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カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・ブルゴーニュ(その2)

2013-02-09 | フランス(ブルゴーニュ)
こちらは、コート・ドール県の県都ディジョンの中心部にある「フランソワ・リュード広場」(Place François Rude)で、ディジョン出身の彫刻家フランソワ・リュード(1784~1855)に因んで名付けられている。広場の中心には、ブルゴーニュ地方らしく、ブドウの葉をまといブドウを踏む葡萄狩りの様子を表現した寓意像「バレウザイの噴水」が飾られている。


広場からは、多くの通りが周囲に延びており、その中の一つ、東側に建つハーフティンバー(木骨造り)の家「オー・ムーラン・ア・ヴァン」(1904年再建)に向かって右側から延びる「フォルジュ通り」を歩いていく。すると、すぐに前方右側に「ブルゴーニュ公宮殿」(Palais des Ducs et des États de Bourgogne)と「フィリップ善良公の塔」が見えてくる。
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ブルゴーニュ公宮殿は、ディジョンを首都としたブルゴーニュ公国の宮殿で、もともと5世紀にゲルマン民族ブルグンド王国のあった地域を治めたフランス最大の大領主を始祖としている。そして、百年戦争を契機に、ヴァロワ朝第2代国王ジャン(在位:1350~1364)の末子フィリップ豪胆公が、中世フランス最大の封建領主として、初代ブルゴーニュ公(在位:1363~1404)を拝領している。

その後、第2代ジャン無怖公(無畏公)(在位:1404~1419)、第3代フィリップ善良公(在位:1419~1467)時代には、ヴァロワ朝と対立するイギリスとの協調や中立策をとるなどして勢力が衰えたが、第4代シャルル突進公(在位:1467~1477)時代に大ブルゴーニュ公領となっている。

公宮殿前から左折して北に進むと、右側に「ノートルダム・ド・ディジョン教会」(Église Notre-Dame de Dijon)が現れる。およそ1220年代から1250年代にかけて建てられたゴシック建築の傑作である。交差部には、高さ74.4メートルのランタンタワーがあり、西側のファサードに向かって右側(南塔)には、4つの金属製のオートマタ(機械仕掛けでハンマーで叩き、時を知らせる)を備えた鐘楼が聳えている。
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その西側ファサードは、高さ28.6メートルあり、1階は奥行のある3つのアーケードで構成されている。そして、上部は2層に分かれ、それぞれアカンサス文様の柱頭と人物、動物が施された17本の小さな柱が、メトープとガーゴイル(キメラ)で飾られたコーニスを支えている。

ガーゴイルは、人間、動物、怪物などで表現され、1列に17×3段の計51が装飾されている。これらは、修復工事が行われて1880年代前半に、パリの彫刻家7人により制作されたもの。もともとガーゴイルは、雨水を排出するための樋だが、こちらは実用性がなく装飾的なものとなっている。ちなみに教会の側溝の壁と後陣には本物のガーゴイルがある。
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教会内は、12世紀にさかのぼる木造の聖母像や、数多くの教会を手掛けたパリのガラス画家エドゥアール・ディドロン(1836~1902)によるステンドグラスなどが見どころである。

教会の北側身廊沿いの礼拝堂のバットレスには、大人の身長ほどの高さに直径30センチメートルの「フクロウ」の浮彫が施されており、観光名所となっている。フランス革命以前の教会写本に鳥の彫刻についての言及があるものの、由来は不明とのこと。丸みを帯びたフクロウは、触られ続け摩耗している。


次に、ブルゴーニュ公宮殿の南側のリベラシオン広場(解放広場)にやってきた。こちらからも見える「フィリップ善良公の塔」は、1450年から1460年にかけて建築家ジャン・ポンスレによって、ブランシオン(12世紀)と呼ばれる古い塔の上に建てられたもので、6階建て高さ46メートルあり、頂上テラスからはディジョンのパノラマビューを楽しむことができる。


塔の下が、公国宮殿の南ファサードになり、左右には、手前に伸びる豪華な両翼が備わっている。大半が17世紀から18世紀に古典様式で改築されたもので、現在、宮殿には、ディジョンの市庁舎、市立公文書館、観光案内所、ディジョン美術館などが入居している。これから、右翼の右奥に続く「ディジョン美術館」(Musée des beaux-arts de Dijon)の見学に向かう。
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ディジョン美術館の代表的な見どころの一つとして「衛兵の間」があり、奥にフィリップ豪胆公、手前にジャン無畏王夫妻の2代大公の墓が並んでいる。フィリップ豪胆公の墓は、当時、ヨーロッパ北方で、最も重要な彫刻家の一人、オランダ人クラウス・スリューテル (Claus Sluter、1340頃~1406)が手掛けたもの。彼はブリュッセルで活動したが、後に、ブルゴーニュ公国の首都ディジョンに移って、ブルゴーニュ公フィリップ2世の宮廷彫刻家として活躍している。ジャン無畏王夫妻のお墓は、制作者は異なるが、豪胆公のスタイルを踏襲して作られている。


こちらが、ジャン無畏王夫妻の墓で、手前の像は、ジャン無畏公の妻で、第3代フィリップ善良公の母となるバイエルンのマーガレット(Marguerite de Bavière、1363~1424)になる。像の頭上には天使が、足元にはライオンの像が飾られている。そして、棺の周囲には、装飾柱が続く回廊内を進む、41人の喪服姿の葬列者が、白大理石で彫られており、制作には約30年間が費やされている。
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こちらは、イタリア・ルネサンスのヴェネツィア派の巨匠パオロ・ヴェロネーゼによる「モーセの発見」(1580年頃)で、ヴェロネーゼと彼のスタジオによる主題の他のバージョン(少なくとも8つが現存)の内の一つである。
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こちらは、ディジョンの彫刻家フランソワ・リュードによる「ラマルセイエーズ」(出発の歌)とも呼ばれる「1792年の志願兵の出発」(Le Départ des volontaires de 1792)で、「パリの凱旋門」(エトワール凱旋門)の東側のファサードの右側に刻まれた石膏模型になる。作品は、1833年から1836年の間に制作されたもの。


その後、昨夜と同じ潮州城酒楼で拉面を食べて「ジュヴレ・シャンベルタン」に向かった。ジュヴレ・シャンベルタンは、ディジョンからは13キロメートルほど南にあり、途中のマルサネ・ラ・コートからは5キロメートルほどの距離である。共に「グランクリュ街道」沿いにある。

グランクリュ街道とは、38のワイン生産村を60キロメートルにわたって横断する観光ルートで、ディジョンからボーヌ手前までの「コート・ド・ニュイ地区」と、ボーヌからサントネ間の「コート・ド・ボーヌ地区」に分かれている。

