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「空白の150年」に何があったのか?(その8)ヤマトの大王と豪族たち?

2023-09-30 02:33:33 | 古代史
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卑弥弓呼大王は大国主・台与の倭国を滅ぼして列島を統一しました。しかし、前回(その7)で述べたように西晋が三国を統一したので、親晋倭国を滅ぼした狗奴国は次に西晋に滅ぼされるかもしれない状況になりました。狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ、以下、崇神天皇と書きます)はこれも大国主の祟りと考え、大国主(武内宿禰)と台与(神功皇后)の子ホムダワケ(応神天皇、大田田根子)を探し出してヤマトの祭祀王にし、二人の鎮魂のために巨大前方後円墳を造ったことまでお話ししました。

崇神天皇はこれによって心配の種が解消できたので、次にやるべきことは大国主の支配下にあった半島南部の鉄資源を手に入れることです(「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。応神天皇を表向き、ヤマトの大王に立てることにより、半島南部もヤマトの支配下にできるので一石二鳥です。そのために、玄界灘を活動域として鉄資源を供給していた赤坂比古(和邇氏の祖、日触使主)を尾張王建稲種命が討ったので、和邇氏を懐柔するために宇佐氏安心院町三女神社の伝承にあるとおり、宮ノ原遺跡(旧邪馬台国)を同じムナカタ海人族の水沼氏に預け、卑弥呼の奉斎を命じたと推理しました。

遺跡内の第5石棺群(大平古墳)の1号棺から鉄刀と管玉の首飾りと直径8.9cmの方格規矩鏡、2号棺では平縁神獣鏡の破片、3号棺から三角縁神獣鏡の破片が発見されています。前回推理したように三角縁神獣鏡はヤマトで作らせたものですので、水沼氏に与えたものを破砕して被葬者に副葬したものと考えられます。また大平古墳の形は明確ではないですが、前方後円墳ではなく、恐らく円墳のようです。つまり、ムナカタ族は卑弥呼の三柱山古墳(第8石棺群)や卑弥呼の父の先代赤坂比古の奥城古墳(第6石棺群)と同じ円墳を好みますので、水沼氏も卑弥呼に所縁のあるムナカタ族とみていいようです(「本当に卑弥呼の墓なのか?」参照)。



崇神天皇はさらに和邇氏に対して尾張王を始め狗奴国勢に族長を殺された恨みを和らげ、狗奴国ヤマトのために半島南部の鉄素材を供給させるために日触使主(赤坂比古)の女宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を応神天皇の妃にしたものと推理しています。一方、建国の功労者である尾張王建稲種命の孫娘仲姫命(なかつひめのみこと)を皇后としてバランスとったようです(注1)。しかし後で話題にしますが、残念ながら皇子が生まれると後継者争いが生じますね(;´Д`)

「古事記」は、前回(その7)で述べたように、ナガスネヒコがトビヒコという蛇神大国主を示唆する別名を記して「日本書紀」が隠した歴史を藤原氏に悟られないようにして暴露するのが目的で九世紀の学者多人長(おおのひとなが)が書いたものだと分かりました。天皇の崩御の年を表す干支「崩年干支」も「日本書紀」と所々違えていますので史実を教えているのだと考えられます(注2)。

崇神天皇は実在人物と考えていますが、「日本書紀」には「即位されてから、六十八年の冬十二月五日、崩御された。時に、年百二十歳」とあり、紀元前30年に崩御したとことになります。「古事記」の戌寅(つちのえとら)は318年ですから妥当な崩年と思われます。ちなみに247年の卑弥呼の死の直前に倭国遠征軍を派遣した狗奴国の卑弥弓呼大王と推理していますので、仮に崇神天皇が二十歳代だったとすると、その約70年後となり、九十歳代ということで長生きですが妥当な享年となります。(20023.10.1 赤字訂正)

また、「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)」にこの時代の天皇の系譜を「古事記 崩年干支」に基づいて推理して図にしましたので、詳しくは記事を参照してください。



応神天皇ですが、「古事記 崩年干支」の甲午年(394年から60年引いて334年)に七十歳で崩御したとありますので、逆算すると265年生まれとなります。母は近江・北陸などを根拠地としていたムナカタ海人族の姫巫女台与(とよ)で、記紀の神功皇后です。「日本書紀」に仲哀天皇が応神天皇の父となっていますが、本当の父はムナカタ海人族を束ねる大国主久々遅彦(魏志倭人伝の狗古智卑狗、王の襲名、豊岡市久久比神社祭神、木霊イタケルの子孫)です。記紀では、神功皇后の傍らに居て常に皇后を助けた三百歳の老人武内宿禰とされた人物です。応神天皇の生まれ年の翌年、倭の女王台与が朝貢した記録が西晋の起居注にあります。247年に13歳の台与が女王に立ったとして265年は18年後ですから三十歳ころの子ですので妥当です。大国主久々遅彦は五十歳代で仲哀天皇こと尾張王乎止与命(おとよのみこと)を討って倭国王に立ったので七十歳代の高齢者パパということになります。だから道祖神(金精神)として男性のシンボル的な存在として祀られているのでしょう(道祖神もやっぱり(^_-)-☆

ということで、崇神天皇が日本統一をしましたが、それまで敵対関係だった大国主・台与や卑弥呼の一族を懐柔し、大きな和をもって国を治めたので、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とされました(注3)。ですから王の都(纏向遺跡)をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことしたと推理しています。後世に「大和」と書かれたのです。318年に崩御されて、「日本書紀」に「山辺道上陵(やまのへのみちのえのみささぎ)に葬った」、「古事記」に「御陵は山辺道(やまのべのみち)の勾(まがり)の岡のほとりにある」とあります。宮内庁は天理市柳本町の墳丘長242メートルの前方後円墳「行燈山古墳」に治定しています。

