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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)

2022-01-31 12:13:28 | 古代史
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2020-07-20 14:05:41に掲載したこの記事は、二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱を収めるために女王卑弥呼が共立され、二四七年頃に卑弥呼が死んだとする魏志倭人伝の記録の内容を解明するための重要なヒントとなりました。倭国王難升米に懐柔されて、狗奴国を裏切って邪馬台国連合倭国を成立させた、縄文系ムナカタ海人族の玄界灘を支配していたワニ氏の祖である、卑弥呼の父の赤坂比古を見つけ出すヒントになりました(「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。さらに、卑弥呼の死が二四七年三月二十四日の日食と関係していることを裏付けるものとなっていますから大発見ですよ(「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。少し込み入っていますが、お付き合いください(*^▽^*)。

前回のブログ「【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆」のコメントで推理したとおり、
卑弥呼が日蝕(ひえ)神社で祀られていたとしたら、邪馬台国の謎、卑弥呼の正体が一気に判明します。以下に説明します。もう一度そのコメントをここに書きます。


日牟禮(ひむれ)八幡宮 滋賀観光ホームページより

kunorikunori様
早速、よい情報を有り難うございます!
なる程、日牟禮八幡宮の山が日触山だったのですね!やはり、このあたりで日蝕が観測されたと考えるべきか?あるいは和邇氏がここで卑弥呼を祀るために社としたのか?
歴史改ざんの犯人不比等の歌に日群れの社と出てくるならば、日蝕神社が本当の名前だったのを強権で日群之宮と変えさせたら、地元は日触として朝廷と妥協したのではないかと想像できますね?ちょっと込み入った話ですが、どうでしょうか?o(^o^)o
当時の近江は鉄を抑えてましたから朝廷に対しても発言権はあったのではないかと想像しますが、どうでしょうか?

八幡宮のwikiによれば、「持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天(あめ)降りの 神の誕生(うまれ)の八幡(やわた)かも ひむれの杜に なびく白雲」)。」とあります!
不比等は卑弥呼の霊を祀る日蝕神社に参拝して、社名変更を迫ったようです(*`Д´*)


それでは、一つ一つ見ていきましょう(*^▽^*)

日牟禮八幡宮の祭神は、宇佐神宮とまったく同じですが、八幡大神を祀るようになったのは宇佐神宮の歴史年表によれば、以下のとおりです。

和銅五年(712年) 鷹居社を造り、八幡大神を祀ったのが最初で、霊亀二年(716年)八幡大神を小山田社に移し祀り、神亀二年(725年)小椋山(現在の本殿地)に八幡大神一之御殿を遷座する。また、東方の日足に弥勒禅院を建立する。(注1)

つまり、不比等がこの和歌を詠んだということであれば、この時には八幡大神は宇佐にも祀られていませんから、日牟禮八幡宮という名前ではなく「日群(ひむれ)の杜」でもなく別の名前の神社だったということでしょう。不比等によって比牟禮(日群)杜に変えられたということです。

そして八幡神はWikiによれば、「八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[4]。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[4]。」とありますから、691年の時点では八幡神は応神天皇のことではないと考えられます。

というのも、天降りの神は、スサノヲとアマテラスの誓約(うけい)で生まれ、諸説ありますが、宇佐嶋(安心院町三柱山)に降臨した宗像三女神(比売大神)を意味します。ここの「八幡(やわた)」は同じくWikiに、『「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる[4]。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り[4]、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる[4]。』とあります。

つまり、比売神(ムナカタ女神)卑弥呼の依り代としてこの神社に立てられた多数の旗を意味します。この八幡が応神天皇降誕を示すという説は、不比等の歌の時点では当てはまりません。そして、最後のフレーズ「ひむれの杜に なびく白雲」ですが、和邇氏が比売神卑弥呼を祀る日蝕(ひえ)神社を、その社名から類推して日群(む)れの杜と言い換えたというのが無理のない考えだと思います。比売神が日食のために殺された卑弥呼だという歴史の真相を隠すためでしょう。(2020.7.22 赤字追加)

和邇(和珥)氏は前回見たとおり、Wikiによれば、「出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰[1]または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や[2]、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある[3][4]。」

和珥氏は、卑弥呼の一族である縄文海人ムナカタ族の一派じゃないでしょうか?!

日触が原因で殺された卑弥呼の祟りが起こらないように密かに祀っているのだと思います(^◇^)


和邇氏は四世紀から六世紀にかけて、葛城氏没落後に天皇(大王)の妃を多数だした有力氏族です。天理市和邇町に四世紀後半頃の築造と推定される、中平年銘の鉄刀出土の東大寺山古墳があます(注2)。その北側に在る和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)の御祭神が阿田賀田須命と市杵嶋比賣命となっています。Wiki「宗像氏」によると、宗像氏の出自は「大国主神の六世孫、あるいは三女神の七世孫の吾田片隅命の子孫」とありますから、和邇氏は宗像氏と同祖だったのでしょう。だから、近江八幡市でも日牟禮八幡宮と大嶋神社・奥津嶋神社で宗像三女神を祀っていますから、和邇氏は縄文海人ムナカタ族の一派とみて間違いないでしょう。

つまり、和邇氏が日牟禮八幡宮で八幡大神とされる応神天皇を祀るのはヤマト朝廷の要請か朝廷への配慮でしかないということです。元々日蝕を連想させる名前の神社で卑弥呼(市杵嶋比賣命)を祀っていたということを意味します。

ズバリ、日蝕(ひえ)神社だったと思います(^_-)-☆

日触(ひふれ)という言葉は和邇日触使主の他に見当たりません(注3)。

日触(ひふれ)についてどなたか、詳しいことをご存知の方はお教えください。
ちなみに能「日触詣」は明治になって作られたようですが、観世流は秦氏ですから、何か真相を伝えたかったのかも知れません。国会図書館のデジタル・コレクションからダウンロードできますが、草書体なので簡単に読めません。どなたか堪能の方にお願いしたいです。何かヒントが隠されているかもしれませんよ。

日触(ひふれ)が日蝕(ひえ)の連想で作られた言葉であれば、

やはり、247年3月24日に北部九州一帯で見られた日食(北九州市付近は皆既)が原因で

卑弥呼が殺されたということを裏付けるものということです。


卑弥呼の正体は、縄文海人ムナカタ族の姫巫女でしょう!

