日本百名山の思い出をたどろうとした試みも、とうとう90座目の「大台ヶ原山」まできてしまったが、近畿地方の二座「大台ヶ原山」と「大峰山」、四国の「剣山」と「石鎚山」は、オイラの和歌山勤務時代の2年間に登っている。昭和から平成へと変わる1988年ころか。
思い出してみれば、この2年間に登った山は数えるほどしかなく、上記の百名山に加えて和歌山県の最高峰「護摩壇山」ぐらいで、あとはトレッキングというにふさわしい「熊野古道・中辺路」くらいだ。
この頃は、登山の熱が冷めたというより、近所の山は植林された杉林ばっかりで、登山の意欲をそがれたこともあるかもしれないが、田辺という美しい海岸の街に住んでいたので、山よりも海へのの情熱が勝ってしまい、休日とくれば釣りに没頭していた。
年のせいかもしれないが、今から考えるともったいないことをした。紀州山地には、奥駆道の大峰山脈や高野山から熊野、熊野から那智・新宮までの長大な古道が残っているのだし、大台ヶ原からの大杉谷も歩かずじまいだった。
地図の入っている引き出しを開けたら、三冊の昭文社発行・山と高原地図が捨てられずに残されていた。1986年版「大台ヶ原・大杉谷(台高山脈)」、1987年版「山上ヶ岳・弥山(大峰山脈)」、1988年版「玉置山・瀞八丁(大峰山脈)」であり、古いためシミなどはあるが、地図はほとんど使われた形跡がないように折りたたまれている。何しろ、その地図を広げて山を歩いたのは、一度か二度ぐらいだから当たり前だが、大峰山脈南部の「玉置山・瀞八丁(大峰山脈)」などは、広げてみたらこの地図のどこも歩いた記憶はないので、買ってまったく使われないまま放置されていたことになる。
今後、この地図のエリアに行く機会があっても、これらの地図は古い情報なので持ち歩かないが、捨てるに忍びない。「断捨離、最終章までとっとこう」と思いながら、それぞれの地図を広げたら「大峰奥駈行場案内」など今の地図にはない貴重な図絵なども書かれており、なかなか面白い。それと、この地図の調査執筆者は、仲西政一郎とあり、「あれどこかで出てきた人だな」と思ったら、なんと先ほど読んでいた深田さんの「わが愛する山々」所収の「大台ヶ原」で、深田さんの初大台ヶ原山行のガイド役を務めた関西山岳界の大御所的存在の方だったのではないか。
この地図の付録としてついている小さなガイドの冊子、この頃の冊子は白黒写真で字も小さいためほどんど読むこともなかったが、深田さんつながりの大御所の執筆となれば、ありがたく読ませてもらい紀州の山を学習させていただこう。
一昨年、大峰山脈の奥駈道撤退のリベンジと高野山から熊野までの小辺路トレッキングという宿題はまだ残っている。30年以上も前の「山と高原地図」だが、貴重な資料となってほしい。
深田日本百名山登頂の思い出 90 大台ヶ原山(おおだいがはらやま・1695米)
和歌山県田辺市在住の1988年か9年に、紀伊半島の複雑な道路網を数時間、当時の愛車スバルジャスティ1000cを走らせて、やっとたどり着いた大台ヶ原のふもとから、最高峰日出ヶ岳と牛石ヶ原や大蛇嵓などを日帰りで周遊している。山頂からの展望として大峰などの山並みより、東方向に目をやった時に光り輝いていた太平洋の大海原と尾鷲の入り組んだ海岸線がいつまでも脳裏に浮かんでいる。笹原の遊歩道でシカさんたちにも出会ったと記憶している。評判通りの美しく気持ちのいい山上だった思い出がある。
深田さんの紀行や年譜を読むと、深田さんが仲西政一郎さんの案内で大台ヶ原に初めて登ったのは、昭和35年(1960年)57歳の2月29日からの3日間だったが、その年の11月に大杉谷から三之公谷を歩いているし、翌年の7月子供たちと大台ヶ原から大杉谷を下りている。
だが日本百名山の「大台ヶ原」のおしまいの数行の記載が気になっている。
(1960年3月の初登頂から)「それから数年後、再び大台ヶ原山を訪れた時には、山上まで有料自動車道路が通じていた。往きはそれを利用したが、帰りは大杉谷に下った。・・」と記している。
翌年には大杉谷を下っているのに、何年も経ったから歩いたという記載がどうも気にかかっている。あまりにもあちこちの山を歩いている方なので記憶違いだったのはなかろうか。
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