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日本神話は八世紀の創作ですよ!(;´Д`)

2024-10-23 00:00:06 | 古代史

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#何度も同じような内容で恐縮ですが、多くの日本人は八世紀に創作された日本神話が太古の昔からの日本人の伝承だと強く洗脳されていますので、古代史を扱うYouTube動画でもそこから話が始まるので藤原不比等の罠にまんまと嵌っていますよ。見つけ次第指摘させていただいていますが、不快なので無視や削除されるかもしれません。でも、ここを突破しないことには古代史の真相に迫れませんので、敢えてお邪魔虫しています。そのうちに出禁になるかも知れませんね(;^ω^)

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金印によって判明した古代日本の真実の姿…ほとんどの日本人が知らない隠蔽された本当の日本史と古代中国との本当の関係とは【ぞくぞく】【ミステリー】【都市伝説】【総集編】
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皆さんは日本神話を太古からの日本民族の伝承だと学校でも習っているので騙されています。その原因は、天武天皇が日本書紀の編纂を命じたので天皇の歴史書だと洗脳されているからだと思います。

完成は崩御後34年も経った720年なのです。時の権力者は藤原不比等でした。藤原氏にとって都合の悪い三世紀までの日本建国の史実を高天原神話を創って神代の話として誤魔化し、人代もかなり歴史を改ざんしていることが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、実は突然九世紀の学者多人長が表に出してきたものなのです。日本書紀は対外的な歴史書で、古事記は国内向けだということですが、古事記の記録は正史にありませんし、日本書紀が古事記を参照した痕跡すらないのです。

事実を見ていくと、日本書紀が隠した史実をそれとなく日本書紀と異なる記述によって暴露する暗号書だと分かりました。建国までの史実が分かると古事記の暗号を解いて、空白の4世紀で隠された二人の天皇も発見できましたし、倭の五王の系譜も判明しています(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。さらに富雄丸山古墳の被葬者が日本書紀が隠した卑弥呼を祖とする天皇だったことも判明しました(詳細は「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」参照)。

卑弥呼が記紀に登場していないと皆さんはお思いですが、卑弥呼の正体は宇佐神宮の比売大神、宗像女神市杵島姫だと分かりました。藤原不比等が一番隠したかった史実は、天武天皇崩御後に即位した高市皇子を暗殺して鵜野讃良(持統天皇とされるが架空の女帝と推理)の孫の文武天皇を即位させて、娘の宮子を妃とさせて外戚として権力を得たことだと推理しています。高市皇子が身分の低い宗形腹なので即位できないとした嘘がムナカタ族の和邇氏の祖である卑弥呼を隠す理由でした(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。

卑弥呼の墓は宇佐市安心院町「三柱山古墳」で発見しました。魏志倭人伝にある径百余歩の冢(直径約150mのただ土を盛り上げただけの円形墳墓)です。周辺には卑弥呼に関する伝承や地名や遺物などがあります(詳細は「邪馬台国は今、ブドウ園?」などを参照)。

記紀が天皇の歴史書だと騙されているので、日本の最初の王墓が福岡市吉武高木遺跡で、宋史王年代紀の初代奴国王天御中主、二代目天村雲尊、三代目天八重雲尊とその妃や王族らの墓だということに気付きません。4代目天爾聞尊(ににぎのみこと)が祖父の天村雲尊から三種の神器を与えられて福岡平野などを平定して奴国隆盛の基礎を作った史実から不比等が天孫降臨神話を創作したのです。高天原は奴国が支配した北部九州の倭国のことだったのです(詳細は「【刮目天の古代史】高天原の謎?」参照)。

古事記は祭祀関係の氏族によって細々と伝えられていたのですが、江戸時代の国学者本居宣長が発掘し、絶賛しました。その影響を受けた神道家平田 篤胤が記紀神話に基づく復古神道を提唱しました。これが幕末の志士らに人気となり、明治新政府は神仏分離令を出し、廃仏毀釈運動が起こりました。それまでは日本書紀の神話が神仏習合、修験道などの影響を受けた龍蛇神(ナーガ)信仰に基づく中世日本紀に変貌していましたので(詳細は、斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代選書2006年)参照)、神々を祀っていた寺院が打ち壊されて僧侶は無理やり還俗させられました。余りやり過ぎたので政府は寺院を復活させましたが、記紀神話に基づく国家神道を創設し、学校で国史を教えたので、戦後の日本人も何となく記紀神話が日本民族のアイデンティティと思うようになっています。記紀が天皇の歴史書だという洗脳が解けると古代史の謎がどんどん解けてきますよ。ご興味があれば「刮目天の古代史」をご参照ください。長々とお邪魔しました(;^ω^)



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鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
倭国大乱が起こった二世紀末と日本建国の戦いのあった三世紀末の戦争の痕跡を発見したので、日本書紀の内容が史実を誤魔化したと判明した(#^.^#)

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何故、大和をヤマトと呼ぶのか?

2024-10-22 00:03:06 | 古代史

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#2021-12-15 00:31:06に記事にしましたが、図のリンクが切れていたので修理して、最新の知見を入れて改訂し、再掲します。よろしければ、またお付き合いください(;^ω^)

#2018-02-18 12:44:44に記事にしましたが、若干追加して再度掲載します。お付き合いください。

安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版)によれば、現代日本語と今から千二百年以上前の日本語の大きな違いは、現代の5つの母音(a,i,u,e,o)に加えて、ï、ë、öの合計8個の母音を区別して用いていたということだ(p.38)。

山門(ヤマト、yamato)と邪馬臺(ヤマトゥ、yamatö)はそのために最後の部分の発音が明確に違うようだ(前者が甲類のト、後者が乙類のトゥ)。ちなみに「ヤマタイコク」というのは新井白石が最初にそう読んだの
だが(同書p.165)、ヤマトゥが正しい発音だ。

海への入り口は水門・湊(ミナト)であって、山地への入り口が山門(ヤマト)という、どちらも甲類のト(to)。どちらも地形を表す普通名詞なので、日本各地にそういう地形に基づく地名があっても何ら不思議なことではない。実際、邪馬台国九州説の筑後山門や肥後国山門郡、針間の国の山門(播磨国風土記)などが見られる。

