こちらは、コート・ドール県の県都ディジョンの中心部にある「フランソワ・リュード広場」(Place François Rude)で、ディジョン出身の彫刻家フランソワ・リュード(1784~1855)に因んで名付けられている。広場の中心には、ブルゴーニュ地方らしく、ブドウの葉をまといブドウを踏む葡萄狩りの様子を表現した寓意像「バレウザイの噴水」が飾られている。

広場からは、多くの通りが周囲に延びており、その中の一つ、東側に建つハーフティンバー(木骨造り)の家「オー・ムーラン・ア・ヴァン」(1904年再建)に向かって右側から延びる「フォルジュ通り」を歩いていく。すると、すぐに前方右側に「ブルゴーニュ公宮殿」(Palais des Ducs et des États de Bourgogne)と「フィリップ善良公の塔」が見えてくる。

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ブルゴーニュ公宮殿は、ディジョンを首都としたブルゴーニュ公国の宮殿で、もともと5世紀にゲルマン民族ブルグンド王国のあった地域を治めたフランス最大の大領主を始祖としている。そして、百年戦争を契機に、ヴァロワ朝第2代国王ジャン(在位:1350~1364)の末子フィリップ豪胆公が、中世フランス最大の封建領主として、初代ブルゴーニュ公(在位:1363~1404)を拝領している。
その後、第2代ジャン無怖公(無畏公)(在位:1404~1419)、第3代フィリップ善良公(在位:1419~1467)時代には、ヴァロワ朝と対立するイギリスとの協調や中立策をとるなどして勢力が衰えたが、第4代シャルル突進公(在位:1467~1477)時代に大ブルゴーニュ公領となっている。
公宮殿前から左折して北に進むと、右側に「ノートルダム・ド・ディジョン教会」(Église Notre-Dame de Dijon)が現れる。およそ1220年代から1250年代にかけて建てられたゴシック建築の傑作である。交差部には、高さ74.4メートルのランタンタワーがあり、西側のファサードに向かって右側(南塔)には、4つの金属製のオートマタ(機械仕掛けでハンマーで叩き、時を知らせる)を備えた鐘楼が聳えている。

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その西側ファサードは、高さ28.6メートルあり、1階は奥行のある3つのアーケードで構成されている。そして、上部は2層に分かれ、それぞれアカンサス文様の柱頭と人物、動物が施された17本の小さな柱が、メトープとガーゴイル(キメラ)で飾られたコーニスを支えている。
ガーゴイルは、人間、動物、怪物などで表現され、1列に17×3段の計51が装飾されている。これらは、修復工事が行われて1880年代前半に、パリの彫刻家7人により制作されたもの。もともとガーゴイルは、雨水を排出するための樋だが、こちらは実用性がなく装飾的なものとなっている。ちなみに教会の側溝の壁と後陣には本物のガーゴイルがある。

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教会内は、12世紀にさかのぼる木造の聖母像や、数多くの教会を手掛けたパリのガラス画家エドゥアール・ディドロン(1836~1902)によるステンドグラスなどが見どころである。
教会の北側身廊沿いの礼拝堂のバットレスには、大人の身長ほどの高さに直径30センチメートルの「フクロウ」の浮彫が施されており、観光名所となっている。フランス革命以前の教会写本に鳥の彫刻についての言及があるものの、由来は不明とのこと。丸みを帯びたフクロウは、触られ続け摩耗している。

次に、ブルゴーニュ公宮殿の南側のリベラシオン広場(解放広場)にやってきた。こちらからも見える「フィリップ善良公の塔」は、1450年から1460年にかけて建築家ジャン・ポンスレによって、ブランシオン(12世紀)と呼ばれる古い塔の上に建てられたもので、6階建て高さ46メートルあり、頂上テラスからはディジョンのパノラマビューを楽しむことができる。

塔の下が、公国宮殿の南ファサードになり、左右には、手前に伸びる豪華な両翼が備わっている。大半が17世紀から18世紀に古典様式で改築されたもので、現在、宮殿には、ディジョンの市庁舎、市立公文書館、観光案内所、ディジョン美術館などが入居している。これから、右翼の右奥に続く「ディジョン美術館」(Musée des beaux-arts de Dijon)の見学に向かう。

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ディジョン美術館の代表的な見どころの一つとして「衛兵の間」があり、奥にフィリップ豪胆公、手前にジャン無畏王夫妻の2代大公の墓が並んでいる。フィリップ豪胆公の墓は、当時、ヨーロッパ北方で、最も重要な彫刻家の一人、オランダ人クラウス・スリューテル (Claus Sluter、1340頃~1406)が手掛けたもの。彼はブリュッセルで活動したが、後に、ブルゴーニュ公国の首都ディジョンに移って、ブルゴーニュ公フィリップ2世の宮廷彫刻家として活躍している。ジャン無畏王夫妻のお墓は、制作者は異なるが、豪胆公のスタイルを踏襲して作られている。

こちらが、ジャン無畏王夫妻の墓で、手前の像は、ジャン無畏公の妻で、第3代フィリップ善良公の母となるバイエルンのマーガレット(Marguerite de Bavière、1363~1424)になる。像の頭上には天使が、足元にはライオンの像が飾られている。そして、棺の周囲には、装飾柱が続く回廊内を進む、41人の喪服姿の葬列者が、白大理石で彫られており、制作には約30年間が費やされている。

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こちらは、イタリア・ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠パオロ・ヴェロネーゼによる「モーセの発見」(1580年頃)で、ヴェロネーゼと彼のスタジオによる主題の他のバージョン(少なくとも8つが現存)の内の一つである。

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こちらは、ディジョンの彫刻家フランソワ・リュードによる「ラマルセイエーズ」(出発の歌)とも呼ばれる「1792年の志願兵の出発」(Le Départ des volontaires de 1792)で、「パリの凱旋門」(エトワール凱旋門)の東側のファサードの右側に刻まれた石膏模型になる。作品は、1833年から1836年の間に制作されたもの。

