カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インド・サンカーシャ

2013-03-30 | インド(アーグラ、ニューデリー)
今日は、ウッタル・プラデーシュ州ファッルカーバード(Farrukhabad)県にある仏教八大聖地の一つ「サンカーシャ」(Sankassa/Sankisa)に向かうことにしている。サンカーシャは、アーグラから北東160キロメートルにあり、交通機関もない辺鄙な場所であることから、車をチャーターした。朝7時にアーグラの宿泊ホテル・ゴーパル(タージマハル南に位置)を出発し、これからヤムナー川をアンベッカー橋で渡り、一路東に向かう。


ヤムナー川を渡り、すぐに、片側三車線ある高速道路を思わせる国道19号線(NH 19)を走行すると、あっという間にアーグラ市内を離れ、左右に続いていた街並みが無くなり緑に変わっていく。出発時間も早かったせいか道路は空いており、幸先の良いスタートである。


国道19号線を1時間ほど走行した後、インターチェンジを降りて一般道を進むと、街並みが広がり通行量が多くなってきた。フィロザバード(Firozabad)(フィロザバード県の行政庁所在地)で、ガラス製造やバングル(リストバンド)などの生産中心地として知られている。街の名前は、ムガル帝国の第3代君主アクバル(在位:1556~1605)治世、派遣された税金徴収官フィロズ・シャー・マンサブダーリーに因んで名付けられた。
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通りの右側に、巨大な建物が建ち、バスやオートリキシャが多数駐車して人々が集まっている。その建物前からの二股道を左方向に向かい振り返ると、建物の全貌を確認することができる。白い横長の3階建ての建物で、屋上に欄干とチャトリが設置されているが、こちらは、宿泊施設や病院、各店舗に加えジャイナ教「マンディア寺院」が併設された複合施設である。更にその複合施設の南側には、長径200メートルほどの長方形の敷地にジャイナ像(高さ約13メートル)が立つ、フィロザバードを代表するジャイナ教寺院「チャダミラル寺院」が隣接している。

市内を少し走行した後、休憩して朝食を取ることにした。このエリアには市場があり、派手に飾ったオートリキシャの運転手が食事や休憩をしている。屋台などの食材は日本人のお腹にはリスクがあるので、この日はバナナやリンゴ等皮付きの果物と乾物などの加工食品を持参して車内で食べた。


休憩を終え、出発してしばらくすると道路は空きだしたが、30分位で再び混雑し始めた。フィロザバードから20キロメートル東のシコハバード(Shikohabad)辺りだろう。シコハバードはフィロザバード地区にある小さな街だが、シヴァ神に捧げられたヒンドゥ教の巡礼センターがあり、各方面への道路や鉄道が接続する交通の要所となっている。


シコハバードを過ぎ、木々や農地が広がる田舎道を進んで行くと、南北に満々と水を湛えた川が現れた。実は1842年から1854年に建設された「ローワー・ガンガ運河」(Lower Ganges Canal)で、ガンジス川とヤムナー川間の約9,000平方キロメートル規模の農地を灌漑する目的で造られた運河システム(アッパーとローワーがある)である。


フィロザバードから約1時間半、40キロメートルほど進んだ所で、マインプリ県の行政庁所在マインプリ(Mainpuri)に到着した。アーグラから東に約100キロメートルに位置しており、農産物や木彫品、噛みたばこの産地として知られている。他にも、湖やヤムナー川の支流川が流れるなど、水資源が豊かな街で、クラウンチャーサナ(青サギ)、オオヅルなどが生息し、絶滅危惧種と言われるソデグロヅルの飛来地としても知られている。

マインプリの中心部を抜けると、ウッタル・プラデーシュ州の中央を南北に横断する国道34号線(NH34)との交差点に到着する。こちらの交差点を直進して給水塔が建つ通りを進むとマインプリ地区にある小さな街ボガオン(Bhogaon)の中心部に至る。一方、交差点を左折して北西に向かうと170キロメートル先でアリーガル(Aligarh)、そしてニューデリー(New Delhi)に至る。


