り「マダマ宮殿」にある「トリノ市立古典美術館」を見学する。美術館は、1934年に開設し、現在35の展示室と、4つのフロア、パノラマ フロアから構成されている。地下には中世美術品、1階にゴシック、ルネサンス、バロック時代とそれぞれの作品があり、2階は装飾芸術のフロアとなっている。収蔵コレクション数は、絵画、彫刻作品を始め、陶器、磁器、マジョリカ、象牙、金、銀、家具、布地など7万点を超えている。
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(トリノ市立古典美術館のパンフレットはこちら→おもて面うら面

館内では、美術館の代表作品、アントネロ ダ メッシーナの「トリヴルツィオの肖像(1476年)」から鑑賞する。メッシーナは、15世紀ルネサンス期に活動したシチリア出身の画家で、肖像画や宗教題材の絵画作品を得意とした。こちらはフィレンツェのリヌッチーニ家のコレクションだったが、手放されミラノで発見されたものを、美術館が1935年に購入している。
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こちらは、パルマの画家で宝石職人、彫刻家フランチェスコ マルミッタ(Francesco Marmitta、1490~1492)による「ドメニコ デッラ ローヴェレのミサ典書」の写本である。ドメニコ デッラ ローヴェレ(1442~1501)は、システィーナ礼拝堂を建設した教皇シクストゥス4世(1414~1484)の甥で枢機卿。トリノの大司教を務め、1490年にはトリノ大聖堂の再築に着手し、費用の大部分を負担している。
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ミサ典書とは、司祭がミサの挙行のために祈祷文や聖書からの引用など必要な事項を収録した書物で祭壇上で用いるものである。挿し絵は一つの絵画と言っても良いほど細かく描かれている。
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スーザ渓谷の大理石から作られたピエモンテの彫刻家による柱頭彫刻「天国への門で信者を歓迎する聖ペテロ」(1130~1140頃)で、1883年にノヴァレーザ修道院からもたらされた。天国への門は、雲の中にある白もしくは錬鉄の門とされ、門前で守る天国の鍵の番人ペテロが死者を調べ、受け入れに相応しいかを判断している。もし入場を拒否された場合は地獄に落ちることとなる。
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イタリアのルネサンス彫刻家アゴスティーノ ブスティ(Agostino Busti、1483頃~1548)による墓碑彫刻の一部で、フランス将軍ガストン ド フォワ(ヌムール公)(1489~1512)の墓として、当時ミラノを支配したフランスより制作を依頼されたもの。完成後は、ミラノのサンタ マリア デッレ グラツィエ教会に設置する予定だったが、フランスのミラノ支配が放棄され政治的混乱などの理由により1522年に未完成のまま終わっている。
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現在、ガストン将軍の横臥像はミラノのスフォルツェスコ城にあり、他にも、レリーフ彫刻などが、アンブロジアーナ図書館、ヴィクトリア アルバート美術館、マドリードのプラド美術館に保管されている。ガストン将軍は、国王ルイ12世の甥で、王妃アンヌ ド ブルターニュの従弟でもあり、1511年に21歳の若さでフランス軍の総司令官となり、カンブレー同盟戦争(イタリア戦争)で活躍した。勇猛果敢な戦いぶりから”イタリアの雷” とも称されフランス軍に数々の戦勝をもたらしたが、1512年にラヴェンナの戦いで戦死している。

こちらは、ヴァッレ ダオスタ特別自治州の州都アオスタの「サントルソ教会」の回廊を飾っていた柱頭彫刻の一部。現在、回廊東側の柱頭は失われ、18世紀後半の装飾的な柱頭に置き換わっているが、こちらは、置き換わる前のもの(1132年)で、トリノ市立古典美術館に4つ保管されている(こちらも、そのうちの一つ)
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ピエモンテのモザイク(1120年頃)。
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ロンバルドの画家によるサンタ マリア アド アクゥイ大聖堂のフレスコ画の断片(1067年)。
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1時間半ほど鑑賞した後、カステッロ広場から南側の大通りを横断し、アーケード(ポルティコ)に沿って、街の対角に延びるピエトロミッカ通りを西に進み、トリノ大聖堂前から南に続く"9月20日通り"(via XX Settembre)を左折したすぐ左手にある中華レストラン(Ristorante cinese du cheng)で昼食にする。今夜は、昨夜と同様にピエモンテ料理を予定しているので、昼は中華料理にしてみる。


パーナ貝やエビとキノコの炒め物、ビーフンなどを注文する。


更にチャーハンなどを頼んだ。味は普通だったが、久しぶりの中華料理なので美味しく頂けた。


次に、ピエトロミッカ通りを東に、カステッロ広場を正面に一望できる場所まで戻り、トリノ人気のジェラート店「La Gelateria Menodiciotto」(1986年開業)で、エスプレッソを飲み、ジェラードを食べながら休憩する。店舗から上を見上げると、切妻と円弧のペディメントを交互に配置された窓が整然と並び、ベランダにはイタリア国旗がかけられている。バロックの統一感ある美しい外観に感心させられる。
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ジェラート店のテラス席からは大通りを挟んで向かい側にはカステッロ広場に建つ「マダマ宮殿」(トリノ市立古典美術館)を望むことができる。側面となる南側からは、建築家フィリッポ ユヴァッラによるバロック様式の西ファサードと、14世紀にサヴォイア家の分家アカイヤ家により改築されたレンガ造の要塞とが同時に見渡せる。手前には、イタリア騎士団の騎馬像が飾られている。
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これからトリノ中心地から約5キロメートル北に位置する「ヴェナリア レアーレ宮殿」(Reggia di Venaria Reale)に向かうことにする。

ヴェナリア レアーレ宮殿は、サヴォイア家が、トリノの郊外に、防衛網として楕円状に配置した城と宮殿の一つで、他に、ボルゴ城、ヴァレンティーノ城、モンカリエーリ城、リヴォリ城、アリエ公爵城、ラッコニージ城、ゴヴォネ城、ポレンツォ城、狩猟館であるカッチャ ディ ストゥピニージ宮殿、ヴィッラ(別邸・別荘)レジーナ邸を含めた計11棟が、カステッロ広場周辺の建築群と共に「サヴォイア王家の王宮群」として世界遺産に登録されている。

"9月20日通り"(via XX Settembre)沿いの中華レストランに戻り、すぐ先にあるバス停から11番バスに乗る(乗車時間50分)。バスを降りた後、アンドレア メンサ通りを西に向けて歩くと、正面に時計が飾られた切妻屋根の門が見えてくる。
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門の手前は、半円敷地のレプッブリカ広場で、北側となる右側の広場の先には、木々が覆い茂り、遠くに山の稜線が見渡せる。正面の時計門の先に宮殿の中庭が広がるが、向かって左側にある敷地内から続く赤レンガ色の棟の1階に宮殿の入口がある。そして、宮殿入口の手前左後方には、前庭を持つ「聖ウベルト礼拝堂」(Cappella di Sant'Uberto)が建っている。前庭の東側から礼拝堂を見上げると、正十字形(ギリシャ十字形)で中央交差部に八角形の塔が確認できる。礼拝堂内の見学は、ヴェナリア レアーレ宮殿内から向かうことになる。
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さて、ヴェナリア レアーレ宮殿が最初に建設されたのは、カルロ エマヌエーレ2世(1634~1675)が、狩猟館として建築家アメデオ ディ カステッラモンテ(1613~1683)やミケランジェロ ガローヴェに依頼したのが始まりで、1659年から1679年頃にかけて厩舎、時計塔、劇場、広場、庭園と順次建てられた。なお、アメデオ ディ カステッラモンテは、トリノ中心部のカステッロ広場やサン カルロ広場のバロック建築群の設計に携わったカルロ ディ カステッラモンテの息子である。

しかし大同盟戦争や、1706年のトリノの戦い(スペイン継承戦争における戦闘の一つ)において多くが破壊されたため、1716年から、ヴィットーリオ アメデーオ2世(1666~1732)が、マダマ宮殿のファサードを始めサヴォイア家の多くを建築した建築家フィリッポ ユヴァッラに依頼し、現在の姿の基礎となるバロック様式や新古典主義様式で増築・改修が行われている。その後、ナポレオンのイタリア遠征などで受けるが、近年までイタリア軍の駐屯地として利用されてきた。1999年からは、大改修が始まり2007年から一部が公開されている。

こちらは、宮殿の敷地内となる南側の庭園から、宮殿のメイン棟を眺めた様子。左右東西に " マンサート "と呼ばれる屋根があり、その間の横広の二階建ての建物内部に、宮殿最大の見どころ「ガッレリア デ ディアナ(Galleria di Diana)回廊」がある。ちなみに、向かって左側のマンサートから北側には、中庭を形成する西翼棟が延び、右側のマンサートの右隣からは聖ウベルト礼拝堂に繋がっている。
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ガッレリア デ ディアナ回廊のある宮殿メイン棟の南側には庭園が広がっている。平面幾何学式庭園で、中央には砂地の通路が300メートルほど先まで続いているが、この時間は日差しが強く、誰も庭園を散策する人はいなかった。更に、その先はイタリアの軍用空港ヴェナリア レアーレ空港となっている。


