カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

トルコ(その4)

2013-03-12 | トルコ
ここはイスタンブール旧市街の「カパルチャルシュ」(Kapalıçarşı)(グランバザール)の「ヌルオスマニエ門」の前で、東側の向かい合う「ヌルオスマニエ・モスク」の入口門から眺めている。この時間、テレビ局が取材をしている最中だった。カパルチャルシュは、お土産屋、絨毯屋、宝飾店、陶磁器店、乾物店、革製品店など、4000店舗を持つ世界一のグランバザールであり、1461年に商館の周りを囲むように小さな市場が建ち始め、現在の迷路の様に建ち並ぶ大規模な商店となった。


今朝、カッパドキアから、4日ぶりにイスタンブールに戻り、午後2時過ぎに「マフムト2世の霊廟」南側にある宿泊ホテル「Pierre Loti Hotel」(最寄り駅は、トラムのチェンベルリタシュ停留所)でチェックインを済ませ、歩いて旧市街観光にやってきたところ。

しばらく買い物をした後、トラムに乗り、エミノニュ広場に移動した。広場の東側には、先日訪れた「ニュー・モスク」への階段が延びている。そして、広場の中央南側の三連あるアーチ中央は「エジプシャン・バザール」(Mısır Çarşısı)の入口で、アーチ門をくぐると南に110メートル、突き当りを左折して東に140メートル続くL字型の丸屋根アーケード商店街で、左右に合計88店舗が営業している。


これから、世界的にも貴重なイズニックタイルで彩られた「リュステム・パシャ・モスク」を見学することにしている。まず、正面のエジプシャン・バザールのアーチ門をくぐり突き当りまで商店街を直進し、次に右側にある門を出て、外の商店街を歩いた先の右側の細い階段を上ると到着する。モスクは、オスマン帝国第10代皇帝スレイマン1世(在位:1520~1566)に仕え、その皇帝の娘と結婚してオスマン家の入り婿となった大宰相リュステム・パシャ(1500頃~1561)のために、1563年に建設された。

商店街の2階がテラスとなり、ドーム状の庇がある二連のアーケード内にモスクへの入口がある。壁面はイズニックタイルで飾られている。


イズニックタイルとは、トルコ マルマラ海東部に隣接するイズニク湖東岸に位置する「イズニク」(旧:ニカイア)でつくられるイズニク陶器で、14世紀頃から盛んに作られるようになった。その後、独自の多色着彩を行い、16世紀には、オスマン帝国の宮廷社会でもてはやされ最盛期を迎えるが、17世紀後半には衰退したことから、今となっては大変貴重なものとなっている。ちなみに、現在のイズニクは人口2万人弱の小さな町である。

モスク内の床は赤いジュータンが敷き詰められている。そして、周りの壁、柱、ミンバル(説教壇)、ミフラーブに至るまで全面が、青を基調としたイズニックタイルで覆われている。


タイルには、多種多様な花柄文様が繰り返し表現され、幾何学模様として融合している。こちらの壁と柱の境目のタイルを直近で見ると、鮮やかな赤色が使われている。これは、今までイズニク陶器にはなかった赤色が導入され始めた初期の作品で、今後は青色の中に、赤色を使用する作品が特徴となって行く。


午後7時半、エミノニュ停留所からトラムT1号線に乗り、ガラタ橋を横断して、新市街のカバタシュ停留所(4駅目で終点)で下車し、予約していたレストラン「Rana by Topaz」にやってきた。レストランは、オスマン帝国の最後の邸宅「ドルマバフチェ宮殿」のすぐ南のベシクタシュ地区の坂道に建つビルに入っている。テーブル席からは、目の前の「ドルマバフチェ・モスク」や、ボスポラス海峡対岸のユスキュダル地区(アジア・アナトリア半島側)が赤く染まる様子を眺めることができる。


ところで、ドルマバフチェ・モスクとは、1855年にアブデュルメジト1世(オスマン帝国の31代スルタン)の母のため建てられたもので、彼女の名前に因んで「ベズミ・アーレム・ヴァーリデ・スルタン・ジャーミイ」とも呼ばれている。

料理は、現代的な地中海料理と本格的なオスマン料理が融合した料理でイスタンブールで人気のレストランの一つ。今夜は「モダン地中海(Modern Mediterranean)」と名付けられた、デギュスタシオン・メニューを注文した。まずは、シャーベット入り、アンチチョークときゅうりの冷製スープ 。


最初の前菜は、イズミル産「エーゲ海のザリガニ」のカルパッチョとサラダ。甘酸っぱいソースに絡めて頂く。ワインは、カリフォルニア産のマクマニス ヴィオニエ ロダイ2007。


2番目の前菜は、「黒海産のウミヒゴイ」と、トマト、ディル、オニオンサラダ。ワインは、ヴェネト州(イタリア)産のロゼ、バルドリーノキアレット 2007。


こちらは、フランス・アキテーヌ地方サン スヴェ産のフォアグラ、桃のスライスとラズベリー、焼トースト。フォアグラには、キャラメルソースがかかっている。ワインは、フランス南西地方のタナ種、パロンビエール タナ メルロー 2006。


店内はシックで落ち着く雰囲気だが、照明を少し落としすぎており、日が暮れてからは、料理が見えにくい。。デジカメをカッパドキアで壊してしまったため、ビデオカメラの静止画機能を使っているが画質が悪い。。

お口直しに、パフェグラスに入ったシャーベットが出て、次のメインは、ラム肉、スウィートブレッド(胸腺肉)の串焼き。ポルチーニ入り小麦のリゾットと併せていただく。肉は、見た目もトルコ料理といった一品だが、リゾットとの相性が良く美味しかった。ワインは、カリフォルニアのジンファンデル種、レイモンド アンバーヒル2004。


デザートは、金柑入りのクレームブリュレで、飲み物はグラッパ(ベンタス モスカート 2006)だった。他にもプティフールが提供されるなど、十分満足して食事を終えた。。


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午前8時半過ぎ、これから「トプカプ宮殿」の見学に向かう。最寄り駅はホテルから250メートル手前の「スルタン・アフメット」停留所なので、宮殿まで歩いて行く。「スルタン・アフメット広場」を横断して、アヤソフィアの南沿いを通り過ぎ、道なりに進んで行くと、トプカプ宮殿の入口門「皇帝の門」になる。門をくぐった先の「第一庭園」を奥まで進むと左右の三角屋根の「儀礼の門」に突き当たる。チケット売り場はその右斜めのやや後ろ側にある。


「儀礼の門」をくぐり、セキュリティチェックと改札を抜けると、回廊のある建物に囲まれた大変広い「第二庭園」に至る。正面突き当りには「幸福の門」があり、その奥に「謁見の間」や「宝物館」などの施設が取り巻く「第三庭園」がある。

最初に、宝物館から見学したが、北東角の2階テラスからは、北側に、隣接して円形ドーム「テラス・モスク」と、先隣でトプカプ宮殿の最北東に位置する「グランド・キヨスク」が続いている。グランド・キヨスクは、マルマラ海とボスポラス海峡のパノラマを望める眺望の良い場所であり、第31代皇帝アブデュルメジド1世(在位:1839~1861)により、レセプションと休憩所を目的に建てられた。


