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カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・パリ(その4)

2014-12-24 | フランス(パリ)
これから、パリ・オペラ座(ガルニエ宮)で、バレエを鑑賞することにしている。開始時間まで間があったことから、メトロに乗り、少し離れたフランクラン・デ・ルーズヴェルト駅を下車して、シャンゼリゼ通りにやってきた。正面が、ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)の命により建てられた戦勝記念碑「エトワール凱旋門」(Arc de triomphe de l'Étoile)(1806年着工、1836年完成)で、シャルル・ド・ゴール広場の中心に建っている。
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毎年、年末を迎えるこの時期は、約2キロメートルにわたり、約400本もの街路樹がイルミネーションで鮮やかに彩られる。午後6時半を迎えたシャンゼリゼ通りの交通量は多く大渋滞している。

シャンゼリゼ通り沿いの店舗もイルミネーションが華やかで、多くの人で賑わっている。これからコンコルド広場(Place de la Concorde)の方向に歩いて行くが、ランドマークのオベリスクだけでなく、この日はライトアップされた観覧車(ルー・ド・パリ)の姿が確認できる。
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コンコルド広場から、セーヌ川右岸沿いに足を延ばし、コンコルド橋の近くからセーヌ川を望むと、「アレクサンドル3世橋」のライトアップされた装飾柱の先に、キラキラとした照明に包まれ、サーチライトを放つエッフェル塔を眺めることができる。
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こちらがセーヌ川右岸から見た「コンコルド広場」で、もともとは、1755年、ルイ15世の騎馬像が設置されたことから「ルイ15世広場」と呼ばれ、フランス革命以降には、騎馬像は取り払われ「革命広場」と改められている。ルイ16世やマリー・アントワネットへのギロチン刑が行われた場所でもある。そして現在の「コンコルド広場」は、1830年の7月革命以降に公式名となっている。
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コンコルド広場の中心部にはエジプトのルクソール神殿のオベリスクが聳えている。これは1836年に、エジプト国王ムハンマド・アリーから贈られたもの。そして、高さ60メートルの可搬式観覧車ルー・ド・パリは、2000年のミレニアムのお祝い以来、コンコルド広場に設置されている。持ち運びが可能なため、その後、オランダ、イギリス、タイ、ベルギー、イタリアなどの国々に移動してサービスが提供されているが、このたび、年末を控えてパリに里帰りしている。

上演予定時間が近づいてきたことから、オベリスクの先に見える建物の間の「ロワイヤル通り」を北に進み、三叉路となるマドレーヌ寺院から右方向に行った先のパリ・オペラ座(ガルニエ宮)に向かう。

パリ・オペラ座で、午後7時半よりバレエ「ラ・スルス」(泉)(La Source)を鑑賞する。ラ・スルスは、レオ・ドリーブとレオン・ミンクスの合作の2幕3場のバレエで、1866年にパリ・オペラ座にて初演されたが、その後は、上演されておらず、この度、一世紀半ぶりに復活上演されることになった。

舞台は、コーカサス地方の山岳地帯で、狩人ジェミルに恋した泉の精ナイラが自分を犠牲にして、彼が愛している隊商の娘ヌーレッダとの恋を手助けするといった悲哀恋愛を描いた内容である。
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中央がコロンヌ管弦楽団の指揮者コーン・ケッセルズ(Koen Kessels)で、左右が、泉の精 ナイラ(Naïla)役のシャルリーヌ・ギーゼンダナー(Charline Giezendanner)と、狩人ジェミル(Djémil)役のフロリアン・マグネネット(Florian Magnenet)、両端が、隊商の娘ヌレッダ(Nouredda)役のローラ・ヘケ(Laura Hecquet)と、森の妖精ザエル(Zaël)役のアクセル・イボット(Axel Ibot)になる。

見所としては、男性陣のダイナミックな踊りや女性たちの華麗な踊りはもちろんのこと、クリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)の華やかで、カラフルな民族衣装や、エリック・ルフ(コメディ・フランセーズ芸術監督・俳優)による刺激的な空間表現などがある。特に、天井から吊り下げられたロープが、様々にアレンジされ、中でも、多くを束ねることで、コーカサスの山岳地帯の巨木広がる世界観をも具現化している点が印象深い。
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バレエ鑑賞後は、オペラ座の東ファサード(支援者のパヴィヨン)側にある「オペラ・レストラン」(こちらは日中の様子)で、午後10時から遅い夕食をいただいた。シーザーサラダ、トリュフのコキーレット、チキンスープリーム、白ワインを注文し、営業終了時間の午後11時にお店を後にした。

メインファサード側に戻ってみると、人通りはほとんどなく寂しい雰囲気である。ライトアップされたファサードを見上げると、その荘厳の豪華さに圧倒される。こちらのメインファサードには、14人の画家、モザイク職人、73人の彫刻家が装飾制作に参加したと言われている。
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モントロン公園(9区)そばにあるホテル「ウイリアム オペラ」をチェックアウトし、荷物をフロントに預けたお昼の12時過ぎ、8区にある「ジャックマール・アンドレ美術館」(Musée Jacquemart-André)にやってきた。美術館は、メトロ9番線ミロメニル(Miromesnil)駅から450メートルほど歩いたオスマン通り沿いにある。このあたりは高級邸宅が多く、同じような外観の邸宅が並んでいるので、懸垂幕がなければ通り過ぎそうである。


ちなみに、現在のパリの街並みは、1853年、皇帝ナポレオン3世の統治下、セーヌ県知事に任命されたオスマン男爵の手によるもの。今までスラム街のようだったパリは、その約17年の歳月を要した後、世界中の人々から賞賛される「花の都」へと大変身を遂げた。このオスマン通りは、そのオスマン男爵の名にちなんでいる。

黒い鉄扉を入ると、薄暗い石壁で囲まれた10メートルほどの通路があり、左側の扉を入るとチケットショップがある。その後は、左にカーブする坂道を上っていく。



左に回り込んだ左側(南側)にある広場の先に、巨大なポルチコのファサードを持つ大きな建物が現れる。こちらが「ジャックマール・アンドレ美術館」の展示会場となり、入口左右のライオン像が出迎えてくれる。
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ジャックマール・アンドレ美術館は、銀行家で芸術愛好家のエドゥアール・アンドレと、1881年に結婚した妻で画家のネリー・ジャックマールとの邸宅だったが、2人の遺産を受け継いだジャックマール・アンドレ財団により、1913年に美術館として発足している。そして、2人が収集したイタリア・ルネサンス、18世紀フランス、そしてオランダなどの絵画作品に加えて美術工芸品、家具、調度品等が華麗な邸宅と共に展示されている。

入口を入った最初の展示室が「絵画室」(サロン・デ・パンチャー)(Le salon des peintures)で、ジャン・マルク・ナティエ(Jean-Marc Nattier、1685~1766)の「ダンタン公爵夫人」(マチルド・ドゥ・キャニーの肖像)(1738)が展示されている。ナティエは、ルイ15世時代のフランスで肖像画家で、彼が描く優美にして繊細なタッチは一世を風靡しており、こちらの作品は、美術館のイメージキャラクター(図録、ポスター、ホームページなど)として採用されている。
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その上に掲げられた楕円額縁の絵画は、フランソワ・ブーシェ(1703~1770)の「ビーナスの眠り」(1738)である。ヴィーナスのポーズは、楕円形のフレームにフィットして描かれている。アモールは、眠りにつくヴィーナスを見守っており、そのヴィーナスの左手には真珠のネックレスが握られている。

こちらは、訪問客を招いて豪華なパーティーなどが催された「グランドサロン」(Grand salon)(114平方メートル)で、アンティークとモダンを組み合わせた18世紀らしい折衷主義の様式で設計されている。左奥の扉向こうに見える「絵画室」の南隣に位置していることから、絵画室が、グランドサロンのための控室であったことが頷ける。
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グランドサロンは南向きで、外観はドームを頂くロタンダとなっている。窓の外にはテラスが広がり、そのテラス先の背景として樹木が広がっているが、これは、1階下に延びるオスマン通りの街路樹を借景としている。サロンには、絵画の展示はないが、コワズヴォー、アントワーヌ・ウードン、ミケランジュ・スロッツなどの彫刻家による大理石の胸像コレクションが飾られている。
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このサロンでは、キャパを超える規模のレセプションパーティーの開催も可能で、その場合は、油圧ジャッキを使って西側面の仕切りを外して、隣接する部屋を一つの空間にすることで、千人ものゲストを迎えることができた。

グランドサロンの窓に向かって左扉の先は「タペストリーのサロン」(Salon des tapisseries)で、壁面には、18世紀、ボーヴェのタペストリー工場で編まれた、計3枚のタペストリーが飾られている。原案は、フランスの画家で、ブーシェに師事した、ル・プランス(Jean-Baptiste Le Prince)(1734~1781)によるもので、タペストリーには、ブルー・パールとローズ色を基調にロシア・スラブ地方の風景と人物が織り込まれている。
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そして、ソファの前の絵画スタンドに置かれた絵は18世紀イタリアを代表するヴェネツィアの景観画家、フランチェスコ・グアルディの「ポルチコ・ベネティアン(Portique venitien)(1760)」である。

東隣は、「執務室」(Le cabinet de travail)で、貴重な調度品が数多く配置されている。例えば、中央には、ルイ15世のお気に入りの家具職人ジャック・デュボワが制作した「ルイ15世のデスク」(1745)が置かれている。うす暗い金の装飾を盛り込んだ黒漆を基調に、ブロンズ製の縁取りフレームが4本の細く湾曲した脚先にまで施されており、重厚感と軽量感とが巧みに調和された作品となっている。他にも、寄木細工が施されたローズウッド製のタンスや、オービュッソンのタペストリーで覆われた肘掛け椅子などがある。
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壁には、18世紀のフランスの絵画が飾られ、天井には、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(1696~1770)のフレスコ画で覆われている。

執務室の隣で、東端となる展示室は「私室」(Le boudoir)で、マリー・アントワネット王妃の公式肖像画家で知られる女性画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755~1842)の「キャサリン・スカヴロンスカヤ伯爵夫人の肖像」(1790)が展示されている。革命の時にフランスを去ったルブランが、ヨーロッパを旅する途中に立ち寄ったナポリで、ロシア大使スカヴロンスキー伯爵に歓迎され、妻の肖像画を依頼され描いた作品である。モデルの夫人は、左手にメダリオンを持ち物思いにふけった表情で、椅子に腰かけている。
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「私室」の隣で東南角となる「書斎」(La Bibliotheque)には、ルイ14世時代の家具などが配置され、壁にはレンブラント、ヴァン・ダイク、ルイスダール、フランス・ハルス、フィリップ・ドゥ・シャンペーニュなどのフランドル絵画やオランダ絵画のコレクションが展示されている。


正面の一番小さい画は、レンブラント(Rembrandt、1606~1669)の「エマオの巡礼者」(Les Pelerins)(1628年頃)である。向かって右側のシルエットで表される人物がキリストで、背後に光源を配置し神秘さを強調している。対して巡礼者(キリストの弟子)は、光を正面に受け、驚く瞬間を捉えており、明暗を見事に可視化し劇的な効果を生み出している。
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エマオの巡礼者の左右には、同じくレンブラントの「アーノルド・トーリンクス博士の肖像画」(portrait du docteur arnold tholinx)(1656)と「アマーリエ・フォン・ゾルムスの王女の肖像」(portrait d'amalia von solms)(1632)が飾られている。
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アマーリエ・フォン・ゾルムス(1602~1675)は、オラニエ公(現在のオランダ王家)フリードリヒ・ヘンリーの公妃で、病弱だったオラニエ公の政治顧問として事実上の摂政として行動した。晩年は、孫となるオレンジ公ウィリアム3世の摂政評議会の議長をも務めている。彼女は、ホントホルストや、ヴァン・ダイクなどにも描かれている。

こちらは、バロック期のフランドル出身の画家アントゥーン・ヴァン・ダイク(1599~1641)の「男の肖像画」(1620頃)で、治安判事を描いたもの。作品は、当初、ヤーコブ・ヨルダーンス作とされ、次にルーベンス作「老人の肖像」とされたが、現在では特に異論なくヴァン・ダイクの作品とされている。
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東端の「私室」と反対側になる西端には「冬の庭」(ウィンターガーデン)(Le Jardin d'hiver)と名付けられた大理石のホールがある。彫像、ローマ時代のレリーフ、鉢植えの植物などが飾られている。


