カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スリランカ(その7)

2013-03-09 | スリランカ
アバヤギリ ヴィハーラの僧院の遺構が残る遺跡公園を抜けると、東西の石畳の通りとなり、その北側に「アバヤギリ大塔」が現れる。紀元前1世紀、ワッタガーミニ アバヤ王(在位:紀元前103、紀元前89~77頃)により建てられた。建設当時は100メートルあった大塔は今は75メートルだが、それでもアヌラーダプラでは最も高い仏塔である(以下:アヌラーダプラ アバヤギリ地区図参照)


大塔建設のきっかけは、王が即位後に、南インドからのタミル人軍の侵略により敗退させられたことを契機にしている。当時、この地にあったジャイナ教寺院に逃げ込んだ王は、寺院の僧侶ギリから罵声を浴びせられ、将来この地に精舎を建てることを誓う。その後、14年に及ぶ隠遁生活をへた後、タミル人の王を倒して王国を取り戻し、誓いどおりアバヤギリ精舎(12の坊舎を持つ)を建立する。そして、総仕上げとして、ジャイナ教寺院を破壊し、跡地に建設したのが「アバヤギリ大塔」(地図①)である。

アバヤギリ精舎を根拠地とした、アバヤギリ ヴィハーラは、大乗仏教を受け入れる無畏山寺派として開山したため、従来のマハー ヴィハーラ(大寺派)と対峙することになる。そして、その対立の中から、ジェータヴァナ ヴィハーラ(祇多林寺派)も生まれ、三派鼎立の時代を迎える。


アバヤギリ ヴィハーラ(無畏山寺派)は、考え方が柔軟で開放的な性格を持っていたことから、仏教研究の拠点となり海外からの学僧も多く学んでいた。紀元399(隆安3)年に長安からセイロン島を訪れた、中国東晋時代の僧「法顕」(紀元337~422)は、彼の書「仏国記」に、アバヤギリには5千人、マハー ヴィハーラには3千人の僧がいたと記録している。またマハーワンサ(大史)には、4世紀、大寺派と無畏山寺派の宗派間の争いが起こったと記録されている。


現在、ユネスコの協力もありアバヤギリ大塔の修復作業が行われているが、この日は、地元の人と思われる人たちが、流れ作業で部材の煉瓦を運ぶ姿が見られた。


アバヤギリ大塔の見学が終わり、次に南に500メートルほど下った「アバヤギリ博物館」(地図⑮)に行くことにした。小さい博物館だが、開放的な造りで、見学客も少なく落ち着き見学できる。


高浮き彫りされた美しいガードストーンが展示されている。


こちらのガードストーンの守護神像は、大変愛らしい表情をしている。


柱頭部分が強調された柱が展示されているが、日本の石燈籠にも見える。


ガードストーンの守護神像に似ているが、腰を張り出した女性像であり、踊るアプサラスかもしれない。


こちらも王冠を被った守護神像を思わせるが、天女にもみえる。


こちらは、コロンボ国立博物館で見た同じポーズの観音菩薩像である。菩薩を崇拝するのは、3世紀、大乗仏教を取り入れた「アバヤギリ ヴィハーラ(無畏山寺派)」の影響もあったと思われる。


その後、12世紀、ポロンナルワに都を置いたパラークラマ バーフ1世(在位:1153~1186)は、三派に分かれて対立していた仏教界を大寺派に統一し、それ以外の仏教を厳しく禁じた。そのため大乗仏教はスリランカから姿を消し、二度と復活することはなかった。しかし、観音菩薩への崇拝は、現在の上座部仏教の国スリランカでも続いている。

説法印(転法輪印)で椅像である。スリランカでは珍しい像である。


仏塔をイメージした展示台の周りに多くのサマーディ坐像が並んでいる。


大きな青銅像である。こちらの立像は、見慣れたスリランカ仏である。


アバヤギリ博物館の見学を終え、アバヤギリ ヴィハーラの僧院の遺構が残る遺跡公園を北東方面に歩いていくと、目の前に水面まで7~8メートルはありそうな貯水槽らしき遺跡が現れた。


しばらく歩くと土産物が並んでおり、観光客が多くなった。靴を預けて進むと、石の屋根に覆われた「サマーディ仏像」(地図⑫)が現れる。この辺りは、マハメヴナワ公園と名付けられ、デーワーナンピヤ ティッサ王(紀元前247~207)の父王のムタシバ王(在位:紀元前367~307)によって整備された歴史ある公園の一角である。


像の高さは2メートルほどで、ドロマイト大理石から彫られている。4~6世紀頃の制作と考えられており、上向きの手のひらを膝の上に重ねてあぐらをかいて座る瞑想の姿勢をしている。グプタ様式に似た表情には、穏やかな品位を感じ、安らぎを感じさせてくれる。当時は、全身金色で象嵌細工が施されていたとされる。ほとんど無傷で残されており歴史的価値も大変高く、スリランカで最高の仏像の一つとされている。かつてインドのネルー首相が、支配されていたイギリスにより投獄されていた時、この仏像から力を授かり切り抜けたという。


通りに出て、迎えに来た車に乗り1キロメートルほど東に行き、大きく南にカーブする手前で、車を下りる。すぐ左側に「クッタク ポクナ」(ツイン ポンズ)(地図⑬)と名付けられた人工池がある。クッタク ポクナは、双子の池を意味し、南北に隣接して長方形の池が並んでいる。池の内側を覗き込みながら、周回しようと北側に回り込んで眺めてみる。手前が北池で28メートル×16メートル、深さ3.14メートルあり、先隣りが南池で40メートル×16メートル、深さ5.18メートルある。


水は雨水貯水池から地下ダクトを通って池の北側に到着し、フィルターシステムを通過して、ナーガの彫刻横の注ぎ口から注ぎ込まれる仕組みとなっていた。一方、排水については、池の底にある栓を抜き、排水口を通って、周囲の田畑へ供給された。人工池は、僧侶の沐浴場と言われるが、王が利用した説もある。建設時期もはっきりせず、アガボディ1世(在位:575~608)治世時との説や、8世紀或いは9世紀頃との説もある。


以上で、アバヤギリ ヴィハーラの見学は終わる。時刻は午後1時半を過ぎたので、人工池を一周して、通りで待つ車に乗り込んで出発するが、すぐに近くのレストランに到着する。


今日はビールが注文できたので良かった。暑いのでありがたい。


食事が終わり、次にジェータワナ ラーマヤに向かう。レストランの敷地内の木にはジャックフルーツの実がなっている。


車で出発すると、数百メートルで「ジェータワナ ラーマヤ」の北側に到着した。煉瓦を積み重ねた姿がアバヤギリ大塔と良く似ている。アバヤギリ大塔は、修復工事の最中で大量の足場が組まれていたため、表面が良く見ることができなかったが、こちらは煉瓦の一枚一枚まで、よく見える。


ジェータワナ ラーマヤは、新たな宗派「ジェータヴァナ ヴィハーラ(祇陀林派)」の拠点として、マハーセーナ王(在位:275~301)により、アバヤギリ ヴィハーラ(無畏山寺派)のすぐ南側に建設された。王は上座部仏教の僧たちを敵視し、その最大の拠点であったマハー ヴィハーラ(大寺派)を含めて複数の寺院を廃したが、その後、部下の言葉に従って敵視するのを止めている。建てられた当時は、高さが122メートルあり、最も高い構造物の一つで、仏塔としては最も高かった。12世紀に、パラークラマ バーフ1世(在位:1153~1186)により改修され、現在の71メートルの高さとなっている。


次にイスルムニヤ精舎へ再び車で移動する。ジェータワナ ラーマヤからは、3キロメートルほど南西のティッサ湖(Thissa Wewa)の東湖畔にあり、湖畔を背にして東向きで建っている。「イスルムニヤ精舎」は、紀元前3世紀頃、デーワーナンピヤ ティッサ王(紀元前247~207)により、出家を希望する王族や大臣などカーストが高い人のための精舎(市民階級の人々はベッサギリヤ精舎)として寄進したもの。


入口に通じる階段横の岩壁面には7世紀制作とされる2頭の象の浮彫が残されている。水量が多い時期は、手前のプールから象が立ち上がっている様に見えるとのこと。


階段を上った本堂に向かって右側面の岩には男性と馬が刻まれている。6世紀頃の制作で、インド神話に登場する雨の神パルジャニヤとされている。


本堂には、極彩色の寝釈迦像が本尊として安置されている。そして本堂の隣には、僧院時代の遺物などを公開する「小さな博物館」(宝物殿)を併設している。こちらは6~8世紀に作られたドワーフ像で、大きい彫像あることから、階段の間で上下を支えている小人のドワーフの可愛さはあまり感じない。


こちらは宝物殿を代表する見どころの一つで、5世紀制作の「恋人の像」である。紀元前2世紀にこの地を治めていたドゥッタガーマニー王の息子サーリヤ王子とその恋人のマーラがモデルとなっている。マーラは王子とカーストが違うことから周囲からの反対にあうが、王子は自分の身分を捨ててマーラとの結婚を望んだと伝えられている。


こちらも見どころの一つの「王族の像」である。中央に背の高い冠を被るのがドゥッタガーマニー王で、右側が妻とされる。王の左側はサーリヤ王子で、妻の右側がマーラである。


宝物殿の裏から岩の後方に設けられた石階段を上ると、岩の屋上にある展望台に到着する。東側には、緑豊かに広がる景色が一望でき、遠くの2つの山の左側が仏教伝来の地ミヒンタレーのミッサカ山である。これで、文化三角地帯の見学は終わりになる。
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スリランカは、公共交通の利用が不便なため、個人ツアーを頼み車で巡ったが、道路の状態もあまり良くなく、短い距離でも時間を費やす箇所が多くあった。しかし概ね当初予定していた箇所は見学することができた。ホテルに戻り、ヒンドゥ教の神々が祀られている廊下を通り、夕食を食べにレストランに向かった。


明日はコロンボに戻る。


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最終日は、パーム ガーデン ビレッジ ホテルを午前8時半に出発し、南に200キロメートルほど先のコロンボに向けて出発した。所々で新たに道路建設工事に出くわした。2時間ほど田舎道を走行した際に、ヤシの実を売っている小屋があったため、ココナッツジュースを購入して飲んでみたが、ぬるかったので、もう少し冷やした方が美味しいと思った。


更に2時間ほど走行し、午後1時過ぎにキャラニヤに到着した。キャラニヤは、コロンボから、北東11キロメートルに位置している。もともと予定はしていなかったが、多少時間があったことから「マハー ラジャ ヴィハーラ(キャラニヤ寺院)」(Kelaniya Raja Maha Vihara)に寄ることにした。寺院はキャラニヤ中心地からやや離れた閑静な住宅地はずれのキャラニ川の畔にある。靴を脱ぎ、階段を上り境内に入ると、本堂の向かい側に柵に囲まれた菩提樹が聳えている。


