カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ギリシャ(その3)

2019-05-23 | ギリシャ
ペロポネソス半島の中央部を横断するE65号線でトリポリを通過した後、アルゴス・インターを出て「ミケーネ遺跡」に向かっている。オリンピアからは、約2時間、約180キロメートルの行程で、時刻は午後5時20分になった。小さなミケーネ村を過ぎると一本道となり、イリアス山の麓に目的地の遺跡群が見え始めた。
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遺跡群は左側のイリアス山と右側に見えるサラ山との麓に広がっており、駐車場東側にある遺跡入口(入園料12ユーロ)からは舗装された歩行者用通路が延びている。ミケーネ遺跡は、伝説の都市トロイアを発掘したことで知られるドイツの考古学者「ハインリヒ・シュリーマン」(1822~1890)によって1872年に発見され、この地の名をとって名付けられた。また、古代ギリシャ以前の紀元前1450年(中期青銅器時代)から紀元前1050年(後期青銅器時代)に栄えていた文明であったことが初めて確認され「ミケーネ文明」と名付けられた。1999年には「ミケーネとティリンスの古代遺跡群」として世界遺産に登録されている。
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歩行者用通路を100メートルほど進んだ左側の木々の後ろにある博物館から先に見学することにした。こちらの展示室には、ミケーネ遺跡から出土した紀元前13世紀頃の土器が展示されている。
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こちらには、ミケーネ遺跡の神殿址から出土した擬人化人形や儀式に使用したと考えられる渦巻き状の蛇などが並んで展示されている。紀元前1250年から前1180年のもので、愛らしいが不思議な姿をしている。
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こちらも同じ紀元前1250年から前1180年のもので、神殿の壁面を飾っていた女神の破片(複製)が展示されている。この壁画には、他に二女神が描かれていたが大半が失われている。
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博物館は、土器や土偶が中心で、貴重なお宝の大半は「アテネ国立考古学博物館」にあることから、さらさらっと見学して遺跡に向かった(遺跡模型はこちら。※正面が北東方面)。歩行者専用通路は傾斜道になっており、博物館の先から大きく右曲りしている。そしてその先に見えるのが、有名な「ライオン・ゲート(獅子門)」でこの門が遺跡群への入口になる。
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ライオン・ゲートは紀元前1250年頃に造られたアクロポリスの城壁門で当時の正面玄関にあたる。上部にある2頭の獅子レリーフに因んで名付けられ、彫刻としては、この時代で唯一残っている最大かつ記念碑的作品として知られている。向かい合った獅子の頭部は失われているが、中央の祭壇に前足を載せる姿は良く残っている。

ゲートの大きさは幅3.10メートル×高さ2.95メートルで、ゲート自体は、左右の大きな石柱と上の”まぐさ石”から構成され、周りにも巨大な石灰岩が積まれる「サイクロプス積み工法」で造られている。人間には建築困難で、巨人(サイクロプス)が壁を構築したと考えられたことが名前の由来らしい。
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ライオン・ゲートの先にも傾斜道は続いており、すぐ先で右下に紀元前16世紀の王室墓地(円形墳墓A)が見下ろせる。この墳墓は当初、城壁の外側に建設されたが、紀元前13世紀に拡張されてアクロポリスに囲まれた。墳墓は、二重の外壁に囲まれたサークル状で直径が27.5メートルあり、中央に6つの墓がある。それぞれの墓には男性、女性、子供と2〜5体づつ合計19体が埋葬されていた。
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墳墓のそばに行くには、ライオン・ゲートをくぐった先の右側階段を下りて二重の外壁に開けられた入口から中央部に入る。墳墓際から南側に回り込んで覗くと、小ぶりな石の積み重ねで区画された墓が確認できる。手前左側の一番大きな4号墓とその先(北側)の5号墓からは、5つの黄金の仮面(マスク)が発見されたが、その一つが有名な「アガメムノンのマスク」である。しかしその仮面は紀元前1550年から前1500年のもので、アガメムノンの活動期より3世紀早いことが近年確認されたが、呼称はそのまま残っている。4号墓からは「銀の牛のリュトン」や「金の獅子のリュトン」が発掘され、他にも金のカップ金の指輪、ボタン、ブレスレットなどの装飾品剣などの武器類などが発掘された。これらの貴重な発掘品は全て「アテネ国立考古学博物館」に展示されている。


