カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ロシア・サンクトペテルブルク(その3)

2017-07-14 | ロシア
次に小エルミタージュの見学に向かう。冬宮殿からは「ヨルダン階段」を上りきった踊り場から東側の連結橋を渡った隣の建物になる。最初に現れる豪華なホールが「パビリオンの間」である。このホールは、マリインスキー宮殿の設計者で知られるロシアの建築家アンドレイ・シュタケンシュナイダー(1802~1865)により1858年に造られた。
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ロシア・クラシック様式の二層からなる連続アーチに、様々な様式を織り交ぜた折衷的なアプローチが生かされた豪華な作りとなっている。北側のネヴァ川を望むアーチ前には、見所の一つ、英国の宝石商で金細工師のジェイムズ・コックス(1723~1800)による黄金の孔雀時計(孔雀・雄鶏・ふくろうの3体)が展示されている。この孔雀時計は仕掛け時計で1時間ごとに時を知らせてくれる(現在はビデオ映像でのみ羽を広げる孔雀の仕掛けを披露している)。第8代ロシア皇帝エカテリーナ2世(大帝)の愛人だったロシア帝国の軍人、政治家グリゴリー・ポチョムキン公爵からの贈り物とされる。

黄金の孔雀時計の前面(南側)床には、19世紀に造られた古代ローマ時代をイメージしたモザイクが広がっており、更にその先の南側の窓からは空中庭園を望むことが出来る。
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小エルミタージュの「パビリオンの間」から更に東側の連結橋を通ると、そのまま旧エルミタージュ(東隣の建物)の展示室に出ることが出来る。これから、ルネサンス・イタリア絵画の展示室を見ていこう。


最初に、イタリア初期ルネサンスのシエナ派とフィレンツェ派の源流とも言えるトスカーナ派の一人、ウゴリーノ・ディ・テディチェ(1277頃没)のキリストの磔刑からスタートする。次に、シエナ派を代表する画家シモーネ・マルティーニ(1284~1344)の受胎告知のマリアが、そしてフィレンツェ派を代表するフラ・アンジェリコ(1390~1455)の聖母子と天使たち、同じくフィレンツェ派を代表するフィリッポ・リッピ(1406~1469)の聖アウグスティヌスの幻視など重要な作品が展示されている。

そして、フィリッポ・リッピの元で学び、メディチ家の保護を受け宗教画、神話画などの傑作を多く残したサンドロ・ボッティチェッリ(1445~1510)のヒエロニムスと、聖ドミンゴや、そのボッティチェリに師事し、フィレンツェの黄金期を築いたフィリッポ・リッピの息子フィリッピーノ・リッピ(1457~1504)の幼児キリストへの礼拝など傑作が揃っている。

次が、エルミタージュ最大の見所の一つ「ダ・ヴィンチの間」である。部屋はロシア・クラシック様式にバロック様式の天井などが取り入れられており、第11代ロシア皇帝ニコライ1世の書斎としても使用された。


ダ・ヴィンチは、誰もが知るイタリア・ルネサンス期を代表する巨人で、多方面に亘り顕著な業績と手稿を残した。しかし、手がけた絵画作品は、意外なほどに少なく、真作やほぼ真作など諸説あるが、十数枚と言われている。この部屋にはその内の2点が展示されているため、常に混雑が激しい場所だが、この時間(午後8時前)だと、じっくり鑑賞できるのが有難い。

最初に、ブノアの聖母(1478)を見る。ダ・ヴィンチが、ヴェロッキオの工房から独立し、独自で絵画制作を始めたころの最初の作品とされる。スフマート技法(もやのかかったように表す描法)による陰影表現は、聖母の慈愛と幼子の気高さをリアルに表現しているだけでなく、その場の空気感も伝わってくる。なお、ブノアとは、エルミタージュ美術館に売却した建築家レオン・ブノアに因んでいる。
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次に、リッタの聖母(1491頃)である。こちらは、本人作と弟子作(ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ或いはマルコ・ドッジョーノ)との説に意見が分かれた作品。なお、リッタとは19世紀に所有していたミラノ貴族のリッタ家から名付けられた。


展示室には、他にダ・ヴィンチにゆかりのある作品として、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の「最後の晩餐」制作に、助手として関わっていたジョヴァンニ・ピエトロ・リッツォーリのマグダラのマリアや、ダ・ヴィンチ工房による裸婦像。ダ・ヴィンチからスフマート技法の影響を受けた画家として、リドルフォ・ギルランダイオ(1483~1561)や、アンドレア・デル・サルト(1486~1531)、コレッジョ(1489頃~1534)の作品がある。こちらは、そのコレッジョの貴婦人の肖像である。

次にやはり見所の一つ「ラファエロの間」である。ラファエロは、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている。ラファエロは、大規模な工房を経営しており多くの作品を残しているが、37歳の若さで亡くなっている。ヴァチカン宮殿「ラファエロの間」の「アテナイの学堂」のフレスコ画が最も知られている。


手前の豪華な展示ケースに入れられた小さな円形の作品が、コネスタビレの聖母(1504)で、その奥の展示ケースに見えるのが、聖家族(1506)である。コネスタビレの聖母は、直径20センチほどの円形板に描かれたもので幼子を見つめる慈悲に満ちた優しい聖母の表情が印象的な作品。第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世がコネスタビレ家から購入した。

「ラファエロの間」には、多くのマジョリカ(マヨリカ)焼が展示されていることから「マジョリカの間」とも呼ばれている。マジョリカは、ルネサンス期から作られた白地に鮮やかな彩色を施した陶器で、特にフィレンツェ周辺が産地となった。ムーア人の陶工が地中海のマヨルカ島を経由してシチリア島に伝え、その後イタリア本土に伝わったとされる。

こちらの展示室の中央には、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)の「うずくまる少年」が展示されている。エルミタージュ美術館では唯一のミケランジェロ作品である。


旧エルミタージュの東角から南に向けて、美しく装飾された「ラファエロの回廊」が続いている。イタリア人建築家ジャコモ・クワレンギ(1744~1817)が設計し、クリストファー・ウンターバーガー(1732~1798)の工房で制作された。ラファエロのバチカン宮殿「ラファエロの間」を飾るフレスコ画の複製が取り入れられていることから名付けられた。


南東付近にあるのが「天窓の間」で「大イタリア絵画の間」とも呼ばれている。中央にはジュゼッペ・マズオーリ(1644~1725)のアドーニスの死(1709)や、1721年創業で貴石と半貴石などを用い贅沢品を制作していたペテルコフ工場(現在は時計メーカー)が1850頃に作った孔雀石の花瓶などが並んでいる。


旧エルミタージュの中程には、東西に続く「古代絵画史ギャラリー」がある。こちらは、バイエルン王ルートヴィヒ1世の宮廷建築家でドイツの新古典主義の建築家で画家でもあったレオ・フォン・クレンツェ(1784~1864)により設計された。


ギャラリーには、新古典主義の彫刻巨匠アントニオ・カノーヴァ(1757~1822)の美しい彫像が並んでいる。とりわけ美しい3人の女神が寄り添うのは、彼の代表作の一つ「三美神(1812~1816)」である。他にも、キューピッドのキスで目覚めるプシュケ(1794~1797)や、ゼウスとヘーラーの娘で青春の女神とされるヘーベー像(1800~1805)(※全身像はこちら)など多くの傑作が飾られている。
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このギャラリーの中央には、セルドボリ花崗岩の円柱20本で囲まれた旧エルミタージュのメイン階段が1階に向けて続いている

最後に、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活躍したジョルジョーネ(1477~1510年)の代表作品「ユディト(1504頃」(※こちらは全身像)と、聖母子(1504頃)とを見てエルミタージュ美術館の初日を終了する。
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ジョルジョーネの絵画は人物の心理表現や、情緒的な風景描写に優れている。若くして夭折したことや彼に影響を受けた画家も多いことから、真作が確実視される絵画は、極めて少なく「ユディト」も19世紀末までラファエロの作品とされてきた。聖母子像は、真作か現在も意見が分かれている。
なお、ユディトとは、降伏したアッシリア国の司令官ホロフェルネス宛に派遣されたユダヤの女性で、その司令官の首を切り落としたことで知られている。作品のユディト足元の首は、ジョルジョーネの自画像とも言われている。

午後10時、路線バスに乗り要塞西側の公園の一角にあるレストラン・コーリュシカ(Корюшка)に戻ってきた。
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ところで、コーリュシカとは、日本で言うところのキュウリウオでこの辺りの名物と言う。飲み物は、クローネンブルグ500ml(480ルーブル)、ハウスワイン(190ルーブル)、サン・ペドロ ガトー・ネグロ(330ルーブル)、ジュリオ・ブーション カベルネ(300ルーブル)などを注文する。
注文した料理は、コーリュシカ(610ルーブル)と、昨夜美味しかったニシンの酢漬けと茹でポテト(450ルーブル)、モスクワで食べて美味しかったグルジアの小龍包やハチャプリ(550ルーブル)なども頼んだ。コーリュシカは、やや肉厚のシシャモといった感じで苦味もなく美味だった。他の料理やワインもリーズナブルだし美味しかった。ロシアらしくショーがあり、お姉さんの歌声が披露されていたが、皆食事に集中してほとんど聞いていなかった。最前列にいる一人飯のお兄さんまで食事に集中していた。ちなみに午後11時にも関わらず店内は賑わっている(10時前は満席で予約不可だった)。窓からはネヴァ川対岸のエルミタージュ美術館が見える

食事後の午後11時40分のペトロパヴロフスキー大聖堂と、ネヴァ川の対岸に見えるエルミタージュ美術館(冬宮殿)一帯はライトアップされ美しい。
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既にバスで往復していたので、慣れたものと要塞の桟橋から400メートルほど西にいったバスターミナルから路線バスに乗るが、間違って逆方向に乗車してしまった。慌てていると、地元の皆さんが親切に乗り換え場所に便利な降車駅を教えてくれ、無事、ネフスキー大通りに戻り、アパートメントに戻ることができた。

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翌朝、昨日に続き、エルミタージュ美術館の見学を予定しているが、天気も良いので少し市内を散策してから向かう事にする、最初に、ペトロパヴロフスク要塞に向かう際に乗ったトラム(サドヴァヤ通り沿い)を逆の方角に乗り、目的地のセンナヤ広場に到着した。これから、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の舞台を散策する。


「罪と罰(1866)」は、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキー(1821~1881)の長編小説にして代表作品。ストーリーは、頭脳明晰だが貧しい元大学生のラスコーリニコフが「一つの罪悪は百の善行によって償われる」という思想信念に基づき、金貸しの老婆アリョーナを殺害し、財産を孤児院に寄付しようと実行する。しかし、偶然居合わせた老婆の妹まで殺害してしまったことから、罪の意識に苦悩する。その後知り合った貧しい娼婦ソーニャの家族のためにつくす生き方に心をうたれて自首をする。といったもの。

小説でのセンナヤ広場(乾し草の意)は、酒場を始め飲食店が立ち並び多くの職人や浮浪者が集まっていたとされるが、現在では近代的な建物になり当時の面影は感じられない。そのセンナヤ広場の裏手に進むと、エカテリーナ運河があり、コクーシキン橋が架かっている。この橋が小説ではK橋として登場する。例えば「7月のはじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮れどき、ひとりの青年がためらいがちにK橋のほうへ歩き出した。」といった感じ。なお、向かって右側がセンナヤ広場方面で、橋から左側(北方面)へとストリャールヌイ通りが続く。


センナヤ広場から、コクーシキン橋を渡った所で左折して運河沿いに150メートルほど進んだ右側に建つ建物がソーニャの家とされている。

再び、コクーシキン橋まで戻り、ストリャールヌイ通りを北に進み、最初に交差する通りを渡った右角にある建物がドストエフスキーが住んでいたアパートである。そして、1階扉口に向かって左右に続く右側2番目の窓には、証明するプレートが飾られている。


そのまま、ストリャールヌイ通りを歩いて次に交差するグラジダンスカヤ通りを渡った左角にあるのが、主人公ラスコーリニコフが住んでいたアパートの場所になる。角にはドストエフスキー像の記念碑が飾られている。


「罪と罰」の舞台はこれくらいにして、次の観光名所を目指して散策を続ける。

ストリャールヌイ通りをそのまま進むと三叉路の突き当たりになり、右折してすぐに左折して北に進むと、イサク広場が現れ、正面遠景にロシア正教会の大聖堂(聖イサアク大聖堂)が望める。そしてイサク広場の左右にはモイカ川が流れており、架かる「青の橋」から振り返った所に建つ建物はマリインスキー宮殿である。1839年から1844年にかけてアンドレイ・シュタケンシュナイダーにより新古典主義様式で建てられた。


イサク広場の北側に建つ「聖イサアク大聖堂」は、ピョートル大帝時代に初めて建てられたが、現在の建物はアレクサンドル1世の時代にフランス人宮廷建築家オーギュスト・ド・モンフェラン(1786~1858)の設計によるもので、40年もの期間をかけて1858年に完成した。ドームの高さは101.5メートルある。なお、時間の関係から聖堂内には入らない。


聖イサアク大聖堂に沿って反対側に回り込んだ所にあるアレクサンドロフスキー公園に入り北側に進むと、元老院広場があり、中心にサンクトペテルブルクを創建したピョートル大帝の騎馬像「青銅の騎士」が飾られている。


大帝の偉業を称えたロシア近代文学の嚆矢アレクサンドル・プーシキン(1799~1837)作の叙事詩「青銅の騎士」が有名になったため、この名で呼ばれるようになった。騎馬像の建設は第8代ロシア皇帝エカテリーナ2世(大帝)の命により1770年に開始され、おもにフランス彫刻家のエティエンヌ・モーリス・ファルコネ(1716~1791)によって作られ、1782年に完成した。


それでは、エルミタージュ美術館(2日目)に向かう。午前11時と混雑している時間帯だが、Webチケット持参のため、入場での待ち時間はない。最初に、旧エルミタージュの2階西側のレンブラントの作品から見学する。レンブラント・ファン・レイン(1606~1669)は、オランダ黄金時代17世紀を代表する巨匠で、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。

この展示室は、エルミタージュの最大の見所の一つとして、観光ツアーには必ずと言って良いほど含まれている。お昼どきでもあるため、途切れることなくツアー客が来場して溢れんばかりである。


この大混雑の先に展示されている作品が「ダナエ(1636)」である。ダナエとは、ギリシア神話の英雄ペルセウスの母であり、オリンポスの主神ゼウスが見初め、黄金の雨に身を変えて訪れ彼女と交わったとされる。


ダナエは、1985年に、後に精神疾患の診断されたリトアニア人青年から硫酸を浴びせかけられ刃物で切りつけられ損傷した。結果、画面中央の顔料が溶け落ち、水滴状になって垂れ下がるという大きな損傷を負ってしまう。特に、顔、髪、右腕、両脚の損傷がひどく、十年以上の歳月をかけて修復されたが、現在も痕が残り完全には修復されることはできなかった。ガラスケース入りの絵画は光に反射して見づらいのだが、こういった事件があると、それも仕方がないのかもと思ってしまう。。

そして、こちらは、レンブラントの晩年の作品で「放蕩息子の帰還(1666~1668頃)」。父から財産を与えられた息子は、家を出て財産を全て浪費して豚の餌で餓えを凌ぎ、実家に戻るが、父は暖かく息子の帰還を喜ぶといった内容。

レンブラントの作品は多い。他にも、春の女神フローラに扮したサスキア(1634)十字架降下(1634)イサクの犠牲(1635)など20作品以上が展示されていた。イサクの犠牲では、アブラハムが、横たわる息子イサクの顔を抑え、喉元へ小刀を当てようとするが、現れた天使に制止され、短刀を落としてしまう。緊張の瞬間を捉えている。

こちらは、レンブラント同時期に活躍した、オランダ絵画の黄金時代を代表する画家フランス・ハルス(1585頃~1666)の男の肖像。ハルスの初期の明るく笑みを浮かべた肖像画と異なり、モノトーン調の画風であることから、後年の作品と思われる。

次にイタリア・盛期ルネサンス作品を見ていく。こちらの展示室には、ヴェネツィア派ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488~1576)の聖母子とマグダラのマリアと、ダナエ(1553~1554)が展示されている。ティツィアーノは、生涯でダナエを5点(4点が確認)描いたとされるが、その内の一つ。他にも、聖セバスティアヌスなど、6点ほどの作品が展示されていた。


同じくヴェネツィアで活動したパオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)の聖カタリナの神秘の結婚(1548頃)と、ピエタ

バロック初期のルドヴィコ・カラッチ(1555~1619)の画架の自画像。そして、バロック期に活動したボローニャ派に属する画家でラファエロの再来と言われたグイド・レーニ(1575~1642)の聖ヨセフと幼子。ルドヴィコ・カラッチに師事した。

次に、スペイン絵画を見ていく。最初にバロック期のディエゴ・ベラスケス(1599~1660)の農家の昼食(1617)と、オリバーレス伯公爵の肖像(1638頃)。オリバーレス伯公爵は、スペイン王国フェリペ4世(1605~1665)の首席大臣として三十年戦争への対応、八十年戦争への対応、財政再建など難題に取り組んだ。