しかし、「邪馬台」は「山門」と確実に区別して発音されていたわけだから、地名が「山門」だから「邪馬台国」だということにはならないのだ。

万葉かなで書かれた「大和(夜摩苔や夜麻登などと書かれている)」と「邪馬台」との音が一致するのは、「見方によってはふしぎなことではないだろうか」と安本氏も指摘している(同書p.165)。

つまり、大和は明確に山門とは異なり、固有名詞「邪馬台(ヤマトゥ)」を意味するのだ。そう考えると大和をヤマトと呼んだ経緯がヤマト王権の成立と関係すると容易に思いつく(「大和」は厳密には「ヤマトゥ」と発音するが、通常「ヤマト」と書かれているので、ここでもそれに倣っている)。

二世紀前半に吉備を平定して奴国を再興したニギハヤヒ大王の嫡孫の狗奴国の卑弥弓呼(ヒコミコ)大王が、三世紀初頭に吉備から纏向遺跡に王都を遷した(日本書紀の開化天皇)。倭国の女王台与(日本書紀の神功皇后のモデル)と大国主命久々遅彦(日本書紀の武内宿禰のモデル、スサノヲの子孫で、山陰・北陸などの縄文系ムナカタ海人族を率いる出雲・丹波王、狗奴国の官 狗古智卑狗)の倭国を卑弥弓呼大王(崇神天皇)が滅ぼし、二人の間の子供「ホムダワケ(応神天皇)」を纏向に呼び寄せ、ヤマトの大王(祭祀王)とした狗奴国(ヤマト政権)側の事情があったということだ。

つまり、265年に魏の帝位が禅譲されて成立した西晋によって280年に呉が滅ぼされたのだが、狗奴国は呉という大きな後ろ盾を失ったと推理している(注1)。したがって次は西晋に滅ぼされることを狗奴国王卑弥弓呼は怖れた。臣民もみな動揺したので、倭国女王として西晋に朝貢した台与の後継者として応神天皇を即位させたと推理した。

日本書紀では、三輪山の大物主大神(大国主命)が祟って、疫病で民が半分ほど死んでしまい、大神の子のオオタタネコを呼び寄せて祀らせろとの大神の神託に崇神天皇が従ったので国は平静に戻ったという話になっている。日本書紀の神武東征や応神即位のための神功皇后の東征は、日本建国の史実を誤魔化すための藤原不比等の創作だった。オオタタネコの話の方が上の推理した史実に近いことは考古学の成果から分かる。つまり、三世紀の纏向遺跡から九州の土器がほとんど出土しないことから、九州の大軍勢が纏向に押し寄せて攻め滅ぼしたという事実はないことが分かるのだ。

ということで、纏向遺跡を王都とする狗奴国が、上述のとおり西晋より討伐されることを避けるために、大国主と台与の子の応神天皇(ホムダワケ)が継承した国として西晋に理解させて、狗奴国の纏向遺跡を「邪馬台(ヤマト)」と発音するようにしたと推理している。

ヤマト王権の成立過程と主要な人物の系譜については以下の図のとおり推理している。



二世紀末から三世紀末にかけて
三回の大乱を経験した倭国は、五世紀後半の雄略天皇が登場するまで、皇位継承争いで天皇暗殺事件が頻発するが、大きな内乱は起こらず、ヤマト政権は武力を背景にしてはいるが、建前として「言向(ことむ)け和(やわ)する」ことで大きな和の国が生まれたという意味で大和国としたのだ。ただし、「大倭」がこのように「大和」と書かれるのは、随分と後のようだ。『日本の歴史において、「やまと」の表記が「大和」に統一されたのは757(天平宝字元)年頃と考えられており、同年発布された「養老律令」が「大和」表記の普及に大きな影響を果たしたと考えられています。』とある(『「大和」という言葉の使用は七世紀からで、それまでは存在しなかった? 〜ヤマト政権のアイデンティティ』 Japaaanマガジン 歴史・文化 湯本泰隆@2021/12/12 より引用)。


国号を倭国から日本国と変更したときには、「旧唐書」に見られるようにシナ人は日本国が金印を賜った倭の奴国とは全く別の国ではないかと疑ったようだ。しかし、日本は古の倭の奴国で、都を筑紫の日向宮から大和(邪馬台)に王宮を遷した歴代の奴国王と天皇の名前が記載された王年代紀を、十世紀に東大寺の僧が入宋して献上することによって納得してもらったということで、シナの正史「新唐書」から倭国のことを「日本」と明記されるようになったのだ(「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`))。

応神天皇の崩御後にスサノヲ・大国主系の豪族とニギハヤヒ系豪族の権力争いを背景とする皇位継承問題が起こり混乱するが、その中で半島の情勢も、広開土王碑に見られるように一層厳しくなった。新羅や百済の領土を頻繁に侵略する高句麗の南下を抑える必要性が生じた。そのために、倭の五王は劉宋に朝貢して冊封体制に入って官爵を求めた。

倭の五王の最後の武王雄略天皇が即位すると、より強いヤマト王権による中央集権化を目指して、皇位継承権のあるライバルの皇子たちも抹殺し、彼らの後ろ盾だった実力者葛城氏を討ち、葛城氏と近い関係だった吉備国まで討った(日本書紀では吉備氏の乱としている)。ニギハヤヒ大王の嫡孫(日本書紀の崇神天皇)の子孫だった吉備王は、物部氏が領地とする筑紫や半島南部の鉄生産地である任那・伽羅を支配していたようだ。また、雄略天皇はニギハヤヒ大王系の播磨国や伊勢国も討伐し国内で強権を振るって半島に出兵し、成果を上げた。

雄略天皇が崩御すると、日本書紀では清寧天皇が即位し、その後は履中天皇の孫の弘計・億計兄弟が即位したとあるが(弟が先に即位)、実際は兄の子がヤマトの豪族らの協議で武烈天皇に即位したと推理しているので、その間は空位だったと考えている(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