右側に見える砂地の通路までが庭園の敷地と思っていたが、西に向け約1キロメートル先のチェロンダ(Ceronda)川手前まで庭園は続いているとのこと。しかし、現在は立ち入り禁止で、当初の広大なイタリア式庭園の復元に向け修復工事が続いている。ちなみに、その先には周囲30キロメートルに及ぶ広大な森「マンドリア公園」(自然保護区)が広がり、サルデーニャ王国の最後の国王で後のイタリア初代国王ヴィットーリオ エマヌエーレ2世が1859年に狩猟小屋として建てたボルゴ城が残されている。


左側の建物群は、改築を行ったフィリッポ ユヴァッラに因んで名付けられた「ユヴァッラ厩舎」で、中央に、庭園を見下ろす大きなアトリウム、北側にスクーデリア グランデ、南側にシトロネリアから構成されている。最初に建てられた際は、柑橘系の果物の冬の貯蔵だったが、改築後は、増築され、約200頭の馬が収容される厩舎として活用された。現在は、ヴィットーリオ エマヌエーレ2世の馬車、軍服などの常設展示に加え、特設の展示会や特別展なども開催されている。


こちらが、ガッレリア デ ディアナの回廊で、東西に長さ83メートルあり、周囲を豪華な漆喰装飾で覆われている。廊下の左右側面には、2連の浮彫ピラスターの間に、細縦長の長方形の格子窓とアーチ窓が交互に配され(南面11か所、北面11か所)、その上のエンタブラチュアのすぐ上には、明り取りのためのオクルス(南面11か所、北面11か所)が配されている。天井は、ドーム型で一面に装飾が施されている。
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向かって左側が宮殿の中庭で、右側が南側の庭園となる。正面の豪華なペディメントのある扉口を抜けると聖ウベルト礼拝堂に至る。ガッレリア デ ディアナの回廊の床には、黒と白のタイル張りで構成されている。現在の回廊は、何もない空間だが、もともとは、宮廷芸術家による漆喰、彫像、絵画の大規模なコレクションが展示されていた。
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聖ウベルト礼拝堂はガッレリア デ ディアナ回廊と同じく建築家フィリッポ ユヴァッラが1716年から5年間かけて建造したギリシア十字形の平面プランを持つバロック様式の教会堂である。南側には、空飛ぶ天使像が飾られたドームを頂く教会型の主祭壇がある。中央身廊部の四方には、レセン(ロンバルディア建築様式)と呼ばれるコリント式のピラスターがエンタブラチュアを支え、その下には、君主や宮廷の参列者がミサ出席の際に使用したベランダ付きのトリビューン(上層階)と、石像(こちらは聖アンブロジウス)が飾られている。
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東側には、ヴェネツィアの後期バロック派のセバスティアーノリッチ(1659~1734)などにより描かれた脇祭壇がある(西側も同様)。左側の石像は、聖ヨハネス クリュソストモス像になる。石像は、他にも、聖アウグスティヌス、聖アタナシオスと四方に合計4体あり、全て、カッラーラのジョヴァンニ バラッタ(Giovanni Baratta、1670~1747)と、彼の甥ジョヴァンニ アントニオ チベイ(Giovanni Antonio Cybei、1706~1784)による作品で、1724年から1729年の間に制作されたもの。
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礼拝堂は、構造上、ドームを建設することはできなかったことから、バロック様式の舞台美術家ジョヴァンニ アントニオ ガッリアーリ(1714~1783)によりトロンプ ルイユ(騙し絵)で飾られている。見上げる場所により、中央部がずれて見える。
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聖ウベルト礼拝堂は、白を基調とした静謐感漂う空間で、他に見学者がいなかったこともあり、ゆっくり見学できた。この後は、宮殿内で開催されている「イタリア統一150周年を記念した特別展」を見学した。

こちらは、ローマのユニウス バッスス聖堂を飾っていたモザイク画で、現存する4点のうちの一片。モザイクは「執政官行進図」(325~350頃)、マッシモ宮(ローマ国立博物館)所蔵で、大理石や真珠層、ガラスなどの材料を使用したローマ時代に流行の「オプス セクティレ技法」でつくられており、今も鮮やかな光を放っている。
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ユニウス バッスス聖堂は、ローマ執政官ユニウス アンニウス バッスス(Giunio Annio Basso、任期:318~331)に因んでおり、モザイク画面には、チルコ マッシモ(ローマの戦車競技場)で、中央に馬車に乗って進むバッススと、後方にそれぞれの派閥の色を表す4人の御者が表現されている。

2~3世紀頃のローマ時代の模刻大理石像「しゃがむアフロディーテ(ヴィーナス)」で、紀元前3世紀頃の古代ギリシャの彫刻家ドイダルサス(Doidalsas)の作品に基づいたもの。1760年に発見され、1779年以降、ヴァチカン美術館の所蔵となっている。


次に、豪華な王冠等が飾られたルネサンス期以降の展示を見ていく。
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こちらは、フィレンツェの宮廷建築家ベルナルド ブオンタレンティ(1531~1608)がデザインした「フラスコ」(1583~1584)。制作はメディチ家のために働いていたオランダの金細工職人・宝石商ジャック ビリヴェルト(Jacques Bylivelt、1550~1603)の工房作品で、金で装飾されたラピスラズリの美しいフォルムに圧倒される。フィレンツェのピッティ宮殿内にある銀器博物館の所蔵である。
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こちらも、同じく銀器博物館所蔵の「フラスコ」(1550~1570)で、ミラノで制作されたもの。琥珀を思わせるシチリア島出土の碧玉に、ルビーなどをあしらったカメオを中心に、周囲には、金、エナメル、真珠、ルビーなどで豪華に装飾されている。
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こちらは、フィレンツェ派のサンティ ディ ティート(Santi di Tito、1536~1603)の「ニッコロ マキアヴェッリの肖像(1570)」で、パラッツォ ヴェッキオ博物館所蔵作品である。マキャヴェッリ(1469~1527)は、ルネサンス期の政治思想家で、フィレンツェ共和国の外交官。著書に君主論、政略論、戦術論などがある。「隣国を援助する国は滅びる。忍耐と寛容をもってすれば、人間の敵意といえども溶解できるなどと思ってはならない。」など現代にも通じる説得力のあるマキアヴェッリ語録を残している。
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羊皮紙写本は、フィレンツェの政治家で学者のニッコロ ヴァローリ(Niccolò Valori、1464~1530)による、「ロレンツォ デ メディチ伝」で、右頁には、ロレンツォの横顔が描かれている(フィレンツェ、ローレンシアン図書館所蔵)。ロレンツォ(1449~1492)は、メディチ家の全盛期をもたらしたコジモ デ メディチの孫で「イル マニフィコ」(偉大な人)と言われた人物で、ボッティチェリ、ミケランジェロ、レオナルド ダ ヴィンチなどの芸術家を保護するなどフィレンツェのルネサンスを開花させた。
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壁面には、ルイジ フィアミンゴ(Luigi Fiammingo)による「ロレンツォ イル マニフィコの肖像」(1550年頃)(フィレンツェ ウフィツィ美術館(銀器博物館)所蔵)が飾られている。

ところで「ロレンツォ デ メディチ伝(羊皮紙写本)」の著者ニッコロ ヴァローリは、メディチ家嫌いのパオロ ボスコリが、メディチ家の要人を殺害しようとした陰謀事件(1513年2月に発覚のボスコリ事件)の陰謀加担者の一人として、 マキャヴェッリらと共に地下牢に繋がれるが、後に無罪放免されている。

こちらの蔵書は「画家・彫刻家・建築家列伝(1568)」(ウフィツィ美術館の所蔵)で、イタリア人画家、建築家のジョルジョ ヴァザーリ( 1511~1574)による芸術家の伝記本である。芸術文学の古典としても知られ、イタリアルネサンスを語る上でも最も影響力のある書物の一つと言われ、各国語に全訳や部分訳がなされている。日本では「芸術家列伝」の名で翻訳されている。
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ウィンプル(ベール)を着用する女性像は「アヌンツィアータ」(Annunciata)(1445~1450)で、作品名は、ラテン語の " 告知された女性 " に基づいている。下部には、" Ave Maria gra plena "(アヴェ マリア、恵み、万歳!)とラテン語で、マリアの前で大天使ガブリエルが称えた碑文が描かれている。
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こちらの板絵は、1906年にコモ市立絵画美術館に寄贈されたことから「コモの聖母」とも呼ばれているが、当時は、作者不明で、その後、スペイン画家のジャコマール バソ(Jaime Baço、1410~1461)の作品とされ、現在は、ルネサンス期で活躍したイタリアの画家アントネロ ダ メッシーナ(1430頃~1479)の作品とされている。

