カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

シチリア(その5)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
ここは、シチリア島南西部、アグリジェントの考古学地区(Area Archeologica di Agrigento)の「神殿の谷(Valle dei Templi)」である。現在午後3時半を過ぎたところ。ここ神殿の谷は、前方(北側)に見えるアグリジェント市街地の眼下に広がっており、中央には南北にSP4号線が走り、左右に考古学地区への入口がある。まず最初に右側から入り東に向けて一本道を歩く。なお、北側の高台に見える市街地は、中世以降に発達した街だが、西側地区には、古代のアクロポリスがあったという。
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神殿の谷は、東に流れるサン・ヴィラージョ川(San Villaggio)(古代:アクラガス川)と西に流れるサン・レオーネ川(San leone)に挟まれており、東のアクラガス川の名称が、古代都市アクラガスの由来となっている。現在、このあたりは、アーモンドやオリーブの樹が生える田園地帯で、毎年2月には、アーモンドの花が咲き観光客で賑わう。なだらかな一本道を上っていくと、正面に「コンコルディア神殿」が現れる。
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コンコルディア神殿は、紀元前450~440年に建てられたドーリア式神殿で、シチリアでは最大(42×19.7メートル)規模を誇る。名称については、近くで16世紀に発見された古代ラテン語の碑文に関連して、女神コンコルディアに捧げられた神殿と仮定されたが、実際のところ、誰に捧げられた神殿かは不明である。
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アテネのアクロポリスにあるパルテノン神殿と並んで、世界で最も保存状態の良いドーリア式神殿とされ、こちらの神殿の谷の中においても最も保存状態が良い。神殿は地面と同じ黄土色の砂岩質凝灰岩からできているが、建設当時には白い漆喰で塗られ、装飾部分は極彩色に塗られていたという。

側面から神殿を見ると神殿内の神室側面がアーチ状になっているのが見える。これは、6世紀にアグリジェントの司教グレゴリウスによってキリスト教のバシリカに転用(聖ペテロと聖パウロに奉献)された際の名残りである。1748年に教会は廃止され、1787年に元の神殿の姿に戻されている。
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入口からここまでの間にも、いくつかの遺跡が見受けられたが、日の入りが近いため、まずはメインの神殿を優先し見学することとし、それ以外の遺跡は戻り時に見学することとする。このあたりには、整然と巨大な岩のブロックが並んでいる。
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アグリジェントは、紀元前581年、クレタ島とロードス島の植民によりゲラ(現:ジェーラ)の副都市アクラガスとして建設された。

歴史上、アクラガスが、注目されるのは、紀元前480年に勃発した「ヒメラの戦い」である。領土拡大を目指したアクラガスの僭主テロンは、シチリア北岸にあったヒメラ(現在のパレルモと現在のチェファルの間にあった。)を支配したため、ヒメラがカルタゴのハミルカルに救援を要請した。これに対し、僭主テロンは、シュラクサイの僭主ゲロンに救援を要請し、両軍は、ヒメラの地で激突する。結果、アクラガスとシュラクサイの同盟軍が、カルタゴ軍を破ったことから、アクラガスは、繁栄し絶頂期を迎えることになる。

右手前方の高台に神殿が見えてきた。
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ジュノーネ・ラチニア(ヘラ)神殿 (Tempio di Giunone Lacinia hera)である。ヘラは、ギリシア神話に登場する最高位の女神で、ローマ神話においてはユーノー(ジュノー)と同一視された。ラチニアとは、崖の上にそびえる姿が、カラブリア州最東端のコロンナ岬(古代:ラキニオン岬)を連想させたことから名付けられた。
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180度回り込んで、東側からヘラ神殿を見てみる。ヘラ神殿は、紀元前450年頃に建てられたが、紀元前406年の火災の痕跡が発見されている。その後、ローマ時代に復元されている。高さ6.44メートルの34本の柱の内、現在は25本がほぼ完全な形で残っているが、18世紀後半、北側のいくつかの柱は再建されている。基壇部分に白い漆喰の跡が残っている。
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ヘラ神殿は、高台にあるため、見晴が良い。歩いて来た方角を眺めてみる。左手には、先ほど通ってきたコンコルディア神殿が見え、右手には、アグリジェント市街地が見える。中央に見える高架橋は、東はシラクーザからシチリアの南海岸沿いを通り西のトラパニまで続く大動脈の幹線国道SS115線である。さて、だいぶ日が陰ってきたようなので、急ぎ戻ることにする。
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コンコルディア神殿まで戻ってきた。先ほど素通りしたが、近くに巨大な青銅のイカロス像が置かれている。ポーランドの彫刻家イーゴリ・ミトラジ(1944~)の作品で、2011年以来、こちらに展示されている。
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午後4時半を過ぎたので、そろそろ日の入りを迎える。夕陽がコンコルディア神殿に照らされ、赤く染まって美しい。
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引き続き、素通りしてきた遺跡群を見学して、入口まで戻ることにする。コンコルディア神殿を過ぎると右側(北側)の下り斜面に、3世紀~4世紀ローマ時代の、初期キリスト教徒の共同墓地(ネクロポリス)が広がっている。この辺りは、紀元前2世紀にあったジャンベルトー二墓地(Giambertoni)の流れをくんでいる。この墓地からは、質素なものから豪華な石棺にいたるなどの遺物が発掘されている。
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こちらには、神殿建設のために重い石材を運んだ当時の轍の跡が残っている。深い轍に当時の神殿建設の苦労が偲ばれる。
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入口の手前から左側への小道を進むと、左手の高台に8本の柱が並んでいる。
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エルコレ(ヘラクレス)神殿(Tempio di Ercole)で、紀元前520年頃に建造されたアグリジェント最古のドーリア式神殿である。柱には、建設当時の白い漆喰が残っている。
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ヘラクレス神殿の先には、連絡橋があり、道路(SP4号線)を下に見ながら神殿の谷の西側エリアに向かう。すぐ北側には、辺りには瓦礫の山と化した「ゼウス・オリンピコ神殿」(Tempio di Zeus Olimpio)(別名:ジュピター=ゼウス神殿)の遺跡が広がっている。午後5時を過ぎたためすっかり薄暗くなった。
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ゼウス・オリンピコ神殿は、紀元前480年、ヒメラ戦争に勝利したアクラガスの僭主テロンにより、戦勝記念として、ゼウス神に捧げて建設が始まった。当時のギリシャ建築における最大級の神殿となる予定だったが、紀元前406年、ヒメラの戦いで弱体化していたはずのカルタゴが、ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴを先頭に再びシチリアに進撃してきたことで、建設中だったゼウス・オリンピコ神殿は、完成の姿を見せる前に、粉々に破壊されてしまったという。

瓦礫の中に、7メートルを超える巨人像が横たわっている。神殿を飾っていた人像柱テラモーネ(Telamone)である。ちなみに、この像はコピーでオリジナルは、近くの考古学博物館に保管されている。
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更に、200メートルほど、西にある神殿が「ディオスクロイ(カストール・ポルックス)神殿」(Tempio di Dioscuri)で、紀元前5世紀末に建造された周柱式ドーリア式神殿である。この辺りは豊穣を司る地下神の母娘を祀った神域だったという。やはり瓦礫の山になっているが、1832年に一部だけ復元され現在の姿となった。
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急ぎ足であったが、なんとか神殿の谷の見学はできた。少し安堵していると神殿がライトアップされた。先ほどとはまた違った神々しさを感じ素晴らしい。背後にはアグリジェント市街地の夜景が見える。
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さて、次に、SP4号線を1キロメートル北上した左側にある「アグリジェント考古学博物館」に向かった。14世紀に建てられたこの「サン・ニコラ教会」の扉口の左側から、教会に沿って周りこみ敷地を通り過ぎた奥に博物館の入口がある。閉館時間は午後7時半なので、まだ約1時間以上は見学が可能である。このサン・ニコラ教会の側面(西隣)には、古代の円形状の集会所跡が残っているが、日が暮れてしまい、あまり良く見えなかった。


考古学博物館には、アクラガス時代やそれ以前の時代からの出土品も多く展示されている。こちらは、1905年にアグリジェントの港から出土した、紀元前15~14世紀のミケーネ文明時代の壺で、何とも気が遠くなるほどの昔の作品である。
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アグリジェントの神殿を飾っていた様々なライオンの頭の形をした雨樋が展示されている。
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多くのアッティカ陶器のコレクションが並んでいる。
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ゴルゴーンのアンテフィクサ(紀元前6世紀)。アンテフィクサとは、屋根を覆うタイルの終端にある垂直なブロックのことである。一般的な建築物ではテラコッタの人物像などがよく使われていたため、このゴルゴーンのテラコッタは、個人宅の突出した切妻(出っ張り)部分の端に一定間隔並んで、屋根を飾っていたものかもしれない。


ベスの壺。ベスとは、古代エジプト神話に登場する舞踊と戦闘の神。本来は羊と羊飼いの守護神とされていた。それにしてもこのベスはユーモラスであり、小人ドワーフの特徴も見える。


こちらは、初期キリスト教徒の共同墓地(ネクロポリス)から出土した紀元2世紀の子供の石棺で、発掘時の何百もの破片だったものを修復している。石棺には3辺に子供の誕生から死までの人生を描いた浮彫がなされているが、正面には子供がベッドに寝かされ、周りに悲しむ家族の姿が見える。
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この博物館のメインは、この巨大なゼウス・オリンピコ神殿を飾っていた人像柱テラモーネのオリジナルである。人像柱テラモーネは、壁の上部に見上げるように展示されており、座って見学ができる。多くの座席が並べられており、イベント会場のようである。
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顔は、風化して岩の塊と化しているが、じっと見ていると、何とも親近感を覚えてしまう。
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会場の左手には、テラモーネの頭部が3体展示されている。左からアジア、アフリカ、ヨーロッパをあらわしていると言われる。


会場の右手には、神殿模型があり、柱とテラモーネが交互に配置され、上部のまぐさ石を支えていたことがわかる。


神殿の想像図がある。この図を見ると、神殿入口から神像までの中央部分は吹き抜けになっている。ゼウス・オリンピコ神殿の平面積はシラクーザにあったアテナ神殿(現:シラクーザ大聖堂)の4倍もあったとされており、いかに巨大な神殿を建設しようとしていたかがわかる。


時刻は、午後7時になり、お腹も減ってきた。今夜はアグリジェントから、北西に80キロメートル離れたシチリア島西南部メンフィの郊外にあるイル・ヴィニェート・リゾート(Il Vigneto Resort)に泊まるため、食事はそのホテルで食べることにしている。まだ閉館時間まで30分はあるが、急ぎホテルに向かうことにした。博物館を出て、サン・ニコラ教会前からは、ライトアップされたコンコルディア神殿が見える。
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メンフィまでは、海岸沿いを走る国道SS115号線で向かった。最寄りの出口から、メンフィ入口となるラウンドアバウトに、道路標識に加え、リストランテ、ホテル、マーケット、ワイナリーなどのそれぞれ個別の案内表示(イル・ヴィニェート・リゾートもあった)があり、その案内表示に従って、メンフィの西環状道路を通り、街灯もない暗闇の中、蛇行する田舎道を南方面に走行した。

イル・ヴィニェート・リゾートへの到着は午後8時半に近かった。こちらは、周囲に構造物もない、田園風景の中の長方形の敷地内に建つ2階建てのコテージ風の宿泊棟で、他に、リストランテやレセプションルームがある平屋の管理棟、プールなど付属施設があるリゾートヴィラである。最寄りの国道からはかなり離れていたことから、この時間帯に無事に到着できたのが不思議だった。
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食事は、午後9時頃となった。最初に前菜、タコの冷菜(Antipasto Freddo)と温菜(Antioasto Caldo)を頼むと、タコのマリネとタコの唐揚げだったが、新鮮で大変美味しかった。
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プリモピアットとして、パスタ(ファルファッレ)を頼んだ。


飲み物は、白ワインとして、地元メンフィ産マンドラロッサ(Mandra Rossa urra di mare)ソーヴィニオン・ブランを頼んだ。ヴィラの名称のイル・ヴィニェート・リゾートはワイン畑を表わし、この辺りは、ぶどう栽培が盛んなワインの産地である。


セコンドピアットとして、エビを頼んだ。


こちらは、魚のグリルで、共に、手のかかる料理法ではないが美味しかった。メンフィは港町でもあることから、新鮮な素材を、素材本来の味わいで楽しめたのは良かったかもしれない。


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翌朝、テラスに出て外の景色を眺める。地図によると南に2キロメートル弱で地中海なので、正面の小高い丘を超えたあたりが海辺なのだろう。
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短い滞在時間だったが、朝食を食べチェックアウトして、まずは、直線距離で9キロメートル西のセリヌンテ(Selinunte)に向かう。そして、その後は、100キロメートル北部にあるモンレアーレに向かい、見学した後、パレルモで宿泊となるタイトなスケジュールを予定している。
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セリヌンテは、西を流れるセリヌス川(現在のモディオーネ川)と東を流れるコットーネ川(現在は溝が残るのみ)に挟まれた2キロメートルほどの幅の丘の上に築かれた古代ギリシャの植民都市で、現在は、当時のアクロポリスや神殿の遺跡が残る遺跡公園となっている。