伝承によれば、仏陀は、3度にわたりスリランカの地を訪れたとされている。第1回目は菩提樹の下で悟りを開いた(成道)後の9か月頃、夜叉、畢舎遮(食人鬼)、羅刹(鬼神)を教化するために訪れている。そして、第2回目は成道の5年後にナーガ(竜王)の教化を目的に、そして第3回目は成道の8年後に、500人の比丘たちと共に来島したと伝わっている。

第3回目の来島が、このキャラニヤの地とされている。仏陀は、このキャラニ川で沐浴した後、信者を前に説教をされた。そして、紀元前3世紀、この地に最初の仏塔が建てられた。現在の寺院は13世紀のもので、本堂は、20世紀初頭に建てられた。ちなみに仏陀の訪問は、第1回目がキャンディから東70キロ程離れたマヒヤンガナで、第2回目が北部ジャフナ近くの小島ナーガディーバといわれている。

壁面にある像は、ガードストーンで見られる守護神像と似ている。


基壇には、鳥、ドワーフ、象が彫られているが、立体的で非常に細かい。


ドワーフたちは、キャンディアン ダンスを踊っている様に見え、大変個性的に表現されている。


境内の奥にはキリスト教会を思わせる鐘楼が建っている。


堂内に向かう入口の階段の側面に施されたマカラは浮き彫りではなく、獅子と同化した象の様な動物が、後ろ向きの彫像で表されている。


ムーンストーンのデザインも今まで見てきた動物のモチーフとは異なり、草花を中心とした幾何学文様で表現されている。


堂内への向かう門の梁下からは、日本の寺院で見られる様な六角菱灯籠が吊られている。


その先の門前天井には、太陽を思わせる装飾円を八芒星が取り囲み、外側に白花の花弁からシーギリヤ レディの様な天女が舞いながら現れる華やかな装飾が施されている。


堂内の本尊には、黄金の仏陀坐像が安置されている。背景には高く聳える雪山が描かれており、暑いこの時期には、清涼感を感じる。


正面に向かって右手の部屋の奥には、御簾で覆われた金色に輝く巨大な涅槃像(横臥像)が祀られている。マハー ラジャ ヴィハーラ(キャラニヤ寺院)は、その土地の多くをポルトガルの植民地時代(1505~1658)に没収され衰退したが、オランダ植民地(1658~1796)には、新しい土地の提供があり、キャンディ王宮時代のキルティ スリ ラジャシンハ(在位:1747~1782)王(ダンブッラ黄金寺院に像がある)のもとで、再建されている。


キャンディの仏歯寺(ダラダー マーリガーワ寺院)で見た画である。ヘーママーラが髪の毛の中に仏歯を入れてスリランカへ持ち込まれた様子が描かれている。


堂内の壁画は仏陀の生涯にかかわるものや、スリランカ仏教史上の重要な場面が描かれている。こちらには、アショーカ王の娘サンガミッターが、菩提樹の苗木をスリランカにもたらした場面が描かれている。


これらは、20世紀の宗教画家ソリヤス メンディス(Solias Mendis)(1895~1975)によるもの。彼は、スリランカ北西部のマダンペ州の出身で、インドのアジャンタ、エローラ、サルナートなどで作品を研究し取得したインド仏教美術の技法と、シンハラ古典芸術の伝統とを融合した新古典主義様式の仏教寺院画で知られており、スリランカでは有名な芸術家である。

こちらには、仏陀の来島にまつわる画が並んでいる。仏陀が静かに坐すと周辺に光が放たれ、その光(威光)によって多くの住民らしき人々が驚いている。


手に槍などの武器を持った兵士の中に、空中より雲上に現れる仏陀が描かれ、その姿に驚愕する人々の姿が見える。


多くの弟子たちとやってきた仏陀を礼拝して向かい入れる王とその臣下たちの様子が描かれている。


荘厳壇の中には、黄金の仏塔が祀られており、象牙で装飾されている。


堂内は壁画であふれている。参拝者たちは、これらの壁画を見上げながら、仏陀の偉大さとその教えを知るのだろう。多くの人々が、花と香を手にして、祈りを捧げている。


お堂から出ると、境内の一角に、断食で痩せ衰えた仏陀の姿を描写した苦行像が祀られている。


午後3時、コロンボ フォート駅近くにある「シーフィッシュ レストラン」に行く。入口の扉横には、アルコールの提供についての登録証が掲げており、午前11時~午後2時と午後5時~午後11時以外の時間には提供できないらしい。海老や蟹、各種魚のソテーなど盛り付けられたコースを頼んだが、美味しかっただけに残念だった。

その後「ギャンガラマヤ寺院」に行く。スリランカに着いた翌日にジェフリー バワ設計のベイラ湖のシーマ マラカヤ寺院に行ったが、その際に行列を作っていた寺院である。コロンボ市内では最も大きな寺院になる。


寺院内には中庭があり、仏陀像と仏塔がひな壇状に並んでいる。


象の剥製などもある。こちらのケースには、世界中から集められた像や仏像以外の骨董品などが、雑多に置かれている。寄進されたものだろうか。


こちらのスリランカ仏像の周りには、様々なポーズをとった諸仏神が所狭しと置かれている。礼拝の場所と、宝物庫、物置などがごちゃまぜになった印象である。堂内を一周して寺院を後にした。


これで、スリランカの旅は終了である。買い物などして、バンダラナイケ国際空港に向かった。ガイドには、当初の内容から変更や追加をしたが、事務所とも良く調整し、丁寧に対応していただき感謝している。出国手続きを終え、午後9時過ぎには、ナシゴレンをつまみに、ライオンビールで打ち上げた。

(2012.9.17~18)
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スリランカ(その6)

2013-03-08 | スリランカ
パーム ガーデン ビレッジ ホテル(Palm Garden Village Hotel)での朝。コテージを出て、敷地内を歩く。そばには、プールもあり、辺りには木々が広がっている。


レストランで朝食を食べ、アヌラーダプラに出発する。今日も天気はよさそうである。


アヌラーダプラの地に初めて都市を建設したのは、紀元前543年にインドのベンガル西部からスリランカに来たシンハラ人の祖先ウィジャヤ王(紀元前543~紀元前505)される。王は、スリランカ全土を支配下に収めると、アヌラーダプラを含め各地に入植地を建設した。そして紀元前380年、ウパティッサ ヌワラ王国のパンドゥカーバヤ王によりアヌラーダプラは首都となった。

最初にアヌラーダプラ博物館に向かった。右側には、直径3キロメートル近くある巨大なティッサ ウェワ湖(Thissa Wewa)が続いている。シンハラ朝のデーワーナンピヤ ティッサ王(紀元前247~207)により紀元前3世紀に整備された人工貯水池である。ホテルから博物館までは車で10分ほどの距離だった。博物館は、ティッサ ウェワ湖のすぐ北側にあるバサワックラマ湖(Basawakkulama Wewa)の東南側にある。

古びたオープンスペースの建物に多くの仏像や碑文などが展示されている。風雨にさらされる廊下や、屋根のない庭に置かれており、貴重な文化財の保管にはやや相応しくない印象だった。


こちらの廊下には、8世紀の僧院の階段側面(ウィングストーン)が展示されている。側面には、柱の頂板の上にマカラが足を乗せ、口から花綱を吐いて渦巻き状に着地している。その間に、振り向きながら大きく口を開ける獅子が刻まれている。中でも、花綱や獅子の毛など繊細な浮彫が施されており素晴らしい作品である。


仏陀立像である。右手は失われているが、左手、肘を曲げて、胸元の僧衣を軽く掴んだ姿である。お馴染みのスリランカ仏のポーズである。


なんとも優しい表情であり、見ていて癒される。


こちらの仏陀立像は凛々しい姿をしている。6世紀頃の作品である。


半跏趺坐に禅定印のサマーディ仏。5世紀頃、スリランカ北部バブニヤ近郊のプヴァラサンクラマ出土作品である。


南インドのアマラーヴァティー美術の流れをくむ仏頭。傷みが激しいが美しい仏頭である。


アバヤギリ ヴィハーラで発掘された彫像の破片も展示されている。


こちらの庭にも多くの遺物が展示されている。


水洗トイレだろうか。水道管らしき突起がある。


この展示エリアには碑文が多く展示されている。


ガードストーン(守護神像)と、トルソー(胴体だけの彫像)が置かれている。


このガードストーンは、守護神像ではなく壺がデザインされている。守護神像は、寺院内への邪気を食い止めるための守衛の役割であるが、壺(花を生けた壺なども)は、冨や繁栄の象徴を意味するらしい。


博物館では30分ほど見学した後、車でバサワックラマ湖の東側から1キロメートル北上した「トゥーパーラーマ ダーガバ」に向かう。

紀元前247年、シンハラ朝のデーワーナンピヤ ティッサ王(在位:紀元前247~207)に仏教を伝えたマヒンダ長老が、王に仏陀の舎利の請来を勧めたことに始まる。そして王は、マヒンダ長老の妹サンガミッターの娘、沙弥スナマをインドのアショーカ王に遣わし、仏陀の右鎖骨の提供を受け、奉納場所として「トゥーパーラーマ ダーガバ」を建設する。スリランカで建設された最も初期の仏塔で、高さ19メートルの釣鐘型をしている。仏塔は、何度か破壊され、廃墟となったが、1842年に再建されている。


北側の駐車場から、歩いて東側の仏塔への入口となる階段に向かう。踊り場のある広い階段の左右には、計4体のガードストーンが設置されている。特に階下の2体は、大人の身長ほどの大きなサイズで高浮彫となっている。


ウィングストーン後方のマカラ彫刻は重厚であり、踊場のガードストーンと連携している。


靴を脱いで階段を上がり基壇上に入る。太陽の光が白い塔に当たり眩しく見える。あちらこちらに石柱がそびえ立っている。傾いている石柱も多い。


石柱が失われている場所にも柱の基礎が残っている。当時、塔の周りには二列の石柱が周囲を取り囲み、屋根があった。足元は花崗岩で舗装されている。塔の前には礼拝堂がある。


礼拝堂は正面をガラスケースに覆われており、仏陀坐像が祀られている。


塔の周りを右繞すると、所々に倒れた石柱が積み重ねられている。


退出して外からトゥーパーラーマ ダーガバを眺める。欄楯が設けられた白い基壇は高さが3.45メートルで、基壇の直径は50メートルある。


すぐ南西隣に小さなお堂の跡があり、基壇の上には、多くの石柱が立ち並んでいる。立派なガードストーンが置かれている。


隅々まで細かい装飾がみられる美しい彫刻だが、無造作に置かれている。。


あちらこちらに、柱や梁と思われる部材が散乱している。


次に「ルワンウェリ サーヤ大塔」に向かう。トゥーパーラーマ ダーガバからは、東側への参道を50メートルほど歩き右折して、南に延びる歩行者専用道路を500メートルほど歩くと、ルワンウェリ サーヤ大塔の北面に到着する。もともと、この仏塔の周囲は、スリランカに仏教をもたらした長老マヒンダが、この林園を大変気に入ったことから、デーワーナンピヤ ティッサ王が命じ、上座部仏教「マハー ヴィハーラ(大寺派)」のための寺院や坊舎、沐浴池、休憩堂などが建てられたスリランカ仏教の最初の精舎である。


