カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ドイツ・ベルリン(その5)

2014-12-28 | ドイツ(ベルリン)
アレクサンダープラッツ駅からSバーンに乗り、西隣となる1つ目のハッケッシャー・マルクト駅で下車し、鉄道の高架沿い(南側)を西に向けて歩いている。高架下に続く綺麗な煉瓦アーチの間には、パブが並んでいるが、この時間はまだ営業していない。これから、昨日に引き続き「ムゼーウムス島」(博物館島)に向う。


川辺の公園から、シュプレー川に沿って南に進み、前方のフリードリヒ橋を渡った先が博物館島になる。そのシュプレー川対岸の南側には美しいドームを持つ「ベルリン大聖堂」が見える。


橋を渡るとボーデン通りになり、右側には、通りと並行してポルチコ(アーケード)が続いている。その奥(北側)左右に、昨日訪れた新博物館(Neues Museum)と、旧ナショナル・ギャラリー(Alte Nationalgalerie)がある。今日は、これから、新博物館の先隣りにある「ペルガモン博物館」を訪れることにしている。ペルガモン博物館は古代(ギリシャ・ローマ)博物館、中近東博物館、イスラム博物館に分かれており、中でも「ゼウスの大祭壇」が見どころの一つだが、残念ながら修復中で見学できない。本来、西側が正面入口だがこちらも工事中のため、南口から入館する。


館内に入り、細い通路を歩いて入館手続きを済ますと、突然広い空間となり、目の前に、「イシュタル門」が現れる。博物館内とは思えないほど巨大な建造物である。イシュタルとは、古代メソポタミア神話において広く尊崇された女神を意味している。門の表面は、青い釉薬タイルで覆われており、天候神アダドの随獣である牡牛とムシュフシュの浅浮き彫りが描かれている。門の両脇にはそれぞれ塔を有している。
クリックで別ウインドウ開く

ちなみに、こちらがムシュフシュ。。シュメール語で「恐ろしい蛇」を意味する。毒蛇の頭とライオンの上半身、鷲の下半身、蠍の尾を持つ空想上の姿であらわされている。敵や邪悪な霊の進入を城門で防ぐ守護獣の役割を果たした。
クリックで別ウインドウ開く

イシュタル門は、紀元前575年メソポタミア地方の古代オリエント最大の都市で、新バビロニア王国ネブカドネザル2世王の時代に造られた。王はハムラビ時代(紀元前18世紀)から続くバビロニアに大改築工事を施し、広大な城壁や数々の大神殿を建てるなど新バビロニア王国の黄金時代をもたらしている。館内に飾られたイシュタル門の側面には、南宮殿の玉座の間を飾っていた鮮やかな釉薬タイルの壁が展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

当時の新バビロニア王国の首都バビロンはユーフラテス川の左岸にあり、巨大な城壁(高さ90メートル、厚さ24メートル、数十キロメートル)にかこまれた、数百万の人口を数える巨大都市だった。メインゲートを入ると、大理石のピンクの床が敷きつめられた道幅24メートルの大通り(行列道路)があり、その大通りの先に「イシュタル門」があった。イシュタル門を抜けると、王宮(古代世界の七不思議といわれるバビロンの空中庭園)があり、その王宮のテラスからマルドゥク神殿に築かれたジグラット(バベルの塔)を仰ぎ見ることが出来たと言われている。

ガラスケースの中のイシュタル門の模型では、更に背後に巨大な塔が聳えている。門手前の大通りには、所々袋小路があり、敵兵が殺到してきた場合は、その袋小路で立ち往生をさせて、周囲の城壁から矢を放ち殲滅することを想定していた。
クリックで別ウインドウ開く

イシュタル門を離れて館内通路を歩くと、両側にも青い釉薬タイルで飾られた壁が続いている。当時の大通り(行列道路)をイメージしている。


大通りの両側の壁には、ライオンのレリーフが飾られ、上下には16弁八重表菊紋が規則正しく配置されている。
クリックで別ウインドウ開く

さて、こちらの展示コーナーにある古い浮彫煉瓦装飾は、新バビロニア王国時代から約800年以上遡る、紀元前15世紀末~紀元前14世紀初頭につくられたもの。バビロニア最古の都市ウルクに、カラインダシュ王(カッシート王朝)によって建てられた「イナンナ女神宮殿」の入口壁面である。向かって右側は女神、左が男神で共に手には雨をもたらす水瓶を持った像が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

バビロニアの北側に隣接していた国が、アッシリア王国である。アッシリア王国は、紀元前18世紀頃から前7世紀にわたって、現在のイラク北部に栄えた古代オリエント最初の帝国。アッシュールやニネヴェを首都としていたが、アッシュールナツィルパル2世(在位:紀元前883年~紀元前859年)時に、新都カルフ(ニムルド)を建設した。この都市の遺跡から彼にまつわる数多くの遺物が出土している。

こちらは「ライオン狩り」と名付けられた壁画。アッシリアでは、ライオン狩りが、古来より君主の特権的な行為として認められていた。このレリーフが製作された紀元前7世紀のアッシュールナツィルパル宮殿では、広間や通路の壁画に、壮大な絵巻物のように繰り広げられ、王が獲物を仕留める様々な場面が描かれた。しかし、獲物として描かれているライオンに屈辱的な描写のものは一つもないといわれている。これはライオンが闘う王の象徴であると考えられているからだという。このレリーフでも、ライオンは、矢で射抜かれているにも係わらず、大きく口を開け相手を威嚇しているようにも見える。
クリックで別ウインドウ開く

門の守護神ラマッス像。胴体は雄牛或いはライオンで、羽根は鷲、頭部は人間である。こちらも、ニムルドから出土したもの。アッシュールナツィルパル2世が大規模な宮殿と神殿を造っていたことがうかがえる。
クリックで別ウインドウ開く

壁面には、当時のニムルドの宮殿を飾っていたレリーフが多く展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

神々に表敬するエサルハドンの石碑。エサルハドン(在位:紀元前681年~紀元前669年)は新アッシリア王国時代王の一人である。石碑の上部には、神獣の上に立つ4人の神やシンボルが表現されている。王は右手に祭具を握る崇拝ポーズをとり、左手には王笏と征服した敵をつないだ縄を持っている。縄に繋がれた男は、王に比べ極端に小さく表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

さて、イシュタル門を抜けると裏側には、これも巨大な「ミレトスの市場門」が復元展示されている。この市場門は 紀元前120年頃、ローマ皇帝ハドリアヌス時代のもので、高さ約10メートル、幅約30メートルある。ミレトスは、エーゲ海をはさんだギリシア本土の対岸、現在のトルコ、アナトリア半島の西海岸メンデレス川の河口付近にあったギリシア人の植民都市である。
クリックで別ウインドウ開く

こちらにも模型が置かれている。一番奥が、ミレトスの市場門、手前の港は獅子港である。大きな都市だったことがわかる。
クリックで別ウインドウ開く

ミレトスの市場門の向かいにも、巨大なバルコニーがあり、内部にも遺構の数々が展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

バルコニーと市場門の間の床にはモザイク画が展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

次にイスラム博物館に向かう。こちらはシリアのアレッポのキリスト教地区に17世紀に作られた商家の居間にあった木製壁面装飾で、「アレッポの部屋」と名付けられている。部屋の高さは2.5メートル、長さ35メートルあり、三方の壁面には、聖書の場面(イサクの犠牲、サロメの踊り、聖母子 、最後の晩餐など)に加え、中東の古典的悲恋物語「ライラとマジュヌーン」などが描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

目の前にまたまた巨大な遺跡があらわれた。こちらは、「ムシャッター(冬宮)宮殿のファサード」。ウマイヤ朝(661~750年)時代にヨルダンのアンマン近郊に建造されたもので、この展示室では、宮殿の正面部の壁画が復元展示されている。そして、この宮殿の一部がドイツに来ることになった経緯や発掘作業の様子を映した写真も併せて展示されている。

この宮殿は、1903年にドイツにより発掘された。発掘当時、遺跡近辺では鉄道敷設が進んでおり破壊の危機に晒されていたが、4年の歳月をかけてベルリンに運んだという。その後、第二次世界大戦のベルリン空襲で大きな損傷を受けたが、細かく砕けた部分をジグゾーパズルのように組み立てる修復作業を8年かけて行われ往時の姿を取り戻した。


宮殿は、石灰岩で出来ており、全面が緻密な浮彫で覆われている。正面の塔には、アカンサスの葉からなるジグザグ三角形内に、装飾面から突出した6弁型のロゼッタが彫られている。そしてその下には動物模様も見える。なんとも豪華な宮殿だが、実際のところウマイヤ朝時代には完成せず、ウマイヤ朝の滅亡とともに建設は中断され放棄されたという。
クリックで別ウインドウ開く

様々なタイルが展示されている。特にラスター彩タイルの発明は革命的であった。酸化銀や酸化銅を含む特殊な顔料が用いられ、強還元焔の窯で焼成された。光があたると、七色に輝く金属光沢を発する。12世紀から13世紀イスラム帝国の黄金時代と言われたアッバス朝時代に、星形や様々な動物文様が描かれたタイルが多く製作され、モスクの壁面などに用いられた。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは「ベイヘキム モスクのミフラーブ、13世紀、コンヤ(トルコ)」。コンヤは、ルーム・セルジューク朝の首都であり、カイクバード1世(在位:1219年~1237年)の頃、最も繁栄した。ミフラーブとは、カアバの方向(キブラ)を示す礼拝堂内部の壁に設置された窪み状の設備をいう。イズニック・チニと言われる最高級のタイルでつくられており、玉座節と呼ばれるコーランの中でも最も功徳のある節として尊重されている第2章、雌牛章255節がカリグラフィー文字を用いて描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

「マイダン・モスクのミフラーブ、1226年、カシャーン」。このミフラーブは、ラスター彩の陶器でできている。
クリックで別ウインドウ開く

「象牙の角笛(オリファント)と象牙の箱、11世紀~12世紀」。象牙は、サハラ砂漠を越えて陸路でもたらされていたため、地政学上、入手しやすい場所にあった、後ウマイヤ朝やファーティマ朝では、象牙細工が大いに発達した。
クリックで別ウインドウ開く

この後「ボーデ博物館」(Bode-Museum)の見学も予定していることから、見学3時間を過ぎた午後1時に退館した。入館した南口から外に出ると、ペルガモン博物館への入館を待つ列が右側の「旧ナショナル・ギャラリー」に沿って伸びている。館内では感じなかったが、日曜日でもあり、入場調整をしているのかも知れない。
クリックで別ウインドウ開く

次の目的地となる「ボーデ博物館」は、ペルガモン博物館の北隣に位置しているが、この日はペルガモン博物館の正面口が工事中で、動線がややこしい。一旦、手前にある「新博物館」南側から、西隣のシュプレー運河をアイゼルネ橋で渡り、回り込む様に右折して、運河沿いを北西方面に向かう。すぐ右側の列柱のある建物と、先に見える列柱の建物が「ペルガモン博物館」の「コ」の字の両翼で、橋を渡った先が、本来の正面口となる。
クリックで別ウインドウ開く

そのペルガモン博物館への橋を通り過ぎ、横断するSバーンの高架陸橋をくぐると、右側に「ボーデ博物館」の外壁が現れる。美術館は「ムゼーウムス島」(博物館島)のある中洲の北端から南側に向け、島に沿うように三角形の敷地に建ち、入口はモンビュー橋を渡った北端の大きなドーム側にある。
クリックで別ウインドウ開く

ボーデ博物館は、1904年に、ドイツ建築家エルンスト フォン イーネ(1848~1917)による設計で建てられた。ドイツ皇帝フリードリヒ3世(1831~1888、在位:1888~1888年)に因んでカイザー フリードリヒ博物館と名付けられたが、後年、ドイツの美術史家ヴィルヘルム フォン ボーデ(1845~1929)の名に変更された。主なコレクションとして東方教会、中世イタリアゴシック彫刻、初期ルネサンス彫刻、後期ドイツゴシック作品、18世紀プロイセン バロック彫刻などがある。

入口を入ったドームの下には、フリードリヒ3世とイギリス王女ヴィクトリアとの長子で、最期のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位:1888~1918、1859~1941)の騎馬像が飾られている。左右に回り階段があり、上った先のカフェでは多くの人が利用している。
クリックで別ウインドウ開く

騎馬像の後ろの扉口から入場し、左右の窓を通して光が差し込む明るい廊下を過ぎると、3廊式のキリスト教会堂と見紛う大きな中央展示室が現れる。なお、手前には、両翼の展示室へ向かう扉口がある。


中央展示室には、クリスマスツリーが飾られ、左右にそれぞれ対となる5つのアーチが並び、内側に作品が展示されている。左側のアーチ内には、フィレンツェ出身の彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア(1400~1481)による、琺瑯細工の祭壇画「聖フランシスとコスマスと聖母子」と、「聖母子」の丸皿レリーフが掲げられている。


クリスマスツリーの先にある扉口を出ると、最南端の小さなドームのあるフロアで2階への階段がある。階段手前の左右にある扉口の右側を入ると、大理石の彫像が飾られた展示室となる。中央には、18~19世紀のイタリア新古典主義の代顔的彫刻家アントニオ・カノーヴァの傑作で、ボーデ博物館を代表する作品「踊り子(1809年~1812年)」が展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

カノーヴァは、肌の滑らかさや、繊細さの中に優雅さや気品さも漂う女性像を多く制作したことで知られる。踊り子は、両手にフィンガーシンバルを付け、ステップを踏みながら優雅に踊る姿を捉えている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、隣の南西角となる展示室から、運河沿いの展示室を進み、中央展示室の手前の右翼の展示室にやってきた。中央には、ドナテッロの制作した「タンバリンを持つプット(1429年)、シエナ」の小さなブロンズ像が展示されている。プットとは、翼の生えた裸の幼児(男児)のことをいい、中世美術に頻繁に登場し、ラッパやハープ等の楽器を持った姿としても表現された。
クリックで別ウインドウ開く

正面から翼が見えないので回り込んでみる。お尻が意外なほど引き締まっており、幼児より少年に見える。ドナテッロは、同時期に傑作「ダヴィデ像」を制作し、それまでとかけ離れた少年裸体像を表現した。その像には同性愛が表現されており、彼の性的嗜好を反映しているという研究者がいるが、このプットにもそのダヴィデ像に通じる表現を感じるのは考えすぎだろうか。
クリックで別ウインドウ開く

展示室の西側壁面にもドナテッロの傑作「パッツィの聖母(1420年)、大理石」が展示されている。ドナテッロが得意とした浅浮彫(スティアッチャート)技法で制作されている。聖母子は互いに向かい合い、聖母は我が子をしっかりと抱きしめ顔を押し当てている。フィレンツェのパッツィ宮殿に飾られていたといわれる。
クリックで別ウインドウ開く

2点のドナテッロ作品の間には、デジデリオ・ダ・セッティニャーノの「マリエッタ・ストロッツィの肖像(Marietta Strozzi)(1460年)」が展示されている。モデルのマリエッタは、メディチ家とライバル関係にあったストロッツィ家の一員だったと考えられている。像は、顔をやや左上にあげ、凛とした美しさを感じる。近くから見ると、唇がわずかに開いており、今にも何かしゃべり出しそうな様子でもある。
クリックで別ウインドウ開く

像を後ろからも見てみる。首筋から肩にかけてのカーブは、大理石にもかかわらず、やわらかさやぬくもりまで感じてしまうほど。誠に素晴らしい胸像である。デジデリオは、15世紀のフィレンツェを代表する彫刻家で、完璧なまでの技術や独創性で作品を生み出し、ミケランジェロやダ・ヴィンチにも大きく影響を与えたと言われる。
クリックで別ウインドウ開く

再び西翼の展示室に戻り、北隣の展示室に入ると、ルネサンス期イタリアの彫刻家ルカ・デッラ・ロッビアの作品が展示されている。ルカは、大理石像やブロンズ像も制作したが、何と言っても戸外でも耐久性に優れた像として釉薬を塗ったテラコッタ(セラミック)を開発し多くの作品を残した。このルカ以降、ロッビア家はセラミック芸術家の名門となり、甥のアンドレアや、その子ジョヴァンニを輩出した。


暖炉風のオブジェの上の作品はルカの「聖母子と二天使(1450年)、フィレンツェ」が展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

北側の突き当りの展示室には、ダ・ヴィンチの師匠アンドレア・デル・ヴェロッキオの「眠る青年(1475年)テラコッタ」が展示されている。筋肉や足・指先のごつごつとした写実的な表現が凄い。この像は、ギリシアの英雄エンデュミオーンともいわれる。月の女神セレーネーは彼を一目見て恋に落ちたが、自分と違い老いていく存在に耐えきれず、魔法で彼を永遠の眠りにつかせた。以降、毎夜彼女は眠るエンデュミオーンのそばに寄り添っているという。
クリックで別ウインドウ開く

