カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スリランカ(その2)

2013-03-01 | スリランカ
ヘリタンス ティー ファクトリーホテル(Heritance Tea Factory)で朝を迎える。ホテルは、スリランカ中部州の紅茶で有名なヌワラ エリヤから北東に車で40分ほどの標高1980メートルの高所に立つ高級ホテル(5つ星)である。紅茶工場を改築して建てられたため、外観は簡素だが、内装は、中央部が吹き抜けで、高級感がある木材に、緑のカーペット、赤く塗られた柱や梁が張り巡らされお洒落な雰囲気がある。


ホテル前の広場の先は、手すりで覆われた展望台で、向かい側(北側)の斜面には茶畑が広がっている。


ホテルに向かって左側に進むと、ティー ファクトリーと書かれた看板があり、下の斜面沿いに小さな農園がある。


午前8時、ガイドの車に乗りホテルを後にした。これからスリランカ中部州の州都キャンディに向かう。昨日上ってきた山道を下りながら振り返るとホテルが遠ざかって行く。ピドゥルタラーガラ山の南側からA5号線を北西方面に進み、昨日見学したマックウッズ紅茶工場を過ぎ、更に山道を進んでいく。ホテルからキャンディまでは、約100キロメートルの道のりだが、大半が山道の走行となり時間がかかる見込みとのこと。


ガイドと相談して、最初にキャンディから南西10キロメートルに位置するキャンディ近郊の古寺「エンベッカ寺院(木の寺)」を見学することにした。時刻は午前10時を過ぎ、まもなく到着するころ、突然、道路工事の現場に遭遇し10分ほど待たされた。通行許可が出た後、悪路を500メートルほど進むと、周りに立ち並ぶ民家が見えてきた。

車を降りて、入口で入場料を支払い敷地内を進むと、切妻屋根の木製の建物が見える。近づいてきた細面で白ひげを生やしたエンベッカ寺院のガイドに従い、靴を脱いで廊下に入る。廊下は、一定間隔に設けられた左右の木造柱に支えられた大きな屋根で覆われている。周りには壁がないため開放的な空間となっている。一番突き当りのアーチ扉が本堂になる。


屋根の内側には天井はなく棟木と垂木がむき出しになっており、梁の上の束柱と「マドル クルパワ」と呼ばれるキャッチピンで固定されている。キャンディ地方で見られる伝統の木材工法とされている。


雲状にデザインされた大きな力垂木によって深い軒がささえられている。柱と梁が交差する所には、蓮の花弁の彫り物が組み込まれている。横から見ると下に垂れ下がって見える。


エンベッカ寺院は、ガンポラ王朝の14世紀の王、ヴィクラマバーフ3世(在位1356~1375)により、カタラガマ神であるスカンダ神を奉るために建てられた木造寺院である。建設当時は集会場としても利用されていた。廊下突き当たりの本堂の扉口の内側には「カタラガマ神」の布製絵像がかかげられているが、奥に祀られた本尊は見ることはできない。


カタラガマ神とは、スリランカ南部にある地名に由来するが、もともとヒンドゥ教神話に登場するムルガンという戦士の神を表わしている。ムルガンは、ヒンドゥ教徒には大変人気があり、破壊神シヴァの息子とされ、軍神スカンダと同一視されるようになった。6つの顔と12本の腕を備え、孔雀に乗り槍を持つ青年の姿であらわされる。仏教では韋駄天(異名クマーラからは鳩摩羅天)となった。

本堂に向かって右側の大きな扉の奥には、仏陀像が祀られている。


しかし、何と言っても見どころは、渡り廊下の木製柱の中ほどに施された浮彫パネル(ボワズリー)である。人の目の高さにあり、動物、女神、人魚、スポーツする人物、風習など、異なる514ものモチーフが柱の4面に彫りこまれている。こちらは、剣と盾を持つ勇士のモチーフである。


こちらは、羊と象だろうか。象は手なずけられているように見える。


こちらは踊るアプサラ女神像。キャンディアン ダンスかもしれない。


象と雄牛が組み合わさった動物のモチーフ。


西洋では古来より紋章などで良く見られる双頭の鷲だが東洋では珍しい。比翼の鳥だろうか。


エンベッカ寺院で30分ほど見学して後、次に、北方面に車で15分ほど離れたピリマタラワにある「ガダラデニヤ寺院(石の寺)」(キャンディからは西に約13キロメートル)にやってきた。門を入ると、緩やかに起伏する岩盤が現れ、その岩盤がそのまま寺院の境内地になっている。門の脇には、ストゥーパがあり、その上を屋根で覆っている。岩盤の上を歩いて行くと、奥に石造りの本堂と隣に赤い瓦屋根の礼堂がある。1344年、最初のガンポラ王ブヴァネーカバーフ4世(在位1341~1351)によって建立された。


また、この寺院は、パラークラマ バーフ4世(在位1421~1467年)の時に、修復工事がなされ、寺の表面に漆喰が塗られた。上部には、修復中でよく見えないが、ストゥーパかドームを思わせる構造物がある。


本堂に向かって左の柱には仏教のシンボルである法輪が彫られているが、右の柱にはヒンドゥー教の破壊神、踊るシヴァ神(ナタラージャ)が彫られている。ガダラデニヤ寺院は、仏教とヒンドゥ教が融合している。


基壇の側面にも細かい彫刻が施されている。楽しそうに踊るキャンディアン ダンスを表わしている。


本堂内に入ると黄金に輝く南インド風の仏陀像が祀られている。高さ2.43メートルあるディヤーナ ムドラ(瞑想の印)の坐像である。創建時の像はポルトガル人によって破壊されため、現在の像は18世紀に造られた二代目である。


仏陀像の後背には、インド神話に登場する怪魚マカラのアーチがある。両肩上部の口が、怪魚マカラで、水の神ヴァルナ(水天)の乗り物として知られている。日本の鯱のルーツとされている。


アーチの頂上には獅子の彫刻がある。水場にある彫刻蛇口のようである。


仏陀像の左右には、立像が施されている。そして、更に両側面壁にも、立像があるが、こちらは最近修復されている。


本堂を出て、右側手前に建つ仏塔(ストゥーパ)に向かう。高台の上の高さ約3.4メートルの仏塔を中心に周囲に4基の小仏塔を配置している。仏塔に屋根が設けられているのは珍しく、これはヒンドゥ教の影響らしい。


中を覗くと、赤い衣を身に着けた黄金の仏陀坐像が祀られている。やはり背後には、獅子と怪魚マカラがデザインされたアーチが見える。アーチの上には、4体の護神像が見える。


壁面はフレスコ画である。こちらには、仏弟子が描かれてる。


午前11時半を過ぎ、もう一か所予定していた「ランカティラカ寺院(絵の寺)」には時間の都合で行けなくなった。もともと当初の行程には入っていなかったので、2か寺行けただけでも良かったかもしれない。途中のレストランでカレーを食べて、次は西に30キロメートルほどの距離にある「ピンナワラの象の孤児園」に向かう。

午後1時半に到着すると、大勢の人が象の前に集まっており、哺乳タイムの最中だった。午後2時からは、マハオヤ川での水浴びが予定されており何とか間に合った。このピンナワラの象の孤児園は、サバラガムワ州ケーガッラにあり、親を亡くしたり、はぐれてしまった子ゾウを保護している施設である。入園料は、外国人用価格があることから、現地の20倍の2,000ルピーと高額に設定されている。


マハオヤ川までの途中にはお土産屋及び、レストハウスが並んでいる。お土産屋には、象の糞に残った葉っぱの繊維を利用したエコノートなどの紙製品が販売されていた。午後2時になると、象が水浴びのために行進してくるため、お店の入口横で見学のために陣取ったが、見物人の多さに驚かされた。しばらくすると、ラッパの合図と共に次から次へと象が行進してきた。


一般的に見る、動物園でののんびりとした象とは異なり、目の前を象の群れが通りすぎるのは、大変迫力があった。本来、象は時速40キロのスピードで移動するとのこと。この孤児園には、現在70頭ほどの象が、マハウトと呼ばれる世話人50人程により世話されている。象の1日は哺乳タイムが3回と、川での水浴びが午前10時からと午後2時からの2回行われる。


マハオヤ川での水浴びは、気持ちよさそうだ。これだけの象を養うことを考えれば、外国人料金設定もやむを得ないかもしれない。。


午後4時を過ぎ、キャンディ湖が見える高台のビューポイントに到着した。キャンディ市街は標高465メートルのスリランカ中央高地に位置している。対岸に見えるのが、旧王朝の行政府があった場所で、現在は、キャンディ王宮、キャンディ国立博物館、国際仏教博物館(旧裁判所)、ダラダー マーリガーワ寺院(仏歯寺)(新宮殿)などの観光名所が集結している。


これから、ダラダー マーリガーワ寺院の見学に向かうことにしている。寺院は仏歯寺と呼ばれ、紀元4世紀にインド東部のカリンガ国からもたらされた仏陀の犬歯が納められている。もともとは王権正統性の証としてアヌラーダプラの寺院に納められたが、都がポロンナルワへ移動すると共に仏歯も一緒に移動し、キャンディに王朝が築かれた1592年以降は仏歯寺(1603年建築)に祀られた。

クイーンホテルの横で車を降り、道路向い(東側)の石造りに瓦屋根のある正面門から入場する。セキュリティ チェックを終えると、広い公園内になり、幅5メートルほどの石畳の道がまっすぐ東側に続いている。その石畳の両側(南北)には芝生が敷き詰められ、南側にはキャンディ湖が望める。石畳の道を200メートルほど歩いた先は丁字路の広場で、北隣には、ストゥーパ(仏塔)が見える。


広場の前(東側)には白いオブジェ風の石垣が設けられ、その先に「パスティリプワ」(タミル語で”座って周りを見る”の意味)と名付けられた、赤い屋根の八角形のパビリオンが建っている。南側に回り込むと、石垣との間には水濠があり、キャンディ湖から水が引き込まれている。


パスティリプワと濠は、1802年シンハラ王スリ ヴィクラマ ラジャシンハ(1780~1832、在位:1798~1815)により建てられた。彼はキャンディ王朝(1469~1815)最後の王で、その後、1972年までスリランカ全島は、イギリスの植民地となっている。

パスティリプワの北隣に、水路を階段で渡る仏歯寺の正面玄関(マハワハルカダ)がある。寺院の正面を飾るマハワハルカダとパスティリプワは、1998年6月25日、タミル人のテロ組織「タミル イーラム解放のトラ」(LTTE)の爆発物を積んだトラックにより爆発し大きく損傷している。この事件は、当時、仏歯寺がイギリスからの独立50周年祝賀会の中心会場でもあり、世界に大きな衝撃を与えた。


その後、この事件に対する報復として、シンハラ人は、タミル人が経営する店舗やヒンドゥー教寺院などを襲撃し対立抗争は泥沼化していく。スリランカは、シンハラ人(74%、主に仏教徒)やタミル人(18%、主にヒンドゥー教)、スリランカ ムーア人など約2,000万人が住む多民族国家で、1983年から2009年にかけて政府とLTTEによる内戦が繰り広げられた。

