カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ストラト・フォード・アポン・エイヴォン

2015-07-25 | イギリス
ストラト・フォード・アポン・エイヴォンは、イングランド中部のウォリックシャー州にあり、エイヴォン川に面した人口2万5千人ほどの小さなタウンだが、文豪ウィリアム・シェイクスピアの故郷として世界的に知られており、国内外から年間5万人もの観光客が訪れる。
中心部を南北に伸びるウインザー・ストリート沿いの駐車場から北に歩いて来ると、前方に道化像が飾られており、道化像の正面からは、歩行者専用のヘンリー・ストリート通りが始まっている。台座にはシェイクスピアの喜劇「お気に召すまま」の一節(O Noble Fool, A Worthy Fool!)が刻まれている
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ヘンリー・ストリートに入ってすぐ右側のカフェ前には、鮮やかな赤い電話ボックスが2つ並んでおり、その隣にある赤いポストにはシェイクスピアの顔がデザインされている。このように街のいたるところにシェイクスピアの面影が残されている。
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そして通りを100メートルほど進んだ左側に、シェイクスピア・バースプレイス・トラスト社(民営教育チャリティ団体シェイクスピア生誕の地基金)が所有、管理する「シェイクスピア・センター」がある。センターでは、シェイクスピアの生涯や彼の代表作など功績を展示する博物館と「シェイクスピアの生家」を一般公開しており、人気の観光スポットとなっている。入口前のシェイクスピアの生誕を示す案内版には一番下に「ようこそ」と日本語で書かれている
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それでは「シェイクスピア・センター」に入ってみる。通路にはシェイクスピアの顔とサインが来場者を迎える演出となっている。
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通路の先は、展示スペースになっており、シェイクスピアに関する品々が所狭しと展示されていた。右側のディスプレイには、発表作品を紹介したシェイクスピアのオブジェがあり左側の壁沿いのディスプレイには小ぶりの石像が数体が並んでいる。その奥には、人形、トランプ、ビヤグラスなどが展示されている。展示物はどれも洗練されたデザインで見ていて飽きない。
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こちらには、シェイクスピアの愛用品が展示されている。
中央上部にある額の絵は、ロンドンのテムズ川南岸にあったグローブ座で1599年に開業、20角形の円筒型の構造で円筒の部分は桟敷席となっていたが、清教徒革命の影響で閉鎖され1644年に取り壊されたという。なお、現在のグローブ座は1997年には復元されたもの。
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こちらは、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)のフィリップ・サットン(Philip Sutton、1928~)によるグローブ座を背景に立つウィリアム・シェイクスピア(1988作)像。迫力ある斬新なタッチが目を引く。
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ファースト・フォリオ(First Folio)が展示されている。これは、シェイクスピアの死から7年後の1623年に、シェイクスピアの戯曲をまとめて出版された最初の作品集で、当時の価格で1ポンド(現在の95~100ポンド)で販売されたという。
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他にも壁に戯曲の名場面が描かれたメダルが展示されていたり、博物館の出口には、シェイクスピアの生涯を漫画にした壁などが展示されていた。
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博物館を出て、芝生が広がる中庭の奥に見える古びた2階建の建物が、シェイクスピアが、幼少期から青年期までを過ごした「シェイクスピアの生家」である。シェイクスピアは、皮手袋商人で町長に選ばれたこともある市会議員の父ジョン・シェイクスピアと、ジェントルマンの娘で、裕福な家庭環境に育った母メアリー・アーデンのもと1564年にこの家で生まれた。建物は、16世紀当時のハーフティンバー様式で復元されたものだが、当時の趣を十分生かした歴史ある建物になっている。
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「シェイクスピアの生家」の左側にあるベンチに目を移すと、当時の衣装に扮したガイドさん達が集まっている。
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では「シェイクスピアの生家」に入って見よう。1階は居間になっているが何故か寝室が一緒に置かれている。居間は、家族のふれあいの場所だが、当時は、来客用の寝室として兼用することもよくあったそうだ。織物のかかった立派なベッドは、16世紀のオリジナルを復元コピーしたもの。
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こちらの食卓には、テーブルの上に当時の料理が再現されている。食器は錫(すず)を主成分とするピューター(Pewter)で作られている。そしてすぐ横の大きな暖炉には調理器具や肉を焼くための串などが置かれている。暖炉側に置かれた16世紀のゴシック調の長椅子や手前の腰掛なども見所の一つ。それぞれの部屋を区切る中扉はなく仕切りのみである。
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こちらは皮手袋商人だったウィリアムの父ジョン・シェイクスピアの作業場。父ジョンは羊・鹿・子ヤギなどの獣革から高級白革製品を作り売っていた。当時の衣装に扮したガイドさんが手袋製造の実演や説明を行っている。
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また父ジョンは羊毛仲介業者でもあったらしく、棚には羊毛の入った籠や桶が置かれている。
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食堂と父ジョンの作業場との間に2階に上る階段がある。階段を上った2階の壁紙にはイタリアン・グロテスク調の白黒のデザインの複製が使われている。18世紀以降は、多くの著名人も「シェイクスピア生家」を見学に訪れて壁や窓にサインを残したという。こちらには、チャールズ・ディケンズの写真とサインが描かれている
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2階は主に家族の寝室として使われていたようだ。こちらにはベッドが置かれており、横には暖炉がある。ベッドには、女児の衣装が置かれているが、中世ヨーロッパでは、男児が女児より早く亡くなることが多かったため、魔除けに女児の服装をさせることがあった。
2階にも部屋毎の仕切りに中扉はなく、上部も吹き抜けになっている。隣の部屋からベッドが良く見える。
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こちらがシェイクスピアの誕生の部屋と言われている。部屋の織物や壁の布は16世紀のオリジナルで手前には、当時の家具が置かれている。家具の上には、「私は年寄りで疲れているので、どうか寄り掛かからないで。」とユーモラスに注意事項が書かれている。ベッドの下にあるのは車輪付の小さなベッドの複製で、子供や使用人、来客などのために引き出して使われていた。ゆりかご、玩具、洗い桶、当時赤ん坊を包むのに使われた布などはすべて当時の品を忠実に再現している。
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奥には台所と食料貯蔵庫がある。台所は17世紀初期時代のもので、炉には炭を入れた鉄製の炉枠や火箸などがおかれている。隣の食糧貯蔵庫には当時食べられていたと思われる様々な食料がオリジナルや複製の貯蔵用陶器に入れられている

「シェイクスピアの生家」自体は、細かいところまで良く再現されており1570年代当時の生活がイメージしやすいつくりとなっている。感想としては、比較的質素な印象を受けたが、16世紀後半当時では、かなりしっかりとした家屋であったと考えられているそうだ。

窓際には、先ほど中庭で見かけた当時の衣装に扮したガイドさんが「ロミオ、ロミオ!」と叫んでいる。彼女は「ロミオとジュリエット」のジュリエット役で外にいるロミオ役の俳優と戯曲を演じているのだ。
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生家の見学もちょうど終わり、外から2階のジュリエットを眺めると投げキッスの最中であった。
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当時の衣装に扮したガイドさん達が休憩していた場所の後方に建つ建物(南東側)の1階には、ショップがあり、そのショップを抜けたところが「シェイクスピア・センター」の出口となっている。センターを出てヘンリー・ストリートから「シェイクスピアの生家」を眺めてみよう。生家内に展示されていた復元図と似ているのがわかる。もともとはこちらが生家への正面玄関だったわけだ。
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ヘンリー・ストリート沿いの「シェイクスピア・センター」出口の隣には公共図書館があり、その図書館前にはシェイクスピア作品の道化師がいた。銅像の様に見えるが、時々動きだし周りを驚かすようだ。こちらは真っ白なシェイクスピアの道化師だ
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ヘンリー・ストリートにはいろんなショップもあり散策していて楽しいが、時刻は11時半になったので、次に向かう。
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ところで、「シェイクスピアの生家」を所有、管理するシェイクスピア・バースプレイス・トラスト社は、他にも「ホールズ・クロフト」、「アン・ハサウェイのコテージ」、「メアリー・アーデンの農場」、「シェイクスピアのニュー・プレイス」と全部で5つの施設を持っており、購入日から12か月間いつでも入場できるマルチハウス・パス・チケット(オンライン予約なら10%割引)がある。今回3施設のチケットを購入したこともあり後2か所見学に向かう。

町の中心部から1.6キロほど西にある「アン・ハサウェイのコテージ」に到着した。ここは、ショッタリー(Shottery)と呼ばれる小さな村でウィリアム・シェイクスピアの妻アン・ハサウェイが子どもの頃住んでいた家と言われている。父親のリチャード・ハサウェイは独立自営農民だったという。通り沿いに小さな扉があるが、入口はこの先のコテージの反対側になる。
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ピクニックや散策を楽しむ人たちのいる中庭を通り、コテージを回り込むようにして進む。
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コテージは一番古い部分が15世紀以前に建てられ、高い部分は17世紀に増築された。1892年には、シェイクスピア・バースプレイス・トラスト社により保存のため、買い取られるが、その後も1911年までハサウェイの子孫が住んでいたという。
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コテージに入ったところが農家の玄関で、元々は吹き抜けになっていたが現在は天井がある。暖炉の右側には楡張りのセトル(収納付長椅子)があり、ここに交際中のウィリアム・シェイクスピアとアン・ハサウェイがよく座っていたという。
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様々な食器が並ぶ食器戸棚は17世紀後期のもの。
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玄関から伸びる細い廊下を進むと食糧貯蔵庫と冷蔵室がある。これら2つの部屋は、乳製品を作る場所やビールなどを含む一般の食料の貯蔵のために使われた。
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階段を上った2階は主に寝室や衣服の収納室として使われた。こちらは、ブロード・ソーラーと呼ばれる来客用の寝室で、藁でできた椅子をはじめ16世紀から18世紀の家具が置かれている。
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その隣が主寝室にあたり、ハサウェイ家の家宝として知られる16世紀作の樫の木彫りが美しいベッドがある。特に枕元の彫刻は何とも素晴らしい
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周りを花のモチィーフで飾られた1680年代製のオークゆりかごがあり、漆喰と樫の木の梁がむき出しになっている壁際には肘掛椅子が置かれている。この椅子は、シェイクスピアから孫娘へのプレゼントだったとされている。椅子の背に向かって左上にはシェイクスピア家の紋章が小さく彫られている。
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急な階段を下りると台所がある。この部屋の大かまどで毎日の食事が料理されていた。左側には当時のパンかまどやパンを焼く際に使われた器具なども残っている。敷石畳の床に井草や薬草を敷いたようだ。
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コテージの見学後に中庭を歩いてみた。緑も深く色とりどりの花が咲いており散策には良い季節だ。
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広場では、民像衣装に身を包んだ女性たちの踊りや、男性アーティストによる演奏が行われていた。足元に置かれたCDを見ると、彼はダミアン・クラーク(damian clarke)と言うらしい。楽器は、ハンマー・ダルシマー(金属製の弦を、ばちで打って演奏する)と呼ばれ、高音の金属音が共鳴する美しいバロック風な音色だが、彼が歌い始めるとケルト風の音楽にも聞こえた。木の根元には、ハーディ・ガーディと呼ばれる機械仕掛けのバイオリンも置かれていた。
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中庭の一角には特設のフードショップもあり、ハンバーガー(4.50ポンド)を注文すると、芝生に置かれたスタンドグリルで肉を焼いてくれた。時刻はまもなく午後1時になるので、ハンバーガーを食べながら「アン・ハサウェイのコテージ」を後にした。ちょっとした ピクニック気分も味わえた。
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次に、ストラト・フォード・アポン・エイヴォンからは4キロほど離れたウィルムコート村(Wilmcote)に向かった。ここは「メアリー・アーデンの農場(Mary Arden's Farm)」と呼ばれ、ウィリアム・シェイクスピアの母メアリー・シェイクスピア(メアリー・アーデン)が所有していた農場で、シェイクスピア・バースプレイス・トラスト社が1930年にこの家を購入し、管理・運営をしていたが、2000年に実はメアリー・アーデンの友人で隣人だったアダム・パーマーの家であったことがわかったため、現在は「パーマーの農場」に改名された。
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入口にあった案内図を見ると敷地内の施設毎に触れ合うことのできる動物写真が紹介されている。