不比等の歌の最後の部分「なびく白雲」を調べると、「青旗の 葛木山に たなびける 白雲隠る…(『万葉集』丹比笠麻呂)第4巻509番歌」がヒットしました。葛木山とは、葛城山の古い表記だそうです(「青旗の」が葛木(城)山の枕詞)。(2020.7.21 訂正) 

Wiki「葛城氏」では大泊瀬皇子(雄略天皇)が兄安康を殺した敵対勢力の一掃に踏み切った「一連の政変で滅びたのは玉田宿禰系のみであって、葦田宿禰系は5世紀末までしばらく勢力を存続させていたと主張する議論もみられるが[6]」(「空白の世紀と倭の五王(その1)(その3)」参照)。つまり、葛城氏と同祖ではないかも知れませんが、大国主・応神天皇の大王家にゆかりのある縄文海人ムナカタ族の和邇氏も、葛城氏が没落し雄略天皇になびいたように、「藤原氏になびくのだぞ!」と神社名の変更を押し付けた歌ではないでしょうか(;一_一)(2022.12.10 赤字修訂)

八幡宮の名称は「日本書紀」完成の721年ころからということですから、「神の誕生の八幡かも」を応神天皇のこととするならば、不比等の歌ではなく、後に作られた話になりますよ。日群れの由来の応神天皇がこの地で二つの日輪を見たというのもとても怪しい(卑弥呼が見た日食はこれだ(*^▽^*) 参照)

いずれにしても和邇氏がこの地で比売神卑弥呼を祭神として祀っていた社は

日蝕(ひえ)の社というのが最初の神社名であったのではないでしょうか?

藤原氏によって強引に神社名を変更されたので、

和邇氏はちょっと目立たぬように逆らって

日群(ひむれ)に似た日蝕を思わせる「日触(ひふれ)」という言葉を作り、

日触山・日触之宮の名称を残したのだと推理できますよ。

それに合わせて、この神社を創建した和邇氏の祖日蝕使主(ひえのおみ)を

日触使主(ひふれのおみ)と変えたのではないでしょうか?(^_-)-☆

「日本書紀」編纂の中で不比等らが書き換え、和邇氏が押し付けられた可能性もあります(注2)。(2020.7.20 青字訂正)

これに関して何か情報をお持ちの方はご一報ください。どうぞよろしくお願い致します。

(注1) 応神八幡神/顕現伝承に詳しい。それによると幾つかある八幡大神の顕現伝承の最古といわれるものに承和縁起に載る以下の説があります。
伝承①--大神清麻呂解状(弘仁6年-815-12月10日、解状-ゲジョウ--所管の宮司に上申する文書)--大神(おおが)氏系
伝承②--辛嶋家主解状(弘仁5年-814-2月23日)--辛嶋氏系
①は「大御神は、欽明天皇の御世(539--71)、豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に始めて顕れた。大神比義が戊子の年〔欽明29年-568・同32年-571-ともいう〕、鷹居社を建てて祝(ハフリ・神官)となって祀り、後に菱形小椋山に遷し祀った」〔 〕内は原注とあり、応神天皇としていますが、②の後追いで作られたようです。
②によれば、創建年がハッキリしているのは和銅三年(710年)乙咩神社(おとめじんじゃ)のようですが、応神天皇ではなく比売大神です。それ故、宇佐神宮年表では和銅五年の鷹居社からにしているようです。(2020.7.22 追加)

(注2)東大寺山古墳の被葬者は和邇氏だと考えられます。この鉄刀が卑弥呼が公孫氏から貰ったという説がありますが、中平年間(184-188年)は半島は混乱していたので、遼東太守公孫氏と倭国との交流も難しかったのではないかと考えられます。公孫氏が半島の混乱を鎮静化させて204年に帯方郡を設置してから、伊都国男王が沖ノ島経由で旧奴国王族に半島南部の鉄素材を供給していたムナカタ族を懐柔して、ムナカタの姫巫女卑弥呼が女王に共立されたと推理しています。したがって別の目的で作られたこの鉄刀を4世紀に半島に遠征していた和邇氏が入手したものと考えています。
と書きましたが、その後、倭国王が公孫氏から貰ったものを、公孫氏が魏に滅ぼされたので、赤坂比古に下賜したと考えています。(2022.6.27 赤字追加)

(注3)Wiki「米餅搗大使主」によれば、「大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。[2]」です。


不比等は歴史の真相を暴露する和邇氏を正史から抹殺したようです。

【関連記事】

【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆


卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

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【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?(*^-^*)

2022-01-26 20:31:27 | 古代史

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#2022-01-26 20:31:27に記事にしましたが、最新の知見によって(注4)を追加して、朝鮮半島原始農業の図を一部修正しました。

#2021-03-11 23:09:43にこの記事を掲載しましたが、その後いい本が見つかり、重要なことが判明しましたので(注2)を追加します。最後までどうぞよろしくお願い致します。

日本人のルーツを考えるときには真っ先に、水田稲作がどこから来たのかが問題になります。水田稲作の文化を持った人々が列島に移住して拡がったのか、もともと日本列島に居た縄文人がどこからか運んで栽培されるようになったのかです。しかし、すでに水田稲作は紀元前四千年~前三千年の長江河口の人びとが始めたと知られています(注1)。Y染色体DNAの解析で現代日本人男性のルーツが、縄文系約40%、倭人(江南の呉人)系が約25%、そしてシナ人系約17%、殷(商)人系が約8%ですから、江南系の倭人(後に縄文人と混血して、共に倭人と呼ばれる)が、最初に北部九州に伝えた可能性があります。

