カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インド・ニューデリー(その2)

2013-03-31 | インド(アーグラ、ニューデリー)
ホテル・クワリティ(宿泊ホテル)から東西に伸びるディッシュ・バンド・グプタ・ロードを渡り、ラジグル・マーグ通りを南に歩いて、デリー・メトロ(ブルーライン)のラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅(RK Ashram Marg)に向かった。


これから、オールド・デリーの2大観光地、ジャーマー・マスジドとラール・キラー(レッド・フォート)を見学する。宿泊ホテルからジャーマー・マスジドまで歩くと2キロメートル強だが、デリー・メトロの利便性の良さに満足しているので、少し遠回りだが、ラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅に向かっているわけだ。この時間、ラジグル・マーグ通り沿いには、赤い制服を着用した楽隊が集まっているが、何かイベントが行われるようだ。


その先では、黄色い衣に身を包み黄色い旗を持つ男性5人を先頭に行列を作り待機している。先頭の男性たちは、ターバンを着用しているのでシク教徒だろう。様子を見ていたかったが、時間が遅くなるので諦めた。


デリー・メトロに乗り、一つ目のコンノート・プレイスでイエロー・ライン(北行き)に乗り換える。そして、次駅のチャウリー・バザール駅を下車(10ルビー)して、オールド・デリーの目抜き通り(チャウリー・バザール)を進むと、前方にジャーマー・マスジドの塔が見え始めた。


ジャーマー・マスジドは、タージ・マハルを建造したムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位:1628~1658)によって立案され、1656年に竣工したインド最大のモスクの一つである。建設には5,000人の労働力と6年以上の歳月を要したという。

モスク中庭広場は高台にあり、メインゲートの東門と南北のいずれかの門から入場できる。今回は、西側に到着したため、壁面から回り込み北門から入場することとした。赤砂岩の入場門までの階段は39段ある(南側は33段、東側は35段)。この階段では、かつて屋台や大道芸人の出演場所になっていた。また1857年のインド大反乱(イギリス軍とインド反乱軍の戦い)では激しい戦闘になりインド反乱軍の死体で埋め尽くされた痛ましい歴史がある。

カメラの持込み料300ルビーを払い(入場料は無料)、靴は5ルピー(金額は気持ち)を払って預かってもらう。


入場門をくぐり中庭広場に足を踏み入れ、右側に視線を移すと、ジャーマー・マスジドの礼拝堂(モスク)が、マッカ(メッカ)のある西側に向けて建てられている。モスク前面には池があり、信者はここで身を清めて礼拝に向かうわけだ。金曜日(ジャマー)には、集団礼拝の場となり、多くの信者でモスク内は埋め尽くされる。なお、中庭には最大で25,000人が収容可能だそう。

モスクは、東門、南門、北門とそれぞれアーケードで結ばれスクエアを形成している。
モスク中央のアーチ(イーワン)は、一際大きな作りとなっており、両翼の柱はミナレットになっている。赤砂岩(床部分は大理石)で作られたモスク内部の壁面にはシンプルなアーチ状の装飾が施され、正面のミフラーブ(聖龕)手前の天井には、大きなクリスタルのシャンデリアが吊り下げられている


モスクの左右に聳えるミナレットは高さ40メートルあり、外壁は白大理石と赤砂岩で縦縞状に彩られている。ミナレットの上から礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンは、現在では、頂部に上らずモスクに向かって右側のミナレット中間部にある施設から祈祷の時報係が拡張器を使用して礼拝を呼びかけている(1日5回)。

そして、モスクに向かって左側のミナレットの頂部には100ルピー払えば上ることができるとのことで早速向かうこととした。


チケットはモスクの左端で売っているが入口は南門にある。階段を上って一旦アーケードの屋上に出るので、そこから屋上を歩いた後、ミナレット内の螺旋階段を130段上って頂部に向かう。ミナレット自体は細いため階段を上っていると目が回りそうになり気持ち悪い上、上り詰めた展望台は一人ずつが立てるだけの狭いスペースしかないため非常に怖い。気を付けないと、内側の階段に足を滑らし転落しそうになる。


恐る恐る、金網にしがみつき眼下を覗き込むと、白と黒の大理石で覆われたモスクの3つのドームを見下ろせる。中央のドームは、迫ってくるような威圧感があり、なかなかの迫力だ。風雨にさらされ汚れている印象だが大理石らしい色ムラや風合いも良く見える。それぞれのドームの頂部からは黄金の塔が伸びている。そして、ドームの向こうに見える町並みが、オールド・デリーの中心部にあたる。


次に、右側に視線を移すと、先ほど入ってきた北門が望める。入場した際は、巨大な門の印象だったが、この位置から見下ろすと非常に小さく見える。


更に、視線を右側に移すと、中庭広場越しに、東門が見える。東門はジャーマー・マスジドのメインゲートらしく、北門の左右の2段アーチと異なり3段アーチと大ぶりな造りとなっている。東門の外に伸びる大通り(参道)にはバザールが開催され、多くの人で賑わっている。その大通り先の繁茂した辺りにはデリー・メトロ(バイオレットライン)のジャーマー・マスジド駅がある。そして、中央遠景から左側に伸びる赤い城壁はラール・キラー(レッド・フォート)である。次に、そのラール・キラーに向かうことにする。