ジュヴレ・シャンベルタンは、ブルゴーニュワインの王と称えられる人気と歴史あるワインで、シャンベルタン、シャンベルタン・クロ・ド・ベース、マジ・シャンベルタンなどの9区画のグラン・クリュ(特級畑)と、26区画のプルミエ・クリュ(一級畑)がある。


こちらが、ジュヴレ・シャンベルタンを代表する銘上ワインとも言われる「シャンベルタン」(13ヘクタール)で、西側への上り斜面(標高275~300メートル)に広がっている。そして、その区画の中央付近にあるのがジャック・プリウール氏の畑(0.81ヘクタール)で、石板に所有者名が刻まれている。畑には収穫時期のブドウの房がたわわに実っていた。


次に、更に5キロメートルほど南に行った「ヴージョ」(Vougeot)に到着した。大半がグラン・クリュで、そのほとんどが「クロ・ド・ヴージョ」になる。その区画の北西部の斜面には、12世紀にシトー派修道院によりルネッサンス様式で建てられた「シャトー・デュ・クロ・ド・ヴージョ」(Château du Clos de Vougeot)がある。城内には、修道士たちが携わったワイン収容のためのタンク、グランドセラーなどの設備が残されている。
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シャトー・デュ・クロ・ド・ヴージョ前から、北東方面を眺めると、ワイン畑の向こうに、塔と大きな屋根の建物「シャトー・ド・ラ・トゥール」(Château de la Tou)があり、後方が、ヴージョ村になる。
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続いて、ヴージョ村から2キロメートルほど南の「ヴォーヌ・ロマネ」(Vosne-Romanée)に向かった。ヴォーヌ・ロマネは、コート・ド・ニュイのアペラシオンの中でも世界最高峰の赤ワインを生み出す銘上産地の一つで、中でも、ロマネ・コンティ、ラ・ターシュ、リシュブール、ロマネ・サン・ヴィヴァン、ラ・グラン・リュ、ラ・ロマネといった偉大なグラン・クリュは、力強く濃密ながら、華やかなエレガントさを持った味わいのワインとして知られている。

ヴォーヌ・ロマネ村の中心に建つ「マルティン教会」(Church of St. Martin)の北身廊沿いの通りを西に向かうと、すぐにグラン・クリュ「ロマネ・サン・ヴィヴァン」(9.44ヘクタール)の畑が広がり始める。こちらが、その通り先の交差路から振り返った様子で、現在は、複数の生産者が所有するものの、大半はドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の所有となっている。ちなみに、先に見える尖塔が村の中心に建つマルティン教会になる。
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ロマネ・サン・ヴィヴァンの西隣が、世界中で争奪戦が繰り広げられるグラン・クリュ「ロマネ・コンティ」で、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の単独所有畑となる。東向きの斜面(標高260〜275メートル)にある僅か1.81ヘクタールの畑で、ロマネ・コンティの生産本数は、年間わずか5000本程度と希少価値が高い。


こちらが、そのロマネ・コンティのブドウになる。黒ブドウ品種のピノ・ノワールで、果皮が薄く、小ぶりの果実が密集して小さな房状に実るのが特徴である。


ロマネ・コンティの北隣が希少なグラン・クリュとして知られる「リシュブール」のブドウ畑になる。畑の総面積は8.03ヘクタールで、ヴォーヌ・ロマネの中ではロマネ・サン・ヴィヴァンに次いで2番目の広さを誇っており、やはり複数の所有者がいる。こちらもロマネ・コンティと同じ、東向きの斜面(標高260〜280メートル)に畑が広がっている。


ヴォーヌ・ロマネから、南に20キロメートル先のボーヌを過ぎ、更に16キロメートルほど南にある「シャニー」(Chagny)に到着した。シャニーは、コート・ド・ボーヌ地区にあるアペラシオンで、今夜は、そのボーヌのアルム広場沿いにある星付きレストラン「ラムロワーズ」(Lameloise)で食事をすることにしている。


今夜宿泊するホテルは、レストランに向かって左の通りを南に100メートル行った先にある「ホテル ドゥ ラ フェルテ」(Hôtel de la Ferté)と近いことから、ゆっくり食事することができる。

ラムロワーズは、1926年からミシュランの星を得ており、初代ピエール、2代ジャン、そして3代のジャック・ラムロワーズ(Jacques Lameloise)と営業を続けているブルゴーニュを代表する名店である。サービスも料理も一級品との評判で、シェフの手腕が光る洗練されたブルゴーニュ料理を堪能できる。ワインは、ボーヌ近郊でシャニーとの間にあるポマール・プルミエ・クリュ・グラン・ゼプノを頼んだ。

アヴァン・アミューズとして3つのピンチョス、アミューズとして栗とオマールのムースが提供され、前菜は、ブルゴーニュの前菜の王様ジャンボン・ペルシエで、周りの繊細で華やかな盛り付けも食欲をそそる一品である。


こちらは、メインコースの魚になる。厚みがあり新鮮な白身魚(ヒメジ)で、濃厚なソースとの絡みが絶妙である。


デザートは「デセールコース」で、トールグラスにイチゴのアイスクリームが入ったアヴァンデセールを皮切りに、ボリュームのあるグランデセールが登場する。そして最期のミニャルディーズ(マカロン、チョコなど)は、多すぎるので持ち帰りにした。


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シャニーから、西に40キロメートルに位置するソーヌ・エ・ロワール県オータン(Autun)に向かい、街の東側にあるヴァロン湖沿いの市民公園に到着した。周囲には、ゴルフ場や乗馬教室などスポーツ施設が点在している。これから街の中心に聳え立つ「サン・ラザール大聖堂」(Saint-Lazare d'Autun)(高さ80メートルの尖塔)に向かう。
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サン・ラザール大聖堂は、マグダラのマリアの兄弟で、キリストが蘇生させた聖ラザロに捧げられている。 12世紀に建造されたが、15世紀の塔の再建や、後の増改築があるなどロマネスクとゴシック様式が混在している。北北西方向に向いたファサードには二本の鐘楼があり、その中央真下の階段を上った先にポータルがある。そのポータルのティンパヌム(タンパン)に刻まれた「最後の審判」が、代表的な見所の一つである。
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マンドルラのキリストを中心に、向かって左側に、天国へ案内する鍵を持つ聖ペテロ、そして聖母マリアが、右側では、ミカエルにより魂の計量が行われている。そして、そのキリストの足元には「ギスレベルトゥス(Gislebert、Gislebertus)はこれを作った」と刻まれている。最下部のまぐさには最後の審判を待つ魂が表現され、外側の30のメダリオンには黄道十二宮と月々の仕事が刻まれている。