セリヌンテは、シュラクサイ(シラクーザ)北方にあったメガラ・ヒュブレアが紀元前628年に建設した副都市だったが、その後のヒュブレアからの移住者や人口増加に加え、カルタゴとの交易により、紀元前6世紀初頭にはギリシャ系都市国家として大きく繁栄した。しかし、北に40キロメートルにある先住民の国家セジェスタ(古代の神殿や劇場などの遺跡が残っている。)との小競り合いが続き、紀元前409年には、セジェスタとカルタゴとの同盟軍による来襲を受け(第2次ヒメラ戦争)、徹底的に街を破壊され、カルタゴの勢力下に置かれてしまう。

紀元前264年から、ローマとカルタゴは、地中海の覇権をめぐりポエニ戦争(紀元前264年~紀元前146年)で戦った結果、勝利したローマがシチリアを始め、地中海世界を支配することになる。シチリアから撤退したカルタゴは、セリヌンテを徹底的に破壊してしまい、ローマの属州時代以降、再建されることはなかった。

セリヌンテは、約40ヘクタールの敷地の中に主に5つの地区があるが、この「東の丘と神殿」地区と、1キロほど西に離れた「アクロポリスと神殿および城壁」地区とがメインの地区となる。最初に東の丘に建つ神殿群から見学する。駐車場前には、なだらかな丘を横長にくりぬきガラス張りされた近代的な案内所があり、ゲートを抜けて遺跡公園に入場し、北に200メートルほど舗装道路を歩いて行くと、前方に「E神殿」が見えてくる。セリヌンテの神殿の詳細は不明な点も多く便宜上アルファベットで呼ばれている。
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こちらのE神殿は、ヘラを祀る神殿との説もある。いくつかある神殿の中でも、比較的新しく、紀元前460年~紀元前450年頃に建設されている。現在の姿は、1950年代に修復されたもので、敷地が25.33×67.82 メートル、高さ10.19メートルの円柱が、6×15本で配置されている。
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神殿内も良く残っており、ギリシャ神殿のプランを理解しやすい。まず、東側の踏みづらの狭い10段の階段を上ると2列目の柱を持つポルチコに達し、プロナオス(前室)になる。そして、広い、なだらかな階段となり、ナオス(本殿)前に到着する。先の高い位置にアディトン(内陣)があり、背後にオピストドモス(後室)がある。
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E神殿の北隣には瓦解したF神殿があり、その北隣には同じく瓦解したG神殿がある。こちらは、北側からG神殿を眺めた様子。ゼウスを祀る神殿ともいわれ、ギリシア世界の中でも最大級の神殿の一つされている。敷地が113.34メートル×54.05メートル、高さは30メートルあった。柱の直径3メートル以上もある。紀元前530年から建設が始まり、紀元前409年時点でも建設途中であった。
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瓦解した神殿内に入ることは特段禁止されていない。踏み分けて、崩れ落ちた柱の巨石が折り重なっている上を歩いてみるが、石はびくともしない。
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再び、E神殿に戻り、基壇の上の南側の円柱からは、青く輝く地中海を望むことができる。そして、右側のやや遠くに見える神殿群が「アクロポリスと神殿および城壁」地区となる。
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少し距離があるが、「アクロポリスと神殿および城壁」地区に歩いてやってきた。アクロポリスらしく、この辺りは小高い丘になっている。巨大な石が重なり合っており、その先に「C神殿」の円柱が東西に向けて並んでいる。
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こちらは、南東側にある「B神殿」越しに北側の「C神殿」を眺めた様子。C神殿はこの地区では最も古く、紀元前550年に建設されたものである。1925年~27年にかけて、北側の17本の円柱のうち14本が、エンタブラチュアの一部と共に再建されている。24×63.7メートルの敷地に6×17の円柱配列(高さ8.62メートル)を持っている。神殿内へは、東の階段を8段上ると2列目の柱を持つポルチコに達し、プロナオスに繋がる。
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こちらの「アクロポリスと神殿および城壁」地区には、A、B、C、D、Oの神殿があるが、再建された「C神殿」以外は、瓦解したままとなっている。C神殿から「東の丘と神殿」地区を眺めてみると、再建された「E神殿」が、2000年の時を超え雄々しく聳え立っている。ちなみに、右側に見える街並みは、19世紀初頭から漁師を中心に発展してきた港町マリネッラ・ディ・セリヌンテである。
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(2012.12.28~29)
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シチリア(その4)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
こちらは、標高500メートルの高地、ラグーザ(Ragusa)スペリオーレ地区のコルソ・イタリア(イタリア通り)(西から東に向けて下り坂)になる。右先のクリーム色の建物が、昨夜の宿泊ホテル「アンティカ バディア ルレ」(Antica Badia Relais)で、イオニア式円柱で囲まれた門を入った中庭に入口がある。
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ホテル前のコルソ・イタリアを少し下った向かい側に「サン・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂」がある。ファサードの左側には、約50メートルの高さの鐘楼が立つ(右側は未完)など、シチリア島で最大の教会の一つで、1718年、建築家ジュゼッペ・レキュペロとジョヴァンニ・アルシディアコノの設計により、バロック様式で工事が始まっている(1778年奉献)。大聖堂は、ラグーサ・スペリオーレの守護聖人、聖ジョバンニに捧げられている。
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ファサードにあるポーチの上には、聖母マリア(無原罪の御宿り)像と、左右には洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネの像があるが、現在は修復中で確認できない。この時間(9時50分)、ちょうど陽光がファサードにあたり輝いている。ファサード手前には、大きなサン・ジョバンニ広場があり、傾斜を平面にするため、中央を階段で結んだ2段テラス構造となっている。

こちらは、大聖堂の交差部付近を北側のコルソ・イタリア沿いの小庭園から眺めた様子で、中央には、1783年に建てられたドームが確認できる。ドームは20世紀に入り施された銅板で覆われている。
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コルソ・イタリアを400メートルほど東に下り、左折して100メートルほど更に下ると、昨夜訪れた見晴らしの良い展望台に到着する。前方には、イブラ地区(旧市街)の建物が折り重なる姿まで、はっきりと確認できる。高台に建つ三階建ての赤い屋根の建物「ヴィラ・カステル・ヴェッキオ」が頂上となり、その先は見えないが、街は東側のなだらかな斜面沿いに続いていく。ヴィラの北隣に見えるドームは、サン・ジョルジョ大聖堂である。
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イブラ地区の手前にはファサードと3つの身廊を持つ「プルガトーリオ教会」が望める。その教会手前の通りが、スペリオーレ地区とイブラ地区との境目になる。ちなみに、左側のスペリオーレ地区斜面沿いに見える青いドームは「サンタ・マリア・デッレ・スカレ教会」になる。
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このイブラ地区は、イタリアで1999年から放送されている人気テレビシリーズ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」のロケ地の一つとして知られている。主に、タイトルバックでの空撮影像、サン・ジョルジョ大聖堂前のドゥオーモ広場、プルガトーリオ教会前(長距離バスの停留所として)などが登場する。ドラマでは、架空の街ヴィガータの警察署が舞台となるが、アグリジェント県、ラグーザ県を中心としたシチリア島南東部で広く撮影が行われている。

昨夜同様に階段を降りポンティ谷にある橋を渡ると「プルガトーリオ教会」の前に到着する。プルガトーリオ教会のファサードは、コリント式の柱頭により3つのパートに分かれている。それぞれ扉口があるが、中央のみが実際の門となり、その門上部には、植物文様の浮彫が施され、パーガトリー(煉獄)を表わした彫刻が飾られている。この時間、昨夜と異なり、ファサード前の階段には誰もいなかった。
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教会に向かって、左に2つ目の通りを進むと、左側に豪華なバロック様式の建物が建っている。「コゼンティーニ邸」(Palazzo Cosentini)で、ラッファエーレ・コゼンティーニ男爵とその息子のジュセッペ・コゼンティーニ男爵により1779年に建てられた。ラグーサ・バロック様式の貴族の邸宅を代表する建物で、バルコニー下のユニークでグロテスクなバロック彫刻が見どころである。
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こちらは、コゼンティーニ邸を通りから見上げた様子で、3階部分の3か所のバルコニーの下に、それぞれ彫刻が施されているのが確認できる。
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こちらは、建物に向かって左端の彫刻で、それぞれ楽器を持ち演奏している様子が躍動的に表現されている。下部にある大きな顔は、それぞれの演奏者の内面を反映しているとされる。
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さて、次に「モディカ(Modica)」に向かうべく、両市街の間のポンティ谷から道路を南に下って行く。向かって左が新市街のスペリオーレ地区で、右側がイブラ地区である。横から見ると、谷間の深さがよくわかる。
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こちらは、イブラ地区の頂上付近で、ヴィラ(カステル・ヴェッキオ)や、その右側のやや奥に「サン・ジョルジョ大聖堂」のファサードとドームが見える。
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ラグーサまでの往路は南西方向からだったが、これからは一旦、東に向かい、SS115号線を経由した後、SS194号線で南下する。30分ほどで、大きなラウンドアバウトを過ぎ、渓谷に架かる陸橋を横断すると、まもなくモディカに到着する。

モディカは、ラグーザ県にあり、周辺地域を含む人口約5万4000人の基礎自治体(コムーネ)である。ラグーザ、ヴィットーリアに次ぐ県内では第3位のコムーネ人口を有している。1693年の壊滅的な地震の後に再建された歴史的地区は、後期バロック建築の最も重要な例の一つとされている。2002年には、ヴァル・ディ・ノートのいくつかの町とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。また、スペイン支配時代から伝わる伝統的な製法で作られる素朴な味わいのモディカ・チョコレートが人気である。

こちらはモディカにある「サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタ教会」(S Giovanni Evangelista)になる。最初の寺院は1542年、1693年の地震で深刻な被害を受けている。18世紀に入りバロック様式で再建されるものの、1848年のさらなる地震により損傷を受けたため、1893年にサルヴァトーレ・リッツァの設計によりファサードをさらに改修し1901年に現在の姿となっている。教会は街の歴史的中心部の高台エリアとなるモディカ・アルタ(Modica Alta)にあり、尖塔の頂部の十字架の場所は、標高449メートルと、モディカの最高地点を表している。
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教会に向かって細い路地を左に200メートル進むと、展望台がありモディカの街並みを一望できる。こちらは南の方向になる。モディカは、19世紀まで急流で削り取られた二つの峡谷にまたがって町が広がっていたが、20世紀初頭まであった川は「ウンベルト1世通り」(Corso Umberto I)となり、街の主要道路となっている。高台がモディカ・アルタで、低い町がモディカ・バッサ(Modica Bassa)と呼ばれている。中腹には、大きなドームとファサードが聳える「サン・ジョルジョ大聖堂」があり、そのファサードから下り階段が、モディカ・バッサに向けて続いている。
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これまでは、丘の上に広がる街並みを見ながら、麓から上っていくケースが多かったため、突然眼下に街並みが広がる景色は圧巻だった。こちらの眺めは、前述のドラマ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」で、ラグーサ同様にタイトルバックでの空撮影像として登場する。

その「サン・ジョルジョ大聖堂」前にやってきた。ファサード前から延びる階段の途中には、車通行可能のコルソ・サン・ジョルジョが横断している。こちらは、その更に下にある踊り場から見上げた様子で、この下からは、左右階段となり再び直線階段となって、ウンベルト1世通りまで計250段の階段が続いている。
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サン・ジョルジョ大聖堂は、12世紀初、ノルマンのルッジェーロ1世により建てられたが、1542年、1613年、1693年とモディカを襲った度重なる地震で被害を受けて1738年に再建された。バロック様式のファサードは、ロザリオ・ガリアルディ(1690~1762)の設計による。再建プロジェクトの終了後も、いくつかの鐘と時計の設置や、尖塔に鉄の十字架が取り付けるなどの改修が行われたが、1842年に完了し、今では全高62メートルの堂々たる塔を持つファサードとなっている。
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教会の内部は、ラテン十字の形をしたバシリカプランで、コリント式の柱頭が乗った22本の柱が支える5つの身廊に分かれている。主祭壇には、マニエリスムの画家ベルナルディーノ・ニグロ(1538~1590)による「多翼祭壇画」(10枚の絵画で構成)があり、聖家族、キリストの生涯、聖マルティヌス、聖ジョルジョ(ゲオルギオス)と竜が描かれている。中央交差部には高さ36メートルのドームがある。
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時刻は昼の12時となり、モディカを後にし、再びシラクサ(シラクーザ)に戻るべく出発した。高速E45号線を経由して、午後2時前、ネアポリス考古学公園にある「パオロ オルシ考古学博物館(Museo Archeologico Rgionale Paolo Orsi)」に到着した。「ネアポリス考古学公園」からは、600メートルほど東に位置しており、緑豊かな面積9,000平方メートルの大きな庭園内に建つ近代的な博物館である。
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もともと博物館は、1878年にオルティージャ島のドゥオーモ広場にオープンしたが、展示品・出土品が年々増えたため、1988年に現在の場所に移転している。シチリアの考古学研究に大きな貢献をしたパオロ・オルシの名前に因んでいる。ギリシャ時代の陶器や彫刻、神殿のレリーフなど時期や場所ごとに4つのブロックに分けられ展示しており、展示品数は18,000件を誇っている。

