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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆

2020-08-31 23:46:33 | 古代史
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古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その3)で以下のように述べました。
秦氏には建国時代の真相を伝える伝承が伝わっているようです。秦氏の研究はいろいろとやられていますが、あまりこの点を追求したものはないようです。猿楽の祖と言われる秦河勝ですが、観阿弥・世阿弥も秦氏の一族のようです。能を通じて歴史の真相を伝えているようです。これについては、改めてまた考えていきたいと思います。今回はそのことについてもう少し見てみたいと思います。

すでに説明しましたとおり、日本神話のアマテラス女神は、持統天皇をモデルとする創作された神です。重要な事実なので何度も述べますが、持統天皇が皇位を奪った事実を隠し、その正統性・正当性を主張するために創作された女神なのです。そして日本神話を創作した藤原不比等は、藤原氏の遠祖を神話の中に配置し、出自を隠し、天皇家すら貶める話を創りました。藤原氏が権力を維持するため、日本建国で活躍した氏族の物語を神話に閉じ込めて抹殺したのです。しかし、これまで見たとおり、史実を繋ぎ合わせてアブダクションによって仮説を作り、考古学や民俗学などの成果をもとに仮説を検証して、その間の事象を矛盾なく説明できるストーリーが出来ました(古代史の謎を推理する)。

本当の皇祖神は、江南から半島南部を経由して北部九州に降臨した初代王天御中主から17代目の倭国王伊弉諾尊(イザナギ)と日本海沿岸部に活動拠点を持ち列島の太平洋沿岸部や南西諸島、そして半島東部・南部を活動範囲とする縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(イザナミ)との婚姻を意味する国生み神話から生まれた神々に対応する実在人物なのです。

イザナギ大王の王位を継いだスサノヲが奴国の司祭師升ら宮廷楽師たちのクーデターにより殺され約五百年倭国を支配した奴(ナーガ=龍蛇神)国が滅亡しました。奴国の王族は東へ逃げ、弟ニギハヤヒが吉備を平定してヤマト政権の基礎を作った、隠された建国の真相を解明しました。このニギハヤヒが奴国大王を継いだ第19代王天照大神尊です。

そのような歴史の真相を日本書紀がどのように隠したのかを、少し長いですが、隠れているシッポを見てみましょう(^_-)-☆。
日本書紀 崇神紀に以下のような話があります。
五年、国内には疫病が多く、民の死亡者は、半数以上に及ぶほどであった。
六年、百姓の流離する者、或いは反逆する者あり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。
そこで一日中、天神地祇にお祈りをした。天照大神、倭大国魂(ヤマトオオクニタマ)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神を豊鍬入姫命(トヨスキイリビメ)に託し、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。そして、堅固な石の神籬(ひもろぎ、神が降臨されるところ)を造った。
また日本大国魂神(ヤマトオオクニタマ)は、淳名城入姫命(ヌナキイリビメ)に預けて祀られた。ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が瘦せてお祀りすることができなかった。


倭大国魂は大国主のことですが、国譲りを命じた天照大神と国を譲った大国主の二柱の神を崇神天皇が宮に祀ったのかは大いに疑問がありますし、二柱の神を外に遷したことも不思議です。ヤマトが武力によって国譲りさせた大国主は、恨みを持つ神だから、その祟りが怖ろしいことは最初から分かっていることですから。ヤマトの大王の皇祖神である天照大神まで何で外に出さねばならないのかも疑問です。

この直ぐ後の話で、大物主大神(大国主)が崇神天皇の夢に現れて、「もし我が子である大田田根子(オオタタネコ)に私を祀らせたら、たちどころに安定するだろう。また、海外の国も自ら降伏するだろう」と言われたので、大田田根子を見つけ出し、三輪山で祀らせました。
「また、長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主とした。それから他神を祀ろうと占うと吉と出た。そこで別に八十万の群神を祀った。
そして、天つ社あまつやしろ、国つ社(くにつやしろ)、神地かむところ、神戸(かんべ、神社の用に充てられた民戸)を決めた。
ここで疫病がやっと収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく捻って百姓おおみたからは賑わった。」
とあります。