コリント式の茶色の大理石柱の奥は、吹き抜けになっており、左右に「名誉の階段」(L'escalierd' honneur)と名付けられた螺旋階段がある。


名誉の階段を上がって行くと、壁面に巨大なフレスコ画が現れる。ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの「アンリ3世の歓迎」(1745)で、1574年、アンリ3世(在位:1574~1589)(母がカトリーヌ・ド・メディシス)が、兄シャルル9世の崩御を継いでフランス王となるためパリへ戻る途中に立ち寄ったヴェネツィアにおいて、コンタリーニ公からの歓迎を受けている様子が描かれている。
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中央で首にラッフルを付けて右手を差し出している人物がアンリ3世で、その手を取る老人がコンタリーニ公になる。ところで、向かって右下に、この歓迎風景を見ている男が描かれているが、足が画面からはみ出しているのがなんともおかしい。もともとは、ヴェネツィアのコンタリーニ邸内を飾っていたものだが、1893年にアンドレス夫妻が購入し、この場所に移設したもの。

このフレスコ画の左右にもフレスコ画があり、こちらは、アンリ3世の歓迎をコンタリーニ邸から見学する人物たちの様子が描かれている。
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そして、1階入口の西側にある「ダイニングルーム」(La salle à manger)の天井にも、ティエポロのフレスコ画がある。こちらには、コンタリーニ邸のテラスの欄干手摺から身を乗り出し、階下を見つめる人々の姿が描かれ、猿が、手摺にぶら下がり尻尾がはみ出すだまし絵の効果を狙っている箇所もある。天井画は2階の「アンリ3世の歓迎」と一連のもので、もともとコンタリーニ邸では同じ場所にあったが、こちらジャックマール・アンドレ邸に移設した際に、分離して展示されることになった。
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「ダイニングルーム」では、ジャックマール・アンドレ美術館併設のレストラン、カフェとして営業している。まもなく午後3時になるが、まだ昼を食べていないので、こちらのレストランで食事をすることにした。天井画のアンリ3世の歓迎の様子を眺める人々の姿は、現在では、多くのテーブル席で食事する人々を羨む様な構図となっているのが洒落ている。

そして、店内の周囲の壁には、イーリアスの主人公アキレウスが活躍する冒険談が彩られた5つのタペストリーが飾られている。これらは18世紀にブリュッセルで織られたもの。


こちらのランチタイムは午後3時までなので、時間間際での注文となった。お昼の時間は行列ができるほどの人気のレストランとのことだが、この時間は比較的ゆっくり過ごせる。


再び、名誉の階段で、2階に戻り廊下を歩くと、正面にヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490頃~1576)の「フェデリーコ2世・ゴンザーガの肖像」(1560)が展示されている。フェデリーコは、第4代マントヴァ侯フランチェスコ2世とイザベラ・デステの子で、マントヴァ侯を継いでいる。この時代は、ルネサンスの宮廷文化の黄金期であり、彼自身も母親譲りの文化愛好者であった。
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こちらは、ペルジーノ(1448頃~1523)の「聖母子像」(1500)である。ペルジーノは、ルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家で、ラファエロの師でもあった。彼はゆったりとした空間構成、牧歌的な風景、甘美な聖母子像を描くことで人気があるが、こちらも清々しい清涼感を与えてくれる風景が広がっている。
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1階のグランドサロンの真上となる2階展示室は「彫刻室」(La salle des sculptures)と名付けられている。その一角にある「アトリエ」(L'atelier)には、多くの美術品や調度品が飾られている。奥の壁に見える楕円状の「聖母子像」(15世紀)はルネサンス期イタリアのセラミック彫刻家ルカ・デッラ・ロッビアの作品で、他にもロッビア工房のセラミック作品が飾られている。
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正面の大きな画は、13世紀シエナ派のピエトロ・デ・ジョバンニ・ダンブロシオ(Pietro di Giovanni d'Ambrosio)の「聖カタリナ」(1444)で、向かって左の円柱上のブロンズ胸像は、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ(1509~1566)の「ミケランジェロ」になる。彼は晩年のミケランジェロとの交際で知られている。手前の机上のガラスケースの中にも板状のブロンズ像が飾られている。

こちらのブロンズ像はドナテッロの「聖セバスティアヌスの殉教」(1450)で、ルネサンス期に多くの画家によって描かれた代表的な宗教画である。半裸の姿で体をゆがませたポーズをとり、全身に矢を受けている構図が多いが、こちらの像は、矢を受けているセバスティアヌスだけでなく、イレーネや射手たちも表されている。
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反対側には、美術館の紹介を行うビデオコーナーが上映されており、側面の壁にも、多くの浮彫レリーフなどが掲げられている。
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棚の上に飾られているのは、ダルマツィア出身の彫刻家、フランチェスコ・ラウラーナの「イサベル・デ・アラゴン」(1500)で、凛として静かな表情をした美しい胸像である。その上には、「シジズモンド・パンドルフォ・マラテスタの肖像」(1468)が掲げられている。彼はリミニの領主で、領土拡大のための徹底行動が、法王ピウス2世の反感を買い、1460年に破門されている。その後も、教皇庁からは、暴君、好色漢で残忍な異教徒の世評をたてられるが、彼は最高の芸術家たちを招聘するなどし、リミニをルネサンス芸術の地に変えている。
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窓際の隅に見える胸像は「ロレンツォ・ソデリーニ像」(15世紀)になる。ソデリーニ家はフィレンツェの名門貴族で、彼の孫には、1512年にフィレンツェ共和国の元首(正義の旗手)となったピエロ・ソデリーニがいる。
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左隣(「彫刻室」の西側)となる展示室「フィレンツェの部屋」(La salle florentine)には、パオロ・ウッチェロの「聖ゲオルギウスの竜退治」(1430~1435頃)がある。ウッチェロは、初期ルネサンス美術を代表する画家の一人で、遠近法を科学的アプローチで駆使した絵画を創出したことで知られている。作品は手前の道から都市の門に向けて遠近法が使われているものの、登場人物たちは、前面に帯状に整列させられた単純な構図で、やや不自然な印象を受ける。
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竜退治の舞台は、トルコ・カッパドキアの首府ラシアである。この街のはずれに恐ろしい竜が住んでいたが、羊を生贄に捧げることで、その災厄から逃れていた。しかし、遂に生贄にするべき羊がいなくなり、人間を生け贄として差し出すことになり、くじ引きの結果、王の娘に当たってしまう。その時、この地を通った聖ゲオルギウスが、竜に戦いを挑み勝利し、喜ぶ街の人たちをキリスト教に改宗させて去ったという。

ちなみに、ウッチェロが約30年後に描いた「聖ゲオルギウスの竜退治」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー版)(1460~1470頃)では、遠近法に違和感は感じられず、ゲオルギウスと竜にも躍動感が感じられる。とは言え、ジャックマール・アンドレ版の方が、何とも味のある作品であり愛着を感じる。

「フィレンツェの部屋」の西隣の北西側の展示室「ザ・ベネチアン・ルーム」(La salle vénitienne)にも名品が並んでいる。上が、ジョルジオ・スキアボーネ(1437~1504)の「聖母子とパドヴァのアントニオ、殉教者ペテロ、そして二人の音楽天使」で、向かって左下が、パドヴァ派の画家カルロ・クリヴェッリ(1430頃~1495)の「救いの木を持つボナヴェントゥラ」(1490)になる。左下に見える小さな人物はフランシスコ会の寄進者である。
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ジョルジオ・スキアボーネの下で中央の大きな絵は、初期ヴェネツィア派を代表する画家の1人、ヴィットーレ・カルパッチョの「アマゾーンの女王ヒッポリュテとアテナイ王テーセウス」(1495)で、ギリシャ神話の世界が描かれている。ミュケナイ王は、ヘラクレスにアマゾーンの女王ヒッポリュテの腰帯を取って来いとの命令をくだしたため、アテナイ王テーセウスともに、アマゾーンに向かう。これは、個性的な帽子をかぶり馬に乗ったアマゾーン7人の女性戦士とテーセウスとの交渉場面を描いている。
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その右隣は、ボッティチェッリの「エジプトへの脱出」(1505)で、ヘロデ王による嬰児殺しを避けるために行われた幼子イエスを抱くマリアとヨセフとの逃避行が描かれている。エジプトへの逃亡を描いた多くの表現では、マリアがロバに座り、子供を膝に乗せているのがよく見られるが、本作は、メアリーは子供を腕に抱いて立っており、ロバは彼女の隣で草を食んでいる。
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「ザ・ベネチアン・ルーム」には、ジョヴァンニ・ベリーニ、アンドレア・マンテーニャ、カルロ・クリヴェッリなどの大作がそろっている。向かって左側には、アンドレア・マンテーニャ(1431~1506)の「この人を見よ」で、棘の冠を被ったイエス・キリストが民衆に晒されるところが描かれている。作品名は、キリスト処刑時のユダヤ属州総督のピラトの発した言葉に由来している。隣は、同じく、マンテーニャの「聖ヒエロニムスとトゥールーズの聖ルイのいる聖母子」(1455)で、印象的なキリストの顔と、深みのある個性的な人物表現に特徴がある。
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中央に飾られているのは、ジョヴァンニ・ベリーニ(1430頃~1516)の「聖母子像」(1510)で、この美術館のメインの一つともいえる作品になる。ベリーニはヴェネツィア派の第一世代(15世紀)最大の巨匠で、祭壇画、ピエタ・磔刑などキリストを主題とする宗教的作品を多く描いている。


マリアは、記念碑的な玉座に座り、後ろに張られたロープにカーテンが掛けられている。その玉座の垂直面とカーテンの水平面は十字架を形成している様に見える。

向かって右側にはマンテーニャの「聖母子と三人の聖人」(1485)がある。頬を寄せ合う二人を中心に、左右に、マグダラのマリアとヨセフが寄り添っており、そのヨセフの奥にはわずかに別の聖人の顔が見える。
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向かって右端のマンテーニャの祭壇画の下にある小さな画は、クリヴェッリの「聖人たち」(1493)で、左から、剣を持つ聖パウロ、中央が聖アウグスティン、右端が聖ブルーノになる。この指を咥えるポーズは、さまよう隠者のシンボルを表している。
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エドゥアール・アンドレとネリー・ジャックマール夫妻が収集した多くの作品は、美しい調度品と共に、美しく、華麗なブルジョワ邸宅の隅々にまで見事に溶け込んでいる。すっかり長居をした午後5時頃に美術館を後にした。
(2014.12.23~24)
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フランス・パリ(その3)

2014-12-23 | フランス(パリ)
日本航空(JL)5057便で、羽田空港を午前0時半に発ち、フランス・シャルルドゴール空港に午前5時半に到着した。空港からパリ市内へは、パリ高速鉄道(RER)が便利だが、スリが多いこともあり、今回も、空港バス「ロワシーバス」(RoissyBus)に乗車する。乗客も10人ほどで安心感があり、約1時間ほどで無事パリ・オペラ座(ガルニエ宮)前のバス停に到着した。まもなく午前8時で、夜明けまであと30分ほどになる。
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バス停の道路向かい側が、頂部をドームによって覆われたオペラ座の西ファザード「皇帝のロタンダ」で、もともと皇帝が直接入館できるように2重の専用斜道構造となっている。その手前には、オペラ座の設計者フランス建築家シャルル・ガルニエ(Charles Garnier、1825~1898)の胸像が飾られている。オペラ座のメインファサードは南側になり、回り込んだ東側には、西側と対になる同じデザインの「支援者のパヴィヨン」と名付けられた関係者向けのファサードがある。

オペラ座の東側にある、ショセ・ダンタン=ラ・ファイエット駅からラ・ファイエット通りを北東に1キロメートル行った左側の「モントロン公園」(パリ9区)そばにあるプチホテル「ウイリアム オペラ」が今夜の宿泊ホテルになる。荷物を預けて市内を散策することにした(以下ルートマップ参照)。


ホテル前のラ・ファイエット通りを東方面に450メートルほど歩くと10区に入る。左手に見える教会は、「サンヴァンサン・ド・ポール愛徳修道女会礼拝堂教会」である。こちらの教会は、カトリック修道女カタリナ・ラブレが、聖母マリアの出現によって示されたお告げとイメージをもとにデザインされた「不思議のメダイ」で知られており、奇跡のメダル教会ともいわれている。