ボローニャ出身でバロック初期のイタリアの画家ルドヴィコ カラッチ(Ludovico Carracci、1555~1619)による「ロザリオの聖母」(聖ドミニコと聖母子)(1588~1590)で、ボローニャ国立美術館所蔵。カラッチは、同郷の画家プロスペロー フォンターナに徒弟をした後、フィレンツェ、パルマ、ヴェネツィアに旅し、1585年にボローニャに戻っている。その後、従兄弟とともに、折衷主義の絵画学校(工房)を設立しており、こちらの作品はそのころのもの。マリアの凛とした雰囲気とスピリチュアルな光のゆらめきが感じられる素晴らしい作品。
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ルネサンス期の巨匠ティツィアーノ ヴェチェッリオ(1490頃~1576)の代表的肖像画の一つ「ピエトロ アレティーノの肖像」(Ritratto di Pietro Aretino、1545)で、フィレンツェのパラティーナ美術館の所蔵である。モデルは、トスカーナの作家、詩人、劇作家、風刺作家で、ティツィアーノとは親しい間柄でもあった。首にはフランス国王フランソワ1世から賜った重量感のある金のネックレスをかけ、ヴェネツィアの貴族を表す深紅の外套を羽織っている。
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15世紀初期ルネサンス ロンバルディア派の画家ヴィンチェンツォ フォッパ(Vincenzo Foppa、1427~1515)による「聖母と幼子(1485年)」(絨毯のマドンナ)(192×173センチメートル)で、ミラノにあったサンタ マリア ディ ブレラ教会で手掛けたフレスコ画の一部である。1884年に切り取られ、現在は、ミラノのブレラ美術館所蔵となっている。
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聖母子は、多色大理石のアーチの下で、東洋風の細工が施された絨毯が掛けられたバルコニーから外を眺めており、左右には、こちらに視線を向ける若い洗礼者聖ヨハネと福音書記者聖ヨハネが跪いている。光彩表現を巧みに用いた遠近法が素晴らしい作品である。

こちらはイタリアの盛期ルネサンスを代表する建築家ドナト ブラマンテ(1444頃~1514)のミラノ時代(1481~1499)の絵画作品「ハルバードの男」(Uomo dall'alabarda、1486~1487)。やや上向きの左腕の先に、ハルバード(長さ2メートルほどの槍で、穂先に斧頭などの突起が取り付けられた長柄武器)を持つ腕が描かれていたと思われる。もともとは、ミラノのパニガローラの家に描かれたフレスコ画だったが、現在は、ブレラ美術館の所蔵となっている。
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こちらも、ブレラ美術館所蔵の作品で、レオナルド ダ ヴィンチの「キリストの頭部」(1495年)。実際には、ロンバルディア地方の画家との共作とされる素描作品で、ミラノのサンタ マリア デッレ グラツィエ修道院(ドナト ブラマンテによる建築)に描かれた壁画「最後の晩餐」(1495~1498)と同時期のレオナルド円熟期とされる頃の作品である。
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ミラノの代表的なロマン主義画家フランチェスコ アイエツ(1791~1882)の代表作品「キス(1859年)」(ブレラ美術館)。古城風の階段の片隅で情熱的にキスを交わす男女の姿を描いている。二人の身なりが対照的な上、男の片足を階段に置きすぐに立ち去ろうとするような姿勢から禁断的な恋愛関係が想像させられる。アイエツはこのころ登場した写真機を使用していたと言われている。
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新古典主義を代表するアントニオ カノーヴァ(1757~1822)の「ポリュムニアー(1812~1813)」で、ポッサーニョ カノーヴァの石膏彫刻陳列館所蔵作品である。カノーヴァの作品は、躍動感のあるものや、裸体を表現した女性像が有名だが、こちらのギリシャ神話の女神ポリュムニアーは、厳格な女性であることから、全身に長い外套をまとい、肘掛けに腕を乗せ、頬に指先を添え、瞑想にふける姿として表現されている。
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イタリア各地の美術館・博物館から一級の美術作品が集結する特別展であったことから、大変見応えもあり、貴重な機会となった。2時間ほど見学し、午後6時を過ぎた頃、宮殿を後にした。

この後、予約しているレストランに路線バスで向かうことにしている。宮殿前のレプッブリカ広場からアンドレア メンサ通りを100メートルほど東に歩き、右折するとバス停があったが、目的の72番の表示はなかった。通りすがりの人に尋ねるともう少し先になると教えてくれたのでしばらく進むと72番の表示があるバス停があった。

スタトゥート ノルドのバス停で下車し「パルラパ」(Ristorante Enoteca Parlapa)に到着したのは午後7時前である。レストランは、トラムが走る並木道の側道沿いに建つ5階建てのバロック建築のアパートメントの1階にあり、入口の両側はワインボトルが棚にぎっしり並ぶショーウインドーとなっている。


レストランの南側にはスタトゥート広場があり、東に向けショッピングストリートのジュゼッペ ガリバルディ通りがカステッロ広場まで(1.1キロメートル)続いている。なお、宿泊ホテルからは1.5キロメートルほど南に位置している。

店内は狭く4人掛けのテーブル席が10卓ほど並んでいる。壁面にはワイン棚が並び、小さなカウンターテーブルもワイン収納の一部になっている。案内されたテーブル席のすぐ横にもワイン棚があり、エノテカと言った感じ。人気店のため予約は必須である。


ワインは、デグスタツィオーネ(12~20ユーロ)から15ユーロのものを注文した。料理は、アンティパストの盛り合わせ(15ユーロ)からスタートする。アンチョビとイタリアン パセリのオイル漬け(Acciughe al Verde)を中心に、仔牛肉のサラミ(モチェッタ)(Mocetta di Vitello)、ラグナスのオムレツ(Frittata Rugnusa)、豚肉のフレッシュソーセージ(Salsiccia Fresca di Maiale)、子牛レバーのパテ(Pate di Fegato di Vitello)、丸唐辛子の詰め物(Peperoncini Piccanti Ripieni)などが並んでいる。
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最初のワインはヴェネト州の「Zamuner」で、メトード クラシコ(シャンパン製法)で醸されたスプマンテになる。


次もアンティパストだが温菜になる。ハーブとニンジンのツートーンフラン、アルペッジョのクリーム添え(Sformato Bicolore di Erbette e Carote con Crema d'Alpeggio)と、赤ピーマンのオックソース添え(Peperoni alla Fiamma con Salsa Occitana)である。


ワインは、北イタリアのH. レンチュ ワイナリー(Weingut H.Lentsch)の白ワイン「マスカテル」(Muskatell)で、モスカート ジャッロ(Moscato Giallo)と呼ばれるマスカットを品種としている。一般的なモスカートほど甘みがなく爽やかでしっかりとしている。


次にプリモピアットとして、ズッキーニとベーコンのスパゲッティ アッラ キタッラ(Spaghetti alla Chitarra con Zucchine e Pancetta)(6ユーロ)。アッラ キタッラは、アブルッツォ発祥の断面が四角のロングパスタのことで、コシがしっかりとしている。


ワインは、スロベニアとの国境すぐのフリウリ=ヴェネツィア ジュリア州(北イタリア)の丘陵地で栽培されるリボッラ ジャッラ種から作る白ワインで、力強さとフレッシュさの調和が取れていて、とても爽やか。


料理は、セコンドピアットになる。ピエモンテ州を代表するピエモンテ牛フォッソーネのタルタル(Albese di Fassone Piemontese)(9ユーロ)で、鮮やかな赤身の色合いに驚かされた。生肉好きにはたまらない!


こちらもセコンドピアットで、ピエモンテを代表する郷土料理だが、大変珍しい一品。。雄牛の睾丸と仔牛(雄)の胸腺、マルサラソース(Granelle di Toro e Animelle di Sanato al Marsala)(15ユーロ)。


コントルノ(contorni)として、季節の野菜のラタトゥイユ(Ratatouille di Verdure di Stagione)(5ユーロ)を追加する。


ワインは、トリノの南東部カスタニョーレ モンフェッラート丘陵で作られるルケ(Ruche)種で造った赤ワイン。華やかで香りで高いタンニンが特徴で後味にやや苦味が残る。


ドルチェ(デザート)は、ヘーゼルナッツのパンナ コッタ(Panna Cotta alla Nocciola)(4ユーロ)をいただく。アミダクジのような、幾何学模様のキャラメルソースのデザインがお洒落!


