ここはイスタンブール旧市街の「カパルチャルシュ」(Kapalıçarşı)(グランバザール)の「ヌルオスマニエ門」の前で、東側の向かい合う「ヌルオスマニエ・モスク」の入口門から眺めている。この時間、テレビ局が取材をしている最中だった。カパルチャルシュは、お土産屋、絨毯屋、宝飾店、陶磁器店、乾物店、革製品店など、4000店舗を持つ世界一のグランバザールであり、1461年に商館の周りを囲むように小さな市場が建ち始め、現在の迷路の様に建ち並ぶ大規模な商店となった。
今朝、カッパドキアから、4日ぶりにイスタンブールに戻り、午後2時過ぎに「マフムト2世の霊廟」南側にある宿泊ホテル「Pierre Loti Hotel」(最寄り駅は、トラムのチェンベルリタシュ停留所)でチェックインを済ませ、歩いて旧市街観光にやってきたところ。
しばらく買い物をした後、トラムに乗り、エミノニュ広場に移動した。広場の東側には、先日訪れた「ニュー・モスク」への階段が延びている。そして、広場の中央南側の三連あるアーチ中央は「エジプシャン・バザール」(Mısır Çarşısı)の入口で、アーチ門をくぐると南に110メートル、突き当りを左折して東に140メートル続くL字型の丸屋根アーケード商店街で、左右に合計88店舗が営業している。
これから、世界的にも貴重なイズニックタイルで彩られた「リュステム・パシャ・モスク」を見学することにしている。まず、正面のエジプシャン・バザールのアーチ門をくぐり突き当りまで商店街を直進し、次に右側にある門を出て、外の商店街を歩いた先の右側の細い階段を上ると到着する。モスクは、オスマン帝国第10代皇帝スレイマン1世(在位:1520~1566)に仕え、その皇帝の娘と結婚してオスマン家の入り婿となった大宰相リュステム・パシャ(1500頃~1561)のために、1563年に建設された。
商店街の2階がテラスとなり、ドーム状の庇がある二連のアーケード内にモスクへの入口がある。壁面はイズニックタイルで飾られている。
イズニックタイルとは、トルコ マルマラ海東部に隣接するイズニク湖東岸に位置する「イズニク」(旧:ニカイア)でつくられるイズニク陶器で、14世紀頃から盛んに作られるようになった。その後、独自の多色着彩を行い、16世紀には、オスマン帝国の宮廷社会でもてはやされ最盛期を迎えるが、17世紀後半には衰退したことから、今となっては大変貴重なものとなっている。ちなみに、現在のイズニクは人口2万人弱の小さな町である。
モスク内の床は赤いジュータンが敷き詰められている。そして、周りの壁、柱、ミンバル(説教壇)、ミフラーブに至るまで全面が、青を基調としたイズニックタイルで覆われている。
タイルには、多種多様な花柄文様が繰り返し表現され、幾何学模様として融合している。こちらの壁と柱の境目のタイルを直近で見ると、鮮やかな赤色が使われている。これは、今までイズニク陶器にはなかった赤色が導入され始めた初期の作品で、今後は青色の中に、赤色を使用する作品が特徴となって行く。
午後7時半、エミノニュ停留所からトラムT1号線に乗り、ガラタ橋を横断して、新市街のカバタシュ停留所(4駅目で終点)で下車し、予約していたレストラン「Rana by Topaz」にやってきた。レストランは、オスマン帝国の最後の邸宅「ドルマバフチェ宮殿」のすぐ南のベシクタシュ地区の坂道に建つビルに入っている。テーブル席からは、目の前の「ドルマバフチェ・モスク」や、ボスポラス海峡対岸のユスキュダル地区(アジア・アナトリア半島側)が赤く染まる様子を眺めることができる。
ところで、ドルマバフチェ・モスクとは、1855年にアブデュルメジト1世(オスマン帝国の31代スルタン)の母のため建てられたもので、彼女の名前に因んで「ベズミ・アーレム・ヴァーリデ・スルタン・ジャーミイ」とも呼ばれている。
料理は、現代的な地中海料理と本格的なオスマン料理が融合した料理でイスタンブールで人気のレストランの一つ。今夜は「モダン地中海(Modern Mediterranean)」と名付けられた、デギュスタシオン・メニューを注文した。まずは、シャーベット入り、アンチチョークときゅうりの冷製スープ 。
最初の前菜は、イズミル産「エーゲ海のザリガニ」のカルパッチョとサラダ。甘酸っぱいソースに絡めて頂く。ワインは、カリフォルニア産のマクマニス ヴィオニエ ロダイ2007。
2番目の前菜は、「黒海産のウミヒゴイ」と、トマト、ディル、オニオンサラダ。ワインは、ヴェネト州(イタリア)産のロゼ、バルドリーノキアレット 2007。
こちらは、フランス・アキテーヌ地方サン スヴェ産のフォアグラ、桃のスライスとラズベリー、焼トースト。フォアグラには、キャラメルソースがかかっている。ワインは、フランス南西地方のタナ種、パロンビエール タナ メルロー 2006。
店内はシックで落ち着く雰囲気だが、照明を少し落としすぎており、日が暮れてからは、料理が見えにくい。。デジカメをカッパドキアで壊してしまったため、ビデオカメラの静止画機能を使っているが画質が悪い。。
お口直しに、パフェグラスに入ったシャーベットが出て、次のメインは、ラム肉、スウィートブレッド(胸腺肉)の串焼き。ポルチーニ入り小麦のリゾットと併せていただく。肉は、見た目もトルコ料理といった一品だが、リゾットとの相性が良く美味しかった。ワインは、カリフォルニアのジンファンデル種、レイモンド アンバーヒル2004。
デザートは、金柑入りのクレームブリュレで、飲み物はグラッパ(ベンタス モスカート 2006)だった。他にもプティフールが提供されるなど、十分満足して食事を終えた。。
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午前8時半過ぎ、これから「トプカプ宮殿」の見学に向かう。最寄り駅はホテルから250メートル手前の「スルタン・アフメット」停留所なので、宮殿まで歩いて行く。「スルタン・アフメット広場」を横断して、アヤソフィアの南沿いを通り過ぎ、道なりに進んで行くと、トプカプ宮殿の入口門「皇帝の門」になる。門をくぐった先の「第一庭園」を奥まで進むと左右の三角屋根の「儀礼の門」に突き当たる。チケット売り場はその右斜めのやや後ろ側にある。
「儀礼の門」をくぐり、セキュリティチェックと改札を抜けると、回廊のある建物に囲まれた大変広い「第二庭園」に至る。正面突き当りには「幸福の門」があり、その奥に「謁見の間」や「宝物館」などの施設が取り巻く「第三庭園」がある。
最初に、宝物館から見学したが、北東角の2階テラスからは、北側に、隣接して円形ドーム「テラス・モスク」と、先隣でトプカプ宮殿の最北東に位置する「グランド・キヨスク」が続いている。グランド・キヨスクは、マルマラ海とボスポラス海峡のパノラマを望める眺望の良い場所であり、第31代皇帝アブデュルメジド1世(在位:1839~1861)により、レセプションと休憩所を目的に建てられた。
右側(東側)には、ボスポラス海峡の美しい眺めが広がっている。大型タンカーの向こうの「乙女の塔」、東のアジア(アナトリア半島)側の街並みや、ヨーロッパ側とアジア側に架かる「ボスポラス大橋」などが良く見える。真下の海外線を走るケネディ通りの手前に残る城壁の址は、かつて「皇帝の門」左右にも存在していた城壁から続いていたもの。
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次に「第二庭園」まで戻り、ハレムの見学に向かった。ハレムの入口は、庭園西側の回廊の端で、ティワンの塔が建つ「政庁」の南西角にある。ハレムは、宮廷の女性たちの生活の場であり、黒人宦官、女性たち、スルタンの母、スルタン、皇太子、寵姫たちの住居から構成されている。
こちらは、ハレムの最も北側にある「籠姫たちの中庭」で16 世紀半ばに建設された。1665 年の火災の後に修復されたハーレムでは最も小さい中庭。浴場、洗濯用噴水、ランドリー、寮、スルタンの主従のアパートなどに囲まれている。
見上げると、第二庭園に面して建つ「政庁」のティワンの塔(青い三角屋根)が望める。