スペイン生まれで主にナポリで活躍し代表作「えび足の少年」で知られるホセ・デ・リベーラ(1591~1652)の聖セバスティアヌスと聖イレーネ(1628)。セバスティアヌスは、柱に縛られ、矢を射られた姿で描かれることが多いが、17世紀以降は、半裸の若者像を単身で飾ることを忌避した教会の意向で、介抱するイレーネが看護師の守護聖人として登場したともされる。

こちらはバロック期の画家バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617~1682)の代表作の一つ無原罪の御宿り(1680)と、犬を連れた少年(1655~1660)である。そして、ムリーリョと同時期に活躍しスペインのカラヴァッジョとも言われたフランシスコ・デ・スルバラン(1598~1664)の聖ラウレンチオ(サン・ロレンツォ)

宮廷画家でスペイン最大の画家フランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828)の女優アントニア・サラテの肖像(1810~1811)と、同じく同時期の巨匠のディエゴ・ベラスケス(1599~1660)の使徒ペトロとパウロ(1587~1590)など貴重な作品が展示されている。

バロック期のフランドルの画家ペンアンソニー・ヴァン・ダイク(1599~1641)は、1632年にはイングランドに渡り、国王チャールズ1世の主席宮廷画家として大きな成功を収めたが、その時代の一点ヘンリー・ダンヴァース初代ダンビー伯爵、そして、代表作の一つで自身の若き頃を描いた自画像(1622頃)

旧エルミタージュ南側(ミルリオンナヤ通り側)の展示室には、バロック期のフランドルの画家ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)が一面に展示されている。こちらは醜い姿をした酒神バッカス、海神ネプチューンと大地母神キュベレーが語り合う様子を描いた大地と水の結合十字架降架。ルーベンスはアントワープ大聖堂の祭壇画を始め十字架降架をテーマにいくつもの作品を制作しているが、この作品では、イエスの身体を受け止めようするマグダラのマリアに力強い姿が感じられる。ギリシア神話を題材にしたペルセウスとアンドロメダ、そして、牢に入れられ餓死寸前の父シモンを見舞った娘ペロが、自分の母乳を与えて救おうとするシモンとペロ(ローマの慈善)など30作品ほどが展示されていた。

ヴァン・ダイクとルーベンスと同じくバロック期のフランドルの画家ヤーコブ・ヨルダーンス(1593~1678)のイエス降誕祭で酒を飲む王様

時刻も午後3時になり、急ぎ、一階の展示室でカメオプトレマイオス2世と妻アルシノエ2世のゴンザーガ・カメオ(紀元前3世紀、アレクサンドリア)と、ギリシア・ローマ彫刻の展示室を見学する。1世紀後半にローマで作られたローマ神話の主神ユーピテル(ジュピター)や、愛と美と性を司るギリシア神話の女神「アプロディーテー」など多くの彫像が展示されている。


ほとんどが、紀元後のローマの作品で、ピョートル1世が1718年にローマ教皇クレメンス11世から譲られた「アプロディーテー」像も紀元2世紀にローマで作られたギリシアのコピーと考えられていたが、紀元前2世紀頃のオリジナルと確認された(鼻は修復されている)。彫像は、風呂から立ち上がろうとしている姿を捉えているとされるがどうなのだろう。。
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次に、宮殿広場の向かい側にあるエルミタージュ美術館(新館)に向かう。新館へは先日途中までの見学だったため2度目の訪問になる。現在午後3時半を過ぎた所で2時間ほど見学が可能だ。


宮殿広場側から入場してチケット(300ルーブル)を購入しクロークで荷物を預けたら、吹き抜け空間にある階段を上りつめ、扉内側のエレベータに乗り4階フロアから順に2階フロアまで見学していくことにする。


最初にフランスの画家ナビ派(ポスト印象派とモダンアートの中間)の作品から見ていく。ナビ派は、ポスト印象派ポール・ゴーギャン(1848~1903)の教え(自然の光を画面上にとらえようとした印象派に対し、画面それ自体の秩序を追求するもの)から始まった前衛的なグループ集団で、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、モーリス・ドニ、ポール・ランソンから始まった。こちらの巨大な作品は、そのピエール・ボナール(1867~1947)の三連の地中海の風景(1911)で、パリの夕べ(1911)など多くの作品が展示されている。


次にエドゥアール・ヴュイヤール(1868~1940)の部屋にて(1899)と、モーリス・ドニ(1870~1943)の精神の物語と題した巨大な作品や、バッカスとアリアドネー(1907)エリザベト訪問(1894)など神話や宗教を題材とした作品も展示されている。


そして後年、ナビ派に賛同してメンバーに加わった一人で、グラフィックや現代木版画などで知られるスイス出身のフェリックス・ヴァロットン(1865~1925)のアルク・ラ・バタイユの風景(1903)と、ジョージ・ハッセンの肖像(1913)である。ヴァロットンの作品では他にも肖像画が何点か展示されている。

こちらは、アルコール依存症の治療のために描き始めた絵画が評価されたフランスのモーリス・ユトリロ(1883~1955)のモンマルトルのキュスティーヌ通り(1909~1910)

本館と比べ、新館は空いているが、流石にパブロ・ピカソ(1881~1973)の展示室は混雑している。この展示室で一際大きな展示ケース内にあるのが、ピカソ青の時代の傑作二姉妹(1902)である。

ピカソの作品は、扇を持つ女(1907~1908)農家の女(1908)三人の女(1908)楽器(1912)テノーラ(スペインで使われている楽器)とヴァイオリン(1913)など、30点以上もの作品があり驚かされた。

色彩の魔術師と謳われる20世紀を代表するフランスの芸術家アンリ・マティス(1869~1954)の作品も大量(40点ほど)に展示されている。向かって左端から、マティスの最高傑作とも評される赤い部屋(1908)、青いテーブルクロスの静物(1909)、スペイン風の静物(1910)、セビリアの静物(1910)、赤いタンスの上にあるピンクの像と水差し(1910)と展示されている。
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こちらの展示室には、向かって左の音楽(1910)と右側のダンス(1910)。他にも、裸婦(1908)会話(1909~1912)アラブカフェ(1913)家族の肖像(1911)などなど、何とも贅沢な空間である。


初日に初めて新館に訪問した際も感じたが、展示作品のほとんどが、帝政時代のコレクターで富豪のセルゲイ・シチューキン(1854~1936)と、イワン・モロゾフ(1871~1921)のコレクションである。いかに、いち早くフランスの近代美術の価値を見抜き収集していたかが分かる。特にピカソやマティスの作品の多さには驚かされた。

こちらには、ドイツのロマン主義絵画を代表するカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774~1840)の展示室がある。帆船にて夕焼け(兄弟)葦の白鳥など静寂で抒情的な作品が多く展示されている。


フランツ・マルクらの青騎士活動グループに協力したドイツの画家で叙情性豊かな表現主義を特徴とするハインリヒ・カンペンドンク(1889~1957)の自然の中の人と動物はインパクトある色使いが凄い。

2014年、エルミタージュ美術館創設250年記念としてプーチン大統領より贈られた1902年ロスチャイルドのエッグ(ファベルジェ工房作)。正時に卵の頂点が開き雄鶏が現われる仕掛けとなっている。
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他にも、金、銀、プラチナ、ダイヤ、尖晶石、真珠、サファイア、ベルベット、珪岩などの希少鉱石から造られた皇帝の象徴である王冠のミニチュアや、銀、エメラルド、真珠などで装飾されたモノマフ(キエフ大公ウラジーミル2世、1053~1125)の帽子の形をしたソルトケースなど手の込んだ工芸品が展示されていた。

午後6時まで見学して、旧参謀本部ビルのアーチ門をくぐり、ネフスキー大通りのバス停に向かう。


ネフスキー大通りから22番バスに乗りマリインスキー劇場(第2新劇場)に到着した。旧劇場の運河を挟んで建てられている。今夜はこちらでバレエ「ル・パルク」を鑑賞する。


2013年5月に新たに竣工した真新しい劇場で、劇場ホワイエ部分は吹き抜けで開放的な印象。ホール側の壁は琥珀色で高級感が漂い外観は総ガラス張りで明るい。一角には、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)のゆかりの品が展示されていた。彼は、指揮者、ピアニストとしても活動したロシアの作曲家で、特に、バレエ音楽(火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典)で世界的に知られている。こちらにはダンサーが実際に着用したバレエの衣装などが展示されていた。最上階には展望室があるが有料であった。


劇場内の席は大きめでゆったりと座れる。サイド席は劇場を取り巻き、4階まで続いている。覗き込むと少し怖い。。


「ル・パルク」は、アンジェラン・プレルジョカージュ振付のコンテンポラリー・ダンスである。1994年にパリ・オペラ座で初演された。
とあるフランス庭園の中で男女それぞれ10名ほどの貴族が繰り広げる恋愛模様がダンスで表現されている。主演はアンドレイ・エルマコフとエカテリーナ・コンダウーロワ。


午後9時半、今夜は「レストラン・ゴーゴリ」で本格的なロシア料理を頂くことにする。昨夜エルミタージュ美術館を出てから予約をしておいた。案内されたテーブルは、店内に入って左奥にあり6組ほどが座れるこじんまりとしたスペースだが、冬のロシアをイメージしてしまう落ち着いた色合いの内装でまとめられている

なお、ゴーゴリとは文豪ニコライ・ゴーゴリに因んでいる。

部屋にスタッフは常駐せず、その都度呼び鈴で行う。メニューは英語メニューがあり問題はなかった。ウオッカなども試してみたかったが、飲みなれていないので、ビールとワインを注文した。注文した料理は、まず前菜として、キノコのサワークリームサラダ(460ルーブル)マンゴーと小エビのサラダ(490ルーブル)ペリメニ(460ルーブル)、ピロシキ(70ルーブル)
メインは、クレビャーカ(魚、キノコ、ホウレン草の入ったパイ包み)(770ルーブル)と、こちらのビーフストロガノフ(890ルーブル)を頼んだ。
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日本人に馴染みのビーフストロガノフとは全く異なるため驚いた。もともと16世紀初頭にウラル地方の貴族ストロガノフ家の一品であったとされ、当時は、このように肉をワインを加えた湯で蒸し、マッシュルームとケッパーを加えたものだったともされる。最後にデザートとしてラベンダー風味のクレーム・ブリュレ(360ルーブル)を頂いた。全体的に味付けは濃いくもなく、分量も日本人でちょうど良い量といった感じ。値段もリーズナブルで驚いた。なお、後ろのテーブルでは、男性二人がウオッカ・ボトルをおかわりして飲んでいた。。

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翌朝、午前7時発のサプサン号に乗るべく、4泊したアパートメントを早朝にチェックアウトし、ネフスキー大通りからバスに乗り、モスコーフスキー駅に到着した。

なお、滞在中の朝食は、アパートメントのあるルビンシュテイン通りとネフスキー大通りとの交差点にあるマクドナルドを馴染みにしていた。

モスクワ(レニングラーツキー駅)には、定刻通り午前10時58分に到着した。今日は、午後5時15分発のJL422で帰国するため、モスクワでは、アンドレイ・ルブリョフ記念イコン美術館のあるスパソ・アンドロニコフ修道院を見学した後、モスクワ・ドモジェドボ空港に向かった。
(2017.7.14~16)
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ロシア・サンクトペテルブルク(その2)

2017-07-13 | ロシア
次に、国立ロシア美術館に向かう。美術館は、もともと第9代ロシア皇帝(ロマノフ朝)パーヴェル1世(在位:1796~1801)が皇子ミハイル大公のために建てたミハイロフスキー宮殿だが、美術館としては、1895年、第14代ロシア皇帝ニコライ2世(在位;1894~1917)が父帝アレクサンドル3世(在位:1881~1894)を記念して開館したもの。美術館へは「血の上の救世主教会」が建つグリボエードフ運河沿いの西口から入館が可能だが、宮殿は南側に面していることから、ここからは建物の全容を望むことはできない。


今日(木曜)の開館は午後9時までである。現在、午後6時なので3時間ほどの鑑賞時間があるが、世界有数の約37万点ものコレクション数を踏まえると、まったく時間は足りないわけだ。急ぎ、円柱の並ぶ宮殿の威容を感じるエントランスホールから展示室に向かうことにする。


入場料450ルーブル(一人当たり)を支払い、最初にイコンの展示室から鑑賞する。こちらは、ロシア美術館を代表する作品の一つで、ノヴゴロド公国の聖ゲオルギーと竜(15世紀後半、レニングラード州マニヒノ教会)である。聖ゲオルギーは、古代ギリシア語で聖ゲオルギオス(英語でジョージ、イタリア語でジョルジョ)のことで、古代ローマ末期の殉教者でドラゴン退治の伝説で良く知られている。
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イコンが制作されたノヴゴロド公国とは、古代ロシアの主要な都市国家の一つで文化レベルも高く、多くの芸術作品が制作された。そして、そのノヴゴロド公国からは、他にも、聖ゲオルギーの生涯(14世紀前半)リンボ界(地獄と天国との中間)への降下(14世紀後半、チフヴィン)や、エルサレムのヤコブ、アンティオキアのイグナティオス、抱神者シメオン(15世紀後半、オネガ湖の生神女就寝聖堂)など芸術性豊かなイコン作品が展示されている。

そして、15世紀ロシア・モスクワ派(ルブリョフ派)のイコン画家の巨匠アンドレイ・ルブリョフの作品があるが、こちらは工房(ワークショップ)による作品、聖ペテロと聖パウロ(1408頃)と、洗礼(1408頃)とが展示されている。

他にも、近世ロシアの代表的画家(宮廷画家)で知られるシモン・ウシャコフ(Simon Ushakov)の至聖三者(1671)などが展示されていた。至聖三者は、1551年、モスクワでの百章会議に於いてアンドレイ・ルブリョフ作品を手本とすることが決まったことから同じ構図で描かれた。


こちらの展示室の中央には、海の風景画で知られるイヴァン・アイヴァゾフスキー(1817~1900)の、波(1889)が展示されている。画面一杯にうねり打つ迫力の画面を見ていると、今にも吸い込まれてしまいそうだ。そしてその右隣には、九番目の波(1850)が展示されている。九番目の波とは、先頭の波から数えて9番目の波が最も高くなるとされ大荒波の表現として使われる。


展示室には18世紀から19世紀にかけてロシアを代表する画家の作品が続いている。こちらは、ロシア最大の画家イワン・クラムスコイ(1837~1887)の作品で、農夫をモデルに描いたミーナ・モイセーエフの肖像(1882)と、ロシアの風景画家であるイヴァン・シーシキンの肖像(1880)。そして、そのイヴァン・シーシキン(1832~1898)が描いた作品では、オーク(楢)(1887)などが展示されていた。

そして、モスクワ美術学校で学び、後に同校の教授になったロシアの画家ヴァシリー・ペロフ(1834~1882)の休息する狩猟家(1877)と、19世紀ロシア文学を代表する文豪ツルゲーネフを描いたイワン・ツルゲーネフの肖像(1872)。そして、移動派に属したロシアの画家コンスタンチン・マコフスキー(1839~1915)の家族の肖像(1882)。ヴァシーリー・ポレーノフ(1844~1927)の蓊鬱たる樹木池(1879)である。

こちらの展示室には、ロシア美術館を代表する作品の一つ、ロシア写実主義の画家イリヤ・レーピン(1844~1930)のヴォルガの船引き(1870~1873)が展示されている。ところで漫画家池田理代子氏がこの作品に魅了されロシアが舞台の作品を描いたことは良く知られている。なお、同一作品として、先頭の農民を正面からとらえたバージョンも展示されていた。

イリヤ・レーピンの作品は、数多く展示されている。こちらは、囚人を救う聖ニコライ・ミルリキスキー(1888)。聖ニコライは、3~4世紀キリスト教の司教、神学者で、海運の守護聖人やサンタクロースで知られている聖ニコラスで、死刑執行人が振りかざす剣を囚人の背後で制止する聖人の力強い姿を正面に捉えている。他にもトルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック(1880~1891)など、こちらは、服従を迫るスルタンに対し、ふんぞり返り嘲弄するコサック兵の坊主頭を背後から正面に捉えるなんとも大胆な構図である。

ロシア帝国末期の画家で、大作の歴史画を得意としたワシーリー・スリコフ(1848~1916)のイェルマークのシベリア征服(1895)と、雪砦の奪取(1891)。ミハイル・ネステロフ(1862~1942)の聖なるルーシ(1905)。彼はロシア象徴主義運動の代表者の一人で、ロシアがかつてルーシーと呼ばれていた中世を舞台に宗教的な題材を求めた作品を描いた。

ヴァレンティン・セローフ( 1865~1911)のイダ・ルビンシュタインの肖像(1910)。トレチャコフ美術館で見たセローフの初期の明るい色彩作品と異なり、グラフィック技法が用いられた晩年の作品。モデルのイダ・ルビンシュタイン(1885~1960)は、ロシア出身のフランスのバレリーナで、エキゾチックで両性具有的な容姿が人気を集めた。なお、ラヴェルの「ボレロ」初演は、1928年、パリ・オペラ座において彼女のバレエ・カンパニーによって行われた。