その後、昨夜と同じ潮州城酒楼で拉面を食べて「ジュヴレ・シャンベルタン」に向かった。ジュヴレ・シャンベルタンは、ディジョンからは13キロメートルほど南にあり、途中のマルサネ・ラ・コートからは5キロメートルほどの距離である。共に「グランクリュ街道」沿いにある。
グランクリュ街道とは、38のワイン生産村を60キロメートルにわたって横断する観光ルートで、ディジョンからボーヌ手前までの「コート・ド・ニュイ地区」と、ボーヌからサントネ間の「コート・ド・ボーヌ地区」に分かれている。
ジュヴレ・シャンベルタンは、ブルゴーニュワインの王と称えられる人気と歴史あるワインで、シャンベルタン、シャンベルタン・クロ・ド・ベース、マジ・シャンベルタンなどの9区画のグラン・クリュ(特級畑)と、26区画のプルミエ・クリュ(一級畑)がある。

こちらが、ジュヴレ・シャンベルタンを代表する銘上ワインとも言われる「シャンベルタン」(13ヘクタール)で、西側への上り斜面(標高275~300メートル)に広がっている。そして、その区画の中央付近にあるのがジャック・プリウール氏の畑(0.81ヘクタール)で、石板に所有者名が刻まれている。畑には収穫時期のブドウの房がたわわに実っていた。

次に、更に5キロメートルほど南に行った「ヴージョ」(Vougeot)に到着した。大半がグラン・クリュで、そのほとんどが「クロ・ド・ヴージョ」になる。その区画の北西部の斜面には、12世紀にシトー派修道院によりルネッサンス様式で建てられた「シャトー・デュ・クロ・ド・ヴージョ」(Château du Clos de Vougeot)がある。城内には、修道士たちが携わったワイン収容のためのタンク、グランドセラーなどの設備が残されている。

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シャトー・デュ・クロ・ド・ヴージョ前から、北東方面を眺めると、ワイン畑の向こうに、塔と大きな屋根の建物「シャトー・ド・ラ・トゥール」(Château de la Tou)があり、後方が、ヴージョ村になる。

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続いて、ヴージョ村から2キロメートルほど南の「ヴォーヌ・ロマネ」(Vosne-Romanée)に向かった。ヴォーヌ・ロマネは、コート・ド・ニュイのアペラシオンの中でも世界最高峰の赤ワインを生み出す銘上産地の一つで、中でも、ロマネ・コンティ、ラ・ターシュ、リシュブール、ロマネ・サン・ヴィヴァン、ラ・グラン・リュ、ラ・ロマネといった偉大なグラン・クリュは、力強く濃密ながら、華やかなエレガントさを持った味わいのワインとして知られている。
ヴォーヌ・ロマネ村の中心に建つ「マルティン教会」(Church of St. Martin)の北身廊沿いの通りを西に向かうと、すぐにグラン・クリュ「ロマネ・サン・ヴィヴァン」(9.44ヘクタール)の畑が広がり始める。こちらが、その通り先の交差路から振り返った様子で、現在は、複数の生産者が所有するものの、大半はドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の所有となっている。ちなみに、先に見える尖塔が村の中心に建つマルティン教会になる。

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ロマネ・サン・ヴィヴァンの西隣が、世界中で争奪戦が繰り広げられるグラン・クリュ「ロマネ・コンティ」で、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の単独所有畑となる。東向きの斜面(標高260〜275メートル)にある僅か1.81ヘクタールの畑で、ロマネ・コンティの生産本数は、年間わずか5000本程度と希少価値が高い。

こちらが、そのロマネ・コンティのブドウになる。黒ブドウ品種のピノ・ノワールで、果皮が薄く、小ぶりの果実が密集して小さな房状に実るのが特徴である。

ロマネ・コンティの北隣が希少なグラン・クリュとして知られる「リシュブール」のブドウ畑になる。畑の総面積は8.03ヘクタールで、ヴォーヌ・ロマネの中ではロマネ・サン・ヴィヴァンに次いで2番目の広さを誇っており、やはり複数の所有者がいる。こちらもロマネ・コンティと同じ、東向きの斜面(標高260〜280メートル)に畑が広がっている。

ヴォーヌ・ロマネから、南に20キロメートル先のボーヌを過ぎ、更に16キロメートルほど南にある「シャニー」(Chagny)に到着した。シャニーは、コート・ド・ボーヌ地区にあるアペラシオンで、今夜は、そのボーヌのアルム広場沿いにある星付きレストラン「ラムロワーズ」(Lameloise)で食事をすることにしている。

今夜宿泊するホテルは、レストランに向かって左の通りを南に100メートル行った先にある「ホテル ドゥ ラ フェルテ」(Hôtel de la Ferté)と近いことから、ゆっくり食事することができる。
ラムロワーズは、1926年からミシュランの星を得ており、初代ピエール、2代ジャン、そして3代のジャック・ラムロワーズ(Jacques Lameloise)と営業を続けているブルゴーニュを代表する名店である。サービスも料理も一級品との評判で、シェフの手腕が光る洗練されたブルゴーニュ料理を堪能できる。ワインは、ボーヌ近郊でシャニーとの間にあるポマール・プルミエ・クリュ・グラン・ゼプノを頼んだ。
アヴァン・アミューズとして3つのピンチョス、アミューズとして栗とオマールのムースが提供され、前菜は、ブルゴーニュの前菜の王様ジャンボン・ペルシエで、周りの繊細で華やかな盛り付けも食欲をそそる一品である。

こちらは、メインコースの魚になる。厚みがあり新鮮な白身魚(ヒメジ)で、濃厚なソースとの絡みが絶妙である。

デザートは「デセールコース」で、トールグラスにイチゴのアイスクリームが入ったアヴァンデセールを皮切りに、ボリュームのあるグランデセールが登場する。そして最期のミニャルディーズ(マカロン、チョコなど)は、多すぎるので持ち帰りにした。