どの部屋も、一面鮮やかなタイルで装飾されている。イズニックタイルも見られるが、トプカプ宮殿の室内装飾の大半は、キュタフヤタイル(イズニックタイル衰退後、18世紀には、キュタヒヤ陶器が主流となる)や、18世紀のバロック装飾が施されたヨーロッパタイルなどで装飾されている。ちなみに、イズニックタイルの最新のコピーで改修された箇所も多い。
いずれにせよ、それらのタイルも大変素晴らしく、こちらの、植物模様や花の模様なども、アラビア文字のカリグラフィーが絡み合う繊細で独特な様式美を見せてくれる。
こちらのロココ様式に金の縁取りが施された装飾は18世紀半ばに改修されたハマム(浴場)の洗面台で、他に浴槽も残されている。ハマムは、皇帝用と母后用の2つがあり、もともとは、16世紀後半に建てられ。高温、微温、冷水で構成されていた。浴室は白と灰色の大理石で覆われ、ガラス張りの天井からは自然光が入り明るい雰囲気である。
そして、こちらは、最大の見所の一つで、16世紀後半に建てられたドーム型ホール「皇帝ホール」(スルタンの広間)で、スルタンの公式レセプションホールや、娯楽の場として使用された。現在の姿は、17世紀後半の火災後にロココ様式に改装されたもので、18世紀に、カリグラフィー碑文や幾何学文様が刻まれたタイルが施された。
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調度品として、スルタンの王座と籠姫が座る天蓋付きのソファー、ロッキングチェア、大きな花瓶、大時計などが飾られている。その大時計は、トルコ共和国建国の父、将軍ケマル・パシャ(アタチュルク)が亡くなった9時5分(1938年11月10日の午前9時5分)を指し示している。
迷路のように細い通路や部屋が続いていることから、一度の訪問だけでは、位置関係が分かりにくい。ハレムを出ると、第三庭園に面した「聖なる外套の間」(聖遺物展示室)になる。こちらには、イズニックタイルで覆われた部屋があり、どの部屋も、鮮やかなブルータイルの世界で覆われている。
次に、「イスタンブール考古学博物館」に向かった。場所は、トプカプ宮殿の第一庭園の北側に隣接しており、石畳を下った所にある。博物館は、考古学博物館(本館)、古代オリエント美術館、イスラム美術博物館3つから構成され、百万点を越える作品を収蔵している。
イスタンブール考古学博物館で、最も重要な作品とされ、世界的にも知られる作品が「アレクサンドロス王の石棺」で、1887年にサイダ(旧シドン)の王墓からトルコの考古学者オスマンハムディベイによって発見されたもの。他にも22の王室の石棺が発掘されている。石棺は、紀元前4世紀、シドン王アブダロニモスのもとで制作されたとされる。アブダロニモスとは、アレクサンドロス大王(前356~前323)(アレクサンドロス3世)により、ペルシャの支配下から解放され、王となった人物である。
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石棺には、アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国と連合軍が、アケメネス朝(ペルシャ)と戦う「イッソスの戦い」(紀元前333年)が表現されている。長辺左端で、獅子の皮を被り馬に乗る戦士がアレクサンドロス3世で、ペルシャ人を打ち負かしている場面が刻まれている。そして、短辺側には、5人のペルシャ人が、恐れる馬を尻目に、ヒョウを狩る姿が表現されている。ちなみに、石棺の反対の長辺側にも狩りをするマケドニア人とペルシャ人が刻まれている。石棺には、所々に色彩が残り、当時は鮮やかに彩色されていたことが分かる。
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石棺が発掘された、シドンとは、古代のフェニキヤの主要都市国家があった場所で、現代ではサイダという名称として、レバノン共和国の首都ベイルート南にある人口2.5万人ほどの小都市である。地中海に面する良港で、漁業や貿易も盛んに行われている。
こちらの石棺も、同じ王墓から発掘された、シドン王ストラトン1世の「サルコファガス」(嘆く女たちの石棺)である。紀元前360年に亡くなったストラトン王が所有、或いはシドンの富豪のために建てられたと言われている。側面のイオニア式の柱の間には、立ち姿の女性と座る女性が18人表現されている。そして、石棺の上のフリーズには葬儀のシーンが刻まれている。
こちらも、博物館を代表する貴重な展示品で、紀元前1269年頃にヒッタイト王ハットゥシリ3世(在位:前1266頃~前1236頃)とエジプト新王国(第19王朝)ラムセス2世(在位:前1304~前1237)の間で結ばれた「史上最古の国際講和条約」の粘土板である。1906年にトルコの首都アンカラの東約200キロメートルにある遺跡ボアズキョイ(旧:ヒッタイト王国の都ハットゥシャ)から発掘された。
国際講和条約は、紀元前1286年、ヒッタイト王国とエジプト新王国が現シリア西部のオロンテス河畔カデシュで戦った「カデシュの戦い」後に結ばれた条約のこと。カデシュの戦い自体は、決定的な勝敗を決せず終了したとされる。今から約3300年前の出来事である。
条約締結は、領土不可侵、相互軍事援助、相互の逃走・政治的亡命者の引き渡し及び免責等が、アッカド語(当時の交際公用語)で銀板に書かれ、それを両国に持ち帰り、各々の言語で記録されたもの。同内容がエジプトのルクソールにあるカルナック神殿のラムセス2世葬祭殿にヒエログリフで碑文で彫られ現存している。
こちらは、紀元前575年、新バビロニアのネブカドネザル2世により建設された「イシュタル門」への道の側面を飾っていた施釉レンガのレリーフパネル。
イスタンブール考古学博物館で2時間半ほど見学し、その後、カフェでビールを飲み、最寄りのギュルハネ(Gülhane istasyonu)停留所から、トラムに乗車し夕食に向かった。トラムは、途中、ガラタ橋を渡り、新市街のカラキョイ停留所に到着した。ここから、テュネル(地下鉄ケーブルカー)に乗り換える。テュネルは、ロンドン地下鉄に次いで世界で2番目の古い歴史があり、駅舎ビルの外壁の庇や室内の壁面などに、着工した1871年(開業1875年)当時からの、時代ごとの街並み写真が展示されている。
乗車時間は短い1分半(全長573メートル)で高低差60メートルの勾配を上り、ベイオール駅(Beyoğlu)に到着する。通りに出ると、長さ1.4キロメートルの華やかなショッピング・ストリート「イスティクラル通り(İstiklal Avenue)」に出る。周りは、ネオクラシック、ネオゴシック等で設計されたオスマン帝国時代後期の建物(主に19世紀から20世紀初頭)が建ち並ぶ通りとなっている。
車両は進入禁止で、歩行者通りだが、ノスタルジックトラム(NT)と呼ばれる1990年に復活した旧式タイプの単線路面電車が、ベイオールとタクシム間の僅か1.6キロメートルを走っており、まさに、ノスタルジックな世界が再現されている。
イスティクラル通りを200メートルほど北に向かい、左折してホテルが並ぶ通りを進むと、4つ星ホテル「マルマラ ペラ(Marmara Pera)」に到着する。そして、ホテルの20階にある「ミクラ(Mikla)」で夕食を頂いた。ミクラは、トルコ最先端のフュージョン系料理と最高の眺望を楽しめるレストランとして知られている。注文した料理は次のとおり。前菜は「赤海老のグリル」で、付け合わせに、オリーブオイルで味付けされたアーティチョークとほうれん草のガーリックチリソテーにレモンコンフィを添えた一品。
こちらの前菜は、「グリルしたアスパラガス」に、ベビー ルッコラと、大振りのパルメザンチーズ スライスを乗せた一品。
そして、メインの魚料理は、「メカジキのグリル」と「野菜のリゾット」で、付け合わせにほうれん草のガーリックチリソテーとグリーンピューレのソースが添えられた一品。
メインの肉料理は「トラキア キヴィルチク」と呼ばれるラム・ショルダーにドライ プラムとザクロソースをかけた一品。更に「トルコ ピラフ(Wet)」が付いていたが、共に撮影し忘れた。。
デザートは「ミルフィーユ、ラズベリー シャーベット」に、マスティックの樹液を練り込んだトルコ・コーヒーペーストを添えたもの。
