カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ギリシャ(その3)

2019-05-23 | ギリシャ
ペロポネソス半島の中央部を横断するE65号線でトリポリを通過した後、アルゴス・インターを出て「ミケーネ遺跡」に向かっている。オリンピアからは、約2時間、約180キロメートルの行程で、時刻は午後5時20分になった。小さなミケーネ村を過ぎると一本道となり、イリアス山の麓に目的地の遺跡群が見え始めた。
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遺跡群は左側のイリアス山と右側に見えるサラ山との麓に広がっており、駐車場東側にある遺跡入口(入園料12ユーロ)からは舗装された歩行者用通路が延びている。ミケーネ遺跡は、伝説の都市トロイアを発掘したことで知られるドイツの考古学者「ハインリヒ・シュリーマン」(1822~1890)によって1872年に発見され、この地の名をとって名付けられた。また、古代ギリシャ以前の紀元前1450年(中期青銅器時代)から紀元前1050年(後期青銅器時代)に栄えていた文明であったことが初めて確認され「ミケーネ文明」と名付けられた。1999年には「ミケーネとティリンスの古代遺跡群」として世界遺産に登録されている。
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歩行者用通路を100メートルほど進んだ左側の木々の後ろにある博物館から先に見学することにした。こちらの展示室には、ミケーネ遺跡から出土した紀元前13世紀頃の土器が展示されている。
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こちらには、ミケーネ遺跡の神殿址から出土した擬人化人形や儀式に使用したと考えられる渦巻き状の蛇などが並んで展示されている。紀元前1250年から前1180年のもので、愛らしいが不思議な姿をしている。
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こちらも同じ紀元前1250年から前1180年のもので、神殿の壁面を飾っていた女神の破片(複製)が展示されている。この壁画には、他に二女神が描かれていたが大半が失われている。
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博物館は、土器や土偶が中心で、貴重なお宝の大半は「アテネ国立考古学博物館」にあることから、さらさらっと見学して遺跡に向かった(遺跡模型はこちら。※正面が北東方面)。歩行者専用通路は傾斜道になっており、博物館の先から大きく右曲りしている。そしてその先に見えるのが、有名な「ライオン・ゲート(獅子門)」でこの門が遺跡群への入口になる。
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ライオン・ゲートは紀元前1250年頃に造られたアクロポリスの城壁門で当時の正面玄関にあたる。上部にある2頭の獅子レリーフに因んで名付けられ、彫刻としては、この時代で唯一残っている最大かつ記念碑的作品として知られている。向かい合った獅子の頭部は失われているが、中央の祭壇に前足を載せる姿は良く残っている。

ゲートの大きさは幅3.10メートル×高さ2.95メートルで、ゲート自体は、左右の大きな石柱と上の”まぐさ石”から構成され、周りにも巨大な石灰岩が積まれる「サイクロプス積み工法」で造られている。人間には建築困難で、巨人(サイクロプス)が壁を構築したと考えられたことが名前の由来らしい。
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ライオン・ゲートの先にも傾斜道は続いており、すぐ先で右下に紀元前16世紀の王室墓地(円形墳墓A)が見下ろせる。この墳墓は当初、城壁の外側に建設されたが、紀元前13世紀に拡張されてアクロポリスに囲まれた。墳墓は、二重の外壁に囲まれたサークル状で直径が27.5メートルあり、中央に6つの墓がある。それぞれの墓には男性、女性、子供と2〜5体づつ合計19体が埋葬されていた。
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墳墓のそばに行くには、ライオン・ゲートをくぐった先の右側階段を下りて二重の外壁に開けられた入口から中央部に入る。墳墓際から南側に回り込んで覗くと、小ぶりな石の積み重ねで区画された墓が確認できる。手前左側の一番大きな4号墓とその先(北側)の5号墓からは、5つの黄金の仮面(マスク)が発見されたが、その一つが有名な「アガメムノンのマスク」である。しかしその仮面は紀元前1550年から前1500年のもので、アガメムノンの活動期より3世紀早いことが近年確認されたが、呼称はそのまま残っている。4号墓からは「銀の牛のリュトン」や「金の獅子のリュトン」が発掘され、他にも金のカップ金の指輪、ボタン、ブレスレットなどの装飾品剣などの武器類などが発掘された。これらの貴重な発掘品は全て「アテネ国立考古学博物館」に展示されている。


王室墓地(円形墳墓A)に隣接して東側にも遺跡が続いている。紀元前13世紀に造られた祭祀のための関連施設址で、5つの建物から構成されていた。神殿や寺院があり祭祀官の邸宅などもあったと考えられている。博物館で見た擬人化人形や女神の壁画破片はこの場所から出土した。ちなみに、ミケーネ遺跡から出土した壁画は少なく、最も有名な壁画は「アテネ国立考古学博物館」に展示されている王宮の婦人像である。


歩行者専用通路をジグザグ状に上って行くと遠くの山々が見渡せる高さになった。ライオン・ゲートの内側、王室墓地(円形墳墓A)、祭祀のための関連施設なども良く見える。駐車場のある遺跡入口から西側には、緑のアルゴス平野の耕地が広がっている。やや左下に見える道路沿いの遺跡は、ワイン商人、油商人、武器職人、象牙職人などが住む邸宅だった。この邸宅から、最初のギリシャ文字である線文字Bも発見されている。
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この場所から数メートル坂道を上った場所にミケーネ・アクロポリスの王宮があった。前期青銅器時代(前3200年~前2000年)には既に建物が存在したと考えられているが、現在残る王宮址は、紀元前13世紀のものである。広い空間は12メートル×15メートルほどの王宮の大広間 (メガロン様式)だったとされる。その大広間の西端には小部屋があり、小部屋の南の谷側に隣接して建物(現在は大部分が崩落)が一段下に建っており、訪問者はその建物から階段を上って大広間と小部屋に入ったようだ。小部屋の北側には階段があったが、王宮に2階があったのか、北側への階段だったのかはわからない。
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丘を少し上り、北側から、全体を見ると、大広間の先に小さな前室があり、その先が王の間と長方形の敷地であることが分かる。王の間で、王は4本の円柱に囲まれた中央の円座に座って部下や客人と対峙した。
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ちなみに、サラ山の麓から南側には、アルゴス平野が続き10数キロメートル先でアルゴリコス湾に到達しているのが見える。アルゴリコス湾のかなたには山並みが連なっている。

王宮に隣接して、イリアス山側には壁画で飾られた宗教施設や王宮の付属施設があった。ミケーネのアクロポリスは、統治者を中心に地域の行政、財政、宗教の中心地として繁栄したが、現在は無数の岩が転がるだけである。


王宮の南東側には、商人、職人などの邸宅があった。その邸宅の一軒からは線文字Bも発見された。王宮から100メートルほど東側には、南北に20ほどの小部屋と通路で構成された区画がある。こちらは北側の邸宅址である。


通路を更に東に向かった谷間にサイクロプス積みで造られた城壁がある。この場所がアクロポリスの東端になる。城壁は紀元前1200年頃に北東に拡張された際に造られたもので、アーチ状のくぐり門がある。緊急時の出入口だったようだ。そして、すぐ近くに地下に下りる洞窟があり、下に泉の址(貯水槽か井戸)があることから、アクロポリスへの給水設備があったと考えられている。
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高度な文明を持っていたミケーネのアクロポリスは、紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって破壊されミケーネ文明は終焉したが、詳しいことは分かっていない。出口は、北門を出て博物館方面へ向かうルートだが、もう一度王宮側を見ようと引き返し丘の上まで戻ってきた。時刻は閉園時間の午後8時になった。他に見学者もいなくなり下山して行くと、入口に立つ男性スタッフが見える。小走りで入口に向かうと、時計を見ながら閉園だと怒っており、謝りながら退散した。

ミケーネ村を過ぎ、アルゴス平野を通る街道を暫く南下していくと、世界遺産「ミケーネとティリンスの古代遺跡群」の「ティリンス(ティーリンス)遺跡」が現れる。もう一つのミケーネ文明の遺跡だが、残念ながら時間外で入場できない。ティリンス遺跡は、靴底型の低い丘に厚く5メートルから10メートルの間の高い堅牢な城壁をめぐらしていた(遺跡模型はこちら。※北は左)。こちらは、北側にある入口からの様子で、遺跡のつま先にあたる場所になる。東側の中央部にある斜路を上り曲折を繰り返し楼門と第二の楼門をくぐって城塞中央部に到着する厳重な構えを備えていたようだ。


ティリンスから街道を更に2キロメートルほど南下すると、最初に2階建ての住宅が、続いて1階に店舗のある3階建の住宅が並び始め市街地の様相を呈してきた。遠くから見えた岩山が間近になると街道は終着点のロータリーになり、ナフプリオ(ナフプリオン)の中心部になる。そのロータリーを右折して西側の樹木の立ち並ぶ大通りから岩山の麓に続く坂道を上って今夜の宿泊場所に向かう。


坂道は右側に現れる城壁に沿ってすぐに大きく右に曲がり更に上って行く。そして左側の眼下に海が広がり始めると大きく右に回り込み広場に到着した。広場の東側には、3階建てのホテルらしき建物があるが、屋上の看板も取り外されており廃業しているようだ。背景に聳える岩山の頂部から北側斜面にかけて建つのは、パラミディ要塞(標高216メートル)で、ちょうどライトアップされたところ。要塞北側の城壁に向かうジグザグ状に続く階段も良く見える。
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パラミディ要塞は、1685年ヴェネツィア共和国が約150年ぶりにオスマン帝国からこの地を奪回し、防衛強化を目的に1714年に建造した。しかし完成翌年には再びオスマン帝国により奪い返されてしまう。長年オスマン帝国の支配下にあったギリシャは、1821年の独立戦争で、1年以上にわたる包囲戦を経て遂に要塞を奪還する。