国が安泰になってよかったのですが、次の代の垂仁天皇二十五年になって、突然天皇は「春二月八日、阿倍臣あべのおみの先祖である武淳川別(タケヌナカワワケ)、和珥臣の先祖である彦国葺(ヒコクニブク)、中臣連の先祖である大鹿島(オオカシマ)、物部連の先祖である十千根(トオチネ)、大伴連の先祖である武日(タケヒ)といった五大夫たちに詔して、『先帝、崇神天皇は賢くて聖であり、聡明豁達、政治をよくご覧になり、神々を救い、躬みを慎しまれた。それで人民は豊かになり、天下は太平であった。私の代にも神祇をお祀りすることを、怠ってはならない』と言われた。

三月十日、天照大神を豊耜入姫命から離して、倭姫命(ヤマトヒメ)に託された。倭姫命は大神を鎮座申し上げるところを探し、宇陀の篠幡(ささはた)に行った。さらに引返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。そのとき天照大神は、倭姫命に教えて言われたのが、
「伊勢国はしきりに波が打ち寄せる、傍国(かたくに、中心ではない国)の美しい国である。この国にいたいと思う」というものである。

そこで大神のことばのままに、その祠を伊勢国に立てられた。そして斎宮(斎王のいる宮)を五十鈴川のほとりに立てた。これを磯宮という。天照大神が、初めて天より降りられたところである。」
と天照大神が伊勢神宮に遷座するけったいな話でした。何で皇祖神を宮中から伊勢に遷さなアカンのか?

ですから、その謎を解くカギが、伊勢神宮の本殿下の「心の御柱」なのです。

そして、誰もが不思議だと思うそのことを、謡曲「三輪」の中で謎解きしてくれているのです。

「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更なにと磐座や・・」

大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?で述べたとおり、大物主大神も倭大国魂も大国主のことです。以前箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?で、能「鶴亀」が「出雲の国譲り神話」、つまり史実としてはヤマト物部氏と大国主の闘争を意味するということを述べました。今回の謡曲「三輪」が、伊勢神宮の本当のご祭神は、「心の御柱」が男性のシンボルですから男性の太陽神だということを教えてくれたのです。太陽神の正体は、当初は天照大神尊ニギハヤヒのことかと思ったのですが(注1)、実は日本建国で活躍し、ヤマトによって殺されて、ヤマトに祟る、日本で一番怖ろしい大国主狗智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々神社祭神、スサノヲ直系)だと教えてくれているのです。

日本書紀で崇神天皇が宮中で祀った太陽神天照大神も、本当は大国主のことだということを謡曲「三輪」が証言しているのです。

観阿弥は日本建国の真相を伝えるために能楽を始めたのではないかとさえ思います。

猿楽の起こりはいつもいいヒントを戴いているkunorikunori様が調査されていますので、また参考になりました。当方があまり先走ったことを書いて申し訳ないのですが、猿楽の起源は、実は以前卑弥呼を不比等から護った人物?で紹介した、国東半島で六郷満山を開基した人(仁)聞菩薩(にんもんぼさつ)が始めたと伝わる修正鬼会(しゅじょうおにえ)ではないかと考えています(注2)。つまり、神道と仏教と日本の伝統文化の「能楽」までが根源で日本建国の歴史と繋がる話です。詳しくは、今後もう少し調査してからご紹介したいと思います(*^▽^*)


(the能.com 演目事典:三輪(みわ)より)


【参考記事】
謡蹟めぐり  三輪 みわ



(注1)日本書紀が女神とすり替えた本当の皇祖神が天照大神尊ニギハヤヒですから、隠してしまったことで祟られないようにするために、備中吉備津神社吉備津彦命に高い特別な神階を贈り、丁重に謝っているのです。

(注2)Wiki「修正鬼会」によれば、「五穀豊穣を祈る寺院の正月行事である修正会と、大晦日の夜に悪鬼を祓う宮中行事である追儺式が変化した鬼祭り、火祭りとが一体になった行事」のようです。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v

2020-08-24 16:39:27 | 古代史
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フォローさせていただいている方の以下の記事に興味ある話題がありましたので、いつもの調子でぶしつけなコメントをして、申し訳ありませんでした(*ノωノ)その後分かったことがありますので、ブログにしました。通説と違うので混乱されるかもしれませんが、最後までお付き合いください(^◇^)