現在では修復されたマハワハルカダを入るとトンネルになっており、入口の上部には、仏陀像の後背のアーチと同じ怪魚マカラと獅子があしらわれている。トンネル内部には壁画が描かれている。


トンネルを抜けると広いスペースがあり、中央に木造2階建のお堂(本堂)がある。


柱には、細かい装飾がされている。本尊前には、仏歯の入った舎利容器と礼拝する飛天たちが織り込まれた覆いがかけられている。


まわりを見渡すと、後ろに石壇があり両端には守護神像(ガードストーン)が配されている。


石壇を登ると、回廊があり、奥に礼拝堂がある。比較的新しい印象で、黄金の仏陀像(本尊)が見える。


黄金の仏陀像の周りにも多くの仏陀像が祀られている。世界各国から寄贈された仏像であり、象牙などで厳かに装飾されたものもある。


回廊の両側には仏陀の誕生から入滅までと、その後の仏陀の歯の歴史が、21枚の絵と共にシンハラ語と英語で説明されている。こちらは、仏陀がインドのクシナーガルで荼毘に付された後、仏歯がインド東部のカリンガ国のブラフマダッタ(Brahmadatta)王に手渡されているところ。


こちらは19世紀半頃のペラヘラ祭の様子で、左側に着座する集団の中心で足を組んでいる人物はイギリス植民地時代の第5代セイロン総督、エドワード バーンズである。向かい側には、装飾された象を中心に音楽隊やダンサーなどの群が見える。右上に八角形に赤い屋根のお堂があり象の後方には歯を納めた舎利容器が光を放っている。


ペラヘラ祭(行列の意味)は、スリランカの各地で行なわれているが、ここキャンディのエサラの月の新月から満月にかけて2週間行なわれるペラヘラ祭りが中でも最大の規模である。この期間は、国内外からの観光客でキャンディのホテルは大変混み合う。歯を納めた舎利容器を背に乗せた、装飾された象を先頭に、100頭もの象が音楽隊や数百人のダンサーと一緒に夜の街を歩いてパレードする。圧巻の祭りで、ペラヘラ祭の際に仏歯の入った仏舎利を入れて運ぶケースが展示されている。


2階に向かう途中に、仏歯がスリランカへ持ち込まれた様子が描かれている。インド東部のカリンガ国王は娘ヘーママーラを島に嫁がせる際に仏歯を持参させた。ヘーママーラは髪の毛の中に仏歯を入れて持ち込んだと言われているため、髪の頭部が光って表現されている。向かって右がヘーママーラ、左はダンタ王子。


2階に上がると、お堂があり、内陣の手前は献花台になっており、多くの花が供えられている。


毎日朝、昼、夕の3回「ブージャー(礼拝)」が行われ、この間、仏歯がおさめられた舎利容器が公開される。時間が近づくと、みるみるうちに、多くの参拝者が集まって来た。拝観の列がつくられ、行列はまたたく間に伸びていく。時間になると、列は進みだすが、停まって拝観は出来ない。小さな窓から、一瞬、黄金の舎利容器が見える。ちなみに歯そのものは10年に一度だけ公開されるそうである。大混雑の中、あっと言う間であった。。


寺院の北側には2列の柱に支えられた重厚な屋根を持つ「王の集会所」がある。1783年に、スリ ラジャディ ラジャシンハ(在位1782~1798)により建てられた。木製の屋根を支える木製の柱に、キャンディ伝統の木彫りが施されている。エンベッカ寺院に似ているが、はるかに大きく柱の高さが7メートルある。敷地は建設時は、17.7メートル×10.9メートルだったが、1872年に、プリンス オブ ウェールズ(後のイギリス王エドワード7世)訪問の際に改装され、横幅が9.6メートル延長された。


西側の濠のそばにラージャ タスカー博物館ある。北隣に王宮があり、もともとは、王の休憩所だった。こちらに、ペラヘラ祭で最も重要な役目は歯を納めた舎利容器を背中に乗せて行進する象が展示されている。この剥製は、ラージャという象で65歳で亡くなるまで1987年まで50年もの間勤めていた。ラージャは1985年には当時にジャヤワルダナ大統領からスリランカ国宝の指定を受けている。


ラージャと大統領との写真が展示されている。


時刻は午後5時半になった。仏歯寺裏のカルチュラル ホール(キャンディ芸術協会)にキャンディアン ダンスの鑑賞にやってきた。激しいドラム演奏と共にショーはスタートし、踊りが展開される。


キャンディアンダンスは、数分程度の10ほどの趣向の異なる踊りが組まれている。


最後は会場に炎を持ち込んで、ファイヤーダンスが行われた。こちらは口から火を吐くギニ シシーラ。観客席にまで炎の熱気が届く。そして燃える焚火の上を裸足で歩く(火渡りの儀式)迫力のある演出で締めくくる。


仏歯寺の裏のキャンディ国立博物館を見学した。かつての王妃の宮殿の建物で、主にキャンディ王国時代の宝物やキャンディアン ダンスで使用される装飾品などが展示されている。こちらは仏舎利塔である。


スリランカの北西部州クルネーガラで造られた。貝葉で造られた最古の経典とある。


これで今日の予定は終わりである。ホテルに到着後、早々に館内にあるレストランに食事に行く。午後9時と、遅い夕食になったが、充実した1日を終えた。

(2012.9.13)
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スリランカ(その1)

2013-03-01 | スリランカ
バンダラナイケ(コロンボ)国際空港で入国手続きを済まし到着ロビーに出ると、赤見を帯びた唇と肌に密着する衣裳が印象的な仏陀坐像が飾られている。今回、9月9日(日)~9月18日(火)の日程でスリランカにやってきた。利用したスリランカ航空は、成田からの直行便(週4日運行)のため、飛行時間も9時間20分と大変アクセスが良い。


時差は-3時間半で日本の方が3時間進んでいる。現在、コロンボ(現地)時間で午後7時半になったところ。今夜の宿は、コロンボ中心部から、約13キロメートル南にある「マウント ラビニア ホテル」を予約している。バンダラナイケ国際空港からコロンボ市内までは35キロメートルなので、ホテルまでは約50キロメートルほどの距離となる。

タクシーに乗りホテルまでは、約1時間半ほどかかった。フロントでチェックインを済まし、ホテルの外にあるシーフードレストランに食事に向かった。レストランは、砂浜に建つ茅葺屋根の木造建築で「海の家」と言った雰囲気である。テラス席に案内してもらったが、周囲は暗く、海岸線も真っ暗で波の音だけが聞こえてくる。


注文は、店内に並べられた魚介類から、食べたい食材を選んで調理してもらうシステムになっている。テラス席でビールを飲みながら待っていると美味しそうに調理された料理が運ばれてきた。内容は、生牡蠣、海老のピリ甘辛と白身魚の照り焼きのプレート、デザートだった。ロウソクの炎に照らされ食事をしていると、南国に来たことを実感させてくれる。


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翌朝は、少し遅めに朝食(ブッフェ)を食べることにした。昨夜は暗くて良く分からなかったが、ホテルは、北西方向にやや突起した半島にあり、中央棟の3階がホールで朝食会場となっている。北隣は半屋上でプールとテラス席が広がっており、その先はヤシの木が伸びる岩海岸となっている。そして、シーフードレストランは、ホテルの南西側の砂浜が続く海水浴場側にあった。


マウント ラビニア ホテルは、もともとイギリス提督の別荘で、当時のコロニアル様式(植民地様式)のまま保存されている。白い外観が特徴の4つ星ホテルで、提督が恋に落ちた現地の娘の名前に因んで名付けられている。今日は、コロンボ市内にある「コロンボ国立博物館」に行く予定にしており、午前10時前にホテルを出て東側の通りを右折して、最寄りのマウント ラビニア駅に向かった。こちらは、その通りから振り返った様子で、手前の4階建ての白い建物は、中央棟の東南側にある客室棟になる。


マウント ラビニア駅までは歩いて7分ほどだった。アーチ窓がある洒落た黄色の石造りの平屋駅舎だが、屋根はトタン屋根でややアンバランスな印象。入口を入るとすぐにホームとなる地上駅で4ホームあり跨線橋で繋がっている。運賃は2クラスで20ルビーだった。しばらくすると重厚な造りの列車がやってきた。


列車は西の海岸線を見ながら北に向かう。スリランカの西側はラッカディブ海で、その先はアラビア海となる。コロンボから北西側には200キロメートル先にインド大陸があるが、西側は1000キロメートル先のモルディブ諸島しかない。何処までも続く水平線は眺めが良いが、乗降口の扉の開けっ放しは、少し危険である。。


コロンボ国立博物館は、コロンボ フォート駅の3駅手前のコッルピテヤ駅(マウント ラビニア駅からは乗車時間30分ほど)を下車し、東へ約1キロメートル行ったヴィハーラ マハー デーウィ公園の一角にある。歩くには暑かったのでスリーウィラー(小型の三輪車両)に乗ったが、一方通行が多く回り道をしたので遠く感じた。博物館の敷地内には、日本では御目にかかれない巨大な菩提樹「ベンガル菩提樹」(バンヤン ツリー)が聳えていた。


コロンボ国立博物館は2階建で、1階が主に仏教関係の遺物の展示スペースとなっている。正面入口を入り、左手に進み最初の展示室を入ると、正面に菩薩像が展示されている。紀元9世紀、アヌラーダプラ時代のブロンズの観音菩薩像である。


スリランカでは、多くの国民が仏教を信仰(仏教徒が70%、ヒンドゥー教徒が10%、イスラム教徒が8.5%、キリスト教徒が11.3%)している。しかし、日本、チベット、中国、朝鮮などの大乗仏教(北伝仏教)とは異なり、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなどに伝えられた上座部仏教(南伝仏教)である。諸国の中では、紀元前三世紀、インドのアショーカ(阿育)王の子マヒンダ長老によって最初に上座部仏教がスリランカにもたらされている。

ちなみに、現在もスリランカは仏教国と言われるが、スリランカ憲法では、仏教に「第一の地位」を与えると明記されていることから、仏教が国教ではない。

スリランカの仏教は、上座部仏教のマハー ヴィハーラ(大寺派)であり、大乗仏教のように諸仏を崇拝しない。しかし、12世紀以前までは、大乗仏教を受け入れていた無畏山寺派があったことから、観音菩薩をナータとして崇拝されてきた。像は、冠を被っているが、瓔珞は着けていない。髪の毛は長髪で肩にかかっている。半跏趺坐や結加趺坐でもなく、無造作に片足を上げてくつろいだ姿をしている。


こちらには、9世紀~10世紀制作のアヌラーダプラ時代のブロンズのサマーディ仏陀坐像が4体展示されている。サマーディとは、三昧のことで、瞑想を行った結果訪れる精神的な状態を表している。アヌラーダプラは、スリランカ北中部州にある古都で、紀元前5世紀から紀元11世紀に至る間、北部を根拠地としたシンハラ人を主とする王朝の都として繁栄した。