今日は年末のためか、来館者が非常に少なく、ゆっくり見学できそうである。こちらは、シラクーザ県レンティーニから出土した紀元前6世紀の大理石クーロス(青年)像である。
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こちらのテラコッタは「翼のあるゴルゴーン」で、オルティージャ島にあった神殿の屋根を飾っていたもの。ゴルゴーンは、ギリシャ神話に登場する醜い女の怪物で、魔除けに用いられた。こちらの作品では、邪眼を強調するため、正面を向いた姿で表されている。
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コレー像(若い女性の彫像)が並んでいる。古代ギリシャでは、奉納像や墓像として数多く作られた。
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こちらのコレー像は、紀元前6世紀「玉座の女神デメテル・ケレス」(テラコッタ)で、カターニア県グランミケーレから出土したもの。女性の表情からアルカイック期のものとわかる。
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こちらは、考古学博物館を代表する「恥じらいのヴィーナス」(Venus Pudica)で、シラクーザ考古学者ヴェーネ・ランドリーナの名前にちなんで「ランドリーナのヴィーナス」とも呼ばれている。フランスの自然主義の小説家、劇作家で詩人のモーパッサン(1850~1893)が、夢中になり賞讃した大理石の彫像で、紀元2世紀のローマンコピーである。
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エトナ山の麓、カターニア県アドラーノ(Adrano-Mendolito)で出土した、高さ19.5センチメートルのブロンズ像「アスリート」(紀元前460年頃)で、彫刻家ピタゴーラ(Pitagora)の手によるもの。
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こちらは、ギリシャ神話に登場する名医「アスクレピオス」の頭部像である。アスクレピオスが持っていた、ヘビが巻きついた杖は「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、医の象徴として世界保健機関(WHO)、米国医師会(AMA)等のマークにも使われている。作品は、紀元前5世紀前半アテネで活躍した彫刻家アテナ・プロマコスのローマンコピー(Augustan copy)である。
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黒像式のアンフォラ(右)とレキュトス(左)。アンフォラはワインやその他の必需品を運搬・保存するためのもので、レキュトスはオリーブ油の貯蔵に使われた。黒像式とは、人物像などをシルエットで描き線刻で詳細な描写をするという技法で紀元前7世紀に発明された。
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こちらは、赤像式アンフォラである。赤像式は、紀元前6世紀末から造られ始めた。黒像式のような線刻ではなく描線で詳細を直接描くことで表現の幅が広がった。
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1時間半ほど見学した後、今夜の宿のチェックインのため、オルティージャ島に戻ってきた。今夜は、ユダヤ人地区、ジュデッカ通り沿いにある、「B&Bラ・ヴィア・デラ・ジュデッカ」(La Via Della Giudecca)に泊まることにしている。周辺は、細い路地が入り組んだエリアだが、宿は、サン フィリッポ アポストロ教会前の小さな広場に面して建っており一息つける。部屋も清潔で、台所、テーブル、広いバスタブもあり居心地が良い。
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午後4時を過ぎ、宿からは西に300メートルほど、人がすれ違うのが辛いほどの狭い通りを抜けて「シラクサ(シラクーザ)大聖堂」が建つドゥオーモ広場にやってきた。

この時間、夕日が大聖堂のファサードに反射して美しく照らされている。大聖堂は、もともと紀元前480年頃に建設されたアテナ神殿で、当時の神殿入口は、今と逆の神像に朝日が差し込む様に東側にあった。ちなみに、アテナ神殿建設の経緯は、シチリア中央部にあったゲラの僭主となったシュラクサイの僭主ゲロンが、ヒメラの戦い(紀元前480年、カルタゴ軍の来襲を撃破した)で勝利し、賠償金を得たことによる。
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アテナ神殿は7世紀のビザンチン時代に、初期キリスト教のバシリカに改築されるが、9世紀にはアラブ人によりモスクに変えられている。しかし1093年、初代シチリア王ルッジェーロ2世の父親でシチリア伯のルッジェーロ1世(1031~1101)により、再び教会に戻されている。その後は、1542年、1693年の地震で大きな被害を被るが、1728年に建築家アンドレア・パルマの設計で新たに工事が始まり、20年間の工事中断期間をへて1753年に現在の大聖堂として完成している。
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大聖堂のファサードは、下部に、コリント式の6本の柱があり、うち中央の4本の柱は、ポータルを囲み、精巧なティンパヌムを支えている。上層部にも、4本のコリント式の柱があり、中央の小さな2本のコリント柱を持つ壁龕内には聖マリア(無原罪のお宿り)の像が飾られている。他にも、下部から伸びる左右のコリント式の柱の頂部にシラクサのマルシアーノと、シラクサのルチア(283~304)(シラクサの守護聖女)の像があり、広場からの階段左右には聖ペテロと聖パウロの像がある。これらの彫像は、パレルモの彫刻家イグナツィオ・マラビッティ(Ignazio Marabitti、1719~1797)が手掛けたものである。

聖堂内の身廊はノルマン時代のままで、天井は、1518年に木製の梁で覆われたもの。内陣は、バロック様式で両側に木製の聖歌隊席(18世紀後半)があり、天井は木造で、金箔で装飾された小さな八角形の格間天井で構成されている。
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後陣は、ファサードの彫像制作の建築家イグナツィオ・マラビッティが1746年に完成させたもので、装飾、浅浮き彫り、多色の漆喰でバロック様式の漆喰を支える精巧な金色の漆喰を備えた4本のコリント式の柱により形成されている。中央には「マリアのキリスト降誕」(17世紀)の絵画があり、ペディメントには、マリオ・アルベルテッラが描いた「王なるキリスト」(1927年)の絵画が飾られている。

身廊と側廊を隔てるアーチ柱は、他の教会や大聖堂とは異なり、無骨な柱となっているが、ノルマン時代に使用されていたアテナ神殿の壁を削ったものをそのまま使用している。床は、1444年に遡るもので、全体に精巧な幾何学的図形が表現されている。
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側廊側の壁には、アテナ神殿のドーリス式の円柱が、そのまま埋めこまれている。かつてこの場所にバロック様式の祭壇があったが、20世紀初頭の修復工事で取り除かれ、現在は3体の像が飾られている。奥から手前にかけて、アレクサンドリアのカタリナ(制作者不明、15世紀作)、聖母子(ドメニコ・ガジーニ(1430~1492)作)、シラクサのルチア(アントネッロ・ガジーニ(1478~1536)、1527年作)になる。
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ドゥオーモ広場から、直線距離で300メートルほど南にある「ベッローモ(ベッラモ)宮殿博物館(Palazzo Bellomo)」にやってきた。13世紀に造られたカタロニア様式の残る美しい宮殿である。
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中庭には、様々な陶磁器や紋章オブジェなどが展示されている。なかでも、階段を下りた向かい側の北側壁面には、ひと際大きなスペインのカルロス2世(1661~1700)の王室の紋章が展示されている。こちらは、オルティージャ島へのアクセスを規制する目的で、1673年に建設された軍用門(ポルタ・リニー)(~1893)の上部に飾られていたもの。ポルタ・リニーは1893年に取り壊された。

こちらは聖母子像。15世紀初頭、シラクーザの聖ルチア教会の祭壇画。


神の子羊と受胎告知(13世紀~14世紀、シラクーザ聖フランシス教会)。


ヤシの左右に向かい合うライオン(モザイクの断片、12世紀)。


この博物館を代表する作品が、このアントネッロ・ダ・メッシーナの受胎告知である。残念ながら写真不可につき、取りあえず、ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)の画像を乗せさせていただく。
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午後6時になり、すっかり暗くなった。次にドゥオーモ広場から200メートルほど北にある、アルキメデス広場(Piazza Archimede)にやってきた。このあたりが、だいたい、オルティージャ島の真ん中に位置している。この広場はややいびつな正方形で、中央に円形の「アルテミスの噴水」(Fontana di Artemide)(Fontana di Diana)がある。
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噴水は南向きで、中央に、弓と犬を持つ狩猟の女神アルテミス(ダイアナ)の姿があり、足元に、ギリシャのアルフェウス川の神アルフェウス(Alpheus)と、ニュムペーであるアレトゥーサ(Arethusa)がいる。周囲には、海豚や海馬に乗るトリトンが4体飾られている。カターニアを中心に活躍した彫刻家ジュリオ・モスケッティが1907年に建設した記念碑的な噴水だが、暗くて良く見えない。

ちなみに、観光客が車で、オルティージャ島を走行するには、本土からオルティージャ島の中央部に向け南下し、こちらのアルキメデス広場から、東海岸に抜ける一方通行の横断道路と、本土からオルティージャ島に入り、西海岸から南に向かい、マニアーチェ城塞の手前から、迂回して、東海岸を上る一方通行の環状道路との2本がメインの通りとなる。

これから、ジュデッカ通り沿い(ホテルから50メートルほど北)にある、オペラ・デイ・プーピ(L'Opera dei Pupi)で、シチリア伝統の人形劇を鑑賞する。プーピは、19世紀初頭にシチリアの大衆芸能として生まれた人形劇で、2001年にユネスコ無形文化遺産に登録されている。
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座席数は30名ほどで、舞台も横幅は3メートルほどの小ささである。30分前で3名ほどが座っていた。上演時間前には、ほぼ満席になったが、立見客で溢れかえるといった感じではなかった。
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上演時間は50分ほど。今夜の演目は中世シチリア王国の騎士物語のようだ。ストーリーは操り人形師(プパーロ)が即興で進めていくらしい。人形のサイズは40センチメートルほどで、頭部と右手に付けられた棒で操っている。例えば、乱闘シーンは非常に激しい動きで、人形の動きはなかなか手の込んだものであった。
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さて、鑑賞後、2日ぶりに、カヴール通り沿いのトラットリア、シチリア・イン・ターヴォラ(Sicilia in Tavola)に来た。予約していないし、午後7時半を過ぎており断られるかと思ったが、無事食事にありつけた。今日は赤ワインとして、シラーのバッリョ・ディ・ピアネットを注文する。


前菜は、ビュッフェテーブルに並ぶいくつかの郷土料理から、少しずつ皿に載せていく。ビュッフェスタイルで前菜の盛り合わせを頂く。


イカ墨のスパゲッティなどを頼んだ。


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翌朝、これから「マニアーチェ城塞(Castello Maniace)」の見学をすることにしている。オルティージャ島の西海岸沿いの通りを南に向かうと、突き当りにマニアーチェ城塞の入口がある。チケットを購入し、ゲートを入ると、周囲に管理棟や、屋外バールなどがある矩形の広場となり、その広場を横断して、胸壁塔のあるアーチ門に繋がる横断橋を渡る。
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アーチ門をくぐると、周囲を城壁に囲まれた、ややいびつな敷地の広場に到着する。そして、その広場の先に、左右に側防塔を持つ横長の城塞がある。

城塞は、1038年に街を包囲して占領したビザンチン帝国のギリシャ将軍ジョルジョ・マニアーチェ(ゲオルギオス・マニアケス)(~1043)により築かれたものだが、現在の要塞は、1232年~1240年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)により拡大改築されたものがベースとなっている。

城塞は、時の支配者や権力者により、改築、強化などが繰り返されている。また、刑務所として使用されたことや、名称が変更されたこともあり、近年では、陸軍兵舎として使用されるなどの変遷を経て現在に至っている。

側防塔を持つ横長の城塞の中央にある大きなアーチ門を入ると中庭で、更に先の門を入ると、尖頭アーチやヴォールトの天井で構成された空間に到着する。ノルマン建築の影響を受けた構造で、設計は皇帝フリードリヒ2世の宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニによるもの。
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城塞内には、ギリシャ時代のブロンズの雄羊が2頭(コピー)展示されている。もともと紀元前3世紀に2頭制作され、シラクサの「アガトクレス宮殿」を飾っていたとされる。その後、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)が、マニアーチェ城塞を再建した際、移設して、要塞の入口を飾るために設置した経緯を踏まえて、コピーが置かれている。現在、オリジナルは、パレルモにある「王立考古学博物館」に所蔵されている。
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ところで、フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)は、フリードリヒ1世(赤髭王)の孫で、父のハインリヒとシチリア王女(ノルマン朝)コスタンツァとの間にシチリア島で生まれている。幼時に父が死んだためローマ教皇インノケンティウス3世を後見人としてパレルモで育つ。当時のパレルモの国際的な環境もあり、開明的な文化人として成長した彼は、宗教観を超えた合理的な政策を推し進めていく。1220年には、シュタウフェン朝として神聖ローマ皇帝に即位し、ドイツ王を兼ねながらシチリアを拠点にしてイタリア統一をめざすものの、北イタリアの都市同盟とローマ教皇と激しく対立、道半ばにして崩御している。