教会の南側から、シャブロル通りを東に300メートル歩き、左手に続く建物が「マルシェ・サンカンタン」である。北側のプティオテル通りと東側のマゼンタ大通りとの三角形の敷地に建てられており、ピンクのレンガと緑の鋳鉄製のアーケードが特徴的なマルシェである。パリにマルシェは多いが、こちらは1866年に建てられた歴史あるマルシェである。


営業時間は、午前8時から午後8時まで(日曜日は午後1時30分まで、月曜日は休み)で、店内にはクリスマス準備に大忙しのお肉屋さんや、


美味しそうなチーズ屋さんなど多くのお店がある。チーズの種類の多さは、日本とは比べ物にならない。さすがチーズの国フランスである。


マルシェの前の交差点を超えると、左側に「パリ東駅」(Gare de l'Est)が見えてくる。東駅はフランス東部やドイツ、ルクセンブルク方面と東へ向かう列車が発着することから名付けられている。


東駅前から、南に数十メートル下ったマジェンタ通りとの交差点の左側に、ステンドグラスと高い尖塔(肝心の尖塔が切れてしまった。。)で知られるゴシック式建築の「サン・ローラン教会」が建っている。古代ローマ街道の跡地に建てられたが、現在の教会は10世紀と15世紀の建築を基礎とし、19世紀にステンドグラスのあるファサードとして再建されている。


サン・ローラン教会のファサードに向かって左側の北側廊沿いを通り、後陣から東方向に延びるレコリ通りに入る。左側には旧ヴィルマン軍病院の跡地に建設された「ヴィルマン庭園」(1977年創設)がある。軍病院は、前線から帰還した負傷者がすぐに治療を受けられる様に、1861年、北駅と東駅の近くに設立されたが、現在は、ポータルのみが残されている。レコリ通りを東に歩いていくと、通りは突き当たりの丁字路になり、その先にアーチ鉄橋が見えてくる。


ここが「サン・マルタン運河」で、1キロメートルほど北のラ・ヴィレット貯水池と3.5キロメートル南のセーヌ川とを結んでいる。このサン・マルタン運河は、ナポレオン1世が、1825年、市民に飲み水を提供するために作ったもので、現在では観光のための遊覧船も走っている。


運河は、25メートルの高低差があるために9つの閘門(こうもん)があるが、鉄橋から南のセーヌ川方面を眺めるとその閘門の一つがあり、構造を確認することができる。ジャン=ピエール・ジュネ監督の映画「アメリ」(2001年)で、主人公のアメリが石で水切りをしていた場所がこちらである。


陸橋を渡った側の運河沿いのジェマッペ通り沿いには「北ホテル」がある。マルセル・カルネ監督の映画「北ホテル」Hotel du Nord(1938年)の舞台となっており、こちらのアーチ橋を渡ってきた男女2人が、河川敷にあるベンチに座るシーンから映画は始まっている。


冒頭シーンでは、ベンチに座る2人の背後に現在と変わらぬ北ホテルの全景が映し出される。当時の映画はセット撮影だったとされているが、ホテルを含めた周囲の景観は現在とほとんど変わっていない。ちなみに北ホテルは、現在レストランになっている


再び、陸橋で運河の西側に戻り、メトロ5号線のジャック・ボンセルジャン駅から、シャトー・ドー通りに入ると左側にサン・マルタン・マルシェがある。


こちらも常設のマルシェで、店内には、新鮮な魚介類がたくさん並べた魚屋さんなどがある。


先の交差点を左折して南に向かうサン・マルタン通りを進むと、交差点の中心に「サン・マルタン門」が建っている。太陽王として知られるルイ14世が、1674年に造った凱旋門で、アーチの上の彫刻は、フランス国王軍がブザンソン(スイス)奪取と軍と三国同盟(ドイツ・オランダ・スペイン)の解体をあらわしている。


次に、サン・マルタン門から、サン・マルタン大通りを600メートルほど東に向かうと「レピュブリック広場」になる。このあたりには、ビストロも多く若者も大勢訪れる。レピュブリックはフランス共和国(Republique Francaise)を名に冠した場所で、広場中央にフランス象徴のマリアンヌ像が飾られている


レピュブリック広場から、南方面のタンプル通りに入る。ここから3区に入る。正面三叉路角にはメトロ「タンプル駅」入口がある。建築家エクトール・ギマールのお馴染みのアール・ヌーヴォーデザインの駅のゲートを見ながら左手タンプル通りを南に進む。タンプル通りは1830年代、パリ演劇界の中心地で、最盛期には15もの劇場が軒を連ねており、当時は「犯罪大通り」とも呼ばれていた。


「犯罪大通り」といえば、フランス映画史上に残るマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」Les Enfants du Paradis(1945年)でお馴染みである。

タンプル通り左手には、パリ市内に多くの店舗を展開しているスーパー「モノプリ」Monopirixがあり、その店先には、特設の魚介のマルシェが出ていた。蟹、海老、牡蠣等が山積みになっている。


通り向かい側には「ハンガリー教会の聖エリザベス教会」が建っている。13世紀のハンガリーの王女、ハンガリーの聖エルジェーベト(エリーザベト)(1207~1231)に捧げられた教会で、ティンパヌムには、キリスト降架の浮彫が、左右に、ルイ9世(セントルイス)とハンガリーの聖エルジェーベトの彫像が飾られている。1938年からはエルサレムの聖ヨハネ騎士団の修道院教会となっており、マルタ十字の旗が見える。
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モノプリを過ぎたすぐ先の左側には「ドゥ・トンプル広場」がある。左折してブルターニュ通り沿いから広場に入る。この場所には12世紀から13世紀、テンプル騎士団によって建てられた要塞があり、フランス革命中には刑務所として使用されフランス王室が投獄されていた。その後、王党派の巡礼地にもなったことから、ナポレオン1世が1808年に取り壊しを命じたため、今では当時の面影はない。


広場には、小さなメリーゴーランドがあり、こんなところもパリらしい。また、小さな池のそばには鶏が放し飼いされていた。

広場からブルターニュ通りを東に向かうと、交差するシャルロ通りの手前右側に「マルシェ デ アンファン ルージュ」への入口がある。17世紀から続くパリで最も古いマルシェである。入口を入ると、正方形の敷地に、5つのアーケードが並行し、肉屋、魚屋、ビストロ、ワインバー、ハンバーガー、ケバブ、イタリア料理、中東料理など各国の料理を提供するお店が並んでいる。
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先の交差点を右折して「シャルロ通り」を南に向かう。交差点の左角には、パリジェンヌたちが集う人気のカフェ「シャルロ」(Le Charlot)がある。このあたりからマレ地区に入る。マレ地区は、中世のころまで、沼地(Marais)だったことから、名付けられた。16世紀末~17世紀に入るとアンリ4世が、このあたりを開発し、多くの貴族の邸宅が建てられた。現在貴重な歴史的資産として保存されている。
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シャルロ通りを南に進み、左折して少し東側に行ったところに「パリ国立ピカソ美術館」(Musée National Picasso-Paris)がある。ピカソの遺族が相続税として物納した作品が中心となっていることから、ピカソが最後まで手元に留めていた貴重なものが多い。 2009年以降、改修工事が行われていたが、遅れに遅れ、2カ月前にリニューアルオープンしている。この日は多くの人が訪れていた。


1705年にフランス貴族ド・ロアン家のために建てられた「オテル・ド・ロアン」(現:国立公文書館の一部)がある東側のヴィエイユ・デュ・テンプル通りを南に行き、交差点を左折すると東西に延びる「フラン・ブルジョワ通り」(Rue des Francs-Bourgeois)となる。歴史的建造物も多く、近年はファッションやサブ カルチャーの中心として注目を集めている。通りを一路東に向かう。このフラン・ブルジョワ通りを境に北側は3区、南側が4区となる。
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右側の建物は、15世紀以来、法曹界、財界、政界にかかわってきたスカロン家のために1634年に建てられた「オテル・ド・クーランジュ」(Hôtel de Coulanges)で、先の入口には、1707年のポータルにはロココ調の装飾が施されている

左側には「オテル・ダルメラ」(Hôtel d'Alméras)がある。1613年にブルボン朝フランス国王アンリ4世の顧問で財務長官のために建てられたもの。その後、フランス革命期の政治家、軍人のポール・バラス(1755~1829)や、フランスの映画監督、脚本家アラン・コルノー(1943~2010)などが住んだ。改修、修繕は行われ、室内装飾などは当時のものは残っていないが、邸宅自体は、概ね当時のままである。


そして、先隣りの左側には、1585年に建てられた「オテル モルティエ ドゥ サンドルヴィル」(Hôtel Mortier de Sandreville)がある。パリの商人でブルジョアのバルベット家が所有していたが、その後の相続で分割され、後の継承者により1630年にオテルとなっている(ファサードは1767年に改修)。


フラン・ブルジョワ通りとパヴェ通りの角にある右側の、望楼のある建物は、16世紀に建てられた「オテル・ラモワニョン」(Hôtel de Lamoignon)で、1750年には治安判事ギヨーム・ド・ラモワニョンの住まいとなっている。同じ頃、パリの検察官を務めたアントワーヌ・モロー(1699~1759)が、歴史的文書への情熱に駆られ、ラモワニョンよりオテルを借りて図書館にしており、1968年には「パリ市歴史図書館」となっている。
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フラン・ブルジョワ通りを少し進むと、パリ市歴史図書館への入口がある。ティンパヌムにはラモワニョンの紋章看板を掲げるアモール(天使)の浮彫が残されている。
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パリ市歴史図書館の向かい側には、「カルナヴァレ博物館」(Musée Carnavalet)への入口がある。こちらは16世紀に建てられたオテル・カルナヴァレを1866年にパリ市議会が購入し、博物館としたもの。1989年には、隣接する同じく16世紀に建てられたオテル・ドルジェヴァルを購入し拡張している。


門から中庭を覗いてみる。ここの常設展は無料で入れるが、今日は時間の都合があり、また機会があれば


邸宅やショップを眺めながらフラン・ブルジョワ通りを400メートルほど歩いてくると、


視界が広がり、右側に「ヴォージュ広場」(Place des Vosges)が現れる。ヴィクトワール広場、ドーフィーヌ広場、ヴァンドーム広場、コンコルド広場と並ぶパリの5つの王立広場の一つで、1612年、アンリ4世により造られたパリで最も古い広場でもある。


広場は、一辺が140メートルの正方形の敷地で、周囲を車道と2階建ての赤レンガの住宅に囲まれている。こちらの住宅には多くの貴族や政治家などが住んでいた。中心の広場は彼らの憩いの場でもあり、馬術競技なども行われていたとのこと。


1階部分は回廊になっており、アーケードのついたお店が並んでいる。カフェもあり、寛ぐ人々の姿も見える。


ヴォージュ広場からは、一旦、フラン・ブルジョワ通りを少し戻り、セヴィニェ通りを南下すると、通りの奥に教会が見え始める。


セヴィニェ通りは、リヴォリ通りに突き当たる。向かい側に建つのは「サン・ポール・サン・ルイ教会」(Eglise Saint-Paul-Saint-Louis)である。ローマにあるバロック建築のジェズ教会を模して、1627年から1641年にかけて建造された。ルイ13世がこの場所の土地を提供したので、聖ルイが教会の名前の由来となっている。
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リヴォリ通りの北側を東西に延びる「ロジエ通り」(Rue des Rosiers)を歩く。マレ地区にある通りで、ユダヤ人街になっており、通り沿いにはイスラエル料理やベーグル、ファラフェルのお店などが集まっている。


ロジエ通りから、再びリヴォリ通りに出て、「パリ市庁舎」(オテル・ド・ヴィル・ド・パリ、Hôtel de Ville de Paris)に向かう。午前11時半、リヴォリ通りの南側に広がる「パリ市庁舎」前の広場に到着する。市庁舎の巨大なファザードは、広場の東側にある。1533年、フランソワ1世の発願により建設が始められ、ルイ13世統治下の1628年に完成している。なお、現在の建物は1871年に火事で焼失したため、再建されたものである。
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メリ-ゴーランドの横の列は、スケートリンク入場の列。この時期、市庁舎の広場を利用して、特設スケートリンクが設置され、多くの家族連れで賑わっている。