崇神天皇崩御後、応神天皇が正式に、政治権力を持つヤマトの大王になったと考えられ、崇神天皇の皇子たちも父の遺言に従って形の上で応神天皇の臣下(物部氏)となったと考えられます。大和盆地は物部氏の氏神を祀る天理市石上神宮とその辺りを支配地とし、ほとんどが大国主(武内宿禰)を祖とする波多氏(記紀の秦氏、機織りや土木技術などを持つ半島南部の渡来系倭人を配下にした)・葛城氏(尾張王とつながりがある)・巨勢氏・平群氏などです。また卑弥呼の弟赤坂比古(日触使主)を祖とする和邇(和珥)氏が天理市など盆地の北部を支配しました。大伴氏の出自がよく分かっていませんが、ヤマトに呼ばれる前から応神天皇の親衛隊だった大国主・台与配下のムナカタ海人族ではないかと考えています。



物部氏は、さらに河内(交野市磐船神社祭神饒速日命)・吉備(吉備津神社吉備津彦神社祭神大吉備津彦=饒速日尊)・石見(物部神社祭神宇摩志麻遅命)・筑紫(詳細は鳥越憲三郎「弥生の王国」中公新書1994、pp.171-189)などを領地としたようです。同じニギハヤヒ大王の子孫の尾張氏は東海(熱田神宮祭神建稲種命)・駿河(沼津市高尾山古墳「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)・信濃(松本市弘法山古墳)・諏訪(洲羽国造建沼河別命「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)・下越(弥彦村弥彦神社)・丹波(豊岡市鷹野神社)など東国を支配地としたようです。また、台与の父息長宿禰王(記紀神話の少彦名命)を祖とする一族は元々近江一帯(伊勢遺跡、守山市内二十社以上の稲荷神社で台与を祀る)と越前・北陸などを支配していましたが、和邇氏に近江八幡市日牟禮八幡宮(「卑弥呼は何故隠された?」参照)あたりから琵琶湖の西沿岸部を譲ったのだと考えています。息長氏は野洲川から琵琶湖の東沿岸部(米原市日撫神社【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」参照)などを支配地としたと考えています。このように、日本列島を統一したとは言っても、各地に豪族が割拠していた模様ですので、七世紀末に天武天皇が登場するまで豪族はそれぞれの思惑で動いていたはずです。

(注1)wiki「仲姫命」によれば、「仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。ちなみに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。」とあります。しかし、景行天皇は尾張王を隠すために登場させた架空の天皇ですので、品陀真若王も実在人物ではないかも知れません。ですから仲姫命、高城入姫命、弟姫命の三姉妹も建稲種命の子かも知れません。だとすれば三姉妹の母の金田屋野姫命は建稲種命の妻ということになりますが、今の段階でははっきりとは分かりません。

(注2)垂仁・景行・成務の三代の天皇について「日本書紀」では三人とも崩年干支がすべて庚午(かのえうま)ですので不自然です。崩御の年と享年はそれぞれ西暦70年で百四十歳、130年で年百六歳、190年で年百七歳ですから百歳を超える享年を見ても架空の天皇だと直ぐに分かります。

景行天皇について「古事記」でも「百三十七歳に崩御し、御陵は山辺道(やまのべのみち)のほとり」とあるだけで、干支は記載なしです。尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと)をモデルとしているのですが、百六歳を百三十七歳として、さらにあり得ない年齢にしているので、「日本書紀」に記載された庚午年に崩御というのは怪しいと示唆しているようです。

同じく架空の成務天皇について「古事記」は「天皇の年齢は九十五歳である。乙卯(きのとう)の年の三月十五日に崩御した。御陵(みはか)は狭城(さき)の盾列(たてなみ)にある。」と記されていますので、乙卯の年355年か一運戻して295年に亡くなったことになりますので妥当な崩年干支です。今はよく分かりませんが、何かを示唆しているのかも知れません。

同様に架空の天皇の仲哀天皇についても「およそ仲哀天皇の年齢は五十二歳。壬戌(みずのえいぬ)の年の六月十一日に崩御になった。御陵は河内国の恵賀(えが)の長江にある。」と「古事記」に記されています。247年卑弥呼の死の後に男王に立った尾張王乎止与命(おとよのみこと)がモデルで、同じ年に赤坂比古(卑弥呼の弟、和邇氏の祖、日触使主)に討たれたと推理していますので、壬戌(みずのえいぬ)は365年から二運(120年)戻すと245年となり、卑弥呼よりも二年も先に亡くなったことになり矛盾し、正確ではないですが、享年五十二歳も妥当な年齢ですから概ね正しいと見ることもできます。

ということで「古事記」の「崩年干支」にも問題はありますが、「日本書紀」に記載された初期天皇の「崩年干支」を修正することにより、史実への暗号書となっていることが、応神天皇崩御から雄略天皇崩御までの天皇の系譜について調べることにより分かりました。次回に述べるつもりです。



(注3)「天皇」号は通説では七世紀末に日本が中央集権国家となってから用いられたとしていますが、倉敷市楯築王墓の神社に祀られるご神体が中国神話の人類の始祖神の天皇伏羲と同じ人面蛇体の弧帯文石なのです(「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!」参照)。天皇伏羲を意識していたと思われますので、初代奴国王天御中主の子孫で狗(旧)奴国王からヤマトの大王まで当時の人は天皇と見ていたとも考えられます。しかし、日本統一後のヤマトで大国主・台与を祀る祭祀王が天皇陛下の本来の役割だと思います。記紀でも神武天皇の子孫のヤマトの大王を天皇ということにしていますので混乱しますが、その後の日本の歴史の中で日本民族を統合する祭祀王というのが天皇の位置づけとして相応しいと考えます。戦後GHQに押し付けられた日本国憲法に規定された条文は、そのことを全く無視したものですので、日本国民は正気に戻る必要があります(^_-)-☆

(つづく)




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「空白の150年」に何があったのか?(その7)神に祟られた天皇?