現在日本最古の水稲耕作遺跡は佐賀県唐津市の西南部の菜畑遺跡(なばたけいせき)と知られています。Wikiによれば、この水田跡は弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)紀元前930年頃とあります(放射性炭素14の較正年代)。

韓半島への伝来は、『研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している[12]。』とあり(Wiki「稲作」より)、雑穀も混ざっているので恐らく陸稲だと思います。半島で発見された水田跡はさらに新しく、紀元前六世紀の松菊里遺跡などで見つかっている程度なので、先に日本に伝わってから半島南部に伝えられたのではないかという説があるわけです(注2)(2022.1.26 赤字追加)

しかし、Wiki「倭・倭人関連の中国文献#『論衡』」によれば、以下の文献が見つかっています。

『論衡』倭人について、

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

とみえる。

周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、成王の在位は前1042年~前1021年とされるが、『論衡』自体は1世紀に書かれたものである。白雉は食用に、暢草(ちょうそう)は服用に、それぞれ供されたされたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。


「倭人が献じた鬯草(暢草)とは何か、周の成王の時。」によれば鬯草とは?

江上波夫氏は、
「鬯(ちょう)。黒黍(くろきび)を醸(かも)して酒と為す、鬯と曰(い)う。芳草を築き以て煮(に)る、鬱と曰う。鬱を以て鬯に合し、鬱鬯と為す。之(これ)に因(よ)りて草を鬱金(うっこん)と曰い、亦(また)鬯草と曰う」

この草は、中国の鬱林(うつりん)郡の名産の鬱金(うっこん)草だ、という解釈から、この「倭人」とは、鬱林郡に遠からぬ江南近辺に住んでいた種族だろう、と推定され、“そのあと、この種族が日本列島へ民族移動したのではないか”と続ける。「日本列島→中国本土」という、貢献ルートではないわけです(『続日本古代史の謎』朝日新聞社刊、所収講演)。

王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実であろう。
とされています。

鬱林(うつりん)郡は唐代から民国初年にかけて、現在の広西チワン族自治区玉林市一帯に設置されたとあり、すでに紀元前十一世紀には倭人と呼ばれる人々が東アジアで盛んに活動していたことを示しています(注3)。

この江南出身の倭人(江南系倭人)によって北部九州にもたらされる水田稲作文化は直接日本列島に伝達されたと考えるよりも、下図に示すように長江河口から東へ海流に乗って済州島に到達し、北上して韓半島に渡るルートが考えられます。地理的に韓半島南部で日本列島よりも先に始められたと考えるのが自然です(注4)



そして、紀元前十五世紀から始まる無文土器時代前期(前850年頃まで)の 『後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。』とあり(Wiki「無文土器時代」より)、江南系倭人が活発に活動する紀元前十一世紀ごろに、半島南部で水稲耕作が行われた可能性が高いと考えられます。上で述べた江南系の倭人がすでに半島に来ていた縄文人と混血して生まれた縄文系倭人(多分父が江南系で母が縄文人でしょう)で、どちらも倭人と呼ばれるようになったようです。



紀元前473年に呉が越に滅ぼされたとき、呉王族(周の先王古公亶父の長男太伯と次男虞仲が紀元前十一世紀ごろ江南で呉を興したと伝わっている)の一部が江南系倭人の手助けで半島南部(全羅南道か慶尚南道か)に逃亡し、定住した模様です。しかし、紀元前四世紀ごろ寒冷化が進み、呉王族は対馬・壱岐を経由して南下し、福岡市早良平野の吉武高木遺跡に移住したと推理しています。天皇家の皇祖神と考えられる天御中主(アメノミナカヌシ)です。弥生時代前期末か中期初頭のことです。魏略逸文に「倭人は太伯の後」という倭人の伝承が載っていますが、倭の王族のことですので、天皇家の遠い祖先にあたりますから驚きです。

【関連記事】
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(注1)『稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている[4]。』とありますが(Wiki「稲作」より)、水田稲作は、『中国では、紀元前4000-3000年[1]新石器時代の馬家浜文化地域で水田跡が発掘されている[2][3][4]。有事のために貯蔵されたり、死者の埋葬時に共に埋められたりした新石器時代から皮付きの米が発掘されている[5]。』とあります(Wiki「田」によれば)。馬家浜文化地域というのは長江河口の現在の江蘇省南部から浙江省北部あたりです。

(注2)李昌熈「紀元前1千年紀の韓日関係」によれば、「韓半島南部では土器に残された圧痕やプラントオパール分析、孔列文土器の土器の時代に比定されている蔚山玉峴(オクキョン)遺跡の小区画水田などから、すでに紀元前11世紀の青銅器時代前期には水田稲作が行われたことは明らかである。紀元前10世紀までさかのぼっている西日本の稲作水田開始年代は、韓半島南部における水田稲作の開始年代に対応したものである。」「紀元前10世紀頃から、水田稲作文化に伴う物質文化と精神文化を包括する文化複合体が韓半島南部から日本列島へ拡散する。その背景には集団的で大規模な人の移動があったと考えられる。一方、日本列島から韓半島へ拡散した弥生系の遺物はほとんど見られない。」とあります(藤尾慎一郎編「再考!縄文と弥生」(吉川弘文館)2019、pp.60-61)。また、「日本列島に水田稲作文化を伝えたのが、松菊里文化の人々である。彼らと出会ったのは九州北部玄界灘沿岸地域の採集狩猟民(縄文人)である。」としています(同書。p.47)。刮目天は松菊里(ソングンニ)文化の人々は揚子江河口部の江南から半島南部に渡って来た倭人(呉人)と考えています。韓半島には縄文人も列島から渡って来ていたと思われ、彼らと混血していた可能性もあります。ですので、紀元前10世紀には北部九州へ渡って縄文人と交流したようです。(2022.1.26 追加)