ジャーマー・マスジドでは、40分ほど見学した後、北門で預けた靴を受け取り、500メートルほど路地を北に向かったところで右折する。すると前方にラール・キラー(Lal Qila)のラホール門が見えてくる。

ところで、この大通りはチャンドニー・チョウクと呼ばれるオールド・デリー最大の目抜き通りで庶民の台所として知られている。ムガル帝国時代より続く金銀細工や宝石を扱う店なども数多く営業している。

車道には、臨時の鉄柵が設けられ歩道を拡張しているが、拡張箇所の間を縫って営業する輩もいるため、狭くなった車道に車、人力車や人も流れ込み、大渋滞となっている。徒歩でも通過するのに時間がかかる。しかしぶらぶら歩くには楽しい観光スポットだ。


さて、ラール・キラーは、タージ・マハルやジャーマー・マスジドを建造した、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの手によるものである。彼は、アーグラやラホール(パキスタン北部のパンジャーブ地方、ラーヴィー川の岸辺に位置するインドとの国境付近にある都市。)に拠点を置いていたが、1639年、新たに、自らの名を冠した新都シャー・ジャハーナーバード(Shahjahanabad)(現:オールド・デリー)の建設に着手する。その中心に建つのが皇帝の居城「ラール・キラー(或いは、レッド・フォート、赤い砦、赤い城、デリー城とも呼ばれる)」であった。

新都は9年の歳月をかけ1648年に完成する。城内には57,000人の人が住み、城外の市街地(2,590ヘクタール)には、およそ40万人の市民が暮らした。しかし、皇帝シャー・ジャハーン自身はデリーとアーグラとを行き来したという。


ところで、城壁の高さを大きく超える巨大な建物がラール・キラーのメインゲートのラホール門である。ラホール門(城内から見てラホールの方向にあるためこう名付けられた。)は、高さ33メートルの左右の門塔(チャトリー(小亭)と呼ばれるムガル建築の装飾建物を頂く)に挟まれ、頂部に7個の丸屋根と2つのミナレットを持った豪華な門でヒンドゥ建築とイスラム建築との折衷様式で造られている。

2キロメートルにも及ぶ赤い城壁の中央(西側)に聳え、遠方からも望める巨大なラホール門を持つラール・キラーはムガル帝国の権威を今も誇り高く示している。なお、現在、毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説が行われている。

そのラホール門の前面まで近づくと、濠と城壁で囲まれた砦があり、上部の堡塁には一定間隔で大砲が配備されているのが見える。この砦を築いたのは、ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)である。この砦の建設により、ラホール門を隠すことになったが、皇帝は門の優雅さより防衛上の強化を優先したのである。なお、皇帝はこの砦を「美女の顔を隠すヴェールだ」と語ったという。


と言うことで、ラホール門から城内に入るには、一旦、砦の左側の塔を回り込んだ奥にある砦門をくぐった後、向かうことになる。


濠を渡り砦門に入り荷物等のセキュリティチェックを受け入場料250ルピーを払う。砦内に入ると右側(場外側)には、砦に上る階段があるがロープが張られ立ち入りできないようだ。砦内のスペースは狭く、入場者はすぐ左側に続くラホール門をくぐることになるが、驚いたのは、砦門に向けて銃を向けている警備員の姿だ。不審な行動をする輩は、ここから撃たれるというわけだ。


砦には上れないようなので、左側に聳えるラホール門をくぐって、城内に向かう。


さて、巨大なラホール門の先には、打って変わって、お土産屋が並ぶ華やかな商店街が続いている。かつて、宮廷の女性たちのためのショッピング街で、チャッタ・チョウク(Chhatta Chowk)(屋根付き市場の意)と呼ばれている。


チャッタ・チョウクを抜けると、左右に芝生が広がる城内になる。通りの左側には「自由のためのインドの闘争に関する博物館(Museum on india's struggle for freedom)」がある。


博物館では人形でインドの歴史が再現されている。1919年、パンジャーブ地方アムリットサルで、ローラット法に抗議のために集まった非武装のインド民衆に対してイギリス軍が無差別に射撃した「アムリットサル虐殺事件」。マハトマ・ガンディー(1869~1948)に、イギリスに協力しても独立へは繋がらないという信念を抱かせる契機となった。


そして、こちらは、そのガンディが、1930年、彼の支持者と共にイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、アフマダーバードからダーンディー海岸までの386kmを行進した抗議運動の様子が再現されている。インドのイギリスからの独立運動における重要な転換点となった。


展示台には、刀剣などが飾られている。中央には、ジャマダハル(jamadhar)(ブンディ・ダガーとも)と呼ばれる北インドで使われていた刀剣の一種などがある。柄を握り、拳の先に出した刀で、主に刺すことに特化した武器である。15分ほどさらさらっと館内を見学した後、再び、チャッタ・チョウクから続くメイン通りに戻る。


通りのすぐ先には、花壇があるロータリーになっており、左側から回り込むことになる。花壇向こうに見える門は、ナッカル・カーナ(Naqqar Khana)(ドラム・ハウスの意味)と名付けられた中門で、ここで楽士が時刻や王の帰還を知らせための音楽を奏でたという。現在2階には戦争記念博物館がある。門は赤砂岩で造られており、長年その砂岩の色だったが、近年、建設当初の白色に塗り直された。