デザートワインは、マルヴァジア(Malvasia)で、最後にエスプレッソ(1.5ユーロ)を頼んだ。ピエモンテ料理と土着ワインとのペアリングが素晴らしく大変満足だった(計95ユーロ(レート115.264))。お店のサービスも良く、ワインもなみなみとグラスに注いでくれ、少し飲み過ぎてしまった。

(2011.8.4)
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イタリア・ピエモンテ(その4)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
スーザから東へ35キロメートル離れたサンタン ブロージョ ディ トリーノ(Sant'Ambrogio di Torino)にやってきた。これから、街の西側に見える
ピルキリアーノ山頂(Monte Pirchiriano)(標高962メートル)に建つ「サクラ ディ サン ミケーレ修道院」(Sacra San Michele)に向かうことにしている。


午後4時半頃にピルキリアーノ山の中腹にある駐車場に到着した。こちらから望む姿は、修道院と言うより岩山に築かれた要塞といった雰囲気。10世紀頃にベネディクト修道会の修道院として建てられ、モン サン ミッシェルを手掛けたグリエルモ ダ ヴォルピアーノ(Guglielmo da Volpiano、962~1031)による設計ともされるがはっきりしない。サクラ ディ サン ミケーレ修道院の佇まいはウンベルト エーコの歴史小説「薔薇の名前」にも大きな影響を与えている。
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麓に広がるサンタン ブロージョ ディ トリーノは、イングランド・カンタベリーからフランス、スイスのアルプス山脈を抜けローマとの約2千キロメートルを結ぶ「巡礼路フランシジェナ」のイタリア側の入口にある街で、巡礼地の一つでもあった。特に11世紀半ばには多くの巡礼者が訪れたこともあり、サクラ ディ サン ミケーレ修道院は、12世紀から17世紀にわたり増改築が繰り返された。その結果、現在ではロマネスク様式とゴシック様式とが混在した建物となっている(夏季営業時間9:30~12:30、14:30~18:00、料金5ユーロ)。

多くの巡礼者で栄えた修道院だったが、1622年以降は経済的理由により閉鎖され、約200年の間、廃墟になってしまう。1836年に、サヴォイア家でサルデーニャ王国の第7代国王カルロ アルベルト(在位:1831~1849)が、イタリアの哲学者・神学者で司祭のアントニオ ロスミニ(1797~1855)を招いたことで、ロスミニアンの修道院として再開される。そして、これをきっかけに、トリノ大聖堂からサヴォイア王族の墓が移葬されている。階段を上りながら建物を見上げると、垂直にそそり立つ外壁の威圧感に圧倒される。
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修道院名のサン ミケーレとは、大天使ミカエルに因んでおり、階段途中に、ファッションショーに登場するモデルの様に優雅なポーズを取るミカエル像が飾られている。こちらの像は、2005年、南チロルの彫刻家ポール モロダーによって制作された新しい作品である。
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建物の構造がわかりにくいのでgoogle掲載のFabio Poggi氏の写真を借りて確認してみる。こちらは東側から後陣側を撮った鳥瞰図である。ミカエル像の横に階段があり、中央に修道院への入口が見える。上部を見ると、平地に建つ教会堂建築と同じ構造だが、その下は、教会堂を支える基壇と複合施設とを併せ持っている。そして、やや離れて北側に12世紀に増築された「新しい修道院」の遺構がある。
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ミカエル像の立つ外階段を上り詰めると広めの踊り場となり、右側からは東側のトリノ方面が見渡せる展望台となる。左側が建物の扉口で、すぐに折り返し階段となり「死者の階段」へと続いている。階段の曲がり角に置かれた柱頭には、訪問者を見つめる様に天使(?)が刻まれている。当時は階段沿いに墓が並んでいたとのこと。また、階段の壁面壁からは所々大きく岩肌が露出し、修道院が岩山を利用して建てられているのが分かる。


死者の階段の後半の勾配が急な直線階段を上り詰めると「ゾディアコ門」(干支の門)に到着する。ここまで階段は243段ある。そして門をくぐった南側から東側の展望台にかけてテラスが広がり、西側には更に上りの外階段が続いている。こちらは、その外階段を少し上った場所からゾディアコ門を振り返った様子である。
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ゾディアコ門は、左右両脇の複数の側柱とエンタブラチュアにより支えられたアーチ門で、1120年から1130年にかけて、ロマネスク時代のイタリア彫刻の巨匠ニッコロ(ニコロ)により制作されている。

特に、側柱、柱頭、エンタブラチュアの浮彫彫刻が、サクラ ディ サン ミケーレ修道院での最大の見どころとなる。こちらは、死者の階段に向かって右側側柱の中央角柱で、花や動物の装飾が施された星座のシンボルが、絡み合う枝で円を形成した黄道帯の内側に表現されている。そして、両縁にニッコロの署名が記録されている。
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中央角柱の柱頭には、劣化が激しいがグリーンマンの浮彫が残されている。その右隣(テラス側)には、美しい姿の竜頭を持つ獅子像と、更に右隣に独特な風貌が印象的な双尾人魚(セイレーン)が、精緻な花弁文様のアーキトレーブを支えている。ちなみに、セイレーン隣の柱は失われている。
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中央角柱に向かって左側(死者の階段側)の柱頭には、アカンサスの葉の文様を挟んで、リングを掴む4匹のハヤブサ、そして、大地母神像の柱頭へと続き、上部のアカンサスの葉の文様のアーキトレーブを支えている。大地母神は、蛇に授乳しており、この姿はルクスリア(淫乱)を象徴しているとも豊潤を象徴しているとも言われている。
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次に、アーチを支える左側柱の柱の彫刻を見ていく。中央角柱は、アーチの反対側となる右側柱の中央角柱と同じく、星座のシンボルの浮彫が施されている。頂部には大きな四角い柱頭があり、グリーンマンの浮彫が施されている。
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中央角柱に向かって右側(死者の階段側)の柱頭には、兄のカインが、弟アベルを襲って殺そうとする場面で、カインの後ろにはカインの心の悪魔が表されている(捻じり柱)。中央角柱に向かって左側(テラス側)の柱頭は、アカンサスの葉の文様を挟み、互いの髪の毛を掴み柱頭にしがみつく人物(捻じり柱)、更に左端には、神殿の柱を揺さぶるサムソンと、神殿内の心配そうなペリシテ人が表現されている。それぞれの柱や柱頭はバラバラで、調和が取れていないが、一つ一つの柱頭彫刻は個性的で見ごたえ十分である。
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ゾディアコ門のテラスから外階段を上り詰めた南展望台のあるテラスにかけて、真上には4本のフライング バットレスが続いている。そして、そのテラス右側には、教会堂への扉口となる灰色と緑色の石で作られたロマネスク門(11世紀制作)がある。


ロマネスク門の弧帯(アーキヴォルト)右端に設置された修道士の顔(マスク)は大変印象深い。訪問者を見下ろす場所にあり、心の奥まで見透かされている様な気持ちになる。


教会堂は、三身廊式で、ロマネスク門は身廊最後部の南側廊にある。身廊は横断アーチで4つのベイに分かれ、ゴシック建築とロマネスク建築の両方の要素が特徴となっている。身廊の横断アーチを支える柱には、1階部分と階上廊の二か所に柱頭(二重柱頭)があり、アカンサスの葉の彫刻が施されているが、内陣から3番目の複合柱の1階部分の柱頭にはロマネスク特有のユニークな浮彫が施されている(南側の柱頭北側の柱頭)。
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後陣の壁には赤煉瓦が使われている。主祭壇のアーチ窓の両側には、それぞれ個性的な側柱が帯状アーチを支えており、最も手前の側柱には、左右に3体ずつ聖人彫刻が施されている。中でも、右下の光に照らされた聖母マリアの慈愛に満ちた表情が印象的である。
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ナルテックスには、サヴォイア王族の多くの石棺が並べられ、壁面には、聖母子像を中心とした絵画や祭壇画などが飾られている。北側廊の西側にある扉を出ると、教会堂の北側テラスに出ることができる。広い展望エリアとなっており、西方面にはスーザ渓谷が見渡せるが、白いもやがかかり、遠くが霞んでいる。幅が広く蛇行しながら延びる道路は、スーザから走行してきた高速道路A32線(欧州自動車道路E70号線)である。
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東側には、グライエアルプス山脈の最南端モンテ ムジネ山が望める。ここでスーザ渓谷は終わり、その先からは平地が続いていく。中央の高速道路(A32線)を40キロメートルほど進むと、ピエモンテ州の州都でトリノ県の県都トリノに到着する。
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真下に広がる街並みは、サンタン ブロージョ ディ トリーノで、国道と鉄道(トリノ近郊鉄道サービス(SFM))が並行して走っており、サンタンブロージョ駅から南側が街の中心となる。中央の大きな区画は、19世紀から20世紀にかけて街の主要産業だった繊維工場の跡地で、現在は市役所を始め、様々な店舗が入る複合施設となっている。

再び、教会堂に戻り、次に、北側廊の北側の小さな扉口を進み、鉄骨の折り返し階段で階下まで向かう。階段を下りた先から振り返ると、教会堂を仰ぎ見ることができる。右側の三連のアーチ窓がある横長建物の北側テラス(屋上)や、左端の放射状祭室の屋根などが確認できる。また、下部の外壁には岩山が露出しており、修道院が山頂をそのまま取り込んで建てられているのが良くわかる。


教会堂の北側には12世紀建築の「新しい修道院」があり、当時は、僧房、図書室、食堂など、数十人の僧侶の生活のための様々な設備が備えられていた。しかし、現在は廃墟となり、テラスと外壁の一部が残る遺構になっている。

その遺構の東端には、階層のある塔「美しいアルダの塔」(Torre della Bell'Alda)が断面図のような姿で残っている。アルダとは、13~14世紀、追われていた兵士から逃れるため塔から身を投げるものの、天使に救われ奇跡的に無傷で着地した少女の名前に因んでいる。しかし、後日談として、虚栄心からか、村人の前で再び身を投げた際は、救いがなかったと伝わっている。


