サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

ドラマ『コウノドリ』の“典型的”な聴覚障害者

2017年10月15日 | 手話・聴覚障害

昨日、たまたま新番組のドラマ『コウノドリ』を観た。綾野剛演じる産婦人科医を主役にしたドラマらしいのだが、ろう者夫婦がドラマに出てきたので気になって最後まで観てしまった。
以下、ろう者夫婦に関する部分に関してのみ雑感を書き記す。

ろう者の妊婦(志田未来)が夫と連れだって産婦人科を訪れてくる。手話通訳は同行していない。
初診の冒頭で病院のメディカルソーシャルワーカー(江口のりこ)から「手話通訳が必要であれば、次回から役所に申請すれば同行可能だろう」というような説明がなされる。
それを受けて、ろう者の妊婦は「大切なことなので、出来る限り 自分で先生とお話ししたいです」と書いたミニホワイトボードを産婦人科医に指し示す。

その瞬間「大切なことだからこそ手話通訳が必要なんじゃないのかー」と思わず、テレビに向かって突っ込みを入れてしまった。
とてもプライベートなことなので第3者を入れたくないということなのだろうが、手話通訳者には当然のことながら守秘義務があるわけで…。
診察によっては手話通訳者に遠慮してほしいという局面もあるだろうが、そこは話しあえば良いだろう。
また夫婦ともに口話も苦手という設定のようだったが、それなら尚のこと手話通訳を使ったことはあるだろう。だからこそ逆に地域の手話通訳者に対する不信感があるのか??

まあドラマ的に手話通訳が邪魔なんだろうなとその場では解釈、その後の展開を見続ける。
手話通訳者が登場すると産婦人科医の横あたりにずっといることになるわけで。
邪魔だと思われる理由で手話通訳が登場しないドラマ、映画も少なくはない。

ちなみに補聴器はつけていない設定のようだったので、補聴器をつけてもあまり意味がない重度の聴覚障害だと思われる。
右耳が見えるような髪型にしてあり、補聴器はつけていなかった。

筆談しましょうということでドラマは進んでいくが、産婦人科医はなかなか筆談してくれない。ろうの妊婦は自分の言葉をホワイトボードに書くのだが、産婦人科医が書くのは時々だ。大半は産婦人科医が口を大きく開けてゆっくり話し、ろう者妊婦に読み取りを強いる。もちろん一般論としては間違っていないだろうが、彼女は書記日本語は得意な設定のようだし、とっとと書いてくれたほうが会話は速いし正確に伝わるはずだ。
(書記日本語とは要するに書き言葉としての日本語という意味)
どうしても綾野剛にしゃべらせて、音声言語にしたいようだ。時々ホワイトボードに書いても、書いた内容を音声でリピートする。
読めばわかるのだが…。
ドラマでは音声言語を使わない筆談でのやり取りはやってはいけないことにでもなっているのだろうか?
そこに音声言語が介在しなくともいくらでも豊饒な演出はできるはずだ。

逆に破水する場面では声が漏れるはずだ。音声日本語が出来なくともある種の声は出るのだから。
聴者(=聞こえる人)が、ろう者を演じるにあたってかなり難しいのが声の演技だ。だからドラマ等では回避する傾向が強い。

また出産の場面でも、とても情報が伝わったとは思えない箇所もあった。

何とか無事に出産、生まれてきた赤ん坊は聞こえる子だった。退院後、夫婦が赤ん坊を抱いて道路を歩いていると背後から車が近づいてくる。停車しクラクションを鳴らしても夫婦は全く気付かない。聞こえる赤ん坊がクラクションで泣いて知らせてくれたということのようだったが、ならば車がライトを点滅するのはないほうがいいだろう。立ち止まれば視界にも入ってくるだろうし、そこまで気づかず広い道の真ん中を赤ん坊を歩いて歩くのは少々無謀過ぎる。