王室墓地(円形墳墓A)に隣接して東側にも遺跡が続いている。紀元前13世紀に造られた祭祀のための関連施設址で、5つの建物から構成されていた。神殿や寺院があり祭祀官の邸宅などもあったと考えられている。博物館で見た擬人化人形や女神の壁画破片はこの場所から出土した。ちなみに、ミケーネ遺跡から出土した壁画は少なく、最も有名な壁画は「アテネ国立考古学博物館」に展示されている王宮の婦人像である。


歩行者専用通路をジグザグ状に上って行くと遠くの山々が見渡せる高さになった。ライオン・ゲートの内側、王室墓地(円形墳墓A)、祭祀のための関連施設なども良く見える。駐車場のある遺跡入口から西側には、緑のアルゴス平野の耕地が広がっている。やや左下に見える道路沿いの遺跡は、ワイン商人、油商人、武器職人、象牙職人などが住む邸宅だった。この邸宅から、最初のギリシャ文字である線文字Bも発見されている。
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この場所から数メートル坂道を上った場所にミケーネ・アクロポリスの王宮があった。前期青銅器時代(前3200年~前2000年)には既に建物が存在したと考えられているが、現在残る王宮址は、紀元前13世紀のものである。広い空間は12メートル×15メートルほどの王宮の大広間 (メガロン様式)だったとされる。その大広間の西端には小部屋があり、小部屋の南の谷側に隣接して建物(現在は大部分が崩落)が一段下に建っており、訪問者はその建物から階段を上って大広間と小部屋に入ったようだ。小部屋の北側には階段があったが、王宮に2階があったのか、北側への階段だったのかはわからない。
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丘を少し上り、北側から、全体を見ると、大広間の先に小さな前室があり、その先が王の間と長方形の敷地であることが分かる。王の間で、王は4本の円柱に囲まれた中央の円座に座って部下や客人と対峙した。
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ちなみに、サラ山の麓から南側には、アルゴス平野が続き10数キロメートル先でアルゴリコス湾に到達しているのが見える。アルゴリコス湾のかなたには山並みが連なっている。

王宮に隣接して、イリアス山側には壁画で飾られた宗教施設や王宮の付属施設があった。ミケーネのアクロポリスは、統治者を中心に地域の行政、財政、宗教の中心地として繁栄したが、現在は無数の岩が転がるだけである。


王宮の南東側には、商人、職人などの邸宅があった。その邸宅の一軒からは線文字Bも発見された。王宮から100メートルほど東側には、南北に20ほどの小部屋と通路で構成された区画がある。こちらは北側の邸宅址である。


通路を更に東に向かった谷間にサイクロプス積みで造られた城壁がある。この場所がアクロポリスの東端になる。城壁は紀元前1200年頃に北東に拡張された際に造られたもので、アーチ状のくぐり門がある。緊急時の出入口だったようだ。そして、すぐ近くに地下に下りる洞窟があり、下に泉の址(貯水槽か井戸)があることから、アクロポリスへの給水設備があったと考えられている。
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高度な文明を持っていたミケーネのアクロポリスは、紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって破壊されミケーネ文明は終焉したが、詳しいことは分かっていない。出口は、北門を出て博物館方面へ向かうルートだが、もう一度王宮側を見ようと引き返し丘の上まで戻ってきた。時刻は閉園時間の午後8時になった。他に見学者もいなくなり下山して行くと、入口に立つ男性スタッフが見える。小走りで入口に向かうと、時計を見ながら閉園だと怒っており、謝りながら退散した。

ミケーネ村を過ぎ、アルゴス平野を通る街道を暫く南下していくと、世界遺産「ミケーネとティリンスの古代遺跡群」の「ティリンス(ティーリンス)遺跡」が現れる。もう一つのミケーネ文明の遺跡だが、残念ながら時間外で入場できない。ティリンス遺跡は、靴底型の低い丘に厚く5メートルから10メートルの間の高い堅牢な城壁をめぐらしていた(遺跡模型はこちら。※北は左)。こちらは、北側にある入口からの様子で、遺跡のつま先にあたる場所になる。東側の中央部にある斜路を上り曲折を繰り返し楼門と第二の楼門をくぐって城塞中央部に到着する厳重な構えを備えていたようだ。


ティリンスから街道を更に2キロメートルほど南下すると、最初に2階建ての住宅が、続いて1階に店舗のある3階建の住宅が並び始め市街地の様相を呈してきた。遠くから見えた岩山が間近になると街道は終着点のロータリーになり、ナフプリオ(ナフプリオン)の中心部になる。そのロータリーを右折して西側の樹木の立ち並ぶ大通りから岩山の麓に続く坂道を上って今夜の宿泊場所に向かう。