(注3)紀元前206年から後8年の前漢時代を記述した「漢書 地理誌」「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」とあるので、この倭人は半島南部と列島を中心に活発に活動していた江南をルーツとする水田稲作と漁労を行う人々が安曇族で、縄文海人ムナカタ族も合わせて共に倭人と呼ばれたと考えられます。安曇族が西日本に分布する遠賀川式土器の担い手で、縄文人に稲作技術を伝え、その縄文人によってさらに東側に水田稲作が伝えられたと考えています。

(注4)紀元前十世紀ごろ頃の半島では水田跡が見られないので、半島の縄文系の人が湿地での散播式農法での水稲栽培を行っていたようです。その後、江南の倭人が北部九州に灌漑式の水田耕作を行った二段階渡来説が有力のようです(大川直士「倭国の創成期」論文019,日本古代史ネットワーク 2024.3)。


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天皇家が高麗にゆかりがあるのか?(;一_一)

2022-01-23 12:31:43 | 古代史
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2017-09-21 19:14:50に掲載した記事に、その後判明したのですが、謎が多いので、その解明を加えて大幅に改訂しました。最後までお付き合いください(*^▽^*)

韓国紙、「歴代天皇で初」と詳報=埼玉の高麗神社参拝
2017.9.21 15:02 時事通信

 【ソウル時事】21日付の韓国主要各紙は、天皇、皇后両陛下が20日、古代朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人を祭った埼玉県日高市の高麗神社を参拝されたことについて、「私的な旅行の一環だが、歴代日王(天皇)で初めて」と写真付きで詳しく報じた。

 中央日報は、天皇陛下が2001年の会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べたことなどを紹介。「韓国の歴史と文化に関心を示してきた」と伝えた。

 中央日報や朝鮮日報によると、陛下は、神社を案内した宮司に「高句麗はいつ滅亡したのですか」「高句麗人と百済人は、どのような違いがあるのですか」などと質問し、強い関心を見せたという。

 東亜日報は「天皇は訪韓に意欲を示してきたが、実現していない」と指摘。「18年12月または19年3月に退位するとみられており、在位中の訪韓は難しい状況だ」と解説した。


高麗神社(こまじんじゃ)をWikiで調べました。「現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は716年武蔵国高麗郡が設置されたが、その辺りの高句麗からの帰化人が建てた神社」と言われています。

天智天皇五年(666年)に高句麗の使節の一員として玄武若光が日本に来てそのまま帰化したと「日本書紀」にあります。668年に高句麗が唐に滅ぼされましたが、救援依頼目的で来日したのです。しかし、すでに663年に倭国は白村江の戦いで敗北していたので、日本は最早高句麗を助けることができないということで、使節団はそのまま日本に留まったようです。

その37年後の大宝三年(703年)従五位下の高麗若光が高麗王(こにきし)として姓(かばね)を与えられたと「続日本紀」にあります。高麗神社はこの高麗王若光をご祭神にしています。

そこで、高麗神社の公式HPでは玄武若光と同一人物と見ており、以下のように解説されています。

若光の渡来から半世紀を経た霊亀2(716)年5月16日、大和朝廷は駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総・下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)の七国から高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」を創設(続日本書紀巻第7の記述)。この時、若光は郡の長官に任命されました。若光は郡内の高麗人をよく指揮し、未開の地を開発し、この地で波瀾の生涯を終えました。郡民はその徳を偲び、その霊を祀り、高麗郡の守護神としたのです。

しかし、Wiki「高麗若光」では682年に没した最後の高句麗王の寶臧(宝蔵)王を父としていることになってはいますが、Wiki「宝蔵王」からは玄武若光が王子であったかわかりません。

「日本書紀」には「天智五年冬十月二十六日、高麗(こま)は臣乙(まえつきみ)の相奄鄒(おつそうあんす)らを遣わして調を奉った。大使は臣乙の相奄鄒(おつそうあんす)、副使の達抵遁(たつそうどん)、二位の玄武若光(げんむじゃくこう)等である。」とあるので、玄武若光は宝蔵王の臣下だと思われます。

高麗王の姓(かばね)を賜った高麗若光が玄武若光と同一人物であれば、高句麗の王子ではないと思います。しかし、もしも違う人物であればいつ日本に帰化したのか記録がないので、本当に高句麗王族なのか不明ですが、高麗王の姓を貰った時に従五位下だったので、すでに帰化して殿上人(貴族)になっていた可能性もあるのでやはり使節団の一行の玄武若光でしょう。ツングース系の高句麗王族ではないと思います。

高麗神社に、将軍標(しょうぐんひょう・韓国語:장군표、チャングンピョ)と呼ばれる、朝鮮半島の村落に見られる魔除けのための境界標が鳥居の手前に置かれています。天下大将軍・地下女将軍と刻まれ、男女の標が対になったものとなっている。朝鮮語でチャンスン(장승、長栍、長丞)とも呼ばれています。「竿頭に鳥が止まった神竿をソッテ(솟대)、人面を彫った神木をチャンスン(長栍)という。鳥は天地を往来して神の使いをすると信じられて神格化され、神木には人面を彫って人格神化したという[1]。」wiki「将軍標」より)



高麗神社のすぐ南に在る高麗山聖天院(しょうでんいん)勝楽寺のHPを見つけ、これまた驚くべき発見をしました(^_-)-☆

【聖天院縁起】によれば、以下のとおりです。
聖天院は奈良時代に高句麗より渡来した高麗王若光の菩提寺として、侍念僧勝楽上人により天平勝宝3年(751年)に創建されました。 若光の守護仏聖天尊を本尊とし爾来600年間法相宗の道場でありましたが、貞和年間(1345年)中興秀海上人の代に真言宗に改宗されました。 天正年間(1584年)圓真上人により不動尊(胎内仏弘法大師御作)を本尊とし聖天尊を別壇に配祀し、現在に至っています。 江戸時代には高麗郡の本寺として、門末54箇寺を擁するほどの隆盛を誇り「院主の格式は諸侯に準ずる」とも記録されています。

しかし、その縁起よりも前のこのHPの冒頭で、高浜虚子の作った謎の俳句がありました。

蛇氏(くちなわし) 汝も高麗の 遺臣かや(虚子)

蛇氏(くちなわし)って一体、どんな氏族のこと?