右側(東側)には、ボスポラス海峡の美しい眺めが広がっている。大型タンカーの向こうの「乙女の塔」、東のアジア(アナトリア半島)側の街並みや、ヨーロッパ側とアジア側に架かる「ボスポラス大橋」などが良く見える。真下の海外線を走るケネディ通りの手前に残る城壁の址は、かつて「皇帝の門」左右にも存在していた城壁から続いていたもの。
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次に「第二庭園」まで戻り、ハレムの見学に向かった。ハレムの入口は、庭園西側の回廊の端で、ティワンの塔が建つ「政庁」の南西角にある。ハレムは、宮廷の女性たちの生活の場であり、黒人宦官、女性たち、スルタンの母、スルタン、皇太子、寵姫たちの住居から構成されている。

こちらは、ハレムの最も北側にある「籠姫たちの中庭」で16 世紀半ばに建設された。1665 年の火災の後に修復されたハーレムでは最も小さい中庭。浴場、洗濯用噴水、ランドリー、寮、スルタンの主従のアパートなどに囲まれている。


見上げると、第二庭園に面して建つ「政庁」のティワンの塔(青い三角屋根)が望める。


どの部屋も、一面鮮やかなタイルで装飾されている。イズニックタイルも見られるが、トプカプ宮殿の室内装飾の大半は、キュタフヤタイル(イズニックタイル衰退後、18世紀には、キュタヒヤ陶器が主流となる)や、18世紀のバロック装飾が施されたヨーロッパタイルなどで装飾されている。ちなみに、イズニックタイルの最新のコピーで改修された箇所も多い。


いずれにせよ、それらのタイルも大変素晴らしく、こちらの、植物模様や花の模様なども、アラビア文字のカリグラフィーが絡み合う繊細で独特な様式美を見せてくれる。


こちらのロココ様式に金の縁取りが施された装飾は18世紀半ばに改修されたハマム(浴場)の洗面台で、他に浴槽も残されている。ハマムは、皇帝用と母后用の2つがあり、もともとは、16世紀後半に建てられ。高温、微温、冷水で構成されていた。浴室は白と灰色の大理石で覆われ、ガラス張りの天井からは自然光が入り明るい雰囲気である。


そして、こちらは、最大の見所の一つで、16世紀後半に建てられたドーム型ホール「皇帝ホール」(スルタンの広間)で、スルタンの公式レセプションホールや、娯楽の場として使用された。現在の姿は、17世紀後半の火災後にロココ様式に改装されたもので、18世紀に、カリグラフィー碑文や幾何学文様が刻まれたタイルが施された。
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調度品として、スルタンの王座と籠姫が座る天蓋付きのソファー、ロッキングチェア、大きな花瓶、大時計などが飾られている。その大時計は、トルコ共和国建国の父、将軍ケマル・パシャ(アタチュルク)が亡くなった9時5分(1938年11月10日の午前9時5分)を指し示している


迷路のように細い通路や部屋が続いていることから、一度の訪問だけでは、位置関係が分かりにくい。ハレムを出ると、第三庭園に面した「聖なる外套の間」(聖遺物展示室)になる。こちらには、イズニックタイルで覆われた部屋があり、どの部屋も、鮮やかなブルータイルの世界で覆われている。

次に、「イスタンブール考古学博物館」に向かった。場所は、トプカプ宮殿の第一庭園の北側に隣接しており、石畳を下った所にある。博物館は、考古学博物館(本館)、古代オリエント美術館、イスラム美術博物館3つから構成され、百万点を越える作品を収蔵している。


イスタンブール考古学博物館で、最も重要な作品とされ、世界的にも知られる作品が「アレクサンドロス王の石棺」で、1887年にサイダ(旧シドン)の王墓からトルコの考古学者オスマンハムディベイによって発見されたもの。他にも22の王室の石棺が発掘されている。石棺は、紀元前4世紀、シドン王アブダロニモスのもとで制作されたとされる。アブダロニモスとは、アレクサンドロス大王(前356~前323)(アレクサンドロス3世)により、ペルシャの支配下から解放され、王となった人物である。
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石棺には、アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国と連合軍が、アケメネス朝(ペルシャ)と戦う「イッソスの戦い」(紀元前333年)が表現されている。長辺左端で、獅子の皮を被り馬に乗る戦士がアレクサンドロス3世で、ペルシャ人を打ち負かしている場面が刻まれている。そして、短辺側には、5人のペルシャ人が、恐れる馬を尻目に、ヒョウを狩る姿が表現されている。ちなみに、石棺の反対の長辺側にも狩りをするマケドニア人とペルシャ人が刻まれている。石棺には、所々に色彩が残り、当時は鮮やかに彩色されていたことが分かる。
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石棺が発掘された、シドンとは、古代のフェニキヤの主要都市国家があった場所で、現代ではサイダという名称として、レバノン共和国の首都ベイルート南にある人口2.5万人ほどの小都市である。地中海に面する良港で、漁業や貿易も盛んに行われている。

こちらの石棺も、同じ王墓から発掘された、シドン王ストラトン1世の「サルコファガス」(嘆く女たちの石棺)である。紀元前360年に亡くなったストラトン王が所有、或いはシドンの富豪のために建てられたと言われている。側面のイオニア式の柱の間には、立ち姿の女性と座る女性が18人表現されている。そして、石棺の上のフリーズには葬儀のシーンが刻まれている。


こちらも、博物館を代表する貴重な展示品で、紀元前1269年頃にヒッタイト王ハットゥシリ3世(在位:前1266頃~前1236頃)とエジプト新王国(第19王朝)ラムセス2世(在位:前1304~前1237)の間で結ばれた「史上最古の国際講和条約」の粘土板である。1906年にトルコの首都アンカラの東約200キロメートルにある遺跡ボアズキョイ(旧:ヒッタイト王国の都ハットゥシャ)から発掘された。


国際講和条約は、紀元前1286年、ヒッタイト王国とエジプト新王国が現シリア西部のオロンテス河畔カデシュで戦った「カデシュの戦い」後に結ばれた条約のこと。カデシュの戦い自体は、決定的な勝敗を決せず終了したとされる。今から約3300年前の出来事である。

条約締結は、領土不可侵、相互軍事援助、相互の逃走・政治的亡命者の引き渡し及び免責等が、アッカド語(当時の交際公用語)で銀板に書かれ、それを両国に持ち帰り、各々の言語で記録されたもの。同内容がエジプトのルクソールにあるカルナック神殿のラムセス2世葬祭殿にヒエログリフで碑文で彫られ現存している。


こちらは、紀元前575年、新バビロニアのネブカドネザル2世により建設された「イシュタル門」への道の側面を飾っていた施釉レンガのレリーフパネル。


イスタンブール考古学博物館で2時間半ほど見学し、その後、カフェでビールを飲み、最寄りのギュルハネ(Gülhane istasyonu)停留所から、トラムに乗車し夕食に向かった。トラムは、途中、ガラタ橋を渡り、新市街のカラキョイ停留所に到着した。ここから、テュネル(地下鉄ケーブルカー)に乗り換える。テュネルは、ロンドン地下鉄に次いで世界で2番目の古い歴史があり、駅舎ビルの外壁の庇や室内の壁面などに、着工した1871年(開業1875年)当時からの、時代ごとの街並み写真が展示されている。


