刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼はどのように隠された?(;´Д`)

2020-07-27 20:44:27 | 古代史
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八幡大神の登場について卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)の(注2)に以下のとおり記述しました。

応神八幡神/顕現伝承に詳しい。それによると幾つかある八幡大神の顕現伝承の最古といわれるものに承和縁起(「宇佐八幡弥勒寺建立縁起」)に載る以下の説があります。
伝承①--大神清麻呂解状(弘仁6年-815-12月10日、解状-ゲジョウ--所管の宮司に上申する文書)--大神(おおが)氏系
伝承②--辛嶋家主解状(弘仁5年-814-2月23日)--辛嶋氏系

①は「大御神は、欽明天皇の御世(539--71)、豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に始めて顕れた。大神比義が戊子の年〔欽明29年-568・同32年-571-ともいう〕、鷹居社を建てて祝(ハフリ・神官)となって祀り、後に菱形小椋山に遷し祀った」〔 〕内は原注とあり、応神天皇としていますが、②の後追いで作られたようです。
②によれば、創建年がハッキリしているのは和銅三年(710年)乙咩神社(おとめじんじゃ)のようですが、応神天皇ではなく比売大神です。それ故、宇佐神宮年表では和銅五年の鷹居社からにしているようです。


この辛嶋氏伝承では、「八幡神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島(稲積山?)に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、当社乙咩社、 泉社、 瀬社、 鷹居社、 小山田社、現社地へと移った」とされ、辛嶋勝乙目(からしまのすぐりおとめ)という巫女が関わったとされています。 応神八幡神/顕現伝承には①と②の「両伝承が上申された弘仁年間(9世紀初め、平安初期)は、宇佐における応神八幡神信仰が定着した後のことで、大神氏に主導権を奪われた辛嶋氏としては、自家の伝承に応神霊を付加せざるを得ず、為に、自家に伝わる伝承を改変したともとれ、本来の辛嶋氏系伝承はこれとは違っていたと思われる。」とあります。これは正しいと思います。

辛嶋氏の姓(かばね)は勝(すぐり)であり、スサノヲの子イタケルを祖とする祢宜(ねぎ)に任じた女性を主体とする氏族のようです。辛嶋氏は半島から渡来した氏族で、勝(すぐり)は村主と言う意味のようです。前回に述べましたが、ムナカタ族は、北部九州の倭国を占領した物部によって排除されたはずですが、280年頃に応神天皇が祭祀王として大和で即位したことにより復活したようです。同様に、スサノヲ・大国主ゆかりの半島南部の倭人(三輪氏・葛城氏・和邇氏・秦氏などの祖)も許されて、共に中央に進出できるようになったようです(注1)。

辛嶋氏も半島南部から九州東部に帰還した比売神卑弥呼にゆかりのムナカタ族でしょう。辛嶋氏が比咩神卑弥呼を祀っていたのを、大神(おおが)氏が八幡大神を応神天皇という伝承を作ってすり替えたものだと思われます。鎌倉時代に弥勒寺学頭僧神吽(しんうん)が撰した「八幡宇佐宮御託宣集」にある「鍛冶の翁」伝承はその頃に創作されたものかも知れません(^◇^)

Wiki「大神氏」によれば「大神氏、大三輪氏(おおみわうじ)、または三輪氏(みわうじ)、神氏(みわ/じんうじ)は、大和国磯城を発祥とし、大田田根子を祖神とする氏族」と言われています。崇神紀に登場する大物主大神(大国主)の子です。

当時疫病などが流行り民の半分以上が死に、民心が離れてしまった大変な状況だったようですが、大物主大神の神託により、大田田根子に祀らせろということで、そのとおりしたらようやく収まりました。漢風諡号どおりでした。神に祟られた崇神天皇、神の求めに応じた大田田根子が応神天皇で同一人物です。二人を異なる時代に分解して誤魔化す日本書紀のやり方だと関裕二さんが最初に見破りました。

刮目天は、大国主・台与の祟りでヤマトの後ろ盾の呉が280年晋によって滅ぼされてしまったので、次はヤマトが滅ぼされる番だと恐怖におののいたのが応神天皇の即位の真相だろうと考えました(何故、大和をヤマトと呼ぶのか?)。それで、これも関さんの推理ですが南九州(大隅正八幡宮?)に逃亡していた大国主・台与の間の子ホムダワケを探し出して祭祀王として大和に迎えたということです。日本書紀では建国の真相を隠ぺいするために、初代神武天皇の東征神話を創りましたが、応神天皇が神功皇后によって仲哀天皇の皇子たちを殺してヤマトで即位した、神武と似たような東征神話も創作でした。これも「日本書紀の筆法」でした(注2)。

話をもとに戻して、すでに卑弥呼の墓の伝承の話の中で紹介した安心院町の妻垣(つまがけ)神社の主祭神が比咩大神(宗像三女神)です。由緒書きによれば、「天平神護元年(765)、宇佐宮の八幡大神(八幡大菩薩)、この地に神幸し比咩大神と利生を語り合われました。また同年閏10月8日、八幡神は勅使石川朝臣豊成に『我はすでに共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下されました。そこで豊成は当地に社殿を造り、共鑰山の比咩大神と八幡大神が併せて祀られました。天長年間(823~834)には宇佐宮より神功皇后が勧請し、お祀り申し上げました。」とあります。