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シャニーから、西に40キロメートルに位置するソーヌ・エ・ロワール県オータン(Autun)に向かい、街の東側にあるヴァロン湖沿いの市民公園に到着した。周囲には、ゴルフ場や乗馬教室などスポーツ施設が点在している。これから街の中心に聳え立つ「サン・ラザール大聖堂」(Saint-Lazare d'Autun)(高さ80メートルの尖塔)に向かう。

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サン・ラザール大聖堂は、マグダラのマリアの兄弟で、キリストが蘇生させた聖ラザロに捧げられている。 12世紀に建造されたが、15世紀の塔の再建や、後の増改築があるなどロマネスクとゴシック様式が混在している。北北西方向に向いたファサードには二本の鐘楼があり、その中央真下の階段を上った先にポータルがある。そのポータルのティンパヌム(タンパン)に刻まれた「最後の審判」が、代表的な見所の一つである。

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マンドルラのキリストを中心に、向かって左側に、天国へ案内する鍵を持つ聖ペテロ、そして聖母マリアが、右側では、ミカエルにより魂の計量が行われている。そして、そのキリストの足元には「ギスレベルトゥス(Gislebert、Gislebertus)はこれを作った」と刻まれている。最下部のまぐさには最後の審判を待つ魂が表現され、外側の30のメダリオンには黄道十二宮と月々の仕事が刻まれている。
ギスレベルトゥスとは、ブルゴーニュで活躍した彫刻家で、1115年頃、最初に彫刻家主人の主任補佐として、クリュニー修道院の装飾に関わり、その後、ヴェズレー修道院の柱廊玄関の上にあったティンパヌムを制作したとされる。彼の作品は、生の感情を捉えるなど人物表現が豊かで想像力に富んでおり、中でも代表作と言われるのが、サン・ラザール大聖堂以前のサン・ナゼール大聖堂(1130年頃まで)の東門のまぐさに飾られていた「イブの誘惑」で、現在はオータンのロラン美術館にある。
チャプターハウス(参事会室)には、約30の柱頭彫刻が壁に飾られており、これらの柱頭彫刻も、ギスレベルトゥスによるものと言われロマネスクの柱頭彫刻の傑作と言われている。こちらの壁には、左から右へ「マギの礼拝」、「マギへの夢のお告げ」、「エジプトへの逃避」と飾られている。マギの礼拝とは、3人のマギ(博士)が、誕生したばかりの幼児キリストに礼拝して贈り物を渡す聖書の逸話である。

「マギへの夢のお告げ」とは、礼拝を終えて眠ったマギに天使が現れ、ヘロデ王に幼児キリストが生まれた場所を告げずに故郷に戻るように伝える逸話で、こちらの作品では、一つの布団で寝ている3人のマギの内、天使が指に触れたマギだけが目を開けている。

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次の「エジプトへの避難」とは、ヘロデ王が、マギが報告のために戻らなかったことに怒り、キリストと同時期に生まれた幼児たちを皆殺しにさせるものの、父親のヨセフが夢のお告げでそのことを知り、幼児とマリアを驢馬に乗せてエジプトに逃れる逸話である。こちらの作品では、幼児とマリアは無垢な表情をしているが、剣を担いで驢馬の手綱を引くヨセフは苦悶の表情をしている。

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その後、ヴァロン湖の西側にある「ローマ劇場」を見学した。直径148メートル、最大20,000人を収容できる、ローマ帝国の西部で最大の収容人数を誇っていた。オータンは、ローマ皇帝アウグストゥスに因んだ「アウグストドゥヌム」と呼ばれており、ローマ劇場の遺構は、その時代の代表的な建造物の一つである。観客席は、西側にある舞台の周囲を半円形に取り囲んでいる。

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なお、ローマ劇場の北隣には、円形劇場があったが17世紀以前に採石場として使用され、完全に失われている。
オータン観光後は、シャニーの北側のボーヌに向けて東に戻ったが、シャニー方面との交差点(ラウンドアバウト)を過ぎた先にある「ロシュポ城」(Château de La Rochepot)(ボーヌまで15キロメートル地点)に立ち寄った。城は正面の小高い山に建っており、街道からは左側の坂道を進み、教会を過ぎるとすぐである。駐車場から細い坂道を上っていくと「跳ね橋」を備えた城門が現われる。

城内に入ると、中庭に到着し、錬鉄製のウインチのある井戸や、ブルゴーニュ特有のガラス張りの瓦屋根の建物を眺めることができる。現在の城は、1180年、ブルゴーニュの領主ドモンタギューアレクサンダー(1170~1205)時代を基礎とし、15世紀にネオゴシック・ブルゴーニュ様式で再建され、19世紀に、ガラス張りのバーガンディタイルで修復されている。

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城内には、12世紀の礼拝堂、衛兵隊長の部屋、15世紀のクロスボウなどがある衛兵室などがある。また、フランスの軍人で物理学者サディ・カルノー(1796~1832)に贈られた中国部屋がある。右端の建物は、キッチン、ダイニングルームで、その右隣の敷地はテラスとなり、南側に広がるロシュボの街並みが一望でき、右側には、先ほど通り過ぎたサン ジョルジュ教会(Church of Saint George)が見える。

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その後、ボーヌに到着し、夕食をレストラン「L'Écusson」で頂いた。中心部から南東方面に延びるショッピングストリート、フォブール・マドレーヌ通りを200メートル行ったラウンドアバウト沿いにある。ワインは、ボーヌのすぐ北に位置するプルミエ・クリュ「サヴィニィ・レ・ボーヌ」(Savigny les Beaune)を頼んだ。

美味しかったが、ボリュームがあり前菜で既に満足感があった。料理の提供がとてつもなくスローペースで、睡魔との戦いにもなり、デザートのころには深夜となっていた。

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ボーヌでは「ボーヌのホスピス」(Hospices de Beaune、Hôtel-Dieu de Beaune)を見学した。1443年にブルゴーニュ公フィリップ善良公の宰相ニコラ・ロラン(Nicolas Rolin)により貧者への医療救済を目的としてに建てられた施療院で、フランスでは、オテル・デュー(Hôtel-Dieu、「神の宿」の意)とも呼ばれている。

