カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

パリ散歩~その3(ジャックマール・アンドレ美術館)

2014-12-24 | フランス(パリ)
今から8区にあるジャックマール・アンドレ美術館に行く。
9番線に乗りミロメニル(Miromesnil)駅で降りて450メートル歩いたオスマン通り沿いにある。このあたりは高級邸宅が多い。


ちなみに、現在のパリの街並みは、1853年、皇帝ナポレオン3世の統治下、セーヌ県知事に任命されたオスマン男爵の手によるもの。今までスラム街のようだったパリは、その約17年の歳月を要した後、世界中の人々から賞賛される「花の都」へと大変身を遂げた。このオスマン通りは、そのオスマン男爵の名にちなんでいる。

まもなく12時半。このあたりは同じような外観の邸宅が並んでいるので、懸垂幕がなければ通り過ぎそうである。黒い鉄扉を抜けると薄暗い通路が10メートルほど続いて左手に入口があった。中に入りチケットを購入する。しかしここはチケット売り場とショップだけで美術館は外のようだ。


再度外に出て更に奥へ坂道を歩き、左に回り込むと正面に巨大な建物が現れた。これがジャックマール・アンドレ美術館である。入口左右のライオン像が出迎えてくれる。
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この美術館は、1869年に銀行家エドゥアール・アンドレと、その妻、画家のネリー・ジャックマールの邸宅であり、2人が収集したイタリア・ルネサンス、18世紀フランス、そしてオランダなどの絵画作品に加えて美術工芸品、家具、調度品等が展示されている。

入口を入り左手の部屋には、ジャン・マルク・ナティエの「ダンタン公爵夫人」が展示されている。この作品はこの美術館の公式図録の表紙や各宣伝のポスター、ウェブトップにも登場する等、イメージキャラクターになっている。ジャン・マルク・ナティエは、ルイ15世時代のフランスで肖像画家である。彼が描く優美にして繊細なタッチは、当時一世を風靡した。
なお、その上の楕円額縁の画は、フランソワ・ブーシェのビーナスである。
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ジャックマール・アンドレ美術館Hpより 「ダンタン公爵夫人(マチルド・ドゥ・キャニーの肖像)1738年」

次に向かった部屋は「タペストリーのサロン(Salon des tapisseries)」。正面と左右に3枚のタペストリーが掛けられている。このタペストリーは、18世紀、ボーヴェのタペストリー工場で編まれたもの。ブルー・パールとローズ色を基調にロシア・スラブ地方の風景と人物が織り込まれている。原画はフランスの画家で、ブーシェに師事した、ル・プランス(Jean-Baptiste Le Prince 1734~1781年)によるもの。
また、ソファの前の絵画スタンドに置かれた絵は18世紀イタリアを代表するヴェネツィアの景観画家、フランチェスコ・グアルディの作品である。
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ジャックマール・アンドレ美術館Hpよりフランチェスコ・グアルディ「ポルチコ・ベネティアン(Portique venitien)1760年」

こちらは、「書斎( La Bibliotheque)」。室内にはルイ14世時代の家具などが配置され、壁にはレンブラント、ヴァン・ダイク、ルイスダール、フランス・ハルス、フィリップ・ドゥ・シャンペーニュなどのフランドル絵画やオランダ絵画のコレクションが展示されている。


正面の一番小さい画は、レンブラントの「エマオの巡礼者」(Les Pelerins)。画面に向かって右のシルエットの人物はキリストをあらわしている。巡礼者(キリストの弟子)が光を正面に受け、驚く瞬間を劇的に表現している。更に別の薄暗い光によって浮かび上がっている人物も見える。光の扱いがかなり大胆な作品である。
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こちらの「冬の庭(Le Jardin d'hiver)」と名付けられた温室そばの大理石のホールには、彫像やローマ時代のレリーフが並んでいる。


コリント式の茶色の大理石柱の奥は、吹き抜けになっており、左右に螺旋階段がある。「名誉の階段(L'escalierd' honneur)」と名付けられている。


名誉な階段を上がって行くと、壁面に巨大なフレスコ画が現れる。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの「アンリ3世の歓迎(1745年)」である。ティエポロは、ルネサンス期絵画の最後の巨匠。この画は、ヴェネツィアを訪問したフランス王アンリ3世がコンタリーニ公の歓迎を受けている様子が描かれている。中央で首にラッフルを付けて右手を差し出している人物がアンリ3世であり、その手を取る老人がフェデリコ・コンタリーニ公。
ところで、向かって右下に、この歓迎風景を見ている男が描かれているが、足が画からはみ出しているのがなんともおかしい。
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このフレスコ画の左右には、更にこの歓迎風景を覗く人物たちのフレスコ画がある。芸が細かい。
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振り向いて2階の廊下を歩くと、正面にヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオの「フェデリーコ2世・ゴンザーガの肖像(1560年)」が展示されている。フェデリーコ2世は、第4代マントヴァ侯フランチェスコ2世とイザベラ・デステの子で、マントヴァ侯を継いだ。彼は母親譲りの文化愛好者であった。このころがルネサンスの宮廷文化の黄金期といわれた。
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こちらは、ペルジーノの「聖母子像(1500年)」。ペルジーノは、ルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家で、ラファエロの師でもあった。彼はゆったりとした空間構成、牧歌的な風景、甘美な聖母子像を描くことで人気があった。背景の青の風景は清々しい清涼感を与えてくれる。
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さて、まもなく15時になる。遅めのランチをとることに。1階に降りて入口横にあるサロン・ド・テに向かう。天井にはフレスコ画、周りにはタペストリーが飾られている。


