カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スペイン・トレド

2013-12-28 | スペイン(アンダルシア)
早起きしてパラドール・デ・トレドの客室のベランダから、トレド旧市街の全景を眺める。今朝は天候にも恵まれ素晴らしい景観だ。ベランダの左右とは格子(蔓草模様)のみで仕切られているため若干引いたが、この時間、他に人影はなかった。

トレド旧市街は、三方向(東西南)を、テージョ川(タホ川)(イベリア半島中央部を西に流れ大西洋に注ぐ)に挟まれた天然の要害の上にある。古くはローマ属州後、西ゴート王国の首都となり、711年からイスラムの支配下に入る。1085年カスティーリャ王国アルフォンソ6世治世以降はキリスト教国になるなど歴史上の数々の文明の痕跡を残している。1986年には、旧市街全域がユネスコの世界遺産に登録され、マドリードから(71キロメートル)は日帰りができる近郊観光の代表的都市として知られている。
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トレド旧市街に朝日が差し込み始めた。右側(東)にテージョ川が見える。今日はこれから旧市街を見学して、夜にはマドリードのホテルに到着するスケジュールだ。
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客室の下(1階)にあるテラス(宿泊しなくても入れる。)に移動して、旧市街を眺める。左(西側)に視線を移すと昨夜帰りに渡ったサン・マルティン橋(Puente de San Martin)が見える。
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それでは、パラドールをチェックアウトして旧市街に向かう。
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アルト自動車道を通り、東側からテージョ川を渡り旧市街に入る。テージョ川に沿って旧市街の外周(ファネロ通り)を右側にアルカンタラ橋を見ながら北側に向かう。アルカンタラ橋は旧市街への東口で866年に造られたが、1257年テージョ川の増水で破壊したため、アルフォンソ10世(在位:1252年~1284年)により修復されたものである。
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東西に伸びる大通りを西に向かうと、通りに沿って左側(南)に旧市街を守るための城壁が続いている。しばらく進むと通りはロータリーになり、城壁はそのロータリーの奥で「ビサグラ門」に繋がっている。門中央には神聖ローマ皇帝を現す双頭の鷲がはめ込まれ、尖頂にはトレドの守護天使サグラリオの聖母が剣をかざすなど威厳さと重厚さを感じさせる門作りである。ここは、マドリードからの国道の正面になり旧市街へと続くまさにトレドの玄関口なのだ。さて、「ビサグラ門」を左に見ながら通りすぎ西側に流れるテージョ川を渡って
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南側に回り込み、旧市街への西口となるサン・マルティン橋からは、歩いて旧市街に向かうことにする。このサン・マルティン橋は、13世紀に建設された。しかしペドロ1世とエンリケ2世との間で争われたカスティーリャ継承戦争(1366年~1369年)で大損害を受け、14世紀テノーリオ大司教により修復されている。
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橋の両端には石造りの塔が聳え上部には砦がある。テージョ川を渡った旧市街側の塔のアーチ上にも双頭の鷲の紋章がはめ込まれている。
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通りに沿って、坂道を上りやや南側に向かうと、右側に1476年カトリック両王によって建立されたサン・ファン・デ・ロス・レイエス教会が現れる。教会の壁面にぶら下がっている数条の鎖は、グラナダ王国の牢獄に囚われていたキリスト教徒が繋がれていたもので、カトリック両王はグラナダ陥落の象徴としてトレドに持ち帰ったものである。
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教会を見上げながら、道なりに進んでいく。帰りに見学することとする。
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教会を過ぎると、周りに建物が並び細い路地になったが、すぐに視界が広がった。右側に公園があり左側には広い歩道が現れ、その歩道手前に観光案内の立札があり入口がある。セファルディ博物館(Museo Sefardi)と書かれている。
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少し進んで振り返り、建物全体を眺めてみる。上部には、幅の狭い細い2つのアーチからなる鐘楼がある。
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博物館はトランシト教会(La Sinagoga del Transito)とも呼ばれており、もともとはユダヤ教のシナゴーグとして14世紀半ばカスティーリャ王国ペドロ1世の財務官サムエル・レビにより造られた。この大きな空間は最も神聖な場所で「祈りの大広間」と名付けられている。前方の観光客が集まる先(東側)に3つのアーチが見えるが、ここは「トーラー」と呼ばれユダヤ教の聖書が保存される場所である。見上げると天井は東洋風の木造からできており、右壁の上部には、宗教儀式に参加する女性席がある。
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「トーラー」のアーチの上部の壁面は、化粧漆喰でムデハル様式の華麗な装飾で覆われている。
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上部の女性席内側の柱には、幾何学模様で刻んだイェセリア(Yeseria)という黄金漆喰の装飾が見られる。トランシト教会は、15世紀カトリック両王によるユダヤ人放逐の後、キリスト教会になり19世紀には固定建築物に指定された。現在は、ユダヤ文化に関する品々が展示されている。
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シナゴーグに隣接してエル・グレコ美術館(Museo de El Greco)がある。入口は、通りを少し歩いた左側にある近代的な建物だ。
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入場して、館内をシナゴーグ方面に歩いていくと外に出て正面に2階建ての古びた住居が現れる。ここはエル・グレコが住んだ邸宅である。エル・グレコは、スペイン美術黄金期に活躍し、ベラスケスやゴヤなどとともにスペイン三大画家の一人にも数えらている。彼は、ギリシア領クレタ島、イラクリオン出身で、本名をドメニコス・テオトコプーロスというが、ギリシャ人を意味するエル・グレコと呼ばれた。揺らめく炎のように伸ばされた人物像が特徴的で、多くの宗教画を中心に作品を残し、当時の宗教関係者や知識人から圧倒的な支持を得た。
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エル・グレコはイタリアを経てスペインに渡り、1585年に、シナゴーグ創設者のサムエル・レビの大邸宅の一部を借り受け住居を定め、1614年に亡くなるまで住んでいたという。邸宅内には、大きな中庭があり、2階には中庭を取り巻くように回廊があり、そこから各部屋に入ることができる。
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この部屋からは、玄関側の庭が眺める。
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エル・グレコの死後、邸宅は荒れ果てるが、20世紀初頭、王立観光局長ラ・ベガ・インクラン侯爵が修復目的で買取り、16世紀調のスタイルで飾り付け、家具もその当時のものとし、エル・グレコの作品を収める美術館とした。
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内部には20ほどの部屋があり、アトリエ、書斎、寝室、台所が再現されている。
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各部屋には、エル・グレコの作品が展示されている。こちらは「聖家族と聖アンナ」。
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エル・グレコ晩年に描かれた「十二使徒の連作」が展示されている。救世主キリストを中心に。ヨハネ、ペテロパウロ、大ヤコブタダイ、アンデレ、ピリポ、トマス、バルトロマイ、シモン、マタイ、小ヤコブの使徒が、6人ずつ展示されている。
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こちらも傑作の一つ「悔悟する聖ペテロ」。ペテロの潤んだ目が良く表現されている。祈る聖ペテロの背後には、天使によってキリストの復活を告げられたマグダラのマリアが、イエスの墓を後にする場面が描かれている。
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16世紀当時のトレドを描いた「トレド市の展望」。雲の上に立つのはターベラ病院。その奥に先程通った「ビサグラ門」が見え、上空には、聖イルデフォンソに与える聖衣を持った聖母マリアの一群が舞い降りる。右側のエル・グレコの息子ホルヘ・マヌエル・テオトコプリがトレドの地図を示し、左側の巨大な人物像は、テージョ川(タホ川)を象徴的に表しているとされる。
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「瞑想する聖フランチェスコと修道士レオ」。フランチェスコの着る修道服は、彼の死後、原点の厳格な清貧主義の徹底を主張し、フランシスコ会から分派したカプチン・フランシスコ修道会のスタイル(頭巾)である。
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下の階の小さな礼拝堂には、聖フランチェスコの、最も有名な弟子を描いた「シエナの聖ベルナルディーノ」が飾られている。
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エル・グレコ美術館を出て先に進むと、すぐ通りは大きく左に曲がっている。曲がりきった右側に昨夜お世話になったレストラン、ラ・オルサ(La Orza)がある。
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次に、さらに100メートルほど進んだ所にあるサント・トメ教会(Iglesia de Santo Tome)を見学する。ここは、14世紀にモスクが改装されて造られたキリスト教会で、エル・グレコの最高傑作といわれる絵画「オルガス伯の埋葬」が所蔵されている。この絵は、14世紀、荒廃していたサント・トメ教会の再建に尽力したオルガス伯爵を題材に描いた作品で、彼が知識人や有力者に看取られながら昇天していく姿を描いている。天空にはキリストが描かれ、周りに聖母マリアや洗礼者ヨハネなど聖人や天使が描かれている。
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サント・トメ教会の左側(西)路地を北に向かうと、教会の裏側を東西に伸びるサント・トメ通りになる。時刻は13時40分。お腹が空いたが、レストランに行く時間はないので、サント・トメ通り沿いのファーストフードでテイクアウトにして観光を続ける。
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100メートル程でサルヴァトーレ広場(五差路)に到着。案内版に従い前方の路地を通ってトレド大聖堂(正式名サンタ・マリア・デ・トレド大聖堂(Catedral de Santa Maria de Toledo))に向かう。
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路地を抜け、正面に現れる巨大な壁面(大聖堂の回廊を取り巻く建物)に沿って右折し南に歩くと、左手前方に高さ90メートルの高さのトレド大聖堂の壮大な鐘楼が見えてきた。四角形の塔の上部に八角形の小尖塔から成っている。建造には、エル・グレコの息子で、画家・建築家のホルヘ・マヌエル・テオトコプリも携わった。
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トレド大聖堂は、大司教座のあるトレドにふさわしい大聖堂を建設することを目的に、1226年フェルナンド3世時代に建造が始まりカトリック両王時代の1493年に完成した。スペイン・ゴシック様式最高傑作といわれている。
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聖堂は、長さ113メートル、幅57メートル、高さ45メートルあり、スペインでは、セビーリャ大聖堂に次ぐ規模を誇っている。拝廊側のファサードの左には鐘楼が聳え、右側にはモサラベ様式の礼拝堂のドームがある。
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聖堂内は4つの側廊と22の礼拝堂がある。最初に、最大の見所の一つ「トランスパレンテ(El transparente)」から見学する。主祭壇から周歩廊に向かう天井にぽっかりと穴が開いているように見える場所がある。
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トランスパレンテとは「透明」を表す意味。一面フレスコ画で覆われており、この下の礼拝堂へ光を取り込むための目的で、18世紀、大司教ディエゴ・デ・アストルガの命により彫刻家・建築家ナルシソ・トメがチュリゲラ様式(スペイン独自のバロック様式)で制作した。
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その光が照らされる場所に造られた礼拝堂もナルシソ・トメの作品である。礼拝堂は、ブロンズ、大理石、アラバスター(雪花石膏)などを使い、チュリゲラ様式で造られている。トメは4人の子供と協力し11年の歳月を費やして完成させた。
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天使や聖母像は、きめ細やかな装飾が施され、天井から差し込む陽光が一層美しさを際立たせている。
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こちらは、ドイツ細工職人エンリケ・デ・アルフェ作による聖餅顕置台(高さ3メートル、重さ200キロ)。コロンブスがアメリカから持ち帰ったものとされる金に加え銀や宝石など5000個の部品を用い7年半の歳月を費やして造られた。なお、イサベル女王の王冠も下部に使われているとのこと。聖餅顕置台は、聖体祭でトレドの街を行列で練り歩くそうだ。
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それでは、主祭壇(大礼拝堂)を見てみよう。手前には、こちらも最大の見所、フランシスコ・デ・ビャルバンド(Francisco de Villalpando)が10年の歳月をかけてプラテレスコ様式で制作した鉄格子がある。鉄格子の上部には、カルロス5世の双頭の鷲の紋章があり、その上に十字架が乗っている。主祭壇の天井を覆う白煉瓦に黄金色のリブ・ヴォールトが鮮やかである。
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そして、その奥の主祭壇は、ゴシック様式で造られた木彫りの黄金衝立が飾られている。高さ30メートル、キリストの生涯を20の場面で表現している。こちらもフランシスコ・デ・ビジャパンドの作品で4年間に27人の工芸家が協力して作り上げた。
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振り返ると、上下2段に美しい彫刻で装飾された、くるみ材製の聖歌隊席(クワイヤ)がある。上段の聖歌隊席には、16世紀のスペイン彫刻家アロンソ・ベルゲーテとフランス人工芸家フェリペ・デ・ボルゴーニャによるルネサンス様式で造られた豪華な70個の椅子とアラバスターの柱が並んでいる。下段には15世紀ロドリゴ・アレマンによるゴシック様式で造られた50個の椅子が並んでおり、背あてには、陥落したグラナダ王国にカトリック両王が入城しレコンキスタが完成する場面を数々のレリーフで表現されている。
そして、豪華な聖歌隊席を見下ろすように、左右上部には、翼のようにせり出したパイプを持つ17世紀作の華麗なパイプオルガンがある。
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聖具室には、美術館が併設されており、エル・グレコの初期の傑作「キリストの聖衣剥奪」や、「キリスト処刑」、ヴァン・ダイク、ベラスケス、ゴヤなどの作品が飾られている。
1時間ほど見学した後、大聖堂の北側の「時計の門」から、外に出る。
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次に、東へ400メートルほど離れたアルカサルの北側にあるサンタ・クルス美術館に向かった。美術館は16世紀にトレド大司教メンドーサ(イサベル1世の顧問)の創立による病院施設である。建築家エンリケ・エガスにより10年の歳月をかけて造られた。正面の荘厳なファサードはプラテレスコ様式で建物はギリシア十字型である。1階には中庭を囲む回廊があり2階が美術館となっている。マドリードにあるプラド美術館の姉妹美術館でもあり考古学博物館も併設されている。
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館内には、エル・グレコの作品はもちろんのこと、トレド出身の画家の作品や、陶磁器、巨大なタペストリー、工芸品等が幅広く展示されている。中庭には、中央に噴水があり、周りに美しくニシキギやオリーブの木が植えられ鋭角状に園路が設けられており、周りの回廊には、ギリシャ・ローマ時代の柱や梁などの出土品が展示されていた。
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こちらの部屋にはエル・グレコの作品が並べられている。
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こちらは、エル・グレコ晩年の傑作でありサンタ・クルス美術館の代表作品でもある「聖母被昇天(無原罪の御宿り)」。下部にマリアを象徴するトゲのない赤いバラと白い百合の花を描き、そこを起点にマリアが、天を仰ぎ昇っていく様子がマニエリスム(曲がりくねり、引き伸ばされた人体表現)手法で見事に描かれている。
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他にも、聖ヴェロニカ「聖衣剥奪」「聖家族と聖アンナ」などを中心に1時間ほど鑑賞した。