城塞を出ると、要塞化された半島先端部となる。中央は吹き抜けで、周囲はアーケードで取り囲まれ狭間窓を持つ稜堡となっている。その稜堡の屋上には、大人の身長ほどの高さの防御壁で取り囲まれている。所々に、防御壁の強化のため凹角堡が設けられている。
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こちらは、稜堡の屋上の先端部から振り返った様子で、要塞の左側の側防塔には灯台がある。また、右下の海水面近くに設けられた狭間窓も確認できる。
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さて、そろそろお世話になったシラクーザともお別れである。マニアーチェ城塞を後にし、海岸沿いの歩道をドゥオーモ広場に向け歩く。振り返ると城塞にあった灯台がわずかに見える。最後にドゥオーモ広場の聖ルチア教会で、カラヴァッジョ(1571~1610)の「聖ルチアの埋葬」を見て、オルティージャ島を離れることにした。
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こちらが、ドゥオーモ広場の聖ルチア教会の祭壇に飾られた「聖ルチアの埋葬」で、カラヴァッジョが、1608年にシラクサ滞在中に描いたとされている。もともとは、シラクサ中心部(本土)にあるサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の祭壇に飾られていたが、修復後は、オルディージャ島にあるベッローモ宮州立美術館に展示されていた。
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教会の祭壇には聖ルチア(シラクサのルチア)の像が飾られていた。 ルチアは、304年、ディオクレティアヌス帝時代にシラクーザで殉教し、シラクサの守護聖人になっている。こちらの銀製像は、16世紀のピエトロ・リッツォ制作によるもので、喉元に剣が突き刺さった姿を表現している。通常、シラクサ(シラクーザ)大聖堂に祀られているが、毎年12月13日の聖ルチア祭では行列を組んで本土にあるサンタ・ルチア教会まで運ばれ、1週間展示された後、大聖堂に戻されるが、この日はこちらに飾られていた。
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オルティージャ島から本土方面に向かう橋の手前、パンカリ広場に広がるアポロン神殿に寄る。ここは、紀元前6世紀初に建てられた島内最古のドーリス式神殿で、近年太陽神アポロンへの献辞が発見された。遺跡は、多くが原型を留めないほど瓦解しており、巨石が散乱している。このあたりは、本土の新市街に近く、遺跡を取り囲むように周りに新しい建物が立っている。時の流れを肌で感じる風景である。。
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(2012.12.27~28)
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シチリア(その3)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
シラクサ(シラクーザ)の街は、新市街の本土と旧市街のオルティージャ島との2つに別れている。昨夜の宿泊ホテルは、「グランド ホテル デ エトランジェ」(Des Etrangers Hotel & SPA)で、オルティージャ島の西海岸沿いの通りに面している。ホテルの後方となる東側にはドゥオーモ広場に面した「聖ルチア教会」がある。


ホテル前の通りの先(西側)には、海を見渡せる展望テラスがあり、その南隣の下にある大きな半円形の水場が、シラクサの観光名所の一つ「アレトゥーザの泉(Fonte Aretusa)」になる。こちらの泉はすぐ隣が海にも関わらず、古代から淡水が湧き出ているとのこと。伝説によると、ギリシャの川の神(アルフェイオス)に言い寄られた森の妖精(アレトゥーサ)が地底を逃げ、この場所にたどり着き、アルテミス女神により泉に変身させてもらったという。中ほどにあるパピルスのまわりには、赤い鯉が泳いでいる。


アレトゥーザの泉から、南側を眺めると「マニアーチェ城塞」を望むことができる。オルティージャ島の最南端にある城塞跡で、400メートルほど先に位置している。しかし今日はシラクサを離れるため、再び戻った明後日にオルティージャ島の観光を予定している。
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シラクサ(シラクーザ)は、古代、ギリシア語でシュラクサイと呼ばれ、ギリシャ人の僭主ディオニュシオス1世(紀元前432頃~紀元前367)の支配を受けていた。この時代、シチリア島内の多くの都市は、西地中海の覇者となりつつあったカルタゴ(アフリカ大陸の北岸(現:チュニジア)を中心に地中海貿易で栄えたフェニキア人による国家)の支配下にあったことから、ディオニュシオスは、カルタゴ勢をシチリア島から一掃しようと全力を傾け、シュラクサイにはオルティージャ島と本土を全長27キロメートルにも及ぶ巨大な城壁で要塞化していた。

こちらのオルティージャ島には、神殿、王宮、兵舎などの行政の中心が置かれ、本土側にはオルティージャ島に接するアクラディーナ(Akradina)、その北方にテュケー(Tyche)、北西部のネアポリス(Neapolis)と3地区に市民の大半が暮らしていた。

そのオルティージャ島から北西部に2キロメートルほどの距離となるネアポリスにやってきた。この地は、石灰岩の大地で、現在は「ネアポリス考古学公園」となっている。チケットを購入して、大通りから左折して細い遊歩道を100メートルほど南に進むと「円形闘技場」跡に到着する。紀元3世紀後半に建設され、シチリアでは最も大きい闘技場だったが、現在では、遺跡の上部のほとんどは破壊され、下部の岩から掘り抜かれた部分のみが残っている。
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1839年にイタリアの建築家、考古学者のセラディファルコ公爵(1783~1863)により発掘され、長さ140メートル、幅119メートルと推定されている。円形闘技場は、アクラディーナ地区からネアポリスに到達する道路軸にあった。こちらは、競技場の北側から南東方向を眺めた様子で、この先がオルティージャ島の方角となる。ちなみに中央の正方形の穴は、舞台の奈落の仕掛け跡である。

大通りに戻り、西方向に歩くと、すぐ左側の手すり越しに「ヒエロン2世の祭壇跡」が望める。当時、こちらの祭壇での儀式は、解放者ゼウス(ゼウス・エレウテリオス)に敬意を表して行われた。また、最大450頭以上の牛を生贄にすることができる巨大な規模を誇っていたとされる。現在では、長さ(南北)198メートル、幅(東西)22.8メートルのテメナイトの岩だけが残っているが、これは、地下にあった土台の跡で、上部の構造物は16世紀にほぼ完全に取り除かれて市内の要塞の建設に再利用されている。


ヒエロン2世とは紀元前3世紀におけるシュラクサイの僭主で、共和政ローマとカルタゴとの間で行われた第一次ポエニ戦争時には、ローマ側に付いてカルタゴと戦い勝利して王に擁立された。彼は卓越した農業・商業政策でシュラクサイに繁栄をもたらしている。

ヒエロン2世の祭壇跡を望む大通りの向かい側の北側に遺跡公園への入口がある。こちらではチケットチェックがある。公園内には、多くのレモンの木が茂り、遊歩道が続いている。200メートルほど北に進むと、西側に、周囲を削り取られ棒状に残った石の塊や、壁の様に残る石の巨大な切面が望める。こちらの公園は、神殿や住居を建てるための石切場跡「ラトミア・デル・パラディーゾ」(楽園の採石場)と呼ばれている。


石切場跡の石の切面は高さが20メートルほどあり、北から西南にかけて、切壁が途中でL状に屈折して200メートルほど続いている。その屈折する場所に、裂け目の様な洞窟入口があり、内部は35メートルの奥行がある。洞窟の上には「ギリシャ劇場」があり、これを破壊しないように、歪曲して採石された。また、この洞窟は、僭主デイオニュシオス1世治世には牢獄として使われた。


洞窟内に入り、声を発すると反響して音が増幅される。当時ここを訪れた画家のカラヴァッジョは猜疑心の強いディオニュシオスにちなんで「ディオニュシオスの耳」と名付けた。


再び、遺跡公園入口まで戻り、今度は、左方向の通路を歩いて「ギリシャ劇場」に向かう。なだらかな坂道を上っていくと、劇場の北東側の観客席後方に到着する。こちらの場所が、ちょうど「ディオニュシオスの耳」のすぐ上に位置している。ギリシャ劇場は、紀元前5世紀に岩盤をくり抜いて建設されたが、南向きの直径130メートルの大規模なもので、当時は61段、約15000人もの観客を収容できた。劇場は、重要な娯楽の場であり、政治においても重要な場所だった。現在も、毎年5月から6月にかけて古代ギリシャ悲劇等が上演されている。
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観覧席の後部となる背後の小高い丘はギリシャ人たちのお墓で、ここから、石切場のディオニュシオスの耳とが繋がっており、牢獄の様子を盗み聞きすることができた。また、いくつもの小さな洞窟があり、特にアーチ状の「ニンファエウムの洞窟」(La Grotta del Ninfeo)は見どころの一つである。


こちらが、「ニンファエウムの洞窟」で、アーチ状の天井下には、長方形の浴槽があり水が注ぎ込んでいる。発掘時には、入口に神殿があり、ミューズに捧げられた彫像(紀元前2世紀)が発見された。近隣の「パオロ オルシ考古学博物館(Museo Archeologico Rgionale Paolo Orsi)」に所蔵されている。


こちらは、シュラクサイ出身で最も有名な人物の一人、古代ギリシャの天才科学者アルキメデス(前287?~前212)が製作した兵器の一つ「投石器」である。アルキメデスは、カルタゴとローマとの第二次ポエニ戦争(前219~前201)の際、シュラクサイがカルタゴ側についたことから、ローマによるシュラクサイ包囲戦に対抗するため多くの軍事兵器を考案した。
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シュラクサイは、アルキメデスの兵器などにより、ローマ軍を大いに苦しめ3年間持ちこたえたが、紀元前212年に陥落した。落城の際、ローマの将軍はアルキメデスを殺さぬよう厳命していたが、アルキメデスは彼と知らなかったローマ兵によって殺された。75才だった。

次にノートに向かう。ノートはシラクーザ県にある基礎自治体(コムーネ)で、シラクサから南西に31キロメートルのイブレイ山脈の台地に属する丘陵地帯にある。シラクサからは高速E45号線で行けるためアクセスが良く、最寄りのインターチェンジを出ると、前方の高台にノートの町並みが見えてくる。
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ノートの街は、1693年の大地震でほぼ完全に瓦解したため、それまでの古い街ノート・アンティカを完全に放棄し、南約10キロメートルの丘の上に新たにバロック様式の美しい建築物を建てた。現在、「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として、世界遺産に登録されている。ヴァル・ディ・ノートとは、アラブ時代、ノート、マザーラ、デモーネと3つのヴァル(行政区分)で統治されていた当時の名残である。

街の東側にあるラウンドアバウトから、西に緩やかな並木道の直線道(ヴィットーリオ・エマヌエーレ通り)を200メートルほど上ると、レアーレ門(Porta Reale)に到着する。この先は、ノートの中心部へと続く歩行者エリアとなる。
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200メートルほど進んだ右側に、噴水のある小さな広場に上り階段があり、その先に「アッシジの聖フランチェスコ教会」のファサードがある。1704年から1745年にかけて、ヴァル・ディ・ノートの再建の主要な建築家の2人、ヴィンチェンツォ・シナトラ(1707~1765)とロザリオ・ガリアルディ(1690~1762)の設計により建てられた。
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路地を挟んで向かい側が「サンティシモ・サルヴァトーレ教会」で、奥に隣接して「ベネディクト会修道院(現:神学校)」と続く。教会、修道院ともに1700年代前半にヴィンチェンツォ・シナトラによって設計されたが、彼は完成前に亡くなっている。

引き続き、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを西に歩くと、すぐ左側の通り沿いに「サンタ・キアーラ教会」(Chiesa di Santa Chiara)のファサードがあり、左右の柱の上はそれぞれ鐘楼となっている。そして、その鐘楼の屋上が展望台になっている。

そのサンタ・キアーラ教会の鐘楼の上の展望台には、教会内から上ることができる。内部は12本の円柱で支えられた楕円形のプランで、1758年にロザリオ・ガリアルディにより完成している。展望台からは、向かい側のサンティシモ・サルヴァトーレ教会や、東隣りに建つ「アッシジの聖フランチェスコ教会」、街への入口となる「レアーレ門」などが見渡せる。
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西方向には、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りが続き、バロック様式の壮観な街並みが広がっている。左側のロッジアが取り巻く建物は「ドゥチェツィオ宮殿」(Palazzo Ducezio)(現:ノートの市庁舎)で、17 世紀のフランスの宮殿からインスピレーションを得て、建築家ヴィンチェンツォ・シナトラによって 1746年に設計されたが、完成したのは 1830年で、2階はトラーパニ出身の建築家フランチェスコ・ラ・グラッサ(1876~1952)により20世紀前半に建てられた。
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ドゥチェツィオ宮殿の向かい側の広々とした前階段の先には「ノート大聖堂」が聳えている。18世紀初頭に建設が開始され、1776年に完成している。バロックの3大巨匠、ロザリオ・ガリアルディ、パオロ・ラビシ、ヴィンチェンツォ・シナトラが参加して完成させた、ノートでは最も重要なカトリックの礼拝所で、ミラのニコラオス(聖ニコロ)に捧げられている。内部はラテン十字のレイアウトで、3つの身廊に分かれ、中央の身廊は側面の身廊より大きいのが特徴となっている。中央のドームは1996年の身廊の崩壊により損傷したため、修理が行われ2007年に完成している。
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ファサードは、柔らかな石灰岩を使用し、19世紀初頭に改装されたもの。左右の鐘楼は、ノルマン時代から続くシチリア建築の伝統を受け継いでいる。上部に並ぶ4体の彫像は伝道者を表しており、1796年に彫刻家ジュゼッペ・オルランドによって制作された。細いコリント式の柱に挟まれた中央ポーチにはブロンズ製の扉があり、こちらは、1982年ジュゼッペ・ピローネにより制作されたもので、守護聖人聖コラードの生涯が表現されている。この日は、聖堂内部の祭壇画や天井画に覆いがかけられ修復が行われていた。
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大聖堂は、アラン・ドロン主演の映画「ビッグ・ガン」(伊仏1973年)のラストシーンの舞台となった。引退を決意した組織の殺し屋トニー(アラン・ドロン)は、裏切り者として組織に命を狙われ、身代わりとして彼の妻子が爆殺されてしまう。復讐の鬼となったトニーは、次々と組織幹部を血祭にあげていくが、そんな中、和解を提案してきた組織幹部の娘の結婚式に招待されて大聖堂にやってくる。トニーが結婚式を終え大聖堂の階段を下りていると、突如車で現れた友人の裏切りにより撃たれてしまう。寡黙な一匹狼の殺し屋を演じるアラン・ドロンの哀愁漂う姿が印象的な作品だった。