最後に、ロシア・アヴァンギャルドの作品群を見ていく。ソ連(ソビエト連邦)誕生前後から1930年初頭にかけて、キュビスムや未来派などモダニズム芸術運動が開花した。抽象性を徹底して抽象絵画の到達点に達したとされる最大の画家が、ウクライナ・ロシア・ソ連の芸術家カジミール・マレーヴィチ(1879~1935)であり、彼の代表作の黒の正方形(1915年)などが展示されている。


マレーヴィチの作品では、やや具象表現された人物作品があるが、こちらの3作品の方が個人的にはお気に入りである。左から男の子(1928~1929)百姓女(1930)、そして黄色いシャツのタルソー(1932)と色鮮やかな作品が並んでいる。
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他にも明るく華やかな色調の風俗画や風景画で知られるボリス・クストーディエフ(1878~1927)のお茶の飲む商人の妻(1918)や、ミハイル・ラリオーノフ(1881~1964)のヴィーナス(1912)など愛らしい作品もあり、ロシア・アヴァンギャルドには魅了されてしまった。


さて、閉館時間の午後9時まで見学した後、レストランに向かう。再び「血の上の救世主教会」まで戻り、北側にある教会入口側に回り込んで、運河に架かる橋を渡り、
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左側の建物の一階にあるレストラン・ミートヘッド(Meat Head)に行く。建物壁面に美味しそうな肉の部位を掲げたパネルが決め手になり、予め国立ロシア美術館見学前に予約しておいた。店の前にはテラス席もあり、黒服姿の大柄なスタッフが案内するなど、やや高級感を感じる店構えである。


店内は煉瓦造りに囲まれた中にカウンターと、テーブル席がゆとりをもって配置され、カジュアルな雰囲気だ。奥にもテーブルはあるようだが、この場所からは見えない。

ビール(390ルーブル)やグラス・ワイン(690ルーブル)を頼むと、最初にアミューズが出てきた。メニューは英語メニューがあり、料理はアラカルトでグリーン・ミックスサラダ(430ルーブル)、焼きミドリイガイ(680ルーブル)ゆでたジャガイモと酢漬けのニシン(390ルーブル)ボルシチ1/2(210ルーブル)トップブレード(ミスジ)(1100ルーブル)などを頼んだ。ボリュームもそれなりにあり、値段も高くなく味もまあまあといったところ。概ね満足できた。

レストランを午後11時前に出たが、まだ空は明るい。緯度が高いためだが、流石にこの時間まで明るいのには驚いた。この時期のサンクトペテルブルクの日の入り時間はだいたい午後10時半頃とのこと(モスクワより1時間以上遅い)。道路が濡れていることから食事中に雨が降ったようだ。運河沿いをネフスキー大通り方面に歩き、


ネフスキー大通りを左折し、カザン聖堂前からバスに乗ってアパートメントに帰った。


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翌朝、天気は曇りだが、今にも降りそうな雰囲気である。これから、市場ボリショイ・ゴスチーヌイ・ドヴォール(大商店街)東側のサドヴァヤ通りから、北方面へのトラムに乗り、ペトロパヴロフスク要塞に向かう。乗車後、マルス広場を過ぎ、ネヴァ川に架かるトロイツキー橋を渡ると、左窓(西側)に目的地ペトロパヴロフスク要塞に建つペトロパヴロフスキー大聖堂の尖塔が見えてきた。
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ところで、17世紀後半のネヴァ川河口のこの地(当時はイングリアと呼ばれた)は、スウェーデンの支配下にあり、ロシアの港は、イングリア北東の白海に面したアルハンゲリスクのみ(黒海はオスマン帝国の勢力下)であった。つまりロシアの大国化政策にとってバルト海への勢力拡大は、欠かせないものであった。

モスクワ・ロシアのツァーリ、ピョートル1世(1672~1725)は、バルト海への出口を求め、海軍を創設しスウェーデンとの覇権争いを開始する。1702年には、スウェーデンから奪ったシュリュッセルブルクのオレシェク要塞(イングリアから東に35キロメートルのラドガ湖)を拠点にネヴァ川を下ってイングリアを攻撃する(大北方戦争(1700~1721))。

トロイツキー橋を渡り終えた最初の停留所でトラムを降りて、要塞に向かう歩行者専用の桟橋を歩いていく。左前方には、トラムで渡ったトロイツキー橋やネヴァ川の対岸にはエルミタージュ美術館(冬宮殿)が見える。
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最初の門を抜けて、左側にあるインフォメーションでチケット(一人当たり600ルーブル)を購入し更に進むと、正面にピョートル門が現れる。中央を飾るロシア帝国の紋章(双頭の鷲)の上には長方形のレリーフがあるが、ここには、聖ペテロに対し自らの魔術で空中浮揚して挑んだシモン・マグスが、神に祈りを捧げたペテロにより墜落させられ落命したとされる場面が描かれている。これは、ロシアとスウェーデンとの間に繰り広げられた大北方戦争でのロシアの勝利を象徴しており、ペテロはピョートル1世で、シモンはスウェーデン王カール12世(1682~1718)を表しているそうだ。
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ピョートル門の手前(右)には、大きな案内図があり、こちらを見ると要塞全体が良くわかる。

ピョートル門を抜け、最初に入場した歴史資料館(要塞の城郭を改装)には、ピョートル1世の絵画が飾られている。ピョートル1世は、自ら行ったヨーロッパ各国の視察(1697年3月から1698年8月)に刺激を受けロシアの西欧化・産業の近代化に邁進していった。各地で皇帝の身分を隠し、自ら砲術を習い、造船所で職工として働き技術を習得したことで、最新レベルの海軍を(ロシアで初めて)創設する。


そして、スウェーデンからイングリアを獲得したピョートル1世は、バルト海覇権争い(大北方戦争)の防衛基地として、1703年、この地(ザーヤチ島)にペトロパヴロフスク要塞(ペトロとパウロの要塞の意)の造営を開始する。展示室には1706年当時の要塞設計図が展示されていた。


バルト海に面したネヴァ川の河口一帯はもともと湿地で地盤が弱く洪水も頻発したため、大量の石を敷き詰めたり、多くの杭を打ち込んだりと基礎工事が必要となった。同時に新都の造営も行われたため、年間数万人もの労働力が動員されたが、1712年に工事は完了し、ピョートル1世は、モスクワから貴族、商人、職人を移住させ、新都としての威容を整えていった。


新都サンクトペテルブルク(聖ペテロの街の意)の完成時も、「ハンゲの海戦(1714年)」など大北方戦争は続いていたが、1721年、ロシアはバルト海沿岸地域のほとんどを獲得し、スウェーデンに勝利した。同年、ピョートル1世は「全ロシアのインペラートル」の称号を得て、ロシア帝国と改称し「ピョートル大帝(在位:1721~1725)」となった。

こちらは、ドイツ人地図製作者ヨハン・ホーマン(1664~1724)による、ロシア帝国設立頃のサンクトペテルブルクの地図(1721年~1723年頃)で、左上部にはネヴァ川がラドガ湖からバルト海に注ぐ広域図も描かれている。
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展示室には要塞模型が展示されていた。こちらは東側から西側に向けて要塞を眺めた様子で、正面手前がピョートル門である。
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歴史資料館では30分ほど見学したが、要塞内には、他にも資料館がある。こちらの資料館入口には、4匹のウサギが1匹のウサギを助けようとするオブジェが飾られており、観光客が順番に記念撮影をしていた。ピョートル大帝が要塞を築く前のザーヤチ島にはウサギが生息していたとも言われ、要塞内には至る所にウサギのオブジェが飾られている。


こちらの資料館には、サンクトペテルブルクの創設期からの街の歴史に関する展示がされていた。具体的には、街のミニチュアから、住宅の模型や台所、風呂、トイレなどまでその時代の雰囲気をわかりやすく紹介していた。他にも婦人服縫製の様子や、開通した鉄道に関するもの、そして、最後のロシア皇帝となったニコラス2世とその一家に関する写真や資料などの展示もあった。


要塞内の中央プロムナードを進むと、右側の木々の間に教会が現れる。ロシア大公と侯爵夫人のための霊廟で、ネオ・バロック様式で建てられている。


そして、その先にペトロパヴロフスキー大聖堂の尖塔が見えてきた。


大聖堂の南側から伸びるプロムナードを南に進むと、城郭から要塞の外への門が開けて、外は30メートルほど先に伸びる埠頭になっている。埠頭から右側に視線を移すと、要塞中央部の南端から突端する稜堡が、そしてネヴァ川の対岸にはエルミタージュ美術館(冬宮殿)が見える。
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なお、資料館に、ロシアの画家ステファン・ガラクチオノフ(1778~1854)による「埠頭での聖霊降臨(ペンテコステ)行進(1821年)」のコピーが展示されていた。この絵は、埠頭の東側から描いたものだが、稜堡の形状やネヴァ川対岸に見える冬宮殿の風景など現在と良く似ている。

再び要塞内に戻り、城郭に沿って西に進むと、稜堡(突端部)の内側に到着する。赤い煉瓦が続く城郭の上には見晴らし塔(城郭上は有料)が建っており、やはりペンテコステが描かれた塔の形と良く似ている。一帯は広場になっており、一角には、高射砲の模型が置かれている。


次にペトロパヴロフスキー大聖堂に向かう。入口は、西の尖塔側のファサード1階扉口からで、すぐにセキュリティゲートがある。大聖堂は、初代ロシア皇帝ピョートル大帝(在位:1721~1725)の指示の下、イタリアの建築家ドメニコ・トレッツィーニにより、1712年から1733年にかけて建てられた、歴代ロシア皇帝(ロマノフ朝)の霊廟である。大聖堂の尖塔は約123メートルあり頂上には十字架を持つ天使が表されている


聖堂内は、パステル風のピンク色と淡い若草色で彩られ、クリスタルガラスのシャンデリアで照らされ明るい雰囲気である。身廊中央部にあるシャンデリアの取付け部(天井)には十字架などを持った愛らしい4人の天使が描かれている。
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この大聖堂には、初代ロシア皇帝ピョートル大帝(在位:1721~1725)から第13代ロシア皇帝アレクサンドル3世(在位:1881~1894)までの皇帝と皇后の埋葬場所となっている。なお、第3代ピョートル2世(在位:1727~1730)と第5代イヴァン6世(在位:1740~1741)は埋葬されていない。

イコノスタシス前の右側礼拝堂前には、ピョートル大帝のお棺が置かれている。胸像が置かれているのでわかりやすい。ピョートル大帝は、大北方戦争に勝利した3年後の1724年11月、ネヴァ川河口の砂州に乗り上げた船の救出作業に参加して真冬の海に入ったことで、体調を崩して重い膀胱炎を患い翌1725年1月28日に亡くなった。53才の生涯だった。


そして、南側廊のファサード側には聖キャサリン礼拝堂があり、ここには第14代で最後のロシア皇帝ニコラス2世(在位:1894~1917)とその家族が埋葬されている。


ニコラス2世(1868~1918)は、ロシアの度重なる敗戦などを契機に、民衆の間にロマノフ家の専制政治への不満や農奴制廃止などの自由主義運動が高まったことから、1917年3月15日に退位させられ、300年続いたロマノフ朝は終焉することとなった。
(日露戦争後の1905年に第1次ロシア革命が、第一次世界大戦中の1917年に第2次ロシア革命が起こる。)

その後樹立された社会主義国家ソビエト連邦(ソ連)は、政府を主導してきたボリシェヴィキ(赤軍)と、反ボリシェヴィキ(白軍)とで内戦状態になる。政府は、白軍が退位したニコライ2世を担ぎ出すのを恐れて殺害命令を下したため、1918年7月17日未明、ニコラス2世と皇帝一家は側近らも含めて全員が銃殺された。銃殺はロシア中央部のエカテリンブルクの地で行われたが、場所の詳細はタブーとされた。そしてソ連崩壊後の1994年に遺体が確認され、80周年の1998年にこの礼拝堂に改葬された。

最後に、廊下で繋がるロシア大公と侯爵夫人のための霊廟まで行った後、再び広場に出て、次に要塞の西端にある収容所展示館の見学に向かった。

路地裏の様な場所にあるためか、見学者は少ないようだ。もともと大北方戦争の防衛基地として築かれた要塞は、1718年から政治犯の収容所となり、ロシア革命直後からソ連崩壊直前まで多くの反政府派が逮捕・収容された。ドストエフスキー、レーニンなども一時収容されていたという。展示館には、囚人服や帽子などが展示されていた


ところで、この収容所に最初に収容されたのは、皮肉にもこの要塞を築いたピョートル大帝の息子(アレクセイ・ペトロヴィチ)だった。ピョートル大帝は、多くの子供を儲けたが、男子で成人したのはアレクセイのみであった。アレクセイは、政治に興味がなく、親にも反発していたが、引いては政争に巻き込まれることとなり28才の若さで投獄され亡くなった。独房には、当時を再現して、ベッドなどが置かれており、廊下には蝋人形の看守などが置かれており少し怖い。。

こちらはロシア革命の指導者の一人でソ連政権の立役者とも言われるレフ・トロツキーの独房だった。この様に、独房入口には収容されていた人物の紹介と収容時期が書かれた案内板が展示されている。

時刻は午後2時を過ぎたところ。要塞西側から出た公園の一角にあるレストラン・コーリュシカ(Корюшка)で今夜の食事の予約をして、エルミタージュ美術館を見学するため市内に向かう。

要塞の桟橋から400メートルほど西にいったバスターミナルから路線バスに乗る。バスはすぐに、ビルジェヴォイ(Birzhevoy)橋(取引所の意)(ネヴァ川に沿いにエルミタージュが見える)を渡り、次の宮殿橋を渡ると、宮殿広場前バス停に到着する。ここでバスを下り、宮殿広場を横断して、美術館入口に歩いて向かう。
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※画像は翌日午後6時過ぎのもので入口は閑散としているが、訪問時は長蛇の列だった。

入口は宮殿広場に面した冬宮殿(ロマノフ朝時代の王宮)の右寄り、黄金の塔付近の下に見える扉口だが、事前にWebチケットを購入した場合は、右隣に建つ小エルミタージュと、更に右隣に建つ旧エルミタージュとの間を入った小エルミタージュ側の東口から入場する。

エルミタージュ美術館は、世界四大美術館の一つ(パリのルーヴル美術館、ロンドンの英国博物館、ワシントンのナショナル・ギャラリー)に挙げられ、年間350万人を超える来場者がある。常に込み合っており、入場にも時間がかかるが、事前に購入したWebチケット(2日券23.95ドルを購入した)を持参した場合は正面入口に並ぶ必要がなく入場できる。事前の情報どおり、すぐにセキュリティチェックも受けられ、チケットをゲートにスキャンしてあっという間に入場できた。


小エルミタージュは混雑している時間帯なので、そのままグランド・フロア(ギリシア・古代ローマ美術)を通りすぎ、冬宮殿から見学することにした。ところで、そもそもエルミタージュ美術館の始まりは、1764年にエカチェリーナ2世がドイツの画商ゴツコフスキーが売り出した美術品を買い取り、自分専用の隠れ家(エルミタージュ)展示室を建てたのが始まりである。その後は、歴代のロシア皇帝が美術品を収集し、1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となり、冬宮殿の建物を含めて現在の巨大な美術館となった。総収蔵品は約300万点とされる。
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冬宮殿の見学は、イタリア人建築家バルトロメオ・ラストレッリの手による「ヨルダン階段」からのスタートになる。階段は、白を基準に、金の装飾が施されたロシア・バロック建築様式で造られている。階段は途中が踊り場になり、左右の周り階段のいずれかを上って行くことになる。天井にはオリンポスの神々が描かれた美しいフレスコ画が飾られている。
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「ヨルダン階段」を上って、すぐに現れる部屋が、冬宮殿の北東角に位置している「控えの間」である。中央には孔雀石の円柱の並ぶ東屋風のオブジェが飾られ、窓からはネヴァ川を望む(右側の木々がペトロパヴロフスク要塞)ことができる。冬宮殿は中庭を持つロの字の造りで、この「控えの間」からは、ネヴァ川に沿って、西側に、ニコラス・ホール、コンサートホールと続くが、この日は見学できなかった。


ということで、南側から時計回りの順で見学していくことにする。すぐ南隣にあるホールが「元帥の間」で、ロシア帝国の軍事指導者を称えるために建設された。

ところで、冬宮殿は1837年12月17日、大火に見舞われ3日間に亘って宮殿のほとんどを破壊しつくしたが、火の元はこの「元帥の間」で始まったとされる。原因の一つに、建築家オーギュスト・モンフェラン(聖イサアク大聖堂の再建や宮殿広場に建つアレクサンドル1世柱も設計)が設計に木製を多用したため、火の周りが早かったことが挙げられる。その後、ロシア建築家ヴァシリー・スタソフ(1769~1848)により再建され現在に至っている。