サンタ・クルス美術館を見学した後、ソコドベール広場からショップ、土産屋、レストランなどが軒を連ねる一番の繁華街コメルシオ通りを歩き、もと来た大聖堂の方向に戻る。
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大聖堂を過ぎ、繁華街のトリニダ通りを抜けると、どんどん細い路地になり、アンヘル通りと書かれた通りを抜けると、
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目の前が開けて正面に懐かしの「サン・ ファン・デ・ロス・レイエス教会」が見えた。
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現在時刻は17時を過ぎた所。教会中に入り、主祭壇に向かう。
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主祭壇の両側には、カトリック両王の紋章が並んでいる。
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中庭を取り巻く回廊は、イサベリーノ様式(ゴシック様式がムデハル化した)で作られた美しい列柱が並んでいる。そして2階には、木製の美しい天井がある。
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30分ほど見学した後、サン・マルティン橋まで戻ってきた。
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最後にもう一度パラドール・デ・トレドから旧市街の眺望を満喫してトレドを後にする。
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すこし進むと、道路沿いに車が停まり多くの人がカメラを構えている。このあたりは撮影スポットになっているようだ。名残惜しく、再び旧市街を眺めると、日が沈み、街灯がつき始めた。これでトレドとは、お別れである。
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午後9時に、マドリード市内にあるミシュラン星付きレストラン、ラモン・フレイシャ(Ramon Freixa)にやってきた。カタルーニャ出身のシェフが作る料理で、地中海料理を中心とした伝統料理と最先端の創作料理の融合したタパス・スタイルのレストランである。


メニューは、1+1=3(Introduction+Starter+Main Courase+Dessert:70ユーロ)、The Experience(Introduction+1Starter+1Fish+1Meat+Cheese+Dessert:90ユーロ)、Grand Frx;first sight,romance,passion(Introduction+2Starters+1Fish+1Meat+Cheese+Big Dessert:110ユーロ)の3種類で、それぞれWine pairing(15ユーロ、40ユーロ、55ユーロ)がある。


最初に4小皿が提供される。次に2品3品トリュフキノコ1品、そしてメインの肉メイン魚3小皿、最後にデザートデザートデザート菓子で終了。ペアリングで提供されたワインは、マラ・マルティン ゴデーリョと、フィンカ・リオ・ネグロだった。どの小皿料理も芸術性や洗練性に優れておりワインとの相性も良く大変楽しめることができた。
翌日、午前10時10分発のフィンランド航空で、ヘルシンキを経由して日本に帰国した。
(2013.12.28)
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スペイン・アンダルシア(その4)

2013-12-27 | スペイン(アンダルシア)
セビリアからE05号線(A4)を北東に30キロメートルほど進み、インターチェンジから降り、A398号線を東に3キロメートルほど進むと「カルモナ」(Carmona)市内に入る。少し先で、公園が併設された中央分離帯のある通りとなり、前方に、アールヌーボー様式で1934年に建てられた市劇場「セレッソ劇場」(Teatro Cerezo)が見えてくる。そして、その先の靄がかかる鐘楼が「サン・ペドロ教会」になる。


「セレッソ劇場」のファサード前を通り、先の「サン・ペドロ教会」鐘楼を右側に見ながら過ぎると、セビリア門のある城壁(下の砦)前に到着する。こちらの門が、カルモナ旧市街への入口となる。門横に観光案内所があるが、この時間(午前9時50分)まだ閉まっていた。


セビリア門の前は、ロータリーになっており、手前側には、サン・ペドロ教会の後陣が面している。後陣の左奥が南袖廊にあたり、大きなクーポラがある。こちらは、18世紀に、セビリアバロック様式で建てられたもので、聖餐式礼拝堂となっている。

さて、セビリア門の城壁に上れるようなので、観光案内所前で待っているとスタッフが現れたので料金を払い階段を上っていく。城壁内には小さな展示室があり、カルモナの歴史資料や遺物などが展示されている。
さて、城壁の最上部にある胸壁から西側を眺めると、やや靄が晴れてきたのか、サン・ペドロ教会の鐘楼(1784年築)も見え始めた。鐘楼は、セビリア大聖堂のヒラルダの塔を真似て造られたとのこと。そして、その後方には、カルモナの町並みが広がっている。
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こちらは、カルモナ旧市街の北東側を眺めた様子で、すぐ手前に「サン・バルトロメ教会」(San Bartolome)の鐘楼が聳え、路地が旧市街中心地に向けて延びている。その中心地には、大きなクーポラの「救世主教会」(18世紀)や、左隣の「サンタ マリア修道院教会」(15世紀から19世紀)などが建っている。
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南東側に視線を移すと、電波塔付近から急斜面になっている。カルモナの旧市街(標高253メートル)の北、東、南側の三方向は高低差100メートルほどの急斜面となり、その先には平原が広がっている。カルモナ旧市街は、北東側から南西側に数十キロメートル続く断層帯にあり、特にいびつな突起状の正断層の上盤にある。この要害の地であるカルモナは、古くから軍事上の要所として栄えた。
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セビリア門のある砦(下の砦)下から、白壁の建物に囲まれた細い上り坂の路地を進むと、小さな円形の「サン・フェルアンド広場」があり、その先に、サンタ マリア教会や博物館があるが、閉まっている。周りは細い路地と白壁ばかりで建物の全体像がつかみにくい。こちらは「デスカルサス修道院」(Convento de las Descalzas)で、小さな広場があったことから、鐘楼やクーポラを見上げることができる。
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サン・フェルアンド広場から、路地を東に500メートルほど進むと急に視界が開け「マルチェナ門」(Marchena)(上の砦)に到着する。この砦の場所には、もともと、ローマ時代の城壁を基礎に要塞が造られていたが、1350年、カスティーリャ王ペドロ1世(在:1350~1369)が愛人マリア・デ・パディリアのためにセビリアのアルカサルと同じ職人を使って改装した居城の跡である。


ペドロ1世は、父王アルフォンソ11世(在:1312~1350)の病死を受けて王に即位したが、王権強化を目指し下級貴族を登用したことから、反発した有力貴族たちが父の庶子(異母兄)エンリケ2世のもとに結集し王位継承権争い(第一次カスティーリャ継承戦争、1366~1369)へと発展してしまう。また、母マリア(ポルトガル王アフォンソ4世の娘)を追放して、折り合いの悪かった王妃ブランカ(ブルボン家のピエール1世の娘)を幽閉し、死に至らしめ、フランス王家とも対立する。

そんな彼が唯一心を許し、愛情を注いだ女性が、マリア・デ・パディリアであり、セビリアから離れたこのカルモナの地に安寧の場所を求めたが、ペストで急逝する。

マルチェナ門を過ぎると、敷地の奥に「レイ・ドン・ペドロ(パラドール)」が見える。この建物は、数世紀の間放置され、地震等によって廃墟となったものを、19世紀末に復元し再建したもの。正面入口の上には、カスティーリャを示す3本の塔を持つ城と、レオンを示す冠をかぶった紫のライオンの紋章が飾られている。なお、レコンキスタの終焉となったグラナダへの侵攻を開始したカトリック両王のフェルナンド王とイサベル女王もこの場所にあった居城に滞在した。


パラドール内には、ムデハル様式の噴水に彩られた、アラブの雰囲気漂う見事なパティオ(中庭)がある。
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パラドール内には、ペドロ1世ゆかりの品がおさめられており、こちらの重厚なサロンがあるレセプションの隅には、プレートアーマー・ヘルメットが置かれ、その前にカルモナ、ペドロ1世のアルカサルと書かれている

王位継承権争いが続くペドロ1世は、1366年、フランス王とアラゴン王の援助を受けたエンリケ2世の進撃を受けたことで、イングランド王家の所領バイヨンヌに亡命するものの、イングランド軍を味方につけ反転攻勢に出て勝利する。しかし、1369年にイングランド軍が戦線離脱をしたため、一気に牽制不利となり「モンティエールの戦い」で敗北し戦死する。享年34歳であった。ペドロ1世は、有力貴族を弾圧したことから「残酷王」と呼ばれたが、治安が良く産業が栄え、庶民からは「正義王」との評価も得ている。。


カルモナでは、1時間半ほどの滞在を終え、次の目的地コルドバに向かった。コルドバの後には、更に400キロメートル先のトレドに行くことにしており、ゆっくりできない。コルドバは、E05号線(A4)で、北東100キロメートルほど先に位置しており、概ね1時間半ほど過ぎた、午後1時頃、コルドバ旧市街の西側を南北に延びる並木道の大通り(コレヒドール通り)(431号線)沿いに到着した。

コレヒドール通りから「メスキータ」へは、通り沿いにある城壁(西壁)の「セビリア門」(14世紀後半城内のサン・バシリオ地区の拡張に伴い設けられた)からくぐって向うのが近い。その西壁の手前には、10世紀頃の水道の遺構が残り、コルドバ出身で後ウマイヤ朝イスラム法学の権威イブン・ハズム(Ibn Hazm、994~1064)の像が建っている。像は、没後900年を記念して建てられたもの。彼は法学、神学、詩を中心に400篇近い著述を残し、特に文芸作品の恋愛論「鳩の頚飾り」が有名である。
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旧市街に入り、600メートルほど歩いた三叉路から左折して北方向に進むとメスキータの入場門があるが、右折して、多くの観光客がメスキータに訪れる際に渡るローマ橋の袂に行ってみる。