次に、中央展示室に戻り、東翼の北側突き当りの展示室にやってきた。ラヴェンナの「アプス(祭壇)モザイク、545年」が展示されている。ラヴェンナは、アドリア海に面したイタリア・ラヴェンナ県の県都で、5世紀から8世紀にかけて、東ゴート王国や西ローマ帝国の首都として繁栄した。現在は、ラヴェンナの初期キリスト教建築群として、ユネスコの世界遺産に登録されている。それにしてもモザイク画で覆われたアプスが、博物館に展示されていることに驚いた。
クリックで別ウインドウ開く

こちらの木彫りのパネルは、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がけた中世ドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの「マグダラのマリアの前に姿を現した復活のキリスト(1490年~1492年)」である。マグダラのマリアが復活したキリストにすがろうとすると、父である神のもとへ上る前であるため、触れないように、とキリストから言われる場面。5枚を張り合わせた菩提樹に浮き彫りされているが立体感が凄い。
クリックで別ウインドウ開く

こちらもリーメンシュナイダーの「聖アンナと3人の夫(1505年)」である。アンナの夫はヨアキムとされているが、中世後期の西ヨーロッパではアンナは、夫はヨアキム以外にクロパ、ソロモンと3度に渡り結婚し、それぞれの夫との間に1人ずつ娘(いずれもマリア)をもうけたという伝説が広まったという。
クリックで別ウインドウ開く

時刻は午後3時になり、ボーデ博物館を後にした。すぐ南側の博物館島を横断して走るSバーンに沿って西に10分ほど歩きフリードリッヒ通りを横断すると、フリードリッヒシュトラッセ駅になる。駅の北口に面した青色の建物は、ドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、税関・検問所があった場所である。

当時、フリードリッヒシュトラッセ駅は、東ベルリンに位置しており、西側市民が東側の家族や親戚等を訪ねる際は、この駅から入国した。そして訪問が終わり逆に東側から出国する際はこの検問所を通る必要があった。検問所の前では、家族との別れを惜しむ姿が頻繁に見られたため、この建物は「涙のパレス」と呼ばれた。なお、東側の市民が西側へ出国することはほぼ不可能であったが、年金生活者、病人などは希望すれば例外的に出国できたという。
クリックで別ウインドウ開く

駅と反対側になる建物の北側が入口で、「Grenz erfahrungen(国境体験)」と表示があり、室内には当時の検問所の様子や資料などが展示されている。フリーなので入ってみる。


この扉を入ると東ドイツ人民警察により、パスポートとビザ検査が行われる。東側で購入したものがあれば書類に書き、荷物を厳しくチェックされ、持参金を没収されたという。


こちらのパネルは入出国の流れを示している。西側の市民が列車で駅に着いて東側に入国するまでの経路が赤い矢印で示され、そして、東側から出国する経路は白い矢印で、この検問所(涙のパレス)を通っているのがわかる。それにしても迷路のように複雑である。壁が崩壊したのが1989年11月9日だったことから、遠い昔ではない。壁が造られた1961年8月13日から30年近く、市民は自由な行き来が出来なかったのである。
クリックで別ウインドウ開く

次にチェックポイント・チャーリーに向かう。フリードリッヒ通りにあるので、このまま南への1本道である。歩くつもりでウンター・デン・リンデン通りの交差点まで来たが、日の入りが近づいて薄暗くなってきたので、横断してU6に乗ることにする。通り向こうに見えるのはアンぺルマンショップ。多くの観光客でにぎわっていた。
クリックで別ウインドウ開く

市内での移動には、7日間の公共交通チケットを購入しており、苦も無く乗り降りできる。SバーンやUバーンともに改札口はなく、バスの乗降についてもチケット提示は必要なかった。しかし、不正乗車と見なされると、かなり高額の罰金を払わなければならないが、チェックを受けることはなかった。
U6に乗り2つ目を下車して今度はフリードリッヒ通りを北に歩く。すぐに交差するコッホ通りがあり、その交差点の先にクリスマス・ツリーが見える。
クリックで別ウインドウ開く

このクリスマス・ツリーが飾られている場所が「チェックポイント・チャーリー」である。ドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、東西境界線上に置かれていたドイツ人以外の外国人専用の国境検問所であった。バラック風の建物は当時の検問所を再現したものである。なお本物はベルリン市南西のツェーレンドルフにある連合博物館に展示されている。再現された検問所の前方にはソ連軍兵士の写真が掲げられており、ここより北側は、旧ソ連地区(東ベルリン)であることを示している。


再現された検問所には、アメリカ兵の姿を模した青年が観光客からの写真撮影ににこやかに答えている。カメラを向けると中国人かと聞かれたが、日本人だと答えると、頭を下げて謝られた。


旧ソ連地区(東ベルリン)側から旧アメリカ地区(西ベルリン)を見る。上部にはアメリカ兵の写真が掲げられている。左後方には、1963年6月に作られた壁博物館(Museum Haus am Checkpoint Charlie)が見える。戦時中、ナチスに対して抵抗運動を続け、戦後もソ連統治下やその後の東ドイツの政治にも抵抗を続けた、歴史家ライナー・ヒルデブランドによる博物館である。
クリックで別ウインドウ開く

北東側には、ブラックボックス(Checkpoint Charlie.BlackBox)と名付けられたフリーの展示広場があり、冷戦当時の写真や資料などが展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは1965年3月5日付けのチェックポイント・チャーリーの様子。道路上には強行突破できないようにクルマ止めらしきブロックが複数並べられているのが見える。
クリックで別ウインドウ開く

すっかり日が暮れた。次にポツダム広場に向けて歩く。広場そばに到着してソニーセンター方面を見ると華やかなイルミネーションで一杯である。上部(富士山)のイルミネーションは、大音響に合わせて色が変化している。何やらイベントが行われているようである。
クリックで別ウインドウ開く

近づくと、残念ながらイベントは終了したようで、妖精姿のお姉さんが見物客に何か配っている。並んでもらうと、この場を再現した妖精姿のお姉さんが映るクリスマス フォトカードだった。


ポツダム広場の東西に伸びるライプツィガー通りと並行して、北側にフォス通りがある。街灯が少なく寂しい道だが、そのフォス通りを東に歩きすぐ左手の細い道を北側に曲がると右手にマンションらしき建物が見え手前に駐車場がある。その前に、戦時中この場所に「総統地下壕」があったことを示す案内板が立っている。
クリックで別ウインドウ開く

総統地下壕は、戦況の悪化を受けて、1943年に防御機能を強化した施設として建造された。総統大本営としての役割を果たしており、ドイツ軍中枢に関わる人物がこの場所で勤務していたが、敗戦濃厚になり、ソ連軍によってベルリン市が完全に包囲されると、この地下濠でヒトラーと妻エヴァが青酸カリと拳銃を使用し自殺した。そして後を追うようにゲッベルス、マクダ夫人など数人の幹部が自決したとされる。

2004年には、ヒトラーの個人秘書を務めたトラウドゥル・ユンゲによる回顧録などを元に、映画「ヒトラー~最期の12日間~」(独、墺、伊による合作)が制作されている。ヒトラー最期の日々を描いた作品で、地下壕という密室内で、人間が徐々に狂っていく姿が、ドキュメンタリーのように淡々と描かれている。衝撃的で息苦しくなる映画であった。
クリックで別ウインドウ開く

戦後、総統地下壕は、旧ソ連や旧東ドイツ政府によって取り壊そうと試みられたが、あまりにも強固だったため完全に撤去することはできず、1990年代の大規模宅地開発の際にも掘り起こされたが、やはり埋め戻されてしまったという。現在もここに地下壕は存在するのである。ネオナチの聖地になる懸念から長年場所は非公開だったが、2006年にこの案内板が設置された。ガイドブック等では紹介されていないが、インターネットの影響もあり最近は多くの人が訪れるようである。

少し先(北)に歩いて振り返ってみる。正面から左(東)に伸びる建物はフォス通り沿いに立っており、100メートルほどでヴィルヘルム通りにぶつかる。このフォス通り一帯に総統官邸がありヴィルヘルム通りにかけては中央官庁建ち並んでいた。ここは、まさにナチス政権中枢部であった。
クリックで別ウインドウ開く

北に向かうと、左手にはユダヤ人犠牲者のためのホロコースト記念碑がある。1万9073平米の敷地にコンクリート製の石碑が2,711基並んでいる。地下にはホロコーストに関する情報センターがあり、イスラエルの記念館ヤド・ヴァシェムが提供したホロコースト犠牲者の氏名や資料などが展示されている。多くの人が集まっているが、近づいてみると、情報センター入場のための行列であった。
クリックで別ウインドウ開く

ホロコースト記念碑の更に北にはブランデンブルク門があり、ウンター・デン・リンデン通りが東に向け伸びている。ブランデンブルク門の下は幕で覆われて通れなくなっている。年越しのカウントダウン・イベントの準備のようである。
クリックで別ウインドウ開く

夕食は、初日に行ったジャンダルメン広場の西側にあるレストラン「アウガスティーナ・アム・ジャンダルメンマルクト」に行くことにしている。予約確認書を見せると、ここではなく近くの系列店だと言われる。ジャンダルメン広場の東側にある「ブラッセリー・アム・ジャンダルメンマルクト」であった。入ってみると、こちらの店の方が客層や雰囲気など高級店の印象があった。
クリックで別ウインドウ開く

ビール(ビットブルガー)とメイン料理を注文する。こちらは「ゼートイフィレ」と言う、あんこう料理で、身がふわふわでやや頼りない食感。しかし、付け合せのきのこ、野菜、厚切りのポテトチップス、ハーブの効いた優しいスープとの相性は良く非常に食べやすい。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは「ガチョウのロースト」で、やや小ぶりだが、皮の焼き加減とぶつ切り骨のまわりのしっかりとした肉の旨みが際立っている。付け合せ野菜も美味しく、ワインとの相性も抜群である。
クリックで別ウインドウ開く
Bit Pils 0.5L 4.90,Ganse Braten 24.90,Seeteufelfilet 28.50,Bardolino 0.2L 7.40,La joya Syrah 0.2L 8.90 --77.00

翌朝、ベルリン空港にバスで行き、午前12時45分発のルフトハンザドイツ航空に乗り、フランクフルトでトランスファーして日本に帰国した。
(2014.12.28)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドイツ・ベルリン(その4)

2014-12-27 | ドイツ(ベルリン)
こちらは、アレクサンダープラッツ駅前のカール リープクネヒト通り(先でウンター デン リンデン通りとなる)で、前方にランドマークのテレビ塔(368メートル、1969年築)が、その先にはフレスコ画「死の舞踏」で有名な「マリエン教会」が見える。これから、そのマリエン教会先にある「ムゼーウムス島」(博物館島)に向かうことにしている。


目的地の博物館島までは、900メートル程の距離だが、7日間フリー乗車券(バス、鉄道)を購入しており、路線バスに乗って向かう。博物館島とは、ベルリン中心部を南北に流れるシュプレー川(東)とシュプレー運河(西)との間の中州を指し、このウンター デン リンデン通りを境に中州の北半分に5つの美術館・博物館が集中している。

到着したバスに乗り、2つ目の停留所で降りると、北側正面に「旧博物館(Altes Museum)」の全景を捉えることができる。もともとはプロイセン王国の王室コレクションの収蔵と展示が目的で、建築家カルル フリードリッヒ シンケルの設計をもとに1823年から1830年にかけて新古典主義様式で建設された。中央棟と左右の中庭を取り囲む様に横長の長方形の建物が建っている。手前の広い空間は「ルスト・ガルテン」(庭園)で、もともとは王宮の庭園だったが、その後、閲兵場・大集会場・公園などに使われてきた。菜園として利用された時期もあり、その際はプロイセン発のジャガイモが植えられた。


ルスト・ガルテンの右側(東側)には、壮麗なドームが特徴の「ベルリン大聖堂」が聳えている。1905年に、プロイセン王国国王・ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の命により、建築家ユリウス・カール・ラシュドルフがネオバロック様式で9年の歳月をかけて建築したもの。その後、第二次世界大戦のベルリン空襲で大きな被害を受けたが、1993年には修復され、往時の姿を取り戻している。


大聖堂は、(北側)記念教会、(南側)洗礼所並びに洗礼教会、(中央)説教壇のある説教の教会から成っている。11世紀から続く、プロイセンの名門ホーエンツォレルン王家の記念教会であり、フリードリヒ1世をはじめ、プロイセン王や王族の棺が安置されている。

ファサードは、大きなアーチがあるポーチで覆われ、左右には、コンポジット式の重厚な二連のジャイアント・オーダーが配されている。柱には、弾痕などの傷跡を補修した痕がいたるところに見られる。
クリックで別ウインドウ開く

聖堂内に入ると、祭壇の荘厳とステンドグラスに目を見張る。主祭壇前面の祭壇テーブルは、ドイツの建築家フリードリヒ・アウグスト・シュテラーによるもので、白い大理石と黄系のオニキスから作られている。左右の金色の鉄で作られた床の燭台は、ドイツの新古典主義建築を代表する建築家カルル・フリードリッヒ・シンケルによるもの。
クリックで別ウインドウ開く

中央には巨大なドームが見える。ドームまでの高さは114メートルで、近くまで登ることができる270段の階段がある。周囲に描かれている8点の画は、ドイツの歴史画家アントン・フォン・ヴェルナー作で、山上の説教における至福の教えを描いた大判のモザイク画である。中央には、聖霊が描かれ、周囲の光線の花輪に飛び込んでいく様子が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

祭壇に向かって左柱頭には、マルティン・ルターの彫像が飾られている。他の柱頭にも、カルヴァン、ツヴィングリ、メランヒトンなど宗教改革者の彫像がある。この聖堂が、ルター派の礼拝をおこなっている大聖堂であることがわかる。


左手上部には、ドイツの名オルガン製作者ヴィルヘルム・ザウアーのワークショップによる113の弁と7200のパイプを持つ巨大なパイプオルガン(1905年作)があり、毎日午後3時からオルガンコンサートが催される。北ドイツ諸都市のプロテスタント教会には大規模なオルガンが設置され、オルガン音楽が盛んに演奏されたという。


そのパイプオルガン向かって右手に3人の像が見える。彼らの見つめる方向に目を向けると、


祭壇に向かって右アプスに、キリスト誕生の場面が見える。ツリーも飾られ降誕祭の飾り付けだったのだろうか。3人の像は「東方三博士」をあらわしているようだ。劇場のようにドラマチックな配置を演出しており、バロック様式の空間構成が採用されている。
クリックで別ウインドウ開く

ホーエンツォレルン王家の墓所を通り、上に向かう階段を登っていくと、上の階には、博物館があり、大聖堂の模型などが展示されている。さらに階段を登ると、ドームの周りを回る通路があり、窓越しに外を見わたすことができる。こちらは北側を眺めた様子で、ボーデン通り沿いのポルチコ(アーケード)の先にギリシャ神殿を思わせる「旧ナショナル・ギャラリー」(Alte Nationalgalerie)や、左手前に「新博物館」 (Neues Museum)などが見える。さらに上へ続く階段は、本日は立ち入り禁止で行くことができない。


諦めて、「新博物館」に向かうことにする。大聖堂を出てポルチコをくぐる。ポルチコは、シュプレー川とシュプレー運河の間のボーデン通り沿い北側に170メートルほどの長さで続いている。


ポルチコを抜けると、ベルリン大聖堂から見下ろした博物館群が目の前に広がる。右前方が、旧ナショナル・ギャラリーで、正面がペルガモン宮殿の南壁面、そして、左側の南北に細長い長方形の敷地を持つ建物が、これから向かう「新博物館」 (ノイエス・ムゼウム Neues Museum)で、入口は中央にある切妻屋根の下となる。1階はポルチコで、通り沿いから直結していることから、雨でも濡れずに入口まで行ける。時刻は午前11時になったところ。


新博物館は博物館島の中では、2番目に建設された博物館で、旧博物館に収蔵しきれなくなった所蔵品を収めるために1843年から1855年にかけて建設された。収蔵予定の多くのコレクションはエジプトからの発掘品が主だったため、当初はエジプト博物館としての構想があったが、その後第二次世界大戦のベルリン空襲で破壊され1999年まで廃墟のままとなっていた。その後改修を経て2009年に再オープンしている。

入口を入ったロビー(101)からは、2階のイオニア式の円柱のある踊り場まで直線階段が続き、その踊り場から左右の直線階段で3階に到着できる吹き抜けの階段ホールとなっている。こちらは、2階の踊り場から北壁側に飾られたレリーフ群を眺めた様子で、壁面には、もともとフレスコ画など華やかな装飾が施されていたが、現在は、煉瓦壁となっている。
クリックで別ウインドウ開く

新博物館は、地上3階、地下1階で、階段ホールを中心に、長辺となる東展示室(入口側)と西展示室、そして側面の北展示室と南展示室とに分かれている。最初に、博物館を代表する作品の一つで、青銅器時代の「黄金帽」(Der Goldhut)から見学する。作品は、3階の南西角にある薄暗い展示室(305)の中央に、ほのかに照らされた灯りの中に浮かび上がるように輝いていた。


