刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆

2023-05-14 23:33:43 | 古代史
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古代日本史:日本神話と邪馬台国の謎解き【私見】
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刮目天
11 か月前
比較言語学の観点から記紀を読み解くということですが、記紀の素性を正しく把握していないと考古学の成果と矛盾してしまいます。日本書紀は天武天皇が編纂を命じましたが、崩御して30年以上経って完成しています。当時の権力者だった藤原不比等が、藤原氏が権力を握り続けるために、不都合な日本建国の史実を神話で隠し、デタラメな話で歴史を改ざんしていることが、考古学や民俗学などから判明しました。

例えば、魏志倭人伝に登場する地名や人名などは、漢字を読み書きできない倭人の発音を聞いて魏の役人が韻書の冒頭の字を当てたというのが通説になっていましたが、最近北部九州などで出土していた砥石と思われたものが硯石であったり、博多の弥生後期の遺跡から木製の組机が出土していましたから、倭人は文字を使っていたことが分かります。そして糸島市の三雲遺跡番上地区では楽浪土器が集中的に出土しています。伊都国に華僑や外交使節団がやって来ていたと考えられています。つまり、倭人の中で彼らと交流し漢字を読み書きできた人がいたと考えられます。そのひとつの証拠が伊都国というとても深い意味のある地名が残されていることです。その他にも証拠が出てきました。

そして神話で高天原とされたのは、金印をもらった奴国王が支配していた倭国のことだったことも分かり、日本書紀の編纂者もこの史実を知っていた証拠まで出てきました。

ということで、史実に基づいて科学的な手法で推論し検証して、日本建国以前の東アジアの状況から三世紀の建国の過程まで解明しました。よろしければ拙ブログ、たとえば最近の記事「伊都国の意味がヒントだった?」などをご参照ください。できれば比較言語学の観点からご意見を頂けると幸いです。お邪魔しました(*^▽^*)


ジャパン・ファースト様
1 か月前
私も地名由来が濃厚かと思いますが、母方の出身地由来という可能性もありますので、卑弥呼が火國出身や火國在住とまで断定出来るかは何とも言えないかと思います。考古と照らし合わせると菊池地域は熊本平野と同じ免田式土器圏ですので、狗奴国のクコチヒクも菊池彦とも解釈できます。
ただ菊池川下流やその北部の火國に邪馬台国があったのなら、火國でもかなり納得出来るかと思います。


​ @ジャパン・ファースト さん 気づかずに、返事が遅れてすいません(^^;)
とてもいいご指摘です。有力視されている邪馬台国北部九州説の方は、狗奴国が菊池の地名から熊本とされています。ですから火國に邪馬台国があったとすると、さらにその南に狗奴国があるということになり、とても邪馬台国に対抗できる勢力ではなさそうです。そこで、倭国大乱の痕跡を、弥生後期後半(2世紀末ごろ)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて見つけましたので、卑弥呼が登場するまでの主な戦場は北部九州だと分かりました。鹿児島や宮崎などの南九州には戦闘の痕跡は見あたりませんでしたから、邪馬台国は熊本ではなく、狗奴国も別の場所にあったと分かります(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。後で述べますが、狗奴国の官として王よりも先に登場する狗古智卑狗の正体も分かりました。これにより倭国大乱の実態がかなり判明しました。説明が長くなったのでブログ記事にします。よろしければお越しいただき、疑問点などコメントいただけると幸いです(#^.^#)


北部九州の、主として佐賀平野・筑紫平野の環濠集落の溝から出土した鉄鏃・銅鏃は倭国の敵方である狗奴国の攻撃の痕跡だと考えられます。そして、出土した鉄器の器種を調べると、当時狗奴国側は大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓にかけて、半島南部の板状の鉄素材を持ち込んで鉄製武器の製造工房群を造っていたと分かりました。さらに熊本県菊池川流域の方保田東原遺跡などを最前線基地として、外来土器の出土から、山陰・畿内や西日本各地から兵士を呼び寄せて、倭国を攻撃したと推理できます(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

(左クリックで拡大)

倭国側は、半島の混乱で楽浪郡との交易も困難で、一方的に狗奴国に攻撃されて相当疲弊していた模様です。なんと当時、鉄が豊富にあったはずの福岡市唐原遺跡などの住居跡から銅鏃が見つかっています。鉄が不足して青銅器を溶かして銅鏃を作った模様です。そして、狗奴国側の方保田東原遺跡の環濠などから銅鏃が出土していますから、倭国側の攻撃の痕跡と考えられます。

(左クリックで拡大)

204年に公孫氏が半島を平定して帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、狗奴国側に反撃を加えたものと考えられます。そしてこの戦争になんらかの決着があって、卑弥呼が登場したのです。倭国攻略を指揮していた狗奴国の官狗古智卑狗が倭国の攻撃で戦死したのが原因だと推理しました。狗古智卑狗の墓も比定しました(詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その4)」参照)。