これから、この交差点を右折して東に向かうこととしている。東には、70キロメートル先にガンジス川上流右岸の街カンナウジ(Kannauj)があり、そのカンナウジを経由して、カーンプル(Kanpur)やウッタル・プラデーシュ州の州都ラクナウー(Lucknow)へと続いている。ちなみにカンナウジは、北インドの古都で知られ、中国唐代の僧、玄奘三蔵(602~664)が大唐西域記で「曲女城」と記しその繁栄ぶりを伝えている。

交差点を右折して国道34号線を東方面へと進むと、すぐに左側(北側)に小さな湖が見え、対岸にボガオンの街並みが見える。


国道34号線を10キロメートルほど東に進んだ所で、トラック、バス、車が多く駐車するエリアとなった。周りにはバラック小屋が立ち並び、食品などを販売している。こちらは、マインプリ地区にある村ベワー・グラミーム(Bewar Grameem)で、マインプリから30キロメートル東に位置する人口7千人の寒村だが、各主要都市からの道路が交差する交通の要衝となっている。


こちらの交差点からは、カンナウジ、カーンプル方面へ向かう国道34号線と別に、右折して南60キロメートルにあるイターワー(Etawah)方面への国道と、左折して北東35キロメートルにあるファッルカーバード方面(ガンジス川上流右岸)への一般道が延びている。

目的地のサンカーシャは、ベワー・グラミームの北部に位置しているが、直接繋がる通りがないためファッルカーバード方面に向かい、途中で左折することになる。


マインプリから約1時間が経過した。ムハンマダバード(Mohammadabad)まで行き、左折してサンカーシャ・ロード(Sankisa Road)を利用するのが推奨ルートとされているが、かなり遠回りになる。運転手は、車を停め、前方から現れたジープに道を尋ねる。


小さな交差路を左折して雑草と木々に覆われた細い通りを進む。何処を走行しているのか分からないが、運転手によるとまもなく到着するとのこと。


ジープに道を尋ねてから30分ほどで、辺りは開け左側に建物や屋台が現れた。いつの間にか、サンカーシャ・ロードを走行していたらしく、屋台の先を大きく左に曲がった先が目的地のサンカーシャである。車を降りて散策してみる。


左に曲がると広いサンカーシャ・ロードが南方面に延びている。すぐ左側には、ラクナウの旅行会社による「サンカーシャ」の案内板が掲げられている。案内板には「サンカーシャは、仏教徒にとって重要な聖地(仏陀の三道宝階降下の場所)で、玄奘三蔵の大唐西域記でも言及されている」と記載されている。時計を見ると午前11時を過ぎたところだったので、出発して約4時間かかったことになる。


これまで、八大聖地では、バナーラスを起点に、ブッダ・ガヤー、サールナート、ラージギール(王舎城)、ヴァイシャーリー、クシーナガル、ルンビニー、シュラーヴァスティー(舎衛城、祇園精舎)と巡ってきたが、遂に最後の聖地を訪れることができた。さて、サンカーシャは、仏陀が、祇園精舎に滞在していた際に、近隣のオーラジャハールの丘から昇天して三十三天(忉利天)にいる母マーヤー夫人(摩耶夫人)のために法を説き、3ケ月後に帰還した地(三道宝階降下の伝説)といわれている。

通り沿いにインドの公営宿舎(ラビ・ツーリスト・バンガロー)(Rahi Tourist Bungalow Sankisa)の看板があり、右側(西側)の敷地には、タルチョーが張り巡らされ、白く大きなストゥーパ(仏塔)が建っている。特に入場制限がある様子もないので、敷地内に入ってみる。奥には、宿泊施設と思われる建物が並び、仏陀の立像も見える。