駐車場の西側には城壁があり、側防塔の様な建造物が建っている。この丘陵地の城塞の歴史は古く、前古典期(前7世紀~前5世紀)に最初に造られたアクロナウプリアを起源とし、中世には、東ローマ帝国、フランク・ラテン十字軍国家、ヴェネツィア共和国、そしてオスマン帝国によって要塞化された。


足元は城塞の北側の外壁になり、その眼下には、ナフプリオ(ナフプリオン)の旧市街が広がり、先には、アルゴリコス湾が一望できる。ナフプリオは、南の地中海側に向いたアルゴリコス湾(長さ約50キロメートル、幅約30キロメートル)の北東端にあり、800メートルほどの長さの鳥のくちばし状の半島を持つ港湾都市である。ギリシャ独立戦争中の1829年からギリシャ王国建国直後の1834年までギリシャの首都が置かれたことから「近代ギリシャ最初の首都」として言及される。
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視線を東側に移すと、岩山の麓から続く緑(先ほど通った通り)が、新市街と旧市街の境目になっている。中世のころ境目は湿地帯(堀)で、橋で渡り城門から要塞化されていた旧市街に入場していた。今夜は足元の城塞の外壁直下に見える半屋上のテラスのあるホテル(Αmfitriti Palazzo Design)に泊まることにしている。ホテルには、左側(西側)の坂道を歩いて城門をくぐり、鋭角に右に回り込み、外壁に沿って2棟ほどの建物の横を通り過ぎた先になる。ホテルのサイトには、ホテルへの行き方を紹介するユーチューブの動画がupされている。
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ホテルの玄関は外壁沿いにあり2階建てだが、坂下に建物は続いている。チェックインの手続きが終わると、最も階下にある居室を案内された。居室前の廊下の扉口からは、旧市街側に直接下りることができる。古びて曲がりくねった細い階段を下りて隣下のホテルの横を歩き、更に階段を下りると、東西に延びる細い路地に出ることができる。何ともややこしい。。

夕食は、最初に予定していた旧市街の中心部にあるレストランに行ったが改装中で、次に海岸沿いの店先に食材が並ぶシーフードの店に行ったが、気乗りせずやめる。あちらこちらにテラスが並んでおり料理を眺めてみるが触手が伸びない。。結局、ホテル最寄りの路地の北隣の路地沿いにあるトリップアドバイザーで評価が高かったレストラン(Karima Kastro)にした。人通りが少ない薄暗い路地にあるにも関わらず、お客が多かったのが決め手になった。


ビール、赤ワイン、ロケット・パルメザン、ポークフィレ・ア・ラ・クリーム、シュリンプス・サガナキを注文したが、量、味ともに概ね満足できた。新鮮なエビが沢山食べられたのは良かった。1時間半ほど食事して午後11時半に薄暗い路地から階段を上ってホテルに帰った。


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翌朝、午前8時過ぎに朝食を食べに1階ロビーを通ってホテルの半屋上テラスにやってきた。テラスにはテーブル席があり、室内側に並べられた食材を自由に運べるビュッフェ・スタイルなっている。抜けるような青空のもと、ナフプリオの旧市街の街並みを眺めながら、優雅に美味しい朝食をいただいた。
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アルゴリコス湾の左側(西側)には街並みと重なる様に、沖の小島に建つ「ブルジイ砦」が僅かに見える。ブルジイ砦は、15世紀後半にヴェネツィア人により建てられた海上防衛のための要塞である。

ゆっくり滞在したいが、この後の行程も考え、急ぎチェックアウトする。ホテル玄関を出て外壁沿いに歩き、城塞に向かう坂道に回り込み城門をくぐって駐車場まで戻る。ナフプリオは、中世の趣が感じられる美しい街だが、この辺りはバリアフリーとはいかない。。これから新市街のロータリーから東方面に延びる街道に入り「エピダウロス遺跡」に向かう。


40分ほどで目的地の「エピダウロス遺跡」に到着した(入園料12ユーロ)。駐車場は数千台の車が駐車できるほどの広い敷地があり、周りは緑に覆われている。そして遺跡群は駐車場の東側から北側に隣接しており、高さ600メートル前後の山々に囲まれた盆地内に展開している。(案内図※北は下、駐車場は競技場の南に隣接)


「エピダウロス遺跡」は、ギリシャ神話の名医アスクレピオスを祀る聖域(アスクレペイオン)として紀元前5世紀頃から建設された。中でも最大の見所は、紀元前4世紀後半に建築家ポリュクレイトスによって建設された野外劇場で、アスクレピオスへの礼拝や、音楽、歌、各種ゲームなどが行われた。ギリシャで最も保存状態の良い劇場跡と言われ、遺跡群一帯は、1988年に「エピダウロスの考古遺跡」として世界遺産に登録されている。
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現在、毎年8月には、舞台芸術イベント「エピダウロス・フェスティバル」が開催されている。ちなみに最初の現代パフォーマンスは 1938年に公演されたソポクレス(古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人)作の「悲劇エレクトラ」で、その後、第二次世界大戦中は中止されたが、1955年からは毎年開催されている。特にマリア・カラスが登場した、1960年のベッリーニのオペラ「ノルマ」と翌年のルイジ・ケルビーニ「メデア」は注目を集めた。
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劇場の中心を構成する円形のオーケストラは直径20メートルあり、中央の石板の上からコインを落とすと、最上階の席まで聞こえるほど、音響効果に優れている。観客席は、下部ゾーン34列、上部ゾーン22列と2つのゾーンに水平分割され、12つの階段と22の階段を配置している。収容可能人数は、13,000〜14,000人となっている。


こちらは、アスクレペイオン(アスクレピオスの聖域)の中心部で「アスクレピオス神殿(前375~前370)」があった場所で、西側には、左側の円形の遺構「トロス(ティメレ)(前360~前330)※修復中」と右側の列柱の並ぶ「アバトン(紀元前4世紀)」の遺跡が並んでいる。ともにアスクレピオスへの信仰から、病気平癒を願う患者たちのために造られた至聖所で、アバトンには、160室のゲストハウスがあったことが分かっている。この聖域は、古典期(前479~前338頃)のギリシャ世界において最も注目された医療の中心地で、多くの病人たちが治癒を求めて集まったという。
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患者たちは宿泊翌日に祈願を行った後に、神官医師団の治療を受けたり、温泉やギュムナシオン(肉体を鍛える訓練所)を訪れて治癒法を処方された。また、至聖所で眠っている際に夢に神が現れ治療を施し、目覚めた時にはすっかり治癒していたという伝承もある。


アスクレペイオンはエピダウロスに繁栄をもたらし、その後、野外劇場を始め、儀式を行う際の宴会場、浴場競技場など紀元前3世紀にかけて記念建築物の建設や拡張が続けられた。

アスクレピオス神殿の南側には大宴会場の址に囲まれたローマ時代の「オデオン(音楽堂)」があり数本の柱が復元されている。宴会場の南東角からオデオン方向を眺めると、後方にトロスやアバトンなどアスクレペイオン中心を望むことが出来る。眩しい日差しの中にいると、何やら当時の繁栄ぶりが目に浮かぶようでもある。
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アスクレペイオンは、その後、海賊やゴート人の襲撃などを受けるものの、その都度繁栄を取り戻した。キリスト教が導入されギリシャの神々への信仰が禁止された後も「癒しの聖域」としてのエピダウロスは5世紀中頃まであがめられた。

2時間ほど滞在して、エピダウロス遺跡を後にした。これからギリシャ本土へ向けて、東のサロニコス湾沿いを通る国道10号線を進む。


エピダウロス遺跡から60キロメートルほどで、高速道8号線に乗り換え、すぐに、ペロポネソス半島とギリシャの本土との間の「コリントス運河」(コリンティアコス湾とサロニコス湾(エーゲ海)を結ぶ約6キロメートルの運河 )を越える。当初、コリントス遺跡(古代都市国家アクロコリントス)に寄る計画を立てていたが、これから向かう「ダフニ修道院」の見学が難しくなることから諦めた。

高速道8号線(E94号線)を50キロメートルほど東に進み、アテネ、ピレウス・インターに従い8号線(幹線)に進むと10分ほどでダフニに到着した。ダフニからアテネまでは僅か10キロメートルほどの距離となる。目的の「ダフニ修道院」は一辺100メートルほどの大きな正方形の敷地の中にあるものの、人通りが少ない8号線(幹線)の南側にあり、周りを緑に覆われていることから分かりにくい。修道院の入口は、東側にある公園内にある鉄格子のベルを押して修道院のスタッフに開けてもらって敷地内に入る。細い通路を歩くと東西の付属棟の間に中庭が現れ北側に目的の中央聖堂が現れる。
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ダフニ修道院は、中期ビザンティン建築で11世紀末の建設と考えられているが、現在は中央聖堂のみが残っている。外壁はオシオス・ルカスと同じくクロワゾネ積みとなっている。古代にはアポロ・ダフネイオスの神域があり、最初の修道院自体の設立は5世紀から6世紀の間と推定されている。1990年、他の2つの修道院とともにユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院」)。


中央聖堂と西棟との間を抜けた北西側は、岩が転がる遺構になっており、北側の8号線(幹線)側には、アーチ型の浮彫が並ぶ古びた壁が続いている。

中央聖堂内に入るには、中庭側の南口とポルチコのある西口のいずれかからが可能である。ちなみに、見学可能時間は、火曜日、木曜日、金曜日の午前8時から15時までである。


ポルチコのある西口から入場すると、ナルテクス(拝廊)になり、前方の中央ドームの下には、団体客で混雑しており身動きできないほどであった。20分間ほど混雑した中見学していたが、その後一斉に帰って行った。