2023-09-26 17:34:54 | 古代史
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「日本書紀」に、初代天皇は、日向から東征して紀元前六百六十年に橿原神宮で即位したイワレヒコ(神武天皇)としています。イワレヒコは最初は生駒山を越えてヤマトに進軍したのですが、ナガスネヒコに撃退されたので、紀伊半島南端を迂回して熊野に上陸しました。ヤタガラスに導かれてヤマトの東側から攻めようとしましたが、敵の大軍に進軍を阻まれたので、お告げによって天香久山の土で皿を作り、天神地祇を祀って祈ったので、賊たちを討つことができました。最後にナガスネヒコと決戦することになりましたが、そこに、すでに高天原からヤマトの地に降臨していた天神の子ニギハヤヒが義理の兄であるはずのナガスネヒコを討ったので、ようやくイワレヒコがヤマトを支配できたという現実離れした話になっています。神武天皇は武力だけで征服したわけではなく、苦難の末に神の力によってヤマトを手に入れたということです。


(月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。Wiki「神武東征」より)

似たような話が「日本書紀」神功皇后紀にもあります。神功皇后が三韓征伐の後に九州に戻ってホムタワケを生みました。ヤマト入りをしようとしたところ、すでに崩御している仲哀天皇の二人の皇子麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が反乱を起こしました。長男の麛坂王は反乱の成否を占ったところ突然現れたイノシシに食い殺されてしまいました。神功皇后は天照大神に祈り進撃したので、次男の忍熊王は撤退し、宇治に陣を布き待ち構えていました。そこで、皇后軍を率いる武内宿禰らは計略を立て和睦を申し出ました。それに応じて武器を捨てた忍熊王をだまし討ちし、ヤマトに入ってホムダワケを即位させたというのが、第十五代応神天皇の東征神話です。


(「御誂座敷幟ノ内 神功皇后と武内大臣」歌川国貞画 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵 wiki「神功皇后」より)

神武天皇も応神天皇もヤマト入りして即位する話はあり得ないようなものです。また、どちらも呪力によって戦闘に勝利したとのことですが、どちらの時代にもヤマトで集団戦の証拠は見られませんので、そのような神話は史実ではありません。

すでに(その5)(その6)で見たとおり、三世紀後半(270年頃)尾張王建稲種命が九州遠征して大国主・台与らを討ち、さらに纏向遺跡に戻った建稲種命らが率いた狗奴国勢が大国主傘下の地方を平定して、卑弥弓呼大王(記紀の第十代崇神天皇)が日本列島を統一し、ヤマト王権が成立したのが史実だと考古学の成果から分かりました。

「日本書紀」では応神天皇の父とされる仲哀天皇は、その父とされたヤマトタケルが薨去して38年後に生まれた計算になるので、ヤマトタケルも仲哀天皇も史実を誤魔化すために創作された架空の皇子・天皇なのです(注1)。ですから実在人物の応神天皇の父でもありません。仲哀天皇は香椎宮で神功皇后が神憑りして告げた住吉大神の神託に背いたために突然崩御したとあります。卑弥呼の死後に男王に立った尾張王乎止与命(おとよのみこと)が、それに不服だったムナカタ海人族を率いる大国主によって討たれた史実から仲哀天皇が創作されたと推理しました。大国主たちへの父の仇討ちのために、尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮の祭神)が大国主らを討った事件が、記紀で仲哀天皇の祖父であるはずの景行天皇の九州遠征のモデルとなった史実だったのです。

このころ東アジアで大きな事件がありました。280年に呉が西晋によって滅ぼされ、すでに蜀も滅ぼされていたので、三国志の時代が終わり、西晋によって統一されたのです。長江下流の呉の人々は、元々同族である江南の倭人を頼りにして日本列島に落ち延びてきたと思われます。纏向遺跡の狗奴国の人々は西晋が三国を統一した情報を知り、西晋に朝貢していた女王台与の倭国を狗奴国が滅ぼしたので、次に西晋に滅ぼされることを皆が怖れ、動揺したのだと推理できます。三角縁神獣鏡はこの頃の呉の職人が造ったものだと考えています。ですからこの鏡は景初三年に魏から賜った卑弥呼の鏡ではないのです。景初三年などの年号のある三角縁神獣鏡が見つかっていますが、卑弥弓呼大王(崇神天皇)がヤマトで作らせたものと考えると、実在しない景初四年銘の鏡(広峯15号墳出土の斜縁盤龍鏡)が出土した謎も解けます(^_-)-☆

上の話は「日本書紀」崇神天皇紀に大己貴神(おおなむち、大国主の別名)の和魂(にきみたま)大物主大神の祟りがあって民が半数以上亡くなくなったという話に対応します。大神の神託が、子のオオタタネコ(「日本書紀」の大田田根子、「古事記」では意富多多泥古命)に自分を祀らせれば収まるということなので、オオタタネコを探し出して祀らせたという記事が応神天皇即位の史実を表していると分かりました(関裕二「神武東征の謎」PHP文庫、2003、pp.216-249)。その後の大和朝廷が大国主と台与らの祟りを最も畏れていることが分かりますから、これは妥当な推論だと思います(「本当は怖い七福神の謎」参照)。

三世紀末から四世紀初頭に桜井市鳥見(とみ)山北山麓の小尾根の先端を切断して造られた、全長200mの巨大前方後円墳茶臼山古墳があります。百面以上の銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類に加えて、玉杖(ぎょくじょう)などの豪華な副葬品が見られます。ここの地名は外山と書いて「とび」と呼ばれていますが「へび」の別称なのです(富来隆「卑弥呼」学生社1970, pp.68-112、「大国主はトビヘビだった」参照)。つまり蛇神大物主大神である大国主を示唆しています。上記のナガスネヒコは「古事記」では登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とされており、勿論、トミもヘビのことですから、「古事記」は例によってその正体を暴露しているのです(「日本の古代史が謎な理由?」参照)。ニギハヤヒ大王(先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、王年代紀第19代王天照大神尊で倉敷市楯築王墓の被葬者、記紀の吉備津彦)の子孫尾張王に討たれた大国主久々遅彦の史実を表していたのです。大国主の祟りによってヤマトの初代祭祀王の応神天皇が即位したことを示唆していたのです。最初の神武天皇の図で、イワレヒコの弓に止まっている金色のトビも、鳥見山も鳥ですが大国主のことを表しています。鳥見山(とみやま)の山麓に鎮座する宗像神社は卑弥呼を祀っていますが、ムナカタ海人族を束ねる大国主久々遅彦のいとこなので、鎮魂の意味もあると思います。卑弥呼の墓「三柱山古墳」の遥拝所の摂社のひとつ、大国主を祀る金毘羅宮と同じ意味でしょう(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