黄金帽(高さ75センチメートル、紀元前10~8世紀)は、ドイツ南部で出土され、当時の君主が儀式用に被っていたと考えられている。表面には、月の満ち欠け(カレンダー)が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

ロビー(101)真上(2階)にあるバッカス・ホール(201)には、ドイツ西部のライン川沿いのクサンテンで出土したブロンズ像「クサンテンの若者、The Xanten Youth(1世紀頃)」が展示されている。両目と右手は失われているが、少年の肌の質感が大変良く表現されている。晩餐会などでトレイを手に持ち配膳する少年と考えられている。
クリックで別ウインドウ開く

クサンテンの若者が立つホールの内装は、床が幾何学文様のモザイクタイルに、紫茶色のピレネー大理石の柱で支えられた樽型天井、壁にはポンペイ様式のフレスコ画で装飾されているが、第二次世界大戦での損壊や経年劣化により多くが失われている。

次にエジプト コレクションを見学する。こちらは、2階西展示室の北側にある展示室(Sculptyre、208)で、古代エジプト書記官像や主に葬礼や崇拝のための彫像が数多く展示されている。


こちらは1階の北展示室の中央にある展示室109(30世紀、Thirty Centuries)で、「ベルリンのグリーンヘッド(紀元前350年頃、末期王朝第30王朝、硬砂岩)」が展示されている。頭の微細な凹凸感や顔の繊細な皺の表現が完璧といってもよいほど写実的である。モデルとなった人物は、詳しくは分からないが、顔立ちには豊富な知識と強い意志が感じられる。また頭を剃っていることから司祭と考えられている。しかし何故か緑色には見えないが、室内灯やこの時間の太陽光の影響なのかもしれない。
クリックで別ウインドウ開く

グリーンヘッドと向かい合うように「2枚の羽冠を被ったティイ王妃の頭部像(紀元前1355年頃、新王国時代第18王朝)」がある。ティイ王妃はアメンヘテプ3世の王妃で、ツタンカーメンの祖母にあたる。威厳と気品をもった顔立ちをしており、写実的な表現が印象的である。
クリックで別ウインドウ開く

北東角の展示室110(ファラオ)には「イアフメス・ネフェルタリ王妃(紀元前1152~1145、新王国時代、第20王朝)ストゥッコ」が展示されている。イアフメス・ネフェルタリは、ヒクソスを滅ぼしエジプトの再統一を果たしたイアフメス1世(第18王朝初代)の王妃で、彼女は、夫イアフメス1世の死後、幼い息子アメンヘテプ1世の後見人として摂政を務め、混迷の時代に終止符を打つとともに、第18王朝繁栄時代の基礎を築いた。彼女の死後は、息子のアメンヘテプ1世とともに神格化される。彼女の肌の色が黒いのは、出身がヌビア人であるためとか、ナイル川が運ぶ肥沃な黒い大地を表わしたためなどの説がある。
クリックで別ウインドウ開く

2階北東角のノースドームホール(天窓のある八角形のドーム下)(210)は、新博物館の最大の見どころ「ネフェルティティの胸像」の単体展示室となっている。中央に置かれたガラスケースの中に展示されており、前後左右、間近から鑑賞できる。古代エジプトの彫刻家トトメスが紀元前1345年に制作したとされ、頬から顎、首にかけての質感、曲線は余りにもリアルで、作り物に見えない。首筋の筋肉などが今にも小刻みに動き出すのではないかと思ってしまうほど。
クリックで別ウインドウ開く
C C__Author / Philip Pikart
Other versions / Derivative works of this file: Nofretete Neues Museum-edit.jpg

アメンヘテプ3世の次のファラオがアマルナ革命(一種の宗教改革)を行ったことで知られるアメンヘテプ4世。ネフェルティティは、そのアメンヘテプ4世の妻である。なお、アメンヘテプ4世は、妻ネフェルティティの長女と三女も自分の妻にしたという。更に別の妻との間にできた子供がツタンカーメンであるといわれる。

時刻は、午後1時を過ぎたので、次に東隣の「旧ナショナル・ギャラリー」に向かった。旧ナショナル・ギャラリーは、19世紀初頭から美術館構想はあったが、銀行家ヨハン・ハインリヒ・ワグネルから絵画262点が寄贈されたことを契機に、1861年に美術館設立が決定された。旧博物館の設計も手がけたプロイセンの建築家フリードリヒ・アウグスト・シュテューラーが、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が描いたローマ様式の寺院を模した建物のスケッチを基に設計され、1867年に工事が始まり1876年に開館した。ドイツ絵画を中心にフランス印象派コレクションや、彫像の名品を展示している。


この日は、3階と2階の大半では特別展「ゴットフリート・リンダウアー(ニュージーランドの画家)の先住民族マオリ人たちの肖像展」が開催されていた。

2階には、他に「カスパー ダーヴィト フリードリヒ」の絵画を集めた展示室があり、16作品が展示されていた。フリードリッヒは、19世紀、ドイツロマン派の代表者で、悲劇的な風景画という新しい分野を開拓したことで知られている。こちらの作品は「日の入り後のグライフスヴァルトの港(1808~12年)」で、フリードリヒの生誕地でもあるドイツ最北端のフォアポンメルン州にある街グライフスヴァルトを題材とした作品である。
クリックで別ウインドウ開く

お腹が減ったので、地階に下りたが、ショップとカフェのみでレストランはなかった。カフェには菓子類しかなかったため、外にあった屋台でパニーノを購入してカフェでコーヒーと一緒に食べた。その後、2階の中央にある八角形の一番大きな展示室を見学をする。


こちらに、ジョヴァンニ・セガンティーニの「故郷に帰る(1895年)」(161×299センチメートル)が展示されている。死者を連れて故郷へ帰る家族の情景が夕焼けで赤く染まった雲と雄大なアルプスを背景に描かれた大きな作品である。
クリックで別ウインドウ開く

セガンティーニは、1858年、北イタリアのアルコ生まれで、幼少期に母を亡くし、父とも別れミラノの感化院で過ごすなど不遇な少年時代を送っている。その後、ミラノのブレラ美術学校で絵画を学び独立した。アルプスの風景などを題材とした絵画を多く残しており、アルプスの画家として知られている。表現方法として、印象派の技法を取り入れつつ、色彩輝く風景を表現する為に独自の「色彩分割法」を生み出し、細部まで対象物を明確にとらえている。

北隣の長方形の展示室には、エドゥアール・マネの晩年の肖像画的作品「温室にて(1879年)」が展示されている。マネと親交のあった知人のジュール・ギュメ夫妻をモデルに描いているが、妻の手に触れようと身を乗り出し手を近づける夫に対して、妻は無関心を装うなど微妙な距離感を感じる作品である。妻は、パリのサン・オノレ街で流行のドレスショップを営んでいたと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

同じ展示室には、19世紀の印象派の代表画家ピエール・オーギュスト・ルノワールの「ヴァルジュモンの子どもたちの午後(1884年)」が展示されている。モデルは、ルノワールを支援していた外交官で銀行家のポール・ベラールの3人の娘たちが務めている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、19世紀のスイス出身の象徴主義の画家アルノルト・ベックリンの代表作「死の島(1883年)」で、5枚描いた同じ題材の3作目となる作品である。暗い空の下、墓地のある小さな孤島をめざし、白い棺を乗せた小舟が静かに進んでいく情景を描いている。ヒトラーは、ベックリンの信奉者であり、この画は、ベルリンの総統官邸に掛けられていた。
クリックで別ウインドウ開く

そして、こちらは、フランスを代表する写実主義の画家ギュスターヴ・クールベの「波(1870年)」。空に暗雲が現れ、嵐が近づいて来るのか、波が激しく飛沫をたてて押し寄せてくる。轟々たる波音も聞こえてくるよう。彼は当時のロマン主義や新古典主義に対して、美しいものは美しく、みにくいものはみにくく、あるがまま描く「写実主義」にこだわり続けた。レアリスムを追及した彼は天才と讃えられるが、一方では社会主義的野蛮人とも称された。今日では重要な革新者として位置づけられている。
クリックで別ウインドウ開く

強い印象を与える女性の上半身を横から描いた作品は、フランツ・フォン・シュトゥックの「魔女キルケー(1913年)」で、モデルは、当時ベルリンで活躍していた舞台女優ティラ・デュリューとのこと。他にルノワールやココシュカの作品のモデルも務めている。画家のシュトゥックは、ミュンヘンで活躍した象徴主義の巨匠で、神話を題材にした寓意的な絵や、宗教画、肖像画などを多く描いている。
クリックで別ウインドウ開く

続いて今朝バスを降りたルスト・ガルテン(庭園)の北側にある「旧博物館」に行く。正面にはアテネの古代建築をモデルとしたイオニア様式の柱廊が続き、屋根の庇には鷲の彫刻が飾られ、エンタブラチュアには「あらゆる様式の古代遺物の研究と情操教育のために、1828年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がこの博物館を創設した。」との碑文が書かれている。
クリックで別ウインドウ開く

旧博物館には、古代ギリシャ、ローマの美術品などが収蔵されている。最初に1階の「ギリシャ美術」から見学する。こちらは東側面の中央にある展示室2で、壁には「アルカイック期の神々の神殿(Places of the Gods Sanctuaries in Archaic Greece)」と紹介されている。この時間、既に午後4時になり、疲れて睡魔が襲ってくる。


先に見える赤いボードの前には「生贄を捧げるクーロス像(紀元前530~520、ディディム遺跡)」が展示されている。胸の前の痕は、羊か子牛の生贄を抱えていたと考えられている。 ディディム遺跡は、トルコ西部エーゲ海沿いにあり、デルフォイと並ぶ神託のメッカとして栄えた古代都市で、紀元前8世紀から前6世紀にかけてアポロンを祭る神殿が建造され地神の神託所が存在していた。
クリックで別ウインドウ開く

先隣りにある展示室3「アルカイック期の記憶と表現の慰霊碑(Memory and Representation Funerary Monuments in Archaic Greece)」には「ベルリン女神(紀元前580~前560、アッティカ地方)」が展示されている。ベルリン女神と名付けられているが、コレー(少女)像は、ギリシャ・アッティカ地方南部で出土した墓像である。赤く彩色された古代衣装のキトンに上着のヒマティオンを重ねてショールのように用いている。ネックレスやイヤリング、ブレスレッドなど装飾品を身に付け、右手にはザクロを持っている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、後ろから見た様子で、衣褶がみごとに表現されているのが確認できる。こちらで、東側面の展示室は終わる。
クリックで別ウインドウ開く

ベルリン女神に向かって左側から、東西に長い北側の展示室となり、最初の展示室5「ギリシャ神話の神々と英雄のイメージ(Gods and Heroes Images From Greek Mythology)」には、キュリクスと呼ばれるワイン用酒杯が一枚ずつガラスケース内に展示されている。こちらは「パトロクロスに包帯を巻くアキレウス(紀元前500年頃、ヴルチ出土、アッティカ式赤像式)」で、トロイア戦争の英雄アキレウスに仕えた武将パトロクロスは、主人のアキレウスと竹馬の友でもあった。
クリックで別ウインドウ開く

杯は円形で浅く広がった形状をしており、裏側には短い脚あり、ふちの両側に水平の取っ手が付いている。絵はワインを飲み干すと現われる様に中央に描かれていた。

西隣には中央棟の北側にあたる展示室6「ギリシア古典時代の人間像(The Human Image in the Greek Classical Period)」には、旧博物館の至宝とも言われる「祈る少年のブロンズ像(紀元前300年頃、ロードス島)」が展示されている。ルネサンス時代から多くのコレクターを経てプロイセン王フリードリヒ ヴィルヘルム2世の時代にベルリンにもたらされた。足先や指先にいたるまで、肉体を完全に写し取ったとも思える完成度の高さに驚かされる。紀元前4世紀の古代ギリシャの天才彫刻家リュシッポスのスタイルを踏襲していると言われる。
クリックで別ウインドウ開く

更に西隣のパネルで仕切られた展示室7「古典アテネの生と死 古代都市の日常生活(Life and Death in Classical Athens Everyday Life in an Ancient Metropolis)」には、「ジュスティニアーニと名付けた少女の墓碑(紀元前460、ギリシャ・パロス島出土)」の美しい遺影が展示されている。古代ギリシャの女性が着用していた肩が開いた長衣(ペプロス)をまとっているため、未婚の女性と考えられる。左手には円状のピクシスを持ち、右手で香らしきものをつまんでいる。ペプロスを止める肩には飾り帯や耳にはネックレスを身に付けていた跡が残っている。
クリックで別ウインドウ開く

後方の扉口から左に曲がった西側面の最初の展示室9「ギリシャ劇場 祭儀とエンターテイメント(The Greek Theatre Cult and Entertainment)」には、ひな壇上に飾られたクラテールが並んでいる。こちらは、持ち手のデザインから渦巻型クラテール「ギガントマキアが描かれたクラテール(紀元前350)」である。ギガントマキアとは、巨人族ギガースたちとオリュンポスの神々とのあいだで行われた宇宙の支配権を巡る大戦のことで、ゼウスはヘラクレスを参戦させたことにもより神々の圧勝に終わったとされる。
クリックで別ウインドウ開く

古代ギリシャでは、ワインを水で希釈して飲んでおり、クラテールは混ぜるを意味する大型の甕である。宴会場では、クラテールに入れられた希釈ワインを、別の容器で汲んで、客の杯に注いでいた。

2階は「エトルリアと古代ローマ美術」の展示会場で、2階の東西に長い北側の展示室の東側にある展示室3「ローマの生と死(Life and Death in Rome)」には「ナックルボーンで遊ぶ少女(紀元150~200、ローマ・チェリオの丘出土)」が展示されている。ナックルボーンとは、牛や羊の肢骨を使って遊ぶ古代のお手玉であり、この構図は、墓石の彫刻など、古代ギリシア以来しばしば表現された。
クリックで別ウインドウ開く

次に2室先の西側にある展示室5「ローマン ヴィラの豪奢な生活様式(Roman Villas Luxury as a Lifestyle)」には「豹と闘うケンタウロス(紀元130年頃、ティヴォリ、モザイク)」が展示されている。ローマ帝国14代ハドリアヌス帝のヴィラ(別荘)ヴィッラ・アドリアーナの食堂床装飾の一部である。
クリックで別ウインドウ開く

左に曲がり、西側面の南西角の展示室7「帝国の肖像(Rome-Faces of the Empire)」の壁面には「皇后リウィア(紀元42~54、ファレリ)」が展示されている。リウィアは、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの妻で2代皇帝ティベリウスの母である。
クリックで別ウインドウ開く

美しさや聡明さを兼ね備えていた彼女は、皇帝からの愛情と敬意も深く、皇帝の死後には「祖国の母」の称号を与えられている。そして、亡くなった後は、第4代皇帝クラウディウスによって正式に神格化され、ケレース(セレス)神と同様に豊穣の女神とされた。アートリビュトは麦の穂束である。

矩形の中央棟内部はローマのパンテオンを模した円形広間(ロタンダ)となっている。戦後、旧博物館は、大々的に改修されたが、1982年に行われたロタンダは古い形で再建された唯一の箇所だった。頂部に眼窓のあるドーム周囲には、赤を背景に、楽器を奏でる天使、人物、動物、魚、花文様などが描かれたパネルが4層構造に配されている。


ホールはライトグレーを基本色とし、周囲には、2階テラスを支える黄色い花崗岩の円柱を配し、間に女神ユーノ、アポロ シタロエドゥス(竪琴を備えたアポロ)、ミューズ神などの16体の石像が飾られている。2階にも同様に石像が飾られている。ロタンダへの1階出入口は、祈る少年のブロンズ像が正面に見える北側の展示室と、南側の正面入口側となる。
クリックで別ウインドウ開く

午後5時半になり、外に出ると既に真っ暗だった。振り返ると、旧博物館の周囲には街灯がないため、正面口だけが輝いている。これから、シャルロッテンブルクのシラー劇場にオペラを鑑賞に行くことにしている。


旧博物館前の「ルスト・ガルテン」(庭園)中央に設けられた石畳の歩道を、ライトアップされたベルリン大聖堂を見ながら通り過ぎ、ウンター デン リンデン通りから路線バス(100系統)に乗って、西ベルリン地区にあるクーダム方面に向かった。


30分ほどバスに乗り、ツォー駅(ベルリン動物園駅)で降りると、東南側(動物園の南)に「カイザー・ヴィルヘルム記念教会」の尖塔が見える。1888年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を追悼して建設された教会で、その後の第二次世界大戦のベルリン空襲で破壊された。現在も、戦争の悲惨さを伝えているために、崩れたままの姿で保存されている。次にUバーンに乗り換える。


U2に乗り1つ目のエルンスト・ロイター・プラッツ駅で下車し、ビスマルク通りを西に100メートルほど歩くと、シャルロッテンブルクの「シラー劇場」に到着する。今夜は、こちらで行われる「魔笛」を鑑賞することにしている。魔笛は、モーツァルトが、生涯最後に完成(1791年)させたオペラで、おとぎ話を主体に一般市民向けに作られたこともあり大変人気がある。