ニギハヤヒ系の豪族に支援された武烈天皇は半島に出兵して新羅を抑え、弱体化した百済の東城王を暗殺した伯済国の倭人嶋君(武寧王)を百済王に立てたと推理している(詳細は「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。

武烈天皇が後継者を決めずに崩御したので、日本書紀ではヤマトの豪族らが合意で、応神天皇五世孫の継体天皇を即位させたとあるが、継体天皇は史実を誤魔化すために創作した天皇と推理している(詳細「「継体持統」によって架空の天皇を示唆したのか?(@_@)」参照)。その史実というのは、ニギハヤヒ大王嫡孫の吉備王が雄略天皇に討たれて筑紫に逃亡した王子が物部氏に匿われていたが、ヤマトの大王の後継者が不在となったので筑紫の物部氏を後ろ盾にしてヤマトに乗り込んで大王(欽明天皇)となったと推理している。日本書紀では母が尾張氏であった安閑天皇・宣化天皇が即位したとなっているが、架空の天皇と考えている。欽明天皇の皇后石姫皇女(いしひめのひめみこ)は宣化天皇の皇女としているが、欽明天皇は百済との結びつきが強いので石姫は武寧王の血筋ではないかと考えている。

欽明天皇と皇后石姫との間に生まれた敏達天皇が600年に遣隋使を送って文帝にヤマトの大王の政治理念が「俀王以天為兄以日為弟天は倭王の兄、日は倭王の弟)」と述べたことからヤマトの大王の系譜が判明した。兄はスサノヲで、弟はニギハヤヒなのだから、スサノヲの弟ニギハヤヒの嫡孫のアメノタリシヒコがヤマトの大王となっていることを示しているのだ(詳細は「【分かった】アメノタリシヒコの正体!」参照)。

敏達天皇の後の用明天皇の時代に蘇我氏と物部氏の間で崇仏戦争があったと日本書紀は述べている。崇仏派の蘇我馬子が廃仏派の物部守屋を討ったとされているが(日本書紀の丁未の乱)、史実は604年頃蘇我馬子とされた応神天皇系の用明天皇がニギハヤヒ系の敏達天皇を討ってヤマトの大王位を取り戻した史実を隠したと推理している。用明天皇は同じ倭王アメノタリシヒコとして607年に隋の煬帝に有名な手紙「日出處天子致書日没處天子無恙云云日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや、云々。)」を送っており、天子はスサノヲの子孫を意味することから推理した。

用明天皇の後に即位した豊浦天皇(万葉集研究家渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」(大空出版)参照)が日本書紀で蘇我蝦夷とされた人物であり、宝皇女(敏達天皇の皇太子押坂彦人大兄皇子の孫)との間に大海人皇子(天武天皇)が生まれたと推理している。押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女(別名:田村皇女・嶋皇祖母命、古事記は「宝王(たからのひめみこ)」と正体を暴露)との間に生まれた三人の王のひとり中津王(中大兄)が豊浦天皇を討った天智天皇だと突き止めた。日本書紀の蘇我入鹿を討った乙巳の変も作り話だった。(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照、ややこしい話なので、以下の系図参照)。天智天皇はヤマトで即位したヤマトの大王ではなく九州物部氏を後ろ盾にして、百済復興のために白村江に大軍を送ったが唐・新羅連合軍に敗れた。

ヤマトの豪族が合議して即位させたとする継体天皇は本来真っ先にヤマトで即位するはずなのだが、天智天皇と同様にヤマトで即位していないのだ。継体天皇は欽明天皇のヤマトの大王乗っ取り事件の史実を隠すために登場させた架空の天皇なのだが、天智天皇の不自然なヤマトの大王の即位を誤魔化すためにも前例として創作されたと分かる。日本書紀は不自然な話を、そういう前例を創作して誤魔化す癖がある。応神天皇崩御後の皇位継承争いの史実を隠すために、神武天皇を創作して同様な話で誤魔化している(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」」参照)。持統天皇の前に皇后が即位した二人の女帝(推古天皇と皇極・斉明天皇)の前例も創作している。だからその後のすべての女帝も創作だと容易に分かる(^_-)-☆

天智天皇崩御後に、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で大友皇子を討ちヤマトの大王となり、中央集権を実現したが、崩御後に皇后とされた鵜野讃良(天智天皇皇女)と藤原不比等が組んで、即位していた高市皇子(宗形天皇)を暗殺し、鵜野の孫軽王(軽皇子、文武天皇、草壁皇子の子)を十五歳で即位させ、妃に不比等の娘宮子をつけ、外戚として実権を振るった。藤原氏に都合の好い大宝律令を制定し、日本書紀で建国の史実を神話に閉じ込め、歴史を改ざんしたと判明した(詳細は「日本の古代史が謎な理由?」参照)。

 

いずれの天皇の系譜も第十七代伊弉諾尊が皇祖神として繋がるのだが、天智天皇の孫の光仁天皇から今上天皇まではニギハヤヒ大王の子孫の天皇となっていると推理している。天皇の称号の由来は初代奴国王天御中主の祖神である中国(なかつくに)神話の始祖神天皇伏羲に由来するので、天御中主の嫡孫である大王(おおきみ)の称号なのだ(詳細は「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!」参照)。初代神武天皇というのは初代ヤマトの祭祀王応神天皇の史実を誤魔化すために日本書紀で創作された、応神天皇の虚像だった。日本における初代天皇は天皇伏羲の末裔の初代奴(ナーガ、龍蛇神)国王の天御中主ということになる。

従来の日本古代史に氾濫する何とか王朝説は存在せず、天皇の位は天御中主の子孫の男系男子が継いで尊(みこと)と号してきたのだ(詳細は「本来、中国(なかつくに)は日本の古称だぞ!」参照)-☆

(注1)呉の紀年銘鏡が2面日本で出土している。山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡と、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡である。日本で出土したものではないが、呉の紀年鏡が日本で保有されている。黄武元年銘神獣鏡(五島美術館蔵)と黄武二年銘の神獣鏡(個人蔵)である。20-9.日本で出土する呉の鏡 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密])