眺望についても素晴らしい。画質が悪いが、こちらは、アタチュルク通りが、金角湾に架かる「アタチュルク橋」を渡り、旧市街を大きく左に曲がり延びている。その先には、ライトアップされた「ヴァレンス水道橋」と、その左側に白いイスタンブール市役所が望める。ヴァレンス水道橋は、ローマ帝国の皇帝ウァレンス帝(在位:364~378)治世において、ファーティフの丘とエミノニュの丘の間に約1キロメートルに架けられた水道橋で、1697年まで使用されていた。現在800メートルほどが遺構として保存されている。
左側からガラタ橋が架かり、中央に「エミノニュ広場」があり、左右に「ニューモスク」と「リュステム・パシャ・モスク」が見える。「ニューモスク」の奥の高台に見えるモスクが昨日訪問したグランバザール東隣にある「ヌルオスマニエ・モスク」である。
右側手前の円錐状の唐は、カラキョイ地区にある「ガラタ塔(Galata Kulesi)」(高さ66.9メートル)。6世紀初頭に建てられ、13世紀に第4次十字軍に破壊されたが、その後ジェノバ人が再建した。その後震災などに見舞われ再建を繰り返して現在に至っている。
そして、旧市街の高台後方に、左右に「アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)」と、6本のミナレットを持つ「スルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)」が望める。明日のイスタンブール滞在最終日には、両モスクを見学することにしている。
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翌朝、早朝と昼明けに催される礼拝時間を避けた午前10時前に、アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)の見学に訪れた。昨日訪問した「トプカプ宮殿」と同様に歩いて到着した。「スルタン・アフメト広場」から見るモスクは、一般的には、南側で紹介されるが、正確には南西側となる。
右側の赤レンガで建てられたミナレットは、オスマン帝国メフメト2世(在位:1481~1512)の治世とされて、他の白い石灰岩と砂岩のミナレットは、後継者のバヤズィト2世(在位:1481~1512)とセリム2世(在位:1566~1574)により建てられたもので、どちらも高さ60メートルである。
モスクのエントランスは、向かって左側にあり、敷地内でセキュリティチェックを受け、モスクの西側にある拝廊側の扉口から入場する。扉口を入ると、長方形の二重の拝廊があり、その中央を横断した先が内陣となる。内陣への扉口は「皇帝の門」と呼ばれ、もともと皇帝が教会に入るときにのみ使用されていたことに因んで名付けられた。
こちらは、内陣に入って、天井を眺めた様子で、真上には半円形ドームがあり、左右(南北)に隣接して小半円形ドームがある。そのすぐ下の左右の柱には、預言者ムハンマドの名などカリフの名前が書かれたカリグラファー文字のプレート円盤が取り付けられている。そしてその後方には、2階ギャラリーがあり、内陣の周囲を取り巻くマトロネウム(Matroneum)となっている。
アヤソフィアの歴史は古く、最初の聖堂は、コンスタンティヌス大帝(在位:306~337)の子、コンスタンティウス2世(在位:337~361)時代の360年にバシリカとして建てられた。その後、騒乱や火災により失われるが、その都度再建され、現在の姿の基礎となったのは、537年ビザンツ帝国のユスティニアヌス1世(在位:527~565)時代で、高さ約55メートルにある大ドームを中心としたバシリカ式聖堂として、6世紀におけるビザンツ建築の最高傑作と評された。
こちらがその中央にある大ドームで、直径が東西31メートル、南北33メートルの楕円形をしている。中央に太陽が描かれ、周りにイスラム教聖典「コーラン」をアラビア語で記している。大ドームの東西側には半円形のドームが隣接しており、その半円形のドームの左右に小半円形のドームを設置している。南北側には巨大な控え壁があり、2階にギャラリーを形成している。
1453年、オスマン帝国メフメト2世がコンスタンティノープルを征服(コンスタンティノープルの陥落)した後は、都はイスタンブールと改名され、アヤソフィアはイスラム教のモスクとして改修された。聖堂内を飾っていたモザイク壁画は漆喰で塗りつぶされ、イスラム教のミナレットやミフラーブなどが設置された。東側の後陣は、左右の小半円形ドームの中央にあり、三層にわたり明り取りの窓が設置されるなど聖堂らしい造りだが、左右にカリグラファー文字の大きなプレート円盤が取り付けられている。
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その後陣のアプスには、アヤソフィアでの最大の見どころの一つ「聖母子像」(870年代?)がある。聖母は5メートルに近い大きさがあり、宝石で飾られたスツールに腰を掛け、金の衣服を着た幼子を抱いている。モザイク画は、イコノクラスム論争(聖像破壊運動)(726~787)後に描かれたとされ、アヤソフィアの中では、最も古い時代に制作されたもの。
手前の筒型ヴォールト右側(南側)には「大天使ガブリエル」のモザイク画がある。こちらも、聖母子像と同じ大きさで、同時期のモザイク画と言われているが、左上半分は、大きく失われている。天使は左手に地球儀を持っており、世界を表すと考えられている。向かい側(北側)には「大天使ミカエル」のモザイク画があったが、現在は残っていない。
ステンドガラスの下には、ミフラーブが飾られている。ミフラーブは、後陣中央部よりやや右側にズレて設置されている。前述のとおり、アヤソフィアの後陣は、真東ではなく東南方向を向いているが、カアバの方向は東南方向よりやや南方向にあることがわかる。
次に、皇帝の門を出て、拝廊から2階ギャラリーに向かう。ちなみに、皇帝の門のティンパヌムには、9世紀後半から10 世紀初頭に制作されたモザイク画がある。宝石で飾られた玉座に座わるキリスト(パントクラトール)に頭を下げるのは、皇帝レオーン6世(在位:886~912)か、その息子コンスタンティノス 7 世(905~959)(ポルフィロゲニトゥス)と考えられている。”平和があなたと共にありますように”と”私は世の光です”と書かれ、左右の円形のメダリオンには、母マリアと杖を持つ大天使ガブリエルとが表現されている。
こちらは、2階ギャラリー西側回廊の様子で、1階の拝廊の上にあたる。「皇帝の門」の真上が、右側の円柱の場所になり、その先から内陣を見渡すことができる。
西側回廊の中央円柱の前を通り過ぎて、その先の通路を右側に曲がると、北西側に位置する小半円形ドーム下のテラスとなり、通路は後陣方向に延びる北側ギャラリーとなる。そのテラスを支える円柱の柱頭は、アカンサスの中に、ユスティニアヌス1世と皇后テオドラの名前のモノグラムが刻まれている。テラスからは、西側の半円形のドームの側面から続く、南西側の小半円形のドームや、南側の控え壁を見渡すことができる。
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2階のギャラリーには、貴重なモザイク画や天井の装飾などを間近で見る事ができ、モザイク画の解説パネルなども展示されている。こちらは、南ギャラリーの中央付近から西側を眺めた様子。右側が、控え壁越しに内陣が見渡せ、左側がアーチ窓になり手前にモザイク画がある。
アーチ窓は南側の中央に2つあり、その右側アーチ手前の筒型ヴォールトを支える大きな角柱面に、モザイク画「デイシス(請願)」(1260年頃)がある。キリストを中心に、左右に聖母マリアと聖ヨハネを配している。下部のほとんどは失われているが、外光によりキリストの立体的な顔立ちや衣の輝きなどを引出すなど効果的に制作されており、ビザンティン美術の最高傑作ともされている。ミカエル8世・パレオロゴス(1225~1282)がラテン帝国からコンスタンティノープルを奪回したことを記念して作られたとする説が有力であるが、詳細は不明である。