シラー劇場は、1907年にミュンヘンの建築家マックス リットマンの設計計画に沿って建設され、ドイツの劇作家、詩人、哲学者フリードリヒ シラー(1759~1805)に因んで名付けられた。その後、ベルリン空襲により破壊されたが、1951年に現在の姿で再建されている。1993年には財政難で閉鎖されるが、ベルリン国立歌劇場(ベルリン大聖堂から西に400メートル)が改修工事に入ったため、代替会場として2010年に再オープンしている。

ロビーには、本日公演のプロブラムが掲示されている。本日の指揮者は、2008年からフランクフルト歌劇場音楽総監督を務め、2010年には、バイロイト音楽祭にも出演しワーグナーを得意とするセバスティアン・ ヴァイグレで、近年はN響も指揮するなど日本でもお馴染みである。
クリックで別ウインドウ開く

神殿に仕える大祭司ザラストロ役のルネ・パーペは、1988年、ベルリン国立歌劇場でデビューし、今日に至るまで同歌劇場に所属している。ヨーロッパの各主要歌劇場やメトロポリタン歌劇場など世界各国で活躍。2006年、ケネス・ブラナー監督による映画「魔笛」でもザラストロ役を演じており、いまやバスとして不動の地位を築いている。

舞台美術は、フレッド・ベアンテとあるが、下段に、カール・フリードリヒ・シンケルの名前が見える。シンケルは建築だけでなく100以上の舞台デザインを劇やオペラのために制作した。魔笛の舞台も彼のスケッチをもとにしており、特に夜の女王の登場シーンのデザインは有名である。夜の女王はアナ・シミンスカからコルネリア・ゲッツに変更になっている。

劇場内にはバーがある。ちなみに、メニューを見てみると、ヴーヴ・クリコ11.5ユーロ(0.1L)、クレマンドロワール6.50ユーロ(0.1L)WeiBwein(白ワイン)/Rotwein(赤ワイン)5ユーロ(0.1L)、ビール4ユーロ(0.33L)、エスプレッソ2.50ユーロだった。


劇場内から舞台を望むと、手前のオーケストラピットが小さく見えた。ちなみに劇場の総席数は1,067席とのこと。
クリックで別ウインドウ開く

公演は、午後7時に始まり、第1幕80分、休憩20分、第2幕70分の約2時間50分であった。有名なアリアや、個性的な登場人物など見どころも多い。また、ステージまでの距離が短いことから、俳優の姿が良く見える。オーケストラピットの小ささは音響には全く関係なかった。
クリックで別ウインドウ開く

向かって左から、ルネ・パーペ(ザラストロ)、セバスティアン・ヴァイグレ(指揮者)、アンナ・プロハスカ(パミーナ)、マルティン・ホムリッヒ(タミーノ)である。歌声と全く関係ないが、タミーノ王子はちょっと貫禄がありすぎる印象だった。。
クリックで別ウインドウ開く

オペラ鑑賞後は、U2でシュタットミッテ駅を降り、ジャンダルメン広場近くのレストラン「Lutter & Wegner」にやってきた。


まもなく午後11時になり、夕食が遅くなってしまったが、ワンプレートのドイツ料理を注文しているため提供が早い。ビール(ケーニッヒ ピルスナー)を頼み喉を潤していると、料理が運ばれてきた。内容は、酢漬けの牛肉を焼いた後に煮込んだ「ザウアーブラーテン」で、付け合せは、カルトッフェルザラート(ポテトサラダ)、ロート・クラウト、ザワークラウトである。大皿で結構ボリュームがある。

Konig Pilsner 0.3l 12,Sauerbraten 22.50,Himmel und Erde 18.50,0.2l Spatburgunder 6 = 59

お腹も一杯となり、すっかり体も温まったころ、混雑していた店内は静かになり、最後の客となっていた。

(2014.12.27)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドイツ・ベルリン(その3)

2014-12-26 | ドイツ(ベルリン)
ベルリン、文化フォーラムの近く、ラントヴェーア運河にかかる「ベントラーブロック橋」を渡り、シュタウフェンベルク通りを北に向け歩く。


橋を渡った左手には、「連邦国防省(ベントラーブロック)」がある。第二次世界大戦中には、ドイツ陸軍の最高司令部が置かれていたが、1944年7月21日、ここで一つの悲劇が起こった。


ナチス政権下。戦局はドイツにとって日に日に悪化の一途をたどっていた。国内予備軍一般軍務局参謀シュタウフェンベルク大佐は、これ以上戦況が悪化する前にヒトラーを暗殺して国内予備軍を結集・発動するクーデター「ヴァルキューレ作戦」を起こし、米英と講和してソ連から守ってもらうしかドイツが助かる道はないと考えていた。

そして、1944年7月20日、東プロイセンの総統大本営「狼の巣」において、時限爆弾によりヒトラーの暗殺計画を実行するが、ヒトラーには軽傷を負わせるに留まった。その後、シュタウフェンベルク大佐は、抵抗グループ仲間数名とともに逮捕され、7月21日に入った深夜0時過ぎ、このベントラーブロックの中庭でトラックのライトの元、銃殺刑に処せられた。左端の人物がシュタウフェンベルク大佐である。
クリックで別ウインドウ開く

シュタウフェンベルク大佐については、2008年のアメリカ映画「ワルキューレ」で、トム・クルーズが大佐を演じたことにより、多くの人にも知られることになった。一角には抵抗運動の資料館があり、自らの良心に従いヒトラーに抵抗した人々の5,000を越える写真や文書が展示されている。残念ながら本日は休みである。シュタウフェンベルク大佐が射殺された場所には、花輪がかけられている。


中庭にある鎖で手を繋がれているブロンズ像は、抵抗運動の記念碑。ここにも戦争の悲劇を伝える場所がある。


「ベントラーブロック」から200メートル東に歩くと昨日訪問した「ベルリン絵画館」や「ベルリン・フィル」がある「文化フォーラム」に到着する。今からベルリン絵画館の向かい(南側)にある「新国立美術館(Neue Nationalgalerie)」に向かう。この美術館は鉄とガラスからなる建物で、主にドイツと周辺国の20世紀の画家による作品が展示されている。


時刻は午後3時を過ぎたところ。館内に入ると、フロアから天井に向けて巨大な木材が立ち並んでいる。この1階部分は特別展の展示室らしい。これから、階段を下りた地下にある常設展示室の展示作品を鑑賞する。


最初の展示室に入ると、サルバドール・ダリ(1904~1989)の「夢の接近(1932)」(Der Traum kommt naher)が展示されている。ダリは1904年、スペインのカタルーニャ地方フィゲーラスで生まれ、シュルレアリスムの代表的な作家として知られており数々の奇行や逸話でも有名。
クリックで別ウインドウ開く

ジャクソン・ポロック(1912~1956)の「イカルス(1946)」(Ikarus)。ジャクソン・ポロックは、アメリカの抽象表現主義の画家であり、絵の具をキャンバスに垂らしたり飛び散らせたりするアクション・ペインティングの技法を多様した。
クリックで別ウインドウ開く

マックス・エルンスト(1891~1976)の「非ユークリッド型の蝿の飛翔に困惑する若い男(1942~1947)」(Junger Mann, beunruhigt durch den Flug einer nicht-euklidischen Fliege)。ハエに悩まされる表情が良く出ている。マックス・エルンストは、ドイツのブリュールに生まれた、20世紀のシュールレアリスムの画家であり彫刻家である。
クリックで別ウインドウ開く

バルテュス(1908~2001)の「ピエール・レリスとベティ(1932)」(Pierre und Betty Leiris)。バルテュスの兄の学友であるピエール・レリスとその妻ベティを描いたものである。妻ベティは、けん玉で遊んでいる。バルテュスは、20 世紀最後の巨匠といわれるポーランド系貴族出身のフランス人画家で、近代美術界の潮流や慣例に抵抗して、おもに少女をモチーフとした独自の具象絵画の世界を築いた。1962年にはパリでの日本古美術展を準備するため初来日し、当時大学生だった出田節子と出会い、その後、結婚し2子をもうけた。
クリックで別ウインドウ開く

ポール・デルヴォー(1897~1994)の「会議(1942)」(Die Begegnung)。ポール・デルヴォーは、ベルギー・リエージュ州生まれ。作品は、無表情で大きな目を見開き、堂々と裸をあらわにした女性が登場することが多い。静寂さの中に幻想的な世界が広がるその作風から「幻想画家」ともいわれている。
クリックで別ウインドウ開く

次の展示室からは、現代アーティストによる、オブジェ、映像や写真を取り込んだ装置などを利用したインスタレーション・アートが続く。インスタレーション・アートとは、現代美術における表現手法やジャンルの一つで、ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術のことであるが、正直よくわからない。


50分ほど鑑賞した後、昨日に続き「ベルリン絵画館」に再入館し鑑賞した。ブログでは、イタリア・ルネサンスの後期から盛期ルネサンス、バロック絵画、ロココの順番に主要作品を紹介する。(☆ベルリン絵画館 館内案内図)。

こちらは、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したジョルジョーネ(1478頃~1510)の作品とされる「若い男の肖像(リトラット・ジュスティニアーニ)(1503)」。現存するジョルジョーネの作品は6点ほどとされており、その他に、ジョルジョーネ作の可能性が高いといわれている絵画が数点確認されているが、こちらは、その内の1点である。
クリックで別ウインドウ開く

ジョルジョーネはそれまでの宗教的で古典的な表現画法から、当時の常識を覆す音楽、叙情、空想的な表現、色彩を使い分け対象を描いた。多くの画家たちは、そのジョルジョーネに影響し作品を描いたことから、現在でもジョルジョーネの作品かを見分けるのは困難な作品も多い。

次に、音楽家から画家に転じ、ジョヴァンニ・ベリーニ、続いてジョルジョーネの弟子となった異色の画家セバスティアーノ・デル・ピオンボ(1485~1547)による作品「若いローマ人女性の肖像(1512頃)」。女性がリンゴとバラなどが入ったバスケットを持つことから、カエサリアの聖ドロテアとも解釈される。当初描かれていた背景の月桂樹の茂みは塗りつぶされ、田園風景を見下ろす開口部のある室内壁となったため、夕焼け前の光が室内に反射して女性の肌の美しさを際立たせる作品となった。制作直後は、ラファエロなどのフレスコ画で知られるローマ・ファルネジーナ荘に飾られていた。
クリックで別ウインドウ開く

そして、正面の大きな絵画は、ルネサンス期・ヴェネツィア出身のロレンツォ・ロット(1480頃~1557)の「キリストと聖母の別れ(1521)」で、キリストが十字架刑のためゴルゴタの丘に向かう前、聖母マリアに別れを告げる場面を描いた作品。作品は、満月を思わせる円形窓のあるアーケード内にキリストが聖母の前に跪き別れを告げている。対する聖母はショックのあまり聖女と使徒ヨハネに支えられている。キリストの後ろには、聖ペテロと聖ヤコブが配し、手前にはベルガモ出身の貴婦人で寄進者(ドメニコ・ タッシ)の妻が描かれている。

ロットは、歴史画や肖像画を多く描いており、特に人物の内面描写が上手い。他にも、聖セバスティアヌスと聖クリストフォロス(1531)が展示されている。

そして、盛期ルネサンスの巨匠ラファエロ(1483~1520)の聖母子を題材に描いた4作品が展示されている。 テッラノーバの聖母(1505) 聖母子像と聖ヒエロニムスと聖フランシスコ(1502) ソリーの聖母(1502)、そして「コロンナの聖母(1508)」で、どの聖母マリアも優しい眼差しが印象的で愛情あふれる作品である。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、同時代に活躍したヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ(1490頃~1576)の作品が並んでいる。両側には、「フルーツボウルを掲げる少女(1555)」と、ヴェネツィアに亡命していたロベルト・ストロッツィとマッダレーナ・デ・メディチの娘を描いた「クラリッサ・ストロッツィ(2歳)(1542)」があり、中央に「ヴィーナスとオルガン奏者(1550頃)」が展示されている。同作品は、ワークショップを含めいくつかのバージョンがあるが、大部分をティツィアーノが描いているのは5点で、うち、マドリードにオルガン奏者版が2点、こちらのベルリン絵画館に1点、ケンブリッジとニューヨークにリュート奏者版がそれぞれ1点づつある。


フランドルの画家で芸術一家の家長であったピーテル・ブリューゲル(父)(1530頃~1569)の作品が展示されている。向かって右側は、「二匹の猿(1562)」で、背景には当時住んでいたアントウェルペンの港町(ブリュッセル近郊)が描かれている。


そして、同じくブリューゲル(父)初期の代表作「ネーデルランドの諺(1559)」。当時の人々の生活を舞台に、様々に繰り広げられる諺や格言の場面が100種類ほど描かれている。作品は、中央に、夫に青い(偽善)コートを着せる赤い(罪)服を着た妻(夫を欺く妻の意)を据え、修道士がキリストに不遜な行為(髭をつける)をとる姿(計略で人を騙す意)、村人、神、悪魔、動物、魚など様々なモチーフを使い、描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、イタリア・バロック絵画の最大の画家カラヴァッジョ(1571~1610)の「勝ち誇るアモル(愛の勝利)(1602)」が展示されている。作品はパトロンの一人で、ローマの銀行家・美術本収集家ジュスティニアーニ侯からの依頼により制作されたもの。足元に散乱された楽器、書物、防具などから「世俗の生き方や名声をも軽蔑したことで、アモルは勝ち誇る愛嬌を浮かべている」との解釈もできる。しかし一方で、歯も笑みもゆがんだ普通の少年が、舞台用の羽根を背中に付け、おどけたポーズでモデルを演じている様にも見える。
クリックで別ウインドウ開く

フランドル・バロックからは画家の王とも呼ばれ、諸外国までその名声を轟かせた巨匠ルーベンス(1577~1640)の作品が展示されている。こちらは「小鳥と遊ぶ子ども(1616頃)」で、動画の一場面を切り取ったかのような構図が印象的な作品である。
クリックで別ウインドウ開く
他にも、ルーベンスらしい肉感的な女性美を追求した「アンドロメダ(1638)」が展示されている。母カシオペアが神々の怒りをかい、娘アンドロメダを怪物の生贄に供さなければならなくなったが、英雄ペルセウスによって救い出され妻となる。作品では、助けに来るペルセウスが後方に小さく描かれている。

オランダ・バロックからは、レンブラント(1606~1669)の「長老たちに脅かされるスザンナ(1647)」が展示されている。作品は2人の長老達がスザンナの水浴を覗き見する「スザンナと長老たち」の続きで、スザンナが若い男と姦通していると通報すると脅迫して姦淫の要求をして拒否される場面を描いている。スザンナの鑑賞者に救いを求める目が印象的な作品である。結果的に長老達の虚偽証言を暴き、スザンナの無実は証明されることになる。
クリックで別ウインドウ開く
レンブラントの作品では、他に、暗い書斎で書物を広げる「豪華な赤いマントを羽織るミネルヴァ」(1631)両替商(1627)、冥界の神プルートーが、春の女神プロセルピナを我が物として連れ去ろうとする様子を描いたプロセルピナの誘拐(1631)サムソンとデリラ(1628頃)洗礼者ヨハネの説教(1634頃)など数多くの作品が展示されている。

そして、オランダ・バロックの代表格とされ、ベルリン絵画館を代表する作品の一つ、ヨハネス・フェルメール(1632~1675)の「真珠の首飾りをつける女(1664頃)」で、窓の横のやや高い位置にある小さな額入りの鏡を覗き込み、高価な真珠を身に付ける女性の恍惚とした表情をとらえている。黄色を基調にした柔らかい色合いが温かみを感じさせる作品。背景の壁には、地図が描かれていたが、最終的に女性に関心が集まる構図となった。
クリックで別ウインドウ開く

同じく、フェルメールの「紳士とワインを飲む女(1658~1660頃)」。作品は、明るい日差しが差し込む一室で、彫刻椅子に座り、金の刺繍が施された赤いドレスの女性が、ワインを飲みほした瞬間で、マントを纏って立つ男性がテーブルの上のデカンタの取っ手をつかみ、女性にもっとワインを飲ませようとしている。作品からは、草花が織柄のテーブルクロス、金の額縁のある絵画や、紋章があしらわれた豪華なステンドグラスなど上流階級の暮らしぶりが伺える。
クリックで別ウインドウ開く

スペイン・バロックからは、蚤をとる少年(ルーヴル美術館収蔵)や無原罪の御宿りで知られるセビーリャ派の巨匠ムリーリョ(1617~1682)の「キリストのバプテスマ(1655)」である。セビリアのサン・レアンドロ修道院のために描いた洗礼者ヨハネの連作のうちの一作で、ヨルダン川において洗礼者ヨハネから洗礼を受ける様子が描かれている。