乗車時間は短い1分半(全長573メートル)で高低差60メートルの勾配を上り、ベイオール駅(Beyoğlu)に到着する。通りに出ると、長さ1.4キロメートルの華やかなショッピング・ストリート「イスティクラル通り(İstiklal Avenue)」に出る。周りは、ネオクラシック、ネオゴシック等で設計されたオスマン帝国時代後期の建物(主に19世紀から20世紀初頭)が建ち並ぶ通りとなっている。


車両は進入禁止で、歩行者通りだが、ノスタルジックトラム(NT)と呼ばれる1990年に復活した旧式タイプの単線路面電車が、ベイオールとタクシム間の僅か1.6キロメートルを走っており、まさに、ノスタルジックな世界が再現されている。

イスティクラル通りを200メートルほど北に向かい、左折してホテルが並ぶ通りを進むと、4つ星ホテル「マルマラ ペラ(Marmara Pera)」に到着する。そして、ホテルの20階にある「ミクラ(Mikla)」で夕食を頂いた。ミクラは、トルコ最先端のフュージョン系料理と最高の眺望を楽しめるレストランとして知られている。注文した料理は次のとおり。前菜は「赤海老のグリル」で、付け合わせに、オリーブオイルで味付けされたアーティチョークとほうれん草のガーリックチリソテーにレモンコンフィを添えた一品。


こちらの前菜は、「グリルしたアスパラガス」に、ベビー ルッコラと、大振りのパルメザンチーズ スライスを乗せた一品。


そして、メインの魚料理は、「メカジキのグリル」と「野菜のリゾット」で、付け合わせにほうれん草のガーリックチリソテーとグリーンピューレのソースが添えられた一品。


メインの肉料理は「トラキア キヴィルチク」と呼ばれるラム・ショルダーにドライ プラムとザクロソースをかけた一品。更に「トルコ ピラフ(Wet)」が付いていたが、共に撮影し忘れた。。

デザートは「ミルフィーユ、ラズベリー シャーベット」に、マスティックの樹液を練り込んだトルコ・コーヒーペーストを添えたもの。


眺望についても素晴らしい。画質が悪いが、こちらは、アタチュルク通りが、金角湾に架かる「アタチュルク橋」を渡り、旧市街を大きく左に曲がり延びている。その先には、ライトアップされた「ヴァレンス水道橋」と、その左側に白いイスタンブール市役所が望める。ヴァレンス水道橋は、ローマ帝国の皇帝ウァレンス帝(在位:364~378)治世において、ファーティフの丘とエミノニュの丘の間に約1キロメートルに架けられた水道橋で、1697年まで使用されていた。現在800メートルほどが遺構として保存されている。


左側からガラタ橋が架かり、中央に「エミノニュ広場」があり、左右に「ニューモスク」と「リュステム・パシャ・モスク」が見える。「ニューモスク」の奥の高台に見えるモスクが昨日訪問したグランバザール東隣にある「ヌルオスマニエ・モスク」である。


右側手前の円錐状の唐は、カラキョイ地区にある「ガラタ塔(Galata Kulesi)」(高さ66.9メートル)。6世紀初頭に建てられ、13世紀に第4次十字軍に破壊されたが、その後ジェノバ人が再建した。その後震災などに見舞われ再建を繰り返して現在に至っている。


そして、旧市街の高台後方に、左右に「アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)」と、6本のミナレットを持つ「スルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)」が望める。明日のイスタンブール滞在最終日には、両モスクを見学することにしている。

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翌朝、早朝と昼明けに催される礼拝時間を避けた午前10時前に、アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)の見学に訪れた。昨日訪問した「トプカプ宮殿」と同様に歩いて到着した。「スルタン・アフメト広場」から見るモスクは、一般的には、南側で紹介されるが、正確には南西側となる。


右側の赤レンガで建てられたミナレットは、オスマン帝国メフメト2世(在位:1481~1512)の治世とされて、他の白い石灰岩と砂岩のミナレットは、後継者のバヤズィト2世(在位:1481~1512)とセリム2世(在位:1566~1574)により建てられたもので、どちらも高さ60メートルである。

モスクのエントランスは、向かって左側にあり、敷地内でセキュリティチェックを受け、モスクの西側にある拝廊側の扉口から入場する。扉口を入ると、長方形の二重の拝廊があり、その中央を横断した先が内陣となる。内陣への扉口は「皇帝の門」と呼ばれ、もともと皇帝が教会に入るときにのみ使用されていたことに因んで名付けられた。

こちらは、内陣に入って、天井を眺めた様子で、真上には半円形ドームがあり、左右(南北)に隣接して小半円形ドームがある。そのすぐ下の左右の柱には、預言者ムハンマドの名などカリフの名前が書かれたカリグラファー文字のプレート円盤が取り付けられている。そしてその後方には、2階ギャラリーがあり、内陣の周囲を取り巻くマトロネウム(Matroneum)となっている。


アヤソフィアの歴史は古く、最初の聖堂は、コンスタンティヌス大帝(在位:306~337)の子、コンスタンティウス2世(在位:337~361)時代の360年にバシリカとして建てられた。その後、騒乱や火災により失われるが、その都度再建され、現在の姿の基礎となったのは、537年ビザンツ帝国のユスティニアヌス1世(在位:527~565)時代で、高さ約55メートルにある大ドームを中心としたバシリカ式聖堂として、6世紀におけるビザンツ建築の最高傑作と評された。

こちらがその中央にある大ドームで、直径が東西31メートル、南北33メートルの楕円形をしている。中央に太陽が描かれ、周りにイスラム教聖典「コーラン」をアラビア語で記している。大ドームの東西側には半円形のドームが隣接しており、その半円形のドームの左右に小半円形のドームを設置している。南北側には巨大な控え壁があり、2階にギャラリーを形成している。


1453年、オスマン帝国メフメト2世がコンスタンティノープルを征服(コンスタンティノープルの陥落)した後は、都はイスタンブールと改名され、アヤソフィアはイスラム教のモスクとして改修された。聖堂内を飾っていたモザイク壁画は漆喰で塗りつぶされ、イスラム教のミナレットやミフラーブなどが設置された。東側の後陣は、左右の小半円形ドームの中央にあり、三層にわたり明り取りの窓が設置されるなど聖堂らしい造りだが、左右にカリグラファー文字の大きなプレート円盤が取り付けられている。
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その後陣のアプスには、アヤソフィアでの最大の見どころの一つ「聖母子像」(870年代?)がある。聖母は5メートルに近い大きさがあり、宝石で飾られたスツールに腰を掛け、金の衣服を着た幼子を抱いている。モザイク画は、イコノクラスム論争(聖像破壊運動)(726~787)後に描かれたとされ、アヤソフィアの中では、最も古い時代に制作されたもの。