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「デイシス(請願)」と向かいあう様に左側のアーチ窓の手前には、「エンリコ・ダンドロの墓碑」(1205年)がある。ヴェネツィア共和国の元首エンリコ・ダンドロ(在任:1192~1205)は、1204年に、第4回十字軍を率いて1204年に東ローマ帝国を滅ぼし、ラテン帝国の成立に関わった中心人物。コンスタンチノープルで得た高価な戦利品をヴェネツィアに送ったことで知られている。しかし遺骨と遺品については1453年にオスマン帝国メフメト2世によってヴェネツィア共和国に返還されたとされている。
2階のギャラリー南東側の後陣近くにある「キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ」(1042年から1055年頃)。ゾエ(978頃~1050)は、皇帝コンスタンティノス8世(在位:1025~1028)の次女で、ロマノス3世・アルギュロス(在位:1028~1034)、ミカエル4世(在位:1034~1041)及びコンスタンティノス9世・モノマコス(在位:1042~1055)の3人の皇帝と結婚した。寄進がロマノス3世時のものだったが、再婚毎に作り替えられたと言われている。
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そして、小さなアーチ窓を挟んで右側には「聖母子と皇帝ヨハネス2世・コムネノス(在位:1118~1143)、皇后エイレーネー(イリニ)」(1122年から1134年頃)。皇帝ヨハネス2世・コムネノスと皇后がそれぞれ金貨の入った袋と巻物を持つ姿や銘文は「キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ」に影響を受けている。すぐ横の柱側面には、長男アレクシオス2世・コムネノス(在位:1180~1183)の図像もある。
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北側ギャラリーには、東ローマ帝国マケドニア王朝の第3代皇帝アレクサンドロス帝(870頃~913)(在位:912~913)のモザイク画がある。彼は、同王朝初代皇帝バシレイオス1世の三男で、同・第2代皇帝レオーン6世(在位:886~912)の弟。長兄が夭折した後やレオーン6世が、地位を剥奪されていた時期などに、バシレイオス1世の共同皇帝を務めた。レオーン6世の治世の間も共同皇帝を務め、レオーン6世没後は、幼少の彼の息子のコンスタンティノス7世(905~959)の後見を委ねるなどマケドニア王朝を支え続けた。
マケドニア王朝は、行政機構や法律を整備し、軍事面でもイスラム支配下にあった東地中海を回復、東欧地域へのキリスト教布教を進めるなど、軍事・経済面で東ローマ帝国は繁栄の時代を迎え、その繁栄は文化面にも及んだ(マケドニア朝ルネサンス)。
天井の暗い隅にあるため、アレクサンドロス帝のモザイク画を見つけるのはやや難しい。アレクサンドロス帝は、レガリアをまとい、右手に巻物、左手に宝珠を持っている。モザイクは 1849 年の地震で破壊されたとされていたが、1958 年に発見された。
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一階の拝廊南側の扉のティンパヌムには「聖母子」のモザイク画がある。後陣アプスに描かれた「聖母子」を参照し、マケドニア王朝バシレイオス2世(ブルガロクトノス)(在位:976~1025)の治世に制作されたと言われている。
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聖母は宝石で飾られたスツールに座り貴石で飾られた台座に足を置いている。金の衣服を着た幼子が膝の上に座り、祝福を与え、左手に巻物を持っている。向かって右側の儀式用の衣装をまとった皇帝コンスタンティヌスが首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)を捧げている。向かって左側の皇帝ユスティニアヌス1世はアヤソフィアを捧げている。聖母の左右には、ノミナ・サクラ(神聖名を意味するラテン語)で、神、母と記されている。
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午後12時、地下宮殿(バシリカ・シスタン)(イェレバタン貯水池)の見学に向かった。アヤソフィアからルタン・アフメット通りを横断してイェレバタン通りに入ってすぐ左側に入口がある。階段を降りた地下に広がる貯水池には浅く水が張られており、その上に設置された見学用の通路を歩きながら見学する。建ち並ぶ円柱とアーチ天井は、ライトアップされ、水面にも光が反射して幻想的な雰囲気である。
東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス(在位:527~565)によって建設されたが、あまり詳しいことは分かっていない。映画「007 ロシアより愛をこめて」での映像の印象が強く、訪問を楽しみにしていたが、美しい写真が撮れず少し心残りとなった。
スルタンアフメト公園を中心に、アヤソフィアと向かい合う様に建つのは「スルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii)」で、オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって7年の歳月をかけ1616年に完成した世界で最も美しいモスクと評されている。優美な6本のミナレットと直径27.5メートルの大ドームをもち、内部は数万枚の青いイズニックタイルや美しいステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさから「ブルーモスク」とも呼ばれている。
こちらは、公園側から、南西方向に「ブルーモスク」を眺めた様子で、残りの2本のミナレットは、モスクの右側(北西側)に隣接する広い矩形のアーチ回廊の先(北角と東角)に建っている。ブルーモスクの入場口へは、右側にある入場門をくぐり30メートルほど直進し、先の大きな門を入るとブルーモスクの中庭に到着する。
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その中庭から、中央にある六角形の東屋風の「洗い場」越しにブルーモスクを見上げると、大小美しいドームが左右均等に整然と並んだ姿が見て取れ壮観である。この撮影ショットでは、全てのドームがモスクのドームに見えるが、東屋の先のアーチと天井の小ドームは、中庭を取り囲むアーチ回廊になる。
時刻は、午後1時を過ぎたので、ブルーモスクをさらさらっと見て、次に、スルタンアフメト公園に隣接する長方形の広場ヒッポドローム(円形競技場址)に建つ「テオドシウス1世(在位:379~395)のオベリスク(台座を含め 25.6メートル)」を見学して、昼食にむかうことにした。ちなみに、オベリスクは、もともとエジプト新王国 第18王朝トトメス3世(在位:前1504~前1450)がテーベ(現ルクソール)に建てたものを、この地まで運んだ、大変古いものである。すぐ近くには、コンスタンティノス7世の柱も建っている。
午後2時にガラタ橋にある「Yaka Balık Restaurant」で海鮮料理を頂いた。橋の上は、車道と歩道、トラムが走行しているが、1階には数多くのシーフード・レストランが並び、どこも昼時は混雑している。しかし、お昼時間を過ぎ、大半の客が食事を終えており、ゆっくり座ることができた。スタッフの青年のサービスは良かったが、暇なのか、やたらとまとわりついて少し鬱陶しかった。
ワインは、トルコのワイン、カワクルデレ セレクション ナーリンジェ エミル2006(Kavaklidere Selection Narince Emir)を頂いた。
オマール海老を頼んだためか、昼食にも関わらず、昨夜の「レストラン・ミクラ(Mikla)」と一昨夜のレストラン「Rana by Topaz」と、ほとんど同じ支払い額となり、散財してしまったが、美味しく満足だった。