ギスレベルトゥスとは、ブルゴーニュで活躍した彫刻家で、1115年頃、最初に彫刻家主人の主任補佐として、クリュニー修道院の装飾に関わり、その後、ヴェズレー修道院の柱廊玄関の上にあったティンパヌムを制作したとされる。彼の作品は、生の感情を捉えるなど人物表現が豊かで想像力に富んでおり、中でも代表作と言われるのが、サン・ラザール大聖堂以前のサン・ナゼール大聖堂(1130年頃まで)の東門のまぐさに飾られていた「イブの誘惑」で、現在はオータンのロラン美術館にある。

チャプターハウス(参事会室)には、約30の柱頭彫刻が壁に飾られており、これらの柱頭彫刻も、ギスレベルトゥスによるものと言われロマネスクの柱頭彫刻の傑作と言われている。こちらの壁には、左から右へ「マギの礼拝」、「マギへの夢のお告げ」、「エジプトへの逃避」と飾られている。マギの礼拝とは、3人のマギ(博士)が、誕生したばかりの幼児キリストに礼拝して贈り物を渡す聖書の逸話である。


「マギへの夢のお告げ」とは、礼拝を終えて眠ったマギに天使が現れ、ヘロデ王に幼児キリストが生まれた場所を告げずに故郷に戻るように伝える逸話で、こちらの作品では、一つの布団で寝ている3人のマギの内、天使が指に触れたマギだけが目を開けている。
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次の「エジプトへの避難」とは、ヘロデ王が、マギが報告のために戻らなかったことに怒り、キリストと同時期に生まれた幼児たちを皆殺しにさせるものの、父親のヨセフが夢のお告げでそのことを知り、幼児とマリアを驢馬に乗せてエジプトに逃れる逸話である。こちらの作品では、幼児とマリアは無垢な表情をしているが、剣を担いで驢馬の手綱を引くヨセフは苦悶の表情をしている。
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その後、ヴァロン湖の西側にある「ローマ劇場」を見学した。直径148メートル、最大20,000人を収容できる、ローマ帝国の西部で最大の収容人数を誇っていた。オータンは、ローマ皇帝アウグストゥスに因んだ「アウグストドゥヌム」と呼ばれており、ローマ劇場の遺構は、その時代の代表的な建造物の一つである。観客席は、西側にある舞台の周囲を半円形に取り囲んでいる。
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なお、ローマ劇場の北隣には、円形劇場があったが17世紀以前に採石場として使用され、完全に失われている。

オータン観光後は、シャニーの北側のボーヌに向けて東に戻ったが、シャニー方面との交差点(ラウンドアバウト)を過ぎた先にある「ロシュポ城」(Château de La Rochepot)(ボーヌまで15キロメートル地点)に立ち寄った。城は正面の小高い山に建っており、街道からは左側の坂道を進み、教会を過ぎるとすぐである。駐車場から細い坂道を上っていくと「跳ね橋」を備えた城門が現われる。


城内に入ると、中庭に到着し、錬鉄製のウインチのある井戸や、ブルゴーニュ特有のガラス張りの瓦屋根の建物を眺めることができる。現在の城は、1180年、ブルゴーニュの領主ドモンタギューアレクサンダー(1170~1205)時代を基礎とし、15世紀にネオゴシック・ブルゴーニュ様式で再建され、19世紀に、ガラス張りのバーガンディタイルで修復されている。
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城内には、12世紀の礼拝堂、衛兵隊長の部屋、15世紀のクロスボウなどがある衛兵室などがある。また、フランスの軍人で物理学者サディ・カルノー(1796~1832)に贈られた中国部屋がある。右端の建物は、キッチン、ダイニングルームで、その右隣の敷地はテラスとなり、南側に広がるロシュボの街並みが一望でき、右側には、先ほど通り過ぎたサン ジョルジュ教会(Church of Saint George)が見える。
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その後、ボーヌに到着し、夕食をレストラン「L'Écusson」で頂いた。中心部から南東方面に延びるショッピングストリート、フォブール・マドレーヌ通りを200メートル行ったラウンドアバウト沿いにある。ワインは、ボーヌのすぐ北に位置するプルミエ・クリュ「サヴィニィ・レ・ボーヌ」(Savigny les Beaune)を頼んだ。


美味しかったが、ボリュームがあり前菜で既に満足感があった。料理の提供がとてつもなくスローペースで、睡魔との戦いにもなり、デザートのころには深夜となっていた。


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ボーヌでは「ボーヌのホスピス」(Hospices de Beaune、Hôtel-Dieu de Beaune)を見学した。1443年にブルゴーニュ公フィリップ善良公の宰相ニコラ・ロラン(Nicolas Rolin)により貧者への医療救済を目的としてに建てられた施療院で、フランスでは、オテル・デュー(Hôtel-Dieu、「神の宿」の意)とも呼ばれている。
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石造りの中庭を囲むように配置された2階建ての建物で構成され、事務室、厨房、薬局の機能を果たすようにそれぞれの棟ごとに配置されている。中でも、建物の翼はよく保存されている。見所はハーフティンバーの細長い広間と屋根から突き出した切妻の小屋根付き窓(ドーマー窓)のある華やかなモザイク模様の瓦屋根である。

こちらが、貧者のための病室でカーテン付きのベッドが2列に配置されている。大きさは50×14×16メートルで、中央エリアには食事用のベンチとテーブルが設置されていた。家具類は1875年に建築家ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュクの義理の息子によって集められた。天井には、塗装が剥き出しになったフレームが逆さまの舟形になっている。


壁には患者たちを見守る様に、十字架や、キリストの受難などが飾られている。


初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden、1400頃~1464)による多翼祭壇画「最後の審判」がある。9つの塗装されたオーク材パネルに、長方形の可動シャッターを備えた多翼祭壇画で、閉じると6枚になる。展示は開いた状態でされている。ファン・デル・ウェイデンは、祭壇画はもちろん、肖像画も得意としており、ブルゴーニュ公第3代フィリップ善良公を始め、ネーデルラントの貴族、諸外国の王侯貴族から依頼を受けている。


以上で、ブルゴーニュ地方を離れ、A6号線で150キロメートルほど南下してフランス第二の都市規模を持つリヨンに向かった。首都パリからは南東方向に直線距離で393メートルに位置している。リヨンは、商業都市で古くから金融業が盛んで、今も多くのフランスの銀行本店が置かれている。街は、東から南に流れ込むローヌ川と、更に500メートル先を北から南に流れ込むソーヌ川(Saône)とが南で合流するまでの中洲エリアを中心に形成されており、宿泊は、ローヌ川沿いにあるソフィテル リヨン ベルクール(Hôtel Sofitel Lyon Bellecour)に、スーペリアリバービュールームでチェックインをした。