そして、紀元前2世紀、デーワーナンピヤ ティッサ王の血筋を受け継ぐドゥッタガーマニー王(在位:紀元前161~紀元前137)が、スリランカのアショーカ王になることを目指して、仏教拡大に心血を注ぎ、総仕上げとして建造したのがルワンウェリ サーヤ大塔である。内部には、インドから運ばれてきた仏陀の舎利が、大塔の舎利室に奉安されていると伝えられている。

建立当時は110メートルの高さがあったが、現在は55メートルである。塔自体は煉瓦を積み上げたものに白く塗られている。基壇となる土台は、沈下を防ぐために、地中深くにある岩盤に砕いた石灰岩、粘土、樹脂等を5メートル以上積み重ねて象に踏み固めさせる、当時最先端の土木技術で作られている。入口は東側になるため、回り込んで入場する。


仏舎利塔は19世紀の時点で損傷が酷く樹木に覆われていたが、信者たちによる募金活動の結果、20世紀初頭に改装されている。塔の外壁には、聖地を守るかのように周囲を囲む象のオブジェがある。


覆鉢型の白い塔は、煉瓦と石による3段の基壇の上に立っている。突出部であるワーハルカダの前には、礼拝堂があり、多くの参拝舎が列を作っている。


塔上部の四角い平頭の先の傘蓋には水晶が置かれている。


基壇上には、白壁に赤屋根の平屋型の仏堂があり、内部には、大理石で作られた2メートルほどの仏陀立像が数体祀られている。


仏陀の後背の壁には、内側から、青、黄、赤、白、橙の光背が円状に描かれている。仏旗をイメージしているのだろう。周りにも多くの壁画がある。


ドゥッタガーマニー王は塔の完成を待たずに亡くなるが、死期が近いことを知った息子(弟との説もある)で王子のサッダーティッサ王(在位:紀元前137~紀元前119)は白布や絵を使って一夜にして塔を完成させたように見せて、死の間際の父王に見せたという。王は完成を待たずに病に倒れた。基壇上にケースに入れられたドゥッタガーマニー王といわれる合掌した5世紀頃の石像がある。今日は扉が閉まっている。


もう一体合掌した石像がある。こちらは扉が開いている。熱心な仏教徒で、多大な貢献をなしたバーティヤ1世王(紀元38~66)と考えられている。


巡礼者が、合掌しながら、塔の周りを右繞している。


ルワンウェリ サーヤ大塔の見学が終わり、東側の参道の先から、次に、500メートルほど南に歩いて「スリー マハー菩提樹」に向かう。スリー マハー菩提樹からルワンウェリ サーヤ大塔にかけての一体は広大で緑に溢れているが、当時、この辺りが、多くのマハー ヴィハーラ(大寺派)の僧院が立つ精舎だった。


参道途中には大きな菩提樹がある。


スリー マハー菩提樹の手前左側(東)には、多くの石柱が建つ遺構がある。こちらは、紀元前2世紀ドゥッタガーマニー王により建てられた僧院で、創建当時は黄金色に輝く「ローハ プラサーダ(Lohaprasadaya)」(黄銅殿)とか、屋根が青銅だったことから「ローヴァ マハパーヤ(Lovamahapaya)」とか呼ばれている。当時は9階建ての高層で、各階に100ほどの部屋があり、珊瑚や銀などの宝石で飾られた荘厳な建造物だった。


ちなみに、スリランカでは、講義や説教を行う講堂をプラサーダ(ウポサッガラ)と呼び、1階が集会堂で、2階以上が僧の居住空間で、高層も作られた。そして、周囲にパリヴェーナと呼ばれる小規模な僧坊も多く作られた。マハー ヴィハーラには300以上の僧坊があったと言われている。

ローハ プラサーダに残される1600本の石柱(40列×40本)は、12世紀に再建された遺構で、現在は柵に覆われており、敷地内に入ることはできない。


正面の白い門が「スリー マハー菩提樹」のある聖地の入口である。入口の手前左右に小屋があり、そこで履物を預けて、身体検査を受ける。


敷地内に入ると、野生動物から護る為に煉瓦を積み重ねた石台で囲いが造られており、階段が造られている。その階段を上った先に更に、黄金の柵に囲まれた菩提樹がある。ブッダ ガヤーで悟りを開いた仏陀が瞑想していた金剛座の背後に繁る菩提樹から、アショーカ王の娘サンガミッターが小枝を瓶に入れてもたらし、デーワーナンピヤ ティッサ王が植樹した菩提樹と伝わっている。


本家のブッダ ガヤーの菩提樹は何度も枯れて、現在は4代目になるが、この菩提樹は、当時の小枝から成長した菩提樹と言われている。良く見ると、細い枝は、つっかえ棒でささえられている。スリー マハー菩提樹はアヌラーダプラで最も古い仏教史跡で、聖地であることから、常に多くの巡礼者が訪れている。


再びルワンウェリ サーヤ大塔方向(北側)に向けて参道を歩く。大塔に近づくと右手に遺跡が広がっている。マハ ヴィハーラ アームズ(カトゥサーラ、catussala)という。


巨大な石堰が残っている。僧が毎日食事の配給を受けた食堂(施しもの分配所)の跡であろう。


これは仏足石であろう。この前で礼拝したのだろうか。


次に、車に乗り、最北端の「アバヤギリ ヴィハーラ遺跡地区」に向かった。(以下:アヌラーダプラ アバヤギリ地区図参照)。最初にアバヤギリ大塔の西にある「クイーンズ パビリオン」(ムーンストーン サイト)(地図②)から見学する。このあたりは、3世紀ごろに大乗仏教を受け入れた「アバヤギリ ヴィハーラ」(無畏山寺派)の寺院や僧院があった場所である。200ヘクタールの規模を誇り、多くの遺跡が残っている


クイーンズ パビリオンの入口にあるムーンストーン(サンダカダパハナ)は、スリランカでもっとも素晴らしいムーンストーンと言われている。さすがに保護のためか柵で覆われている。


輪の文様は、外側から欲望を表す炎で、次に象、馬、ライオン、牡牛の4頭が列をなす浮彫がある。これは、人生の4つの段階(誕生、老年、病気、死)を象徴する行進で、繰り返すことで輪廻を意味している。


次に、愛する心を表す花の輪、そして純潔を表す花を咥えた白鳥の行列、最後に蓮の花(天国)を表しており、死後ここにたどり着く。。後期のポロンナルワ時代のデザインでは、象、ライオン、馬の行列は別々の輪に配置され、牡牛は削除されている。牡牛はシヴァ神の乗り物で、ヒンドゥ教で崇拝される動物が理由とのこと。先に見学したポロンナルワのクワドラングル遺跡のワタダーゲでは、牡牛に加えライオンも表現されていなかった。


階段を支える小人(ドワーフ)もかなり細かく彫り込められている。


道路を挟んで反対側に「ラトゥナ プラサーダ」(地図④)がある。カニッタ ティッサ王(在位:紀元165~193)によって、当時のアバヤギリ僧のために建てられた寺院で、超高層ビルだったとされ、現在では、太い石柱がのみが残る寂れた光景となっている。


ラトゥナ プラサーダ入口にあるこのガードストーン(守護神像)は、アヌダーラプラ期における最も美しく完璧な守護神像とされている。


8世紀~9世紀頃のもので、ナーガ(蛇王)のレリーフ。立体感のある彫像である。やはり柵で囲われている。


階段側面(ウイング ストーン)のマカラも素晴らしい。


次に道路を越えて遺跡地区を南に進む。すると立派な天蓋のある建物「バロウズ パビリオン(Burrows Pavilion)」(地図⑥)がある。天蓋が残っている遺構は珍しい。


こちらには簡易な屋根で覆われた、巨大な石版がある。マヒンダ4世(在位:紀元956~972)の碑文がある。碑文には、マヒンダ4世王への賛辞から始まり、アバヤギリ ヴィハーラについて記述されている。


煉瓦が積み上げられている。礼拝台のようである。左手の煉瓦の上には、仏足石がある。カッサパ5世(在位:紀元914年~923年)~マヒンダ4世の時代の遺構である。


奥には、簡素な屋根に覆われた仏陀坐像がポツンと置かれている。


当時のこのあたりのイメージ図である。中心に菩提樹が生い茂り、左手には、礼拝台と小仏塔が、奥には碑文であろうか、石版が立っている。右には、やはり、小仏塔が並び、奥に仏陀坐像が見える。周りには仏足石の浮彫が置かれていた。


デーワーナンピヤ ティッサ王はインドから受領した菩提樹の小枝を分枝して国中に植えたため、スリランカの寺院には今も菩提樹が多い。この辺りも「菩提樹堂(ボディーガラ)」(地図⑤)があった言われている。しかし、通りからやや離れ、ガイドブックにも載っていないことから、観光客や巡礼者もなかなか訪れなく、整備も行き届いていない。寂れた風景だが、このあたりもアバヤギリ ヴィハーラ(無畏山寺派)の寺院や僧院が多くあった場所なのだろう。瞑想する僧侶や礼拝する僧侶の姿が見えてくるようである。

林の中に忽然と巨大な沐浴所が現れた。「エレファント ポンド」(地図⑨)と名付けられている。


エレファント ポンドの東側も木々に覆われている。この辺りにも遺跡が広がっている。


こちらは、古代のトイレで、金隠しの石版部分に仏塔とマカラがデザインされている。豪華なトイレである。


僧院がある。石柱には装飾された柱頭が残っている。

(2012.9.17)
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スリランカ(その5)

2013-03-06 | スリランカ
ヘリタンス カンダラマでの3日目の朝を迎えた。9月10日から始まった遺跡ツアーも18日の終了まで、今日を入れてあと2日間となった。


今朝も、部屋からの眺めは、木漏れ日が降り注ぐ景観が広がり大変心地がよい。。


今朝は、朝食前の午前6時半に、ホテルの周りを散策することにした。ホテルの外観は、木々の葉で覆われ、自然と一体化している。。


斜面沿いのホテル棟には、下からの伸びる緑が飲み込んでいく様に見える。


今日は、もともとA9号線を直進した70キロメートルほど先のミヒンタレー(アヌラーダプラの近郊)に向かう予定だが、先に手前にある「アウカナ仏」への見学を希望している。しかし、アウカナ仏へは、A9号線の途中から西に大きく迂回した貯水湖の近くとなり、計120キロメートルほどと遠回りとなる。道路事情が良くない可能性もあることから、急ぎ出発しなければならない。