はい、刮目天の古代史をご覧の方は直ぐにひらめくと思います。

そうです。龍蛇神(ナーガ)、つまり奴国大王スサノヲの血筋であった大国主命を奉祭する氏族のことでしょう。

え?と思われる方は高麗神社の御祭神をもう一度よくご覧ください。

そうなんですよ。御祭神は高麗王若光だけではなく、大国主命の分身の猿田彦と武内宿禰が御祭神だったのです(「古代史のカギを握る神々の正体?」参照)。高麗王若光は大国主久々遅彦を奉祭する一族だったということでしょう。高句麗の領土に居た倭人の一族が統一新羅から日本に亡命して帰化したと考えられます。

高浜虚子がどうして気付いたかは分かりませんが、聖天院にも「天下大将軍」と「地下女将軍」の将軍標が置かれていました。

つまり、「天下大将軍」と「地下女将軍」の正体はサルタヒコとアメノウズメであり、三世紀の実在人物の大国主久々遅彦と女王台与でした。女将軍は神功皇后台与のイメージです。実際に台与はヤマト軍に伊都国まで追い詰められ、武器を持って奮戦し戦死した史実の伝承から来たものと考えています。糸島市の平原王墓が女王台与の墓ということです(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。

現在の日本の神社の形はどうも古代朝鮮半島南部の倭人が祀っていたものが起源のようです。蛇が鳥となる文化は前回の「大国主はトビヘビだった?」で見たとおりです。鳥居はその名前からもソッテが起源でしょう。勿論、注連縄は二匹の蛇が絡み合った姿です。大国主と台与が二匹の龍蛇神とされています。そして今まで謎だった狛犬(こまいぬ)の起源こそ高麗の将軍標ではないでしょうか?つまり、高麗狗(こまいぬ)は神社に置かれた大国主と台与を象った将軍標から来たものでしょう!天下大将軍が大国主狗古智卑狗だからかもしれませんね( ^)o(^ )

だから高句麗は百済とは異なり、血統的にご皇室とは所縁(ゆかり)が無いはずですが、両陛下は半島から渡来した倭人(渡来人)に親しみを感じておられるのでしょう。現代コリアンが日本の起源に異常反応していることも彼らの文化の基層部分は日本の神々だったということに気付いているからなのかもしれませんね。(注1)

【参考記事】
半島の古代史だ!(漢四郡まで)



渡来人は異民族とは限らない?
新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(龍王、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族卑弥呼と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏が祀っていた原八幡神は宗像女神卑弥呼です。

(注1)百済と日本の関係については、桓武天皇の生母高野新笠が百済の武寧王の子純陀太子を先祖とすると『続日本紀』に書いてあるので、ゆかりがあるにはあるが、神武天皇以来の男系男子による万世一系というのが重要なのだ!もしも、男系に臣民の血が入ると王朝交代ということになるからだ。そしてそのような事実は認められないというのが日本の天皇家のすごいところだ(何故万世一系なのか、その理由は括目天の古代史をご覧ください)。

しかし、コリアンによる百済が日本の起源というウリナラ起源説が拡められていて、韓国首相も日本の教科書にその記述が無いことで文句を付けているようです(「韓国首相「日本の起源は百済…日本の歴史歪曲、絶対許せない」(1)ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.04.10 09:35」)。

金容雲「日本=百済説」(三五館)という本を読みました。しかし、考古学の裏付けのない珍説であって、逆に百済人の多くが倭人だったと分かる話です。これはY染色体DNAハプロタイプの分布からも裏付けられています。百済滅亡で日本に亡命できたのは倭人語を話していた倭人だからでしょう。日本に残る地名を百済が起源だというように根拠が逆立ちしてしまっていますが、百済に残る地名も倭人が付けたものでしょう(「渡来人は異民族とは限らない?(注3)」参照)。

また百済王家は高麗王と同様に、帰化して天皇の臣下になっていましたが、文献のどこにも百済王が日本の支配者だと言う記述はありません。

半島南部に前方後円墳が築造されていることは五世紀にヤマト王権の支配下にあったことを示すもので、高句麗の広開土王碑の記述とも一致することはよく知られています。

だから百済の武寧王が日本を統治した物証など皆無です!武寧王と王妃の木棺が日本特産のコウヤマキを使っていた事実は、百済王族も倭人であったことを示唆していますよ。

もしも日本=百済説が本当だったら、今頃日本の国名は百済となっていたはずですね( ^)o(^ )!

【関連記事】
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?


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大国主はトビヘビだった(^◇^)

2022-01-20 16:24:24 | 古代史
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2020-05-29 15:12:54の記事に書いたリンク先が切れていましたので、内容を少し追加しました。最後までお付き合いください(*^▽^*)
登美の長髄彦(ナガスネヒコ)が神武天皇の即位に反対してニギハヤヒに殺されたという神話ですが(注1)、このニギハヤヒは、その直系のヤマトの大王を意味します。ヤマトに国譲りした大国主を、実は殺してヤマト政権を成立させ、大国主の子のホムダワケを祭祀王(初代天皇)として三輪山で大国主を祀らせた史実に基づいた神話だと分かりました。ナガスネヒコの父は事代主とのことです(紫竜様の「富家伝承と考古学~渡来編」のリンク先が切れていました。どなたかご存知の方はお教えください!)。事代主は大国主の子ですが、神話の中で創作された人物です。つまり三人とも大国主のことだったのです。日本建国の真相を隠すトリックでした。