夜はリヨン市内から北に8キロメートルほど遡ったソーヌ川左岸のコロンジュ・オ・モン・ドールにある「ポールボキューズ」(Restaurant Paul Bocuse)で食事をした。ポールボキューズは、世界中の美食家を魅了してやまない名店で、1959年から生家のレストランを継いで、1965年以降は「ミシュランガイド」で三つ星を獲得し続けている。また1970年代に提唱されたヌーベルキュイジーヌの創始者の一人と言われている。


カラフルでユニークなレストランの外観に対し、店内は対照的にシックで高級感のある雰囲気となっている。壁には、著名人とポールボキューズ氏との歓談写真などがかけられ、いくつかあるブラウン系の家具の上には、卓上シャンデリアランプ、景徳鎮の花瓶、トナカイや少女のブロンズ像などが飾られている。席に案内されてしばらくすると、ポールボキューズ氏本人が全てのテーブルを回って、一緒に写真を撮ってくれる。

こちらが、前菜となる「フォアグラのテリーヌとキャビアのゼリー寄せ」になる。


そして「黒トリュフ・スープのパイ包み焼き」で、パイを外した様子。ポールボキューズが1975年にレジオン・ド・ヌール勲章を料理人として初めて受章した後、フランスの第20代大統領ジスカール・デスタンが参加する餐会で振る舞った品になる。当時、参列者が絶賛したとされる一品である。


そしてメインの「帆立のコキーユ」になる。料理は、丁寧に彩色された油彩画の芸術作品の様で、しばらく鑑賞してしまうほど。ホタテの焼き具合は、柔らかさとカリカリ感の2つの触感が素晴らしく、ソースとの相性も完璧である。


最後に、アヴァンデセールを頂き、グランデセールで終了した。過剰なサービスや干渉はなく、落ち着いた雰囲気の中、ゆっくりと食事を楽しむことができた。まさに王道のフランス料理と言った感じで良かった。

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翌日は、リヨン市内を見学し、昼には、ソーヌ川沿いのバー(ブヴェット・ボナパルト、Buvette Bonapart)で生牡蛎を食べ、その後、フルヴィエールの丘に築かれた古代ローマ時代の「円形劇場」の址に向かった。観客席は、丘の斜面を利用して作られており、後部座席からは、リヨンの街並みが一望できる。


次に、円形劇場から、北側に緩やかにカーブする坂道を進むと、フルヴィエールの丘の頂上に建つ、「フルヴィエール大聖堂」に到着する。大聖堂は、1872年から1896年にかけ、ピエール・ボッサン(Pierre Bossan)により、ロマネスク建築とビザンチン建築の2つの建築様式で建てられた。リヨンの街のいたるところから眺めることができ、現在ではリヨンの街の象徴となっている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

大聖堂は、主要な塔を4基備えた大教会堂と、鐘楼を1基備えた(最上部に金色の聖母マリア像を頂いている)小教会堂との2つの教会堂から成り立っている。大教会堂は、建物が象の体に似ており、4基の塔が足のように見えることから、地元で「逆さまの象」というニックネームが付けられている。

聖堂内は、モザイクが施され、美しいステンドグラスや使徒ヨハネのクリプトなどがある。
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大教会堂の4基の塔の内、北東角の塔には螺旋階段で上ることができ、その展望台から後陣頂部に飾られた「大天使聖ミカエル像」を通してリヨンの街並みを一望することができた。


夜は、宿泊ホテルのソフィテル リヨン ベルクールから、北に250メートルほどの距離にある、ボキューズ氏プロデュースのブラスリーの一つ「ル・シュッド」(Brasserie Le Sud)で食事をした。料理も雰囲気も良かったが、本店に行った翌日だったため、どうしても差を感じてしまった。


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そして、翌朝「リヨン・ペラーシュ駅(Lyon Perrache)」からTGVに乗り、パリ・シャルル・ド・ゴール空港から上海経由で、日本(成田)に帰国した。
(2004.9.23~9.27)
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フランス・ブルゴーニュ(その1)

2013-02-08 | フランス(ブルゴーニュ)
こちらはシャンゼリゼ通りから見上げる「パリの凱旋門」(エトワール凱旋門)(Arc de triomphe de l'Étoile)で、ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)の戦勝記念碑として建てられた(1806年着工、1836年完成)。エトワールは「星」の意味で、これは12本の通りが放射状に延び、上空から星の形に見えることから名付けられている。この日は、早朝にパリに到着し、ルーヴル美術館(Musée du Louvre)を訪れ、夕食を食べ終わった午後8時頃にやってきた。


今回、パリには3泊4日滞在している。2日目は、午前中に「オルセー美術館」に行き、午後にはシテ島に移動し、最高裁判所(パレ・ド・ジュスティス)にある「サント・シャペル」(Sainte chapelle)でパリ最古のステンドグラスを見学し、セーヌ川の南側にある「クリュニー中世美術館」で、15世紀末のフランドルで織られた6枚の連作タピスリー「貴婦人と一角獣」を見学した。そして夜にはパリ・オペラ座(ガルニエ宮)でバレエを鑑賞して一日を終えた。

3日目は、ミュージアムパスを利用して、再び「ルーヴル美術館」にオープンと同時に訪れた。一番の目的である「モナ・リザ」をゆっくり鑑賞できたのは良かった。そして終日ルーヴル美術館で過ごした。


滞在中の食事は、ムール貝が堪能できるチェーン店「レオン」(Léon)、デュパン通りにあるビストロ「レピ デュパン」(L'Epi Dupin)、パッシー駅近くのベートーヴェン通り沿いのフレンチ「アストランス」(Restaurant Astrance in Paris)などで頂いた。

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そして、パリ滞在の4日目の朝、パリ南部近郊の「フォンテーヌブロー」(Fontainebleau)に向けて、車で出発した。フォンテーヌブローは、首都パリを中心としたイル・ド・フランス地域圏セーヌ・エ・マルヌ県に属する基礎自治体(コミューン)で、南に延びるオートルート(高速道路)A6号線を45キロメートルほど下り、南東方面に向け一般道を約16キロメートル、途中「フォンテーヌブローの森」を通過した先にある。街の入口となるラウンドアバウトから、市内中心部(セントレ)の標識に沿って進むと、正面に目的のフォンテーヌブロー宮殿の外観が現れる。概ね1時間半ほどの行程だった。