共鑰山(ともがきやま)は妻垣(つまがけ)神社の創建年よりも古くからある奥宮の一柱騰宮(いっちゅうとうぐう、古事記では足一騰宮あしひとつあがりのみや)がある場所です。日本書紀では神武天皇の母玉依姫を比咩大神として祀ったところとし、東征を開始して最初に立ち寄った神武天皇をウサツヒコとウサツヒメがもてなしたという伝承となっています。

しかし、卑弥呼が殺されて、安心院町三柱山の径百余歩(直径約150m)の円墳に埋葬されたのを、大国主と台与がここに遷して祀ったと推理しています(卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆)。ウサツヒコとウサツヒメは二人をモデルに作られましたが、日本書紀では藤原氏の遠祖天種子命がウサツヒメを娶った話を作って誤魔化しています。藤原氏にとって重要な伝承、実は真相を隠すためのものですが、これを古事記が無視していますからデタラメな伝承だと直ぐに分かります(^_-)-☆

つまり、比咩大神は大国主と台与が一柱騰宮で改葬し、祀った卑弥呼のことだと考えています。

大国主と台与がヤマトによって滅ぼされた後に、筑紫水沼君が三柱山の三女(さんみょう)神社で三女神を祀ったという伝承があり、盆地内に御水取した水沼社があります。水沼君は三女神を祀るムナカタ族という説もあるようですが、「日本書紀」では筑後国三潴郡(現・福岡県久留米市三潴町)の水沼氏が登場するので、そうであれば景行天皇の子孫水間(沼)氏のようです。一方、「先代旧事本紀」には水沼君の祖は物部阿遅古とあり、物部氏の支族という説もあります。

景行天皇は仲哀天皇の祖父で、仲哀天皇は景行天皇の皇子ヤマトタケルの子ということですが、日本書紀の記述から計算するとヤマトタケルが死んで38年後に仲哀天皇が生まれたことになりますから、杜撰な作り話です(注3)。纏向の外来土器の約半数を占めるのが東海のものですから、仲哀天皇のモデルは狗奴国ヤマトの大王(物部氏)と同族の尾張王だと推理しました。(2023.5.30 赤字訂正)

大国主・台与をヤマト勢が滅ぼした第三次倭国大乱を日本書紀では景行天皇の九州遠征の話にして誤魔化していることを発見しました(【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*))。ですから水沼氏が物部の支族であるのが正しいのかも知れませんが、景行天皇は、記紀では仲哀天皇の祖父ですが、仲哀天皇は大国主に殺された尾張王ですから、その後継者をその祖父の景行天皇と設定していることから、尾張王と考えるのは正解のような気もします。そうなると水沼氏は尾張王の一族ということになります。物部と尾張はニギハヤヒを祖とする一族ですから、今のところどちらでもいいかも知れません(*^▽^*)。

水沼氏が宗像氏でもないのに三女神を祀るのは古代としては異例に思われます。親魏倭王卑弥呼を直接殺したわけでないと推理していますが、ヤマトの倭国追討軍の到来と247年3月24日の日蝕が重なって卑弥呼が殺されたと推理しているので、ヤマトも卑弥呼から恨まれ祟られるのを恐れてこの時の大王家(物部氏)が配下の水沼氏に奉祭させたものと推理しています。何と、比売大神を祀る妻垣神社の宮司矢候氏も天種子命を祖とする藤原氏でした(矢野武夫「卑弥呼の墓発見」安心院町文化連盟昭和56年、p.128)。


それだけヤマト朝廷にとって卑弥呼は超重要人物だと見られていたということです。

ですから、三世紀末か四世紀初頭には沖ノ島祭祀が始まるのだと思います。


ところが六世紀の筑紫の君磐井とヤマト朝廷が半島経営で対立し、反乱を起こした磐井と共に水沼氏も一緒に滅んだと考えられます(磐井君が新羅からワイロを貰ったという日本書紀の話は全く信用できません。現在調査中です)。宇佐国造の祖がウサツヒコだということであれば、刮目天はその正体を大国主久々遅彦と推理していますから、後でまた述べますが、宇佐国造の正体も水沼氏か、同じ物部氏か尾張氏ではないかと考えています( ^)o(^ )

さて、ここまで書いて、いよいよ比売大神を八幡神応神天皇にして隠すアイデアを出したと思われる本命の出番ですが、長くなったのでお楽しみは次回に回しましょう(^◇^)

【参考記事】古代史の謎を推理する(^_-)-☆


(注1)辰韓・弁韓の倭人が応神天皇即位により、三世紀末から技術や大陸・半島系の文化を持って日本に渡来しました。秦氏の祖も日本書紀では百済弓月君ということで、数多くの民を引き連れて帰化したように書いてますが、百済ではなく伽耶・新羅が本当でしょう。百済はシナの史書と日本書紀が基にする百済三書が食い違っていますから、百済三書の方が怪しいです(現在調査中)。(2020.7.28 赤字訂正)

(注2)神武東征を史実だと主張する方は、纏向に北部九州の土器がほとんど見られず(あっても外来土器の1%以下)、逆に北部九州に畿内の庄内式や布留式土器が数多く見つかっているという考古学の成果を全く無視しています。北部九州の倭国がヤマトを滅ぼしたのではなく、大和勢に滅ぼされたというのが事実ですから、神武東征神話に全く騙されていますよ。これに気付けば、何で大和をヤマトと呼ぶのか?とか、何で出雲の神大国主を三輪山で祀っているのかなど、古代史の多くの謎が解けますよ(^_-)-☆