「ローマ橋」は、コルドバ市内を流れるグアダルキビール川に架かる古代ローマ時代に造られた橋で、戦争や暴動の度に何度も破壊され改修が繰り返されて現在に至っている。橋の側面は、増水にも耐えられるように、支柱部分に水の勢いを弱める補強ブロックが取り付けられている。なお、対岸の塔は「カラオーラの塔(Torre de la Calahorra)」で、タイファの一国「ムワッヒド朝」(1130~1269)により橋を守る為に建てられたもの。


こちらはグアダルキビール川を渡った対岸(南側)からの様子で、ローマ橋とメスキータを同時に一望できる。その「メスキータ」(Mezquita)は、スペインに現存する唯一の大モスクで、別名、「コルドバの聖マリア大聖堂」と呼ばれている。785年、イスラム教の寺院として後ウマイヤ朝(756年~1031年)初代アミールのアブド・アッラフマーン(在位:756年~788年)の命により建設され、その後、歴代のアミールにより拡張されてきた。
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ちなみに、後ウマイヤ朝とは、シリアを本拠としたウマイヤ朝がアッバース朝により滅ぼされ、逃れてきたアブド・アッラフマーンによりコルドバを首都として建国された王朝で、特に、10世紀のアブド・アッラフマーン3世(在位:912~961)治世に、西方イスラム世界の一大中心地として、バグダードやカイロとともに繁栄している。

コルドバは1236年にカスティーリャ王フェルナンド3世の軍により征服され、それまでのモスク(メスキータ)は、カトリック教会として転用されることになる。そして、16世紀、神聖ローマ皇帝カルロス5世時代には、中央部にゴシック様式とルネサンス様式折衷の教会堂に改築されて現在に至っている。

さて、メスキータの威容を正面に見ながら、ローマ橋を渡り終えると、正面に現れる「プエンテ門」をくぐることになる。16世紀にスペイン王フェリペ2世(在位:1556年~1598年)の命により建てられたルネサンス様式の門である。
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そして、プエンテ門の先は、アーチ・バルコニーのある3層のメスキータの南壁面で、その壁面から、左側に回り込み、西側の通りを北上する(なお、ここでいう「南」は厳密には、南東側であり、「北」は北西側に向いている。以下も同じ)。左側に見える塔は、18世紀フランス彫刻家ミゲール・ベデルディギエル作、サン・ラファエル(コルドバの守護聖人)の勝利塔である。
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この辺りが、城壁門(セビリア門)から600メートル歩いてきたメスキータの南西角の三叉路で、右側のメスキータ壁面に沿って北上し入口に向かう。壁面には、豪華に装飾された門が続いている。右側に最初に現れる門は、「聖霊の門(Puerta del Espiritu Santo)」で、モザイクタイルや浮彫が精緻に施されており目を見張るものがある。先隣りは「サン・ミゲルの門(Puerta de San Miguel)」と名付けられている。
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しばらくすると扉の開いた小さな「デァネスの門(Puerta Deanes)」が現れるが、こちらがメスキータへの入場門になる。
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「デァネスの門」を入ると左側(北)に、オレンジの木のパティオ(El Patio de los Naranjos)(中庭)が広がっており、そのオレンジの木の向こうにアブド・アッラフマーン3世の命により建造されたアミナール(Aminar)(塔)が聳えている。

右側(南)に側廊の門が連続する建物が「礼拝の間(Prayer Hall)」で、アブド・アッラフマーン1世が最初(785年)に建造した箇所である。当時はこれらの扉が全て開かれていたが、現在は閉じられている。この礼拝の間は、アブド・アッラフマーン2世(在位:822年~852年)、アブド・アッラフマーン3世、アル・ハカム2世(在位:961年~976年)により次々と南へ拡張されていく。その後、アル・マンスール(執権:976年~1002年)は、礼拝の間を東側に拡張したことにより、礼拝の間の外周は、135メートル×135メートルの正方形となった(パティオを含む総外周は、南北175メートル×東西135メートル)。チケットショップと入口は、このまま、礼拝の間の北側廊に沿って東隅まで進んだ所にある。
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メスキータ内に入ると、赤と白のコントラストが織りなす「円柱の森」と呼ばれる幻想的な世界が広がっている。
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「円柱の森」を構成する円柱は、856本が現存している。円柱上の赤白のアーチは、大理石、ジャスパー、斑紋岩などが使われている。アーチは2連で、上のアーチが半円形、下が柱頭手前で僅かに馬蹄形となっているが、この馬蹄形のアーチ(柱頭含め)は、西ゴート様式と呼ばれ、西ゴート王国(415年~711年)の特徴を受け継いでいる。この場所にはもともと西ゴート王国の教会があり、イスラム教徒がコルドバを支配したころ(711年)は、その教会をイスラム寺院として転用し使ったという。アーチ群は見事なまでの調和を保っておりその荘厳さに圧倒される。
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「円柱の森」の天井部分の多くは、白漆喰の円形天井かモサラベ様式の木造の平天井だが、こちらの中心付近に位置する天井は、教会堂建築特有の交差リブ・ヴォールトが見られ、柱頭の上から上部アーチを支える角柱には、僅かな部分を利用した浮彫像が見える。そして、先のアーチにはタンパン(ティンパヌム)を形成し聖人群の彫刻が施されている。
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この聖人群彫刻のアーチをくぐった南側の空間は、ヴィジャ・ヴィシオーサ礼拝堂(Capilla de Villaviciosa)といい、中央礼拝堂(後述)が出来る前に賢王アルフォンソ10世(在位:1252年~1284年)により改装し造られたキリスト教の礼拝堂である。
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礼拝堂内は多葉系アーチで覆われており、左側には、小さな磔刑像が祀られ祭壇を表している。磔刑像の横の多葉系アーチから奥を覗き込むとカスティーリャ王国の紋章や見事な浮彫が見える。真上を見上げると、天井には、ヴォールト内に花びら風の幾何学模様の彫刻が見られ、視線を右側に移して行くと、礼拝堂の身廊を形成しているのがわかる。この礼拝堂は、イスラム文化とキリスト文化など東西の諸様式が巧みに融合した美の空間である。
この位置から一番奥(南)に、アブド・アッラフマーン3世とその息子アル・ハカム2世が完成させたメスキータで最も重要で最大の見所となる「ミフラーブ(Mihrab)」がある。手前には鉄柵があり、多くの人が集まっている。
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壁面の壁を「キブラ」といい、その奥の小さな窪みが「ミフラーブ」と呼ばれており、メッカのカアバ神殿の方向を示す目印となっている。壁面には、精緻な黄金モザイク装飾で覆われており、コーランからの文言が装飾文字で刻まれている。この辺りは、ローマ橋を渡りきりプエンテ門を越えたメスキータの南壁面の内側にあたる場所だ。
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ミフラーブの前に設けられた天井を見上げると精緻な装飾が施された豪華な黄金のドームが広がっている。
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視線を右側に移すとこちらにもキブラ壁があり、天井を見上げると、ヴィジャ・ヴィシオーサ礼拝堂の天井によく似た幾何学模様が施されている。
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西側から、東側を眺めてみる。右側の鉄柵前に人が集まっているところがミフラーブ。この辺りの天井は、木製のモサラベ様式で覆われている。
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ミフラーブの左側(西隣)には、1697年、枢機卿ペドロ・デ・サラザールによって造られた聖女テレサの宝の礼拝堂(Chapel of Sant teresa)がある。礼拝堂内には、アントニオ・パロミーノ(Antonio Palomino) (1655年~1726年)の聖母画などの絵画が飾られ、中央には、細かい装飾が施された黄金の聖体顕示台がある。この聖体顕示台は、毎年6月に行われる聖体祭で担がれるそうだ。見上げると、白い漆喰とクーポラの下の8つの窓からの陽光で礼拝堂内が明るく輝いている。
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最後に、神聖ローマ皇帝カルロス5世時代にメスキータ中心部に増築した中央礼拝堂(聖マリア大聖堂)を見てみよう。「円柱の森」の低い天井に慣れていると、天空に突き抜けるような身廊の高さに圧倒させられる。ところで、カルロス5世は、建造途中のコルドバに現れ、現場監督に「前もってこのメスキータを見ていたら、決して許可を与えなかっただろう。建造中のものは、どこでも見られるが、壊されたものは世界のどこにもない。」と語ったという。なお、この大聖堂の工事は、250年以上かかり完成したのは1766年のことである。
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1時間半ほどメスキータを見学して、こんどは、南側プエンテ門から東に伸びるカルデナル・ゴンサレス通りを進む。周りにはアンダルシア地方らしい白壁に青や赤で縁どられた建物が並んでいる。


レストランやバルなども多い。またホテルやペンションもあり、この辺りに泊まるのもよさそうだ。


メスキータから400メートルは歩いただろうか。左側にポトロ広場(Plaza del Potro)が現れた。ポトロとは、仔馬の像にちなんで名付けられているという。
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広場には、旅籠メソン・デル・ポトロがある。ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテスも泊まったとされ、現在は、文化庁の管轄で中庭で、展示会や音楽会等が催される。


ここには、コルドバが生んだ歌手、フォスフォリート(Fosforito)を記念するフラメンコ・センターがある。フォスフォリートゆかりの品々はもちろんのこと、フラメンコの歴史、視聴コーナーなどがある。左側にはフラメンコギターの創始者で神様と言われた巨匠ラモン・モントーヤ(Ramon Montoya)の似顔絵も見える。
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ポトロ広場の東側には、「コルドバ美術館(Museo bellas artes de Cordoba)」がある。入ってみる。


この美術館にもオレンジの木で覆われた噴水のあるパティオ(中庭)がある。


こちらの絵画は、「ホセ・デ・リベーラ工房(Jose de Ribera y taller)」による「エジプトへの逃避(Descanso en la huida a egipto)(1638~1652年)」。ホセ・デ・リベーラ(1591年~1652年)は、バレンシア近郊のハティバ出身だが、主にイタリア・ナポリで活動したバロック期のスペイン画家。代表作にルーヴル美術館所蔵の「エビ足の少年」がある。
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こちらは、「アントニオ・デル・カスティーロ・サーベドラ(Antonio del castillo Saavedra)(1616~1668年)」の「フランチェスコの洗礼(Bautismo de San Francisco de Asis)(1663~1665年)」。サーベドラ(1616年~1668年)は、コルドバ出身のバロック期の画家。言わずと知れた、中世イタリアにおける最も著名な聖人、アッシジのフランチェスコのことである。洗礼名はジョヴァンニ(ヨハネ)であった。
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そして、同じくサーベドラの「聖パウロ(San pablo)(1655年)」。
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こちらは、スペインの巨匠「フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ(Francisco Jose de Goya)(1746年~1828年)」の「羊飼いの礼拝(Adoracion de los Pastores)」。キリスト誕生は、天使によって、まずベツレヘムの郊外で家畜の群れを守っていた羊飼いたちにもたらされた。羊飼いたちは、幼な子キリストの周りに敬虔な様子でひざまずく場面で、宗教画によく使われる題材である。
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さて、時刻は、16時半。それでは、コルドバを出発する。