褐鉄鉱製鉄②
2020-08-15 07:24:27 | 歴史


褐鉄鉱とは直結していないのですが、アマテラスとスサノヲの誓約でスサノヲは悪しき心なら女が生まれ、そしたら葦原中国に降し、清き心なら男が生まれるので天上を治めさせ、姉の生んだ子も同じ誓約にしましょうと言ったとあります。スサノヲからは六人の男が生まれ、アマテラスから三人の女の子がうまれたので、三女神を葦原中つ国の宇佐嶋に降臨させたことになっています。この三女神は本当は二人の子供ではないですが、イザナミと同じ母系のムナカタ海人族の姫巫女卑弥呼のことだと推理しています。卑弥呼は宇佐市安心院町の三女神社に降臨(疎開)しましたので、葦原中つ国の宇佐嶋は宇佐市安心院町三柱山だと思っています。当時の安心院盆地は葦の群生した湿地帯だったようです。

中津国を豊前の中津と言う説もありますが、中は那珂、那賀で龍蛇神(ナーガ「奴」)の意味で、奴国大王スサノヲ直系の大国主の支配する国を意味します。台与を13歳で女王に立てて最初の王宮を安心院町にして卑弥呼を三柱山の径百余歩の円墳から妻垣神社の一柱騰宮(古事記では足一騰宮)で改葬したと推理しています。ですから葦原中つ国は安心院町のことだと推理しています。

そして、褐鉄鉱ですが、安心院町ではないですが、隣の別府血ノ池地獄の赤泥に褐鉄鉱が混ざっているとのことです。http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/bs00105.pdf(残念ながらご紹介したURLにアクセスできませんでした(´・ω・`)

それから、大国主久々遅彦(豊岡市久々比神社の祭神、イタケルの直系)と台与(ムナカタ息長族)がペアですが、アメノヒボコとカヤナルミ、ツヌガアラシトとヒメコソ、サルタヒコとアメノウズメ、ウサツヒコとウサツヒメは大国主と台与の分身だと思いますよ。色んな伝承で訳の分からない話にするのが日本書紀のごまかしの手口だと睨んでいます。アジスキタカヒコネと下照姫も分身かも?拙ブログ「本当は怖い七福神の謎」「ヤマトタケルの正体は誰?」のコメントで少し言及していますので、ご参考までに。
失礼しました(*^^)v


このブログの冒頭に、
長浜浩明氏によると、

豊葦原とは貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原であり、豊葦原から生まれるスズより鉄を得、その鉄で農具を作り開墾して瑞穂の国を作る

これが「豊葦原の瑞穂の国」だといいます。
とありますが、日本書紀と古事記で使われている場所を「葦原」で検索しましたが、そこで現れる記事に褐鉄鉱(リモナイト)と直接関連しそうなものは見当たりませんでした。

確かに川の上流から流れてきた砂鉄から葦の根のバクテリアによって湖沼鉄(褐鉄鉱)が生成されることは知られていますので、それを使った小規模な製鉄が古くからおこなわれていたと考えられます。しかし、生産量などが半島南部の鉄素材と比べると十分ではないので、日本建国時代(三世紀)の列島内で使用された農耕具・漁具や武器などの多くは半島産の板状鉄素材を用い生産されていたと考えています。

上のコメントのとおり宗像三女神(比売大神卑弥呼)が降臨したという伝承のある葦原中国の宇佐嶋は宇佐市安心院町三柱山の三女(さんみょう)神社で間違いないようです。



そして、大国主は先述のとおり、卑弥呼が死んで内戦に勝利した後に台与を伴い、一柱騰宮(足一騰宮)で卑弥呼を改葬し、大国主が倭国を支配するために、最初に都とした場所が安心院町だと推理しています。恐らく、佐田神社の場所が王宮だったと思います。そして米神山の西麓に佐田京石を造り、祖霊への感謝の祭祀を行ったようです。佐田京石は佐太大神(大国主)がこのストーン・サークルを首長霊の依り代として都の中心と定めた故事に由来するのではないかと思います。米神山も神奈備山として中腹から山頂にかけて巨石を配置し、祭祀を行ったと思われます。(悲劇の女王台与のはなし(その3))。