スペインのカラヴァッジョとも評されるスペイン・バロックの画家スルバラン(1598~1664)による「ドン・アロンソ・ヴェルドゥゴ・デ・アルボルノス、don alonso verdugo de albornoz(1635)」。セビリアの貴族ドン・アロンソの子息を描いた作品。


バロック美術の全盛期に、独自の画風を駆使しロレーヌ地方で活躍したラ・トゥール(1593~1652)の初期の代表作「豆を食べる農民の夫婦(1622頃)」。貧しい男女が救済院の入口で受け施しの豆を食べる様子を描いた作品で、眩しいまでの光の下、薄汚れてほつれた衣服をまとった老人二人が夢中で豆を口に運ぶ姿は迫力があり圧倒されるほどの写実性が感じられる。後年、ラ・トゥールは、明と暗を劇的に描き(キアロスクーロ)「夜の画家」とも呼ばれている。


バロックに続きロココ時代からは、フランスの画家アントワーヌ・ヴァトー(1684~1721)の作品が展示されている。ヴァトーは「雅びな宴」と言われた柔和な色彩と軽やかな筆致画法で、野外で愛を語り合う若い男女や踊りなどのモチーフを確立させた。「野外でのエンターテインメント(1720)」や「舞踏(1719)」が展示されている。「舞踏」には、大人は登場せず、子供たちの演奏の下、豪華な衣装を身にまとった少女が、舞台中央から観客を見据える様に堂々と立ち尽くす姿が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらもロココを代表するフランスの画家フランソワ・ブーシェ(1703~1770)の「ヴィーナスとアモル(1742)」。多作家として知られ生涯に1000点以上の絵画に加え版画や素描など様々なデザインの仕事も数多くこなした。作品のアモルはローマ神話の愛の神でクピードーとも呼ばれ、背中に翼をつけ、足元に恋の矢(クピドの矢)が置かれている。作品には、矢を撃つ気紛れな幼児としての表情が巧みに描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

ジャン・シメオン・シャルダン(1699~1779)の「若い素描家(1737)」で、素描家は、視線を静かに下げ、静謐な表情で、左手に持った筆記具を、右手のナイフで削っている。シャルダンはロココ時代のフランスの画家だが、当時の主流の歴史画ではなく、シンプルで美しい静物画や家庭のインテリアなど風俗画を描いた。特に柔らかな光の描き方、子供の無邪気さの描写には卓越した能力を持ち鑑賞者を大いに喜ばせた。制作には時間をかけ、生涯で描いた作品は僅か200枚ほどであったという。
クリックで別ウインドウ開く

ルーアン出身のロココ期の画家ジャン・レストゥー(1692~1768)の「スキピオの寛容(1728)」。レストゥーは、祖父、伯父や両親、兄を含め画家という家庭に育った。作品のスキピオとは、共和政ローマ時代の政治家スキピオ・アフリカヌスで、ローマとカルタゴが戦った第二次ポエニ戦争ではローマの将軍を務め、戦後、宿敵カルタゴに寛容な方針で臨んだことで知られている。作品は、スキピオがスペイン・カルタヘナを包囲し王子の婚約者を人質にとるものの、祝い金として開放して送り返したことで、カルタヘナがローマ軍傘下に入った際のエピソードを描いている。


イタリア・ロココを代表するカナレット(1697~1768)はヴェネツィア共和国の景観画家・版画家で、都市景観画を得意とした。こちらは、ヴェネチアの大運河(カナル・グランデ)沿いにあるリアルト市場や魚市場のエリアから、リアルト橋方面を描いた作品で、その手前右側にある「カンポ・デ・リアルト(1758~1763)」も展示されている。建物や運河に差し込む光や空気感まで巧みに表現されている。
クリックで別ウインドウ開く
ところで、現在のヴェネツィアは、頻繁に、水上交通「水上バス(ヴァポレット)」が運行しており、大運河の様相はだいぶ異なるが、作品に描かれる建物の形状など街並みは、現在の姿とほとんど同じであり、永年にわたる景観保護のための徹底した規制維持には、頭が下がる。。

同じく、イタリア・ロココから、18世紀ヴェネツィア派セバスティアーノ・リッチ(1659~1734)の「バト・シェバの入浴(1725)」が展示されている。作品は、イスラエルの王ダビデが、王宮の屋上を散歩している際、4人の侍女が準備する風呂に入浴しようとするバト・シェバ(ヒッタイトのウリアの妻)に目を留めた場面を描いている。リッチは、ルネサンスへの回顧的な古典観念を取り入れ、宗教画、神話画や歴史画などを多く描いた。


これで、ベルリン絵画館の鑑賞は終了である。絵画館は芸術・歴史的にも貴重で重要な作品が多く、収蔵レベルの高さに大変驚かされた。じっくり鑑賞するには、数日要するほどである。この日は1時間半ほど鑑賞し、午後6時に絵画館を出た。その後、バスに乗ってポツダム広場で下車する。ポツダム広場は、南北をエーベルト通り、東西をポツダム通りが交差する北西角にあり、そこにはベルリンの壁の一部と案内パネルを展示し、悲劇を後世に伝える努力がなされている。

西隣には、ガラス張りの高層ビル、ドイツ鉄道本社ビルが建ち、更に西隣が、ソニーセンタービルになる。

そのポツダム広場から、中央分離帯があるポツダム通りを南側に横断し、クリスマス・マーケットに向かう。


正面の時計は、ヨーロッパ初の信号機で、1924年から1934年まで使われたものを1997年に復元したものである。五角形で、それぞれの面に時計と信号が配置されている。どちらかといえば信号機より時計の方が目立っている。ちなみに、後ろの高層ビルはダイムラークライスラーシティビル。


今夜も、屋台でグリューワインを購入し、クリスマス・マーケットを散策することにする。こちらの屋台の上には、イルミネーションで飾られた巨大なクリスマス・ピラミッドが聳えている。クリスマス・ピラミッドとは、もともと、ドイツのエルツ山脈地方で、鉱山労働者のクリスマス伝統行事に端を発した木工民芸品で、台にとりつけたロウソクを灯すとそのロウソクの炎の熱で起こされた上昇気流により天使や上部の羽根の飾りが回る仕掛けとなっている。こちらはその民芸品を巨大にしたもの。


マーケット会場を通りに沿って南西方面に進むと、突き当たりが、ベルリナーレ・パラスト(Berlinale Palast)と名付けられる毎年2月に開催されるベルリン国際映画祭 (通称ベルリナーレ)のメイン会場の場所である。ベルリン国際映画祭は、カンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭と並んで世界三大映画祭の一つに数えられている。そのベルリン国際映画祭のメイン会場となる広場には鮮やかなクリスマス・ツリーが飾られている。


広場の名称は「マレーネ・ディートリッヒ広場」と名付けられている。マレーネ・ディートリッヒは、このポツダム広場から約4キロメートル南のシェーネベルク地区で生まれた。ヴァイマル共和国のドイツ映画全盛期に「嘆きの天使(1930年)」で、退廃的な雰囲気の美貌、セクシーな歌声、その脚線美で一躍名声を得た後、アメリカに渡り、ハリウッド映画「モロッコ(1930年)」「上海特急(1932年)」などの映画に出演した。

ヒトラーはマレーネがお気に入りでドイツに戻るように要請したが、マレーネはそれを断って1939年にアメリカの市民権を取得したため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となった。

1950年代からは歌手活動が中心になり、1960年に念願の故郷ベルリンでの公演を行ったが、その際暖かい歓待も受けるものの「裏切り者」と罵声を浴びせられることもあったという。1975年コンサート中に足を骨折して引退、その後は、パリで隠棲生活し、1992年に亡くなり、生まれ故郷のベルリンの地に葬られた。死後、この広場が「マレーネ・ディートリッヒ広場」と命名された。

戻りは、ショッピングセンター・アルカーデン(ARCADEN)内を通る。こちらにもツリーが飾られている。


ここのクリスマスのイルミネーションは鮮やかである。室内なので、外の寒さに比べると暖かい。


ポツダム広場を後にし、バスで次のマーケット会場に向かう。ポツダム広場は、第二次世界大戦で徹底的に破壊され、その後のベルリンの壁で分断された地区である。長く荒れ地だったが、1999年から再開発が進められた。振り返ると、今は、ダイムラークライスラーシティ、ソニーセンターがポツダム広場の最新の建物になっている。


赤の市庁舎前のクリスマスマーケットに到着した。赤の市庁舎はベルリンの東の中心部アレクサンダープラッツの近くにある。巨大で鮮やかに電飾されている観覧車が印象的である。観覧車はクリスマスのための期間限定とのこと。


マーケット会場入口横に置かれている車には、キャッシングマシーンが乗っている。移動式とは驚き。


会場に入ると、お馴染みの屋台やショップに加えて、乗馬の施設がある。こちらも特設の馬場であろう。子供をポニーに乗せておじさんがポニーを先導し馬場を歩いている。


ライトアップされた赤の市庁舎(Rotes Rathaus)が美しい。ベルリンの市庁舎で、1861年から1869年に北イタリアの盛期ルネッサンス様式で建造された。赤い硬質煉瓦からできている。ベルリン大空襲の際は大きく破壊されたが、1951年から1956年の間に再建された。


こちらには、子供用の列車のアトラクションも用意されている。童話のお姫様をモチーフした像まである。まさに遊園地である。


出入り口そばには、子供用の空中ブランコにオルガンを演奏するオジサンがいる。


アレクサンダープラッツのクリスマスマーケットを通り、地下鉄に乗りホテル近くのレストランに向かう。


シュピッテルマルクト駅(U2)を降りる。


シュピッテルマルクト駅の前のライプツィガー通り(ポツダム広場から伸びる)を渡り、シュプレー運河を渡ったムゼーウムス島の南端にあるレストラン「ロッティスリー ヴァイングリューン(Rotisserie Weingrun)」で夕食を頂くことにしている。


この日は、ベルリンビール(ベルリナー・ピルスナー300ml 3.5ユーロ)、ワイン(キュヴェ・ロット0.5l 14ユーロ)を頼み、付け合わせ野菜(Grill gemuse 4ユーロ、,Kartoffel stampf4ユーロ)と牛肉のリブロース(Dry Aged Entrecote、27ユーロ)、Spare Ribs 15ユーロを注文した。


食後、レストランを出て、シュプレー運河を渡るとすぐ左に運河に降りる階段があることから、ライプツィガー通りの下を通ってホテルに帰れそうだ。階段を下りて振り返ると、運河に架かる橋(ゲルトラウーデン橋)は、かなり古そうにみえる。ムゼーウムス島は、南北に流れるシュプレー川と、このシュプレー運河の中洲の上にある。13世紀頃、シュプレー川を挟んで東にベルリン、西のムゼーウムス島にケルンという小都市があった。後日、17世紀の古地図を調べてみたら、同じ位置に橋が描かれていることから、歴史的な橋なのかもしれない。なお、橋の後方に見える建物が、レストランである。


運河沿いの歩道を歩いてホテルに帰る。前方の連続するアーチ窓の青い光はUバーンのシュピッテルマルクト駅になる。

(2014.12.26)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドイツ・ベルリン(その2)

2014-12-26 | ドイツ(ベルリン)
ベルリン中心部にあるUバーン(Untergrundbahn)(地下鉄)のアレクサンダープラッツ駅を下りて地上に出ると、昨夜から降り続いた雨は雪に変わっていた。


これから、前方に見える高架橋を走るSバーンに乗り換えて「イーストサイドギャラリー」に向かう。Sバーンとはドイツ語圏において、各国有鉄道など公的機関などが運行する都市近郊鉄道で、主に地上鉄道の形態を指している。もともとは、ベルリン東西を走行する高架軌道シュタット(cityの意)・バーンの頭文字に因んで名付けられた。


電車は南東から北西に向けて流れるシュプレー川沿いの右岸を遡るように走行し、すぐに2つ目の「ベルリン東駅」に到着した。ベルリン東駅は4ホームに8線と単線1線にトレイン・シェッド構造の大屋根を持つ大型の高架駅である。東ベルリンに属していた際、長距離列車の主要ターミナルだったが、ベルリン中央駅に機能が移ってからは、利用者が少なく閑散としている。


改札から南口に出て駅舎内のショップを抜け駅広場を過ぎると、中央分離帯のある大通り(ミューレン通り)が通っている。その通り沿いに色とりどりに塗られて壁が続いているのが見える。こちらが、目的地のイーストサイドギャラリーである。


ミューレン通りを横断し、そばまでくると4メートルほどの高さがあることがわかる。この壁は、冷戦時の1961年8月13日、東ドイツ政府によって建設されたものだが、建設時の最初は有刺鉄線を巻いて鉄条網をバリケード施し、2日後に、ブロックの塀に変わり、その後コンクリートの壁になったとのこと。


壁の頂部には、筒状のものを被せ円状にして、つかまりにくい構造になっている。


壁の反対側に行ってみると、こちらには人工物はなく空地が広がっている。その空地の50~60メートル先はシュプレー川である。壁はミューレン通りとシュプレー川とを一定間隔あけながら、東南方向に伸びている。


当時のベルリン市を分断していた壁の構造は、① 後背壁(高さ3.6メートル~4.2メートル)、② 金網の柵(触れると警報が鳴った)、③ 車が通る道路(国境警備隊がパトロールしていた)、なお金網と道路の間には監視塔が一定間隔で設けられていた。④ コントロールゾーン(歩くと足跡が残るように、常に柔らかい土でならされていていた)、⑤ 段差、⑥ 壁、となっており、壁の横幅は合わせて60メートル以上あった。また、壁内には、一定間隔で犬小屋があり、シェパード犬が目を光らせていた。


ベルリン市は、東西ドイツの国境の東側(東ドイツ)に位置していたため、西ドイツからは飛地の市となり、壁はぐるりと西ベルリンを取り囲んでいた。壁の全長155キロメートルあったという。


こちらには富士山が描かれている。イーストサイドギャラリーは、1989年、壁が崩壊した後、21カ国118人のアーティストにより描かれたもので、現在、オープン・ギャラリーとして保存されている。


壁とシュプレー川との間は空地であったが、ここには、何やら建物が建つらしい。後で知ったが、ここに、マンションとシュプレー川に架かる歩道橋が建設され、イーストサイドギャラリーは、一部撤去されるとのこと。2013年3月には、建設工事に先立ち、工事業者が壁の解体工事を実施しようとしたが、反対デモや反対集会(約6000人が参加)により、結局、解体工事は中断されという。


これは、ソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー書記長の「兄弟のキス」。


こちらは、有刺鉄線を飛び越えて西側へ逃げる歩哨を捉えた写真を描いたものである。


壁は約1300メートル。どうやら、ここで、イーストサイドギャラリーは終了である。
それにしても、壁崩壊20周年の2009年に絵が新たに描き直されたが、かなり落書きが増えている。イーストサイドギャラリーは、ベルリン市の文化財保護物件とされているものの、オープン・ギャラリーであるが故の維持・保存の難しさを感じた。


正面には、U1が走る高架橋がある。右手に見える尖塔を持つネオゴシック様式の建物は、シュプレー川に架かるオーバーバウム橋である。オーバーバウム橋は、1896年に完成した橋で、上部には、U1が走り、その下を歩いて渡ることができる。東西ベルリンに分断していた際には検問所が設けられていた。1998年製作のドイツ映画「ラン・ローラ・ラン」では、恋人の窮状を救うべく大金を用意するため、主人公のローラが赤毛を振り乱し駆け抜けるシーンで登場する。


左手に向かうと、300メートルほど先がU1のウーラントシュトラーセ駅。駅前に向かう信号機は、アンペルマンのデザインだ。アンペルマンは1961年、東ドイツの交通心理学者カール・ペグラウによってデザインされ、現在でもベルリンを中心に活躍している「歩行者用信号機」である。東西ドイツ統一後には、新たに、三つ編みの女の子がモチーフとなるアンペルフラウが登場している。


さて、これからウーラントシュトラーセ駅(U1)から地下鉄に乗り、「ベルリン国立博物館・アジア美術館」(Museum fur Asiatische Kunst)に向かう。ところで、U1線は、1902年にベルリンの東西を結ぶ目的で開業したベルリン最古の地下鉄で、こちらの駅は東側の終着駅として高架陸橋で建設された。現在の駅舎は、1990年のドイツ統一後に大規模な再建が行われ1995年に完成したもの。ちなみに路線の大半は地上で高架橋を走行する。


ヴィッテンベルクプラッツ駅でU3に乗り換え、9駅目のベルリン市南西に位置するダーレムドルフ駅で降りる。ダーレムドルフ駅は、駅舎を持つ地上駅だがプラットホームは低い位置にあるため、階段を上って出口に向かう。駅舎は木製で造られており天井や照明の支柱には蒔絵を思わせる様な装飾がされている。


駅を出て、振り返り駅舎を眺めると切妻屋根で木材を組み合わせ漆喰で仕上げた造りで、山小屋のようである。


目的地の「ベルリン国立博物館・アジア美術館」は、駅前から南に150メートル程のところにある。美術館は、1873年に設立された民族学博物館が前身で、1926年には東アジア美術館となり、2006年にインド美術館との統合により現在に至っている。