ストゥーパは真新しく造られたばかりに見える。覆鉢部の上に相輪を載せるインド型だが、側面に刳形(繰形)が施され、やや釣鐘状で、頂部には尖塔がそびえており、スリランカやタイで見られる様式に似ている。正面階段上には仏陀座像が飾られ周囲には欄楯が取り囲む繞道が形成されている。更に外側にも欄楯があるが、片側のみで、左側に象の彫刻が並ぶ基壇を望むことができる。
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ストゥーパの先には、土嚢袋の上に菩薩像が寝かされており、その先に台座があることから設置準備中と思われる。一番奥には、極彩色の蓮の台座に立つ彩色された仏陀立像が飾られている。像は、右手を挙げ左手を下げているが、右手は指で輪を作っており、阿弥陀如来像の印相に似ている。隣にはタイ・スコータイ様式の「歩行する黄金の仏陀像」が飾られ、天蓋が備えられている。
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ストゥーパの西隣には、大きな菩提樹があり、鮮やかな柿色の礼拝施設で荘厳されている。施設の周囲には、仏陀座像を祀る祠が並んでいる。いずれも、巡礼者や観光客のために造られた宿泊施設と礼拝施設と思われるが、新しすぎて芸術的な価値は低い。
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車に乗り、サンカーシャ・ロードを南に向け進む。右側にロイヤル・レジデンシー・ホテル(The Royal Residency)と書かれた看板があり、敷地内に大きな白い仏塔が建っている。停車して入口で尋ねると、昨年完成した日本人観光客向けのホテルで日本寺院も併設しているとのことだが、仏塔は違うのではと思った。


再びサンカーシャ・ロードを進む。広い直線道は、何やら聖域への参道を歩んでいる様な気持ちになった。


1キロメートルほど先で、左右に石壁が続く入口が現れ、目的地サンカーシャ遺跡に到着した。入口の格子扉は開け放たれているので、そのまま侵入して広い敷地内に車を駐車した。敷地の中央には、四方に枝を伸ばす大きな菩提樹が聳え、前後に小さな仏塔を頂く祠堂とアショーカ王柱が飾られた建屋がある。この時間、他に駐車中の車はなかったので、観光客や巡礼者はいないようだ。


立方体に半円形のストゥーパを頂く「白い祠堂」にはアーチ型の鉄扉が取り付けられ鍵がかけられているが、近づくと係員が現れて開けてくれた。サンカーシャにおける仏陀伝説によると、母マーヤー夫人がいる三十三天(忉利天)から3つの階段が降ろされ、中央の黄金階段から仏陀が、右側の白金階段から払子を手にした梵天(ブラフマー神)が、左側の水精(石英)階段からは、仏陀に天蓋を翳した帝釈天(インドラ神)が降下されたと伝わっている。祠堂内部には、その伝説を踏まえた「三道宝階降下のレリーフ」が収められている。
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三尊像の手前には蓮傘や花が供えられている。ちなみに、仏陀が昇天したとされる祇園精舎は、サンカーシャから直線距離で、概ね300キロメートル東に位置している。

さて、サンカーシャにおける最大の見どころは、菩提樹のそばに飾られたアショーカ王柱の柱頭彫刻である。アショーカ王柱とは、インド亜大陸をほぼ統一し、仏教を守護したマウリヤ朝第3代の王アショーカ王(前304~前232)が、領内各地の石柱に刻んだ(摩崖もあり)詔勅であり、それらが各地で発掘されることで、仏陀が活動したゆかりの地が特定される根拠ともなっている。これまで、王柱については、サールナート、カウシャーンビー、ブッダ・ガヤー、ヴァイシャーリー、ルンビニーで見てきたが、柱頭彫刻は、サールナートとヴァイシャーリーの二か所で、共に獅子像が施されていた。
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そのサンカーシャの柱頭彫刻は、階段付きの低い基壇の上に、四方の石柱が宝形造の屋根を支える東屋風の簡素な建屋の中央に飾られている。周囲に縦格子フェンスが張り巡らされ、階段側に扉があり鍵がかけられている。
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玄奘三蔵や、中国東晋時代の僧、法顕(337~422)が、サンカーシャ(劫比他(カピタ)国)を訪れた際は、共に、柱の上に獅子を作り四面には美しい浮彫が取り巻いていると報告している。