それでは「パーマーの農場」を見学してみよう。最初に現れた建物には皮職人の仕事場が再現されていた。机の上には、毛皮が広げられている
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すぐに広い敷地が現れ前方に2階建ての大きな建物が見える。あれが、アダム・パーマーの家のようだ。建物の手前は、一部ヴィクトリア朝のレンガが使われているが、奥の入口側は16世紀を代表するハーフティンバー様式となっている。
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柵に沿って家まで進むと、右側の柵の中に鶏が餌を啄んでいるのが見えた。他にも柵内の一角には豚が放し飼いにされており手を伸ばすと近寄ってきて触れることができる。アダム・パーマーの家の入口横には、当時の衣装に扮したガイドさんが農家の暮らしぶりを説明していた。
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建物内に入ると台所があり、ちょうど食事の準備中のようで衣装に扮したガイドさん達が忙しく働いている。
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奥には清潔なテーブルクロスが敷かれた食卓があり、蝋燭や食器などが置かれている。すぐにでも食事を頂けそうな雰囲気だ。
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そして、こちらは、2階にある寝室で、天井を見上げると、木骨造がよく見える造りとなっている他にもベッドが並んでおり、こちらには大勢が寝られるように布団が並んでいる。中央に置かれた玉ねぎが農家の暮らしぶりを感じさせてくれる。
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農園の広い敷地内では、弓矢による射的体験ができるスペースや
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当時の衣装に扮したガイドさんと一緒に羊に触れることができる。
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こちらでは、親子が五目並べのようなゲームをしている。
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午後2時を過ぎたので、最後にお馬さんにお別れの挨拶して出発した。「パーマーの農場」はシェイクスピアとは直接関係ないわけだが、16世紀頃の農場の生活を良く理解できるように整備・保存されており、親子でも楽しみながら体験できる良質のカントリーサイド・ミュージアムといった印象だ。

さて、ストラト・フォード・アポン・エイヴォンから13キロメートルほど北東のエイヴォン川の上流にウォリック(Warwick)と呼ばれる町があり、ここにサクソン人が造った砦にウィリアム征服王が建造したウォリック城がある。
市内に入り、ハイストリートを進むと、右側にウォリック城への入口が現れたが有料ゲートとなっている。時間が残り少ないので、諦めて他から眺めることはできないかと、中心部の高台に向かったが、ウォリック城を見ることはできなかった。。

ハイストリート沿いの西ゲートの先にロード・レスター・ホスピタル(Lord Leycester Hospital)という、退役軍人のために16世紀に建てられた見事なチューダー様式の病院があった。今も現役の病院だそうだ。
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あとでわかったが、市内から逆に離れて南東方面に向かいエイヴォン川を渡る橋からこのように垣間見ることができたようだ。。
その後、M40モーターウェイでヒースロー空港(LHR)へ向かった。途中、多少渋滞もあり焦ったが無事間に合い帰途についた。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
(2015.7.25)
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イングランド・コッツウォルズ(その4)

2015-07-24 | イギリス
チェッドワース・ローマン・ヴィラから北上し、東西に伸びるA436を西に向かいクリックリー・ヒル(Crickley Hill)に到着した。駐車場から伸びるあぜ道は、尾根に沿って続いており、すぐ左側(西)を眺めると、起伏に富んだ丘陵地が広がっている。今朝から雨は強く降り続いているが、かえって靄がかかりにくいのか思った以上に眺望が良い。晴れた日のピクニックは最高だろう。斜面に見える小さな黒い点は、望遠で確認してみると牛の放牧だった
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さて、レックハンプトン・ヒル通りを北上し、丘陵地を越えると6キロメートルほどで、チェルトナム(Cheltenham)に到着する。チェルトナムはコッツウォルズ中部を巡る際の西の起点となる都市で、中世の頃はコッツウォルズの他の町・村同様に羊毛産業で栄えたが、1716年に鉱泉が発見され、町は保養地として発展していく。

そのチェルトナム中心部からA435を1キロメートルほど北上した右側にパンプ・ルーム(Pittville Pump Room)と呼ばれる建物がある。かなり大きなギリシア・ローマ風の建造物だ。建物に沿って南側に回り込む。
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このパンプ・ルームには、1788年、ジョージ3世(在位:1760~1800)が約5週間滞在して鉱泉飲用による治療を行った。当時はアメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争など外交上の難題が山積しており王の気苦労も多かっただろう。一方、経済面では産業革命が進行しており「世界の工場」に躍進しつつある時期でもあった。更に1816年には、ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破ったアーサー・ウェルズリー(ウェリントン公爵)が肝臓病治療のためにこの地を訪れている。

チェルトナムは、王族や貴族などの治療滞在を契機にして温泉保養地(スパ・タウン)として多くの観光客が訪れるようになり、ギリシア・ローマ風の建物や並木通り、劇場などが次々造られ、今では人口11万5千人を有する大都市となった。この日は結婚式(披露宴)が行われていたため、パンプ・ルーム内には入ることができなかった(建物内には400人収容の大ホールがあり、今も飲用のための蛇口が付いた装置がある)。南側が庭園になっており、音楽祭なども行われるそうだ。
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更にA435を1.5キロメートルほど北上し、右折して突き当たりのサウザン(Southam)を左折してB4632をウィンチカム(Winchcombe)方面に向かう。B4632はすぐにコッツウォルズ丘陵地の斜面をぐんぐん上って行き眺望が広がった。

右側には、レストラン・ライジング・サン(The Rising Sun)があり、横の路地を上って行くとフットパスの表示がある。ここからコッツウォルズで最も標高のあるクリーヴ・ヒル(Cleeve Hill)に続いているようだ。しかし雨が降り続いているため、諦めてB4632沿いの斜面から眺めるだけにしたが、ここからでも素晴らしい眺めだ。
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B4632を更に北東方面に8キロメートルほど進み目的地のウィンチカムに到着した。時刻は午後2時、雨は相変わらず降り続いている。
ここウィンチカムは、7世紀中頃から9世紀初頭にかけて強い勢力をもったアングロ・サクソン系のマーシア王国(七王国の一つ)の中核都市があったところ。オファ王(在位:757~796)は、この地にウィンチカム大修道院(ベネディクト修道士会)を建築した。その修道院については、マームズベリ修道院のウィリアム(1095~1143)による記録が残っており、それによると聖ケネルム祭に多くの巡礼者が訪れたという。

しかし1539年、ウィンチカム大修道院はヘンリー8世の修道院解散令により破壊されてしまう。その後ウィンチカムは羊毛産業を支える物流拠点やタバコ葉の集積地として栄えたが、現在では人口4千人ほどの小さな町である。町の中心部からやや南西側に、聖ピーターズ教会(St Peter's Church)(羊毛教会)がある。
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この教会は、1454年から1468年にかけてイングランド・ゴシック(垂直式)で建てられ1873年に改築された。塔の高さは約27メートルで塔上には金の風見鶏がある。もともとはブリストル(Bristol)の聖メアリー・レッドクリフ教会(St.Mary Redcliffe)に飾られていたという。
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それでは聖ピーターズ教会に入ってみよう。天井は、木製の平型天井で枝付き燭台が吊り下げられている。これはフランダース地方の職人によって作られ、1753年に教区委員ジョン・メリーマンによって寄贈されたもの。祭壇のステンドグラスは、1885年に取り付けられたもので、聖ペテロが水の上を歩こうとし、キリストが嵐を鎮めた説話が描かれている。
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洗礼台は、1634年2名の教区委員から奉納されたもので、台座には16と34の浮彫が施されている。なお上部の鳩の付いた青と金色のカバーは1764年製とのこと。そして後ろには、アングロ・サクソンの聖者、聖ケネルム(Saint Kenelm)のお棺が祀られており、こちらは閉鎖されたウィンチカム大修道院から運ばれてきたもの。

聖ケネルムとは、マーシア王国(527~918)コエンウルフ王(Coenwulf、在位:796~821)の王子ケネルム(Kenelm or Cynehelm、在位:821~823)とされている。彼は前王の死去に伴い7才で王となるが、それを快く思わない姉とその夫により、狩りの最中に殺されてしまう。幼王を埋めたウスターシャーの茂みからは、光の柱が立ち上り、泉が湧き流れ出しその水を飲んだ人々は誰でも病が治癒したという。中世時代の聖ケネルム祭はこの伝説にちなんでいる。
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壁面には、オークの木のドアと床のタイルが飾られている。こちらも閉鎖されたウィンチカム大修道院から運ばれてきたもの。
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古い義援金箱がある。これは1547年にエドワード6世(在位:1547~1553)の命令で3つの鍵が付けられたもので、教区牧師と2人の教区委員だけが開けることができたという。

そして、こちらは1872年まで供物台の上で使われていた祭壇のタペストリーで、23人の聖人たちが描かれている。緑の一部分はヘンリー8世の最初の王后キャサリン・オブ・アラゴンの手によるもの。
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ところで、王后キャサリンとヘンリー8世との間の子供は、女児メアリー(後のメアリー1世)を除いていずれも早世したことから、ヘンリー8世は男子の後継者を得たいと離婚を願い出る。このことが、ローマ教皇庁と対立しイングランドの宗教改革の発端となった。その後、ヘンリー8世は2番目の王后アン・ブーリンとの間にエリザベス王女(後のエリザベス1世)を、3番目の王后ジェーン・シーモアとの間にはエドワード王子(後のエドワード6世)を儲ける。

ヘンリー8世の死後は、エドワード王子が王位につくが、若くしてなくなったため、メアリーがイングランド史上最初の女王となるが、何とも皮肉な結果である。。

教会内を20分ほど見学した後、外に出て教会の周りを散策してみる。この教会の必ず見るべきポイントは、外壁に施された40個のガーゴイルの彫刻である。見上げるとあちらこちらに怪物の彫像が見え、上部には人間の顔も見えるこちらも帽子を被った人間の顔だが体には小さな羽らしきものが見える。ガーゴイルとは、雨樋の機能をもつ彫刻のことだが、雨樋自体は彫像の横に金属の樋があり、彫像には吹き出し口らしき跡は見えない。
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こちらには王(貴族)を思わせる風貌の彫刻が見える。
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次に、ヘイルズ・アビーの見学を予定しているのだが、聖ピーターズ教会のすぐ東側の三叉路にシュードリー城(Sudeley Castle)の案内があったため近くまで行ってみる。三叉路のバインヤード・ストリートを1キロメートルほど南東に進むと、シュードリー城の案内版に到着する。そのまま進むと門が現れた。
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シュードリー城は、スティーブン王(在位:1135~1154)時代に建てられ、その後はテューダー朝の所有となった。1547年、ヘンリー8世亡き後はエドワード6世の所有となるが、彼は、叔父にあたるシュードリー男爵トマス・シーモア(1508~1549)(Edward Seymour)にその城を与えた。ここには、ヘンリー8世の6番目の王后で、王の死後にトマス男爵の妻となったキャサリン・パー(1512~1548)のお墓が納められた礼拝堂がある。
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キャサリン・パーは2度の結婚歴(いずれの夫も病死)の後、トマス男爵と交際していたが、ヘンリー8世に見初められ結婚する。彼女は、もともと読書家で深い教養と知性を身に着けておりヘンリー8世から全幅の信頼を得ることができた。また、メアリー王女、エリザベス王女を庶子の身分から王女の身分に戻し、下位だったエドワード王子の王位継承権を復活させるなど、王や王の子供たちに献身的に尽くした。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)

結婚後4年余りでヘンリー8世が崩御(1547年)したため、キャサリンは、王后の格式のまま接遇する遺言にも関わらず、全てを捨て、かつての恋人トマス男爵と結婚して、ここシュードリー城に住んだ。翌年には、彼女にとって初めての女児が誕生するものの産褥熱にかかり亡くなった。36歳の生涯だったという。

城内には8つの庭園があり、中でも噴水を中心に800種類以上のバラやラベンダーなどが植えられているクイーンズ・ガーデンが有名とのこと。残念ながら時間の関係で、敷地の外から覗き込むだけで次に向かう。
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ウインチカムからB4632を3キロメートルほど北上したヘイルズ(Hailes)に、シトー修道士会の修道院(ヘイルズ・アビー)跡が残っている。1246年にコーンウォール伯リチャード(1209~1272)により建設された。