終了時間の午後6時まで見学した後、トリノへ向かった。移動距離も多く疲れたので、今夜の食事はテクアウトしてホテルで食べようと思い、リンゴット駅東口のショッピングモール、イータリー(Eataly Torino Lingotto)に向かった。リンゴット駅は、トリノのイタリア自動車製造所の略称で、東口前にはフィアット工場があった。屋上にはテストコースがあり、映画「ミニミニ大作戦」(1969年)では、イタリア警察のアルファロメオと、ミニのカーチェイスシーンが撮影された。現在もテストコースは健在だが、一帯は複合施設として再開発されている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

テストコースのすぐ北隣のビルにイータリー店舗が入っている。無事に食材は買えたが、地下駐車場でトラブり、宿泊ホテル(Pacific Hotel Fortino - Torino)には、遅い到着となり、疲れてしまった。

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宿泊ホテルは、ドーラ リパリア川(スーザ渓谷を流れてきた)の右岸沿いにあり、中心部から2キロメートル北西側にある。今朝は、トラムに乗り、トリノ中心部の歴史的中心地区「カステッロ広場(Piazza Castello)」にやってきた。

トリノの街は、紀元前1世紀にはローマの支配下にあり、度重なる都市変遷を経た後、1562年にサヴォイア公エマヌエーレ フィリベルト(1528~1580)がフランスのシャンベリから遷都してサヴォイア公国の首都となった。更に1861年には、イタリア統一を果たしたイタリア王国の首都となっている。

カステッロ広場の南側には、東西に多くの車が走行するトリノ市内の大動脈(東側はポー通り、西側はピエトロミッカ通り)が延び、中央にはトラムの軌道が上下線に敷かれ、カステッロ停留所がある。そして、その通りの南側には、バロック様式の建築群が建ち並んでいる。1階にはポルティコ(アーケード)が設置されているが、これは、トリノを治めたサヴォイア貴族が雨に濡れずに歩ける様に採用されたと言われている。
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トリノ中心部の街並みは、ローマ時代から続く方格設計を受け継いでいるが、西側から始まるピエトロミッカ通りは斜めに郊外へと延びている。これは、中心部へのアクセス利便性を高めることに加え、建物間への採光の取り入れや空気の循環などにも考慮して1899年に難工事の上に開通したもの。そして、そのピエトロミッカ通り沿い左側のバロック様式の建物の裏手には、バロック様式の調和を突き破る様にイタリア合理主義で建てられた高層住宅「トッレ リットリア」(1934年築)が伸びている。
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カステッロ広場は、サヴォイア公エマヌエーレ フィリベルトの一人息子で公位を継いだカルロ エマヌエーレ1世(在位:1580~1630)が建築家アスカニオ ヴィトッツィ(1539~1615)に依頼して1584年から行った都市計画が基本となっている。その後、ヴィトッツィの後を継いだ建築家カルロ ディ カステッラモンテ(1560頃~1640)や、偉大なイタリア建築家と言われたフィリッポ ユヴァッラ(1678~1736)などにより、現在に繋がる豪華絢爛なバロック建築の街並みが完成している。中でも、ユヴァッラは、1714年にトリノに招かれ首席宮廷建築家に任命され、約20年間に渡り、トリノに滞在し数多くの後期バロック様式の建物を建設したことで知られている。

そのカステッロ広場の中央に建つ豪華なファサード(西向き)は、1716年に建築家フィリッポ ユヴァッラにより改築された「マダマ宮殿(Palazzo Madama)」(市立古典美術館)である。もともとローマ時代の城門があった場所で、その後、都市防衛の要塞となり、14世紀の遷都後からサヴォイア家の分家アカイヤ家がレンガ造の城塞とした歴史ある建物である。
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1637年からは、サヴォイア公ヴィットリオ アメーディオ1世の公妃クリスティーヌ(1606~1663)の個人的な住居となり、その後を受け継いだサヴォイア公カルロ エマヌエーレ2世の王妃マリー ジャンヌ(1644~1724)の希望により現ファサードに改築された。宮殿の名称マダマとは、クリスティーヌとマリー ジャンヌの2人の王妃(マダマ)に因んで名付けられている。

ファサードの前には「サルデーニャ王国軍の旗手の白い大理石像」(1859年築)が飾られている。サルデーニャ王国とは、サヴォイア家が、ティレニア海にあるサルデーニャ島を支配した1720年以後に名乗った王国のこと。王国は、1796~1810年のナポレオンによるイタリア遠征で併合されるが、ウィーン体制のもと、フランスとオーストリアとの間の緩衝国家として立ち回っている。大理石像は、オーストリアの侵略からの解放の願いを込めて建てられた。

そして、その大理石像が見つめる先には、トリノの目抜き通り「ジュゼッペ ガリバルディ通り」がスタートする。その通り右隣の建物にはピエモンテ州議会があり、更にその右隣の北西側にサヴォイア家の王立教会「サン ロレンツォ教会(Chiesa di San Lorenzo)」(1680年築)の大きなドームが顔を覗かせている。1668年から1687年に建築家グアリーノ グアリーニ(1624~1683)により建設されたヨーロッパ・バロック建築の最高傑作の一つとされている。
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ピエモンテ州議会の先隣りの赤い建物はキアブレーゼ宮殿(Palazzo Chiablese)で、カステッロ広場の北側には、広い前庭を持つ「トリノ王宮(レアーレ宮殿)」(Palazzo Reale Torino)が建っている。

トリノ王宮(レアーレ宮殿)は、建築家アスカニオ ヴィトッツィの都市計画による中心建造物となった公爵宮殿で、建築家カルロ ディ カステッラモンテや、更に彼の息子で建築家のアメデオ ディ カステッラモンテ(1613~1683)などにより建設された。その後、建築家フィリッポ ユヴァッラがフランス風のバロック様式に改修し、18世紀に新古典主義様式が導入され現在の建物となっている。
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左右に飾られるブロンズ騎馬像は、ディオスクーロイ(ギリシア神話に登場するゼウスとレーダーの双子の兄弟カストールとポリュデウケース)で、イタリアの彫刻家アッボンディオ サンジョルジョ(1798~1879)(Abbondio Sangiorgio)によるもの。

トリノ王宮の見学はガイドツアーでのみ行われる。前庭を進み正面棟の入口を入ると迫力の騎馬像が迎えてくれる。騎馬像の前から、左右に続く大理石の「名誉の階段」を上って行くと、周りには歴代のサヴォイア当主の大理石像が飾られている。王宮内は、王座の間、謁見の間、サロン、中国小部屋などがあり、豪華な家具や調度品、美術品で溢れている(撮影禁止)。


ところで、カステッロ広場周辺にあるサヴォイア王家ゆかりの建築物11棟(トリノ王宮、キアブレーゼ宮殿、王立武具博物館・王立図書館、県宮殿(旧州事務局)、州立公文書館(旧裁判所公文書館)、旧陸軍士官学校、乗馬学校と厩舎、造幣局、王立劇場ファサード、マダマ宮殿、カリニャーノ宮殿)は「サヴォイア王家の王宮群」として世界遺産に登録されている。

次に、王宮の正面棟に沿って西側に進み、王宮広場の西翼の赤い外観の複合施設(キアブレーゼ宮殿)のアーケードをくぐり、サンジョバンニ広場右側に建つ「トリノ大聖堂」(サン ジョヴァンニ バッティスタ大聖堂)(Duomo di Torino)に向かう。王宮の西棟には、聖骸布礼拝堂のドームが聳え、直結して大聖堂のドームが続いている。ファサードは大聖堂を右側に見ながら大聖堂広場を横断し、トラムの軌道が延びる"9月20日通り"(via XX Settembre)側に面している。


この場所には、6世紀後半に初期キリスト教会があったが、現在の大聖堂の基礎は、1492年に、トリノ司教ドメニコ デッラ ローヴェレ(1442~1501)からの依頼で、トスカーナ出身の建築家メオ デル カプリーノ(1430~1501)により工事が始まり1505年に完成した。その後、1694年には拡張工事でドームが加えられた。トリノ市内では、唯一のルネサンス様式の宗教建築物だが、隣の独立して建つ鐘楼(高さ60メートル)は、1720年にバロック様式で再建(1470年頃築)されている。

階段を上ったファサード前から眺めると、鐘塔の北側には、古代ローマ時代の円形競技場跡があり、 "9月20日通り"の向かい側には遺跡公園があり、その先に煉瓦色をした2つの塔(高さ約30メートル)が見える。この塔の下には、紀元前1世紀のローマ都市の城門の一つ、パラティーナ門(Porta Palatina)が残されている。
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トリノ大聖堂には、ファサードにある3つの扉の内、中央の扉口からに入る。大聖堂は、ラテン十字形の3身廊で、長径が40メートルあり、内陣の上にドームがある。こちらは、身廊を進んだ内陣手前の階段下から主祭壇を眺めた様子である。そして、左右側廊の側面には多くの芸術家と装飾家による礼拝堂がそれぞれ7つ並んでいる。