手前の筒型ヴォールト右側(南側)には「大天使ガブリエル」のモザイク画がある。こちらも、聖母子像と同じ大きさで、同時期のモザイク画と言われているが、左上半分は、大きく失われている。天使は左手に地球儀を持っており、世界を表すと考えられている。向かい側(北側)には「大天使ミカエル」のモザイク画があったが、現在は残っていない。


ステンドガラスの下には、ミフラーブが飾られている。ミフラーブは、後陣中央部よりやや右側にズレて設置されている。前述のとおり、アヤソフィアの後陣は、真東ではなく東南方向を向いているが、カアバの方向は東南方向よりやや南方向にあることがわかる。


次に、皇帝の門を出て、拝廊から2階ギャラリーに向かう。ちなみに、皇帝の門のティンパヌムには、9世紀後半から10 世紀初頭に制作されたモザイク画がある。宝石で飾られた玉座に座わるキリスト(パントクラトール)に頭を下げるのは、皇帝レオーン6世(在位:886~912)か、その息子コンスタンティノス 7 世(905~959)(ポルフィロゲニトゥス)と考えられている。”平和があなたと共にありますように”と”私は世の光です”と書かれ、左右の円形のメダリオンには、母マリアと杖を持つ大天使ガブリエルとが表現されている。


こちらは、2階ギャラリー西側回廊の様子で、1階の拝廊の上にあたる。「皇帝の門」の真上が、右側の円柱の場所になり、その先から内陣を見渡すことができる。


西側回廊の中央円柱の前を通り過ぎて、その先の通路を右側に曲がると、北西側に位置する小半円形ドーム下のテラスとなり、通路は後陣方向に延びる北側ギャラリーとなる。そのテラスを支える円柱の柱頭は、アカンサスの中に、ユスティニアヌス1世と皇后テオドラの名前のモノグラムが刻まれている。テラスからは、西側の半円形のドームの側面から続く、南西側の小半円形のドームや、南側の控え壁を見渡すことができる。
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2階のギャラリーには、貴重なモザイク画や天井の装飾などを間近で見る事ができ、モザイク画の解説パネルなども展示されている。こちらは、南ギャラリーの中央付近から西側を眺めた様子。右側が、控え壁越しに内陣が見渡せ、左側がアーチ窓になり手前にモザイク画がある。


アーチ窓は南側の中央に2つあり、その右側アーチ手前の筒型ヴォールトを支える大きな角柱面に、モザイク画「デイシス(請願)」(1260年頃)がある。キリストを中心に、左右に聖母マリアと聖ヨハネを配している。下部のほとんどは失われているが、外光によりキリストの立体的な顔立ちや衣の輝きなどを引出すなど効果的に制作されており、ビザンティン美術の最高傑作ともされている。ミカエル8世・パレオロゴス(1225~1282)がラテン帝国からコンスタンティノープルを奪回したことを記念して作られたとする説が有力であるが、詳細は不明である。
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「デイシス(請願)」と向かいあう様に左側のアーチ窓の手前には、「エンリコ・ダンドロの墓碑」(1205年)がある。ヴェネツィア共和国の元首エンリコ・ダンドロ(在任:1192~1205)は、1204年に、第4回十字軍を率いて1204年に東ローマ帝国を滅ぼし、ラテン帝国の成立に関わった中心人物。コンスタンチノープルで得た高価な戦利品をヴェネツィアに送ったことで知られている。しかし遺骨と遺品については1453年にオスマン帝国メフメト2世によってヴェネツィア共和国に返還されたとされている。


2階のギャラリー南東側の後陣近くにある「キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ」(1042年から1055年頃)。ゾエ(978頃~1050)は、皇帝コンスタンティノス8世(在位:1025~1028)の次女で、ロマノス3世・アルギュロス(在位:1028~1034)、ミカエル4世(在位:1034~1041)及びコンスタンティノス9世・モノマコス(在位:1042~1055)の3人の皇帝と結婚した。寄進がロマノス3世時のものだったが、再婚毎に作り替えられたと言われている。
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そして、小さなアーチ窓を挟んで右側には「聖母子皇帝ヨハネス2世・コムネノス(在位:1118~1143)皇后エイレーネー(イリニ)」(1122年から1134年頃)。皇帝ヨハネス2世・コムネノスと皇后がそれぞれ金貨の入った袋と巻物を持つ姿や銘文は「キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ」に影響を受けている。すぐ横の柱側面には、長男アレクシオス2世・コムネノス(在位:1180~1183)の図像もある。
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北側ギャラリーには、東ローマ帝国マケドニア王朝の第3代皇帝アレクサンドロス帝(870頃~913)(在位:912~913)のモザイク画がある。彼は、同王朝初代皇帝バシレイオス1世の三男で、同・第2代皇帝レオーン6世(在位:886~912)の弟。長兄が夭折した後やレオーン6世が、地位を剥奪されていた時期などに、バシレイオス1世の共同皇帝を務めた。レオーン6世の治世の間も共同皇帝を務め、レオーン6世没後は、幼少の彼の息子のコンスタンティノス7世(905~959)の後見を委ねるなどマケドニア王朝を支え続けた。


マケドニア王朝は、行政機構や法律を整備し、軍事面でもイスラム支配下にあった東地中海を回復、東欧地域へのキリスト教布教を進めるなど、軍事・経済面で東ローマ帝国は繁栄の時代を迎え、その繁栄は文化面にも及んだ(マケドニア朝ルネサンス)。

天井の暗い隅にあるため、アレクサンドロス帝のモザイク画を見つけるのはやや難しい。アレクサンドロス帝は、レガリアをまとい、右手に巻物、左手に宝珠を持っている。モザイクは 1849 年の地震で破壊されたとされていたが、1958 年に発見された。
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一階の拝廊南側の扉のティンパヌムには「聖母子」のモザイク画がある。後陣アプスに描かれた「聖母子」を参照し、マケドニア王朝バシレイオス2世(ブルガロクトノス)(在位:976~1025)の治世に制作されたと言われている。
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聖母は宝石で飾られたスツールに座り貴石で飾られた台座に足を置いている。金の衣服を着た幼子が膝の上に座り、祝福を与え、左手に巻物を持っている。向かって右側の儀式用の衣装をまとった皇帝コンスタンティヌスが首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)を捧げている。向かって左側の皇帝ユスティニアヌス1世はアヤソフィアを捧げている。聖母の左右には、ノミナ・サクラ(神聖名を意味するラテン語)で、神、母と記されている。
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午後12時、地下宮殿(バシリカ・シスタン)(イェレバタン貯水池)の見学に向かった。アヤソフィアからルタン・アフメット通りを横断してイェレバタン通りに入ってすぐ左側に入口がある。階段を降りた地下に広がる貯水池には浅く水が張られており、その上に設置された見学用の通路を歩きながら見学する。建ち並ぶ円柱とアーチ天井は、ライトアップされ、水面にも光が反射して幻想的な雰囲気である。


東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス(在位:527~565)によって建設されたが、あまり詳しいことは分かっていない。映画「007 ロシアより愛をこめて」での映像の印象が強く、訪問を楽しみにしていたが、美しい写真が撮れず少し心残りとなった。