「三角縁神獣鏡のうち、銘文中に魏の年号が記された鏡が4面ある。島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡、群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳、兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳、山口県周南市竹島御家老屋敷古墳の3古墳から出土した同型の「正始元年」鏡3面である。これらの鏡4面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式である。」とあるが(wiki「三角縁神獣鏡」より)、これらは280年に呉が滅んだ後に呉の工人が同盟国の倭国に逃亡し、ヤマト政権が邪馬台(ヤマト)国の後継国であることを示すために、卑弥呼が魏の朝廷から与えられた鏡であると主張する目的で作らせたフェイク鏡だと推理している。当時の三角縁神獣鏡はシナ大陸では出土していないので、日本で作られたものと考えている。

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鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
倭国大乱が起こった二世紀末と日本建国の戦いのあった三世紀末の戦争の痕跡を発見したので、日本書紀の内容が史実を誤魔化したと判明した(#^.^#)

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【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)

2024-10-17 23:17:50 | 古代史

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#2018-01-25 20:58:11に記事にしましたが、最新の知見を入れて改訂しました。よろしければまた、お付き合いください(;^ω^)。


纒向遺跡(まきむくいせき、纏向遺跡)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。

3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地と推定される。邪馬台国の中心地に比定する説があり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。


丁度、邪馬台国の卑弥呼が女王に共立された時期に作られた遺跡で、図のとおり大型建物群・住居群、古墳群と矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な2本の巨大水路(纏向大溝)などで構成されている。建物の多くは「堀立柱建物」だから、「階層のランクが高い人たちが集住していたことを示すのかなと思います。地べたに寝ていない、と私はよく言うのですが(笑)、床の上で寝るようなランクの人たちがいたということですね。今でいう知事クラスなのか外務大臣クラスなのか外交官クラスなのかわかりませんが、少なくとも各地域の首長の命を伝えるような人たちがやって来ていたのでしょう。」と橋本氏が述べている(「松木武彦×橋本輝彦特別対談 ここまでわかった!纏向遺跡」『歴史REAL 邪馬台国』洋泉社MOOK、2017.11.19 p.19)。
(『歴史REAL 邪馬台国』洋泉社MOOK、2017.11.19 p.4より)

そして、建物に関する上の内容と関連する外部から持ち込まれた土器は、Wikによれば、全体の15~30%と他の遺跡と比較して極めて多く(上掲書、p.17 脚注)、内訳は下の表のとおりだ。注目は、邪馬台国時代に大陸との交流の入り口である北九州地域の土器が纏向遺跡でほとんど発掘されていないということだ(注1)。
                              

搬入土器の出身地割合(wiki「纏向遺跡」より)
伊勢・東海系  : 49%
北陸・山陰系  : 17%
河内系     :10%
吉備系     :7%
近江系     :5%
関東系     :5%
播磨系     :3%
西部瀬戸内海系 :3%
紀伊系     :1%


この事実は邪馬台国畿内説を完全に否定する非常に重要な証拠だ!

もしも邪馬台国が大和の纏向にあったならば、魏志倭人伝では、自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史女王国より以北は、特に一大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。)」そして、「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯(倭の王が使いを遣わして、魏の都や帯方郡、また、各韓国に行かせるときや、また、帯方郡の使いが倭国に行くときはみな、港で荷物をあらため、文書・贈り物などにあやまりががないかを確かめて、女王に差し出す。不足や食い違いは許されない。」(藤堂明穂ら「倭国伝」講談社学術文庫、p.110より)とあり、女王への文書・贈り物を届ける使者に随行して伊都国から纏向へ届けたり、使者を伊都国まで送り返すために、大率やその部下らが行き来しなければならないということだ。

その痕跡が纏向遺跡にはないのだ!

つまり、大陸との玄関口の北九州の国々(伊都国、奴国、不弥国、末蘆国)と纏向遺跡の集団とは交流していないということだから、邪馬台国は大和には存在しないということになる。そして、纏向遺跡で行われた前方後円墳での祭祀に、倭国を除く人々が参加しているにもかかわらず、倭国の人々は参加していないことから、倭国と纏向遺跡の勢力とは敵対関係にあったと考えられる。

ということはむしろ、当時の日本列島の中でも特に突出した巨大な政治都市である纏向こそ、魏志倭人伝に「その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。」と書かれた邪馬台国に敵対する狗奴国の可能性が最も高い。狗奴国が女王国の南にあるとしたのは、後で述べるが、女王国(邪馬台国)が呉の東の海上にあるとしたためなのだ。つまり日本列島は南北に長いと考えたためなのだ。

日本書紀完成から260年も後になるが、雍熈元年(984年)、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した『王年代紀』がシナの正史『新唐書』・『宋史』の「日本国」に「日本は古の倭の奴国」と記載されている(「王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆」参照)。『宋史』の中で、記紀で神代とされた神武天皇以前に、初代王天御中主(アメノミナカヌシ)として23代の王が筑紫の日向宮に居たことが明らかにされ、57年に金印を後漢光武帝から賜った奴国王を指すものだとわかる。古事記でも最初の神は「天御中主神」とある。「中」はナーガ=蛇を意味し、蛇神を祀る種族であるため、西暦57年に後漢光武帝より奴国王に与えられた金印の紐(つまみ)が蛇のデザインであることからも初代奴国王だと分かる。さらにヤマト王権の発祥地纏向遺跡のある三輪山の「大物主大神(=大国主命)」も御神体は蛇であり、ヤマトを作ったことが日本書紀に書かれていることからも、「日本は古の倭の奴国」というシナの正史に見られる記述のとおりなのだ。

「狗奴国」というは「犬コロの奴国」という奴国の蔑称であり、外交・政治の実権を握っていた伊都国男王難升米が名付けたものなのだ!「伊都国」だけが好字で他の国名はおおむね卑字をあてられていることからも想像がつく(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。

纏向遺跡は狗奴国の王都なので、狗奴国王卑弥弓呼(ニギハヤヒ大王の子孫)の王都ということなのだ(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」参照。