この聖堂内には、世界中で注目される聖骸布が納められている。いつもは北側廊の一番奥の聖骸布礼拝堂に納められているが、この日は、北側廊沿いに設置されたガラスケースが設置され、中に聖骸布が納められた等身大の箱が置かれていた。箱には、実物大の聖骸布の写真が飾られており、また、そばの礼拝室にも大きな聖骸布の写真が飾られている(撮影は禁止)。こちらは聖堂内で販売されている聖骸布の絵葉書(その1)絵葉書(その2)になる。

拝廊側から北側廊の3番目にある礼拝堂には、バルトロメオ カラヴォリア(1616頃~1691)(Bartolomeo Caravoglia)による聖母子と4人の聖人(1655年)が描かれている。隣と先隣りの礼拝堂の作品もカラヴォリアによるもの。礼拝堂の手前にはテレビモニターが置かれ、聖骸布についての解説がなされている。
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聖骸布とは、キリスト磔刑後の遺体を包んだとされる亜麻布のことで、33年エルサレム、544年トルコのウルファ、944年にコンスタンチノープルで確認されているが、1204年のコンスタンティノープル包囲戦で行方不明になっている。その後、1389年に法王宛ての手紙に存在の記述が見られ、紆余曲折の後、1453年にサヴォイア家に譲渡され現在に至っている。1983年には、炭素年代測定をされ中世の物と判定されるが、測定方法に異論、反論があり、信憑性は疑問視されている。真贋はさておき、500年以上もサヴォイア家により大切に守られてきた至宝であることは間違いない。

大聖堂の前のトラムの軌道が延びる"9月20日通り"を南に進み、右折した左先のポルティコ(アーケード)内にファストフード「レ カラマーロ」(Re Calamaro)(イカの王様の意味)がある。この後の予定もあるので、揚げたてのイカ、エビを注文(筒状の容器に入れて提供してくれる)し、そばにあるベンチで食べてお昼にした。


レ カラマーロの角を左折し南に向かうと、トラムの軌道が延びており、先の交差点を左折すると、カステッロ広場から延びる「ジュゼッペ ガリバルディ通り」(Via Giuseppe Garibaldi)となる。通り沿いにはショップやカフェが並ぶ繁華街となっている。
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そのジュゼッペ ガリバルディ通りから東側を眺めると、カステッロ広場の中央に建つ「サルデーニャ王国軍の旗手の白い大理石像」と「マダマ宮殿」(市立古典美術館)を正面に捉えることができる。
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再び、カステッロ広場に戻り、大通り(東側はポー通り、西側はピエトロミッカ通り)を横断し、次に、南方向に延びるローマ通りを進む。ローマ通り沿いの建物にもポルティコ(アーケード)が続き、しばらくすると「サン カルロ広場」(南北168メートル×東西76メートル)に到着する。周囲には、カステッロ広場のバロック建築群の設計に携わった建築家カルロ ディ カステッラモンテが、1638年に建設したバロック様式の建造物が取り囲んでいる。
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広場中央には、彫刻家カルロ マロケッティによるサヴォイア公エマヌエーレ フィリベルト(1528~1580)の騎馬像が飾られ、南端には、サンタ クリスティーナ教会とサン カルロ ボッロメオ教会の双子の教会のファサードが並んで建っている。

少し歩き疲れたため、サン カルロ広場の西南側のポルティコ内にあるトリノ代表的カフェ「カフェ トリノ」に入り、エスプレッソを飲みながら休憩した。1903年創業の老舗店で、国王のウンベルト1世もケーキを食べながら市民と議論をかわしたという。カフェ入口の石畳には、トリノの象徴の牡牛が彫られており、この牡牛を踏むと幸せになると伝えられている。

次に、ローマ通りの東隣のアカデミア デッレ シェンツェ通り沿いに建つ「エジプト博物館」に向かった。入口は、通りの左側になる。こちらの博物館は、ナポレオンのエジプト遠征・美術収集に同行した収集家で外交官のベルナルディーノ ドロヴェッティ(1776~1852)が、サヴォイア家に送ったコレクションを基に、1824年に創設された。カイロにあるエジプト考古学博物館に次ぐ約33,000点規模のエジプト美術を収蔵しており、そのうち約6,500点が展示されている「エジプト博物館 英語版パンフレット(表面裏面)」。
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こちらは3メートル以上ある横長の「死者の書」である。死者の書とは、死者の霊魂が肉体を離れてから、オシリスの治める死後の楽園アアルに入るまでの過程、道しるべを、パピルスの巻き物に、絵とヒエログリフで描いた書で、エジプト博物館が収蔵する3種類の版うちの一点である
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「エジプトの踊り子」で、新王朝時代(紀元前1292~1070頃)の作品。体操選手が行うブリッジの姿勢を取っている。古代都市テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸のデールエルメディーナ(Deir el-Medina)から出土されたフレスコ画の破片である。
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「正義の胸像(Bust of a Judge)」で、エジプト第26王朝時代(紀元前664~前525)の作品。胸元に付けられた飾り鎖は、古代エジプト神話の女神マアトで、法、真理、正義を司っている。
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彫像ギャラリーには、トトメス三世、アメンホテプ二世、ツタンカーメン、ラムセス二世等の貴重な彫像が並んでいる。展示数が多く、例えば、膨大な副葬品など、ガラスケース内に重なり合うように展示されており、ミイラや石棺などは、数段の棚に積み重ねられて収蔵倉庫の様になっていた。見るべき作品を予め厳選して見学しないと疲れてしまう。
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結局、博物館では1時間ほどさらさらっと見学して、次に、東に800メートルほど離れたモンテベッロ通り沿い(カステッロ広場からは400メートルほど南東側)にあるトリノのランドマーク「モーレ アントネッリアーナ」に向かった。こちらは国立の映画博物館で、もともとは1862年に建築家A アントネッリによりシナゴーグとして建てられたもので、高さが167メートル(概ね新宿の京王プラザホテル位の高さ)ある。
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展望台エレベーターで、85メートル地点まで上がることができるが今回はパスし、館内だけを見学することにした。館内は、巨大な吹き抜け構造になっており、周囲の螺旋回廊を下りながら見学する。
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壁面には、映画に関するポスター、写真、シナリオ、関係資料等がギャラリー形式で展示されている。こちらは、奥からエルンスト ルビッチ監督による「ニノチカ(1939年)」(グレタ ガルボ主演)と「天使 (1937年)」(マレーネ ディートリヒ主演)。そして手前が、オットー プレミンジャー監督「帰らざる河(1954年)」(ロバート ミッチャム、マリリン モンロー出演)の映画ポスターが掲げられている。全てイタリア版だが、時代を超えて世界的に愛される名作ばかりである。


こちらは、オーソン ウェルズ監督の「市民ケーン(1941年)」で、ウィリアム ランドルフ ハーストをモデルにした新聞王ケーンが最期に残した言葉「バラのつぼみ」の謎を探るストーリー。新聞記者が取材を通じて、ケーンの孤独で波乱な生涯が浮かび上がっていくというもの。革新的な映像表現が今見ても凄く、常に映画ランキングで上位にランキングされる。


マルクスブラザーズの最後の作品「マルクス捕物帖(1946)」で、左からチコ、ハーポ、グルーチョのマルクス3兄弟が、映画カサブランカをパロディにしてドタバタ喜劇を繰り広げる。丸メガネと書きヒゲのグルーチョのマシンガントークや、喋らずハープ演奏が得意のハーポと、ハーポの通訳的役割でしゃべるイタリア訛りのチコとの掛け合いなどナンセンスでスピーディーなギャグは今も新鮮である。


1階には、映画俳優たちの衣装やセットのデザイン、特殊効果を施したクリチャーなどが展示されている。映画のセットに入るとスクリーンに登場人物として映るコーナーなどがある。フロア中央には、足までゆったり載せられるパーソナルチェアが設置されており、リラックスしながら映画が鑑賞できる。
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時刻が午後7時半を過ぎたころ、モーレ アントネッリアーナのすぐそばのリストランテ(Sotto La Mole)に向かった。今回の旅行で今夜が一番早い夕食時間となった。


こちらのレストランは、美味しいトリノの郷土料理が頂けることで評価が高い。到着時の店内はまだ空いていた。
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食事は、テイスティングコース(37ユーロ)か、アンティパスト、プリモピアット、セコンドピアットの5品ずつからオーダーできるアラカルトメニューがある。この日は、テイスティングコースとし、最初の飲み物として、ピエモント州産のピルスナー ビール、メナブレア(G. Menabrea e Figli)と フランチャコルタ(ロンバルディア産のスパークリングワイン)を頼んだ。
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グラスに入った冷製サラダが提供される。イタリアでは、ストウッツィキーノ(Stuzzichino)と呼ばれ、日本での付け出しとか、おつまみを表わしている。

パンは、スパイスやハーブ入りのフォカッチャやトリノ名物のグリッシーニなど。グリッシーニは、細長いスティック状でクラッカーに似た食感がある。


次が、アンティパストとなる。こちらはピエモンテ州伝統料理の「子牛のロースト」で、冷やした塊をローストビーフの様にスライスし、その上に、ツナ、アンチョビ、ケッパー、マヨネーズをすりつぶした(Vitello tonnato)ソースをかけて頂く。脂分が少ない肉のため、酸味のあるマヨネーズ系ソースと相性が良い。