白とグレイを基調とした近代的で清潔感のある展示室で最初に出会うのはガンダーラ彫像で、左端の頭部像から、仏陀立像が二体、坐像、再び立像と続き、右端には「花輪を持つ女性像」(4~5世紀)が、サイズ毎のロの字型展示台に並んでいる。いずれも仏教美術が栄えた1~3世紀イラン系遊牧民族クシャーナ朝時代に制作された像で、中でも左から5番目の仏陀立像(高さ約1メートル)は「タフテ・バヒー仏教寺院(Takht-i-Bahi)」遺跡を代表する貴重な像の一つである。
クリックで別ウインドウ開く

ガンダーラ彫像は、ヘレニズム文化の強い影響を持つ仏教美術で知られており、現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部ペシャーワル地方で繁栄した古代王国「ガンダーラ」に因んでいる。タフテ・バヒー仏教寺院は、ペシャーワルから北東に80キロメートルに位置し、仏教を保護奨励したクシャーナ朝第3代カニシカ王(在:144頃~171頃)が建造した寺院として知られている。

こちらは、2~3世紀クシャーナ朝時代に造られた高さ約70センチメートルのガンダーラ「仏陀立像」で、アフガニスタン・バーミヤーンの「パイタヴァ僧院」からの出土である。像は、異教徒を改宗させるために、深い膜想に入った仏陀が、体の上部と足元から炎と水を交互に発出させたという奇蹟譚(双神変)を表している。肉体を強調するかのように密着する薄い衣の表現描写が見事な作品である。
クリックで別ウインドウ開く

こちらも同時期にガンダーラで造られた「仏伝浮彫(誕生)」(パキスタン北西部出土、縦27.5センチメートル×横46センチメートル)で、右手を挙げて樹木の枝をつかむ摩耶夫人の右脇腹から、シッダールタ王子(仏陀)が誕生する場面を表したもの。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、インド・デリーから140キロメートルほど南の「マトゥーラ」から出土した高さ1メートルの「ヴィシュヌ神」で、インド・グプタ朝(5世紀)時代の作品である。マトゥーラ地方の多くの作品は赤い砂岩仕様が特徴で、ガンダーラ美術とは異なる独自の仏像様式を生んだ地域でもある。
クリックで別ウインドウ開く

「ベルリン国立博物館・アジア美術館」には、中央アジアの調査、探検を目的に1902年から4度にわたり組織されたドイツの探検家グリュンヴェーデルとル・コックの「トゥルファン(トルファン)探検隊」による多くの蒐集品が展示されている。探検隊は、天山山脈の北麓に位置するウルムチから、180キロメートル東南のトルファン地域に入り、そこから、天山南路(西域北道)に沿って、約1400キロメートル西のカシュガルまでの間の遺跡群の調査、発掘作業を行った。ここからは、トルファン探検隊のルートに沿って、西域北道からの展示品をみてみる(中央アジア(西域)地図参照)。

トルファン探検隊の出発地点となったトルファン地域には、高昌国(450~640)の都(高昌故城、カラ・ホージャ)、交河故城、アスターナ古墓群、ベゼクリク石窟寺院(千仏洞)などの都城跡、古墓、石窟寺院などが残されているが、こちらは「高昌国(高昌故城)」の寺院址から出土した塑像である。
「半円形の蓮華座に立つ仏陀(トルソー)」で、衣の襞の表現は肉体美が強調されヘレニズム美術の影響が大きく感じられる。発掘時から頭部は既になく壁に木釘で固定され、壊れた天井から滴る泥水痕で覆われていた。僅かに残る痕から蓮華座の花弁は赤、蓮肉は緑で、法衣は、褐色、襞端には緑が使われ、左下の衣裾の下に赤と青の二枚の下着を重ねていたことが分かっている。
クリックで別ウインドウ開く

高昌国はトルファン市街の東45キロメートルに位置するオアシス都市で、周囲5キロメートルの城壁(版築)に囲まれていた。城内には、仏教、景教、マニ教など多くの宗教施設や廟等があったが、現在は建築物の破損が激しく、荒涼とした風景が広がっている。建物は、日干煉瓦と砂礫土で建てられていたが、中国風の構造とは異なり、イラン風のドーム構造によるものかインド式の段階式仏塔であった。

次は、同じく「高昌(高昌故城)」の寺院址から出土した8世紀制作の塑像「瞑想する仏陀像」。身体を覆っていた金箔は斑上に剥落しており、両腕が破損しているが、ややうつむき加減の顔は穏やかで慈愛に満ちた表情をしている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらも「高昌(高昌故城)」からの出土で、景教寺院(古代キリスト教ネストリウス派)の壁画片である。向かって左側は「若い信者、602~654年」で赤い服をまとい懺悔を行う女性信者を描いている。右側は「棕櫚(聖枝祭)の日曜日、683~770年」で、香炉と聖水器を持った僧侶と青葉の束を手にした三人が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

「トルファン探検隊」のル・コックは、三群像のうしろの馬(ロバ)の前足は、騎士が司祭に近づいてきた場面で、復活祭前の日曜日の儀式を描いたものと考え、壁画片を「棕櫚(聖枝祭)の日曜日」と名付けた。ちなみに、聖母とキリストの神性を否定し異端と宣言されたネストリウス派は、東方に向け活動をし、635年に中国へ伝わり、大秦寺(景教寺院)が各地に建てられた。

こちらは「交河故城」からの出土品で、9世紀にシルクで織られた「十一面観音」(15.7センチメートル×17センチメートル)である。顔や頭部の仮仏も多く残っている。
クリックで別ウインドウ開く

「交河故城」は、トルファンの西方約10キロメートルにあり、二つの川に囲まれた高さ30メートルの台地上に版築で築かれている。漢時代から続く大規模な城壁都市(敷地約1650メートル×約300メートル)だったが14世紀に戦火で焼け落ちたと言われている。

そして、同じく「交河故城」からの出土品で8~9世紀に制作された「魔人像」。頭部に巻き髪を束ね、太く長い眉と隈取にした切れ長の目がエキゾチックで、顔には損傷がなく色彩も驚くほど残っている。一方、身体の装飾品は腕輪と首輪以外に、胸に痕が残るだけで、服装は肩から腕にかけての巻き布と、胸元を交差する紐だけになっている。両手で何かを支えていたようだ。
クリックで別ウインドウ開く

次に、トルファン東方約50キロメートルにある「ベゼクリク石窟寺院」第37窟の床(9世紀)を飾っていた壁画である。朱色をベースとして、唐草文様の正方形の縁取りの中に香炉、花瓶、鳴り物などの仏具が描かれ、周りには白鳥や童子が舞う姿が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

「ベゼクリク石窟寺院」は5世紀から14世紀までに造られた仏教石窟寺院で、仏陀の本生(前世)を描いた「誓願図」の壁画が有名である。しかし、壁画の大半は、ドイツを始め、スウェーデン、ロシア、イギリス、フランス、日本(大谷探検隊)の探検隊により持ち去られて世界中に散乱した。中でも最もよく保存された壁画部分は、ル・コックがドイツに持ち帰り、博物館に固定し所蔵したが、第二次世界大戦中に疎開できず、ベルリン爆撃で破壊されてしまった。。

こちらは「ベゼクリク石窟寺院」第8窟(14世紀頃)の壁画で「地獄」が描かれている。針の山地獄を中心に、八つ裂き、舌を抜かれる、釜ゆでの刑、蛇に噛まれるなどの阿鼻叫喚の地獄の様子が描かれている。中央上部には中国風の大きな屋根のある建物が描かれ、閻魔大王の代わりにトカラ文字が書かれている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、「ベゼクリク石窟寺院」の谷を北東に行った「ムルトゥク遺跡」から出土した「菩薩頭部」(10~11世紀)。塑像で作られているが、顔には損傷がほとんどない。左右の目の位置がややアンバランスだが、かえって人間的な温かみのある表情になっている。
クリックで別ウインドウ開く

さて、次はトルファンから、西域北道を西に450キロメートルほど行った「ショルチュク千仏洞」(主要都市カラシャール(焉耆)南西に位置)からの出土品である。こちらはアジア美術館を代表する作品の一つで、塑像「初転法輪像」(8世紀)である。
クリックで別ウインドウ開く

頭部は、波状髪を球状にした「肉髻」で、顔は頬骨がやや張り、あごと口が小さい。右肩を露出した偏袒右肩で、黄色の襦袢の上に朱色の大衣を纏っている。台座には、二対の花輪紋様と中心に鹿が描かれ、上部には反花(かえりばな)が描かれている。
1メートルほどの高さで、体躯はスリムな少年の様だが、両ひざと頂部とを結ぶ三角形の構図に安定感があり、表情に気高かく気品さが漂う素晴らしい像である。
クリックで別ウインドウ開く

こちらもショルチュク千仏洞からの「仏陀立像」(6世紀)で、肉髻のある波状頭髪や頬骨がやや張った顔立ちなど先ほどの「初転法輪像」と良く似ている。肉体を強調するような衣の襞の表現も素晴らしい。
クリックで別ウインドウ開く

同じくショルチュク千仏洞からの塑像で「デーヴァ(デーヴィー、デバター)女神像」(5~6世紀)。顔立ちはやはり先ほどの「初転法輪像」とよく似ている。デバターは、ヒンドゥ教の神々で、仏教では「天部」(天女)とされ、クメール美術で知られる「アンコール・ワット」では女官や踊り子たちを描いたレリーフとして知られている。左右の像は、上半身が裸で瓔珞を身に付け、中央の像は、衣を纏い、冠を被り、耳飾りを付けて合掌している。背中に残る壁面は壁龕から取り出した痕である。
クリックで別ウインドウ開く

次は、ショルチュクから西に100キロメートルほどいった西域北道の中ほどに位置するクチャ(庫車)からの出土品をみてみる。
クチャは、オアシス都市で、古代の亀茲国にあたる。西域北道の中継地点でもあり、古来より仏教文化が栄え、近郊にはキジル、スバシ故城、キリシュ、シムシム、クムトラなど多くの石窟寺院が造られた。玄奘三蔵は、管弦伎楽は諸国に名高く、伽藍が100余り、僧侶は5000人余りで、説一切有部(小乗)を学習していると記録している。また、多くの仏典を漢訳(訳経僧)し、仏教普及に貢献した「鳩摩羅什(344頃~413頃)」の出身地としても知られている。

こちらは、クチャから西南約30キロメートルにある「クムトラ千仏洞」から出土した「菩薩交脚像」(7~8世紀)である。菩薩像とされているが、詰め襟の首元に、スリットのある鮮やかな朱色のドレスに、ズボンを穿く遊牧民族風の衣装姿である。ドレスには五枚花弁の紋様が、ズボンには大ぶりの五枚花弁の紋様が円形状にあしらわれている。髪は長い巻き髪で、胸元にはネックレスと装身具を付けている。なお、クムトラ千仏洞は5世紀から8世紀にかけて開窟し、112窟が確認されている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、クチャから、西約70キロメートル先のムザルト川の急流沿いの断崖にあった「キジル石窟寺院(千仏洞)」の壁画を見てみる。キジル石窟寺院は、3世紀末から8世紀末までに開窟され、東西2キロメートルの範囲に現在236窟が確認されている。中国政府により西から通し番号がつけられているが、ドイツの探検隊ル・コックは、いくつかの石窟に独特の名称を付け、多くの壁画を切り取ってベルリンに持ち帰った。

キジル石窟寺院の壁画は、ガンダーラ美術に影響を受け、輪郭線が柔らかく、穏やかな色彩を基調として描かれたが、その後、西域独自の発展を遂げ、輪郭が固い線となり、立体感をあらわす濃淡の差が大きくなっていく。ラピスラズリの青を多用する強い色彩効果は、キジル石窟寺院における壁画の特徴にもなった。

こちらは、キジル石窟寺院、第8窟(十六剣士洞、432~538)からの壁画で「トカラ女王」(縦153センチメートル×横170センチメートル)と名付けられている。前方を凝視する視線と合掌するピンと伸びた指先に力強さを感じる。トカラとは、印・欧語族に属する言語を使う民族で、高昌地域の東トカラ語と、亀茲地域の西トカラ語との二種の方言があったとされるが、8世紀頃、共に死語となった。
クリックで別ウインドウ開く

以下、キジル石窟寺院の壁画を見ていく。向かって左側は第76窟(孔雀洞、6~7世紀)の壁片「仏陀の説法」で、右側は第77窟(像洞、406~425)の壁片「執金剛神像」である。執金剛神は右手に払子を持ち、台座に座る仏陀に涼風を送っていた。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは第224窟(マヤ洞、261~403)からの壁画で、古代インドに栄えたマガダ国の「アジャータシャトル(阿闍世)王と、彼の妃及びヴァッサカーラ大臣」が描かれている。阿闍世王は、前5世紀頃、父親の頻婆娑羅王を殺してマガタ国の王位に就いたが、のち仏陀の教えに従って仏教教団の保護者になった人物で、王舎城の悲劇として仏典に説かれている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらも第224窟(マヤ洞、261~403)からの壁画「弥勒菩薩(4世紀頃)」で、弥勒菩薩を中心に左右に黒い肌と白い肌の人物が合掌して敬っている。更に周りには、多くの国際色豊かな人物の姿が描かれている。弥勒菩薩は反花の青い台座に交脚人座の姿勢で座り、目を大きく開いて説法をしている。頭部には3つのメダリオンのある宝冠を被り、縁取りのある大きな円形光背が描かれている。上腕部の独特の紋様、首飾りや腕飾りなどは、色素の劣化によるものか刺青のように見える。
クリックで別ウインドウ開く

他にも、第77窟(像洞、406~425)からの壁画「牛飼いのナンダ」(406~425)第207窟(418~536)からの壁画「仏陀の説法」などキジル石窟寺院からは多くの壁画が展示されている。

こちらはアジア美術館を代表する作品の一つで第171窟(417~435)の壁画「神と乾闥婆」である。乾闥婆とは、ガンダルヴァ神のことで、仏法護持の八部衆の一人で帝釈天に仕え、香だけを食し、伎楽を奏する神で知られている。壁画は2メートルほどの高さがあるが、ドイツ探検隊は、顔、その他大切な部分を切り込まないように、曲線あるいは鋭角に境界線を引き、11枚に裁断しドイツに持ち帰ったという。
クリックで別ウインドウ開く

頭部付近を見ると、壁画が前面に貼り出している。ヴォールト天井近くに描かれていた壁画を切り取ったことが分かる。描かれた像の手つきを見ると、竪琴を奏でていると思われる。左側の黒い肌の神の左手が白いのは意味があるのだろうか。。向かって左側の白い肌の神の宝冠や装飾飾りは、前述の弥勒菩薩と良く似ている。
クリックで別ウインドウ開く

館内には、キジル石窟寺院から切り取った壁画を、石窟を造って再現する展示方法がとられている。再現されているのは、第123窟(763~907)の主殿で、左右正面の壁には、仏陀、菩薩、飛天などが描かれている。正面のアーチ型にくり抜かれた中央奥には塑像で造られた本尊が、手前の二か所の突起にも塑像の神像などが奉られていたのだろう。右側の壁には、仏陀立像が描かれているが、顔や体は破壊されている
クリックで別ウインドウ開く

主殿には、周りを唐草模様などで縁取りされたドーム天井があり、暗くてわかりにくいが、仏陀と菩薩が首を傾け、それぞれ向き合う姿が四体ずつ放射状に繰り返し描かれている。損傷個所も多いが、破壊されず美しい姿を留めている。
クリックで別ウインドウ開く

主殿の左右にある周歩廊も再現されている。その周歩廊側面にも仏像が並んで描かれているが、こちらも、目や身体が破壊されている。これらは、イスラム教など偶像否定の信仰により破壊されたものと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

周歩廊奥壁の天井部には飛天が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

さて、次に、クチャ(庫車)から西域北道を西に500キロメートルほど行った「トゥムシュク遺跡」から出土した「デバター女神像(6~7世紀)」(高さ72.7センチメートル)である。右の手の平を前に出し、左足を振り上げている不思議なポーズをしている。トルファン近郊の「交河故城」から出土した「魔人像」と並んで展示されており、見比べるとエキゾチックな顔立ちが良く似ている。
クリックで別ウインドウ開く

トゥムシュクは、トルファンからは1100キロメートル西に位置しており、西域北道の西の終着点カシュガル(疏勒)まで残り300キロメートルの距離となる。

おなじく、トゥムシュク遺跡からの壁片(7~8世紀頃)で、上の小さな壁片(14センチメートル×73センチメートル)には、中央に馬と光背を付けた天女らしき女性が数人描かれている。下の壁片(51センチメートル×75センチメートル)には、仏陀が説法している姿と冠を被った王族と家来らしき姿が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

