『筆談ホステス』で有名になり、先月の選挙で東京都北区の議員に当選した斎藤りえさんのブログ(http://saitorie.com/blog/314/)を読んだところ、手話に対する大いなる誤解がありました。斉藤さんに対する個人攻撃をする気はまったくありませんが、今回のような誤解をきっかけにして正しい知識が広まっていくことを望みつつ書き込みます。
ちなみに昨夜、斉藤さんのブログを通じてご本人宛に連絡をいれたところご丁寧な返信をいただきました。おそらく近々に訂正がなされると思います。
何が問題だったのか整理します。
一番大きな問題は、聴覚障害者当事者として当選した区会議員が己の無知ゆえに間違った情報を(結果として)垂れ流してしまったことにあります。議員という公人の立場、しかも聴覚障害者の代弁者としても期待されている立場を考えると、あまりにも軽率なブログへの書き込みと指摘されても仕方ないでしょう。ブログを読んで瞬時に間違いだと気づく人もいますが、多くの方々は当事者の発言であるため鵜呑みにしてしまった恐れがあります。
また現在各地で手話言語条例が制定されつつあります。聴者の議員にも手話に対する正しい理解が求められているなか、聴覚障害者当事者の議員であれば、なおさら正しい理解が求められるでしょう。
ただ手話が出来る出来ないは関係ないと思います。もちろん手話ができるようになったほうが良いのはもちろんでしょうが、それよりも日本語とは異なる手話への概念的な理解がまず必要とされるでしょう。
次に内容をみていきます。
まず手話に関して言及している点です。斉藤さんは地元の手話サークルに行きそこでふれた手話への感想を書いておられます。
(以下、引用)
手話には欠点もあります。
例えば、手話は1つ1つの言葉を文字で表すため時間がかかり、健常者の会話に手話がついていけないことがあります。
そのため、会話の速度を上げるために、「助詞」や「助動詞」を抜いて表すことが多いんです。
「私はコーヒーが好きです」という会話が、
「私 コーヒー 好き」となり、
実は一部のニュアンスが抜け落ちてしまっていることもあります。
(引用、終わり)
ざっくりした言い方をすると日本の手話には日本手話と日本語対応手話と呼ばれているものがあります。
日本語とは異なる文法体系をもった言語である手話は日本手話のことです。その日本手話ではむしろニュアンスは日本語以上に表現できます。むしろそういったニュアンスを表現できることが特色でもあります。顔の各部位などを動員して表現します。表情豊かということとは異なります。どのくらい好きかという点も的確に表現できますし、主語が私であることや、好きなものがコーヒーであることも明確に表現できます。
「手話は助詞を抜いて表現することが多いからニュアンスを表現できない」ということは、「英語に助詞がないからニュアンスをうまく伝えられない」と言っているの同じくらいナンセンスなことです。
ブログに書かれているものは日本語対応手話、しかもたどただしい日本語対応手話でしょう。手話の初心者に向けて、「私」はこういう表現、「コーヒー」はこういう表現、「好き」はこういう表現と教えて、ただ無表情に顔の文法的な要素は無しで手話単語のみを表出した手話ということだと思います。初歩段階ではよくある風景です。(ブログにある特定の手話サークルを批判しているわけではありません。しかし他の多くの手話サークル全般に言えることですが、教え方にも問題はあると思います)。
確かに日本語対応手話は基本的には日本語を手話単語に置き換えていきますから聴者の会話についていけないこともあります。(なかには怒涛のスピードで手話単語を繰り出す通訳者もいます)。しかし日本手話の場合、複雑な日本語を一瞬で表現できることもあります。日本語は一つの口でしかしゃべれませんが、日本手話は右手と左手で自在に空間を使い、同時に顔でも表現できます。同時に表出できるがために手話にしてしまえば簡単ということもあるんです。もちろん日本語の方が簡単に表現できる場合もあります。
しかしある意味斉藤さんは、日本語対応手話の持つ限界を感覚的に感じ取ったのかもしれません。
次に進みます。
(以下引用)
また、新しい単語には対応する手話がないことがよくあります。
今日の手話サークルで分かったことなのですが、「一輪車」を表す手話はないそうです。
一般的な名詞でも無い表現が多いようですので、きっと「政策に関する単語」はほとんどないのでしょうね。。。
(引用終わり)
確かに新しい単語に対応する手話がないことはよくあります。それは日本語でも同様です。海外から入ってきたものがそのままの言葉で使われることもあるし、新たに和製英語が作られることもある。そういったことはみなさんご存知でしょう。(例は古いですが『GOD』に対する日本語はなかったわけで、『神』と訳したことにより様々な誤解も生まれたという話もあります)。