こちらも同時代の9世紀アヌラーダプラ時代に制作された黄金の仏足石で41センチメートルある。


こちらは、12~13世紀、古都ポロンナルワ期のヒンドゥー教の神、踊るシヴァ像(ナタラージャ)。ポロンナルワは、スリランカ北中部州にある中世の古都で1017年から1255年までスリランカの首都があった。


ヒンドゥー教の女神、ドゥルガー神。ドゥルガー神は悪魔の水牛マヒシャースラを退治する構図が多いが、こちらは立像である。10世紀、アヌラーダプラ時代のもの。


7世紀、シーギリヤの三仏陀像。大乗仏教では、左右に菩薩像を配置する三尊像が有名だが、三体の仏が並ぶ姿は珍しい。七仏像は、過去七仏として信仰されていることから、損壊して三体になったのかも知れない。シーギリヤは、スリランカの中部州のマータレーにあり、シンハラ王朝の5世紀に、カッサパ1世(在位477~495年)により、それまでのアヌラーダプラから都を遷都し発展した。しかし数年後、再び、都はアヌラーダプラに戻っている。


博物館の2階には、工芸品、仮面、人形などが展示されている。こちらは、スリランカの南西部海岸地域に伝承されている仮面舞踊劇コーラムの仮面、蛇神面(ナーガ・ラクシャ)である。かなり重量がありそうである。


ガラスケースには、4体の人形が展示されている。天井から操作する糸操り人形である。東南アジアで見られる棒つかい人形と比べると写実的であり、ヨーロッパ系統のマリオネットを思わせる。


1時間半ほど見学した午前12時半に、博物館を後にして、スリーウィラーでヴィハーラ マハー デーウィ公園の北にあるパーク ストリート ミューズに食事に行った。もともと倉庫が並ぶエリアだったが、改造して出来たコロンボで一番おしゃれなレストラン街である。


最初に、百獣の王といった雰囲気たっぷりのライオンがデザインされた「ライオンビール」を飲む。ライオンビールは、1881年創業のアジア最古の醸造所を持つライオン ブリューワリーの定番商品で、さっぱりとした後味とモルトの香りが楽しめる。中央高地ヌワラ エリアの滝の水が使用されており、2006年にはモンドセレクション金賞に輝いている。しかし、スリランカにはライオンはいないらしい。


昼ご飯を食べて、そばの「スパセイロン」で1時間ほどマッサージをしてもらう。。


体力も回復したため、パーク ストリートの西側にあるベイラ湖上に建つ「シーマ マラカヤ寺院」に歩いて向かう。湖畔沿いの大通り沿いには、多くの人が並ぶ行列が続いている。道路脇には、装飾された車も置かれており、警官もあちこちに立っている。近くのギャンガラマヤ寺院が行列の先頭になっている。スリランカでは毎月満月の日に満月際(ポヤデー)という満月をお祝いする仏教のお祭りがあるが、時期的にはまだ先のはずである。行列の理由は分からなかった。


ギャンガラマヤ寺院を過ぎると湖が現れる。桟橋を渡り途中にある涅槃像と仏足石を過ぎた湖面に浮かぶ寺院が、目的の「シーマ マラカヤ寺院」である。赤い屋根が多いスリランカにおいて青い屋根瓦は珍しい。寺院は10メートル四方の本堂を中心に、北側に小さな会堂と南側に小さなストゥーパと菩提樹がある島から成り立っており、それぞれ橋で結ばれている。スリランカを代表する建築家ジェフリー バワ氏による設計で、湖上に浮かぶヴィラを連想させてくれる。


本堂の周りには様々な印を結ぶ頭部が尖った宝冠を思わせるタイ風の仏陀像が鎮座している。


ストゥーパの横には、仏陀像が立っている。なだらかな曲線と穏やかな表情をした典型的なスリランカ像である。


一通り見学が終わると、もうすぐ午後6時である。コッルピテヤ駅から再び列車に乗る。


車内からは、ラッカディブ海に沈む夕日を見ながらマウント ラビニア駅に戻った。


ホテルの部屋でお風呂に入り汗を流した後、昨夜に続いて砂浜沿いのシーフードレストランに夕食を食べに行く。


今夜は店内のテーブル席に案内してもらった。エビ、イカなどをグリルしてもらいチリソース風味でいただく。


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今日は、マウント ラビニア駅から、列車「Rajarata Rajini」(北中部地方の女王号)に乗り、スリランカ南西海岸の先端部に位置する「ゴール」(スリランカ南部州ゴール県の州都で県都)に向かう。約2時間の旅(運賃は2クラス170ルビー)である。到着した列車は、ドアからはみ出すほど人が乗っていたため、連結付近で、すし詰め状態で乗っていたが、途中の駅で多くの人が降りて、ようやく座席に座ることができた。


今回、ゴールで、ガイドと車を雇っており、世界遺産「ゴールの旧市街と要塞」の見学を皮切りに、他の5つの世界遺産「聖地アヌラーダプラ」、「古代都市ポロンナルワ」、「古代都市シーギリヤ」、「聖地キャンディ」、「ダンブッラの黄金寺院」を7日間で見学する予定にしている。

列車は、定刻どおりゴール駅に到着した。乗車中にスコールがあったが、こちらゴールは快晴だ。


今夜のホテルは、ジェットウィング ライトハウス(Jetwing Lighthouse)である。ゴールの中心部から海岸線の通りを北西に2キロメートル行ったやや高台に位置する建築家ジェフリー バワ氏設計のコロニアルスタイルのホテルである。フロントのすぐ先はテラスになっており、すぐ先には、岩に打ち寄せる波しぶきが見える。


椅子の背もたれの上を猿が通って行った。


案内された3階の部屋のベランダから外を眺めるとプール(横30メートル×縦10メートルほど)があったので、夕食前にひと泳ぎしてお腹を減らすことにした。


ホテル内のレストランで、夕食を食べる。昨夜のマウント ラビニア ホテルもそうだったが、こちらのジェットウィング ライトハウスも海岸沿いにあることから、シーフード料理が大変美味しい。この日は、最初に、春巻きを頼み、メインにロブスター(オマール海老)などを頂いた。他に2~3組の客がいたが、店内は空いていた。


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翌朝、天気は良さそうだが、部屋から見える海は今日も波が荒いようである。


ホテル内のレストランでブッフェ朝食を食べ終え、午前8時にフロントでガイドの迎えを待っていると、やや遅れて、体格のがっちりとしたスキンヘッドのウーパリ氏がやってきた。見た目と異なり日本語流暢に話す姿にギャップを感じる。彼はスリランカ人の約7割を占めるシンハラ族とのこと。ウーパリと言えば、仏陀の十大弟子の一人で「持律第一」と称せられたウパーリ(優波離)と名前が似ている。

自己紹介をした後、車に乗り、一路、ゴール旧市街方面に向かう。ゴール駅やバスターミナルのある信号を右折して、大きな円形のスタジアムを半周回すると、ロータリーの先の東西に城壁が続いている。その城壁にある中央門(フォートエントランス)をくぐって旧市街に入り右折して坂を上ると駐車場がある。駐車場からは、歩いて城壁に向かう。正面にイギリス統治時代の1883年に建てられた「アントニス時計塔」が聳えている。


時計塔は、先端が鋭角に張り出した五角形の「ムーン要塞」の後方の城壁上に建っている。こちらは、時計塔から、城壁を西側に歩いた先から振り返って眺めた様子で、城壁から稜堡が張り出すムーン要塞や、遠くにゴール湾が望める。足元には、緑の中に砂道が続くため堤防を歩いている様に思える。


城壁は、北西から南東に延びる海岸から南に突き出た半島(南北約1キロメール×東西約400メートル)の半島口の東西線と海岸線沿いに築かれている。ゴールは、古くから交易の拠点だったが、1505年、ポルトガル人がこの半島を拠点に貿易を強化し、1625年に稜堡や砲台を設置するなど要塞化を進めた。しかし、1640年にオランダ軍の攻勢により要塞は陥落し、オランダ海上帝国の一部となり、1663年に旧市街を囲む城壁が築かれた。現在残る遺構はこのころ建設されたものである。

1796年には、イギリスの手にわたることになるが、ゴールは、貿易はもとより、ヨーロッパとアジアを結ぶ旅客船の寄港地として頂点を迎えることとなる。1988年に「ゴールの旧市街と要塞」として、ユネスコの世界遺産リストに登録されている。

時計台から西方面に200メートル程歩くと、海岸線沿いの稜堡に到着する。こちらは「太陽の要塞」と呼ばれいくつかの城壁や稜堡が複合的に入り組んでいる。


左(南方面)に曲がり海岸線に沿いに延びる城壁を歩いて行く。太陽の要塞から150メートルほど先には「アイオロス要塞」があり、内側に半円状に彫られた保塁と左右にお椀状のトーチカがある。通り過ぎて、振り返えると、海に張り出す稜堡と、トーチカの緑の膨らみが確認できる。


更に南にしばらく歩いた小さな砦「海王星の要塞」から東側の旧市街方面を眺める。手前にストゥーパ(仏塔)が見え、奥にはイギリス国教会やオランダ改革派教会などが見える。


「太陽の要塞」から600メートルほど城壁を南に行ったところが「トリトンの要塞」(Triton Bastion)になる。前方が海側で、こちらは、半円状に下げられた保塁になる。中央に設置された円形のひな壇は「揚水機」の一部で、駆動には、風車を利用し、旧市街からの取り込んだ排水を海水と共に流す仕組みになっていたという。ゴールが世界遺産に登録された基準の一つに、こちらのトリトン要塞にある17世紀当時のままの排水機構が保存されていることが挙げられている。


ところで、2004年、インドネシア西部、スマトラ島北西沖のインド洋で発生したスマトラ沖地震では、スリランカで3万人を超える犠牲者を出す大きな津波被害を受けたが、城壁に囲まれたゴールは、波をそらす構造になっていたため、津波の直撃を免れることができた。

城壁から旧市街に降りていくと、迎えの車が待っていた。時間は午前9時を過ぎたところ。車に乗り、古い門を越えてゴールを後にする。なお、門の上部にはイギリス時代の東インド会社のマークが見える。この古い門(オールドゲート)は、旧市街の北東側にある17世紀後半に建設されたオランダの倉庫(2階建て幅150メートル)の中央を通り抜ける門で、城壁の一部を兼ねている。2010年から倉庫は国立海洋考古学博物館となっている。


ゴールを出発し、30分ほど一般道を北上した後、ハイウェイに乗り、コロンボ近郊まで北上する。そして、ラトゥナプラ県アダムスピーク北の東西に伸びるジニガスヘナ ロード(A7号線)を通って、東方面のヌワラ エリア地方に向かう。ヌワラ エリアは、スリランカの中部州ヌワラ エリヤ県の中心都市で、スリランカ中央高地の南側にあたり、標高1,868メートルに位置している。