が、何はともあれ、まずはレストランで腹ごしらえである。


いつもより少し早い午前8時前にホテルを出発した。これで、ヘリタンス カンダラマともお別れとなる。カンダラマ ロードを通り、ダンブッラから、快適なA9号を北上する。10キロメートルほど走行し、左折して田舎道を走行する。20分ほど走ると右手に貯水湖(バラル ウェワ湖とカラー ウェワ湖で、運河で繋がっている。)が見えてきた。道路は、貯水湖沿いを離れて北西方面に向かう。


「アウカナ仏」には、午前9時過ぎに到着した。この巨大な仏像は、5世紀、貯水湖(カラー ウェワ湖)を建設したダートゥセーナ王が、完成を記念して建てたもので、蓮の台座から、頭の先までの高さが11.36メートル。グラネイトという乳白色の石から彫られている。ちなみにダートゥセーナ王は、シーギリヤ ロックに王宮を建造したカーシャパ1世の父親である。


腕を折り曲げたポーズはアブハヤ ムドラといわれ、人々の安寧を願う姿だそうである。施無畏印、与願印、来迎印のように掌を正面に向けず、掌外沿を正面に向ける印相はスリランカ仏の特徴である。


大きくて、間近からは足元部分しか石の質感が分からないが、足指の一本一本や衣褶のシャープに加え、大きく破損しているところも見当たらないことから、全く古さを感じない。とても1600年以上の年月が過ぎ去っているとは思えない。


ただし、頭上のシラスパタは損傷が激しく20世紀になり取り替えられたという。また、1970年代には、像を風雨の浸食から守るため、煉瓦を積み上げて覆いがかけられていたが、美観を損なうと言うことから約20年後に取り壊された。


少し離れて眺めてみる。アウカナ仏の周りは巨大な岩石と、覆い茂る木々だけである。耳を澄ますと、風のそよぐ音、木々のざわめきと鳥の鳴き声だけである。この地に1600年間もの間変わらず大地を踏みしめていたのかと思うと、ただただ合掌である。


思った通り多少時間がかかり「ミヒンタレー」へは午前11時頃の到着となった。ミヒンタレーはスリランカで最初に仏教が伝えられた聖地で、アヌラーダプラから15キロメートルほど東に位置している。現在は、数件の民家が立ち並ぶ農村で、見どころの大半は、階段を登った「ミッサカ山(Missaka Pabbata)」(標高300メートル)にある。

南北に延びる幹線道路から東への坂道を上った突き当りの山の中腹にあたる駐車場で車を下り、最初に、紀元前60年頃に建てられた「カンタカ チャイッテヤ」(Kantaka Caitya Stupa)の見学に向かうべく、左方向(北側)に階段を上っていく。周辺には、僧侶が瞑想したと思われる山肌の洞窟や、石や煉瓦が散乱している。


カンタカ チャイッテヤは、高さ12メートル、周囲が130メートルで、初めて建てられた際は高さ30メートル以上あったと言われる。四方には突出部(ワーハルカダ)があり、象などの細かい彫刻がなされた荘厳壇で、前面には、献花台と更に手前に仏足石が設置されている。


荘厳壇の側面にある石柱にも細かい浮彫があり、この北側の柱頭の上には獅子が見える。なお、東には象、西が馬、南には雄牛が配されている。


南側の石柱には、2000年以上前の蛇王の浮彫があるが、雨晒し(あまざらし)となっている。
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階段を降りて進むと、大きな木が立ち並ぶ山の中腹の広場に出る。東側には、石積みされたやや高い壁があり、中央から階段が延びている。先に、壁を避けた、左奥にある「食堂跡」に向かった。こちらが、東側から広場の方向を眺めた様子で、手前中央の敷地が下がった四角形(長さ19メートル、幅7.6メートル)が「食堂跡」になる。周囲には倉庫で囲まれていたことを示す柱の基礎が数多く残っている。


食堂跡の東側面には、食堂への低い階段が設けられ、その先に食堂の幅より少し横長の大きな石櫃(せきひつ)が置かれている。この中に僧侶が食べる米を入れていたと言われている。かなりの大きさであり、多くの僧侶が生活していたことがうかがえる。


食堂の倉庫跡には倉庫に運び込むための部材が残り、その南隣は、擁壁が三段に渡り築かれた斜面で上部に柱などが広がっている。広場に回り込み階段を上ると、踊り場と最上階の左右には、1メートルほどの高さの小さな煉瓦積みのストゥーパが対で安置されている。その最上階に正方形の床があり、マヒンダ王 (在位:956~976)により建てられた僧院の規則などが書かれた石版が2枚建っている。後方には柱が残っており、僧侶のための住居だったと言われている。


階段を下りた南隣には、正方形(19メートル四方)の基壇の上に、オープンスペースの「僧院の会議場跡」があり、中心にはムーンストーンと階段のある登壇台が設置されている。


次にミヒンタレー遺跡群の中心地アムバスタレー大塔に向かう。会議場跡の南側から、東方向へ勾配の強い階段を上っていく。こちらは、階段を上りながら振り返った様子で、地元の人がお土産や御供などを売っている。山頂まで続く階段は、北側の麓の駐車場から、南側の中腹の広場を経由し、左折して東のミッサカ山頂上まで続いている。麓から頂上まで合計1,840段の階段があるが、今日は中腹付近まで車を乗り付けているので、少し近道となっている。


階段を上り切り、平らな道となったが、傾いて歩き辛い。良く見ると継ぎ目がなく、大きな岩の上を歩いている。


再び現れた階段を上りきった前方には、煉瓦の円形基壇上に立つ白亜のストゥーパ(仏塔)が見え始めた。こちらが、山頂に建つ中心聖地「アムバスタレー大塔」になる。左側のチケットオフィスを通り過ぎ、砂地を歩いた先の大きな円形基壇の手前で、靴を脱ぎ、靴下で壇上に上っていく。壇上に残る多くの石柱は屋根の名残である。石柱の間には一体の黄金像が立ち、その大塔の右側後方に見える大岩には、大勢の人が登っているのを確認できる。
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仏陀により説かれた仏教は、インドで最初に統一国家を成し遂げたマウリヤ王朝のアショーカ王(前268頃~前232頃)が仏教に帰依したことにより、各地に伝わった。王は、自らの子のマヒンダをセイロン島に派遣し、仏教を伝えたが、これが、スリランカ仏教史の始まりと言われている。マヒンダ長老は当時32才、他の4人の比丘と、見習い僧、信者の7名の伝道団であったという。

比丘とは、仏教に帰依して出家入道した男子のことを言い、新たな比丘に参加するためには5名の比丘による受戒の儀式が必要とされた。もともとミヒンタレーは、アムバッタラの丘と呼ばれており、当時、たまたまこの丘に鹿狩りに来ていたシンハラ朝のデーワーナンピヤ ティッサ王(在位:紀元前247~207)が、マヒンダ長老の伝道団と出会うことになった。紀元前247年6月の満月の日であったという。そのマヒンダ長老の姿が、塔の斜め前の黄金像として復元されている。


基壇の南東側にはデーワーナンピヤ ティッサ王の像が復元されている。マヒンダ長老は、出会った王に対し2つの質問を投げかけるが、王は迷うことなく正確に返答したため、長老は王が仏陀の教えを聞くに十分な知性と理解力があると判断したという。


そして、マヒンダ長老が王に、小象跡喩経(仏陀がバラモンに対して、彼が持ち出した「象の足跡」の喩えに返す形で、仏陀を信じるに値する根拠について説く。最終的にバラモンが、三学(戒定慧)に深く納得し信者となる。)を説くと、深く感銘を受けた王は、従えていた4万の人々とともに、仏教に帰依したという。王はマヒンダ長老に向かって合掌している。


このデーワーナンピヤ ティッサ王が仏教に帰依した後、アムバッタラの丘は、ミヒンタレー(マヒンダ長老が由来)と呼ばれるようになる。そして、仏教は、瞬く間にスリランカに広がっていった。

アムバスタレー大塔の後方には、マヒンダ長老が瞑想していた巨大な岩(インビテーションロック)がある。時刻は午前12時を過ぎていたので、食事に行くとインビテーションロックに登れなくなると思い、ガイドだけを食事に行かせて、登ることにした。


岩を登りながら振り返ると、南西方面の丘の頂上にマハー サーヤ大塔が見える。ここには仏陀の髪が祀られているという。


下を見ると大勢の人が登ってくる。通路が狭いので離合が困難である。


頂上のスペースは数人で一杯である。僧侶が頂上にいる。


左下には、先ほどまでいたアムバスタレー大塔が見える。右側(北側)には真新しい白い大仏が安置され、台座の前で子供たちが遊んでいる。
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インビテーションロックの後方(南東方面)には、多くの貯水池が見える。頂上は、見晴が良いのでゆっくりしたいが、多くの人が登ってくるのであわただしい。とても瞑想していられない。


混雑し始めたので、階段を下り、岩の中腹の通路から、少し離れた場所の岩陰から座って景色を眺めていると、マヒンダ長老の瞑想場所だったのかもしれないと心地よさを感じた。。


階段を下り、次に、向かいの丘の上に建つ「マハー サーヤ大塔」に向かうが、近づきすぎて、画面におさまらなくなった。基壇の直径は41メートルある。アヌラーダプラ王国30代マハダティカマハナガ王(西暦7〜19)(Mahadathika Mahanaga)により建てられたが、かなり老朽化し、近年改修され美しい姿を取り戻したばかりである。


そばに小屋があり、中から大勢の人が出てきた。


中に入ると中央に横臥像が安置されているが、これまでの像と異なり枕に頭を乗せていない。肩肘をついて寝そべり、やや艶めかしい姿でもあり、あまり有難さを感じない。。


周囲には、涅槃が近づく仏陀を見守る仏弟子たちの像が飾られている。


塔の東側には、マヒンダ長老の遺骨が納められた、やや大きな仏塔がある。


マハー サーヤ大塔の見学が終わり階段を下りるころ、午後1時半を過ぎた。岩を削って作られた階段は、摩耗して滑りそうである。


階段を下り、左折して進んだ山肌の斜面沿いに「ナーガポクナ」(蛇の池の意味)がある。雨水が満たされると、他の施設へと供給されていた。


ガイドについて下山する。食堂跡や会議堂跡がある中腹の広場から、階段を少し離れて山肌を歩くと、あちらこちらに遺跡が広がっている。


建物の跡と思われるが、特に案内表示が見当たらないので、なんの遺跡かわからない。


階段途中の踊り場の左側に「沐浴場の跡(シンハ ポクナ)」が残されている。崖の淵にある大きな石桶がそうである。


水道管を通って、上部のワニの口から、石桶に水が注ぎ込まれていた。石桶の周りには、細かい浮彫が施されてる。


崖側は、石が積み重ねられており、その中に立ち上がった獅子が表現されている。シンハ ポクナとは獅子の池を意味しており、石桶に注ぎ込まれた水は、この獅子の口から勢いよく吹き出す仕組みとなっていた。僧侶は、この石像に向かって身を清めていたと考えられる。