そして、この地は温泉が出ます。先述のとおり葦の根で生成される褐鉄鉱(リモナイト)を用いて製鉄し、農工具などを作って、葦が群生するこの土地を豊かに稲が実る水田に変えたのだと思います。豊葦原の瑞穂の国は大国主が最初に開拓し、広大な水田を造った安心院盆地のことだと思います。国譲り神話は大国主の支配する豊葦原中国を天照大御神の子孫に譲る話ですが、実際には270年頃、大和政権を作った第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒの直系の纏向ヤマト(狗奴国)の大王卑弥弓呼が大国主と台与を殺して倭国を奪ったのが史実だと推理しました(第三次倭国大乱)。

大国主の支配した倭国のシンボルが安心院町の豊葦原瑞穂の国でしょう。



佐田地区探訪マップ(大国主ゆかりの神社・史跡が見られます)


その佐田神社は以前に紹介しましたが、御祭神は武内宿禰・素盞鳴尊・大山祇命です。武内宿禰と大山祇(大山咋)は大国主の別名であることも述べました(注1)。スサノヲ大王は大国主の祖ですので、大国主と霊的に一体になるというのが首長霊信仰の思想なのです。

これは天皇家の大嘗祭のメインイベント真床負衾という儀式に現れています。これによって天皇に即位し、皇祖神と一体になって、その霊力によって日本国の安泰・日本国民の安寧をもたらすという考え方ですから、天皇になれるのはヤマトの大王(祭祀王)としての有資格者、つまり皇祖神の男系男子だけなのです。

何度も述べていますが、アマテラス女神は持統天皇と藤原不比等の創作です。それを誤魔化すために推古天皇も皇極・斉明天皇も創作された女帝で、実際に即位した人物ではないのです。その後の女帝もヤマトの大王(祭祀王)にはなれないので(注2)、通説とは異なりますが、

すべての女性天皇は歴代天皇の系譜から除外すべきだと分かります。

女帝称徳天皇(孝謙天皇)の宇佐八幡神託事件(769年)弓削道鏡に皇位を譲る話ですが、河内の弓削連(物部氏)は天照大神尊ニギハヤヒの子孫なのですから、臣籍降下はしてますが、称徳天皇は道鏡を有資格者と考えたのではないでしょうか。称徳天皇の父は、大国主系と思われる天武天皇の曽孫の聖武天皇で、母は藤原不比等・県犬養三千代の娘の光明子です。父も母も藤原氏の横暴ぶりを嫌っていたようです。恐らく天変地異や疫病は藤原氏が本当の皇祖神を蔑ろにしたからと考えて、皇位(祭祀王の位)を天照大神尊ニギハヤヒの系統に返還するのが正統だと考えたのかも知れません(関裕二『「万葉集」が暴く平城京の闇』(小学館新書)2016参照)。(2020.8.25 赤字追加)

770年になって、天照大神尊ニギハヤヒ直系の敏達天皇の玄孫で、中大兄(ナーガ神=奴国大王の嫡子という意味)の孫の白壁皇子が光仁天皇として即位して以来、現在の天皇家はニギハヤヒ系だと推理しています。天智天皇の第7皇子志貴皇子の第6皇子としていますが、中大兄は大和で即位していません。天智天皇は存在しないことが万葉集研究家の渡辺康則氏によって解明されています。舒明天皇も創作です。

現在調査中ですが、スサノヲ・大国主・応神天皇直系の雄略天皇までの倭の五王は実在だと思います。その後、継体天皇までは全て創作だと思いますが、大国主系とニギハヤヒ系の主導権争いの混乱の末、欽明天皇が崇神天皇(応神天皇を即位させた狗奴国王卑弥弓呼)以後の最初のニギハヤヒ系の大王として即位したのだと思います。その子の敏達天皇を用明天皇が追い落として即位した実在人物です。日本書紀で用明天皇の分身を蘇我馬子にされてしまいましたが、武内宿禰つまり大国主の子孫です。馬子の子蝦夷とされた人物が聖徳太子であり豊浦天皇として実際に即位したようです。蘇我入鹿は創作なのです。天武天皇は豊浦天皇の子孫でしょう。藤原氏の権力の正当性を主張するために日本書紀で最も隠したい史実だったのです。「聖徳太子は天皇だった」(大空出版)に独自の推理を加えています(*^。^*)(2020.8.26 赤字修正)