プリモピアットは、ピエモンテ州伝統の詰め物パスタ「アニョロッティ ピエモンテ―ゼ」(Agnolotti alla piemontese pizzicati a mano)で、アニョロッティとはラヴィオリのピエモンテ州での方言とのこと。自家製パスタの生地には卵が練り込まれ、食べた際のやや硬めでありながら絶妙なモチモチ感もあり大変美味しい。


そして、セコンドピアットは「ウサギのロール」(Rabbit roulade with olives and potatoes)で、レストランお勧めの一品。。ウサギ肉は、鶏肉に似ているがやや味がしっかりした印象。中に入ったハーブ系の野菜や付け合わせとの相性が良い。


コースには、チーズセレクション(Selection of cheese)が付いている。


そして、最後にデザートとなる。チョコレートがトッピングされた「パンナコッタ」(Lavender flavour panna cotta,chocolate topping)で、追加で、エスプレッソを頼んだ。


見た目も美しく分量もちょうど良かった。油っこくもなく食べやすく美味しく頂けた(計114.5ユーロ(レート112.385))。ワインとの相性も良かったが、残念ながら飲んだワインを撮り忘れてしまった。
(2011.8.2~8.3)
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イタリア・ピエモンテ(その3)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
こちらは、ピエモンテ州ノヴァレーザ(Novalesa)にある「ノヴァレーザ修道院」(Novalesa Abbey)である。ノヴァレーザは、モン スニ峠の南麓にあるフランスとの国境の村モンチェニージオから、更に南東側のヘアピンカーブの斜面を一気に下った(高低差約600メートル)、チェニスキア川が流れる渓谷沿いの人口500人ほどの小さな村である。そして、その修道院は、ノヴァレーザの中心部から1キロメートルほど南西方面に離れた山間部に位置している。
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フランス・ランスヴィラール(Lanslevillard)から修道院まで約40キロメートル(約1時間)の距離だった。ノヴァレーザに着いてからは、修道院の場所が分からず、インフォメーションなどを求めて村の中心部を走ったが、一方通行の狭い石畳道沿いに人家が密集しているだけだった。修道院の見学は、ガイド ツアーのみと、1日2回と時間が決まっており少し焦ったが、チェニスキア川に架かる橋の袂あった案内地図に従って、ツアー開始時間までに無事到着した。

ノヴァレーザ修道院は、726年に設立されたベネディクト会修道院で、聖ペテロと聖アンドリューに捧げられている。この日のガイド ツアー参加者は7名で、最初に、修道院内のアバシアル(Abbatial)の会衆席に座り、スタッフから概要説明(イタリア語のみ)を受ける。英語による説明を希望する場合は、こちらの解説(修道院の概要(表)修道院のプラン(裏))が貸し出される。


その後、丘を思わせる起伏のある広い修道院の敷地を歩きながら見学した。修道院の南側の敷地には、「サン ミケーレ礼拝堂」(S.Michael)、「サン サルバトーレ」(The Holy Saviour)、「エルドラド礼拝堂」(S.Eldrade)の3つの礼拝堂が点在している(北側に「サンタ マリア礼拝堂」(S.Mary)がある)。前方の高台に建つサン ミケーレ礼拝堂は、8~9世紀に建設され、中世のフレスコ画が残されているとのことだが、見学はできない。一時期、厩舎と道具小屋としても使われていた。


続いて11世紀後半に造られたロンバルディア様式のサン サルバトーレ沿いの通路を進んで行く。この礼拝堂は、修道士たちの祈りや食事の場所としても使われた。近年、無名戦士のための礼拝堂になったという。


丘を登った先は展望台で、正面(東側)には山々が連なり、眼下には、モン スニ峠を源流とし、ノヴァレーザを経由して南に流れるチェニスキア川が織りなす渓谷が見渡せる。向かい側の山麓にはヴィラレット(Villaretto)(ノヴァレーザの南側の村)の人家が点在している。


そして、その展望台の手前に建つ建物が、本日のガイドツアーの最大の見どころ「エルドラド礼拝堂」となる。もともとの建設は9世紀に遡るが、現在の建物は11世紀に建てられたロマネスク様式の礼拝堂である。


白い漆喰で塗装されたファサードは17世紀に建築されたもので、内側を日差しが届きにくい深いバレル ヴォールトで覆われている。そして、その内側奥の扉(ポーチ)には、ティンパヌムだけでなく、左右の柱も含め全て鮮やかな色彩のフレスコ画で覆われている。
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扉を入ると、礼拝堂内は単身廊にアプスだけの狭い空間だが、眩いばかりのフレスコ画で覆われている。その正面突き当りのアプスには、左右に大天使ミカエルと大天使ガブリエルを配した全能者ハリストス(Pantocrator)(キリスト)が描かれているが、眼光鋭い表情に、巧みな衣皺線、玉座の装飾、円座の濃淡など大変精緻に表現されている。そして、横断アーチに施された、アカンサス・幾何学文様などの重厚な多色の縁取り装飾が、登場する人物像を一層引き立てている。
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11世紀後半に描かれたにも関わらず、今まで大きな修復を受けず、近年に描かれたかの様な鮮やかな彩色が保たれていることは大変驚かされる。これは人里離れた場所と、その場所における適度な温度と湿度なども関係していると言われているが、何よりも歴代の修道院関係者の保存への努力など先人たちの苦労が偲ばれる。

アプスの下の内陣は、身廊より一段高く、重厚な聖卓が置かれている。その聖卓の先の壁面には、左右に聖ニコラウスと聖エルドラドがマンドルラに包まれたキリストを称える様に描かれている。その聖人たちの左右には、分厚い壁に開けられたロマネスクらしい小さな窓があるが、その窓の内壁にも、美しい装飾が施されている。
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聖ニコラウスとはサンタクローズの原型となった司教で、聖エルドラドはノヴァレーザ修道院の修道院長(任:820~845)を務めている。そして、天井のバレル ヴォールトは、2つのベイに分かれ、ベイ毎に聖ニコラウスと聖エルドラドのエピソードが描かれている。まず、アプス側のベイには、緑色を背景とし神の子羊を中心として周囲に聖ニコラウスのエピソードが散りばめられている。神の子羊の下で椅子に腰かけた母親に抱かれている幼子が聖ニコラウスである。
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聖ニコラウスは、紀元270年頃、小アジアのローマ帝国リュキア属州のパタラに生まれ、同リュキアのミラで大主教を務めている。死後はミラの教会に葬られたが、聖遺物から芳膏が湧き出て、多くの信者がこれにより病を癒されたことから、1087年に南イタリア・バーリに聖遺物が移され、それをフランス人十字軍兵士が、故国への帰途の途中、ノヴァレーザの地に奉納したと伝えられている。

天井から右側に視線を下げていくと、貧しい貴族の娘が、身売りされそうになっており、聖ニコラウスが窓からその家にお金を投げ入れ(サンタクローズの原型となったエピソード)、娼婦にならずに済んだという場面が描かれている。
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更にその下となる右身廊のアーチ壁には、嵐により難破しそうになった船の船乗り達が聖ニコラウスの名前を呼ぶと、海の上に聖ニコラウスが現れ、命を救ったとされる場面が描かれている。
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再び、視線を天井に戻して、今度は左側に視線を下げていくと、聖ニコラウスを中心に3人の人物が描かれている。
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3人の人物の下の左身廊アーチ壁には、旅館の主人が3人の子供たちを切り刻ざんで食事として出そうとしているところを、聖ニコラウスが救おうとしている場面である。
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次の拝廊側の天井ベイには、鳩と草花で縁取られた交差ヴォールトで場面が区分けされ、それぞれ聖エルドラドのエピソードが描かれている(右隣が聖ニコラウスが描かれたベイで、左隣が拝廊)。聖エルドラドは、紀元781年フランスのグルノーブルとガップ間に位置するエルドラド(現アンベル村)で生まれ、裕福な家庭に育ったが、20歳頃、全てを棄てて巡礼の旅に出ている。中央右側には、聖エルドラドが、生まれ故郷のアンベル村で畑を耕す様子が描かれている。
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視線を下げていくと、聖エルドラドが巡礼カバンを捨て、修道服を与えられ、ノヴァレーザ修道院に入所する様子が描かれている。
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更にその下となる左身廊アーチ壁には、ノヴァレーザ修道院長となった聖エルドラドの姿が描かれている。対する右身廊アーチ壁には、蛇がはびこる村で、杖を持つ聖エルドラドが、蛇を集めて地中の穴に導き、二度と現れないように命じた場面(蛇の奇跡)が描かれているが、こちらは損傷が大きい。
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拝廊側のティンパヌムには、十字架を中心に、左右にラッパを吹く天使の姿が描かれていることから、最後の審判を表わしている。
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エルドラド礼拝堂の見学は10分程と短く少し物足りなかったが、保存状態の良い美しいフレスコ画には満足できた。次に、ノヴァレーザから、7キロメートルほど南へ下ったピエモンテ州トリノ県スーザ(Susa)に向かった。ヴァル ディ スーザ(スーザ渓谷)に位置するコムーネで、県都・州都トリノは、東に53キロメートルの距離になる。