ランチタイムは15時までなので、ギリギリセーフであった。お昼の時間は行列ができるほどの人気があるが、この時間になるとゆっくりできる。


さて、満腹になり、再び螺旋階段で2階に戻る。

ここは、アトリエ(L'atelier)。この部屋にも多くの美術品や調度品が飾られている。奥の壁に見える楕円状の聖母子像(15世紀)はルネサンス期イタリアのセラミックス彫刻家ルカ・デッラ・ロッビアの作品。その他にもロッビア工房のセラミック作品が飾られているが、小さい上に離れていて良く見えない。
正面の大きな画は、13世紀シエナ派のピエトロ・デ・ジョバンニ・ダンブロシオ(Pietro di Giovanni d'Ambrosio)作の「聖カタリナ(1444年)」、そして向かって左の円柱上のブロンズ胸像は、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ(1509~1566年)作の「ミケランジェロ像」。彼は晩年のミケランジェロとの交際で知られている。
手前の机上のガラスケースの中にも板状のブロンズ像が見える。
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このブロンズ像はドナテッロの「聖セバスティアヌスの殉教(1450年)」。聖セバスティアヌスの殉教は、ルネサンス期に多くの画家によって描かれた。半裸の姿で体をゆがませたポーズをとり、体に矢を受けている構図が多い。しかし、この像は、矢を受けている聖セバスティアヌスに加えて聖イレーネ、射手たちが彫られている。
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アトリエ(L'atelier)の隅に見える胸像は「ロレンツォ・ソデリーニ像(15世紀)」。ソデリーニ家はフィレンツェの名門である。彼の孫には、1512年にフィレンツェ共和国の元首(正義の旗手)となったピエロ・ソデリーニがいる。
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正面に見える胸像は、ダルマツィア出身の彫刻家、フランチェスコ・ラウラーナの「イサベル・デ・アラゴン(1500年)」。凛として静かな表情だが美しい像である。
その上は、「シジズモンド・パンドルフォ・マラテスタの肖像(1468年)」。彼はリミニの領主であり、領土拡大のために徹底的に行動したため、法王ピウス2世の嫉妬を買い、1460年に破門されてしまう。それ以来、教皇庁との争いのために、残忍な異教徒としての世評が立つが、彼は最高の芸術家たちを招聘するなどし、リミニをルネサンス芸術の地に変えた。
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こちらは、パオロ・ウッチェロの「聖ゲオルギウスの竜退治、1430年~1435年頃」である。ウッチェロは、初期ルネサンスを代表する人物であり、遠近法を科学的アプローチで駆使した絵画を創出した画家である。この作品は手前の道から都市の門に向けて遠近法が使われているが、登場人物たちは、前面に帯状に整列させられ、単純な構図になっており、やや不自然な印象を感じる。彼は、同時代に初期の代表作サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のフレスコ画「ジョン・ホークウッド騎馬像」を描いている。この画は、台座の上の騎馬像は正面から見たように描かれているが、台座は下から見上げるように描かれていることから不自然な遠近法であるとの評価も受けている。
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この画の舞台は、トルコ・カッパドキアの首府ラシアである。この街はずれに毒気を振りまき、人に咬み付く恐ろしい竜が住んでいたが、羊を生贄に捧げることにより、何とかその災厄から逃れていた。しかし、遂に生贄にするべき羊がいなくなり、人間を生け贄として差し出すことになり、くじ引きをしたところ、王様の娘に当たってしまった。そこに聖ゲオルギウスが通りかかり、彼は竜に戦いを挑み、勝利する。聖ゲオルギウスは喜ぶ街の人たちをキリスト教に改宗させて去っていったという。

ウッチェロは、生涯に2度、この「聖ゲオルギウスの竜退治」を描いている。さて、(参考として)こちらがロンドン・ナショナル・ギャラリー版である。こちらは遠近法に違和感は感じられず、聖ゲオルギウスと竜にも躍動感が感じられる。1460年~1470年頃に描かれたとされているため、ジャックマール・アンドレ版から約30年が経過している。個人的には、玩具のような竜が描かれたジャックマール・アンドレ版の方が、不自然とはいえ、何とも味のある作品に仕上がっており、愛着を感じるが、いかがであろう。
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こちらも名品が並んでいる。
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正面の大きな絵は、初期ヴェネツィア派を代表する画家の1人、ヴィットーレ・カルパッチョの「L'Ambassade d'Hippolyte,reine des Amazones,aupres de Thesee,roi d'Athenes(1495年)」。この画は宗教画でなくギリシア神話の世界が描かれている。ミュケナイ王は、ヘラクレスにアマゾネスの女王ヒッポリュテーの腰帯を取って来いとの命令をくだしたため、アテナイ王テセウスともに、アマゾネスの国に向かう。これは、個性的な帽子をかぶり馬に乗ったアマゾネス7人の女性戦士とテセウスとの交渉場面を描いている。
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向かってその右隣には、ボッティチェッリの「エジプトへの脱出(1505年)」。ヘロデ王による嬰児殺しを避けるために行われた幼子イエスを抱くマリアとヨセフとの逃避行である。
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ここにもジョヴァンニ・ベリーニ、アンドレア・マンテーニャ、カルロ・クリヴェッリなどの大作ぞろいだ。
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中心に飾られているのは、ジョヴァンニ・ベリーニの「聖母子像(1510年)」。この美術館のメインの一つともいえる作品。ベリーニはヴェネツィア派の第一世代(15世紀)最大の巨匠で、祭壇画、ピエタ・磔刑などキリストを主題とする宗教的作品を多く描いている。
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ジャックマール・アンドレ美術館Hpよりジョヴァンニ・ベリーニの「聖母子像(1510年)」

向かって右端のマンテーニャの祭壇画の下にある小さな画は、カルロ・クリヴェッリの「聖人たち(1493年)」。左から、剣を持つ聖パウロ、中央が聖アウグスティン、右端が聖ブルーノ。この指を咥えるポーズは、さまよう隠者のシンボルを表しているとのこと。クリヴェッリは15世紀に流行したパドヴァ派の画家である。
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なんとも華麗なる邸宅に素晴らしいコレクションの数々。すっかり堪能した。時計を見ると17時になっていた。では次に向け出発!
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パリ散歩~その2(シテ島~オペラ・ガルニエ)