「フォンテーヌブロー宮殿」(フォンテーヌブロー城)は、カペー朝第6代国王ルイ7世(在位:1137~1180)時代にあった城が原型で、その後の歴代フランス王により、改築、増築が繰り返された。中でも、ヴァロワ朝第10代アンリ2世(在位:1547~1559)以降の大規模な拡張により、現在の壮大な姿へと変貌を遂げている。フランス革命後には荒廃するものの、ナポレオンが権威の象徴として再興し、フランス第二帝政の舞台ともなった。

南北に延びるマゼンタ通り沿いに設けられた鉄柵(南北100メートル)の「名誉の門」から入った150メートルほど東に、宮殿中央棟(東翼)が建ち、その左右には、北翼と南翼とが鉄柵まで続いている。敷地内には、低い庭木が植えられた4面の芝生を持つ中庭があり、その中央の石畳の広い通りを歩いて行く。ちなみに、西翼もあったが17世紀には解体され、現在の名誉の門に置き換えられた。
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宮殿の入口は、中央棟(東翼)の正面にある馬蹄形の階段を上った先になる。こちらの階段は、ナポレオンがエルバ島へ流される際、近衛兵に別れを告げた場所で「別れの階段」と呼ばれている。階段は、フランスの建築家ジャン・アンドルエ・デュ・セルソー(1585~1649)の制作で、中間の踊り場を備えた46段の階段から成っている。
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宮殿は、豪華な佇まいで圧倒されるが、こちらの中央棟(東翼)の裏側にも、中庭、庭園を取り囲むディアナの回廊やフランソワ1世の回廊などの翼館が張り巡らされ、部屋数も、王の部屋に始まり、王妃の私室、寝室、会議室、玉座、礼拝堂など1,500以上の数に及んでおり、一日で見学できる規模をはるかに超えた壮大さである。

宮殿の敷地全体の広さも、アングレ庭園、1キロメートルを超える運河(グランカナル)などを含めた総面積130ヘクタールあり、東京ディズニーランドが51ヘクタールであることを踏まえると、いかに広大な敷地面積であるかがわかる。更に、宮殿の周辺は、東側にセーヌ川が南北に蛇行して流れ、王族の狩猟地で現在も自然が保全されるフォンテーヌブローの森(1万8000ヘクタール(180平方キロメートル))が取り囲んでいる。

そして、こちらが、フランソワ1世の回廊で、中央棟の正面口から後方となる東方向に延びており、南側に中庭がある。こちらの回廊は、1533年と1539年の間に、イタリアからの多くの芸術家や職人が制作に携わったもので、フランスでの最も優れた最初のルネサンス装飾の一例とされている。下部の壁には、フランソワ1世の紋章などが木彫細工で飾られ、上部の壁には、王の美徳を示す神話の場面が、漆喰彫刻の上にフレスコ画で描かれている。


その後、3キロメートルほど北西にあるバルビゾン(barbizon)に移動し、オーベルジュ(Hotel La Cle D'Or Barbizon)にチェックインして、エルミタージュ セント アントワーヌ(L'Ermitage Saint Antoine)で夕食を頂いた。


店内は、 肩ひじ張らずに楽しめるガストロパブといった雰囲気。飲み物は、ボルドーのキャップ・ロワイヤル・シュペリュールのワインを頼み、前菜として、ヤギのチーズ、スモークベーコン、メスクラン(ハーブ)のミックス・サラダを、メイン(プレート)は、手長海老のグリル、骨付仔牛のロース肉を頼んだ。全体的な印象としてコスパも良く、大変美味しく頂けた。


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翌朝は、アートギャラリーや、かつて、画家テオドール・ルソー(1812~1867)の家兼スタジオだった、ノートルダム・ド・ラ・ペルセヴェランス礼拝堂を見学するなど、バルビゾンを散策した後、次の地モレ・シュル・ロワン(Moret‐sur‐Loing)に向かった。

モレ・シュル・ロワンは、バルビゾンから南東に20キロメートルほど、パリからは南東に80キロメートルほどのイル・ド・フランス地域の小さなコミューンで、フォンテーヌブローの森の近くにある。中世の面影を残した街並みは、多くの芸術家に好まれ、中でも、フランス生まれのイギリス人で印象派の画家アルフレッド・シスレー(1839~ 1899)はこの地で晩年の約10年を過しており、こちら(ロワン川右岸)から「モレ橋」の眺めを多く描いている。


モレ橋は、南東から北西の軸上に架けられ、古くは、共和政ローマ末期の政務官ガイウス・ユリウス・カエサル(前100~前44)が最初に架けたとの伝承がある。しかし現在の橋は12世紀のものを基礎とし、19世紀に拡張されたものである。

モレ橋の南側に見える鐘楼と身廊は「ノートルダム・ド・ラ・ナティビテ教会」で、建設は12世紀の後陣に始まり、13世紀に翼廊、14世紀に身廊、15世紀に鐘楼とファサードとが建設されている。また、モレ橋の北西袂には「ポルト・ド・ブルゴーニュ」(ブルゴーニュ門)が建っている。
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こちらは、モレ橋から、シスレーの視点となったロワン川右岸(北側)を眺めた様子で、ロワン川は、この先、2キロメートルほどで、セーヌ川に合流している

モレ橋の上から、ポルト・ド・ブルゴーニュを眺めてみる。下部はアーチ門で、上部は監視塔と思われる窓と周囲には、狭間の様な小さな穴が複数開いている。左右には、砲塔を支える2つの巨大なバットレスがあり、寄棟造の屋根で覆われている。建設は、ヴァロワ朝の第5代国王シャルル7世(在位:1422~1461)治世とされている。
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現在は、アーチ門の右側にクレープ・ショップが隣接し、左側には専用歩道がある。アーチ門の先は、モレ・シュル・ロワンの中心部で、通りは、街を横断する目抜き通りとなっている。そして、300メートル北西にも、ポルト・ド・ブルゴーニュと似た形状の「ポルト・ド・パリ」がある。

次に、ヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)に向かう。モレ・シュル・ロアンからは、北に30キロメートルほど行ったセーヌ川右岸にあるセーヌ・エ・マルヌ県ムランの東側にある。

フォンテーヌブローの森を過ぎ、田園地帯を東西に延びる並木道を進むと、遠く南側に城を望むことができる。通り沿いの北側にある駐車場からは、芝生の中に設けられた歩道を数十メートル歩いた先が敷地への入口門になる。入口門は、鉄柵と8本の装飾柱(ギリシャ神、寓意像等)で構成され、その先からは、左右奥に複合施設が建ち並ぶ、直径100メートルほどの正方形の中庭になり、更に南に直進すると、城を取り囲む濠に架けられた橋になる。橋を渡ると石畳が敷き詰められた城の前庭に到着する。