ということで、話が脱線気味ですが、元に戻して、日本書紀 神代上に「一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神。」とあります。

大国主は葦原醜男(アシハラシコオ)、つまりヤマトに祟る鬼(シコ)のような怖い男なのです。また、安心院町佐田は江戸時代に反射炉が造られた場所ですからやはり大国主が鉄器を生産した場所だったことと関係しているのだと思います。八千戈神ですから、数多くの鉄製の矛(武器)を作った人物でした。新羅王子アメノヒボコとして豊岡市の出石神社でも祀られています。

このとおり全部でいくつあるのか数えてませんが、すべて大国主久々遅彦の別名なのですよ(^_-)-☆。

280年頃応神天皇が祭祀王として即位した物部政権の時代から、その後の藤原政権時代を経て現代まで、

その正体を隠されつづけて来た、日本の神々の中で最も丁重に祀るべき日本建国の主役だったのです。


【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
日本建国の真相はこれだ!(^_-)-☆



(注1)大山祇は古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)注で示した大山咋と同一神と考えています。
古代史のカギを握る神々の正体?(^_-)-☆

(注2)Wiki「女性天皇」宮中祭祀によれば、以下のとおり女性天皇は祭祀王としての神事を完全には行えません。伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕する斎王(斎院)の制度がありましたが、未婚の皇女は斎王(斎内親王・斎女王)になれますが既婚女性はなれませんでした(wiki「斎院」参照)

女性は皇族と言えども宮中祭祀を行うヤマトの大王、つまり皇祖神の霊と一体となる祭祀王にはなれないのです。

宮中祭祀においては今なお伝統を重んじ、「何人たりとも常に清浄な状態でなくてはならない」とされる。

賢所で祭祀に携わる内掌典は、外出時には下界の「穢れ」を宮中に持ち込まないよう専用の衣服に着替える[10]。死も「穢れ」とされるので、内掌典は拝命時、身内が危篤に陥った際にはまだ命のあるうちに宮中を離れるようあらかじめ厳命される[10]。身内の訃報を宮中で聞いた内掌典は「穢れ」となるので、着ていた着物などは全て処分しなければならないという[10]。そして、女性特有の出産や月経も、神道においては「穢れ」である。月経は「まけ」と呼ばれ、最も穢れた状態とみなされる[10]。

さて、天皇は「祭祀王」であり、歴史的に見るとその最も重要な務めは神事であったとされる。しかし、女性であるがゆえの「穢れ」が定期的に生じるのを避けられないがために、江戸時代の女帝たちは、天皇の本質的部分である祭祀を、不安定、不十分な形でしかおこなえなかった[11]。

女帝に「御障り」がある際には、代行できるものは摂政や神祇伯が代行した[12]。しかし、天皇自身がおこなわねばならない祭祀は中止された。明正天皇は、在位中に四方拝や小朝拝をおこなわなかった[12]。後桜町天皇は、四方拝にも新嘗祭にも出御しなかった[11]。後桜町天皇の大嘗祭は、当日が「御障り」になった際には後日おこなうという二段構えの計画が立てられた[11]。

こうした事情を踏まえると、仮に(皇室典範を改正して)女性天皇が今後実現した場合、日本国憲法に規定される象徴としての世俗的な公務については何ら問題なく果たせるであろうが、伝統的な宮中祭祀に関しては問題が生じることが予想される。代理による執り行いが不可能な祭祀は延期・中止にせざるをえず、代理による執り行いが可能な祭祀とて完全に委任することはできない。実例として、昭和天皇は大正時代後期(当時:皇太子裕仁親王、1921年 - 1926年)に摂政として代拝をおこなったが、「天皇同様の祭祀行為はできず、新嘗祭では供物奉納までしかできなかった」という[13]。