************************************

トレドには、午後7時半過ぎに到着した。今夜はトレド旧市街を取り囲むテージョ川の南の高台にあるパラドール・デ・トレドに泊まる。そのパラドールからは、美しいトレド旧市街の夜景が見渡せる。正面に見える鐘楼のある教会がトレド大聖堂で、右側の長方形の建物がアルカサルである。チェックインを済ませ、これから旧市街に食事に向かうこととしている。
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その食事場所は、トレド旧市街の南西付近、コンテ広場の近くにあるレストラン、ラ・オルサ(La Orza)である。坂道のデスカルソス通りを南に下って、大きく右に回り込んだ右側に入口がある。カジュアルな雰囲気だが伝統料理を出すお店として人気がある。
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到着が遅くなったことから、午後9時からの食事となった。前菜は「アーティチョークハートとイカとマスの卵」で、アーティチョークを尖塔の様に立てたインパクトのある盛り付けとなっている。トリュフがトッピングされている。
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こちらも前菜で、皿一面に盛り付けられた「オルサのロース(イベリコ豚)半冷製 熟成チーズと松の実添え」。トマト、バルサミコがかけられ、チーズとの相性が素晴らしい。
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たしか、鹿肉だったような。。中がレアでタタキだった。はちみつ風の甘いソースで頂く。
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メインの「骨付ラム肉」。ブロックのためボリューム満点。見た目も大胆で力強さを感じる。焼き具合も抜群で大変美味しい。
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ワインは、スペイン・リオハの名門ワイナリー「マルケス・デ・バルガス(Marques de Vargas)」を頂いた。
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最後にデザートをいただき、プティ・フールで終了した。肉では、仔豚のローストやウズラがあり、魚ではタラやマグロを使った料理があった。伝統料理ということで、ジビエ系の素材やボリューム感はうなずけるが、かなり現代風なアレンジがなされており、初心者でも美味しくいただけた。
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時刻は23時になった。他に客はいなくなり、真夜中のように静かになった。
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西側のサン・マルティン橋(Puente de San Martin)を渡ってパラドールに帰る。人通りもほとんどなくなり、街灯も少なく薄暗く寂しい雰囲気だが、満腹なので、散策するのは最高に楽しい。
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(2013.12.27)
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スペイン・アンダルシア(その3)

2013-12-26 | スペイン(アンダルシア)
スペイン・アンダルシア州セビリア県の県都セビリア(セビーリャ)にやってきた。アルカサルの城門を抜けたトリウンフォ広場(Plaza del Triunfo)奥に目的地の「セビリア大聖堂」が聳えている。セビリアは、レコンキスタ以前の8世紀以降、タイファにより支配され、特にアッバード朝セビリア王国として繁栄したことから、既にこの地にモスクが存在したが、1248年にカスティーリャ王フェルナンド3世(在位:1217~1252)による征服が行われたことにより、キリスト教会として改築された。

現在の大聖堂は、セビリア大地震(1366年)で被った大きな被害を踏まえ、当時の教会参事会(1401年)が、後世の人たちが狂気の沙汰を発したと思うような巨大な聖堂を建てようと発起して1519年に完成した姿である。
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大聖堂の北側に聳える鐘楼は、モスク時代のミナレットを再利用した「ヒラルダの塔」(giralda)で、高さ95.5メートルで、アレクサンドリアの大灯台を模した四角柱となっている。1764年から欠かさず時を告げており、現在ではスペイン最古の時計と言われている。

巨大なセビリア大聖堂は、幅116メートル、奥行き76メートルがあり、スペイン・ゴシック様式の教会としては最大の建物で、世界的には、ローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次いで世界3番目の大きさを誇っている。
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聖堂に沿って歩いて行く。トリウンフォ広場の南側には、先ほど見学したアルカサルのライオンの門と城壁が見える。
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サン・クリストバル(Puerta de san Cristobal)の扉がある南翼廊に向かって左側にある建物から入場するようだ。
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扉を入ると右側に、チケット売り場があり、その先の改札を越えると絵画や彫刻などが並ぶ展示室がある。その展示室を過ぎ右側の通路を越えると広い空間が現れる。どうやら拝廊に近い南側廊から聖堂内に入ったようだ。

聖堂内は、建築期間が長かったこともあり、多くの建築様式が組み合わさり特異な印象を受ける。身廊の南北には2つづつ側廊が取り囲んでおり、空間のあちらこちらに礼拝堂や聖具室がある。最初に、身廊隣りの南側廊に沿って内陣方向に歩いて行くと、身廊部分に聖母の絵画が飾られた礼拝堂が見えた。
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身廊中央に立ち、礼拝堂の上部を見上げると、内陣方向に、鮮やかに輝く黄金の祭壇衝立(レタベル)が見える。
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内陣前に来ると正面は鉄柵で覆われており、その内陣の奥に高さ23メートル、長さ20メートルのキリスト教世界最大といわれる木造の黄金祭壇衝立が飾られている。祭壇中央には、銀の聖母マリアが飾られ、周りにはキリストとマリアの生涯が45場面にわたって彫刻されている。コロンブスが発見した新大陸で発掘された金銀が使われているという。仕切り格子は、16世紀初頭最高の職人と言われたハエンのバルトロメス父子とフリアール・フランシスコ・デ・サラマンカの手によるもの。
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この内陣前から振り返って拝廊側には、聖歌隊席(クワイヤ)がある。こちらもフランシスコ・デ・サラマンカの手によるもの。聖歌隊席は全部で117席あり、細かい浮彫彫刻が施されている。この聖歌隊席の正面裏側が、最初に見た礼拝堂の場所になる。
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聖歌隊席の左右には7,500本ものパイプを持つ巨大なオルガンがあり、
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更に天井を仰ぐと、白亜の複雑なリブが見て取れる。ちょうどこの場所が、聖堂の交差部にあたるようだ。
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交差部から南翼廊(袖廊)に進むと、正面にコロンブスの墓がある。4体の像により担がれているのが、1892年の米西戦争で植民地キューバを失った際に持ち帰られたコロンブスの遺骸が入っているとされる棺で、その棺をカスティーリャ、アラゴン、ナバーラ、レオンの4つの国王像が担いでいる。コロンブスはまさにスペインのヒーローなのだ。
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コロンブスの墓に向かって左隣りにある礼拝堂に入ると、正面左側に小さな扉があり、その奥が聖杯室になっている。そして聖杯室の正面を飾るのが、スペイン最大の画家フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco Jose de Goya、1746年~1828年)の「聖フスタと聖ルフィナ」である。
3世紀、セビリア出身の陶工職人、フスタとルフィナの姉妹はローマ司祭に命じられた異教礼拝のための供物制作を拒んだため殉教した。そして16世紀に発生したセビリア地震の際には、姉妹が倒れかかったヒラルダの塔を救ったとされる。
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再び側廊に戻って東隣の小さな聖具室を見ると、アンダルシアで活躍し、木の神と言われた彫刻家マルティネス・モンタニェス(Juan Martinez Montanes)(1568~1649年)の何ともリアルな磔刑像(Cristo de la Clemencia 1603年)があり、さらにその隣の小さな通路の奥には、大きな聖具室があり、ムリーリョやスルバランなどの絵画や、聖具などが展示されている。
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正面の絵画は、ペドロ・デ・カンパーニャ作の「十字架降下」で、その右側柱の前にある聖母像は先程の磔刑像の作者と同じマルティネス・モンタニェスの手による作品。この聖母像は、コーパスクリスティ祭(Corpus Christi)の行列で担がれる。更にその右側奥には、スルバランの「アビラの聖テレサ」が飾られている。聖テレサは、スペイン・ローマ・カトリック教会の神秘家で、修道院改革に尽力した人物である。

スルバランは、正式名をフランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbaran、1598年~1664年)といい、セビリア近郊のフエンテ・デ・カントスに生まれ、主にセビリアを中心に活躍した。スペイン絵画の黄金時代の画家で、作品には深い宗教的感情が表現されているのが特徴。カラヴァッジオのような明暗の劇的な対比を見せた作品も多い。
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そして、南東隅にある部屋は、参事会室(サーラ・カピトラル)で、プラテレスク様式で造られた見事な天井には、ムリーリョの「無原罪の御宿り」が飾られている。ムリーリョは、正式名をバルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolome Esteban Murillo)(1617年~1682年)といい、セビリア生まれの17世紀スペイン絵画の黄金期を代表する画家である。柔らかく繊細で明るい色調を用い圧倒的な人気を得た。
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後陣の中央にあるのが白亜のドームが美しい王室礼拝堂(この日は鉄柵で覆われ入ることができなかった。)で、その左隣にはサン・ペドロ礼拝堂がある。こちらには、スルバランが描いた祭壇衝立があり、中央上部の絵が、「無原罪の御宿り」である。
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北東隅からは、ヒラルダの塔に上ることができる。教会塔の多くは階段を上って行くが、この塔は、イスラム時代、騎馬のまま上れるように設計されたため、現在もなだらかなスロープになっている。70メートルの高さの展望台からは、市内が一望できなんとも気持ちが良い。南側を眺めると、先ほどまで見学していたアルカサルが見え、その奥にセビリア大学やスペイン広場も見える。
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西側を眺めてみる。グアダルキビル川(アルフォンソ13世運河)沿いにある18世紀に建てられたマエストランサ闘牛場が見える。闘牛場の川を挟んだ対岸側が、昨夜泊まったレジデンス(Residence Pierre et Vacances Sevilla)の辺りだ。右側の高層ビルは、運河沿いのトリアナ(Triana)地区で、再開発が進んでおり40階建てのタワーを建設しているという。
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塔から降りて、聖堂内の最北側廊を西に拝廊近くまで歩いて行くとサン・アントニオ礼拝堂があり、ここにムリーニョの「サン・アントニオ・デ・パドヴァの幻想」が飾られている。この絵は、1874年にサン・アントニオの部分が盗難にあったが、1年後にニューヨークで発見され無事戻ってきたそうだ。
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聖堂北側のオレンジの茂る「ナランホスの中庭」に出て、北側の翼廊とヒラルダの塔を見上げてみる。イスラム時代のミナレットは、先ほど上った鐘が並ぶところまでの高さであり、その上は新たに追加されたいう。
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ナランホスの中庭の中央には八角形の噴水がある。これは、礼拝前のウドゥー(手や口などを清める)の際に使用されたものである。このナランホスの中庭とヒラルダの塔だけが、レコンキスタ以前のイスラム時代の名残をとどめている。