スルタンアフメト公園を中心に、アヤソフィアと向かい合う様に建つのは「スルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii)」で、オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって7年の歳月をかけ1616年に完成した世界で最も美しいモスクと評されている。優美な6本のミナレットと直径27.5メートルの大ドームをもち、内部は数万枚の青いイズニックタイルや美しいステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさから「ブルーモスク」とも呼ばれている。

こちらは、公園側から、南西方向に「ブルーモスク」を眺めた様子で、残りの2本のミナレットは、モスクの右側(北西側)に隣接する広い矩形のアーチ回廊の先(北角と東角)に建っている。ブルーモスクの入場口へは、右側にある入場門をくぐり30メートルほど直進し、先の大きな門を入るとブルーモスクの中庭に到着する。
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その中庭から、中央にある六角形の東屋風の「洗い場」越しにブルーモスクを見上げると、大小美しいドームが左右均等に整然と並んだ姿が見て取れ壮観である。この撮影ショットでは、全てのドームがモスクのドームに見えるが、東屋の先のアーチと天井の小ドームは、中庭を取り囲むアーチ回廊になる。


時刻は、午後1時を過ぎたので、ブルーモスクをさらさらっと見て、次に、スルタンアフメト公園に隣接する長方形の広場ヒッポドローム(円形競技場址)に建つ「テオドシウス1世(在位:379~395)のオベリスク(台座を含め 25.6メートル)」を見学して、昼食にむかうことにした。ちなみに、オベリスクは、もともとエジプト新王国 第18王朝トトメス3世(在位:前1504~前1450)がテーベ(現ルクソール)に建てたものを、この地まで運んだ、大変古いものである。すぐ近くには、コンスタンティノス7世の柱も建っている。

午後2時にガラタ橋にある「Yaka Balık Restaurant」で海鮮料理を頂いた。橋の上は、車道と歩道、トラムが走行しているが、1階には数多くのシーフード・レストランが並び、どこも昼時は混雑している。しかし、お昼時間を過ぎ、大半の客が食事を終えており、ゆっくり座ることができた。スタッフの青年のサービスは良かったが、暇なのか、やたらとまとわりついて少し鬱陶しかった。


ワインは、トルコのワイン、カワクルデレ セレクション ナーリンジェ エミル2006(Kavaklidere Selection Narince Emir)を頂いた。


オマール海老を頼んだためか、昼食にも関わらず、昨夜の「レストラン・ミクラ(Mikla)」と一昨夜のレストラン「Rana by Topaz」と、ほとんど同じ支払い額となり、散財してしまったが、美味しく満足だった。


その後、ホテルで荷物をピックアップして、空港に向かった。午後7時25分イスタンブールを出発(EK122)し、ドバイ、関空を経由して羽田空港に翌午後8時25分に到着した。
(2009.7.23~25)
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トルコ(その3)

2013-03-12 | トルコ
正面の真っ白な段丘崖は、石灰棚と青い温泉水が織りなす「パムッカレ」の温泉石灰華段丘で、丘の上には、2世紀頃に栄えたローマ帝国の聖なる都市「ヒエラポリス」の遺跡が広がっている。こちらはデニズリ県にある小さなパムッカレ(Pamukkale)村だが、1988年には世界遺産として登録され、トルコ屈指の観光名所として知られている。今日は午前9時半にセルチュクをバスで発ち、最寄りの街デニズリ(午後12時半着)からミニバスに乗り換え30分ほどで到着したところ。
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時刻は午後1時を過ぎ、まずは腹ごしらえするため、麓にあるレストラン「Mehmets Heaven」で昼食をいただいた。パムッカレのレストランについては、事前に調べておらず、適当に選んで入ったが、大変気さくなご主人の接待を受け料理も美味しかった(料理A料理B)。


お腹も満たされたところで、丘の上に続く整備された登山道(見学通路)を上って行く。200メートルほど先からは、石灰岩の通路となり、雪景色と見間違う崖の下、幅10~15メートルほどある段丘面の斜面側を、靴を脱いで素足で歩いて行く。その段丘面には、広い石灰棚が並び、青くきらめく温泉水を湛えており、水着に着替えてその中で泳ぐ人々もいる


丘の上が近づくと、敷板で覆われた通路になり、その上を歩いて行く。パムッカレは、トルコ語で「綿の城」を意味し、もともと良質な綿花の生産地だったことに由来するが、太陽の光によって、石灰岩の結晶は、まさに綿の繊維を思わせるように美しく輝いている。これらの石灰棚は、多量の炭酸カルシウムを含んだ温泉水が結晶化して沈殿し、くぼみを造り、何段も重なった結果だとされる。
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丘の上から麓を眺めると、パムッカレ村に建ち並ぶ家々や、先ほどまでいたレストランの周りの様子も良く見える。右側には、建設中のプールや大きな池が広がるパムッカレ自然公園がある。パムッカレ最寄りの街となるデニズリは、遠くのなだらかな丘を越えた先にあり、更に遠くには、うっすらと2000メートル級の山々(ホナズ山やアイドゥン山)が望める。
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丘の上からは、温泉水(摂氏35度)が噴き出して石灰棚を流れ下りて行く様子などが間近で見られる。


丘の上には、花壇や木々が建ち並ぶ石畳が広がる広場があり、その一角に、ローマ時代の石造りの遺構を再利用した「ヒエラポリス考古学博物館」が建っている。館内には、主にヒエラポリスと、ラオディキア(デニズリ)から発掘された、石棺、彫像、墓石、台座、柱、碑文などが展示されている。


中でも石棺の高浮彫装飾には目をみはるものがある。右側は、死者の安寧と天界での再生を願うべく、側面に詩人、音楽の女神、狩りの女神、ディオスクーロイなどの浮彫が施され、上部に男女の横臥像が刻まれた蓋が載せられている。左隣には、花のリースを高浮彫で施された石棺が展示されている。
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古代ローマ人は葬式の際に石棺に花のリースを飾ることが風習としてあった。石棺側面には、大きなマスクの間を、悪魔を踏みつけるキューピット(クピードー)が、両肩で分厚いリースを支える姿が表現されている。下部にも細かい幾何学文様が刻み込まれるなど全体的に損傷も少なく大変豪華な石棺である。


こちらは、イシス女神で、エジプト神話における豊穣の女神だったが、ギリシャ神話の大地と豊穣のデーメーテール女神と同一視され、2世紀頃のローマ帝国時代に大いに信仰された。館内には、他にもテュケー(ローマ神話のフォルトゥーナ)、ディオニューソス神、パン(ファウヌス)、アスクレピオス、海神トリートーンなどの彫像が展示されている。30分ほど見学した。


博物館の前から東側に向けて石畳の直線道が延びており、突き当りに温泉プールの施設がある(有料)。もともとローマ時代の大浴場があった場所で、周りに「ヒエラポリス遺跡」が広がっている。

左方向(北側)の平原側には「ヒエラポリス」のメインストリート(目抜き通り)址が延び、東側には緩やかな上りの丘が続いている。その丘の上にはローマ劇場があり、観客席と手前に建つレンガ色の舞台背後の壁(スカエナエ・フロンス)を望むことができる。これから、見学コースのあぜ道を上ってローマ劇場に行ってみる。