一方、倭国女王卑弥呼の後ろ盾である魏が、女王の政治を補佐するとした男弟難升米に黄憧(魏の正規軍の黄色い軍旗)を与えたとあるので、邪馬台国連合倭国と敵対する狗奴国が、魏と敵対する大勢力である呉の同盟国であった可能性が高い(注2)。

さらに、上で述べたように纏向遺跡が邪馬台国の南にあるとした狗奴国であるので、邪馬台国への方角の謎も完全に解けるのだ。

つまり、魏志倭人伝は女王国(邪馬台国)を会稽東冶の東の海上に置く目的であったので、末盧国の上陸地点で東を南に90度回転させて邪馬台国へのルートを記述したということになる。

ヤマト建国の話は、107年に後漢に朝貢した倭王帥升らが奴国王を追放したことから始まるのだ(注3)。

それから7,80年経って後漢朝廷の混乱で半島支配が衰え、韓人・濊人らが暴れたころ、旧奴国王族に繋がる倭人も倭王に敵対し、第一次倭国大乱が始まった。

しかし、遼東太守の公孫氏が半島の混乱を抑え、204年に帯方郡を設置するころには交易の混乱が少し落ち着いたので伊都国に居た帥升王の子孫の倭王難升米が、倭国周辺の敵対勢力だった旧奴国王族に繋がるムナカタ族を懐柔し、ムナカタ族の姫巫女「卑弥呼」を外交上、女王として共立したことにしたのだ(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

それによって、それまで半島東南部の鉄の供給が、沖ノ島経由の海北道中ルートで旧奴国王族の支配する国々(出雲から丹後・越・近江・尾張などへ、あるいは宗像から瀬戸内海経由で吉備・大和へ)だったのが断たれた。そのために吉備に居た卑弥弓呼大王は纏向の地に遷都して、各地の旧奴国の勢力を集めたのだ(「【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎」参照)。

纏向遺跡の大型建物の中では、上の外来搬入土器が示す地方の首長(王)らが集まり、倭国攻略の軍議をしたり、倭国懲伏の祈祷などの祭祀を行ったようだ。

外来土器の中で最も多いのが尾張王が支配していた東海のものなので尾張勢が有力だったと分かる。次いで山陰・北陸勢力が有力勢力と分かる。祭祀を司るのは古墳群に多く見られる円筒型特殊器台(注4)から考えて吉備の勢力が狗奴国王だと分かるのだ(注5)。

「先代旧事本紀」によれば、尾張氏はニギハヤヒ大王の子天香山命(アメノカグヤマノミコト)を祖とし、吉備を本拠地としたと思われる物部氏の祖宇麻志麻遅命(ウマシマジノミコト)もニギハヤヒの子で天香山命とは母神を異にする兄弟ということだ(注5)。日本書紀では尾張王の史実を隠しているが考古学の成果から日本建国の立役者の一人だったことが判明している(抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!参照)

以上のことを考えると邪馬台国の位置は、奴国(博多付近)から東(実際は北)へ百里の糟屋郡湊川河口付近(不弥国内)から舟に乗って南(実際は東)に約1、300里(約100㎞)である宇佐市となる。宇佐市を流れる駅館川を遡った安心院町が、(第一次)倭国大乱時代に「卑弥呼」が匿われていたと思われる邪馬台国だ。

魏志倭人伝にある女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種)」という記述からも、該当する場所は宇佐市から(東を北に読み替えて)周防灘を隔てた防府市や山口市周辺の弥生遺跡を指すと考えられる。不弥国から東に舟で約100キロ行った所からこの記述に該当するような場所は他に見あたらないので、邪馬台国は宇佐市にあったと言える!しかも、魏志倭人伝で卑弥呼の墓とされた径百余歩の冢(直径約150mの円形墳墓/円墳)を宇佐市安心院町「三柱山古墳」と発見しているのだ!卑弥呼は兵士に厳重に護られた要害堅固な山城(宮ノ原遺跡)に住んでいたと考えられる(●^o^●)
  
(行程記事のトリックの詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照。


【補足】『後漢書』「巻85 東夷列伝 倭の条」には「女王国から東へ、海を渡ること千里余りで狗奴国に至る」と明記されている。編纂者范曄(はんよう、398年 - 445年)は「三国志」の著者陳寿よりも後の西晋(265年 - 316年)が滅んだ後の南北朝時代の宋(南朝、420年 - 479年)の人で、432年以降に「後漢書」が成立されたといわれている。

范曄の時代は倭の五王が盛んに朝貢してきた時代なので、陳寿の時代よりも正確な情報を得た可能性が高い。しかも方角のトリックも既に滅んでいる西晋の朝廷に遠慮することなく正すことができるので、女王国(邪馬台国)から東に渡海一千余里に狗奴国があると陳寿の記述「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」を正したのだ。

もしも、南九州などに狗奴国があったとしたら、倭国でもない纏向遺跡はいったい何者なのか、全く説明できないはずだから、纏向遺跡が狗奴国の王都で間違いないのだ!

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(注1)このWikiの記事に対して、「九州関係は皆無に近いということである。全体が123個ということは、1%未満だと最大限で1個あった可能性しか考えられない。」という指摘もある(羽黒熊鷲、「纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告」

(注2)そのような中で呉の元号の入った銅鏡が二枚発見されている。238年銘のものは山梨県鳥居原狐塚古墳から、244年銘のものは宝塚市安倉 高塚古墳からだから、近畿から東は呉と同盟関係であったことの傍証になると考えられる。

また、倭人は春秋の呉の民であるので、日本の漢字の発音で春秋時代の呉音がかなり浸透していることからも、孫氏の呉と同盟する素地はあったと思われる。

(注3)帥升らが後漢安帝に献上した160人もの奴隷は、おそらく奴国王族を含む臣下たちだったのだろう。護送に必要な兵士まで考えると、かなり大掛かりな船団を組織したようだ。卑弥呼が親魏倭王の金印を貰った時の献上品(生口男女10人と班布2匹2丈)と比べると、相当立派だ。後漢から倭王と認めさせるための朝貢だっと考えられる。すでに、奴国王は「漢委奴国王」金印を貰っているから、奴国王ではなく改めて倭王として朝貢したことを示している。つまり奴国王を追放して倭王となったということなのだ。日本建国の過程は下の図を参照してください。