(注3)「日本書紀」にタラシナカツヒコ(仲哀天皇)の父のヤマトタケルが、祖父の景行天皇40年に薨去したと書かれています。その20年後(景行60年)に景行天皇が崩御して成務天皇が即位しています。そしてタラシナカツヒコは成務天皇48年に31歳で皇太子となったと書かれていますから仲哀天皇は成務天皇が即位して18年後に生まれた計算になりなります(^_-)-☆
結局、タラシナカツヒコ(仲哀天皇)は父のヤマトタケルが亡くなって20+18=38年後に生まれたということになります( ^)o(^ )
(2023.5.30 赤字訂正)


つまり、景行天皇から仲哀天皇のまでの話が史実に基づく部分があるとしても、その年代は全く信頼できないということなのです。そして、【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)で述べたように、景行天皇の九州遠征は仲哀天皇が亡くなった後の話だと考古学的に分かりました(^_-)-☆

最後までお付き合い、ありがとうございます。次もよろしくお願いします。
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卑弥呼が見た日食はこれだ(*^▽^*)

2020-07-25 22:07:05 | 古代史
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先日7月20日の記事卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)の内容にご意見を戴いていたのを先程見つけました。いつも参考にさせていただいているトップ・ブロガーのkawakatu様の記事でした。どうもありがとうございます。( ^)o(^ )


アマテラス=卑弥呼、日蝕=天岩屋戸、藤原不比等策謀に見事にはまった空想小説
2020年07月22日 09:01 民族学伝承ひろいあげ辞典




kawakatu様の日本書紀に対するご見解は、このブログを拝見すると基本的に刮目天と同じで、不比等(659 - 720年)の創作という正しいご理解のようです。しかし残念ながら、刮目天が主張する卑弥呼の死と247年3月24日の日蝕との関係を以下のとおり否定されているようです。

この247年の日食は、アフリカから対馬沖までは皆既で見られるが、日本列島のほとんどの土地では部分日蝕で、ほぼ完全な皆既日蝕は九州の一部では見られるが,東へ行くほど貧弱になり,近畿では半分くらいしか欠けない。つまり記紀が言うような世の中が暗闇になるような日蝕は北部九州にしかなかったわけであろう。

伊都国男王の北部九州だけでも深い食になれば十分だと思います(*^▽^*)

「卑弥呼の信仰も魏書は「鬼道」と記録しており、当然公孫氏、呉国と同じ神獣や西王母などを絵柄とした神獣鏡を用いたはずだ。ところが呉は魏に敗北し、公孫国家も滅ぼされたことで、卑弥呼の予知能力は完全に間違っていることになったわけだから、殺されて当たり前だった。なにも日蝕などなくても卑弥呼は殺されただろう。つまり日蝕など無関係に邪馬台国は一度滅ぶのであるし、その場所は皆既日蝕が見えずとも、どこでもよいのである。」

しかし、卑弥呼は縄文海人ムナカタ族の姫巫女ですから(注1)、魏志倭人伝で「鬼道」というのは民衆の間で流行った「五斗米道」のような道教の一派だけでなく、陳寿らにとって東夷の得体のしれない信仰という意味もあるのだと思います(注2)

しかし、公孫氏は238年に魏に滅ぼされているので、ほぼ10年前の事件で卑弥呼が殺されなければならないというのはまったく理解できませんよ(;´Д`)

時間を少し戻して、公孫氏が204年に帯方郡を設置して半島の混乱が収束したので、伊都国を都とする倭国王が不弥国(うみこく、宗像市を中心とする海岸の地域)のムナカタ族(和邇氏の祖)を懐柔して、卑弥呼を女王に立て倭国の乱を収めたために、ヤマト側には鉄が供給されなくなりました。そこで、纏向に政治都市を建設し、東海・山陰・北陸などの勢力が集結しました。ようやく倭国討伐軍の派遣を決断し、その動きと同じタイミングでたまたま日食が発生したために卑弥呼が伊都国男王に殺されたと推理しています。この男王が卑弥呼の政治を補佐するという男弟であり、政治の実権を持つ倭国王だと推理しました。卑弥呼が殺された理由は、魏志倭人伝に記載される持衰(じさい)が殺される理由と同じでしょう。

日食と無関係に邪馬台国が滅んだとするご意見が、最後に書かれた部分でしょうか?

図説12枚でわかる「奴国王東遷」・紀元前奴国は大和へ動いた!その1~3で説明されているということのようです。一世紀にはすでに邪馬台国が奴国にあったと考えられているようですが、邪馬台国は元々卑弥呼と関係ないという聞いたことのない説になりますよ( ^)o(^ )

また、「奴国王東遷」はまあいいとしても正確には、「紀元前奴国は大和へ動いた!」ではありません。奴国王は57年に後漢光武帝から金印を貰っていますから紀元前には大和に遷都はしてません。奴国は二世紀前半にニギハヤヒ大王が吉備を都としています。その後、ニギハヤヒの直系の(狗)奴国王卑弥弓呼が纏向へ遷都したのが、卑弥呼が女王に共立された三世紀初頭です。

時代が前後して申し訳ないですが、二世紀初頭に宮廷司祭の師升らのクーデターで最後の奴国王スサノヲが殺され、王族の一部(スサノヲの弟ニギハヤヒ、王子イタケルら)が出雲・米子付近のムナカタ族(スサノヲの母イザナミ姫の実家)に助けられたと推理しました(末尾の「ヤマト王権成立過程」と「弥生時代から古墳時代初頭の年表」参照)。