纏向遺跡の最大の前方後円墳の箸墓は、邪馬台国畿内説で卑弥呼の墓とされていますが、畿内説は考古学の成果から間違いと分かります(「【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!」・「【検証11】定説の根拠を疑え」参照)。箸墓について「日本書紀」は第7代孝霊天皇の皇女で大物主大神の妻倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓としていますので、大国主の妃で、記紀で神功皇后とされた女王台与が被葬者だと明記されているのです。ヤマトとトビを何度も何度も唱える姫という名前なのですから、大国主(トビ)にたった13歳で女王にされ、最後はヤマトに殺された可哀そうなお姫様という意味の名前なのです(「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」参照)。

上で述べたように、(その5)(その6)で説明した「日本書紀」の崇神天皇十年の四道将軍派遣から応神天皇が即位するまでの約350年間の話は270年頃の史実を誤魔化すために創作された話だったのです。大国主と女王台与は討たれてそれぞれ、久留米市祇園山古墳と糸島市平原王墓に葬られましたが、狗奴国卑弥弓呼大王崇神天皇が桜井市で茶臼山古墳と箸墓古墳でそれぞれ改葬して鎮魂を行ったのです。二人の子の応神天皇を最初のヤマトの祭祀王=初代天皇としたということなのです(^_-)-☆



神武天皇から41代持統天皇までの漢風諡号は八世紀の淡海三船(おうみのみふね、天智天皇の子孫)が撰進したとされていますが、「神」の名のつく天皇・皇后は神武天皇・崇神天皇・神功皇后・応神天皇の四人だけです。三船は日本建国の史実を知っていて「神」をあてたと考えられます。応神天皇と神功皇后は宇佐神宮をはじめ全国で4万社以上ある八幡神社などで祀られていますが、記紀で皇祖神とされた女神アマテラスを祭神とする神社や初代天皇とされた神武天皇を祀る神社の数と比べれば、圧倒的に上回ります。伊勢神宮へは持統天皇から先、明治になるまで、天皇はどなたも参拝されていないとのことです(「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」)。神武天皇の墓は江戸時代に無理に比定されたと聞く、全く信ぴょう性のないものです。記紀神話は実は、日本民族の古来からの伝承ではなく、江戸時代になって作られた新しいものだったのです。それでは、なぜこのような誤魔化しをしなければならなかったのか?その理由についても推理しています。この後でゆっくりとご説明しますのでまたお付き合いください(^_-)-☆

(注1)日本書紀に仲哀天皇は成務天皇48年に数え31歳で皇太子になったとありますので成務天皇18年が生年となります。しかし、仲哀天皇の父の日本武尊(ヤマトタケル)は景行天皇40年に薨去しており、景行天皇60年に崩御され、1年後に成務天皇が即位していますので、仲哀天皇は日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になります。

(つづく)




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「空白の150年」に何があったのか?(その6)日本建国の戦い?

2023-09-18 00:40:16 | 古代史
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「日本書紀」で景行天皇として隠された尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)は、すでに述べたとおり、大国主久々遅彦と外交上女王とした妃の台与(トヨ、記紀の神功皇后)、そして父の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀では仲哀天皇)を直接討ったと推理した赤坂比古(卑弥呼の弟、和邇氏の祖)らを九州遠征して討ちとり、見事仇討に成功しました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。

すでに述べていますが、日本建国時代の史実は藤原不比等にとって特に目障りだったので、大国主の国譲り神話を創作して誤魔化しました。高天原の指令を受けて大国主に国譲りを最終的に成功させた主役が建御雷神(タケミカズチ)と経津主神(フツヌシ)とされています。タケミカズチの正体は尾張王建稲種命です。また、『先代旧事本紀』ではフツヌシの霊剣が布都御魂(ふつのみたま)とありますので、建稲種命に従って九州遠征した畿内の物部勢のことです。「日本書紀」の神生みの段の一書に、伊弉冉尊(イザナミ)が火の神・軻遇突智(カグツチ)を生んだことで亡くなったので、伊弉諾尊(イザナギ)がカグツチを斬ったときに生まれた神の孫がフツヌシとされ、タケミカズチの父がカグツチという話もありますので、伊弉諾尊の子孫大国主命に討たれた乎止与命がカグツチに対応します。(「火の神カグツチの正体ってか?」「【刮目天の古代史】出雲大社は新しい名称だった!」などを参照)。

そして、不比等は、藤原氏の祖神として春日大社でタケミカズチとフツヌシを祀っています。また神代で大活躍させた天児屋命(アメノコヤネ)とその妻とされた比米大神も祀っていますが、突然登場するこの比米大神の正体は宇佐神宮二之御殿に祀られている宗像女神市杵島姫卑弥呼だと思いますよ。不比等は相当頭が切れる人物で、現代に通じる合理的な考えのもち主なのですが、やはり神々の祟りは怖いと思ってはいたようですから少しホットしました。でも、かなりサイコパスだと思いませんか?(;´Д`)。

さて、前回の続きですが、建国の英雄の尾張王建稲種命が纏向遺跡で卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)に仇討ちの成功を報告したと思いますが、大王は直ぐに大国主の残党を退治するように命じたようです。記紀では大彦命(おおびこのみこと)、その子武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人の皇族に、それぞれ北陸道、東海道、西海道、丹波を平定させた四道将軍(しどうしょうぐん)の話にしています。その後、出雲を吉備津彦と武渟川別命が平定した話もあります。

