カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

カンボジア・アンコール遺跡(その2)

2013-06-03 | カンボジア
こちらは10世紀中頃に掘られた「スラ・スラン」と呼ばれる全長700メートル×幅300メートルの貯水池(バライ)で「王の沐浴池」とも称される。アンコール・トムの東側にある東バライの南、バンテアイ・クデイの入口(東側)側にあり、向かい側には、水辺へ降りることができる西テラスがある。テラスの両側には蛇神ナーガの欄干があり、獅子像が二体飾られている。この場所は日の出スポットとしても人気がある。


ツアーでの遺跡訪問は、アンコール遺跡周辺Mapを参照。

アンコール遺跡ツアーの2日目は、午前8時半、スラ・スランの向かい側「バンテアイ・クデイ」の見学からスタートする。南北に延びる街道を横断すると、街道と並行する様に延びる煉瓦造りの外壁があり、中央にバンテアイ・クデイの「外周壁東塔門」が建っている。形状や塔部の四面に人面像(観音菩薩像)が刻まれている点など、アンコール・トムの南大門に良く似ているがやや小ぶりである。ちなみに、少し分かりにくいが塔門の側面にはガルーダ像が刻まれている。
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バンテアイ・クデイは、12世紀にアンコール・トムを建設したジャヤーヴァルマン7世(在位:1181~1220頃)によりバイヨン様式で建てられた中規模の仏教寺院である。外周壁東塔門をくぐると、所々に石畳が残る砂地の直線道が続き、左右は静かな森に囲まれている。所々に藁ぶき屋根の出店があり参拝用の品々や洋服などが売られている。しばらくすると前方に獅子像と蛇神ナーガが飾られた砂岩テラスが現れ、奥に「第三周壁東塔門」が見え始める。

砂岩テラスには、低い階段が中央と左右にあり、それぞれ獅子像が護り、その後ろに蛇神ナーガ像の欄干を配している。横から見ると獅子の後ろで鎌首を持ち上げるナーガが勢ぞろいしている様だ。環濠は、周囲320メートル×300メートルの矩形で、左右の森の中に掘られ、脇に第三周壁が続いている(バンテアイ・クデイ・プランを参照)。


2001年には、この蛇神ナーガ像の欄干の手前北側にある北祠堂(基壇と柱が残る)の址から、上智大学アンコール遺跡国際調査団により、頭部と胴部が切断された274体の仏像と千体仏の石柱が発見された。ジャヤーヴァルマン7世の後継者ジャヤーヴァルマン8世による廃仏の址と考えられている。

「第三周壁東塔門」は前後に張り出し門と左右に回廊を持つ十字形で、前方の張り出し門の上部には大勢のアプサラが踊る破風が取り付けられ、左右の回廊壁面には、明り取りの窓とデヴァターのレリーフが刻まれている。
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「第三周壁東塔門」の内部には仏像が数体祀られている。その東塔門を抜けると、中庭になり、ナーガの欄干で飾られた石畳の橋が、正面に柱が並ぶ「ホール・オブ・ダンサーズ」の入口門に続いている。その入口門は崩壊が著しくその先も柱だけが建つ通りが続き、角柱にはアプサラの浮彫が刻まれている。


バンテアイ・クデイは、東西に向けて一直線に建物が並ぶ造りになっており、ホール・オブ・ダンサーズの出口門を出ると、「第二周壁東塔門」が現れ、中央祠堂や堂塔が目前に現れる。第二周壁と第一周壁は隣接して設置され、それぞれの周壁面には、明り取りの正方形の窓や、やや深掘りされたデヴァター像のレリーフと連子窓の浮彫が施されている。第一周壁は田の字型に連結された回廊で、各交点上に合計9基が聳えている。


第一周壁は、天井や堂塔も残っているが、回廊内は狭く圧迫感があり薄暗い。遺跡自体は良く残っているが、近くから見ると、積み上げられた石材がずれている個所が多く、堂塔のいくつかに落下防止テープが巻かれている。また、周壁沿いには崩落した石材が積み上げられており、かなり崩壊が進んでいる印象である。

「第二周壁西塔門」を出て少し離れた南西側(石材が瓦礫上に積まれた場所)から、中央祠堂や堂塔が建ち並ぶ寺院全体を眺めることが出来る。第二周壁手前には、白く片側の根が幹の上部から襞のように広がる不思議な形状をした大きな榕樹(ガジュマル)が空に向かって伸びている。周りに置かれた石材の間を這うように広範囲に根が広がっているのが分かる。
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大きな榕樹は、第二周壁回廊沿いに生息していることから、影響を受けて建物にも大きく歪みが生じている。最初、この光景に違和感を感じたが、しばらく眺めていると、この榕樹が、バンテアイ・クデイにはなくてはならない重要な存在であるような気がしてくるのが誠に不思議である。
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次に「タ・プローム」に向かった。バンテアイ・クデイの外周壁西塔門を出て600メートルほど通りを北上した東門から入場する。東門は、藁ぶき屋根の出店が並ぶ通りの突き当り沿いに柱と壁だけで建っている。その東門を入り森に囲まれた砂地の一本道をしばらく進むと、数本の樹木が伸びる石畳の砂岩テラスの先に「第四周壁東塔門」が現れる。

「タ・プローム」(梵天の古老の意)は、1186年にジャヤーヴァルマン7世が母の菩提を弔うために建てた仏教寺院(後年ヒンドゥ寺院に改宗された)で、東西1キロメートル、南北600メートルほどの敷地に平面型のバイヨン様式で構成されている(タ・プローム・プランを参照)。僧院内には1万人以上が暮らしていたが、現在は深い森で覆われ廃墟と化している。もともと東門が正門だが、現在は観世音菩薩の四面像が残る西門から訪れる観光客も多い。

第四周壁東塔門は、塔門が前後にせり出し左右に短い回廊を持つ十字門で、左右回廊の先から高さ1メートルほどのラテライトの第四周壁が続いている。その第四周壁東塔門に積まれた石材は傾き、北東側回廊は苔むして全体が大きく波打っている。特に屋根部分は、敷地内から伸びる樹木に押されて石材が突出している
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第四周壁東塔門は、通行禁止で、北東側回廊の端の門が入口になっている。傍には幹が裂け空洞が広がる白い老木風の巨木がそそり立っており、避ける様に設置された板張り階段を上って行く。門の横には多くのアプサラが踊る浮彫が施されている。


門をくぐり十字門の内側に回り込むと、エイリアンが触覚を伸ばし建物に寄生するかの様な不気味な光景が広がっている。専門家の中では、巨大な樹木は遺跡を破壊しているのか、それとも遺跡を支えているのかとの議論があるそうだが、確かにこの光景は議論のどちらが正しいか考えさせられる。手前にある踊り場からは、榕樹(ガジュマル)の姿を間近で観察したり記念撮影をすることが出来る。この時間、他に観光客が来なかったのはラッキーだった。
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遺跡内には、見学用の板張り通路が設けられている。通路は一旦第四周壁の東面外側に出て北に向かい、樹海や環濠を回り込む様にして再び第四周壁の北面東側に戻ってくる。通路からは、第四周壁を跨いで天に向かって伸びる樹木の姿を何本も見ることができる。


第四周壁を越え通路の階段を下りた先は、第三周壁東塔門の東面北側回廊前になり、積み重なった石材の前に腰を下ろしアンコール遺跡の絵画(水墨画に彩色する墨彩画)を販売するお兄さんたちがいる。そして第三周壁沿いに放置されたおびただしい数の石材の先(第三周壁北東角)には、半壊した塔門があり門の両脇にデヴァター像のレリーフが見える


板張り通路は、第三周壁にある東面北側回廊に入り、回廊を通って第三周壁内に至る。通路は第三周壁内に重なる様に放置された石材と堂塔を縫う様に続いている。堂塔は、三重の回廊の交点上部に建ち並んでいるが、第三周壁内には単体の堂塔も建っていることから、あちらこちらに堂塔がある印象となり、位置関係がわかりにくい。現在、タ・プロームには、中央祠堂を含め堂塔は全部で39基あるとのこと。
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堂塔は、損壊しているものが多いが、連子窓やデヴァター像などの浮彫や、入口上部の破風には、趺坐し合掌する多くの仏像の浮彫が残されている。また、いくつかの堂塔内部にはリンガが祀られており、板張り通路から出入りできる。

タ・プロームでは、所々で工事が行われているが、これは石材や榕樹の除去作業ではなく、発見された当時の姿を維持・保存するためのものらしい。しかし聖域内では多くの樹木が伸び、既に崩落している堂塔に絡みながら伸びる榕樹もあることから、現状維持の保存作業には大変な苦労があるだろう。
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こちらは、第二周壁の内側から第二周壁回廊の東北角を眺めた様子である。堂塔が回廊上に建っている。回廊壁面には唐草文様の装飾や、塔にかけてデヴァター像など美しい浮彫が施されているが、その右側の回廊の屋根に触覚が絡みつく様に伸びる根毛の様な根に視線が集中してしまう。
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第二周壁の西面南側の内側から伸びる白くなめらかな樹皮を持つ不気味な榕樹(ガジュマル)がタ・プロームを代表する人気の撮影スポットで、この日も多くの観光客が入れ代わり立ち代わり記念撮影して混雑していた。「密林に埋れ忘却された遺跡」と呼ばれるタ・プロームのイメージをこの時間に味わうのは難しいようだ。ここではウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)の画像をお借りした。
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混雑するタ・プロームだが、中央エリアをやや離れた第三周壁の北面西外側は、比較的人通りが少ない。こちらの塔門上部には、多くの仏像の浮彫が施された破風があり、まぐさ石(リンネル)にはカーラと唐草文様が表現されている。榕樹ばかりに目が行きがちだが、この様に繊細な浮彫彫刻も多く見られる。しかしこちらの塔門にも左右と足元に蛇の様に榕樹が伸びてきていることから、近い将来は浸食されるのだろうか。。
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第三周壁の西塔門は、横長の回廊に三塔門を持つ豪華な造りだが、全体に大きな歪みが生じている。手前には蛇神ナーガの参道が続き、西門近くから全体を眺めると、中央祠堂や副祠堂などに加え、榕樹も高く聳えている。敷地内の榕樹は周りの樹木と比べ低い位置に葉がついていないことから、定期的に剪定しているのだろう。
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タ・プロームでは、遺跡本来のイメージを保つ様に、できるだけ観光客が映らないように撮影してみた。

「タ・ケウ」(クリスタルの古老の意)は、10世紀末(975年頃)にジャヤーヴァルマン5世(在位:969~1000頃)により建設が始まったヒンドゥ寺院だが、王の死去により未完成のまま放置された。東西120メートル×南北100メートルの5層基壇(ピラミッド型)で、上部に中央祠堂と四方に副祀堂を持つ美しい姿をしている。こちらは東側から見上げた姿である。


アンコール・トムの北東に位置する「プリヤ・カーン」は、チャンパ王国との激戦が行われた場所で、ジャヤーヴァルマン7世が父王ダーラニンドラヴァルマン2世の菩提を弔うために1191年に建てられた仏教とヒンドゥ教との習合寺院(バイヨン様式)である。東西800メートル×南北700メートルと広い敷地を持ち、東側がメイン入口となるが、見学ルートの便が良いとされる「西塔門」から向かった。しばらくすると、環濠に架かる蛇神ナーガの欄干がある陸橋が見え、その先に「西塔門(三塔が並ぶ)」が現れる。