(注4)特殊器台・特殊壺(とくしゅきだい・とくしゅつぼ)は、弥生時代の後期後葉に吉備地方で生まれ、華麗な文様を施し、丹で赤く塗るなどの装飾性に富んだ大きな筒型・壺型の土器で、首長の埋葬祭祀に使用された。これらの特殊土器類が発達し変遷して円筒埴輪の発生や成立に関係した。特殊器台型土器・特殊壺型土器とも言われる。(Wiki「特殊器台」より)

西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混入していた。

(注5)弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)に見られるもので、二つの突出部を持つ円形墳丘墓であり、前方後円墳のルーツとも考えられている。

しかし、【検証2】前方後円墳のルーツ で述べたが、橿原(かしはら)市の瀬田遺跡で発見された弥生時代終末期(2世紀中ごろ~後半)とみられる円形の墓が周囲の溝に水が張られ墳丘墓への通路が造られたのでこちらがルーツと考えられる。

円形墳丘墓は宗像大社周辺でよく見られ、近畿でよく見られる方形周溝墓とタイプが異なる。おそらく、宗像周辺の円形墳は吉備の物部氏の墳墓ではないだろうか?なので、瀬田遺跡も吉備の物部氏と関係するのかもしれない。河内からの外来土器も三番目に多く、纏向が物部氏の影響下にあったであろうことは、日本書紀や先代旧事本紀にあるニギハヤヒまたはその子孫が最初に大和盆地を開拓したことを示すものかもしれない。

【関連記事】
卑弥呼の墓は見つかってるよ!
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆



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【刮目天の古代史】霊ラインの謎?( ^)o(^ )

2024-10-15 00:00:04 | 古代史

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レイライン(Ley Line)というのをお聞きになったことがありますか?

古代の遺跡は意識的に一直線に並ぶように作られているところがあるという話なのです。英国のアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスがその著書『The Old Straight Track』で示したとされています(wiki「レイライン」参照)。”Ley”というのは先史時代または古代のイギリスで丘の頂上、水源、礼拝所などを結んだ道という意味のようです。

日本でも「聖なるライン」として以下のようなレイラインが指摘されています(wiki「レイライン」参照)。

1969年岸俊男は、日本藤原京遺跡のメインストリートである朱雀大路の延長線上に、檜隈前大内陵菖蒲池古墳中尾山古墳が存在することを指摘した[8]1972年に発見された高松塚古墳の壁画をもとに直木孝次郎がそれぞれの古墳の被葬者を推測したところ、マスコミはその直線を「聖なるライン」と名付けて報じて世間の注目を集めたが「聖なるライン」説の意義は学術的には評価されなかった[8]。その後、藤堂かほるが藤原京大極殿の真北に天智天皇陵があることから、その造営時期を文武天皇の時代とする説を発表したところ、猪熊兼勝がそれを承けて「聖なるライン」説に大極殿、天智天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳を加えた、新しい「聖なるライン」説を提唱した。猪熊によれば、それらの遺跡は、すべて東経135度48分19-29秒の範囲にあり、誤差は10秒以内に収まることから「聖なるライン」は意識的に作られたものであり、計画したのは天武天皇だと主張している[8]

小澤毅は新しい「聖なるライン」説について、天智天皇陵からキトラ古墳までは南北2キロメートル弱しかなく、正確に揃えるつもりならばもっと精度を出すことも可能であったはずだが、この範囲で10秒(この地域では約255メートル)は誤差としては大きすぎ、意図して並べたとは考えられないと述べている[8]。([8]小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』 吉川弘文館 2018年 ISBN 978-4-642-04643-5 pp.98-100.)

日本に限らず古代遺跡が数多くある国では恣意的にいくらでも直線が引けるという反論がありますので、余りまじめに取り上げられることはないようです。

ところが、日本建国の史実を調査する過程で、二人の実在人物に関する、それぞれ別々の二本のレイラインを発見しました。一人目は、200年頃の倭国大乱で活躍して戦死した、魏志倭人伝で狗奴国の官狗古智卑狗(大国主高野御子の父日高彦)です。二人目は、倭国大乱の原因となった第十八代奴国王スサノヲで、大国主の祖先です。宮廷楽師師升(107年に後漢に朝貢した倭国王帥升)らの反乱で殺されたと突き止めています。

まず、狗古智卑狗(日高彦)のレイラインから説明します。

247年の卑弥呼の死後の内戦に大国主が勝利して、最初に国造りを始めた宇佐市安心院町佐田地区の米神山(475m)の中腹「月の神谷」に築いた、下のような父日高彦の終焉の地の方角を指し示す巨石群です。長さ2mくらいの太い石柱(陽石)が人工的に、揃って山鹿市茶臼塚古墳のある南西方向に向けられていることを発見しました。この古墳は後の時代(多分四世紀ごろ)に作られたもののようですが、日高彦の墓と推理しました。何と不思議なことに、その古墳の上に大日如来の石祠があり、下図のような曼荼羅の中央の大日如来から北東方向に大国主の本地仏である弥勒菩薩が居るので、米神山の方角を指し示していることが分かったのです。この場合、互いに向き合っていますので、はっきりと両者の関連性が認められます(^_-)-☆。


月の神谷の揃って南西方向に向けられた石棒群
(「米神山」ゆっくり気ままな山歩記 より)

【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)

津袋古墳群②ー茶臼塚古墳・小町塚古墳
2021-12-22 21:31:32 熊本から気ままに山と自転車のブログ 

猿田彦大神の石碑のなぞ?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その22)

茶臼塚古墳の周辺には特別な記号のついた猿田彦大神の石碑を20個以上発見しています。猿田彦は大国主を隠すために創られた神だと突き止めています。
(クリックするとMapが現れますので、ご確認ください!)

 

さらにそのレイラインを北東方向に延長すると、米神山から400kmも離れた豊岡市竹野町竹野にあった日高彦の居城「五社大明神社」を発見しました。そこでさらに「誕生之浦」と彫られた石碑を発見しました。

【大発見!】大国主命の生誕地か?