前回3世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて景行天皇の九州遠征のルートと環濠や溝などで出土した鉄鏃などによって分かる戦いの跡が一致することから解明できました。そこで、同様に纏向遺跡を中心に列島全体を見ると、下図のとおり崇神天皇の四道将軍の遠征ルート上にも戦跡を発見しました。さらに、図には景行天皇の九州遠征ルートと日本武尊(ヤマトタケル)の東国遠征のルートも示しました。武渟川別命の東海道遠征ルートとほぼ重なります。ということで、尾張王建稲種命が実際にこれらのルートを遠征した史実を表していることが分かりました。つまり、「日本書紀」は3世紀後半の日本建国の戦いを隠すために、年代を引き延ばして四道将軍やヤマトタケルの話を創作したということなのです(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。


(左クリックで拡大)

北陸道に遠征した大彦命(崇神天皇の伯父)は埼玉県行田市稲荷山古墳で出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)の銘文から実在人物と考えられます。しかし大彦命の子とされた武渟川別命はヤマトタケルのモデルの建稲種命を隠すためなので、実在人物ではないと考えています。

また、孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦命(イサセリビコ)が吉備の鬼退治をして吉備津彦の名を貰った話が備前国一之宮吉備津神社の由緒にあり、すでに(その2)で述べたとおり、この人物が物部氏の祖ニギハヤヒと推理しています。「日本書紀」孝霊天皇紀で弟稚武彦命(ワカタケヒコ)を吉備臣(きびのおみ)の先祖としているので、もしも実在人物ならば崇神天皇に派遣されたのは稚武彦命なのかも知れません。そして吉備は狗奴国の領土ですが、大国主の倭国と接しているので、大国主側に占領されていたのだと考えられます。

第9代開化天皇の皇孫の丹波道主命について、史実を暴露するために9世紀に創られた「古事記」では父である、すでに見た神功皇后の高祖とされた彦坐王(息長氏の祖)としていますので、これらの人物も実在人物ではないと考えています。丹波ですが、「【大発見!】大国主命の生誕地か?」でみたとおり、豊岡市竹野町が高野御子と呼ばれる大国主の故郷なのです。大国主の生誕地を隠すためにタケミカズチが上陸した伝承が地元にあるのですが、そこに誕生之碑が置かれているので、恐らく地元では大国主について隠された誕生の伝承があったはずです。宮津市丹後一之宮籠(この)神社はニギハヤヒ大王を祭神としており、尾張王の配下と考えられる海部氏の系図が残されており、尾張勢が丹波一帯を平定したと考えています。

そして(その3)で示した大国主の倭国とした高温鍛冶炉の遺跡群の分布と上の図の戦跡がほぼ一致していることから、ここでの推論は大体いいのではないかと考えていますが、いかがでしょうか?(^_-)-☆


【関連記事】
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
2世紀後半の倭国大乱期と3世紀後半のデータをGoogleMapのMyMapで共有していますので、ご興味のある方は是非ご覧になっていただき、質問など歓迎します。以下のリンク(1)及び(2)をクリックしてください。
(1)後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)
(2)終末期~古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)
なお記号などの詳細はそれぞれの記事をご参照ください。よろしくお願いいたします(^_-)-☆

(つづく)




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「空白の150年」に何があったのか?(その5)景行天皇の正体?

2023-09-15 14:26:25 | 古代史
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2023.9.16 景行天皇の九州遠征図に、川床遺跡の内容と尾張王建稲種命に仇討ちされた、当時80歳くらいだった赤坂比古(卑弥呼の弟)の墓を記入し、一部修正しました。この古墳は卑弥呼の墓に次ぐ、直径約140mの日本最大級の巨大円墳です。墳頂に愛宕神社が建立されていたので、被葬者の赤坂比古が愛宕権現と呼ばれた人物だと推理しました。愛宕は縄文海人ムナカタ族の祖神でイザナミの父と推理したアタカタスノミコトの子孫という意味で、4世紀に応神天皇の後に和邇氏が台頭し、祖神を祀ったと推理しています。愛宕信仰は和邇氏によってその後も全国に広められたと推理しています(詳細は愛宕権現の正体は赤坂比古か?参照)。また、同じく80歳くらいで戦死した大国主久々遅彦は高良山の西麓の祇園山古墳に葬られたと推理しました(詳細は卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?参照)。よろしければご確認ください(#^.^#)

卑弥呼の死後に男王に立って大国主勢に殺された尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀の仲哀天皇、秋葉神社の祭神カクツチ)の子建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神、記紀の景行天皇、ヤマトタケルのモデル)は纏向遺跡では珍しい前方後方墳メクリ1号古墳で父を弔って、尾張王継承の儀式を行ったと考えています。周溝部の土器から古墳時代初頭(三世紀後半)の築造と見られます。この古墳のサイズが全長28m、後方部長19.2m、前方部長8.8mです。乎止与命は前述のとおり、大国主に加勢した赤坂比古に鳥栖市まで追い詰められて討たれ、九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと推理しています。赤坂古墳が全長24m、後方部一辺約16mの正方形で前方部の長さは明確ではないようです。築造時期は赤坂古墳の方が先のはずですが、同様な規模ですから両者は符合します。前回お話ししたように、新尾張王建稲種命は父を討った大国主と赤坂比古、そしてそれまで繋がりが深かった息長宿禰王と姫巫女台与にまで裏切られて、彼らに強い復讐の念を抱いたと思います。

「日本書紀」では史実を誤魔化すために景行天皇の九州遠征・熊襲退治の話にしていますが、「日本書紀」にその模様が詳しく語られていましたので、恐らく建稲種命の遠征の伝承をもとに作り変えられたと見ています。また、前回述べたとおり狗奴国勢の中でも、特に尾張勢は鏡作りの得意な集団ですから、青銅器製造に慣れているので、銅鏃を使用していますので、古墳時代初頭の戦闘の模様は、弥生後期の倭国大乱期と同様に鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。この景行天皇の遠征ルートに一致した出土状況を見つけたので日本建国の戦いの史実を解明できました。下に景行天皇紀の九州遠征ルート図と、右に日本書紀の内容と、それに該当するルート沿いの倭国側の集落の戦闘の痕跡が見られる遺跡を表に記載しています(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)から(その4)」参照)。