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石造りの中庭を囲むように配置された2階建ての建物で構成され、事務室、厨房、薬局の機能を果たすようにそれぞれの棟ごとに配置されている。中でも、建物の翼はよく保存されている。見所はハーフティンバーの細長い広間と屋根から突き出した切妻の小屋根付き窓(ドーマー窓)のある華やかなモザイク模様の瓦屋根である。
こちらが、貧者のための病室でカーテン付きのベッドが2列に配置されている。大きさは50×14×16メートルで、中央エリアには食事用のベンチとテーブルが設置されていた。家具類は1875年に建築家ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュクの義理の息子によって集められた。天井には、塗装が剥き出しになったフレームが逆さまの舟形になっている。

壁には患者たちを見守る様に、十字架や、キリストの受難などが飾られている。

初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden、1400頃~1464)による多翼祭壇画「最後の審判」がある。9つの塗装されたオーク材パネルに、長方形の可動シャッターを備えた多翼祭壇画で、閉じると6枚になる。展示は開いた状態でされている。ファン・デル・ウェイデンは、祭壇画はもちろん、肖像画も得意としており、ブルゴーニュ公第3代フィリップ善良公を始め、ネーデルラントの貴族、諸外国の王侯貴族から依頼を受けている。

以上で、ブルゴーニュ地方を離れ、A6号線で150キロメートルほど南下してフランス第二の都市規模を持つリヨンに向かった。首都パリからは南東方向に直線距離で393メートルに位置している。リヨンは、商業都市で古くから金融業が盛んで、今も多くのフランスの銀行本店が置かれている。街は、東から南に流れ込むローヌ川と、更に500メートル先を北から南に流れ込むソーヌ川(Saône)とが南で合流するまでの中洲エリアを中心に形成されており、宿泊は、ローヌ川沿いにあるソフィテル リヨン ベルクール(Hôtel Sofitel Lyon Bellecour)に、スーペリアリバービュールームでチェックインをした。
夜はリヨン市内から北に8キロメートルほど遡ったソーヌ川左岸のコロンジュ・オ・モン・ドールにある「ポールボキューズ」(Restaurant Paul Bocuse)で食事をした。ポールボキューズは、世界中の美食家を魅了してやまない名店で、1959年から生家のレストランを継いで、1965年以降は「ミシュランガイド」で三つ星を獲得し続けている。また1970年代に提唱されたヌーベルキュイジーヌの創始者の一人と言われている。

カラフルでユニークなレストランの外観に対し、店内は対照的にシックで高級感のある雰囲気となっている。壁には、著名人とポールボキューズ氏との歓談写真などがかけられ、いくつかあるブラウン系の家具の上には、卓上シャンデリアランプ、景徳鎮の花瓶、トナカイや少女のブロンズ像などが飾られている。席に案内されてしばらくすると、ポールボキューズ氏本人が全てのテーブルを回って、一緒に写真を撮ってくれる。
こちらが、前菜となる「フォアグラのテリーヌとキャビアのゼリー寄せ」になる。

そして「黒トリュフ・スープのパイ包み焼き」で、パイを外した様子。ポールボキューズが1975年にレジオン・ド・ヌール勲章を料理人として初めて受章した後、フランスの第20代大統領ジスカール・デスタンが参加する餐会で振る舞った品になる。当時、参列者が絶賛したとされる一品である。

そしてメインの「帆立のコキーユ」になる。料理は、丁寧に彩色された油彩画の芸術作品の様で、しばらく鑑賞してしまうほど。ホタテの焼き具合は、柔らかさとカリカリ感の2つの触感が素晴らしく、ソースとの相性も完璧である。

最後に、アヴァンデセールを頂き、グランデセールで終了した。過剰なサービスや干渉はなく、落ち着いた雰囲気の中、ゆっくりと食事を楽しむことができた。まさに王道のフランス料理と言った感じで良かった。
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翌日は、リヨン市内を見学し、昼には、ソーヌ川沿いのバー(ブヴェット・ボナパルト、Buvette Bonapart)で生牡蛎を食べ、その後、フルヴィエールの丘に築かれた古代ローマ時代の「円形劇場」の址に向かった。観客席は、丘の斜面を利用して作られており、後部座席からは、リヨンの街並みが一望できる。

次に、円形劇場から、北側に緩やかにカーブする坂道を進むと、フルヴィエールの丘の頂上に建つ、「フルヴィエール大聖堂」に到着する。大聖堂は、1872年から1896年にかけ、ピエール・ボッサン(Pierre Bossan)により、ロマネスク建築とビザンチン建築の2つの建築様式で建てられた。リヨンの街のいたるところから眺めることができ、現在ではリヨンの街の象徴となっている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
大聖堂は、主要な塔を4基備えた大教会堂と、鐘楼を1基備えた(最上部に金色の聖母マリア像を頂いている)小教会堂との2つの教会堂から成り立っている。大教会堂は、建物が象の体に似ており、4基の塔が足のように見えることから、地元で「逆さまの象」というニックネームが付けられている。
聖堂内は、モザイクが施され、美しいステンドグラスや使徒ヨハネのクリプトなどがある。

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大教会堂の4基の塔の内、北東角の塔には螺旋階段で上ることができ、その展望台から後陣頂部に飾られた「大天使聖ミカエル像」を通してリヨンの街並みを一望することができた。

夜は、宿泊ホテルのソフィテル リヨン ベルクールから、北に250メートルほどの距離にある、ボキューズ氏プロデュースのブラスリーの一つ「ル・シュッド」(Brasserie Le Sud)で食事をした。料理も雰囲気も良かったが、本店に行った翌日だったため、どうしても差を感じてしまった。