門をくぐりながら、天井や壁面を見渡すと、美しい象嵌細工が施されている

白亜のナッカル・カーナ門をくぐり、振り返り門を見上げると、こちら側は赤砂岩のままであるが、ところどころ、白の石膏が残っている

ナッカル・カーナ門の先は、広々とした庭園となり、正面に9連式、側廊には3連式のアーチが並ぶ長方形(160メートル×130メートル)の大広間の建物がある。こちらは、ディワーニ・アーム(Diwan-i-Am)(一般謁見殿)で、皇帝は毎日、民衆からの様々な陳情を受け付け解決する公の場であった。

なお、先に造られた、アーグラ城塞内のディワーニ・アーム(材質は白大理石による造り)とほぼ同じデザインを踏襲している。

建物内に足を踏みいれると、細い柱で支えられたアーチで、開放感を感じる造りとなっている。内装はシンプルだが、当時は、豪華な天幕や壁掛け、シルクのカーペットなどで飾られていたという。


ディワーニ・アームから、歩いて来た方向を振り返ると、庇とチャトリー(小亭)以外は、赤砂岩のままのナッカル・カーナ門が望める。今後、白く塗る予定があるのだろうか。晴天の下、綺麗に刈りこまれた芝と周りの樹木の中に佇む、深みのある赤砂岩のナッカル・カーナ門も中々良いと思うのだが。。


それでは、ディワーニ・アームの中央奥にある皇帝の玉座に行ってみる。


ベンガル風丸屋根で覆われた大理石の天蓋があり象嵌細工で施されている。かつては、エメラルド、サファイア、ルビーなど世界中から集められた宝石が埋め込まれ輝いていたという。壁面には、マルチカラーで象嵌細工されたパネルがある。


ディワーニ・アームに向かって左側から奥に進むと更に中庭が続き、建物群が見える。


左側が、貴賓謁見殿のディワーニ・カース(Diwan-i-Khas)で、隣がカース・マハル(皇帝の私室)、右端がラング・マハル(彩りの間)である。


ディワーニ・カースは、貴族や外国の大使との謁見の場で、閣議なども行われていた。屋上の四隅には、やや大ぶりなチャトリー(小亭)が配されている。


建物は、白大理石でできており、内部は、隙間ないほどに精緻な装飾で覆われている。柱の下部には、美しい象嵌細工の花の装飾が施されている。


広間の中央部は花弁アーチで仕切られた長方形の空間が造られている。天井はかつて金と銀で覆われていたが、現在は金メッキされ、周りの梁には、花の紋様が装飾されている。


側廊の天井部分は、格子面に分割され、花弁が表現されている。こちらも、かつては、宝石類が埋め込まれていて眩いばかりだったという。


カース・マハル(皇帝の私室)は、ディワーニ・カースと同じ基壇の上で隣り合っている。


中央の花弁アーチの奥のティンパヌムには天秤(死後の審判で生前の善悪を測られ天国か地獄行きか決定する。)が表現されており、周りにはアラベスクの浮彫などが美しく装飾されている。下部の扉には、透かし彫りが施されており、建物越しに隣のラング・マハル(彩りの間)が見える。


反対側(南)に回り花弁アーチからカース・マハルの内側を覘くと、繊細な浮彫で覆われた壁面が見え、中央には重厚なアーチ門を構成している。


基壇から降りて南側に向けて歩くと芝生の向こうに宮廷女性の居住区画ムムタージ・マハル(Mumtaj Mahal)が見えてくる。後にイギリス軍の詰め所になり、今では考古学博物館(Archaeological Museum)としてムガル帝国時代の絵画、武具などが展示されている。


館内に入って見ると、バハードゥル・シャー2世(ムガル帝国の第17代(最後の)君主(在位:1837~1858)が使用した大理石の椅子や、


ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)の水の浄化容器。


同じくアウラングゼーブ帝の印章などが展示されている。


他にも、ムガル帝国のダマスカス鋼の鎧や戦斧、殴打用の武器や、


ペルシャ風象嵌細工のダガー・ナイフなどが展示されていた。


ラール・キラーでは約1時間半ほど見学して城外に出た。城壁前の大広場からすぐ右側にある、デリー・メトロ(バイオレットライン)のラ-ル・キラー駅に向かうが、地上近くの階段まで人が並んでいる。並んでいる人に聞いてみると、どうやら、鉄道事故があったらしく運休になっているらしい。再開するのかもわからないので、少し先のデリー・メトロ(イエローライン)に行ってみようと、チャンドニー・チョウク(大通り)を西に向かうことにした。


チャンドニー・チョウク(大通り)では、店舗沿いの歩道を歩いてみるが、やはり混雑しているため、結局車道を歩いて行く。地図を確認したところ、スィク寺院の先を右折した奥にデリー・メトロ(イエローライン)の駅があるようだ。しばらくすると、左前方にスィク寺院が見え始めた。


スィク寺院から右折して路地を歩いて行くと、東西に伸びる大通りに出てしまった。大通りを西に歩くと、右側にデリー駅(ラージャスターン州方面への列車が発着している)が見えてきた。

どうやら行き過ぎたようで、デリー駅前から再び南に向うと、デリー・メトロ(イエローライン)のチャンドニー・チョウク駅が現れた。

無事にメトロに乗ったが、車内は非常に混雑していた。すると、隣にいた男性が、反対側にいたサリーを身に付けた3人組の女性はスリだと教えてくれた。バッグを手前に引き寄せ抱え込みながら、隣のニューデリー駅で下車した。何も取られたものはないようだが、少し気を抜いていたかもしれない。危ないところだった。


午後2時になり、メイン・バザール(バハール・ガンジ)の「クラブ・インディア・カフェ・デリー」で遅めのランチを頂く。スパゲッティーとビール(258ルピー)を頼んだ。結局昨日から立て続けに3度来店したが、いずれも食事時とズレていたので貸切だった。なお、壁には、お店を訪れた日本の女優やアイドル歌手と一緒に写るオーナーの写真などが飾られている。


ところで、今日は午後9時25分発の中国東方航空で日本に帰国することとしている。荷物を持ってうろうろするのも物騒なので、少し早いが、渋滞も想定してインディラ・ガンディー国際空港に向かうことにした。メトロは先ほどの事故やスリの件もあるので、タクシーで向かうことにして、運転手を選び交渉する。結果400ルビーで行ってもらうことにした。


なんと、空港には35分程で到着してしまった。運転手に400ルピーを払いチップとしてさんざん使用した100円均一の万能ナイフを渡すと、非常に喜ばれた(荷物の機内持ち込みを予定していたので、処分を考えていた)。

あまりにもスムーズに到着したのは有りがたいが、インドの空港では、出発3時間前にならないと空港内に入れてもらえないというルールがあるのだ。空港内に入ろうと扉口にいる警備員にEチケットを提示すると、案の定、首を横に振られた。しかたがないので、外でしばらく待つ。


そして午後5時前になり、再度入れるか確認したところ、OKと言われ、入場を許された。午後9時25分発を考えれば、特別に早く許可された印象ではある。

その後、上海を経由して、成田には午後12時50分に到着した。
(2012.12.9)
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インド・ニューデリー(その1)

2013-03-31 | インド(アーグラ、ニューデリー)
ニューデリーの朝、これから、デリー・メトロに乗ってデリー中心部から南に15キロメートルにある世界最高のミナレット「クトゥブ・ミナール(Qutub Minar)」に向かう。宿泊しているホテル・クワリティ(Hotel Kwality)最寄りのメトロ駅はメイン・バザール(バハール・ガンジ)の西側にある。


昨夜食事したレストラン・グリーンチリから500メートルほどで、デリー・メトロ(ブルーライン)のラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅(RK Ashram Marg)に到着した。現在朝の7時半、まだ肌寒い。


ところで「デリー・メトロ」は、日本が資金・技術面で支援(円借款で供与)して建設された都市型鉄道で、1990年代に計画され、2002年に「レッドライン(1号線)」と「イエローライン(2号線)」、2005~2006年には「ブルーライン(3号線・4号線)」、2010年には「グリーンライン(5号線)」と「バイオレットライン(6号線)」とが順次開業をしている。

ラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅は、2005年12月末に開業したばかりの新しい高架駅である。しばらくすると、6両編成のステンレス製無塗装の車両(三菱自動車工業株式会社と現代ロテム社製)が到着した。車内はシンプルな造りで、ロングシートに、立ち客用のポールと、つり革が備え付けられている


デリー・メトロに乗り一つ目のコンノート・プレイス(デリーのビジネス、ショッピングの中心的エリア)にあるラジーブ・チョーク駅(Rajiv Chowk)でイエローライン(車両の側面には、路線を示す色帯が施されている。)に乗り換えて目的地のクトゥブ・ミナール駅に到着した。運賃も20ルピー程度と安く30分ほどの乗車時間だった。


クトゥブ・ミナール駅も高架駅のため、ホームから外を眺めると、木々の向こうにクトゥブ・ミナールの塔(中央やや右)が微かに見える。
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改札を出て、通りを歩いて行くと20分ほどで、クトゥブ・ミナールがはっきりと見え始めた。


クトゥブ・ミナールは、1206年、奴隷王朝のクトゥブッディーン・アイバク(在位:1206~1210)が、デリーをイスラム都市に整備する目的で、インド最初のモスク(クワットゥル・イスラム・マスジット)のミナレット(尖塔)として建てた。

奴隷王朝(1206~1290)とは、7世紀後半、ヴァルダナ朝(仏教を保護)以降の北インドの分裂時代(ラージプート)を終焉に導いたゴール朝(10世紀、アフガニスタンのガズナを都としたトルコ系イスラム王朝ガズナ朝の領内から始祖)の奴隷兵士アイバクが興したインド初めてのイスラム王朝で、デリー・スルタン5王朝の最初の王朝である。

なお、ゴール朝は、1203年にはインドのパーラ朝(750~1174)を滅ぼしナーランダーなど様々な僧院を破壊したため、その後インドの仏教は急速に衰退していくことになる。それでは、入口で250ルピーを支払い入場する。


塔は五層からなり、下の三層が赤砂岩、上の二層は大理石と砂岩で造られている。塔の直径は基部が14.3メートルに対して先端部の直径は2.75メートルと上部に向けて細くなっていく。塔の高さは72.5メートルあり世界で最も高いミナレットである。近づくとその大きさに圧倒される。一帯の遺跡群は、1993年に「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」の名で世界遺産に登録された。
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一層目には、円形と三角形の断面が繰り返す造りで、コーランの一部がカリグラフィーで刻まれている。二層目は円形で、三層目は三角形の断面が柱を取り囲んでいる。14世紀に四層目を修復し五層目にドームを付け加え100メートル級に達したが、ドームは地震で落下してしまったという。そして、塔のすぐ南側にある四角い建物は、
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アラーイ・ダルワーザと呼ばれ、「奴隷王朝」後継のデリー・スルタン第2王朝ハルジー朝(1290~1320)」第3代スルタンのアラー・ウッディーンが1310年に建てた南門(当時は正門であった)である。南門は赤砂岩で造られており、カリグラフィーやアラベスクの紋様が刻まれ、白大理石がはめ込まれ朝日を浴びて美しく輝いている。


南門を入るとドームのある空間で四方の其々のアーチから出入りが出来る。右側(東側)のアーチを抜けると、砂岩で造られたドームを頂き、側面を透かし彫りの窓で覆われた小ぶりの建物がある。建物内には、1537年ムガル帝国時代に建設された聖者イマーム・ザミンの墓がある。


アラーイ・ダルワーザの門からクトゥブ・ミナールを離れ、西にしばらく進むと廃墟が現れる。アラウッディーン・マドラサでインド最古のイスラム神学校の跡である。遺跡内には、中庭と思われる跡や小さなドームが残っている。


アラウッディーン・マドラサを北側から再びクトゥブ・ミナールの近くまで戻り、柵の前で北側に回り込むと、


塔への入口があるが閉鎖されている。内部には378段の階段があり先端部まで上ることができた。しかし、1982年に修学旅行中の少女たちが階段で折り重なって倒れ死傷する事故があり、それ以来、内部への立入りは禁止されているとのこと。
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塔の入口前から北側に伸びる通りを、左側にあるクワットゥル・イスラム・マスジット(モスク)の外壁に沿って歩き、先にある東口からモスク敷地内に入る。


クワットゥル・イスラム・マスジットは、1188年、クトゥブ・ミナールの建築に先立ちインドで最初のイスラム王朝(奴隷王朝)のアイバクにより建てられたインドで現存する最も初期のモスクである。


現在も、建物を支える列柱が数多く残っているが、ヒンドゥ様式とイスラム様式が混在した様式となっているのは珍しい。これは当時あったヒンドゥ教・ジャイナ教の寺院を破壊して、その石材を再利用し制作されたためであり、建築に携わった職人もヒンドゥ教徒であったと言われている。


柱を良く見ると、ヒンドゥ教の神々らしき像の彫刻などが残っているのが分かる。
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列柱の残る回廊を背にして中庭には高さ7メートル(直径は約44センチメートル)のチャンドラヴァルマン鉄柱が立っている。一般に「アショーカ王柱」と呼ばれているが、アショーカ王の建てたものではなく、約700年後の3~4世紀グプタ朝時代(415年に建てられたともいわれる。)に造られたとされる。


鉄柱にはサンスクリット語の文字が刻まれ、頂上には装飾的なチャクラ(輪)があしらわれている。鉄の純度は100パーセント近いため、風雨にさらされているにも関わらず錆びていないが、純度の高い鉄製が錆びないとは科学的には誤りらしく、オーパーツ(場違いな工芸品)の一つにも挙げられている。しかし鉄柱の地下部分(埋もれている部分は約2メートル)では腐食が始まっていると言われている。


クワットゥル・イスラム・マスジットを出て、北側に向かうと、途中の西側には、アーチ装飾が美しい、奴隷王朝第3代スルタンのイールトゥミッシュ(在位:1211~1236)の大理石の石棺がある。北インドを支配したイスラム王朝の墓廟としては最古のものだがドームは崩落している。
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クワットゥル・イスラム・マスジットから北に150メートルほど離れた残骸の様な遺構は未完のミナレット「アラーイーの塔」である。1312年にハルジー朝のアラー・ウッディーン(在位:1296~1316)がクトゥブ・ミナールを超える塔を建設しようとしたが財政難で工事が中断し、現在は直径25メートルの巨大な基底部が残るのみである。


アーグラでムガル帝国の建築群を堪能していたが、時代を遡った初期のインド・イスラム文化(デリー・スルタン朝)の遺構に対してはその後の変遷をも感じながら興味深く見学できた。クトゥブ・ミナールは、世界遺産にも関わらず、この日は来場者も少なく郊外の緑に囲まれた遺跡散策ができ、気持ちも晴れやかになった。何と言っても朝からオートリキシャとの交渉もせず、快適で綺麗なメトロに乗れたことはラッキーだった。

園内を出て、再び20分ほど歩き、午前9時半にクトゥブ・ミナール駅に戻り、デリー・メトロ、イエローラインに乗り、途中バイオレットラインに乗り換えてJLN STADIUM駅で降りて、デリー中心部にあるフマーユーン廟に向かった。


フマーユーン廟(Humayun's Tomb)は、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーン(在位:1530~1540、1555~1556)の墓廟である。インドにおけるイスラム建築の精華の一つと評され、その建築スタイルはアーグラのタージ・マハルにも影響を与えたといわれる。


入場料250ルピーを支払い敷地に入ると、プロムナードが直線に伸びる庭園になり、白い二階建てのアーチ門が見える。右側には、イーサー・ハーン廟の入口門が見えるが、工事中で見学することができないようだ。この門の奥には1547年に建てられた宰相イーサーハーンの墓廟がある。さて、白いアーチ門を抜けると、更にプロムナードが伸び、前方に門が見える。


赤砂岩の入口門をくぐると前方に目的のフマーユーン廟が見えた。


墓廟周囲の庭園は、10ヘクタール以上の広大な敷地を有し、4つの区画に分けられたペルシア風の正方形の庭園(四分庭園)を構成している(※入口側からの俯瞰模型)。庭園には水路や園路が格子状に配され、それぞれの交差には小空間や露壇、池泉などが設けられている。


墓廟はアーチを持つ基壇(下層)と、その上に設けられた上層建築との二層構造となっている。下層(基壇)は、アーケードをめぐらせた東西南北の四面とも一辺約95メートルの矩形で、高さは約7メートルある。基壇の中央アーチの階段を上れば、そのまま上層建築のファサード前に到着できる。その上層建築は一辺約48メートルで、中央墓室を4つの正方形の墓室が対角上に取り巻くように配置されており、
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各面の中心にアーチ状の天井をもつ二段のイーワーン(南側入口はアーチのみ)があり、それぞれの窓は、格子状の大理石透かし彫りで形成されている。そして、イーワーン上部には、ヒンドゥ建築技法のチャトリや小さなミナレット(尖塔)が装飾されている。
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墓廟内へは、正面に向かって右側に回り込んだ南側の扉から入場する。墓廟内に入った天井には、モノトーン調の落ち着いた細工が施されている。


墓廟の中央墓室に進むと、3連アーチ窓が2段に並ぶ広い空間になる。


総白大理石の外殻ドームは高さ約38メートルあるが、中央の内部ドームを見上げると、屋根と天井を構成する二重殻を採用していることから12メートルほど下にあり、快適さを感じる程よい高さに工夫されている。


中心部に置かれている白大理石の石棺が皇帝フマユーンの墓だが、これは模棺(セノターフ)で、実際の皇帝の遺体を納めたお棺は同じ場所の直下に安置されているという。模棺の周りの幾何学紋様は、白大理石の星形正八角形を中心にしたパターンのようだが、視点によってズレを感じ、気持ちが悪い。


中央墓室の周りの4つの正方形の墓室にも模棺が置かれている。こちらは、ハミーダ・バーヌー・ベーグム(皇帝フマーユーンの妃で、第3代皇帝アクバルの母)とダーラー・シコー(ムガル帝国の第5代君主シャー・ジャハーンとムムターズ・マハルとの長男)などの模棺である。他にも墓廟には、重きをなしたムガル帝国の宮廷人たちの遺体等、全て合わせ計150人の死者が埋葬されているという。


墓廟から出てファサード前に立つと正面入口門の手前に美しい四分庭園の緑を望むことができる。デリー中心部の世界遺産だし混雑していると思ったが、来場者が少なくゆっくり見学できた。しかし、アーグラのタージ・マハルを見学した後に来るべきではなかったかもしれない。。


次に、オートリキシャに乗って(50ルピー)、ニューデリー国立博物館に移動する。


この時間、小学校らしき団体見学があり、館内から、敷地内を通って公道まで続く行列ができていた。あまりの生徒の多さに今日は貸切なのではないかと不安になったが、入館料600ルピーを支払い入場することができた。展示室はインダス文明の都市遺跡ハラッパー(Harappa)(BC3300~BC1700前後)の遺跡から出土した文物等からスタートする。


粘土でつくられた人形や、


陶器のコレクションが展示されている。


次に、仏教関連の展示室になる。マウリヤ朝時代(BC317頃~BC180頃)の巻き口髭が印象的な男性頭部像が展示されている。


こちらは「仏舎利を運ぶ象の行列(シュンガ朝、BC2世紀、バールフット出土)」。クシーナガルの地で亡くなった仏陀の遺骨は、当初統治部族のマッラ族が仏舎利の専有を表明したが、周辺国との間に争いが発生する事態となったため、結果として8等分され、それに容器と残った遺灰を加えて周辺内外の10か所の寺院に奉納された(八分起塔)。

この作品は、シュンガ朝時代(BC2世紀半ば)に、バールフット(インド中部にある仏教遺跡)で建てられた大ストゥーパ(仏塔)及び欄楯彫刻の一部で、踊る女性を先頭に象に乗った部族の行列が仏舎利容器を運ぶ姿を表している。
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全体的に丸みを帯びやや稚拙な印象を受けるが、伸び伸びと表現されており芸術性豊かな魅力的な作品。中央やや後部の象と象の間には仏舎利容器が表現されている。
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そして、その八分起塔から約200年後に、インド統一を果たしたマウリヤ朝のアショーカ王(在位:BC268頃~BC232頃)は、全国8か所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘・分類し8万余の膨大な寺院への再配布を行った。

その礼拝対象の一つとしてサーンチーにストゥーパが造られるのだが、こちらが、そのストゥーパの四方に設置されたトーラナ塔門(2本の方柱に上部に横梁が3本が渡されている。)のうち、南門の横梁に相当する破片である(BC1~2世紀)。横梁の渦巻形の端の上には守護像としてグリフォン(鷲獅子)の様な怪物が乗っている。


更に、同時期のBC1世紀頃から、インドでは石窟寺院(アジャンター石窟群等)などが各地に造られ始めた。石窟寺院には、礼拝対象の仏陀を象徴するストゥーパ等を祀る「チャイティヤ(祠堂)窟」と僧衆の居所「ヴィハーラ窟」があった。