一般論としてドラマにおけるもっとも好都合な聴覚障害者は、まったく(あるいはほとんど)聞こえない、口話はできない、書記日本語は問題なく出来るという人物像だ。要するに聞こえる人がもっともイメージしやすい、聞こえない聞こえにくい人の人物像である。このドラマの妊婦もそのようだ。
しかしこういう人物は現実にはそれほど多くはないと思う。聞こえないで口話も出来ない場合は書記日本語も苦手なことが多いだろうし、書記日本語が出来る場合は口話も出来る場合が多いだろう。一言で言えば、いろんな人がいるということだ。だがドラマには同じようなろう者像が登場する傾向にある。

ドラマ内で妊婦が言葉を発する場面があるが、正直その声を聞いた時は口話ができる設定なのかと思った。かなり口話ができる人の抑揚に聞こえたからだ。

否定的なことばかり書き連ねたが、聞こえない夫婦が子供を産み育てる不安などの心情なども描かれた。
また出産後、元気な姿を目で見て確認するまでは不安な気持ちも表現された。
しかしどうしても、ろう者や取り巻く環境を描くうえでの“雑さ”のほうが目に付いた。
言うのは簡単、作るのは大変だが。

いろいろと気になったので原作の漫画(『コウノドリ』18巻・講談社刊)を急遽購入し読んでみた。
夫婦は双方がろう者ではなく、夫は聴者という設定だった。

ディティールもドラマとは異なり、かなり丁寧に描き込んであった。
筆談も双方向の筆談として進んでいくし、手話通訳を頼まないというエピソードもきちんと書き込んである。

初診の時は夫が通訳を担うが、次回以降は同行出来ない。夫は次回以降手話通訳がいたほうが良いと発言するが、妊婦は女性が必ず来るのかどうかを気にする。
「どうしても都合がつかない場合は男性のかたになることもあると思います」というメディカルソーシャルワーカーの言葉を受け、妊婦は手話通訳を依頼するのではなく筆談したいという考えにいたる。いざという時は夫に来てもらうということもあっただろう。

現実的には手話通訳者の男女比率を考えると妊婦の手話通訳に男性が来るということは考えにくいだろうが、フィクションとしては充分な説明になっていると思う。

また彼女は補聴器を装用すれば大きな声なら聞こえる。だが「音が鳴ってる」ということだけで会話としては聞き取れないということも説明される。そのことが赤ん坊の産声を何とか聞かせてあげようという、産婦人科医や病院側の動きにもつながってくる。

漫画とドラマを比べると、かなりの点で改悪だと思う。なんでこうなってるのと思った点はほぼ原作から変えられた箇所だった。

もう1つドラマと漫画の大きな違いは、ドラマでは生れた子は聞こえるが、漫画ではそこまで描かれていないという点。
漫画は描いていないことで逆に深みを増している。

以前、ろう者の夫婦に「生れてくる赤ちゃんは、聞こえる子がいい?ろう者がいい?」というような質問をしたことがあるが、その時の答えは「聞こえても聞こえなくてもどちらでもいい。元気な子がうまれてくれればいい」というものだった。
また様々なな考えがあるとは思うが、育てる不安という意味では、聞こえる子を育てるほうがより不安に感じる人は多いかと思う。
もし設定を、ろう者夫婦にするのなら、そういった複雑な感情にまで踏み込むことができれば良いドラマになったのではないかと思う。
他の回は知らないが、第1話ではろう者の妊婦と別の設定の妊婦のドラマが同時進行で進んでいく。それでは、ろう者の妊婦を描くには時間が足りないだろう。『聴覚障がい』単独の回を設けるか2週に分けるといった工夫をすれば、表現できたのではないか。
実際、漫画でも『聴覚障がい』は他の回よりも、より多くのページ数を割いている。


ドラマでは当然手話指導が入っているが、その点に関しての批判は一切ない。
ソーシャルメディアワーカー(江口のりこ)は簡単な手話しかできないという設定だったが、(どこまで狙いなのかはわからなかったが)まさしく不完全な手話のようだった。



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