ニギハヤヒは吉備を平定し、ヤマト王権の基礎を築いた実在人物だと推理しています。倉敷市の楯築王墓は「宋史 王年代紀」にある第十九代王天照大神尊であり、「先代旧事本紀」の物部・尾張氏の祖であるニギハヤヒ大王のものだと突き止めました。後にヤマトの大王が天皇と呼ばれる理由が分かりました。楯築神社のご神体の亀石が人面蛇体の天皇伏羲と同じでした。日本は「新唐書」「宋史」に書かれた古の倭の奴(ナーガ=龍蛇神)国で間違いなかった(^_-)-☆

イタケルの子孫は代々狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社の祭神)を襲名し、スサノヲの代からコネのある半島南部の鉄をニギハヤヒの旧奴国(狗奴国)王族らに供給し、旧奴国が勢力を盛り返したので、半島の混乱と連動して奴国を滅ぼした師升一族への復讐で倭国大乱が起こったと推理しています。

それで、日食の話に戻りますが、以下のように主張されています。

「この方はいささか早計に考えておられるようだが、まず
1 滋賀県では3世紀の皆既日蝕は観られない
2 不比等自身が神社に出向いたり、社名を変えるのではなく、『日本書紀』以後に『日本書紀』記事に合わせさせる政治的動きは、神社自身からすすんで起こったのが当たり前
3 社名や祭神のアマテラス統一化は明治から敗戦前まで当然行われ、現在再びそうなっている。これは神社庁の時代錯誤した統一観念であろう。神社庁には自由主義も民主主義もないのである。
4 なんと言っても最大の理由はアマテラス=天皇家祖神という記紀イデオロギーが中心思想であり、卑弥呼、日蝕などはおまけでしかない。しかも神社庁や藤原家が意図したことではなく、江戸以来の民間学者が勝手にアマテラスと卑弥呼、神功皇后を結び付けた説が人気となって独り歩きしだしただけのこと。ほとんどデニケン的お騒がせ空想小説の世界である。」


「1 滋賀県では3世紀の皆既日蝕は観られない」はそのとおりなので、不比等が691年に和邇氏が奉祭するムナカタの卑弥呼を祀った近江八幡市の日蝕(ひはえ)の杜(日牟禮八幡宮)を参拝して、日群れの杜に社名を変更するように迫ったと推理しました。

卑弥呼を祀る日触神社の存在は面白い?
ってありますが、面白くないですか?(^◇^)

古代氏族にとって祖霊であるはずの祭神やそれに因んだ神社名を変更するなど、簡単にできるものではないと断言できます。余程のことがあったということです。

明治政府は列強のアジア侵略に対抗するために国民統合を図る目的で「日本書紀」に基づく国家神道を創って国民教育まで行ったのです。これは革命政権の政策ですから、誰も逆らえるものではないでしょう。神宮寺と一体であったものをバッサリ切り離して祭神名も変えさせたところもあるようで、まったく酷い話でしたね。

686年に天武天皇が崩御した時の不比等も、幕末・維新の志士と同年代の27歳の若者でした。皇后鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女)と組んで、皇太子だったと思われる大津皇子に謀反の汚名を着せる謀略で自殺に追い込みました。鵜野讃良の子草壁皇子を皇太子にしましたが、3年後に病死しました。

そこで690年、母が宗像氏なので天皇にはなれないとされていた高市皇子を抱き込み、鵜野讃良を持統天皇として即位させます。そして高市皇子を太政大臣に据えました。そういう物凄いやり口で、絶大な権力を手にした32歳の不比等です。その歌の下の句「ひむれの杜に なびく白雲」が神社名変更の恐喝を表していると解釈しても全然おかしくはないでしょう(;一_一)

恐らく、卑弥呼を祀る日蝕(ひはえ)神社を創建した和邇氏の祖の名前まで、日本書紀で日触使主(ひふれのおみ)と変えさせたのではないかと考えています。

それで、4のデニケン?の話ですが、247年3月24日の日蝕のために伊都国男王に殺された卑弥呼の伝承を、持統天皇の即位を正当化するために創作したアマテラス女神の岩戸隠れに結び付けたと推理しました。卑弥呼と岩戸神話が後世の人間が勝手に結び付けた話ではないことは、日本書紀完成までの不比等と宇佐八幡宮創建に関わる人々の比売大神卑弥呼を隠す動きから分かりますよ(詳細は近日公開の別稿でどうぞ)(*^▽^*)

不比等は和邇氏が日蝕神社で卑弥呼比売神(宗像女神イツキシマヒメ)を祀ってもらっては困るのです。藤原氏の権力維持のために日本建国で活躍した氏族の話は葬りたいということでした(卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)

なお、宇佐市安心院町に居た卑弥呼は248年9月5日の日蝕を見ることができません(谷川清隆・相馬充「『天の磐戸』日食候補について」国立天文台報 第13巻, 85-99(2010)図2参照)。

こんな藤原氏にとって都合の良いウソで固めた正史「日本書紀」を日本人に押し付け、千三百年後の現在まで創作した神話で日本国民を操っている不比等はトンデモナイ悪党です。さらに、不比等の子孫の近衛文麿がまた酷い奴だと林千勝先生の研究で判明しました。国際金融資本にまんまと操られた文麿や風見章ら共産主義者の大手マスメディアによって戦争に引きずり込まれて日本国民が地獄を見ることになったのは、きっと歴史から隠された卑弥呼や大国主久々遅彦や悲劇の女王台与の怨念でしょうね|д゚)

【関連記事】
邪馬台国と卑弥呼の日食の謎

卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか!伊都国王が目撃した、海に沈みながら消えていくこの日没帯食が卑弥呼暗殺の動機でしょう(^_-)-☆

卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)
<参考文献>
「247 年 3 月 24 日の日食について」相馬 充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典 国立天文台報 第 14 巻,15-34(2012)
「北九州市周辺は皆既になるが,福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ,いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる.日食の間中,あたりは暗くならないことを指摘しておく.
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり,天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する,との見解がある([12]).卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に,北九州で,皆既または皆既に近い日食があったことは,注目に値する.」

[12]安本美典:『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』,勉誠出版(2003).