坂道は右側に現れる城壁に沿ってすぐに大きく右に曲がり更に上って行く。そして左側の眼下に海が広がり始めると大きく右に回り込み広場に到着した。広場の東側には、3階建てのホテルらしき建物があるが、屋上の看板も取り外されており廃業しているようだ。背景に聳える岩山の頂部から北側斜面にかけて建つのは、パラミディ要塞(標高216メートル)で、ちょうどライトアップされたところ。要塞北側の城壁に向かうジグザグ状に続く階段も良く見える。
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パラミディ要塞は、1685年ヴェネツィア共和国が約150年ぶりにオスマン帝国からこの地を奪回し、防衛強化を目的に1714年に建造した。しかし完成翌年には再びオスマン帝国により奪い返されてしまう。長年オスマン帝国の支配下にあったギリシャは、1821年の独立戦争で、1年以上にわたる包囲戦を経て遂に要塞を奪還する。

駐車場の西側には城壁があり、側防塔の様な建造物が建っている。この丘陵地の城塞の歴史は古く、前古典期(前7世紀~前5世紀)に最初に造られたアクロナウプリアを起源とし、中世には、東ローマ帝国、フランク・ラテン十字軍国家、ヴェネツィア共和国、そしてオスマン帝国によって要塞化された。


足元は城塞の北側の外壁になり、その眼下には、ナフプリオ(ナフプリオン)の旧市街が広がり、先には、アルゴリコス湾が一望できる。ナフプリオは、南の地中海側に向いたアルゴリコス湾(長さ約50キロメートル、幅約30キロメートル)の北東端にあり、800メートルほどの長さの鳥のくちばし状の半島を持つ港湾都市である。ギリシャ独立戦争中の1829年からギリシャ王国建国直後の1834年までギリシャの首都が置かれたことから「近代ギリシャ最初の首都」として言及される。
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視線を東側に移すと、岩山の麓から続く緑(先ほど通った通り)が、新市街と旧市街の境目になっている。中世のころ境目は湿地帯(堀)で、橋で渡り城門から要塞化されていた旧市街に入場していた。今夜は足元の城塞の外壁直下に見える半屋上のテラスのあるホテル(Αmfitriti Palazzo Design)に泊まることにしている。ホテルには、左側(西側)の坂道を歩いて城門をくぐり、鋭角に右に回り込み、外壁に沿って2棟ほどの建物の横を通り過ぎた先になる。ホテルのサイトには、ホテルへの行き方を紹介するユーチューブの動画がupされている。
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ホテルの玄関は外壁沿いにあり2階建てだが、坂下に建物は続いている。チェックインの手続きが終わると、最も階下にある居室を案内された。居室前の廊下の扉口からは、旧市街側に直接下りることができる。古びて曲がりくねった細い階段を下りて隣下のホテルの横を歩き、更に階段を下りると、東西に延びる細い路地に出ることができる。何ともややこしい。。

夕食は、最初に予定していた旧市街の中心部にあるレストランに行ったが改装中で、次に海岸沿いの店先に食材が並ぶシーフードの店に行ったが、気乗りせずやめる。あちらこちらにテラスが並んでおり料理を眺めてみるが触手が伸びない。。結局、ホテル最寄りの路地の北隣の路地沿いにあるトリップアドバイザーで評価が高かったレストラン(Karima Kastro)にした。人通りが少ない薄暗い路地にあるにも関わらず、お客が多かったのが決め手になった。


ビール、赤ワイン、ロケット・パルメザン、ポークフィレ・ア・ラ・クリーム、シュリンプス・サガナキを注文したが、量、味ともに概ね満足できた。新鮮なエビが沢山食べられたのは良かった。1時間半ほど食事して午後11時半に薄暗い路地から階段を上ってホテルに帰った。


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翌朝、午前8時過ぎに朝食を食べに1階ロビーを通ってホテルの半屋上テラスにやってきた。テラスにはテーブル席があり、室内側に並べられた食材を自由に運べるビュッフェ・スタイルなっている。抜けるような青空のもと、ナフプリオの旧市街の街並みを眺めながら、優雅に美味しい朝食をいただいた。
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アルゴリコス湾の左側(西側)には街並みと重なる様に、沖の小島に建つ「ブルジイ砦」が僅かに見える。ブルジイ砦は、15世紀後半にヴェネツィア人により建てられた海上防衛のための要塞である。