その南隣には「ピョートル大帝の間」がある。この部屋は1833年から1834年にかけてフランス人モンフェランの設計でピョートル大帝の偉業を記念して造られ、両側の大理石で囲まれた壁のくぼみにはピョートル大帝と女神とが描かれた肖像画が飾られている。なお、玉座はアンナ女帝(在位:1730~1740)のためにイギリス人工芸家によって造られた。
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更に、南隣に続く巨大なホールは「紋章の間」で、漆喰に金メッキされた溝付きの眩い円柱が特徴となっている。もともとは儀式のために造られたが、現在のホールは、建築家ヴァシリー・スタソフの手によるもの。十月革命後には、ソ連初代文相に就任したアナトリー・ルナチャルスキーがコンサートホール(2,000人収容可能)として利用した。中央にはアベンチュリン製の花器が置かれている。

なお、このホールには、18世紀イタリア絵画の巨匠ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(1696~1770)の最後の審判(1730~1735)が展示されていた。

「紋章の間」の東隣にある筒型ヴォールトのホールは「1812年祖国戦争の間」で、ロシアの勝利を称えて将軍332人の肖像画で埋め尽くされている。イギリスの画家ジョージ・ダウェ(1781~1829)のグループによって描かれた。ホールは、もともと小さな部屋が並んでいたが、1826年、イタリア生まれのロシア建築家カルロ・ロッシ(1775~1849)によって現在の姿となった。なお、1837年の火災後は建築家ヴァシリー・スタソフにより再建されたが、絵画は全て事前に持ち出されて被害はなかった。
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正面(北側)突き当たりの馬上の人物は、ロマノフ朝第10代ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位:1801~1825)で、左側のやはり馬上の人物は、神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝フランツ2世(在位:1792~1806)、手前左右には、ロシア軍総司令官ミハイル・クトゥーゾフ元帥(1745~1813)と、イギリスのアーサー・ウェルズリー(初代ウェリントン公爵)(1769~1852)の肖像画が飾られている。

「祖国戦争の間」の東隣にあるホールは「聖ゲオルギウス(ゲオルギー)の間」で歴代ロシア皇帝の玉座がある。当初は、天井には寓話的な絵画が描かれ、多色大理石の柱が用いられた新古典主義的なインテリアデザインだったが、1837年の火災以降、建築家ヴァシリー・スタソフにより、平天井に美しい金色の装飾を施し、柱はカララ大理石と、シンプルでクラシックなスタイルとなった。東側中央には、ロマノフ家の紋章・双頭の鷲が装飾された玉座が置かれている


玉座の背後には「アポロ・ホール」があり、初期フランドル派の画家ファン・デル・ウェイデン(1399~1464)の「聖母を描く聖ルカ」が展示されている。この同作品はボストン美術館にあり、構図はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」をもとにしている。ちなみにこの「アポロ・ホール」から小エルミタージュに至ることもできる。


「祖国戦争の間」に戻り、南側の扉を出た東側には、1763年に建築家ラストレッリによりロココ調でデザインされた「大聖堂」がある。天井には、ロシア肖像画家ピョートル・バシン(1793~1877)によるキリストの昇天が、ドーム下の四隅には、福音史家の聖マルコ、聖マタイ、聖ヨハネ、聖ルカが描かれている。
なお、宮殿広場から見て、冬宮殿のやや右側に一際目立つ黄金の塔が、この大聖堂がある場所になる。


「大聖堂」を背にして、突き当たりの小部屋を通り南側に進むと、宮殿中庭と宮殿広場に面した長方形の大ホールが現れる。「アレクサンドル・ホール」で、1837年の火事の後、建築家アレクサンドル・ブリューロフ(1798~1877)によって創設された。この部屋はアレクサンドル1世と祖国戦争(対ナポレオン戦争)の勝利とを記念して建てられたもの。古典主義の珍しいゴシック・バージョンで繊細に装飾された壁には、彫刻家ヨイド・トルストイ(1782~1846)がロシアの勝利を記念して制作した24のメダルが含まれている
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「アレクサンドル・ホール」の西隣(東隣にも数部屋の展示室あり)からは、宮殿広場側と中庭側に面した小部屋が続き、15~18世紀のフランス絵画の展示室となっている。


ピエール・ミニャール(1612~1695)のアレクサンドロス大王の寛大さ(1689)や、ロココ様式を代表する画家アントワーヌ・ヴァトー(1684~1721)のサヴォア人と、気まぐれ少女。同じくロココ様式を代表する画家フランソワ・ブーシェ(1703~1770)のローマ神話の愛の神クピードー(キューピッド)。ニコラ・ランクレ(1690~1743)のパリ・オペラ座で人気のあったバレエダンサー、マリー・カマルゴの肖像(1710~1770)。ジャン・オノレ・フラゴナール(1732~1806)のLost Forfeit or The Captured Kissや、農夫の子供たち、ユベール・ロベール(Hubert Robert 1733~1808)の柱廊に囲まれたヴィラなどの作品が展示されている。

こちらは、宮殿左端の広場に面した場所にある「ホワイト・ホール」で、1841年に第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世(在位:1855~1881)とマリア・アレクサンドロヴナ(1824~1880)との結婚を記念して建築家アレクサンドル・ブリューロフにより設計された。ホールは古典主義建築で、アーチ形の天井はコリント式の柱によって支えられ、芸術を代表する像が戴冠している。
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「ホワイト・ホール」の隣で、宮殿広場に面し南西角にある部屋が「黄金の間」である。建築家アレクサンドル・ブリューロフにより、火災後に再建された部屋の一つ。皇后マリア・アレクサンドロヴナの部屋として使われた。アーチ型の天井と朝顔口の窓は洞窟を思わせる様な造りが特徴である。見所として、エティエンヌ・モダニによるモザイク模様の大理石がある碧玉製暖炉がある。
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「黄金の間」の北隣は、ロマノフ王朝のプライベートルームがあった場所で、薄紫を基調にした部屋や、皇后の私室で赤を基調にした美しい小部屋赤の壁に金をロココ調にデザインした応接室などの豪華な部屋がある。

ここから、西庭園に面した小部屋と中庭(東側)に面した小部屋の展示室(ロシア文化の芸術)が北側に向けて続いている。リチャード・ブロンプトンのエカテリーナ2世の肖像(1782)や、ジョセフ・ライト(1734~1797)の鉄工場を覗き込む(1773)などが展示されている。

いくつかの小部屋の展示室を過ぎた北西翼には、新古典様式で造られた「円形大広間」がある。この広間は、建築家オーギュスト・モンフェラン(1786~1858)がニコライ1世のために建設したもので、多くの公式の部屋や、皇室のプライベートルームと繋がっており、構造上、玄関ホールの役割を担っていたようだ。なお、この日は花の展示がなされていた。天井ドーム頂部の窓からは外光が入り、ホールを明るく照らしている


「円形大広間」の北隣の部屋でも、花の展示が行われていた。こちらは新古典主義で装飾された低い樽型の丸天井が特徴の「アラビア・ドーム」で、東側の大きな中庭側ではなく、建物に囲まれた中に造られた狭い中庭に面した場所にある。皇室のプライベートルームの一つで、冬宮殿入口のヨルダンの階段を上った所からの直線(導線)で行き来できる様に設計されている。なお、ホールの由来は、当時いた黒人の皇帝警護の扮装(緋色のズボン、金色のジャケット、白いターバン、カーブした靴)から名付けられたそうだ。


さて、時計回りに見学してきた冬宮殿の最後の部屋は、ネヴァ川に面した「孔雀石の間」である。1830年代後半に建築家アレクサンドル・ブーロフによって設計され、ロシア皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラ・フヨドロフナ(1872~1918)の正式なレセプションルームとして利用された。孔雀石の美しい柱が印象的である。大きな孔雀石の壺なども見どころの一つ。

ここまでで、既に時刻は午後6時20分になっていた。閉館時間は午後9時、多少慌てて小エルミタージュの見学に向かう。
(2017.7.13~14)
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ロシア・サンクトペテルブルク(その1)

2017-07-12 | ロシア
これから、サプサン号(ロシア版新幹線はやぶさ)に乗りサンクトペテルブルク(モスクワから北に直線距離で約600キロメートル)に向かう。ところで、ロシアを旅行する際はビザが必要だが、7営業日以上滞在した場合には更に滞在証明(レギストレーション)の申請をホテルが行う必要がある。今回は短期間滞在のため不要のはずだが、ホテル(メルキュール モスクワ)からの要請で申請した。

滞在証明書をもらいチェックアウトした後、ホテル前の50番トラムに乗り10分ほどでコムソモーリスカヤ駅(メトロ5号線)に到着した。サンクトペテルブルクへは、階段を降り地下道を通ってすぐ北側にあるレニングラーツキー駅からの乗車になる。なお、他に郊外への鉄道路線は、近くにヤロスラフスキー駅とカザンスキー駅があるため間違えないよう注意が必要だ。
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駅舎内でセキュリティチェックを終え、ホームで係員にEチケットとパスポートを提示して予定の列車に乗り込んだ。なお、チケットは往路の午前7時半モスクワ発~午前11時32分サンクトペテルブルク着(2,581ルーブル)を、復路は4日後の午前7時サンクトペテルブルク発~午前10時58分モスクワ着(2,013ルーブル)を1か月前にロシア鉄道サイトから購入したが、運行本数が少ないことから、事前の予約・購入は必須かも。

列車はモスクワ市内を過ぎ、ぐんぐん加速(時速250キロメートル以上)するが、乗り心地は良かった。とは言え低地走行のためか、より速度を感じ窓から外の景色(大半は森林や湖などの自然の風景)を眺めていると、少し気分が悪くなった。車内販売が来たが、食堂車に行ってサンドイッチを買った。しかし値段が高い上、美味しくなかった。
サンクトペテルブルクに近づくにつれ、雨が降り出し、市内に入ると土砂降りの雨になったが、無事定刻の午前11時32分に到着した。


サンクトペテルブルクは、ヨーロッパ大陸とスカンディナビア半島に囲まれたバルト海の最東部に面したロシア西部の都市(ロシア第二の都市)で、ロシア帝国(ロマノフ朝)ピョートル大帝(在位:1682~1725)によって1703年に築かれ1917年まで首都だった。その後はペトログラード、ソ連時代はレニングラードと呼ばれた。
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今日は、エルミタージュ美術館(新館)で過ごす予定にしている。宿泊先は東西に伸びるネフスキー大通り(サンクトペテルブルクの目抜き通り)と交差するリチェイニ通りを200メートルほど南に下ったアパートメントで、オーナーとは夕方のチェックインを約束していたので、荷物を駅か美術館で預ける必要がある。駅地下に預かり所があった(1H160ルーブル~24H340ルーブル)が、昼休みで係員がいなく、希望者が列をなしていた。このため、バスで美術館まで行ったが、荷物のサイズで断られ、結局、アパートメント内のメールボックス横に持参のワイヤーで縛り付けた。このころ雨は上がり、身軽になり、ネフスキー大通り沿いのバス停横にあった中華料理店昼食を食べ、再びバスに乗りエルミタージュ美術館(新館)に向かった。

「宮殿広場バス停」を降りて、東側にある広場に向かう。中央に立つ塔はアレクサンドル1世柱(台座から搭上まで32メートル)で、1812年の祖国戦争(対ナポレオン戦争)における第10代ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位:1801~1825)の勝利を称え、1834年に第11代ロシア皇帝ニコライ1世(在位:1825~1855)が建立したもの。
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左側(北側)の淡青色に白色の円柱が並ぶロシア・バロック様式の建物は、1762年イタリア人建築家バルトロメオ・ラストレッリによりロシア皇帝のための冬季の王宮(冬宮殿)として建てられた。帝政時代には、皇帝一家が2階部分に居住しておりバルコニーから広場に集まる市民に挨拶をする姿がしばしば見られたという。

冬宮殿は、現在、エルミタージュ美術館(本館)となっており、その他の建築物とその周辺とを併せて「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」として、1990年に世界遺産に登録されている。
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アレクサンドル1世柱を挟んで右側(南側)には、イタリア人建築家カルロ・ロッシ設計で1829年に完成した全長600メートルの弓形に連なる建物がある。中央アーチ上には、勝利の女神ニケーの馬車が飾られ、その向かって右側は参謀本部(現在はレニングラード軍管区司令部がある)で、左側がかつて大蔵省と外務省であった。そして、その外務省だった場所が、現在、エルミタージュ美術館(新館)となっており、これから向かう目的地である。
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エルミタージュ美術館(新館)の入口は勝手口のような簡素な扉である。その扉を入った先でセキュリティチェックを受け、チケット(300ルーブル)を購入する。
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その後建物内を右側にしばらく進むと、吹き抜けに階段のある広い空間になる。ところで、ロシアでは、多くの印象派(印象派以降含む)の作品を所蔵しているが、これはいち早くフランスの近代美術の価値を見抜き収集したロシア人コレクターで富豪のセルゲイ・シチューキン(1854~1936年)や、イワン・モロゾフ(1871~1921 )などの存在が大きい。

更に、エルミタージュ美術館(新館)では、彼らに加え、オットー・クレープス(Otto Krebs)(1873~1941)の多くのコレクションを所蔵している。彼はドイツの実業家で主に印象派や後期印象派の絵画を収集する美術品コレクターだったが、ナチス政権からの収奪を逃れるために秘匿したものを、1947年にソ連当局が発見し押収したとされ、その後行方不明になっていた。ところが1995年に、これらのコレクションが幻の名画としてエルミタージュ美術館で公開されて以降、現在も展示されているのだ。
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展示コレクションの数は膨大で、とても紹介しきれないので、その、オットー・クレープス・コレクションから一部を紹介することとする。まず、パブロ・ピカソ(1881~1973)のアブサン(1901)。エドガー・ドガ(1834~1917)の座る踊り子(1879)2人の踊り子(1897)。ジョルジュ・ルオー(1871~1958)の腕を上げる裸婦(1906)

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)の女の肖像(1877)と、デルフト焼のバラとジャスミン(1881)。アンリドトゥールーズ=ロートレック(1864~1901)の傘を持つ女(1889)。アンリ・ファンタン=ラトゥール(1836~1904)のレモン、リンゴ、みかん、チューリップのある静物画(1865)
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エドゥアール・マネ(1832~1883)の折り返し衿(ターンダウン・カラー)の服を着た女性(1879)。クロード・モネ(1840~1926)の庭に座る女(1876)ボルディゲーラの庭(朝)(1884)ル・アーヴル河岸(1874)。カミーユ・ピサロ(1830~1903)のディエップの大市~晴れた朝(1901)テュイルリ公園(1900)


アルフレッド・シスレー(1839~1899)のビヤンクールの艀(1877)。ポール・セザンヌ(1839~1906)の男性水浴図(1891)。ポール・ゴーギャン(1848~1903)のPiti Teina(姉妹)(1892)Taperaa mahana(夕方前)(1892)。フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)の家と農夫が見える風景(1889)朝、野良仕事へ(ミレーの模写)(1890)夜の白い家(1890)

エルミタージュ美術館(新館)では、2時間ほど鑑賞した後、午後5時前に退館した(明日以降、再訪することにした)。勝利の女神ニケーの馬車が飾られた門から出て、ネフスキー大通りからバスに乗った。

この日は、午後7時から、マリインスキー劇場で、モーツアルト歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観て、アニチコフ橋近くのKriek(ベルギー料理)で遅い夕食を食べてアパートメントに帰った。
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*********************

翌朝、昨日とは打って変わり雲一つない青空が広がった。これから観光ツアーに参加すべく、カザン聖堂の手前(東側)にある市場ボリショイ・ゴスチーヌイ・ドヴォール(大商店街)(宿泊場所から1.5キロメートル)に歩いて向かう。まずネフスキー大通り沿いのベロセリスキー・ベロゼルスキー宮殿を過ぎてアニチコフ橋を渡る。
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アニチコフ橋の風景は、ロシア画家イワン・クラムスコイ(1837~1887)の代表作品「見知らぬ女(1883)」で描かれている。橋から望むフォンタンカ川の眺めは、陽光が川面に眩いばかり反射して美しい。欄干に飾られている彫像は、ピョートル・クロート作の「馬使い(1850)」で、その台座には、レニングラード攻防戦でドイツ軍から受けた砲撃の痕が残されている。
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アニチコフ橋を過ぎると、左側に第6代ロシア皇帝エリザヴェータ(在位:1741~1762)が、愛人のアレクセイ・ラズモフスキー伯爵(宮廷聖歌隊員出身)に贈ったアニチコフ宮殿(現:青少年会館)があり、隣には1873年に第14代ロシア皇帝ニコライ2世(在位:1894~1917)の皇后アレクサンドラのために建てられたアレクサンドリンスキー劇場がある。劇場の前にはエリザヴェータ帝とルミャンツェフ、ポチョムキン等の寵臣たちの像が飾られている

そしてネフスキー大通りの向かい側には、1900年に造られたエリセーエフ家が運営する高級食料品店(エリセーエフスキー)がある。なお、モスクワ店はモスクワ中心部のトヴェルスカヤ通りにある。
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ロシアの歴史的建造物を観光しながら進むと、15分ほどで市場ボリショイ・ゴスチーヌイ・ドヴォール(大商店街)に到着した。この市場は1785年に木造で造られたが、現在は、石造りで中庭を囲んで(上空から望むと三角形)アーチ門が続く2階建ての建物になっている。