その後、ホテルで荷物をピックアップして、空港に向かった。午後7時25分イスタンブールを出発(EK122)し、ドバイ、関空を経由して羽田空港に翌午後8時25分に到着した。
(2009.7.23~25)
今朝、カッパドキアから、4日ぶりにイスタンブールに戻り、午後2時過ぎに「マフムト2世の霊廟」南側にある宿泊ホテル「Pierre Loti Hotel」(最寄り駅は、トラムのチェンベルリタシュ停留所)でチェックインを済ませ、歩いて旧市街観光にやってきたところ。
しばらく買い物をした後、トラムに乗り、エミノニュ広場に移動した。広場の東側には、先日訪れた「ニュー・モスク」への階段が延びている。そして、広場の中央南側の三連あるアーチ中央は「エジプシャン・バザール」(Mısır Çarşısı)の入口で、アーチ門をくぐると南に110メートル、突き当りを左折して東に140メートル続くL字型の丸屋根アーケード商店街で、左右に合計88店舗が営業している。
これから、世界的にも貴重なイズニックタイルで彩られた「リュステム・パシャ・モスク」を見学することにしている。まず、正面のエジプシャン・バザールのアーチ門をくぐり突き当りまで商店街を直進し、次に右側にある門を出て、外の商店街を歩いた先の右側の細い階段を上ると到着する。モスクは、オスマン帝国第10代皇帝スレイマン1世(在位:1520~1566)に仕え、その皇帝の娘と結婚してオスマン家の入り婿となった大宰相リュステム・パシャ(1500頃~1561)のために、1563年に建設された。
商店街の2階がテラスとなり、ドーム状の庇がある二連のアーケード内にモスクへの入口がある。壁面はイズニックタイルで飾られている。
イズニックタイルとは、トルコ マルマラ海東部に隣接するイズニク湖東岸に位置する「イズニク」(旧:ニカイア)でつくられるイズニク陶器で、14世紀頃から盛んに作られるようになった。その後、独自の多色着彩を行い、16世紀には、オスマン帝国の宮廷社会でもてはやされ最盛期を迎えるが、17世紀後半には衰退したことから、今となっては大変貴重なものとなっている。ちなみに、現在のイズニクは人口2万人弱の小さな町である。
モスク内の床は赤いジュータンが敷き詰められている。そして、周りの壁、柱、ミンバル(説教壇)、ミフラーブに至るまで全面が、青を基調としたイズニックタイルで覆われている。
タイルには、多種多様な花柄文様が繰り返し表現され、幾何学模様として融合している。こちらの壁と柱の境目のタイルを直近で見ると、鮮やかな赤色が使われている。これは、今までイズニク陶器にはなかった赤色が導入され始めた初期の作品で、今後は青色の中に、赤色を使用する作品が特徴となって行く。
午後7時半、エミノニュ停留所からトラムT1号線に乗り、ガラタ橋を横断して、新市街のカバタシュ停留所(4駅目で終点)で下車し、予約していたレストラン「Rana by Topaz」にやってきた。レストランは、オスマン帝国の最後の邸宅「ドルマバフチェ宮殿」のすぐ南のベシクタシュ地区の坂道に建つビルに入っている。テーブル席からは、目の前の「ドルマバフチェ・モスク」や、ボスポラス海峡対岸のユスキュダル地区(アジア・アナトリア半島側)が赤く染まる様子を眺めることができる。
ところで、ドルマバフチェ・モスクとは、1855年にアブデュルメジト1世(オスマン帝国の31代スルタン)の母のため建てられたもので、彼女の名前に因んで「ベズミ・アーレム・ヴァーリデ・スルタン・ジャーミイ」とも呼ばれている。
料理は、現代的な地中海料理と本格的なオスマン料理が融合した料理でイスタンブールで人気のレストランの一つ。今夜は「モダン地中海(Modern Mediterranean)」と名付けられた、デギュスタシオン・メニューを注文した。まずは、シャーベット入り、アンチチョークときゅうりの冷製スープ 。
最初の前菜は、イズミル産「エーゲ海のザリガニ」のカルパッチョとサラダ。甘酸っぱいソースに絡めて頂く。ワインは、カリフォルニア産のマクマニス ヴィオニエ ロダイ2007。
2番目の前菜は、「黒海産のウミヒゴイ」と、トマト、ディル、オニオンサラダ。ワインは、ヴェネト州(イタリア)産のロゼ、バルドリーノキアレット 2007。
こちらは、フランス・アキテーヌ地方サン スヴェ産のフォアグラ、桃のスライスとラズベリー、焼トースト。フォアグラには、キャラメルソースがかかっている。ワインは、フランス南西地方のタナ種、パロンビエール タナ メルロー 2006。
店内はシックで落ち着く雰囲気だが、照明を少し落としすぎており、日が暮れてからは、料理が見えにくい。。デジカメをカッパドキアで壊してしまったため、ビデオカメラの静止画機能を使っているが画質が悪い。。
お口直しに、パフェグラスに入ったシャーベットが出て、次のメインは、ラム肉、スウィートブレッド(胸腺肉)の串焼き。ポルチーニ入り小麦のリゾットと併せていただく。肉は、見た目もトルコ料理といった一品だが、リゾットとの相性が良く美味しかった。ワインは、カリフォルニアのジンファンデル種、レイモンド アンバーヒル2004。
デザートは、金柑入りのクレームブリュレで、飲み物はグラッパ(ベンタス モスカート 2006)だった。他にもプティフールが提供されるなど、十分満足して食事を終えた。。
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午前8時半過ぎ、これから「トプカプ宮殿」の見学に向かう。最寄り駅はホテルから250メートル手前の「スルタン・アフメット」停留所なので、宮殿まで歩いて行く。「スルタン・アフメット広場」を横断して、アヤソフィアの南沿いを通り過ぎ、道なりに進んで行くと、トプカプ宮殿の入口門「皇帝の門」になる。門をくぐった先の「第一庭園」を奥まで進むと左右の三角屋根の「儀礼の門」に突き当たる。チケット売り場はその右斜めのやや後ろ側にある。
「儀礼の門」をくぐり、セキュリティチェックと改札を抜けると、回廊のある建物に囲まれた大変広い「第二庭園」に至る。正面突き当りには「幸福の門」があり、その奥に「謁見の間」や「宝物館」などの施設が取り巻く「第三庭園」がある。
最初に、宝物館から見学したが、北東角の2階テラスからは、北側に、隣接して円形ドーム「テラス・モスク」と、先隣でトプカプ宮殿の最北東に位置する「グランド・キヨスク」が続いている。グランド・キヨスクは、マルマラ海とボスポラス海峡のパノラマを望める眺望の良い場所であり、第31代皇帝アブデュルメジド1世(在位:1839~1861)により、レセプションと休憩所を目的に建てられた。
右側(東側)には、ボスポラス海峡の美しい眺めが広がっている。大型タンカーの向こうの「乙女の塔」、東のアジア(アナトリア半島)側の街並みや、ヨーロッパ側とアジア側に架かる「ボスポラス大橋」などが良く見える。真下の海外線を走るケネディ通りの手前に残る城壁の址は、かつて「皇帝の門」左右にも存在していた城壁から続いていたもの。
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次に「第二庭園」まで戻り、ハレムの見学に向かった。ハレムの入口は、庭園西側の回廊の端で、ティワンの塔が建つ「政庁」の南西角にある。ハレムは、宮廷の女性たちの生活の場であり、黒人宦官、女性たち、スルタンの母、スルタン、皇太子、寵姫たちの住居から構成されている。
こちらは、ハレムの最も北側にある「籠姫たちの中庭」で16 世紀半ばに建設された。1665 年の火災の後に修復されたハーレムでは最も小さい中庭。浴場、洗濯用噴水、ランドリー、寮、スルタンの主従のアパートなどに囲まれている。
見上げると、第二庭園に面して建つ「政庁」のティワンの塔(青い三角屋根)が望める。
どの部屋も、一面鮮やかなタイルで装飾されている。イズニックタイルも見られるが、トプカプ宮殿の室内装飾の大半は、キュタフヤタイル(イズニックタイル衰退後、18世紀には、キュタヒヤ陶器が主流となる)や、18世紀のバロック装飾が施されたヨーロッパタイルなどで装飾されている。ちなみに、イズニックタイルの最新のコピーで改修された箇所も多い。