ΔT=8500(上図)とΔT=8900(中図)の中間の値ΔT=8700を採用しましたが、ΔT=8700以上であれば邪馬台国(宇佐市安心院町三柱山の卑弥呼の居城を中心とし、宇佐平野など周辺地域一帯)を含む北部九州の広い地域で観測できるということです。


(注1)本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)
卑弥呼は不弥国(うみこく)から野麻国(やまこく、和妙抄宇佐郡野麻郷=宇佐市安心院町)に疎開していたムナカタ族の姫巫女と推理しました。宇佐神宮のご祭神比売大神(宗像三女神)として不比等が隠しました。臺(台)は女王を意味しますから邪馬台国は女王が居城とする「やまこく」と言う意味で付けられた地名で、帯方郡太守劉夏と倭国大夫難升米(魏の正規軍の旗をもらった伊都国男王です)が談合して名付けたと突き止めました(ちなみに邪馬台国への行程も、西晋の基礎を築いた司馬懿の功績を大きく見せようとして、帯方郡から東南に万二千余里の呉を圧迫する位置に邪馬台国を置くために、倭国を全く知らない魏の朝廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせで実際の行程を改変した記事ですから、二十一世紀になっても邪馬台国の場所が確定しませんでした(^_-)-☆)。

倭国大乱の時期ですから海に面していて、いつ攻撃されるかわからない物騒な不弥国(うみこく)から要害堅固な山城に疎開したので、姫(院)の御心を安んじたというのが安心院の由来でしょう。宗像三女神の降臨伝説にある葦原中つ国の宇佐嶋という伝承にも合致します。安心院盆地は当時は葦の生い茂った広大な湿原でしたから、安心院町三柱山の三女(さんみょう)神社とその周辺一帯が卑弥呼の居城のあった宇佐嶋だったと考えています。昭和55-56年発掘調査された弥生終末期の宮ノ原遺跡は卑弥呼の侍女の居住域です(^_-)-☆


(注2)誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)
卑弥呼は、公孫氏が滅ぼされて、素早く魏に朝貢し、親魏倭王になって魏を後ろ盾として旧奴国(狗奴国ヤマト)に対立したと考えています。
卑弥呼は、もともと旧奴国(狗奴国ヤマト)側の勢力だったと見ています。不弥国を根拠地として沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を旧奴国(狗奴国)王族に供給していた太陽信仰のムナカタ海人族の姫巫女です。鏡は太陽神のお告げを伝えるための憑依の道具で、裏面の図柄は何か意味ありげなシナのものが好まれたということです。(^_-)-☆


古代史の謎を推理する(^_-)-☆





ややこしい話に最後まで有難うございます。通説と違うので、いろいろと疑問点などご意見をお寄せください(^◇^)
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【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆

2020-07-17 23:13:56 | 古代史
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物部氏と尾張氏・尾張氏と伊福部氏
2020-07-16 九里 【九里】を探して三千里
 
===*===
何だか、出雲族と物部氏の関係が思っていた様子と違い、物部が出雲いじめ…をしていたようなので、わからなくなってしまった。。私は今、迷子である。
===*===

フォローしているkunorikunori様の記事に上のようにありましたので、当方の調査範囲だったのでつい、いつものように不躾なお節介コメントをしました。

出雲族は縄文海人ムナカタ族(*^▽^*) (刮目天 一(はじめ))
2020-07-17 00:05:58
タイトルのとおり突き止めました。

二世紀初頭に奴国のスサノヲ大王が宮廷楽師らのクーデターで殺され、息子のイタケルが亡き祖母イザナミの実家米子に引き取られ成長し、父のコネで半島南部の鉄素材を仕入れて、父の後に大王となった天照大神尊ニギハヤヒに供給し、ヤマト朝廷の基礎を築いたニギハヤヒの吉備平定を助けました。ニギハヤヒが本当の皇祖神天照大御神です。

ニギハヤヒの子孫が先代旧事本紀のとおり、物部と尾張です。ニギハヤヒ直系の物部氏が纏向に旧奴国王族らを集めたヤマトの大王で狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)だと突き止めました。

イタケルの子孫は代々狗奴国(ヤマトの大王)に仕えたようです。狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦ククチヒコ)を代々襲名しています。

恐らく六代目久々遅彦が尾張王を主将とする邪馬台国連合倭国への追討軍に参加し、北部九州の倭国(師升の子孫が伊都国男王で倭王)を滅ぼしたのですが、尾張王がヤマトを裏切って倭国王になろうとしたので内戦が起きました。結局、久々遅彦が尾張王を倒して、卑弥呼の版図に山陰・北陸などを加えて支配したので大国主と呼ばれました。出雲族は久々遅彦に従ったムナカタ族です。久々遅彦はヤマトの大王の一族の有力者の尾張王を殺してしまったので、卑弥呼の後に同じムナカタ族の姫巫女台与(トヨ)を女王に立て、魏を後ろ盾にして結局ヤマトを裏切って対立することになりました。