この辺りに観光ツアーのための小屋が立ち並んでいる。この日は、ペテルゴフ宮殿(ピョートル大帝の夏の宮殿)か、エカテリーナ宮殿(ツァールスコエ・セロー)に行くか悩んだが、短時間(半日)で参加できるエカテリーナ宮殿を選択することにした。

エカテリーナ宮殿は、サンクトペテルブルク市内から南東約25キロメートルに位置している。募集ツアーには地名である「プーシキン」と書かれ販売されていたので最初わからなかった。交渉の末、午前10時半発のツアー(2,200ルーブル)に申し込んだが、エカテリーナ宮殿の入場料は1,500ルーブル(公園料含む。宮殿のみは1,000ルーブル)なので、往復の交通費と手間等を考えるとかなりお得と言うわけだ。ただし、ロシア語のみである。

参加者は、前方(西側)に見える塔(1852年に建築された帝政期のペテルブルグ市会の建物)の横断歩道手前でツアーバスの到着を待った。
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参加者は30人弱だった。ツアーバスはネフスキー大通りからフォンタンカ川に沿って南西方面に向かう。運河の対岸で日差しを浴びて美しく輝く薄水色の建物は、1879年に建てられた「ゴーリキー記念国立レニングラード赤軍勲章アカデミー・ボリショイ・ドラマ劇場」である。
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その後、左折してモスコーフスカヤ大通り(モスクワ方面へのM10幹線道路)を南に向かう。途中、露土戦争(1828~1829年)の勝利を記念して建てられたモスコーフスキー凱旋門、スターリン様式で建てられたソヴィエト・ドーム(8階部分にあたる彫刻が美しい、1941年建造)や、大祖国戦争(1941~1945の独ソ戦争)の勝利を記念するサンクトペテルブルク勝利広場などロシアらしい重厚な建物やモニュメントが続くが、日本人には馴染みが薄い。ツアーバスは50分ほどでプーシキン地区の宮殿近隣の駐車場に到着した。

駐車場を出て、土産物店が並ぶ通りで、10分間の小休憩(有料トイレを利用し、ピロシキを買った。)を取った。その後、礼拝堂の美しい黄金の塔が見える宮殿外壁に沿って右折し、その先を左折すると、鉄格子のある宮殿(北門)に到着した。
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この場所からは許可が出た団体ごとに入場するようだ。園内は、広々とした敷地内となり宮殿は北西方面に面して建っているが、こちらは宮殿裏側にあたる。
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エカテリーナ宮殿は、ピョートル1世大帝の妃、第2代ロシア皇帝(ロマノフ朝)エカチェリーナ1世(エカテリーナ)(在位:1725~1727年)が夏の離宮として1717年に作らせたのが最初で、その後、第4代ロシア皇帝アンナ(在位:1730~1740)時代に増築した。現在のような壮麗・壮大なロココ調様式の宮殿になったのは、第6代ロシア皇帝エリザヴェータ(在位:1741~1762)時代で、イタリア人建築家バルトロメオ・ラストレッリにより1756年に改築・完成したもの。

建築家ラストレッリは後にサンクトペテルブルクの王宮(冬宮殿)を建設するなど、アンナ帝からエリザヴェータ帝時代を通して宮廷建築家として多くの業績を残した。
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宮殿は入場制限がなされており、園内でも20分ほど待たされ、宮殿に入場するも再び階段で10分ほど待たされた。。とは言え、装飾品をなどをゆっくり鑑賞できたのは良かった。宮殿内の壁面には美しい装飾で溢れている。装飾には、古伊万里時計・湿度計なども飾られており、一つ一つの装飾が美しい(こちらは2階から見た様子)
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階段を上った左側の扉の先にあるのが、宮殿最大の床面積(800平方メートル)を持つ「大広間(玉座の間)」である。広間は、両側にアーチ状の窓がいくつもあることから、外光が差し込み非常に明るい雰囲気である。美しく描かれた天井画のオリジナルは1754年に、ヴェネツィアの装飾家ジュゼッペ・ヴァレリアーニ(1708~1762)と多くのロシア人アーティストとの共作で、ロシアの寓意、平和の寓意、勝利の寓意の3つのテーマで構成されている。
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壁面には、鏡や花や貝殻の刻まれた金のバロック様式装飾で覆われ光りを浴びて鮮やかに輝いている。各国からの賓客はこの豪華絢爛な大広間へ通され、皇帝に謁見した。また仮装パーティや舞踏会なども華やかに繰り広げられたという。
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広間には、コスチュームを着たスタッフが観光客の写真撮影の相手をしている。窓からは先ほど待機した庭園が望め、その先の宮殿正門(北西門)の向こうにはアレクサンドロフスキー・パークが広がっている。パーク内には、アレクサンドロフスキー宮殿があるが公開はされていない。
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大広間で10分ほど見学した後、メイン階段を挟んだ反対側の「騎士の食堂の間」に向かう。こちらのインテリアも金色の装飾が覆うバロック様式である。天井には、太陽神ヘーリオスとイオスの神話にインスパイアされた作品が描かれている


次の部屋が「白の主食堂」と名付けられ、中央に金色のコンソール・テーブルと椅子が置かれている。テーブルには、ドイツのマイセン工場で作られた陶磁器が置かれている。花や果物で装飾されたバターディッシュの陶磁器も見所である。窓際に置かれたマイセンのブールドネージュ(スノーボール)の花瓶は繊細な装飾が印象的だ。


次に、金属箔で縁どられた深紅と緑のガラスが飾られた、「木いちごの食堂」と、「緑の食堂」を過ぎ「肖像画の間」に入る。壁には、ハインリッヒ・ブッフホルツ(Heinrich Buchholtz)(1735~1780)作の第6代ロシア皇帝エリザヴェータの大きな肖像画が飾られている。現在のサンクトペテルブルクの魅惑的な諸宮殿は、エリザヴェータ帝治世に築かれたものが多いが、これは、彼女がどちらかというと、国政より文化事業の西欧化に熱心に取り組んだことによる。


そして、こちらが、宮殿最大の見所の「琥珀の間」である。エリザヴェータ時代に造られたこの部屋を改築したのは、第8代ロシア皇帝(大帝)エカチェリーナ2世(在位:1762~1796)で、彼女はこの「琥珀の間」が大のお気に入りで、彼女の許しがなければ誰も入れなかったという。
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その後、「琥珀の間」の琥珀は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによって全て持ち去られ(宮殿にある金や美術品などの大半も含め)、移送先でイギリス軍の空爆により全て消滅したとされている。戦後、破壊されたエカテリーナ宮殿の修復が進められるものの、視覚的資料が少ないため、復元は困難を極めた。しかし1979年から11トンの琥珀が彫り出され、古写真や当時の僅かなデッサンを参考に本格的に修復作業が開始された。職人たちは24年もの歳月をかけ2003年に往時の姿を蘇らせた。壁面には様々な形と色の風合を生かした琥珀を立体的に装飾しており、薄い琥珀を使った透かし彫りの技法などは見所の一つである。

他にも、エリザヴェータ帝の個人的な部屋で、後にエカチェリーナ2世大帝やアレクサンドル1世にも使われた「小さな白の食堂」がある。天井にはシャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(1705~1765)のヴィーナスの誕生(コピー)が描かれている。

こちらは、中国式ダイニングルームの「アレクサンドル1世の客間」。アレクサンドル1世(在位:1801~1825)のプライベートな部屋だった。1752~56年に建築家ラストレッリのデザインをもとに制作されるが、1820年の火災後、建築家ヴァシリー・スタソフにより復元された。部屋にはピョートル1世大帝やエカチェリーナ1世などの肖像画が飾られているが、アレクサンドル1世の全身肖像画(イギリス人画家ジョージ・ダウェーによる)が一際目を引く。


こちらは「緑の食堂」で、1779年に設計され、エカチェリーナ2世の第1皇子で後の第9代ロシア皇帝パーヴェル1世(在位:1796~1801)と最初の妻ナターリア・アレクセーエヴナのために造られた。その後、大祖国戦争で破壊されたが、1957年~1959年の間に修復された。


そして約180平方メートルの床面積を有する「絵画の書斎」。外交上のレセプション、食事、音楽のために使われた。壁には、17世紀のオランダ・フランドルで活躍したアドリアーンファンオスターデ、ダフィット・テニールス、ヤン・ボト、ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム、ジャン・フェイトなどの画家による作品などが展示されている。なお、書斎は、第二次世界大戦中に消失するものの、絵画は避難させ130点の内114点は救われたという。
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宮殿内では、待機も含め約1時間の見学時間だった。宮殿内の一番北端の部屋まで見学した後は、一階の通路を南端まで行く。通路の壁には、戦時中の荒廃した宮殿の様子琥珀の部屋の職人たちによる修復の様子などが展示されていた。


南端の出口から宮殿正面に出た後そばの宮殿右翼(ズボーフスキー棟)を抜け、次に宮殿の南(南西)側に広がる公園(キャサリン・パーク)の散策に向かう。最初に「カフ・オベリスク(Kagul Obelisk)」に向かった。このオベリスクは、「カフの戦い(1770年)※ロシア帝国とオスマン帝国との間で行われた第一次露土戦争」での戦勝記念として1772年に建立されたもの。

オベリスクには、「1770年7月21日モルドバのカグル川で勝利したことを記念して建立する。ロシア軍総司令官ピョートル・ルミャンツェフ伯爵)の下、17000人のロシア軍が、ドナウ川に逃げようとしているトルコのハリル・ベイの軍隊15万人を打ち破った。」と書かれている。なお、オベリスクはアレクサンドル・プーシキンの小説「大尉の娘」に登場する。ツアーでは時間を割いてガイドが説明していたが、どうも馴染みがない。。


周りには、花壇があり、美しい花を咲かせている。オベリスクから公園を南に歩くと、東西に伸びるプロムナードになり、正面に大きな池が見えてくる。池の中央に見えるオベリスクは、チェスマ柱(Chesme Column)と呼ばれ、スピリドフ提督率いるロシア地中海艦隊が、トルコ艦隊を全滅させたチェスマ海戦(1770年)での勝利を記念して建てられた。トルコのシンボル三日月を踏みにじるロシアのシンボル鷲の像が頂部に飾られている。


東西に伸びるプロムナードを東側のエカテリーナ宮殿方向に歩くと前方がスロープになっている。スロープは、ギリシア風のアーチ橋(パンドゥス)で造られている。


スロープを上ると、宮殿の右翼(ズボーフスキー棟)の二階になり、特別展が開催されている。正面の建物は1780年に建てられた2階建てのパビリオン(冷浴場)で床下が入浴室で、上層部は6つの瑪瑙で覆われた娯楽室となっている。


そして、右側にギリシア風の建物でキャメロン・ギャラリーがある。スコットランドの建築家チャールズ・キャメロン(1743~1812)により建設は1784年から始まった。上層部にガラス張りの大きな窓が印象的なホールで、1790年代から廊下には哲学者、神学者などの胸像が飾られている。


キャメロン・ギャラリーから、宮殿の正面側を眺めると、夏の日差しを浴びて繁茂した木々が宮殿を覆い隠している。これから剪定をするのだろう。少し右に視線を移すと鏡池に写る建築家バシリーとイリーナ・ネイロフが1779年に建設したアッパー・バースハウス・パビリオンを正面に望むことができる。園内には綺麗に刈りこまれた芝生が広がっている。


キャメロン・ギャラリーの廊下の突き当たりからは、階段を下りて再び公園(キャサリン・パーク)に出る。


階段の左右には、ヘラクレスとフローラ(ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神)の像が立っている。なお、ヘラクレス像は、一時、ナチス・ドイツにより強奪されていたという。


階段を降りた先には、建築家ラストレッリによって建てられた「グロットパビリオン(洞窟の意)」(1760年)が建っている。バロック様式のスタッコ装飾で飾られ、中央部には4つの窓を持つ大きなドームがある。海をイメージした紺碧の壁と白い柱が鮮やかで、柱頭には、海神ネプチューンやイルカなどの彫刻が施されている。特に、この時間はファサードに太陽の光を浴びて美しさが際立っていた。


グロットパビリオンの前には、広大な池が広がっている。なおキャサリン・パークとアレクサンドロフスキー・パークを含めたツァールスコエ・セローの敷地は、全体で107ヘクタール(おおよそ東京ドーム21個分に相当)もの広さを有している。


南西部の岬には、1852年、ニコライ1世(在位:1825~1855年)により露土戦争(1828~1829年)の勝利を記念して建てられた「トルコ風呂のパビリオン」を望むことができる。


キャサリン・パークから、エカテリーナ宮殿の庭園に入り、中央の参道から宮殿正面を眺めてみると、参道を取り囲む木々を立方体にする剪定作業が行われていた。


宮殿を背にして、進むと、また建物が見えてきた。


1744年に建てられた「エルミタージュ」で、1753年に白柱と青緑色に金メッキが施され現在の姿となった。宮殿からは、直線距離で550メートルほど離れた場所に立ち、休息や会食できるような施設として造られたが、18世紀頃のフランス庭園には良くある施設である。


最後に、正面の「エルミタージュ・キッチン」から園外に出た。時刻は午後2時半、入場して約2時間半が経過していた。そして駐車場まで歩いて戻り、バスに乗車して市内まで戻った。天候にも恵まれ、充実したツアーだった。バスに乗るとすぐ寝てしまった。


バスは、午後3時半に無事、市場ボリショイ・ゴスチーヌイ・ドヴォールに戻ってきた。バスを降りて、ネフスキー大通りを西に歩くと、すぐ隣には巨大なカザン聖堂が姿を現す。

カザン聖堂は、1811年、ロシアの建築家ヴォロニーヒンがローマのサン・ピエトロ大聖堂を手本に建設した。聖堂自体はラテン十字形プランの構造となっているが、ドームの周りから両側にコリント式列柱96本が半円状に弧を描き回廊を形成しているため、羽を広げた巨大な翼竜のようにもみえる。完成翌年の1812年には、祖国戦争(ナポレオン軍によるロシア遠征)の戦勝を記念する建築物となった。


聖堂に向かって左側に伸びる弧先にロシア軍総司令官ミハイル・クトゥーゾフ元帥(1745~1813)像が建っている。クトゥーゾフは、帝政ロシア3代の皇帝に仕えた軍人で、祖国戦争では総司令官に就任しロシアを勝利に導いた(首都モスクワに攻め込むナポレオン軍を無血入城をさせ、その後、糧道を立ち執拗な追撃戦で打ち破る)。トルストイ作の「戦争と平和」でも良く知られている。


聖堂内には誰でも自由に入ることができるため、多くの観光客がいるが、広い空間のためか混雑を感じない。内部には、柱頭と下部に金メッキが施された巨大な光沢のあるコリント式列柱が56本立ち並んでおり、それらはフィンランド産の赤色花崗岩から造られている。落ち着いた色調と金で統一された空間は荘厳な雰囲気を感じさせてくれる。


金銀で装飾されたイコノスタシスの王門にむかってすぐ左側には、ロシア正教会で最も有名なイコン(カザンの生神女)が奉られており、礼拝のための列が続いている。


完成後のカザン聖堂は、ロシア革命後ボリシェヴィキによって閉鎖され、ソ連政権時代には無神論博物館とされたが、現在ではロシア正教会に返還され、サンクトペテルブルクの首座教会となっている。

カザン聖堂のすぐ東側を流れるグリボエードフ運河沿いを北に進むと前方に、鮮やかな色彩で彩られた玉ねぎ状のドームが見えてくる。通りは歩行者専用になっており、土産物を販売する特設のテントが立ち並ぶなど観光客でごった返している。


モスクワ・クレムリンに建つ聖ワシリイ大聖堂(生神女庇護大聖堂)に似ているが、少しゴツゴツとした造りになっている。教会は、1881年にテロリストにより暗殺されたロシア皇帝アレクサンドル2世(在位:1855~1881)終焉の地に建てられたことから「血の上の救世主教会」と名付けられている。


アレクサンドル2世は、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝で、幼い頃から皇帝の地位を約束され帝王教育を受けた。皇帝は、教育改革や農奴解放など近代化・効率化のための構造改革・大改革を行ったが、ロードニキ(専制政治体制を倒し、社会主義を実現する運動)の過激派によりテロの標的となった。1881年3月1日、御料車を降りた皇帝の足下で爆弾が爆発し、瀕死の重傷を負ってその後、運河の西側にある冬季の王宮(冬宮殿)で崩御した。

まもなく午後5時になるが、高さ94メートルある教会は、正面に明るい陽射しを浴びて鮮やかに輝いている。教会への入口は建物に沿って右側を回り込んだ北側にある。


教会は、アレクサンドル2世を弔うため、次帝アレクサンドル3世(在位:1881~1894)により発願された。しかし、教会の完成は24年後の1907年、ニコライ2世(在位:1894~1917)の治世であった。

列をなすチケット・ショップに数分並び入場すると、教会内も大変混雑している。しかし、壁、天井柱を含めモザイクで覆われた空間を眺めていると、混雑を忘れさせてくれる。
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イコノスタシスは、小ぶりな作りとなっているが、内陣からの外光を取り入れ、モザイクを引き立てる意味合いがあるのかもしれない。とは言え、深みのある色合いの大理石で造られ、中央の王門は、複雑に細工された金・銀の縁取りに色とりどりのクリスタルガラスの浮彫で構成されるなど豪華な造りとなっている。
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イコノスタシス前からアプスを見上げると、右手を祝福の動作に左手には福音経を持つ「全能者ハリストス」(パントクラトール)が表現されている。周りには天使が舞い、四人の福音記者の象徴(鷲、人、牛、獅子)の姿も見える。
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内陣中央の丸天井にも、大天使たちを伴う「全能者ハリストス」が表現されている。