こちらは、濠の西側にあるフランス式庭園から城を眺めた様子で、城は濠で囲まれた敷地の南端に建っている。城へは前庭を進み、途中踊り場がある石階段を上ってペディメントのあるポーチから入場する。城の東側は、西側の庭園と同じ様に庭園があり、その先は植え込みで仕切られ、奥には森が続いている。
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ヴォー・ル・ヴィコント城は、太陽王と呼ばれたルイ14世(ブルボン朝第3代、1638~1715)の大蔵卿ニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet、1615~1680)が、当時最高の芸術家(建築家ル・ヴォー、画家ル・ブラン、造園家ル・ノートル)を招いて1658年から建設(1661年に完成)したもの。

ルイ14世の下で権勢を誇ったフーケだったが、宮廷を超える贅を尽くした城の豪華さに嫉妬したルイ14世により、逮捕され投獄され1680年に亡くなっている。ちなみに、1682年に建設されたヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世がヴォー・ル・ヴィコント城の建設に携わった3人の芸術家を従事させ完成させている。

城館内には、方形大寝室、ミューズの間(フーケの部屋)、王の部屋、図書館などがあり、蝋人形などによるビュッフェの間での祝宴の様子や、フーケ逮捕の様子なども見ることができる。

城の南ファサード側には大きなドーム屋根があり頂部の塔に上ることができる。城内から狭い螺旋階段を上がり、屋根裏を通って、再び階段を上り詰めると展望台に到着する。展望台からは、360度のパノラマビューを楽しめる。中でも、南側に続く庭園の眺めが最高である。
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こちらが、塔の展望台から南側に広がる庭園で、フランス・バロック庭園の初期の傑作といわれている。左右には、アラベスク状に刈り込まれたツゲが織り成す緑の刺繍の花壇(赤は砕いたレンガ)があり、円形、矩形の噴水のある池、運河、洞窟彫刻と続いている。その先は丘になりファルネーゼのヘラクレス像が飾られている。丘の上まで直線距離で1キロメートルほどあり、散策には、貸し出し用のクラブ・カーを利用することもできる。
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他にも、敷地内にある軍需品博物館で18~19世紀の馬車などのコレクションを見学して、ヴォー・ル・ヴィコント城を後にした。今夜は、南東150キロメートルにあるブルゴーニュ地域圏ヨンヌ県シャブリ(Chablis)の「オテル ドゥ ラ ポステ」(Hôtel De La Poste Chablis)に宿泊することにしている。最寄りのヨンヌ県都オセールからは東に約18キロメートルに位置している。

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今朝は、シャンパーニュ地方南部コート・デ・バール地区のレ・リセイ(Les Riceys)にやってきた。シャブリからは、北東に55キロメートルに位置している。リセイは急な斜面に広がる畑を持ち、シャンパーニュ地方にも関わらず、ブドウ品種の90%がピノ・ノワールとされる。このため、唯一生産される非発泡のロゼワインが認められている。そもそもスパークリングワインの製法は17世紀頃からであり、それまで赤ワインの産地として知られていたリセイは、むしろ伝統的な製法を守り続けているともいえる。

リセイは、リセイ・バ、リセイ・オー、リセイ・オート・リヴの3つの地区に分かれている。この日は、リセイ・オー地区にやってきた。こちらは、1549年に建てられた、サンヴァンサン・ド・リセイ・オー教会(Église Saint-Vincent de Ricey-Haut)のファサードになる。教会は、南側にファサードが、北側に後陣がある。
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教会の後陣側の、通りを挟んだ北側に「モレル・ペール・エ・フィス」(Champagne Morel Père & Fils(Morel Piot))のワイナリーがある。1850年にブドウ栽培を始め、ロゼワイン「ピノ・デ・リセイ」を生産しており、20世紀初頭には、地元のコンクールで金賞を受賞するなど最高品質のワインとしての評価を得ている。また、1987年からはシャンパーニュワインを生産している。


この後、再びシャブリに戻り、ブドウ畑を見学することにする。街の入口には、シャブリのブドウ畑についての案内解説板が設置されている。シャブリは、ブルゴーニュを代表する辛口白ワインであり、冷涼な気候と石灰層の地質を活かし20の村で育つシャルドネ品種のブドウから造られている。特に、キンメリジャンとよばれる石灰岩を主体にしたミネラル分が豊富な土壌が特徴である。


シャブリのブドウ畑は、プティ・シャブリ(Petit Chablis)(1550ヘクタール)、シャブリ(Chablis)(4400ヘクタール)、シャブリ・プルミエ・クリュ(Chablis Premier Cru)(750ヘクタール)、シャブリ・グラン・クリュ(Chablis Grand Cru)(100ヘクタール)の4つの原産地(アペラシオン)に分かれている。

4つの原産地の中でも、混じりけのないキンメリジャン土壌は、シャブリ・プルミエ・クリュと、シャブリ・グラン・クリュとなっており、今回は、シャブリ・グラン・クリュの7つある銘柄畑の一つ、ブランショ(Blanchot)の畑にやってきた。一面ブドウ畑が広がり、西側には、シャブリの中心に建つ「サン・マルタン教会」(Saint-Martin de Chablis)の尖塔が望める。
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ブランショは、南側が谷間になっており、その東西に抜ける風の影響から非常にエレガントでデリケートなワインが造られる。香りの優雅さと広がりが持ち味とのこと。足元を覗き込むとブドウの房が太陽の光に照らされて美しく輝いている。


こちらは、市内にあるワイナリー「ドメーヌ・ラロッシュ」(Domaine Laroche)で、グラン・クリュとプルミエ・クリュに合わせて60ヘクタールの畑を所有するシャブリで最も歴史あるワイナリーの一つである。


そのドメーヌ・ラロッシュのカーブは、すぐ北東側にある「サン・マルタン教会」の東隣の建物(オベディエンスリー)(Obediencerie)にある。そちらは9世紀に建てられたサン・マルタン・ド・トゥール修道院の一部で、修道士により最初にシャブリワインが造られた場所とされる。現在ではシャブリの名声を築いてきた歴史的建造物となっている。

次に「オセール」(Auxerre)を目指す。こちらは、セーヌ川支流のヨンヌ川の河川敷(右岸沿い)から望むオセールの街並みで、街の北側に「サンジェルマン修道院」が建っている。クリプトにはフランスで最も古い壁画がいくつかあり、オーセールの司教の墓がある。


こちらは、街の中央に建つ「サンテティエンヌ大聖堂」で、現在の聖堂はそれまでのロマネスク様式の聖堂をベースに1215年からゴシック様式で改築が始まったが中々進まなかった。南翼廊の建設は1300年に着工し(ポータルは聖ステファンに捧げられている)、西ファサードや身廊は1320年から、北翼廊は1400年頃から着工し、1550年頃に完成している。現在の北塔は1543年に完成さたが、南塔は工事に着手できないままとなった。