引き続き、長い石階段を下りて行く。


煉瓦が積まれた小さな仏塔が2つある。最近修復されたのだろうか。急な階段がありカンタカ チャイッテヤと案内表示がある。


階段を下りた麓が、ミヒンタレー見学の起点となる場所で、ミッサカ山に建つマハー サーヤ大塔の威容が確認できる。階段手前の交差点の右側(西側)には駐車場があり、左側には遺跡が広がっている。


通り沿いからその遺跡を眺めると、広範囲に不規則な石柱が立ち並んでいる。手前には片方のガードストーン(守護神像ではなく壺がデザイン)が残る外門があり、左右から後方にかけて大きな正方形の外壁を形成している。その外壁内には、5つの正方形の建物跡があり、1つは外門から通じる中央に入口があり、他の4つは中央の建物の対角状にあり、入口はそれぞれ向かい合っている。


迎えの車に乗り、先の交差点を左折し、西方面の細い通りを進んだすぐ左側(南側)に正方形の「古代の病院跡」が広がっている。38メートル四方の正方形で、セーナ2世王(853年~887年)が建てたとの表示がある。通り側の反対となるミッサカ山側に門柱が残され、僧院や仏塔などの入口装飾と同様に中心付近の建物区画には、ムーンストーンやガードストーンで飾られた階段がある。小さな区画は病室で、床には美しい浮彫が施され、石の手すり、石碑、骨壷などが出土している。
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通りに近い北東角の区画に人の形にくり抜かれた不思議な石の桶がある。この中に病人を寝かせ、薬用油を注いで治療したと言われている。現代のアーユルヴェーダである。それにしてもややサイズが小さいように思える。


古代の病院の跡の西、南北に走る道路(A9号)を南に200メートルほど下った右手にも遺跡が広がっている。小さな仏塔が見える。カトゥサーヤという。覆鉢には仏旗をイメージしているのだろか布を巻いている。


階段脇の守護神像(ガードストーン)の膝から下は土に埋もれている。側にはお供えした後の陶器の小皿が散乱している。ムーンストーンは完全に土面に埋もれて見えない。


こちらの仏塔はインディカトゥサーヤといわれ、セーナ1世王(833~853)の時代に建てられたという。


周りには、基壇と石柱が残る僧院の跡が複数点在している。入口階段には、ムーンストーン、ガードストーンが配されている。


こちらは、修復中のようだ。右側の煉瓦が新しく積まれている。このあたりには観光客や巡礼者らしき姿はみえない。


午後3時過ぎ、ミヒンタレーの見学は終わり、ミヒンタレーホテルのレストランに遅めのお昼に行く。このあたりは食べるところが少ないらしい。


今日もカレーを食べるが、ミヒンタレーは聖地であるため、アルコールを置いていないとのこと。。まもなく午後4時になるので、これからのアヌラーダプラの見学は難しいので、諦めて、今夜のホテルに向け出発した。


ホテル宿は、ミヒンタレーから、20キロメートル西の、途中アヌラーダプラを過ぎた所にある「パーム ガーデン ビレッジ ホテル」である。50エーカー(東京ドーム5個近くに相当)もの広い林の中にコテージが点在しており、ホテルの奥にある池には時折、象が現れるという。

到着後、日が暮れる前に、散策に出かけた。ホテル敷地を南にしばらく歩くと、柵があり扉がある。扉から外に出ると土手があり池が見えた。この土手はこの池のまわりを取り囲むように伸びている。辺りは一面ジャングルが広がり、木々のざわめく音だけが聞こえ、たしかに動物が現れそうな雰囲気がある。しかし、そうこうしているうちに薄暗くなってきたので、ホテルに戻った。

(2012.9.16)
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スリランカ(その4)

2013-03-04 | スリランカ
ヘリタンス カンダラマで朝を迎える。今日は、ポロンナルワの遺跡地区に向かうことにしている。11日にゴールをスタートし、聖地キャンディ、ダンブッラの黄金寺院、古都シーギリヤと巡って来たが、残るは、古都ポロンナルワと聖地アヌラーダプラである。ちなみに、南のキャンディ、北のアヌラーダプラ、東のポロンナルワの3都市を結んだ三角形の内側は歴史的な遺跡群が残る地域として「文化三角地帯」と言われている。


窓の外は、一面木々に覆われており、森の中にいるようだ。ヘリタンス カンダラマは、スリランカを代表する建築家ジェフリー バワ氏設計のホテルである。


ホテルのレストランに行く。朝のレストラン会場は、周囲の大きな窓から降り注ぐ木漏れ日が清々しく、心地よい雰囲気である。また、広いテラスには、調理人が配置された屋台なども設置され、大変豪華なブッフェとなっている。


まずは腹ごしらえ。


湖畔側の窓際のテーブル席に陣取っていると、窓の外の木々には、次々と猿(ハイイロオナガザル)が現れる。。


そのカンダラマ湖(貯水湖)は、この時期は湖面が低く、緑の平原が広がっている。遠くには朝靄に霞むシーギリヤ ロックと、その北側のピドゥランガラ ロックを同時に望める。


朝食を終え、ガイドの車でホテルを出発し、1時間半ほどでポロンナルワ遺跡に到着した。時間は午前10時を過ぎたところ。古都ポロンナルワは、宮殿や寺院などといった様々な遺跡によって構成されており、最初に中心部から2キロメートルほど南のポトグル ヴィハーラ寺院近くにある石立像の見学から始める。

パラークラマ サムドラ貯水湖の東湖畔で、南北に延びる通り沿いにある駐車スペースから車を下り、北東方面に100メートルほど歩いて行くと、なだらかな坂の上に、トタン屋根で覆われ、大きな岩から彫り出された立像がポツン。。と立っている。彫像の高さは約4メートル、腰布をまとい、上半身は裸で、立派な髭を蓄え、両手で書物(貝葉の経典)を広げている。ポロンナルワを発展させたシンハラ王朝パラークラマ バーフ1世(在位:1153~1186)と言われている。


もともと、シンハラ王朝の都はアヌラーダプラにあったが、インド亜大陸からの侵略に絶えず悩まされていたことから、11世紀初頭のヴィジャヤバーフ王の治世に、東南およそ80キロメートル離れたこのポロンナルワの地に遷都している。王は、灌漑設備を回復させ、国の再建に努め、貿易を推奨し、また、仏歯を納める寺院を建立し、仏歯祭を実施、ミャンマー王からの援助をもとに高僧を招いて仏教の普及に力を注いだ。

しかし、その後、後継者争いが起こり、国土の平和が乱れるが、1153年、パラークラマ バーフ1世により、再び平和がもたらされる。王は都の発展に努めたことから、交易と農業が栄え、ポロンナルワを中心にシンハラ王朝は黄金時代を迎えることとなる。また仏教界でも、マハー ヴィハーラ(大寺派)、アバヤギリ ヴィハーラ(無畏山寺派)、ジェータヴァナ ヴィハーラ(祇多林寺派)の三派による対立を、王は仏教界の改革を推し進め、1165年には、マハー ヴィハーラ(大寺派)に統一している。

パラークラマ サムドラ貯水湖(水路で接続された5つの貯水湖(2400ヘクタール)で構成)を最初に建設したのもパラークラマ バーフ1世で、現在も周辺の人々の生活を支えており、スリランカでは歴史上冠たる王として尊敬されている。その貯水湖の東湖畔を通り、次に、ポロンナルワの遺跡地区の中央部に向かう。


最も大きい貯水湖(カラハガラ タンク)の北側に隣接する2番目に大きい貯水湖(ベンディウェワ)の東湖畔に、ニッサンカ マーラ1世(在位:1187~1196)の宮殿跡が残されている。ニッサンカ マーラ1世は、南インドのカリンガ王朝出身でパラークラマ バーフ1世の次に王位を継いだが、南インドからの度重なる侵略などから、王の死後、ポロンナルワは衰退の一歩を辿ることになる。

湖畔沿いの通りの、やや内側にある駐車場から石畳の道を歩き、” アイランドパーク " の案内板から公園内に入ると、最初に現れる遺跡が「王の沐浴所(ロイヤルバス)」で、ニッサンカ マーラ1世の入浴場所と言われている。水は、左側(西側)すぐ先の貯水湖からトンネルを経由して注ぎこまれ、北側に、浴槽への階段と着替え場所などが残されている。沐浴所は、右側にかけて長い楕円状となり、長軸は25メートルほどの広さがある。


王の沐浴所から左に回り込んだ北隣が、ニッサンカ マーラ1世の「宮殿跡」だが、横長の敷地に煉瓦積みの基礎部分だけが残っている。その北隣には、南北に長い長方形の敷地を持つ2層のひな壇に多くの石柱が並ぶ、ニッサンカ マーラ1世の「評議会室」がある。このエリアは、やや西側に突き出たコブのような半島で、評議会室の北側から西側にかけて湖畔に面している。その湖畔側に壇上への階段がある。


2層のひな壇は、煉瓦の積み重ねで形成されているが、所々、象の姿が刻まれたレリーフがはめ込まれている。


階段を上がると、石柱が並んでおり南奥に大きな石造の獅子像がある。王が座る王座の支えであったと考えられており、獅子のお腹の下にはニッサンカ マーラ1世の碑文が残されている。石柱は、粘土瓦で覆われた屋根を支えていたと言われている。


次に、東隣のパラークラマ バーフ1世の宮殿跡に向かう。王の沐浴所から駐車場に戻ったすぐ先に博物館がある。こちらで遺跡への入場料金を支払うとDVD付のチケット(外国人料金)が渡された。館内には、ポロンナルワからの出土品や遺跡の復元模型などが展示されているが、写真撮影は禁止だった。。博物館を見学後、東側から歩いて大道りを横断した先が「パラークラマ バーフ1世の宮殿跡」への入口になる。こちらは、入口を入り100メートルほど東に歩いた場所で、北西方向に大きな煉瓦造りの宮殿址が望める。


40メートル四方の広大な二層の基壇が、宮殿の敷地となり東側に壇上に上る階段がある。階段を上ってすぐの門の遺構を過ぎると、前庭が広がり、その先の高層の煉瓦壁が宮殿の外観となる。階段からの直線通路は壁の間を通り西に続いている。

宮殿は、当時7階建てのピラミッド状の建物だったという。今は3階部分までの煉瓦造りの壁までしか残っていない。木製の床を支える柱がはめ込まれた跡が残っている。3階までは煉瓦と木を使い、4階より上は木造の宮殿だったと言われている。


東隣には、1055年に建設されたヴィジャヤバーフ王の宮殿址があるが、煉瓦の基礎が残るだけで、遺跡の中央を貫く様に、東西に砂道(見学通路)が続いている。その宮殿址東端の北隣に、3段ひな壇に石柱が並ぶ「閣議場跡」がある。


