このところ、ずうっと賢治のフォローが続いているし、2019年1月の石垣島での星たちを回想することも続いている。そのことが、賢治というシンフォニーの終楽章ともいえる「銀河鉄道の夜」につながり、青風さんの「睡眠用」とされる、心地よい朗読のお声を聴きながら、夢見心地で、その銀河のお祭りという一夜だけの物語を反芻している。
今日は、賢治の「経埋ムベキ山」32座をつなぐと美しい星座になるとの「星座説」を説いた故畑山博さんの「美しき死の日のために 宮沢賢治の死生観」(Gakken)を借りてきて読んでいるが、流し読みの段階だが、本作品第六章「銀河鉄道の夜」の項で、以下の記述があり、なるほどなと思った。
死後の世界を考えるとき、人びとはまず宗教と思ってしまいます。でもその他に、哲学、科学という方法があります。その他に、もう一つ「物語」という方法があることを、うっかり人は忘れがちです。「宗教は信じないけれど、死んだら天の星になる。お母さんも死んで星になったのだから、私も並んで星になる。」物語というのは、たとえばそんなふうに思って、ずっと信じていくことです。
(中略)
賢治の『銀河鉄道の夜』はそうした物語の中の大きなものだと思えばいいのです。
畑山さんは、賢治は、晩年(妹トシの死以降)には、宗教よりも物語により死生観を構築したと力説し、終生のバックボーンといわれる宗教=日蓮宗(法華経)は、賢治を完全には救済はしなかったと、ここでは考えている。畑山さんのお考え、今後あれこれ彼の著作を読んで、解明していこう。
ただ、オイラにとっても、この歳になって、解読さえも困難な経典や宗教書、そして100人いれば100とおりの難解な哲学書に安住の場所を見出そうとは思わないし、科学の進歩を思うと、不安こそ募れ、決して安息の地を得られそうもない。だとすると、オイラも、物語派かな、物語によって「死後の世界」というより「晩年のこころを落ち着かせる術」を見出していくしかなさそうだ。オイラも、このところ、生き物は月や星から生まれ、月や星に帰っていくという物語に取り込まれている節があり、それで、賢治に惹きつけられているのかもしれない。もしかしたら、畑山さんの、いい読者にもなるのかもしれない。
2019年1月15日の、石垣島の南の空の夜明け前の1枚の写真を見る。
① サザンクロスに落ちていく流星
② 水平線を行く赤や青の船の灯り
③ さそり座の赤いアンタレス
④ サソリに寄り添うビーナスとジュピター
⑤ 数知れぬ大小、明暗の恒星たち
⑥ 海岸の潮だまりに映る星影
⑦ 流れ行く雲と環礁の静かな波音
これだけの素材でも、銀河鉄道とは異なる物語がぎっしりと詰まっていそうだ。
大好きなラヴェルの「マ・メール・ロア」(マザーグースを題材にしたバレー音楽)で真央ちゃんが滑っていた。星空の物語の素材ともなろう。