次に、このパリ市庁舎前を南下し、次に「シテ島」へ向かうべく、正面のアルコル橋を渡る。橋先がシテ島で、前方にノートルダム大聖堂のファサードの巨大な塔が見える。
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アルコル橋からセーヌ川(西側)を眺める。観光遊覧船(ヴデット・デュポン・ヌフ)が通ろうとしている橋はノートルダム橋。橋の左側のシテ島には商事裁判所と奥には王室管理府(コンシェルジュリー)が望める。
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アルコル橋をわたると、すぐに「ノートルダム大聖堂」(Cathédrale Notre-Dame de Paris)に到着する。大聖堂は1225年、全長128メートル、幅48メートル、高さ91メートルと、当時では、それまでにない壮大なスケールの大聖堂として建設された。外観から白い貴婦人とも称されている。フランス革命では大きな被害を受けるものの、現在見られる彫刻群、塔などの多くは19世紀に改装されている。長い時代を乗り越えてきた大聖堂は、ロマネスク様式のテイストを一部に残した初期ゴシック建築の傑作である。
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ノートルダム大聖堂は、1831年、ヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ドゥ・パリ」の舞台となった。その後、1998年にはミュージカル化され、パリ初演以来、世界15カ国で上演され大ヒットした。また、皇帝ナポレオンはこの大聖堂で戴冠式を行っている。まもなくお昼の12時になるが、この時間は、大聖堂の塔に上るための長蛇の列が続いていた。

大聖堂から西に100メートル歩くと「最高裁判所」(パレ・ド・ジュスティス)である。こちらにも長い列が続いている。ここにはパリ最古のステンドグラスで知られるサント・シャペル(Sainte chapelle)があり、これを見学するための列である。


すぐ隣が、最高裁判所の入口になる。手前には、1776年制作の金箔が用いられ精巧な細工が施された鉄柵で覆われている。中庭の先の主玄関となるファサードは、1786年に、新古典主義様式で修復されたもの。フランス革命期には革命裁判所が置かれている。ちなみに、左端に聳える尖塔がサント・シャペルである。
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最高裁判所の前を通過し、シャンジュ橋の手前を左折して、セーヌ川沿いを西に歩く。通りの左側には「コンシェルジュリー」と呼ばれる裁判所付属の牢獄であった建物が建っている。もともとフィリップ4世(在位:1285~1314)の宮殿だったが、フランス革命では、マリー・アントワネットをはじめ多くの王侯貴族がここに囚われた。


前方に見えるのが「ヌフ橋」(ポンヌフ)で、シテ島の下流先端を通りセーヌ川の左岸(南側)と右岸(北側)を結んでいる。ここから見えるのは、右岸にかかる部分である。16世紀から17世紀にかけて建設されたパリに現存する最古の橋である。レオス・カラックス監督のフランス映画「ポンヌフの恋人」(Les Amants du Pont-Neuf)(1991年)でお馴染みである。


コンシェルジュリーを越え左折すると、最高裁判所の入口があり、向かいに小さな「ドーフィヌ広場」がある。こちらは、広場から最高裁判所を眺めている。


振り返った反対側は、シテ島の先端に近いため、三角形の敷地となっており、周囲には広場を取り囲むように住宅が立ち並んでいる。以前、左手の住宅には、俳優のイヴ・モンタンと女優のシモーヌ・シニョレ夫婦が住んでおり、1階のレストランで良く姿が見られたという。それにしても先ほどまでの喧騒が嘘のような、まことに静かな場所である。


セーヌ川の左岸(南側)のヌフ橋を渡り、シテ島を後にしセーヌ川沿いを西に向け歩くと、左手に丸天井が印象的な「フランス学士院」が見えてくる。単にクーポールと言えばこのフランス学士院のことを示すほど。4つのアカデミーで構成され、中でも最古のものがフランセーズである。1635年、ルイ13世の宰相リシュリューによって設立された。このフランセーズの重要な使命はフランス語の辞書の編集で終身身分の40名のアカデミシャンにより改版を重ね現在に至っている。


フランス学士院前の歩行者専用の橋(ポン・デ・ザール)をセーヌ川右岸(北側)に渡ると正面に見えるのが「ルーヴル宮」(現:ルーヴル美術館)である。もともとシテ島を中心としたパリを防護するための城塞だったが、16世紀前半、フランソワ1世がルネサンス様式の建物として改造したのが始まりである。


しかしその後、国王の宮殿はヴェルサイユに移ったことから、荒廃してしまい、フランス革命時の革命政府が、美術館とすることを決め、1793年にルーヴル美術館として開館することになった。

ポン・デ・ザールを渡りながら、右手をみると、先ほどまでいたシテ島がみえる。ここから見るとヌフ橋(ポンヌフ)がシテ島の先端を横切っている様子が良くわかる。
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ポン・デ・ザールを渡り終え、アーチ門をくぐると「ルーヴル美術館」の一辺160メートルの正方形のクール・カレ(Cour carrée)(中庭)となる。こちらはルーヴル美術館を構成する3翼(北のリシュリュー翼、東のシュリー翼、南のドゥノン翼)の内の、東のシュリー翼の後方(東側)に位置しており、周囲に同じスタイルの建物が取り囲んでいる。


ポン・デ・ザールから直線ルートでクール・カレを過ぎ、ルーヴル宮を後にすると、直ぐにリヴォリ通りとなる。左折すると、左側には、ルーヴル美術館のリシュリュー翼(北翼)の外壁が続いている。


リヴォリ通りから、オペラ大通りを歩き、オペラ座ガルニエ宮に向かう。建物の並びをみると、良く統一されており、パリの建築規制の厳しさが良くわかる。


正面に見えるのがオペラ座ガルニエ宮になる。
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ナポレオン3世の発案により、1875年に造られた歌劇場。誠に美しい建物である。そろそろ時刻は午後1時になる。これで、パリの歩きは終了である。
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(2014.12.23)
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フランス・パリ(その2)

2013-04-28 | フランス(パリ)
ホテルでひと眠りした後の午後6時半頃「ルーヴル美術館」(Musée du Louvre)にやってきた。通常午後6時までだが、水、金曜日は午後9時45分まで営業している。ルーヴル美術館は、3つのブロック(翼)北の「リシュリュー翼」、東の「シュリー翼」、南の「ドゥノン翼」と、横に長い「コ」の字型から構成されている。エントランスは、各ブロックの中心のガラス・ピラミッドの地下のナポレオンホールからになる。展示室は、各ブロックとも、半地下から3階まで(ドゥノン翼は2階まで)となっている。
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前回、ルーヴル美術館を訪れた際は、絵画を中心に鑑賞したが、今回は彫刻を中心に見て行くこととする。

最初に、リシュリュー翼の202展示室にやってきた。展示室の窓枠左右に「王(ソロモン王?)」(1150/1160)と「女王(シバの女王?)」(1175/1200)が飾られている。こちらは、エソンヌ県ノートルダム・ド・コルベイユ旧参事会教会(Notre-Dame de Corbeil)の西側のポータルの開口部を飾っていたもの。現在では、美しい姿を見せてくれるが、損傷が激しく、修復にかなり時間を要したとのこと。
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左壁にはサン・ドニのベネディクト会修道院教会の後陣で発見された「半円形のモチーフで飾られたグロテスクなマスク」(ティンパナムの断片)(1100/1150)と、その下にオワーズ県サン・リウール教会(Saint-Rieul)からの「竜に襲われた女性」(ヨハネの黙示録 12:5)(1150/1200)断片が展示されている。竜に襲われた女性では、出産した我が子が竜に食べられようとしている場面を捉えている。これらの作品はフランス革命の影響を受け、その後廃止された教会からの遺物である。

こちらはブルゴーニュ地方のコート・ドール県ムーティエ・サン・ジャン修道院(Moutiers-Saint-Jean)(ベネディクト会)からの柱頭彫刻「収穫シーン」(1120/1125)になる。収穫した葡萄を背負い片足で葡萄踏みをしている人物と、ワイン熟成のために樽に注ぎ込んでいる人物とが表現されている。こちらの修道院もフランス革命中に国有財産となり19世紀に廃止になっている。
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こちらは、203展示室に展示されている柱頭彫刻である。手前が「葉で飾られた柱頭」(1230頃)で、奥が「葉、幻想的な動物、鏡を持った人魚のいる柱頭」(1230頃)になる。人魚は、動物の左側でうつむいて丸い鏡を持っている。これらは七角形の柱頭彫刻で、ノートルダム・ド・シャルトル大聖堂の内陣を仕切っていた柱のもの。考古学者、美術史家アレクサンドル・ルノワール(1761~1839)により収集されたが、彼は、他にもフランス革命において破壊され歴史的に貴重な美術品の保存・収集に努めた。
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「ライオンの巣の中のダニエル」が刻まれた柱頭彫刻で、メロヴィング朝フランク王国の初代国王クローヴィス1世(在位:481~511)時代の6世紀に制作されたもの。その後、パリのサント・ジュヌヴィエーヴ修道院教会(11世紀末に建設、1807年廃止)の部材として再利用された。ダニエルはダレイオス王に逆らったことでライオンの檻に投げ込まれたとの聖書の逸話を題材としている。
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こちらはリシュリュー翼の102展示室で、1676年にフランス王ルイ14世が現在のマルリー=ル=ロワ市に建設した「マルリー宮殿」を飾っていた彫刻群である。手前の男女の像と、左右の台座の上の像は、ギヨーム・クストゥー(1677~1746)によるもの。手前が「セーヌ川とマルヌ川」(1699/1712)で、右上の「新郎に拘束された馬」(1745)は、左の馬と対で、マルリー宮殿の北の池に飾られていた。
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左奥の「ペガサスに乗って名声を得る」(1698/1702)は、アントワーヌ・コワズヴォ(1640~1720)によるもの。

225展示室から、ピエール・ニコラ・ボーヴァレ(Pierre-Nicolas Beauvallet)(1750~1818)の「お風呂で驚くスザンヌ」(Suzanne surprise au bain)(1813)で、スザンナのエピソードは、旧約聖書ダニエル書からのもので、西洋絵画作品でも良く題材として使われる。
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右後ろには、ピエール・フランソワ・グレゴワール(1783~1836)の「犬」(1827)が、忠実、勇気、警戒心、敏捷性などが刻まれた台座の上に、気品溢れる美しい姿で座っており、また後ろには、ジョセフ・チャールズ作の髪を束ねる美しい女性裸像「入浴者」(1808)が飾られている。

こちらは、スイス生まれのフランスの彫刻家ジェームス・プラディエ(1790~1852)による「サテュロスとバッカンテ」(Satyre et Bacchante)(1834)である。バッカンテは、ディオニューソス (バッカス)に仕える、女性の信者で、サテュロスは、前頭部に山羊の角を持ち、上半身が人間で下半身が山羊の精霊である。バッカンテの右手は、若いサテュロスのまだ生えたばかりの角の突起を触っている。
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226展示室からは、フランスの彫刻家フランソワ・リュード(François Rude、1784~1855)の「亀と遊ぶナポリの少年」で、茶目っ気たっぷりの少年が、亀の首に紐をかける瞬間を捉えている。リュードは、1833年に制作したパリ凱旋門の「義勇兵の出発」(La Marseillaise)レリーフで一躍有名になり、レジオンドヌール勲章を受勲している。
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こちらは、「シュリー翼」の345展示室に展示されているルーヴル美術館の至宝「ミロのヴィーナス」(Vénus de Milo)である。アンティオキアのアレクサンドロスにより紀元前130年から前100年頃に制作されたもので、1820年、オスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で発見された。最初にルイ18世に献上されたが、ルイ18世は翌年にルーヴル美術館に寄付している。ヘレニズム期時代のオリジナル彫刻は、数が少ない上に、残っていても損傷が激しいことから、制作当時の姿をここまで(両腕は失われているが)留めているのは大変貴重である。
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高さ203センチメートルの八頭身で、足元からへそまでと頭頂部までの長さ、へそから首までと頭頂部、それぞれの比率が1対1.618のほぼ黄金比となっており、芸術における美の基準ともいわれている。美しさに加え、知らない人はいないほどの超有名作品でもあり常に鑑賞者が絶えないが、午後8時半の現在は、周囲に誰もおらず、じっくり鑑賞することができた。
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「シュリー翼」の344展示室には、ヘルメットをかぶったアテナ像「ヴェッレトリのアテナ」(前430頃)がある。作品はローマンコピーで、オリジナルは、クレタ島の都市国家キドニア出身の彫刻家クレシラスとされている。クレシラスの作品としては、コリントスの兜をかぶったペリクレス像が知られている。こちらの像は、1797年にイタリア中部のラツィオ州ヴェッレトリ近くのブドウ園にあるローマの別荘の廃墟で見つかったもので、その後、フランス総督府に売却されている。
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「ドゥノン翼」の403展示室の中央には、ミケランジェロの「瀕死の奴隷」(Esclave mourant)(1513~1515)が飾られている。1505年、教皇ユリウス2世(在位:1503~1513)が死後に納められるローマのサンピエトロ大聖堂の霊廟制作を命じられて制作した作品の一つである。当時、ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井画制作や、他の作品制作も数多く抱えて、多忙を極めていた時期でもある。最終的に霊廟の完成までに40年の歳月を要しているが、こちらの作品は未完成のまま1545年に放棄されている。
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1546年にフィレンツェ貴族ロベルト・ストロッツィが取得し、その後、フランス王(フランソワ1世?)に贈られている。ルーヴル美術館は1794年に購入している。瀕死の奴隷を題材にし制作した意図については分かっていないが、敗者の受難の象徴なのか、教皇の権威に従わざるを得ない自由を奪われた芸術家の苦しみを象徴しているのかもしれない。奴隷の後ろには、自由を謳歌する象徴なのか、未完成の猿が座っており、左側に顔を向けている。