ゆっくり滞在したいが、この後の行程も考え、急ぎチェックアウトする。ホテル玄関を出て外壁沿いに歩き、城塞に向かう坂道に回り込み城門をくぐって駐車場まで戻る。ナフプリオは、中世の趣が感じられる美しい街だが、この辺りはバリアフリーとはいかない。。これから新市街のロータリーから東方面に延びる街道に入り「エピダウロス遺跡」に向かう。


40分ほどで目的地の「エピダウロス遺跡」に到着した(入園料12ユーロ)。駐車場は数千台の車が駐車できるほどの広い敷地があり、周りは緑に覆われている。そして遺跡群は駐車場の東側から北側に隣接しており、高さ600メートル前後の山々に囲まれた盆地内に展開している。(案内図※北は下、駐車場は競技場の南に隣接)


「エピダウロス遺跡」は、ギリシャ神話の名医アスクレピオスを祀る聖域(アスクレペイオン)として紀元前5世紀頃から建設された。中でも最大の見所は、紀元前4世紀後半に建築家ポリュクレイトスによって建設された野外劇場で、アスクレピオスへの礼拝や、音楽、歌、各種ゲームなどが行われた。ギリシャで最も保存状態の良い劇場跡と言われ、遺跡群一帯は、1988年に「エピダウロスの考古遺跡」として世界遺産に登録されている。
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現在、毎年8月には、舞台芸術イベント「エピダウロス・フェスティバル」が開催されている。ちなみに最初の現代パフォーマンスは 1938年に公演されたソポクレス(古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人)作の「悲劇エレクトラ」で、その後、第二次世界大戦中は中止されたが、1955年からは毎年開催されている。特にマリア・カラスが登場した、1960年のベッリーニのオペラ「ノルマ」と翌年のルイジ・ケルビーニ「メデア」は注目を集めた。
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劇場の中心を構成する円形のオーケストラは直径20メートルあり、中央の石板の上からコインを落とすと、最上階の席まで聞こえるほど、音響効果に優れている。観客席は、下部ゾーン34列、上部ゾーン22列と2つのゾーンに水平分割され、12つの階段と22の階段を配置している。収容可能人数は、13,000〜14,000人となっている。


こちらは、アスクレペイオン(アスクレピオスの聖域)の中心部で「アスクレピオス神殿(前375~前370)」があった場所で、西側には、左側の円形の遺構「トロス(ティメレ)(前360~前330)※修復中」と右側の列柱の並ぶ「アバトン(紀元前4世紀)」の遺跡が並んでいる。ともにアスクレピオスへの信仰から、病気平癒を願う患者たちのために造られた至聖所で、アバトンには、160室のゲストハウスがあったことが分かっている。この聖域は、古典期(前479~前338頃)のギリシャ世界において最も注目された医療の中心地で、多くの病人たちが治癒を求めて集まったという。
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患者たちは宿泊翌日に祈願を行った後に、神官医師団の治療を受けたり、温泉やギュムナシオン(肉体を鍛える訓練所)を訪れて治癒法を処方された。また、至聖所で眠っている際に夢に神が現れ治療を施し、目覚めた時にはすっかり治癒していたという伝承もある。


アスクレペイオンはエピダウロスに繁栄をもたらし、その後、野外劇場を始め、儀式を行う際の宴会場、浴場競技場など紀元前3世紀にかけて記念建築物の建設や拡張が続けられた。

アスクレピオス神殿の南側には大宴会場の址に囲まれたローマ時代の「オデオン(音楽堂)」があり数本の柱が復元されている。宴会場の南東角からオデオン方向を眺めると、後方にトロスやアバトンなどアスクレペイオン中心を望むことが出来る。眩しい日差しの中にいると、何やら当時の繁栄ぶりが目に浮かぶようでもある。
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アスクレペイオンは、その後、海賊やゴート人の襲撃などを受けるものの、その都度繁栄を取り戻した。キリスト教が導入されギリシャの神々への信仰が禁止された後も「癒しの聖域」としてのエピダウロスは5世紀中頃まであがめられた。

2時間ほど滞在して、エピダウロス遺跡を後にした。これからギリシャ本土へ向けて、東のサロニコス湾沿いを通る国道10号線を進む。


エピダウロス遺跡から60キロメートルほどで、高速道8号線に乗り換え、すぐに、ペロポネソス半島とギリシャの本土との間の「コリントス運河」(コリンティアコス湾とサロニコス湾(エーゲ海)を結ぶ約6キロメートルの運河 )を越える。当初、コリントス遺跡(古代都市国家アクロコリントス)に寄る計画を立てていたが、これから向かう「ダフニ修道院」の見学が難しくなることから諦めた。