次に、大聖堂から約1キロメートルほど北にあるセビリア美術館(Seville Museum of Fine Arts)を見学する。美術館の前(東側)は、緑が茂る広場となっており、中央には、ムリーリョの彫像が飾られている。
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美術館へは、ムリーリョ像の右側に見えるバロック風の円柱装飾のあるファサードから入場する。
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美術館内には、サーモン・ピンク色のアーチや窓枠に囲まれた美しい中庭がある。回廊内のセビリアタイルも見事だ。この美術館は17世紀の修道院を改装したものであるという。
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では、作品を見ていこう。こちらは、スペインを代表する画家、ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodriguez de Silva y Velazquez)の「銀行家ドン・クリストバル・スアレスの肖像(Retrato de Don Cristobal Suarez de Ribera)(1620年)」。ベラスケスが風俗画や宗教画を書いていたころの作品で、彼はこの3年後にフェリペ4世の肖像画を描き、以降宮廷画家となり、国王一家を始め、多くの宮廷人を描く肖像画家としての地位を確立する。
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こちらは、17世紀にセビリアやマドリッドで活躍したグラナダ出身の画家兼彫刻家、アロンソ・カノ(Alonso CANO)の作品「フランシスコ・ボルハ(Francisco de Borja)」。フランシスコ・ボルハは、1510年、スペイン貴族ガンディア公子として生まれ、神聖ローマ皇帝カルロス5世の宮廷に仕えカタルーニャの副王も務めた。しかし妻の死を契機に財産を全て放棄しイエズス会へ入会してしまう。宗教界では、無名の巡回説教師として生きたいと望んだが、周りの人々はそれを許さなかった。その後、彼はイエズス会の総長となり、更に歴代のローマ教皇や王族のアドバイザーとなる等、修道会の指導に力を尽くした。これほどの地位にも関わらず彼自身は生涯慎ましい生活を送ったという誉れ高き聖人である。
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こちらの展示室は、光りを取り入れた美しい天井装飾に、ドーム内にはフレスコ画も見える。修道院の身廊だった場所なのだろう。この周りに展示されているのが、セビリア美術館を代表する巨匠ムリーリョの作品群である。それでは、彼の作品を見ていこう。
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中央を飾る大きな「無原罪の御宿り(inmaculada La colosal)」を中心に、その下には小さな「ナプキンの聖母(virgen de la servilleta)」が、そして、左上から、「聖アントニオと御子(san antonio con el nino)」、左中に、「聖ジョセフと御子(san jose con el nino)」、左下に、「聖フスタと聖ルフィナ(santa justay santa rufina)」、右上が、「カンタリチオの聖フェリクス(san felix de cantalicio)」、右中に、「サン・ファン・バウティスタ(San juan bautista)」、右下に、「聖レアンドロと聖ブエナヴェントゥーラ(san buenaventlray san leandro)」が展示されている。
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側面にも、ムリーリョの作品が並んでいる。
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こちらにもムリーリョの「無原罪の御宿り(1668年)」が展示されている。
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こちらは、ムリーリョの「法悦のフランチェスコ(1645~50年)」。フランチェスコは、フランシスコ会の創設者で悔悛と神の国を説いた中世イタリアにおける最も著名な聖人の一人である。この絵は、1224年、彼が42歳の時、ラヴェルナ山中において六翼の天使から聖痕を受けたとされる場面で、両手を広げ、魂の平和と歓びを体験した瞬間の表情を神々しく描いている。
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ムリーリョの「ドロローサ(dolorosa)(1655年)」。ドロローサとは、ラテン語で苦難を表す。この絵は、十字架を担がされたキリストがゴルゴタの丘へと連れて行かれる最後の歩みを見つめる聖母を表しているのだろう。暗闇の中でキリストの光に照らされる聖母の悲しみの表情が印象的である。
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ムリーリョの「聖アウグスティヌスと聖母子(San Agustin con la Virgen y el Nino(1664)」。アウグスティヌスは、北アフリカのヌミディアの出身で、4世紀のローマ帝国に生き、当時勃興しつつあったキリスト教の礎石を築いた初期キリスト教最大の教父である。アウグスティヌスが持つ赤い塊は、燃える心臓で神への愛を象徴しているそうだ。
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続いて、スルバランの作品を見ていこう。こちらは、「聖トマス・アクィナス(Apoteosis de Santo Tomas de Aquino(1631))」。トマス・アクィナスは、13世紀シチリア出身でドミニコ会士。カトリック教会が認定する教会博士35人のうちの1人で、スコラ学派の大家でもある。この絵では、中央に本を持ちペンを振りかざし熱弁するトマスが描かれているが、パリ大学教授時代、諸派との神学論争を繰り広げた時の様子であろうか。記録によると、彼は非常に親しみやすい人柄で、議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったという。
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こちらは、スルバランの「聖ルイス・ベルトラン(San luis Beltran)(1636~1638年)」。聖ルイス・ベルトランは、16世紀スペイン・バレンシアに生まれのドミニコ会の修道士。ラテン・アメリカで布教活動を行い、多くの民族の人々を改心させた。
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正面に向かって左側は「聖ウーゴと食卓の奇跡(San Hugo en el refectorio de los Cartujos)(1630~1635年)」で、中央の青いマントを広げた聖母の絵は、「カルトゥーハの聖母(Virgen de las Cuevas)(1655年)」という。この絵は、美術館すぐ西に流れるグアダルキビル川(アルフォンソ13世運河)沿いのカルトゥーハ島(isla de la Cartuja)にあるカルトジオ会系の修道院サンタ・マリア・デ・ラス・クエバスのために描かれた。なお、この修道院は、1401年創設でコロンブスが航海案を練った場所としても知られ、1992年には、セビリア万博の中心会場となった。
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中世の服装をまとった女性の全身像が描かれた絵が8点展示されている。こちらは、そのうちの2点。これらの絵はセビリア市内のやや北部に位置するシンコ・ジャガス病院(Hospital de las Cinco Llagas)(1500年設立)のために描かれた。風俗画かと思ったが、タイトルは、「聖マリーナ(Santa Marina)(1650年)」「聖イネス(Santa Ines)(1650年)」とあり、聖女が描かれていることがわかる。聖イネスの名前はラテン語で子羊を意味するため、子羊を抱いた姿を描いたのだろう。しかし、聖マリーナの深い眼差しは何を意味するのだろう。アトリビュートもよくわからない。。
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フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco Jose de Goya)の「Retrato del canonigo D.Jose Duaso(1824年)」。ゴヤはベラスケスとともに、スペイン最大の画家で宮廷画家として重きをなした。
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フェデリコ・デ・マドラーソ(Federico de Madrazo)の「アンソアテギ氏の肖像(Retrato del senor Ansoategui)(1842年)」。マドラーソは、ゴヤ以降のスペイン・ロマン主義の肖像画家で、18歳でサン・フェルナンド王立美術アカデミーの準会員に推挙され、その後は宮廷画家として活躍しスペイン女王イザベル2世の肖像画を制作した。洗練された優美な肖像表現の中に、対象の個性を気品高く描写しスペインを代表する肖像画家として君臨した。
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この日は館内の見学者も少なく2時間たっぷり鑑賞できた。

その後、美術館を出て南に10分ほど歩いたサン・パブロ通り沿いに人気の高級生ハム(イベリコ豚)のお店、フローレス(Federico Flores)に寄る。生ハム・バーもあるので、小サイズの盛り合わせを頼んでテーブルで美味しくいただいた。持ち帰りも可能で、その場でスライスして、すぐに真空パックにしてくれるので土産にもお勧め。ワインとの相性も抜群で、噛みしめると味がしっかりして美味しいが、やや塩分が強い。。
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セビリア最後の夜の食事はミシュラン一つ星「レストラン・アバンタル」(abantal)でいただく。アバンタルは、セビリア大聖堂から直線距離で東に1キロほど行った住宅が立ち並ぶ一角で、団地風の建物に1階にある。
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店内は、明るく都会的な雰囲気で、テーブルがゆったり配置され、隣卓とも離れており落ち着ける。メニューは、7品(62.70eur)と9品(79.20eur)2つのテイスティングメニューがあり、7品を選択した。
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ファーストドリンクとして、白ワインをグラスで頼む。しばらくすると、ワンスプーンを含め3品の人参を使ったアミューズブーシュが運ばれてくる。次に濃いめのガスパチョをいただく。
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続いて生牡蠣の一品で、カリフラワーのソースに、松の実とオイルがかかっている。これは美味しくワインとも良く合う。
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次に冷製スープが出て、
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こちらは、鴨肉だったかな。。ここで赤ワイン、コリンボ(Corimbo)をいただく。コリンボは、リオハ・アルタ地区のトップワイナリーのロダがリベラ・デル・ドゥエロで立ち上げたエレガントでアロマを大切にしたワインである。
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メインの魚は太刀魚で、旬の時期でもあり脂も乗っており素晴らしい。やや酸味のあるソースとの相性も良くあっている。
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こちらは、イベリコ豚の肩肉で、グレープフルーツ風味の甘辛いソース味がかかっている。
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お腹も一杯になり睡魔が襲ってきた。。
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デザートは、マンゴー・カネロニの中にチーズ、ホワイトチョコムース、レモングラッセが詰め込まれた一品。最後にエスプレッソをいただいて終了した。
個人的には最後のカネロニのグニョグニョした食感はやや苦手だった。とは言え、さすがに星付で品数も一品一品のバランスもちょうどよかった。スタッフの対応も堅苦しくなく料理もスムーズに出て非常に満足だった。
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翌朝、空を見上げると、雲って雨が降りそうな天気である。午前8時半にレジデンスを出発し、グアダルキビル川に架かるサン・テルモ橋を渡ると、左側に正十二角形の塔が見える。この塔は黄金の塔(Orre del Oro)といい、もともと13世紀初頭に対岸にあった塔との間に鎖をかけて進入船を検問する目的で建てられた。かつて塔の上部は金色の陶器煉瓦で装飾されていたという。現在は海洋博物館として公開されている。
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次にコルドバ(Cordoba)に向かう。
(2013.12.26~27)
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スペイン・アンダルシア(その2)

2013-12-25 | スペイン(アンダルシア)
マラガ(Malaga)は、スペイン・アンダルシア州マラガ県の県都で、グアダルメディナ川の河口に位置している。フェニキア人によって築かれ、後にローマ帝国やイスラム諸国などに支配された。地中海に面した港湾都市で、リゾート地コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の玄関口でもある。

マラガ市内にあるヒブラルファロ山(標高130メートル)に「ヒブラルファロ城」(Castllo De Gibralfaro)があり、その東隣のパラドール( マラガ ヒブラルファロ)(Parador de Malaga Gibralfaro)の敷地内にある展望台から、西側となるマラガ中心部を見下ろしている。
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左側がマラガ港で、右隣にマラガ公園とパルケ通りが東西に走っている。更に右隣が、ペドロ ルイス アロンソ庭園で、宮殿を思わせる「マラガ市庁舎」(1919年築、ネオバロック様式)、先隣りに「マラガ大学」、更にその先隣りに、水色の屋上の「マラガ美術館」が立ち並んでいる。そして、右隣の丘の上に「アルカサバ(マラガ砦)」が僅かに見え、前方に見える鐘楼が旧市街に建つ「マラガの大聖堂」になる。

少し東側に場所を移動して、南側を覗き込むと、眼下に「マラゲータ闘牛場」(1874年築)が見え、海岸線との間には、高層ビルが立ち並んでいる。眺望を期待して、山の上に来たが、雨が降り続いているため、眺めは今一つである。。多少視界が明るくなってきているようだが、時間の関係もあるので市内中心部を散策することにする。
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ここは、マラガ旧市街のやや北側にある「メルセー広場」(公園)で、ヒブラルファロ山の西の麓に位置している。北側の歩行者通りからは、公園中央に、フェルナンド7世の絶対王政に反対して立ち上がったトリホス伯爵(1791~1831)と彼の48人の仲間(サンアンドレスのビーチで処刑、1831年12月11日)への敬意を示すオベリスクが飾られている。そして、その先、左側に見える鐘楼は「サンティアゴ・アポストル教会」(1490年築)で、パブロ・ピカソが洗礼を受けた教会として知られている。


そのパブロ・ピカソの生家が、歩行者通り沿いに立ち並ぶ建物の西角にある。ピカソは1881年、このマラガの地で生まれ10歳まで過ごしている。生家の建物は、1988年から「ピカソ生誕地博物館」として開館しており、ピカソ作品を始め、ピカソと交流のあった芸術家や、現代の画家や芸術家による絵画と彫刻のコレクションなどが収められている。


建物入口には、生家を証明するプレートが掲げられ、彼の遊び場でもあったメルセー広場内には、ベンチに座るピカソの銅像が設置され撮影のスポットになっている。この時間、朝から降り続いた雨はようやく止んだ。


そのメルセー広場から南の旧市街に伸びる路地(グラナダ通り)を100メートルほど歩き、左折した左側に「ピカソ美術館」がある。ここには彼の絵画はもちろん彫刻や陶器など未公開作品を含む約200点が常設されている。主な作品には最初の妻オルガを描いた「マンティーリャをはおったオルガ」、息子パウロを描いた「白い帽子をかぶったパウロ」や自殺した友人の肖像画「亡きカサヘマス」などがある。


更に路地を南に進むと、パラドールの展望台から見えた「マラガ大聖堂」( エンカルナシオン大聖堂 ※キリストの受肉・化身の意味)の鐘楼が現れる。
こちらは、メインファサード左側に聳える北塔で、高さ84メートルあり、それぞれ異なるアーケードとバルコニーを持つ4層から形成されている。3層目に14の鐘があり、八角形の4層目には時計が飾られ、頂部はドームを戴冠している。
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路地は、大聖堂の北袖廊前で行き止まり、左右への丁字路となっている。北袖廊に向かって左側は、カテドラル庭園で、右側は、北袖廊脇に直結する「サグラリオ教会」で、もともとは、モスクのミナレットがあった。

「マラガ大聖堂」は、カトリック両王の命により1528年からゴシック様式で建設が開始され、その後、ルネサンス、バロックなどさまざまな様式が混在し、1782年まで工事が続けられた。しかし、工事は、財政難のため中止となり、メインファサードと南塔は中央身廊と同じ高さのまま、未完成で終了している。このため、北塔だけのラ・マンキータ(片腕の貴婦人)とも呼ばれている。
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北袖廊にあるポータルは「鎖の門」(南袖廊ポータルは太陽の門)と呼ばれ、大きなアーチがあるポーチで覆われている。左右に極太の円柱を配し、上部はアーチ型のバルコニー付き窓や、コリント式の装飾柱など、華麗で繊細なバロック様式で装飾され、上に行くほど一層豪華に装飾が施されている。ホセ・デ・バダにより設計されている。