同展示室には、アントニオ・カノーヴァ(1757~1822)の「エロスの接吻で目覚めるプシュケ」(1793)がある。1787年、イギリスの大佐で美術品収集家のジョン・キャンベルから依頼され1793年までの間に制作された大理石の彫像群の一つで、カノーヴァを代表する作品である。
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生き返った瞬間のプシュケとエロスを表現している。目覚めたばかりのプシュケはエロスに手を差し伸べ、エロスは彼女の頭と胸を支えて優しく抱きしめ、キスで彼女をこの魔法の眠りから目覚めさせている。プシュケの肌は大変リアルで滑らかさをも感じる。特に、プシュケの下半身にゆるく巻かれたシートの質感と肌の質感との違いは際立っている。

ドゥノン翼側の1階から2階への「ダリュの階段踊り場」に飾られているのが紀元前2世紀初頭にさかのぼるヘレニズム彫刻の傑作「サモトラケのニケ」(Victoire de Samothrace)である。像は、パロス島の大理石から作られ、全高5.12メートル、像自体は2.75メートルある。「ミロのビーナス」と並び、ルーヴル美術館の至宝の双璧とされる。
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サモトラケのニケとは、発見場所のエーゲ海サモトラケ島と、勝利を表わすニケから名付けられている。1863年に発見された際は、トルソと、118もの翼の断片だったが、その後の復元作業を経て、1884年から現在のダリュの階段踊り場に飾られている。頭部と両腕は失われているが、1950年には右手が発見されている。ちなみに、ダリュの階段は、ナポレオンの大臣ダリュ伯爵ピエールに因んでおり、また、踊り場の後方が東のシュリー翼になる。

「リシュリュー翼」234展示室の中央に展示されるのは、古代シュメール(シュメル)およびアムル人の都市国家マリの代官エビフ・イルが祈りを捧げる姿を模った「エビフ・イルの像」(Statue of Ebih-Il)(紀元前2500年頃)である。半透明の滑らかなアラバスター(雪花石膏)で、眼は片岩、貝殻、ラピスラズリを組み合わせて制作されている。その見開かれた眼は印象的で、脳裏に焼き付きそうな怖さがある。
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しかし、横から見ると、可愛らしく見え、正面とのギャップがすばらしい。代官が着ている唯一の衣服はシュメール様式のカウナケスと呼ばれるスカートで、枝編み細工の丸椅子に座り、胸の前で手を結び、祈りを捧げている。

228展示室には、古代メソポタミアの都市国家ラガシュの王「グデア」(Gudea)の像が飾られている。ラガシュは、現代のイラク南部テル・アル・ヒバに位置しており、ラガシュ第1王朝(紀元前26世紀頃~紀元前24世紀頃?)において最盛期を迎えたが、その後、戦争等で衰退したものの、ラガシュ第2王朝で再興している。
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グデアはラガシュ第2王朝の王で、シュメール時代の王達の中で最も名前の知られている人物の一人である。グデアは王族ではなかったが、ラガシュ王ウル・バウの娘ニナッラと結婚したことで王室の一員となり、ウル・バウが死去後にラガシュ王となった。グデアの治世は、シュメール文化が花開き、多くの彫刻も制作されている。こちらは「噴水の壷を持つグデア像」(Gudea au vase jaillissant)(紀元前2150年頃)である。水がグデアの衣服に伝わり落ちて行く表現は印象深い。
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227展示室には、メソポタミアに勢力を拡大しバビロニア帝国の初代王となるハンムラビ(ハムラビ)王(在位:紀元前1792頃~前1750頃)(旧バビロン第6代王)が、晩年に発布した法典「ハンムラビ法典」がある。メソポタミア文明最盛期の遺物で、高さ2.25メートルの玄武岩の石柱にアッカド語の楔形文字で記されている。
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1901年にフランス人考古学者によりイランのスサで発見されたもので、発見当時は大きく3つに破損していた。法典碑頂部には、シャマシュ(向かって右側)がハンムラビ(向かって左側)に王権の象徴である「輪と棒」を与える王権叙任の浮彫が施されている

古代エジプト美術部門については、後日再訪して鑑賞した。こちらは、「シュリー翼」の635展示室にある、エジプトのサッカラから出土した「書記座像」(Le scribe accroupi)で、石灰岩と化粧漆喰によりつくられている。エジプト第4王朝または第5王朝に遡る紀元前2600年頃の制作と考えられている。
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あぐらをかいて座る書記座像は、シンプルな白いふんどしをまとっている。左手には、部分的に広げられた細いパピルスを持ち、右手には、カラメと呼ばれる筆記具を持っていたと考えられる穴が残っている。全体的にやや堅苦しい印象はあるものの、顔、手、体つき、生き生きとした視線、美しい多色性、完全に無傷で人物のリアリズムが探求されておりエジプト芸術における主要な作品の一つと言われている。

643展示室にある「黄金の三神像」(オソルコン・トライアド)(紀元前945~前715)で、純金とラピスラズリからつくられたエジプト神話におけるオシリス神像で、古代の金細工の傑作と評されている。台座の裏に、エジプト第22王朝のファラオであるオソルコン2世を称える象形文字の碑文があることから名付けられている。高さが9センチメートル、幅が6.6センチメートルと大変小さいにも関わらず、人体表現、細部に至る繊細な装飾、美しい光沢感など大変素晴らしく貴重な作品である。
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中央が「オシリス神」(復活の神)で、ウラエウスと呼ばれる敵から守る機能を持つ女性のコブラの頭飾りを左右に付け、顎の髭は編みこみにしている。向かって左側が、プシェントと呼ばれる二重の王冠を被る「ホルス神」(高貴な天の神)で、右側が、2つの牛の角の間に挿入された太陽の円盤を被る「イシス神」(母性と誕生の女神)である。

ホテルから少し東に行った静かな細い道沿いにあるロートル・カフェ(L’Autre Cafe)で夕食を頂いた。繁華街のあるレピュブリックから離れており、他にお店はなく、ほとんど地元ご用達のお店といった感じ。店内は10名ほどが座れるカウンター席と、7~8組ほどが座れる小さなテーブル席がある。他に2階フロアーもある。訪れた時間帯も遅かったことから空いており、周りは既に食事は終え、飲んでいる客が数人いた程度だった。


エスカルゴ(ココット入り6粒ブルギニヨンバター入り)を頼み、チキンとジャガイモのロースト、南ローヌの赤ワインを注文した。味は普通だが、量が多かった。1時間ほど食事して午後11時過ぎにホテルに帰った。


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翌日は「マルモッタン・モネ美術館」( Musée Marmottan Monet)にやってきた。パリ市内西部ブローニュの森にほど近く、フランス印象派の画家クロード・モネの世界最大級のコレクションを収蔵している。美術館の建物は1840年、ヴァルミー公爵が狩猟用に建てたものを、美術史家・収集家のポール・マルモッタン(1856-1932)の父が1882年に購入して邸宅に改造したものである。マルモッタン美術館を代表する作品は「印象・日の出」で、多くのモネの作品を所蔵しているが、他にも多くの個人コレクションからの寄贈を受けており、現在では印象派絵画の殿堂となっている。


この日は「クロスと新印象派、スーラからマティスまで」の特別企画展が開催されていた。アンリ・エドモンド・クロス(1856~1910)の作品を中心に、新印象派ジョルジュ・スーラ(1859~ 1891)から、ポール・シニャック(1863~1935)を含む同世代の若手画家の作品が展示され、クロスが現代美術に与えた影響をたどる内容となっている。

今夜は、シャンゼリゼ大通りから徒歩圏内にある「ハイアット リージェンシー パリ エトワール」(Hyatt Regency Paris Étoile)に宿泊することにしており、午後2時頃にチェックインを済ませた。


ホテルから100メートルほど離れた場所にある「レオン・ド・ブリュッセル」(Léon De Bruxelles)で遅めのランチを頂く。レオンはもともとベルギーのお店だが、現在は、パリ市内に複数店舗を持つチェーン店でムール貝をメインに展開している。どことなく日本のファミリーレストランに似た雰囲気があるので気軽に訪れることができる。


お昼時間には、前菜+ムール貝ココット - 400g(or 他の料理)+デザートのランチメニューがあるが、午後3時を過ぎていたため、通常メニューで注文した。前菜として、エビのポテト包み揚げ海老が入ったサラダと、海老入りムール貝を注文した。


夕方は、靴や洋服などの身の回りの買い物と昼寝などして過ごし、夜は、午後10時頃から、マレ地区の人気カフェ「レ フィロゾフ」(Les Philosophes)で、ブルゴーニュ風牛肉ワイン煮込み「ブフ・ブルギニョン」などを食べて一日を終えた。


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今日は「プティ・パレ美術館」にやってきた。もともとは1900年のパリ万博万国博覧会のために建てられたもので、グラン・パレと向かいあって建っている。ともに、フランスの建築家シャルル・ジロー(Charles Girault)による設計である。ちなみにプティ・パレ美術館に向かって右側に100メートルほど行ったところがアレクサンドル3世橋になる。


入口を入った右側では、特別展「プティ・パレで展示されるコメディ・フランセーズ」(La Comédie-Française s'expose au Petit Palais)が開催されていたが、左側の常設展のみを見学する。

こちらは、フランスの写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ Gustave Courbet(1819~1877)による「セーヌ川のほとりの乙女たち」(Fanciulle sulla riva della Senna)(1857年)である。作品は、当時のパリのブルジョアジーが頻繁に訪れる青い水辺と緑の木々のある風景と、典型的な場所に設定されている。2人の女性は、常識的とされる良きマナーとは異なり、無造作に芝生に横たわり怠惰で退屈した表情を浮かべている。
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クールベは作品を通じて、ブルジョアの浅薄さと陳腐さを非難し、それが結びついていた習慣や社会を非難しているとされる。彼は自分が実際に現実で見たものだけを描き、宗教的な伝統的な主題や前世代のロマン主義的幻想絵画を否定したことで知られている。

同じくクールベの「眠り」(Le Sommeil)(1866年)で、こちらも女性2人が描かれているが、あきらかにレズビアンを描写している。エドゥアール・マネがサロンに「オランピア」を出展してスキャンダルになった翌年に描かれたこともあり、その騒動に影響を受けている可能性がある。作品は、コレクターのオスマン帝国の外交官ハリル・ベイ(Khalil Bey)の依頼により制作されたもので、クールベの問題作「世界の起源」(1866年)(パリのオルセー美術館所蔵)も同時期に依頼を受けて描いている。
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作品には、2人の裸の女性が、ベッドで抱き合って眠る様子が描かれている。ベッドの上には、シーツに残されたヘアピンや真珠のネックレスなどの装飾品が散乱しており、事が終わった後の休息を示唆している。背景には青いカーテンがあり、右側にはコンソールに花の花瓶が置かれ、左側にはグラス、ピッチャー、クリスタルの花瓶が一種のオリエンタルスタイルのテーブルに配置されている。右下にはクールベの署名が入っている。