閣議場の基礎部分には象などのレリーフがある。南北に長い長方形で、北側に獅子像が配された階段があり上ることができる。


階段を上ってみる。壇上には、多くの角柱が残されている。柱の下部には、童子の様なドワーフの浮彫が梁を支える浮彫があり、その上には、草花のモチーフなどが刻まれている。中央やや上部から50センチメートルほどにかけて角面が削り込まれ、内側には、木材が差し込まれていたと思われる穴が開いている。頂部は正方形を背景に、花や壺などの家紋を思わせる浮彫が施されている。


ヴィジャヤバーフ王の宮殿址の南東側は、斜面になり6メートルほど低い場所に、王族が使用するために作られた沐浴場がある。直径12メートルほどの矩形で、周囲は3層で形成されている。宮殿址のエリアからは階段で直接浴槽まで到着できる。


水の注ぎ口は鰐の口の形をしており、南側を流れる、湖から引き込まれた運河からの水がトンネルを通じて流れ込む様に設計されている。


パラークラマ バーフ1世の宮殿跡の北側から車に乗り、遺跡内の道を600メートルほど北に行くと、駐車場があり、左側にやや急な階段がある。上り終えた先は、所々に柱と基壇が残る入場門(Gate House)で、その先から視界が開け「クワドラングル(四辺形)遺跡公園」(11の遺跡)が広がっている。

入場門からは、東西にメイン通り(砂道)が延びており、すぐ左側には、クワドラングルで最も目を引く円形の建物「ワタダーゲ(Vatadage)」がある。こちらは、周囲を歩き南西側から眺めた様子である。ワタダーゲは、1メートルほどの高さの円形基壇上に更に2層あり、その上に柱が一定間隔で並ぶ欄楯(らんじゅん)が取り囲み、内側に6メートルほどの高さの煉瓦塀が築かれている。


シンハラ王朝パラークラマ バーフ1世が、仏陀の歯を祀るために建てた説や、ニッサンカ マーラ1世が、仏陀が使用していた応量器を納めるために建てた説などがある。いずれにせよスリランカでは、最も保存状態の良い仏教遺跡である。

メイン通り側の北入口から数段の階段を上りまっすぐ進むと、円形基壇のプラットフォームに到着する。周囲は、広いスペースで、内側の壇まで4メートルほど幅がある。


内側壇の一層目には柱と獅子が、二層目には柱とドワーフがコーニスを支える姿の浮彫が連続して施されている。その上の欄楯は花文様の浮彫となっている。
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プラットフォームの北面からは、上部の仏陀像に向けて階段が続いているが、東西南面にも、同様の階段が設置されている。
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それぞれ階段の手前には、ムーンストーン(サンダカダパハナ)と呼ばれる半円状の浮彫がある。これはスリランカ建築の特徴の一つで、寺院など神聖な場所の階段下に設置されるが、信者が入場前に身を清める意味が込められている。こちらには、外周から縁取りを挟みながら、唐草文様、アヒル、真中が象、馬、草花文様と浮彫が施されている。


階段の左右には、ガードストーン(守護神像)が設置されている。聖域への悪魔の侵入を防ぐ目的のもので、7つ頭蛇が頭上を覆い、足元には2人の小人(ガナ)を配し、吉祥壺を捧げた姿であらわされている。


数多くの童子の様なドワーフの浮彫が施された階段の間(蹴上げ)を見ながら、最上部に上ると、中央には、煉瓦を積み重ねた饅頭形の覆鉢(仏塔)があり、東西南北の4体の仏陀坐像(1体は破損)が取り囲んでいる。仏像は高さ1.5メートルで、0.86メートルの高さの台座に座っている。半跏趺坐に禅定印、衣は薄手で偏袒右肩で、どの坐像も、何度も修復された痕がみられる。


周囲の煉瓦壁は76センチメートルの厚さがあり、内側には壁画で飾られていた。仏陀坐像との間は繞道で、右繞しストゥーパ(仏塔)を礼拝することができる。足元に残る柱の基礎は、当時、覆屋が存在していた名残である。


ワタダーゲへの入口と対となるメイン通りの北隣には「ハタダーゲ(六十聖堂)」(Hatadage)(60日間で建てられた意味)の入口門がある。周囲は、幅27メートル×奥行き37メートルの外壁で囲まれ、2階建て構造だった。12世紀、ニッサンカ マーラ1世により建てられた仏歯寺跡で、仏歯は2階に安置されていたと考えられている。門を入ると、王をたたえる碑文が残されている。


門を入ると前庭で、先に見えるムーンストーンのある階段から本殿となり、本堂中央に花崗岩から彫り出された3体の仏像(中央が2.7メートル、左右が2.3メートル)が安置されている。本堂は上部が木造で瓦葺きの屋根があった。
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ハタダーゲの先隣り(西)にあるのが「アタダーゲ(八聖堂)」(Atadage)(8日間で建てられた意味)で、11 世紀ヴィジャヤバーフ王により建てられた唯一現存する建物とされる。仏歯寺を守ることを命じた碑文があり、ポロンナルワ最初の仏歯寺跡ともされている。こちらは、ムーンストーンを始め、アヌラーダプラで使用した部材を移設して、急ぎ建設されたと言われている。


敷地内には54本の柱が残されており、長年の雨風にさらされ、表面部分に白華が浮き出るなどしているが、細かい装飾は残されている。特に入口を入った左側の石柱が素晴らしい。小人が柱の最下部で吉祥の壺を両手で持ち上げ、その壺から蓮華が出ており、その蓮華が円形にとぐろを巻き、円形内にも人物が彫りこまれている。仏歯は、 2 階に安置されていたと考えられており、今も階段の一部が残っている。奥の部屋には仏陀像が3体あったが、現在は中央の1体のみが残っている。
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アタダーゲと対となるメイン通りの南側(ワタダーゲの先隣り(西))には、わずかな基礎の遺構に、小仏像(弥勒菩薩とも言われる)が建っている。大寺派以外の二派は大乗仏教や密教を取り入れていたため、その当時の遺物かもしれない。そして、その先右側に「菩提樹跡」と、奥にドームが印象的な「トゥーパーラーマ」(Thuparama)が望める。
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小仏像が立つ遺構の右隣(西側)にはニッサンカ マーラ1世により建てられた「ラター マンダパヤ」(Nissanka Latha Mandapaya)がある。高台の石の上の中央に破損した小さな仏塔があり、周囲を曲線的な形をした高さ2.54メートルの8本の柱が並んでいる。これは風に揺れる蓮の茎をかたどったものとされ、この場所で王が僧の唱える読経を聞いていたと言われる。東側に門があり、周囲は石の手すりで囲まれている。
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小仏像が立つ遺構と、西隣のラター マンダパヤとの間を歩いて「トゥーパーラーマ」に向かう。すぐ右側にある遺構が「菩提樹跡」になる。


そのすぐ先が「トゥーパーラーマ」になる。煉瓦と漆喰で作られた仏堂で、ポロンナルワで最も保存状態の良い建物の一つと言われている。


この建物の特徴は円天井とアーチである。かっては正面に煉瓦製の仏像があり、上の小窓から陽光が入り、仏像の目に入れた宝石が光る仕組みになっていた。しかし宝石は略奪され、仏像も破壊されたという。


現在は7世紀の仏像が数体残っているだけである。石灰石に炭酸マグネシウムが多く含まれているドロマイトという岩で彫られており、光が当たるとキラキラ光る。


まもなく午前12時半になる。クワドラングル遺跡は、最後に、メイン通りの入場門(Gate House)手前まで戻った北側にある「ガルポタ」(石の本)を見学する。ヤシの葉の本の形をした石碑で、重さ25トン、長さ9メートル、幅1.5メートル、厚さ44~46センチメートルの大きさがある。ニッサンカ マーラ1世の命で、100キロメートル離れたミヒンタレーから巨石が運ばれ、文字が刻まれた。王への称賛や、近隣諸国との関係など当時の社会情勢が記録されている。


すぐ北東側となるクワドラングル遺跡の敷地の端に、7階建てのピラミッド状の「サトゥマハル プラサーダ」がある。タイから来た建築士により建てられたもの。ところどころ穴が開いており、守衛用の塔だったとも言われるが、その用途はよくわかっていない。


クワドラングル遺跡を出て、1.5キロメートルほど北上すると、左手に見えてくるのが「ランコトゥ ヴィハーラ(Rankoth Vehera)」である。12世紀、ニッサンカ マーラ1世により建てられたもので、正方形の基壇の直径は170メートル、高さ33メートルあり、ポロンナルワでは最大の大きさ(スリランカ国内では5番目)を誇っている。ランコトゥは、金の尖塔を意味し、当時は尖塔の部分が金で覆われていた。


次に、本日のメインとも言える「ガル ヴィハーラ寺院」に向かう。ランコトゥ ヴィハーラから、更に700メートルほど北に向かい、突き当りを左折した先の駐車場から歩いて行く。ポロンナルワ遺跡の北にあることから「北の僧院」とも呼ばれている。

駐車場から、歩行者専用通路を200メートルほど歩くと、左前方に、鉄骨スレート屋根で覆われた石造群が見えてくる。横広の一塊の花崗岩から切り出された石像が、手前から、坐像、窟院、立像、涅槃像の順番に並んでいる。スリランカ仏教小史には、ヴィッジャーダラ(呪術師)窟、ニシンナパティマー(座像)窟、ニパンナパティマー(臥像)窟と、3つの窟院を造営したとの記述がある。

こちらは右端の涅槃像で、約14メートルの大きさがある。流線型のなだらかな姿態で、まさに今涅槃に入ろうとしている姿をしている。頭の下の枕の模様は太陽のシンボルである。


左右の足が前後にずれているのは、涅槃像特有の姿と言われている。


台座はなく、やや薄手の岩の上に横たわっている。もともと専用の屋根があったらしく背後に穴が数か所あいている。鉄骨スレート屋根は、石像の損傷・風化を防止する目的と思われるが、やや粗末な印象で景観を損ねている。
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涅槃像に向かって左手には高さ6.9メートルの巨大な立像が切り出されている。仏陀像か仏弟子のアーナンダ像のいずれか見解が異なり論争が続いている。
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仏陀説は、目元と胸の上で腕を組む姿が、仏陀の深い情けが伝わってくるためと言い、アーナンダ説は、仏陀が涅槃に入り、悲しみに暮れている姿とのこと。しかし、胸の前で両手を交差する姿は珍しい。ダンブッラの石窟で、やや近い印の姿の立像を見たが、あまり例がないかもしれない。いずれにせよ、岩塊にある自然の縞模様が変化に富み、微妙な趣をもたらせており、まさに傑作といえる大変素晴らしい像である。
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次に窟院があり、金網の中に厳重に管理されている等身大の仏陀坐像が見える。両脇には梵天像とヴィシュヌ像が彫られている。台座、光背、天蓋、両脇侍全てが、岩をくり抜いて制作されている。仏陀の表情、全体的なバランス、どれをとっても圧巻である。
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入口すぐ脇の壁面には、僅かに壁画が残っている。上部には白ひげを蓄えたバラモン僧と、下部には宝冠を付けた天人とが描かれている。こちらも見事な作品である。