(左クリックで拡大します)

建稲種命の軍勢は、倭国勢に気付かれぬように、纏向遺跡から出発し、瀬戸内航路で吉備まで行き、高梁川を上り、庄原・三次を経て江の川を下って、まず前回の江津市の無防備な集落波来浜遺跡(ならはまいせき)を襲撃したと推理しています。砂丘の墓地から銅鏃が8個も出土しています。景行天皇紀は、十二年秋七月に熊襲が背いたという報告を受けて八月十五日に筑紫に向けて出発したとあります。筑紫の領域は、豊前と呼ばれた現在の北九州市門司区から田川郡・田川市、京都(みやこ)郡、行橋市などを除く福岡県の大半の領域です。大国主の居城は久留米市高良山に神籠石と呼ばれる石垣を巡らせた山城を築いた高良大社だったと考えています。(「神籠石は最初に誰が作った?」参照)。ただし、大国主の別名が金山彦ですので、恐らく西日本の中央構造線に沿って産出される水銀朱(辰砂)などを若くて活発な妃の台与を伴って探索しており、常に高良山城に居たわけではなく留守する方が多かったはずです。

しかし、前回述べたとおり、266年に倭女王が西晋に朝貢した後では大国主は70歳後半だと思いますので、晩年は高良山城に居たと思われます。台与は247年頃13歳で外交上女王に立てられていますので、30歳を過ぎた年齢で、一か所にじっと留まってはいなかったことは、台与をモデルとした神功皇后の伝承地が北部九州各地に見られるので分かります。ただし、三韓征伐や東征は作り話ですが(;´Д`) 

「日本書紀」で景行天皇は九月五日、周芳(すわのくに)の娑麼(さば、佐波)ですから防府市に到着したとあります。約二十日かかっていますので、日本海側の益田から津和野経由で佐波川を下って再び瀬戸内の周芳に出たということになります。後で根拠を述べますが、500名程度の軍勢と考えられます。十人乗りの丸木舟で五十漕くらいの船団になります。従って、吉備から瀬戸内海航路を通過するルートを採ると大国主側の高地性集落の監視所から発見されやすいので、見つからないように迂回したのではないかと推理しました。

天皇は佐波で、以下に示す九州東部のいずれも要害の地に住む賊の情報を収集して、おびき寄せてだまし討ちして殺したとあります。宇佐の川上の鼻垂(はなたり、駅館川上流の宮ノ原遺跡)、御木(みけ)の川上の耳垂(みみたり、山国川上流の日田市吹上遺跡か?)、高羽の川上の麻剝(あさはぎ、彦山川上流の田川市冥加塚遺跡か?)そして緑野の川上の土折猪折(つちおりいおり、深倉川上流の田川郡添田町の集落か)は大国主配下の部隊です。宮ノ原遺跡にはすでに述べたとおり、卑弥呼の墓「三柱山古墳」や父の墓「奥城古墳」もありますので、守備隊が駐屯していたと考えられます。赤坂比古は鳥栖市安永田遺跡を新たな根拠地としていたと考えています。卑弥呼の宮室だった三女神社の西側のV字溝で銅鏃が1個発見されていますので、尾張勢が攻撃した痕跡だと考えています。

天皇は豊前国の長峡県(ながおのあがた)を行宮としたとあり、京都(みやこ)郡との地名の由来になっていますが、当初は佐波から田川市を経由していきなり大国主の本拠地の朝倉・久留米方面に向かうことを考えていたようです。ですがうまくゆかず、次の作戦として日田市の大国主軍を叩いてから一気に筑後川を下り、大国主の本拠地を襲おうとしたのだと推理しています。しかしここでも、残念ながら大国主勢に跳ね返されたので、大分県大野川流域の鍛冶集落群を襲って、阿蘇山麓から菊池川を下って玉名市より有明海に出て筑後川を溯って、高良山城を襲うつもりだったようです。しかしここで、すでに矢が尽きたようです。仕方ないので椿の木で棍棒を作り、精鋭に大国主軍(五人の土蜘蛛の軍勢)を襲わせた模様です。しかし竹田市小園遺跡で撃退され、多くの兵士が負傷した模様です。海部郡宮ノ浦まで撤退し、そこから海岸線を南に下り、西都市高屋神社まで落ち延びたようです。建稲種命の兵士の墓と推理した宮崎県児湯郡新富町川床遺跡について以下のように説明されています。
円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。」(tnomuraのブログより)

ということは、大野川上流の戦いで一人当たり、致命傷となる1、2個の矢が命中した模様です。負傷した者を舟に乗せて落ち延びたのですが、この地で力尽きて亡くなったので埋葬したと考えられます。円形、方形周溝墓は士官クラスのもので、土壙墓は兵士のものでしょう。そうすると士官一人当たり3.4人ですから士官は一族郎党の3、4人兵士を引き連れていた小部族の族長と考えられます。鎌倉時代の馬に乗る甲冑の武者もその程度の数の部下を連れて出陣していた模様ですから、兵の構成は古墳時代からあまり変わっていなかったようですよ。そして怪我人を連れての逃避行ですから無傷ないし軽傷の兵士は最低でも重傷者と同数と見ていいと思います。最初の九州東部の戦闘では矢戦さが主だったと考えられますので、さほど負傷者はいなかったと見て、建稲種命の率いた軍勢の当初の規模は、上で述べたとおり、せいぜい500名くらいだったと考えています。

兵を半数近く失った建稲種命は、二年ほど南九州で過ごして、狗奴国からの増援部隊を待ったのだと考えています。そしてようやく援軍が到着し、部隊を整えて熊本県芦北町(葦北の小島)から八代に出て、島原市高来県(たかくのあがた)に行ったことが景行天皇紀に書かれています。島原市(旧高来郡)今福遺跡の溝から銅鏃が8個も出土しています。当初の規模程度の軍勢で今福遺跡を攻撃した模様ですので、増援部隊が銅鏃を持って加わったのかも知れません。さらに玉名市から阿蘇山に登ったと書かれていますが、途中の大国主側の菊池市西弥護免遺跡の住居跡から鉄鏃が100個程度出土し、溝から建稲種命勢のものと見られる鉄鏃が2個出土しています。銅鏃ではないですが戦闘の痕跡と見られます。ここで銅鏃を使い果たしたので大国主勢の射た鉄鏃の矢を拾い集めて再使用したと思われます。さらに阿蘇郡下山遺跡の溝からも鉄鏃が1個出土し、住居跡に銅鏃1個が出土しています。