リチャードとはジョン王(在位:1199~1216)の次男でヘンリー3世(在位:1216~1272)を兄に持つ。リチャードは王位を狙ってその兄に反抗するが失敗する。その後、大空位時代には、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)の継承紛争に介入し、皇帝候補者として名のりをあげるが、1263年バロン戦争後の内乱で敗れ皇帝即位は幻に終わる。1271年には息子ヘンリーが暗殺され翌年不遇と失意のうちに亡くなった。
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1270年には、そのリチャードの別の息子エドマンド(1249~1300)が、ドイツから聖遺物(キリストの血の入った小瓶)をこの地に持ち帰ったことから、ヘイルズ・アビーは巡礼地として大いに栄えたという。しかし1539年修道院解散令時に聖遺物を鑑定した結果、偽物(蜂蜜)であることが判明する。その後、修道院の石材は近隣の住宅建設に用いられ荒廃していく。

広大な敷地の中に四角形状の基壇があり所々に石柱アーチが残る回廊跡がある。遺跡は雨ざらしの状態なので石の間から雑草が伸び放題になっている。敷地の芝生は綺麗に刈りこまれていることから、離れて遺跡を眺めるとアート作品にも見えてくる。
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アーチの横には、彫刻の跡が見えるが、摩耗していて判別ができなくなっている。現在はナショナル・トラストにより管理されているが、この状態のまま維持していくのは難しいのではないか。。
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次にスノーズヒル(Snowshill)に向かう。ヘイルズ・アビーからは、直線距離で6キロメートルほど北東になるが、このあたりは丘陵地のため迂回して進む。B4632をブロードウェイまで北上し、鋭角に右折してスノーズヒル・ロードを南下し20分ほどでスノーズヒル・マナーに到着した。木々に覆われた一本道を歩いて行くと、丘陵地が広がり斜面には牛や羊が放牧されている。
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前方の斜面上部に屋敷らしき建物が見えてきた。
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正面に見える建物がマナーハウスの玄関にあたる。ここは821年から修道院解散令の1539年までウィンチカム大修道院の所有だったが、ヘンリー8世に没収され、王后キャサリン・パーの所有となった。その後、所有者が入れ替わり、19~20世紀、建築家・アーティスト・詩人のチャールズ・パジェット・ウェード(Charles Paget Wade)の所有となる。彼は、古びた建物を改修し2万2千点ものコレクションを残した。そして1951年からは、ナショナル・トラストが管理している。
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マナーハウスの玄関に向かって左側は緑に覆われており、その奥に屋敷の建物が続いている。外壁に見える像は、竜を退治する聖ゲオルギオスだろうか。。
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かなり古びた印象の建物がある。
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建物内には、ウェードのバスルームや収集した調度品などで飾られた寝室など当時の暮らしぶりがうかがえる部屋が残されている。
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こちらのオブジェは、ウィンチカム大修道院にあったものという。
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少し右に寄って眺めると、斜面を取り込んだ庭園の造りが良く分かる。周りに果樹園を配し、西側には広大な丘陵地の田園を遠景に取り入れつくられている。自然に溶け込んだ建物と庭園の景観の中にターコイズブルーのベンチや時計が目立つ。このターコイズブルーはウェードのお気に入りの色だったらしい。
時計の奥に見える切妻屋根の建物はハト小屋のようだ。
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階段を降りてターコイズブルーの時計の前に行ってみる。時計は天文時計で、十二宮が描かれ、文字はラテン語で書かれている。反対側の建物(キッチン・ガーデン)にもターコイズブルーのマリアの祠やベンチが置かれている。建物内には、古びた馬車などが展示されていた。
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マナーハウスの見学が終わり、600メートルほど南に行ったところがスノーズヒル村の中心部になる。そこから1キロメートルほど東に坂道を上って行くとラベンダー畑が広がっている。
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約90エーカーの敷地に約50万本のラベンダーが見事な花を咲かしている。ちょうど見どころの時期だが、この天気で他に観光客はいない。。
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再び坂道を下ってスノーズヒル村の中心部に行ってみる。人口160人ほどのこじんまりとした村で、右側(西側)には村唯一のパブ(The Snowshill Arms)があり、左奥には聖バルナバ教会が建っている。この村は2001年公開の映画「ブリジット・ジョーンズの日記」でブリジットの故郷として撮影された。教会の敷地は三角形状で周りを道路が取り囲んでいる。北から時計回りで一周してみよう。
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小端積みのコッツウォルズ・ストーンの石垣で囲まれた教会の敷地には墓を示す石版がまばらに立っており、敷地の南東角からは西側遠景に丘陵地を望むことができる。人通りがなく、しとしとと降る雨も合わさり物寂しい雰囲気を醸し出している。。
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教会の東側から敷地の向こうにパブが望める。周囲は200メートルほどだろうか、あっと言う間に一周できた。
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次に4キロメートルほど北上し、ブロードウェイ・タワーに向かった。塔は1799年完成で、17メートルの高さを誇る城塞風の建造物である。塔上部からの景観がお勧めらしく、今日の天候では行ってもしかたがなかったが、場所が近いので道路沿いから塔を眺めてみるが、霞の中に僅かに見えるだけであった。。さらに風雨が強くなったため、すぐ諦めてブロックリー(Blockley)に向かった。

ブロックリーは、19世紀半ばまで絹織物工業で栄え500人以上の職人が暮らしていた。周りは森で囲まれており坂道のある傾斜地に村の中心がある。正面のショップ&カフェの左側の小道を進むと、
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小さい村には不釣り合いなほどの大きな教会(聖ペトロ&聖パウロ教会)が建っている。教会は、1180年ノルマン様式で建てられた(塔部分は1725年)。なおこの教会は、2013年からBBCで始まったG・K・チェスタトン(推理小説作家)原作のTVドラマ「ブラウン神父」の教会(聖メアリー・ローマン・カトリック教会)として登場している。
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再び通り沿いのショップ&カフェに戻った手前の左側には、ノースウィック・パーク(Northwick Park)がある。この時間、白いレインコートを着た年配の人たちがクロッケーの試合を行っていた。ブロックリーには現在2千人ほどが暮らしている。
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ブロックリーから田園地帯の細い一本道を3キロメートルほど北上した所に茅葺き屋根の家が現れた。レイコック村に近いサンディ・レーン(Sandy Lane)村で何軒か見かけて以来だ。

ここは、ブロード・カムデン(Broad Campden)という70戸ほどの小さな集落だが、茅葺屋根の家があることで知られている。屋根裏部屋にある窓を包み込むような茅は、羊の滑らかな毛並の様にも見える。そして、すぐ先にも茅葺屋根の家が続いているが、家毎に微妙に色合いが異なっていることには驚いた。どの茅葺屋根も綺麗に手入れが成されており、まさにファンタジー映画かおとぎ話を連想させてくれる家だ。
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集落を過ぎると、再び田園風景となるが、すぐに町並みが現れた。コッツウォルズ地方最北端に位置するチッピング・カムデン(Chipping Campden)である。チッピングとは市場の意味で、中世は裕福な商人の支援を受け羊毛取引の中心地として大いに栄えた。ハイ・ストリート沿いには蜂蜜色のコッツウォルズ・ストーンの建物が並んでいる。今日は雨が降り続いたためか、蜂蜜色の色合いはより深みが増しているように感じられた。
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この辺りが中心部となりホテルやレストラン、ショップなどが並んでいる。
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通りの向かい側(北側)には、チッピング・カムデンのシンボルとも言えるマーケット・ホールが建っている。こちらは乳製品の取引所として1627年に建てられた。連続する小さな切妻屋根を半円形のアーチが支える印象的な建造物である。中に入ってみると、柱は黒ずんで、足元の石畳は不揃いで波打っており、古タイヤが転がっていた。。歴史的建造物の維持管理に少し不安を覚えた。天井は、見事な二連の舟形天井で造られている。
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マーケット・ホールの公園を挟んで西側には1897年に建てられたタウン・ホールが建っている。
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そして、マーケット・ホールの先を右折し進むと、町の東側に聖ジェームス教会(St James'church)が建っている。裕福な羊毛商人たちの支援を受けて建てられた豪華な羊毛教会だ。時刻はまもなく午後7時半なので、これで今日の行程は終了。そして以上でコッツウォルズの観光は終了である。多少慌ただしかったが予定していた訪問地は概ね見学することができた。
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今夜は、ストラト・フォード・アポン・エイヴォン(Stratford-upon-Avon)にあるレストラン・タイ・キングダム(Thai Kingdom)で食事する。場所はエイヴォン川の市内側に南北に走るワーウイック・ロード沿いにある。時刻は午後8時を過ぎたところ。
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料理はセットメニューで頼んだ。最初に、串や春巻きなどの盛り合わせが出て、次に中華総菜が4品いずれも、卓上コンロが並べられ、アツアツを頂けたイエローカリーが出てデザートアイスで終了。この日は他に2組のお客がいた。値段は、ロゼ16.95、ビール3.5、セットメニュー23.95で、味はタイと言うより中華料理でややイメージとは違ったが、食べやすく美味しくいただけた。
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(2015.7.24)
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イングランド・コッツウォルズ(その3)

2015-07-23 | イギリス
サイレンセスターから、A429を北東に23キロメートルほど走行し、右折してハイストリートを800メートル進むと、ボートン・オン・ザ・ウォーター(Bourton-on-the-Water)に到着する。ハイストリートとウインドラッシュ川(River Windrush)とが接近するこの辺りから町の中心になる。清流が穏やかに流れる川には柵や堤防もなく容易に川面に触れることができ気持ちが良い。
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緑に覆われた建物は、1748年に建てられた歴史的なオールド・マンズ・ホテル(Old Manse Hotel)で、その左隣にローズ・ツリー・レストラン(Rose Tree Restaurant)が建っている。手前のテラスではのんびりくつろぐ人々の姿が見える。それではハイストリート側の川沿いを下流(南)に向けて歩いてみよう。

ウインドラッシュ川はテムズ川の支流の一つで、20キロメートル上流に位置するスノーヒル(Snowshill)(コッツウォルズ丘陵)の南に源を発し、下流にある毛織物の一大産地として栄えたウィットニー(Witney)を過ぎオックスフォード(Oxford)近郊でテムズ川に注ぎ込む56キロメートルの川である。Windrushとは「突進して様々なコースに曲がる」を意味するが、この辺りの穏やかな流れは突進のイメージとは程遠い。

川には数十メートル間隔で5つの石橋が架けられているが、この山なりの石橋が一番風景にマッチしている印象だ。穏やかな川に架かるこれらの石橋と町並みからボートン・オン・ザ・ウォーターは「コッツウォルズのヴェネツィア」と呼ばれている。
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護岸はストーンが小端積みされており景観的にも誠に趣を感じるが、水面までの距離が近いため、増水するとすぐ氾濫するのではないかとやや心配になる。背後に建つ屋敷風の建物はヴィクトリア・ホール(The Victoria Hall)と言い、ヴィクトリア女王在位60周年を記念して1897年に建てられた。
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次に、石橋を渡って対岸のヴィクトリア・ホール側から川沿いを下流に向け歩いてみる。ハイストリートと川の間は、芝生の公園となっており、シートに座ってくつろぐ人たちや、川遊びをする子供たちが見える。ハイストリート沿いに見えるショップやショッピング・モールの建物はコッツウォルズ・ストーン(ハニーストーン)で統一されており、こちらからの眺めも美しい。
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すぐに次の石橋が見えてきた。日中は多くの観光客で溢れかえるとのことだが、この時間(17時半)の人通りは少なく心地よいせせらぎの音も聞こえ、散策していると気持ちが癒される。しかし一番のお勧め散策タイムは、早朝(特に霧深い朝)らしいが確かにそう思う。
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この辺りまでが、ボートン・オン・ザ・ウォーターの中心部にあたる。石橋を渡りすぐ右側のリヴァーサイド・カフェでジェラードを買って再びハイストリート側の川沿いを歩いて出発した。