A7号線に沿ってケラニ(Kelani)川が流れている。午前12時半を過ぎたので、キトゥルガラ(Kitulgala)レストハウスのブリッジ レストランで昼食を食べることとした。


レストランの壁には「The Bridge on The River Kwai」と書かれ、写真が数枚貼られている。1957年の映画「戦場にかける橋」で、アラビアのロレンス、ドクトル ジバゴなどの大作を世に送り届けた巨匠デヴィッド リーン監督による作品。撮影は、キトゥルガラの密林にあるケラニ川を映画のクワイ川に見立てて架橋し行われたとのこと。


レストランでは、カレーを注文した。スリランカで、カレーは、スパイスのきいた煮込み料理全般を意味している。目の前に多くの種類が並ぶので、ビールが進んでしまう。


食事を終えカーブの連続するA7号線を東方向に向かい道なりに北上すると、A5号線に向かう丁字路にぶつかる。右折するとヌワラ エリアだが、ここは左折して北に向かう。キトゥルガラから2時間が過ぎた頃、スリランカ最高峰のピドゥルタラーガラ山(標高2,524メートル)を右側に見ながら、北西側にある「マックウッズ社の紅茶工場」の見学に向かう。


カーブが連続する山あいの道を進んで行くと、正面にやや横広の5階建ての近代的なマンションを思わせる建物が現れる。マックウッズ社の工場に到着した。周囲に広がる山の斜面には、一面茶畑が広がっている。

スリランカでは、茶葉の育つ場所の標高によって、品質を1.ハイグロウンティー(高地産、標高1,300メートル以上)、2.ミディアムグロウンティー(中地産、標高670~1,300メートル)、3.ローグロウンティー(低地産、標高670メートル以下)と分類している。中でも、ハイグロウンティーは、高級品にランクされ、独特のデリケートな味と爽快な渋み、香気をもち、水色は明るいのが特徴で、ウバ、ディンブラ、ヌワラ エリアが「セイロン3大紅茶」とされている。


そのヌワラ エリア紅茶は、スリランカの最も高地(標高1800~2000メートル)で栽培されている。夕方は5~14度、日中は20~25度と一日の温度差が激しいため、茶葉のタンニンの含有量が増え、強い渋味を生み出すので、とてもシャープな口当たりになるとのこと。また、この温度差は口当たりだけでなく、茶葉の香りを高めると言われている。一般的にハイグロウンティーは、花のような香りが特徴とされるが、ヌワラ エリアは更に高貴な香りがすると言われ「セイロンティーのシャンパン」と称されている。

最初に工場内を見学する。こちらは、最初の工程「萎凋(いちょう)」で、葉っぱに含まれる水分を萎凋棚で飛ばして、しんなりさせている。


萎凋の後は、「揉捻(じゅうねん)」という葉を揉む工程があり、その次に塊となった茶葉をほぐす、「玉解き・篩い分け(たまどき・ふるいわけ)」という工程を経て酸化発酵させる。こちらは、仕上げ前の熱風で乾燥させる最後の工程で、熱風により酸化酵素の働きが止まり、茶葉の外観は乾いて濃い褐色となることから、貯蔵や輸送に耐えられる品質となる。


見学が一通り終わると試飲のサービスがあった。マックウッズ社は1841年、イギリス人ウイリアム マックウッズにより創業された。2002年には、バッキンガム宮殿で行われたエリザベス女王戴冠50周年を記念して献上紅茶も作られている。


その後、今夜の宿泊場所「ヘリタンス ティー ファクトリーホテル」に向かう。ホテルは、ピドゥルタラーガラ山の東側に位置していることから、一旦ヌワラ エリア市内方面に戻り、ピドゥルタラーガラ山の南側を抜けた先に位置している。せっかくなので、途中で、ヌワラ エリアの市内に立ち寄った。


こちらに、ガイドお勧めの地元民が集まるバーがあるとのことで、連れて行ってもらいカウンターで一杯飲むことにした。時刻は午後5時半を過ぎたところ。店内は、既に賑わっており驚いた。


その後、市内のマーケットを少し散策し、お勧めの紅茶店で茶葉を買い、ホテルに向かった。


今夜のホテルは、ヌワラ エリア市内の東側にある。茶畑が広がる中、車1台がやっと通れるような細い道を縫うように上って行く。高所にあるヌワラ エリア市内よりも、更に標高が高いところにある。ホテルはマックウッズ社の紅茶工場とよく似た建物である。ホテルは、もともと紅茶工場を改造したものらしく、館内には当時の機械が展示されている。


チェックインを済まし、午後8時に、ホテル内のレストランで夕食を食べる。レストランはブッフェだった。入口では、カンガニー(茶園の監督)の制服を着た等身大人形が迎えてくれる。

(2012.9.9~12)
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シンガポール

2013-03-01 | シンガポール
こちらは、シンガポール・チャンギ国際空港に隣接する「タナメラ・フェリーターミナル」で、今朝の午前6時15分に到着(午前0時15分羽田空港発で7h10m)し、シャトルバスで移動したところ。これから「ビンタン・リゾート・フェリー」に乗船して「ビンタン島」に渡り、リゾートヴィラに滞在することとしている。


そのビンタン島は、シンガポール海峡を隔てた南東46キロメートル沖に位置している。大小様々な島が点在する「リアウ諸島」の中では最大級の島で、シンガポールの約2倍、淡路島ほどの大きさがある。人口は約40万人、漁業や織物製造を中心した軽工業が盛んだが、豊かな自然とシンガポールからの交通の便が良いことから、1990年代からリゾート開発が本格化し、数多くのリゾートホテルや、マリンスポーツ、ゴルフ場、スパなどの施設が次々と営業しており、現在では世界的にリゾート地として知られている。

シンガポールからは船で1時間ほどの距離のビンタン島だが、インドネシアになることから、フェリー・ターミナルでは、手荷物検査・出国審査の時間を勘案し出航の1時間前までにチェックインを済ますよう推奨されている。その出国審査も無事終わり待機していると、出航30分前の午前8時半(日本のー1時間)に乗船案内があり、搭乗ゲートから屋根付きの通路を歩いて向かった。ちなみに、この日の外気温は27度で、冬の日本とは20度ほどの気温差がある。


フェリーは定員300名だが、乗り込んでみると意外なほど混雑しており、7割ほどの座席は埋まっていた。フェリーは揺れもなく順調に航行し、予定通りビンタン島北西部の「バンダル・ベンタン・テラニ・フェリーターミナル」に到着した。

フェリーターミナルで、入国審査、手荷物検査を経た後は、迎えに来た車に乗り込み、今回予約しているリゾートヴィラ「バンヤン・ツリー・ビンタン (Banyantree Bintan)」に向かった。車は、森を切り開いて造られた綺麗な道を快適に走行していく。ヤシの木、ソテツ、バナナの木なども立ち並び南国ムードに包まれつつ、ゴルフ場のコースが広がる丘を越えてしばらくすると到着した。ターミナルからは、8キロメートルほどの距離だった。


バンヤン・ツリーに到着したのは午前10時(日本のー2時間)で、最初に、周りを緑に包まれた開放的なレセプション・ルームで、ウエルカムドリンクを頂きながらチェックインをする。滞在中の注意事項など説明を聞き終えると、男性スタッフが現れて、入口にある「電動カート」に後ろ向きに座る様に案内された。。


「バンヤン・ツリー・ビンタン」はビンタン島の北部「タンジョン・サエ湾」に突起した小さな岬全体を敷地としている。岬は森に覆われ、その中に戸建てのヴィラが70棟ほど点在している。敷地内には、アップダウンのある細いメイン通路があり、その通路から一定間隔毎に左右に延びる隘路の突き当りにヴィラが一棟ずつ建っている。このため他のヴィラが視界に入らず、上質なプライベートタイムが満喫できるというわけだ。
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スタッフが運転する「電動カート」から下りて向かったヴィラは、チガヤの一種(アランアラン)で屋根を葺いたインドネシア伝統様式の平屋造りで、入口の観音開きの扉を開けると、海からの明るい陽射しが目に飛び込んでくる。扉の内側には木目調の床のプライベートテラスが広がり、正面に同じく木目調の丸テーブルが置かれている。テラスは西側に面し、海が見渡せる。近くには、ラワ島(直径100メートルほど)や、後方にはビンタン島のニルワナ・リゾート地区の海岸線が望める。


丸テーブルの右側にはジャグジーがあり、いつでも入浴が可能で、スイッチを入れると、勢いのある泡が噴射され水温も上がる仕組みである。ちなみに、風呂フタは落ち葉や枝などが入らないためのものだが、分厚く重い。これは強風に飛ばされにくく、野生の猿などが侵入できないようにするためらしい。


ジャグジーの手前にはビーチチェアマットが置かれ、入浴後、海を眺めながらひと時を過ごすことができる。ビーチチェアマットの周りには遮光や雨風よけ等のための壁や庇の天井が設置されおり、安心・安全の半屋外空間となっている。


プライベートテラスの左側のガラス戸を開けると寝室兼リビングの室内になる。床は薄グレー系色の大理石にブラウン系の木目調のテーブル、家具、ベッドなどが置かれている。テレビの下には、DVDデッキがあり、ガムラン音楽などを流すと癒し効果は絶大である。


左側の壁面には、額入りのバティック(インドネシアのろうけつ染め布地)が飾られ、その下に書き物をするための小さなデスクと椅子が置かれている。デスクにはお香立てが置かれている。


そして部屋の中心を占めるのが白いレースの天蓋が付いた豪華なベッドで、天井は、開放感のある勾配式で、シーリングファンが備え付けられている。部屋全体は、ホワイトとブラウンを基調にした落ち着いた色合いとなっている。


ベッドの向かい側は、蒼い海が一望できる様に窓ガラスになっている。その窓際に置かれたソファーベッドに座ると、木々が下に見え、より絶景感を味わえる。
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テレビの横の扉は引き戸で中はレストルームになる。左端がトイレで、中央には洗面台が2台並んでおり、大人が2人並んでも十分な広さで設計されている。そして窓際が浴室になっており、海を見ながらシャワーを浴びることが出来る。


まずヴィラでは、明るい日差しの下、プライベートテラスのジャグジーで旅の疲れを取り、その後、午後2時頃にフェリーターミナル近くにある「パッサ オレオレ」と名付けられた商店街にやってきた。こちらは観光客相手に作られたようなエリアで、土産屋、レストラン、マッサージ店、雑貨店など平屋で切妻屋根の20店舗ほどが集まっている。


その中にあった木造平屋で周りに中国風の提灯を吊り下げた「レストラン・オレオレ」に入ることにした。前菜、メイン、ライスの三点を注文した。最初の前菜は。お勧めのビンタン島名物「ゴンゴン貝」で、ミニほら貝の様な形をしている。つぶ貝の様に楊枝で身を取って食べるのだが、ややあっさり味で食べ始めるとやめられなくなる。