その後久留米市の野畑遺跡の溝や浮羽郡長島遺跡のピットから鉄鏃が1個づつ出ていますので、これらも戦闘の痕跡と見ています。景行天皇はここでヤマトに帰還したように書かれていますが、実際は小郡市三国の鼻遺跡の環濠から鉄鏃が5個、福岡市井尻B遺跡の溝から鉄鏃1個、糸島市三雲遺跡の溝から鉄鏃1個が出土していますので、さらに北上して戦闘があったと分かります

そして台与の墓と推定した糸島市平原王墓の周溝から鉄鏃が10個も出てきています。古墳時代初期によく見られる割竹形木棺の中に朱が大量に入っており、女王のものと分かるガラス製勾玉、瑪瑙製管玉、ガラス製小玉などの豪華な副葬品が見られます。また八咫鏡と見られる大型のものをはじめ40枚の銅鏡が出土しています。卑弥呼の鏡も受け継いだと思われます。さらに、棺の蓋に素環頭大刀が一振り載せられていましたので、まだ若い台与は武器を手にして最期まで建稲種命の軍勢に抵抗して討ち死にしたものだと推理しています。男勝りの活躍をした神功皇后の女傑のイメージがこの時にできたのだと思われます。

尾張王建稲種命の敵討ち話が記紀では景行天皇の熊襲征伐の話に変えられていますが、以上のとおり、天皇の移動ルートから戦闘があった証拠となる銅鏃や鉄鏃の出土状況から推理できました。建稲種命はその後すぐに尾張勢を連れて纏向遺跡に凱旋し、卑弥弓呼大王に直接報告したのだと思います。この戦乱の結果、九州各地は卑弥弓呼大王の配下の物部勢が残留して、占領した模様です(鳥越健三郎「弥生の王国」中公新書1994、pp.177-189)。後でまた述べるつもりですが、これ以降九州全土は豊前地域を除きほとんど物部氏の支配下になっていますので、六世紀の筑紫磐井や七世紀の中大兄王(注1)の勢力基盤は北部九州ですが、この時に作られたものだと推理しています。なお、この仇討ち話は後世「さるカニ合戦」として伝えられています(「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照)。サルは猿田彦大神で大国主の別名です。カニは当時の伊勢湾はカニが大量に生息していたので、尾張の代名詞になっていたと分かりました(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

(注1)「日本書紀」孝徳天皇紀に「中大兄を皇太子にした」とあるだけで、すべて中大兄までで中大兄皇子とまでは書かれていません。ヤマトの大王として即位していないことが万葉集研究家渡辺康則氏が突き止められていますが、今上天皇の祖神ニギハヤヒ大王の子孫敏達天皇の孫ではないかと推理しています(「万葉集があばく 捏造された天皇・天智<上><下>」大空出版2013)。

(つづく)




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「空白の150年」に何があったのか?(その4)青谷の悲劇とは?

2023-09-13 00:06:13 | 古代史
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魏志倭人伝は、前回述べた事件も含めて、卑弥呼が死んだ正始八年(247年)から年号を明記せずに、以下の文章で締めくくられています。

壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

(台与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を遣わし、張政等が帯方郡に帰還するのを送らせて、臺(朝廷)に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢いだ。)

ここで率善中郎将の掖邪拘は卑弥呼の弟赤坂比古だと推理しています。魏志倭人伝に、正始四年(243年)に一緒に朝貢した正使伊聲耆(いせぎ)が、すでに述べたとおり「伊聲・伊勢(イセ)」がシャーマン王の意味がありますので先代赤坂比古だと推理しています。率善中郎将の官位を貰っていませんので、途中で亡くなって、後継の赤坂比古が遺骸を卑弥呼のもとに連れ帰り、家族旅行村「安心院」内の奥城古墳(直径約120mの巨大円墳、現在ブドウ園の展望台)に葬ったものと考えています。掖邪拘は副使だったので「わきやく」と読めますが、すでに述べたように、魏志倭人伝に登場する倭国の地名や人名などはすべて倭国王難升米が書いて帯方郡太守劉夏に教えたものなのです。もしかしたら赤坂比古が頼りなさげな若造だったので馬鹿にして稚児の意味で「ややこ」としたのかも知れませんよ。ムナカタ族に対しては味方であっても、漢字を読めないので馬鹿にして、貶める文字を多用していますので分かります(^_-)-☆(「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。

卑弥呼が死んだ後の事件が日食が原因で起こったことに因み恐らく赤坂比古の子孫(和邇氏)は赤坂比古を日蝕彦(ひはえひこ)などと呼んで祖神として祀っていたようです。七世紀の末に藤原不比等が、和邇氏の所領地である現在の近江八幡市日牟禮八幡宮にわざわざ押しかけて社名を日群社(ひむれのもり)と強引に変えさせていたことが、残された不比等の歌から分かります。従って記紀では赤坂比古の名前を日触使主(ひふれのおみ)としていると推理しました。日蝕に類似した日触などという言葉は他に例が見当たりませんので、誤魔化すために無理に付けた名前だと分かります(「【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた」、「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)。

張政の部下の帯方郡太守への報告によって、司馬懿は倭国の状況を知り、この先も倭国を魏に従わせる必要があるので、有能な張政を直ぐに帯方郡に帰還させるわけにはいかないはずです。

司馬懿は251年に亡くなりますが、司馬氏一族が権力を握りつづけ、魏の帝位が司馬懿の孫の司馬炎に禅譲されて泰始元年(265年)に西晋が興ります。翌年(266年)に倭女王が朝貢した記録が西晋の起居注にあります。「日本書紀」神功皇后紀の注にもこの年に倭女王遣使とあります。