聖堂内には薄く白い漆喰が塗られており、外光も合わさり、鮮やかに輝く黄金モザイクがあちらこちらで浮かびあがって見える。
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11世紀に制作された歴史あるモザイクだが、地震によって損壊し多くが失われており、現在も長い修復の最中である。。中央ドームには「全能者ハリストス」(パントクラトール)が、西側(拝廊側)を頭に厳しい顔をして見下ろしている。長い鼻は目と交差して十字架に見える。左手には福音経を持ち、右手は祝福の動作を表している。ドームの側面の窓の間には、16人の預言者が表現されている。
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ドーム周りの4か所のスクィンチには、南東角(左下)の「受胎告知」から時計回りに、「主イエスの変容」「キリストの洗礼」、そして北東側(右下)の「キリストの降誕」とモザイク画が残っている。どのモザイクも美しく残っている。
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ペンデンティブ(穹隅)北西側の壁面には、「エルサレム入城の日」が、向き合うように北東側の壁面には「キリストの磔刑」のモザイク画がある。
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そして、南側は、出入り口になり、南西側の壁面には、「トマスの不信」があり、向かい合うように、南東面には「キリストの復活」が、美術館の作品の様に美しく飾られている。
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ナルテクス(拝廊)の上部に残るモザイクも素晴らしい。南西側にあるのが、「ヨアキムの受胎告知の祈り」で、向かい側の南東側が 「主の迎接祭(聖燭祭)」、北西側にあるのが「ユダの裏切り」である。
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「ダフニ修道院」のモザイク画は、「オシオス・ルカス修道院」のモザイク画と比較して、人物表現が写実的で表情もどことなく憂いを帯びた顔をしている印象を持った。どのモザイク画も美しい色使い、構図や洗練された表現力など当時の最高峰の優れた技術を持つモザイク職人によって制作されたことが伺える。保存状態も素晴らしくビザンティン美術の大傑作である。午後3時の閉館時間まで見学したが、大変満足できた。

ところで、ダフニ修道院の見学時間の関係から通り過ぎていたが、次の目的地への時間がありそうなので、10分ほどの距離を引き返して「エレウシス遺跡(現:エレフシナ)」にやってきた。古代ギリシャのアテナイ近郊の小都市で、ギリシャ神話に登場する豊作の女神デメテルとその娘ペルセフォネ(別名コレー)の秘儀(密儀)が行われた地として知られている。秘儀は、農業崇拝を基盤とした宗教的な実践から生まれたものとされるが、儀式の詳細は不明である。
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エレフシナの目抜き通りから150メートルほど南に行った場所に遺跡入口がある。午後3時半に到着したため閉園時間まで30分しか時間がないが、せっかく来たので急ぎ見学することにした。入口を入るとすぐ南に広場があり、その奥に見える小高い丘の北東沿いに遺跡の中心地「聖域(テレステリオン)」が広がっている。古典期(前479~前338頃)にはその丘を含めて城壁が取り囲んでいたという。聖域には、10の異なる建築物があったとされ、ローマ時代には、この入口すぐの広場に聖域への入場門(プロピュライア)が建てられていた。

丘の上から東側の聖域の中心部を見下ろしてみる。中央に秘儀が行われた神殿が建ち、アナクトロンと呼ばれる聖具の保管所があった。その場所には祭司長のみが入ることができたという。
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エレウシスは、紀元2世紀にイラン系遊牧民集団から略奪を受け荒廃するが、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(在位:161~180)が聖域の修復に尽力したことから、唯一皇帝としてアナクトロンへの入場を認められた。その後、ローマ皇帝テオドシウス1世(在位:379~395)によるキリスト教の国教化政策によりエレウシスの秘儀への権威は薄れ閉鎖される。聖域内の柱の基礎の一つに、アナクトロンと表示された小さな遺物が置かれていたのが、何とも寂しい。。


閉園時間が近づいたのか、カバンを持ち既に帰り支度を整えた男性スタッフが近づいて来た。ギリシャの施設営業時間は、スタッフの勤務時間と同じため、客に対して早く帰る様に促してくるのだろう。結果、閉園時間の午後4時にスタッフと一緒に退園した。。

ピレウスから椰子の木が続く海岸線「アポロ・コースト」を南に向かう。途中のグリファダで今夜の宿泊ホテルにチェックインして、レストランの下見に向かった。グリファダは、アテネ南郊のエーゲ海に面した海岸保養地で、高級ホテルや高級ブティックなどが集まっている。1990年初頭までアメリカ空軍基地があった影響もあり、町並みや店構えなど、アメリカナイズされた雰囲気が漂っている。


最初に向かったレストランは、中心部から少し離れたロードサイド店舗で、黒服のスタッフが大勢いるワンランク上の店といった感じ。今夜は雨が降る予報だが屋根のないテラスしかないと言われ、別のレストランに向かう。こちらもロードサイド店舗だが、庶民風でスタッフの対応も良かったので午後10時に来店する旨を伝え次の目的地に向かった。

引き続き、海岸線「アポロ・コースト」を一路南下し、アッティカ半島の最南端にある「スニオン岬」に向かう。グリファダからは約50キロメートル、首都アテネからは約69キロメートルの距離となる。


50分ほど走行すると、右側に、張り出した半島が現れ、その先の丘「スニオン岬」の上に神殿が見えてきた。


案内に従い、右折して進むと駐車場に到着した。時刻は午後8時であった。駐車場から坂道をしばらく上って行くと辺りは西日を受け赤色に染まりつつあり、すでに多くの観光客が集まっている。列柱の並ぶ神殿は、ギリシャ神話の海の神「ポセイドン」に因んで建てられた「ポセイドン神殿」で海抜60メートルほどの高さの丘に聳えている。


「ポセイドン神殿」が建設されたのは、アテナイがペルシャ戦争に勝利した後の紀元前444年から紀元前440年で、政治家ペリクレス(前495?~前429年)が統治するアテナイ全盛時代を迎えていた時期になる。長方形の敷地にドーリア式の円柱が36本が建ち並んでいたが、現在は15本が残っている。一説では、6メートルほどの巨大なポセイドン銅像が奉られていたとされる。ちなみに、アテネのアクロポリスの上に建つパルテノン神殿も同時期に建てられている。


日没の午後8時半が近づいてきたころ、多くの観光客は一斉に動きをやめ、見入っていた。


北側から厚い雲が流れ込み、太陽が隠れる場面もあったが、何とか無事に美しいサンセットを眺めることができた。


サンセットと同時にスタッフがわらわら現れ、ハンドマイクを使い営業時間は終了したので早く帰ってくれと案内し始めた。余韻に浸る間もなく、全員あっという間に追い返された。。予約したレストランに戻ったのは午後9時50分であった。もう一件のレストランのスタッフが言っていた雨は降らなかったようだ。店内で1時間ほど食事して午後11時過ぎにホテルに戻った。

(2019.5.23~24)

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ギリシャ(その2)

2019-05-23 | ギリシャ
メテオラは、ギリシア北西部テッサリア地方北端にある奇岩群により形成されたキリスト教修道院である。この険しい地形は、俗世から離れて瞑想するためには理想の環境とされ、9世紀には修道士が住み始め、現在の修道院共同体は14世紀頃に成立された。現在は6つの修道院が活動中で、1988年には世界遺産に登録されている。この絶景は「ルサヌ修道院」が建つ岩山下の駐車場展望台から、北西方面の岩山上の「ヴァルラーム修道院」を眺めた様子である。
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ちなみに、左端遠方には、カストラキ村を通過して最初に現れる「聖ニコラオス・アナパフサス修道院」を望むことができる。

これから、ヴァルラーム修道院を見学することにしている。昨夜宿泊したカランバカ西地区にある「テアトロ・ホテル」から、北西部にあるカストラキ村を経由して山道を上り、聖ニコラオス・アナパフサス修道院、ルサヌ修道院を過ぎた後、700メートルほど先にある三差路を左折し、更に現れる三差路も左折すると、前方にややずんぐりとした岩山上に建つヴァルラーム修道院が見え始める。なお、左右岩山の間に見えるのがカストラキ村である。
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ヴァルラーム修道院は、14世紀に隠修士ヴァルラームが建てたのが始まりで、現在の修道院は、1541年にヨアニナ(イオアニア)出身のセオファニスとネクタリオス兄弟修道士が建立している。修道院へは、手前の岩山に造られた扉口から入場する。扉を入り岩山左側面の歩道を進むと、前方に修道院の建つ岩山が現れる。歩道は吊り橋を渡り、岩山の左回りに続く階段に延びている。階段は近年造られたもので、修道士たちは右上の1536年建造の塔に備え付けられた滑車とロープを使い上り下りしていた。現在も物資の運び上げに使われている。


吊り橋を渡りながら左側を見ると、先ほどまでいた「ルサヌ修道院」のある岩山を望むことができる。ルサヌ修道院は1545年の創立で、1950年以降は女子修道院となっている。
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階段は急だが、岩山の中腹から頂上までは距離が短いので、それほど苦にはならない。周りの景色を眺めていると空を飛んでいる様な不思議な気持ちになるが、修道院の敷地内に到着してしまうと平地にある修道院と変わらない風景である。教会堂に描かれた美しいフレスコ画が見所だが、撮影は禁止されていた。


次に、ヴァルラーム修道院の西に位置する「メガロ・メテオロン修道院(The Great Meteoron Monastery)」に向かう。三差路まで戻り、左側の上り坂を進んで行くが、この時間(午前11時半)になると、上り坂は縦列駐車の車で隙間がないほど混雑している。500メートルほど上り詰めた終着地がメガロ・メテオロン修道院の入口だが、実際には一旦、階段を下りて陸橋を渡り、前方に隣接する岩山の階段を上って行くため結構な距離がある。


階段から望む見晴らしは絶景の一言に尽きる。階段から見える「ヴァルラーム修道院」は西側からの眺めで、入口のあった東側のずんぐり形の岩山とは対照的に切り立った崖になっている。下に広がる緑が雲海の様に広がり、まるで天空に築かれた城の様に見える。