いずれにせよ、それらのタイルも大変素晴らしく、こちらの、植物模様や花の模様なども、アラビア文字のカリグラフィーが絡み合う繊細で独特な様式美を見せてくれる。
こちらのロココ様式に金の縁取りが施された装飾は18世紀半ばに改修されたハマム(浴場)の洗面台で、他に浴槽も残されている。ハマムは、皇帝用と母后用の2つがあり、もともとは、16世紀後半に建てられ。高温、微温、冷水で構成されていた。浴室は白と灰色の大理石で覆われ、ガラス張りの天井からは自然光が入り明るい雰囲気である。
そして、こちらは、最大の見所の一つで、16世紀後半に建てられたドーム型ホール「皇帝ホール」(スルタンの広間)で、スルタンの公式レセプションホールや、娯楽の場として使用された。現在の姿は、17世紀後半の火災後にロココ様式に改装されたもので、18世紀に、カリグラフィー碑文や幾何学文様が刻まれたタイルが施された。
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調度品として、スルタンの王座と籠姫が座る天蓋付きのソファー、ロッキングチェア、大きな花瓶、大時計などが飾られている。その大時計は、トルコ共和国建国の父、将軍ケマル・パシャ(アタチュルク)が亡くなった9時5分(1938年11月10日の午前9時5分)を指し示している。
迷路のように細い通路や部屋が続いていることから、一度の訪問だけでは、位置関係が分かりにくい。ハレムを出ると、第三庭園に面した「聖なる外套の間」(聖遺物展示室)になる。こちらには、イズニックタイルで覆われた部屋があり、どの部屋も、鮮やかなブルータイルの世界で覆われている。
次に、「イスタンブール考古学博物館」に向かった。場所は、トプカプ宮殿の第一庭園の北側に隣接しており、石畳を下った所にある。博物館は、考古学博物館(本館)、古代オリエント美術館、イスラム美術博物館3つから構成され、百万点を越える作品を収蔵している。
イスタンブール考古学博物館で、最も重要な作品とされ、世界的にも知られる作品が「アレクサンドロス王の石棺」で、1887年にサイダ(旧シドン)の王墓からトルコの考古学者オスマンハムディベイによって発見されたもの。他にも22の王室の石棺が発掘されている。石棺は、紀元前4世紀、シドン王アブダロニモスのもとで制作されたとされる。アブダロニモスとは、アレクサンドロス大王(前356~前323)(アレクサンドロス3世)により、ペルシャの支配下から解放され、王となった人物である。
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石棺には、アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国と連合軍が、アケメネス朝(ペルシャ)と戦う「イッソスの戦い」(紀元前333年)が表現されている。長辺左端で、獅子の皮を被り馬に乗る戦士がアレクサンドロス3世で、ペルシャ人を打ち負かしている場面が刻まれている。そして、短辺側には、5人のペルシャ人が、恐れる馬を尻目に、ヒョウを狩る姿が表現されている。ちなみに、石棺の反対の長辺側にも狩りをするマケドニア人とペルシャ人が刻まれている。石棺には、所々に色彩が残り、当時は鮮やかに彩色されていたことが分かる。
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石棺が発掘された、シドンとは、古代のフェニキヤの主要都市国家があった場所で、現代ではサイダという名称として、レバノン共和国の首都ベイルート南にある人口2.5万人ほどの小都市である。地中海に面する良港で、漁業や貿易も盛んに行われている。
こちらの石棺も、同じ王墓から発掘された、シドン王ストラトン1世の「サルコファガス」(嘆く女たちの石棺)である。紀元前360年に亡くなったストラトン王が所有、或いはシドンの富豪のために建てられたと言われている。側面のイオニア式の柱の間には、立ち姿の女性と座る女性が18人表現されている。そして、石棺の上のフリーズには葬儀のシーンが刻まれている。
こちらも、博物館を代表する貴重な展示品で、紀元前1269年頃にヒッタイト王ハットゥシリ3世(在位:前1266頃~前1236頃)とエジプト新王国(第19王朝)ラムセス2世(在位:前1304~前1237)の間で結ばれた「史上最古の国際講和条約」の粘土板である。1906年にトルコの首都アンカラの東約200キロメートルにある遺跡ボアズキョイ(旧:ヒッタイト王国の都ハットゥシャ)から発掘された。
国際講和条約は、紀元前1286年、ヒッタイト王国とエジプト新王国が現シリア西部のオロンテス河畔カデシュで戦った「カデシュの戦い」後に結ばれた条約のこと。カデシュの戦い自体は、決定的な勝敗を決せず終了したとされる。今から約3300年前の出来事である。
条約締結は、領土不可侵、相互軍事援助、相互の逃走・政治的亡命者の引き渡し及び免責等が、アッカド語(当時の交際公用語)で銀板に書かれ、それを両国に持ち帰り、各々の言語で記録されたもの。同内容がエジプトのルクソールにあるカルナック神殿のラムセス2世葬祭殿にヒエログリフで碑文で彫られ現存している。
こちらは、紀元前575年、新バビロニアのネブカドネザル2世により建設された「イシュタル門」への道の側面を飾っていた施釉レンガのレリーフパネル。
イスタンブール考古学博物館で2時間半ほど見学し、その後、カフェでビールを飲み、最寄りのギュルハネ(Gülhane istasyonu)停留所から、トラムに乗車し夕食に向かった。トラムは、途中、ガラタ橋を渡り、新市街のカラキョイ停留所に到着した。ここから、テュネル(地下鉄ケーブルカー)に乗り換える。テュネルは、ロンドン地下鉄に次いで世界で2番目の古い歴史があり、駅舎ビルの外壁の庇や室内の壁面などに、着工した1871年(開業1875年)当時からの、時代ごとの街並み写真が展示されている。
乗車時間は短い1分半(全長573メートル)で高低差60メートルの勾配を上り、ベイオール駅(Beyoğlu)に到着する。通りに出ると、長さ1.4キロメートルの華やかなショッピング・ストリート「イスティクラル通り(İstiklal Avenue)」に出る。周りは、ネオクラシック、ネオゴシック等で設計されたオスマン帝国時代後期の建物(主に19世紀から20世紀初頭)が建ち並ぶ通りとなっている。
車両は進入禁止で、歩行者通りだが、ノスタルジックトラム(NT)と呼ばれる1990年に復活した旧式タイプの単線路面電車が、ベイオールとタクシム間の僅か1.6キロメートルを走っており、まさに、ノスタルジックな世界が再現されている。
イスティクラル通りを200メートルほど北に向かい、左折してホテルが並ぶ通りを進むと、4つ星ホテル「マルマラ ペラ(Marmara Pera)」に到着する。そして、ホテルの20階にある「ミクラ(Mikla)」で夕食を頂いた。ミクラは、トルコ最先端のフュージョン系料理と最高の眺望を楽しめるレストランとして知られている。注文した料理は次のとおり。前菜は「赤海老のグリル」で、付け合わせに、オリーブオイルで味付けされたアーティチョークとほうれん草のガーリックチリソテーにレモンコンフィを添えた一品。
こちらの前菜は、「グリルしたアスパラガス」に、ベビー ルッコラと、大振りのパルメザンチーズ スライスを乗せた一品。
そして、メインの魚料理は、「メカジキのグリル」と「野菜のリゾット」で、付け合わせにほうれん草のガーリックチリソテーとグリーンピューレのソースが添えられた一品。
メインの肉料理は「トラキア キヴィルチク」と呼ばれるラム・ショルダーにドライ プラムとザクロソースをかけた一品。更に「トルコ ピラフ(Wet)」が付いていたが、共に撮影し忘れた。。
デザートは「ミルフィーユ、ラズベリー シャーベット」に、マスティックの樹液を練り込んだトルコ・コーヒーペーストを添えたもの。