次にスローター(TheSlaughter)に向かった。このスローターにはアッパーとロワーの2つの村があるが、最初にロワースローター(Lower Slaughter)から見学する。小川(スローターとは小川を表す)のせせらぎと鳥の鳴き声しか聞こえない村と言われコッツウォルズ地方を代表する小さな村と言われている。ボートン・オン・ザ・ウォーターからは、直線距離で北に2キロメートルほどと近い。川に架かる橋の先がロワースローターの中心になる。
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なお、橋の手前を右折したすぐ右側の木立の中には、13世紀に建てられ1866年に改築されたセント・メアリー教会(St. Mary the Virgin) がある。教会前の通りは道路幅が広いためか多くの車が縦列駐車している。

さて、橋から眺めると川沿いに古い町並みが続いている。中央を流れる長閑な小川はアイ川と言い、7.6キロメートルの短い川で、アッパースローター(Upper Slaughter)とロワースローターとの間を流れボートン・オン・ザ・ウォーターの3キロメートル下流でウインドラッシュ川に注ぎ込んでいる。このアイ川左岸の通りはベッキー・ヒル(Becky Hill)と言い、1.5キロメートルほどでアッパースローターに到着する。それでは右岸の歩行者専用通りを上流に向けて歩いてみる。
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左端の三角屋根に時計の付いた趣のある建物はヴィレッジ・ホール(village hall)と言いイベントや絵画展などが開かれる。

村の大部分の建物は、縦仕切りの格子窓(mullioned windows)が特徴で16~17世紀にコッツウォルズ・ストーンを用いて建てられた。何人かの観光客に出会ったが、人通りがなくなると、川の流れる音だけが聞こえ、時が止まったかのような静寂な雰囲気に包まれる。
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橋から150メートルほど川沿いを進むと赤煉瓦の煙突が見えてくる。こちらは19世紀に建設されたミル(水車小屋)で、蒸気機関を動力としていたことから、巨大な煙突が添えられている。実際40~50年前まで粉ひき小屋として使われていたが、現在はオールド・ミル・ミュージアム(兼土産屋)になっている。
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煙突手前から右側に回り込んだ所がオールド・ミル・ミュージアムの正面入口になるが、本日の営業は終了のようだ。
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オールド・ミル・ミュージアムの正面に向かって右側には、ダイアナ妃とチャールズ皇太子が歩いたフットパスがある。入口には成婚日が記載された小さなパネルが掲げられている。
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この嫋やかな牧草地が広がるフットパスを30分ほど歩けば、アッパースローター至る。ゆっくり散策したいのだが、日の入りも近いので少し歩いてユーターンする。
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やはりここでも羊さんに注目される。
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アイ川左岸のベッキー・ヒルを1キロメートルほど進むと、右側に牧草地が広がり、奥にアッパースローター・マナー(Upper Slaughter Manor)が見えてくる。マナー(屋敷)の後方には、アイ川が右側の木々に沿って流れており、フットパスは屋敷の裏手に見えるペーンズヒルの丘まで続いている。
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外壁を含めた屋敷と牧草地の境界は全てコッツウォルズ・ストーンで統一されている。外壁と境界石のコッツウォルズ・ストーンは、小端積みにして頂上部を立て積みにしているが、これがコッツウォルズ地方の石積み工法の特色である。綺麗に刈りこまれた広大な牧草地に建つ夕日に照らされた屋敷はこの上なく美しい風景だ。
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通りのすぐ先の三叉路を右折するとアッパースローターの中心になり、小さなロータリー(バックショット広場)がある。北側と北西側に道が続いており、北西方向の路地を進むと門がありその先は上り坂になっている。路地は100メートルほどで聖ペーター教会(St Peter's Church)の時計塔のある南身廊側の入口に到着する。門から教会まで続く路地は芝生(所々に傾いた墓石が建つ)から1メートルほど低く掘り下げられ、両側にはコッツウォルズ・ストーンが小端積みされている。この教会が建つ辺りがアッパースローターの一番高い場所になるようだ。扉は閉まっていたので、身廊に沿って東側に回り込む。
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北身廊側は崖になっており石壁が設置されている。石壁から身を乗り出し覗き込むと、窓の形が印象的なオールド・スクール・ハウス(The Old School House)が建ち、そのすぐ左下(北側)には、アイ川が右側に回り込み流れている。
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石壁の右端は、直角に左側に曲がっており、その石壁に沿って細い抜け道となっている。その先でバックショット広場から北方向に伸びる通りに合流する。正面に立つ赤い電話ボックスを見ながら左折すると下りになりすぐにアイ川のせせらぎが現れる。こちらは、そのアイ川から、オールド・スクール・ハウス(坂上右側の最初の建物)側を眺めた様子で、右端の建物が聖ペーター教会。

アッパースローターでは、観光客にも出会わず、確かに鳥の鳴き声しか聞こえなかった。

次に、車一台がやっと通れるような道を北に1.5キロメートル進み、東西に伸びるB4068を左折し1キロメートルでノーントン(Naunton)と書かれた小さな標識に沿って右折する。通りの南側には、ウインドラッシュ川が流れており、ボートン・オン・ザ・ウォーターから8キロメートルほど上流(北西)に位置している。しばらくすると集落が現れたがノーントンは人口352人(2011年)の小さな村のため数百メートルほどの間だけだ。集落を西に進むと、小さな看板があり、右がvillage hall、左がHistoric Dovecoteと書かれている。
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左の路地を進むと、歴史を感じる古びた小屋が建っている。Dovecoteとはハト小屋の意味で、屋根の上にハトの出入り口らしき造りが見える。小屋の内側には903の巣箱が並べられているが、見学が可能な際は自己責任が条件とのこと。残念ながら(良かったのか。。)小屋は鍵が掛けられており内部を覘くことはできなかった。
入口手前の境界の立て積みのコッツウォルズ・ストーンは不揃いでかなり大ぶりな印象を受ける。

集落のある通りは、やがて狭い下り坂になり左側にバプテスト教会が現れるが、閉まっていたので諦め再び来た道を戻って行く。集落の中心にあったパブ(The Black Horse Inn)は、ノーントン村唯一のガストロ・パブなのだろう。
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集落を通り過ぎると、周りに建物はなくなり牧草地や丘が広がる。東西に伸びるB4068を今度は東方向に進む。
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ノーントンからB4068を7キロメートルほど進んだ所にストウ・オン・ザ・ウォルド(stow on the wold)がある。まもなく午後7時半になるので、今日はここで終わりになりそうだ。
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ストウ・オン・ザ・ウォルドは、コッツウォルズ丘陵で最も標高が高い場所であることから「丘の上の町」と呼ばれている。町の中心部がこのマーケットスクエアになる。西側には、セント・エドワード教会が建っており、北側にはストウ・オン・ザ・ウォールド図書館(聖エドワード・ホール)が聳えている。
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マーケットスクエアの中央にはマーケット・クロス(十字架)が立っており、中世時代は羊毛取引の公正さを示す象徴だった。11世紀から12世紀頃は多くの羊の取引が盛んでコッツウォルズ地方で最も栄えた町の一つだったという。

十字架の台座下には、English Civil Warと書かれた20センチメートル角の小さなプレートが設置されている。これは17世紀の半ば、清教徒革命においてイングランドで行われた、国王派と議会派の軍事衝突である。1646年3月21日、マーケットスクエアから1.6キロメートル北のドニントン丘で、両派間で戦闘が繰り広げられた。当初、国王派が優勢だったが、議会派の攻勢により、国王派はマーケットスクエアまで追い詰められ降伏した。捕虜となった国王派の人々は、臨時の捕虜収容所(セント・エドワード教会)に収容された。
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両派の戦いは各地で繰り広げられ、この間の戦いを第一次イングランド内戦(1642年~1646年)と呼んでいる。最終的に議会派が勝利して内戦は終わるが、その後チャールズ1世の処遇を廻り議会派内の対立などが起こり第二次イングランド内戦(1648年~1649年)、第三次イングランド内戦(1649年~1651年)と国内の混乱は続く。チャールズ1世の処刑後、イングランド共和国(1649年~1660年)が樹立されオリバー・クロムウェルが護国卿となるが、護国卿政は5年で破綻し、王政に復したことから、清教徒革命は失敗に終わった。

マーケットスクエアから東南に下るディグベス・ストリート(Digbeth St)沿いには、洋服屋、キッチン・ショップ、おもちゃ屋さんなどが並んでいるが本日の営業は終了している。他にも広場周辺にはガラス製品や家具などのアンティーク・ショップが集まっており多くの観光客が訪れるという。
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ディグベス・ストリートを下り、東西に伸びるシープ・ストリート(Sheep st)と合流する左側には、ロイヤリスト・ホテル(The Porch House)がある。947年創業でイングランドでは最も古いホテルと言われている。ロイヤリストとは、国王派を表すことからイングランド内戦の記憶を受け継ぐ象徴的な建物となった。屋根にも窓があるため屋根裏にも客室があるようだ。ちなみに部屋数は14とのこと。
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こちらは、シープ・ストリート沿いにあるグループヴァイン・ホテルのバー。建物を飾る花が美しく目を引く。こちらの屋根にも窓が取り付けられていることから、やはり屋根裏にも室室があるようだ。
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駆け足でコッツウォルズの町・村を巡って来たが、時刻は午後8時となった。ストウ・オン・ザ・ウォルドも、日中は多くの観光客で溢れかえるとのことだが、流石に、この時間では人通りがほとんどなかった。
夕食はサイレンセスター郊外にあるバーンズリー・ハウス(Barnsley House)のレストランを午後8時半に予約している。ここからサイレンセスター(30キロメートル)までは、直線道路のA429で向かうが、渋滞などなければ予定通り到着するだろう。ちなみにA429はローマン・ロードとも呼ばれるが、これは古代ローマ時代に軍用道路だったためである。

サイレンセスター近郊からA429を左折し、バイブリー(Bibury)村を通る頃に午後8時半になった。
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通りの右側にパブ(The Village Pub)が現れた。ここは、バーンズリー・ハウスの系列店なので、まもなく到着するはずだ。するとすぐ左側にバーンズリー・ハウス&スパと書かれたゲートが現れた。約5分遅刻したが、ほぼ予定通り到着した。
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レストランのある屋敷は広い庭園の中に建っている。バーンズリー・ハウスの見所は何と言ってもガーデンだろう。イングランドで最も美しい庭の一つと言われ、1950年代にローズマリー・ヴァレリー(Rosemary Verey)が、長い年月をかけて完成させた。庭園は、ラバーナム(黄色いチョウに似た花を房状に付ける)、観賞用フルーツ、菜園等で構成され現代彫刻家サイモン・ヴェリティー(Simon Verity)の手による像が建つ装飾庭園(Knot garden)となっている。日々、庭師リチャード・ゲートンビー(Richard Gatenby)と彼のチームによって手入れが続けられていると言う。しかし、お腹も減っていることから急ぎレストランに向かった。
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ディナーメニューはアラカルトだけである。飲み物は、カラフェ・ワインがあったので、レストリーユ(lestrille)(19.25ポンド)とビラ・オー(Bila Haut)(18.50ポンド)(共にフランス産)を注文した。