しかし、こちらには、王柱はなく、柱頭彫刻のみで、更には獅子ではなく象の彫刻である。イギリスの考古学者でインド考古調査局の設立に関わり、数々のインドの仏教寺院遺跡の発掘に大きく寄与したアレキサンダー・カニンガム(1814~1893)によると、玄奘三蔵と法顕は象を獅子と間違えたとしており、この象こそ二人が見たものと断言しているが、どうなのであろう。

像を下から見上げると、鼻が破損しているので、獅子にも見えるが、足元を見れば象の蹄(爪)であり見間違えたとは考えにくい。。また、玄奘三蔵は、「獅子はうずくまり階段の方向を向いている」と記しているが、どう見ても足を踏ん張って立っている。
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劫比他国が、このサンカーシャだとするカニンガム説に否定を唱える学者もいるが、他に特定された土地があるわけでもなく、獅子像が発掘されていないことから謎は深まるだけである。いずれにせよ、古代の彫像であることは明らかで、蓮弁をかたどった鐘形と、繊細な花の装飾が施された冠盤の上に立つ象の存在感には惹きつけられるものがあり、歴史的・美術的価値はかなり高い。
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ところで、玄奘三蔵が言う階段とは、大きな伽藍にあった階段のことで、その伽藍には1,000人以上の僧が修行していたとされる。しかし、現在では、振り返った先に、聳えるもう一本の大きな菩提樹と、その隣に見える小高い丘が残るだけである。


菩提樹の幹に隠れるように向かい側には、屋根もなく崩れかけたレンガ小屋が建っている。そして、右側の小高い丘が「三道宝階降下の伝説」の場所で、後世に、巨大なストゥーパ(仏塔)が造られたが、崩壊して現在の姿になった。


その左側の煉瓦で造られた小屋を入ると壁龕がありヒンドゥ教で人気が高い神猿ハヌマーンの像が飾られていた。


右側の「三道宝階降下の伝説」の場所には、階段が設けられており上ることができるが、煉瓦や石材が、あちらこちらに散乱している。


階段は、踏み石の大半が崩れ落ちており階段の役目を果たしていない。上るのもやっとの状態である。


何とか上り終えると、頂上には白い祠と、右側に柿色の祠が設置されている。周りには、煉瓦や石材が埋もれており、全体が人工物だったことが頷ける。


白い祠は、頂上のほぼ中央に、やや厚みのある基壇の上に建てられている。立方体で頂部に小さなストゥーパが乗り、正面の入口を覆っていた鉄格子の扉は、壊れて外側に立て掛けられている。


祠の中には、金の縁取りがある赤いマントを着たヴィシャーリ女神(Vishari Devi)(マーヤ夫人の女神名)が祀られている。台座は白タイルで供物が供えられ、像は大理石から造られ、金箔が施された壁龕の中に納められている。天井からは、複数の鐘が吊り下げられている。この場所が仏陀が三十三天(忉利天)から降り立った場所とされるが、ストゥーパが崩壊した今では聖地としては余りにもうら寂しい。。
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祠に穴が開いていたので、後側から見ると、白漆喰が剥がれ煉瓦が大きく崩れている。足元には、石材の址が残っている。写真を撮っていると、二人の少年が近づいて来て撮ってほしいというので撮影した。


隣の柿色の祠の入口は、ムガル建築で見られるイーワーン型で、内部には、中央と側面にヒンドゥ教の神像(神猿ハヌマーン?)が祀られているが、雑にペンキが塗られておりよくわからない。。


南側を見下ろすと、麓には訪れる巡礼者が礼拝するために歩いたと思われる址が残っている。その先には木が茂り敷地の境界を示す石壁が築かれている。敷地の先には、田畑が広がり、南に向けて農道が続いている。舗装道だが、大半は破損して砂利道となっている。地図を確認すると、約17キロメートル先がベワー・グラミームになる。
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西南方向を眺めると、煉瓦が垂直に積まれた箇所が見え、やはりその先に境界を示す石壁が続いている。サンカーシャ遺跡がある敷地の広さは、概ね東西150メートル×南北250メートルほどと狭い範囲だが、玄奘三蔵が訪れた際、劫比他(カピタ)国には、周囲二十余里の大都城があったと記している。
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1里が400~500メートルとすると、二十余里は周囲8キロメートル以上となる。カニンガムは、サンカーシャ遺跡の周囲に約6キロメートルに及ぶ十二角形の城壁址を発見したことから、玄奘三蔵が訪れた劫比他国であると確信している。現在の航空写真を良く見るとサンカーシャ遺跡を中心に、半径500メートルと半径1キロメートル付近にうっすらと二重のサークル状の址があり頷ける。