メガロ・メテオロン修道院は、14世紀に聖地アトス山から移り住んだ聖アナスタシオが開いたとされ、メテオラでは最大規模の修道院で、標高616メートルと最も高い位置にある。修道院へは、岩壁に沿って造られた階段を左右左右と上って行き、最後の洞窟通路を抜けるとドームがある教会堂に到着する。なお、手前に見える塔の頂部にある建物は、物資の輸送に使われる小屋である。
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修道院の教会堂には、1483年から1552年間に作成された美しいフレスコ画が余すところなく描かれており、天蓋飾りや振り香炉、瓔珞、羅網、幢幡などで荘厳されている。


ドーム頂部には「全能者ハリストス」と、側面には12使徒が描かれている。
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見晴らし台からは、カストラキ村全体を見下ろせる上、遠景のビニオス川や、後方に聳える標高2000メートル級のピンドゥス山脈まで見渡すことができる。今日は天候にも恵まれ最高の眺めを堪能することができた。
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こちらは16世紀の修道院の厨房の様子で、当時の調度品や煤で汚れた壁などもそのまま保存されている。


手前の展示室には20世紀初頭の修道院の暮らしや、こちらの滑車で上り下りする様子などがモノクロ映像で繰り返し紹介されており非常に興味深かった。


修道院は2か所しか見学していないが、だいたい満足してしまった。時刻も午後1時を過ぎ次の予定もあるので、残りの2つの修道院は外観だけ見ようと向かった。元来た道を今度は下り、昨夜のサンセットポイントを通過してカランバカ市内方面に1.5キロメートルほど進む。右前方に2つの修道院の内の一つ「アギア・トリアダ修道院」が見えてくると、すぐに大きく左折する三差路が現れ、右方向(南側)に向かう。

ところで、左右の奇岩群の間から見える町並みはカランバカである。カランバカの町は、この東西左右の奇岩群に挟まれたすぐ南側に三角州の様に広がっている。これから向かう2つの修道院は、その東側の奇岩群に位置している。ちなみに、4つの修道院は、西側(右側)の奇岩群の後方北西部に位置していたことから、カランバカの街並みは見えなかったというわけだ。


アギア・トリアダ修道院は、1475年、ドメティオスにより創建された。この北側から向かう車道沿いからの眺めが一番美しいと言われている。修道院へ行くには、車道から歩行者用のスロープを岩下まで下り切った後、岩山沿いにある階段を上って行くことになる。ちなみに、カランバカ市内外れからは、トレッキングコースが延びており40分ほどで行くことができる。
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その、トレッキングコースなどを含めアギア・トリアダ修道院は、1981年公開の映画「007/ユア・アイズ・オンリー」のロケで使われた。映画では、修道院の場所をアジトとする悪役クリスタトスのもとへ007(主演ロジャー・ムーア)がロック・クライミングで対決に向かう緊張感のあるクライマックス・シーンが繰り広げられた。

修道院への物資の配送は、車道沿いにあるロープウェイが使われる。この場所から修道院を眺めると、断崖絶壁の岩山の上にある様にはみえない。


最後に、道なりに600メートル南東終点には、1367年に共住の修道院として創建され、現在は女子修道院の「聖ステファノス修道院(Monastery of St Stephen)」が建っている。観光客が少ないと思ったら休館日だった。午後2時になったので出発することにした。それにしても、メテオラの観光化ぶりには驚かされた。俗世から離れて瞑想するための理想の環境とは、だいぶ様相が異なってしまったのではないか。。。


次は、ペロポネソス半島北西部の町パトラス(パトラ)に向かう。テルモピュレからカランバカまでは平坦な道程だったが、ここからは、ギリシャの背骨とも言われる「ピンドゥス山脈(標高2000メートル級)」を越え、更にイオニア海沿いを南下してペロポネソス半島に向かう合計約300キロメートルの行程となる。

まずは、カランバカからE92号線(片側一車線)をビニオス川に沿って北側のリグコス山と南側のラクモス山の間を北西方向に40キロメートルほど進み、標高1000メートル級にある国道2号線(E90号線)(片側二車線の高速道)に乗り換えて、ピンドゥス山脈西側に位置するヨアニナ(イオアニア)方面に向かう。


高地を走行する国道2号線は幾度となくトンネルが続く。道路幅も広く綺麗で走行しやすいが、サービスエリアも料金所もない。後半は下り坂が続き、山脈を越えたことが感じられる。50キロメートルほど走行した後、ヨアニナ・インターからアルタ方面に向け国道5号線を南下する。ちなみにヨアニナはイピロス地方の首府で人口約12万人、パンボティス湖の畔にある。


国道5号線沿いの、古代にアンプラキアと呼ばれたアルタの町を過ぎると、右前方に「アンヴラキコス湾」が見えてきた。東西約40キロメートル、南北約15キロメートル、西側をイオニア海に面した幅700メートルほどの湾口を持つ閉鎖性水域湾で、湾口南北には、アクティオ(古代のアクティウム)とプレヴェザの町があり海底トンネルで結ばれている。紀元前31年には、オクタウィウス(ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)がマルクス・アントニウスを破った「アクティウムの海戦」の舞台となった。


ヨアニナ・インターから国道5号線を2時間ほど南下した午後6時頃、ようやくギリシャ本土側の港町アンディリオに近づいた。前方にコリンティアコス湾が望め、対岸のペロポネソス半島に向けてリオ・アンディリオ橋が架かっているのが見える。背景には、パナチャイコ山脈(最高地点は1,926メートル)が聳えている。


連絡橋は、2004年に開通した斜張橋で、総距離では世界最長(2,882メートル)とされている。橋の建設には、深海部への橋脚の固定、地震、津波対策、プレート運動の変化などをクリアする最先端の技術が集積している。


連絡橋を渡るとアテネから延びる高速8A号線と合流し、その先のパトラ・セントレから一般道に入りパトラス(パトラ)市内に向かう。パトラは、ペロポネソス半島の北西部に位置するイオニア海に面した港湾都市で都市圏人口は約26万人、アテネとテッサロニキに次ぐ第3の都市と言われている。アテネからは215キロメートル西に位置している。

今夜宿泊予定のパトラのホテルは予約しているが、夕食場所は決まっていなかったためパトラ湾沿いの幾つかのレストランを探しに来た。夏場の海水客向けのお店が何件かあるが、気に入る店はなかったため、景色だけ眺めて後にした。ちなみに対岸に見える小高い二つの山はギリシャ本土側で、山裾に先ほど通過した国道5号線が通っている。


3キロメートルほど海岸線を南に下り、パトラ駅前を過ぎ市内中心部から東側の旧市街方面に向かった。旧市街にはダシリオと呼ばれる標高100メートルほどの緑に覆われた小高い丘があり、その南側中腹にパトラ要塞がある。古くはアクロポリスだったが、551年に発生した地震で倒壊したため、資材などを再利用し、この要塞が、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~565)の指示により建設された。

要塞の敷地は、西側(パトラ湾側)を頂角とする概ね二等辺三角形をしており、塔と門で強化された外壁で囲まれている(敷地面積は22,725平方メートル)。東側の底辺側の外壁に要塞入口があるが、この時間(午後7時)は既に閉館されていた。


要塞内の北東角(右底角)にパトラ城が建っており、入口右側の木々の後ろから僅かにその威容を望むことができた。要塞は、807年にアラブ人とスラヴ人により包囲されるが、他都市の力を借りずに撃退している。この勝利はパトラの守護聖人、聖アンデレのお陰と考えらている。


その後、要塞は第4回十字軍の後、1205年にはフランス騎士ギヨーム・ド・シャンリットのアカイア公国(1205~1432年)が所有し堀が造られ、地元のラテン大司教が1430年まで所有するが、1458年にはオスマン帝国に奪われてしまう。その後、ヴェネツィアが、奪取するが、再びトルコ人の管理下におかれ、ギリシャ独立後は、第二次世界大戦後までギリシャ軍によって使用された。現在は夏の文化イベントに使用され劇場としても利用されているとのこと。

このダシリオの丘の中腹には他にも歴史的建造物が多い。パトラ要塞から更に150メートルほど南側に下ると、スクィンチ式のビザンティン建築「パントクラトール教会」が建っている。西側にナルテクス、東側にアプスがある単純型の構造をしており、南側に教会入口からは、参道の様に直線の坂道が、Dim. Gounari通り(東西に延びる幹線道路)方向に延びている。


パントクラトール教会から直線距離で200メートル西側には、ローマ時代の奏楽堂(ローマオデオン)が建っている。第15代ローマ皇帝アントニヌス・ピウス或いは第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの治世である160年頃に建てられたとされ、現在は、部分的に再建、修復され、夏の公演やコンサートの野外劇場として使用されている。修復中の壁は、舞台背後の壁(スカエナエ・フロンス)で、その奥に半円形の座席が並んでいる。


以上、さらさらっと、旧市街を観光して、ローマオデオンから南西に400メートルほど下ったDim. Gounari通り手前に建つ今夜の宿泊場所、メゾン・グレックエ・ホテル(Maison Grecque)に向かった。


ホテルでチェック・インした後、Dim. Gounari通りを西に向かい、パトナ市裁判所の先を左折して300メートルほど行った「聖アンデレ教会」に向かった。教会の南北は緑に覆われた公園で、ファサードは広場のある西側に面している。その広場の更に西側には、パトラ駅前から続く大通りが走っており、その向こうはパトラ湾になる。

この地は、ローマ帝国の第5代皇帝ネロ(在位:54~68)治世に、聖アンデレがパトラに布教で訪れた際に捕らえられて、エックス字型の十字架で処刑され殉教したと言われている。その後、聖アンデレは、パトラの守護聖人となりバシリカ様式の教会が建てられ、世界中のキリスト教徒の巡礼の場所となった。