2014-12-23 | フランス(パリ)
メリ-ゴーランドの横の列は、スケートリンク入場の列。この時期、市庁舎の広場を利用して、特設スケートリンクが設置され、多くの家族連れでにぎわう。さて、このパリ市庁舎前を南下し、シテ島へ向かう。
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正面の橋は、アルコル橋。この橋を渡るとシテ島。前方にノートルダム大聖堂の巨大な姿が見える。
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アルコル橋からセーヌ川(西側)を眺める。遊覧クルーズが通ろうとしている橋はノートルダム橋。橋の左には商事裁判所と奥には王室管理府(コンシェルジュリー)が見える。
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アルコル橋をわたると、数分でノートルダム大聖堂に到着。ノートルダム大聖堂と言えば、ヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ドゥ・パリ」で有名。1998年にはミュージカル化され、パリ初演以来、世界15カ国で上演され大ヒットした。また、皇帝ナポレオンはこの大聖堂で戴冠式を行った。
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大聖堂の塔に上るための長蛇の列が続いている。。
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さて、大聖堂から西に100メートル歩くと最高裁判所である。なんとこちらも、長い列が続いている。ここにはパリ最古のステンドグラスで知られるサント・シャペルがあり、これを見学するための列である。
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すぐ隣が、最高裁判所の入口。
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さて、セーヌ川沿いを更に西に歩く。こちらはコンシェルジュリーと呼ばれる裁判所付属の牢獄であった建物。もともとフィリップ4世(在位1285年~1314年)の宮殿だったが、フランス革命では、マリー・アントワネットをはじめ多くの王侯貴族がここに囚われた。
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ポンヌフ橋がみえる。ポンヌフ橋は、シテ島の下流先端を通りセーヌ川の左岸(南側)と右岸(北側)を結んでいる。ここから見えるのは、右岸にかかる部分である。16世紀から17世紀にかけて建設されたパリに現存する最古の橋である。レオス・カラックス監督のフランス映画「ポンヌフの恋人」Les Amants du Pont-Neuf(1991年)でお馴染みである。
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コンシェルジュリーを越え左折すると、最高裁判所の入口があり、向かいに小さな公園がある。公園に入り、最高裁判所の正面を眺めてみる。ここをドーフィヌ広場という。
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ドーフィヌ広場の中心に立ち、振り返ると広場はシテ島の先端に近いためか、三角形になっている。そして、この広場を取り囲むように住宅が立ち並んでいる。以前、左手の住宅には、俳優のイヴ・モンタンと女優のシモーヌ・シニョレ夫婦が住んでおり、1階のレストランで良く姿が見られたという。それにしても先ほどまでの喧騒が嘘のようである。まことに静かな場所である。
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セーヌ川の左岸(南側)のポンヌフ橋を渡り、シテ島を後にしセーヌ川沿いを西に向け歩くと、左手に丸天井が印象的な、フランス学士院が見えてくる。単にクーポールと言えばこのフランス学士院のことを示すほど。4つのアカデミーで構成され、中でも最古のものがフランセーズである。1635年、ルイ13世の宰相リシュリューによって設立された。このフランセーズの重要な使命はフランス語の辞書の編集で終身身分の40名のアカデミシャンにより改版を重ね現在に至っている。
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フランス学士院前の歩行者専用の橋(ポン・デ・ザール)をセーヌ川右岸(北側)に渡ると正面に見えるのがルーヴル宮である。
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ポン・デ・ザールを渡りながら、右手をみると、先ほどまでいたシテ島がみえる。ここから見るとポンヌフ橋がシテ島の先端を横切る2つの橋であるのが良くわかる。
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さて、ルーヴル宮はもともとシテ島を中心としたパリを防護するための城塞であった。これを16世紀前半、フランソワ1世がルネサンス様式の建物として改造したのが宮殿の始まりである。しかしその後、国王の宮殿はヴェルサイユに移ったため、荒廃するが、フランス革命時、革命政府は、美術館とすることを決め1793年に開館することになった。
なお、正面のアーチをくぐるとルーヴル美術館のメイン・エントランスがあるルーヴル・ピラミッドがある。
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ルーヴル宮を出て左折しリヴォリ通りを歩く。左手に続く建物はルーヴル美術館。
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リヴォリ通りから、オペラ大通りを歩き、オペラ座ガルニエ宮に向かう。建物の並びをみると、良く統一されており、パリの建築規制の厳しさが良くわかる。
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正面に見えるのがオペラ座ガルニエ宮。ナポレオン3世の発案により、1875年に造られた歌劇場。
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誠に美しい建物である。ただいま13時、これで、本日の街歩きは終了。
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パリ散歩~その1(サン・マルタン~マレ)