その後「レストラン マコト アオキ」(Restaurant Makoto AOKI)で昼食を頂く。プティ・パレ美術館からは、シャンゼリゼ通りに入り、フランクリン・デ・ルーズヴェルト駅がある交差点からマティニョン通りを北へ歩き、左折したラブレ通りの突き当りにある。プティ・パレ美術館から600メートルほどの距離である。


店名のとおり、オーナーシェフが日本人のお店で、スタッフの女性はシェフのお姉さんとのこと。ランチは前菜+メイン or メイン+デザートで22ユーロと大変リーズナブル。この日は、前菜に野菜がたっぷり入ったクリームスープ、メインに魚(スズキ)を頼んだ。見た目も洗練され美しく、味も新鮮で美味しかった。


こちらは、ナスのリゾットで、厚みのあるナスの焼き加減が香ばしく、リゾットはコクが効いていながらも、くどさなく美味しく頂けた。食後の負担感もなく良かった。


食後、シャンゼリゼ通りを北西方面に1キロメートルほど歩くと凱旋門が見えてきた。今日の夕食は買い込んでホテルで食べようと、モノプリ(フランスの大手小売チェーン)などで食材を買い込んだ。この時期のパリは、カフェ、レストラン、スーパーの軒先に生牡蠣を売るための牡蠣屋台が出店していたことから、牡蛎も買い込んでホテルに帰った。


ホテルは、凱旋門から北西に概ね1キロメートルほどの距離にある。ホテルの部屋は南向きでパリの中心部が一望できる。今日も、日没までどんよりとした天気だったが、午後6時を過ぎ、凱旋門やエッフェル塔がライトアップされると、改めてパリにいる現実を実感させてくれた。
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ちなみに午後10時頃のシャンゼリゼ通りの様子だが、また雨が降ってきた。
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翌朝は、再びルーブル美術館を訪れ、古代エジプト美術部門を中心に鑑賞した。お昼は「トゥール ダルジャン」(La Tour d'argent)で食事を予定しており、ルーブル美術館からは、メトロ7号線で、マリー橋(ポン・マリー)駅を下車して向かった。

駅からは、南に架かるマリー橋を渡り、サン・ルイ島に入り、トゥルネル橋でサン・ルイ島を後にすると、西側にシテ島に建つノートルダム大聖堂が望める。この数日、雨も多く、どんよりとした天気が続いていたが、ようやく雲の隙間から光が差し込んだ。
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トゥルネル橋を渡るとパリ5区になり、最初の交差点の東南角に建つビルが目的のトゥール ダルジャンである。誰もが知るフランス料理の最高級レストランで、日本でも紀尾井町のホテルニューオータニに支店があるが、こちらがパリ本店になる。


トゥール ダルジャンのパリ本店は、1582年、宗教戦争が続き混迷する時代のフランス王アンリ3世(1551~1589)治世に開店している。当時から、洗練された料理は評判を呼び、フランス歴代王を始め、各国の王侯貴族、世界中の著名人などに利用され、現在も最高級のフレンチ・レストランとして君臨している。特に鴨料理の評価が高く、19世紀後半からは、鴨に番号制を付け、現在もロワール地方ヴァンデ県シャランでは、特別に飼育された最高級の鴨肉を使用している。


この日案内されたテーブル席は、トゥルネル橋側のセーヌ川とサン・ルイ島が望める窓際席で、テーブルには、クリスマスシーズンらしく、水差しに赤い薔薇と、赤い蝶ネクタイをしたクマの絵柄のビスケットが添えられていた。


こちらのパリ本店では、料理の素晴らしさはもちろんのこと、その料理に合わせて数多くのワインを取り揃えられている。ワインリストは約400ページあり、地下には、50万本とも言われる膨大な数のワインを収めた巨大なカーヴ(セラー)があり、お客からのどんな注文にも即座に答えることができる様に準備されているとのこと。


料理の注文は、前菜三品、メイン三品、デザート三品から一品づつチョイスするランチセットメニュー(65ユーロ)からお願いすることにした。
コースは、最初に、カナッペ、小さなキッシュなどアミューズグールから始まる。


飲み物は、スパークリング水(7ユーロ)を頼み、白ワインはランチ用のサジェスチョン6種から、プイィ フュメ シャトー ド トラシー2008 (1/2)(54ユーロ)を選んだ。
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アミューズは、小さな鴨肉が入ったもの。
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前菜(その1)は、赤ワインソースで味付けられたエスカルゴで、グリーンレンティルと泡ソースを添えた逸品。
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前菜(その2)は、リヨン名物のグラタン料理で、クネル・ド・ブロシェと言い、川魚のすり身を楕円形に固め、ソースをかけてオーブンで焼いたもの。身はふわふわした食感。
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次の赤ワインは、やはりランチ用のサジェスチョン4種の中から、サントネー クロ・ド・ マルト ルージュ2007 (1/2)(49ユーロ)を選んだ。
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メイン(その1)は、ホタテのローストで、クランベリーと緑のキャベツを付け合わせとし、ソース ペリグーと言う牛のだし汁のフォンドヴォーにマディラ酒を加え、トリュフのみじん切りを加えて煮たソースをかけたもの。ホタテの表面のカリカリした焼き具合と肉厚で弾力感のある食感と絡み合って抜群である。
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メイン(その2)は、鴨肉で、鴨のローストと青リンゴとベトラーヴ(赤カブのような野菜)。フルーティで甘いソースと鴨との相性が良く、想像より軽やかな味わいで大変上品。
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デザート(その1)は、季節のアイスクリームとシャーベット
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デザート(その2)は、オレンジマーマレードとダークチョコレートのパレット
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最後に、カフェ(10ユーロ)を頼み、ミニャルディーズ(こちらはチョコレート)を頂き終了した。料理は、どれも、見た目も光沢があり美しく輝き、味も大変洗練されており美味しかった。また、ワインもサジェスチョンがあるのは良かった。ところで、もう一種類の(前菜)コンソメスタイルのボルシチ、(メイン)子牛のほほ肉・ペリグーソースとポテトピューレの煮込み、(デザート)クランベリー風味の栗とバニラであったが、どんな感じだったのだろう。興味は尽きない。。
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振り返ると、ランチ客は皆いなくなり、既に他のテーブル席は掃除が終わっていた。少し慌てて退出するそぶりを見せたところ、スタッフからゆっくりしていて大丈夫と言われる。壁には、古きパリの町並みを描いた絵地図が飾られている。
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支払いの際の明細書を挟むビルフォルダーと一緒にスタッフが持参した皿には、「トゥール ダルジャンからの眺め 1582年」と書かれたパリ本店がオープンした当時のセーヌ川とノートルダム大聖堂の風景が描かれている。。
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店内はスタッフのサービスも良く窓から望むセーヌ川とパリの素敵な景色を見ながら美味しい食事を楽しむことができた。また、400年にわたってパリの歴史の変遷を見つめてきたレストランで食事したかと思うと大変感慨深くもあった。

(2011.12.21~24)
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フランス・パリ(その1)

2013-04-27 | フランス(パリ)
今年も残すところ10日あまりになった12月下旬、日本を発ちパリにやってきた。パリのシャルル・ド・ゴール空港からは、ロワシーバスに乗り、パリ・ガルニエ宮(オペラ座)に到着(停留所はオペラ座に向かって左側(西側)にある)したのは早朝7時過ぎである。この時期は、まだ夜明け前で、今朝は雨も降って、かなり寒い。まずは、今夜のホテルに荷物を預けるべく、メトロで移動することとする。
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メトロ乗り場は、オペラ座正面前の広場にオペラ駅(3号線、7号線、8号線)があるが、オペラ座の東側の通りにあるショセ・ダンタン=ラ・ファイエット駅からの9号線に乗る方が便利である。オベルカンフ駅で下車し、ヴォルテール通りを北西に200メートルほど歩いた左側に「ホテル ヴォルテール レピュブリック」(Hôtel Ferney République)がある。オペラ座からは、東に約3キロメートルほどの距離になる。


さすがにチェックインには早いらしく、フロントに荷物を預けて出かけることにした。近くにあったパリのファーストフード・チェーン店「ポムドパン」(Pomme de Pain)で、食料を買い込み、雨が上がったことから、しばらく歩くことにした。南方向に20分ほどで「サン・ジャックの塔」が現れた。こちらは、フランス革命で破壊された16世紀の教会で唯一残された塔である。

サン・ジャックの塔の南側には、ナポレオン ボナパルトの戦勝を記念して 1808 年に建造されたシャトレ広場があり、中央には、勝利の女神が立つ円柱を備えた噴水がある。そして、通りを挟んだ西側には、シャトレ座(Théâtre du Châtelet)がある。1862年に帝室シャトレ劇場として開場、開場式にはナポレオン3世の皇后ウジェニーが出席している。ちなみに、ガルニエ宮(オペラ座)は、1875年の開場である。
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シャトレ広場とシャトレ座との間の通りの南側には、シテ島に向かう「シャンジュ橋」が架かっている。シャンジュ橋を渡りながら、東方向を眺めると、シテ島に架かるノートルダム橋と、ノートルダム大聖堂の2塔ファサードと尖塔が望める。東西に流れるセーヌ川は、雨の影響からか増水しており、色も汚い。空は明るくなってきたものの雲に覆われどんよりしており、美しいパリの街並みとは言い難い日である。
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反対側の西側を眺める。シテ島のセーヌ川に面して建つのは「コンシェルジュリー」(Conciergerie)で、もともとフィリップ4世などカペー朝の王宮として建てられた。その後牢獄となったが、14世紀後半、シャルル5世は王室司令部を置き、門衛をコンシェルジュと呼んだことから、現在の名となっている。フランス革命中の1793年には革命裁判所が隣設され、多くの王族、貴族などの旧体制派の人々に死刑判決が下され収監場所となった。マリー・アントワネットもその一人で、処刑される前の2か月半を過ごしており、現在は、その際の独房が再現されている。
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先に見える橋がヌフ橋で、シテ島の最西端に架かる橋になる。

シャンジュ橋を渡り、パレ・ド・ジュスティス(司法宮)(コンシェルジュリー、サント・シャペルなど同敷地にある)のファサードを過ぎ、シテ島を横断してサン ミシェル橋を渡ったセーヌ川の左岸に、メトロの入口(サン ミシェル・ノートルダム駅)がある。少し疲れたことからメトロに乗ることにした。こちらの駅には、イル=ド=フランス地域圏急行鉄道網(RER)の急行地下鉄がメトロ線と並行して走行しており、そのRERのC線に乗って、セーヌ川の左岸沿いを、約2.5キロメートル西のアンヴァリッド駅まで移動した。

駅から南方向にしばらく歩くと、左側に宮殿の様な建物が続いている。こちらは、1751年にブルボン朝第4代フランス国王ルイ15世(在位:1715~1774)によって創設されたフランスの軍学校「エコール・ミリテール」(École militaire)である。しかし1787年には閉鎖され、その後、陸軍士官学校兵舎として使用されたが、19世紀末から教育機関、20世紀に入り、高等軍事研究センターが設立している。


更に直進した先のジョフル元帥(フランス陸軍総司令官)(1852~1931)の騎馬像が飾られた広場に建つ、王冠を頂いた様なドームがある建物が、エコール・ミリテールのファサードになる。設計者はアンジュ=ジャック・ガブリエルで、三角形のペディメント、ポルティコ、アンティークの柱の使用など、パッラーディオ建築が取り入れられた新古典様式で建てられている。
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ペディメント上部の左右には、アレゴリー(寓意像)が飾られている。彫刻家ルイ・フィリップ・ムーシー(1734~1801)が制作したもので、向かって左側には、ルイ15世の「勝利」と、女性に象徴される「フランス」の彫像が、右側には、ヘラクレスが体現した「強さ」と「平和」の彫像がある。そして、時計を囲む様に「時間」と「天文学」のアレゴリーがある。こちらはジャン・ピエール・ピガール(1734~1813)によるもの。