眺望についても素晴らしい。画質が悪いが、こちらは、アタチュルク通りが、金角湾に架かる「アタチュルク橋」を渡り、旧市街を大きく左に曲がり延びている。その先には、ライトアップされた「ヴァレンス水道橋」と、その左側に白いイスタンブール市役所が望める。ヴァレンス水道橋は、ローマ帝国の皇帝ウァレンス帝(在位:364~378)治世において、ファーティフの丘とエミノニュの丘の間に約1キロメートルに架けられた水道橋で、1697年まで使用されていた。現在800メートルほどが遺構として保存されている。
左側からガラタ橋が架かり、中央に「エミノニュ広場」があり、左右に「ニューモスク」と「リュステム・パシャ・モスク」が見える。「ニューモスク」の奥の高台に見えるモスクが昨日訪問したグランバザール東隣にある「ヌルオスマニエ・モスク」である。
右側手前の円錐状の唐は、カラキョイ地区にある「ガラタ塔(Galata Kulesi)」(高さ66.9メートル)。6世紀初頭に建てられ、13世紀に第4次十字軍に破壊されたが、その後ジェノバ人が再建した。その後震災などに見舞われ再建を繰り返して現在に至っている。
そして、旧市街の高台後方に、左右に「アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)」と、6本のミナレットを持つ「スルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)」が望める。明日のイスタンブール滞在最終日には、両モスクを見学することにしている。
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翌朝、早朝と昼明けに催される礼拝時間を避けた午前10時前に、アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)の見学に訪れた。昨日訪問した「トプカプ宮殿」と同様に歩いて到着した。「スルタン・アフメト広場」から見るモスクは、一般的には、南側で紹介されるが、正確には南西側となる。
右側の赤レンガで建てられたミナレットは、オスマン帝国メフメト2世(在位:1481~1512)の治世とされて、他の白い石灰岩と砂岩のミナレットは、後継者のバヤズィト2世(在位:1481~1512)とセリム2世(在位:1566~1574)により建てられたもので、どちらも高さ60メートルである。
モスクのエントランスは、向かって左側にあり、敷地内でセキュリティチェックを受け、モスクの西側にある拝廊側の扉口から入場する。扉口を入ると、長方形の二重の拝廊があり、その中央を横断した先が内陣となる。内陣への扉口は「皇帝の門」と呼ばれ、もともと皇帝が教会に入るときにのみ使用されていたことに因んで名付けられた。
こちらは、内陣に入って、天井を眺めた様子で、真上には半円形ドームがあり、左右(南北)に隣接して小半円形ドームがある。そのすぐ下の左右の柱には、預言者ムハンマドの名などカリフの名前が書かれたカリグラファー文字のプレート円盤が取り付けられている。そしてその後方には、2階ギャラリーがあり、内陣の周囲を取り巻くマトロネウム(Matroneum)となっている。
アヤソフィアの歴史は古く、最初の聖堂は、コンスタンティヌス大帝(在位:306~337)の子、コンスタンティウス2世(在位:337~361)時代の360年にバシリカとして建てられた。その後、騒乱や火災により失われるが、その都度再建され、現在の姿の基礎となったのは、537年ビザンツ帝国のユスティニアヌス1世(在位:527~565)時代で、高さ約55メートルにある大ドームを中心としたバシリカ式聖堂として、6世紀におけるビザンツ建築の最高傑作と評された。
こちらがその中央にある大ドームで、直径が東西31メートル、南北33メートルの楕円形をしている。中央に太陽が描かれ、周りにイスラム教聖典「コーラン」をアラビア語で記している。大ドームの東西側には半円形のドームが隣接しており、その半円形のドームの左右に小半円形のドームを設置している。南北側には巨大な控え壁があり、2階にギャラリーを形成している。
1453年、オスマン帝国メフメト2世がコンスタンティノープルを征服(コンスタンティノープルの陥落)した後は、都はイスタンブールと改名され、アヤソフィアはイスラム教のモスクとして改修された。聖堂内を飾っていたモザイク壁画は漆喰で塗りつぶされ、イスラム教のミナレットやミフラーブなどが設置された。東側の後陣は、左右の小半円形ドームの中央にあり、三層にわたり明り取りの窓が設置されるなど聖堂らしい造りだが、左右にカリグラファー文字の大きなプレート円盤が取り付けられている。
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その後陣のアプスには、アヤソフィアでの最大の見どころの一つ「聖母子像」(870年代?)がある。聖母は5メートルに近い大きさがあり、宝石で飾られたスツールに腰を掛け、金の衣服を着た幼子を抱いている。モザイク画は、イコノクラスム論争(聖像破壊運動)(726~787)後に描かれたとされ、アヤソフィアの中では、最も古い時代に制作されたもの。
手前の筒型ヴォールト右側(南側)には「大天使ガブリエル」のモザイク画がある。こちらも、聖母子像と同じ大きさで、同時期のモザイク画と言われているが、左上半分は、大きく失われている。天使は左手に地球儀を持っており、世界を表すと考えられている。向かい側(北側)には「大天使ミカエル」のモザイク画があったが、現在は残っていない。
ステンドガラスの下には、ミフラーブが飾られている。ミフラーブは、後陣中央部よりやや右側にズレて設置されている。前述のとおり、アヤソフィアの後陣は、真東ではなく東南方向を向いているが、カアバの方向は東南方向よりやや南方向にあることがわかる。
次に、皇帝の門を出て、拝廊から2階ギャラリーに向かう。ちなみに、皇帝の門のティンパヌムには、9世紀後半から10 世紀初頭に制作されたモザイク画がある。宝石で飾られた玉座に座わるキリスト(パントクラトール)に頭を下げるのは、皇帝レオーン6世(在位:886~912)か、その息子コンスタンティノス 7 世(905~959)(ポルフィロゲニトゥス)と考えられている。”平和があなたと共にありますように”と”私は世の光です”と書かれ、左右の円形のメダリオンには、母マリアと杖を持つ大天使ガブリエルとが表現されている。
こちらは、2階ギャラリー西側回廊の様子で、1階の拝廊の上にあたる。「皇帝の門」の真上が、右側の円柱の場所になり、その先から内陣を見渡すことができる。
西側回廊の中央円柱の前を通り過ぎて、その先の通路を右側に曲がると、北西側に位置する小半円形ドーム下のテラスとなり、通路は後陣方向に延びる北側ギャラリーとなる。そのテラスを支える円柱の柱頭は、アカンサスの中に、ユスティニアヌス1世と皇后テオドラの名前のモノグラムが刻まれている。テラスからは、西側の半円形のドームの側面から続く、南西側の小半円形のドームや、南側の控え壁を見渡すことができる。
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2階のギャラリーには、貴重なモザイク画や天井の装飾などを間近で見る事ができ、モザイク画の解説パネルなども展示されている。こちらは、南ギャラリーの中央付近から西側を眺めた様子。右側が、控え壁越しに内陣が見渡せ、左側がアーチ窓になり手前にモザイク画がある。
アーチ窓は南側の中央に2つあり、その右側アーチ手前の筒型ヴォールトを支える大きな角柱面に、モザイク画「デイシス(請願)」(1260年頃)がある。キリストを中心に、左右に聖母マリアと聖ヨハネを配している。下部のほとんどは失われているが、外光によりキリストの立体的な顔立ちや衣の輝きなどを引出すなど効果的に制作されており、ビザンティン美術の最高傑作ともされている。ミカエル8世・パレオロゴス(1225~1282)がラテン帝国からコンスタンティノープルを奪回したことを記念して作られたとする説が有力であるが、詳細は不明である。