2014-12-23 | フランス(パリ)
ここは、パリ9区の外れ、モントロン公園そばにあるプチホテル(ウイリアム オペラ)。オペラ座ガルニエ宮から約1.3キロメートル北東に位置している。曇り空の朝8時半。ここから街歩きスタート。
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ホテル前のラ・ファイエット通りを東方面に450メートルほど歩くと10区に入る。左手に見える教会は、サンヴァンサン・ド・ポール愛徳修道女会礼拝堂教会。
この教会は、カトリック修道女カタリナ・ラブレが、聖母マリアの出現によって示されたお告げとイメージをもとにデザインされた「不思議のメダイ」で知られている。奇跡のメダル教会ともいわれている。
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教会からシャブロル通りを300メートル歩き左手に見えるのが、マルシェ・サンカンタン。パリにマルシェは多いが、ここは雨でも安心の常設マルシェ。
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店内にはクリスマス準備におお忙しのお肉屋さんや、
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美味しそうなチーズ屋さんなど多くのお店がある。
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マルシェの前の交差点を超えると、パリ東駅(Gare de l'Est)がある。ちなみに、東駅はフランス東部やドイツ、ルクセンブルク方面と東へ向かう列車が発着することから名付けられた。その東駅の前を通り、
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ステンドグラスと高い尖塔(肝心の尖塔が切れてしまった。。申し訳ない。)で知られるサン・ローラン教会の前を通り、
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ヴィルマン庭園前のレコリ通りを歩くと、すぐ突き当たりに鉄橋が見えてくる。
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ここが、サン・マルタン運河。1キロメートルほど北のラ・ヴィレット貯水池と3.5キロメートル南のセーヌ川とを結んでいる。このサン・マルタン運河は、ナポレオン1世が、1825年、市民に飲み水を提供するために作った。観光のための遊覧船も走っている。
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運河は、25メートルの高低差があるために9つの閘門(こうもん)がある。鉄橋から南のセーヌ川方面を眺めると閘門の様子がわかる。映画「アメリ」(2001年)で、主人公のアメリが石で水切りをしていた場所がここ。
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運河沿いのジェマッペ通りには、北ホテルがある。マルセル・カルネ監督の映画「北ホテル」Hotel du Nord(1938年)の舞台となった。
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現在、ホテルはレストランになっている。
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さて、このサン・マルタン地区にも、常設マルシェがある。
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新鮮な魚介類が一杯の魚屋さん。
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サン・マルタン通りには、太陽王として知られるルイ14世が、1674年に造ったサン・マルタン門がある。
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アーチの上の彫刻はフランス国王軍がブザンソン(スイス)奪取と軍と三国同盟(ドイツ・オランダ・スペイン)の解体をあらわしているとのこと。
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次に、サン・マルタン通りを600メートルほど東に向かうとレピュブリック広場がある。このあたりには、ビストロも多く若者も大勢訪れる。レピュブリックはフランス共和国「Republique Francaise」を名に冠した場所で、広場中央にフランス象徴のマリアンヌ像が立っている。
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レピュブリック広場から、南方面のタンプル通りに入る。ここから3区に入る。
正面三叉路角にはメトロ「タンプル駅」入口がある。建築家エクトール・ギマールのお馴染みのアール・ヌーヴォーデザインの駅のゲートを見ながら左手タンプル通りを更に進む。タンプル通りは1830年代、パリ演劇界の中心地で、最盛期には15もの劇場が軒を連ねており、当時は「犯罪大通り」とも呼ばれていた。「犯罪大通り」といえば、フランス映画史上に残るマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」Les Enfants du Paradis(1945年)でお馴染みである。
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タンプル通り左手には、パリ市内に多くの店舗を展開しているスーパー「モノプリ」Monopirixがあり、その店先には、特設の魚介のマルシェが出ていた。蟹、海老、牡蠣等が山積みになっている。
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その先の左手には公園がある。左折してブルターニュ通り沿いから公園内に入る。このあたりには、タンプル塔といわれた修道院があった。12世紀には、テンプル騎士団の本拠地であり、バスティーユ牢獄が完成するまでは牢獄の役目をしていたこともあった。ナポレオン1世は旧時代のこの塔を嫌って1808年に取り壊しを命じたため、現在は、公園になっており、残念ながら当時の面影はない。
公園には小さなメリーゴーランドがあり、こんなところもパリらしい。また、小さな池があり、そばに鶏がいたのにはビックリ!
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公園からブルターニュ通りに出て、パリで最も古いといわれる、アンファン・ルージュ市場を過ぎ、
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先の交差点を右折してシャルロ通りを南に向かう。左手のお店は、カフェ・シャルロ。このあたりから北マレ地区に入る。
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マレ地区は、中世のころまで、沼地(Marais)だったことから、名付けられた。16世紀末~17世紀に入るとアンリ4世が、このあたりを開発し、多くの貴族の邸宅が建てられた。現在貴重な歴史的資産として保存されている。
さて、近年、ファッションやサブ カルチャーの中心として注目を集めているフラン・ブルジョワ通りに入り、一路東に向かう。このフラン・ブルジョワ通りを境に北側は3区、南側が4区となる。
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邸宅の入口には、細かい彫刻装飾が見られる。
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顔が彫刻されている。
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右手は、パリ市歴史図書館。ここは、ラモワニョン館という貴族の邸宅を改装したもの。
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左手はカルナヴァレ博物館。こちらも元貴族の邸宅。
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門から中庭を覗いてみる。ここの常設展は無料で入れるが、今日は時間の都合があり、また機会があれば
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邸宅やショップを眺めながらフラン・ブルジョワ通りを600メートルほど歩いてくると、
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ヴォージュ広場に出る。ここは、1612年、アンリ4世により造られたパリで最も古い広場。広場を赤いレンガの邸宅が取り囲んでいる。
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この邸宅には、多くの貴族や政治家などが住んでいた。中心の広場は彼らの憩いの場でもあり、馬術競技なども行われていたとのこと。
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1階部分は回廊になっており、アーケードのついたお店が並んでいる。カフェもあり、寛ぐ人々の姿も見える。
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さて、ヴォージュ広場から、一旦、フラン・ブルジョワ通りを少し戻り、セヴィニェ通りを南下する。通りの奥に教会が見える。
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セヴィニェ通りは、リヴォリ通りに突き当たる。リヴォリ通り沿いの教会は、サン・ポール・サン・ルイ教会。ローマにあるバロック建築のジェズ教会を模して、1627年から1641年にかけて建造された。ルイ13世がこの場所の土地を提供したので、聖ルイが教会の名前の由来となっている。
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ファラフェル屋が集まる、ロジェ通りを歩き、再びリヴォリ通りに出て、パリ市庁舎に向かう。
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11時半、パリ市庁舎に到着。パリ市庁舎は、1533年、フランソワ1世の発願により建設が始められ、ルイ13世統治下の1628年に完成した。なお、現在の建物は1871年に火事で焼失したため、再建されたものである。
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パリ・トゥール ダルジャン

2013-04-30 | フランス(パリ)
パリ4区にあるサン・ルイ島からセーヌ川に架かるトゥルネル橋を南側に渡りつつ右側を眺めると、シテ島に建つノートルダム大聖堂が望める。二、三日、雨も多く、どんよりとした天気が続いていたが、この時間(午後2時前)、雲の隙間から差し込む光で美しい姿を見ることができる。ちなみに左岸からシテ島に架かるのがアルシュヴェシェ橋で、クルーズ船が向かう右岸側で、シテ島とサン・ルイ島を結ぶ橋がサン・ルイ橋となる。


トゥルネル橋を渡るとパリ5区になり、最初の交差点の東南角に建つビルが「トゥール ダルジャン(La Tour d'argent)パリ本店」である。トゥール ダルジャンは、誰もが知るフランス料理の最高級レストランで、日本でも紀尾井町のホテルニューオータニに支店がある。これからそのパリ本店でランチを食べることにしている。


パリ本店は、今から400年以上前の1582年、宗教内戦が続き混迷するフランスを統治していたアンリ3世(1551~1589)の時代にこの地に開店した。その後も洗練された料理は評判を呼び、フランス歴代の王を始め、各国の王侯貴族、世界中の著名人などセレブたちに利用され、現在もフランス料理界を始め、最高級のフレンチ・レストランとして君臨している。特に鴨料理の評価が高く、19世紀後半からは、料理に使う鴨の全てに番号を付け、現在もロワール地方(ヴァンデ県シャラン)で特別に飼育された最高級の鴨肉を使用している。


この日案内されたテーブル席は、トゥルネル橋側のセーヌ川とサン・ルイ島が望める窓際席で、テーブルには、クリスマスシーズンらしく、水差しに赤い薔薇と、赤い蝶ネクタイをしたクマの絵柄のビスケットが添えられていた。