ノート大聖堂の向かいにある「ドゥチェツィオ宮殿(現:庁舎)」は、高さ2メートルほどの基壇上に建っている。ファサードは半円状に突出した形状を持ち、入口へは曲線の階段を上っていく。1階部分は、正面と左右側面までをイオニア式柱で支えられた20のアーチがロッジアを形成している。
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2階は、後年に追加されたもので、長方形の窓に、モダンスタイルな窓上飾りと左右に装飾柱(ピラスター)を配した外観とし、屋上には装飾欄干を備えている。2階部分の装飾欄干はバルコニーとしての役割もある。

1階には、大きな鏡が置かれた楕円形のホールがあり、天井には、画家アントニオ・マッツァが新古典主義で描いた「シチリアの指導者ドゥチェツィオによるノートの建国」のフレスコ画がある。ドゥチェツィオ(紀元前488~紀元前440)は、ギリシャ語で”ドゥークと呼ばれる人”を意味するが、本名はわからない。彼はノート出身で、紀元前460年、民の王に選出され、ギリシャ人入植者に対する最後の先住民の抵抗の象徴ともみなされている。
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ドゥチェツィオ宮殿から西に100メートル行った左側には「テアトロ・コムナーレ・ヴィットーリオ・エマヌエーレ劇場」(Teatro Comunale Vittorio Emanuele)がある。街の再建に伴い、市民からの要望もあり資金が集められ1863年に建設が始まった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869~1947)(サヴォイア朝第3代イタリア国王(在位:1900~1946))に捧げられ、1870年に開館した。2階建てでファサードにはハープ、ヴァイオリン、トランペット、花をモチーフにしたコリント式柱頭が施されている。
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小劇場だが、桟敷席が設けられている。座席数は308席で4列ボックス席と88席の桟敷席がある。劇場内の座席や幕は、高級感を演出する深い赤で覆われ、美しいロココ調の装飾が見られる。開館初演は、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」が大成功を収めている。
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劇場は、未完成のまま落成したため、直ぐに玄関ホール前部と装飾が欠落し、機械も状態が悪く、更にメンテナンス作業も行われす危険な状態にあった。1921年から工事が始まり、内装のほとんどを作り直している。天井には古代ギリシャの竪琴(ライアー)を奏でる女性が描かれているが、こちらも1933年に追加されたもの。その後1990年から再修復が行われ、1997年に再オープンしている。
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劇場の向かいには「サン・ドメニコ教会」(Chiesa di San Domenico)が建っている。サンティッシマ・アンヌンツィアータ(最も聖なるお告げの意味)に捧げられ、バロック時代の最も完璧な業績として評価されている。1703年から1727年にかけ、建築家ロザリオ・ガリアルディによってドミニコ会の神父の修道院教会として建てられた。ファサードは下部がドーリア式、上部がイオニア式のオーダーで、中央部は通りに向け突き出た構造となっている。
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来た道を少し戻り、ノート大聖堂の手前を左折すると、緩やかな上り坂のコラード・ニコラーチ通りになる。この通りは、毎年5月の聖体祭の際にインフィオラータ(花祭り)が行われている。すぐ先左手の建物が、通りの名前になった「ニコラーチ・ヴィッラドラータ館」(Palazzo Nicolaci di Villadorata)になる。
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このニコラーチ・ヴィッラドラータ館は、18世紀バロック様式の巨匠パオロ・ラビシの設計である。バルコニー下はユニークで、かつグロテスクなバロック様式の彫刻で有名である。2本の大きなイオニア式柱に挟まれ、バルコニーが乗った大きなポータルと、ライオン、子供、ケンタウロス、翼のある馬、キメラ、人魚の姿をした、互いに異なる彫刻が施されたコーベルで支えられた6つの小さなバルコニー(両側に3つ)で特徴である。
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元々、ニコラーチ・ヴィッラドラータ館は18世紀隆盛を極めていたノートのジャコモ・ニコラーチ男爵の邸宅で、90の部屋がある。現在1階は市立図書館「プリンチペ・ディ・ヴィッラドータ」になっている。こちらは、翼のある馬で、前足を犬のように突き出したポーズがかわいい。
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こちらは人魚の彫刻である。横から見ると背筋を鍛えているようなユニークなポーズをしている。
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ニコラーチ通りの奥にはバロック様式の「モンテ・ベルジネ教会」が建っている。2つの鐘楼に挟まれた凹面のファサードがあり、ニコラーチ通りに奥行きを感じさせてくれる。モンテ・ヴェルジーヌ修道会のベネディクト会修道女のために建てられた。聖ヒエロニムスに捧げられている。教会の建設はヴィンチェンツォ・シナトラが設計し、1762年に完了している。
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近くにあったバールでカフェ休憩をして、ノートを後にした。次にラグーザ県の県都ラグーサに向かうことにしている。時刻はまもなく午後4時半で、日暮れが近づいてきている。夕陽に照らされ黄金に輝いたノートの街並みが美しく見える。ラグーサまでは60キロメートルほどの道のりだが、最寄りのインターチェンジは高速E45号線のため、ノートから行きやすい。
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ラグーサ(Ragusa)も、1693年の巨大な地震で大きな被害を受け、5,000人もの住民が犠牲となったが、その後、西側の標高500メートルの丘の上に新市街(スペリオーレ地区)が、東側の標高400メートルに旧市街(イブラ地区)が、それぞれ渓谷を挟んで、瓢箪状にバロック様式の街並みが再建されている。

ラグーサまでは、最寄りのインターチェンジから5キロメートルほどの近距離だったが、日が暮れたことで道がわからなくなった。そのため、地元らしき人に途中まで先導してもらい、何とか無事にラグーサ新市街(スペリオーレ地区)にある宿泊ホテルに到着することができた。そして、チェックイン後は、荷物を部屋に置き、下り坂の通りを歩いて、見晴らしの良い展望台までやってきた。
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夕食は前方の明かりが灯る旧市街(イブラ地区)にあるリストランテを予約している。展望台からは、折り返し石階段を下り、スピンカーブの続く車道の陸橋下をくぐりながら更に下りて行く。途中、ライトアップされた聖母マリア像が祀られた石の祠を過ぎると、狭いなだらかな通りになる

最後の下り階段の手前から、多数の道路が交わる交差路(ポンティ峡谷の橋)の先に「プルガトーリオ教会」(Chiesa del Purgatorio)を望むことができる(名称は”煉獄”を意味する)。教会自体は1658年創建で、1693年の大地震に耐え抜いたが、1740年に3つの身廊を持つバジリカで再建され、ファザードは1757年に完成している。こちらの教会から東側の高台の街並みが、ラグーサの旧市街(イブラ地区)となる。
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まもなく午後8時になるが、まだ教会は開いていたので、ファザード前の階段を上って入ることにした。身廊は、太いコリント式の柱頭を持つ10本の石柱で分けられ、後陣は身廊の2段上にあり4本のコリント式の柱で縁取られている。多色大理石で制作された浮彫の主祭壇には、大きな「煉獄の魂(1800年)」の祭壇画が飾られている。パレルモの画家、建築家のフランチェスコ・マンノ(Francesco Manno、1754~1831)によるもので、画面には、死するキリスト、聖母マリア、聖ジョルジョ(ゲオルギウス) 、使徒たち、預言者、その他の聖人たちが描かれている。
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翼廊の後陣には、それぞれ礼拝堂がある。向かって右側となる南翼廊には、聖バルバラを描いた聖餐式礼拝堂があり、対する北翼廊には「聖十字架礼拝堂」がある。荒野が描かれた絵画を背景に、木製浮彫の磔刑像(1769年作)が飾られ、左右に、ねじれた柱を備えた、大変豪華な祭壇額に納められている。更に、ねじれた柱は、左右側面にも設置され、それぞれ内側に、悲しみの聖母(左)、福音記者ヨハネ(右)の浮彫像が祭壇の磔刑像を見守っている。

リストランテへは、まず、プルガトーリオ教会に向かって左側に延びる上りの道路を歩いていく。次に、右側の階段を上り、幅の狭い、いかにも旧市街といった石畳の上り坂を進んで行く。しばらく進むと、前方に青い光でライトアップされた「サン・ジョルジョ大聖堂」のドームが見えてくる。
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ドームを右上に見ながら、大聖堂の北翼廊、身廊沿いを通り過ぎると、視界が広がり、ドゥオーモ広場に到着する。振り向くと階段の上に「サン・ジョルジョ大聖堂」(Duomo di San Giorgio)のファサードが聳えている。こちらは、イブラ地区の守護聖人、聖ジョルジョ(ゲオルギオス)に捧げられた教会で、もともとはゴシック様式で建てられていたが、1693年の地震倒壊を受け、1738年にノート出身のバロック建築家ロザリオ・ガリアルディにより工事が始まり、1775年に完成している。
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ファサードは、鐘楼が組み込まれ、尖塔が球根状などの特徴を持っている。左右上下にある渦巻き状の文様浮彫の先端には、聖ペテロ(左上)と聖パウロ(右上)、聖ジョルジョ(左下)と聖ヤコブ(右下)の彫像が飾られている。凹凸をつけた3層の優美なファサードのデザインは地震に倒れにくいとの判断があったとも言われている。そして、前面の鉄製のフェンスは1890年に取り付けられたもの。

ファサードの前のドゥオーモ広場の先は、ヤシの木が並ぶ広い歩道と、なだらかな下りの直線道の参道が貫いている。歩道沿いには、ホテル、カフェ、ショップなどがある。年末で遅い時間でもあり人通りは少ないが、狭い石畳の通りの旧市街のイメージとは違い、お洒落で開放的な目抜き通りと言った印象がある。
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では、リストランテに向かう。一旦来た道を戻り、サン・ジョルジョ大聖堂の北翼廊を過ぎた右側に、今夜の目的地「リストランテ・ドゥオーモ」 (Ristorante Duomo)がある。こちらは、シェフのチッチョ・スルターノ氏が提供するミシュラン2つ星店になる。入口は、木の開き扉と、隣に小さな灯りに照らされた店名パネルと一枚ものの本日のメニューがあるだけで、場所が少し分かり辛い。

この日はヌーベルキュイジーヌ(nouvelle cuisine)とフランス語で書かれた「テイスティング・コース」10皿を頂くことにした。ワインはペアリングでお願いする。こちらは、リコッタチーズ、キャビア、エビなどを使った、アミューズグール(amuse-gueule)になる。
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アペリティフ(aperitif)として、エンリコ・ガッティ フランチャコルタ ブリュット(Enrico Gatti Franciacorta Brut)から始まる。

アントレ・フロワド(Entrées froides)。
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アントレ・ショード(Entrées chaudes)。
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2番目のワインは、白のシャルドネで、グルフィ ヴァルカンツィリア2011(Gulfi Sicilia Valcanzjria)になる。

オードブル(hors d'oeuvre)として、 イワシとアンチョビのスパゲッティである。こちらはお勧め料理の一つ。
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フレイバー風スープ。
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次はPoisson(ポワソン)で、ナスをクリーム状にし、魚卵に見立て、その上にヒメダイ(赤ボラ)を乗せたもの。こちらもお勧め料理の一つ。
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3番目も白ワインで、アヴィデ リフレッシ・ディ・ソーレ インソリア2008(Riflessi di sole Insolia Vittoria D.O.C.)になる。

少し驚いたが再びスパゲッティが提供された。
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お口直しのトリュフ・アイスクリームになる。ここまでは、サイズが小さいので、軽くいただける。ワインと料理が見事にあっており、ここち良い。
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メインのViande(ヴィアンド)の一皿目は、鴨肉で、様々なソースと合わせていただく。
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4番目のワインは赤ワインで、パオロ・カーリ氏のマネーネ・チェラスオーロ・ディ・ヴィットーリア(MANENE Cerasuolo di Vittoria DOCG)(Paolo Cali)になる。ワインが少なくなると継ぎ足してくれる。