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そして、翌朝「リヨン・ペラーシュ駅(Lyon Perrache)」からTGVに乗り、パリ・シャルル・ド・ゴール空港から上海経由で、日本(成田)に帰国した。
(2004.9.23~9.27)

広場からは、多くの通りが周囲に延びており、その中の一つ、東側に建つハーフティンバー(木骨造り)の家「オー・ムーラン・ア・ヴァン」(1904年再建)に向かって右側から延びる「フォルジュ通り」を歩いていく。すると、すぐに前方右側に「ブルゴーニュ公宮殿」(Palais des Ducs et des États de Bourgogne)と「フィリップ善良公の塔」が見えてくる。


ブルゴーニュ公宮殿は、ディジョンを首都としたブルゴーニュ公国の宮殿で、もともと5世紀にゲルマン民族ブルグンド王国のあった地域を治めたフランス最大の大領主を始祖としている。そして、百年戦争を契機に、ヴァロワ朝第2代国王ジャン(在位:1350~1364)の末子フィリップ豪胆公が、中世フランス最大の封建領主として、初代ブルゴーニュ公(在位:1363~1404)を拝領している。
その後、第2代ジャン無怖公(無畏公)(在位:1404~1419)、第3代フィリップ善良公(在位:1419~1467)時代には、ヴァロワ朝と対立するイギリスとの協調や中立策をとるなどして勢力が衰えたが、第4代シャルル突進公(在位:1467~1477)時代に大ブルゴーニュ公領となっている。
公宮殿前から左折して北に進むと、右側に「ノートルダム・ド・ディジョン教会」(Église Notre-Dame de Dijon)が現れる。およそ1220年代から1250年代にかけて建てられたゴシック建築の傑作である。交差部には、高さ74.4メートルのランタンタワーがあり、西側のファサードに向かって右側(南塔)には、4つの金属製のオートマタ(機械仕掛けでハンマーで叩き、時を知らせる)を備えた鐘楼が聳えている。


その西側ファサードは、高さ28.6メートルあり、1階は奥行のある3つのアーケードで構成されている。そして、上部は2層に分かれ、それぞれアカンサス文様の柱頭と人物、動物が施された17本の小さな柱が、メトープとガーゴイル(キメラ)で飾られたコーニスを支えている。
ガーゴイルは、人間、動物、怪物などで表現され、1列に17×3段の計51が装飾されている。これらは、修復工事が行われて1880年代前半に、パリの彫刻家7人により制作されたもの。もともとガーゴイルは、雨水を排出するための樋だが、こちらは実用性がなく装飾的なものとなっている。ちなみに教会の側溝の壁と後陣には本物のガーゴイルがある。


教会内は、12世紀にさかのぼる木造の聖母像や、数多くの教会を手掛けたパリのガラス画家エドゥアール・ディドロン(1836~1902)によるステンドグラスなどが見どころである。
教会の北側身廊沿いの礼拝堂のバットレスには、大人の身長ほどの高さに直径30センチメートルの「フクロウ」の浮彫が施されており、観光名所となっている。フランス革命以前の教会写本に鳥の彫刻についての言及があるものの、由来は不明とのこと。丸みを帯びたフクロウは、触られ続け摩耗している。

次に、ブルゴーニュ公宮殿の南側のリベラシオン広場(解放広場)にやってきた。こちらからも見える「フィリップ善良公の塔」は、1450年から1460年にかけて建築家ジャン・ポンスレによって、ブランシオン(12世紀)と呼ばれる古い塔の上に建てられたもので、6階建て高さ46メートルあり、頂上テラスからはディジョンのパノラマビューを楽しむことができる。

塔の下が、公国宮殿の南ファサードになり、左右には、手前に伸びる豪華な両翼が備わっている。大半が17世紀から18世紀に古典様式で改築されたもので、現在、宮殿には、ディジョンの市庁舎、市立公文書館、観光案内所、ディジョン美術館などが入居している。これから、右翼の右奥に続く「ディジョン美術館」(Musée des beaux-arts de Dijon)の見学に向かう。


ディジョン美術館の代表的な見どころの一つとして「衛兵の間」があり、奥にフィリップ豪胆公、手前にジャン無畏王夫妻の2代大公の墓が並んでいる。フィリップ豪胆公の墓は、当時、ヨーロッパ北方で、最も重要な彫刻家の一人、オランダ人クラウス・スリューテル (Claus Sluter、1340頃~1406)が手掛けたもの。彼はブリュッセルで活動したが、後に、ブルゴーニュ公国の首都ディジョンに移って、ブルゴーニュ公フィリップ2世の宮廷彫刻家として活躍している。ジャン無畏王夫妻のお墓は、制作者は異なるが、豪胆公のスタイルを踏襲して作られている。

こちらが、ジャン無畏王夫妻の墓で、手前の像は、ジャン無畏公の妻で、第3代フィリップ善良公の母となるバイエルンのマーガレット(Marguerite de Bavière、1363~1424)になる。像の頭上には天使が、足元にはライオンの像が飾られている。そして、棺の周囲には、装飾柱が続く回廊内を進む、41人の喪服姿の葬列者が、白大理石で彫られており、制作には約30年間が費やされている。


こちらは、イタリア・ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠パオロ・ヴェロネーゼによる「モーセの発見」(1580年頃)で、ヴェロネーゼと彼のスタジオによる主題の他のバージョン(少なくとも8つが現存)の内の一つである。


こちらは、ディジョンの彫刻家フランソワ・リュードによる「ラマルセイエーズ」(出発の歌)とも呼ばれる「1792年の志願兵の出発」(Le Départ des volontaires de 1792)で、「パリの凱旋門」(エトワール凱旋門)の東側のファサードの右側に刻まれた石膏模型になる。作品は、1833年から1836年の間に制作されたもの。