ところで、トゥール ダルジャンのパリ本店では、料理の素晴らしさに加え、その料理に合う完璧なワインを数多く取り揃えていることで知られている。その数、何と50万本と言われ世界一と評されている。ビルの地階には、それらの膨大な数のワインを収めた巨大なカーブがあり、お客からのどんな注文にも即座に答えることができる様に準備されているとのこと。ちなみに、こちらがワインリストで、約400ページにも及ぶ。。


料理の注文は、前菜三品、メイン三品、デザート三品から一品づつチョイスするランチセットメニュー(65ユーロ)からお願いすることにした。
コースは、最初に、カナッペ、小さなキッシュなどアミューズグールから始まる。


飲み物は、スパークリング水(7ユーロ)を頼み、白ワインはランチ用のサジェスチョン6種から、プイィ フュメ シャトー ド トラシー2008 (1/2)(54ユーロ)を選んだ。
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アミューズは、小さな鴨肉が入ったもの。
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前菜(その1)は、赤ワインソースで味付けられたエスカルゴで、グリーンレンティルと泡ソースを添えた逸品。
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前菜(その2)は、リヨン名物のグラタン料理で、クネル・ド・ブロシェと言い、川魚のすり身を楕円形に固め、ソースをかけてオーブンで焼いたもの。身はふわふわした食感。
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次の赤ワインは、やはりランチ用のサジェスチョン4種の中から、サントネー クロ・ド・ マルト ルージュ2007 (1/2)(49ユーロ)を選んだ。
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メイン(その1)は、ホタテのローストで、クランベリーと緑のキャベツを付け合わせとし、ソース ペリグーと言う牛のだし汁のフォンドヴォーにマディラ酒を加え、トリュフのみじん切りを加えて煮たソースをかけたもの。ホタテの表面のカリカリした焼き具合と肉厚で弾力感のある食感と絡み合って抜群である。
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メイン(その2)は、鴨肉で、鴨のローストと青リンゴとベトラーヴ(赤カブのような野菜)。フルーティで甘いソースと鴨との相性が良く、想像より軽やかな味わいで大変上品。
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デザート(その1)は、季節のアイスクリームとシャーベット
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デザート(その2)は、オレンジマーマレードとダークチョコレートのパレット
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最後に、カフェ(10ユーロ)を頼み、ミニャルディーズ(こちらはチョコレート)を頂き終了した。料理は、どれも、見た目も光沢があり美しく輝き、味も大変洗練されており美味しかった。また、ワインもサジェスチョンがあるのは良かった。ところで、もう一種類の(前菜)コンソメスタイルのボルシチ、(メイン)子牛のほほ肉・ペリグーソースとポテトピューレの煮込み、(デザート)クランベリー風味の栗とバニラであったが、どんな感じだったのだろう。興味は尽きない。。
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振り返ると、ランチ客は皆いなくなり、既に他のテーブル席は掃除が終わっていた。少し慌てて退出するそぶりを見せたところ、スタッフからゆっくりしていて大丈夫と言われる。壁には、古きパリの町並みを描いた絵地図が飾られている。
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支払いの際の明細書を挟むビルフォルダーと一緒にスタッフが持参した皿には、「トゥール ダルジャンからの眺め 1582年」と書かれたパリ本店がオープンした当時のセーヌ川とノートルダム大聖堂の風景が描かれている。。
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店内はスタッフのサービスも良く窓から望むセーヌ川とパリの素敵な景色を見ながら美味しい食事を楽しむことができた。また、400年にわたってパリの歴史の変遷を見つめてきたレストランで食事したかと思うと大変感慨深くもあった。

(2011.12.24)
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パリ・ギメ東洋美術館

2013-04-30 | フランス(パリ)
今年も残すところ10日あまりになった12月下旬、シャルル・ド・ゴール空港からロワシーバスに乗り、パリ・ガルニエ宮(オペラ座)に朝7時過ぎに到着した。そして、荷物をパリ11区、メトロ・オベルカンフ駅近くの今夜の宿泊ホテルに預けて「ギメ東洋美術館」にやってきた。

ギメ東洋美術館は、パリ16区、エッフェル塔からセーヌ川を渡ったイエナ広場に建つ国立の美術館で、もともとは実業家「エミール・ギメ(1836~1918)」がアジア各地を訪れ収集した遺物や美術品などを地元のリヨンに展示するため美術館を創設したのが始まりである。


その後、美術館はパリへと移設されるが、1945年にはルーヴル美術館所蔵のアジア部門のコレクションを移管して国立の東洋美術館として開館した。その後もカンボジア美術作品などの寄贈もあり、ギメ東洋美術館はアジア以外の国で最大の東洋美術コレクションを誇っている。


館内に入ると最初にカンボジア・アンコール王朝(クメール王朝とも言う)時代に制作された橋の欄干を飾る「蛇神像」(ヴァースキ或いはナーガラージャ)が迎えてくれる。展示室は吹き抜けフロアで階段の上からも鑑賞することができる。この像は、ヒンドゥ教における乳海攪拌(天地創造神話)が題材となっており、神々が蛇神を引く姿を表している。


乳海攪拌とは、神々が、アスラから侵攻を受けた際、霊薬「アムリタ」(飲む者に不死を与えるとされる霊薬)により勝利できることを知り、乳海に聳える大マンダラ山に蛇神を絡ませて、引っ張りあうことで山を回転、乳海を攪拌させてアムリタを取り出す方法だが、神々の人数だけでは困難で、アスラとアムリタを分け合う条件で共同作業が行われたとされる。

アンコール王朝は、ジャヤヴァルマン2世(在:802~835)を始祖とし、カンボジア王国(真臘)分裂後の802年に築かれた。王朝は、現在のカンボジア北西部の州都シェムリアップに、約3キロメートル四方の都城(アンコール・トム)を、南側に隣接して仏教寺院(アンコール・ワット)とを建設し、その後、それぞれ貯水施設として四方に堀をめぐらせ、門から堀を結ぶ橋のそれぞれの欄干に、神々とアスラ(阿修羅)とが数十体ずつ並び、蛇神像を引き合う姿を表現した。