半島南部の鉄は北九州を拠点とし玄界灘を活動域とする縄文系海人ムナカタ族が狗奴国側の集落に供給していた模様です。狗古智卑狗は北九州、山陰や北陸などを拠点とするムナカタ族を束ねる王でした。兵庫県豊岡市久久比神社の祭神久久能智神(久々遅彦)が正体です。この祭神は全国の建物の上棟式の祭神屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)で、木の霊ですから、奴国の宮廷楽師師升らの反乱で殺された奴国王スサノヲの王子イタケルの子孫です。イタケルは奴国を脱出しました。祖母イザナミの実家の米子市宗形神社で養育され、成人してムナカタ族の王に推戴され、子孫が代々久々遅彦を襲名しました。

これで倭国大乱の原因が判明しました。卑弥呼の正体も分かります。

大活躍していた王が戦死して途方に暮れていたムナカタ族和邇氏の祖赤坂比古(天理市和邇坐赤阪比古神社祭神が市杵嶋姫)が倭国王難升米(師升の一族の伊都国男王、「伊都国の意味がヒントだった?」参照)に懐柔されました。卑弥呼(姫巫女)市杵嶋姫による太陽神の神託によって政治を行う条件で、狗奴国を裏切ったのです。

市杵嶋姫は不弥国(宗像市田熊遺跡を中心とするウミ国)で生まれましたが、海に面して物騒なので、野麻国(ヤマ国、宇佐市安心院町宮ノ原遺跡)に疎開していました。三女神社を宮室としていました。神社のすぐ西側のV字溝の中から古墳時代初頭(3世紀末)の狗奴国側(卑弥弓呼大王と同じニギハヤヒ大王を祖とする尾張勢)のものと推理した銅鏃が出ていますから、卑弥呼の死後に狗奴国勢に攻撃されたものです。後述する尾張王の事績を、日本書紀で景行天皇の九州遠征の話にされ、討たれた菟狭の川上(駅館川上流)の土蜘蛛鼻垂(はなたり)とされた、邪馬台国を護っていた勢力との戦闘の痕跡です。ここが、いくつかある三女神降臨伝承地のひとつで、葦原中国の宇佐嶋ということです。

史実を誤魔化すために、宗像三女神とし、いくつもの降臨伝承を藤原不比等やその子孫らが作っています。安心院盆地は当時は広大な葦の群生地で、卑弥呼市杵嶋姫の居た三柱山台地の南北に川が流れていますので、海の中にある島に例えられたということです。魏志倭人伝にある卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の急造りの、国内最大の円墳三柱山古墳が宮室の西側で見つかり、その横の原野が血野(現在は知野)という、殉葬のために奴婢百余人が殺されたと思われる地名もありました。また、日食が理由で殺されたことを示唆する「ヒカケ」という地名がその南側に残っており、卑弥呼の墓の遥拝所(頓宮)と見られる同じ名前の三女神社がありました。宮室寄りの河原に温泉が出るようで、現在はすっぽんが養殖されています。その場所に露天風呂があったはずで、入浴中の卑弥呼が刺客に暗殺されたと想像しています。その場所には七世紀に国東半島の六郷満山を開基したと伝わる、伝説の仁聞菩薩が彫ったとの伝承のある乳不動という石仏があります。さらに後世に墓を直接目視できないようにするために土盛りされており、そこにヒカケ横穴群が見られます。アマテラス女神の天の岩屋戸を連想させます。

また、頓宮の摂社として大国主命を祀る金毘羅宮と、大国主の祖父で出雲風土記に国引きで登場する八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)を祀る八束神社がありますので、卑弥呼は大国主の祖父の娘が赤坂比古に嫁いで生まれた姫で、大国主とはいとこになると推理しました。大国主は卑弥呼を弔った後にその東側の安心院町佐田地区で最初の国造りを行ったことが霊山米神山やその麓の佐田京石というストーンサークルなどから推理できます。この地が豊葦原の瑞穂の国だったのです(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。



宇佐市史によれば和名抄の宇佐郡野麻郷が安心院町に比定されています。卑弥呼は、実際は倭国を統治する女王ではなかったということですが、卑弥呼(院)がこの地に疎開して安心したという故事が安心院の地名の由来でしょう。魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事や海南島に近い風俗・地理などの倭国の情報は、倭国王難升米が帯方郡太守劉夏と談合し、司馬懿の功績を大きく見せるために作られたものだと確認できました(詳細は「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」参照)。邪馬台国という国名も難升米が書いて劉夏に教えたもので、ヤマ国の女王(台)が統治する国という意味ですからフェイクだったのです。逆に、邪馬台国の位置が分かったので、行程記事のトリックも図のとおり判明しました(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。