高速道8号線(E94号線)を50キロメートルほど東に進み、アテネ、ピレウス・インターに従い8号線(幹線)に進むと10分ほどでダフニに到着した。ダフニからアテネまでは僅か10キロメートルほどの距離となる。目的の「ダフニ修道院」は一辺100メートルほどの大きな正方形の敷地の中にあるものの、人通りが少ない8号線(幹線)の南側にあり、周りを緑に覆われていることから分かりにくい。修道院の入口は、東側にある公園内にある鉄格子のベルを押して修道院のスタッフに開けてもらって敷地内に入る。細い通路を歩くと東西の付属棟の間に中庭が現れ北側に目的の中央聖堂が現れる。
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ダフニ修道院は、中期ビザンティン建築で11世紀末の建設と考えられているが、現在は中央聖堂のみが残っている。外壁はオシオス・ルカスと同じくクロワゾネ積みとなっている。古代にはアポロ・ダフネイオスの神域があり、最初の修道院自体の設立は5世紀から6世紀の間と推定されている。1990年、他の2つの修道院とともにユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院」)。


中央聖堂と西棟との間を抜けた北西側は、岩が転がる遺構になっており、北側の8号線(幹線)側には、アーチ型の浮彫が並ぶ古びた壁が続いている。

中央聖堂内に入るには、中庭側の南口とポルチコのある西口のいずれかからが可能である。ちなみに、見学可能時間は、火曜日、木曜日、金曜日の午前8時から15時までである。


ポルチコのある西口から入場すると、ナルテクス(拝廊)になり、前方の中央ドームの下には、団体客で混雑しており身動きできないほどであった。20分間ほど混雑した中見学していたが、その後一斉に帰って行った。


聖堂内には薄く白い漆喰が塗られており、外光も合わさり、鮮やかに輝く黄金モザイクがあちらこちらで浮かびあがって見える。
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11世紀に制作された歴史あるモザイクだが、地震によって損壊し多くが失われており、現在も長い修復の最中である。。中央ドームには「全能者ハリストス」(パントクラトール)が、西側(拝廊側)を頭に厳しい顔をして見下ろしている。長い鼻は目と交差して十字架に見える。左手には福音経を持ち、右手は祝福の動作を表している。ドームの側面の窓の間には、16人の預言者が表現されている。
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ドーム周りの4か所のスクィンチには、南東角(左下)の「受胎告知」から時計回りに、「主イエスの変容」「キリストの洗礼」、そして北東側(右下)の「キリストの降誕」とモザイク画が残っている。どのモザイクも美しく残っている。
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ペンデンティブ(穹隅)北西側の壁面には、「エルサレム入城の日」が、向き合うように北東側の壁面には「キリストの磔刑」のモザイク画がある。
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そして、南側は、出入り口になり、南西側の壁面には、「トマスの不信」があり、向かい合うように、南東面には「キリストの復活」が、美術館の作品の様に美しく飾られている。
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ナルテクス(拝廊)の上部に残るモザイクも素晴らしい。南西側にあるのが、「ヨアキムの受胎告知の祈り」で、向かい側の南東側が 「主の迎接祭(聖燭祭)」、北西側にあるのが「ユダの裏切り」である。
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「ダフニ修道院」のモザイク画は、「オシオス・ルカス修道院」のモザイク画と比較して、人物表現が写実的で表情もどことなく憂いを帯びた顔をしている印象を持った。どのモザイク画も美しい色使い、構図や洗練された表現力など当時の最高峰の優れた技術を持つモザイク職人によって制作されたことが伺える。保存状態も素晴らしくビザンティン美術の大傑作である。午後3時の閉館時間まで見学したが、大変満足できた。