吹き抜けのメインフロアは「カンボジアの展示コレクション」になっている。フロアの中心で入口側に向かって展示されている像は、砂岩で造られた高さ178センチメートルの「ハリハラ神」である。ハリハラ神とは、ヴィシュヌ神とシヴァ神との合体神で、左半身がヴィシュヌ神(ハリを意味)、右半身がシヴァ神(ハラを意味)を表している。像は、控えめの胴体、リラックスした腹部、楕円形の顔など、カンボジア南部に存在した「扶南国」(1世紀から7世紀)の遺跡群(アンコール・ボレイとプノン・ダ)の特徴が見られる。背後には、アーチ状の構造物が連結していた痕が残っている。


左半身のヴィシュヌ神は、円錐形の帽子を被り、円盤を持つ指先のみが残っている(他の手には棍棒・法螺貝・蓮華を持っていた)。右半身のシヴァ神は、絡まる髪の毛から流れるガンジス川と三日月の装飾具、武器であるトリシューラ(三叉の槍の槍先のみが残っている)を持ち、虎の皮の腰布(太ももの装飾)を付けている。「ハリハラ神」は、乳海攪拌で取り出した霊薬「アムリタ」を神々に渡そうと、アスラを惑わすために使わされた美女モーヒニー(ヴィシュヌ神から変身した)に一目惚れしたシヴァ神と一夜を共にしたことで生まれたとされる。

ハリハラ神の後方には、シヴァ神の頭部(46センチ)が展示されている。ことらの頭部像は、アンコール・トムの南側にあるプノン・バケンの丘に、10世紀初頭、アンコール王朝ヤショヴァルマン1世(在:889~910)により建設された「プノン・バケン寺院」に奉られていたもの。


シヴァ神の特徴である額の第三の目、三日月の装飾具に加え、クメール美術の特徴として、つばが狭い円筒の僧帽に、広い額、連続するこめかみ線、揉み上げから顎へと繋がる浅堀の髭、ピンと伸びた細い口髭と肉厚で笑みを浮かべた口元などが繊細に刻まれ、慈悲深い表情を醸し出している。

向かって左側はブラフマー(ブラフマン)神であるが、前述のシヴァ神の特徴に良く似ている。ブラフマーは東西南北に向いた4つの顔に4本の腕を持った姿で表現される。


中央奥もブラフマー(ブラフマン)神だが、全身が残る坐像姿で10世紀に造られたもの。像は正方形の台座に半跏趺坐の姿勢で座っている。顔は、前述の頭部像と似ているが、やや帽子のつばが広く大きな房状の耳飾りを付けている。腰ひもや腕輪には菱形の花のモチーフが装飾されている。


このフロアの一番奥を飾るのが、アンコール王朝により967年に建立された寺院「バンテアイ・スレイ」の東側の楼門を飾っていたペディメント(破風)である。バンテアイ・スレイは、アンコール・ワットの北東部に位置しており、「東洋のモナリザ」とも称されるデヴァターの彫像が有名である。ペディメントは、砂岩から造られた縦2メートル×横3メートルほどの翼形で、インドの叙事詩「マハーバーラタ」の一場面を題材とした浮き彫りが施されている。


ストーリーは、デーヴァ神族によって支配されていた三界(天上界、地上界、地下界)を征服してアスラ族の元へと奪還したスンダとウパスンダの兄弟の下へ、三界奪回のためにブラフマン神により絶世の美女ティローッタマー(アプサラスの一人)が差し向けられる。すると兄弟は、ティローッタマーを奪い合い死闘を繰り広げて自滅しまうといったシーン。クメール美術を代表する保存状態の良いペディメントである。

隣接するフロアにも多くのカンボジア像が展示されている。


こちらは、カンボジアの女性像でジャヤーヴァルマン7世(在:1181~1218/1220)の妃とも言われており、バイヨン期を代表する彫像の一つ。アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世は、巨大な人面像(バイヨンの四面像)を刻んだバイヨン寺院を建設したことで知られている。バイヨン様式の顔は、杏仁形の目に微笑みをたくわえ、たっぷりとした唇などが特徴である。


近くには、螺髪姿の仏陀頭部像が二体展示されている。バイヨン様式の風貌を持ち、彫刻とは思えないほどの滑らかな質感には驚かされる。


7~8世紀、カンボジア南部の州都コンポンスプーからの出土された如来像。クメール風の顔立ちだが、体躯はインドの初期グプタ朝を思わせ、やや質朴さをも漂う愛着が感じられる立像である。


こちらは「タイの展示コレクション」で、右側には13~14世紀にスコータイ様式で制作された「歩行する仏陀像」が展示されている。タイは、13世紀ごろまでアンコール王朝の支配下にあったが、タイ族最初の王朝スコータイ王朝(1240頃~1438)が興ると、新たにスコータイ様式が生まれる。その特徴は、頭頂部の小さな光背、小さなヘアカール、楕円形の顔、弓形の眉、細長い鼻、優しく微笑んだ表情、肩が広くなめらかで女性的なやせ形曲線で、衣の端のひだがへそに垂れ下がっているなどが挙げられる。


同じく、スコータイ様式で造られた、仏陀坐像が三体展示されている。半跏趺坐で右手指を下に向け地面に触れており、これは降魔印(触地印)と呼ばれ、修行中に邪魔をしようとした悪魔を追い払った姿を表している。


そして、こちらは、ベトナム中南部にあったチャンパ王国時代に制作された「シヴァ神像」である。像は、円形の台座の上に座り石碑にもたれている。10本の腕の多くと鼻とが破損しているが、滑らかな質感を持つ体躯と見事な写実性に圧倒される。額の第三の目、頭部の三日月などシヴァ神を示す特徴が盛り込まれ、額の滑らかなラインや胸下部の巻き紐に装飾されたクロス状のモチーフには、クメール美術の影響が感じられる。一方、目の瞼の下が水平であること、胸に這う様な蛇の姿、褌状の民族衣装などはチャンパ美術の特徴である。


このシヴァ神像は、11世紀チャンパ王国によりヴィジャヤの丘の上に建てられた高さ約20メートルの銀塔(主祠堂)に奉られていた(ビンディン遺跡)。現在、ベトナム本国に残るチャンパ像の多くは、ベトナム戦争時に破損したため貴重な作品の一つである。チャンパ王国は中国文明の影響を受けた北部ベトナムと異なり、中部沿海、中部南端や中部高原など中部全域に勢力を持って、カンボジアやインドから渡ってきたヒンドゥ文明(特にシヴァ派を信仰)を受容していた。