前菜は、バーンズリー・ハウス自家製のテーブルビートのピクルス。テーブルビートとは赤カブに似ているが大きく異なる。肥大した根で糖分が高くかなり甘いのが特徴。ヤギの凝乳を挟んでリンゴやヘーゼルナッツと一緒に頂く(9ポンド)。
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次はリゾット。グリーンピースとミントで味付けされた珍しい一品(8ポンド)。
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本日の魚は、ロースト・ツナ。かなりのボリュームだ(25ポンド)。
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肉は鳥の胸肉で、中にローストされたコーンが入っている。付け合せはトウモロコシのピューレ、ベビーコーンや菜の花など(19ポンド)。
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レストランの売りは、ハウス内の専用キッチン・ガーデンから摘み立ての季節野菜を新鮮なうちに提供するとあったが、確かに鮮度抜群の野菜は、料理全体を引き立てており非常に満足だった。食後は、ライトアップされている庭園を散策してみた。
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プロムナード沿いあるライトは、逆円錐状の植込みに照らされ、中々幻想的な雰囲気だ。しかし写真ではよく伝わらない。。サイモン・ヴェリティーの彫像なのだろうか。。今日も慌ただしくなったが充実した一日となった。
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翌朝、昨日同様に、サイレンセスターのゲストハウス(B&B)で朝食を頂き、バーンズリーを越え、バイブリー(Bibury)に9時過ぎに到着した。残念ながら今朝は雨である。。最初に村の南に位置する後期サクソン様式の聖メアリー教会を見学した。羊毛産業で栄えていたことから羊毛教会(ウール・チャーチ)とも呼ばれている。
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バイブリーは、コッツウォルズ地方で最も人気のある村だが、この時間人通りはほとんどない。通り(B4425)の正面の緑に覆われた建物は、1650年に創業した老舗ホテルでバイブリーを代表するスワン・ホテルである。B4425はスワン・ホテル前で大きく右に曲がっており、この道路の下には、チェルトナムの東のブロックハンプトンに源を発し、テムズ川の支流となるコルン川(River Coln)が流れている。
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そしてコルン川の中州(中の島)にはスワン・ホテルのガーデンが広がっており、川沿いにはラベンダーの花が美しく咲いている。ちなみに、こちらはコルン川の南側からアーチ橋を眺めた様子である。19世紀イギリスの詩人でマルクス主義者のウィリアム・モリス(1834~1896)はバイブリーを訪れた際に村を「イギリスで最も美しい村」と呼んだ。
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スワン・ホテルを背にして通り(B4425)沿いを眺めると、コルン川の水を利用した水路が小さな橋の向こうに続いている。その先の建物は中世時代、毛織物を縮絨するための水車小屋で、現在はアーリントン・ミル博物館となっている。その手前右側の東屋はバイブリー・トラウト・ファームで、右側に大きな池が広がっている(この時期は緑が覆って見えにくい)。
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B4425通り沿いからトラウト・ファームの建物を見てみる。1902年にナチュラリストのアーサー・セヴァーンによって設立され、バイブリーでは最も歴史のあるマス養殖場である。広さは80エーカーあり、40を超す池の中で数百万匹の鱒を毎年育てていると言うから驚きだ。そのトラウト・ファームの通りを挟んで南側にはアーリントン・ロウと書かれたフットパスがあり、そこを下って行く。
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フットパスの左側には、牧草地が広がり、その奥にコルン川の流れが続いている。牛たちが放牧されており、のんびりとこちらを眺めている。木の下に集まって雨宿りの最中なのだろうか。
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フットパスを抜けると左右に散策路がありその向こう(南)側に古い建物が並んでいる。
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右側の散策路は上坂になっており、その奥にも建物が見える。
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左側に向かって進み、振り返って全体を眺めてみる。ここが、バイブリーで最も有名なアーリントン・ロウのコテージ群で、1380年に修道院の羊毛貯蔵所として建てられた。その後17世紀に機織り職人が住むようになり、この際に屋根裏部屋が付け加えられコテージに改装され現在に至る。ここで作られた織物はトラウト・ファームの隣にあったアーリントン・ミル(水車小屋)に送られた。
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雨が降っていて残念だが、朝早いことと、この天候も影響してか観光客が少ないのは幸いである。

建物を過ぎて左側にある穀物倉庫の壁面には、看板が掲げられている。そこには、ナショナル・トラストの資産を示すプレートと「1929年に、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ(The Royal Society of Artsにより購入され修理された」と書かれた石版があった。どうやらアーリントン・ロウへの見学ルートはこちらからだったようだ。
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次にスワン・ホテル前からコルン川に沿って遡るように北上しA429を越えて、チェッドワース・ローマン・ヴィラ(Chedworth roman villa)に向かう。チェッドワースは、バイブリーから14キロメートル北にあるが、ローマン・ヴィラはチェッドワース北側の山を越え北東側の麓をL字状に流れるコルン川沿いにあるため、南からローマン・ヴィラに行く場合は一旦東に迂回して向かうことになる。

A429からコルン川に沿って続く田舎道をしばらく走行すると川の流れと共に大きく右に曲がって行くが、ローマン・ヴィラは前方に伸びる更に細い坂道を上って行く。左手には、赤い表示板が立てられている。
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坂道を300メートルほど進むと突き当たりにビジターセンターの建物が現れた。バイブリーからは30分ほどであった。ローマン・ヴィラは、古代ローマ人が造ったイングランドにおける最も大きな別荘の一つで、2世紀から4世紀後半にかけて段階的に整備・拡張されたが、ローマ人の撤退後の5世紀には、破壊され土砂に埋もれてしまう。その後、1864年に猟場番人が偶然、敷石や陶器類の断片を発見したことから、古物研究家で下院議員のジェームズ・ファラー(James Farrer)により2年の歳月をかけ発掘された。
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1924年にはナショナル・トラストにより管理され現在に至っている。そのナショナル・トラストによる4世紀のヴィラの復元図を見ると、ヴィラはコルン川を見渡す丘陵地の斜面を掘り下げて造られた中庭(コートヤード)を持つ長方形の建物(約80メートル×約60メートル)だったことが分かる。ヴィラには、コルン川側の東門から敷地内(ロワーコートヤード)に入り、馬車を降り中央階段を越え(アッパーコートヤード)西奥にある屋敷に向かったようだ。遺跡入口には立体模型と案内図が展示されている。
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ヴィラは、農場主の別荘か宗教的な簡易宿泊施設かで長年歴史家の間で意見が分かれてきたが、現在では、裕福な農場主の別荘だった説が有力となっている。ビジターセンターを正面に見て右側に続く通路を進み左前方に見える木造の建物に向かう。復元図や立体模型によると西奥にあった屋敷になる。
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左側に視線を移すと遺跡群が続いているが、これらは南翼の建物の跡だろう。
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西奥の木造の建物は、2011年にモザイク保護と観光を目的に新たに建てられたとのこと。中に入るとすぐに見事なモザイク床が現れる。こちらのモザイクは、主に4世紀に建てられた建物の室内に設けられたダイニング・ルームや浴場の床に敷かれたもので、少なくとも11の部屋の床がモザイクで飾られていたと言う。観光客はモザイク床より一段上に設置された真新しい通路から覗き込みながら見学する。
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こちらは、トリクリニウム(triclinium)と言う古代ローマのダイニング・ルームに残るモザイク画で一番の見所になる。
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モザイクには、女神像や、酔ったサテュロスとマイナスタンバリンを持つプット春のイメージ冬のイメージなど生き生きと躍動する神々のモチィーフや美しい幾何学模様のモザイクなどが表現されている。

左側の幾何学模様のモザイクが見事に残っているのが高温泉のバルネウム(Balneum)で、右側が床暖房システムのカルダリウム(caldarium)。こちらにイメージ図が展示されているので分かりやすい。
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次に、北西側から北翼の遺跡群を眺める。北西角の建物には、僅かにモザイクが残る風呂跡があるが、隣の建物には、古びたレンガとひび割れた床のみが残されている
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北翼には、クビクルム(Cubiculum)と名付けられた多目的のホット・ルームがあったが、上部の床は失われ蒸気を通す床下のみが残っている。
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最後に遺跡群の中央に建つヴィクトリア朝時代に建てられた展示館を見学した。館内には、神々の像や、ローマ時代の円柱等の発掘品が展示されていたが、狭いスペースでもあり展示品は少なかった。
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時刻は11時半になった。雨は止む様子がない。今日は一日降り続くかもしれない。。次は、コッツウォルズ地方の西端に位置するチェルトナムを通ってウィンチカム(Winchcombe)に向かう。
(2015.7.23~24)
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イングランド・コッツウォルズ(その2)

2015-07-23 | イギリス
グロスターシャー州テットベリー(Tetbury)に到着した。今朝は、サイレンセスター(Cirencester)のゲストハウスで朝食後にすぐ出発したが、ここまで約40分ほど(A433沿いで20キロメートル南西に位置)の距離であった。現在朝9時半を過ぎたところ。正面に見えるクリーム色の建物は、1655年に毛織物の検量センターとして建てられたマーケット・ハウスで、現在も会議や市場として利用されている。
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なお、マーケット・ハウスの後ろに見えるのは、15世紀に建てられた老舗ホテル(the Snooty Fox)である。

中世ヨーロッパの一大産業は毛織物業であった。そのころイングランドとスペインが羊毛の生産地で、北イタリアとフランドル地方が毛織物産地であった。互いに活発な羊毛貿易が行われていたが、利益を巡って度々国家間の対立が起こり、このことが戦争の原因にもなっていた。イングランドは、14世紀中頃から毛織物製造業に転換して工業化を進め国民産業にまで成長し、16世紀後半のエリザベス1世(在位:1558~1603)治世時には、絶対王政における重商主義政策のもとで毛織物産業が保護され益々発展していく。

テットベリーは、毛織物取引の中心地として栄えた。地図を見ると、ここマーケット・ハウスを中心に放射状に道路が伸びており交通の要所であったことが分かる。21本のトスカナ様式の太い支柱で支えられたマーケット・ハウスは高床式倉庫に良く似ているが、この様式が毛織物の取引に最適だったのだろうか。なお、現在、この支柱内では、毎週水・土にマーケット、野菜、花、アンティーク販売などが行われ人気があるそうだ。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)

昨日から、レイコック、バース、カースル・クーム、サイレンセスター、テットベリーと巡ってきたが、これらの町・村は、コッツウォルズ(Cotswolds)と呼ばれる丘陵地(総面積が2038平方キロメートル(東京都とほぼ同じ)、標高300メートル以上に達し、特別自然景観地域に指定されている。)にある。コッツウォルズとは「羊の丘」の意味で、中世の頃から毛織物工場や縮絨工場が建てられ毛織物の取引が活発に行われてきた。北、中央、南の3地域に約100の村・町が点在しており、近年はイングランドの面影を残した古い石造りの建物や、美しい自然・景勝地に恵まれたカントリーサイドとして多くの観光客が訪れている。

さて、マーケット・ハウス先の交差点を左折してA433を西側に50メートル進んだ左側に、テットベリーで最も人気のあるハイ・グローブ(Highgrove)がある。ここは、チャールズ皇太子が運営するショップで、 オーガニック商品など生活に身近な商品を扱っており、連日、多くの買い物客で賑わっている。
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店内には、イングランド王家の紋章入り商品も並ぶなどワンランク・アップの気分に浸ることができる。こちらには皇太子御用達シャンパンなど、魅力ある商品で溢れている。お土産には、買い物や荷物入れに便利なジュート素材のエコ・バッグがお勧めだ。
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なお、郊外(南西)に2キロメートルほど行った所に、チャールズ皇太子のハイ・グローブ邸のガーデンがある。毎年2月からオンライン予約を受け付け、許可された場合のみ見学(シャンパン・ティー・ツアーズ)が可能だが、数年先まで予約済みだとか。。

再びマーケット・ハウスに戻り、通りを南に150メートルほど進むと、右側には観光案内所があり、向かい側には18世紀後半にゴシック・リヴァイヴァル様式で建てられた聖メアリー教会(St Mary The Virgin)が現れる。シャープな形が印象的な尖塔の高さは57メートルある。
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教会内は、イングランド独自のゴシック建築(垂直様式)で、湾曲したアプスではなく大きなステンドグラスを持つ平面的な後陣が採用されている。
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さて、引き続きA433を南西方向に進み(途中からA26バース・ロードになる)、ディラム・パーク(Dyrham Park)に到着した。昨日、閉園後に到着したため見学できなかった場所だ。テットベリーからは26キロメートル南西になる(この先、バースまでは15キロメートルの距離)。