オセールの街中にあるドレープリー通り(Rue de la Draperie)にやってきた。ドレープリー通りは「シャルル・ルペール広場」(Charles Lepère)から北側に延びるショッピング・ストリートで、ドラッグストア、衣料品、ジュエリー、装飾品、パン屋、レストラン、パブなどのショップが連なっている。こちらは、その通りから、シャルル・ルペール広場(士官候補生ルッセルの像が建つ噴水がある)を振り返った様子で、広場には色とりどりの木骨造りの(ハーフティンバー)家屋が建っている。
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ドレープリー通りを北に少し進み右折すると、カラフルな仲睦まじい男女の像が設置されている。像は、地元生まれのフランスの文学者ニコラ・レティフ・ブルトンヌ(Nicolas Restif de la Bretonne、1734~1806)と妻のアンヌで、ニコラは、官能小説からフランス革命に至るまで民衆の生活を写実的に描いた小説家として知られている。この場所には、ニコラが若いころに徒弟として雇われた印刷工場があり、後に、元師匠の親戚の娘アンヌと結婚している。。
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前方には、木骨造りの家屋が建ち、その先に大きな塔と時計のある門が見える。3世紀頃にはガイヤルド・タワーとポルト・ド・パリと呼ばれる塔と門があったが、百年戦争(1337~1453)やブルゴーニュ戦争(1474~1477)などを経て、市民防衛サービスの観点から、1485年、現在の時計塔が建設されている。

こちらは、時計塔の門をくぐって見上げた様子。時計は、天文時計で2×12のローマ字の文字盤と2本の針で時刻を示している。文字盤は、上の12が正午で、下の12が深夜となり、太陽の針の指し示す位置で時間を知る。そして、もう一本が月の針で、計2本の針で時期と時間を知らせている。
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今夜の宿泊場所は、オセールからA6号線を経由し南東に150キロメートル「マルサネ・ラ・コート」(Marsannay-la-Côte)にある「Chambres d'hotes」である。マルサネ・ラ・コートは、コート・ドール県にある人口5千人ほどの村で、コート・ドール県の県都ディジョンから南に6キロメートルのところにある(グラン・クリュ街道参照)。


夕食は、村の中心部にあるレストラン「レ・グルメ」(Les Gourmets)で頂くことにしている。宿からは近く、北に200メートルほど行ったマルサネ教会の後陣先を右折した先の右側にある。


店内は長方形でシンプルで高級感のある内装に、大き目な丸テーブル席がゆったりと並び、窓側は、庭に面した透過性のある大きなガラス窓があり開放感がある。最初のパテ・ド・カンパーニュは前菜とは思えないほど大きく濃厚な味わいで、既にお腹が満たされた。


メインの魚はポシューズと呼ばれ、淡水魚の上身が3枚、バターがきいたクリームソースのスープに浸っていた。また、肉料理も、濃厚な味の豚のファルス(詰め物)やアトロと呼ばれる串付け、ポテトサラダもしっかりとバターがきいている。デザートは、クリームアイスとタルト系で、どの料理も美味しく満足のブルゴーニュ料理だったが、ボリュームがあった。まさに美食家のためのレストランという印象だった。


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ブルゴーニュ地方、ヨンヌ県の古都ヴェズレー(Vézelay)にやってきた。マルサネ・ラ・コートからは、北西120キロメートルにあり、最寄りのヨンヌ県アヴァロン(Avallon)から西に15キロメートル行った丘の中腹にある。到着した県道沿いには、ホテル、バスの停留所、駐車場などが集まっている。

駐車場からは、北東方面に延びる坂道を上り、300メートルほど先にあるレストランからは、二叉道を右側に進んで行く。その先、左側には、手前から見えた旧サン・ピエール教会(1152年創立、1804年倒壊)の青い鐘楼(時計塔)が残るポロ広場があり、向かい側の役所の駐車場となっている。
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役所前を過ぎると、まもなく丘の上の広場となり、目的の「サント・マドレーヌ大聖堂」(Basilique Sainte-Madelaine)のファサード前に到着する。大聖堂は、9世紀中頃、ベネディクト派の修道士が、プロヴァンス地方サン・マクシマンから、マグダラのマリアの聖遺物を持ち帰ることにより建設された旧ヴェズレー修道院で、その後は、様々な奇跡を起こしたとされ、多くの巡礼者が押し寄せている。

1120年から1150年には、ロマネスク様式で再建築されるが、持ち帰ったとされた聖遺物がサン・マクシマンで再発見されたことから凋落の一途をたどっている。更に、度重なる災害や破壊行為により劣化が進み危機的状況に陥いるが、1840年に中世建築の修復家で知られる建築家ヴィオレ・ル・デュク(1814~1879)により、大改修がなされている。

現在では、ティンパヌムや柱頭に施された浮彫がロマネスク彫刻の傑作として評価され、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点の一つ(リモージュの道)ともなり、更には、1979年に「ヴェズレーの教会と丘」としてユネスコの世界遺産に登録されている。


ファサードのポーチに施されたティンパヌム「最後の審判」は、1856年にロマン派の彫刻家ミシェル・パスカル(1810~ 1882)が、ネオロマネスク様式で制作したもので、当初は、評価が低かったが近年再評価されている。向かって左側には天国へ昇天していく人々が、右側には地獄へと堕ちていく人々が描写されている。そのティンパヌムの上には、ナルテックスを照らすための5つの細い窓があり、間には6人の聖人(福音記者ヨハネ、アンデレ、洗礼者ヨハネ、ペトロ、パウロ、ヌルシアのベネディクトゥス)が、上部切妻には祝福するキリスト、聖母、マグダラのマリアの像が飾られている。

ファサードから聖堂に入ると、3身廊を思わせる長さ20メートルほどの正方形の広さのナルテックスがあり、アーチを支えるそれぞれの柱の柱頭にはロマネスク様式の彫刻が施されている。そして身廊への入口には、1120年から1130年頃に制作された、ロマネスク様式の彫刻芸術の最大の傑作の一つとされる大きなティンパヌムがある。
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栄光のキリストを中心に、左右に使徒を配し、まぐさには、向かって左側にヨーロッパの人々、右側にアフリカの人々が、改宗のためにキリストに向かう姿が表現されている。周囲の8つのケーソンには、左下に福音書記者ルカとマルコが、以降、ユダヤ、カッパドキア、アラブ、ビザンチン、アルメニアなど世界各地の人々が刻まれていることから、こちらもキリスト教の世界への布教が示されている。外側の30メダリオンには黄道十二宮と月々の仕事が刻まれている。