エコール・ミリテールのファサードの向かい側には「シャン・ド・マルス公園」が広がっている。マルスは火星のことで、ローマの戦争の神に由来しており、実際、公園は、軍事演習やパレードを目的として利用されてきた。24.3ヘクタールの面積を持つ長方形の緑地で、東南側から、パリのシンボル「エッフェル塔」が建つ北西側まで長径1キロメートルほどの距離がある。
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今日は、もともとエッフェル塔に上る予定にしていたが、天気があまりよくなく、塔の先端付近は靄がかかっている。入場口は空いているので悩んだが、エッフェル塔に上るのは後ほどとし、イエナ橋を渡って、今日のもう一つの目的地「ギメ東洋美術館」(Musée Guimet)に向かうことにした。
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イエナ橋を渡りながらセーヌ川を見下ろすと、水上バス「バトビュス」(Batobus)のエッフェル塔停留所がある。バトビュスは、パリ植物園、市庁舎前、ルーヴル、シャンゼリゼ、エッフェル塔、オルセー美術館、サンジェルマン・デ・プレ、ノートルダム大聖堂と巡航している。
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こちらは、イエナ橋を渡り、セーヌ川右岸から眺めた様子。停留所から階段を上るとシャン・ド・マルス公園に建つエッフェル塔は目の前になる。
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そして、こちらが「ギメ東洋美術館」になる。パリ16区、イエナ広場に建つ国立の美術館で、もともとは実業家エミール・ギメ(1836~1918)がアジア各地を訪れ収集した遺物や美術品などを地元のリヨンに展示するため美術館を創設したのが始まりである。


その後、美術館はパリへと移設されるが、1945年にはルーヴル美術館所蔵のアジア部門のコレクションを移管して国立の東洋美術館として開館した。その後もカンボジア美術作品などの寄贈もあり、ギメ東洋美術館はアジア以外の国で最大の東洋美術コレクションを誇っている。


館内に入ると最初にカンボジア・アンコール王朝(クメール王朝)の王宮入口の橋(堀に架かる)を飾っていた欄干「蛇神像」(ヴァースキ or ナーガラージャ)が迎えてくれる。ヒンドゥ教における「乳海攪拌」(天地創造神話)が題材になっている。神々が、アスラから侵攻を受けた際、乳海にある霊薬「アムリタ」を飲むことで勝利できると確信し、乳海に聳える大マンダラ山に蛇神を絡ませ、引っ張りあい、回転と攪拌によりアムリタを取り出そうとするが、人数が足りなかったことから敵のアスラに、アムリタを分けることを条件に共同で作業が行われたとされる。


アンコール王朝は、ジャヤーヴァルマン2世(在位:802~835)を始祖とし、カンボジア王国(真臘)分裂後の802年に築かれた王朝で、12世紀、スールヤヴァルマン2世(在位:1113~1152)治世には、領土を拡大し、都は現在のカンボジア北西部の州都シェムリアップに、約3キロメートル四方の都城(アンコール・トム)と、南側に隣接する仏教寺院(アンコール・ワット)を築いている。

メイン展示室(クメールの中庭)は広い吹き抜けで「カンボジアの展示コレクション」になっている。中央には、砂岩で造られた「ハリハラ神」が展示されている。左半身がヴィシュヌ神(ハリ)、右半身がシヴァ神(ハラ)を表す合体神で、高さ178センチメートル、控えめの胴体、リラックスした腹部、楕円形の顔など、カンボジア南部に存在した「扶南国」(1世紀から7世紀)の遺跡群(アンコール・ボレイとプノン・ダ)の特徴がある。
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左半身のヴィシュヌ神は、円錐形の帽子を被り、アーチに円盤を持つ指先のみが残っている(他の手には棍棒・法螺貝・蓮華を持っていた)。右半身のシヴァ神は、絡まる髪の毛から流れるガンジス川と三日月の装飾具、武器であるトリシューラ(三叉の槍の槍先のみが残っている)を持ち、虎の皮の腰布(太ももの装飾)を付けている。「ハリハラ神」は、乳海攪拌で取り出した霊薬アムリタを神々に渡そうと、アスラを惑わすために使わされた美女モーヒニー(ヴィシュヌ神から変身した)に一目惚れしたシヴァ神と一夜を共にしたことで生まれたとされる。

ハリハラ神の後方には「シヴァ神の頭部」などが展示されている。これらは、アンコール・トムの南側プノン・バケンの丘に、10世紀初頭、アンコール王朝ヤショーヴァルマン1世(在位:889~910)により建設されたプノン・バケン寺院に奉られていたもの。
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シヴァ神の特徴である額の第三の目、三日月の装飾具に加え、クメール美術の特徴として、つばが狭い円筒の僧帽に、広い額、連続するこめかみ線、揉み上げから顎へと繋がる浅堀の髭、ピンと伸びた細い口髭と肉厚で笑みを浮かべた口元などが繊細に刻まれ、慈悲深い表情を醸し出している。

向かって左側は「ブラフマー(ブラフマン)神の頭部」で、シヴァ神の特徴に良く似ている。ブラフマーは四方に4つの顔と4本の腕を持った姿で表現される。


こちらは「踊る女性神」(10世紀中頃)で、アンコール王朝ジャヤヴァルマン4世(在位:921~941)が、一時的に都としたコー・ケーの中心部にある複合寺院プラサット・クラハムから出土したもの。コー・ケー様式は、重厚かつ力強い躍動感があるのが特徴とされるが、インパクトの強いポーズをしている。
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坐像姿の「ブラフマー(ブラフマン)神」(10世紀)も、コー・ケー様式とされるが、都から15キロメートルほど離れたワット・バセットから出土している。像は正方形の台座に半跏趺坐の姿勢で座っており、顔は、前述の頭部像と似ているが、やや帽子のつばが広く大きな房状の耳飾りを付けている。腰ひもや腕輪には菱形の花のモチーフが装飾されている。


メイン展示室の一番奥を飾るのが、「バンテアイ・スレイのペディメント」で、アンコール王朝により967年に建立された寺院の東側の楼門を飾っていた。バンテアイ・スレイは、アンコール・ワットの北東部に位置しており、「東洋のモナリザ」とも称されるデヴァターの彫像が有名である。ペディメントは、砂岩から造られた縦2メートル×横3メートルほどの翼形で、インドの叙事詩「マハーバーラタ」の一場面を題材としている。
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物語は、デーヴァ神族によって支配されていた三界(天上界、地上界、地下界)を征服してアスラ族の元へと奪還したスンダとウパスンダの兄弟の下へ、三界奪回のためにブラフマン神により絶世の美女ティローッタマー(アプサラスの一人)が差し向けられる。すると兄弟は、ティローッタマーを奪い合い死闘を繰り広げて自滅しまうといった場面で、クメール美術を代表する保存状態の良いペディメントである。

隣接する展示室にも多くのカンボジア像が展示されている。
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こちらは、「女性像」(ジャヤーヴァルマン7世の妃)は、バイヨン期を代表する彫像の一つ。アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世(在位:1181~1218/1220)は、巨大な人面像(バイヨンの四面像)を刻んだバイヨン寺院を建設したことで知られている。バイヨン様式の顔は、杏仁形の目に微笑みをたくわえ、たっぷりとした唇などが特徴である。


近くには、螺髪姿の「仏陀頭部像」が二体展示されている。バイヨン様式の風貌を持ち、彫刻とは思えないほどの滑らかな質感には驚かされる。


7~8世紀、カンボジア南部の州都コンポンスプーからの出土された「如来像」。クメール風の顔立ちだが、体躯はインドの初期グプタ朝を思わせ、やや質朴さをも漂う愛着が感じられる立像である。


こちらは「タイの展示コレクション」で、右側には13~14世紀にスコータイ様式で制作された「歩行する仏陀像」が展示されている。タイは、13世紀ごろまでアンコール王朝の支配下にあったが、タイ族最初の王朝スコータイ王朝(1240頃~1438)が興ると、新たにスコータイ様式が生まれる。その特徴は、頭頂部の小さな光背、小さなヘアカール、楕円形の顔、弓形の眉、細長い鼻、優しく微笑んだ表情、肩が広くなめらかで女性的なやせ形曲線で、衣の端のひだがへそに垂れ下がっているなどが挙げられる。
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同じく、スコータイ様式で造られた「仏陀坐像」が三体展示されている。半跏趺坐で右手指を下に向け地面に触れており、これは降魔印(触地印)と呼ばれ、修行中に邪魔をしようとした悪魔を追い払った姿を表している。


そして、こちらは、ベトナム中南部にあったチャンパ王国時代に制作された「シヴァ神の坐像」である。像は、腕と鼻が破損しているが、滑らかな質感を持つ体躯の写実性に圧倒される。額には第三の目、頭部には三日月とシヴァ神を示す特徴が盛り込まれ、額の滑らかなラインや胸下部の巻き紐に装飾されたクロス状のモチーフには、クメール美術の影響が見られる。一方、目の瞼の下が水平であること、胸に這う様な蛇の姿、褌状の民族衣装などはチャンパ美術の特徴でもある。現在、ベトナム本国に残るチャンパ像の多くはベトナム戦争時に破損しており、大変貴重な作品の一つである。
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このシヴァ神像は、11世紀、チャンパ王国によりヴィジャヤの丘の上に建てられた高さ約20メートルの銀塔(主祠堂)に奉られていた(ビンディン遺跡)。ベトナム中南部に勢力を持っていたチャンパ王国は、中国文明の影響を受けた北部ベトナムとは異なり、カンボジアやインドから渡ってきたヒンドゥ文明(特にシヴァ派を信仰)を受容していた。

こちらは、インドネシア、中央ジャワ島で8~9世紀頃に制作された「観世音菩薩」像。高さ30センチメートルほどのロストワックス製法で作られた小さいブロンズ像で、女性らしさを感じる体躯で、しなやかな指先まで見事に表現されており、技術の高さに驚かされる。像には、台座と傘があったが失われている。10本の腕を持つ菩薩像は珍しい。
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8世紀半ば~10世紀のジャワ島中部では、世界最大の大乗仏教建造物ボロブドゥールを建造した「シャイレーンドラ朝」や、ヒンドゥ寺院チャンディ・ロロ・ジョグランなどを建造した「古マタラム王国」などが繁栄し、文化面でも仏教、ヒンドゥ美術が大いに栄えた。

次に、「インドの展示コレクション」を鑑賞する。フロアの中央に飾られた仏頭は、インドはマトゥーラからの出土品で、6世紀グプタ朝後期に制作されたもの。土着的なインド独自の造形・白斑点の赤い砂岩仕様が特徴である。


マトゥーラは、インド・デリーから145キロメートルほど南にあるウッタル・プラデーシュ州の都市で、タージ・マハルのそばを流れるヤムナー川の上流に面している。ガンダーラ地方と同時期の紀元前後から2世紀頃にかけて、仏像彫刻が始まった地として知られ、クシャーナ朝下のカニシカ王の治世では副都でもあった。

同じくマトゥーラから「ナーガ像」(蛇王)。頭部は複数の蛇の冠とともに失われている。インドで、蛇は雨を降らせると言われており、そのため右腕は、雨を願うべく天に伸ばし、左腕は、雨水を集めるために胸に杯を握っていた。首には花輪を思わせる首飾りを付け、腰には薄手のドウティ(ヒンドゥ教徒男性が着用する腰布の一種)を着用している。体は、首、肩、脚を曲げた三屈法(トリバンガ)で造られた、クシャーナ朝(1~3世紀)時代のマトゥーラの特性を持った美しい像である。


踊るシヴァ神で、ナタラージャ(踊りの王)とも呼ばれる。インド最南端にあるタミル・ナードゥ州からの出土で、南インドを支配したタミル系のヒンドゥ王朝チョーラ朝時代(9世紀から13世紀)の11世紀に造られた。ナタラージャは、無知と邪悪を表わす悪魔を踏みつけ、4本の手を持ち、破壊を表わす炎のリングの輪の中で踊っている。


向かって左端の手には創造を象徴する小太鼓を持ち、その腕にナ−ガ(蛇)を巻き付けている。手前の手の平をこちらに見せているのは苦しむ衆生を救おうとする姿という。髪はガンジス河の流れを表し女神と月の装飾が施されている。