ビザンティン建築の聖堂で良く見られるタイプである。
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驚くことに、教会内の荘厳は、全て複雑で繊細なモザイク片により表現されており、素材もトパーズ、ラピスラズリなどの最高級のものが使用されている。この全てのモザイク面積は7,500平方メートル以上あり、世界一のモザイクを誇る北米のセントルイス大聖堂の7,700平方メートルに匹敵する規模である。

なお、モザイク画のデザインには、ヴィクトル・ヴァスネツォフ、ミハイル・ネステロフ、アンドレイ・リャブシキン、F.ツラフレフなど30人以上のロシアを代表する画家やアーティストが参加しているという。
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教会の西側には、アレクサンドル2世が致命傷を負った場所を示すための天蓋が置かれている。天蓋は、碧玉の円柱で支えられ、頂部にはトパーズクロスが飾られている。


このロシア芸術の粋を集めたとも言える教会は、ロシア革命後、他の教会同様に略奪されるなど大きく荒廃し、ソ連政府は1932年に教会機能自体を閉鎖する。そして第二次世界大戦中のレニングラード包囲戦では、死体安置所として使われた。戦後は野菜の倉庫として使用され、ジャガイモの為の救世主教会とも呼ばれるようになった。。
教会が日の目を見るのは、1970年からで、イサク大聖堂の管理となり修復が続けられた後、1997年から、広く一般に公開されるようになり、現在では、世界遺産(サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群)の登録資産として多くの観光客が訪れる。
(2017.7.12~13)
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ロシア・モスクワ(その2)

2017-07-11 | ロシア
今日はトレチャコフ美術館でロシア絵画を鑑賞する。美術館はクレムリンの南側に流れるモスクワ川を渡ったラヴールシンスキー通り沿いにあり、メトロ6号線・トレチャコフスカヤ駅が最寄駅だが、メトロ2号線・ノヴォクズネツカヤ駅から歩くことにした。カフェやレストランが並ぶピャトニツカヤ通りを南に100メートル行くと右側に聖クリメント教会(1774年築)が現れる。5つのドーム屋根を頂く紅白が美しいバロック様式の教会である。この教会の手前の歩行者専用道路(クリメントフスキー通り)を右折して西に向かう。
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最寄駅のトレチャコフスカヤ駅は、このクリメントフスキー通り沿いにある。駅から更に200メートルほど西に行き、公園の先を右折してラヴールシンスキー通りを進むと、すぐ左側が目的地のトレチャコフ美術館である。時刻は午前10時過ぎ、入場を待つ長い列ができていたが、原因はセキュリティ・チェックだった。

トレチャコフ美術館は、1851年にモスクワ商人で工場主だったトレチャコフ兄弟が自邸に美術ギャラリーを開いたことに始まる。その後、兄弟は様々なロシア芸術家作品を収集し、ロシア最大級の美術館の一つに成長した。現在の建物は1901年に建築家ヴィクトル・ヴァスネツォーフにより改築され、その後も近隣の建物を合わせて拡張してきた。
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館内は2フロアに分かれており、2階の18世紀の展示室(油彩画)からスタートする。
こちらの展示室にはカール・ブリューロフ(1799~1852)の馬に乗る女(1832年)が展示されている。気性の荒い黒馬に穏やかな微笑みを浮かべて乗りこなす女性の姿が印象的な作品。ブリューロフはペテルブルク生まれ、帝立芸術アカデミーで教育を受けローマで肖像画家として活躍する。後に歴史的題材で「偉大なカール」と呼ばれ国際的な名声を得た。

隣の展示室には、一際大きな絵が飾られている。ロシアの新古典主義の画家アレクサンドル・イワノフ(1806~1858)の民衆の前に現れたキリスト(1857年)で、死の直前まで20年をかけて完成させた大作である。
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次の展示室には、ロシア最大の画家イワン・クラムスコイ(1837~1887)の作品が並んでいる。こちらはロシアで最も有名な作品の一つ、見知らぬ女(1883年)である。雪景色のアニチコフ橋(サンクトペテルブルクのフォンタンカ川に架かる)に停めた馬車から、静かな佇まいとまっすぐな瞳で、こちらを見つめている。トルストイの「アンナ・カレーニナ」に触発されたものとも言われるが、モデルは定かではない。
そして、こちらもクラムスコイの代表作として名高い曠野のイイスス・ハリストス(1872年)で、新約聖書に書かれている「荒野の誘惑」を題材にした作品である。
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次はロシア帝政末期の画家で神話や宗教・歴史を題材を得意としたヴィクトル・ヴァスネツォフ(1848~1926)による英雄たち(ボガトィリ)(1898年)。ロシア民族・国土を守って敵と戦う英雄を主人公とした口承叙事詩(ブィリーナ)の一つでイリヤー・ムーロメツの物語を題材としたもの。キエフ大公国を舞台として太陽公(ウラジーミル1世(在位:978~1015))に仕える勇士たち(中央がイリヤー・ムーロメツ)の活躍が描かれている。
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ヴァスネツォフの作品では、他にもイワン雷帝(1897年)や、イーゴリ・スヴャトスラヴィチとポロヴェツの合戦(1889年)などが展示されている。合戦場面はイーゴリ遠征物語(1185年イーゴリ公が遊牧民ポロヴェツ人(キプチャク)に対して行った遠征)の一場面で、ポロヴェツの矢に倒れた若者を中心に戦い終わった血まみれの戦場を描いている。戦争の悲惨さを描きつつも、どこか叙事的な雰囲気が漂っている。

こちらは、ロシア絵画で最も知られた画家イリヤ・レーピン(1844~1930)のクルスク県の復活大祭の十字行(1881~1883)で、向かって左下には、ロシア作曲家モデスト・ムソルグスキー(1839~1881)の肖像画(1881)が展示されている。
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他にも、イヴァン5世と共同統治者ピョートル1世の摂政で事実上の女性君主として君臨したソフィア・アレクセーエヴナ(1657~1704)を描いたノヴォデヴィチ女子修道院のソフィア(1879年)も展示されている。ソフィアの表情は、憤怒の形相にも見える。

こちらの展示室には、ロシア帝政末期の画家で歴史画を得意としたワシーリー・スリコフ(1848~1916)の貴族夫人モローゾヴァ(1887年)がある。作品は、ロマノフ朝末期の1672年に起きたフョードシヤ・モロゾワ貴族夫人の逮捕劇の一幕(古儀式派分裂の抗争)が描かれている。2本指で十字を描く姿勢は古儀式派の特徴とのこと。右側には、同じくスリコフの銃兵処刑の朝(1881年)がある。こちらには1698年に反乱を起こしたストレリツィ(モスクワの銃兵隊)が赤の広場のワシリー寺院前にあるロブノエ・メストで処刑される場面が描かれている。
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他にも、海をモチーフにした風景画で知られるイバンアイバゾフスキー(1817~1900)の虹(1873)、風景画で名高いイヴァン・シーシキン(1832~1898)の松林の朝(1889)、宗教的象徴主義者ミハイル・ネステロフ(1862~1942)の若きヴァルフォロメイの聖なる光景(1890年)、装飾や舞台美術など様々なジャンルで活躍したミハイル・ヴルーベリ(1856~1910)のパン(ギリシャ神話の牧人と家畜の神)(1899)、親しみやすい室内肖像画を得意としたヴァレンティン・セローフ(1865~1911)の桃を持った少女(1887年)などの作品が展示されていた。

次に1階フロアのイコン展示室を見学する。12世紀の作品から展示されており素晴らしい作品ばかりだが、受胎告知(1130~1140)聖ゲオルギオス(1130~1140)キリストの顔(12世紀後半)などのノヴゴロド公国内で制作された作品群は特に印象に残る。
そして、パナギア(生神女マリヤ(聖母マリア)の称号の一つ)(13世紀初)や、トルガの生神女(13世紀後)(拡大画)などのヤロスラヴリ公国内で制作された作品も素晴らしい。

こちらの展示室左奥には、アンドレイ・ルブリョフ(1360頃~1430)の師として知られるフェオファン・グレクの主の顕栄(1408年)が展示されている。この作品は彼のイコンスタジオとの共作とされている。そして、右側奥には、11世紀初期に没したロシア最初期のキリスト教の聖人ボリスとグレブの生涯(14世紀後半、モスクワ)が展示されている。
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次の展示室に入ってすぐ両脇には、ディオニシウス(1444~1508頃)の作品、キエフ及び全ロシアの府主教であったアレクシイと彼の生涯(16世紀初)聖母子(1482年)の2点が展示されている。そして、奥にはロシア・イコン画家の巨匠アンドレイ・ルブリョフによる作品が展示されている。

展示室の突き当たりには、アンドレイ・ルブリョフ、ダニイル・チョールヌィイ及びスタジオ作品のイエス・キリストを中心にした5連作(1408年)があり、その左側には、アンドレイ・ルブリョフ作のズヴェニゴロド(モスクワ州の古い町)のディシス(15世紀初)がある。1918年、ズヴェニゴロド・ウスペンスキー大聖堂で発見された。もとは7イコンで構成されていたと言われる。
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そして、右側には、アンドレイ・ルブリョフ作で最も有名な「至聖三者」(1420年)がガラスケース内に展示されている。
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他にも、数多くのイコンが展示されている。こちらはユーリー・ノルシュテイン監督アニメーション映画「ケルジェネツの戦い」の元ネタかと思われるような巨大なイコン画、天の皇帝の軍隊に祝福あれ(1552年、モスクワ)が展示されている。イヴァン雷帝によるカザン征服とモスクワ凱旋を記念して描かれた大作である。左のシオン山には聖母子が、中央にはコンスタンティヌス帝、その後にはウラジミール聖公、息子の聖ボリスと聖グレブが描かれている。

さて、最後に、美術館を代表するイコン作品「ウラジーミルの生神女」の展示室に向かう。ウラジーミルの生神女は、伝承では聖ルカによって描かれたとされる。1131年にコンスタンディヌーポリ総主教からキエフ大公ユーリー・ドルゴルーキー(1099頃~1157)に贈られ、大公は、故郷のウラジーミルのウスペンスキー大聖堂に納めた。その後モスクワ大公国に納められるが、ティムールやタタールの侵攻からモスクワを何度も守った奇跡のイコンと呼ばれ、現在ではロシア正教会のみならず世界中の正教会で広く崇敬され続けている。

イコンは隣接するトルマチの聖ニコラ教会に展示されている。チケット売場に向かって左奥にあるテンプル・ミュージアム(12時から16時)と書かれた立札のある扉を抜けて、階段を上り下りし、再び階段を上ると直接教会内に到着する。ウラジーミルの生神女は、黄金のイコノクラスムの左手前にある高さ2メートルほどの展示台に展示されていた。見事な作品なので、じっくり見学したいが、周りには観光客らしき人もなく敬虔な信者らしき人が数人訪れる厳かな雰囲気だったこともあり、落ち着かず早々に引き揚げた。

時刻は午後2時半。美術館を後にし、ラヴールシンスキー通りのベンチで、今朝ホテル近くで買ったデニッシュを食べる。次に救世主ハリストス大聖堂へ歩いて行くこととした。通りを北に進みボロトン島(モスクワ川の中州)に向かう歩行者専用の橋の手前を左折してモスクワ川に沿って歩道を進む。
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250メートルほどでクレムリン(南西側)に向かうボリショイ・カメンニ・モスト通りの交差点になるが、横断し直進すると正面に陸橋が現れる。ボロトン島の先端には、モスクワ市創立850周年記念として彫刻家ズラブ・ツェレテリの手によるブロンズと鋼鉄から造られた高さ98メートルの「ピョートル大帝記念碑」が建っている。
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陸橋の手前を左折し、すぐ先の建物から階段を上ると、陸橋の上に出る。ここからモスクワ川対岸に巨大な「救世主ハリストス大聖堂」が見える。聖堂は、1883年、対ナポレオン戦争の戦勝記念と戦没者慰霊を目的として44年の歳月をかけて建築された。ロシア正教会の聖堂としては世界最高の103メートルの高さを誇る。1931年には、宗教弾圧政策をとるソビエト連邦により破壊されるが2000年に再建された。なお、左側には尖塔が聳えるスターリン様式の外務省ビルや高層ビル群のモスクワ・シティなどを望むことができる。
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陸橋は目的地を目前にしてモスクワ川手前で封鎖されていた。。。仕方がないのでボリショイ・カメンニ・モスト通りまで戻ってタクシーを捉まえることにした。交渉し300ルーブルとなり乗車したが大通りは混雑しておりモスクワ川を越えたところで100ルーブル支払って下車した。その後歩いて大聖堂近くまで向かったが、こちらもゲートで覆われ聖堂に近づくことができない(あまりの観光客の多さに入場制限したらしい)。結局諦めてプーシキン記念美術館に向かった。

プーシキン記念美術館は、モスクワに公共美術館(西欧美術)を設立することを目的に、モスクワ帝大イワン・ツヴェターエフ教授(1847~1913)が設立発起人となり、1898年に建設が始まった。皇帝アレクサンドル3世の支援もあり1912年にアレクサンドル3世芸術博物館として開設した。現在の名称は、ロシア革命後の1937年、国民的詩人アレクサンドル・プーシキンの没後100周年を記念してつけられ、収蔵品の数は約10万点でエルミタージュ美術館に次ぐ世界2位の規模を誇っている。
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ということで、これから、プーシキン記念美術館に向かって左隣に建つ「プーシキン記念美術館・ヨーロッパコレクション部」で絵画を鑑賞する。
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館内の展示は2フロアに分かれている。館内は通りの喧騒とは打って変わり静かで落ち着いた雰囲気だ。
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ドミニク・アングル(1780~1867)の「聖杯の前の聖母(1841年)」。19世紀の新古典主義の巨匠アングルによる聖母像の傑作の一つ。ロマノフ朝アレクサンドル2世(在:1855~1881)が皇太子時代に依頼した作品。柔和で気品に満ちた聖母の後ろには、父ニコライ1世(在位:1825~1855)とアレクサンドル2世をたたえるように同名の聖人が描かれている。
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ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)の「ジャンヌ・サマリーの肖像(1877年)」。当時の肖像画には珍しい暖色系の色調が使われており、モデルのジャンヌ・サマリーの微睡むような愛らしい表情と相まって、華やかさと明るさに満ちている。ジャンヌは、当時コメディ・フランセーズの花形女優でルノワールお気に入りのモデルだった。
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パブロ・ピカソ(1881~1973)の「アルルカンと女友達(サルタンバンク)(1901年)」。青の時代の初期にあたる作品。
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他にも、ポール・ゴーギャン(1848~1903)のタヒチ人の姿を描いたエイオハ・オヒパ(働くなかれ)(1896年)、色彩の魔術師アンリ・マティス(1869~1954)の金魚(1912年)、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)のゴッホの生前に売れた唯一の作品となった赤い葡萄畑(1888年)、アンリ・ルソー(1844~1910)の熱帯のジャングルを舞台にした馬を襲う豹(1910年)、ポール・セザンヌ(1839~1906)のサント・ヴィクトワール山の平野、ヴァルクロからの眺め(1880年)などの有名な作品が目白押しで紹介しきれないほどだ。

この日は、ジョルジョ・モランディ(1890~1964)の企画展が開催されていた。彼は、20世紀前半に活動したイタリアの画家で、静物画を中心にひたすら自己の芸術を探求した。館内には静物画(1941年)や、花(1951年)など多くの作品が展示されていた。

ところで、プーシキン記念美術館(本館)へは、4日前、モスクワ・ドモジェドボ空港到着後、直接訪れ、テッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ特別展を中心に鑑賞した。3人はルネサンス後期のヴェネツィアを代表する画家である。ちなみに、本館は、地階にクロークがあり大きなスーツケースも預かってくれるため、空港から直接来館しても安心だ。その日は、来場者も少なくゆっくり鑑賞することができた。
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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490頃~1576)の「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ(1515年)」※ローマ・ドーリア・パンフィーリ美術館。サロメは抜けるような色白で美しい肌で、頬にかかる巻き毛と肩にかかる長い髪が繊細に描かれている。
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ティツィアーノによる「アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の肖像」※ナポリ・カポディモンテ美術館。枢機卿は、ローマ教皇パウルス3世の孫にあたる。ティツィアーノの精緻で繊細な人物描写はいつ見ても見事である。
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ティントレット(1518~1594)の大作。「キリスト降架(1560年)」※ヴェネツィア・アカデミア美術館。
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こちらもティントレットの作品でキリストの洗礼(1580年)。※ヴェネツィア・サン・シルヴェストロ教会。

パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)の「エウロペの略奪(1588年)」※ローマ・カピトリーノ美術館。好色な神ゼウスは白い牛に化け、フェニキアの美しい王女をさらってクレタ島まで連れ去る。
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こちらもヴェロネーゼの毛皮をまとった紳士像、ダニエーレ・バルバロ?(1551年)※フィレンツェ・ピッティ宮殿と、聖母子像と聖ペテロ、アレクサンドリアの聖カタリナ(1550年)※ヴィチェンツァ・パラッツォ・キエリカーティ。など2時間ほど鑑賞した。


さてこれから赤の広場方面まで行くことにしているが、距離にして1キロメートルほどなので歩く。プーシキン記念美術館前のヴォルホンカ通りから北に200メートル進むと、先ほどタクシーを降りたボリショイ・カメンニ・モスト通りに突き当たる。右側(東)にはクレムリン武器庫へのポロヴィツカヤ塔やイヴァン大帝の鐘楼などが見え、左側にはポロヴィツカヤ広場がありウラジミール聖公像が建っている。
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像は、キエフ大公ウラジーミル1世(在位:978~1015)で、ロシアで初めてキエフ大公国をキリスト教化し版図拡大に尽力した。

ボリショイ・カメンニ・モスト通りに沿って左側の信号を渡り北上(ここからマモーヴァヤ通り)する。高台の歴史的な建物は、ロシア国立図書館(旧館)で、建築家ワシリー・バジェノフによる新古典主義の傑作パシュコフの邸宅として建てられた。旧館はその先のロシア国立図書館本館へと続いていく。
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ロシア国立図書館本館は1862年にモスクワ初の公共図書館として設立された。収蔵資料数は4,200万点にも及びロシア国内最大のみならず世界最大級の収蔵数を誇っている。正面入口には19世紀ロシア文学を代表する巨匠ドストエフスキー(1821~1881)像が飾られている。彼は罪と罰、白痴、悪霊、カラマーゾフの兄弟などの作品で世界的に知られている。
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マモーヴァヤ通りはロシア国立図書館の先で三叉路(西に向かうヴォズドヴィジェンカ通り)となっているため、地下道(メトロ1号線・ビブリオチェーカ・イーメニ・レーニナ駅)で横断する。再び地上に出て振り返ると、ロシア国立図書館から救世主ハリストス大聖堂まで一望できる。
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マモーヴァヤ通りの東側には、クレムリンのトロイツカヤ塔が聳えている。昨日、地下道を通ってアレクサンドロフスキー公園のチケット売場に向かったところ。この時間のクタフィヤ塔付近は閉館時間も近いため閑散としている。

更にマモーヴァヤ通りを進むと正面に巨大な建物が見え始めた。1935年にアレクセイ・シチューセフ(1873~1949)により旧ホテル・モスクワとして建てられた現フォーシーズンズ・ホテルである。ファサードには8本の柱がテラスを支え13階までそびえる重厚な新古典主義様式の建物となっている。右側には双塔のロシア国立歴史博物館やウグロヴァーヤ・アルセナーリャ塔が見える。
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モスクワ大学旧館を過ぎ聖タチアナ教会前で、マモーヴァヤ通りを渡る横断歩道があるのでクレムリン側に渡ると花壇や噴水のある広場があり、広場の下にはショッピングモール・アホートヌィ・リャトがある。アレクサンドロフスキー公園との間には、水路があり、橋を渡った扉から店内に入ることができる
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店内は3フロアから成り立っており近代的なショッピングモールといった感じだ。上の階には、ファッションフロアがあり、下のフロアにはフードコートがあるが、ほとんどの席が埋まっていたので少し驚いた。

店内をフォーシーズンズ・ホテル方面に進むと吹き抜けの空間となっている。天井のドームには、世界地図がデザインされ、外の光が差し込む美しい空間となっておりエレベータも設置されている。それにしてもキリル文字の表示が無いとロシアに居ることさえ忘れてしまいそうだ。
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吹き抜け空間を過ぎると出口(アホートヌィ・リャトのメイン入口)があり階段を上るとマネージナヤ広場に出る。正面にはフォーシーズンズ・ホテルが建ち、左側(西)のマモーヴァヤ通り沿いには1903年創業でロシア皇帝も宿泊した老舗ホテル、ホテル・ナツィオナーリが建っている。
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フォーシーズンズ・ホテル前から、東側を眺めると、西日が当たりレンガ色が一層鮮やかなロシア国立歴史博物館が望める。収蔵品は450万点にも及ぶモスクワを代表する博物館である。その左側には、赤の広場への入口、ヴァスクレセンスキー門があり、更にその隣には考古学博物館(1892年に竣工、モスクワ市会、ブルジョワジーの牙城となり、1942年にレーニン博物館となった。)がある。
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日暮れまで時間があるので、次にトゥヴェルスカヤ通り(旧ゴーリキー通り)を散策してみる。トゥヴェルスカヤ通りは、モスクワのメインストリートとも言える代表的な繁華街で、マネージナヤ広場を起点とし1.5キロメートル先のサドーヴォエ環状線のある凱旋広場まで続く10車線(片側5車線)の大通りである。

マモーヴァヤ通り左側のホテル・ナツィオナーリと右側のロシア連邦国家ドゥーマの議事堂(1935年、建築家アルカジー・ラングマンにより建てられた旧ソビエト連邦国家計画委員会(ゴスプラン))との間に伸びるのがトゥヴェルスカヤ通りである。マモーヴァヤ通り(ドゥーマの議事堂前からはアホートヌィ・リャト通り)を渡るには、アホートヌィ・リャトを通って横断することになる。
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さて、トゥヴェルスカヤ通りの右側の歩道から地上に出ると歩道幅が広いのに驚いた。右側にはロシアチームのオリンピック・ウェアなどを提供するボスコ・スポーツ社のショーウインドーがある。そして通り向かい側にはホテル・ナツィオナーリに続きリッツカールトンホテルが建っている。
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やや右に蛇行しながら300メートルほど歩道を進むと、カメルゲルスキー横丁の入口があり、通りの向かい側には中央電信電話局が建っている。ここには、エルモーロワ記念劇場がありプロジェクションマッピングで劇場の宣伝が行われていた。
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隣には、スターリン時代の1949年に建築家アナトリー・ジューコフ(1896~1964)によって建てられた高級住宅が建っている。低層部に御影石を使い4層構造で角のファサードにはロッジアが配される何とも豪奢な住宅だ。上部コーナーにはソ連の紋章が残っている。

そして、その隣には、白い円柱を備えたサーモンピンクの美しい建物が建っているが、これは建築家マトヴェイ・カザコフの設計による旧モスクワ総督公邸で現モスクワ市庁舎である。
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そして、モスクワ市庁舎と向かい合うように通りを挟んで、こちら側にはトゥヴェルスカヤ広場があり、中央にはモスクワの創設者ユーリー・ドルゴルーキー公の銅像が建っている。1954年、モスクワ市創立800周年を祝して作られた。
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ユーリー・ドルゴルーキー(手長公)(1099頃~1157)は、キエフ大公ウラジーミル2世モノマフ(在位:1113~1125)の六男として生まれた。彼はルーシ(キエフ大公国領域)の北東に位置したウラジーミル、ロストフ、スーズダリなどを拠点としていたが、1146年に端を発するキエフ大公位並びに諸公国の公位をめぐる権力闘争に、南方の首都キエフに度々攻め入り、これを占領し1149年にキエフ大公となる。

当時手を組んでいた従兄弟スヴャトスラフ公と、モスクワで祝宴を開いた1147年がモスクワ市発祥の年とされている。その後、ユーリー・ドルゴルーキー公は、再びモスクワ入りし、1156年に河口の三角地帯に周囲400メートルあまりの木柵を築き、堀をめぐらせた。これがモスクワ・クレムリンの始まりである。
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右手を前に差し出しているのは馬上の敬礼の姿だそうだ。

トゥヴェルスカヤ広場の南側に建つ建物に沿って、東側のペトロフカ通りまでは石畳の歩行者天国(ストレーシュニコフ横丁)となっており、カフェやフェルメス、バーバリー、ディオールなどのブランドショップ等が並んでいる。スターリン政権下にオープンし政府高官や著名人も訪れた有名グルジア料理店アラグヴィもここにある。ロシアのルポルタージュ作家ウラジーミル・ギリャロフスキー(1855~1935)はこの辺りにあった住宅に住んでいたという。

さて通り沿いにあるモスクワ書店、工事中のビル(ソビエト連邦時代、コミンテルンの外国人宿舎があり、後に東側諸国の要人が滞在していたホテル・ルックス)やグレンフィールド、ブラッチャリーニなどのショーウインドーを過ぎると、エリセーエフスキーがある。
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エリセーエフスキーは、19世紀末から20世紀にかけて、ワイン輸入などで富を築いたエリセーエフ家が運営する高級食料品店で、モスクワとサンクト・ペテルブルクに店舗がある。この宮殿を思わせる様な新バロック様式の建物は、19世紀初頭にヴァルコンスカヤ公爵邸だったもの。なお、20世紀初頭に来日して西欧に盛んに日本紹介を行い「日本学の始祖」と言われたセルゲイ・エリセーエフ(1889~1975)は、このエリセーエフ家の次男である。

店内は高い天井で重厚な装飾が施される壁や柱などクラシカルな雰囲気を漂わせている。商品はやや割高な値段設定だがお土産には最適だ。中ほどには、清潔に保たれた冷蔵ケースがあり新鮮な魚介類が並んでいる。右端を覗き込むとキャビアやイクラなどの高級食材が置かれており、美味しそうだが要冷蔵のためお土産には馴染まない。眺めるだけだ。。
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トゥヴェルスコイ通りとの交差点に到着した。トゥヴェルスカヤ通りを地下道(メトロ2号線・トゥヴェルスカヤ駅)で向かい側に横断しプーシキン広場を見渡している。広場口に建つプーシキン像(1880年オペクーシン作)は、残念ながら修復中。。なお、奥に建つのはソビエト連邦及びロシア連邦の日刊紙「イズヴェスチヤ」ビルである。
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交差点からトヴェルスコイ通りを100メートル行くと左側に、高級ロシアレストラン、カフェ・プーシキンがある。正面入口の先に窓があるので店内を覗うと混雑していた。
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時刻は午後9時を過ぎ、辺りも暗くなってきたのでこの辺りでトゥヴェルスカヤ通りをユーターンする。帰りは反対側の歩道を歩くことにした。この場所から先ほど歩いたトゥヴェルスカヤ広場南側の建物からエリセーエフスキーまで一望できる。
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トゥヴェルスカヤ通りをエルモーロワ記念劇場まで戻り、地下道で通りを横断しボスコ・スポーツ社のショーウインドー前に出る。ドゥーマの議事堂に沿って左折しアホートヌィ・リャト通りを250メートルほど行くと左側にライトアップされた美しい姿のボリショイ劇場が現れる。

1825年、現在のテアトラーリナヤ広場の敷地にA.ミハイロフ、オシップ(イオアン)・イワノヴィッチ・ボヴェの設計で建設された。その後火災に見舞われ、独ソ戦でドイツ軍の攻撃により被害を受けたがその都度改修された。現在の建物は2005年から6年の歳月をかけて改修されたもの。
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向かって右奥の赤いネオン看板のある建物はツム百貨店である。そして、アホートヌィ・リャト通り(チアトラリニ通り)を挟んで向かい側には革命広場があり、カール・マルクス像が建っている。その広場左側にはメトロポール・モスクワ・ホテルが建ち、2階にはホテル創設者・ロシアの著名実業家でモスクワのメディチと呼ばれたサーバマモントフ(1841~1918)の名を冠した高級ロシア・レストラン・サーバ(SAVVA)がある。

さて、今夜はカザンの聖母聖堂とグム百貨店との間に伸びるニコリスカヤ通りの東端にあるレストラン、リーブィ・ニェット(Рыбы нет)で食事を頂く。モスクワにあるステーキハウスでは今最も人気があるレストラン。なお昨日のグルジア料理レストランの系列店でもある。事前に予約したテラス席に座る。
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注文は、ほうれん草とリコッタチーズのサラダ(380ルーブル)と、マッシュルーム入りフライドポテト(380ルーブル)を。メインは、ラムラックのグリル(300g)(1440ルーブル)と、ビーフストロガノフ(1150ルーブル)を頼んだ。バゲットとバターはサービス。バゲットは表面のパリパリ感と中のモチモチ感が非常に美味しかった。

午前0時を過ぎ、赤の広場に向かったが進入禁止となっており警備員により追い返された。グム百貨店のライトアップを眺めて、昨日と同様にメトロ3号線・プローシャチ・レヴォリューツィ駅のホームに向かう。深夜のため、すぐに電車が来るのか不安だったが、10分ほどで電車が到着したので、一安心。無事、ホテルに戻った。
(2017.7.11)
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ロシア・モスクワ(その1)

2017-07-10 | ロシア
ここは、モスクワ・クレムリン。右側に聳える巨大なトロイツカヤ(至聖三者)塔がクレムリンへのメイン入口となっている。この時間、左側に見えるクタフィヤ塔下のガラス張りの建物から階段下のアレクサンドロフスキー公園にかけて入場を待つ列が続いている。
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昨夜はメトロ3号線・バーウマンスカヤ駅(赤の広場から北東方面へ2駅)近くのメルキュール・ホテル(Mercure Moscow Baumanskaya Hotel)に宿泊し、今朝9時50分にこのアレクサンドロフスキー公園に到着した。
なお、公園への最寄駅はメトロ1号線・ビブリオチェーカ・イーメニ・レーニナ駅で、案内に従って地下道を進むと直接アレクサンドロフスキー公園に出ることができる。
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クレムリン(ロシア語で「城塞」を意味)は、南をモスクワ川(蛇行してクレムリン南側を西から東に流れる)、北東を「赤の広場」、北西をアレクサンドロフスキー公園に囲まれた(総面積・約26ヘクタール(東京ドーム約5.56個分))ほぼ三角形の形をしている。初めて城塞が築かれたのは、12世紀のことで、当時このアレクサンドロフスキー公園にはネグリンナヤ川(現在は地下河川)が流れ南のモスクワ川に合流していたことから、クレムリンは、2つの川が自然の堀を形成する天然の要害だった。

その後15世紀末に教会が竣工され、17世紀には城壁に塔が加えられた。1812年にはナポレオンのモスクワ占領によりクレムリンの一部が破壊されるものの、その後修復された。19世紀中頃には「クレムリン大宮殿」や「武器庫」が新たに造られ、1917年のロシア革命以降はソビエト連邦政府の中心地となった。1990年には世界遺産に登録され現在に至っている。

クレムリンのカッサ(チケット売場)は大混雑すると聞いていたので、予めクレムリンのサイトから共通入場券(500ルーブル)(クレムリン内5か所の見学が可能)と武器庫(700ルーブル)(12時入場分)券を購入したのだが、当日券に引き換えなければならない。
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公園内に建つアートな建物がカッサとなっている。建物内は、当日券の購入を求めてかなり混雑していたが、事前購入者の引き換え窓口は空いており、あっと言う間に引き換えることができた。ただし、階段に続くセキュリティ・チェックの列には並ばなくてはならない。。