最初の邪馬台国宇佐説の冨来隆先生が指摘していましたように富氏は登美(トミ・トビ)だと思います。その正体は東南アジアに生息する龍のように空を飛ぶトビヘビでしょう(注2)。



ご存知のとおり生駒市の富雄川流域にはナガスネヒコ、ニギハヤヒに関係する神社や遺跡が多いようです。また、奈良盆地南の桜井市の茶臼山古墳の所在地名が外山(トビ)ですから、大国主狗古智卑狗(出雲・丹波王)が第三次倭国大乱で戦死して葬られた久留米市の祇園山古墳(高良山の西麓)から、台与との間の子の応神天皇が即位した後、ヤマトに遷され前方後円墳で改葬されたと推理しました。大国主はヤマト朝廷が最も畏れる人物なのです。

前回見たとおり滇王国の羽人が出雲地方にも来ていました。滇王国は中国雲南省最大の淡水湖滇(てん)池付近に在った前漢時代の紀元前3世紀頃の国です。晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)から福岡県志賀島で発見された金印と同じ蛇紐の金印が発見されています。漢より与えられた金印などの紐(つまみ)の形は羊・亀など民族の特徴を表すことが知られているので、漢王朝は滇王と奴国王は同族と見ています。



ただし、奴国王はヘビをナーガと呼んで神と仰いでいた江南出身の倭(呉)人の王です。倭国の最初の王が紀元前4世紀に半島南部から福岡市早良平野の吉武高木遺跡に遷った天御中主(アメノミナカヌシ)です。「天」は海の意味ですからウミヘビ=奴(=ナーガ)を神とする国の御主人様=王という名前でした。呉王夫差の流れを汲む皇室の始祖王です。つまり倭人は周の先王古公亶父(ここうたんぽ)の長男太伯の後という「魏略」の伝承は正しかったということです。大国主狗古智卑狗は「宋史 王年代紀」第18代奴国大王スサノヲの直系の子孫です。

一方、滇王国の人々は紀元前4世紀に長江下流に在った水田稲作・漁労民の越が牧畜・畑作民の楚に滅ぼされて、越人の一部がインドシナ半島、インドネシアやインドのベンガル地方などに散った人々の一部だとみています。日本列島に来たのは紀元前5世紀に越に滅ぼされた呉人が長江下流に残留していたので、その人たちがすでに半島南部・北部九州から列島各地に展開していた呉人(倭人)を頼って出雲地方に入植した可能性があります。大国主は「トビ」ですから、その人たちがヘビを「トビ」と呼んでいたようです。

GaneshPrasad Arunkumar et.al. " A late Neolithic expansion of Y chromosomal
haplogroup O2a1-M95 from east to west " 2015 Institute of Botany, Chinese Academy of Sciences
より)
弥生文化や日本語と強い関係が知られるインド南東部タミル地方(スリランカの東側)に約20%程度存在することが上の分布図から分かる。(詳細は「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」

ついでに、神功皇后のモデルとなった母の台与は、武器を取って奮戦し、戦死した糸島市の平原王墓に葬られましたが纏向遺跡の箸墓古墳で改葬されたと考えています。箸墓が台与の墓と指摘する研究者は多いですね。箸墓の伝承では、大物主大神の正体が可愛いオロチ(蛇)だとわかったので驚いて尻もち着いたところ、大事な所に箸が刺さって死んだヤマトトトビモモソヒメということですから、大国主の妻で女王台与ということです。姫の名の「トビ」は言うまでもないですね(^_-)-☆

平原王墓は古墳時代初期に盛行した底部に朱が敷かれた割竹形木棺墓が決め手です

割竹形や刳り抜き木棺は弥生前期から北部九州で見られますし、周溝から出土する遺物などによって、平原王墓は二世紀末築造という方が多いようです。しかし、これらの木棺からは朱は検出されてないようですし、王墓ではありません。その頃の伊都国にあのような豪華な副葬品で葬られた女王が居たことは記録に全くないですし、師升王の子孫の伊都国男王(大夫難升米)と旧奴国勢力との抗争の時代(第一次倭国大乱)でしたから、そのような女王は存在しないし、卑弥呼の墓は径百余歩(直径約150m)の円墳でもあり、卑弥呼のものではありません。

まして「日本書紀」で創作された持統天皇をモデルとするアマテラス女神の墓でもあり得ません。本当の天照大御神は吉備を平定してヤマト政権の基礎を築いた天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ニギハヤヒ(「宋史 王年代紀」 第19代王天照大神尊)と突き止めました。クーデターで奴国司祭師升に殺された最後の奴国大王スサノヲの弟だと推理しています(注3)(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」参照)。

応神天皇の即位の史実は「日本書紀」では崇神紀のオオタタネコの話でもあります。崇神天皇はハツクニシラススメラミコトのひとりですので、纏向に旧奴国王族を呼び集めた物部氏の祖である狗奴国王卑弥弓呼をモデルにしたと考えています。最初の前方後円墳纏向石塚古墳に埋葬されたとみています。応神天皇即位は卑弥弓呼王の直系のヤマト大王(物部氏の祖)が呼び寄せたと考えています(卑弥弓呼、正しくはヒコミコ?は襲名かも知れません)。

日本の神話は「日本書紀」完成時の権力者藤原不比等によって、藤原氏に都合の悪い日本建国の話を隠す目的で作られたことを関裕二さんが指摘しました。神話は全くの虚構ではなく史実を歪曲してはいますが、反映しているようなので、不比等の意図を見抜けば、古代史解明のヒントになります。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆



(注1)長髄彦(ナガスネヒコ)という名を聞いたことがあると思います。神武東征神話に登場する人物でイワレヒコ(神武天皇)に最後まで抵抗した大和側のリーダーです。イワレヒコ率いる皇軍が内つ国(大和)に着いてからナガスネヒコに撃退され、一旦は熊野まで回って再度、ヤマトの東から進撃し、ついにイワレヒコの皇軍は長髄彦(ナガスネヒコ)を討つことになります。そこからの話を以下に、『日本書紀・日本語訳「第三巻:神武天皇」』より引用します(青字は引用した個所)。