次に「ネパールの展示コレクション」から、17世紀制作の「バイラヴァ」と名付けられた作品。バイラヴァとは恐ろしいの意味で、シヴァ神の恐ろしい側面を象徴的に表現したもの。


額には第三の目が刻まれ、渦巻き状の眉毛、口髭、顎鬚が生え、凶暴な様相を表している。髪飾りの装飾は繊細かつ豪華で、青い宝石で装飾されたメダリオンや唐草紋様の金細工などで構成されている。耳に、穴が開いていることから、イヤリングがあったようだが失われている。ネワール族のマッラ朝(12世紀~18世紀)によりカトマンズ盆地に成立したネワール様式で造られている。

こちらの像もネパールからの作品で「マハカラ神」と名付けられている。マハカラ神はシヴァ神が仏教に改宗した姿と言われている。ベージュの石灰岩に彩色を施して造られており、像には寄付者の名前と1293年の制作年が刻まれている。


こちらはチベットのパンチェン・ラマ像で、チベット仏教(ゲルク派)で最上位クラスに位置する化身ラマ(師僧)「ダライ・ラマ」に次ぐラマの称号である。無量光仏(阿弥陀如来)の化身とされ、転生(生まれ変わり)により後継者が定められる。こちらは1569から1662年まで継いだ第4世を記念して造られた黄金像である。


次に「アフガニスタンとパキスタンの展示コレクション」を鑑賞する。この地域で作られた彫像は、古代ガンダーラ国に因んで「ガンダーラ像」と呼ばれ、その特徴は仏陀生誕の地インドの文化を基盤にしつつも、ヘレニズム文化の影響を大いに受けていることにある。こちらの「菩薩像」は「ギメ東洋美術館」を代表するガンダーラ像で、1~3世紀頃(クシャーナ朝)に片岩で制作された高さ120センチメートルの立像である。後部に円形の光背を配し、法衣はインドで王者への敬意を示す偏袒右肩の着衣方だが、上半身がほとんど露わになっており、むしろ肉体美が強調されている。


近くで見ると、右手の指と指の間には膜(縵網相)があり、眉間には白毫があるなど仏像の特徴を兼ね備えている。一方で口元には、立派な髭をたくわえており、繊細な装飾が施されたターバン風の王冠を被り布先が光背にたなびいている。胸には連珠や様々な貴石を繋いだ様式の首飾りを付けるなど、随所にインド、スキタイ、グレコローマン、イランなどの様式が組み合わさっている。


「菩薩立像」は、パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州のマルダンから北東に約15キロメートルにある「メハサンダ寺院址」から発掘されたもの。寺院址は、中央尾根の台地にあり、会堂、厨房などの施設を持つ塔院を中心に、周りに大塔や小塔祠堂が並ぶ大規模な仏教寺院で、石彫、スタッコ像、菩薩像などの多くの像が発掘されている。

こちらは1~3世紀頃に片岩で制作された高さ85センチメートルの「弥勒菩薩像」である。円形の光背や肉体美を強調する偏袒右肩の姿は前述の「菩薩像」と同じだが、祭司階級出身をモデルとしているのか髷のある長髪で、左手には儀礼で用いる水瓶を持っている。マウリヤ朝の「アショーカ王の摩崖碑文」で有名な「シャーバズガリ」(メハサンダ寺院址から南西5キロメートルに位置)からの出土品である。


シルクロードの十字路ともいわれたアフガニスタンに位置する「フォンドキスタン仏教寺院址(Fondukistan)」から出土した7世紀後半に造られたテラコッタ製の半身像。頭部は仏像の特徴である螺髪姿だが、表情には官能さを兼ね備えた女性的な雰囲気がありマニエリスム的でもある。法衣の上から司祭のようなマント風の肩衣を身に付け、多くの宝石やネックレスで飾られている。


フォンドキスタン仏教寺院は、カーブルから60キロメートル北にあるバグラーム(コーカサスのアレクサンドリアで、クシャーナ朝の首都でもあった)とバーミヤンの中間にあるゴルバンド渓谷にある遺跡である。

同じく「フォンドキスタン仏教寺院址」からの出土で7世紀に制作された「菩薩像(或いは守護神像」。鼻が高くはっきりした顔立ちで、巻き毛の長髪に豪華な髪飾りを被り、胸元には大きな正方形の装飾品が付いた二連の首飾りを付けて、身体をやや傾け遊戯座の姿勢を取っている。左手には法具を持ち、右手は、衆生を救わんと手前に差し出している。


7世紀に制作された高さ72センチメートルのテラコッタ製だがほとんど損傷がないのには驚かされる。前述の像もそうだが、フォンドキスタン像の人体表現は細身で官能的であり、インド・グプタ朝の様式を反映している。

ガンダーラの「ハッダ遺跡」から出土されたストゥーパ(仏塔)。三層から四層で構成された仏塔で、各層には仏陀坐像の浮彫を配し、漆喰で覆われた中に彩色の痕跡が残っている。仏教複合施設を持つ僧院の中庭にあった奉納塔の一つと考えられている。ハッダ遺跡は、アフガニスタン東部のジャララバードから南方10キロメートルにあり、1世紀~2世紀に造られた後期ヘレニズム様式の仏教彫刻が多数発掘されている。


次に「中央アジアの展示コレクション」を鑑賞する。中央アジアとは、現在の西トルキスタンと東トルキスタンから新疆ウイグル自治区にかけての地域を指している。20世紀初頭、最後の未開地と言われた中央アジアに、多くのヨーロッパからの探検隊が調査に向かった。こちらに展示されているコレクションの大部分は、フランスの東洋学者ポールペリオ(1878~1945)が1906年から1909年にかけて行った探検隊による出土品である。
こちらは、クチャ(庫車/亀茲国)の石窟壁画で、8世紀後半の唐王朝時代に描かれたもの。


亀茲国とは、タリム盆地の北側(天山南路)に位置するオアシス都市で、漢王朝時代には西域経営の拠点となった。5世紀から8世紀にかけて数多くの石窟寺院が造られ、亀茲国が滅び9世紀に支配したウイグル人にも仏教信仰は維持されたが、11世紀には、イスラム王朝のカラハン朝が侵攻し、石窟寺院の仏教美術は目や口を中心に破壊されてしまう。

同じく、クチャのキジル石窟の壁画の一部。鮮やかな瓔珞を身に付けた菩薩らしき顔の一部である。


剥落している箇所が多いが、ラピスラズリを使った寒色系の彩色が鮮やかに残っている。顔立ちはどことなくペルシア風である。


クチャ郊外にある「スバシ故城」から出土した6~7世紀頃の「木製の携帯仏壇」。縦26センチメートル×横11センチメートルの大きさで、当時は、左右に脇持を持つ三尊式の仏壇だったようである。円形の光背には装飾がありインド・グプタ朝の影響が見られ、顔はガンダーラ風で、偏袒右肩の姿で衣のジグザグの縁取りには山西省は雲崗石窟の石仏の影響を受けている。クチャは、東西を結ぶ西域北道の中間に位置していることもあり、インド、ガンダーラの様式と中国仏像の様式が融合している。
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クチャにあるクムトラ石窟(クムトラ千仏洞)からの出土品。クムトラ千仏洞は、5世紀から8世紀にかけて開窟され現在112窟の存在が確認されている。像は7世紀から8世紀に制作されたもので、上の胸像が菩薩像で、左側から如来頭部、比丘頭像、跪禮拝者と続いている。塑像に彩色されたものだが綺麗に色が残っている。


敦煌、莫高窟で、隋時代(6世紀末から7世紀初)に制作された「過去七仏像」(塗金銅)。仏陀が仏教を開いたのは単に一代のみの事業ではなく、過去においてすでに成道し成仏した前世の功徳が累積した結果であるされる。この像は、これまで仏陀を含めて登場した七人の仏陀を信仰する「過去仏信仰」に基づいて造られた。


北魏時代(518年)制作の河北省からの金銅仏で「釈迦如来像と多宝如来像」。多宝如来とは、過去仏の一人で、無限のかなた東方にある「宝浄国」に住する教主である。法華経の第11章(見宝塔品)には、仏陀が説法していた際、空中に巨大な宝塔が出現し、中から、仏陀を讃える多宝如来の声が響き渡り、その後、多宝如来の座を半分空けて招き入れられた仏陀は、多宝如来と並んで説法を続けたと説かれている。このように多宝如来像は、法華経信仰に基づいて仏陀(釈迦如来)と2体1組で表現されることが多い。


「中国の展示コレクション」からは東魏(534~550)時代の542年に大理石で作られた「持蓮観音菩薩像」。頬骨が張り、目は細く、僅かに笑みをたたえている。胸を引き腹を出す姿勢で、肩から上腕部に衣を纏い、一部を玉環に通して交差させている。
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前述のやや後年(東魏から北斉(550~577)時代)に砂岩で造られた「菩薩立像」。表情や衣の表現は良く似ているが腹が出る姿勢は抑えられている。衣は肩から身体に沿って下がり膝下で交差した後、前腕にかけて足元まで垂れ下がっているが、腹部にある玉環は瓔珞が付いた装飾品になっている。笑みを浮かべた表情や体つきなど、法隆寺金堂釈迦三尊像の菩薩像や法隆寺夢殿の観音菩薩立像などとも似ている。
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今回「日本の展示コレクション」は時間をかけて鑑賞しなかったが、縄文時代の土偶、弥生時代の埴輪、天平時代から江戸時代までの仏像彫刻、陶器、刀など工芸品も数多く所蔵されている。館内を全体で2時間ほど鑑賞したが、インドから長い年月をかけてアジア各国に広がっていった仏教の深い流れ(伝播)を、それぞれの地域に根ざして作られた一級の美術作品群を通して改めて感じさせられた。

時刻はお昼の12時を過ぎたので、美術館を後にし、近くにあったベンチでお昼にした。メニューは、ポムドパンで購入したハム、チーズ入りバゲットと、JALでもらった赤ワインである。食後は、再び、イエナ橋を渡り「エッフェル塔」に戻った。

入場のための列が続いていたが、10分ほどで入場することができた。セキュリティチェックを済ませエレベーターに乗車する。


第2展望台に到着した。展望台は簡単な柵あるいは金網が設置されているだけの吹きさらしである。しかし、中央にはエッフェル塔グッズを中心としたお土産ショップがある。


展望台は3つあり、高さは第1展望台が57.6メートル、こちらの第2展望台が115.7メートル、最も高い第3展望台が276.1メートルあるが、見上げてみると霞んでいるし、行くのは諦めた。


東南側は「シャン・ド・マルス公園」が広がる眺めで、上から見ると庭園の形状が良くわかる。公園では1790年7月14日にフランス革命1周年記念祭が行われている。また同年7月17日には、共和政の実現を掲げて集まった民衆に対して、解散を命じた革命政権の国民衛兵隊が発砲した「シャン・ド・マルスの虐殺」が起こっている。そして1867年には第2回パリ万国博覧会や、その後も1937年までに5回の国際博覧会が開催され、大きなパビリオンも数多く建設された。公園の終点に建つ建物がエコール・ミリテールのファサードになる。
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反対側の北西側には、セーヌ川に架かるイエナ橋が見下ろせ、先にはシャイヨ宮のある「トロカデロ広場」(Place du Trocadero)が広がっている。トロカデロ広場には、1878年の万国博覧会においてトロカデロ宮殿が建てられ、国際機関の会議等が開催されたが、1937年の国際博覧会で一部取り壊され、シャイヨ宮として現在に至っている。シャイヨ宮は広い弧を描く2つの翼が特徴となっている。イエナ橋との間には、前庭としてトロカデロ庭園(1937年)が広がっている。
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トロカデロ広場から右側を眺めると、ギメ東洋美術館のドーム部分が僅かに確認できる。そのすぐ右後方に凱旋門が望める。ちなみに凱旋門の北西方向に見える高層ビルは、ハイアット リージェンシー パリ エトワールで、明日から宿泊することとしている。
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セーヌ川に沿って更に上流の右方向を眺めるものの、少し先になると霞んでしまう。右端の個性的な鉄とガラスで覆われた「グラン・パレ」と、その南側に架かる「アレクサンドル3世橋」の特徴ある装飾柱が何とか確認できる。
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20分ほど滞在した後、午後2時過ぎにホテルに戻り、チェックインして夕方まで部屋で寝た。
(2011.12.21)
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