台与は西晋の建国を祝うために最高の贈り物をしたはずですので、王勇「中国史のなかの日本像」(農山漁村文化協会〈人間選書〉、2000, pp.68-71)にも、泰始二年の倭女王は台与で、従来の献上品に宝石類が加えられたので、日本には珍しい宝石が採れるということがシナ人に知られるようになったとあります。近江・越(こし)を支配する台与が献上した青大句珠二枚は、下の図のような珍しい糸魚川産青ヒスイの大きな勾玉でしょう。この倭国女王の朝貢は西晋時代の記事になりますので本来は魏志には載せられないのですが、卑弥呼の死後も倭国が朝貢し、珍しい産物を献上していた事実は、司馬懿の功績を称揚する上でとても重要だと陳寿は判断し、年号を明記しなかったと考えられますよ。陳寿は一流の歴史家である前に宮仕えということですね(^_-)-☆。



それにしても二度も殺されるかもしれない窮地を上手く脱して活躍した張政という人物は相当のやり手ですね。後に帯方郡太守にまで出世したと考えられる証拠が出てきています。それから、張政の報告を受けた司馬懿にとって、難升米はすでに用済みですので、苦労して帯方郡にたどり着いたとしてもそこで抹殺されたはずです。一緒に持って行ったはずの金印はどうなったか謎ですが、いつか帯方郡付近で発見されるかもしれませんね(「【検証23】魏使張政って?」参照)。

しかしこの張政によって、後でまた述べますが、この日本建国時代の抗争・戦乱が原因で、不幸な殺し合いの歴史が奈良時代まで続きますので、とても複雑な気持ちになります。

難升米も若いころから切れ者で、公孫氏の支援を受けて、狗古智卑狗を討ち、先代赤坂比古も懐柔して邪馬台国連合によって、一度は消滅しかかった倭国を復活させ、さらに司馬懿と渡り合い、洛陽では一緒に杯を交わしたはずです。しかし、ミスは卑弥呼を暗殺したことと、最後に張政と一緒に帯方郡に行かなかったことですね。その後の日本の運命にも影響したはずです。卑弥呼が登場する205年頃に難升米は、25歳くらいの卑弥呼よりも少し若かったはずですから、20歳くらいでしょうか。ですから、ほぼ50年後ですから難升米はすでに70歳近くだったようです。卑弥呼は70歳を過ぎて亡くなったのでしょう。温泉と山海の珍味に濁り酒の快適で健康な生活をしていたようなので何もなければ、まだまだ、元気で生きていられたはずですね(;´Д`)

大国主は、父が亡くなった時にはまだ10歳くらいの少年だったと思います。因幡の白兎の大国主神話は、父が亡くなって叔父の先代赤坂比古が狗奴国を裏切ったので、恐らく北九州市の和邇氏の陣屋だった八束髪(やつかひげ)神社から身ぐるみ剥がされて追放されたときの話が基になったのだと思います。宇佐市安心院町佐田で大国主が最初に国造りをしたので、兎(菟、ウサギ)が大国主の代名詞だったと思います(「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。伊勢神宮内宮門前の宇治という地名は兎(大国主)が治める土地の意味か、あるいはまた後で述べますが、菟遅はヤマトに殺された大国主の呪いという意味にもとれます。

大国主が尾張王を討って狗奴国を裏切り、魏を後ろ盾にして隆盛になったこの時代に、大国主らに裏切られた狗奴国勢の激しい恨みが想像できます。大国主の出身地である豊岡市竹野町や拠点だった丹後半島から大国主の勢力圏だった山陰地方の、兵士が駐屯していない、のどかな集落を狗奴国の部隊が狙って襲ったと見られます。

この時代のこれらの地方では、鉄製品が普及していたと考えられますから、兵士が護っていたならば鉄鏃が使われているはずですが、京丹後市函石浜遺跡、鳥取市青谷上寺地遺跡、江津市波来浜遺跡(ならはまいせき)などに鉄鏃は見られず、銅鏃がたくさん出土しています。

特に、青谷上寺地遺跡では、調査報告書では弥生後期とされていますが、老人、女性や子供のものとみられる百体ほどの遺骸が溝に捨てられた模様で、人骨が多数発見されました。最近、DNA解析によって被害者の男性の顔の復元がされて話題になっています。現代人と同じ顔つきですので似た方のコンテストまであったようです。突然兵士が襲ってきて虐殺されたと分かりますので、古墳時代初頭(三世紀後半)の大国主への復讐のために狗奴国勢が起こした無差別大量殺人事件だと推理しました(「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?」参照)。



大国主が半島南部の鉄資源を抑えたために、狗奴国勢は鉄が不足していたので、集団戦で大量に使う矢じりは青銅器を溶かして製造した銅鏃を使用していたと分かります。特に尾張においては、二世紀末の倭国大乱期からすでに、鉄があまり供給されなかったことが弥生後期に鉄鏃が出土していないことから分かりますので、大国主の先代久々遅彦と尾張王とは疎遠のようでした。つまり尾張は鉄のネットワークから外されていたようです。ですから、尾張王と大国主の間には、もともと抗争が起きる素地があったのでしょう。

しかし尾張王は、近江の息長宿禰王とは親密であったことは、すでに述べたとおり近江発祥と考えられる前方後方墳を尾張王が採用していることから分かります。恐らく、吉備から葛城山麓に根拠地を移した後に、尾張への進出を息長宿禰王が支援したのではないかと思います。伊勢の地は元々息長氏の祖が開拓したと考えています(「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)参照)。ですから、「日本書紀」では尾張王を仲哀天皇、台与を神功皇后という設定にし、さらに系譜を誤魔化すために息長氏を開化天皇の子孫としています。しかし、大国主が台与を女王に立てたことから、尾張氏と息長氏も対立関係になってしまいました。結局、記紀に書かれていることや神社伝承などを素直に信じると訳が分からなくなるので、物証などから書かれた内容を調べる必要があるということなのですよね(;´Д`)


(つづく)





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