その後、昨夜と同じ潮州城酒楼で拉面を食べて「ジュヴレ・シャンベルタン」に向かった。ジュヴレ・シャンベルタンは、ディジョンからは13キロメートルほど南にあり、途中のマルサネ・ラ・コートからは5キロメートルほどの距離である。共に「グランクリュ街道」沿いにある。
グランクリュ街道とは、38のワイン生産村を60キロメートルにわたって横断する観光ルートで、ディジョンからボーヌ手前までの「コート・ド・ニュイ地区」と、ボーヌからサントネ間の「コート・ド・ボーヌ地区」に分かれている。
ジュヴレ・シャンベルタンは、ブルゴーニュワインの王と称えられる人気と歴史あるワインで、シャンベルタン、シャンベルタン・クロ・ド・ベース、マジ・シャンベルタンなどの9区画のグラン・クリュ(特級畑)と、26区画のプルミエ・クリュ(一級畑)がある。

こちらが、ジュヴレ・シャンベルタンを代表する銘上ワインとも言われる「シャンベルタン」(13ヘクタール)で、西側への上り斜面(標高275~300メートル)に広がっている。そして、その区画の中央付近にあるのがジャック・プリウール氏の畑(0.81ヘクタール)で、石板に所有者名が刻まれている。畑には収穫時期のブドウの房がたわわに実っていた。

次に、更に5キロメートルほど南に行った「ヴージョ」(Vougeot)に到着した。大半がグラン・クリュで、そのほとんどが「クロ・ド・ヴージョ」になる。その区画の北西部の斜面には、12世紀にシトー派修道院によりルネッサンス様式で建てられた「シャトー・デュ・クロ・ド・ヴージョ」(Château du Clos de Vougeot)がある。城内には、修道士たちが携わったワイン収容のためのタンク、グランドセラーなどの設備が残されている。


シャトー・デュ・クロ・ド・ヴージョ前から、北東方面を眺めると、ワイン畑の向こうに、塔と大きな屋根の建物「シャトー・ド・ラ・トゥール」(Château de la Tou)があり、後方が、ヴージョ村になる。


続いて、ヴージョ村から2キロメートルほど南の「ヴォーヌ・ロマネ」(Vosne-Romanée)に向かった。ヴォーヌ・ロマネは、コート・ド・ニュイのアペラシオンの中でも世界最高峰の赤ワインを生み出す銘上産地の一つで、中でも、ロマネ・コンティ、ラ・ターシュ、リシュブール、ロマネ・サン・ヴィヴァン、ラ・グラン・リュ、ラ・ロマネといった偉大なグラン・クリュは、力強く濃密ながら、華やかなエレガントさを持った味わいのワインとして知られている。
ヴォーヌ・ロマネ村の中心に建つ「マルティン教会」(Church of St. Martin)の北身廊沿いの通りを西に向かうと、すぐにグラン・クリュ「ロマネ・サン・ヴィヴァン」(9.44ヘクタール)の畑が広がり始める。こちらが、その通り先の交差路から振り返った様子で、現在は、複数の生産者が所有するものの、大半はドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の所有となっている。ちなみに、先に見える尖塔が村の中心に建つマルティン教会になる。


ロマネ・サン・ヴィヴァンの西隣が、世界中で争奪戦が繰り広げられるグラン・クリュ「ロマネ・コンティ」で、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の単独所有畑となる。東向きの斜面(標高260〜275メートル)にある僅か1.81ヘクタールの畑で、ロマネ・コンティの生産本数は、年間わずか5000本程度と希少価値が高い。

こちらが、そのロマネ・コンティのブドウになる。黒ブドウ品種のピノ・ノワールで、果皮が薄く、小ぶりの果実が密集して小さな房状に実るのが特徴である。

ロマネ・コンティの北隣が希少なグラン・クリュとして知られる「リシュブール」のブドウ畑になる。畑の総面積は8.03ヘクタールで、ヴォーヌ・ロマネの中ではロマネ・サン・ヴィヴァンに次いで2番目の広さを誇っており、やはり複数の所有者がいる。こちらもロマネ・コンティと同じ、東向きの斜面(標高260〜280メートル)に畑が広がっている。

ヴォーヌ・ロマネから、南に20キロメートル先のボーヌを過ぎ、更に16キロメートルほど南にある「シャニー」(Chagny)に到着した。シャニーは、コート・ド・ボーヌ地区にあるアペラシオンで、今夜は、そのボーヌのアルム広場沿いにある星付きレストラン「ラムロワーズ」(Lameloise)で食事をすることにしている。

今夜宿泊するホテルは、レストランに向かって左の通りを南に100メートル行った先にある「ホテル ドゥ ラ フェルテ」(Hôtel de la Ferté)と近いことから、ゆっくり食事することができる。
ラムロワーズは、1926年からミシュランの星を得ており、初代ピエール、2代ジャン、そして3代のジャック・ラムロワーズ(Jacques Lameloise)と営業を続けているブルゴーニュを代表する名店である。サービスも料理も一級品との評判で、シェフの手腕が光る洗練されたブルゴーニュ料理を堪能できる。ワインは、ボーヌ近郊でシャニーとの間にあるポマール・プルミエ・クリュ・グラン・ゼプノを頼んだ。
アヴァン・アミューズとして3つのピンチョス、アミューズとして栗とオマールのムースが提供され、前菜は、ブルゴーニュの前菜の王様ジャンボン・ペルシエで、周りの繊細で華やかな盛り付けも食欲をそそる一品である。

こちらは、メインコースの魚になる。厚みがあり新鮮な白身魚(ヒメジ)で、濃厚なソースとの絡みが絶妙である。

デザートは「デセールコース」で、トールグラスにイチゴのアイスクリームが入ったアヴァンデセールを皮切りに、ボリュームのあるグランデセールが登場する。そして最期のミニャルディーズ(マカロン、チョコなど)は、多すぎるので持ち帰りにした。