イワレヒコは、「戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空が暗くなってきて、雹が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄(とび)は光り輝いていて、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆、眩惑されてしまい力を発揮できなかった。

長髄(ながすね)というのはもと邑むら(村・領地)の名であり、それを人名とした。

皇軍が鵄(とび)の瑞兆を得たことから、当時の人たちは鵄の邑(とびのむら)と名づけた。
現在、鳥見(とみ)というのは、これが訛ったものである。」


時に、長髄彦は使者を送って、天皇に言上し、
「昔、天神の御子が、天磐船(あめのいわふね)に乗って天降られました。櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで私は、饒速日命を君として仕えています。一体、天つ神の子は二人おられるのですか? どうしてまた、天つ神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、それは偽者でしょう」

天皇が答えた。
「天つ神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天つ神の子ならば、必ず表(しるし、証拠)があるだろう。それを示しなさい」

長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢(あまのははや、蛇の呪力を負った矢)と、歩靭(かちゆき、徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ)を天皇に示した。

これを天皇はご覧になって、
「偽りではない」
と言われ、帰って所持の天羽羽矢一本と、歩靭を長髄彦に示された。
長髄彦はその天つ神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。

けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。
そして、間違った考えを捨てず、改心の気持ちがなかった。

饒速日命は、天つ神たちが深く心配されているのは、天孫のことだけであることを知っていた。
長髄彦は、性格が捻れたところがあり、天つ神と人とは全く異なるのだと教えても理解しそうもなかったため、饒速日命により殺害された。

そして、饒速日命はその部下達を率いて帰順された。
天皇は饒速日命が天から下ってきたということが分かり、今ここに忠誠を尽くしたので、これを褒めて寵愛された。これが物部氏の先祖である。


イワレヒコはナガスネヒコとの決戦に至るまでに多くの敵に散々苦しめられましたが、その都度、天つ神の助けによって敵を滅ぼすことができました(今回は省略しましたが、最終戦に至るまでの模様は『日本書紀・日本語訳「第三巻:神武天皇」』を参照してください)。多くの方は誤解されているかも知れませんが、皇軍が圧倒的な大軍勢で敵を大いに討って大和を征服したという英雄譚ではないのです。勝利の過程も、投降した敵を酒に酔わせて騙し討ちにしたり、敵の屍体を斬って辺りを血だらけにするなどは、とても日本人の発想ではないものです。そして、すでに大和に降臨していた饒速日命が、その臣下で義理の兄でもある長髄彦を裏切って殺したことによりもたらされた勝利でした。

なぜ饒速日命が長髄彦を殺さねばならないのかの理由が上で説明されていますが、このような不合理な説明ではとても納得できません。長髄彦は自ら饒速日命を主君としていると言っていますので、イワレヒコに恭順するように饒速日命から命じられれば、いくら戦う準備が整っていたとしても長髄彦は命令に従わない理屈はありません。また、天照大神もはじめから、先に降臨している天孫の饒速日命に命じれば、ヤマトでの戦闘など起こりようがありません。

ヤマト王権が成立したのは三世紀の纏向遺跡であることは、ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の存在によって分かっています。ですから神武東征が史実であるならば考古学上の証拠があるはずですが、これも見つかっていることも聞きません。三世紀のヤマトでは戦乱の痕跡が全くありません。纏向遺跡も防御的な環濠集落ではない、突然建設され、九州を除く多くの地方から首長クラスの人々が集合して祭祀を行う政治都市というのが特徴です。さらに、ヤマトから九州や各地に遠征して、日本が統一されたことも考古学の成果から分かります(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。ですから、「日本書紀」で創作されたおとぎ話というのが常識的な見方になるはずです。しかし、最近になって保守層が初代神武天皇は存在したはずだから、史実だという主張がされるようになっていますが、学術的には相手にされることはありません。

ではなぜ「日本書紀」で荒唐無稽なおとぎ話のような神武東征神話を挿入したのかを考えると、日本の建国の史実を隠す編者の目的が見えてきます。編者は天武天皇の皇子だった舎人親王となっていますが、日本書紀完成当時の権力を握っていたのは藤原不比等でした(「神話が隠した不自然な史実」参照)。天武天皇の命により編纂された大宝律令が、崩御後の大宝元年(701年)に完成されました。日本史上初めて律と令が揃った本格的な律令です。この律令体制で藤原氏の権力を将来に渡って維持するためには、神祇祭祀で日本建国で活躍した有力な氏族が復活するのは不都合ですので、建国の史実を隠し、藤原氏(中臣氏から分かれたことになっている)の遠祖に活躍させるために改ざんする必要があったのです。不比等は各地の有力豪族が祀る神社の祭神や社名まで強引に変えさせています(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)(2022.1.21 赤字訂正)

(注2)富来隆「卑弥呼」学生社、1970,pp.68-87
富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」<抜粋>
▲八幡(やわた)大神がじつは蛇神であったと伝えられることは、私たちにあらためて八幡神の発現を考えなおさせずにおかない。
<中略>
長髄彦=登美彦の「登美」というのはトビすなわち大蛇神(生駒山の山ノ神であり、登美彦のトーテム)であって、それが時に「化して鳥(トピ)」となったものであろう。金ノ蛇→金の鳥(トビ)、また白蛇→白鳥の図式そのままの典型的な実例の一つである。そのトビが登美彦の側から飛び移って、天皇の弓にとまったのである。こうなってはもはや登美彦は、天皇軍に敗れざるをえなかった。書紀の一文の真意は、こういうことではなかっただろうか。

また、出雲地方ではウミヘビが漂着すると神社に奉納されるとあります。
出雲地方ではウミヘビを龍と呼ぶ?!より
リンクが不正となるので、URLを書けませんでした。
キーワード「出雲大社に龍神」で検索してください。