赤坂比古の傘下の九州中・南部、中国西部、四国西部などの勢力が倭国に加わり、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)と対立しました。ニギハヤヒ大王の子孫と推理した卑弥弓呼は倭国に対抗するために纏向遺跡を建設して、各地に散っていた旧奴国側の首長を呼び集めました。纏向遺跡出土の外来土器に尾張王の支配する東海のものが半数を占めていました。日本書紀で仲哀天皇とされ、卑弥呼の死後に狗奴国を裏切り、倭王に立った狗奴国の有力者の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、尾張国造の祖)がモデルだと推理しました。倭国側についた四国の勢力は、当初は伊予・土佐勢だけでしたが、倭国が帯方郡との交流や半島南部の鉄まで入手できるようになり、隆盛になったので、後に讃岐・阿波勢も狗奴国を裏切って倭国側になったことも纏向遺跡の外来土器から推理しています。紀州の勢力も参加したようです。卑弥呼大王ら旧奴国の勢力は、恨みのある師升の一族と裏切り者の赤坂比古らを呪詛する祈祷を連日行って、復讐計画を練ったと思われます。出土した大量の桃の種はそのような祈祷に使用されたものでしょう。



この後の展開が少しありますが要点のみかいつまんで述べます。乎止与命が率いる倭国征討軍が奴国に到着して、倭国王難升米を追い払ったので、狗奴国を裏切り倭国王に立ちました。倭国大乱で戦死した狗古智卑狗の子の久々遅彦らが不服で内戦になり、久々遅彦の味方をした卑弥呼の弟赤阪比古(先代はすでに亡くなって宮ノ原遺跡の直径約120mの巨大円墳奥城古墳に埋葬されたと推理)が鳥栖市で乎止与命を討ちました。九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に埋葬されたと考えています。

内戦に勝利した久々遅彦は卑弥呼の宗女台与を13歳で女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立しました。列島内の多くの勢力が久々遅彦の傘下になったのです。上で述べた大国主命の正体なのです。その後、尾張王の子建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神で、日本書紀で仲哀天皇の祖父景行天皇とされ、建国の真の主役大国主を隠すために創作された日本武尊のモデルと推理)が親の敵討ちで大国主らを討ちました。日本書紀に景行天皇の九州遠征の話として詳しく載っていて、前述の鉄鏃・銅鏃の出土状況と一致していますから、史実を基に作られたと分かりました。さらに大国主傘下の北陸や東海・関東などの勢力を鎮撫して狗奴国ヤマトが日本建国を果たしました(日本書紀で崇神天皇の四道将軍の話としている、その詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」参照)。

従来のように、魏志倭人伝の記述を正しいと考えて、その文章を素直に解釈すれば邪馬台国にたどり着くだろうということで、数多くの研究がなされましたが、この考えでは千年かかろうが真相には到達できないということが、すでに証明されていたのです。行程記事が政治的理由によるフェイクだったからなのです。

また、現存する最古の正史「日本書紀」についても、最近の歴史学会では津田左右吉の成果からかなり研究が進んだようですが、やはり根底には天皇の歴史書だという思い込みがあるので、真相にまでは到達できなかったのだと思います。吉田一彦「『日本書紀』の呪縛」(集英社新書 2016年)は不比等の呪縛から目覚めさせてくれるもので、これまでの研究者の考え方の問題がよくわかる、とても参考になる本です。

前回の記事でも述べましたが、文献の内容を概ね正しいとして素直に信じるのではなく、疑わしい部分は考古学や民俗学などの成果である物証から文献の内容の信ぴょう性をしっかりと評価することが重要です。また、それだけに留まらず、それら内容が誰によって何の目的で作成されたのかを、可能性を徹底的に推理して、構築した仮説を検証する科学的な手法によって、初めて真相に迫ることができるのです。

しかし今回の推理も、歴史の真相を説明する仮説ですので真相そのものではないかもしれません。現在分かっている事実に基づく仮説ですので、このようなことがあった可能性が高いというのが結論になります。ですから、今後新たな事実や重大な事実誤認が発見されたら、別の有力な仮説が登場するかもしれません。いずれにしても、個々の遺物や文献の内容はいくつもの解釈ができ、何が正しい解釈なのか直ぐには分かりませんので、諸説が存在し、古代史は謎だらけのままだったのです。しかし、このような一定の期間を挟む仮説を立てることにより、その仮説に合致する解釈ができれば、それを正解として選択し、発見的な推論を進めることができるのです。このような第三の推論法と呼ばれるアブダクションによる手法が問題解決に結びつく科学的探究の手法なのです(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」参照)。

【関連記事】
卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?




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