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シャニーから、西に40キロメートルに位置するソーヌ・エ・ロワール県オータン(Autun)に向かい、街の東側にあるヴァロン湖沿いの市民公園に到着した。周囲には、ゴルフ場や乗馬教室などスポーツ施設が点在している。これから街の中心に聳え立つ「サン・ラザール大聖堂」(Saint-Lazare d'Autun)(高さ80メートルの尖塔)に向かう。


サン・ラザール大聖堂は、マグダラのマリアの兄弟で、キリストが蘇生させた聖ラザロに捧げられている。 12世紀に建造されたが、15世紀の塔の再建や、後の増改築があるなどロマネスクとゴシック様式が混在している。北北西方向に向いたファサードには二本の鐘楼があり、その中央真下の階段を上った先にポータルがある。そのポータルのティンパヌム(タンパン)に刻まれた「最後の審判」が、代表的な見所の一つである。


マンドルラのキリストを中心に、向かって左側に、天国へ案内する鍵を持つ聖ペテロ、そして聖母マリアが、右側では、ミカエルにより魂の計量が行われている。そして、そのキリストの足元には「ギスレベルトゥス(Gislebert、Gislebertus)はこれを作った」と刻まれている。最下部のまぐさには最後の審判を待つ魂が表現され、外側の30のメダリオンには黄道十二宮と月々の仕事が刻まれている。
ギスレベルトゥスとは、ブルゴーニュで活躍した彫刻家で、1115年頃、最初に彫刻家主人の主任補佐として、クリュニー修道院の装飾に関わり、その後、ヴェズレー修道院の柱廊玄関の上にあったティンパヌムを制作したとされる。彼の作品は、生の感情を捉えるなど人物表現が豊かで想像力に富んでおり、中でも代表作と言われるのが、サン・ラザール大聖堂以前のサン・ナゼール大聖堂(1130年頃まで)の東門のまぐさに飾られていた「イブの誘惑」で、現在はオータンのロラン美術館にある。
チャプターハウス(参事会室)には、約30の柱頭彫刻が壁に飾られており、これらの柱頭彫刻も、ギスレベルトゥスによるものと言われロマネスクの柱頭彫刻の傑作と言われている。こちらの壁には、左から右へ「マギの礼拝」、「マギへの夢のお告げ」、「エジプトへの逃避」と飾られている。マギの礼拝とは、3人のマギ(博士)が、誕生したばかりの幼児キリストに礼拝して贈り物を渡す聖書の逸話である。

「マギへの夢のお告げ」とは、礼拝を終えて眠ったマギに天使が現れ、ヘロデ王に幼児キリストが生まれた場所を告げずに故郷に戻るように伝える逸話で、こちらの作品では、一つの布団で寝ている3人のマギの内、天使が指に触れたマギだけが目を開けている。


次の「エジプトへの避難」とは、ヘロデ王が、マギが報告のために戻らなかったことに怒り、キリストと同時期に生まれた幼児たちを皆殺しにさせるものの、父親のヨセフが夢のお告げでそのことを知り、幼児とマリアを驢馬に乗せてエジプトに逃れる逸話である。こちらの作品では、幼児とマリアは無垢な表情をしているが、剣を担いで驢馬の手綱を引くヨセフは苦悶の表情をしている。


その後、ヴァロン湖の西側にある「ローマ劇場」を見学した。直径148メートル、最大20,000人を収容できる、ローマ帝国の西部で最大の収容人数を誇っていた。オータンは、ローマ皇帝アウグストゥスに因んだ「アウグストドゥヌム」と呼ばれており、ローマ劇場の遺構は、その時代の代表的な建造物の一つである。観客席は、西側にある舞台の周囲を半円形に取り囲んでいる。


なお、ローマ劇場の北隣には、円形劇場があったが17世紀以前に採石場として使用され、完全に失われている。
オータン観光後は、シャニーの北側のボーヌに向けて東に戻ったが、シャニー方面との交差点(ラウンドアバウト)を過ぎた先にある「ロシュポ城」(Château de La Rochepot)(ボーヌまで15キロメートル地点)に立ち寄った。城は正面の小高い山に建っており、街道からは左側の坂道を進み、教会を過ぎるとすぐである。駐車場から細い坂道を上っていくと「跳ね橋」を備えた城門が現われる。

城内に入ると、中庭に到着し、錬鉄製のウインチのある井戸や、ブルゴーニュ特有のガラス張りの瓦屋根の建物を眺めることができる。現在の城は、1180年、ブルゴーニュの領主ドモンタギューアレクサンダー(1170~1205)時代を基礎とし、15世紀にネオゴシック・ブルゴーニュ様式で再建され、19世紀に、ガラス張りのバーガンディタイルで修復されている。


城内には、12世紀の礼拝堂、衛兵隊長の部屋、15世紀のクロスボウなどがある衛兵室などがある。また、フランスの軍人で物理学者サディ・カルノー(1796~1832)に贈られた中国部屋がある。右端の建物は、キッチン、ダイニングルームで、その右隣の敷地はテラスとなり、南側に広がるロシュボの街並みが一望でき、右側には、先ほど通り過ぎたサン ジョルジュ教会(Church of Saint George)が見える。


その後、ボーヌに到着し、夕食をレストラン「L'Écusson」で頂いた。中心部から南東方面に延びるショッピングストリート、フォブール・マドレーヌ通りを200メートル行ったラウンドアバウト沿いにある。ワインは、ボーヌのすぐ北に位置するプルミエ・クリュ「サヴィニィ・レ・ボーヌ」(Savigny les Beaune)を頼んだ。

美味しかったが、ボリュームがあり前菜で既に満足感があった。料理の提供がとてつもなくスローペースで、睡魔との戦いにもなり、デザートのころには深夜となっていた。

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ボーヌでは「ボーヌのホスピス」(Hospices de Beaune、Hôtel-Dieu de Beaune)を見学した。1443年にブルゴーニュ公フィリップ善良公の宰相ニコラ・ロラン(Nicolas Rolin)により貧者への医療救済を目的としてに建てられた施療院で、フランスでは、オテル・デュー(Hôtel-Dieu、「神の宿」の意)とも呼ばれている。