車で訪問した場合は、街道(A26)に面した正面入口ではなく、少し南側にある路地を右折、しばらく進んだ所にあるゲートから入り、園内を走行して正面入口付近まで戻った駐車場に停める。チケットを販売するインフォメーション・センターは、その駐車場のすぐそばにある。
インフォメーション・センターから西側を見ると、南コッツウォルズの丘陵地帯を僅かに望むことができる。
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この時間、インフォメーション・センター横には屋敷「マナー・ハウス(manor house)」まで向かう専用バスが待機していた。歩く距離がわからなかったこともあり、乗ることにした。園内には、鹿が放たれているとのことだが、バスからは、牛か羊らしき姿しか見えない。
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屋敷に向かって少し進むと、印象派の絵画の構図を思わせる様な、丘陵地帯を背景とした美しいバロック様式の屋敷を眺めることが出来るのだが、残念にも修復工事中であった。ここでは修復前のウィキの画像をお借りし貼り付けた。
屋敷は、元々あった古い屋敷を、17世紀後半からウィリアム3世(在位:1689~1702)の秘書を務めたウィリアム・ブラスウェイ(William Blathwayt,1649~1717)の邸宅として改築されたものだが、現在はナショナル・トラストが管理している。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

なお、この屋敷は、ジェームズ・アイヴォリー監督の1993年イギリス映画「日の名残り(The Remains of the Day)」(カズオ・イシグロ原作)で、執事ジェームズ・スティーヴンス(アンソニー・ホプキンス)が仕えるダーリントン卿の屋敷(ダーリントンホール)として使われた。

インフォメーション・センターから屋敷までは、1キロメートルほどの下りだったので歩いても余裕だった。しかし屋敷が修復工事中だったのでバスに乗って良かったと無理やり納得した。バスは屋敷に隣接する建物の左端(南側)に停車した。そこから歩いて建物の間を進み左側の門からガーデンテラスのある中庭を通って外に出ると、
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目の前に綺麗に刈りこまれた芝生が広がる庭園が現れる。庭園には散策できるようにプロムナードが続いている。
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右側の修復工事中の屋敷の向こうには、聖ペテロ教会(St Peter's Church)が見える。オリジナルの部分は13世紀中頃で3階建ての塔が15世紀に加えられ、17世紀に改築されたという。
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プロムナードは、突き当たりで左右に分かれる。一段下には、長方形の池があり、更にその先に大きな苑池が見える。
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右折して、修復工事中の屋敷の正面から伸びるプロムナード方向に向かう。
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最初にこの屋敷に住んだのは、ヘンリー8世治世時にグロスタシャー州長官だったウィリアム・デニス卿(1470~1533)と言われている。その後、17世紀後半から18世紀前半にかけてウィリアム・ブラスウェイが、ウィルトシャー州出身の建築家兼ランドスケープデザイナーのウィリアム・タルマン(William Talman)に依頼し、チューダー式の屋敷をバロック様式に改築し、それまでの運河や幾何学的な花壇のあった平面幾何学式庭園(フランス式庭園)から、運河を埋め、より自然に近い風景式庭園とし馬小屋や温室を作った。

しかし屋敷や広大な庭園(敷地は274エーカー(東京ドーム約24個分)の広さがある。)は、その後相続した一族にはとても維持できるものではなくなり、家具や調度品等を手放し、屋敷も庭園も次第に荒れ果て森の中に埋もれてしまう。

第二次世界大戦中には、子供たちの疎開先として利用されたが、その後は手を加えられることもなくなり、1961年に、ナショナル・トラストに移管され一般に開放されることとなった。

修復工事中の屋敷前から伸びるプロムナードを西に進むと、ナショナル・トラストのボランティアスタッフにより、芝が刈られている最中であった。
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苑池の奥(西側)から外壁に沿って歩き庭園を一周する。この辺りが丘陵地の斜面に作られているディラム・パークの敷地端となり、一番低い場所になる。修復工事中の屋敷やガーデンテラスのある建物がかなり上に見える。
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苑池の南側は植物園で、木々のトンネルをくぐって、テラスのあった中庭まで戻ると、修復工事中の屋敷を見学できると聞いたので、ツアーに参加することにした。屋敷内の部屋で、現場のスタッフと同様の作業服とヘルメットが貸与され工事用エレベータで上って行く。エレベータを降りると屋敷の屋上で、周りは工事用の足場とフードで覆われている。
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最初に、東側(正面入口側)の屋上に飾られている石像を見に行く。欄干を飾るランプ像を過ぎて、中央まで行くと台座に備え付けられた鷲の像がある。この鷲はブラスウェイ家の紋章を表しておりバースの彫刻家ジョン・ハーヴェイ(John Harvey)により造られたもの。かなり汚れているが、修復工事中でもない限り、これほど間近で見ることはできないだろう。
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次に西側(庭園側)に向かう。中央の台座に手を挙げている天使像が見えるので、近づいて、見下ろしてみる。
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こちらも長年の雨風で、顔の汚れが酷く痛々しい。。
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西側の中央部分だけフードが取り払われており庭園を一望できる。ここから眺めると散策したルートも確認できる。庭園は、丘陵地と苑池から構成され自然の景観美を追求しており、文字通り「イングリッシュガーデン」といった印象だ。パノラマ画面はこちら
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階段を下りて行くと、観光客が屋敷内を見学している様子も見られた。屋敷内には、往年の家具や調度品などが展示されているが、次の予定もあるので、再びバスに乗りインフォメーション・センターまで戻った。

さて、ディラム・パークを出発し30分(東へ27キロメートル)で懐かしのレイコック村に戻ってきた。村のやや南にあるカーパークに到着し、レイコック・アビーを目指し路地を歩いて行くと、案内板があった。これを見ると、レイコック・アビーが村から少し離れた東側にあることが分かる。案内図に沿ってしばらく進むと右側にナショナル・トラストと書かれた建物が現れた。
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建物に入ると、左側にウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot、1800~1877)の紹介パネルがある。ここは、レイコック・アビーに暮らし、初期写真技術(カロタイプ)を発明したフォックス・タルボットの偉業を称える博物館になっている。周りは鮮やかな照明で照らされており、イーストマン・コダック社が1888年に発売した箱型カメラのレプリカや湿板(Wet Plate)カメラなどが並んでいる。他にも、折り畳み式カメラ(フォールディングカメラ)や二眼レフカメラなども展示されている。
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タルボット写真博物館を出て、敷地内を100メートルほど歩いて行くと、目的地のレイコック・アビー(Lacock Abbey)が見えてきた。この建物は、1229年にソールズベリーのエラ伯爵夫人(Ela,1187~1261)によりアウグスチノ女子修道院として建てられたが、16世紀の修道院解散後は廷臣ウィリアム・シャリントン(Sir William Sharington)とその一族の邸宅となり、19世紀にフォックス・タルボットの邸宅となった。現在はナショナル・トラストにより管理されている。
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中庭のある建物の前から右側にあるゲートを越えると、
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レイコック・アビーの正面口に到着する。左右いずれかの階段を上ろうとしたが出口専用らしい。このため建物に沿って歩き、
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左側に回り込むと、前方に小さな立札があった。こちらが入口のようだ。
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女子修道院を設立したエラ伯爵夫人は、第2代ソールズベリー伯ウィリアム・オブ・ソールズベリーの娘として1187年に生まれた。彼女の夫は第3代ソールズベリー伯ウィリアム・ロンゲペー(ヘンリー2世の庶子)で彼の死後(墓はソールズベリー大聖堂内)、ウィルトシャー州長官を務めた後、最初の女子修道院長となった。

その後、修道院解散令に伴い1539年に、ヘンリー8世の廷臣ウィリアム・シャリントンがレイコック・アビーを783ポンドで購入し邸宅として改造し現在の姿となった。なお東南角に建つ八角形の3階建ての塔(シャリントン・タワー)も彼の時代に建設されたもの。

修道院時代には、現在の建物手前(南側)に左右に伸びる身廊があり、中央の窓付近には説教壇(pulpitum)と、その塔までがクワイヤ(quire)だった。そしてクワイヤの手前(更に南側)には聖母礼拝堂(lady chapel)があったという。現在見える南外壁は、修道院教会の北内壁だった。
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ウィリアム・シャリントンは、教会堂を破壊したが(教会の鐘は売却し収益で橋を架ける等村民の利便性の向上を図っている。)、北西側の回廊と北東側の1階部分(the medieval basement)は基礎として残し、その上に邸宅を建設した。
シャリントンの死後は、弟のヘンリー・シャリントン(Henry Sharington)が邸宅を引き継ぎ、19世紀にはヘンリーの子孫のオリーブ(Olive)が、ジョン・タルボット(John Talbot)と結婚し、タルボット家の邸宅となり、その後、近代写真技術の生みの親となったフォックス・タルボットの邸宅となった。そして1944年にマチルダ・タルボットによってナショナル・トラストに寄付され現在に至っている。

館内に入ると左側にチャプレン室(Chaplains' Room)があり、奥の壁には近づけないようにロープが張られている。
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壁には13世紀に描かれた「幼子キリストを運ぶ聖クリストファー(聖クリストフォロス)」や、「聖アンデレ(X字型の十字架で処刑され殉教した)」の壁画が残っている。その右隣には、タルボット家時代に設置された暖房設備の配管が通っている。何となく痛々しさを感じるが、床板の下に配管を通しただけの感覚だったのだろうか。
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この部屋は、ウィリアム・シャリントン時代にビール保管庫として使用された。壁画の左側にあるドアの下部が破損しているのは、ビール樽を転がし通った跡だという。
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入口のある南回廊(cloister)から北側の回廊(一辺は約24メートル)を眺めてみる。設立間もないころの回廊は、初期ゴシック様式(またはアーリー・イングリッシュ)で、パーベック(Purbeck)石の円柱で建てられ、木の屋根で覆われていた。その後、4通路あった回廊は、コの字(北、東、南)の3通路となった。
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東側の回廊に行って北方向を眺めてみる。修道院は長年の活動により富が増加したため、1300年代後期から1400年代前半にかけてイングランド・ゴシックの華飾式や垂直様式で改築を行った。修道院時代の回廊は修道女が礼拝の合間に、祈りと黙想を費やす場所だったという。
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回廊の壁面側を見ると、柱頭上からリブが扇形に伸びヴォールトを支えている(ように見える)。そして、そのまま天井を見上げると横断リブと枝リブとのジョイント部分に装飾ボス(突起)(roof boss)がはめ込まれている。キーストーンを中心に見上げるとボスは八角形状に配置され彩色も良く残っている。枝リブには、所々にひっかき傷の様な跡が見えるが、これは石工のサインで、各々の石工にいくら報酬を支払うかを手助けしたサインと言われている。
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こちらのアルファベット文字や魚などの多彩なデザインは、修道院に寄付した地元の一族の紋章である。
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おもしろボスを見つけたので紹介してみよう。人魚(その1)と、人魚(その2)で左右対称のデザインのようだ。次に、魚に食われるロバと、魚に食われる羊と共にお尻を食べられるデザイン。他にも幾何学文様など様々なデザインがありバラエティに富んでおり見ていて飽きない。

東回廊の東側にある最初の部屋は、修道院時代の聖具室(sacristy)である。部屋に入り奥まで歩いて窓側から回廊方向を振り返ると、左奥に保管場所として利用されたのか2つの窪みが見える。左に視線を移して行くと窓側近くの壁には小さな窪みと大きな通路らしき跡が残っている。現在は煉瓦で塞がれているが、この通路の向こう側がクワイヤだったのだろう。それにしても周りの壁の漆喰は大きく剥がれ煉瓦がむき出しになっており、時代の流れを感じる。
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再び東回廊に出て先の部屋に入ると、一段と広い空間が現れる。こちらは参事会議場(チャプターハウス)だったようだ。
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逆光になるため、窓側から回廊方向を眺めてみよう。床にはヴィクトリア朝時代のタイルが敷き詰められている。柱の足元には1200年代当時のオリジナルのタイルが展示されているので対比すると面白い。壁面の漆喰は聖具保管室と同様にあちこち剥がれている。
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なお、この部屋は、14世紀、レイコック村の十分の一税(中世ヨーロッパで教会に対して農民が負担した税)の保管倉庫としても利用された。当時は主に現物(小麦かトウモロコシ)で支払われていたようだ。