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「デイシス(請願)」と向かいあう様に左側のアーチ窓の手前には、「エンリコ・ダンドロの墓碑」(1205年)がある。ヴェネツィア共和国の元首エンリコ・ダンドロ(在任:1192~1205)は、1204年に、第4回十字軍を率いて1204年に東ローマ帝国を滅ぼし、ラテン帝国の成立に関わった中心人物。コンスタンチノープルで得た高価な戦利品をヴェネツィアに送ったことで知られている。しかし遺骨と遺品については1453年にオスマン帝国メフメト2世によってヴェネツィア共和国に返還されたとされている。
2階のギャラリー南東側の後陣近くにある「キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ」(1042年から1055年頃)。ゾエ(978頃~1050)は、皇帝コンスタンティノス8世(在位:1025~1028)の次女で、ロマノス3世・アルギュロス(在位:1028~1034)、ミカエル4世(在位:1034~1041)及びコンスタンティノス9世・モノマコス(在位:1042~1055)の3人の皇帝と結婚した。寄進がロマノス3世時のものだったが、再婚毎に作り替えられたと言われている。
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そして、小さなアーチ窓を挟んで右側には「聖母子と皇帝ヨハネス2世・コムネノス(在位:1118~1143)、皇后エイレーネー(イリニ)」(1122年から1134年頃)。皇帝ヨハネス2世・コムネノスと皇后がそれぞれ金貨の入った袋と巻物を持つ姿や銘文は「キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ」に影響を受けている。すぐ横の柱側面には、長男アレクシオス2世・コムネノス(在位:1180~1183)の図像もある。
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北側ギャラリーには、東ローマ帝国マケドニア王朝の第3代皇帝アレクサンドロス帝(870頃~913)(在位:912~913)のモザイク画がある。彼は、同王朝初代皇帝バシレイオス1世の三男で、同・第2代皇帝レオーン6世(在位:886~912)の弟。長兄が夭折した後やレオーン6世が、地位を剥奪されていた時期などに、バシレイオス1世の共同皇帝を務めた。レオーン6世の治世の間も共同皇帝を務め、レオーン6世没後は、幼少の彼の息子のコンスタンティノス7世(905~959)の後見を委ねるなどマケドニア王朝を支え続けた。
マケドニア王朝は、行政機構や法律を整備し、軍事面でもイスラム支配下にあった東地中海を回復、東欧地域へのキリスト教布教を進めるなど、軍事・経済面で東ローマ帝国は繁栄の時代を迎え、その繁栄は文化面にも及んだ(マケドニア朝ルネサンス)。
天井の暗い隅にあるため、アレクサンドロス帝のモザイク画を見つけるのはやや難しい。アレクサンドロス帝は、レガリアをまとい、右手に巻物、左手に宝珠を持っている。モザイクは 1849 年の地震で破壊されたとされていたが、1958 年に発見された。
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一階の拝廊南側の扉のティンパヌムには「聖母子」のモザイク画がある。後陣アプスに描かれた「聖母子」を参照し、マケドニア王朝バシレイオス2世(ブルガロクトノス)(在位:976~1025)の治世に制作されたと言われている。
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聖母は宝石で飾られたスツールに座り貴石で飾られた台座に足を置いている。金の衣服を着た幼子が膝の上に座り、祝福を与え、左手に巻物を持っている。向かって右側の儀式用の衣装をまとった皇帝コンスタンティヌスが首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)を捧げている。向かって左側の皇帝ユスティニアヌス1世はアヤソフィアを捧げている。聖母の左右には、ノミナ・サクラ(神聖名を意味するラテン語)で、神、母と記されている。
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午後12時、地下宮殿(バシリカ・シスタン)(イェレバタン貯水池)の見学に向かった。アヤソフィアからルタン・アフメット通りを横断してイェレバタン通りに入ってすぐ左側に入口がある。階段を降りた地下に広がる貯水池には浅く水が張られており、その上に設置された見学用の通路を歩きながら見学する。建ち並ぶ円柱とアーチ天井は、ライトアップされ、水面にも光が反射して幻想的な雰囲気である。
東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス(在位:527~565)によって建設されたが、あまり詳しいことは分かっていない。映画「007 ロシアより愛をこめて」での映像の印象が強く、訪問を楽しみにしていたが、美しい写真が撮れず少し心残りとなった。
スルタンアフメト公園を中心に、アヤソフィアと向かい合う様に建つのは「スルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii)」で、オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって7年の歳月をかけ1616年に完成した世界で最も美しいモスクと評されている。優美な6本のミナレットと直径27.5メートルの大ドームをもち、内部は数万枚の青いイズニックタイルや美しいステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさから「ブルーモスク」とも呼ばれている。
こちらは、公園側から、南西方向に「ブルーモスク」を眺めた様子で、残りの2本のミナレットは、モスクの右側(北西側)に隣接する広い矩形のアーチ回廊の先(北角と東角)に建っている。ブルーモスクの入場口へは、右側にある入場門をくぐり30メートルほど直進し、先の大きな門を入るとブルーモスクの中庭に到着する。
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その中庭から、中央にある六角形の東屋風の「洗い場」越しにブルーモスクを見上げると、大小美しいドームが左右均等に整然と並んだ姿が見て取れ壮観である。この撮影ショットでは、全てのドームがモスクのドームに見えるが、東屋の先のアーチと天井の小ドームは、中庭を取り囲むアーチ回廊になる。
時刻は、午後1時を過ぎたので、ブルーモスクをさらさらっと見て、次に、スルタンアフメト公園に隣接する長方形の広場ヒッポドローム(円形競技場址)に建つ「テオドシウス1世(在位:379~395)のオベリスク(台座を含め 25.6メートル)」を見学して、昼食にむかうことにした。ちなみに、オベリスクは、もともとエジプト新王国 第18王朝トトメス3世(在位:前1504~前1450)がテーベ(現ルクソール)に建てたものを、この地まで運んだ、大変古いものである。すぐ近くには、コンスタンティノス7世の柱も建っている。
午後2時にガラタ橋にある「Yaka Balık Restaurant」で海鮮料理を頂いた。橋の上は、車道と歩道、トラムが走行しているが、1階には数多くのシーフード・レストランが並び、どこも昼時は混雑している。しかし、お昼時間を過ぎ、大半の客が食事を終えており、ゆっくり座ることができた。スタッフの青年のサービスは良かったが、暇なのか、やたらとまとわりついて少し鬱陶しかった。
ワインは、トルコのワイン、カワクルデレ セレクション ナーリンジェ エミル2006(Kavaklidere Selection Narince Emir)を頂いた。
オマール海老を頼んだためか、昼食にも関わらず、昨夜の「レストラン・ミクラ(Mikla)」と一昨夜のレストラン「Rana by Topaz」と、ほとんど同じ支払い額となり、散財してしまったが、美味しく満足だった。
その後、ホテルで荷物をピックアップして、空港に向かった。午後7時25分イスタンブールを出発(EK122)し、ドバイ、関空を経由して羽田空港に翌午後8時25分に到着した。
(2009.7.23~25)