こちらは、インドネシア、中央ジャワ島で8~9世紀頃に制作された「観世音菩薩」像。高さ30センチメートルほどのロストワックス製法で作られた小さいブロンズ像で、女性らしさを感じる体躯で、しなやかな指先まで見事に表現されており、技術の高さに驚かされる。像には、台座と傘があったが失われている。10本の腕を持つ菩薩像は珍しい。


8世紀半ば~10世紀のジャワ島中部では、世界最大の大乗仏教建造物ボロブドゥールを建造した「シャイレーンドラ朝」や、ヒンドゥ寺院チャンディ・ロロ・ジョグランなどを建造した「古マタラム王国」などが繁栄し、文化面でも仏教、ヒンドゥ美術が大いに栄えた。

次に、「インドの展示コレクション」を鑑賞する。フロアの中央に飾られた仏頭は、インドはマトゥーラからの出土品で、6世紀グプタ朝後期に制作されたもの。土着的なインド独自の造形・白斑点の赤い砂岩仕様が特徴である。


マトゥーラは、インド・デリーから145キロメートルほど南にあるウッタル・プラデーシュ州の都市で、タージ・マハルのそばを流れるヤムナー川の上流に面している。ガンダーラ地方と同時期の紀元前後から2世紀頃にかけて、仏像彫刻が始まった地として知られ、クシャーナ朝下のカニシカ王の治世では副都でもあった。

同じくマトゥーラから「ナーガ像」(蛇王)。頭部は複数の蛇の冠とともに失われている。インドで、蛇は雨を降らせると言われており、そのため右腕は、雨を願うべく天に伸ばし、左腕は、雨水を集めるために胸に杯を握っていた。首には花輪を思わせる首飾りを付け、腰には薄手のドウティ(ヒンドゥ教徒男性が着用する腰布の一種)を着用している。体は、首、肩、脚を曲げた三屈法(トリバンガ)で造られた、クシャーナ朝(1~3世紀)時代のマトゥーラの特性を持った美しい像である。


踊るシヴァ神で、ナタラージャ(踊りの王)とも呼ばれる。インド最南端にあるタミル・ナードゥ州からの出土で、南インドを支配したタミル系のヒンドゥ王朝チョーラ朝時代(9世紀から13世紀)の11世紀に造られた。ナタラージャは、無知と邪悪を表わす悪魔を踏みつけ、4本の手を持ち、破壊を表わす炎のリングの輪の中で踊っている。


向かって左端の手には創造を象徴する小太鼓を持ち、その腕にナ−ガ(蛇)を巻き付けている。手前の手の平をこちらに見せているのは苦しむ衆生を救おうとする姿という。髪はガンジス河の流れを表し女神と月の装飾が施されている。


次に「ネパールの展示コレクション」から、17世紀制作の「バイラヴァ」と名付けられた作品。バイラヴァとは恐ろしいの意味で、シヴァ神の恐ろしい側面を象徴的に表現したもの。


額には第三の目が刻まれ、渦巻き状の眉毛、口髭、顎鬚が生え、凶暴な様相を表している。髪飾りの装飾は繊細かつ豪華で、青い宝石で装飾されたメダリオンや唐草紋様の金細工などで構成されている。耳に、穴が開いていることから、イヤリングがあったようだが失われている。ネワール族のマッラ朝(12世紀~18世紀)によりカトマンズ盆地に成立したネワール様式で造られている。

こちらの像もネパールからの作品で「マハカラ神」と名付けられている。マハカラ神はシヴァ神が仏教に改宗した姿と言われている。ベージュの石灰岩に彩色を施して造られており、像には寄付者の名前と1293年の制作年が刻まれている。


こちらはチベットのパンチェン・ラマ像で、チベット仏教(ゲルク派)で最上位クラスに位置する化身ラマ(師僧)「ダライ・ラマ」に次ぐラマの称号である。無量光仏(阿弥陀如来)の化身とされ、転生(生まれ変わり)により後継者が定められる。こちらは1569から1662年まで継いだ第4世を記念して造られた黄金像である。


次に「アフガニスタンとパキスタンの展示コレクション」を鑑賞する。この地域で作られた彫像は、古代ガンダーラ国に因んで「ガンダーラ像」と呼ばれ、その特徴は仏陀生誕の地インドの文化を基盤にしつつも、ヘレニズム文化の影響を大いに受けていることにある。こちらの「菩薩像」は「ギメ東洋美術館」を代表するガンダーラ像で、1~3世紀頃(クシャーナ朝)に片岩で制作された高さ120センチメートルの立像である。後部に円形の光背を配し、法衣はインドで王者への敬意を示す偏袒右肩の着衣方だが、上半身がほとんど露わになっており、むしろ肉体美が強調されている。


近くで見ると、右手の指と指の間には膜(縵網相)があり、眉間には白毫があるなど仏像の特徴を兼ね備えている。一方で口元には、立派な髭をたくわえており、繊細な装飾が施されたターバン風の王冠を被り布先が光背にたなびいている。胸には連珠や様々な貴石を繋いだ様式の首飾りを付けるなど、随所にインド、スキタイ、グレコローマン、イランなどの様式が組み合わさっている。


「菩薩立像」は、パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州のマルダンから北東に約15キロメートルにある「メハサンダ寺院址」から発掘されたもの。寺院址は、中央尾根の台地にあり、会堂、厨房などの施設を持つ塔院を中心に、周りに大塔や小塔祠堂が並ぶ大規模な仏教寺院で、石彫、スタッコ像、菩薩像などの多くの像が発掘されている。

こちらは1~3世紀頃に片岩で制作された高さ85センチメートルの「弥勒菩薩像」である。円形の光背や肉体美を強調する偏袒右肩の姿は前述の「菩薩像」と同じだが、祭司階級出身をモデルとしているのか髷のある長髪で、左手には儀礼で用いる水瓶を持っている。マウリヤ朝の「アショーカ王の摩崖碑文」で有名な「シャーバズガリ」(メハサンダ寺院址から南西5キロメートルに位置)からの出土品である。


シルクロードの十字路ともいわれたアフガニスタンに位置する「フォンドキスタン仏教寺院址(Fondukistan)」から出土した7世紀後半に造られたテラコッタ製の半身像。頭部は仏像の特徴である螺髪姿だが、表情には官能さを兼ね備えた女性的な雰囲気がありマニエリスム的でもある。法衣の上から司祭のようなマント風の肩衣を身に付け、多くの宝石やネックレスで飾られている。