現在の建物は、建築家アナスタシオス・メタクサスのもと、1908年に始まり66年後の1974年に完成したもので、敷地面積1,900平方メートル、建物の長さ約60メートル×幅約52メートルあり、7,000人規模の収容人員を誇るビザンティン様式の教会である。中央ドームの頂部にキリストを象徴する高さ5メートルの黄金十字架が、そして、その四隅に小ドームが、更に東西南北に延びる身廊先端左右の小ドームを併せて合計12個所の小ドームがあり、12使徒を象徴する十字架が聳えている。


ギリシャ最大の教会でバルカン半島では、ブカレストのルーマニア人民救世大聖堂、ベオグラードの聖サヴァ大聖堂、ソフィアのアレクサンドルネフスキー大聖堂に次ぐ4番目に大きいビザンティン様式の教会とされる。この時間は午後8時を過ぎたころで、ちょうど、日の入り時間となり、教会が美しく赤色に染まりだした。

教会の内部は日の入り時間が近づいてやや暗い印象だが、ビザンチン様式の壁画とモザイクで装飾された空間は荘厳で美しい。「全能者ハリストス」や聖アンデレが描かれた中央ドームの真下には、繊細に彫刻された三層の傘に無数の電球が並ぶ巨大で豪華なシャンデリアがぶら下がっている。下部には双頭の鷲が取り囲んでいる。


内陣とアプスを区切るテンプロンは白大理石で、王門を中心に大小のイコンが二段のアーチ型の窓に飾られている。奥には、パトラの町を守るように生神女マリヤ(パナギア)が描かれている。


テンプロンに向かって左奥の祭壇には聖アンデレを象徴するエックス型の十字架が飾られている。周りには、最近修復されたのか一面美しいフレスコ画で覆われている。祭壇左側には、エックス十字架を持つ聖アンデレや、アプスには、この地で処刑され殉教する聖アンデレの姿が描かれている。


20分ほど見学して、再びDim. Gounari通りまで戻り、レストランを探しつつ歩いたが、エクスペディアの評価と客層やお店の雰囲気の良さ等からリストランテ・サルメリア(salumeria Ristorante)で食事をすることにした。パトラ中央広場のゲオルギオス1世広場(Georgiou I Square)からMaizonos通りを100メートルほど南側の路地に入った静かな場所にある。


飲み物はビールやワインを頼み、料理はサラダイカポーク肉を頼んだ。非常に美味しかったが、イカの量が少ないのが残念だった。デザートが無料サービスなのが嬉しかった。1時間ほど滞在した。

ホテルは、東に向け路地を500メートルほど歩いて、突き当りを右折した所である。方格状に道路が通っているが、細い路地ばかりで、薄暗くやや怖い雰囲気である。ホテルすぐ近くには、旧市街の坂道に美しくライトアップされた「Ekklisia Pantanassa教会」が建っていた。ちなみに教会に向かって左先隣りには、階段が続き、上った先にローマ時代の奏楽堂(ローマオデオン)がある。


******************************

翌朝、8時前に朝食を食べ、9時前にホテルを出発した。これからオリンピア(オリュンピア)に向かう。Dim. Gounari通りを西に向かい、パトラ-Bインターから高速道路5号線(E55線)に乗りピルゴス方面に向け南下する。快適な片側2車線の高速道だったが、10キロメートルほどで片側1車線の9号線(E55線)となった。


ピルゴスの手前から74号線に乗り換え山間部に向け約20キロメートル進むとオリンピアに到着した。パトラのホテルからは120キロメートル(2時間ほど)の行程だった。目的地のオリンピア遺跡群は、隣接する小さな町、アルヘア・オリンビアの目抜き通りを南下した車止めから、ツアーバス専用駐車場を抜け歩道を450メートルほど東方面に歩いたところにある。なお、一般駐車場は、車止めの手前を左折して300メートルほど離れているため、近場に駐車するなら縦列駐車になる。

オリンピアは、ペロポネソス半島西部に位置し、古代オリンピックが行われた場所で、数多くの遺跡が発掘されている。1829年にフランス人考古学者により始められ、19世紀にはドイツの発掘隊も加わり貴重な彫像などが発見された。20世紀半ばには競技場跡が発掘され、1989年には「オリンピアの考古遺跡」として世界遺産に登録された。

最初に、車止めからすぐの場所にある「古代オリンピック歴史博物館」を見学して、遺跡群に向かった。入口はクロノス山(標高113.9メートルだが、遺跡との高低差は50メートルほどの小さい丘)の西側にあり、入場後は南に延びる道幅8メートルほどの広い砂利道を左右に広がる遺跡を見学しながら進んでいく。こちらの地図(下が北)では、①と⑲の間の通路を南に向かっている。


入口から100メートルほど進んだ左側にある遺跡は「プリタニオン」と呼ばれ、紀元前4世紀、マケドニア王フィリッポス2世によりギリシャ統一を記念して建造された古代オリンピックの評議会の事務所で、大祭のときには迎賓館として使用された。背景に見える柱はヘラ神殿で、右側に見える柱は「フィリペイオン」と呼ばれる円形神殿の址である。


砂利道を進み、左折すると、すぐ左側に「フィリペイオン(円形神殿)」が現れる。こちらもマケドニア王フィリッポス2世による奉納で、息子のアレキサンダー大王治世で完成したとされる。遺跡の重要な領域は、180メートルほどの不規則な四角形で北側のクロノス山側を除き、東西南は壁に取り囲まれていた。このフィリペイオン(円形神殿)は、その領域の北西角にあたる。


そのフィリペイオン(円形神殿)の東隣に、紀元前590年頃に建てられた「ヘラ神殿」の址が残る。神殿は、ギリシャの神々の女王ヘラに捧げられたギリシャで最も初期のドーリア式寺院の一つで、縦50メートル×横18.75メートル×高さ7.8メートルの大きさだった。当初、柱は木材だったが、腐敗や劣化により、徐々に石の柱に置き換わったと考えられている。4世紀初頭の地震により破壊された。


ヘラ神殿の更に東隣の足元にはロープで囲まれた聖火採火壇址がある。近代オリンピック(1896年アテネ開催)における聖火はこの場所で凹面鏡を用いて太陽から採火されている。


ところで、古代オリンピックの始まりは紀元前8世紀に遡る。伝染病の蔓延に困ったエリス王イフィトスが、争いをやめて「オリュンピア祭」をせよと「デルポイの神託」を受けた事に由来すると伝えられている。これがゼウス神への奉納競技の始まりで1000年以上、293回に渡り行われたが、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世の異教神殿破壊令により393年開催が古代オリンピック最後の年となった。

聖火採火壇址の北側のクロノス山麓の緩斜面には、ニンファエウム(泉の神ニンフを祀る神殿)の址がある。2世紀にギリシャ人の貴族でローマの元老院議員であったヘロディス・アッティコスと、妻のアスパシア・アニア・リジラが奉納したもの。ヘロディス・アッティコスは、多くの建築プロジェクトに資金を提供したパトロンで知られている。現在は、半円形の基壇のみが残っているが、当時はその上に11の壁龕が2段に並び、その中にローマ五賢帝の像などと共にヘロディス・アッティコスや家族の像も飾られていた。


この辺りで、復元模型図(南側上空から北方面を俯瞰するイメージ)を見ると、遺跡群の位置関係が分かりやすい。

聖火採火壇址の東隣には、メトロンと呼ばれる母神に捧げられた小ぶりな神殿址がある。そして、クロノス山麓の緩斜面の中央に見えるニンファエウムの右側に建つ柱と壁面から東側へ約100メートルの間にギリシャの各ポリスの宝物庫が12棟並んでいた。


メトロン址を過ぎ、更に東側に進むと、左右を石垣で囲まれた通路があり、右側にも大規模な建造物の址が南側に続いている。通路を覆うアーチが、北東部の壁になる。その壁を過ぎ通路を進んで行くと、その先には古代オリンピックのスタジアムが広がっている。


スタジアムは、長さ212.54メートル×幅30~34メートルで、現在の陸上競技のように、トラックの一端に白いブロックが配置され、競技者が並んで、レース開始するための起点として作られた。更にコースは、走りやすい様に固い粘土で作られた。2004年のアテネ・オリンピックではこのスタジアムで男女砲丸投の競技が行われた。


再び遺跡中央の領域内に戻り、大規模な建造物の址に沿って進み南端から振り返って全体を見てみる。この遺跡は「エコ・ストア」と呼ばれる屋根付きの柱廊を持つ南北に100メートルほど続く大きな建物で、古代ギリシャでは、商品の販売や展示、宗教的集会や公開集会など、様々な用途で使用された。現在は中央に復元された柱が一本建っているだけである。なお、北側にはクロノス山が見え、エコ・ストアの東側には、東領域の壁が続いており、その背後にスタジアムの緑が広がっているのが見える。


この辺りで、復元模型図(南側上空から北東方面を俯瞰するイメージ)を見ると、遺跡群の位置関係が分かりやすい。

「エコ・ストア」の南側から遺跡の中央付近に進むと「ゼウス神殿」の正面階段があり、その手前やや南側に柱が復元されており「勝利の女神ニケ」の像が飾られていた

ゼウス神殿は立入禁止になっており、全体像を理解するには、南側に回り込み、東南角から斜めに見ると分かりやすい。紀元前470年頃(紀元前457年に完了)にエーリス出身の建築家リボンによりドリス様式で建てられた(東西64.12メートル×南北27.68×高さ20.25メートル)もので、主要な構造は質の悪い地元の石灰岩であったらしく、大理石に見える様にスタッコの薄い層でコーティングされた。屋根は、ペンテリック大理石のタイルで覆われ、半透明になるほど薄くカットされたため、外光が内部に届き明るく照らしていたとされる。