以上が「トルファン探検隊」による西域北道からの蒐集品の一部である。ル・コックがベゼクリク石窟寺院やキジル石窟寺院などの壁画を大量に切り取ってドイツに持ち帰ったことは、文化遺産の破壊・略奪であるとの批判があるが、塑像や壁画片などは、特に、維持、保存など管理が難しいにもかかわらず、美しい姿を今も見せてくれているアジア美術館には、これからも当時の姿のままを後世に残していってほしいと思う。

最後にネパールからの美しい木造彫刻を二点を見て終わりにする。最初に「王冠を被る仏」(16~17世紀)(76センチメートル)で、薄い衣の表現は、経年劣化により首元から肩にかけてと左腕以外には分かりにくくなっているが、王冠は、花の装飾を中心にして、細かい宝石風の縁取りなど丁寧に掘り込められている。右手指を下に向け地面に触れる降魔印(触地印)を結んでおり成道前を仏陀を表している。
クリックで別ウインドウ開く

もう一点は、結跏趺座から片足を下げる遊戯座の姿勢を取る 「座る神像」(15~16世紀)(72センチメートル)で、やや劣化が激しいが、こちらも繊細な冠の表現や写実的な肉体表現などが素晴らしい像である。

今回は、仏教美術を中心に1時間半ほど見学した後、美術館内のカフェで、 昼食(サツマイモ甘煮とサワークリーム、スープ、サラダ、ビール)を頼んだ。昼なので、ビールは躊躇したが、スタッフから「ビールなくして人生なし」とまで言われ注文した。他の客も普通に飲んでおり、日本の美術館ではあまり見られない風景であった。再びUバーンで、ベルリン中心部に戻った。

(2014.12.26)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドイツ・ベルリン(その1)

2014-12-25 | ドイツ(ベルリン)
前方に見えるガラス張りの近代的な建物は「ベルリン絵画館」(Gemaldegalerie)で、13世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ諸国の芸術品を数多く収蔵している。このエリアは、もともと旧西ドイツ側のポツダム広場の西、ティーアガルテン地区の芸術文化地区で、現在は「文化フォーラム(Kulturforum)」と呼ばれている。


中央の広場を中心に文化フォーラムの周りには、多くの施設が集まっている。ベルリン絵画館から左手前に繋がるレンガ色の建物は「図書館」で、更に左側に視線を移していくと、南側には、「聖マテウス(マタイ)教会」が建っている。1845年に建てられ1960年に再建されたプロテスタント教会で、鐘楼を持つ北側ファサードには3つのアーチ扉があり、身廊と側廊の天井毎に切妻屋根が覆っている。北イタリアのロマネスク様式を継承しているが室内は近代的なホールで、コンサート会場の利用も多い。


聖マテウス教会と向かい合う様に広場を挟んだ北側エリアには、オレンジ色の「ベルリン・フィルハーモニー」の建物が見える。ハンス・シャロウンによる設計で1963年に竣工した五角形のホールの建物で、どの客席からもステージが良く見える「ヴィンヤード型」(収容人数2,440席、室内楽ホールは1,180席)を採用している。そして後方に見える富士山の形をした構造物は「ソニーセンタービル」で、右隣のタワーはドイツ鉄道本社ビルである。


昨夜は、パリからエールフランス航空でベルリン・ブランデンブルク国際空港に午後9時40分に到着し、 カイザー・ヴィルヘルム記念教会(シャルロッテンブルク地区にある福音主義教会)を望むクリスマス・イルミネーションで飾り付けされたクアフュルステンダム通りから、南に行ったホテル(パーク プラザ ベルリン クダム)にチェックインした。そしてホテル西隣の通り沿いにある、レストラン(ツム パッツェンホーファー)で夕食を頂いた。遅い時間となったが本場ドイツのビールとソーセージは大変おいしかった。

今朝は、今夜から宿泊する「ムゼウムスインゼル(博物館島)」南側に位置するホテル(ベストウエスタン ホテル アム シュピッテルマルクト)に移動し、チェックインを済ませて、Uバーン2号線に乗りやってきた。

現在午前11時、これから「ベルリン絵画館」を見学する。展示室は、ドイツ、フランドル、イギリス、イタリア、フランス、スペイン、その他ヨーロッパと続いていることから、ブログでは、概ね展示順に紹介していく(続きはベルリン(その3)で紹介)。実際のところ、現地ではイタリア絵画から先に見学し、昼食後にドイツ、フランドル絵画の順番で鑑賞した(☆ベルリン絵画館 館内案内図)。

こちらは、ドイツ・ルネサンス期のハンス・ホルバイン(1497頃~1543)が、グダニスク出身でハンザ同盟の商人を描いた「ゲオルク・ギーゼ(1532)」で、カーネーションが入ったガラス瓶の透き通る質感や、周りの小物の描写などが大変リアルな作品。制作は、ホルバインがロンドンに渡った1532年にハンザ同盟ロンドン支部から依頼され描いた肖像画で、その数年後から、ヘンリー8世(在位:1509~1547)の宮廷画家となり、宮廷関係者たちの肖像画を多数描くことになる。
クリックで別ウインドウ開く

次は、ホルバインと同時期に活躍したドイツの巨匠アルブレヒト・デューラー(1471~1528)の作品で、ニュルンベルクで描かれ市庁舎に展示された肖像シリーズである。市長の「ヤコブ・マッフェルの肖像(1526)」と、地元の上院議員で貴族の「ヒエロニムス・ホルツシューアーの肖像(1526)」が展示されている。肌、皺、髭の表現や鑑賞者を見据える視線など細密描写が凄い。作品は共に左上隅に署名がある。
クリックで別ウインドウ開く

同じくドイツ・ルネサンス期のルーカス・クラナッハ(父)(1472~1553)の作品が三点展示されている。両側には、クラナッハ独特の、腰の細くくびれた独特なプロポーションのヴィーナスが、中央の作品を取り囲んでいる。向かって左側は「ヴィーナスと蜜蜂のキューピッド(1537頃)」で、右側が「ヴィーナスとキューピッド(1530頃)」である。


そして中央は「青春の泉(若返りの泉)(1546)」で、馬車などで運ばれてきた老女たちが、誰もが若返ると言われる伝説上の泉を浴びることで若さと美を取り戻し、晴れやかな表情になって行く姿が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く
他に、クラナッハ(父)の作品では、ヒエロニムス・ボス(1450頃~1516)の三連祭壇画「最後の審判」(1482)(ウィーン美術アカデミー付属美術館に収蔵)の模写「最後の審判」(1524)が展示されている。正確に模写されているが、人物の体つきや表情を良く見るとクラナッハらしさが表れているのが印象深い作品。

次は初期フランドル派の画家の作品が並ぶ。こちらは小さい作品だが傑作が揃っている。


まず向かって左端は、神業とも評され卓越した技量を持つ初期フランドル派ヤン・ファン・エイク(1395頃~1441)の「教会の聖母子(1425)」(31センチ×14センチ)。教会内に立つ聖母は光り輝く宝石がちりばめられた王冠を身に着け女王として描かれている。キリストは、右手でネックレスを触っている。後ろの身廊内陣側の衝立には木彫りの聖母子像が飾られ、内陣では2人の天使が賛美歌を歌っている。
クリックで別ウインドウ開く
特に教会内に差し込む光が明るく照らし、身廊の床に反射する描写などの着彩法が素晴らしく、聖母子の神々しく美しい姿も際立っている。西洋美術史上で最高級の光の描写との評価も高い。

右隣の作品は、ヤン・ファン・エイクの弟子で、初期フランドル派・オランダの画家ペトルス・クリストゥス(1410中頃~1475)の「エクセターの聖母(1450)」で、カルトジオ会修道院から制作依頼を受けていたヤン・ファン・エイクが亡くなったことから、クリストゥスがブルッヘにある彼の工房を引き継ぎ、構図を継承して制作したもの。そして次の展示ブロックには、向かって左からヤン・ファン・エイクの「ジョヴァンニ・アルノルフィーニの肖像(1440)」と「ボードワン・ド・ラノワの肖像(1438頃)」が並び、その隣に再びペテルス・クリストゥス最後期の作品で、ベルリン絵画館を代表する「若い婦人の肖像(1470頃)」へと続いている。
クリックで別ウインドウ開く

作品は若干ひび割れが目立つが、肌のリアルな質感や、帽子の装飾、首飾りなど細部にわたり丁寧に描き込まれている。少女の左右の異なる意味ありげな視線が印象に残る。他に、クリストゥスの作品として祭壇画の一部「受胎告示と礼拝、最後の審判(1452)」が展示されている。

次に、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399頃~1464)の作品が展示されている。ウェイデンは、一時期忘れ去られた画家だったが、近年再評価が進み、ヤン・ファン・エイクとともに初期フランドル派を代表する巨匠とみなされている。人間性をも描き出したような精緻な描写の「若い女性の肖像」(1435頃)「ブルゴーニュ公シャルルの肖像」(1460)などの肖像画も素晴らしく、更に祭壇画の評価も高い。中でも、カスティーリャ王フアン2世の依頼によって描かれた「ミラフロレスの祭壇画」(1442~1445頃)はウェイデンの最高傑作と言われている。
クリックで別ウインドウ開く
ミラフロレスの祭壇画は、キリストの誕生、死、復活を聖母マリアの視点から、多色絵具を使用し鮮やかに描いた作品で、どのパネルも縁飾りのあるアーチ状のフレーム構図が特徴で、視覚的に入場して宗教世界を味わうことができる。右端の「復活」のパネルには、背景に墓から立ち上がるキリストが描かれており、一作品に連続性が表現されている。

ウェイデンの祭壇画では、他にも「洗礼者ヨハネの祭壇画」(1455頃)や「ブラデリン祭壇画(1445~1450頃)」が展示されている。ブラデリンとは、オランダ南西部ミデルブルフの領主で、その教会のために制作依頼をした祭壇画のこと。中央パネルが、聖ヨセフ、聖母マリア、寄進者ブラデリンが描かれる「キリスト誕生」で、ロマネスク様式の建物の手前の円柱はキリストの受難を予感させ、遠景の町並みはミデルブルフが描かれている。そして向かって左右翼パネルに「ローマ皇帝アウグストゥスのヴィジョン」と「東方の三博士の到着」を配している。
クリックで別ウインドウ開く

初期フランドル派の画家ジャック・ダレー(1404頃~1470頃)は、ブルゴーニュ大公家の宮廷画家で、アラスの聖ヴァースト修道院長ヤン・デ・クレルクから20年にわたり後援を受け多くの作品を描いたが、現存するのはその「アラスの祭壇画」4枚のみで、うち2枚が、向かって左側の「聖母のエリザベト訪問」と、右隣の「東方三博士の礼拝」である。ちなみに右端の「王の崇拝」はジャック・ダレー作品との説もあるが詳細は不明である。


ブリュッセルのロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房で修業し、1465年からブルッヘで活動した北方絵画を代表する画家ハンス・メムリンク(1430年代~1494)の聖母子像が3点、「聖母子の即位(1480~1490頃)」「聖母子の即位(1485)」と、「ベネデット・ポルティナーリの三連画の聖母子(1487)」が展示されている。
クリックで別ウインドウ開く
三連画の聖母子は、向かって左右に聖ベネディクトゥスとフィレンツェ出身の大商人ベネデット・ポルティナーリ(ウフィッツィ美術館収蔵)が配され、背後の風景は繋がる様に描かれていた。他にメムリンクの作品では「老人の肖像(1470)」が展示されており、こちらも連作(二連作)のうちの一作品。老人は、毛皮付き黒いローブを着、黒い帽子をかぶり、ロッジア内の手すりに手を置いているが、背後のロッジアと風景は、もう一作品の「老婦人の肖像」(ルーヴル美術館収蔵)に続いている。これらの背景を連続させる肖像画の手法はイタリア・ルネサンス絵画にも影響を与えた。

こちらは、初期フランドル派で第2世代の巨匠フーゴー・ファン・デル・グース(1440頃~1482)の「モンフォルテ祭壇画(東方三博士の礼拝)(1470)」。スペイン・ガリシア州モンフォルテ・デ・レモスにある修道院に因んで名付けられた。祭壇は可動翼を備えたトリプティクの中央パネルだったが他は失われている。作品は、聖母子に跪き礼拝する赤いマントの王を先頭に、豪華な贈り物を持って王たちが並んでいる。突然の訪問者に驚くヨセフの表情は印象的である。下部の床は広角の遠近法で描かれ、自然に聖母子に視点が集中する様な工夫がされている。
クリックで別ウインドウ開く

その後、メディチ家の銀行支店長を務めていたトンマーゾからの依頼を受けて制作した「ポルティナーリ祭壇画(1475頃)」で国際的名声を高めるものの、ヤン・ファン・エイクへの劣等感から精神的に追い詰められ自殺を図り翌年死亡した。こちらは、晩年に描いた「羊飼いの崇拝(1480)」で、左右の男が幕を開けて、鑑賞者に舞台を見せる珍しい構図となっている作品。

初期フランドル派(後期)のヒエロニムス・ボス(1450頃~1516)が描く「パトモスのヨハネ」(1489頃)。作品は、パトモス島でキリストから啓示を受けた使徒ヨハネが「ヨハネの黙示録」を執筆する姿を描いている。ヨハネの上向きの視線の先には天使と幼子と天国で即位したマリアが、下には、ヨハネのシンボルの鳥、筆入れインク壷、終末論をほのめかす悪魔(ボスらしい)が描かれている。背景は、ヒエロニムス・ボスの故郷スヘルトーヘンボス(オランダ南部)である。裏側には、円形に配置された「キリストの受難(1489頃)」が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

初期フランドル派の画家ヨアヒム・パティニール(1480頃~1524)が描いた「エジプト逃避途上の休息(1520)」で、緑色と青色の色調変化が遠近感を出しており、広々とした空間表現に特徴がある。パティニールは、歴史絵画、風景絵画を多く描いたが、特にエジプト逃避は好んで描いており、幾つかのバージョンがある。ちなみにアルブレヒト・デューラーの友人でもある。
クリックで別ウインドウ開く

次に、イタリア絵画を見ていくことにする。こちらは、アンドレア・デル・カスターニョ(1421頃~1457)の作品「聖母被昇天(1450頃 )」(150センチ×158センチ)で、フィレンツェのサン・ミニアート・フラ・レ・トッリ教会(18世紀廃止)の祭壇画ために制作された。聖母はボリュームのある青いマントに包まれ、バラが活けられた墓地から、四天使が支えるアーモンド状の雲を背景に上昇している。向かって左右には、聖ジュリアンと聖ミニアート(フィレンツェ最初の殉教者)が見守っている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらはルネサンス期フィレンツェ派の代表的画家ボッティチェッリ(1445~1510)の「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」(1460~1465頃)で、フィレンツェ一の美女と讃えられ、ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」(ウフィッツィ美術館が収蔵)のモデルにもなった。


他にもその「ヴィーナスの誕生」と同じポーズを取る単体の「ヴィーナス」や、天使が歌う聖母子像王座に着座する聖母子像(1484頃)ジュリアーノ・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの弟で、パッツィ家の陰謀で暗殺された)などが展示されている。

フィレンツェの画家ピエロ・デル・ポッライオーロ(1441頃~1496)の「受胎告知(1470)」。ポッライオーロは、メディチ家の庇護を受け、兄で美術家のアントニオとよく仕事をした。作品は、アカンサスの装飾が施された豪華な大理石部屋に、重量感のある羽と宝石飾りを身に着けた天使ガブリエルが、傅き、上目遣いでマリアに告知し、対するマリアは敬虔を示唆するポーズで受け止めている。聖霊の鳩は、フィレンツェの街並みが見えるバルコニーに小さく描かれている。(作品中央部分)
クリックで別ウインドウ開く

後期ゴシックのフィレンツェ近郊出身のジョット(1267頃~1337)の「聖母マリア永眠(生神女就寝)(1310)」。ジョットは、平面的なビザンチン絵画から、感情、空間、遠近感など革新的な絵画手法を生み出し近代絵画の扉を開けた。作品は、永眠するマリアが横たわり、中央背後にキリストがマリアの魂を比喩する幼子を腕に抱いて立っている。そして、マリアを抱えるペトロ、手前で傅くヨハネ、キリストの後ろで聖水で祝福するアンデレ、左側で詩篇を唱えるペテロなど聖人たちの悲しみや嘆きの表情が個性的に描かれている。
クリックで別ウインドウ開く
他にも、ジョットの作品として、「キリストの磔刑(1315)」が展示されており、両作品は、フィレンツェのオンニサンティ教会の祭壇画を飾っていたとされている。

国際ゴシック様式を代表する画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ( 1370頃~1427)の「聖母子と聖ニコラウス、聖カタリナ(1395頃)」。ファブリアーノ(マルケ州アンコーナ県)のサン・ニッコロ聖堂のために制作された作品で、聖母子を中心に、聖ニコラウスと、アレクサンドリアの聖女カタリナ、そして寄進者が取り囲み、背景の2本の樹には、奏楽の天使たちが描かれている。ファブリアーノの繊細な細密描写は国際ゴシック様式と呼ばれ、ヨーロッパ各国の宮廷を中心に影響を与えた。
クリックで別ウインドウ開く