こちらは「ティンパヌムの装飾(クシャーン朝、1世紀、マトゥーラ(カンカーリ・ティーラー)出土)」で、寺院の入口壁面(ティンパヌム)を飾った装飾の破片で、様々な動物に乗り、運搬する様子が表現されている。
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ところで、博物館内に入ったころ、まだ、小学校の生徒たちは、館内の廊下から館外に向け並んで待機させられていた。生徒の見学が始まったら大混雑するのではと不安になったが、実際には、生徒は一糸乱れず、一列でするすると展示室を一目しながら通り過ぎて行った。作品には近づかないので、鑑賞にはまったく影響がなかった。教育が行き届いているのだろうか、大変驚かされた。。

「美女酔態(クシャーン朝、2世紀、マトゥーラ(マホーリー出土))」。酔いつぶれしゃがみ込む女性像は、ほとんど全裸で豊かな肉体を誇示しておりインド神話に登場する豊饒・多産の女神ヤクシー(夜叉女)そのものである。
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「仏陀立像(2世紀、ガンダーラ出土)」。ガンダーラ地方はインドの西北、現在のパキスタン北部に位置し中央アジアからインド通路への要衝として重要な地域であった。BC6世紀には、アケメネス朝ペルシアの一州ともなったが、BC4世紀にアレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼし、ギリシア文化(ヘレニズム)が伝えられた。1世紀にはクシャーナ朝のカニシカ王が篤く仏教を保護したことにより、この地にヘレニズムと仏教が融合したガンダーラ美術が誕生し、初めて仏像が造られた(マトゥーラ地方が最初との説もある)。ガンダーラ仏の特徴は、波状の頭髪を束ねて髪を結い、風貌も鼻筋が通ったギリシア彫刻の影響を受けている。
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「執金剛神を従える仏陀(2世紀、ガンダーラ出土)」。金剛手、持金剛とも称される仏教の護法善神である。金剛杵を執って仏法を守護するため、この名がある。
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シッダールタ王子を訪れるアシタ仙人(2世紀、アマラーヴァティー出土)」。作品は、ストゥーパ欄楯柱の浮彫装飾で、王子の誕生を祝って宮廷にかけつけたアシタ仙人が、父シュドーダナ王(浄飯王)に対し「長じて偉大な王になるか、出家して偉大な宗教者になる」との予言を伝える場面。卓越した彫りの深浅技術が、見事な光の陰影を生み出している。アシタ仙人の予言に喜びつつも、出家への不安を感じる父王の姿を中心に多くの人物が生き生きと写実的に表現されている。

アマラーヴァティーは、インド東南部アーンドラ地方のクリシュナ川沿いにあり、デカン高原を中心とした中央インドを統治したサータヴァーハナ朝(BC230頃~220頃)が拠点としていた地で、国家の保護の下、バラモン教、仏教やジャイナ教などが栄えた。
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そして、こちらは「仏伝図(3世紀、ナーガルジュナコンダ出土)」。欄楯柱のレリーフは三段になっており、下段には、マーヤー夫人の「託胎霊夢(白象が右脇から胎内に入り込む夢を見て王子を懐妊する)」の後、マーヤー夫人の夢をバラモンが占う「占夢」が表現され、中段には、ルンビニー園で産気づき無優樹の樹枝を右手で掴むと右脇腹から王子が誕生する場面で、王子は傘と払子で表されている。上段には、先程と作品と同じくのアシタ仙人の予言の場面が表現されている。
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ナーガルジュナコンダは、サータヴァーハナ朝後のイクシュヴァーク朝が拠点を置いた南インドの仏教文化の中心地で、多くの遺跡が発掘されている。アマラーヴァティーを流れるクリシュナ川上流にあるが、現在はダムが建設され遺跡群は丘の上に移設・保護されている。

「仏伝図(3世紀、ナーガルジュナコンダ出土)」。アシタ仙人の予言を聞いたシュドーダナ王は、シッダールタ王子が出家しないように、宮殿内で何不自由ない豪奢な生活をさせる場面が、巨大な横梁に表現されている。


「仏陀立像(グプタ朝、5世紀、サールナート出土)」。サールナートは、ヴァーラーナシー(ベナレス)の北方10キロメートルに位置する仏教の四大聖地の一つ。仏陀が悟りを開いた後、初めて教えを説いた初転法輪の地とされる。その周辺から出土した像は「サールナート仏」と呼ばれている。こちらの作品は、薄手の通肩の衣を身に付けた仏陀の肉体美を感じさせる見事な作品である。
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なお、サールナート考古博物館に収蔵されている「初転法輪像」は最高傑作と評されている。

金色のストゥーパが展示されている。手前(左右2組)の仏舎利容器が、仏陀の生誕地カピラヴァストゥ(ピプラーワー)から出土したもの。黄金細工の容器には、チベット、ネパール、カンボジア、ミャンマーなどのイメージを反映した仏陀像が取り囲んでいる。ガラスケースには、舎利が納められており見ることができる。舎利容器の周りでは合掌する信者の姿が絶えない。

ところで、ビハール州の州都パトナー博物館で見た、ヴァイシャーリーの仏塔から出土した舎利容器については、厳重な警備の下、特別室で拝観したこともあり神々しさを感じ感激したが、こちらの展示方法は、見世物にしている様な印象を受け少し不満を感じた。。