左端には、高さ4.6メートルの瞑想する仏陀坐像がある。後背の浮彫は浅彫りで怪魚マカラが肩から膝にかけて外向きに表現されているが、坐像にはよくマッチしている。瞑想にふける表情には、洗練さと気高さが同時に伺える。衣褶は二重線で表現されている。台座にも獅子など細かい浮彫が施されている
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ガル ヴィハーラ寺院の駐車場から、通りの南側には「キリ ヴィハーラ」(キリはミルクの意味)で、漆喰は近年のものだが、700年間ジャングルに覆われていたにも関わらず、剥離することなく、ほとんど当時のまま残っていたとのこと。パラークラマ バーフ1世のサバドラ女王が建てたものと言われている。駐車場から、車に乗り、更に北にある遺跡を目指す。。


ガル ヴィハーラから1キロメートルほど北に位置する「蓮の形をした水槽跡」に到着した。直径8メートルで8段のステップがある。当時は僧の沐浴場だったといわれる。


そしてポロンナルワ遺跡の最北端にあるのが「ティワンカ ピリマゲ寺院」(北院)になる。ティワンカとは体を3つの折り曲げる(三段屈)ポーズを意味している。


この寺院に置かれている仏像は腰と首とが3方向対象に曲がったポーズをしている。残念ながら、頭が失われてしまっている。


この寺院の見どころは内部の美しい壁画にある。ニッサンカ マーラ1世の死後、インド亜大陸による支配を受けたことから、時の王ヴィジャヤバーフ3世はダンバデニヤに遷都し、その後も遷都を繰り返す。ポロンナルワの地を再び復興したのは、1287年に王座についたパラークラマ バーフ3世で、この壁画はその時代に描かれたもの。仏陀の前世の修行(ジャータカ物語(本生話))や仏教の教えなどが壁画として描かれた。


こちらは、三十三天(とう利天)の様子を表したもので、宝冠を身に着けた優美な天人たちが多く描かれている場面である。仏陀が、母マーヤー夫人に法を説くために向かったのが三十三天とされる。


頭上で手をあわせたポーズが何とも印象に残る画である。


尖った宝冠を頂く姿はアプサラスをイメージさせる。保存状態は悪く、かなり劣化しているが、すぐ目の前で、日の光が届く中で見ることができたのは良かった。


以上で、ポロンナルワ遺跡見学は終了である。現在午後2時を過ぎたところ。概ねメインの箇所は見学できお腹も減ったことから昼食を食べにガイドにレストランに連れて行ってもらう。食事をした後はホテル(ヘリタンス カンダラマ)へ帰ることにしている。


ホテルに到着後、日没前にホテルのプールでひと泳ぎしたが、日がかげって寒くなったので、少し泳いで引き上げた。それにしてもプールの水面と遠くカンダラマ湖(人工湖)が重なる景色は雄大さと開放感を感じ何ともいえず気持ちが良かった。


日の入りの時間になった。周囲には人工物も人の姿もなく、カンダラマ湖の先に夕日が沈む雄大な景色を見つめ続けた。まさに、絶景!美しい。。


午後8時にレストランで夕食を食べに向かった。昨日同様にブッフェ形式だが、メニュー内容は多少異なっていた。今夜もついつい取りすぎてお腹が一杯になる。ジェフリーバウワー設計のこのホテルは、広々としたオープンスペースが多用され、どの場所にいても、解放感があり、心地よく贅沢な気分にさせてくれる。

(2012.9.15)
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スリランカ(その3)

2013-03-02 | スリランカ
今日はキャンディの北に約70キロメートル先の「ダンブッラの黄金寺院」に行くことにしている。ダンブッラは、キャンディから北に位置するアヌダーラプラを結ぶA9号線の中間にある。まずは「スパイスハーブ園」に寄ってダンブッラに向かうこととし、そのハーブ園では、日本語が流暢なガイドの説明で見学をする。こちらは " クルクマ " というウコンの仲間で、根茎部を粉末にするとスパイスになり、主に黄色の着色料(カレー)として利用される。


見学コースには見本が置かれており、それぞれ手に取って香りを確認することができる。


こちらの赤い実は胡椒である。一通り見学して、現地のスタッフの説明を聞き、買い物を終え、引き続きA9号線を北上する。


1時間ほどで「ダンブッラ黄金寺院」(Dambulla Cave)に到着した。黄金寺院は、A9号線沿いでダンブッラ南側の旧市街にある。時刻は、午前12時になったところ。車を降りて歩くと、正面に巨大な黄金の大仏「Golden Buddha」が見えてくる。その黄金大仏の下には、テーマパークの雰囲気のある獅子があしらわれた派手なエントランスがあるが、こちらは博物館への入口であり、石窟へは大仏の横にあるチケットオフィスから、左側にある石段を上って行った先になる。


15分は上っただろうか、日差しが強く汗だくになった。ようやく階段を上りきると、右前方に波打つような岩山が見える。ダンブッラ岩山は高さ355メートルある。


階段先に建つ(岩山の中腹左側)建物が石窟群の入口となる。


ここからは、土足厳禁なので、靴を預けて靴下で歩いていくが、地元の人たちは、熱い岩にも関わらず素足で歩いて行く。。先に進むと、洞窟の入口には、アーケードのある白い建物が築かれ、ここから日差しを避けながら見学することができる。石窟は、アヌラーダプラ時代(紀元前1世紀~紀元10世紀)と、ポロンナルワ時代(紀元10世紀~紀元12世紀)に建設されたものが中心で、計5つの石窟寺院から構成されている。


手前の建物が、第1窟「デーワ ラージャ ヴィハーラ」(神々の王の寺)と名付けられた最古の石窟で、入口には1世紀のブラフミーの碑文が残されている。石窟内には、台の上に約14メートルもの巨大な仏陀像が切り出され横たわっている。仏陀の顔の前面から足先にかけて、ぎりぎり人がすれ違うことができる幅狭い通路だけが延び、全身を写真に収めることはできない。。


横たわる仏陀像は、日本では亡くなる際の「涅槃像」として一般的だが、スリランカやタイでは、目を開けた像が多く最後の説法を寝姿で行う「寝釈迦像」として知られている。英語では「The Reclining Buddha」(Sleeping Buddha)と標記されることが多い。天井や側面には、仏陀の坐像や立像、弟子たちが描かれているが、石窟壁画の多くは17世紀に修復されたもので、その後も頻繁に修復や改変が行われている。

手前の狭い通路から回り込むと仏足裏には、花模様が描かれている。赤く塗られているのは、紀元前5世紀にインドから来たスリランカの最初のウイジャヤ王(紀元前543頃~前505頃)の手のひらが赤かったことに由来している。


仏足の先には、ややスペースがあり、側面には、鮮やかに描かれた光背の前面に、半跏趺坐で禅定印を結ぶ仏陀像と、弟子のアーナンダ(阿難)立像が並んでいる。仏の教えを各地に伝えた仏陀は、死期を悟り、唯一アーナンダをお供に最期の旅を続け、最後の地クシーナガルで「頭を北に向けて床を用意してくれ、わたしは疲れた。横になりたい。」と言い、横たわれたと伝えられている。


次の第2窟は「マハー ラージャ ヴィハーラ(偉大な王の寺)」と呼ばれ、数メートル離れた2か所の入口がある。石窟内は、左右が横広の長方形で、垂直に切り出された入口側の4~5メートルほどの天井から奥にかけて徐々に低くなっている。黄金寺院では最大規模の石窟で、石窟というより大ホールといった感じ。窟内には、40体の坐像と16体の立像の計56体もの仏像が切り出されている。

こちらは、奥に並ぶ仏像群を、右奥の側面から中央側を眺めた様子で、仏龕に納められた仏陀立像を中心に、華やかな台座に大きな光背を備えた仏陀坐像や、多くの立像と坐像(半跏趺坐に禅定印)が20数体並んでいる。そして、手前には、大人の腰よりやや低い位置に、お供え台として木製テーブルが置かれている。
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頭上の飾りは、シラスパタ(火焔形頭飾)という宝珠光で、衣は肌と同色の黄金で、薄く身体に密着している。今まで見たスリランカ仏もそうだったが衣の羽織り方は、偏袒右肩である。ところで、ガンダーラ地方の仏像は、通肩で厚手の衣が多く、インド・マトゥーラ地方は偏袒右肩に薄手の衣が多いが、マトゥーラ地方でもグプタ朝時代に入ると通肩が主流になってくる。偏袒右肩とは、清浄な右肩を露わにする(或いは、利き手の右腕が攻撃のないことを示す)ことによって、国王など高貴の者に対して崇拝と畏敬の念を表す意味がある。

こちらは、20数体の仏像群の中央付近から、やや右側の光背を持つ坐像3体のうちの1体である。光背は赤を基調に燃え上がる火炎をイメージしている。


20数体の仏像群の中央付近にあるのが、仏龕に納められた大きな仏陀立像で、二層の円形蓮台の上に、鮮やかな赤い偏袒右肩の衣を纏って立っている。右手のひらは赤く塗られている。仏龕自体も、左右の柱や上部の獅子、マカラなど細かい浮彫と美しい色彩で彩られている。
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20数体の仏像群は、中央付近から左側にも続くが、壁面より手前には、大きく幅の分厚い仏龕が、天井と直結して柱の様に切り出されている。2つある石窟内への入口のうち、左入口から入ると、正面に豪華な仏龕に納められた仏陀立像を拝観できる様に配置されている。仏像の前面にはドネーション箱(浄財)や、お供え台が置かれ、カーテンの様な簡素な幔幕が設置されている。立像は、頭部が螺髪(らほつ)で、火焔形頭飾はなく、金の偏袒右肩の衣を纏い、手を上げ手の平を前に向けた「施無畏印」(恐れなくてよいというサイン)をしている。そして、仏龕の左右には宝冠を被る菩薩菩薩立像を配している。
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左右の2つの入口の間には、ストゥーパ(仏塔)があり、円形基壇の上には仏陀坐像が配されている。対角線上の2体は、竜王に護られた仏陀坐像となっている。仏陀が悟りを得た際、雨風から仏陀をとぐろ巻にして護ったとされる姿を表現している。中央の仏塔の形状は、仏教初期の「塚」で、頭部に円錐の塔がある。仏陀像は、等身大で、顔を眺めながら、仏塔を周回できるようになっている。
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次に第3窟「マハー アルト ヴィハーラ」(偉大な新しい寺)に向かう。入口を入った正面で石窟の中心付近には、左右に立像を従えた豪華な仏龕に納められた仏陀坐像があり、手前にお供え台、ドネーション箱が置かれ、第2窟であった簡素な幔幕が設置されている。
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入口側の天井は高く、奥に行くほど下がっており、周囲には、その高さに即したサイズの仏陀坐像、立像が切り出されている。第2窟の半分よりやや狭い印象。こちらは、仏龕の裏側の奥の壁に並ぶ仏像群で、右側にある坐像。坐像の光背が天井にめり込んでいる様に岩が切り出されている。この辺りの天井は低く、手を伸ばすと天井に届きそうである。坐像の周りには、多くの立像群となっており、小さな仏像も多く合計57体の仏像がある。