石造りの中庭を囲むように配置された2階建ての建物で構成され、事務室、厨房、薬局の機能を果たすようにそれぞれの棟ごとに配置されている。中でも、建物の翼はよく保存されている。見所はハーフティンバーの細長い広間と屋根から突き出した切妻の小屋根付き窓(ドーマー窓)のある華やかなモザイク模様の瓦屋根である。
こちらが、貧者のための病室でカーテン付きのベッドが2列に配置されている。大きさは50×14×16メートルで、中央エリアには食事用のベンチとテーブルが設置されていた。家具類は1875年に建築家ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュクの義理の息子によって集められた。天井には、塗装が剥き出しになったフレームが逆さまの舟形になっている。

壁には患者たちを見守る様に、十字架や、キリストの受難などが飾られている。

初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden、1400頃~1464)による多翼祭壇画「最後の審判」がある。9つの塗装されたオーク材パネルに、長方形の可動シャッターを備えた多翼祭壇画で、閉じると6枚になる。展示は開いた状態でされている。ファン・デル・ウェイデンは、祭壇画はもちろん、肖像画も得意としており、ブルゴーニュ公第3代フィリップ善良公を始め、ネーデルラントの貴族、諸外国の王侯貴族から依頼を受けている。

以上で、ブルゴーニュ地方を離れ、A6号線で150キロメートルほど南下してフランス第二の都市規模を持つリヨンに向かった。首都パリからは南東方向に直線距離で393メートルに位置している。リヨンは、商業都市で古くから金融業が盛んで、今も多くのフランスの銀行本店が置かれている。街は、東から南に流れ込むローヌ川と、更に500メートル先を北から南に流れ込むソーヌ川(Saône)とが南で合流するまでの中洲エリアを中心に形成されており、宿泊は、ローヌ川沿いにあるソフィテル リヨン ベルクール(Hôtel Sofitel Lyon Bellecour)に、スーペリアリバービュールームでチェックインをした。
夜はリヨン市内から北に8キロメートルほど遡ったソーヌ川左岸のコロンジュ・オ・モン・ドールにある「ポールボキューズ」(Restaurant Paul Bocuse)で食事をした。ポールボキューズは、世界中の美食家を魅了してやまない名店で、1959年から生家のレストランを継いで、1965年以降は「ミシュランガイド」で三つ星を獲得し続けている。また1970年代に提唱されたヌーベルキュイジーヌの創始者の一人と言われている。

カラフルでユニークなレストランの外観に対し、店内は対照的にシックで高級感のある雰囲気となっている。壁には、著名人とポールボキューズ氏との歓談写真などがかけられ、いくつかあるブラウン系の家具の上には、卓上シャンデリアランプ、景徳鎮の花瓶、トナカイや少女のブロンズ像などが飾られている。席に案内されてしばらくすると、ポールボキューズ氏本人が全てのテーブルを回って、一緒に写真を撮ってくれる。
こちらが、前菜となる「フォアグラのテリーヌとキャビアのゼリー寄せ」になる。

そして「黒トリュフ・スープのパイ包み焼き」で、パイを外した様子。ポールボキューズが1975年にレジオン・ド・ヌール勲章を料理人として初めて受章した後、フランスの第20代大統領ジスカール・デスタンが参加する餐会で振る舞った品になる。当時、参列者が絶賛したとされる一品である。

そしてメインの「帆立のコキーユ」になる。料理は、丁寧に彩色された油彩画の芸術作品の様で、しばらく鑑賞してしまうほど。ホタテの焼き具合は、柔らかさとカリカリ感の2つの触感が素晴らしく、ソースとの相性も完璧である。

最後に、アヴァンデセールを頂き、グランデセールで終了した。過剰なサービスや干渉はなく、落ち着いた雰囲気の中、ゆっくりと食事を楽しむことができた。まさに王道のフランス料理と言った感じで良かった。
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翌日は、リヨン市内を見学し、昼には、ソーヌ川沿いのバー(ブヴェット・ボナパルト、Buvette Bonapart)で生牡蛎を食べ、その後、フルヴィエールの丘に築かれた古代ローマ時代の「円形劇場」の址に向かった。観客席は、丘の斜面を利用して作られており、後部座席からは、リヨンの街並みが一望できる。

次に、円形劇場から、北側に緩やかにカーブする坂道を進むと、フルヴィエールの丘の頂上に建つ、「フルヴィエール大聖堂」に到着する。大聖堂は、1872年から1896年にかけ、ピエール・ボッサン(Pierre Bossan)により、ロマネスク建築とビザンチン建築の2つの建築様式で建てられた。リヨンの街のいたるところから眺めることができ、現在ではリヨンの街の象徴となっている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
大聖堂は、主要な塔を4基備えた大教会堂と、鐘楼を1基備えた(最上部に金色の聖母マリア像を頂いている)小教会堂との2つの教会堂から成り立っている。大教会堂は、建物が象の体に似ており、4基の塔が足のように見えることから、地元で「逆さまの象」というニックネームが付けられている。
聖堂内は、モザイクが施され、美しいステンドグラスや使徒ヨハネのクリプトなどがある。


大教会堂の4基の塔の内、北東角の塔には螺旋階段で上ることができ、その展望台から後陣頂部に飾られた「大天使聖ミカエル像」を通してリヨンの街並みを一望することができた。

夜は、宿泊ホテルのソフィテル リヨン ベルクールから、北に250メートルほどの距離にある、ボキューズ氏プロデュースのブラスリーの一つ「ル・シュッド」(Brasserie Le Sud)で食事をした。料理も雰囲気も良かったが、本店に行った翌日だったため、どうしても差を感じてしまった。

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そして、翌朝「リヨン・ペラーシュ駅(Lyon Perrache)」からTGVに乗り、パリ・シャルル・ド・ゴール空港から上海経由で、日本(成田)に帰国した。
(2004.9.23~9.27)