階段を下りてストゥーパを西側から見上げると、おわん型の小高い丘に煉瓦造りの遺構が折り重なっているのが分かる。舎衛城の奇跡と言われる祇園精舎のオーラジャハール遺跡は、後世に巨大なストゥーパを建設し、頂部に参拝可能な精舎を築いていたが、こちらにも近年まで高い基壇の上に、高さ20メートルほどの2階建ての煉瓦造りのストゥーパが建っていた。しかし、大半が崩落してしまったため、現在のおわん型の小高い丘の様な姿となったとのこと。
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ストゥーパには、僅かに側防塔を思わせる円形の塔が残っているが、下部は大きく崩壊している。煉瓦の繋ぎとなるモルタルも残っておらず、煉瓦一つ一つが浮いている様に見える。これでは更に崩壊が加速するだろう。いずれにせよ、ストゥーパは、後世に造られたものだが、耐震設計に乏しいことから地震などで崩壊したと思われる。
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ちなみに玄奘三蔵が訪れた際には、高さ70余尺のストゥーパを三道宝階の黄金、白金、水精(石英)で飾り、その上に精舎が建ち、内部に三道宝階降下の像が祀られていたという。ストゥーパを一周して、案内板が置かれた側から眺めてみるが、やはり崩壊著しい。。そこら中にゴミが散乱しているのは更に残念で寂しい気持ちにさせられる。。
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一通り見学を終え、アショーカ王柱と「三道宝階降下のレリーフ」が収められた祠堂を通り過ぎ、出入口付近まで歩いていると、大型観光バスがやってきた。ともかく静かな中で見学できたことは良かった。


来た際は車で通過したため気づかなかったが、入口の横に薄汚れたピンク色の建物があり、数人の人がしゃがみ込んでいる。建物内に何か展示物でもあるのかと思い覗いてみたが何もなかった。


建物の横を通り過ぎて行った女性の様子を窺っていると、左前方の路地に入って行った。路地の先には集落があり、牛糞を干している農家があった。生物燃料であり、ビハール州ではよく見かけた。。


サンカーシャ・ロード沿いには、いくつか寺院が建っている。集落への入口の先の向かい側(東側)には「ラマ教の修道院」があり、チベット式ストゥーパ「チョルテン」が建っている。チョルテンは、ピラミッド状に積み上げた基壇の上に甕状の覆鉢を乗せる形状が特徴で、白の覆鉢部に鮮やかな彩色の縁取りを装飾するが、こちらは全く彩色が施されていない。空き地が多く、手前に白い花壇の枠だけが設けられていることからも、建設途中かもしれない。


ラマ教の修道院の入口前からサンカーシャ・ロードを眺めると、左側にロイヤル・レジデンシー・ホテルの仏塔が見え、やや手前の向かい側には、広い敷地に建物が建っている。


歩いてその広い敷地の入口まで行くと、炎の様にゆらぐ唐草文様の破風門が建ち、リンネルに「ミャンマー寺院」と書かれている。入口の扉は閉まっていた。。


以上でサンカーシャの訪問は終了である。アーグラから公共交通機関で訪問する場合は、サンカーシャの寺院や巡礼者用の施設に宿泊を予定しないと難しいが、むしろ車をチャーターして日帰りで訪問するのが正解だと思った。ただし、運転手は法外なチップを要求するなどあまり良い印象は持てなかった。

帰りは、達成感もあり安心して車内に転がって寝た。午後4時半を過ぎた頃、起き上がり座ると、ヤムナー川が見えてきた。無事アーグラに到着のようだ。

(2012.12.5)

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