更に北側には、暖炉の部屋(Warming Room)がある。修道院時代に正面奥の壁に大きな暖炉があったことから名付けられた。ところで、回廊とその東側の3つの部屋は、クリス・コロンバスが監督した2001年公開映画「ハリー・ポッターと賢者の石」と2002年公開の第2作「ハリー・ポッターと秘密の部屋」のホグワーツ魔法魔術学校の撮影で使われた。公開当時から数年間は、多くの観光客でひどく混雑したようだ。
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次に、2階(first floor)にある邸宅部分の見学に向かう。2階にはワインセラーや、キッチンなどがあり、フォックス・タルボットが生活していた時代を再現した書斎や、ピアノやハープのある広間などがあり、当時の調度品や書物などが飾られている。
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ここが、フォックス・タルボットが1835年8月に、最初に写真撮影に成功(史上初のネガ-ポジ法で複製が可能)した窓で、1階にある回廊入口(南側)の真上にあたる。窓の横には写真と当時の様子が詳しく解説されている。オリジナルの写真は、現在ロンドンのサイエンス・ミュージアムに保管されているようだ。
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食堂のテーブル上には、フォックス・タルボットを紹介したテーブルクロスや、写真付きのお皿が置かれている。
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邸宅の東南角に建つシャリントン・タワー(八角形の3階建の塔)の内部には、1225年版ヘンリー3世のマグナ・カルタの草稿のコピーが置かれている。元々1215年にジョン王により制定された憲章で、国王の権限を制限したことから憲法史の草分けとされたが、その後何度か改正されたうちの一つ。この1225年版はエラ伯爵夫人の夫ウィリアム・ロンゲペー宛てに送られたことから、代々レイコック・アビーの家主に受け継がれ、1946年にマチルダ・タルボットにより大英博物館に寄贈された。
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そしてこちらは、タワー天井の様子

最後に西側正面の左右階段を入った所にある大広間を見学した。室内には、壁龕があり、ややグロテスクな雰囲気の像なども飾られていた。筒型ヴォールトの天井には、一面紋章がトランプの様に散りばめられている。他にもマチルダ・タルボットにより大英博物館に寄贈された、1225年版マグナ・カルタに関する手紙や寄贈の経緯などが紹介されている。
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大広間から外に出て北隣にある中庭に向かう。周りは16世紀に建てられた切妻屋根に縦仕切り窓(mullion windows)のある古い建物だ。これらの建物は、ブリューハウス(ビール醸造所)、ベイクハウス(パン製造所)そして馬車置場などに使われた。中庭左側(北西角)の時計塔そばには、その一つ、ブリューハウスがあり当時の仕組みを見学することが出来る
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中に入り上からビール製造の様子を見てみよう。左端のタンクは、マッシュ・タン(Mash tun)と言い、麦汁(Mash)をつくるための、樽容器(Tun)とボイラー(Boiler)で、出来上がった麦汁は右側のクーラー(cooler)に注ぎ込まれて冷やされる。その冷やされた麦汁は、下の桶(発酵タンク(fermenting vessel))に溜まり、桶の下の蛇口からビールを抽出する仕組みになっている。
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さて、昨日同様にA429を20キロメートルほど北上し、今朝のスタート地点、サイレンセスター(Cirencester)に戻ってきた。時刻は午後4時過ぎ。町の中心部には、15世紀に毛織物産業で財をなした生産者の寄付で建設された「コッツウォルズの大聖堂」との異名を持つパリッシュ・チャーチ(教区教会)がある。
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サイレンセスターは、コッツウォルズの観光起点の一つで、この地方では最大の町だが、古くはローマ時代にまで遡る。地図を見るとサイレンセスターを中心として、X状に直線道路が郊外に延びているのが分かる。ローマ時代、ロンドンについで2番目に大きな町で「コリニウム・ドブンノルム(Corinium Dobunnorum)」と呼ばれており、これらの道路はローマ時代の街道の名残りである。現在、その中心部にある教会前広場では、週2回市場が開かれ多くの人が集まるそうだ。
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教会の南側にある後期ゴシック様式の3階建てのポーチ(Pogis)が教会への入口となるが入場時間は終了していた。
入口そばにはバス停があり、ここの場所からバイブリーやボートン・オン・ザ・ウォーター行きのバスが出ている。
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(2015.7.23)
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イングランド・コッツウォルズ(その1)

2015-07-21 | イギリス
ここは、レイコック(Lacock)村からやや北にあるダムソン・コテージ(Damson Cottage)で、オーナー夫妻が営業する家庭的な雰囲気のB&B(ビー・アンド・ビー)である。ストーンヘンジからは約40キロメートル北に位置しており、何とか日暮れ前(午後8時を過ぎたところ)に到着することができた。
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今夜の夕食は、村の中心部にあるレストランを予約しているが、既に予約時間になっているためチェックインを済ませ急ぎ出かけることにした。コテージ前の通りを右(西側)に歩き、すぐ先のエイボン川を渡って振り返るとローマ風の美しいアーチ橋を眺めることが出来る。
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地図を見ると、村の中心部へは一旦西に向かった後、南下する1.5キロメートルほどの距離だが、直線距離だと500メートルほどだ。左側にある路地を入ると、牧草地が広がり中央にフットパスが続いていることから直線で行けそうだ。牧草地を渡りきり石橋を渡って坂を下ると、聖シリアク教会(St. Cyriac's Church)が現れる。その教会前を右折したところがチャーチ・ストリートで、この辺りがレイコック村の中心部になる。

歩いて来た方向を振り返ると、中世時代の古い町並みが続いている。レイコック村は、村全体が「ナショナル・トラスト(歴史的建築物の保護を目的として設立されたボランティア団体)」の管理下にあり改築などに規制があるため、このように昔ながらの景観が保たれているのだ。
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聖シリアク教会の手前に見える赤い煉瓦色屋根の建物は村最古の建物(13世紀)を利用したB&Bで、キング・ジョンズ・ハンティング・ロッジ(King Johns Hunting Lodge)と呼ばれている。この建物は、ジョン王(在位:1199~1216)が狩りで利用したと言われている。

そして、チャーチ・ストリート右側沿いにあるベーカリーショップのすぐ先が、今夜のレストラン、サイン・オブ・ザ・エンジェル(Sign of the Angel)で、AA ロゼットアワード(AA Rosette)の2つ星の受賞歴がある。15世紀頃の建物で1階部分はハニー・カラー・ド・ストーン(蜂蜜色の石)で、2階部分は漆喰壁に木造の軸を配したハーフ・ティンバーから成っている。
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店内に入ると暖炉横のテーブル席に案内された。飲み物はフィッシュ・フック シラーズ(17.50ポンド)とピノグリ(グラス)(4.50ポンド)を頼んだ。最初にパンとアミューズブーシュが出される。料理は、アラカルトメニューだけのようだ。

前菜はアスパラガスのテリーヌ(6.50ポンド)とスコッチエッグとアスパラガスの付け合せ(8ポンド)を、口直しのシャーベットの後に、メインは、本日の魚(平目)(18.50ポンド)に、ラムステーキのアプリコット添え(19ポンド)※ステーキの下は付け合せ)を、そして最後にデザートサマープディング(7ポンド)を頂いた。
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美味しい食事を堪能でき大変満足だった。午後10時を過ぎレストランを出ると、村は真夜中の様にひっそり静まりかえっている。ライトで前方を照らしつつフットパスを抜けてコテージまで戻った。
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ダムソン・コテージでの翌朝。穏やかな光が差し込む窓際の壁には、牡丹に雀を題材とした絵が飾られている。ここのオーナー夫妻は日本に住んでいたことがあり、日本文化に造詣が深い。

窓から外を眺めると、美しい田園風景を望むことができ、何とも心が癒される。。
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ダムソン・コテージは、民家をリフォームした夫婦が直接営業している小規模なB&Bのため、シャワー、トイレは共同だが、すぐ部屋の隣でもあったため全く不自由はなかった。

1階のダイニングには、清潔な白のレースのテーブルクロスや、壁に掛けられた美しい皿や調度品の数々が並べられており、優雅な気分を味わえる。やはり壁には日本趣味の額が飾られているが、こてこて感のない作品で良く部屋の雰囲気に溶け込んでいる。オーナー夫婦のセンスは中々のものである。
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朝食は家庭的で一品ごとに丁寧に調理され大変満足するものであった。オーナー夫婦からは、帰ったらサイトで良い評価をしてね!とお願いされた。とは言え、レイコック村自体がコッツウォルズ観光には少し離れた場所になるため、車がないと不便だろう。少人数の個人旅行者にはお勧めの宿である。
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ところで、レイコック村の代表的観光名所は、レイコック・アビー(Lacock Abbey)だが、明日訪問することで、今日はレイコック村から西に約20キロメートル離れたサマセット州のバース(Bath)に向かう。

そのバースには45分ほどで到着した。ここはバース中心部から北西側の高台にある集合住宅「ロイヤル・クレッセント(Royal Crescent)」である。建築家ジョン・ウッド(子)により、1767年から7年間の歳月をかけて、パッラーディオ様式で建てられた。クレッセントとは、三日月を意味しており、文字通り華麗な曲線を描いた建造物となっている。住宅は、全部で30戸(地下1階、地上3階建て)あり、窓間にはイオニア式の柱(114本)が並んでいる。住宅内の一戸はOne Royal Crescent(博物館)として見学ができる。クレッセントの前面には広大な緑の芝生が広がっており、当時の上流階級の人々の散歩コースであったという。
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ロイヤルクレッセントのすぐ東側には、ザ・サーカスと名付けられたサークルがあり、周りの建物は、建築家のジョン・ウッド(父)が1735年にデザインし、彼の息子(ジョン・ウッド)が完成させた。建物は3階建でマンサード屋根を備えており、イオニア式の門柱を構えている。建物の多くはオフィスとして使用されている。
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なお、サークルから南に下るクイーン・スクウェアからゲイ・ストリートを結んだ地区にも指定建築物に指定されたジョン・ウッド親子の手による建物が並んでいる。

そして、ザ・サーカスの東側にあるのが18世紀ブルジョアの社交場だったアセンブリー・ルーム(Assembly rooms Fashion Museum)。やはり建築家のジョン・ウッド(子)によって1771年に建てられたジョージアン様式の建物で、第二次世界大戦で焼失したがその後忠実に再建された。
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アセンブリー・ルームは、ヨーロッパ屈指の上流階級の社交場として賑わい、毎晩のようにお茶会や舞踏会が開かれていたという。
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こちらの広間は、一度に800~1200人が収容できるほどの広さを誇っており、一列に並んだ豪華なシャンデリアの下で舞踏会が繰り広げられた。ちなみに、アセンブリー・ルームの地下にはファッション博物館(Fashion Museum)があり、16世紀後半から現代までの様々な衣装やアクセサリーが展示されている。こちらに入場する場合は8.75ポンド(一人当たり)かかる。今回は時間の関係からパス。
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バース中心部を南北に走るウォルコット・ストリート(Walcot Street)を南に向かうとバース寺院が見えてくる。
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左側にある「ギルド・ホール(1775年に建てられ市議会などが行われる。)」を過ぎ、バース寺院前から寺院に沿って右側に回り込む。
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バース寺院は、676年にベネディクト派修道院として創建され、973年に初の統一イングランド王、ウェセックス朝エドガー平和王(在位:959~975)の戴冠式も行われた歴史ある教会。その後、ロマネスク様式で改築されたが、現在の建物は1499年に司教オリヴァー・キングによりチューダー朝様式で改築されたもの。外壁を形作る石材は、地元で採れるバース・ストーンが使われている。