メインのViande(ヴィアンド)の二皿目は子羊になる。このころになると、プレートの量は少ないとはいえ、お腹が一杯になってきた。
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グラニテ(granité)は、洋梨のソルベ。
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ワインの最後は、ディジェスティフ(digestif)(デザートワイン)で、カポファーロ マルヴァジア(Malvasia Capofaro )になる。

デセール(dessert)は、シチリア名物のカンノーロで終了となった。
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シチリアの郷土料理を再構築した新しい料理ということで、品質の良い素材(特に魚介類)とシェフの巧みな料理テクニックが見事に調和しており、全ての料理が重く感じず美味しく頂けた。シェフ始めスタッフもフレンドリーで、大変居心地も良かった。

帰りは、満腹感と一日の疲れも合わさって、とても歩けず、タクシーに乗った。歩いてきた距離とは異なり、一方通行が多いことや、谷越えのヘヤピンカーブなどを走行したことから、かなりの距離を感じたが、無事ホテルに到着し一日を終えた。
(2012.12.26)
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シチリア(その2)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
古代ローマの別荘「カザーレ荘」(ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ、Villa Romana del Casale)にやってきた。こちらは、敷地内の南エリアに建つ直径25メートルほどの楕円形の中庭「クスュストス」(見取り図33)(以下、カザーレ荘の見取り図を参照)で、「アトリウム大食堂」(見取り図36)前から北西方向に広がっている。クスュストスとは、競技選手が訓練するスポーツ施設(ギュムナシオン)に天井が付いたもので、主に冬や雨のときに使用された施設とされる。
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カザーレ荘は、エンナから約30キロメートル南の、エンナに次ぐ中堅都市ピアッツァ・アルメリーナから南西方向に6キロメートル離れた山間部にある。この地は、古代ローマ時代、幹線道路が通る農産物の出荷地点であったことから、数本の円柱が発見された19世紀には、農園経営者の邸宅と思われていた。しかし、その後、発掘作業が進められ、1950年代には3500平方メートルに及ぶ膨大な敷地であることが明らかになった。

建材には、様々な地域から運ばれた多くの大理石が使用されており、40室ほどある部屋には、古代ローマ最大規模の精巧で表現力豊かなモザイク床が残されていた。遺跡群は、現在ではローマ皇帝マクシミアヌス帝(在位:285~305)と、その家族のための別荘だったとされ、1997年にユネスコの世界遺産に登録されている。

カザーレ荘の駐車場は300メートルほど北側にあり、そこからは歩きになる。見学ルートは、プレフルニア(かまど)(見取り図6)前から、カルダリウム(高温浴室)(見取り図7)、テピダリウム(微温浴室)(見取り図8)、フリギダリウム(水風呂)(見取り図10)を過ぎ、アトリウムのある小建物(見取り図4)に入っていく。こちらはそのアトリウム内の二つ目の小部屋「浴場への玄関」(見取り図5)から北側に続く「体育室」(見取り図15)を眺めた様子である。
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「体育室」(見取り図15)の床には初代皇帝アウグストゥス(前63~14)によりエジプトからもたらされたオベリスクを中心とする大競技場「チルコ・マッシモ」を背景に、4頭の馬に引かせた戦車(クアドリガ)のモザイク画が残されている。ちなみに、357年にコンスタンティウス2世(317~361)が、2本目のオベリスクをチルコ・マッシモに建てたことから、こちらのモザイク床はそれ以前の制作と判断されている。

次に、再びフリギダリウム(水風呂)(見取り図10)前に戻り、南側の馬蹄形の中庭「ポリゴンコート」(見取り図2)の遺構を横断し、アトリウムの建物「玄関」(見取り図11)に入る。玄関には、燭台を持って客を迎える主人のモザイク画が残されている

玄関の先には東西を長辺とする長方形の「ペリステュリウム」(ペリスタイル)(見取り図13)が中庭を取り囲んでおり、モザイクが回廊に施されている。見学通路は、そのモザイクを見下ろす様に設置され北側に続いている。モザイクは、網目模様の正方形の枠内に、リース状の円に覆われた愛らしい動物の顔が表現されている。
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「ペリステュリウム」(ペリスタイル)(見取り図13)を見学しながら北側に進むと、外の浴場に通じる「控室」(見取り図16)に到着する。こちらの床には5人の人物のモザイク画が残されている。このモザイク画の発見が、カザーレ荘がマクシミアヌス帝の邸宅とされた根拠の一つと言われている。
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マクシミアヌス帝は、ディオクレティアヌス帝(在位:284~305)の同僚だったが、当時、軍人皇帝時代と称された混乱と反乱が渦巻くローマ帝国において、単独で統治と防衛を行うのは困難との判断から共同皇帝として推挙された。2頭体制になった帝国は、ディオクレティアヌス帝がニコメディアを拠点に東方を治め、マクシミアヌス帝が、帝国の西方を担当することになり、それぞれの皇帝が、副帝を任命して、四分割統治(テトラルキア)時代となるのである。

中央の女主人と思われる人物が左右に子供と召使を従えて 浴場に向かう様子が描かれている。女主人は、ローマ皇帝マクシミアヌス帝の妃エウトロピアで、向かって右の少年がマクセンティウス、左の少女がファウスタとされている。マクセンティウスは、生まれながら斜視でこのモザイクにもそのように描かれているというがよくわからない。
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続いて「回廊ペリステュリウム」の北側にある「控室」(見取り図18)や、「幾何学模様の間」(見取り図21)などを見学していく。そして、「四季の間」(見取り図23)の北隣には、「魚釣りをするキューピット間」(見取り図24)がある。キューピットが漁師に扮して、2隻の船でひき綱を引っ張ったり、釣り竿を使った一本釣り、イルカと協力して漁をするなどの様子がユーモラスに表現されている。大小様々な種類の魚が表現されており、見ていて飽きない。
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「四季の間」(見取り図23)の東隣には、「狩猟の小集会場」(見取り図25)がある。収穫した肉を大きなフライパンで調理し、ワインを片手に、歓談する男たちを中心に、周囲には、当時の狩猟の様子が生き生きと表現されている。左下は、猪狩りの様子で、傷つき倒れた仲間を助け、槍で戦う人の姿がある。右下は、馬に乗り網で誘い込む鹿狩りの様子が見て取れる。
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上部中央には、狩りの際に安全を祈願した「狩りの女神ディアナ」の像が、円柱台の上に弓矢を持った姿で表現されている。そして、その手前には、コンロで肉を焼いている場面があるが、その肉から煙が立ち上っており、モザイク画の繊細なテクニックに関心させられる。
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通路は「狩猟の小集会場」(見取り図25)の北側を回り込むように進んで行く。その北側の通路からは、南側となる真下の「狩猟の小集会場」(見取り図25)の先に、円柱で支えられた回廊「ペリステュリウム」があり、更に、噴水や水盤の跡が残された中庭を一望できる。
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中庭の北側にあるいくつかの部屋のモザイク床を見学した後は、回廊ペリステュリウムの東側を南北に伸びる「大狩猟の廊下」(見取り図28)の見学となり、東回廊の円柱沿いに設けられた高架通路を南に向け通路を歩いていく。その廊下のモザイクは、港に停泊する2隻のガレー船を中心に、首都ローマに運び込むため、様々な珍しい動物等を捕獲・運搬する様子が2段構成で60メートルにわたり展開されている。
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こちらは、2隻のガレー船のうち左側(北側)の船には、捕獲されたダチョウとクジャクを1頭づつ抱きかかえ橋桁から運び込んでいる。
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ダチョウとクジャクの先には、2人に抱えられた長い角のあるカモシカを、甲板に立つ船員がロープを引き、隣の船員が檻に誘導している。舷には幾何学文様が装飾され、櫂が多く備えられている。ガレー船の周囲には、波立つ海に多くの魚が泳ぐ姿が見られる。
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南隣のある、もう一隻のガレー船には、象を積み込もうと鎖紐を引く乗組員の姿が表現されている。
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その象の南隣には、大型のサイに巻き付けたロープを引く3人の兵士と船に誘導する2人の兵士が表現されている。
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「大狩猟の廊下」(見取り図28)の三分の二ほどのところから、見学路は、回廊に沿って右に曲がり、直ぐに左に曲がる。幾何学文様のモザイク床の間があり、その先には「ビキニの少女の部屋」(見取り図30)がある。モザイク床は、2段構成でビキニ女性が様々な競技をしている。上段の左端は破損して足首から下だけが残っている。次に、ウエイトリフティング、円盤投げ、ランニングをする女性へと続いている。下段には球技をする女性、シュロの小枝と月桂樹を被る女性と続いている。
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下段の左端には、女神に扮する主催者の女性が、優勝者にシュロの小枝と月桂樹の冠を渡そうとしている。
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見学通路は左に曲がり「大狩猟の廊下」(見取り図28)を見下ろす場所に戻る。先ほどのサイを捕獲するモザイク床の南隣には、盾を持つ兵士を従えトガを纏い帽子を被る人物がいるが、こちらがローマ皇帝マクシミアヌス帝と言われている。身なりがベネチアにある四分割統治像に似ていることに起因しているとのこと。その皇帝が見守る先には、捕獲用の檻を乗せた牛車を引く兵士や、盾を持ち、ヒョウと格闘する兵士、長い角のあるカモシカを襲うヒョウなどの姿がある。
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次に、建物の外に出て、「アトリウム大食堂(冬の食堂)」(見取り図36)に向かう。アトリウム大食堂内は、南北東の三方に後陣があり、それぞれが食事の間として機能していた。見学通路は、建物の周囲に張り巡らされている。ちなみに大食堂の玄関前が、トップの画像で紹介した楕円形の中庭(クスュストス)(見取り図33)になる。
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三方に後陣のうち、東側の後陣の床には、オリュンポスの神々とのあいだで行われたギガントマキア対戦が描かれている。中央のヘラクレスが、まわりの巨人族ギガースを滅ぼす様子が描かれている。マクシミアヌス帝は、自分自身をヘラクレスの化身と意識していたと言う。
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最後に、バジリカ(見取り図43)の北側となる北東エリアを見学する。「フルーツの小部屋(見取り図45)」には、幾何学模様を背景に円があり中に様々な果実が表現されている。ブドウ、イチジク、スイカ、ザクロなどで、手作業のモザイク画とは思えないほど精密に表現されている。
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フルーツの小部屋の東隣は「オデュッセウスとポリュフェモス」(見取り図44)で、ホメーロスの叙事詩オデュッセイアー第9書から、洞窟に閉じ込められたオデュッセウスたちが巨人ポリュフェモスに酒を飲ませて酔い潰そうとする場面が表現されている。
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北隣に「愛の寝室」(見取り図46)がある。幾何学模様を背景に、メダイヨンに模られた中に愛し合う男女が表現され、周囲には、肖像画の様に女性の顔が取り囲んでいる。こちらも、モザイクと思えないほど、規則正しく配置され、色による陰影も見事である。
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あまりのモザイクの多さと素晴らしさに感服してしまった。1時間半ほどいただろうか。ランチ時間もなくなり、入口のショップで、ピザをテイクアウトして、急ぎ次の目的地、カルタジローネ(Caltagirone)に向かった。カルタジローネはカターニア県にある基礎自治体(コムーネ)で、ピアッツァ・アルメリーナから南東に30キロメートルに位置し、エレイ山脈の一つ、標高608メートルの丘の上に広がっている。カルタジローネとはアラビア語で、”花瓶の丘”を意味する。
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カルタジローネは、9世紀、アラブ人が砦を築いたことに始まり、中世前半には城や教会を中心に発展してきた。現在のカルタジローネのバロック様式の街並みは、1693年のシチリア地震で壊滅的な打撃を受けた後に再建されたもので、シチリア島の東南部にある8つ(ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、カターニア、モディカ、ノート、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーザ、シクリ)の街並みと共に、2002年に「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として、世界遺産に登録されている。

サン・ジュリアーノ大聖堂が建つウンベルト1世広場の北隣には、ムニチピオ広場(市庁舎広場)があり、南側にセナトリオ宮殿(Palazzo Senatorio)(15世紀)(現カフェ)、東側に市庁舎(19世紀後半)が広場に面して建っている。その市庁舎前から、北側を望むと、スカーラ(大階段)が続いている。
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こちらのスカーラは、「サンタ・マリア・デル・モンテの階段」と名付けられている。1606年に、頂上の街へのアクセスを容易にするために建設されたのが始まりである。130メートル(430フィート)を超える階段は、バルコニーの建物に挟まれており、今日では街のランドマークとなっている。最初の階段は途中に休憩所があり、合計150段の階段があったが、1844年に休憩所を廃止し、傾斜を低くして142段に改修されている。
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そして、1956年、マイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社のアントニーノ・ラゴナ(Antonino Ragona、1916~2011)により、階段の踏み板と踏み板との間の蹴込み部分に、手描きのマジョリカ・タイルが施され現在に至っている。蹴込みのマジョリカ・タイルは、下から上へ、段階的に、アラブ時代のシチリアのマジョリカの起源から、ノルマン、シュヴァーベン、ヴァロワ・アンジュー、アラゴン、キアラモンテ、スペイン、ルネサンス、バロック、18 世紀、19 世紀、現代スタイルと、時代の変遷を比喩的、花柄、幾何学的なデザインで表現されている。
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カルタジロネージのマジョリカ・タイルは、827年にシチリア島を征服したアッバース朝支配下のアグラブ朝時代に、マジョリカ焼きの製法が導入されたことから盛んに制作された。マジョリカ・タイルの制作が、最も繁栄を極めたのは、12世紀から13世紀にかけて繁栄した、ノルマン朝(オートヴィル朝)とシュヴァーベン大公(ホーエンシュタウフェン朝)時代である。