次に、メインはこちらも名物の渡り蟹で結構ボリュームがあった。そして、シーフード味のナシゴレンを頂いた。いずれも新鮮な魚介を使っており、コスパも良く昼から飲むビールとの相性も抜群で満足できた。


パッサ オレオレには、人も少なく、のんびりした空気が流れているが、他に興味を引くものもなかったので、食べ終わると直ぐにヴィラに戻った。ヴィラで少し休憩した後、バンヤン・ツリー敷地内の東側にあるレストラン・ツリートップス、ギャラリーショップ、スパの施設があるメインエリアを散策してみる。


ギャラリーショップには、お香台、キャンドルライト、茶器セットなどのバンヤン・ツリーをイメージした碧色の陶器やアロマグッズなどキュートな商品が展示販売されている。


その後、メインエリアから階段を下りたプールでひと泳ぎした。こちらは、インフィニティ・プール(無限の意)と呼ばれ、プールの外縁や段さを付けず、外縁と海や空が溶け込むように見せる設計のことで、近年、多くのリゾートホテルや高級ホテル等のプールで続々と採用されている。
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プールには利用客がいなかったためか、プールサイドにある2か所の茅葺の東屋にもスタッフはいなかった。営業していないのかと思ったが、泳いでいるとスタッフが現れ、こちらを見ることもなく東屋の中に入って何やら作業を始めた。スタッフは、こちらからのアクションがない限り、声をかけてこないが、さりげなく真新しいタオルをプールサイド・チェアに置いてくれたり、こちらが何か困った仕草をしていると、直ぐにきめ細かく対応してくれる。


バンヤン・ツリー専用のプライベートビーチにも人の姿はなかった。しばらく心地よい潮の香りを浴びながら砂浜を散策した。白い砂浜には、スナガニが造った小さな砂団子がアートの様に広がっている


岩場の近くには、一組のテーブル席が設置されている。岩にあたる波しぶきを背景にした赤いテーブルクロスのテーブル席は、どこか幻想的で絵画やアート映画の一場面の様でもある。


しばらく、プールで泳いだり、プールサイド・チェアに横たわり過ごした頃、日が傾き始めたので、ヴィラに戻ってプライベートテラスに腰を掛けてシャンパングラスを片手に夕日を眺めた。


夕食はレストランで頂いた。ちなみに、バンヤン・ツリーでは、ヴィラへのルームサービスも可能である。


最初に、食前酒とアミューズを頂き、前菜として串に刺したサテなどがある海鮮焼きの盛り合わせを頂いた。前菜には、三種類のタレが付いている。ピーナッツソースやケチャップマニスなどで、アジアン・エスニックの香りたっぷりである。
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メインは、サンバルなどで味付けされた新鮮でプリプリの焼えびや、ケチャップマニス風の甘い醤油タレに付け込んだ白身魚などを頂いた。ライスは、インドネシアでお祝い時などで食べるナシクニン(ターメリックとココナッツミルクで炊いた黄色いご飯)とナシメラ(赤色のご飯)の二種類で、香りが高く爽やかな風味が大変美味しかった
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朝食はブッフェ形式で用意されている。この時間テラス席には、家族連れ、カップルなど4組ほどの宿泊客が食事をしていた。インドネシア料理から、タイ料理、中華、和食、ヨーロッパスタイルなどとにかく種類が多い。一番驚いたのは朝からスパークリングワインが飲み放題ということ。少なくなったり飲み干すとスタッフが現れてどんどん注いでくれる。


少しずついろんな料理を頂きお腹が十分満たされたところで、バンヤン・ツリー・ビンタンでの滞在は終了となる。午後12時過ぎにチェックアウトして、フェリー乗り場(バンダル・ベンタン・テラニ・フェリーターミナル)まで送ってもらう。
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フェリーには、午後2時に乗船し、ビンタン島とはお別れになった。往路と比較して船内はかなり閑散としていた。少しお腹が空いてきたが、朝十分食べたことと、今夜の夕食の計画もあるので、軽めにすることとし、ビンタンビールとトムヤムクン・カップ麺を船内で買って食べた。


シンガポールのタナメラ・フェリーターミナルに無事到着した後、タクシーで、今夜のホテル(フェアモント・シンガポール)に向かった。ホテルは、シンガポール中心地の地下鉄(Mass Rapid Transit)シティー・ホール駅北側に建つ五つ星ホテルで、何といっても客室からの眺めが最高で、緑が鮮やかなパダン競技場と、その先に聳える高層ビル群との対比が大変美しい。高層ビル群一帯は「エンプレス・プレイス」と呼ばれ、シンガポールの金融センターとしての地位が高まりつつあった1990年代から続々と建設された。
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その高層ビル群の手前にはシンガポール川が右から左へ流れマリーナ湾に注いでいる。シンガポール川とパダン競技場との間の左岸には、白い時計塔の「ヴィクトリア・シアター」や「アジア文明博物館」などがある。ちなみにその左岸沿いを600メートルほど遡ると、有名な繁華街で人気の観光地クラーク・キーになる。そして、シンガポール川右岸の河口部には、ドーリア式列柱のある古典的な建物「フラトン・ホテル」が建ち、マーリナ湾には水を吹き出す「マーライオン」が見える。

マーリナ湾の2つの楕円状のドームは総合芸術文化施設「エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ」で、屋根は「ドリアン」と呼ばれ、直射日光を遮断するためのアルミニウム製のパネルが取り付けられている。
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そして、その先が、ラスベガスのカジノリゾート運営会社ラスベガス・サンズによって開発された「マリーナベイ・サンズ」で、3棟の超高層ビル(最高部で57階)の屋上に、1ヘクタールの空中庭園「サンズ・スカイパーク」が繋がる仰天デザインで、シンガポールのランドマークとして一躍有名になった。屋上には世界一高い屋上プール(地上200メートル)がある。

ホテルの部屋で少し休憩した後、シティー・ホール駅(MRT南北線)から地下鉄で3駅目のオーチャード駅に向かった。駅を出た所にある伊勢丹オーチャード店の向かい側に建つ「ラッキー・プラザ」ビルに目的のマッサージ店「It Works」がある。こちらは、店長のハマさんがゆっくり強めに指圧する人気のマッサージ店である。施術料は60分で一人SGD70程度、店内には、来店客とハマさんとの写真がいたる所に飾られており人気の高さが伺える。


夕食は、ラッキー・プラザ・ビルからオーチャードロードを西に500メートルほど行った「インターナショナル・ビルディング」の2階にある「ライステーブル(Rice Table)」で食事をした。10皿以上の料理がテーブルに並ぶことで有名なインドネシア・マレー料理で、いつも混みあっている。少し遅めの午後8時頃にやってきたが、この時間もお客で一杯だった。料理はテーブル中央にあるホットプレートの上に食材が盛り付けられた舟皿が並べられ、ホットプレートに乗らない舟皿はサイドテーブルに置かれる。合計18皿にライス付き(76.23SGD)は凄いボリュームだが、お昼を軽くしたことと、マッサージの後でもあり、美味しく頂けた。


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翌日、午前中に再び「It Works」でマッサージを受け、ハマさんとの記念撮影も無事終えた後、シンガポール川沿いに向かった。到着した高層ビル群の谷間にある「ラッフルズ・プレイス駅」(MRT東西線と南北線)から少し北に歩くとシンガポール川の右岸に到着する。河口付近に架かる吊り橋「カベナ橋」は、シンガポール川に架かる最も古い橋(1868年築)で、イギリス海峡植民地の七代ウィリアム・カベナ知事(1820~1891)にちなんで名付けられたもの。
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目の前のシンガポール川には、観光船「リバークルーズ」が行きかっており、左岸に建つ「アジア文明博物館」前の乗船口から、一旦上流に向け出航しUターンした後に、マリーナ・ベイの「マーライオン公園」に向かう。

そして「カベナ橋」の右岸に建つ歴史的建造物は「フラトン・ホテル」で、イギリス海峡植民地の初代ロバート・フラトン知事(1773~1831)に因んで名付けられた。1928年に完成、1996年までは中央郵便局として使われた後、2001年より現在のホテルとなっている。


これからその「フラトン・ホテル」1階にある中華レストラン「ジェイド(Jade)」に向かう。レストランは、白を基調にした清潔な雰囲気で、ランチタイムは午前11時から午後3時までの二部制となっている。注文は、オーダーシートにチェックし数量を記入し、スタッフに渡す仕組みである。この日、注文したのは、、蝦餃(エビ蒸し餃子)、小籠包、蝦焼売、包子(パオズ)、揚餃子餃子腸粉、大根餅、鱶鰭スープ、海鮮お粥、鶏のから揚げ、蒸し鶏の香味だれ、八宝菜、牛肉の豆鼓ソース炒め、蛋撻(エッグタルト) 、タピオカ入りマンゴープリン、豆沙包子(あんまん) などであった(112.3 SGD)。。


食後は地下鉄で、ハーバー・フロント駅(MRT北東線)まで移動し「セントーサ島」にやってきた。こちらは、ユニバーサル・スタジオ・シンガポール、水族館マリーナ・ライフ・パーク、カジノ、リゾート・ホテルなどが建ち並ぶ統合型のリゾート「リゾート・ワールド・セントーサ」のフードコートやショップが集まる「セントラル・エリア」で多くの観光客が訪れている。フードコートの一角には、日本でもすっかり有名になった台湾点心店「Din Tai Fung」(鼎泰豊)も出店している。前方の円柱型の外観はアメリカの著名なデザイナーで建築家のマイケル・クレイヴス氏のプロデュースによる五つ星ホテル「ホテル マイケル」である。
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そのフードコートが並ぶ店舗の北側にある「海事博物館」 を見学する。博物館は、アジア海事の歴史について、貴重な文化財やデジタル展示設備などが設置され、海のシルクロードで見られた各地の文化習慣等が体験できる。
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15世紀の中国明代の提督、鄭和(1371~1434)の木造帆船を始めとする東南アジアの復元船舶の展示や、東南アジア海域に関する歴史の展示コーナーなどが充実している。鄭和は、朝貢貿易の拡大を目的に、1405年から1433年まで東南アジアからインド洋にかけて大艦隊を指揮した人物。驚かされるのは、ヨーロッパの大航海時代を90年も前に、2万人もの乗組員をもつ大艦隊を率いたことである。


館内の吹き抜けエリアには、木造帆船の小型モデルがたくさん飾られている。他にも、交易によりもたらされた美しい工芸品や、東南アジアの古銭や人形、お香グッズなどが展示されていた。
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午後7時にセントーサ・エクスプレスに乗り、「リゾート・ワールド・セントーサ」の南側に隣接する「インビア・ルックアウト」の「ビーチ・ステーション」にやってきた。


こちらの収容人数が2000人を超える規模のスタジアムでは、シロソ・ビーチとパラワン・ビーチをそのまま舞台にし、日没後2回にわたり「ソング・オブ・ザ・シー」と呼ばれるイベントが開催されている。