そこで、ヤマトの大王は再度、追討軍を送り大国主・台与の倭国を攻め滅ぼしてヤマト政権が列島を支配します。その故事を大国主の国譲り神話にしたということです。ところが、魏の帝位を奪った晋がヤマトの後ろ盾の呉を280年に滅ぼしたので、晋の追討を恐れたヤマトは大国主と台与の子ホムダワケを祭祀王としてヤマト大王(応神天皇)にしました。

考古学などで検証して、これがヤマト王権の成立過程だと突き止めました。

神話はかなり真相を歪曲していますが、歴史を伝えているようです。詳細は刮目天の古代史へどうぞ。突然、失礼しました。




ご解説、わかりやすく、ありがとうございます!! (kunorikunori)
2020-07-17 11:34:08
とても分かりやく解説をいただきありがとうございます!
刮目天 一 (はじめ) 様

素人の私にもわかりやすいご解説をいただき、ありがとうございます。素晴らしくクリアに!!
羨ましく思っております。

『大国主と台与の子ホムダワケを祭祀王としてヤマト大王(応神天皇)にしました。』ということは、神功皇后が台与という説ですね! 妹も「豊姫」なので、関係がありそうと思ってはいましたが…

宗像族が籠神社のルーツとして、伊福部氏とも関係する様なのです。(森公章氏説)

また、貴ブログによりますと、尾張王が「仲哀天皇」の説があり、説得力がありました。
ありがとうございました。

久里双水古墳に関しても、その久里氏が石見では久利氏となり、近江では九里氏となった…などお聞きおよびではないでしょうか?

久里双水古墳の付近に神功皇后が鏡を鎮めたという伝説もあり、気になっております!

武内宿禰の伝承も近江八幡奥嶋にもあり、紀氏(和邇氏も)も入ってきているので、何かあるとは思うのですが。
思うだけで、さっぱりすすんでいないので、貴ブログで学びたいと思います。

コメントありがとうございました!!


早速、お返事、ありがとうございます。しかも貴兄のような古代氏族調査の達人からお褒めの言葉を頂き、舞い上がりそうです。ご存知のとおり、古い神社伝承は大和朝廷に気を使って記紀神話を表に出していますから、神社伝承をまともに受け止めると藤原氏にとって都合の良い歴史に改ざんされているので、訳が分からなくなります。

古代史が謎なのはその所為でしょう!

しかし一方で、真相解明のヒントを与えてくれるかもしれません。

末社や摂社などに本来のご祭神が隠されて祀られているようです。

これは分かり易い例ですが、前方後方墳の最古級のものが神郷亀塚古墳と言われていますが、乎加(おか)神社という古社の社地にあります。豊岡姫を祭神として白山比咩神を配神としていますから、豊岡姫の正体は豊受大神=女王台与(トヨ)だとすぐに分かります。(2020.7.18 赤字追加)

どうも台与の実家がここに在ったのではないかと想像しています。台与をモデルにした息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと『古事記』) 神功皇后息長宿禰王が父で、母親は葛城高顙媛とあります。三世紀前半(220年頃)と推定される神郷亀塚古墳の「木槨墓は朝鮮半島から伝わった埋葬法で、東側(第1主体)にある大きな木槨墓(幅1.3m、長さ4.6m、深さ1.2m)がつくられた後、西側(第2主体)の小さな木槨墓(幅1.15m、長さ3.5m、深さ1.1m)ができたのだろう。」第3次調査現地説明会報告にあります。台与の一族が被葬者かも知れませんね。

後の近江(米原から長浜)を支配した古代豪族の息長氏の祖は、Wiki[息長氏」によれば「『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするとされている[3]。」とあります。また、「息長の名義発祥の由来は、上古から持つ製鉄・鍛冶に関する技術からこの氏が生じたとみられる[2]。」とあり、製鉄の遺跡を調べました。近江の古代製鉄は盛んで、「滋賀県下の製鉄遺跡は、南部に逢坂山、南郷・田上山、瀬田丘陵があり、西部は和邇、比良山麓、北部には今津、マキノ・西浅井、浅井の計8か所に大別することができる。」岡野実「古代史に遊ぼう」第46回古代の鉄)とありましたが、弥生時代では彦根市妙楽寺遺跡の集落で弥生後期の土器と不明鉄製品が出土しています(川越哲志編「弥生時代鉄器総攬」電子印刷(株)2000,p.50)。

近江八幡奥嶋大嶋神社奥津嶋神社を見つけました。御祭神が大国主神(大嶋神社)・奥津島比売命(奥津嶋神社)となっていますが、境内社が七社(日觸神社、日吉神社、四宮神社、喜佐伊神社、行司神社、白山神社、綾神社)あり、白山神社は台与を祀っています。この境内社の筆頭の日觸神社が気にかかります。なんと、同じ近江八幡市に主祭神 を 誉田別尊、息長足姫尊、比賣神とする日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)があるじゃないですか(^_-)-☆

日牟禮(ひむれ)が、日觸(ひふれ)=日触のことだったのです。

日牟禮八幡宮の比賣神、つまり宇佐八幡宮の主祭神比咩大神が卑弥呼と突き止めています。

日触のために霊力が衰えたとして伊都国男王に殺されたと推理した卑弥呼を祀っているのです。



念のために日牟禮八幡宮の由緒を見ると、「日觸の転とする説があり、和珥・日觸使主に由来します。」とあります。和珥氏はWikiによれば、「出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰[1]または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や[2]、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある[3][4]。」

和珥氏は、卑弥呼の一族である縄文海人ムナカタ族の一派じゃないでしょうか?!