神殿北西側の柱が1本だけ復元されてている。基壇の上には、外側に6本×13本の柱が配置され、内部には、7本の柱が2列に並び、3つの通路を形成していたという。フィロンによる世界の七不思議の一つであるゼウス像(座像で全長は約12メートル)が存在したことでも知られる。1950年代に制作者のペイディアスの工房がゼウス神殿から100メートル西で発見されたことから信憑性が高まった。


遺跡群を出て200メートルほど北に行ったクロノス山の北西側の麓に「オリンピア考古学博物館」がある。博物館には先史時代からローマ時代までの大理石の彫像や銅製の像、鎧兜、ガラス製品などが12室の展示室におさめられている。


こちらの展示室には、紀元前7~前8世紀ごろに制作されたブロンズ彫刻を中心に展示されている。中央には、翼のある女性像で、目には骨がはめ込まれている。ブロンズ製の大鍋や鼎の上部に取っ手として取り付けられていたライオンの頭部やグリフィンの頭部が多く展示されているが、これらは奉納品として制作された。

ブロンズ彫刻では、他にも紀元前490年のマラトンの戦い(紀元前490年)にアテナイ・プラタイア連合軍が勝利したことを記念して奉納された兜群が展示されている。

紀元前5世紀初めの「アテナ女神の頭部像」。アテナ女神は、蓮の花で飾られたヘルメット風の王冠を被っている。巨人族と戦う場面を表現した一部と考えられている。


紀元前480~前470頃の「ゼウスとガニュメーデース(ガニメデ)」で、破風の形をした土台の上に立っている。ゼウスは右腕でガニメデを右腕下からしっかりと抱きしめ、左手には木製の杖を持っている。服装は、上半身は裸で、左腕と腰には長い赤色のチュニックをゆるく掛けており突き出した左足は裸足である。
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ゼウスが被る帽子からは髪が覗いている。表情はかすかに笑みをたたえ、鋭い顎に残る濃い茶色髭が印象的である。一方、ガニメデの体は多数の断片から再構成され表情は緊張しつつも物思いにふけっている。やや広めの鍔のある帽子を被り、長い髪は肩に垂れ下がり、左手に雌鶏を持っている。1878年にスタジアム南西側と西側の2か所から発見された。


ガニュメーデース(ガニメデ)は、トロイアの王子だったが、大神ゼウスは、その美しさにほれ込み、王子をさらって、永遠の若さと不死を与えてオリュンポスの神々の宴席給仕係としたとされる。

紀元前425~420年にギリシャの彫刻家パイオニオスによって作られた「勝利の女神ニケ」像。パロス島産大理石(パリアン)で作られたこの像は、大きく破損した破片から復元されたが、顔、首、腕、左脚の一部、翼などは欠けている。


像は1875年から76年にかけてゼウス神殿正面口(東側)の近くで発掘された。もともと像は三角形の柱の上に立っており、柱を含め、12メートルもの高さに及んだという。「メッセニア人とナウパクティア人は戦争の戦利品からこの像をゼウス・オリンピオスに捧げた。メンデのパイオニオはそれを作り、彼はまた寺院のアクロテリアを作るための競争に勝った」と記されている。
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「勝利の女神ニケ」の正面には、ひと際大きな展示室があり、ゼウス神殿の東西のペディメント(破風)を飾っていた彫刻とメトーブ(壁面装飾)が展示されている。


「勝利の女神ニケ」に向かって右側には「ラピテス族とケンタウロスの戦い」の場面を表現した彫像群で、ゼウス神殿の西側に飾られていたものである。神殿の巨大さを体感できる迫力ある展示方法である。
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アポロン神を中心に、左右にはラピテース族の王ペイリトオスと友人のアテナイの王テーセウスの頭部と剣を振りかざした腕のみが残っている。それぞれの王がケンタウロスと争う迫力ある姿が表現されていたのだろう。
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剣を振りかざすペイリトオスの左隣には、彼の花嫁デイダメイアがケンタウロスの一人エウリュティオーンに襲われそうになっている瞬間がリアルに表現されている。

対して、神殿正面東側の破風を飾っていたのは、「オイノマオスとペロプスとの戦車競走」で、ゼウス神を中心に左右にオイノマオスとペロプスが並び、その左右にステローペ女神とヒッポダメイア女神が、更にその左右に双方の乗る馬車が並んでいる。戦車競走前の整列した姿を表現しているようである。
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神殿を飾っていたメトーブ(壁面装飾)は、展示室前後に6枚ずつ、ヘラクレスの十二の功業(前470~前456)が展示されている。多くは損傷が激しいが、こちらの「ヘスペリデス(ニンフたち)の黄金の林檎」は比較的良く残っている。アテナ女神とアトラスが天空を担いだところでヘラクレスが林檎を取って行く場面だが、壁面装飾とは思えないほどに写実的に深掘りされているのが分かる。


「幼いディオニューソスを抱くヘルメス」。上に掲げた右手は失われているが、抱きかかえる幼児に一房のブドウを与えようとしている姿といわれている。美術史家の間では、プラクシテレス作の真贋論争が続いているが結論が出されていない。プラクシテレスは、紀元前4世紀の最も有名なアッティカの彫刻家で、初めて等身大の女性ヌード像を作った彫刻家である。プラクシテレスの作彫刻は現存せず多くの複製が残っているものとされる。
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ヘルメスの顔や胴体は、美しく光沢を放っており、非常に洗練された作品である。西暦3世紀後半に発生した地震により失われたが、1877年、ヘラ神殿址で木の幹に寄りかかっている姿で発見された。
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こちらの展示室の中央には、ローマの元老院議員ヘロディス・アッティコス夫妻が建造したニンファエウム(泉の神ニンフを祀る神殿)を飾っていた、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)ポッパエア・サビナ(第5代ローマ皇帝ネロの2番目の妻)ヘロディス・アッティコスの娘などの彫像群に加え、泉の中央部に飾られた牡牛の彫像などが展示されていた

(2019.5.22~23)

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ギリシャ(その1)

2019-05-21 | ギリシャ
今朝、アテネのオリンピア・ホテルを出発し、E75号線(アテネからテッサロニキ方面に向かう幹線道路)をティーヴァ(テーベ)まで進み、3号線を経由しリヴァディアから48号線を西に向かっている。正面にパルナッソス山(2,457メートル)が迫ってくると、道路標識(直進-デルフィ 22、右折-ディストモ 2、オシオス・ルカス 12)が現れた。これからオシオス・ルカスを見学した後、デルフィに向かう予定だ。


ところで、昨夜は、アテネから南西12キロメートルに位置する港町ピレウスの星付レストラン「Varoulko」で夕食を頂いた。料理は海岸沿いに位置しているため新鮮な魚がお勧めで、予想どおり新鮮な素材と独自のソースとの絡みが絶妙で大変美味しかった。ちなみに、アミューズ生牡蛎前菜メイン1メイン2デザートとギリシャ滞在初日から大贅沢してしまった。料理はスムーズに提供されたが、店内は混雑していたこともあり、ほとんどサービスしてもらえなかったが、星付としてはどうなのか、若干疑問が残った。。

さて、48号線の下をくぐって南下すると、小さな町ディストモに到着する。そのまま市内を過ぎると南東方面の山に向かう道になる。狭い山道を進んでいくと10分ほどで「オシオス・ルカス修道院」の駐車場に到着した。オシオス・ルカスは10世紀に設立されたギリシャ正教の修道院で、中期ビザンティン建築の傑作と言われる聖堂と、11世紀に制作されたモザイクが見所である。1990年には、他のギリシャの2つの修道院(ダフニ修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院)とともに世界遺産に登録されている。


駐車場は修道院を見下ろす高所にあり階段を下りて向かうことになるが、階段からは広大な景色が広がっている。オシオス・ルカス修道院は、500メートル級の山の中腹に位置しており、南側は、僅かに支線が見える以外に建造物は見当たらず、山々に囲まれた盆地となっている。天候の良さもあり癒される眺めである。


階段を下りると、左側(右側に公衆トイレ)に大きく回り込んで続く参道となる。右側には、木々が覆い茂る公園が広がっている。参道を70メートルほど進むと、前方に建つ鐘楼の右下にアーチ門があり、くぐると修道院に到着する。


アーチ門の手前を右側の公園方向に歩いて行くと、修道院内の建物が接近して建っている。その前面の平屋建て建物は「修道院美術館(美術館棟)」で、その奥に瓦屋根で覆われた平たく幅広なドームを持つ教会堂「中央聖堂」が建っている。


修道院は「克肖者(聖)ルカス」(896~953)に因んで名付けられた。克肖者ルカスは、アラブ人に統治されていたクレタ島の東ローマ帝国による再征服(961年)を予言し的中させたことや、死後、身体から奇跡の香油が出ると言われたことから、奇跡を求めて多くの巡礼者がこの地を訪れた。この地には、961年から966年頃に「生神女聖堂(テオトコス)(旧ハギア・バルバラ聖堂)」が建てられたが、その後、1048年に克肖者ルカスの墓の上に現在の「中央聖堂」が建てられた。

アーチ門をくぐると、正面の前庭を取り囲んで、北西側にL字状の「修道士宿舎棟」が建ち、東側に公園から見えた教会堂「中央聖堂」が建っている。「中央聖堂」の南北側面には、フライング・バットレス(飛梁)が南側の美術館棟と北側の修道士宿舎棟と直結し耐震補強している。先に建てられた「生神女聖堂」は、北側の飛梁の奥に「中央聖堂」と「修道士宿舎棟」と連結して建っている。


「中央聖堂」は、サイズの異なる大きな白い石と小さな紅レンガを交互に積み重ねたビザンティン建築様式で造られている。近くで見ると石とレンガの配置がバラバラと手作り感満載だが、全体を通して見ると気持ちが落ち着いてくる不思議さがある。
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中央上部のティンパヌムには、ベッドに横たわる聖人と周りに大勢の教会関係者らしき人物が集まっている場面が描かれている。横たわるのは、克肖者ルカスだろうか。天井部(アーチ下部)には、蛇でかたどられた円を中心に唐草文様が描かれている。