スタジアムでは、花火、レーザー、噴水、炎を駆使した壮大なスケールのショーが堪能できる。


40分ほどのショーを体感後、「インビア・ルックアウト・エリア」の「マーライオン・タワー」の東側に建つリゾートホテル(アマラ・サンクチュアリ・リゾート)沿いの「タンイン(Thanying Restaurant)」に歩いて向かった。タンインは、洗練されたタイ宮廷料理の有名店として知られており、本店はタイのバンコクにある。昨年バンコクに訪れた際にランチで利用したが美味しかったことからシンガポール店にもやってきた。


レストランには、午後9時頃到着したが、店内は空いていた。お昼は華やかなセントーサ島だが、日が暮れると、人通りが少なくなり「セントラル・エリア」以外は暗く、真夜中の様な気分になる。レストランも午後10時半までなので急いで注文した。最初に、グリーンマンゴーサラダ、甘辛いソースをかけた海老のソテーを頼んだ。


最後にグリーン・カレーを頼んだが、注文してから料理が出てくるまで早かった。味は、辛さに加えて、香り高く深みがあり洗練された味である。勝負は早く、ビールやワインも頼んだにも関わらず、40分ほどで食べ終わってしまった(124.2 SGD)。


レストランを後にして、人通りもほとんどなくなった歩道をから、ビーチビュー通りを横断すると南側に「マーライオン・タワー」が聳えている。昼に見た印象とは大きく異なり、目から発する光など巨大な怪物の様に見えて怖い。。


ビーチビュー通りを横断した先にあるインビア・ステーションからセントーサ・エクスプレスに乗り、MRTハーバーフロント駅から地下鉄でホテルに戻ってきた。ホテルの窓の外には、「エンプレス・プレイス」の高層ビル群のネオンが輝く美しい夜景が広がっている。
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「マリーナベイ・サンズ」と「エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ」の姿は、まるで未来を舞台にしたSF映画に登場する宇宙船の様にも見える。
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「マリーナベイ・サンズ」から更に左側、東側には、アジア最大の観覧車「シンガポール・フライヤー」のライトアップした姿が見える。高層ならではの心地よい風も吹き抜け、無事ホテルに着いた安心感もあり、睡魔が襲ってきた。。
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翌朝の午前中はホテルの屋外プールを利用した。ホテルは高層ビルの2棟の角部分が直結しており、その内側の低層階ビルの屋上に円形の2つのプールがあり、2つのプールの間には、カフェ兼各種サービスを行う東屋がある。


プールは、周りに緑を配し、リゾート感を演出した設計になっているが、バンヤン・ツリーでの最高級リゾートを体感した後や、曇って肌寒いせいもあり、少しの時間だけ滞在して引き上げた。とは言え、チェックアウトはお昼の12時までだったので、ぎりぎりまでホテルで過ごした。


チャックアウト後、ホテルのそばでMRTシティホール駅手前の「ラッフルズシティ」のフードコートで中華ランチを頂き、午後2時過ぎに、シンガポール川沿いの「アジア文明博物館」にやってきた。アジア各地の芸術品や文化財を展示しており、主に、シンガポール、東南アジア、西アジア、中国、南アジアと、大きく5つのギャラリーから構成されている。


こちらは、唐三彩の副葬人形の数々。


そして、こちらは、インドのマトゥーラで出土したクシャーン朝時代の仏陀座像(1世紀後半から2世紀)。マトゥーラはインドの首都ニューデリーから140キロメートルほど南にあり、仏像が初めて誕生した地として知られている。黄班文のある赤色砂岩が特徴で、こちらの像はややふくよかな体形で微笑みを備えている。


シヴァ神は、ヒンドゥ教では最も影響力を持つ主神の一人で、多くの特徴を兼ね備えた人の姿として表されるが、「リンガ」と呼ばれる円錐形で表され、主に寺院の本尊として祀られる。そのリンガには「ムカリンガ」と呼ばれる金属のリンガカバーがあり、その表面には一つまたは複数のシヴァ神の顔を配置する。こちらは、8世紀制作のムカリンガのシヴァ神の顔部分三体で、手前の二体が金製、後方が銀製である。


こちらは、ガルーダ神のレリーフ(11世紀~12世紀)。インド神話に登場する炎の様に光り輝き熱を発する神鳥で、人々に恐れられる蛇・竜を退治する聖鳥として崇拝されている。体を大きく反りながら両手で蛇を捕まえている姿がユーモラス。東南アジア諸国において、文化・文学におけるモチーフとなることが多い。


インドネシアの民族音楽「ガムラン」で使用される楽器が展示され、スクリーンに演奏風景が映写されている。手前は、「ガンサ」という鍵盤打楽器で、右端は側面に竹が配されている。これらは金槌のような木製の「パングル」(撥)で青銅の鍵盤を叩いて音をだす。その奥の窯の様な形が並ぶ楽器が「レヨン」で、細長いばちを両手に持ち頂部の瘤を叩いて音を出す。そして、左側の紐で吊るされたのが「ゴング」(銅鑼)。最後に、一番奥に「クンダン」(太鼓)がある。こちらはナンカ(果物の一種)の木をくり抜き、両側に牛の皮を張って作られており、主に右手でたたく。


博物館は、午後7時までだが、今夜の午後10時50分発の飛行機に乗ることから、午後6時を過ぎた段階で、夕食に向かった。シンガポールでの食事の締めくくりは、本格的な広東料理として知られる「レイガーデン・レストラン」である。

今朝まで宿泊した「フェアモント・シンガポール」の西隣の区画に建つ「チャイムス・ホール」の1階にある。チャイムス・ホールとは、1904年に建てられた旧修道院、歴史的建造物コールドウェル・ハウス、旧校舎などを改装した複合施設で、現在は結婚式や企業イベントの催事場として機能している。

MRTシティー・ホール駅からは200メートルほどの距離だが、少し遠回りして西側のヴィクトリア通り側の正面入口からの方が分かりやすい。礼拝堂があるファサード横の白い尖頭アーチをくぐり中庭に入った北側回廊側に面している。回廊内には、他にもレストラン(日本料理店もあり)が軒を並べている。シンガポールで北京ダックを食べたいとなればレイガーデンとなる。


他に、蟹肉入り鱶鰭スープ、揚げ手長蝦、角切り叉焼と各種野菜の炒め物、杏仁豆腐などを頂いた(295.43 SGD)。久しぶりにレイガーデンへの来店となったが、安定感を感じさせる旨さで、リゾートのフィナーレを飾るにふさわしい。


食後、空港に向かい、午後10時50分発のJAL便でシンガポールを後にした。羽田には、火曜日の朝午前5時50分に到着するスケジュールだが、そのまますぐに仕事に向かうことを考えると気が重い。。
(2012.2.10~13)
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スペイン・サント ドミンゴ デ シロス

2013-03-01 | スペイン(バスク)
スペイン滞在の最終日となった。バスク州ギプスコア県ラサルテ オリア(Lasarte-Oria)にあるホテル「タサルテル」(Txartel)を、午前6時過ぎに出発し、マドリッド バラハス国際空港まで、一路、約400キロメートルを南下する。

途中、約270キロメートル先の「サント ドミンゴ デ シロス修道院」(Santo domingo de Silos)に寄ることとし、ブルゴスからマドリード方面に南下する高速道路(A-1)途中から、南東方面の高速道路(N-234)に乗り換える。50キロメートル先から、西に一般道(BU-910)を12キロメートル行くと到着する。午前10時半過ぎだった。
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こちらは北側の「マヨール広場」から、西南方向の修道院を眺めた様子。鐘楼の右下が後陣になり、手前にロメロス デ カーニャス通りが走っている。そして、その通り沿いに面した後陣の左側の建物は「観光案内所」で、屋上壁に「Casa Consistorial」(役所)と書かれている。

修道院の場所には、もともと、サン セバスティアンに捧げられた修道院があったが、10世紀の末にイスラム教徒(コルトバ宰相アル マンスール)による度重なる襲撃を受け荒廃してしまう。現在の修道院は、1041年、カスティーリャ王フェルナンド1世(在位:1037~1065)が、ラ リオハのサン ミジャン デ ラ コゴージャの修道士ドミンゴ(聖ドミニコ)を修道院院長に任命したことによる。ドミンゴは、クリュニーの改革にも触発され、修道院の再建に努力を惜しまなかったため、多くの巡礼者が訪れるようになった。しかしドミンゴの死後は、財政難となり再び荒廃してしまう。
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18世紀にはロマネスク様式の修道院は取り壊され、スペインの大建築家ベンチュラ ロドリゲス(1717~1785)により、現在のギリシャ十字形に改築されている。1835年にはスペイン国内でメンディサバル法(永代所有財産解放令)が出され、再び荒廃するが、19世紀末にフランスからベネディクト派の修道士達が訪れ、ベネディクト派修道院として再興され今日に至っている。現在、30人ほどの修道士がキリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をしている。

ちょうど、団体客が列をなして修道院に入って行ったので、その列について一緒に入った。鉄格子の向こうに見える暗い礼拝堂は、団体客の見学と同時に格子扉が開錠され、灯がつけられたことで、黄金の聖ドミンゴ祭壇の鮮やかな輝きが広がった。祭壇中央には聖遺物容器らしい金銀で装飾された聖杯が台座の上安置され、下部には、青系を基調としたマンドーラに覆われた栄光のキリストの装飾が施されている。
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礼拝堂は八角形で、祭壇の左右それぞれ3面に絵画が計12枚、天井ドームの側面にも計2枚が掲げられている。聖ドミンゴの生涯などが表されている。
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ところで、サント ドミンゴ デ シロス修道院を有名にしたものにグレゴリオ聖歌がある。1993年、30人ほどの修道士たちの祈りの歌を録音した「CANTO GREGORIANO」がスペインでヒットし、その後、ヒット チャートのトップに躍り出て、翌1994年1月までに癒しの音楽として25万枚を超える驚異的な売上げを記録、世界中で大ヒットした。