西側ファサードの両脇の柱には、キング司教が夢で見たという階段を上り下りする天使たち「天国への梯子」など魅力的な装飾が施されている。扇形の天井や壮麗なステンドグラスも見所だが、残念ながら見られず。。
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ファサード前はアビー・チャーチ・ヤードと呼ばれる広場となっており、バースで最も賑やかな場所である。その南側に古代ローマの公衆浴場跡である「ローマン・バース」の建物がある。ローマン・バスは紀元前9世紀に源泉が発見され、紀元前1世紀にローマ人によって、大浴場、サウナ風呂、水風呂、マッサージ室などを備えた温泉施設が造られた。隣にはスリス・ミネルウァ神殿が造られ、ローマ帝国各地から多くの人々が訪れる一大保養地として発展した。しかし、ローマ人撤退後の5世紀初頭から荒廃し、その後は洪水により泥で埋もれてしまう。
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現在のローマン・バースは、18世紀にジョン・ウッド親子の設計により建てられたもので、ローマ浴場跡博物館として年間100万人を超える観光客が訪れるなどイングランドを代表する観光名所の一つとなっている。それでは、料金(14.50ポンド)を支払い日本語の音声ガイドを借りて入場する。
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中に入るとシャンデリアが吊り下がるアーチ型の天井が美しいレセプション・ホールが広がっている。レセプション側の窓から眺めると、ザ・グレイト・バス(The Great Bath)と名付けられた大浴場があり、復刻されたローマ時代の彫像が見下ろしている。浴場自体は街路より一段低く覗き込むようになっている。
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レセプション側を眺めることができる浴槽の周りの回廊(南西側)まで下りて浴槽に手を差し入れてみるとほんのり暖かい。浴槽は深さが1.5メートルあり、かつてはバレル・ヴォールト(かまぼこ形の屋根)で囲まれお湯も透明だったが、現在は水質に問題がありお湯に浸かることはできない。浴槽の際には、かつて屋根を支えていた柱の基壇の跡が残っている。
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大浴場の北西角(写真:東南上部回廊からの視点)には源泉からお湯が注ぎ込む様子を見ることができる。

4世紀のローマン・バスの模型が展示されていたので、南西側から建物全体を眺めてみよう。中央東寄りの大きなバレル・ヴォールトの建物が大浴場にあたる。そして、その北西側に隣接するバレル・ヴォールト内には、源泉「聖なる泉(Sacred Spring)」がある。この泉から湧き出た源泉が隣接する大浴場に供給されているのだ。
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次に北西側から見てみよう。中央に建つ大きな建物がスリス・ミネルウァ神殿である。古代の人々は、東側のフォリー(folly)のそばを通りゲートをくぐって、一旦、中央の神殿に参拝した後、再びゲート近くに戻り、北側から浴場に入場したようだ。なお、神殿名は先住民のケルト系ブリトン人が崇拝していた知恵を司る土着の女神スリスとローマ人の医療を司るミネルウァ女神とが同一化され名付けられた。
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それでは模型同様に神殿があった方角から「聖なる泉」を眺めてみよう。大浴場と比べると約1/3程度の大きさの浴槽があり、周りには腰掛け椅子などもある。南壁面にはこの泉を最初(紀元前836年)に発見したとされるブリトン王ブラドッドの像が飾られている。
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湯面を見ると小さな気泡が浮き上がっている。今も地下から46度のお湯が毎日117万リットル湧出しているとのこと。浴槽のそばまで行くことはできないので、反対側(南側)に移動して窓から覗き込むと、浴槽のそばにはシャワールームの様なスペースも見られた。
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そして、こちらはレセプション側から窓越しに聖なる泉を見下ろした様子

館内には、湧き出た温泉が施設内へ供給、排水される様子を示した模型やパネルが展示されている。これらを見ると、源泉から溢れた温泉はエイヴォン川に流す仕組みになっていることが分かる。
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ちなみに古代の供給・排水システムは現在も稼働している。館内では、配管にお湯が流れる様子や、堆積物が付着した吹き出し口などを見ることができ、ローマ人の建築技術の高さに驚かされる。
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では、出土品を見てみよう。こちらは、スリス・ミネルウァ神殿のペディメント(破風)(Pediment)に飾られていたゴルゴーンの顔で復元された姿をCG映像で投射して当時の色彩を再現していた。CG映像で復元されたスリス・ミネルウァ神殿を見ると、神殿は階段を2メートルほど上った基壇の上にあり、4本のコリント様式の柱で支えられていた。高さは15メートルほどであったようだ。
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他にも、神殿敷地内のミネルウァ女神像の北側建物のペディメント(破風)を飾っていたルナとソルの像や、神々の像が彫られた石片などが展示されていた。

こちらの見学通路の上には、モニターがあり4世紀頃の神殿敷地内の様子がCG映像で映し出されていた。しばらくすると映像は、徐々に変化し、現在の通路と観光客の様子に変わって行く。この映像を見ると、見学通路下の遺跡は神殿ゲートをくぐり敷地内に入ってミネルウァ女神像のそばを通った所で、聖なる泉を覆っていた建物の北側入口付近であったことがわかる。
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見学通路からは、神殿入口前にあった階段の跡も間近で見ることができる。

神殿敷地内に飾られていたミネルウァ女神の頭部像も1727年に発見され展示されている。
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他にも奉納物と思われる8つの革製バッグ(レプリカで自由に触れることができる。)に入っていた17,577個のローマ銀貨(前32年~275年)や、呪いの板(入浴時に盗難にあったなど書かれている)など興味深い展示品もあった。

こちらは大浴場の東側にある4世紀に拡張された浴場跡で、バース寺院の南側廊の広場(キングストン・パレード)の地下に位置している。浴槽内には入りやすいように階段や腰掛け石があった。
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この風呂は、カルダリウム(caldarium)といい床暖房システムでハイポコースト(下から熱するの意)を取り入れた高温多湿のサウナ風呂である。煉瓦が積み重なっているのは、熱い空気を流すための仕組みで、当時は、この上に床があった。
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そして、カルダリウムで火照った後はこのフリギダリウム(frigidarium)と名付けられた円形の冷水槽に入る。壁面には入浴するローマ人の姿が映像で写し出されていた。
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他にもバルネウム(Balneum)という階段を降りて浸れる小さな風呂などもあり、現代の大型スパリゾートと変わらない施設の充実ぶりに感心させられた。再び大浴場の周りを散策すると浴槽周りの回廊には、古代の衣装に扮して観光客にサービスしている様子も見られた。
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最後に、大浴槽上部の神像のある回廊を歩いてみる。北西角(右端)に立つのは、コンスタンティヌス大帝(在位:306~337)で、中央がハドリアヌス帝(在位:117~138)、そして左端はローマの精神を象徴化した像である。
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ローマン・バス博物館の隣に「パンプ・ルーム」がある。1706年にバースの上流階級の人々が集まる社交場として建設され、今の建物は1789年トーマス・ボールドウィンによって施工され、その後ジョン・パルマーが引き継ぎ1799年に完成した。現在はランチやディナーが楽しめ、音楽会なども行っている。パンプ・ルームの温泉(キングズ・スプリング)は、1983年に新たに掘削された泉源から供給されるもので飲むことができる。
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パンプ・ルームを出て、ローマン・バース西側を南北に伸びるストール・ストリート(Stall St)を歩いてアビー・チャーチ・ヤード(バース寺院の西広場)に戻った。
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バースの景観を眺めるには、バース・スパ駅の南を流れるエイヴォン川対岸から南東の丘に伸びるプライヤー・パーク・ロードを上ったプライア・パーク・ランドスケープ・ガーデン(Prior Park Landscape Gardens)(ナショナル・トラスト)が知られているが、公園内に入らなければならない。しかし、プライヤー・パーク・ロードの一本東隣に走るウィドクーム・ヒル・ストリート(Widcombe Hill st.)を700メートルほど上り、左側の石垣を乗り越えて草原を歩いて行くと、すぐにバースの町並みを眺めることできる。時間がない時にはお勧めだ!
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この丘から眺めると、バースの町がバース・ストーン(蜂蜜色の石)で統一され、景観の美化・保存に力を入れていることが良く分かる。
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中央が北西方向になる。中央に見える修復中の鐘楼は聖ミカエル&聖パウロ教会で、そのすぐ東側をエイヴォン川が南(左側)に向け流れている。
左手前に見える鐘楼は聖ヨハネ福音教会(St John's Church)で、その左右後方に、ローマン・バスとバース寺院が見える。これらの教会が並ぶあたりがバースの中心部で、その後方の丘には、ロイヤルクレッセントも見える。
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この日は他に訪問者もいなく特等席を貸し切った気分になり大変満足であった。

次に、バースから、グロスター・ロード(A46)を15キロメートル北上したグロスターシャー州にあるディラム・パーク(Dyrham Park)に向かうが、午後5時で終了のようだ。しかたがないので、A46を戻り、すぐ先の交差点をMarshfield(マーシュフィールド)の案内に従い左折して、カースル・クーム(Castle Combe)に向かう。

ダイラム・パークから16キロメートル(バースからは北東へ25キロメートル)で美しさと静けさ、優美な建物で囲まれた小さな村(人口約350人)、カースル・クーム(Castle Combe)に到着する。村の中心は、14世紀に造られたマーケット・クロス(market cross)で、三本の道路が集まっている。手前の小さな石段は、バタークロス(buttercross)と呼ばれ、馬に乗降するための台であった。
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マーケット・クロスの西側には、聖アンドリュー教会(St. Andrew's Church)がある。
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教会内は、白を基調としたシンプルなデザインだが、内陣アーチには精密な彫刻が施されている。身廊のバラ窓や側壁のクリアストーリ(高窓)から明るい光が差し込んでいる。また、カースル・クーム・クロック (Castle Combe Clock) は、15世紀後半の作品で現役として使われている最も古い時代の時計の一つである。
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マーケット・クロスから南に伸びるザ・ストリートを歩いてみよう。このマーケット・クロスからザ・ストリートの民家の立ち並ぶ風景は、2011年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督作品「戦火の馬(War Horse)」で、アルバート少年が度々訪れるデヴォンの町並みとして使われていた。
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映画は、イングランド南西部デヴォンの貧しい農家に住むアルバート少年と馬ジョーイとの絆を描いた感動ストーリー。第一次世界大戦の激戦を軍馬として駆け抜けるジョーイの馬からの視点で悲惨な戦争に翻弄される人々の苦悩と生き様が描かれていた。

通りの右側の建物はロッヂのようだ。扉の上にはユニコーンのブロンズ像が飾られている。
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古い郵便局の先のバイブルック川(Bybrook River)に架かるバックホース橋(Back Horse Bridge)を渡り、歩いてきた方向を振り返ると、美しい町並みが広がっている。ここからの眺めがカースル・クームを紹介される際に良く使われる。
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橋の先からバイブルック川は通りの左側に沿って流れていく。
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川に沿って100メートルほど歩くと小さな橋があり、この先は緑の丘になりアッパー・カースル・クームへ向かうフットパスになる。
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バイブルック川には白鳥が羽を休めていた。何ともお伽ばなしの舞台になりそうな村である。
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マーケット・クロスまで戻って、バタークロスを越えて先の通りを進むと、
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14世紀に建てられた4つ星ホテルのマナーハウス・ホテル(Manor House Hotel)がある。ホテルには48の部屋と1.5平方キロメートルの庭園があり、村外れにはゴルフ場も所有しているそうだ。
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時刻は午後6時半になった。今夜は北東に35キロメートル行ったサイレンセスター(Cirencester)に宿を予約している。チッペンハム(Chippenham)からA350を経由しA429を北上する。

約1時間ほどで、サイレンセスターに到着した。中心部から800メートルほど南に位置するビクトリア・ロード沿いのゲスト・ハウス(The Old Bungalow Guest House)にチェックインして食事に向かった。レストランは特に予約せず、ビクトリア・ロードを400メートルほど北に歩いた所にある「ワゴン&ホースイズ(Waggn&Horses)」にした。入口のTuesday Steak Nightと書かれたお得な看板に引かれて入ったのだが、スタッフから今日は水曜日と言われ少し恥ずかしい思いをした。。
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飲み物はMarcel Hubert Merlot(15.50ポンド)、1/2ラガー(2.30ポンド)を頼み、前菜は、ハルーミ(ヤギ乳と羊乳の混合チーズ)とサラダ(Haloumi,Tomato,Pepper&Pesto Salad)(5ポンド)、メインはリングイネ(Pesto Linguini)(11ポンド)、と8オンス(226グラム)サーロインステーキ(8oz Sirloin Steak)(19.90ポンド)を頼んだ。
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デザートはソルベ(Ice Cream&Sorbet)(3ポンド)を頼み終了。

美味しいステーキだった。店内には他に10数人のお客がいたが、ほとんど地元らしく食べるより飲みながらトトカルチョで盛り上がっていた。
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午後10時過ぎにゲスト・ハウスに戻った。明日は、今日行けなかったレイコック村のレイコック・アビーとディラム・パークに行くために、再び南下しなければならない。サイレンセスターも中心部を素通りしただけで観光はしていない。明日は忙しくなりそうだ。
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(2015.7.21~22)
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