15分ほど並んだ後、セキュリティ・チェックを通過しトロイツカヤ塔に向かった。周りには、団体客を中心に続々と多くの観光客が歩く姿が見られる。クレムリンの城壁には20の塔が聳えているが、トロイツカヤ塔を含め5つの塔の先端には、1937年のロシア革命20周年を記念してウラル山脈から採掘されたルビーから作られた直径3メートルの「クレムリンの赤い星」が輝いている。
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無事城壁内に入ることができ、一息ついてトロイツカヤ塔を振り返ると、入場を終えた団体客が集まって混雑している。
右手に建つ建物は「クレムリン大会宮殿」といい、クレムリンでは最も新しい建物(1961年建設)で、ガラス、アルミニウム及び大理石から造られている。かつてはソビエト連邦共産党大会や中央委員会総会などが開かれていたが、現在は国際会議やオペラ・バレエの劇場として用いられている。
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「クレムリン大会宮殿」の道路向かい(北)には「兵器庫」があり、周りには対ナポレオン戦争(1812年)時にナポレオン軍から奪ったとされる多くの大砲が並んでいる。現在、この建物はクレムリン警備隊の兵舎として利用されている。
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その隣(東)にある建物は18世紀に建てられた「元老院」で、上空から見ると二等辺三角形となっている。かつてこの3階にソビエト連邦初代最高指導者レーニン(1870~1924)が生活していたという。現在は「ロシア連邦大統領府」として使用されている。なお「兵器庫」もそうだが警備が厳重で、道路を渡って建物に近寄ることはできない。
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「クレムリン大会宮殿」前から続く歩道は右(南)に大きくカーブする。「元老院(ロシア連邦大統領府)」の右隣は見晴が良くなり遠くに城壁を見通すことができる。その城壁の向こうには「赤の広場」がある。城壁から続く右端の大きな塔はスパスカヤ(救世主)塔で、高さ約74メートルある時計塔となっている。
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歩道先の右側には巨大な大砲が置かれており、観光客が入れ代わり立ち代わり写真撮影をしている。この大砲は「ツァーリ・プーシュカ(大砲の皇帝)」と呼ばれ、1586年にロシアの兵器工アンドレイ・チョーホフによりブロンズ(青銅)で鋳造された。砲身の全長は5.3メートル、口径89センチ、重量40トンと破格のサイズを誇っている。砲架にはライオンの頭部が彫られ、周りにも細かい浮彫が施されている。前面に置かれている砲弾は呆れるほどの巨大さである。しかしこの大砲は今まで発砲されたことはないという。
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その先には、1735年に造られた高さ約6メートル、重量約200トン、横幅6メートルの世界最大の「ツァーリ・コロコル(鐘鐘の皇帝)」がある。あまりに重過ぎて持ち上げられなかった上、火災に見舞われ、その際一部が欠けてしまい未完成のまま放置された。回り込むと割れた欠片もそのまま置かれている。この欠片だけで何と11トンの重さがあるというから驚きだ。
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鐘の右側には巨大な「イヴァン大帝の鐘楼」が聳えている(写真は大聖堂広場側)。1508年にイタリアの建築家フリアツィンが本体を建て、1543年にペトロフ・マリーが鐘楼を建造した。鐘楼の高さは81メートルあり、鐘は全部で21あるという。この日は1階で展示会が開催されていた。
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その鐘楼が面しているのがクレムリンの中心「大聖堂広場」である。「イヴァン大帝の鐘楼」の基壇を起点に、時計回りに「大聖堂広場」を眺めてみよう。まず左端(南側)の教会が歴代のロシア皇帝の墓所がある「アルハンゲルスキー聖堂(聖天使首大聖堂)」で、その右隣が皇帝の礼拝目的で建てられた「ブラゴヴェシチェンスキー聖堂(生神女福音大聖堂)」である。そして、隣の3階建ての建物がグラノヴィータヤ宮殿(多稜宮)で、
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更に右側に視線を移すとロシア帝国の国教大聖堂「ウスペンスキー教会(生神女就寝大聖堂)」がある。そして、その右側に建つのは「パトリアーシェ宮殿及び十二使途教会」で、ロシア正教の総主教ニコン(1605~1681)により竣工された。現在は17世紀ロシアの工芸博物館として公開されている。
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それでは最初に「ウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)」に入ってみよう。側面上部には美しいフレスコ画が描かれている
最初の大聖堂はモスクワ大公・ウラジーミル大公イヴァン1世(在位:1325~1340)の命により建てられたが、老朽化し1474年に発生した地震により倒壊してしまう。このため、モスクワ大公・イヴァン3世(大帝)(在位:1462~1505)は、ボローニャの建築家アリストテレ・フィオラヴァンティを招聘し、1479年にルネサンスの伝統とウラジーミルの「ウスペンスキー大聖堂」を規範とした新たな聖堂を再建した。
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大聖堂広場に面した扉口の上部には「ウラジーミルの生神女」が描かれている。聖堂への入口はこの南扉口ではなく、左に回り込んだ西側になる。
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大聖堂内は隙間なくフレスコ画やイコノスタシスで彩られている。東側の主祭壇には、黄金衝立にイコンが5階層に並べられた壮麗かつ豪奢なイコノスタシスが見る者を圧倒してくれる。吊り下げられたシャンデリアの灯が黄金に反射して、聖堂内は煌めいている。なおシャンデリアはナポレオン軍が盗み出した300キログラムの金と5トンの銀を奪い返して造られたという。
それにしても聖堂内は多くの見学者で大混雑しており、落ち着いて見学できる状況でないのは残念だ。。
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この聖堂内で、1547年にイヴァン4世(雷帝)(在位:1533~1547)のロシアで最初の「ツァーリ」の戴冠式が執り行われ、1721年からはロシア皇帝の戴冠式の舞台ともなった。更にはロシア正教会の首座たる府主教・総主教の着座式もここで行われるなど国家の中心的な存在だった。

祭壇の左側には皇后の御座があり、右側には1551年作の木彫りの「イヴァン雷帝の玉座」が置かれている。側面には、キエフ・ルーシの中興の祖となったキエフ大公・ウラジーミル2世モノマフ(在位:1113~1125)の戦歴が彫り込まれている。王座は4人の王を象徴する動物の像により支えられている。
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他にも、11世紀後半に描かれた聖ゲオルギオスのイコンや
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西側入口上部の壁面には、王座を中心にアダムとイブが傅く審判者キリスト(ハリストス)が描かれている。アダムの足元に近づく蛇には、人間の罪を象徴する試練の輪が付いている。

さて午後12時に予約している「武器庫」の見学時間が近づいたため、聖堂を出て「大聖堂広場」の南側から向おうとしたが、進入禁止になっている。トロイツカヤ塔側から行くのかと思い戻ったが警備員がいて進入できない。再び「大聖堂広場」に戻り進入禁止方面に行ったが特に制止されなかった。

ポロヴィツカヤ塔方面に向かうと、右側に係員のいるゲートがあり、チケットを見せて進入した。時間間際になってしまったが、そもそも締切時間などはあるのだろうか。ネットで購入する際に既にこの時間のチケットは3枚だったが、その後や当日券などの状況はどうだったのだろう。

右側が「武器庫」と「ダイヤモンド庫」がある建物である。この建物は19世紀半ばに鎧や兵器などを製造・保管する目的で建てられたが、その後ロシア皇帝ニコライ1世(在位:1825~1855)の命により博物館となった。
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現在2階建てで9つのホールから成り立っている。セキュリティ・チェックを受けて建物に入り、クロークに荷物を預けてショップが並ぶ通路の奥のゲートに向かう。しばらく廊下を歩き回り込むと展示会場に到着する。1、2ホールの金、銀のコレクションが非常に充実しているため、最初に2階から見学した。こちらでは、金、銀の食器類の他に、福音書の黄金カバーや、聖杯、イコン像の黄金カバー、吊り下げ香炉、十字架宝珠などロシア正教に関する宝物が展示されている。どれも精緻な細工が施されており、宝石類が散りばめられた宝物も多く展示されており眩いばかりだ。豪華なイースターエッグも多数展示されていた。
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3、4ホールには武器、武具類が展示されているが、こちらも驚くほど精緻な細工が施されていた。
1階の7から9ホールは、宮廷関連の宝物コレクションとなっている。イヴァン雷帝の象牙の玉座、ピョートル大帝の玉座、ロシア君主即位の際に使われた「モノマフの帽子」やエカテリーナ2世の馬車などこちらも見所が多い。豪華な装飾が施された宮廷馬車は何台も並んでおり、コレクションの多さに唖然とさせられた。
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最後にエカテリーナ2世の戴冠式のきらびやかな衣装を見学して終了した。2時間位見学しただろうか、膨大なコレクションは、世界最高級の宝物庫といっても良いほど圧巻であった。また、見学開始に時間指定が設けられていたことが、混雑緩和に繋がりゆっくり見学できたことが良かった。なお、ダイヤモンド庫は、入口と展示室の間にあり行列ができていた。時間の都合上見学は諦めた。
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再び「大聖堂広場」に戻り、「アルハンゲルスキー聖堂(聖天使首大聖堂)」に向かった。聖堂はイヴァン大帝の命によりイタリア人建築家アレヴィツ・ノーヴィの設計で1508年に建てられた。ドーム側面に貝殻模様が施されるなどルネッサンス様式の面影が見て取れる。
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フレスコ画で覆われた扉口をくぐって聖堂内に入ると、堂内にはお棺が所狭しと並んでいる。イヴァン雷帝やその息子のイヴァンを始めピョートル大帝(初代ロシア皇帝(インペラートル/在位:1721~1725年))が首都をサンクト・ペテルブルグに移すまでの間の皇族たち48のお棺が並べられている。

お棺の間を通り進むと黄金の細かい細工が施された円柱に挟まれてイコンが並んでいる。正面左側に見えるイコン(大天使アルハンゲル・ミハイル)は、イコン画家フェオファン・グレッグ(1340~1410)の手によるもの。彼はビザンティン帝国からロシアに移り住んだギリシャ人でアンドレイ・ルブリョフ(1360頃~1430)の師としても知られる。
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イコノスタスには、細かい金細工が施されたロイヤル・ドア(王門)を中心に多くのイコンが描かれている。
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次に「ブラゴヴェシチェンスキー聖堂(生神女福音大聖堂)」を見学する。イヴァン大帝の命により1489年に建てられ、1547年に火災に見舞われるが、イヴァン雷帝により修復・拡張され、さらに計9つの玉ネギ状のドームも加えられた。このため周りの拡張部分はイヴァン雷帝のポーチと呼ばれている。
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扉口を入りイヴァン雷帝のポーチ内の通路をしばらく歩き、
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回り込んだ先には、青を基調に金の唐草文様の浮彫が施された重厚なアーチ門があり、この門を抜けるとすぐ目の前にロシアを代表するイコノスタスが立ち塞がっている。フェオファン・グレッグやアンドレイ・ルブリョフ、プローハル・ガロデーツキーなどロシアの巨匠たちの手による作品群が中心となっており、黄金細工が施された豪華な衝立がイコンを一層引き立てている。
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「ウスペンスキー大聖堂」と「パトリアーシェ宮殿」との間から奥に入ると「リザパラジェーニヤ教会(祭服教会)」がある。15世紀後半にプスコーフの建築家によって建てられ、皇帝の礼拝所として使用された。なお、更に奥に見えるカラフルなドーム群は「テレムノイ宮殿」である。
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「リザパラジェーニヤ教会」内は訪れる人も少なく空いている。「大聖堂広場」に面していないためか、繁忙時間が過ぎたためか理由はわからない。イコノスタスは今まで見た中では簡素な造りで携帯用サイズほどの小さなイコンが並んでいる層もあり興味深い。
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中央下部にあるロイヤル・ドア(王門)は16世紀後半の作で受胎告知など聖書の場面が描かれている。向かって左側には、至聖三者(三位一体)像や奉献礼儀のための細かい細工がなされた蝋燭台などが置かれている。
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至聖三者は、アンドレイ・ルブリョフによる至聖三者と構図がそっくりだが、こちらは、1627年にナザリー・イストミン(Nazary Istomin)により描かれたものらしい。

午後4時を過ぎたので、次に「赤の広場」に向おうと考えていたら、多くの観光客が「赤の広場」側に建つスパスカヤ(救世主)塔に向けて歩いているのでついて行く。出られるならラッキーだ。この位置からだと左側の「元老院(ロシア連邦大統領府)」のドームも良くみえる。「元老院」はロシアのクラシシズム建築家マトヴェイ・カザコフ(1738~1812)により設計されたため、ドームにはカザコフ館と名付けられている。
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振り返り大聖堂広場の方角を眺めると「イヴァン大帝の鐘楼」の威容がひと際目立って見える。近くにベンチがあったので、座って、暫し、このすばらしい景観を楽しんだ後、スパスカヤ塔に向かう。
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スパスカヤ塔下のスパスキエ門を無事くぐると正面に色鮮やかな「ポクロフスキー聖堂(ワシリー寺院)(生神女庇護聖堂)」が現れた。1560年にイヴァン雷帝により対モンゴル戦での勝利を記念して建てられた。しかし色彩鮮やかな玉ねぎ型のドームは17世紀から19世紀のもので創建当時はシンプルな塔であったようだ。中央の主聖堂は高さ46メートルあり、それぞれがドームを戴く8つの小聖堂が取り囲んでいる。
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聖堂の前には1812年にイヴァン・マルトス(1754~1835)によって造られた2体の像が建っている。2人は、モスクワからポーランド軍を追放した義勇軍のクジマ・ミーニン(ニジニ・ノヴゴロドの肉商人)とドミトリー・ポジャルスキー公である。
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ミーニンとポジャルスキー像の前から、聖堂を取り囲む様に柵が設けられている。柵には警備員がいて、入場を断っている。午後5時半まで入場可能のはずだがどうしてだろう。敷地内にも多くの人がいるが、入場者が多すぎて締切時間を早めたのだろうか。残念だ。。

「ポクロフスキー聖堂(ワシリー寺院)」から、スパスカヤ塔を眺めてみると、南に向けて城壁にいくつも塔が聳えているのが見える。クレムリンの城壁は三角形の形をしているのだが「赤の広場」側の一辺は、スパスカヤ塔を中心に北西方向と南方向にやや屈折しているのだ。
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南端の塔を眺めるとすぐそばにモスクワ川が流れているのが見える。
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ミーニンとポジャルスキー像から「赤の広場」を北西方向に進むと、すぐ右側にロブノエ・メスト(石橋で囲った小さな円形の台)があるが工事中で近づくことができない。かつてこの台の上から皇帝が全国に布令を読み上げた場所であり、また重罪人へ判決を下し処刑を執行した場所である。

広大な「赤の広場」を更に北西方面に歩いて行き、途中で振り返ると、美しい「ポクロフスキー聖堂(ワシリー寺院)」と巨大なスパスカヤ塔を同時に眺めることができる。ちなみに「赤の広場」は直径695メートル、平均道幅は130メートルある。

スパスカヤ塔から200メートルほど進んだ城壁沿いに「レーニン廟」が建っている。レーニン(1870~1924)は死後ほどなく保存処理され、この場所に永久展示されている。現在の廟は1931年に建てられたもの。なお1953~1961年の間にはヨシフ・スターリン(1878~1953)の遺体も安置されていた。「レーニン廟」の後のセナツカヤ(元老院)塔の奥には「元老院(ロシア連邦大統領府)」のカザコフ館のドームも良く見える。
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向かい側には「グム百貨店」の正面入口がある。1921年にレーニンの命により開設したが、現在の建物は19世紀後半の工場を1953年に大改装したもの。
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「グム」とはロシア語で「総合百貨店」を意味する。入口にはセキュリティゲートがあり、警備員がいるが、警告音が鳴っても関係なく通ってよいようだ。店内は吹き抜けの3階建てで、3つのアーケードが並んでいる。
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「グム百貨店」の北口を出た通りの向かい側で、且つ「赤の広場」に面した場所に建つ教会は「カザンの聖母聖堂」。17世紀初頭、ポーランド軍の侵攻を防いだことを記念して建設された。ソビエト連邦時代の1936年にはヨシフ・スターリンにより破壊されたが1993年に再建された。少女の夢のお告げどおりにカザンの廃墟で聖母のイコンが発見されたことに由来している。このイコンの前で祈ったロシア義勇軍のクジマ・ミーニンとドミトリー・ポジャルスキー公が勝利したことでより信仰を集めることとなった。

現在そのイコンはサンクトペテルブルクの「カザン聖堂」に移されている。その隣に建つシャープな尖塔を持つ赤煉瓦の建物は、赤の広場に建つ1894年開設の「ロシア国立歴史博物館」で、奥に見える塔はクレムリン城壁の塔の一つでニコリスカヤ塔と呼ばれている。
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「赤の広場」に戻って左側の「ロシア国立歴史博物館」と右側の「カザンの聖母聖堂」との間から前方を見ると「ヴァスクレセンスキー門」が建っている。ヴァスクレセンスキーとは「復活」を表す意味で、「赤の広場」への入り口にあたる門として17世紀に建設された。中央に「キリストの復活」のイコンが設置されている。ソビエト連邦時代には外されていたが1993年に再建された。
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今日の観光はこれで終了。時刻はまだ午後5時だが、昼にはホテル近くで買った朝食用デニッシュの残りを隠れながら食べただけなので、お腹が減った。あと、あまりの観光客の多さに疲れた。。と言うことでこれから夕食に向かう。場所は「カザンの聖母聖堂」と「グム百貨店」との間に伸びるニコリスカヤ通りを北東方面に進み、メトロ3号線のプローシャチ・レヴォリューツィ駅のある通りの一つ奥の通りを右折して300メートルほど南下した左側にあるグルジア(ジョージア)料理レストラン(Высота 5642)。人気店だが予約しないで向かうと、この時間でもほぼ満席状態だった。しかしカウンター席ならOKだった。
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最初にグルジア・サラダ(570ルーブル)を頼み、グルジアの小龍包と言われる「Хинкали(ヒンカリ)(340ルーブル)」を頼んだ。肉は選ぶことができる。カウンターの奥がオープンキッチンとなっているため調理風景も見ることができ少し得した気分になった。ヒンカリは2人組の女性スタッフが生地を伸ばし軽快な手つきで具材を詰め込み形を作っていき、最後に頂部をカットしてできあがる。皮の触感と具材の肉のうまみが合わさって誠に美味い。次に「子羊の肋骨シシカバブ (990ルーブル)」を頼んだ。やや量は少な目だったが、こちらも非常に美味だ

しばらくすると、2人組の女性スタッフが親指の腹で押してへこませて小さな餃子を作っている。スタッフに聞くとДюшбара(Dyushbara)と言う小さな餃子が入ったスープ(420ルーブル)らしい。注文して頂くとこれがまた最高に美味い(餃子の写真を撮り忘れた。。)。料理には大変満足したが、グラスワインが450~600ルーブル、ビール(330ミリリットル)が400ルーブルと飲み物がやや高いのが惜しい。。

とは言え、大変満足してレストランを後にした。メトロ3号線のプローシャチ・レヴォリューツィ駅から乗車して、2つ目(次駅はクールスカヤ駅)のバーウマンスカヤ駅を下車し、24時間スーパー(Магнолия)で買い物をしてメルキュール・ホテルに戻った。
(2017.7.10)
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