グレゴリオ聖歌の名称は、ローマ教皇教皇グレゴリウス1世(在位:590年~604年)の名に由来しており、伝承では彼自身も多くの聖歌を作曲したとされている。神聖ローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ(在位:742年~814年))は、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を図ったという。その後もグレゴリオ聖歌はルネサンス音楽、西洋音楽に大きな影響を与えることとなる。
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サント ドミンゴ デ シロス修道院のロマネスク様式の回廊は、彫刻や装飾など細部にまで匠の技巧(シロスの名匠)が凝らされ、スペインでも屈指の美しい回廊として知られている。回廊は2階建てで、時代的には1階部分が古く、11世紀~12世紀初頭に造られた64もの対をなす柱頭彫刻があるが、特筆すべきなのが、回廊四隅の内側に2点づつ表現される計8点の浮彫パネルである。最初に、入口そばの北東隅のパネルから見ていく。
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こちらは「キリストの埋葬と復活」と名付けられたパネルで、棺を境に上が埋葬で、下が復活を表している。中央水平方向に横たわるキリストの左右には対になるかのようにホセ デ アリマテアとニコデモが頭を垂れ、棺の蓋を天使が斜めに支える不思議な構図になっている。棺の蓋の右上、三角空間には3人の聖女が香油を持ち悲しみに耽りながら神々しく立っている。棺の下部には、眠る番兵達を逆三角形に構成し表現されている。キリストの埋葬と復活の数日間の出来事を1枚のパネルに見事に表現した傑作である。
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次に「キリストの十字架降下」を見てみよう。ホセ デ アリマテアとニコデモと対照的に、キリストの右手を包み込みいたわっている聖母マリアの悲哀の表情が何とも印象的である。大地には、岩の塊の様なものが並んでいるが、これにより揺らぎを演出し、世の中の動揺を表現しているとされる。
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回廊の中心には、手入れの行き届いた緑の中庭があり、西側回廊の近くには、この修道院のシンボル、イトスギの木が見える。
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それでは回廊を時計回りに歩き、南東隅のパネルを見てみよう。「キリストの昇天」と、
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「精霊降臨(ペンテコステ)」を現した浮彫パネルである。2枚とも使徒と聖母を2段に配置している構図は比較的良く似ているが、それぞれのパネルの上部に、波打つ雲を上下に配置することでキリストの昇天(上)と降臨(下)を対比的に表しているところが見事である。
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イトスギのある南西側から回廊入口のある北東方面を眺める。この位置から鐘楼が良く見える。
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回廊の南西隅には、天使ガブリエルが処女マリアの前に現れ受胎を告げる「受胎告知」のパネルがある。さらに、このパネルでは、マリアが天使から冠を授けられていることから「聖母の戴冠」も同時に表現されている。構図的に、聖母はパネル内で大きくスペースを取っており、ロマネスクには見られない写実性が表現(ゴシック様式)されている。明らかに他のパネルとは作者も制作年代も異なることがわかる。
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隣りには「エッサイの木」のやや損傷が激しいパネルがあるが、こちらもゴシック的であり、作者は「受胎告知」と同じであろう。
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西側回廊を支える円柱の中心には、こちらも修道院を代表する「ねじれ円柱」がある。まるでゴムでできているかの様に4本の円柱がねじれている。
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柱頭部分は損傷が激しいが、最後の晩餐の場面を現している。
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ほかの柱頭彫刻も見てみよう。
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こちらのグリフォン風の動物は、茎が絡み合って足と首が押さえつけられている。
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こちらは上半身が女性で下半身が翼を持つ鳥、ハルピュイアである。
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こちらも顔は女性で体は空想動物が表現されている。口から蛇が出ているが、女性の口から男性を誘惑する言葉が吐かれると言う意味らしい。修道士に対し、肉欲への溺れを戒めするための比喩的表現なのだろう。
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こちらの鳥の羽毛は驚くほど細かく刻まれている。
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最後に、北西隅のパネルを鑑賞する。こちらが、この修道院を代表する作品の「聖トマスの不信」。構図の中心点は、左側で右腕を上げて受難の傷を見せるキリストに対し、左端のトマスが傷に指を差し入れる場面である。使徒たちは2人の情景を見ているが、特に右側の9人の使徒をキリスト側に向けた斜め平行線上に配置することにより、鑑賞者が2人の情景に視点が行く様に誘導している。
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そして、最後の1枚、こちらのパネルも修道院代表作の一つ「エマオの巡礼」である。復活したキリストがエルサレム近郊のエマオの町で、二人の弟子の前に姿を現す。そして弟子たちは、彼をキリストだと気づかず、エルサレムでの噂の出来事を語り始めるといった場面である。キリストは、左手で衣の袂を抑え、前に出す右足の甲をやや中央に向け今にも振り返ろうとしている瞬間の躍動感溢れる見事な構図である。キリストが肩に掛けている袋には小さな帆立貝が付いているが、これはサンチャゴ巡礼を表しているのだろう。
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回廊の天井を見ると、後世の作だが、松材で作られたモサラベ様式の見事な彩色文様で覆われている。
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最後に北側回廊に向かう。浮彫パネルや柱頭彫刻は見事であるが、回廊の足元に広がる玉石の幾何学模様のモザイクも見事である。
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こちらの石棺には、聖ドミンゴの姿を刻んだ横臥像が安置されている。足元には、当時、ローマ教皇の象徴でもあった3頭の獅子が石棺を支えている。
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足元には、トカゲの様な怪物にそれぞれ聖職者が座り、手を合わせて聖ドミンゴを祝福している。1073年、亡くなった修道士ドミンゴはこの場所に葬られた。その後、1076年には国王と高位聖職者により改葬式が挙行され遺骨は修道院内に移された。修道士ドミンゴは聖人となった。
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その後、併設されたサン セバスティアン修道院教会の祭壇を見学する。教会は18世紀に崩落し、新たに19世紀に再建されている。祭壇には、キリストの磔刑像が祀られているが、アプスを含め周りには特に装飾もなくいたって簡素な造りである。この場所では、修道院の修道士たちによるグレゴリオ聖歌を聞く音楽会が開催的に開催されている。この日は時間帯が合わず鑑賞はできなかった。
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こちらには1705 年に設立された薬局がある。修道院では様々な薬用植物の研究が行われ、薬草から治療薬を精製していた。棚の中には薬を作るために使った人体について記した書物や器具等が飾られている。
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こちらの棚には、様々な形の薬壺が並んでいるが、これらは「陶器の町」で知られるタラベラ デ ラ イナ(カスティーリャ ラ マンチャ州トレド県)の陶器で作られたもの。フェリペ2世(在位:1556年~1598年)が城壁を覆うタイルとしてここタラベラ産のセラミックを用いたことから、その名が国際的に知られるようになった。
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観光案内所と修道院との間の交差点から、北に伸びるラス コンデサス通りに入ると、美術館の標識があったので行ってみる。この通りの建物は古いものが多い。こちらの住宅は、壁が剝げ落ち部材がむき出しで、2階の出窓を二重の梁と方杖で支えている様子が見える。
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美術館があったが残念ながら閉まっていた。
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戻ろうと、再び、同じ通りを引き返すと、途中からサント ドミンゴ デ シロス修道院の鐘楼が望める。
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サント ドミンゴ デ シロスでは、1時間ほど滞在した後、出発した。修道院まで来たルートとは逆の西方向に行き、最初のラウンドアバウトから南西方面(BU-910)に向かう。時刻はそろそろ午後1時になろうとしている。サント ドミンゴ デ シロス修道院から南西へ45キロメートルほど行った「アランダ デ ドゥエロ」(Aranda de Duero)で、昼食をとることにした。

アランダ デ ドゥエロは、東西に流れるドウロ川(全長897キロメートル)と、さらに北東側から注ぎ込む2つの支流の間にあり、サント ドミンゴ デ シロスからのBU-910は、その内側となる街の環状道路に到着する。アランダ デ ドゥエロは、カスティーリャ イ レオン州内にある世界的な高級ワイン産地の一つ、リベラ デル ドゥエロ(DO)の中心地で、ドウロ川沿いには270を超えるワイナリーが存在している。
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環状道路の中心には、街のシンボル「サンタ マリア教会」があり、その近くにあるバルに入った。
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昼時には遅い時間帯だったので店内は空いていた。タパスをいただく。
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バルでの食事も、これで終わりである。
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こちらが、15世紀に建設された「サンタ マリア教会」の南翼廊のファサードで、シモン デ コロニアの息子フランシスコ デ コロニアにより、1515年頃、イサベル ゴシック様式で建てられた。隅々まで、絢爛豪華で繊細な浮彫装飾が施され、芸術性の高さに圧倒させられる。
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弧帯(アーキヴォルト)の上部には、ゴルゴタの丘(キリスト受難)を中心に、左右に十字架を背負うキリストと、復活を表すメダリオンが配されている。更にその上には、アランダの紋章盾や、鷲と獅子に支えられたスペイン王家の紋章などの浮彫が施されている。

アーキヴォルトは、尖塔アーチで、聖人やアカンサス模様の浮彫が続き、内側には懸華の透かし彫り縁取りが施されている。そしてティンパヌム(タンパン)には、キリストの誕生(左)と賢者によるキリスト崇拝(右)の浮彫が、その上には羊飼いへのお告げ(左)と東方三博士のパレード(右)の場面が表現されている。アーチ天井は星空で、礼拝する子供の天使の浮彫が飾られている。
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ファサード前の路地を南に50メートルほど進むと「マヨール広場」がある。広場では、ワイン祭りがあったらしく、多くの人が集まっていた。しかし残念ながら、この時間イベントは既に終了していた。
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アランダ デ ドゥエロでは、1時間ほど滞在し、その後、市内を南北に横断する高速道路(A-1)(イルンからブルゴスを経由してマドリッドまで結ぶ)に乗り、130キロメートル南のマドリッド バラハス国際空港に向かった。
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そして、午後6時25分発でパリに向かい、午後10時5分発の日本航空838便で日本に帰国した。
(2008.9.28)
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バスク(その3)

2013-03-01 | スペイン(バスク)
ビアリッツから、高速道に乗り北西に30キロメートル、途中、サンジャンドリュズを過ぎ、国境を越えスペイン側の国境沿いの街「オンダリビア」(Hondarribia)にやってきた。街は、スペイン・バスク州ギプスコア県に属しており、チングディ湾河口部のビダソア川の左岸(西側)にある。因みに、右岸はフランスのアンダイエになる。これからミシュラン星付きの老舗「レストラン アラメダ」(Alameda)で夕食をいただくことにしている。


レストラン アラメダは、オンダビリアの最南端に位置している。市内南地区にある旧市街からは、階段を下りた東西に延びる通り沿いにあり、レストラン南側にはビダソア川に注ぎ込む支流サンタ エングラツィア川が流れている。こちらは通り沿いの入口になる。