中央にある扉から聖堂に入ると、南北にかけてナルテクス(前室)があり、天井は美しいモザイクで覆われている。中央身廊側の扉上部には「全能者ハリストス」が、そして左右には「磔刑」と「復活(アナスタシス)」が、ヴォールト天井には「聖人のメダイヨン」が表現されている。北面の光取りの上にはキリストが弟子の足を洗うという「洗足」の場面があり、


南面の光取りの上には、「トマスの不信」(キリストの復活を目撃していない聖トマスが主の傷痕に指を差し入れるまで復活を信じないと語る)がある。多くのモザイクが綺麗に残っており、見ごたえがある。
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前室から身廊部に入ると、聖堂は正方形を基礎とした内接十字型で、中央ドームの四隅にスクィンチ(四隅の上部を埋めてドームを構築する土台とする。)を架けた中期ビザンティン建築特有の様式で建てられている。


東側にある主祭壇上部のアプスには「聖母子像」のモザイクがある。繊細なモザイクピースの組み合わせによる聖母子の表現は、ビザンティン美術の傑作とも言える。そして、その上部ヴォールトには「聖神降臨」のモザイクがある。鮮やかな黄金モザイクは眩しい輝きを帯びている。
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中央ドームは直径9メートルあり「全能者ハリストス」と「天使」が描かれている。なお、ドームは1593年の地震で崩落し、その後再建されたものだがやや色落ちするなど劣化が見られる。
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ドーム周りの4か所のスクィンチの内、3か所には、南東側に「主の迎接祭(聖燭祭)」が、西南側に「キリストの降誕」が、北西側に「キリストの洗礼」と美しいモザイクが残っている。ヨハネから洗礼を受けるキリストの周りを流れるヨルダン川もモザイクで細かく表現されているのには驚かされる。
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ちなみに、北東側の漆喰がむき出しになっている1か所には、「生神女福音」の場面があったとされている。

北側の側廊天井にも美しく輝くモザイクで溢れている。また、リブやアーチ下部の幾何学文様や花文様の色彩コントラストはため息がでるほど美しい。そして東側を向いて黒修道帽に黒装束姿で両手を挙げる聖人のモザイクは「克肖者ルカス」である。
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そしてその先にある黒大理石の上には、自身のモザイクと向かい合うように「克肖者ルカス」のお棺が置かれている。お棺はガラス張りで、中には、黒装束で全身を覆われたルカスが西側を頭に横たわっている。黒装束から左手だけが出ていたのが、少し怖かった。。


克肖者ルカスの墓の足元側にある廊下は、北側に連結している「生神女聖堂」に繋がっている。「生神女聖堂」にもモザイクがあったとされるが現存していない。壁面には漆喰仕上げはされておらず(剥落?)、積み上げられた煉瓦がむき出しで、その壁面にイコン画が飾られている。


天井のドーム自体は小さいが、周りに縦長の窓が並んでいることから外光がよく入り明るくなっている。


中央聖堂を出て美術館側と繋がる飛梁をくぐると更に二本の飛梁が美術館に繋がっている。その飛梁の間にクリプトの入口がある。


ちなみに、三本目の飛梁をくぐり、中央聖堂の北東側を見ると「生神女聖堂」のドームが見える。ドームは、中央聖堂のドームより小ぶりだが、かさ高で、各側面には白を基調にとした二連アーチ窓が取り囲んでいる。


では、階段を下りてクリプトに行ってみる。


クリプト内には、多くのフレスコ画が描かれているが、特に天井画は、近年描かれたかの様に美しい色彩を留めている。フレスコ画の大半は、中央聖堂が建てられた1048年頃に描かれたとされ、中期ビザンティン時代から生き残った最も完全な壁画とも言われている。
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色彩を当時のまま留めたのは、数百年の間、ほこりで覆われて隠されていたためで、1960年代にギリシャ考古学局による清掃を受けたことにより、当時の美しい色彩を現代に蘇らせた。
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「克肖者ルカス」は、死後も奇跡の治療者、預言者と崇められ、特にクリプトは奇跡を望む人々にとって最も重要な巡礼場所となった。奇跡を望む巡礼者がクリプト近く或いは隣接する部屋に6日間滞在したという記録も残されている。


モザイクの素晴らしさに圧倒されて、2時間近く滞在してしまった。急ぎ、ディストモを経由して48号線まで戻り西方向に向かうと、道路はぐんぐんと上って高度900メートルほどまで上り詰める。前方のパルナッソス山麓には階段状にアラホヴァの町街並みが続いているのが見える。アラホヴァは、見晴らしがよく登山客やスキー客で観光客が多く訪れるとのこと。この町を通って10キロメートルほど下った渓谷沿いの斜面に次の目的地「古代ギリシャの聖地デルポイ(デルフィ)」がある。


すぐに、聖地デルポイに到着した。渓谷を通る48号線のすぐ北側がデルポイ遺跡の入口になる。デルポイは、古代ギリシャのポーキス(フォキス)地方にあった都市国家(ポリス)で、パルナッソス山南側の麓(標高500~600メートル)に位置している。チケットを購入してゲートから入場すると左方向に砂利道の上り坂が続いている。遺跡群は、東西に続く段丘崖の下の傾斜面に階段状に展開していることから、遺跡内の通路をジグザグに上りながら見学していく。1987年に「デルフィの考古遺跡」として世界遺産(文化遺産)に登録された。


アゴラ(公共空間としての広場)やアテナイ(現:アテネ)、アルゴス、コルキュラなど各ポリス(都市国家)から奉納された記念塔などの遺構が続き、途中にデルポイが「世界のへそ(中心)」と信じられていたことからシンボルとされた円錐状のオブジェや、「アテナイの宝庫」などの遺跡もある。宝庫は、マラトンの戦い(紀元前490年、アッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い)での勝利を記念して建てられた。
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入口から上り坂を300メートルほど進むと、古代ギリシャで最も重要な神託所「デルポイの神託」があったアポロン神殿の6本の柱のそばに到着する。
古代より、ギリシャでは、神殿の巫女の口をかりて伝えられる神託(アポロン神の予言)は、真実のものと尊ばれ、各ポリスでは政治・外交の指針を神託に求めていた。アポロンの巫女は「シビュラ」や「ピューティアー」と呼ばれた。例えば、ピューティアーは、洞窟の戸口に置いた三脚台の椅子に座り、岩の裂け目から立ち昇る霊気を吸って、恍惚の境地に至り、難解な言葉で神託を告げ、そばにいる男性司祭により解読され謎めいた予言として伝えられたという。


アテナイの執政官を務めたテミストクレスは「木の壁によれ」との神託を受け、三段櫂船「木の壁」を建造し、「サラミスの海戦(前480年)」でペルシアの王クセルクセス1世(在位:前486~前465)が率いるペルシア艦隊を打ち破ったが、神託の内容は様々な解釈を呼び、木の壁をアテナイの城壁と解釈し市内に残った一部の市民は、ペルシア軍により滅ぼされる結果ともなっている。ちなみに三段櫂船とは、櫂の漕ぎ手数十名を上下3段に配置して高い速力を得たガレー船のこと。

6本の柱の東側には、青色の渦巻き状の柱「プラタイアイの戦勝記念碑」が立っている。サラミスの海戦の翌年の紀元前479年、ペルシア残存勢力とペルシア側についたギリシャの諸ポリスに対して、スパルタ、コリントス、アテナイなどのギリシャ連合軍が出撃し撃退したことを記念して建立された。渦巻きは、3匹の蛇が巻きついた姿で、頂部には三匹の蛇が鎌首をもたげ、三脚の鼎の脚を支えていた


初代となるアポロン神殿は、紀元前6世紀に建設されたが、その後、火災や地震などの災害を受け、その都度再建された。現在の神殿は紀元前373年に地震と火災で破壊した5代目神殿の後を受けて建てられた6代目のもので、幅23メートル、長さ60メートルのドリス式の神殿である。こちらは、アポロン神殿東側の6本の柱とプラタイアイの戦勝記念碑を坂の上から眺めた様子である。


デルポイの神託は、キリスト教を国教化したことで知られるローマ皇帝テオドシウス1世(在位:379~395)治世の390年に、役目を終えたとされる。同時に、アポロン神殿の多くの彫刻や芸術作品は破壊され、その後は、多孔質の石や柔らかい素材の石灰石が使用されていたこともあり、崩壊が他の遺跡よりも早く進んでしまったという。


アポロン神殿のすぐ上には、「円形劇場」が、建てられている。もともとは紀元前4世紀に建てられたが、紀元前160年ごろと、67年に皇帝ネロが訪れた際などに改築され現在に至っている。座席は、下部ゾーン27列、上部ゾーン8列と2つのゾーンに水平分割され、6つの階段を配置している。収容可能人数は、約4,500人となっている。


東側の坂道を上り詰めた「円形劇場」の上部から見下ろすと、アポロン神殿全体から遠景の山々の絶景が見渡せる。円形劇場からの観覧はさぞかし、気持ちが高揚したことだろう。


少し上ると、広い段丘面があり、西方向に直線の砂利道が延びている。その砂利道に沿って右側(崖側)に巫女の名前に因んだ「ピューティアー競技場」がある。 紀元前4世紀後半に建てられたもので、東西177メートル、南北25.5メートルの大スタジアムである。この東側が、競技のスタート地点だったとことから、アーチ屋根など構造物を支えていた址らしき遺構が残っている。収容人数は約6,500人で、現在も北側観客席は山の斜面で支えられ綺麗に残っているのが見える。逆に、南側は壁が建てられ観客席が作られたため崩壊している。