フィレンツェ派の巨匠フィリッポ・リッピ(1406~1469)の「幼子キリストの礼拝(1459)」。もともとは、メディチ宮の礼拝堂に所蔵されていた作品で、幼子キリストと礼拝する聖母マリア、父なる神、精霊、洗礼者ヨハネが描かれている。マリアは、憂いと陰りを感じさせる繊細な表情をしている。なお本作以外にも「幼子キリストの礼拝」を描いた別作品2点がウフィツィ美術館に所蔵されている。フィリッポ・リッピの弟子にはボッティチェリがいる。
クリックで別ウインドウ開く

フィリッポ・リッピの息子フィリッピーノ・リッピ(1457~1504)の「音楽の寓意」(1500)。フィレンツェ共和国を実質的に統治したメディチ家お抱え画家となり活躍した。作品は、ギリシア神話に登場する文芸の女神ムーサ(ミューズ)の一柱でエラトが描かれている。エラトは、愛らしい女を意味し、ソリストの役割に竪琴を持物としていることから、画面の至る所に楽器を配し天使と戯れる白鳥が描かれ古典的な心地よい空間を作り出している。
クリックで別ウインドウ開く

初期ルネサンス期のフラ・アンジェリコ(1395頃~1455)の三連祭壇画「最後の審判(1450頃)」で、何度か描かれた「最後の審判」の中では最晩年の作品。青い衣を身に着け、青い雲海玉座に座り青いゲートから金の天使に守られ登場するキリストの周りをマリア、ヨハネ、使徒、聖人たちが取り囲んでいる。キリストは生と死の裁判官であり、右手は天国を指し、左手は地獄を指し示している。その地獄では悪魔サタンが人を食らい、火炙りや、釜茹など人々が苦悩する姿が展開されている。
クリックで別ウインドウ開く

フラ・アンジェリコでは、他にも聖ドミニクと殉教者聖ペトルスを伴う「聖母子(1433)」や、聖人アンブロジウスの幼児時代の説話で口に蜂が止まり、刺さずに蜂蜜を垂らしたと伝わる「アンブロジウスの奇蹟(1441~1447)」が展示されている。

ルネサンス初期のマサッチオ(1401~1428)の「キリスト降誕(トンド)」(1427頃)。マサッチオは若くして亡くなったが、多くの芸術家に多大な影響をあたえた。フィリッポ・リッピもマサッチオから絵画を学び、強く影響を受けた一人である。作品はフィレンツェの旗を掲げたトランペッターがお祝いの演奏をしているが、そばにいる修道女達の迷惑そうな表情が最高である。裏側にはペットと遊ぶ赤ん坊の絵が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

他にもマサッチオの作品があり、こちらはピサの「サンタ・マリア・デル・カルミネ教会」の礼拝堂を飾った「ピサの祭壇画」(1426頃)の散逸したパネルの一部とされる。展示は「四人の聖人(聖ヒエロニムス、聖アウグスティヌス、カルメル会の二人)」と下部にプレデッラ「聖ジュリアン伝、聖ニコラス伝」(悪魔に騙され、ナイフを手に両親を殺そうとする聖ジュリアンと黄金の玉で娼婦させられる三人の姉妹を助けようとする聖ニコラスの異なる二つの物語を統一して表現している。)、「東方三博士の礼拝」「聖ペテロの殉教、聖ヨハネの斬首」と並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

ピエロ・デラ・フランチェスカ( 1415~1492)による「聖ヒエロニムス」(1450)で、隠遁して聖人としての生活を送っているヒエロニムスの姿だが、しょぼくれた老人にしか見えない。。初期の代表作「キリストの洗礼」(ロンドン・ナショナルギャラリー収蔵)と同時期に描かれた作品で、空や木々など風景の描き方が良く似ている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらの横を向く「聖母子(1460頃)」は、マンテーニャ、クリヴェッリの師匠でもあったフランチェスコ・スクァルチォーネ(1397頃~1468)の作品で、現在、彼の作品と特定されている2点の内の一つで大変貴重なもの。ちなみにもう1点は、祭壇画でパドヴァにある。
クリックで別ウインドウ開く
作品は、風景を隠す様に覆われた赤いカーテンの前で、聖母が幼子キリストを金の刺繍で縁取りされた黒い(珍しい)ベールフードで覆う様に抱きかかえている場面。手すりの上でしがみくキリストと聖母の視線はそれぞれ別の方向を見ている。2人の光輪や聖母の袖口には碑文が綴られており、手すりにはリンゴ、上部にはフルーツ、リボン、花輪などが描かれている。

こちらはアントネロ・ダ・メッシーナ(1430頃~1479)の「ある青年の肖像(1474)」。額の中にある制作時期と画家名が書かれた折り目の付いた用紙は、描かれた作品の一部であり驚かされる。メッシーナは、ヴェネツィア派の初期の画家と位置づけられるが、大半が生まれ故郷のシチリアで活躍した。油彩技法に加えてフランドル絵画の細密描写など当時の西欧絵画の融合をみせ晩年にヴェネツィアに滞在しジョヴァンニ・ベリーニらの画家と交流し大きな影響を与えている。
クリックで別ウインドウ開く

ルネサンス初期のカルロ・クリヴェッリ(1430頃~1495)の「王座に就く聖母子と聖人達」(1488)。カメリーノにあるフランシスコ会教会のために制作依頼されたもので、精密描写に金箔を施した豪奢な作品。王座に就く聖母マリアに抱かれるキリストが聖ペトロに鍵を授与する場面で、向かって左右がアスコリ司教・守護聖人の聖エミディウスと、トゥールーズ司教の聖ルイ(1274-1297)。聖エミディウスと聖母マリアの間にアッシジの聖フランチェスコが描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

ヴェネツィア派の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃~1516)の「キリストの復活」(1475~1478)で、 ヴェネツィア・サンミケーレ島のサン・ミケーレ・イニーゾラ教会の家族礼拝堂(ヴェネツィア貴族マルコゾルジ)の祭壇画として制作された。作品は、3人の兵士が警備していた巨大な岩下にある墓が開かれ、キリストが朝焼けの空に、右手で祝福のサインを示し、左手には、勝利の旗を持って復活、上昇していく。女性3人が歩く坂道の後方の街並みはヴェネト州モンセーリチェがモデルである。
クリックで別ウインドウ開く

ジョヴァンニ・ベッリーニの作品は、他にも「二人の天使に支えられる死せるキリスト(1475~1480)」「ピエタ(悲しみのキリスト)(1495)」や、聖母子像などが展示されている。またベッリーニ家として、父のヤーコポ・ベリーニの「ヨハネとペテロ(1435頃)」や、兄のジェンティーレ・ベリーニの「聖母子(1460)」も展示されている。

ところで、15世紀当時人気のヴェネツィア絵画とは、ベッリーニ家とヴィヴァリーニ家(ムラーノ島を拠点)のそれぞれの工房で制作する作品で、二大流派として共にライバル関係にもあった。展示室には、そのヴィヴァリーニ家の始祖アントニオ・ヴィヴァリーニ(1418~1484)の「東方三博士の礼拝」が展示されている。

その後、ヴィヴァリーニ家が衰退していくが、理由の一つとして、遠近法を駆使した画面構成やリアルな人体表現を追求したアンドレア・マンテーニャの影響とも言われている。こちらは、そのアンドレア・マンテーニャ(1431~1506)による「キリストの神殿奉献」(1453)で、それまでの板絵ではなくキャンバスに描かれた初期の作品の一つである。
クリックで別ウインドウ開く

作品の背景はすべて黒でデザインされ、聖母のベール、キリストが包まれたリボン、向かい合うシメオン聖職者の髭などは白でデザインされている。キリストとシメオンの間で、シメオンの方向を向いているのは聖ヨセフで、その4人には光輪が描かれている。聖母の肘、キリストの足(枕の上)が欄干の前面に置かれているのは、マンテーニャお得意の視覚的イリュージョンである。ちなみに彼の義兄弟ジョバンニ・ベリーニは、同時期、同じ構図の作品(光輪は無し)を描いている。

ジェンティーレ・ベリーニに師事したヴェネツィア派のヴィトーレ・カルパッチョ(1465頃~1525頃)の作品が2点展示されている。共に連作シリーズのうちの1点。大きい作品が「聖ステファノの生涯(聖ステファノの助祭就任)」(1511)で、左隣が「死せるキリスト」(1505)で、台の上に置かれたキリストの遺体を中心に、遠景まで丁寧な描写が行われている。良く見ると、右奥で復活するキリストの姿も描かれている。


ヴェネツィア派のチーマ・ダ・コネリアーノ(1459~1517)は、アントネロ・ダ・メッシーナの影響も受け、風景表現を得意として静かな雰囲気を感じさせる作品が多い。また、聖母子をテーマに多くの作品を残しており、会場には、山頂に城郭のある風景やアルプスを思わせる峰々を背景にした聖母子(1492~1494頃)や、澄み渡る青空を背景に玉座に座る聖母子を描いた「聖母子と聖ペテロ、聖パウロ(1495~1497頃)」などが展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

途中、美術館内のカフェで昼食を取り、結局、閉館時間の18時まで鑑賞したが、翌日も再訪することにした。続きの主要作品はベルリン(その3)で紹介する。

その後、バスに乗り、ドイツ連邦議会議事堂(Reichstag、ライヒスターク、帝国議会堂)に向った。議会議事堂の頂上には巨大なガラス張りのドーム(丸屋根)があり事前に予約しておけば内部を見学することができる。毎日約1万人近い観光客が訪れるとのこと。


道路脇に、特設の建物があり、警備員に予約確認書を提示した後、その場でセキュリティチェックを受け、スタッフに引率される。この時間の見学者は20数人だった。議事堂は、古典主義を踏襲するネオルネッサンス建築で、正面口にはコリント式の6本の円柱がポルチコを形成し大きなペディメントがある屋根を支える壮麗な造りとなっている。


そのポルチコから議会議事堂に入り、右手の大型エレベーターで、ドーム(丸天井)の始まりまで一気に上がり、後は歩いて螺旋状のスロープを上がっていく。外観のネオルネッサンス建築とは異なり、ガラス張りで近未来的なデザインをしている。そして中央には鏡で覆われた巨大なコーンが下の議場に向けて垂れ下がっている。


通路沿いの手すりから下を覗き込むと、ガラス越しに議場には青い座席が並んでいるのが良くみえる。ちなみにドームのガラスは常に角度を変え直射日光を議場に入れないようにしながら、常に明るい光で満たすよう設計されているとのこと。


ところで、初期の議事堂は、ドイツ国時代の1884~94年に当時の最先端技術の粋を集めて建てられたが、1933年2月27日夜、突如の出火で炎上している。当時の首相アドルフ・ヒトラーは、出火を共産党員による放火と決めつけ、老齢のヒンデンブルク大統領に、緊急大統領令を発布させて、共産党員1000人以上を逮捕、拘束、虐待などの暴挙に出る。

その後、議会議事堂は修復されないまま、1943年のベルリン大空襲の被害を受け徹底的に破壊されてしまう。その後、東西ドイツに分断され、西ベルリン側となるが、西ドイツの首都がボンとなったため、結局廃墟のまま取り残されてしまい、修復されたのは、ドイツ再統一後(1990年)、連邦議会の議事堂として使用が決まった後で、完成は1999年であった。

南側(右)に青く輝くソニーセンターがあり、南東側(左)すぐそばにはブランデンブルク門が見える。門の上には、ドイツ彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドウ(1764~1850)により制作された四頭馬車(クアドリガ)に乗る女神ヴィクトリアの雄々しい姿を望むことができる。先ほどから降り始めた雨が激しくなり、ガラスを叩きつけるバチバチという音が激しくなり始めた。よく見ると雪が混じっている様だ。。


東側(議会議事堂の裏)アレクサンダープラッツ方面を眺めると、天を突き刺すように伸びるテレビ塔(Femsehturm)が見える。テレビ塔は、1965年から1969年にかけて建設され、高さ368メートル、団子を串で刺したようなデザインが面白い。東京スカイツリー(634メートル)は別として、東京タワー(333メートル)より高い。なお、テレビ塔の手前の高層ビルは国際貿易センタービルで、鹿島建設の設計・施工で建てられたもの。


議会議事堂を40分ほど見学した後、次に「ブランデンブルク門」に向かった。ブランデンブルク門は、ベルリンから各地に向かう街道と壁が交差する個所に、物資に関税を課すために設置した18の関税門の一つで、西のブランデンブルク方面(90キロメートル先)に向かう街道口に、1791年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建てられた。


第二次世界大戦では、廃墟になり、ブランデンブルク門のすぐ西側の現在見上げている辺りに境界線が引かれ、門は東ベルリン側となった。1957年に修復されたものの、1961年にはこの場所に「ベルリンの壁」が建設され門は鉄条網とブロックで閉鎖されてしまう。

ブランデンブルク門をくぐり東側の正面から眺めてみる。ベルリンの壁が建設された後、第二次世界大戦から残されていた廃墟も撤去され無人地帯となるが、1989年のベルリンの壁崩壊後にようやく門の下を通行できるようになり、2000年に清掃と改修工事が行われ現在に至っている。雨は小ぶりになり、ライトアップされたブランデンブルク門は美しく幻想的に輝いている。
クリックで別ウインドウ開く

ブランデンブルク門から、ウンター・デン・リンデン通りを東に向かい、フリードリヒ通りを南下、イエーガー通りを左折して「ジャンダルメンマルクト」に向かう。

ジャンダルメンとは憲兵という意味で、広場に面して近衛騎役兵舎があり「ジャンダルム(憲兵)」に利用されていたことから名付けられた。ベルリンで最も美しい広場と言われ、特にこの時期はクリスマスマーケットが開催され多くの観光客でにぎわう。広場は、南北縦長の長方形の敷地で、中央西側にコンツェルトハウス、北側にフランスドーム、南側にドイツドームと3つの建造物が向かい合う様に建てられている。イエーガー通りはそのコンツェルトハウスとフランスドームとの間に続いている。


敷地内に入ると「WeihnachtsZauber Gendarmenmarkt」(クリスマス・ マジック・ジャンダルメンマルクト)と電飾文字が掲げられ、多くの特設テントが並んでおり、クリスマスグッズ、アクセサリー、アロマショップ、陶器、ソーセージ、チーズ等が売られている。

広場に入り南側に進んで振り返ると、フランスドームの美しい姿が望める。フランスから逃れてきたプロテスタント「ユグノー派」のための教会として、1701年から1705年にかけて建てられ、1785年に拡張して現在のバロック様式の建物となった。しかし第二次世界大戦中に大きな被害を受け、1977年から1981年の間に再建された。ドーム型タワーにはユグノー博物館と展望台がある。


右側が広場の中央西側に建つコンツェルトハウス・ベルリンで、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(1952年に東ベルリンで設立、旧ベルリン交響楽団)の本拠地である。19世紀前半のドイツ最大の建築家カール・フリードリヒ・シンケルによりギリシャ様式で建てられた。正面には、ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家で、ゲーテと並ぶドイツ古典主義の代表者で知られるフリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)の像が飾られている。ベートーヴェン交響曲第9番の「歓喜の歌」には、シラーの「歓喜に寄す」が用いられている。


南側にはドイツドームがある。フランスドームと左右対称に並んでいる。1708年に竣工し、その後、プロイセンのフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)によりドームと円柱堂が増築された。ドイツ国内最大のルター派教会で、1945年には火災で破壊されるが、ドイツ再統一後の1993年に再建された。1996年にはドイツ歴史博物館が開館している。


赤いパラソルの周りは多くの人で賑わっている。寒くてビールは飲めないと思っていたら、みな温かいワインを飲んでいる。グリューワイン(温葡萄酒)と呼ばれ、ワインと香辛料などを温めて作るホット・カクテルの一種で冬場の人気のアルコール飲料とのこと。飲んでみると味はともかく体が温まってきた。


時刻は、午後9時半を過ぎたので、ジャンダルメン・マルクトを出て、シャルロッテン通りとイエーガー通りの交差するレストラン「アウガスティーナ・アム・ジャンダルメンマルクト」に夕食を食べにやってきた。店内は、大変混雑していたが、ちょうど入れ替わりの時間だったのかすぐに解消され席に案内された。


飲み物は、エーデルシュトッフ(1L 8.4ユーロ)と赤ワイン(フランツ ケラー、シュペートブルグンダー フォン ロス 6ユーロ)を頼み、料理は、メインの2品のみで「ポルチーニ茸ラビオリ」(steinpilz-maultaschen16.5ユーロ)と、


「カモのグリル」(Bauernente24.5ユーロ)を注文した。ドイツ料理は、プレートに付け合わせの野菜があることが多いが、ボリューム感のある肉が大半を占めていた。美味しく頂けたが、野菜の前菜を頼んでも良かった。。

(2014.12.25)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする