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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆

2023-10-09 13:25:52 | 古代史
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2023-10-08 00:00:10の記事に、本考察を裏付ける最新のゲノム解析結果の図と解説を文末の【参考文献】に追加しましたので、よろしければお付き合いください( ^)o(^ )

2022-06-08 02:00:13に記事にしましたが、その後分かったことを追加しました。お付き合いください(#^.^#)

wiki「日本人」に「核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史という項目が加えられていました(青字で示す)。すでにwiki「日本人」のY染色体DNAのデータに基づき、文献や考古学から分かった事実から推論した結果を記事にしていますが、核DNA解析の結果と合わせて、日本列島への人々の移住の歴史を考えてみたいと思います。まだよくわからないところもありますが、疑問点などを教えて下さい。どうぞ最後までお付き合いください(*^▽^*)

第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)
第一波の渡来民が、ユーラシアの各地からさまざまなルートで日本に流入した。特に1万2000年前まで日本は大陸と陸続きであったため流入は容易であった。この集団は狩猟採集を主とし、現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団だった。この旧石器時代の日本人がそのまま縄文人へと発展したと考えられる
(斎藤成也「日本人の源流」河出書房新社2017 pp.165-168)。

上述のとおり日本列島に旧石器時代から人々が列島に流入します。5万年前に中央アジアに居た人々がオホーツクあるいは華北・朝鮮半島(この頃は大陸の一部で半島は形成されていない)を経由してほぼ地続きの日本列島に到達した祖先から(D型)縄文人系(D1a2、旧D1b)の人々が生まれました。また、4・5万年前にイランで祖先と別れてチベットを経由して日本列島にやって来た人々から発生したC型縄文人系(C-M8、C1a1))が日本列島で生まれています。古墳時代初頭(3世紀後半)と推定できる青谷上寺地遺跡で出土した人骨に見られました(「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?」参照)。

紀元前1万年から前五千年ころの朝鮮半島には遺跡が見られず、多くの人々は半島を通過して日本列島にやって来た模様です。紀元前4千年頃に櫛目文土器時代が始まっています。日本本土の現代男性の約40%が(D型)縄文人系で、一般的には縄文人といえばこの系統を指します。アイヌ人で約80%、沖縄人で約60%と高頻度です(「日本民族の父系のルーツと地域性について!」参照)。またC型縄文人系は本土日本人男性の2.3%とわずかですので、区別する必要がない場合には(D型)を省略して縄文人系とします。



第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)
縄文時代後期になって、第二の渡来民が流入した。これは縄文人とDNAを大きく異にしていたが、後述の第三期渡来民とも若干異なっていた。斎藤はこの集団を黄海沿岸に住む「海の民」と推定し、漁労を主とする狩猟採集民もしくは狩猟採集と農耕をともに生業とする園耕民であったとした。この集団は日本列島中心部において縄文人と混血したが、北海道、南西諸島、東北地方にはほとんど影響を及ぼさなかった
(斎藤p.168)。また、ABO式血液型の分布から、この集団はO型を主とし、シベリアもしくは東南アジアの集団と近縁である可能性がある(斎藤pp.184-186)。

遼河人系(N1)の人々は8,200年前ころに遼河文明を開いたが、その一部が日本列島に進出し、三内丸山遺跡(5,900年前~4,200年前)を営んだものと考えられています。園耕民というのは農耕だけでなく、採集狩猟も生業としている人々で遼河人がその生活スタイルでした。



玄界灘に面した北部九州(宗像)から山陰(出雲・伯耆など)などの日本海沿岸部を活動拠点として、列島全域・南西諸島から半島沿岸部を主な活動域として黒曜石や貝輪などの交易をおこなう縄文海人ムナカタ族が遼河人とも交流して蛇の文化を導入したと考えられます。女性は海女(あま)としてアワビなどの採取を行い、塩漬けにして男性の海人族が丸木舟で列島周辺の各地に移動して交易を行っています。この頃半島の東岸・南岸部も日本海沿岸の縄文海人の活動域だった模様です。その痕跡として、鹿角製アワビオコシ、石棒や宗像女神「卑弥呼」の原形となる海娘神を祀るお堂などが残っています(「【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎」参照)。

ムナカタ海人族の集落と考えられる、3世紀後半の青谷上寺地遺跡の無差別大量殺害現場に残された11体の人骨から採取したミトコンドリアDNAで母系のルーツがわかります。列島固有の縄文系M7a1が1体だけでした。残りは全て渡来系でしたが、列島や半島に見られるD4群が6体で(すでに縄文時代の人骨に見られます)、越南辺りから南西諸島経由で列島に来たと考えられるF群が2体でした。また、遠く中東から半島経由で列島に来たと考えられるN群が2体でした。ムナカタ海人族の男性は出張した先で妻をもらい、根拠地に連れてきたようです。だから日本民族はいろいろな地域の文化を受け入れることのできる柔軟な民族なのです(「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その11)」参照)〕

第三段階前期(農耕民)(約3000年前-1700年前)
朝鮮半島から稲作を主とする渡来民が流入し、水田稲作を導入した。この集団は主に北九州、畿内、関東を結ぶ日本の中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響を及ぼさなかった。特に北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほとんどなかった
(斎藤p.168)。

周の成王(前1042~前1021年)の時代に倭人(O-47z)と越人(O-M95)が朝貢した記事が「論衡」に見られます。倭人が周王に献上した薬草ウコンは海南島の北広西チワン族自治区の特産ですから列島に4.4~6.6%見られるmtDNAのF群は倭人のものかも知れません(青谷上寺地遺跡の人骨の中にY-DNAのOタイプがあるという情報はありましたが、倭人O-47zだったかもしれません)。

倭人はもともと長江河口で水田稲作と漁労を行う人々でしたが、主として半島南部に展開しました。倭人の中で、半島と済州島の間の暖流と寒流がぶつかるチェジェ島付近でナマズではなくカタクチイワシを採っていた人々が東鯷人と呼ばれたと考えています。(「東鯷人(とうていじん)って?」参照)。

越人系の人は日本人男性の0.8%程度ですのでほとんどいませんが、出雲・伯耆地方のムナカタ海人族は越人の文化と考えられる鳥信仰を取り入れています。頭に鳥の羽を付けて舟を漕ぐ羽人の絵画土器が米子市の角田遺跡で見つかっています。ムナカタ海人族の一部が作ったと推理している唐古・鍵遺跡で出土した土器に羽を手や頭に付けた巫女や巫(かんなぎ)の絵が描かれています(「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」参照)。

【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?(*^-^*)で述べましたが、半島から文化が伝わってきた事実を嫌悪する日本人がいます。でもその当時の半島人と現在の半島の人々とは違いますので、事実は事実として受け入れてくださいね(「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」参照)

夏王朝の王族は姫氏(O1a)ですが、その一族が後に殷周革命によって周王朝を建てました。周の先王「古公亶父」の末子季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、「わが家を興すのは昌であろうか」という父の意を量った長男太伯とその弟虞仲が、季歴に後を継がせるため荊蛮の地(長江下流域)へと自ら出奔し、そこで呉を興したと伝わっています。呉王族のハプロタイプは原始夏人系O1aです。被支配民が倭人O-47zの集団です。倭人が太伯の後(太伯には子がなかったので、虞仲の末裔)と『魏略』逸文(『翰苑』巻30)や『梁書』東夷伝に記されていますが、倭人の支配層である呉王族のことです。越人O-M95の王族も同様に原始夏人系と知られています。

紀元前473年に越によって滅ぼされた呉の王族が半島南部を経由して、前4世紀初頭に福岡県早良平野に集落(吉武高木遺跡)を築きました。弥生中期から後期前葉にかけて列島内の交易と対外交易を支配して隆盛になったと考えています。57年後漢光武帝から金印を賜った奴国の王の祖先です。初代王が天御中主(あめのみなかぬし)として『宋史』「王年代紀」に記載されています。これによると23代の王が筑紫日向の宮に居て、最後の王の4男が大和州橿原宮に遷り、神武天皇に即位したとあります。「日本は古の倭の奴国」つまり天皇家のルーツは呉王族というこの仮説が正しければ、万世一系の天皇家は、現代日本人男性の3.4%を占める原始夏人系O1aのハプロタイプとなります(注)。

史記によれば、紀元前219年 徐福が「始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出しました。平原広沢(広い平野と湿地)を得て王になった」との話があります。徐福は海神から貢物を持ってこいと言われていますので、奴(ナーガ=龍蛇神)国王の要請で来日したと考えられます。一行が大船団を組んで列島に渡ろうとしましたが、一部は船団から外れて、列島にばらばらにたどり着いたようです。日本の約二十カ所に徐福の伝承が残っています。

各五百人の男女という伝承もありますが、かなりの規模の人数が北部九州に居住し、徐福は佐賀平野を領地として奴国王から認められたと推理しています。青銅器の冶金技術者は須玖岡本遺跡にある王宮の隣の須玖タカウタ遺跡などの官営工場で青銅鏡(多鈕鏡、たちゅうきょう)や武器形青銅器の製造に携わったと考えています。また徐福一行の中の楽師が奴国の宮中祭祀などを行うようになったと考えています。その末裔が107年に後漢安帝に朝貢した師升らで、クーデターにより奴国王スサノヲを殺し、奴国が滅亡したと推理しています。徐福は斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身ですので、一行はシナ人系だけでなく、山東・龍山文化の担い手だった殷(商)人系の男女も来ていた可能性があります。

弥生中期中葉から後期前葉にかけて楽浪郡から華僑が来日し、伊都国三雲遺跡番上地区に居住していると考えられるので、シナ人と倭人との混血はこの頃から起こったと考えています。楽浪郡ですから殷(商)人系の華僑もいたのかも知れませんが、多くはシナ人系と考えています。

第三段階後期(約1700年前-現在)
政治の中心が畿内に移り、朝鮮半島に加え、現在の上海周辺からも若干の渡来民が流入するようになった。古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階(旧石器・縄文人)の子孫の大半が北海道へ移り、替わって第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫を中心とする人々が住み着いた。南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子孫を中心する集団が移住・混血し、江戸時代には第三段階の集団との混血も進んだ。北海道では古墳時代から平安時代にかけてオホーツク文化人と縄文人の子孫との交流があり、江戸時代以降は本土日本人との混血も進んだ
(斎藤p.169)。

景初三年(239)卑弥呼が親魏倭王となったので、狗(旧)奴国(纏向遺跡)が呉と同盟して、呉の支援を受けたと推理しています。呉の紀年銘の鏡が二面出土しています。呉鏡を製作をする人たちが列島にやって来たと考えられます。

280年、西晋により呉が滅ぶと、倭人を頼って呉人(倭人O-47z)が列島に流入してきたと見られます。7-8世紀に漢音(長安付近の音韻)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字の読みは呉音と言われるものですから、前10世紀ごろから列島に来た倭人(呉人)が漢字のもとになった文字(西周・春秋時代の金文)の発音を伝えたものではないでしょうか?(「「呉音」はいつ日本に入って来た?」参照)

西晋に朝貢していた大国主久々遅彦と女王台与の倭国を狗奴国が滅ぼしてしまったので、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)は西晋に討たれるのではないかと心配しました。そこで大国主と台与の子供(記紀のオオタタネコ)を探して纏向に連れてきて祭祀王にしました。狗奴国を卑弥呼と台与を受け継いだヤマト(邪馬台)国と呼ぶことにしたと推理しています。この頃に景初三年銘の三角縁神獣鏡などを作って卑弥呼が魏の皇帝から貰った鏡としたのかも知れませんね(*´Д`)

663年白村江の戦いで百済復興軍と倭国軍が唐・新羅軍に敗北し、新羅が半島を統一したので、半島南部のほとんどの倭人は列島に移住しました。新羅人・高句麗人・百済人などと呼ばれる人々は異民族と勘違いされますが、当時は出身地で区別して言っているだけなので、現在の半島人とは異なると推理しています。つまり、ほとんどが倭人でしょう(「渡来人は異民族とは限らない?」「天皇家が高麗にゆかりがあるのか?」参照)。

現在の日本人男性の約8%の殷(商)人系の一部は徐福由来などかも知れませんが、多くは明治時代の日韓併合以降に列島に来た人々ではないかと考えています(^◇^)

三世紀の日本建国で大活躍した縄文系のムナカタ海人族は、ただ海の民として交易と漁労で生きていたわけではなく、水田稲作を受け入れて生活の基盤にしていたようです。水田稲作技術を持った第三段階前期の倭人とも半島南部で友好関係を保ち、混血しました。非常に柔軟で進取の気質のある生き生きした活動的な人々で、現代日本人にも受け継がれています。日本民族は古墳時代初頭(第三段階前期)にはほぼ形成され、七世紀には半島から渡来人と呼ばれる人々が、多くは列島に戻って来て、現在の日本民族となったと考えられます。つまり渡来人というのは、第一段階から半島に渡った縄文系の人々と半島南部の倭人(呉の人々)とが混血し、第二段階で列島にやって来た倭人が半島から遅れてやって来た人々ですから、日本民族のルーツとなる人々だったのです(「古墳人が現代日本人に近いの?」参照)。

(注)このタイプが日本人男性の頻度としては少なすぎるという意見があります。人類の始祖神の天皇伏羲から約4千年もの気の遠くなる長い時間の中で倭人系や縄文人系などのハプログループに置き換わっている可能性も否定できませんし、仮説検証のために天皇陛下のDNA解析を行うなど不敬極まりない話ですので、たとえそうであっても、Y染色体だけがこの仮説の成否を判定する材料ではありません。その他の圧倒的多数の考古学や民俗学などの成果によって仮説が検証されます。

ご存じのとおり、ヒトの遺伝情報は細胞核の中の1対の性染色体だけではなく、残りの22対の常染色体も父親と母親から半分づつ受け継ぐのです。常染色体によって体質、性格、顔つきなどが遺伝されます。

三世紀の日本建国から千七百年もの長い歴史を生き抜いた皇室の伝統文化を現代までご皇族が継承してきたことはとても重たいものがあります。一つのY染色体を持つアダムは、およそ 236,000年前にアフリカに住んでいたと推定されていますが、現在まで無数のハプロタイプに分岐しています。一つのY染色体の継承も形式的には大切ではありますが、伝統的な宮中祭祀を継承していただいて、日本民族の統合の象徴となっていただいていることの方が日本民族にとってはるかに重要だと思います。

【参考記事】
【刮目天の古代史】倭人とは?
古代日本は海人国家だった
【参考文献】
藤尾慎一郎「数値年代とDNAがもたらすこれからの弥生文化研究」
考古学雑誌Vol.105No.2、2023,pp.89-103

上図にある愛知県朝日遺跡の人骨は紀元前6世紀後半(弥生時代前期)のもので、「篠田(謙一)氏によれば、これまで分析した弥生時代人の中ではもっとも中国北部西遼河流域の新石器人に由来する遺伝的要素を多く持っている」とのことです(p.100)。2体について篠田氏らによるミトコンドリアDNAの解析結果はありましたが、「弥生時代以降に大陸からもたらされたものであると考えられる。」とありました。Y染色体DNAのハプログループの情報は分かりません。約5千年前の三内丸山遺跡の遼河人系(N1)の人々は、現代日本人男性の1%以下ですが、彼らの子孫との弥生時代の縄文人または倭人との混血が考えられます。

また上図の説明(最終段落)にある、現代日本人(ヤマト人)に近いDNA解析結果が出た獐項遺跡(約5,000年前)の人骨は韓国加徳島です。篠田氏らによって2019年に発表されています(「ゲノム配列を核としたヤポネシア人の起源と成立の解明」令和2年度科研費事業中間報告書)。その中に「縄文人のゲノムが現代ヤマト人と同程度(~10%)含まれていることを発見した。これは現代韓国人に含まれる縄文ゲノムの割合(ほとんど0%)と比べて明らかに異なっている。」とあります(p.10)。

上の図から分かるように、獐項遺跡の人骨は、翌2020年に同グループでDNA解析結果が報告されている青谷上寺地遺跡の人骨とほぼ同じ縄文人の人骨です(「鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土 弥生後期人骨のDNA分析」)。青谷上寺地遺跡の性別が明記された5体の男性人骨のY染色体DNAのうちC型縄文人系C1a1(C-M8)が2体あったのは分かりました。1体は不明ですが、DタイプとOタイプまでしか記載されていないものが各1体もありましたので、それぞれD型縄文人系D1a2a(D-M55)と倭人系O-47zではないかと推測しています。獐項遺跡の縄文人のものも含めて、これらの詳しいハプロタイプも知りたいところです。

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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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