この不思議なレイラインを狗古智卑狗(日高彦)の霊ラインと呼んでいます。米神山では大国主の化身の黒ヘビにお会いして、立派な木の杖を賜りましたので、我が家の家宝にしています。詳しくは「米神山で大国主に会ってきた!(@_@)!」もご参照ください(^_-)-☆

 

そして、二つ目のスサノヲのレイラインです。

日本ピラミッドとして有名な庄原市葦嶽山から、スサノヲが師升に殺されて祀られていると推理している南西方向の春日市熊野神社に引いたレイラインを、逆に北東方向に延長すると、スサノヲが殺害された原因と推理した豊岡市気比銅鐸出土地を指しているのです(気比大神はスサノヲの別名)。つまり、スサノヲが縄文式の銅鐸祭祀を奴国の伝統的な祖霊祭祀に取り込むよう命じたことに反発した司祭の師升らが反乱を起こしたと推理しましたので、その物証を指していたのです(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。ビックリ、ビックリ!


(左クリックでGoogle MapのMy Mapで見ることができます。そこからさらにGoogle Earthに飛ぶと3D地図になり楽しめます)

 

日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )

奴国を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒは葦嶽山山頂に巨石群を配置し、スサノヲ大王を弔ったと推理しました。その東側にある鬼叫山でもドルメンなどの巨石群を配置して遥拝できるようになっています。鬼叫山の名前から、裏切り者の師升らを恨んで、悔しさで泣き喚いている鬼の様子が想像できますね(;´Д`)

熊野信仰の秘密?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その24)

平安時代(11世紀頃)にはスサノヲは怖ろしい疫病神と見られて熊野信仰が盛んになりました。二世紀初頭にスサノヲ大王がおよそ四・五百年続いた奴国の伝統祭祀を乱暴にも縄文風に宗教改革しようとしたせいで日本の歴史が悪い方向に変わったのですから、その伝承を知っていた古代の日本人にとって怖ろしい迷惑な疫病神の元締めだったようです。追儺(ついな、鬼やらい)という行事はスサノヲの故事に因むものなのです。日本書紀仲哀天皇紀に登場する儺県(なのあがた)が奴国のあった博多あたりですから、当時の人々は大体史実を分かっていたようですよ(;^ω^)

以下の二つの記事は現地を調査してきた話です。

【葦嶽山の秘密】能ある鷹は爪で指す?の巻!

【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻

これらの事例から単なる直線状に遺跡が配置されただけではなく、スサノヲやその子孫の日高彦の霊魂とかかわりがあることが分かりますので霊ラインと呼んだわけです。しかし、近代的な測量技術のない時代に何百キロも先にある遺跡の方角をどうやって知ったのか、不思議な現象と言わざる得ませんね(;^ω^)

そう言えば、ニギハヤヒは「天の磐船」に乗って「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と歌ったと日本書紀に記録されています。まるでUFOに乗って大和にやって来たかのようですから、春日市熊野神社ー庄原市葦嶽山ー豊岡市気比の霊ラインが見えていたのでしょうか?

大国主高野御子が、米神山から南西約八十キロの父の終焉の地(茶臼塚古墳)と、さらに米神山から北東方向に四百キロも離れた自分の生まれ故郷にどのように霊ラインを描けたのかが謎なのです。偶然などあり得ないと思いますから、ニギハヤヒと同様にUFOに乗ったのか?

いやUFOなど存在するはずないので、だったら、当時の人間にどうやって霊ラインが認識できるのか?

そう言えば、ニュートリノという素粒子は質量をほとんど持たず、中性で弱い相互作用のみを感じる貫通力の強い性質があるそうですので、霊の正体が電荷をもたない直進性のあるニュートリノであれば、現代人にはすでに失われた、素粒子を感知する能力「霊力」が古代人にはあったのだろうか?

これが目下の課題ですが、この分野は全く知識不足で、今のところどうやって証明したらいいのかも分かりません(;^ω^)

とりあえず、また米神山と葦嶽山に登って巨石群の方位を確認しようと考えているところですので、また霊ラインの話を記事にしたいと考えています。ご興味がわけば、巨石群の向きを測定して、一緒に考えてみませんか?当方はほとんど体力の限界ですので、若い同好の士を募集します。ていうか、勝手に登ってレポートしてください。意見交換させてもらえればうれしいです(^_-)-☆

ちょっと、オカルトっぽい話になって恐縮ですが、オモロイと思っていただけましたら、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )


【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆

2024-10-14 00:00:05 | 古代史

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#2024-08-17 21:44:15に公開しましたが若干追加などして改訂しました。よろしければお好きな記事からご参照ください(#^.^#)

#2021-09-06 21:27:14に公開しましたが、その後多くのことが分かったので、やっと整理しました。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします(;^ω^)

#2021-08-01 14:07:01に公開した記事に<秦氏と能楽の謎>の記事があったのを追加しました。

「日本は古の倭の奴国」仮説により解けた謎を項目ごとに整理しています。お好きな記事からどうぞ(*^-^*)

<正史と記紀神話の謎>
卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?<お勧め記事>
記紀神話って江戸時代にできたの?(@_@)
正史は正しい歴史なのか?|д゚)
科学的な推論法アブダクションによって歴史の真実を推理し、事実で検証して解明するしかないのですよ
史書の中に隠された史実?(^_-)-☆
見ようとすれば「正史」のウソを見抜ける!(*^▽^*)
ヤマトタケルの正体は誰?(^_-)-☆
誤解と幻想の古代史(*^▽^*)
「日本書紀」編纂の真の目的?(;´Д`)
アマテラス大神はヘビだった?
江戸時代まで民衆も伊勢の神が誰だか知っていたようです(^_-)-☆
あの諏訪大社の神様も?
ヤマタノオロチの正体もか?
「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!<お勧め記事>

<卑弥呼の謎>
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
こちらにまとめましたので、卑弥呼の部屋へどうぞ!(*^-^*)

<邪馬台国の謎>
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)