各言語とも言葉は次々に新しく生まれてきます。逆に手話にはあるけれど日本語に対応していないものもあります。日本語に変換しにくい手話で手話学習者が苦労したりします。
またもちろん手話の側でも新しい言葉に対する手話単語が考えられたりします。そのなかでもろう者に定着するものと、ろう者から気に入ってもらえず消え去っていくものもあります。
政策に対する手話単語は次々に考えだされています。前述したように定着するものと定着しないものがあります。定着しない場合は複数の手話を組み合わせて表現したりすることになります。
ちなみに一輪車に相当する手話単語があるかどうかよくわからないのですが、簡単な手話表現で一輪車を表現することはできます。つまり対応する単語があるかどうかはさほど大きな問題ではないわけです。
さらに次に進みます。
私も以前の記事にも書きましたが、聴覚障害者で手話が出来ない方はたくさんいます。斉藤さんもその一人です。
斉藤さんはそのことにも触れられています。
(以下引用)
実は、聴覚障がいを持っている方の中にも、手話が苦手な方は大勢いるんです。
聴覚障がい者はみんな手話ができる…というイメージを持っている方が多いと思いますが、実際は、手話ができる聴覚障がい者は、全体の14%程度。
ほとんどの聴覚障がい者は手話ができません。
素直に申し上げますと、私も手話が苦手です。普段は皆様の口元の動きを見て、お話しを理解しています。
今後は毎週、手話サークルに通わせていただき、皆さんと一緒にお勉強していこうと思います!
さて、話は戻って、「手話ができる聴覚障がい者は14%しかいない」という点。
おそらく、多くの方は、聴覚障がい者はほぼ100%手話ができると思っていたことでしょう。
(引用終わり)
「手話ができる聴覚障がい者は14%しかいない」ということですが、その際の聴覚障がい者とは障害者手帳を所持している者ということになります。中途失聴者や老人性難聴がさらに悪化した方々を含む数字です。このあたりは個別に見ていかないと見誤ってしまうことになります。
聴覚障害者をざっくり分けてみます。
生まれつき、あるいは幼少(言語獲得期以前)より聞こえない聞こえにくい人々と、中途失聴者に分けて考えてみます。
まず生まれつき、あるいは幼少より聞こえない聞こえにくい人々ですが、主として親がろう者のなかで育てるか、聴者のなかで育てるかの選択をします。ろう学校やデフファミリー(家族がろう)で育った人たちは手話を習得します。(聾学校で手話が禁止されてきた歴史にはここではふれません。ろう学校では手話が禁止されていたとしても、ろうコミュニティで手話を身に付けたということになります)。
一方聞こえる人(聴者)のなかで一人育った者たちは手話に触れずに育ちます。斉藤さんもこの例だと思います。その人々のなかでもなんらかのろうコミュニティと出会い、20代、30代から手話を学び始め身に付ける人もいます。この人たちはいったん覚える気になれば猛スピードで手話を吸収していきます。ただその気にならない人が多いのも事実です。
一方中途失聴者と呼ばれる人たちがいます。失聴する年齢は様々ですが、ある程度の年齢以上で失聴したり、老人になって聞こえにくくなった人にとって手話を覚えるのは至難の業です。ことに日本語とは異なる文法体系を有する日本手話はなおさらです。年をとって外国語を覚えるのがむずかしいというのと同じようなことです。もちろん日本語対応手話を学ぶことによりうまく活用している人もいるでしょう。
聴覚障害者の14%という数字を持ち出す際、聴覚障害者に老人になって聞こえなくなったおじいさんおばあさんも含まれていることをイメージできる形で語らないと誤解が生まれると思います。またそこは分けて語られるべきだと思います。
当たり前といえば当たり前ですが、聞こえる人のなかで育ってきて手話に触れることのなかった難聴者は手話に関して無知な人も多いです。斉藤さんもこの例に相当します。
(もちろん聴者のなかで育っても何らかの形で手話を覚えた人もいます)
斉藤さんご自身も語られているように
「聴覚障がいひとつとっても、対応方法は1つではありません。」
ということです。
聴覚障害者で手話が出来ない人も多数いるし、したがって手話に関して無知な方も多いということです。責められるべき筋合いのことではありませんが、手話を覚えてほしいと個人的には思います。
斉藤さんには、手話の概念や全体像、手話を取り巻くものなどに関して是非勉強していただきたいと願っています。
ただ確かに聴覚障害者を手話という文脈だけで語ると抜け落ちるものが多々あるので、その点は斎藤さんが言うように注意すべき点でしょう。
慌てて書いたのでまとまりを欠いた文章となっているかもしれません。