この地で開催された競技会は「ピューティア大祭」と呼ばれ、全ギリシャから市民が訪れて開催された。大祭は8年に一度開催される音楽競技をアポロン神に奉納していたが、後に体育競技を加え4年に一度の大祭に変更された。ちなみに古代ギリシャでは、他にもオリュンピア大祭、ネメアー大祭、イストモス大祭と合計4つの競技大祭があった。

再び、遺跡内の通りを戻り下山し、


48号線を500メートル西に進んだ右側にある「デルフィ考古学博物館」に向かった。ギリシャの主要な博物館の一つでギリシャ文化省が運営している。 1903年に設立され、何度か改装され現在に至っている。後期ヘラディック(ミケーネ)時代(前 1600~前1065頃)からビザンチン時代初期(4世紀から6世紀頃)までの発掘品が14の展示室に収められている。


「第3展示室」には、アルゴスの彫刻家ポリメデスにより紀元前610~前580年に制作された「クレオビスとビトン像」が展示されている。クレオビスとビトンとは、歴史家ヘロドトスによる「歴史」第1巻に登場するアルゴス出身の兄弟である。兄弟の母キューディッペーがヘーラー祭を見に行く際、車を引く牛がいなかったことから、兄弟が牛の代わりに車を引いて8キロメートル先のヘーラー神殿に母親を連れて行った。母は孝行息子の栄誉をたたえるようヘーラー女神に祈願すると、その夜、兄弟はヘーラー神殿で永遠に眠りについた。この孝行話を聞いたアルゴスの人たちは兄弟を称え銅像を作ってデルポイの聖域内に納めたという。


「歴史」の中で、ソロン(ギリシャ七賢人の一人)は、クレオビスとビトンの兄弟を、幸福な者の代表格として挙げており、ソロンは、人間の幸福とは富や権力の有無や、日々の幸・不幸に関係なく、栄誉の絶頂で亡くなることこそが幸福なのだと教えている。

「クレオビスとビトン像」は、アルカイック期のクーロス像(青年の裸身立像)だが、アルカイック・スマイルより前の時代に制作された貴重な作品で、がっちりとした体躯で力強さを感じる。これほどの像が2500年以上も前に造られたことは驚嘆に値する。


「第5展示室」には、特徴的な上向きの羽を持つ女性姿のライオン「スフィンクス像(前575~前560)」(高さ2.32メートル)が展示されている。紀元前560年頃、ナクソス人によるアポロン神殿への供物として神殿の隣(中央基壇の南側斜面に隣接する台座)に建てられたもので、当時は高さ10メートルの柱の上に立っていた。1860年と1893年にアポロン神殿のそばから発見された。


「第6展示室」には、アポロン神殿を飾っていたペディメント彫刻などが収められている。


こちらは「第11展示室」で、古典期(前450頃~前330頃)と、ヘレニズム時代(前330頃~前30頃)の作品が展示されている。


展示室にひと際高くそびえる像は、1894年にアポロン神殿の東と北東のテラスから発見された「踊り子像」。アカンサスの茎と葉で装飾された土台の上に、高さ2メートルほどの3人の女性がリズムをとりながら手を挙げ踊っている。紀元前330年頃に作られ、高さ約13メートルの柱の上に飾られていた


「踊り子像」の隣には遺跡内にあった「世界のへそ(中心)」のオリジナルが展示されている。レプリカの円錐状の形とは異なる上に、網目風の浮彫文様が施されている。


「第12展示室」には、ヘレニズム後期およびローマ時代の作品が展示されている。こちらの美しい青年像は、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)の愛人として寵愛を受けた「アンティノウス(111~130)像」である。彼は20歳以下でナイル川で溺死したと伝えられるが、詳細は謎に包まれている。ハドリアヌス帝により神格化されたことから多数の芸術作品で表現されている。像は、1894年に、アポロン神殿と並ぶレンガ造りの部屋の壁面に立った姿で発見された。


「第13展示室」には「デルフィ考古学博物館」を代表する有名な「デルポイ(デルフィ)の御者像」を展示するフロアになっている。1896年にアポロン神殿から、手綱、戦車、馬などの破片と同時に発見された。発見時の像は頭と上半身、下半身、右腕の3つに分かれていたという。


御者像は、数少ない青銅彫刻の一つで、シチリアのゲラの僭主ポリュザロスが、ピューティア大祭(紀元前470年開催時)に於いて4頭立て2輪戦車競走に優勝したことを記念して、アテナイで鋳造され奉納されたものである。
その後、土の堆積や地震などにより地中に埋れ、馬は失われたが、像自体は現在も美しい姿を見せてくれる。御者のモデルは、背が高くスリムな体形の青年で、ハンサムな顔立ちをしている。目に象眼細工のガラスがはめ込まれいるためか、見る角度で表情が微妙に変化する。またまつ毛まで表現されているのには驚かされた。
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後ろから見ると、幅の広いベルトをウエストの上部で締めつけており、上半身は、レース中に衣服が風に揺れるのを防ぐため背中で”たすきがけ”している。細部にわたるまで写実的に表現されており、ギリシャ彫刻の最高傑作の一つとも称されていることは大いに頷ける。展示室の壁面には、馬車に乗る御者姿の絵が展示されている

名残惜しいが時刻が午後3時45分と予定時間を過ぎたこともあり次に向かう。。

デルポイ(デルフィ)を出発し、すぐ現れるデルフィの町並みを通過すると、左側にコリントス湾が見えてきた。デルポイは、巨大なパルナッソス山の南側にあることから、古代の人々の多くは、コリントス湾をデルポイ訪問への拠点としただろう。その後、48号線は山間沿いのカーブが続き急降下していく。


南北に延びるE65号線(コリントス湾から中央ギリシャを南北に横断する幹線道路)を80キロメートルほど北上すると、マリアコス湾が見えてくる。これからE65号線を経由して150キロメートル北部に位置する「メテオラ」に向かうのだが、その前にマリアコス湾沿岸近くに位置するテルモピュライに寄る。


交差するE75号線(アテネからテッサロニキ方面に向かう幹線道路)と並行する1号線を東に1キロメートルほど行った通り沿い北側にある公園が目的地である。そこには、紀元前480年、スパルタを中心とするギリシャ軍とペルシアの遠征軍との間で行われたペルシア戦争の一つ「テルモピュライの戦い」が行われた地を記念してモニュメントが設置されている。


古よりこの地は、アテネのあるアッティカ地方と、北部のテッサリア地方とを結ぶ幹線道路が通っていたが、カリモドロス山の崖からマリアコス湾まで15メートル程度の幅しかなかったことから、防衛に適した要衝として度々戦場となった。しかし、現在では、あまり峻険とは言えない山と広々とした道路に平地が広がっている。これは、経年により浸食され平地が広がったことやローマ帝国時代に拡張工事を行ったためである。ちなみにテルモピュライとは「熱い通り」を意味しており、現在も山裾には熱泉が湧き出ている


「テルモピュライの戦い」でギリシャ軍からは300人のスパルタ兵士が参戦したが、200万以上と伝えられるペルシア軍と互角以上に渡り合い、最期は壮絶な死を遂げたとされる。中央の台座上に槍と盾を持って立つ戦士は、その300人のスパルタ兵士を率いた「スパルタ王レオニダス1世(在位:前489~480)」で、彼らの粉戦により、アテナイは時間を稼ぐことができ「サラミスの海戦」でペルシア海軍に勝利することが出来たといわれている。

ちなみにテルモピュライの戦いを題材とした、2007年公開のザック・スナイダー監督による「300(スリーハンドレッド)」は、脚色が多く賛否両論もあったが世界的な大ヒットとなった。

時刻は午後5時を過ぎた。今日の最終目的地、メテオラのサンセットを眺めるために先を急ぐ。その後、テッサリア地方の北西部のトリカラを経由してカランバカ方面に向かうと、ようやく前方にメテオラの奇岩群が見えてきた。時刻は午後7時10分、日没まであと1時間ほどである。


メテオラの奇岩群は、カランバカ市内北側に位置していることから、東側から市内を横断して西側まで行き、北西部にあるカストラキ村を経由して山道を登っていく。聖ニコラオス・アナパフサス修道院(St. Nikolaos Anapafsas Monastery)を左側に見て進むと、右側の岩の上にルサヌ修道院(Monastery of Rousanou)が現れる。


ルサヌ修道院を過ぎると更に勾配のきつい登り坂になり1.5キロメートル進んだところがサンセットポイントになる。時間には余裕で間に合ったが、奇岩群から眺めるサンセットは、地平線からの位置が高いからか、やや眩しかった。


日没後もまだ明るい。この場所からは、真下にルサヌ修道院を望み、その先がカストラキ村方向になる。


左に視線を移していく。岩山の間からわずかに見える町並みが、カランバカの町の中心部あたりになる。


更に視線を左に移すと、やはりカランバカの町並みが見える。これらの独特の景観を形づくる奇岩群は、約6千万年前に海底で堆積した砂岩が隆起し、浸食されて今の地形となったと言われている。


長かった一日の行程もほぼ終了し、残るは、夕食だけとなった。カランバカの町の西側にある今夜の宿泊ホテル(テアトロ ホテル)から歩いてタベルナ「Paramithi」で夕食をいただこととした。午後9時半を過ぎて到着したため、混雑しており、場所のあまりよくないテラス席となった。座ってしばらくは、賑わっていたが、午後10時を過ぎると多くのお客は帰っていった。


フェタチーズのサラダラム肉、ミートソースパスタを頼み、テラスで食べていると、地元の常連らしき猫が現れ見つめられた。


料理の味は、昨日の今日なので、どうしても比較してしまい評価が下がるが、お腹が減っていることもあり美味しかった。パスタはモチモチとした食感で好みではないと思ったが、後半にはなじんで、全部平らげた。時刻は午後11時前になり、ほとんど人通りがなくなった。ライトアップされた奇岩を眺めながらホテルに戻った。

(2019.5.21)

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