<天皇の謎>
神武天皇はいつ即位した?<お勧め記事>
誤解と幻想の神武東征(^◇^)

なぜ、ヤマトの大王を天皇としたのか?( ^)o(^ )<工事中>
女性天皇は「記紀神話」の呪いだった(;´Д`)<お勧め記事>
【大発見!】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)
日本の未来のためにご皇室を護ろう!(^_-)-☆

<日本建国の謎>
「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)<お勧め記事>
何故、大和をヤマトと呼ぶのか?<お勧め記事>
【祝】日本建国(令和二年)
サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?<お勧め記事>
抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)<お勧め記事>
抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!<お勧め記事>
消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆
宗像女神市杵島姫命卑弥呼をワニの一族としました。当時のワニは鮫のことですが(^_-)-☆
空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)
これを解明したら二人も天皇が隠されていましたよ(^_-)-☆

<倭王帥升の謎>
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)<人気記事>
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆<お勧め記事>
やっぱり師升は奴国の司祭だった。
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆<お勧め記事>
【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)
徐福が弥生の産業革命の担い手を連れて来たので、良いも悪いも、その後の歴史が変わったのですよ(^_-)-☆

<消されたニギハヤヒ大王の謎>
日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )<お勧め記事>
鬼叫山で師升たちに復讐を誓ったのは誰だ!
天照大神を男神とする説(^_-)-☆
江戸時代の文化人たちは突き止めていた(^_-)-☆
謎の月読神の正体はヤッパリ(^_-)-☆
吉備津彦の話で誤魔化してもばれてしまいました(*^▽^*<お勧め記事>

<大国主と台与の謎>
狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆<お勧め記事>
ヤマトを造成した三輪山の神だ!「魏志倭人伝」では狗奴国の官で王よりも先に紹介された実力者でした。大国主大神でしょう(^_-)-☆
悲劇の女王台与のはなし(その1)(その2)(その3)(その4)
<お勧め記事>
本当は怖い七福神の謎(;一_一)<人気記事>
大和朝廷が最も畏れた神々だった?!
古代史のカギを握る神々の正体?(^_-)-☆
大国主はトビヘビだった(^◇^)
武内宿禰の正体は大国主狗古智卑狗だよ!( ^)o(^ )
大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v
道祖神もやっぱり(^_-)-☆
大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)<お勧め記事>
天狗の正体もヤッパリ(^_-)-☆
御許山の佐用の神の正体は?(^_-)-☆
あの諏訪大社の神様も?(@_@)
庚申塚もそうだったの?


<出雲・丹後王国の謎>

【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)

日本の建国において最も活躍したのはスサノヲの子孫たちでした。

このことを知らずにその後の古代史の謎は解けないと思いますよ(^_-)-☆


<秦氏と能楽の謎>
正史のウソを朝廷が告白?(^_-)-☆
東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に見せた日本の王年代紀によって、「日本が古の倭の奴国」だったということを告白したので、以後の中国の正史に倭国ではなく日本として記述されるようになった。
箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v
箸墓の被葬者はヤマトとトビ(へび=大国主)を怨んでいたはずとみんな思っていた
能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆
江戸時代まで猿楽と呼ばれた能楽を大成した観阿弥・世阿弥は秦氏だった。そう言えば奝然上人も秦氏だった。どうも秦氏は歴史の真相を暴露したくて仕方がない氏族だったようです(^_-)-☆
能楽「翁」は大国主のサンバだった?(*^。^*)
能「弓八幡」は何を伝えたかったのか?
渡来人秦氏はどこからきた?
秦氏と古事記の関係?
古事記は日本書紀によって隠された史実を藤原氏に悟られないように暴露するための暗号書だったのです。
古事記を作った多人長が多氏の祖神を神武天皇の皇子カムヤイミミとしたのは、本当の初代応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコ、宇治天皇の子孫だったことを示唆していますよ(^_-)-☆



<半島の古代史>
半島の古代史だ!(漢四郡まで)
新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
馬韓の伯済国の倭人斯摩(百済武寧王)が502年に百済を乗っ取ったのは武烈天皇と強いつながりがあり、事前の盟約があって、倭国軍が支援したのかも知れませんね(^_-)-☆
任那(みまな)の正体は?(@_@)

 

<霊ラインの謎>NEW

【刮目天の古代史】霊ラインの謎?( ^)o(^ )

古代人には現代人がすでに忘れた霊ラインを感知する能力があったようです。この不思議な霊ラインって何だ?


<その他の謎>
日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆<お勧め記事>
日本民族の父系のルーツと地域性について!
日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆
ヤポネシア・プロジェクトリーダー斎藤成也教授が示された日本民族形成の3段階モデルはYーDNA解析の結果と整合性が取れますよ(^_-)-☆
【分かった!】日本人の形成過程!(^_-)-☆
古墳人って何なのさ?(;´Д`)
最新の遺伝子解析も、歴史学の知見がないとダメですよ(;´Д`)
青谷上寺朗・ひとみ(仮称)は弥生人なのか?(@_@)?
女性だと思ってたのが、よく調べたら男の子だった?!すんません、ひとみちゃん(;^ω^)

あの戦争好きの化け物が日本人のルーツなのか?(@_@)?
古代日本は海人国家だった(^_-)-☆
どうして日本の古代王墓に墓誌がない?(^_-)-☆
弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?(^_-)-☆
武内宿禰はユダヤ人なのか?(@_@)
弥生人は戦争好き?ウソですよ( `ー´)ノ
従来は、弥生時代になって米作りが行われたことにより、水争いや米の略奪などで集落同士が戦争をしていたというのが通説だったのですが、歴博の新年代が導入されて通説が成り立たなくなってきました。弥生後期後半の倭国大乱から日本列島は戦乱となることが考古学の成果から分かりましたよ(^_-)-☆

【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆
【刮目天の古代史】仮説を検証する!(^_-)-☆



あ、そうだった!富雄丸山古墳も吉野ヶ里遺跡の謎の石棺も未整理でした(;´Д`)
カメさんのようにのろいですが、また、よろしくお願いいたします( ^)o(^ )



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