扉口を入ると、中央交差部の下には会衆席があり、多くの参拝者が集まっていた。向かい側の南袖廊のステンドグラスからの光とシャンデリアの光とで眩いくらいに輝いている。大聖堂は長方形の間取りで、広い中央身廊と左右の計3つの身廊から構成され、天井はすべて同じ高さの41.79メートルである。
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左側が主祭壇で周歩廊がある。右側の中央身廊には聖歌隊席があり、背後に42人の聖人の浮彫や様々なモチーフが施された突出したコーニスで豪華に装飾されている。礼拝堂は、全部で17あり、中でも「ロス カイドス礼拝堂」のペドオ・デ・メナ作「悲しみの聖母マリア」が見どころとして知られているが、クリスマスミサの最中で、見学することはできなかった。

聖堂の北袖廊前から東に向かう路地を200メートルほど進むと「マラガ美術館」前で、左側は「アドゥアナ広場」となる。広場の東端に小さな観光案内所(小屋)があり、その横に " Alcazaba、Teatro Romano " と書かれた案内看板と上り階段がある。


階段に上らずに、アドゥアナ広場を北側(左側)に少し歩くと、右側が開け、斜面を利用したローマ劇場の遺構(1世紀)と、丘の上にアルカサバ(マラガ砦)が一望できる。アルカサバは、丘の頂部の形状に合わせた細長い凧形の城壁を持つ砦で、対称軸が200メートルほどの長さがある。丘には、古くはフェニキアの要塞や古代ローマ時代の建造物があったが、現在のアルカサバは、11世紀初頭にイスラム王朝により築かれ、改築、改変を繰り返し、14世紀、ナスル朝(グラナダ王国)時代に、二重城壁へ、更に城壁左端から北東方面の「ヒブラルファロ城」との間に階段廊下が築かれ、複合要塞となっている。
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アルカサバは、スペインで保存状態の良い一つで、城壁内には、幾何学模様の美しいイスラム宮殿の一部と庭園の跡が残されている。なお、丘の向かい側は、ペドロ・ルイス・ アロンソ庭園、パルケ通り、マラガ公園と続く海岸エリアが一望できる。

旧市街を1時間ほど散策した後、海岸沿いのパシフィコ通りを南西方面に4キロメールほど進んだ海岸ビーチからマラガ市内を眺めてみる。遠くに見える峰々は、テハダ山脈、アルミハラ山脈などで、山脈を越えたところがグラナダ市になる。そして山脈の手前に見える小さな緑がヒブラルファロ山になる。マラガは小さい街だが、海岸リゾート地ならではのおしゃれな雰囲気もあり、機会があれば、宿泊してゆっくり過ごしてみたい。
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マラガから海岸沿いに30キロメートルほど西南に進み4キロメートルほど北上した山中に、イスラム風の白い住宅が立ち並ぶ「ミハス」(Mijas)(マラガ県)がある。熱を撃退するために塗られた石灰で統一された村で、アンダルシア地方では、19ほどが存在し、中でもミハスが、中心的な存在として、有数の観光地となっている。こちらは、ピルヘン・デ・ラ・ペーニャ広場の南にある洞窟寺院「ラ・ペーニャ聖母礼拝堂」の広場から見た風景である。
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ピルヘン・デ・ラ・ペーニャ広場の西側には小さな郷土資料館があり、そこからミハスで一番美しい通りと言われるサン・セバスチャン通りが高台に向かって伸びている。坂を上って通りを振り返るが、人通りも少なく閑散としている。この通りはお土産屋なども多いが、本日は休みが多い。
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階段を上ると、マラガ村の外周道路(A387号線)に出る。直線距離で約7キロメートル先の地中海もここからは良く見渡せる。
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道路沿いには展望台があり、ゆっくりミハス村を一望することができる。。中央やや右寄りの教会鐘楼の手前に見える白い楕円形の建物は、1900年に造られた闘牛場である。
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再びサン・セバスチャン通りを下って右側(南)の通りを進むと、展望台から見えた闘牛場の広場に出た。場内には入れないようだが、ショップは開いていた。
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すぐ先の、コンスティトゥシオン広場には、お土産屋さんやレストランやバルなどがあるが、こちらも閉まっているようだ。広場中心の噴水横にはクリスマスツリーが寂しそうに飾られていた。


先の階段を上ると、レストラン(アルカサバ)に展望台があり、地中海が見える。さすがにミハスの代表的なレストランは営業しており食事をしている人たちが見える。見晴も良くこのレストランで食事をするのは気持ちが良さそうだ。合計1時間ほど散策して、ミハス村を後にし、次に北西に直線距離で60キロメートル離れたロンダ(Ronda)に向かう。
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ロンダは、アンダルシア州、マラガ県の都市で、海抜739メートルの岩だらけの台地の上にある。街は東西に流れるグアダレビン川によって南北2つに分断されている。この2つの市街を繋いでいるのが、18世紀に造られたヌエボ橋である。かつての市庁舎を改装したパラオール・デ・ロンダ(Parador de Ronda)からそのヌエボ橋を眺めている。橋脚は深い渓谷の下部から、煉瓦を積み重ねて造られているようだ。橋脚の高さは100メートルで、下部は牢獄として使われたこともあったという。この渓谷に架かる石造りの橋の向こうがロンダの旧市街になる。
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ヌエボ橋を渡って対岸の旧市街側からパラドールを眺めてみる。パラドールの左側(西)が断崖絶壁になっているのがわかる。突然、雨風が酷くなり、渓谷からも強風が吹き上げてきて飛ばされそうだ。。


とは言え、身を乗り出して谷底を覗き込むと、グアダレビン川が見えた。


時刻は18時を過ぎた。日も暮れ雨風も酷く寒くなってきたので、旧市街の中心にある、サンタ・マリア・ラ・マヨール教会の外観だけ見て出発することにした。教会は15~16世紀に建てられ、鐘楼はムデハル様式を改装したものという。


ロンダから180キロメートル北西、アダルシアの州都、セビリア(Sevilla)に到着したのは、20時半頃である。今夜は、市内を流れるグアダルキビル川(アルフォンソ13世運河)の西側、パヘス・デル・コロ通り(Calle Pages del Corro)沿いにあるレジデンス(Residence Pierre et Vacances Sevilla)に宿泊する。ここは、部屋にキッチンのあるダイニングルームがあるので、自炊が可能である。しかし、時間も遅くなり、急ぎチェックインして、外食に向かう。


レジデンスから近くのイザベル二世橋(Puente de Isabel II )を越え300メートル進み、交差点を右折し、北西に伸びるサラゴサ通りを250メートルほど行ったフエバ広場のそばにあるリストランテ・カサ・クエスタ(Restaurante Casa Cuesta)で食事をする。


店内は、スタッフのいるカウンターが奥にあり、手前のフロアーからやや高めの位置にテーブル席がある。天井も高く開放的な空間となっている。アサリとポークをいただいた。
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すっかり、お腹も一杯になり、再びサラゴサ通りを歩く。時刻は午後11時を過ぎたが、通りのバルでは、多くのお客さんで盛り上がっている。レジデンスまで1.5キロメートルほどなので、歩いて帰った。


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翌朝。今日は一日、セビリア市内を見学する予定だ。外に出てみると、空は晴れ渡り、市内観光には絶好のコンディションだ。グラナダで調達した朝食を食べてレジデンスを出発した。

最初にセビリア中心部からやや南寄りに位置する「スペイン広場(Plaza de Espana)」から見学する。スペイン広場は、マリア・ルイサ公園(Parque de Maria Luisa)の一角にある。広大な公園は、元は近くのサン・テルモ宮の庭園だったが、1914年に一般市民に解放され、その後、1929年開催の「イベロ・アメリカ博覧会」の会場となったところ。こちらの両翼が半円形に延びる回廊を持つ美しい建物は、博覧会のパビリオン(スペイン館)として造られた。
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この建物は、建築家アニバル・ゴンサレスの手によるもので、広場を囲む半円形の下には、スペイン各地の様子や歴史的場面を描写した58もの壁面タイル絵のベンチが置かれている。
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美しい建物は映画のロケ地として何度が利用されている。「アラビアのロレンス(1962年英)」では、ロレンスがアラブ軍によるアカバ陥落をイギリス陸軍に告げるため、部下のアラブ人少年と共に、シナイ砂漠を横断して辿り着く陸軍司令部のあるカイロのホテルとして使われた。また、最近では、「スター・ウォーズ エピソードⅡ/クローンの攻撃(2002年)」で、パドメとアナキンが 惑星ナブーに着いた直後のシーンで使われた。
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宇宙船は、噴水のある広場中央近くに到着し、2人はR2D2を伴い、前方の美しいタイルで装飾された欄干のあるアーチ橋を渡り、宮殿の回廊を歩いて、新女王のジャミラとの謁見会場に向かう。

次は、アルカサルの見学に行くことにする。地図を見るとセビリア大学を挟んで、直線距離で北に700メートルほどである。もちろん直線で進めないが、歩いて行けそうだ。まず、スペイン広場の建物に向かって左側からマリア・ルイサ公園を抜けて大通りに進む。
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公園を出ると、前方に交通量の多いロータリーが見え、その奥に見える幅広の2階建てのセビリア大学の建物が見える。大学内を突っ切ることもできないので、セビリア大学の外周道路を時計回りと逆に迂回して行く。
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ここは、大学の東門のようだがゲートが置かれており学内には入れない。
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セビリア大学の北側に回り込み、通りに沿って西に進むと、軌道があり、しばらくすると撮影のタイミングが良く、前方から路面電車が現れた。


大学の北門は開いており、観光客らしき人々が大学の敷地内に入って行くので、一緒に入ってみる。セビリア大学の創立は1505年だが、この建物は王立タバコ工場として、1728年に着工し約40年の歳月をかけて建てられた、当時世界最大の規模を誇ったという。そして、タバコの生産は、20世紀半ばまで、200年にわたって稼働し続けた。その後はセビリア大学の本部として使われている。建物内にはスペインらしく美しいパティオが見られた。
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さて、再び、通りに戻り、西に向かうと大学の隣にホテル(アルフォンソ・トレッセ)が建っている。このホテルは、1929年の開業式にスペイン国王アルフォンソ13世も列席したセビリアでは最も格式のあるホテルである。引き続き、先に進む。ホテルの先からは通りが北向きにカーブしているようだ。
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すぐ右側にアルカサル(Reales Alcazares)の表示がある通りが現れ、奥に城壁が見えている。どうやらそろそろ到着のようだ。路地に入り、さらに右折して進むと、道は枡形になっている。左折すると、視界が広がり正面に、セビリア大聖堂が見えた。
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そして、振り返った左側が目的地のアルカサルの入口、ライオンの門(Puerta del Leon)である。時計をみると、時刻は11時8分。スペイン広場から約30分かかった計算だ。
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このセビリアの地は、11世紀、後ウマイヤ朝崩壊後にタイファの一国アッバード朝が首都としセビリア王国と呼ばれた。周辺諸国の中では最も繁栄したが、1248年にカスティーリャ王フェルナンド3世(在位:1217年~1252年)に征服され、以降はカスティーリャ王国の主要都市として発展した。