「ヒエラポリス」は、紀元前2世紀初頭、セレウコス朝(シリア王国)の領域内に温泉として設立され、患者の治療として温泉を使用するヒーリングセンターとして栄えてきた。紀元前133年のアッタロス朝アッタロス3世の死後は、ローマ帝国アジア属州に編入される。西暦17年、第2代ローマ皇帝ティベリウス帝(在:14~37)の統治中に大地震で大きな被害を被っている。

西暦60年、第5代ローマ皇帝ネロ帝(54~68)の統治中に、再び地震が襲い街は廃墟となるものの、ローマ帝国の財政的支援を受け再建される。現在の遺構の多くはこの時期以降のものとされている。ちなみに、キリストの十二使徒の一人で、スキタイ地方を福音したフィリポの殉教地(80年)でもある。

2世紀に入ると、ヒエラポリスは、大浴場、体育館、神殿、列柱のあるメインストリートなどが次々に建設され、芸術、哲学、貿易の分野でもローマ帝国で最も著名な都市の一つとなり、人口も10万人に達したと言われている。「ヒエラポリス考古学博物館」に展示されていたヒエラポリスの復元図を見ると、当時の街の状況がイメージしやすい。
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丘の上の「ローマ劇場」は第14代ローマ皇帝ハドリアヌス帝(在:117~138)の訪問のために西暦129年に建てられ、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルス帝(在:193~211)の下で改装された。

座席の最後部から劇場を見下ろすと、傾斜がかなり急で、吸い込まれそうになる。観客席の中央最前列には、インペリアルボックスがあり、その先には、半円形のオーケストラに、プロスカエニウム(額縁舞台)と、高さ3.7メートルのプルピタム(ステージ)が設置されている。ステージの背景となるスカエナエ・フロンスには、出演者用の5つのドアと石像を飾る壮麗な壁龕(ニッチ)があり、列柱は、弓型ペディメント(破風)の天井を支えていた。


観客席は、下部ゾーン20列、上部ゾーン25列と2つのゾーンに水平分割され、8つの階段を配置した、最大15,000人まで収容可能な大規模な劇場である。


後部座席からは、遺跡群を見渡すことができる。あぜ道のすぐ先にある煉瓦色の外壁は泉の神ニンフを祀るニンファエウム(神殿)の址で、手前にはアポロン神殿の円柱が二本残っている。右側やや前方に温泉プールの施設があり、その右隣の緑から石灰華段丘方面への直線道が続いている。
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この日は日差しが強くかなり暑いが、風が強かったので少しホッとできる。

次に、劇場から移動して、ヒエラポリスのメインストリートを歩いてみる。道路は、矩形に裁断された大理石の石板が並べられた舗装道路で、幅13.5メートル、地下には下水道も通っていた。通り沿いにはバシリカや市場などがある繁華街であった。しばらく歩くと、前方北側にビザンティン門が見えてきた。


ビザンティン門のそばからは、獅子、黒豹、ゴルゴーンの頭が付いたブラケット型の彫像が発掘しており、門に取り付けられ厄除けを願ったものと解釈されている。こちらは、そのビザンティン門をくぐって振り向いた様子で、門の左右には、四角い砦の様な塔が隣接して建っている。ローマ皇帝テオドシウス帝の時代(4世紀後半)に要塞システムを取り入れて造られた門と言われている。


ビザンティン門をくぐると、更にメインストリートは続き、200メートルほど先に三連アーチと円筒を持つ「ドミティアヌス門」が建っている。門は西暦84~85年に、第11代ローマ皇帝ドミティアヌス帝(在:81~96)をたたえてローマ帝国のプロコンスルで水道長官でもあったユリウス・フロンティヌス(40頃~103)により建てられたことから、フロンティヌス門とも呼ばれている。そのドミティアヌス門(フロンティヌス門)がヒエラポリスの北門になる。


西側のパムッカレ石灰華段丘の崖近くからメインストリートを眺めてみる。メインストリート沿いに並ぶ列柱群はアゴラの址で、ドミティアヌス門の先に見える東側に向いた二連アーチ門は北大浴場の址である。


再びメインストリートに戻りドミティアヌス門をくぐってみる。門には、大理石で造られた美しいコーニス(水平な形作られた突起部)があったが、ほとんど失われている。僅かにローマンキャピタル文字が残っている。


北大浴場の二連アーチ門は、近づいてみると、ドミティアヌス門よりはるかに大きい。ヒエラポリスにあった大浴場は中心部と、こちらの2ヶ所にあった。ヒエラポリスは何度も大地震により被害を受けその都度再建されているが、その理由の一つとして、温泉が良質で、ローマ皇帝が度々治癒のために訪れていたためとも言われている。


入場して既に3時間が経過した。あまりの暑さに、石灰華段丘の途中にある大きな石灰棚で泳ぐことにした。この時間は、十数名が泳いでいたこともあり気兼ねなく水着に着替えて仲間入りし、火照った体を気持ちよくクールダウンすることができた。その後、再び「パムッカレ・レストラン」に戻りビールと夕食を頂いた。食後は水パイプも体験した。


食事後、デニズリ・バスターミナル(オトガル)に向かった。今夜は、午後10時発の夜行バス(Suha Turizm 40TL)で、カッパドキアのギョレメに向かうこととしている。オトガルのあるデニズリまでは、街灯も少なく寂しい雰囲気である。レストランで少しゆっくりしすぎたため、オトガル到着は出発間際になった。夜行バスは日本の観光バスと同様の2席づつの前向きシートで、ほぼ満席だった。外国人は見当たらなく、利用者のほとんどが地元の人といった印象を受けた。

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夜明け前に車内のカーテンを開けると、サンライズ・バルーンフライトが見え、カッパドキアに近づいたと思った。その後、再びうとうとした午前8時頃、ギョレメ中心部にあるバスターミナル(オトガル)に無事到着した。デニズリからギョレメまでは、途中の街コンヤを経由して東に約600キロメートル、10時間ほどの距離であった。

まずは、今夜の宿泊ホテル(アイディンリ ケーブ ホテル、Aydınlı Cave Hotel)にチェックインすべく向かった。オトガルからは、南西方面に歩いて400メートルほどにある。ホテル到着後、最初にテラスで朝食を頂いた。


ギョレメは、トルコの中央アナトリアのカッパドキア地方ネヴシェヒル県にある人口2,000人ほどの小さな村で、カッパドキア(Cappadocia)の観光拠点となっている。ギョレメ周辺の約100平方キロメートルは、「ギョレメ国立公園」(Göreme Milli Parklar)で、更に1985年には「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石遺跡群」として世界遺産に登録されている。

カッパドキアは、 ペルシア語、トルコ語で「美しい馬の地」を意味する。現在の大地の姿は、約1千万年前とも言われるアナトリア高原の火山活動により噴出した膨大な火山灰の堆積が、長年にわたる風雨により浸食して、ペリバジャ(妖精の煙突)(fairy chimney)と呼ばれる奇岩群「キノコ岩」を生み出した。地元の人々は、自然と調和するかのように奇岩に住み(ロックハウス)、ロックレストランやロックホテルなどを営業している。