フォンドキスタン仏教寺院は、カーブルから60キロメートル北にあるバグラーム(コーカサスのアレクサンドリアで、クシャーナ朝の首都でもあった)とバーミヤンの中間にあるゴルバンド渓谷にある遺跡である。

同じく「フォンドキスタン仏教寺院址」からの出土で7世紀に制作された「菩薩像(或いは守護神像」。鼻が高くはっきりした顔立ちで、巻き毛の長髪に豪華な髪飾りを被り、胸元には大きな正方形の装飾品が付いた二連の首飾りを付けて、身体をやや傾け遊戯座の姿勢を取っている。左手には法具を持ち、右手は、衆生を救わんと手前に差し出している。


7世紀に制作された高さ72センチメートルのテラコッタ製だがほとんど損傷がないのには驚かされる。前述の像もそうだが、フォンドキスタン像の人体表現は細身で官能的であり、インド・グプタ朝の様式を反映している。

ガンダーラの「ハッダ遺跡」から出土されたストゥーパ(仏塔)。三層から四層で構成された仏塔で、各層には仏陀坐像の浮彫を配し、漆喰で覆われた中に彩色の痕跡が残っている。仏教複合施設を持つ僧院の中庭にあった奉納塔の一つと考えられている。ハッダ遺跡は、アフガニスタン東部のジャララバードから南方10キロメートルにあり、1世紀~2世紀に造られた後期ヘレニズム様式の仏教彫刻が多数発掘されている。


次に「中央アジアの展示コレクション」を鑑賞する。中央アジアとは、現在の西トルキスタンと東トルキスタンから新疆ウイグル自治区にかけての地域を指している。20世紀初頭、最後の未開地と言われた中央アジアに、多くのヨーロッパからの探検隊が調査に向かった。こちらに展示されているコレクションの大部分は、フランスの東洋学者ポールペリオ(1878~1945)が1906年から1909年にかけて行った探検隊による出土品である。
こちらは、クチャ(庫車/亀茲国)の石窟壁画で、8世紀後半の唐王朝時代に描かれたもの。


亀茲国とは、タリム盆地の北側(天山南路)に位置するオアシス都市で、漢王朝時代には西域経営の拠点となった。5世紀から8世紀にかけて数多くの石窟寺院が造られ、亀茲国が滅び9世紀に支配したウイグル人にも仏教信仰は維持されたが、11世紀には、イスラム王朝のカラハン朝が侵攻し、石窟寺院の仏教美術は目や口を中心に破壊されてしまう。

同じく、クチャのキジル石窟の壁画の一部。鮮やかな瓔珞を身に付けた菩薩らしき顔の一部である。


剥落している箇所が多いが、ラピスラズリを使った寒色系の彩色が鮮やかに残っている。顔立ちはどことなくペルシア風である。


クチャ郊外にある「スバシ故城」から出土した6~7世紀頃の「木製の携帯仏壇」。縦26センチメートル×横11センチメートルの大きさで、当時は、左右に脇持を持つ三尊式の仏壇だったようである。円形の光背には装飾がありインド・グプタ朝の影響が見られ、顔はガンダーラ風で、偏袒右肩の姿で衣のジグザグの縁取りには山西省は雲崗石窟の石仏の影響を受けている。クチャは、東西を結ぶ西域北道の中間に位置していることもあり、インド、ガンダーラの様式と中国仏像の様式が融合している。


クチャにあるクムトラ石窟(クムトラ千仏洞)からの出土品。クムトラ千仏洞は、5世紀から8世紀にかけて開窟され現在112窟の存在が確認されている。像は7世紀から8世紀に制作されたもので、上の胸像が菩薩像で、左側から如来頭部、比丘頭像、跪禮拝者と続いている。塑像に彩色されたものだが綺麗に色が残っている。


敦煌、莫高窟で、隋時代(6世紀末から7世紀初)に制作された「過去七仏像」(塗金銅)。仏陀が仏教を開いたのは単に一代のみの事業ではなく、過去においてすでに成道し成仏した前世の功徳が累積した結果であるされる。この像は、これまで仏陀を含めて登場した七人の仏陀を信仰する「過去仏信仰」に基づいて造られた。


北魏時代(518年)制作の河北省からの金銅仏で「釈迦如来像と多宝如来像」。多宝如来とは、過去仏の一人で、無限のかなた東方にある「宝浄国」に住する教主である。法華経の第11章(見宝塔品)には、仏陀が説法していた際、空中に巨大な宝塔が出現し、中から、仏陀を讃える多宝如来の声が響き渡り、その後、多宝如来の座を半分空けて招き入れられた仏陀は、多宝如来と並んで説法を続けたと説かれている。このように多宝如来像は、法華経信仰に基づいて仏陀(釈迦如来)と2体1組で表現されることが多い。


「中国の展示コレクション」からは東魏(534~550)時代の542年に大理石で作られた「持蓮観音菩薩像」。頬骨が張り、目は細く、僅かに笑みをたたえている。胸を引き腹を出す姿勢で、肩から上腕部に衣を纏い、一部を玉環に通して交差させている。


前述のやや後年(東魏から北斉(550~577)時代)に砂岩で造られた「菩薩立像」。表情や衣の表現は良く似ているが腹が出る姿勢は抑えられている。衣は肩から身体に沿って下がり膝下で交差した後、前腕にかけて足元まで垂れ下がっているが、腹部にある玉環は瓔珞が付いた装飾品になっている。笑みを浮かべた表情や体つきなど、法隆寺金堂釈迦三尊像の菩薩像や法隆寺夢殿の観音菩薩立像などとも似ている。


今回「日本の展示コレクション」は時間をかけて鑑賞しなかったが、縄文時代の土偶、弥生時代の埴輪、天平時代から江戸時代までの仏像彫刻、陶器、刀など工芸品も数多く所蔵されている。館内を全体で2時間ほど鑑賞したが、インドから長い年月をかけてアジア各国に広がっていった仏教の深い流れ(伝播)を、それぞれの地域に根ざして作られた一級の美術作品群を通して改めて感じさせられた。

美術館を出てからは、エッフェル塔に上り、美術館の方向を眺めてみた(矢印がギメ東洋美術館)。しかし、この日は、雨が降っており、あまり景色が良くなかった。。

(2011.12.21)
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