日触が原因で殺された卑弥呼の祟りが起こらないように密かに祀っているのだと思います(^◇^)

kunorikunori様、感謝!お陰様で今晩は興奮して寝られないので、安心院蔵を呑んでいます。
邪馬台国の香りがするいい焼酎ですよ。機会があれば、是非、呑んでいただきたい(^◇^)
あ、九里双水古墳についてはまた調べたいと思います。それではまた、よろしくお願い致します。



と記事を書きましたが、触と蝕は発音は同じだが意味が違うので日触と日蝕は意味が違うかもしれません!
前者はどういう意味かも今のところ不明ですが、日牟禮八幡宮の由来の一つにあった日群(ひむれ)の社は「日輪」が二つ見えたということかしら?!(*⌒▽⌒*)
酒がさめてきて調べて分かりました
ということは「ひふれ」ではなく「ひむれ」が元々の呼称だったのでしょうか?では何ぜ日触となったのか?疑問が湧きますよね(;一_一)
日食で卑弥呼が死んだもう一つの証拠だと早とちりかもしれませんね!ぬか喜びだったらすいません!(*_*;
(2020.7.18 赤字追加)

日群(ひむれ)=日蝕(日食)という説を発見しましたのでコメントしました。ご覧ください(*^。^*)

どなたか出典をご存知でしたらご一報ください(*^▽^*)

【関連記事】

卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

古代史の謎を推理する(^_-)-☆



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史書の中に隠された史実?(^_-)-☆

2020-07-15 12:34:04 | 古代史
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古事記・日本書紀のなかの史実 (4)~「ヤマトタケルの法則」
2020-07-14(19:14) 日本古代史つれづれブログ


いつも勉強させていただいています。
今回も興味あるテーマですので、助かります。
史書には事実だけが書かれていない、時にはウソが書かれているという認識が必要なのですが、何が本当で何がウソかを見極める技術が必要かと思います。

日本書紀に登場する天皇紀・国紀、あるいは古事記に登場する帝紀・旧辞が本当に存在したのかですが、日本書紀や古事記の前にこれらの史書を引いた文献があるのでしょうか?

継体天皇は、万葉集研究家の渡辺康則さんの万葉史観から考えると、本当は天皇に即位していない天智天皇のウソがばれないようにするために作られたダミーの天皇だと分かります(注)(2020.7.16 注追加)

天智天皇が大和で即位してない不自然さを隠すために先例を創作したものだと思いますが、当時の国際情勢を誤魔化すことも同時に行われているのではないかと考えています。現在調査中の百済ですが、日本書紀の記述やそれに基づく三国史記の内容もとても怪しいのです。4世紀から5世紀にかけてシナの史書と食い違いがかなりあり、意図的な歴史改ざんを感じます。日本書紀が基にしたという百済三書(百済記・百済新撰・百済本記)が存在したのか疑われます。これは「日本書紀の筆法」ではないでしょうか。古事記もこれを真似た可能性があります(『日本書紀』中の「百済本記」記事 飯田満麿)。(2020.7.16 赤字追加訂正)

そしてこの「前例創作の手法」は持統天皇の前に女帝を配置したものと同じ手法です。つまり彼女が最初の女帝で、皇后が女帝として即位する不自然さを隠し、その正統性を主張するために天照大神を女神に変えたと推理できます。推古天皇も皇極・斉明天皇もダミーのようです。(2020.7.16 赤字追加訂正)

「ヤマトタケルの法則」は多重人格的な描写によって実在したある人物の正体を隠す手法だと思います。誰なのかまだ突き止めてませんが、これはスサノヲにも当てはまりますしね。

その他にも一人ではなく、複数の人に似たような事績を割り当てるのも、時代を誤魔化し、真相を隠す目的だと思われます。神武天皇と応神天皇の東征はよく似ていますが史実ではありません。むしろ崇神紀に登場する大物主の子オオタタネコの話が史実に近いものになってると関裕二さんのヒントから分かりました。

このような歴史隠ぺいの手法が明らかになれば、編纂者が何を不都合な事実と考えているか推理できます。編纂当時の権力者の意図を推理すると、真相が浮かび上がってきます。特に分かり易いのは、神社伝承を日本書紀の神話に基づくものは朝廷に阿ったものだと直ぐに分かりますが、実は末社や摂社に隠したい本当の祭神を見いだすことができ、真相解明のヒントが得られます(例えば、奈具神社「新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆」参照)。

真相を探り出すには編纂当時の権力者が隠したいものは何か?を推理することが重要だと思います。既にご存知かもしれませんが、関裕二さんがたくさんヒントを書いてくださっていますので、参考にしました。



そして見つけ出した真相と思われることが事実かどうかは考古学などで検証しないといけませんし、真相らしい仮説から派生する予測も組み込んで拡張された仮説として実証できれば真相はより確からしいということになり、有力な説ということになります。ただし、その仮説が本当に真実かどうかは保証されるわけではないので、高い確度の確証を得るまで繰り返し検証しなければならないと考えています。こういう検証作業を通じて組み立てられた仮説(的)推論abduction or retroduction)が、研究対象とする時代の出来事を包括的に説明できる一般化理論となるということです。