ホテルの部屋からはギョレメ村を一望することができる。こちらは東側の様子で左端がオトガルの辺りになる。この時間は逆光となっている。ちなみにアナトリア高原の標高は、800~1300メートルで、ギョレメ村は概ね標高1100メートルほどに位置している。
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徐々に右側に視線を移していくと、巨大な奇岩が村を横断して続いている。まるで、巨大なタケノコが地面から顔を出している様に見える。今まで見たことがない奇妙で不思議な景観に圧倒される。
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右側手前の奇岩は、頂部が二つに裂け、映画「デューン 砂の惑星」(1984)に登場する、砂虫(サンドワーム)の様な形状をしている。。南西側は段丘崖に続く斜面地で、階段状に建物が建っている。
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更に右に視線を移していく。折り重なる様に建つ白い建物は、ほとんどがホテルである。右端には、威圧感のある巨大な奇岩があり、中央に窓がありブロックで手すり壁が造られている。ホテルなのだろうか。。
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「ギョレメ国定公園」の観光については、ギョレメにある旅行会社(Yama Tour)のプライベート・ツアー(昼付80ユーロ)を利用することとしている。朝食後、迎えに来たガイドの車に乗り、早々に出発した。最初に、ギョレメ村の北側に隣接する古い集落「チャウシン(Çavuşin)村」を通過し、 大きく東に回り込んだゼルベ渓谷沿いにある「パシャバーの谷」(Zelve-Pasabag)に向かった。荒涼な景色の中を走っていると右側に奇石群が現れた。駐車場には、多数の車や観光バスも停まっており大観光地といった様相である。


ツアーでの観光地訪問は、ギョレメ国立公園概略図を参照。

「パシャバーの谷」は、入場無料で、24時間自由に見学ができる。敷地内には遊歩道も整備されており歩きやすい。レストランやショップなどもあり、特設テントでは色とりどりのお椀やアクセサリー、奇岩を模った置物などの土産物が販売されている。広場には観光用ラクダが待機しており、写真を撮ったり、乗って散策できる。

中央の大きな広場には、細長い特徴的な3本の奇岩が立っている。日本人には「しめじ岩」と呼ばれており、広場の中にぽつねんと立っており、こちらの岩だけ残っていることに驚かされる。根元は一層細くなっており、倒壊しないかと心配になった。しめじ岩の向こうに見える山は、道路沿い北側に立つ標高1100メートル級のアクテベ山(標高差100メートル)である。
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奇岩の「妖精の煙突」とは、土柱(どちゅう)、フードゥー (Hoodoo) などとも呼ばれ、火山灰が固まった凝灰岩の段丘礫層(土柱礫層)が、風雨により何万年もかかって侵食され柱状になったもの。層の硬さの違いにより、現在の奇岩が生まれた。先端の色の濃い岩は、溶岩である玄武岩と言われているが、藻類が浸食した凝灰岩とも言われている。


奇岩の内部にビザンティン時代に描かれたフレスコ画も残っている。古代ペルシア帝国やヒッタイト民族などの領土であったカッパドキアは、その後ローマ帝国の属州となったが、3世紀半ば、ローマ帝国に迫害されていた初期キリスト教徒は、この地まで逃げ延びて、奇岩に洞穴を掘り住居や祈りの場にしてきた。そして9世紀頃からは洞窟教会や修道院、地底都市などを次々に作り上げていった。


広場の中心から南側には「ギョメレ国定公園」の中央に位置するアクダー山(白い山の意)(標高1325メートル)を望むことができる。左右の奇岩は要塞を守る砦の様にも見える。


右側に視線を移していくと、観光客を待つラクダがいる。この辺りは、アクダー山の北麓にあたるが、斜面ではなく平地や広場に奇岩が並んでいるのは大変不思議な光景である。
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次に、デヴレント谷(Devrent Valley)に向かった。妖精の煙突からは、東に向かい、正面の丘を迂回して一旦北側に向かい、交差点を右折して、南のユルギュップ(Ürgüp)方面に向かう。交差点から2キロメートルほど行った左にカーブする左側に、人気のある奇岩「ラクダ岩」がある。カタツムリの岩とも言われているが、自然が作り出す造形美に圧倒される。


大きく左に曲がった先の右側には、観光バスや車が駐車している。車を降りて、ラクダ岩の前から左側の通りの向かい側を眺めると、しめじかヒラタケの群衆といった感じの奇岩が連なっている。
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街道を更に500メートルほど進み、交差点を鋭角に左に曲がると一気に標高が上がり、左側の「デブレント展望台」に到着する。展望台からは「デヴレント谷」の景観を見渡すことができる。南西側には、アクダー山が望め、手前の麓付近には、浸食によりひだ状になったややピンク色の奇岩が広がっている。
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西側が先ほど走行してきた街道で、バスが止まるのが「ラクダ岩」前の駐車場になる。
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手前には先端が尖った奇岩が針地獄の様にひしめいている。暗い中で見ると不気味に見えるかもしれない。遠方に「アヴァノス」(Avanos)の街並みが見える。
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午前11時、ツアーにつきもののお土産屋(キリムなどの織物ショップ)に行った後は、カッパドキア最古の地下都市「カイマクル」を見学した。地下8階、深さ50メートルを超える巨大な空間で、約5000人もの住民が住んでいたとされている。内部には教会、学校、食料や物品の貯蔵庫、ワイナリーなどの跡が見つかっている。


しかし、実際のところ何のために地下都市が建設されたか、はっきりわかっていないとのこと。発見当時から生活道具等が一切残されておらず、一時的な避難施設として建設されたとも考えられている。40分ほど見学した後、お昼のレストランに向かった。

午後1時前に「ウチヒサール」(Uçhisar)に到着し、高台にあるレストランでトルコ料理をいただいた。ウチヒサールは、ネヴシェヒル県にあるカッパドキアの集落で、ギョレメのすぐ南にある。ネヴシェヒルからは東に7キロメートル、ユルギュップからは西に12キロメートル、アヴァノスからは南に10キロメートルのところにある。


テーブル席が多いツアー客向けのレストラン風で、ブッフェ料理だったが、この時間は店内は空いており、窓際からの眺めは良かった。


食後はウチヒサールの見所の一つ、「鳩の谷」(ピジョンバレー、Pigeon Valley)を見学した。何年にもわたって谷の崖の面に刻まれた洞窟で、内部には、鳥がねぐらをとるための場所である。鳩の谷に残された排泄物は、主に肥料として使用された。現在では、洞窟を観光客向けの宿泊施設として営業しているケースもある。


ウチヒサールの最大の見所は、高い丘の頂部の急な崖に面した高さ60メートルの山塊「ウチヒサール城(Uchisar Rock Castle)」である。城としての建設は紀元前4世紀から1世紀の間と考えられている。町の地下には、多数の通路と部屋が交差しており、行き来できたが、現在は、封鎖されている。17世紀半ばにはキリスト教の僧侶によって使用され、その後は、防衛のための監視塔として活用された。村の北側道路は、丘の中腹を通っていることから、それほど標高差を感じにくいが、遠くからでも大きな円筒形の塔が聳えていることから、ウチヒサールのランドマークになっている。