(注3)「宋史 王年代紀」
 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。
 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。
 次は綏靖天皇。・・・・・
(2020.5.30 王の読みを『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』により追加)


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【国宝】臼杵石仏の謎?(*^-^*)

2022-01-06 20:39:31 | 古代史
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前回ご紹介した狗古智卑狗の霊ラインに嵌りっぱなしです。他のことが出来ないので何とかしないといけないのですが(´ω`*)
いや今回も、また大発見ですから、霊ラインから逃げられない運命かも知れません(*^-^*)

表題の臼杵石仏ですが、大分県を代表するもので、最初に国宝に指定された有名な磨崖仏群ですね(是非、このページの写真をご覧ください)。「古園石仏大日如来像に代表される国宝臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。誰がどのような目的で造営したのか、はっきりとしたことは分かっておらず、今もなお多くの謎に包まれています。」とあります。何で大分県にこんなにも多いのか?阿蘇山や由布岳などがあるので火山活動で夥しい数の岩石が産まれましたから、素材には困らない!と言っても、多くの労力をかけて何で石仏を作らなければならないのか?ということでしょう。

その謎を解くヒントを、またまたYouTubeの動画で発見しました。



豊後大野市にある標高589mの稲積山の山頂に、例の南西方向と北東方向に一直線に並んだ列石が配置されています。

豊後大野市と言えば、「日本書紀」の景行天皇の土蜘蛛との戦いで激戦となった舞台です。景行天皇は実は、父タラシナカツヒコ(記紀では景行天皇の孫の仲哀天皇と誤魔化しています)を大国主に殺され、仇討のために九州遠征した狗奴国側の有力者の尾張王オオタラシヒコオシロワケです。土蜘蛛というのは大国主の倭国軍のことです。尾張王はここで打猿らに散々痛めつけられて、命からがら佐伯市の海部郡宮浦まで逃げて、宮崎県西都市の川床遺跡で多数の戦死した仲間を弔い、纏向の狗奴国王の援軍を高屋宮で二年くらい待ったようです(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その2)」参照)。

稲積山は宇佐市にもある秀麗な山で新羅からの渡来系倭人辛嶋氏が卑弥呼を原八幡神として祀っていた山と推理していますから、豊後大野市のこの稲積山も最初、卑弥呼と関係があるのかと思いましたが、違ったようです(「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。日本中に同じ名前の稲積山はいくつかあるようです。収穫した稲束を干したようなきれいな形からその名が付いたのでしょうか?

ここの稲積山は日本最大と言われる稲積水中鍾乳洞がある場所で地底探検のスポットでした。付近には高さ22mという大分県一の高さの黄金色の昇龍大観音像が立っています。また、作り物ですが、巨大な龍の口から霊泉がわき出ている神秘的な場所です。奴国(龍蛇神ナーガ国)の大王(龍王)に因む場所ですよ。七福神(男神六柱はすべて大国主の分身)も不動堂(不動尊は大国主の荒御魂つまり荒神の本地仏)もありますので、奴国大王の末裔大国主久々遅彦と関係のある場所のようです(「本当は怖い七福神の謎」「なんで出雲に大元神社がないの?」参照、)。

Hirokun TVさんはこの動画の最後の方で、南西方向にある祖母山(そぼやま、南西よりも少し西約10kmの標高1756mの山)のさらにずっと、ずっと向こうの南アフリカの「フェルヌークパン」というミステリーサークルの場所まで誘導していただきました。

しかし、この稲積山の南西は、天孫降臨や天岩戸神話で有名な高千穂町の方角です。ということは、新たな霊ラインか?と、国土地理院のツールで調べました。

南西方向にはニニギノミコトの降臨地の槵觸(くしふる)神社の真上を通過しています。アマテラス女神の孫ニニギノミコトの天孫降臨の神話の元ネタは第四代奴国王天彌聞尊(あめのににぎのみこと)が祖父で第二代奴国王天村雲尊(あめのむらくものみこと)から剣・玉・鏡を受けて吉武高木遺跡から須玖岡本遺跡に王宮を遷し、那珂・比恵遺跡に列島内の産物の交易センターを作ることを命じられた故事から「日本書紀」で創作されたものと推理しています(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。そして、その手前の、猿田彦、つまり大国主を祭神とする荒立神社の真上もしっかり通過していました。

さて、本題の臼杵石仏の話ですが、稲積山の南西方向の真反対の北東方向にあることが分かりました。
そうすると、さらに北東方向に何があるのか?

お!

なんと!

まさか?

臼杵石仏は大日如来像に代表されますから、前回見たように北東方向は弥勒菩薩なのです(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その2)」参照)。

そうですよ!弥勒菩薩は大国主狗古智卑狗(久々遅彦)の本地仏です(「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。

久々遅命(あるいは久々智神)を祀る豊岡市の久々比神社の真上を通過しているじゃないですか!

歴代の狗古智卑狗(久々遅彦)の王宮と推理した場所でした。

例の大国主狗古智卑狗の霊ラインがもひとつ引けましたね(「【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?」参照)

これで全て謎は解けました。

臼杵石仏は大国主久々遅彦を祀るために作られたのです。さらに、日本建国で多くの人々の血が流れましたので、亡くなった全ての人々を代表する大国主大神を祀ることで、その祟りを抑えてもらうことが目的でしょう。そのために大日如来の他にも沢山の石仏(磨崖仏)が作られたのでしょう。

日本列島には数多くの火山があります。噴火や大地震や津波などの天変地異などのあらゆる災害は、すべて日本建国時代に亡くなった人々が鬼神となって、その怨霊が引き起こすと信じられていたようです。ですから神社仏閣などで丁重に鬼神の霊魂を慰め、自分や大切な人がみな幸せに生きていることを感謝し、ご加護を祈る習慣が日本人には古代から伝わっているのです。

今年も良い一年であることをお祈りいたします。合掌


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