到着が午後9時と遅くなってしまったが、既に店内は満席になっていた。


メニューを見ると、セットメニューが3種類「Gartzinea(40ユーロ)、Hondarribia(58ユーロ)、Degustacion(80ユーロ)」があり、一番リーズナブルの「Gartzinea」を注文した。最初にアミューズからコースが始まった。
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パエリアやリゾットに使用されるスペイン産ブレンド米「ボンバ米(BOMBA Rice)」にシピロン(イカ)をあしらった一品。イカの風味がスープに溶け込んだ香ばしさが絶品。
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魚料理は、ヘイク(Hake)と言うタラ目メルルーサ。魚が新鮮なのはもちろん、ふっくらとした焼き上げが素晴らしく大変美味しい。
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肉料理は、ラム ショルダー(仔羊骨無し肩肉)ブロック。肉の触感とソースとの相性も絶妙な一品。
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ワインは、ボデガス ロダ(Bodegas Roda)をいただいた。リオハ アルタの中心アロ村(Haro)のトップワイナリーで、樽の香りは抑え目で、口当たりはなめらかでシルキーこなれたタンニンが好印象なワイン。
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デザートには、ピピン種のリンゴタルトにアイスを添えたもの。
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コーヒーとプチフールをいただき終了した。新鮮な素材にソースを絡み合わせ、洗練されたバスク料理と言ったコースだった。今回リーズナブルなセットを頼んだが、量的にもちょうで、さすがに星付きと言った感想で満足できた。
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こちらは、ビダソア川のフランス側を約8キロメートル上流に向かったビリアトゥ(Biriatou)のホテル(Les Jardins De Bakea Hotel)である。ビダソア川沿いの通りの1本丘側(北側)のエリ アルド通り沿い建つホテルで2泊し3日目の朝を迎えたところ。ホテルの白い壁は朝日を浴び輝いている。ここビリアトゥは、フランス南西部のピレネー アトランティック県にある村で、バスク地方ではラブールにあたる。東側にあるホルドコガイナ山(標高486メートル)の麓に近く、ハイキングコースのルートにもなっている。
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こちらは、ホテル前の駐車場から南側を眺めた様子。すぐ先にビダソア川が東西に流れ、対岸(左岸)からスペインとなる。眺望がすばらしく、空の青さと緑が眩しく気待ちのいい朝である。ちなみに、この眺望はホテルのテラス席から一望することができる。これから昨夜に続き、スペイン・オンダビリアに向かうことにしている。
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昨夜のレストラン アラメダの東側から、旧市街の北側に回り込むと、サン クリストバル(San Kristobal Plaza)と名付けられたラウンドアバウトがあり放射状に6本の道が伸びている。その南西へ向かう通り沿いにマーケット(solbes)があり、店頭にフルーツが山積みに置かれている。
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マーケット沿いの通りと、ここまで来た通りとの間(南方面)に、Parador(パラドール)方面を示す標識があり、それに沿って坂道を上っていく。すぐに、右側に高さ4メートルほどのオベリスクが建ち「1879年3月30日付けの領海画定合意」と記載されている。詳しい解説がないが、ビダソア川とチングディ湾に面するオンダリビアとフランス領アンダイエとの船舶の航行に関する協定のことと思われる。
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そのオベリスクの先を右折すると、急な勾配の石畳の上り坂が続いて、その奥にアーチ門が見える。両側には、漆喰の壁に木製の梁や鎧戸などのバスク地方特有の建物が並んでいる。ところで「オンダリビア」は河口沿いの街だが、西側にハイスキベル山(標高547メートル)があることから、坂のある街となっている。
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アーチの上にも小さなバルコニがあり、住宅となっているようだ。
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アーチを抜けると、一辺30メートル四方の「ギプスコア広場」で、広場奥に、中世風ながら白いエディキュラを備えた可愛らしいホテル パラセテが望める。
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そのギプスコア広場から振り返ると、白い漆喰壁に木枠組みされた、それぞれ外観が異なるバスク風の建物が連結して建っている。くぐった門の隣の建物の2階は煉瓦壁でベランダには色どり鮮やかな花が飾られ、柱の上には紋章の浮彫が施されている。1階部分はアーケードで、ドーリア式の円柱が支えている。
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先の筋を右折し坂を上り、その先の交差点を左折して坂道を上ると、左側に「アルマ広場」が現れ、広場に面して前方(東側)に城壁のような「パラドール デ オンダリビア」が現れる。
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こちらのパラドールは、もともとナバーラ王の称号をはじめて使用したサンチョ アバルカ(在位:1004~1035)が築いた城だったが、16世紀、神聖ローマ皇帝カルロス5世により、対フランス戦のための重要地として改築されたもの。その後フェリペ4世(在位:1605~1665)治世時に、フランス軍からの2ヶ月にわたる攻撃に耐えたと言われ、現在も外壁には砲弾の痕が残っている。

アルマ広場の中心から、南側(右側から来た)を眺めると、通り沿いには緑、青、赤とカラフルな窓枠が並ぶバスクの建物が建っている。
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アルマ広場からパラドールに向かって左側(北側)にはビダソア川が流れ、その先がチングディ湾となる。
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アルマ広場には、1638年と書かれた中世の鳥瞰図(右下の川に面した城壁側が北)がある。城壁内に見えるひと際大きい広場が、このアルマ広場である。図では北城壁下が入り江になっているが、現在は、東側の陸地部分がそのまま東城壁と並行して北側に続いていることから、旧市街は、ビダソア川から100メートルほど内陸部に位置している。ラウンドアバウト「サン クリストバル」は、北城壁の側防塔のやや北側に位置している。
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南城壁側はサンタ エングラツィア川で、現在は、10メートル幅の水路で、空港の手前で北向きに方向を変えビダソア川に注ぎ込んでいる。レストラン アラメダは、南城壁中央付近から下った川縁あたりになる。

パラドールに沿って右奥には教会の尖塔が見える。下り坂の細い道が伸びている。
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左側が聖堂の壁面になっており、先に扉口があるようだ。
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坂を下って行くと、聖堂の向かい側には、靴屋があり、カジュアルなサンダルや靴が並んでいる。高級感のある革や縫製が大変良く、いかにも熟練の靴職人による手作業を感じさせる品々である。ちなみに、こちらが、バスクベレー帽が似合いそうな靴職人のおじさん。
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その靴屋の向かい側には、1474年から建設が始まり1549年に完成したゴシック様式のサンタ マリア教会の扉口がある。ミサの時間なのか幸いにも扉が開いている。
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主祭壇は、黄金で塗られた祭壇衝立が飾られており中央には聖母子像が祀られている。
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こちらの柱には、十字架を中心に愛らしい天使像の彫刻が両脇に施されている。
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礼拝堂横の天井はゴシック建築特徴のリブ ヴォールトで覆われている。
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リブには、細かい彫刻が施され、中央には聖母子像が表現されている。頂上部だけ見ると仏教の法輪の形と良く似ている。
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こちらの聖人像の身体部分は父と子(キリスト)と聖霊(聖神)が一体であるとする教えを図像化した「三位一体の盾」を現している。顔をよく見ると左右中央に3つの顔が現されている。細部まで細かい彫刻が施されており、作者の労力に感服させられる。
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さて、旧市街を後にし、再びサン クリストバル広場(San Kristobal Plaza)に戻り、マーケット(solbes)で買物をして、右隣の北側に伸びるサンペドロ通りを歩いて行くと、レストランやバルが並んだマリーナ地区に至る。こちらの丁字路に沿いにあるバル「アンバタ(Enbata)」は、込み合って入れなかった。


通りのすぐ先左側には、オンダリビアを代表する人気のバル店「グラン ソル(Gran Sol)」がある。


店内は混雑していたが、何とか、カウンター席に座ることができた。
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左端の一品は、名物のミガス(migas)。ミガスとは、パンを細かくちぎって炒めたもの。それに半熟卵に鶏のスープとイカ墨をかけている。
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タパスと言うより、本格的なフォアグラ料理。
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次から次にお客が来るが、店内には座りきれず帰って行く。
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さて、満足して、バルを出て、大通りを東方面に越えて行くと、


ビダソア川沿いのウォーターフロントに出る。このあたりが河口付近で、先方の北東側に入り込む岬の手前が、チングディ湾となっている。ちなみに岬はハイスキベル山を中心とした稜線として15キロメートルほど南西方向に海岸山脈となり続いている。
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南北に続くウォーターフロント沿いに砂浜が広がる場所があり、下りることができたので、川辺までやってきた。この日は波が高く、多くの船が運行している。東側となる対岸に見える街並みは、フランス領のアンダイエである。
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さて、ところ変わって、ここはスペイン・バスク自治州ギプスコア県の県都「サン セバスティアン」のビスケー湾に面した「ラ スリオラ海岸」。フランスとの国境からの距離は約20キロメートルである。東の岬となる岩山は「ウリア山」(標高243メートル)の最西端で、海岸線に沿って東方面に尾根が伸びていく。この海岸は、やや波が高いためサーフィンやボディボードを行う海水浴客に人気があるという。時刻は午後8時、そろそろ日の入りである。
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ラ スリオラ海岸の西側には「ウルメア川」(バスク山脈の麓、ゴイスエタからナバーラ州、バスク州ギプスコア県内を流れる)の河口に位置し、その背後に「モンテ ウルグル」(Monte Urgull)(標高123メートル)と呼ばれる小山がある。17世紀、ナバーラ王サンチョの命によって「モタ城」が建造され、その後も、近年まで軍事上、重要な防御地点となった。現在では、その役割も終え、大部分が緑に覆われ、山頂には1950年に12メートルの高さのキリストの像が設置されている。
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そして、このモンテ ウルグルの更に向かい側(西側)にも砂浜のビーチが大きく広がる「ラ オンダレータ海岸」があり、サン セバスティアンは、大小2つの湾(ラ オンダレータ海岸とラ スリオラ海岸)が連続して「ラ コンチャ湾」となり大西洋のビスケー湾となる。

サン セバスティアンは、ウルメア川に沿って街が広がっている。こちらは、そのウルメア川に架かる3本の橋の一つ「クルサール橋」(スリオラ橋)で、1921年にビクトル アラナによってデザインされたアール デコ様式の街路灯が美しい橋である。
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ウルメア川対岸の宮殿を思わせる建物は、ホテル マリア クリスティーナ(Hotel Maria Cristina)で、15世紀の建物を復元し1912年のオープンした壮大な5つ星ホテルである。
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クルサール橋の手前左手には、「クルサール国際会議場・公会堂」がある。設計はスペイン人建築家のホセ ラファエル モネオで、1999年開館した。1,839席のクルサール公会堂、多目的ホール、展示場などを有する複合施設で、毎年9月に開催される「サン セバスティアン国際映画祭」の開場で知られている。目指す「レストラン ニ ネウ」(Ni Neu)は、この2階にある。
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スペイン(フランス含め)滞在の最後のディナーは、ここミシュラン店で味わう。メニューには、セットメニューが2種類あったが、「The Tradition and the taste」(48.5ユーロ)のコースに、ワインペアリング(28ユーロ)を付けて頼むこととした。
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ガスパチョと、素揚げされたシシトウらしき一品。。
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ポタージュ(スープ)。
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パテだが、まだ前菜のようだ。
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サンセバスチャン名物ピルピルソース(オリーブオイルとにんにくと鱈で作る)に入った蟹。
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セットなので、ポーションが小さいのは分かるが、どこからがメインなのかよくわからない。
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64度で料理された子牛のほほ肉ローストペッパーとポテトクリームを添えた一品。
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どうやらデセールらしい。
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続けて、もう一品でてきた。先ほどのリンゴ味のケーキはアヴァンデセールだったのか。
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メインのポーションが小さくアラカルトで頼んだ方が良かったのかもしれない。もちろん美味しかっただけに少し残念な印象となってしまった。
(2008.9.26~27)
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