かつて、ムーア人の王や高官たちが住んでいたアルカサルは、14世紀後半、カスティーリャ王ペドロ1世(在位:1350年~1369年)の命により、イスラム時代の宮殿の跡地にグラナダのイスラム職人を雇い、アルハンブラ宮殿を意識したムデハル様式で改築・増築を進めた。彼はかなりのイスラムかぶれだったようで、宮殿内では、イスラムの服装を身にまといアラビア語の使用を強要したという。ライオンの門を入ると、広場になっている。観光客の奥に見えるのが、アルカサルのファサードになる。
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こちらは、天井をガラス張りにして自然光を取り入れたパティオ、人形の中庭(Patio de las Munecas)と呼ばれている。アーチの装飾は、超絶技巧と言っても良いほどに精密な浮彫である。
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連続する馬蹄形のアーチの向こうに多くの観光客が集まっている。
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その見事に装飾された馬蹄形アーチの向こうにアルカサルの中では最も贅を尽くしたとされる「大使の間(Salon de Embajadores)」が現れる。壁面には、アラベスクの蔓草模様や帯状装飾などで隙間なく埋め尽くされている。
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視線をそのまま天井に移すと、こちらも見事な木製(ヒマラヤ杉)の円形天井が現れる。天井の円形部分には、濃い金色に繊細な装飾が施され、周りの鮮やかな金の色彩と対比して眩いばかりの光を放っている。言葉を失うほどの美しさである。。天井のアップ画像を良く見ると、カスティーリャ・レオン王国時代のカスティーリャの城を表す紋章と、レオンのライオンを表す紋章とが、それぞれ配置されているのが分かる。
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「大使の間」の東隣には「乙女の中庭(Patio de las Doncellas)」と名付けられたパティオがある。アルハンブラ宮殿の「大使の間」を出るとアラヤネスの中庭が現れる造りに良く似ており、そのアルハンブラの美を超えようとする姿勢が感じられる。周りの建物は、1369年から10年の歳月をかけて造られた。アーチ下面の連続する突起状の装飾はムカルナス装飾を発展させた装飾表現なのだろう。アーチを支える白い大理石の円柱を対に配置(52本)することで、威圧感を軽減させている。とは言え、それでも少し重いかな。。2階部分は、16世紀にカルロス5世が完成させたという。
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アルカサル内には、多くの庭園があり、緑で溢れている。


左右に階段の上には多くの人が集まっている。左側の黄色い建物はカルロス5世の部屋である。
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このあたりはマーキュリーの庭と名付けられている。階段を上ると、水場があり、中央にマーキュリー像(ローマ神話に登場する神)が飾られている。水場の奥に見える建物は、イスラム時代の城壁を改造した建物でアーチ内にはギリシア、ローマ時代の神話の世界が描かれている。
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こちらは、カルロス5世の私室で、上部には、16世紀~18世紀にかけて製造されたフランドルのタペストリーが飾られている。また、壁には見事な彩色タイル(アスレホ)が飾られている。
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2時間ほど見学し、午後1時20分になったので、城門を抜けてアルカサルを後にした。次に「セビリア大聖堂」に向かう。

(2013.12.25~26)
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スペイン・アンダルシア(その1)

2013-12-23 | スペイン(アンダルシア)
年の瀬も押し迫ったスペインの朝はまだ暗い。こちらは午前8時のバルデペーニャス(Valdepenas)の様子で、正面の白い建物は、昨夜泊まった「ベラクルス ホテル」(Hotel & Spa Veracruz Plaza, Plaza Veracruz)である。


バルデペーニャスは、スペイン、カスティーリャ ラ マンチャ州、シウダ レアル県にある都市で、マドリードからは220キロメートル南に位置している。この地までは、フィンランド航空で関西国際空港を発ち、ヘルシンキを経由し、昨夜午後8時25分にアドルフォ スアレス マドリード バラハス空港に到着し、E05線(A4)を車で約200キロメートルを走行してきた。

ベラクルス ホテルの1階フロントでチェックアウトした際、騎士像をイメージしたオブジェが飾られているのに気が付いた。こちらのシウダ レアル県は、12世紀シトー会の傘下騎士団として、スペインで初めて設立されたカラトラバ騎士団の本拠地で、歴代の王たちとともにレコンキスタ(国土回復運動)を戦い、勇猛をとどろかせたという。


ホテル正面からすぐ南側が旧市街の繁華街となるが、人通りはなく閑散としている。繁華街先の右側にスペイン広場があり、広場の奥(北側)に「聖母被昇天教会」が建っている。この町並みは、1212年、ナバス・デ・トロサの戦い(北アフリカのイスラム王朝ムワッヒド朝とカスティーリャ王アルフォンソ8世を中心とするキリスト教諸王国連合軍との間に起った戦争)に勝利したカスティーリャ王国のベレンゲラ女王(アルフォンソ8世の長女)の指示により造られた。
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ところで、バルデペーニャスは、ワイン造りで長い歴史を持っており、夏は暑く冬は寒い大陸性気候を背景に、多くの葡萄品種が作られている。低価格にも関わらず高品質なワインが造られており、特に、センシベル(テンプラニーリョ)を主体にした赤ワインが代表的ワインとして知られている。

さて、これから、一路グラナダ(Granada)に向かう。E05号線を南下し、85キロメートル先で、E902/A44に乗り換える。バルデペーニャスから、グラナダまで、約220キロメートルの距離(マドリードからは400キロメートル南)である。


グラナダは、アンダルシア州グラナダ県の県都で、イベリア半島南東部にあるシエラ ネバダ(積雪のある山脈の意)山脈(最高峰は標高3,478メートル)の北西麓に位置している。

イベリア半島は、地中海世界の西方にあり、キリスト教とイスラム教が交差する地域となってきた。ローマ帝国滅亡後は、キリスト教国ゲルマン系の西ゴート王国が支配していたが、711年に、イスラム勢力(ウマイヤ朝)の侵攻により、西ゴート王国は滅ぼされ、イスラム教社会となる。その後、756年には「後ウマイヤ朝」が、コルドバで建国し、10世紀に最盛期となるものの、1031年に滅亡し、イスラム勢力はタイファ諸国(イスラム教諸王国)に分かれていく。これを機にキリスト教徒は、レコンキスタの戦いを活発化させていく。

キリスト教徒がイベリア半島各地で戦いを繰り広げた結果、13世紀にはナスル朝グラナダ王国(1237年建国)だけがイスラム教国となった。そして、キリスト教国のカスティーリャ王国イサベル1世とアラゴン王国の太子フェルナンドとの結婚(カトリック両王)により誕生したスペイン王国(1479年建国)は、1492年にナスル朝の最後の拠点グラナダを陥落させ、キリスト教国念願のレコンキスタを達成したのである。

グラナダ最大の観光スポットといえば「アルハンブラ宮殿」(la Alhambra)だが、先に、グラナダ旧市街に建つ「グラナダ大聖堂」(カテドラル)から見学する。その大聖堂周辺には、午前10時半頃に到着した。グラナダ大聖堂は、広い広場に面しておらず、隣接する古い町並みに溶け込む様に建っているため見つけづらい。こちらは、カンセル バハ通り(Cansel Baja)沿いから " 後陣(シュヴェ)のやや北側 " を見上げた様子である。
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グラナダ大聖堂は、1523年からエンリケ・デ・エガスの設計によりゴシック様式で進められ、5年後には、神聖ローマ皇帝カルロス(カール)5世(カトリック両王の孫で、スペイン王カルロス1世)の指示により、ディエゴ・デ・シロエがプラテレスコ様式(ルネサンス様式)に変更し建設が続けられた。1664年からは、アロンソ・カーノ(1601~ 1667)によりバロック様式が導入され1704年に完成している。

大聖堂の外観に沿ってカンセル バハ通りを西に向けて歩いていくと、北袖廊前に到着する。扉口脇の柱には、双頭の鷲に支えられた神聖ローマ皇帝カルロス5世の紋章をかたどった彫刻がある。
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北袖廊の先からは、石畳の路地になり、すぐ先に三層からなる鐘楼が聳えている。鐘楼は、当初81メートルの塔を想定していたが、財政的な理由から57メートルの高さで中止となっている。その鐘楼の外壁に沿って左に回り込むと、メインファサードになる。ピラスターで支えられた3つの半円形のアーチで覆われ、中央には、受胎告知の円形の浮彫(トンド)があり、直ぐ上にアヴェ・マリア(こんにちは(おめでとう)、マリア)と刻まれている。
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ファサードの前には、数段の緩やかな下り階段があり、その先に、大聖堂前の広場とは思えないほどの、小さなラス・パシエガス広場(Plaza de las Pasiegas)がある。

大聖堂へは、ファサードに向かって右隣の「サグラリオ教会」(Iglesia del Sagrario)から入場する。このあたりには、かつてナスル朝の大メスキータがあった。設計段階では、大聖堂のファサードの両脇にそれぞれ塔が建つ予定だったが、右側は建設すら至らず、後に現在の教会(サグラリオ教会)が造られた。
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大聖堂の内部は白で統一されておりとても明るい印象だ。柱や天井に至るまでスケールの大きさと優美な装飾に圧倒されられる。
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ステンドグラスと黄金に彩られた主祭壇はディエゴ・デ・シロエの作品。シロエと言えば、スペイン・ゴシック様式の傑作ブルゴス大聖堂の「黄金の階段」など各地の大聖堂を手掛け数々の作品を生み出したスペインの天才建築家である。なお巨大な円蓋までの高さは45メートルある。
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左右の身廊壁には、対になった豪華なパイプオルガンが設置されている。
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サグラリオ教会のファサード前から、右側に進み、教会の壁に沿って左に曲がり、細い石畳(オフィシオス通り)から、サグラリオ教会反対側に回り込むと「王室礼拝堂」への入口がある。礼拝堂は、後期ゴシック様式で豪華な黄金の祭壇衝立があり、聖具室には、カトリック君主の王冠や笏など、貴重なコレクションが収められている。絵画ギャラリーには、ルネサンス期のサンドロ・ボッティチェッリを始め、フランドル派のロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ディルク・ボウツ、ハンス・メムリンクや、15世紀のスペイン画家ペドロ・ベルゲーテ、バルトロメ・ベルメホなどの作品が展示されている。
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墓は、地下室の低い樽型ヴォールト天井の下にあり、イサベル1世とフェルナンド2世のカトリック両王、娘のカスティーリャのフアナ1世と、夫でフランス王フィリップ4世、イサベル・デ・アラゴン(イサベル1世の娘)の息子で幼少期に亡くなったポルトガル王皇太子の5人のお棺が収められている。カトリック両王にとって、レコンキスタ完成のグラナダは特別の街であり、中でも、イサベル1世はこの地を自らの墓所と決めていたと言われている。

次に「アルハンブラ宮殿」(la Alhambra)に向かう。こちらは、北側にある丘陵のアルバイシン地区から、南側の「アルハンブラ宮殿」を眺めた様子。丘の下の鐘楼は「聖ペテロ&パウロ教会」で、その先隣にはダーロ川が流れている。そして丘の上に、城壁に囲まれたアルハンブラ宮殿が、直径740メートル、幅205メートルの敷地に建っている。この地には、既に9世紀に城壁が存在していたが、現在の宮殿建設は、ナスル朝の開祖ムハンマド1世(在位:1232~1273)治世から始まっている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

ナスル朝とは、ムワッヒド朝(北アフリカのイスラム王朝でアンダルシア地方を支配)が、キリスト教諸王国連合軍に壊滅的な敗北を喫し(ナバス・デ・トロサの戦い)、第三次タイファと呼ばれる時代に蜂起したアンダルス系のイスラム勢力で、1238年、指導者ムハンマド・ブン・ユースフ(イブン・アフマル)(後のムハンマド1世)によりグラナダを首都とし建国されたタイファ。

ムハンマド1世により建設が始まった宮殿は、7代ユースフ1世(在位:1333~1354)治世頃に、概ね現在の姿になっている。その後「コマレスの塔」や「リンダラハ庭園」が造られ、ナスル朝の最盛期とされるムハンマド5世(在位:1354~1391)治世時には、城内にモーロ人貴族をはじめ2,000人以上の人々が住んでいた。

宮殿には、チケットショップや駐車場のある東側の「水の門」から入場するのが一般的だが、事前にチケットを購入していれば、他の門からも可能であり、宿泊ホテル「アルハンブラ パラセ」(Hotel Alhambra Palace)近くの「裁きの門」から入場した。すぐにカルロス5世宮殿の前(南角)の広場となり、北側に隣接するアルハンブラ宮殿最大の見どころ「ナサリーエス宮殿」(Palacios Nazaries)への入口前に到着する。この時間、入場を待つ長い列ができていたが、予約時間まで間があったため、先の「ワイン門」をくぐって西南側の「アルカサバ要塞」へ向かうことにした。