ヒンドゥー教関連の作品も多く展示されている。こちらは「ヴィシュヌ像(グプタ朝、5世紀、サールナート出土)」で、仏陀立像(サールナート仏)とよく似た肉体表現がされている。ヴィシュヌはヒンドゥ教において、シヴァと並ぶ最高神として崇められる存在だ。


「ガネーシャ像(パーラ朝、5世紀、サールナート出土)」。言わずと知れたヒンドゥ教のスーパースター。インドでは現世利益をもたらす神とされ、非常に人気がある。また「富の神様」として商人などから絶大な信仰を集めている。車のフロントガラスに飾るドライバーも多い。パーラ朝は、北東インド(ベンガル地方とビハール地方を中心とした地域)を支配した王朝(750~1174頃)で、仏教を厚く保護した。この時代、絵画、彫刻、青銅の鋳造技術などが著しく進歩して、仏教美術では「パーラ式仏像」を生み出し世界的に有名となった。


「マヒシャースラの殺し屋(パーラ朝、10世紀、ビハール出土)」。ヒンドゥ教の書物「デーヴィー・マーハートーミャ(神の栄光)」から、女神ドゥルガー(3つ目を持ち額中央に1つ目がある。10本或いは18本の腕にそれぞれ神授の武器を持ち獅子に乗る。)が、マヒシャースラ(アスラ神族ラムバーと水牛の間の子)を倒す場面を表現したもの。
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「ナヴァ・グラハ(九曜神)(プラティーハーラ朝、8世紀、チットールガル、ラージャスターン州出土)」。まぐさ石に表現されている。中央の坐像たちは、インド占星術が扱う9つの天体を神格化した神でインド神話に登場する。プラティーハーラ朝(750頃~1036頃)とは、インドの分裂時代(ラージプート)の北西インドを支配したヒンドゥ王朝である。
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「ガンガー像(グプタ朝、5世紀)素焼き」。ガンジス川を神格化した女神で、クンビーラ(ワニの乗り物)に乗っている。ガンジス川は、ヒンドゥ教徒にとって聖なる川と信仰されており、沐浴すれば全て罪は浄められ、死後、遺灰を川に流せば輪廻から解脱できるとされている。


「四面多羅菩薩像(ガーハダヴァーラ朝、11世紀・サールナート出土)」。インド神話に登場する女神ターラーで、仏教では観音様の眼から放たれた慈悲の光から生まれたとされている。「救度仏母」とも呼ばれ、あらゆる衆生を救いまたあらゆる仏の母であるとも言われている。チベット仏教では特に人気がある。ガーハダヴァーラ朝(1090~1193)とは、インドの分裂時代(ラージプート)の北西インドを支配したヒンドゥ王朝である。
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「仏陀と6人の弟子(3~4世紀、ミーラン遺跡)」。仏塔壁画からの断片で、絵の力強さにヘレニズムの影響を受けている。左側の両肩を覆う朱の衣を着た人物が仏陀で、右側の6人の弟子を伴っている。弟子の一人は手に払子を持っており、右側には花が描かれている。仏陀の故国カピラヴァストゥの訪問により、釈迦族の王子や子弟たち6人が次々と出家し弟子となった場面であろう。
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ミーランは、タクラマカン砂漠の南にあった古代のオアシス都市で西域南道に位置している。1907年、イギリスの探検家オーレル・スタインにより発見され研究が進められた。

他に「牛飼いの女性たちと戯れるクリシュナ(1730年。パハール語バソーリ派)」など、ペルシアの細密画を祖としたムガル帝国の宮廷で作成された細密画の連作を鑑賞した。こちらの題材は、クリシュナを讃える逸話の一つで、インドラ神が降らせた大雨に対し、クリシュナがゴーヴァルダナ山を引き抜き指に乗せ、牛飼いたちを雨から守り、牛飼いの女性たちの人気を集めた場面である。
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そして次に、クリシュナが牛飼いの女性たちの内の1人、ラーダーを愛する細密画に続く。。

豊富なコインの展示には驚かされた。展示室には、鋳造作業の模型や、インドの各王朝が鋳造した金・銀・銅貨コインから、イギリス植民地時代の多種類のコインまで展示されている。


他の展示としては、ムガル帝国時代の武器・楯・甲冑や、実物大の模型の象の武装などが展示されていた。


中庭にアショーカ王が摩崖岩に刻ませた詔勅(法勅碑文)が展示されている。アショーカ王はカリンガ戦争で多くの犠牲を出したことを反省し、仏法につとめ、子孫が同じあやまちを犯さないように、法勅を各地の岩や石柱に刻んだ。


約2時間強、じっくりと博物館を見学した後、デリー・メトロに乗り、コンノート・プレイスで乗り換え、ラーマクリシュナ・アシュラム・マーグ駅(RK Ashram Marg)まで戻った。


メイン・バザール(バハール・ガンジ)沿いを歩いて、


雑居ビル3階にある「クラブ・インディア・カフェ・デリー」で遅めの昼食(午後2時半)を食べることにした。


この時間、お客は他にいなかった。窓際の席に座り、市場が開かれている広場を眺めながら、生ビールとチーズペンネ(計280ルピー)を頂いた。ワインがないのが残念だったが、久しぶりにチーズを使った料理は嬉しかった。

その後、疲れたので、ホテルに戻り休んだ後、午後10時過ぎに再訪して、今度は焼きそば、春巻き、生ビール(計275ルピー)を頼んだ。
(2012.12.8)
コメント (3)
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