こちらは、「三姉妹の岩(3 Beauties)」と呼ばれる高さは3メートルほどの奇岩で、展望台のすぐ目の前の崖の斜面に立っている。「妖精の岩」とも呼ばれ、カッパドキアのシンボル的な存在で、お土産でもほとんどがこの奇岩をデザインしている。頂部の平たい傘がベレー帽の様にも見える。


三姉妹の岩の隣にも高さは低いが同じ大きさの傘を持つ奇岩がある。傘は人為的に岩を積み重ねた様にも見える。周辺の崖の斜面を見渡すと、三姉妹の岩とこちらの奇岩を含め計5つの奇岩だけが斜面から反発する様に突き出している。不思議な景観である。。


午後3時、「キジルクル・バレー(Kizilcukur Valley)」(ローズ・バレー)を見学した。ピンク色がかったひだ状の浸食奇岩のパノラマが広がるプライベートツアーでないと来られない場所。サンセットの際(別料金)は、夕日に照らされ一層美しい色に染まる。。前方のアクダー山の中腹から下のピンク色は凝灰岩だが、山頂部の白い個所は石灰岩とのこと。


ところで、この場所でデジカメを落とし壊してしまった。以降、代わりにビデオカメラで撮影したが、画像が良くなく大変ショックであった。

ウチヒサールから、ギョレメに入る手前の道路沿いに展望台があり、眼下にギョメレの村が一望できる。中央やや左側がオトガルがある村の中心部で、宿泊先のアイディンリ ケーブ ホテルは右側になる。右端の段丘崖手前にホテルからも良く見えた中央に窓がある大きな岩山が確認できる。
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次に、そのオトガル横を通過し、ギョメレの村を横断して「ギョレメ屋外博物館」(Goreme Open Air Museum)に向かった。ギョレメ村から上りの坂道を東に行った場所にある。土産物店が並ぶ道路の右側(南側)にある入場ゲートから入場する。敷地内には、大小15ほどのキリセ(洞窟修道院や教会)があり、最初に現れるのが、ゲート前の広場に面して建つ「バジル教会」である。


バジルとは、トルコ中央部のカイサリア司教で、カッパドキアの父と呼ばれたバシレイオス(330頃~379)のことで、ギョレメの谷で、信仰を共にした共同体の生活を提唱した人物。当時、彼の提唱により、凝灰岩を掘り造られた洞窟修道院や教会は、周辺を含め300以上あったと伝えられている。

バジル教会の右側から見学通路を南に向かうと、右側に「リンゴの教会」、「バルバラ教会」と岩山が続き、見学通路は大きく左に曲がり岩山の前を上って行く。その最初にある岩山に設けられた階段を上った先の洞窟は「蛇の教会」(ユランルーキリセ)で、洞窟内の壁面には「龍と戦う聖ジョルジョ」や「蛇に向かう聖テオドシウス」が描かれている。


次に、坂道を200メートルほど登った大きな岩山に「暗闇の教会」(カランルク・キリセ)がある(別料金)。教会の名は、礼拝堂内の暗さから名付けられた。しかし、光りがほとんど差し込まないことから、逆にフレスコ画の保存状態が良いとのこと。
そして、こちらはその「暗闇の教会」前から見下ろした様子で、岩山に囲まれたすり鉢状の広場沿いに見学通路が設けられているのが分かる。右側から歩いて来て、先ほど、左端の岩山の階段を上り「蛇の教会」を見学してきたところ。


その暗闇の教会を廻り込んだ裏側の岩山で、最も高いところに「サンダル教会」(チャルクル・キリセ)がある。壁画の人物がサンダルを履いていることから名付けられた。洞窟内は2本の円柱、アーチ型の天井、4つのドームから構成され、中央ドームには天使ミカエルやガブリエルを配したパントクラトール(全能の神)の胸像が描かれ、周囲には、受胎告知などキリスト教にとって重要な事柄が描かれている。


こちらのアプスには、椅子に座り、右手で祝福し左手に福音書を抱えた「パントクラトール(全能の神)」(キリスト)が描かれている。分かりにくいがサンダルを履いている。壁画のタッチは、ビザンティン芸術の影響を受けている。


こちらには「キリストの変容」の場面が描かれている。白く輝く姿のハリストス(キリスト)が、左右の預言者モーセとエリヤと語り合う奇蹟を、使徒に見せている。


次に、「ギョレメ野外博物館」の入口ゲートを出て、道路を挟んだ向かい側に向かった。こちらには、カッパドキアで最大の洞窟教会と言われる「バックル教会」(トカル・キリセ)がある。

室内は、9~10世紀頃に建設された、旧教会、新教会、サイド・チャペル、ローワー・チャーチの4つの部屋から構成されており、手の込んだ内部構造や高価なラピスラズリをふんだんに使用して描かれたフレスコ画が見所である。最初に現れる部屋は「旧教会」で、筒型ヴォールトの天井にキリストの生涯を三部構成とし合計32の場面が描かれている。


そして、その先に天井の高い「新教会」がある。新教会は十字形で、身廊には柱やアーチが築かれ全面にフレスコ画が施され、キリストの生涯や、バシレイオスの生涯を中心に多くの聖人と共に描かれている。拝廊上部の半円アーチには幾何学文様が施された十字架の浮彫と、聖人が描き込まれた壁龕が施されるなど、地上の教会建築と見まがうほどの細かい造りになっている。


ヴォールト天井にも、フレスコ画が施され、「洗礼」や「受胎告知」が描かれている。バックル教会は青を基調色としたフレスコ画から「青の教会」とも呼ばれている。


右側にはサイド・チャペル(礼拝堂)があり、そのアプスには、キリストの磔刑図が描かれている。写真の画像が良くないのが残念だが、青色を背景に、中央にキリストの磔刑図(正教会特徴の足台がある)を配置し、左右に2人の磔刑姿も描かれている。キリストの足元には、2人の兵士が槍でキリストのわき腹を突き刺し、死を確認しているショッキングな瞬間が描かれている。
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午後6時過ぎに、ホテルに戻り、ベランダから夕暮れの景色などを眺め、その後、再び、旅行会社の送迎付きで「タルキッシュ・ナイトショー」に向かった。場所は、アヴァノスにある「エブラノス レストラン」(Evranos Restaurant)で、ツアー客専門の洞窟レストランだった。。中央に円形の舞台があり、取り囲む様に放射状にテーブル席が設置され、食事(飲み物付き)をしながら鑑賞できる。


団体客が、騒がしかったが、トルコの伝統舞踊やベリーダンスショーなど、ショー自体は見ごたえがあった。特に、旋舞教団としてしられるメヴレヴィー教団のスカート・スタイルで回転しながら踊るセマー(宗教行為)は貴重な機会となった。このショーをもって、ギョレメ国定公園のツアーは終了した。多少慌ただしかったが、そもそも1日ツアーなので無理も言えない。むしろ、ガイドは日本語も堪能で丁寧に案内してくれ、安心して観光することができた。

翌朝、ホテルで朝食を食べた後、チェックアウトして、ネヴシェヒル・カッパドキア空港に向かい、午後12時発のターキッシュ エアラインズ(TK0259便)でイスタンブールに戻った。
(2009.7.21~22)
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