スーザは、古代ローマ以前にさかのぼる古い都市で、古代ローマ時代にはセグシウムと呼ばれ、アルペス・コッティアエ属州の州都だった。フランス側からは、北西のモン スニ峠と南西のモンジュネヴル峠から伸びる街道が合流する関門にあたり、古来よりフランスからローマを訪ねる巡礼者はこのいずれかの道を通ってスーザにやってきた。

前方のドーラ リパリア川に架かる橋の奥に見える教会は、紀元13世紀に建てられたポンテ教会(Chiesa de l Ponte)で、現在、博物館を併設している。 左手に見える山が、モン スニ峠方面で、その麓がノヴァレーザ修道院にあたる。橋から伸びるセッテンブレ通り(Via XX Settembre)を南(左側)に行くと広場(Piazza IV Novembre)があり、通り沿いには、ショップ、レストラン等が並んでいる、なお、橋を渡った右手はスーザ駅方面になる。
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セッテンブレ通りを南に歩き、すぐ左手のリストランテ メーナ(Meana)でランチをすることとした。


時刻は午後1時。店内は多くの客で賑わっていた。


ランチメニューは、プリモ ピアット、セコンド ピアット、デザートのコースで、それぞれ料理を選べる。こちらはプリモ ピアットのアニョロッティ(肉詰めパスタ)で、他に、スパゲッティ、ズッパ(食べる野菜スープ)、サラダ盛り合わせなどから選べる。


こちらはセコンド ピアットで、コントルノ(野菜や豆のつけ合わせ)付ポークソテー。他にも、鳥肉、仔牛、チーズ、ハンバーガーなどから選べる。


最期にデザートをいただいた。料理の提供が早く、30分ほどで食事が終了した。


食後は通りを南に向かい、すぐ先のトレント広場から右(西側)に延びる旧市街の「パラッツオ デイ チッタ通り(Via Palazzo di Citta)」を歩く。通り沿い右側に面した建物の1階部分は、アーケード(ポルチコ)が続いており、建物間を通り抜けできる。こちらのレストランのテラスはポルチコ内にも設置され大変賑わっている。トレント広場周辺からは、やや離れていることから、地元の人に人気のレストランかもしれない。


パラッツオ デイ チッタ通りは、スーザの町役場がある旧市街の中心で、御影石の舗装がされ、真ん中だけ丸石の石畳になった綺麗な通りである。この時間、手前のレストランは賑わっていたが、通りを歩く人は少なかった。


そのパラッツオ デイ チッタ通りを100メートルほど西に進んだ「カルロ アンドレア ラナ広場」から先は上り坂になり、7メートルほどの小高い岩山上に「スーザ城」(アデライデ伯爵夫人の城)が建っている。こちらは、旧市街を見下ろす城の東袖棟側で、すぐ右側からは、西側へ延びる長辺側の北袖棟との ” 逆L字型 ” の外観を要している。
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正面の東袖棟の上部には小さな銃眼出窓が2つ設置されている。スーザ城の別名となるアデライデ伯爵夫人とは、サヴォイア伯オッドーネ(オトン)(1010/20~1057)の妻アデライデ ディ トリノ(1020~1091)のことを指している。オッドーネは、イタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォワ一帯を支配していた辺境伯貴族だったが、トリノ辺境伯を継いだアデライデ ディ トリノと結婚したことにより、サヴォイア家として北イタリアに大きく飛躍する。


アデライデは、トリノ辺境伯オルデリーコ マンフレーディ2世(975/92~1041)の長女として生まれたが、三姉妹の長女であったことから、後に父の遺領の大部分を継承している。彼女は膨大な財産を守るため政略結婚するが、次々と夫に先立たれ、3度目の夫サヴォイア伯オッドーネとの間に3人の息子と2人の娘を授かっている。しかし、そのオッドーネも亡くなったことから、彼女自身が息子とともにトリノ辺境伯領とサヴォイア伯領を統治している。

カルロ アンドレア ラナ広場からは、アル カステッロ通りとなり、右上にスーザ城の建つ岩壁下を通っていく。左右にある大きな古代ローマ時代の石壁(通り過ぎ振り返った様子)を抜けると、右側のスーザ城の城壁に沿って階段が続いていく。
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城壁の最上部には胸壁が設けられ、100メートルほど西方面まで城壁は続いている。そして、城壁の終点には、直結して石積みされた二連アーチの「ローマ水道橋の跡」(4世紀頃)が建っている。
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ローマ水道橋のアーチから北側には「アウグストゥスの凱旋門」が見える。ローマ皇帝アウグストゥスに敬意を表して紀元前13年から前8年の間にケルト リグリア部族のマルクス コツィオ王(紀元前60頃~10頃)の要請で建てられたもので、その完成時には皇帝自身が来訪したと伝わっている。1992年に修復され美しい姿を見せている。
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水道橋をくぐり、右側の城壁に沿って北方向に進み、アウグストゥスの凱旋門をくぐると、道がなだらかに右方向に下って行く。アウグストゥスの凱旋門の右側には展望台がありスーザ市内を一望できる。左側の鐘楼は11世紀に造られた「スーザ大聖堂(サン ジュスト聖堂)」(cattedrale di San Giusto)である。中央の遠方に見えるのがポンテ教会で、右側には「サンタ マリア マッジョーレ教会」(Chiesa di S.Maria Maggiore)が建っている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

アウグストゥスの凱旋門からなだらかな道を下って行き、大きく右に回り込んだ先に3世紀~4世紀、ローマ時代の城壁に造られた「サヴォイアの門」(4世紀築)前に到着する。門の向こうにスーザ大聖堂の鐘楼が見える。
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門の威容と鐘楼とに目を惹かれるが、門の左手に繋がる白い壁面はスーザ大聖堂(サン ジュスト聖堂)のファサードである。下部に小さな西ポータルがあり、上部は4つのピラスターで3つに区分され、中央の大きなアーチ窓の左右側面に2つの浮彫窓がある。赤レンガで縁取られた切妻型のコーニスで3つの尖塔が聳えている。

サヴォイア門の左右(南北)には、円形の側防塔を備えているが、西側から見た右側(南塔)の大半が手前の建物内に取り込まれて見えない。しかし門をくぐった東側からは、左右の側防塔を確認できる。塔の千鳥状に設けられたアーチ窓は3階で上部が破損しているが、東側は4階まで残っている。中央の馬車門は1750年に設けられた。


馬車門をくぐったすぐ左側は、ファサード同様に白く塗られたスーザ大聖堂の身廊壁で、側防塔の下部は壁の中に取り込まれている。すぐ先の身廊壁に小さなポーチがあり、そのポーチの上の丸窓と重なる様に、古いティンパヌム(タンパン)があり、1130年頃に描かれたフレスコ画(磔刑図)が残っている。
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フレスコ画(磔刑図)の右側にも紋章が描かれた正方形のフレスコ画があり、その先に円形の礼拝堂が張り出しているが、途中から大きな鐘楼の土台が手前に張り出している。スーザ大聖堂の鐘楼(11世紀建築、15世紀尖塔増築、18世紀土台補強)は、小さな窓が1つある土台の上に、6層に分かれ、それぞれ異なるアーチ窓を配し、尖塔を設けた高さ51メートルの威容があり、南側の小さなサヴォイア広場から何とか仰ぎ見ることができる。
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鐘楼を回り込んだ右側の後陣に近い側面に聖堂への入口があり扉が開いている。こちらにもフレスコ画(キリストのエルサレム入場)が残っているが、さきほどの磔刑図もそうだが、共に南に向いて日差しを浴びているが、劣化するのではないだろうか。。
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聖堂内は、外の明るさとは異なりかなり暗い雰囲気である。聖堂は翼廊のある3廊式バシリカ型のネオロマネスク様式で、後陣は奥行きがある。内陣は、階段の上にあり、バロック様式で飾られた多色の大理石の高い祭壇と、14世紀の貴重な木製の聖歌隊席が備え付けられている。
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スーザ大聖堂は、サン ジュスト(聖ユストゥス)に捧げられた聖堂で、彼は、ノヴァレーザ修道院の修道士だったが、サラセン人(906年スペインからプロヴァンスを襲撃しイタリア北西部へ侵攻した。)の攻撃により殉教している。1027年に遺体が奇跡的に発見され、遺物がスーザ大聖堂に運ばれている。

身廊には5つのベイがあり、それぞれ2列のアーチが支えている。壁面には真新しい幾何学文様の彩色が施されており、天井は、細かく縁取りされた文様のクロスヴォールトと星空の彩色で覆われている。
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北側廊には5つ、南側廊には2つの礼拝堂があり、その南側廊と翼廊との間のアーチ壁には、1メートルほどの台座の上に、アデライデ ディ トリノの像が飾られている。

(2011.8.2)
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