ティンパヌムの下の扉の先は、左右に側廊を持つ、長さ62メートルの身廊がある(ノートルダム大聖堂の身廊は60メートル)。身廊を支える柱は、途中2か所にモールディングがあり、高さ18メートルある身廊を形成する10のアーチベイを左右(南北)の柱がそれぞれ支えている。その高所の柱頭にロマネスク彫刻が施されている。

一方、側廊のアーチ天井を支える柱の柱頭は、低い位置にあるため、見やすい。こちらは、ナルテックス側から4番目(北側廊)の複合柱で、左が北面の「ダヴィデとゴリアテ」(ゴリアテの剣で首をとるダヴィデ)で、右が西面の「エジプト人を殺すモーセ」である。
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こちらは、ナルテックス側から6番目(南側廊)の複合柱の南側の柱頭「ライオンの巣窟のダニエル」で、隣の7番目(南側廊)の複合柱の南側は「ヤコブを祝福するイサク」になる。これらロマネスク彫刻の柱頭は、1120年から1140年頃に制作されたものである。
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この様に、大聖堂には118のロマネスク柱頭彫刻(身廊と側廊に94、ナルテックスに24)があり、これらは、5人の彫刻家のワークショップの制作によるもので、オータンのサン・ラザール大聖堂と並んでブルゴーニュ・ロマネスクにおける傑作とされている。

ファサードを出て、南側の路地を進み、振り返るとファサードの塔(サンミッシェル塔(1347年頃築))の威容(38メートル)が望める。展望台のあるプラットフォームにはナルテックスから階段でアクセスできる。もともとファサードの塔は、両塔が建設予定だったが、結果的に右側の塔だけとなっている。そして、南身廊の東側で翼廊の手前にも塔があり、こちらは高さ35メートルのサンアントワーヌ塔になる(北身廊側にはない。)。

路地を抜けると、芝生広がる公園があり、その先は石積みされた仕切り壁が続く展望台となっている。 こちらは東南東の方角で、なだらかな緑の丘のパノラマビューは、北から東、南方面にかけ広がっており、ヴェズレーは、南北100キロ、東西55キロに広がるモルヴァン自然公園(Morvan)(大部分は丘陵地帯で、中央は山岳地帯)の最北西部に位置している。左下の標高の低い箇所には、キュール川(ヨンヌ川の支流)が南北に流れ、川沿いに小さなサンペール(Saints Peres)村が広がっている。
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次に「フォントネーのシトー会修道院」(Abbaye de Fontenay)に向かった。ヨンヌ県アヴァロンを超え、北東に60キロメートルほど行った、コート・ドール県モンバール(Montbard)を過ぎるとまもなく到着する。

モンバールからは、北東方面に、フォントネー川に沿って坂道を上っていく、案内に従い左折すると駐車場がある。この辺りは、サン・ベルナール渓谷とフォントネー川が合流する場所で、周囲は森で覆われ修道院だけが静かに佇んでいる。1118年に神学者、説教家クレルヴォーのベルナルドゥス(聖ベルナルド)によって設立された最古のシトー会(ベネディクト会から派生)の修道院で、王家の保護もあり発展を続けたが、王権による修道院長選出が、16世紀に廃止されたことにより凋落していく。フランス革命後は売却され製紙工場になるが、19世紀以降は個人の私有物となり、現在のオーナーの承諾を経て一部が公開されている。
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東側のロータリー先に並ぶ切妻屋根の建物の大きなアーチ門から入場すると、正面に中庭がある。向かって左端が、修道院長館で、その右隣に横長の食料保管庫や食堂があったが、現在は壊され、付属施設が残る。そして、右奥にある横長の建物は30メートルある修道士の部屋だった。見所の一つ、中庭回廊は正面建物の左側(北側)になる。

こちらが、中庭回廊の北東側を眺めた様子で、左側に聖具納室が、右側に参事会室があった。回廊は、共に2重の窓がある大きなアーチ型のアーケードで構成されている。参事会室は、ベネディクトゥスの戒律の一章を朗誦したあとに共同体に関する決定がなされた場所だったが、現在は、オジーヴ穹窿をもつ大きな梁間のみが残されている。1450年頃に発生した火災で、3分の一のほどが焼失している。


次に、モンバールから15キロメートルほど南のアリーズ・サント・レーヌ村にある「アレシア」(Alesia)に向かった。

アレシアは、古代においてガリア人部族ハエドゥイ族を中心とする都市で、紀元前52年、共和政ローマ末期の政務官ガイウス・ユリウス・カエサルが率いるローマ軍とウェルキンゲトリクス率いるガリア人との決戦(アレシアの戦い)が行われた場所とされる。結果、ローマが勝利し、アレシアは、オッピドゥムに変更された。


その後、アレシア(オッピドゥム)は忘れ去られ所在が不明となるが、19世紀、第二共和政大統領ナポレオン3世(1808~1873)(後にフランス第二帝政の皇帝)の下で、大規模な考古学的発掘が行われ、包囲線の痕跡らしきものが発見され、アリーズ・サント・レーヌ村がアレシアと結論付けられた。

こちらは1865年、彫刻家エメ・ミレー(1819~1891)により製作された「ウェルキンゲトリクスの記念碑」で、モン・オーソワの頂上に建っている。高さ7メートルあり、台座には「ガリアは団結し、単一の国家を形成し、同じ精神によって活気づけられ、宇宙に逆らうことができる。ナポレオン3世、ウェルキンゲトリクスを偲んで。」と書かれている。


西に15キロメートルほど行くと、コート・ドール県の「スミュール・アン・ノーソワ」(Semur-en-Auxois)に到着する。街は、アルマンソン川(ヨンヌ川支流)が大きく蛇行する東側に広がっている。こちらは、街の北西側から眺めた街の様子で、南側に、13世紀に再建された街の要塞の一部「オルレドールの塔」(Tour de l'Orle d'Or)(ドンジョンとも呼ばれる)が建っている。塔は、川沿いの通りから街へのアクセスゲートとなっている。
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そして街の東側には、1225年に建てられ、19世紀にヴィオレ・ル・デュクにより、ゴシック様式で大改修がなされた「ノートルダム教会」がある。中世の街の佇まいに惹かれたが、日の入りも近いことから、街中には入らず一望した後、ディジョン(コート・ドール県の県庁所在地)に向かった。今夜の宿泊と夕食は、昨夜と同じマルサネ・ラ・コートを予定していたが、夕食については、ボリュームあるブルゴーニュ料理を連夜頂くのが辛くなったため、キャンセルして、ディジョンにある潮州城酒楼(Allo Nem Dijon)で中華料理を食べて宿に帰った。
(2004.9.16~9.22)
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