古代史の謎を推理する



(注)渡辺康則氏によって中大兄は皇子ではなく、父の舒明天皇もダミーだと突き止められています(日本書紀では中大兄だけで、どこにも皇子とは書かれていない)。しかし、中大兄はナーガ(龍蛇神)を祀る一族の太子という意味ですから天照大神尊ニギハヤヒ直系の人物だと分かります。祖父は敏達天皇のようです。当時はまだ天皇という称号はありませんが、第17代奴国大王伊弉諾尊を皇祖とする大王家の系譜が兄スサノヲ直系と弟ニギハヤヒ直系の二系統あったということです(初代祭祀王応神天皇はスサノヲ大王直系大国主命の子)。天皇家は中大兄の孫の光仁天皇( 在位 770~781、桓武天皇の父)から天照大神尊ニギハヤヒの系統になって今上天皇まで続いているということですから初代ナーガ(奴)国王天御中主から万世一系の皇統の男系男子が日本の皇位を継いでいると考えています。日本書紀は天皇家の最も重要なことを隠し、天皇家さえ貶めていますから、早く正しい皇統譜を復原しなければならないと思います。(2020.7.16 追加)


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新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆

2020-07-06 13:17:41 | 古代史
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【検証9】奴国時代の話(その1)の(注2)Wiki「新羅」によれば、『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。と書いたが、新羅の第4代脱解(タレ)尼師今(在位:57年 - 80年)が倭人だと書かれている。その後、第9代から1代まで脱解王昔氏の子孫が王となったとある。(2020.7.10  赤字訂正)

脱解王は倭国の東北一千里の多婆那(タバナ)国から来たとあり、『三国遺事』では龍城国とある。

丹波の奴国から来た龍王だと分かる。(注)

つまり当時は丹波国の一部だった丹後半島で鍛冶製鉄や玉造りを行っていたと考えられる奴国大王スサノヲを示唆しているのだ。





奈具神社の祭神は豊受大神つまり女王台与としているが、その末社ではスサノヲとカグツチを祀っている。

カグツチはイザナミが生んだ火の神で、それが原因でイザナミは黄泉の国に行ってしまった。怒ったイザナギ大王はカグツチを十拳(トツカ)の剣で切り殺した。その遺体から神々が生まれたという記紀神話だが、その中に貴船神社の祭神高龗神(たかおかみのかみ)=龍神がいる。火の神は製鉄の神をイメージさせる。

つまり、奴国のスサノヲ大王は製鉄や列島内の色々な鉱物資源開発で王宮を留守にすることが多く、たまに帰ると母イザナミの属する縄文系ムナカタ海人族の祭祀様式を奴国の伝統祭祀に取り入れようとしたから、奴国祭祀を司る師升らの宮廷楽師たちに裏切られ、クーデターによって殺されたと推理した。カグツチはスサノヲのことではないだろうか。

クーデターを逃れたスサノヲの子イタケルの子孫が、スサノヲが開発した半島南部の製鉄所から代々鉄を仕入れて丹後半島で鉄器を製造して旧奴国王族に供給した史実を示唆しているようだ。第9代から1代の倭人の王が代々狗古智卑狗を襲名したスサノヲの子孫のことだろう。もちろん、半島南部の鉄はスサノヲの先代イザナギやそれ以前から奴国に供給するために丹後半島などで鍛冶製鉄が行われていたのだろうが、スサノヲ大王の大活躍が伝承として残っており、脱解王ということになったのではないだろうか。(2020.7.10  赤字訂正)



奈具神社の祭神を大国主狗古智卑狗が娶った女王台与をモデルとする豊受大神にしているが、

「日本書紀」を正史にしている朝廷に配慮したのか、強制的に変更させられたのか?


いずれにしても日本建国時の重要な史実を誤魔化しているようだ
(2020.7.8 青字改訂)

奈具は龍蛇神(nag)だから分かるのだ(^_-)-☆

【参考】半島の製鉄遺跡
スサノヲ大王が開発したと思われる半島南部の製鉄所(下図の1 - 4)からその直系の子孫狗古智卑狗らが鉄素材を丹後半島に運び、鍛冶製鉄を行って鉄器を旧奴国王族らに供給したと推理している。(2020.7.8 青字追加)


(注)Wiki「丹後国」によれば、
和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置された。

弥生時代前期から扇谷遺跡奈具岡遺跡などが見られる。

弥生時代後期になると(BC30年頃以降)中期中葉以降繁栄した上記遺跡は姿を消し、代わりに峰山町古殿遺跡、大宮町谷内遺跡、宮津市宮村遺跡などが繁栄する。後期になっても、鉄器、玉の出土は多く、先進文化は継続されていたようである。古墳時代になっても巨大古墳が数多く築造されており、大和政権に組み込まれた後も朝廷にとって重要地域だったようである。丹後半島は、日本海岸にあり、対馬海流がすぐ沖を流れており、朝鮮半島からの直接の流入があったものと考えられる。丹波王国の誕生 より)
二世紀の伊都国時代は倭人伝ルートが倭王によって抑えられていたため、不弥国(うみこく)のムナカタ海人族の援助を受けて出雲・丹後地方に鉄素材を供給していたと推理している。


余り聞いたことのないような話ですので、もしも疑問点がありましたら
コメントをお待ちしています。

お付き合い、ありがとうございます。
次回に続きますので、よろしくお願いします。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

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