こちらは右側側面にサイズの異なる4体の仏陀坐像のうち、右端の一番大きな坐像である。しかし、仏陀の肌や衣の色は金箔というより黄色に近い色合いに見える。対する左側面には、第3窟では一番大きな仏像(寝釈迦像)が入口側を頭に切り出されている。


天井は、千体仏を思わせるような円形光背を持つ坐像画が隙間なく描きこまれている。堂内の天井には亀裂が入っており、湧水が岩の隙間から滴り落ちている。ちなみに「ダンブッラ」とは、”水の湧き出る岩 ”を意味している。


入口側の壁面の右端には、18世紀頃、キャンディ王宮時代のキルティ スリ ラジャシンハ(在位:1747~1782)王が、合掌し直立する像があり、背後の壁面には御付の者が描かれている。


次の第4窟は、「パッツイーマ ヴィハーラ」(3人の王の寺)と名付けられている。こちらにも、カーテンの様な簡素な幔幕が取り付けられ開帳している。手前には、やはりお供え台やドネーション箱が置かれている。坐像の光背はパステルカラー調の色合いで、頭上には獅子とマカラが配されている。


最期の石窟寺院となる第5窟「デワナ アルト ヴィハーラ」は、1915年に造られた最も新しい石窟である。切り出された寝釈迦像がメインとなる第1窟とよく似た構成であるが、やや小ぶりな寝釈迦像で、少し奥行がある。両側面には、彩り鮮やかな光背の仏陀坐像と立像が飾られ、壁全体に彩色が施されている。


40分ほど石窟内を見学して外に出ると、一層日差しが強くなり、靴下を履いていても岩が熱い。。


上ってきた方向を眺めると、一面緑が広がっている。遠くに2つの山が見えるが、右側が次の目的地の「シーギリヤ ロック」になる。


階段の手前に、たわわに実るジャック フルーツ(パラミツ)の木がある。実は、幹や太い枝から生じ、大きいもので、長さ70センチメートル、幅40センチメートル、重さ40~50キログラムに達することもあり、世界最大の果実といわれている。


午後1時を過ぎた。お腹が減ったので、ガイドにお任せで昼食に行く。


昼食は、毎回カレーだが、スリランカのカレーは、スパイス中心でなく日本の鰹節似たモルディブ フィッシュでうま味を出す煮込み料理が多いので、飽きることなく食べることができる。次は北東へ約20キロメートル離れた、古都シーギリヤに向かう。


午後3時半、シーギリヤに到着した。外国人料金チケット(DVD付)を購入し、西の城壁址のエントランスから入場する。都があったシーギリヤは環濠都市で、南北には濠が延びていた。今も残る濠を過ぎ、遺跡公園に入り、東への参道を歩いて行くと、いたるところに煉瓦が積み上げられた「王の沐浴場」(ウォーターガーデン)の遺構が残されている。


ウォーターガーデンは、シーギリヤ ロックの南側にある大きな人工湖と濠との軸上に作られており、地下に水道管を通して供給されており、こちらは、5つの穴から水が吹き出す噴水口である。


ウォーターガーデンの遺跡からは、正面に高さ約180メートルの巨大な岩山「シーギリヤ ロック」を望むことができる。シーギリヤの遺跡は、要塞化した岩上の王宮跡と、それを取り囲むこちらの水路、庭園、貯蔵施設などの都市遺構から構成されている。


シーギリヤ ロックに王宮を建造したのは、シンハラ王朝のカーシャパ1世(在位:473~495)である。王は、先王のダートゥセーナ王(在位:455~473)の長男で、母は平民出身のため、王族出身の母を持つ弟モッガラーナに王位を奪還されると思い、477年にクーデターを起こし、父王に王家の財宝を明け渡すよう迫った。しかし、父王は、国の農業を強化するため情熱を賭けて築いたアヌラーダプラの貯水池が全財産だと伝えたところ、怒りに燃えたカーシャパは父王を殺し王位を奪った末、首都アヌラーダプラからシーギリヤへ遷都する。なお、シーギリヤとは、シンハ(ライオン)とギリ(山或いは厳)に由来する。

600メートルほど参道を歩いた先の石階段を上ると岩山の下に到着する。正面はそそり立った巨大な壁となっている。その壁には、観光用として、鉄製階段と、その先に赤い「ミラー ウォール」と呼ばれる回廊壁と、垂直に伸びる螺旋階段が築かれている。


参道から続く石階段は岩山の割れ目に続いており、上って振り返ってみる。


石階段を上りきり、左に曲がった先には、先ほど見えた壁面沿いの急勾配の鉄製階段と螺旋階段を上って行く。足元を見ると目が回りそうである。エントランスのある西口から伸びる参道がみえる。周りは一面ジャングルが広がっている。


螺旋階段を上り終えると、庇のように突き出た岩壁(オーバーハング)があり、内側に、美しい壁画が現れる。こちらが、最大の見どころの一つ、「シーギリヤ レディ」のフレスコ画で、カーシャパ1世が自ら殺した父王の魂を慰めるために描かせたものと言われている。建造当初は500体ほど描かれたとされるが、現在では、風化も進み18体だけが残っている。通路の側面には、光が直接壁面に当たらないように、防護布で覆われている。


右側の冠、耳飾り、首飾りを身に付けている裸の女性は王妃で、左側の衣を身につけて器に花を持つ女性は侍女である。


赤い帯(雲)の上の妖艶な雰囲気の女性は蓮の花を持っている。左の女性はアプサラス(インドの神話に登場する天女)であろう。


雲から上半身姿をあらわし、踊っているところなのだろう。大変優雅な姿である。


こちらの壁画は大きく剥離しており、痛々しい。


花を持つ女性は、すべて北側を向いているが、これは、北側の小高い山の山頂にある寺院に花を供えに向かうためとの説がある。また、適度な隈取り(陰影法)は、人物の輪郭線に沿って、赤で影を添え立体性を持たせる手法との評価がある。

当時に描かれた大半の壁画は失われたと言われているが、現存する壁画の保存状態や芸術性は、まさしくスリランカ美術を代表する最高傑作であると言える。


螺旋階段を降りて、ミラー ウォールと呼ばれる回廊璧を北方面に進み、振り返ると先程まで見学した「ダンブッラ黄金寺院」がある山並みを見ることができる。


ちなみに、ミラー ウォールとは、真珠の様な輝きを持ち、鏡の様な光沢があることに因んでいる。しかし、落書きが多いのは悲しい。。


ミラー ウォールを過ぎ、岩壁の北面に回り込むと広場に到着する。この場所が、獅子の爪の形をした天空宮殿への入口となる。現在は、石段を登り、その後、岩山の壁面に取り付けられた鉄製の階段を登ることになるが、当時は、獅子の胴の中に階段が続き山頂へ登れることができた。


急な鉄製階段を上りながら北側を眺めると、山頂に寺院(僧坊)があった山や、北西側に貯水池が見える。その周囲は、ジャングルが広がっている。


鉄製の階段を上り終え、石階段を登り終えるとシーギリヤ ロックの頂上に到着する。無数のレンガが積み重なる頂上から東方面を眺めると、こちらも一面にジャングルが広がっている。


かなりの高所であり、この場所に王宮を建設したことは信じがたいが、カーシャパ王が犯した父王殺害の罪悪感か、弟のモッガラーナからの反撃に対する恐怖心からなのか、憑かれたように、難攻不落の王宮の建造にのめり込んだと言われている。そして即位から7年後、シーギリヤ ロック上の王宮は完成している。

南方面を眺めると、シーギリヤ ロックは、北側が標高が高く、南に向かって下がっているために、滑り落ちて行く感覚に襲われる。


さて、一方、カーシャパからの難を逃れて南インドに亡命していた弟モッガラーナは、遂に軍隊を引き連れ兄に戦いを仕掛けた。対するカーシャパ王は、難攻不落の王宮に立てこもらず、シーギリヤ ロックから降りて自ら象に乗って戦った。しかし乗っていた象は突如現れた沼に足を取られてしまう。統制を乱したカーシャパ軍は、次々と退却してしまい、残されたカーシャパは、運が尽きたのを悟り、自ら短刀で喉を切り自害した。享年36才。シーギリヤ ロック上に王宮を完成させて11年後のことだった。

それにしても、カーシャパは、何故せっかく築いた、難攻不落の王宮にこもらずに、自ら先頭に立ったのであろうか。シーギリヤ ロックでの王宮生活は、彼の心に何をもたらしたのだろう。南東方面を眺める。風が吹くと、飛ばされるのではないかと足がすくんでしまう。


王宮の中ほどに沐浴地がある。階段を降りてみる。遺跡内を散策したが、風も強く、今一つ落ち着かない。


王位についたモッガラーナは、このシーギリヤの地を仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへ遷都した。その後、シーギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続するが、徐々に衰退し、人々から忘れ去られていったという。そして建造から1400年後の1875年(イギリス統治下)に、イギリス人によって岩山に描かれた「シーギリヤ レディ」が発見され今に至っている。

さて、頂上から、再び鉄の階段を通り獅子の入口へ降りる。途中で蜂がまとわりつく。足元も含め危険が一杯である。何とか無事に獅子の爪の広場に降り、ミラー ウォールを通って、もと来た鉄製の階段を通り、南出口への階段に向かう。その階段を降りていくと、右側にホール跡がある。
ここはカーシャパが会議を開いていた会議堂である。奥がカーシャパの座った玉座といわれる。カーシャパ王はあの玉座から立ち上がり、自ら象に乗り、最後の戦いに向かったのであろうか。


その先、左手には、仏陀の玉座があったという、アサナ礼拝堂である。僧侶たちの瞑想していたであろう場所である。


「コブラの岩」と名付けられた鎌首を持ち上げた様な巨石の横を通り、迎えのガイドの車に乗りホテルに向かった。


今夜のホテルは、シーギリヤから直線距離で約10キロメートル南西にあるカンダラマ湖そばの「ヘリタンス カンダラマ」である。最寄りの幹線道路からは、北に分岐する細い私道を3キロメートル弱走った終点の斜面の西側上にある。車寄せで車を降り、手前に大きく傾斜した天蓋の奥に続く、トンネルを模した坂道(左側面に大岩が並ぶ)を上ると到着する。ホテルは、1995年、スリランカを代表する建築家ジェフリー バワ氏設計で建てられたコロニアル様式で、ロビーからは、カンダラマ貯水池(kandalama)のパノラマビューが広がっている。


午後9時過ぎ、ホテルにあるレストランに食事にやってきた。ブッフェだが、かなり料理の種類が多い。


少し盛りすぎたかもしれない。


最期にデザートを頂き、今日も一日を無事終えた。

(2012.9.14)
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