しかし、19世紀初頭、カルタジローネ陶磁器の伝統は、近代化の波に乗れず、危機に瀕していたが、カルタジローネの貴族で、司祭、政治家ルイジ・ストゥルツォが、1918年に「王立陶芸専門学校」を設立して産業の復興に取り組み、その流れを組むマイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社により、カルタジローネの伝統が引き継がれている。


カルタジローネのマジョリカ・タイルの特徴は、主に、青、緑、黄色を中心とした色合いとされる。


階段沿いにはマジョリカ・タイル工房・店舗があり、大小多くの陶磁器を売っている。こちらの店舗には、マスク型のサボテンの鉢植えや、巨大なフクロウの花瓶、宗教、歴史をテーマとした人物など立体像の彩色テラコッタが並んでいる。


こちらの壁面には、メドゥーサ、太陽の神ヘーリオス、北風の神ボレアース、聖母子などのメダリオンのマジョリカ・タイルが飾られている。


直線階段を上り切ると広場があり、その先にはマジョリカ・タイルを組み合わせて表現された歴史画が飾られている。「アルタヴィッラの鐘(campana d'Altavilla)の伝道」と名付けられたマイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社の制作で、1076年頃、シチリア島を支配していたイスラム勢力を次々と打ち破ってきたノルマン騎士のルッジェーロ・ロベルト兄弟が、カルタジローネ近郊のユディカの要塞にいたサラセン人との戦いのエピソードで、勝利を象徴するトロフィーとしてアルタヴィッラの鐘が運ばれる様子が表現されている。
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そして、右側に建つのが「サンタ・マリア・デル・モンテ教会」(Santa Maria del Monte)のファサードである。この場所はもともとカルタジローネの街の最も古い場所の一つで、街を代表する教会として、これまで多くの再建と改修を受けてきた(現:17世紀初頭)。しかし、現在では、階段下のウンベルト1世広場に建つサン・ジュリアーノ大聖堂が主要な教会として機能している。
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上ってきた階段方向を見下ろすと、見晴らしの良いパノラマが広がっている。この時間、既に午後3時半を過ぎており、日の入りも早いことから、あまりゆっくりはしていられない。次にシラクサ(シラクーザ)に向かうこととしている。
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カルタジローネの南側から環状道路を通って、北東方面に向かうと、階段状に折り重なる街の様相を正面に捉えることができる。右上には、サンタ・マリア・デル・モンテ教会の大きな鐘楼とドームが望め、左側に、スカーラ(大階段)頂部の広場前から眺めたファサードも確認できる。
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シラクサ(シラクーザ)は、シチリア島の南東部、シラクーザ県の東部に位置するコムーネでイオニア海に面した周辺地域を含め約12万人の人口を有する基礎自治体(コムーネ)である。カルタジローネからは、100キロ強の距離で、SS417号線で東に向かい、シチリアの東海岸を南北に走る「E45号線」(アウトストラーダ)で南下する。

シラクサに到着したのは、午後7時を過ぎたころ。宿泊ホテルは、シラクサ中心部の南側から狭い海峡を渡ったオルティージャ島にある。チェックインを終えて、200メートルほど歩いてトラットリア「シチリア・イン・ターヴォラ」(Sicilia in Tavola)にやってきた。


こちらのトラットリアは、多くのお店が立ち並ぶオルティージャ島の旧市街の中心部、カヴール通り(Via Cavour)沿いにあり、新鮮な魚介類を使った美味しいパスタなどが良心的な値段で頂けると評判のスパゲッテリアである。人気店でありながらテーブル席は少なく、すぐに満席になることから、予約は必須である。
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飲み物は、ドンナフガータ アンシリア (Donnafugata Anthilia)を注文した。フレッシュで奥ゆき深く、白桃のほのかな香りを持ち合わせたキリッとした白ワインで、ミネラル感も心地よいのが特徴。ドンナフガータとは、シチリアの名門ワイナリーの名前で、”逃げた女性”を意味する。そしてアンシリアとは、シチリアにあった古代都市名に因んでいる。


こちらは魚介の盛り合わせ。中でもムール貝が美味しく、冷えた白ワインとの相性も大変良い。


メニューにはパスタやスパゲッティを中心に30種類ほどが書かれている。ちなみに、メニューには書かれていないが、メインを食べたい場合は、スタッフに申し出れば対応してくれるとのこと。しかし、前菜とプリモで十分なので、スカンピ海老のラビオリ(Ravioli agli scampi)と、アサリと小エビのスパゲッティ(Spaghetti V-G-P)を頼んだ。自家製の生パスタとのことでコシがあり大変美味しい。


食後は、カヴール通りを南に歩き、途中にあったジェラート屋でアイスを買って、「ドゥオーモ広場」までやってきた。リストランテからは100メートルほど南に下ると、視界が広がり到着する。こちらは歩いてきたカヴール通り方面を振り返った様子。向かって右側に建つ豪華な建物は「ヴェルメキシオ宮殿」(Palazzo Vermexio)で、1629年から1633年にかけて建てられたバロック様式の元老院で、宮殿名称は設計者に因んでいる。現在はシラクサ市庁舎として使用されている。
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そして、左側の建物は「ベネヴェンターノ・デル・ボスコ宮殿」で、もともとは15世紀に貴族アレッツォ家によって建てられ、市の法的および行政機関が置かれていたが、1693年に地震により倒壊したことから、1779年に貴族ベネヴェンターノ家によりバロック様式で再建された。両シチリア王フェルディナンド1世 (1751~1825)や、アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍の提督ホレーショ・ネルソン(1758~1805)が滞在したことで知られている。現在も、シラクサでは最も優雅な宮殿として名高い。

そして、市庁舎の南隣で、ドゥオーモ広場の中心に「シラクサ(シラクーザ)大聖堂」が聳えている。ここは、紀元前5世紀に建設されたアテナ神殿があった場所で、現在の聖堂にも、当時の部材を多く使用している。現在のファサードは1753年に完成したが、20年の工事中断期間があったことから、後期バロック様式と、ロココ様式の2つの装飾様式が混在している。
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広場の南側にはシラクサのルチアに捧げられた「聖ルチア教会」(Chiesa di S. Lucia alla Badia)が建っている。現在の姿は、1693年の大地震の直後に建てられたもので、ファサードには、バロック様式とロココ様式が取り入れられている。中央入口のペディメントには、ルチアの殉教のシンボル(短剣)を表わした紋章が施され、両側にねじれた柱を配し、左右にスペイン王室の紋章が飾られている。上部には錬鉄の繊細な装飾手摺を備えたバルコニーがある。教会内には、バロック美術の礎を築いたカラヴァッジョ(1571~1610)の絵画「聖ルチアの埋葬」が飾られている。
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(2012.12.25)
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シチリア(その1)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
イタリア・シチリア島のパレルモ国際空港(ファルコーネ ボルセリーノ空港)から、ティレニア海に面した高速E90号線を、東に100キロメートルほど行ったパレルモ県チェファル(Cefalu)にやってきた。ここは、古代ギリシャ人の植民都市に起源を持つ港湾都市で、シチリアを代表するリゾート地の1つでもある。背後には、ロッカ ディ チェファル(チェファル要塞)と呼ばれる標高268メートルの岩山が聳えている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

旧市街には、左右に2つの鐘楼を持つ「チェファル大聖堂」が建ち、その前庭となるドゥオーモ広場には、南国の雰囲気を感じさせるヤシの木が植えられている。こちらの聖堂は、1131年、シチリア王ルッジェーロ2世(1095~1154)により建設(1267年に正式に奉献)されたもので、彼はイスラム勢力下にあったシチリアを征服したノルマン騎士のロベルト・イル・グイスカルド(1015~1085)の弟ルッジェーロ1世(1031~1101)の息子で、シチリア伯を経た後、1130年に初代のシチリア王となっている。


ルッジェーロ2世がチェファルに聖堂を建設するきっかけとなったのは、遠征地アマルフィからの帰還途中、嵐に遭遇した際、助かったら漂着地に神の聖堂を献じると誓ったことによる。彼は九死に一生を得たが、その後の彼の治世は、強大化を快く思わない諸侯や神聖ローマ皇帝との抗争、更には教皇と対立教皇からの指示による分裂抗争などに明け暮れる日々だった。

聖堂は、アラブ様式とビザンティン様式に加え、ノルマン建築の影響を受けたアラブ・ノルマン様式で建てられている。正面には、4つの柱と3つのクロス ヴォールトで支えられた15世紀制作の柱廊玄関(ポルチコ)があり、ファサード上部には、アラブ風のデザインによる繊細なアーチ装飾等が施されている。そして鐘楼には、二重及び単一のランセット窓が設けられているが、上部の尖塔の胸壁やピラミッド部分などは、左右で異なった形状をしており興味深い。
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時刻は午後3時半を過ぎたところ。この時間、聖堂の外壁には眩しい西日が当たり、積み重ねられた一つ一つの石材や、繊細に施された小さな装飾まではっきりと確認することができる。

今日はパレルモ国際空港を午後1時半に出発し、チェファルには、午後3時前に到着し、砂浜のビーチ近くの駐車場から旧市街を散策しながらここまでやってきた。12月は午後5時前には日の入りを迎えることから、聖堂内の見学は後ほどとし、先に、聖堂の後方に聳えるチェファル要塞の展望台へ向かうことにする。
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聖堂に向かって右側に延びる通りを進んだ先の住宅の裏から、折り返しが続く険しい石階段を上っていくと、岩肌には雑草やサボテンが茂っている。振り返ると真っ青な空と眩い光に照らされたティレニア海が見えてくる。


登山開始後、10数分で、左側への”砦の展望台”と、右側への”山頂”への三叉路となる。山頂までは時間がないので悩むことなく展望台方面に向かった。三叉路を過ぎた後は、平坦な道となり、周囲に城塞の跡が現れ始めた。


城塞跡は、13~15世紀に建てられたものを中心に広範囲に広がっている。そんな中、古いものでは紀元前9世紀頃のディアナ神殿(Tempio di Dian)(おそらく異教の神々の崇拝を目的としていた)の遺構も残されている。
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中世の城塞跡を通り過ぎると、左側に視界が開け、高さ数メートルの金属製の”十字架のある砦の展望台”が現れる(夜はライトアップされる)。展望台はやや前方に張り出した石畳の小広場で、その先には美しいティレニア海が広がっている。
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十字架のある砦の展望台の左右には胸壁が続いており、内側を歩くことができる。その胸壁沿いを北に100メートルほど歩くと、もう一つの”展望エリア”に到着する。こちらは十字架のオブジェ等は設置されていないが、展望台と同じ小広場で、股下ほどの低い石垣で囲まれ、その先は、断崖絶壁となっている。足をすくわれそうで危険なため、跪いて恐る恐る覗き込む。
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身を乗り出し、左側を見渡すと、先ほどまでいた大聖堂とその先の旧市街全体が見渡せる。聖堂はまるでミニュチュアの様で、3つの身廊に分かれたラテン十字形に、翼廊が身廊よりも高い垂直様式(イングランドに見られる)を採用するなどの外観構造が手に取る様に分かる。そして身廊と翼廊の北隣には回廊が併設され、更にその回廊の先隣りには、もう一つの新しい屋根の回廊が見える。こちらは教区教会で、ドゥオーモ広場に面している。
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大聖堂の先に広がるチェファル旧市街には、日の入り時間が近づき、差し込む夕日(やや南側)で照らされている。砂浜が広がるチェファル湾からパレルモ方面に続く海岸線は逆光で確認できないが、パレルモ北側にあるモンテペレグリーノ(Monte Pellegrino)(標高550メートル)の稜線をうっすらと望むことができる。ちなみに、こちらチェファル要塞の北側は岩礁地で、東側(プレシディアナ地区)には、チェファル港がある。
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再び、胸壁に沿って十字架のある砦の展望台まで戻ると、羊が石垣の上を歩いており、その石垣の南側に続く胸壁と崖との間の狭い場所には、数頭の羊が雑草を食んでいた。落下の危険性があるにも関わらず、牧草地の羊と変わらない行動に驚かされた。
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大聖堂に戻って来ると、日の入り間近となり、周辺が赤く染まっている。遅くなったが聖堂に入ることにする。ドゥオーモ広場から3メートルほどの高さの階段を上り、司教座像の立つ鉄格子の扉を入ると、レンガ舗装の石畳がファサード正面の扉口まで続いている。
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大聖堂内の見どころは、コンスタンティノープルから呼び寄せられた巨匠たちの手によるモザイク装飾である。概ね1145年から制作が開始され、1154年から1166年の間に完成したとされている。ビザンチン様式の金地モザイクで装飾されており、ヴォールト部分には、熾天使セラフィム、智天使ケルビムを配し、アプス部分には巨大な「万能の神キリスト」が表現されている。
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キリストの左手には、ラテン語とギリシア語で「我はこの世の光なり、我に従う者は闇の中を歩くことなく、生の光を持つであろう。」と書かれている。そして、キリストの下には、王室の座布団に立ち、両手を上げ祈りを捧げる聖母マリアと4人の大天使(ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル)が取り囲んでいる。
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更にその下段には、窓の側面に、聖ペテロと聖パウロ、そして福音書記者のマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネが配され、最下層には、フィリポ、ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)、アンデレ、熱心党のシモン、バルトロマイ、トマスの使徒が表現されている。それぞれの使徒の傍らには、名前の碑文がラテン語とギリシャ語で書かれているため、人物を特定することができる。すでに外は薄暗く、聖堂内の光は、ライトだけとなっているが、金地のモザイクは眩いばかりに輝いている。
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ルッジェーロ2世は、死後この大聖堂に葬られることを願って、自らの斑岩の棺をつくり、建設を続けていたが、聖堂の完成を見る前に亡くなってしまう。ただし後陣の金地モザイクが完成していたことは、救いだったかもしれない。最終的に、彼の亡骸は別の石棺に収められ、パレルモのカテドラルに葬られている。

ドゥオーモ広場には、土産物ショップ、カフェ、リストランテなどの店舗が並び、前面のテラス席では、既に飲んでいる姿も見られた。
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ドゥオーモ広場の先の路地を進むと、チェファル出身の政治家、マンドラリスカ男爵(1809~1864)のコレクションを展示する「マンドラリスカ博物館」(Museo Mandralisca)がある。こちらは、その男爵家のオリーブ オイル倉庫のコンテナ跡で、この日は、手前に、降誕祭の華やかな飾り付けがされていた。


更に路地を進むと丁字路となり、左折すると南北に延びるヴィットリオ・エマヌエーレ通り(Via Vittorio Emanuele)になる。通り右側には地下に降りる階段があり、下にはチェファリーノ川から取り込んだ綺麗な水を利用した「中世時代の洗濯場」(Lavatoio Medievale)が残っている。最近まで、地元の人に利用されていたとのこと。


ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを更に南に進むと、視界が広がりビーチのある海岸に到着する。この時間、既に日没は過ぎたが、わずかに夕焼けの名残を見ることができた。


次に、今夜の宿泊場所となる、シチリア島中部にあるエンナ(Enna)に向かった。チェファルからは約90キロメートルの距離になる。高速E90号線で、パレルモ方面に15キロメートルほど戻り、A19号線に乗り換えて、一路南に向かう。

エンナは、東西2キロメートル、南北1.5キロメートルほどの高地にある逆三角形の形状を持つ城塞都市で、A19号線のエンナ出口からは、一般道を東に向かい、街の南側に大きく回り込んで、ペルグーサ通りを北上して向かう。この時間、既に午後8時半を過ぎていたが、市内に向かうペルグーサ通りは、クリスマスイブで帰宅しようとする車でかなり混雑していた。今夜の宿泊ホテル(Bed & Breakfast Proserpina)は、ペルグーサ通りと、市内を東西に延びるローマ通り(エンナの目抜き通り)との交差点の北隣の路地(サンタガーサ通り)を右に入った場所にある。

ホテルに到着した後、夕食のためホテル東側のサン・フランチェスコ教会があるヴィットーリオ・エマヌエーレ広場に向かったが、周辺の店舗はほとんど休業していた。しかたがないので、広場の先まで足を延ばすと、やや暗い通りの右側に「Ristorante La Fontana」(フォンタナ)の看板があり、ガラス扉からは、仄かに明るい店内が見えたので、入ることにした。
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店内は淡いピンク色とクリーム色を基調に、アール・ヌーヴォーの絵画や調度品が飾られている。10組ほどが座れるテーブル席に加え、アーチで区切られた先にも、バー・カウンターとテーブル席が並んでおり、店内はかなり広い印象。。この時間、店内には、他に客は誰もおらず、既に営業を終えているのかと思ったが、現れたスタッフは笑顔で席に案内してくれた。
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どんな料理が提供されるのか、多少不安を感じたが、ホテルの周辺では、どこも営業している店舗がないことから選択の余地はない。注文は、飲み物として、シチリア産の赤ワインを頼み、料理は、最初に、前菜の盛り合わせを頼んだ。


次にパスタを頼んだが、アンチョビ特有の香りが食欲をそそる一品だった。


こちらは、トマトとチーズの香りが際立ったラザニア風の一品。料理は、洗練されたものではなく、素朴な家庭料理といった感じで、お腹が減っていたこともあり、普通に美味しくいただけた。


午後10時頃、リストランテを後にした。扉口前の道路向かいに小さな公園がある。その公園中央に「プロセルピナの噴水」があることから、店名のフォンタナは、この噴水から名付けられているのかもしれない。その噴水と左側のパブ(この日は休業)との間には、ライトアップ・ツリーとフラワー・ツリーが飾られているが、周囲の街灯は暗く、人通りもなく真夜中のようである。。ツリーの先は、石造りの手すりがある展望台(マルコーニ・ベルヴェデーレ)になるが、前方は暗闇が広がるだけだった。
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ広場を散策した後、ホテルに戻ってきた。イタリアのクリスマスは日本とは異なり、多くの店舗は休暇となり、中でも地方都市では食事の場所も少ないことから、エンナ到着の際は不安だったが、無事食事をすることができたのは良かった。
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翌日、午前8時半、朝食会場では3組ほどの宿泊客が食事をしていた。ブッフェスタイルで、壁際のテーブルには、食パン、クロワッサン、プロシュート、スクランブルエッグ、ブラッドオレンジジュース等が並んでいる。昨夜、リストランテ(フォンタナ)にいる時はあまり感じなかったが、ホテルで寝ていると、深夜に冷え込み、かなり寒かった。カプチーノを飲みながら朝食を頂くと身体が暖かくなった。。
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食後、ホテルを出て、少し散歩してみる。サンタガーサ通りは狭い西への一方通行で、ホテル先の交差点が、エンナへの麓から延びるペルグーサ通りになる。ホテルから東に50メートルほどのヴィットーリオ・エマヌエーレ広場に建つサン・フランチェスコ教会を見学した後、リストランテ(フォンタナ)向かい側にある公園まで散策してみた。昨夜何も見えなかった展望台の先は、目線より下に雲海が流れる絶景が広がっていた。エンナが標高931メートルに位置する天空都市であることを実感できる。
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エンナの街並みは、右(東側)方向に続き、旗がたなびく2連アーチがある塔「エンナ県庁舎」付近が街の中心になる。その先には「ロンバルディア城(castello di Lombardia)」 があり、更に外れに「ロッカ ディ ケレス(Rocca di Cerere)」の遺跡を望むことができる。そして遠くには、雪を頂くヨーロッパ最大の活火山「エトナ山(Etna)」(標高3,326メートル)が聳えている。

再びホテルに戻り、チェックアウトして、石畳のローマ通りを東に向かう(東への一方通行)。途中、エンナ県庁舎前の広場を過ぎ、ホテルから500メートルで、左側に「大聖堂」が現れる。

大聖堂は、アラゴン時代の1307年に、シチリア王フェデリーコ2世(在位:1296~1337)の王妃エレオノーラ・ダンジョ(1289~1341)の要請で、長男ピエトロ(1304~1342)の誕生を祝って工事が始まった(1311年完了)。1446年には、深刻な火災で焼失後、再建され、スペイン統治時代の16世紀には身廊が大きく改修されている。なお上部の鐘楼は2度の崩壊を経て18世紀に建てられた。
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バシリカを思わせる聖堂内部は、黒い玄武岩の列柱を持つ3つの身廊で構成されており、シチリアで活躍した彫刻家ジャンドメニコ・ガジーニ(Giandomenico Gagini、1503~1560)による浮彫装飾が施されている。そして上部には、”この地域で最も美しい木製の格間天井の一つ”と言われる天井装飾で覆われている。
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後陣には、左右に小祭壇を持つ主祭壇がある。主アプスには、被昇天した聖母が三位一体の神から冠を授けられる「聖母戴冠」の細かい彫刻が施され、手前にはイタリアの画家ピエトロ・ルッツォローネ(Pietro Ruzzolone、15~16世紀)の手による「受難のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)が掲げられている。祭壇中央には、フィリッポ・パラディーニ(Filippo Paladini、1544~1614)による5枚の聖母マリアの祭壇画があるが、この日はカーテンで覆われていた。
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向かって左側の礼拝堂は、シチリア島ではゴシック様式の貴重な例の一つで、漆喰の天井リブには、精緻な浮彫が施されている。そして、右側は聖母礼拝堂で、多色大理石のねじり柱で飾られた「聖母の訪問」の祭壇画がある。こちらの祭壇画は、観音扉で、内扉には「聖母の降誕」が描かれ、内部には守護聖人の像が納められている。

ローマ通りを更に東に500メートル行くと、広い駐車場となり、すぐ先に「ロンバルディア城」の威容が現れる。1130年、チェファル大聖堂を建設したルッジェーロ2世が、古代の要塞の跡地に建築した城の遺構である。名前の由来は、ロンバルディアの駐屯地として、衛兵を配置されていたことによる。

現在の姿は、13世紀に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)が、宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニに指示し改築したもので、当時は20もの塔が建てられていたという。ちなみに、エンナには、フリードリヒ2世の遺構として、宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニにより建てられた八角形の「フリードリヒ2世の塔」がある。昨夜宿泊したホテルからローマ通りを西に700メートル行った場所にある。

エントランス付近にある案内図を確認すると、城の様子が良くわかる。城全体はややいびつな矩形の敷地で、「聖ニコラス広場」、「マッダレーナ広場」、「サン・マルティーノ広場」の3区画で構成されている。エントランスは、駐車場からは近く、城壁の北西角の北壁沿いにある階段を上った先「A」になる。
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入場する前に、城壁(北壁)を見ながら車道を北東方面に歩いてみた。北壁は「ピサの塔10」を過ぎ、北東角の「ゼッカの塔12」まで150メートルほど続いている。ゼッカの塔付近からは、ロッカ ディ ケレスの遺構が一望できる。こちらはローマ神話に登場する豊穣神ケーレス(ケレス)の聖域で、祭壇跡とされる。ケーレスとは、本来、ギリシャ神話におけるオリュンポス十二神の一柱である女神デーメーテール(デメテル)であるとされている。
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共和政ローマ末期の政治家で、弁護士、哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(前106~前43)によると、ローマにはケレスに捧げられた神殿があるが、ローマ人の一部の司祭たちはエンナのケレスの聖域を目指して巡礼に出発したと述懐している。

振り返った城壁の北東角から、東壁を眺めると「東塔14」が建ち、手前に、城内のサン・マルティーノ広場からの出口階段が続いている。
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再び城壁(北壁)に沿って戻り、城壁沿いの階段を上ったエントランス「A」から入場する。そして、西外壁と西内壁との間に設置された手摺付スロープを進み、西内壁のアーチ門をくぐると、城内の聖ニコラス広場に到着する。遺跡保護のため、柵で仕切られた砂地の見学通路があるが、城壁、地下室への入口、濠があるだけで周囲は雑草で覆われているだけだった。右側の塔が「ハーレムの塔8」で、左側の胸壁を持つ高い塔が「ピサの塔10」になる。
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ピサの塔は、6つ現存する塔の中のメインタワーで、ロンバルディア城における主要な見どころの一つになる。名前の由来は、ノルマン人がピサ共和国(11世紀~1406)の同盟国で構成された守備隊に防御を委託したことによる。その後のアラブ人支配の時代は、周囲を飛び交っていた猛禽類から「鷲の塔」と呼ばれていた。

ピサの塔内には階段があり上ることができる。胸壁のある屋上テラスからはパノラマビューが楽しめる。真下のサン・マルティーノ広場の右端が「東塔14」で、左端の狭間窓のある開口部が「ゼッカの塔12」になる。そして、エンナの最東端となるロッカ ディ ケレスと赤い屋根の神話博物館(Museo del mito)の先には、麓から広がる大地や、遠方のエトナ山まで望むことができる。この日は、風が強く、雲が勢いよく流れる美しい景観を堪能できた。
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以上で、エンナを後にする。帰りは、市内に戻らず、ロンバルディア城の南側から続くジグザグ道を通り、麓まで降りてきた。振り返ると、右側のお椀状の山の上にロンバルディア城の姿がはっきりと確認できる。左側のエンナ市内にかけて建物が立ち並んでいるのが見えるが、街の中心部付近には雲がかかっている。このように標高の高いエンナは、雲に隠れることがしばしばあるが、今日は眺めが良い方だったかもしれない。次にエンナ県南にあるピアッツァ アルメリーナに向かう。
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(2012.12.24~25)
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