左側の兵士用住居が残る通路沿いを進んでいる。アルカサバ要塞は、13世紀にそれまでの古い要塞を改築して建てられたアルハンブラ宮殿のなかで最も古い建造物である。前方は「ヴェラの塔」と名付けられ、見張り塔として使われたが、初期はムハンマド1世の居城として建てられた。
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ヴェラの塔は、高さ26メートルあり、屋上からグラナダ市街を一望できる。南西やや右側に「グラダナ大聖堂」が見え、大きな後陣、中央ドーム、建設途中で中止となった北塔などを確認できる。左側(南側)に隣接する丘の先端には、3階建ての中央塔と2つの側面塔から構成される「朱色の塔(Torres Bermejas)」が建っている。
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視線を右側に移した北西側には、白壁の家々が階段状に並んでいる。この丘陵地区の家並みが、イスラム時代の最古の街並みが残るアルバイシン地区になる。敵の侵入を防ぐ城郭都市として造られたため、迷路のように道が入り組んでいる。
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振り返って東南方面を眺めると、正面手前に見えるオレンジ色の建物が今夜の宿泊ホテル「アルハンブラ パラセ」で、遠方に雪を頂くのが「シエラ・ネバダ山脈」である。なんとも素晴らしい眺めである。
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予約している時間が近づいてきたため「ナサリーエス宮殿」の入口に戻ると、入場の列は、先ほどの半分ほどとなり、カルロス5世宮殿の北壁面までとなっていた。


ナサリーエス宮殿は、メスアール宮、コマレス宮、ライオンのある中庭の建物群から成り立っており、見学者は「メスアール宮」から入場する。その入口となる外壁は、細密な縁取り彫刻で覆われている。
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メスアール宮は、アルハンブラ宮殿の中では最も古く行政と司法が執り行われた場所で、レコンキスタ後以降も数度にわたり改築されている。その長年にわたり受け継がれた繊細な彫刻世界には圧倒されるものがある。
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メスアール宮から中庭に出る手前のポルチコのある部屋は「黄金の間」と呼ばれ宮殿来訪者の控室として使われていた。壁面の浮彫も凄いが、アーチを飾る精緻な浮彫装飾は目を見張るものがある。天井は木造で、黄金で装飾された様々な文様で飾られている。
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「黄金の間」を出ると、大理石が敷き詰められ中央に水盤が置かれた「メスアールの中庭」となる。向かい側(南側)のアラベスクで飾られたファサードは「コマレス宮」の入口で、一層目には、タイルで縁取りされた2つの出入口があり、二層目にはアーチ窓を中心に左右に二連の馬蹄形の窓が配されている。こちらは、ムハンマド5世が、カスティーリャ王国からアルヘシラス(カディス県)を奪回した記念に建てたもの。
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そのコマレス宮の中でも最も広いとされる部屋が「大使の間」で、美しい装飾が隅々まで施されている。上部の馬蹄形の窓はステンドグラスで、室内に神秘的な光りが入り込むようになっている。
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アルハンブラ宮殿における木工天井の傑作で、杉の木をベースに色の異なる象眼細工で装飾された大空(宇宙)を表している。中央頂部がイスラムの楽園への入口とされ、四方の対角線は、楽園へ向かう四条の川を象徴しているとされる。
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コマレス宮からアラヤネス(天人花)の中庭に面したポルチコ内に出てみる。木製の扉にも隙間なく幾何学模様の装飾が施されている。
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ポルチコ内の両脇には、アルコーブと呼ばれる壁面の一部をくり抜いた小部屋があり、天井には、ムカルナスと呼ばれる形式の無数の鍾乳石状の繊細な装飾がなされている。僅かにかつての彩色が残っている。
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アラヤネスの中庭に出て、向かい側の南側からコマレス宮を眺めてみる。先ほどの大使の間は、後方の城壁に建つ高さ50メートルの砦の中にあったことが分かる。こちらから見る景観は、その砦の配置も計算した上で、中央の池(34メートル×7.10メートル)の水面に上下対称に水鏡として映り込む様に設計されていることに驚かされた。水は両端にある大理石の水盤器から供給され、左右は綺麗に刈り込まれたギンバイカ(マートル)の生け垣でかたどられている。
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アラヤネスの中庭を望むポルチコ内の壁面には、生命の樹の見事な彫刻が施されている。

そしてアラヤネスの中庭の東側にあるのが、アルハンブラ宮殿で最も有名な「ライオンの中庭」で、王族のプライベートな場所だった。124本もの大理石円柱で支えられた高度な透かし彫りのアーチ群が長方形の回廊を形成している。中央には、水盤を支える円状に配された噴水孔を持つ12頭のライオン像(大理石)が飾られている。ライオンはそれぞれ黄道十二星座を示しているとのこと。
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ライオンの中庭の北側の建物には「二姉妹の間」があり、王妃が住んでいたとされる。八角形の天井はイスラム建築最高峰とも言われ宮殿随一の美しさを持つムカルナス装飾が施され、天窓から差す光の変化を巧みに取り入れるようになっている。
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「二姉妹の間」の出窓を飾る装飾も驚くほど細かい。外に見える緑は、北側の回廊のある小さな「リンダアハの庭園」で、レコンキスタ後に造られた。真夏でも陽光が入りにくいため、涼しく静寂に満ちている。
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「リンダアハの庭園」の北回廊から建物内に入った2階には、アルハンブラ物語を執筆したアメリカ人作家ワシントン・アーヴィングの滞在した部屋が残っており、壁にはこの部屋に滞在したとの標識が掛けられている。彼は、1829年にマドリード・ロシア大使館員の友人とサンチョ(スペイン人従者)とグラナダに旅行し滞在した。物語は、宮殿の華麗で荘厳な姿と幻想的な日々を、様々な伝説を織りまぜて詩情豊かに綴られている。この部屋は、もともとカルロス5世の間と女王の間のために増築された部屋の一部であった。


その北隣の窓から、アルバイシン地区を望むことができる。
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王宮の東側には、綺麗に幾何学文様の刈込みがされた「パルタル庭園」が広がっている。もともと家臣や住民の居住区だったエリアだった。奥(北側)に見えるピンク色の建物は、北城壁に建つ防備用の望楼「貴婦人の塔」(物見やぐら)で、背景にアルバイシン地区の丘が望める。塔の1階正面には、大きなアーチを中心に左右2つの計5つのアーチがあり、その前面にアーチの姿を美しく映し出す長方形の池がある。
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庭園から遊歩道を進み、東側の城壁を抜け、陸橋を渡ると、アルハンブラ宮殿のある丘とは別の、北側に延びる丘となる。緑に囲まれた通路を歩いて行くと、丘の中央から「ヘネラリフェ庭園」に至る。ここは、1319年、イスマール1世により夏の別荘として造られた。いたるところに水路や噴水が設けられており、このことから「水の宮殿」とも呼ばれている。


ヘネラリフェ庭園からアルハンブラ宮殿の北東側の城壁を眺めてみる。手前中央の小さめな塔は「裁判官の塔」といい、その右側の大きな塔が北側の通用門でもある「尖塔の門」、その奥の僅かに見えるスレート状の屋根が、パルタル庭園にある「貴婦人の塔」、その奥の大きな塔が「コマレスの塔」である。
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再び、アルハンブラ宮殿に戻り、宮殿を横断して、最後に西側に建つ「カルロス5世宮殿」に入ってみる。入口は建物の西側で、アルカサバへのワイン門やナサリーエス宮殿入口の近くにある。カルロス5世宮殿は、1492年のグラナダ陥落後、ナスル朝時代の宮殿のあまりの美しさに感銘を受けたカルロス5世が、建築家ペドロ・マチューカに命じ、既存のイスラムの美を破壊せず、取り込んで建設した壮麗なルネサンス様式の新宮殿である。
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ペドロ・マチューカは、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるというイタリアの様式を取り込む設計をしたが、実際には、計画と建設に大幅な時間がを費やし、中庭を覆う屋根が取り付けられたのは18世紀になってからである。カルロス5世は、この宮殿を政治の中心地にすることを考えていたが、実際には戦争に明け暮れ滞在することはなかったという。


イスラムの最高峰の美に圧倒的されながら3時間半ほど見学して、ホテル「アルハンブラ パラセ」まで歩いて戻って着た。このホテルは、1910年に開館したイスラム風の豪華な外観を持ち、開館式には、当時のスペイン国王も出席したという歴史をもっている。さて、まもなく午後6時になる。


部屋の内装にもイスラム風の幾何学模様の装飾が取り入れられて豪華な雰囲気だ。


部屋の窓から身を乗り出して市街地を眺める。右端に大聖堂がわずかに見える。さて、今夜の食事は、その大聖堂東側のパサヘ ディエゴ デ シロエ通りから東の路地を入った所にあるバル兼レストラン「ラ・ビノテカ(La Vinoteca)」で、午後7時半に予約をしている。多くのレストランはクリスマス休暇になり、空いていても混雑するため、大聖堂の見学後に予約しておいた。ホテルからは、下りで800メートルの距離なので、懐中電灯片手に歩いて向かう。


料理はタパスが美味しく、店舗もおしゃれな雰囲気で人気が高い。入口を入ったバルは賑やかだが、奥のレストランは、静かで、ゆっくりと食事ができる。今夜のレストランメニューは、クリスマス限定で、お任せとのこと。
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レストランは、十数組ほどに対応できるテーブル席があり、西側の路地が見える窓際席に案内された。案内された際は、ほとんど空いていたが、しばらくすると、次々とお客が現れ、あっという間に満席になった。料理は、タパスと言う事だが、コース料理の様に順番に運ばれてくる。こちらは、ガスパッチョ風のシンプルなサラダ。
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こちらは、チーズクラッカーに、ホワイトクリームやナッツがふりかけられている。午後8時を過ぎた頃、路地から店内を覗き込む人が増えてきた。クリスマスシーズンで、ほとんどのレストランやバルが休みのため、食事場所を探してさまよっているらしい。地元の人のほとんどはクリスマスを自宅で過ごすが、観光客は事前に予約しておかないと食事にありつけない。。
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料理は、タイミング良く、運ばれてくるが、コース風に仕上げられているのか、一般的なバゲットや揚げパンをベースにしたタパスではなかった。
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こちらは、焼シュウマイ風の肉詰めに、カボチャのチップスが添えられている。
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ラザニアに北京ダックの様な皮が載った一品。メニューがなかったので、料理名は分からなかった。品数も不明だったので確認すると、これで終わりとのこと。お腹も一杯になってきたのでちょうど良い分量だった。
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最後にデザートを食べて終了した。ワイナリー「トーレス(Torres)」が経営するレストランなので、ワインも美味しかった。料理は、思ったよりカジュアルだったが、休店の多いクリスマス時期を考えると、サービスも良く、料理も滞りなく提供されたこともあり、十分納得感があった。帰りは上り坂なので、タイミングよく見つかったタクシーに乗りホテルに戻った。
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翌朝、午前7時半、ホテル「アルハンブラ パラセ」内の朝食会場に向かう。ロビーは、馬蹄形のアーチ門や壁面には細かい幾何学系の文様があるなどイスラム風の装飾で豪華に飾られている。


今朝は、まだ時間が早いのか誰もいない。昨夜、午後9時半頃ホテルに戻ると、多くの宿泊客が、こちらのレストランで食事をしていたが、旧市街のバルの雰囲気を味わうことができたのは良かった。


冷たい総菜や温かい総菜が数種類、パン、デザート、果物も数種類あるが、朝から白ワインも置かれている。。。


食後、チェックアウトして、午前9時ホテルを出発した。昨日、大聖堂を見学し、アルバイシン地区の入口付近まで散策した際、丘の上まで行かなかったので、車で向かったが、雨が強く振り出したので、諦め、グラナダを後にした。

(2013.12.23~25)
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