ところで、ダフニ修道院の見学時間の関係から通り過ぎていたが、次の目的地への時間がありそうなので、10分ほどの距離を引き返して「エレウシス遺跡(現:エレフシナ)」にやってきた。古代ギリシャのアテナイ近郊の小都市で、ギリシャ神話に登場する豊作の女神デメテルとその娘ペルセフォネ(別名コレー)の秘儀(密儀)が行われた地として知られている。秘儀は、農業崇拝を基盤とした宗教的な実践から生まれたものとされるが、儀式の詳細は不明である。
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エレフシナの目抜き通りから150メートルほど南に行った場所に遺跡入口がある。午後3時半に到着したため閉園時間まで30分しか時間がないが、せっかく来たので急ぎ見学することにした。入口を入るとすぐ南に広場があり、その奥に見える小高い丘の北東沿いに遺跡の中心地「聖域(テレステリオン)」が広がっている。古典期(前479~前338頃)にはその丘を含めて城壁が取り囲んでいたという。聖域には、10の異なる建築物があったとされ、ローマ時代には、この入口すぐの広場に聖域への入場門(プロピュライア)が建てられていた。

丘の上から東側の聖域の中心部を見下ろしてみる。中央に秘儀が行われた神殿が建ち、アナクトロンと呼ばれる聖具の保管所があった。その場所には祭司長のみが入ることができたという。
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エレウシスは、紀元2世紀にイラン系遊牧民集団から略奪を受け荒廃するが、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(在位:161~180)が聖域の修復に尽力したことから、唯一皇帝としてアナクトロンへの入場を認められた。その後、ローマ皇帝テオドシウス1世(在位:379~395)によるキリスト教の国教化政策によりエレウシスの秘儀への権威は薄れ閉鎖される。聖域内の柱の基礎の一つに、アナクトロンと表示された小さな遺物が置かれていたのが、何とも寂しい。。


閉園時間が近づいたのか、カバンを持ち既に帰り支度を整えた男性スタッフが近づいて来た。ギリシャの施設営業時間は、スタッフの勤務時間と同じため、客に対して早く帰る様に促してくるのだろう。結果、閉園時間の午後4時にスタッフと一緒に退園した。。

ピレウスから椰子の木が続く海岸線「アポロ・コースト」を南に向かう。途中のグリファダで今夜の宿泊ホテルにチェックインして、レストランの下見に向かった。グリファダは、アテネ南郊のエーゲ海に面した海岸保養地で、高級ホテルや高級ブティックなどが集まっている。1990年初頭までアメリカ空軍基地があった影響もあり、町並みや店構えなど、アメリカナイズされた雰囲気が漂っている。


最初に向かったレストランは、中心部から少し離れたロードサイド店舗で、黒服のスタッフが大勢いるワンランク上の店といった感じ。今夜は雨が降る予報だが屋根のないテラスしかないと言われ、別のレストランに向かう。こちらもロードサイド店舗だが、庶民風でスタッフの対応も良かったので午後10時に来店する旨を伝え次の目的地に向かった。

引き続き、海岸線「アポロ・コースト」を一路南下し、アッティカ半島の最南端にある「スニオン岬」に向かう。グリファダからは約50キロメートル、首都アテネからは約69キロメートルの距離となる。


50分ほど走行すると、右側に、張り出した半島が現れ、その先の丘「スニオン岬」の上に神殿が見えてきた。


案内に従い、右折して進むと駐車場に到着した。時刻は午後8時であった。駐車場から坂道をしばらく上って行くと辺りは西日を受け赤色に染まりつつあり、すでに多くの観光客が集まっている。列柱の並ぶ神殿は、ギリシャ神話の海の神「ポセイドン」に因んで建てられた「ポセイドン神殿」で海抜60メートルほどの高さの丘に聳えている。


「ポセイドン神殿」が建設されたのは、アテナイがペルシャ戦争に勝利した後の紀元前444年から紀元前440年で、政治家ペリクレス(前495?~前429年)が統治するアテナイ全盛時代を迎えていた時期になる。長方形の敷地にドーリア式の円柱が36本が建ち並んでいたが、現在は15本が残っている。一説では、6メートルほどの巨大なポセイドン銅像が奉られていたとされる。ちなみに、アテネのアクロポリスの上に建つパルテノン神殿も同時期に建てられている。


日没の午後8時半が近づいてきたころ、多くの観光客は一斉に動きをやめ、見入っていた。


北側から厚い雲が流れ込み、太陽が隠れる場面もあったが、何とか無事に美しいサンセットを眺めることができた。


サンセットと同時にスタッフがわらわら現れ、ハンドマイクを使い営業時間は終了したので早く帰ってくれと案内し始めた。余韻に浸る間もなく、全員あっという間に追い返された。。予約したレストランに戻ったのは午後9時50分であった。もう一件のレストランのスタッフが言っていた雨は降らなかったようだ。店内で1時間ほど食事して午後11時過ぎにホテルに戻った。

(2019.5.23~24)

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