プリヤ・カーンの最初の見所は、「西塔門」の左右に延びるラテライトの外周壁にあるガルーダ像である。像は、砂岩で造られた2メートルほどの大きさで、外周壁面に立てかけられるように設置されている。ガルーダとは、人々に恐れられる蛇(ナーガ族)を退治したことで知られる聖鳥で、像は蛇神ナーガを踏みつけ尻尾を上空で掴む力強い姿で表現されている。しかしどことなく愛らしいゆるキャラにも見えることから観光客に大変人気がある。
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西塔門から次の第三周壁まではしばらく砂利道を直進する。第三周壁の西塔門から先は、高い柱や高い壁で左右を囲まれた長く細い通路(中央通路)が一直線に延び、途中回廊も複雑に組み合わさりながら続いている。通りには所々にリンガが祀られ、聖域中央部には、ひと際大きな仏塔が祀られている。
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仏塔を過ぎて再び中央通路を直進すると「第二周壁東塔門」から視界の広がる空間に到着する。側壁の辺りには多くの石材が折り重なり放置されているが、他にも多くが崩壊していることから建物の位置関係が分かりにくい。北東方面には横長の大きな建物があることから、次にその方面に向けて、この先の「ホール・オブ・ダンサーズ」を経由していく。
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ここに至る中央通路はこの先「ホール・オブ・ダンサーズ」をも貫いて延びているが、通りは広くなり屋根もないことから非情に明るい。周りには朱色の彩色が残る柱が立ち並び、多くの梁には13人のアプサラが踊る浮彫が施されている。これほどの躍動感のあるアプサラが勢ぞろいするのは他では見られないかも。
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「ホール・オブ・ダンサーズ」の交差路から北側に進むと、ナーガの欄干で縁取られた陸橋があり、その先の中島にギリシャ神殿を思わせる「二層の建物」が建っている。その二層の建物の西隣には階段のある2メートルほどの高さの砂岩の構造物があり、上から眺めることができる。二層の建物は、東西に横長で中央部分が前後に張り出し、1階部分に円柱を用いたアンコール遺跡では珍しい構造をしている。経蔵とも言われるが使用目的は不明である。
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そして最後の見所となるのが「第三周壁東塔門」を出てすぐ南側の副門との間の回廊沿いに生息する榕樹である。近づいて見ると二本の巨木が合体している。一本は幹部分で切断され立往生している様な姿で、もう一本は、回廊を壊し屋根に食い込んだ後、空に向かって枝葉を伸ばしている。
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そのまま、東へ続く砂利道を歩き、外周壁に建つ東塔門までやってきた。西塔門と対となる三塔門で、左右にはガルーダ像も飾られているが、外周壁の倒壊寸前を思わせる傾き具合に驚かされた。そのまま迎えにきた車に乗って対岸のバライにある遺跡に向かう。

ニャック・ポアン(絡み合うヘビの意)は、12世紀の後半、王ジャヤーヴァルマン7世により、プリヤ・カーンの東側のバライの中ほどに、人工の島をつくり建てられた仏教寺院である。島には、1辺70メートルの大きな環濠と外面四方に聖池を配し、その中心に、円形基壇を築きその上に中央祠堂を設置するという特殊な形態を採用している。
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円形基壇には、2匹の蛇神ナーガが巻き付いている。そしてすぐ東側には、観音菩薩の化身神馬バラーハが旅人を救う場面を模した彫像がある。ニャック・ポアンは、ヒマラヤ山脈の神秘の湖アナヴァタプタ(阿那婆達多)の水が万病を治すとされるヒンドゥ教の教えに基づき、医療目的のために設計された。人々は、池で沐浴することで病気が治ると信じられた。

お昼は、旅行会社ご用達の緑の庭が美しいカンボジア料理店にやってきた。


カンボジア国内で最もポピュラーな「アンコール」ビールと、バイチャー(カンボジアのチャーハン)を食べ、その後、昨日同様にマッサージ店で過ごした。


午後からは、車で北に1時間ほど離れた「バンテアイ・スレイ」の見学に向かうが、途中、大粒の雨が降ってきたため、駐車場で小ぶりになるのを待ってからサンダルに履き替え向かった。最初に、赤土の土手道を西に歩き、唐草文様の装飾が施された破風のある東塔門をくぐって更に石畳の参道を進むと、左右に角柱のみが建つ「第三周壁塔門」が現れる(バンテアイ・スレイ・プランを参照)。

「第三周壁塔門」の左右南北から延びるラテライトの周壁越しにバンテアイ・スレイの全貌が見える。前方の「第二周壁塔門」から先が聖域中央部になる。寺院自体は小さいが、赤い砂岩の風合いと均整のとれた建物群が美しさを引き立てている。
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バンテアイ・スレイは、アンコール・ワットの建造より、約140年ほど遡る967年、クメール王朝ラージェンドラヴァルマン王(在位:944~969)の下で着工式が行われ、息子のジャヤーヴァルマン5世の代に完成した。バンテアイは砦、スレイは女で「女の砦」を意味する。

ところで、クメール王朝(アンコール王朝)美術の完成度が最高潮に達するのは、10世紀後半のラージェンドラヴァルマン王時代とされている。中でも、バンテアイ・スレイは、北東方面に大きく離れた遠隔地にあるものの、建物全体に施された精巧で美しい深掘り装飾が、観光客に大変人気があり「アンコール美術の至宝」と賞賛されている。


その第三周壁塔門から参道を進んだ先の「第二周壁塔門」の頭上を飾る破風部分には、三頭の象上に鎮座するヴィシュヌ神が刻まれ、その下からマハーカーラが両手に掴む渦巻き状の唐草文様の世界が広がっている。
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塔門の両側には、内側から上部リンネルを支える灰色砂岩に浮彫装飾を施した小脇柱、次に、破風のある屋根を支える赤色砂岩に深掘りされたカーラと唐草文様の浮彫石柱、最後に周壁に続くラテライトの外壁から構成されている。
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「第二周壁塔門」は、二重門になっており、次のラクシュミー神(左右の象から祝福を受ける)の浮彫がある破風(リンネルと一体化している)の下をくぐると「第一周壁塔門」前の周歩廊(雨で水たまりができ足元の悪い)に到着する。周歩廊を北側に回り込んで中央の聖域を見ると、基壇の上の左側(東)に経蔵があり、中央には蹲踞姿の猿の彫像が護る拝堂が建っている。周壁塔門の破風の浮彫と同様に、経蔵や拝堂の門を構成する破風やリンネルの浮彫も緻密に刻み込まれている(北経蔵には、クリシュナ神が、南経蔵にはシヴァ神が表現されている)。
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拝堂の後方西側は中央祠堂に直結しており、その中央祠堂は、南北の副祠堂と密接して建っている。中央祠堂と副祠堂のそれぞれ四面にある門は東門以外はすべて浮彫門になっている。そして東西南北の全ての門の左右両側には、守護神像が祠堂内のリンガを護っている。中央祠堂の門は、ドヴァーラパーラ(男性の守護神)が護っているが、南北の副祠堂の門ではデヴァターが護っている。
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こちらは、その北側副祠堂の北門を護るデヴァター像で、「東洋のモナリザ」と呼ばれる世界的に知られたデヴァターは、この北側副祠堂の南側にあり、現在は基壇に上れないため見ることはできない。いずれにせよ、どのデヴァター像も高さは70センチメートルほどの小品で、腰をくねらし、やや前かがみの三屈法のポーズを取る姿をしており魅力的であることには変わりがない。この日は、雨に濡れ、赤い砂岩が濃い深紅に変わって、一層高級感を醸し出している様にも感じる。
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南西側から見ると、中央基壇への西側階段の左右には二体の蹲踞姿の像が配され、基壇上には、中央祠堂と南北の副祠堂が並んで建つ姿が一望できる。それぞれ祠堂の塔部分は、破損個所も少なく、緑色の層も鮮やかに残っており、赤色砂岩とのコントラストが美しい。
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緑色の層には、悪鬼ヴィラーダ、蛇神ナーガ、ガルーダなどの装飾が施されている。
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祠堂の最下部は、いくつかの層が積み重なって構成され、その層毎に異なる幾何学文様などの浮彫が施されている。いずれも精緻な浮彫で見ていて飽きない。
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西塔門のリンネルには、カーラとマカラの唐草文様が施され、リンネル上の破風にはラーマーヤナ物語で猿軍が戦う様子が表現されている。
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1時間ほど見学した後、シェムリアップ方面に戻ることにし、途中、東バライ東南にある「プレループ」に立ち寄った。バンテアイ・スレイを建設したクメール王朝ラージェンドラヴァルマン王により961年頃に建立されたヒンドゥ教寺院で、かつて境内で行われた火葬が名前の由来となっている。
正面口の東側には、火葬場で使用された石槽や堂塔が並ぶエリアがあり、その先に矩形型の敷地面積を持つ、ピラミッド状に三層の基壇が重ねられた高層の寺院がある。最上階は、四方に副祠堂が建ち、中央には二層の基壇の上に中央祠堂が聳えている。
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プレループとバンテアイ・スレイとは、同じ王の時代に建設されたが、プレループは、煉瓦とラテライトから築かれているのに対して、バンテアイ・スレイ以降は砂岩とラテライトによる建築となり、建築資材の移行期となった。ちなみに、煉瓦による祠堂に彫られた女神像は漆喰彫刻である。

頂上の基壇からは、眺めがよくアンコール遺跡がある樹海が見渡せる。この場所からは夕日とアンコール・ワットが見られるとして人気がある。


夜は、シェムリアップ市内にあるアプサラシアターで、アプサラショーを鑑賞した。アプサラショーは、カンボジアの古典舞踊の流れを汲む伝統的なもので、ユネスコの世界無形文化遺産にも登録されている。内容は、王宮儀式を中心とする王宮古典舞踏と、庶民に受け継がれる民族舞踏の二つの流れがある。1970年代のクメール・ルージュの弾圧により滅亡の危機に陥いったものの、現在では、僅かに残った舞踏家たちの努力で復興しつつある。

アプサラショーはシェムリアップ市内のレストランや専用ホールなど何か所かで開催されている。大半が夕食付で鑑賞するものだが、こちらの「アプサラシアター」は、その中でもやや高級クラスになる。最初に、料理(クメールセット)が配膳され、40~50分ほど経過した午後8時半頃からショーが始まった。最初にアプサラ衣装を身に着けた踊り子による王宮古典舞踏が披露される。


その後、男女ペアで、農民の収穫風景を踊りで表現する民族舞踊が披露され、後半は、王宮古典舞踏から古典叙事詩「ラーマーヤナ」が演じられ1時間程度で終了した。感想は、昨年ウブドで鑑賞したバリ舞踊の高度な踊りの技に圧倒されたこともあり、やや見劣りする感はあったが、若い男女が踊る姿は健康的で爽やかな印象があった。


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翌朝は、アンコール・ワットに日の出を見に行くため、トゥクトゥクに乗り午前5時にホテルを出発した。アンコール遺跡のハイライトであり、既に5時半には、多くの観光客が環濠の傍に集まっていた。今朝の日の出は、雨季にも関わらず空と雲がオレンジ色に染り、その朝焼けを背景にした中央祠堂の上昇感のある形状は一層神々しく感じた。


環濠に反射するシンメトリーも、幻想的で忘れられない美しい光景で、アンコール遺跡見学のフィナーレを飾るに相応しい最高の瞬間であった。


日の出後は、もう一度アンコール・ワットを見学してホテルに戻った。この日は、市内観光、アンコール国立博物館でクメール美術を鑑賞した後、午後6時シェムリアップ発でハノイに向かった。


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ハノイには午後7時40分到着し、その夜は、インターコンチネンタル ハノイ ウエストレイクに宿泊した。翌朝より、世界遺産「ハロン湾」クルーズに2泊3日で参加した。1泊目はクルーズ泊で、鍾乳洞見学(スンソット洞窟)ハロン湾に沈む美しい夕日や船上でのコース料理などで過ごし、
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2泊目は、カットバ島に上陸して、国立公園トレッキング、マッサージ、島内のレストラン(グリーンマンゴー)で食事をしホテルに宿泊した。3日目は再びクルーズに乗船してハノイに戻るといった充実した内容だった。両日ともクルーズ泊のコースがあったが、やはり、船泊と島泊とのカップリングが変化に富みベストチョイスだったと思う。


ハノイでは、再びインターコンチネンタル ハノイ ウエストレイクに宿泊し、最終日は、ホーチミン廟の見学や水上人形劇を鑑賞して午後9時ハノイ発の便で帰国した。

(2010.8.3~8)
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カンボジア・アンコール遺跡(その1)

2013-06-01 | カンボジア
ここは、カンボジア北西部のシェムリアップ中心部「プレア・サンリーチ・テップ・ボン通り」沿いに建つリゾートヴィラ(DE LA PAIX)のスパ・プールである。ホテルには3泊滞在し、翌日からは現地旅行会社の個人ツアー(2日間)でアンコール遺跡を巡ることにしている。アンコール遺跡とは、カンボジア王国の淵源「クメール王朝(アンコール王朝)」が9世紀頃から13世紀初頭にかけて建設した宮殿や寺院のことで、特にアンコール・ワット、アンコール・トム及びタ・プロームは、アンコール三大遺跡として知られている。


ちなみにカンボジアへは昨日の午前11時成田発バンコク行きの便に乗り、グランド ハイアット エラワン バンコクに1泊(数日来の激務を癒すべく、チャオプラヤー川沿いのオリエンタルホテルのスパ3時間コースを堪能し、夕食は、海鮮料理屋で蝦蛄料理などを頂き、翌日はBaan Rim Naamで昼食)した後、今日の午後3時のバンコク発で午後4時10分にシェムリアップ国際空港(ホテルから南東方向約9キロメートルに位置)に到着したところ。ホテルのプールでひと泳ぎした後は、中庭が見えるレストランでカンボジア料理(魚の酸味の効いたスープココナッツミルク入りカレーなど)を頂き昨日に引き続き、優雅に一日を終えた。

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さて、翌朝は、中庭に面した回廊で朝食クイティウなど)を頂き、迎えに来た旅行会社の男性スタッフの車に乗り込み午前8時に出発した。最初に、シェムリアップ中心部から北6キロメートルに位置するアンコール・ワットの1キロメートル西側にある「アンコール・バルーン」に向かった。そのバルーン(気球)に乗り200メートル上空から東側を眺めると、目の覚めるような鮮やかな緑が地平線まで広がり、その樹海の中に唯一突出したアンコール・ワットの中央祠堂の威容が見える。アンコール・ワットは今もクメール王朝の権威を象徴している。
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ツアーでの遺跡訪問は、アンコール遺跡周辺Mapを参照。

それでは、再び街道を東に戻った突き当りにある「アンコール・ワット遺跡」を見学する。アンコール・ワット(王都・寺院の意)は、12世紀前半に即位したクメール王スーリヤヴァルマン2世(在位:1113~1152頃)により国家鎮護を目的に建てられたヒンドゥ教寺院で、東西1,500メートル×南北1,300メートルの大伽藍と、美しい浮彫彫刻を特徴とするクメール建築の傑作である。幅190メートルの川の様な環濠の外側からは中央祠堂と左右の副祠堂を望むことができる。
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その中央祠堂に向けて西から東にかけて環濠に砂岩の直線陸橋が架かっている。陸橋の左右にはヒンドゥ教の天地創造神話「乳海攪拌」を表す蛇神ナーガ(竜王ヴァースキ)の欄干が縁取られていたが、今では大半が失われている。陸橋の途中から振り返ると、続々と入場してくる観光客の向こうに、先ほどまでいたアンコール・バルーンが見える。陸橋を渡った土手道の先の巨石の様な塊がアンコール・ワットのメインゲート「西大門」で、東西1,030メートル×南北840メートルの矩形の外周壁の西面中央に築かれている。その西大門の左右(南北)にはやや低い塔門「象の門」があり共にメインゲートを模っている。
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「象の門」は、当時は車馬が通るための門だったが、南側の門の中央には「タ・リーチ」と名付けられた2メートルを超える黒く大きなヴィシュヌ神立像が祀られ、花や線香が供えられている。円錐形の僧帽や厚い唇をした優しい表情はクメール美術の特徴でもある。
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外周壁の外側の環濠側には列柱が並ぶ回廊が続き、内側(東側)の壁面には明り取りのための連子窓と「デヴァター」の浮彫レリーフが並んでいるが、南側「象の門」近くにある「歯を見せて笑うデヴァター」のレリーフは、観光客に人気の撮影スポットとなっている。デヴァターとはもともとサンスクリット語で神を意味するデーヴァを語源としたヒンドゥ女神のことで、壁面には、華麗な文様を背景に、王冠髪飾りを始め、首飾り、腕輪、腰飾りなどの装飾を身に着け、薄手の衣をまとった美しい姿で表現されている。
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そして、このデヴァターの他に、やや小さなサイズの「アプサラ」の浮彫が壁面や柱など至る所に見受けられる。アプサラとは天女や踊り子のことで、カンボジアの宮廷舞踊アプサラ・ダンスは、この天女の舞い「アプサラ」を発祥としている。
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さて、外周壁にある西大門を抜けると、再び蛇神ナーガの欄干で飾られた石畳の「西参道」が東に延び、遠く前方にアンコール・ワットの中央祠堂と左右の副祠堂(五点型寺院)が見える。

西参道を中ほどまで進むと左右に階段があり、左側を下りたすぐ先に、日本国政府アンコール遺跡救済チームにより2005年に修復された「北経蔵」が建っている。その北経蔵の東側にある聖池手前から左側に回り込むと、中央祠堂と副祠堂との五本の祠堂が一堂に会して望め、更に聖池に映り込んだ美しいシンメトリーな姿も併せて楽しめる。
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五点型寺院は、クメールの宇宙観である須弥山(メール山)と周りの霊峰を具象化したもので、クメール建築では、中央祠堂を中心に、正方形の四つ角に副祠堂を配置する。初期の建築様式では、平地にそれぞれ単独で祠堂を建てていたが、アンコール・ワット様式では回廊を階段状に押し上げ、頂部に設置する祠堂を田の字状の回廊で連結する手の込んだ造りとなっている。

それでは、聖池を回り込み、第一回廊(北側階段から)に向かう。アンコール・ワットの回廊は、第一回廊から中心部の第三回廊までの三重回廊から構成されているが、最初の第一回廊は東西200メートル×南北180メートルの広さで、刳形装飾と呼ばれる、えぐって波状にした基壇の上に、列柱が二重ある回廊と分厚い屋根から形成されている。その回廊内壁にあるのが、アンコール・ワット最大の見所の一つ「浮彫レリーフ」で、高さ8メートル、周囲全体760メートルにわたり施されている。
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レリーフは、西面北側のラーマーヤナ物語から左回りに、マハーバーラタ物語(西南南側)、偉大な王の回廊(南面西側)、天国と地獄(南面東側)、乳海攪拌(東面南側)、ヴィシュヌ神の阿修羅との勝利(東面北側)、クリシュナと怪物バーナの戦い(北面東側)、神々の戦い(北面西側)と続いている。

「ラーマーヤナ物語」では、ラーマ王子を助ける猿軍とランカー島(セイロン島)を本拠地とするラークシャサ(羅刹)軍との壮絶な戦い(ランカ島の戦い)が表現されている。槍や剣を振りかざし激しい戦闘が続けられている。
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ラーマ王子は、古代インドの英雄でヴィシュヌ神の化身とされる。物語は、そのラーマ王子の婚約者シーター妃がラークシャサ(羅刹)王ラーヴァナに奪い去られ、ランカー島に監禁されたことから、ラーマ王と猿将ハヌマットが救出に向かう内容である。

「偉大な王の回廊」では、アンコール・ワットを建設したスーリヤヴァルマン2世(在位:1113~ 1152頃)が世界の覇者として玉座に座り、拝謁する人々に下知を与えてる様子が刻まれている。クメール王朝(アンコール王朝)は、もともと、メコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)に栄えた古代国家「真臘(しんろう)国」が、8世紀に分裂し、802年にジャヤーヴァルマン2世により統一されたクメール人の国家で、12世紀初頭、スーリヤヴァルマン2世治世下で、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部に及ぶまでの王朝最大の領土となった。
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「天国と地獄」の壁画リリーフは長さ66メートルにわたり上中下の三段で構成されている。レリーフでは、王(スーリヤヴァルマン2世)と王妃、王族や従僕が裁きを受けるために輿に乗って進む様子から始まっている。
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こちらの中段には、18本の腕を持つ夜摩天(閻魔大王)が牡牛ナンディーに座って人々に裁きを下しており、その手前には王族一行が着座してその裁きを待っている場面が表現されている。
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そのすぐ先では、裁判を受けた人々の内、罪人とされた人々が地獄(アヴィーチ(阿鼻地獄))へと落とされている。
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レリーフはその先から中段と上段が天国を表し、下段が地獄を表す場面となる。下段の地獄の場面は、次々と悲惨で残酷な場面が続く。向かって左側は舌を抜かれる罪人が、右側では磔にされる罪人がいる。他にも、串刺しされる人や、釘を打たれる人々など痛々しい刑が行われている。
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「乳海攪拌」のレリーフは49メートルに渡り続いている。神々と阿修羅の両者で大海を攪拌すれば、不死の霊薬アムリタを取り出せることから、マンダラ山を攪拌棒として、そこに絡ませた蛇神ナーガ(竜王ヴァースキ)を神々と阿修羅が引くことで、大海を攪拌する。大海は乳海となり太陽、月、神々など様々なものが生じた後にアムリタを取り出すことができた。その後両者で争奪戦が繰り広げられるが最終的に神々の勝利に終わると言った内容である。
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レリーフは、阿修羅が蛇神ナーガを引いている場面からスタートする。こちらのレリーフでは、上段の天空に天女アプサラが舞い、中段に阿修羅が渾身の力を込めて蛇神ナーガを引き、途中に大身の阿修羅王が加わっている。そして下段は大海を表しており、驚いた魚が飛び跳ねている。

第一回廊と第二回廊の間(西側)には、田の字型の平面を持つ幅3メートルほどの十字型の回廊が連結しており、それぞれ区切られた空間には、四つの沐浴地が設置されている。沐浴地は、石畳の底と刳形装飾の側面壁から造られ、中央側に向けて階段がそれぞれ一か所毎に設けられている。かつては雨水を湛え、参拝者はそこで身を清めたという。
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アンコール・ワットは、もともと、ヒンドゥ寺院として建設されたが、16世紀に境内に上座部仏教の寺院が建立されたことから、多くの仏教徒が参拝するようになった。十字型の回廊の南側壁面には、大小様々の仏像が並んでいるが、クメール・ルージュにより多くが破壊され現在は僅かとなっている。その中央には天蓋や戸帳など様々な荘厳仏具で飾られた大きな仏陀立像が奉られている。回廊の柱や天井には朱色の彩色が残っている。
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当時、日本では、アンコール・ワットがインドの祇園精舎であると誤った認識が広まり、大勢の日本人が祇園精舎の参詣としてアンコール・ワットへ出かけていった。十字回廊の中央付近には、そのうちの一人、森本右近太夫の墨書(1632年訪問)の跡が残っており「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」と書かれている。
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次の第二回廊へは、十字回廊の東側と連結しており直接階段を上って行けるが、一旦、手前の階段を下り、第一回廊と第二回廊との間の広場を進んでいくと、突然雨が降ってきた。8月は雨期の時期でありカンボジアではこういうことが頻繁に起こる。

さて南側の広場から見える第二回廊は、高い刳形装飾の基壇の上に造られている。大きさは東西115メートル×南北100メートルあり、四隅に堂塔があるが、いずれも頂部は崩壊している。アンコール・ワットの連子窓の連子は奇数と定められており、第二回廊の外壁の連子窓の連子は7本で統一されている。内側の回廊には取り立てて装飾がなく殺風景な通路が続いている。
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最後の第三回廊は第二回廊より更に11メートル高い場所になり、かなり傾斜の強い階段を上って行く。その第三回廊は、一辺60メートルの正方形で田の字に回廊を配し、中央に中央祠堂が、四隅に副祠堂が設置されている。そしてその区画にある沐浴地から見上げる高さ65メートルの中央祠堂は巨大で威圧感がある。中央祠堂の側面角には各層毎にデヴァターの浮彫が二体づつ施されているのが見える。
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中央祠堂の基部には二重の列柱があり、その奥の壁面には、数十体ものデヴァター像のレリーフが取り囲む様に配置されている。中央祠堂のデヴァター像は、動きを抑えた清楚な佇まいといった印象である。
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全体的に保存状態も良く、冠や首飾りなど細部に至るまでより精緻な浮彫装飾が施されている。中でも特に王冠飾りは、高浮き彫り技法が駆使され、それぞれ異なるバリエーションがある
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アンコール・ワットの見学を終えた後は、街道沿いにあるカンボジア・レストランに移動し汁無しのクイティウ(フォー)、チャプチャイ、スープ、ライス、デザートが付いたランチセットを頂いた。その後、マッサージ店で休憩した後、午後は、アンコール・トムに向かった。


アンコール・トムはアンコール・ワットから北に1キロメートルの位置にある一辺約3キロメートル四方の広大な敷地に、周りを幅100メートルの環濠と、ラテライトで造られた8メートルの高さの城壁で取り囲まれている。1190年、クメール王朝の中興の祖で初の仏教徒の国王と言われたジャヤーヴァルマン7世(在位:1181~1220頃)により築かれたクメール王朝最大の都で「輝ける新都城」と呼ばれた。

都城内へは、東(死者の門)・西・南・北の城門と北東(勝利の門)の5つの城門から入場できるが、車道が整備され保存状態も良い「南大門」から向かう。その手前の環濠に架かる陸橋の左右には蛇神ナーガ(竜王ヴァースキ)の欄干が飾られており、向かって左側に神々が、右側にアスラ(阿修羅)が中腰姿で蛇神ナーガを引いている。
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城門手前の蛇神ナーガの欄干像は全ての城門前に設置されているが、クメール・ルージュにより大半が破壊された。現在は、徐々に修復が続けられている。像を近くで見ると、阿修羅が蛇神ナーガの頭部持ち上げる姿など大変迫力がある。
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南大門の上部は小塔になっており、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻(四面仏)が施されている(他の4つの城門も同じ)。また、四面仏の周辺に刻まれた数体の仏陀像や、門の左右側面の蓮の蕾をすくい上げようとする象の彫像など、クメールの美術の巧みで繊細な浮彫を随所に見ることができる。その南大門のアーチ門は、一般的に石を円弧状に組み合わせ圧縮力で支えるとは異なり、石材を少しずつ迫り出して積み上げる「迫り出し方式」が採用されている。
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その南大門をくぐると、再び周りを森に覆われ街道と変わらぬ一本道が続くが、当時は多くの人々が住み、盛んに経済活動が行われるなど賑やかな通りだったという。そして、そのアンコール・トム中心部には、ジャヤーヴァルマン7世が、王権の神格化を図るべく建設したピラミッド型寺院「バイヨン」がある。寺院正面口は東側になることから、寺院手前から道に沿って大きく回り込み、大きく破損した蛇神ナーガの欄干で飾られた広い砂岩の陸橋テラスから向かう。

破損したデコボコのテラスを歩いて行くと、バイヨンの威容が目の前に迫ってくる。高さ43メートルある中央祠堂は、クメール的宗教観である須弥山を見立てており、バイヨンは「美しい塔」を意味するが、現在は、中央祠堂の頂部はえぐれ、崩壊が著しい。バイヨンは、その中央祠堂を中心に三層から成り立っている。第一層は、外側の第一回廊(160メートル×140メートル)と内側の第二回廊との二つの回廊で構成され、第二層に16の塔堂を配している。
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近くで見ると塔群が並ぶ姿に迫力を感じる一方、それぞれの塔の中央に刻まれた観音菩薩像の顔(四面仏)も確認できる。観音菩薩は四方へ慈光を放ち人々を救うとされる。正面門は、大きく東に張り出す巨大な塔門だったと思われるが、損傷が激しく、現在は柱と梁だけが続いている。
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正面門を入ると左右に続く列柱にはアプサラの浮彫が施されているが、こちらには3体のアプサラが蓮台の上で軽やかに踊る躍動感のある姿が表現されている。王冠や首飾りなども繊細に装飾され、全体に朱色の彩色が残っている。
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最初の第一回廊の場所は、屋根がないため分かりにくいが、大きなレリーフが続いていることから特定できる。その第一回廊の南面レリーフには、チャンパ国(ベトナム中部のヴィジャヤに都を置く港市国家)によって占領(1177年)されたクメール王朝が、ジャヤーヴァルマン7世により王都を奪還(1181年)するまでの攻防戦が表現されている。こちらは戦地に向かうクメール軍の様子で、象の豪華な鞍に座るクメール人指揮官が、クメール歩兵を率いている。歩兵は角刈り頭に長い福耳をしており、褌姿に上半身に太い紐をかけて槍を担いでいる。
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他にも、クメール軍には象上のクメール人指揮官が率いる蓮華装飾の冠を被り鎖帷子風の長い上着を着た中国人部隊が参戦している。

こちらは、森の中で繰り広げられるクメール軍とチャンパ軍の戦闘シーンで、クメール軍兵士が勇敢にチャンパ軍内に飛び込み、チャンパ軍兵士を槍で一突きしている。チャンパ軍兵士は、花弁の装飾のある顎まで覆う兜を被り半袖の短い上着を着ている。
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そして、こちらは、トンレサップ湖の水上戦の様子。船に乗るのはチャンパ軍兵士(水軍)で、魚が泳ぐ水中に落ちて漂うのはクメール軍兵士の姿である。トンレサップ湖とはシェムリアップから南に車で30分ほどの距離にある東南アジア最大の湖である。
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こちらは、トンレサップ湖で船に乗るクメール軍兵士(水軍)で、半袖前開きの上着を着て槍を携えている。湖には、多くの魚が泳いでいる。
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そのすぐ隣のレリーフには戦いが終了したのか勝利に沸く船上の人々の様子になり、湖には多くの魚に加えてワニが表現されている。ちなみに、今もトンレサップ湖では、ワニのマーケットがあり、ワニ肉やワニ革を使った革製品の販売などが行われている。そして、レリーフ下段には、クメール人の売り手と買い手とのやり取りや、闘鶏に集まる人々、魚を料理する女性、椅子に座った女性が商売をする姿など、当時の市場の風景や人々の生活する様子が生き生きと表現されている。庶民は男女とも上半身は裸で、男性は褌姿、女性は髷を結い金製の装飾品を身に着け腰にサンポットを巻き付け、足元は裸足だった様だ。
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浮彫レリーフは、どの場面も、精巧な浮彫彫刻に加え、場面構成、人物描写など表現力が素晴らしく、一級品の芸術絵画を鑑賞している様であり、当時のクメール美術のレベルの高さに大変驚かされる。

次に、やや急な階段を上った第二層を過ぎ、更に階段を上ると、バイヨン最大の見所である第三層(上層テラス)に到着する。上層テラスでは中央祠堂を周回しながら、巨大な四面仏が林立する様子を間近に見学することができる。
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四面仏が刻まれた塔は現在37個所あるが当初は54個所あったとされる。観世菩薩像は鮮やかな蓮の王冠飾りも付けており、ジャヤーヴァルマン7世を神格化して偶像化したものとする説もある。厚めの唇と温和な表情は「クメールの微笑み」と呼ばれ、まさに衆生を救うための仏の慈悲の様相を呈した如くである。
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中央祠堂内には、1933年、フランス極東学院の調査により発見されたブッダ像が祀られている。こちらは、バイヨン寺院の北側から出て振り返って見た様子である。どことなく北側からの全景の方が美しく見える様な気がする。
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バイヨン寺院の北側の通りを進むと、王宮前広場になり、西側に南北方向に続く長大な「象のテラス」がある。やはり、ジャヤヴァルマン7世によって造られ王族の閲兵などで使われた。南北に長さ300メートル強あり、3メートルの高さの基壇上に乳海攪拌を模した蛇神ナーガの欄干が飾られている。基壇の側面に象の浮彫レリーフが続いていることから名付けられたが劣化が激しい。
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もともと、この辺りには、クメール朝第4代で名君「獅子の男」と呼ばれたヤショーヴァルマン1世が889年に築いた旧都ヤショーダラプラがあり、ジャヤヴァルマン7世は、旧都を取り込むことで新都を建設したとされる。そして、象のテラスの中心部から西側には、10世紀末に造られたピミアナカス寺院(歴代の王が儀式を行う)があったが、現在は樹海に覆われている。他にも、プリヤ・パルライ、バプオン、東側にもプリア・ピトウ、北クレアン、南クレアンなどの王族たちの施設があり、アンコール・トムの北東門(勝利の門)から参道が通じている。

象のテラス上を北に歩いて行くとテラスの北西角に象が蓮の蕾をすくい上げようとする彫像のレリーフがあり、撮影スポットとして人気がある。そして「象のテラス」の北隣には「ライ王のテラス」がある。一辺が約25メートル、高さは約6メートルで、王族の火葬場として使われたとの説がある。
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ライ王像のレプリカ(本物はプノンペン国立博物館所蔵)がテラスの中央に飾られている。ライ王とは、ライ病を患ったとも伝わる旧都ヤショーダラプラを建築したヤショーヴァルマン1世とされるがはっきりしていない。他の説として、火葬場として使われたことから、夜摩天(閻魔大王)とも言われている。


栄華を誇った仏教都市アンコール・トムは、ジャヤーヴァルマン7世の死後、後継者ジャヤーヴァルマン8世(1243頃~1295)により、ヒンドゥ教の都として改変され、多くの仏像浮彫を削り取り、境内にあった仏像をも破壊したという。その後、1431年にはタイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族によるアユタヤ王朝との戦争を経て、都は放棄され、樹海に覆われてしまう。

次に、アンコール・トムの南400メートルに位置(アンコール・ワット寺院の北西1,300メートル)するプノン・バケンに向かった。

「プノン・バケン」は、アンコール・トム建設より約270年ほど先立つ10世紀初頭、ヤショーヴァルマン1世(在位:889~910)が旧都ヤショーダラプラの中心地に須弥山を模して建てた、標高67メートルのプノン・バケン山の頂上に矩形型の基壇を五段重ねた47メートルの高さのピラミッド型(バケン様式)のヒンドゥ寺院である。それぞれの段に小祠堂が配置され、最上段の基壇まで東西南北に急階段が延びている。階段下の左右には煉瓦造りの経蔵が配置されている。


プノン・バケンは、アンコール遺跡のなかで最も高い位置にあることや360度の展望がきくことから、夕暮れ時には鑑賞スポットとして混雑する。この日も、西側の急階段や、最上段にある損壊した中央祠堂の周りには、多くの見物客が集まっていた。寺院自体は、中央祠堂と同様に、四隅の小祠堂も損傷が激しく瓦礫となっている。


残念ながらこの日は曇っていたが、北東約30キロメートル先の山岳地帯「プノン・クーレン」の山並みまで見渡せた。なお、手前の樹海がアンコール・トムである。


西側には、11世紀にクメール王国により完成した東西8キロメートル、南北2.1キロメートルの長方形の巨大な貯水池「西バライ」が見える。時折吹く風も心地よく気持ちが癒される場所である。


初日の遺跡見学は以上で終了し、日没後、シェムリアップのヴィラに戻ってきた。夕食は、昨夜同様に中庭が見えるレストランで頂いた。最初に、前菜を頂き、その後、甘辛ソースを付けた牛肉ステーキを頂いた。


最後に、イカの生胡椒炒めを頂いた。イカの食感と生胡椒の華やかな香りとの相性が素晴らしい一品である。

(2010.7.31~8.2)
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