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古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その3)

2020-08-18 19:52:47 | 古代史
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高柴昭様の三つの疑問の二つ目への回答です。

2)「神話通りの日食でなくても良い」とは暴論も極まったというべきで、何百年に渡って神話として伝承された事実を曲げて、一人の人が創作したとしても多くの人々に容易に受け入れられるはずは無く、無理を通り越した自己撞着と言わざるを得ません。古代の多くの人々に強い印象を残した日食があったからこそ、長い間に渡って伝えられてきたのであり、それだけのインパクトがある皆既日食は、BC273年9月6日に中国大陸に始まり、北部九州から四国を経由し近畿南部から太平洋に抜けた、広範囲に渡る文字通りの皆既日食ならば該当し、私は、岩戸隠れ神話はこの日食を元に脚色されたものと考えています。もしそうであれば、卑弥呼は天照大神とは全く結びつきません。この日食を外して、わざわざ該当しにくい日食に固執して論を展開するのは我田引水の誹りを免れないものと言わざるを得ないでしょう。

BC273年の誰が見ても文句の言いようがない明らかな皆既日食をあえて無視する理由も述べられず、「的外れ」との一言では、それこそ的外れと申し上げておきます。


何度も引用して恐縮ですが、相馬 充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典「247 年 3 月 24 日の日食について」国立天文台報 第 14 巻,15-34(2012)の以下の結論に基づいて推理していますので、そのBC273年については言及するまでもないと思います。

「天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり,天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する,との見解がある([12]).卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に,北九州で,皆既または皆既に近い日食があったことは,注目に値する.」

この論文は専門家が学術論文として執筆され専門誌に掲載されたものです。ご異論があるようなので反論を学術論文として投稿されるのがよいと思います。目出度く掲載された暁には改めて再考させていただきます。従って今の段階で247年の日食で卑弥呼が殺されたとする前回詳しく述べた推論が、我田引水だとのそしりは全く当たらないと考えます。

それで、このようなご疑問が生じる根本原因が、

「日本書紀」に対する間違った信奉に基づく

という反論はすでに拙ブログにて何度も述べておりますが(古代史の謎を解く <正史と記紀神話の謎>参照)、

ここでもその点について、以下にさらに補強したいと思います。

おさらいですが、現存する日本最古の「正史」とされる日本書紀は、その編纂を、壬申の乱に勝利した天武天皇(在位673-686年)が国家造りの一環で始めたと言われていますが、完成する前に崩御されてしまいました。その後を継いだ皇后鵜野讃良・持統天皇(在位690-697年,崩御703年)の時代に、すでにある程度できていたものを改ざんする作業が行われた模様です(Wiki「日本書紀」編纂方針から推理できる)。そして、持統天皇の異母妹阿閉皇女(のちの元明天皇、在位707-715年)と息子草壁皇子の間の皇女で、文武天皇(在位697-707年)の姉であった元正天皇(715- 724年)の時代に日本書紀が完成しました(720年)。権力者の藤原不比等は完成後に亡くなりました。

持統天皇が皇太子だったと思われる大津皇子を、

藤原不比等と組んで謀略によって自害させ、

皇位を奪った事件が背景に在り、

その正統性を主張する目的で女神アマテラス神話が創作されたと断言できます。


その根拠は、最近の研究で徐々に明らかになってきていますが(注1)、後で述べる日本建国時代のシナの歴史書を引用している箇所があり、史実を把握していながら全くそれを無視して、荒唐無稽な神話にしているからです(神話以後の史実についても疑義が多々あります)。さらに、天照大神がスサノヲの姉ではないことを示す証拠が、983年(永観元年)東大寺の僧奝然(ちょうねん、938-1016年)によって宋の太宗に献上された『王年代紀』です。これをしっかり評価することが建国史を解明する上で、特に重要であることに気付きました。

7世紀末に粟田朝臣真人を遣唐使として派遣して日本への国号変更を申し出たにもかかわらず、認められたという意見も見られますが、二十四史に数えられる「旧唐書」(945年成立)では倭国と日本国は別物として記されました。しかし、『王年代紀』によってシナの史官は「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」という認識をもち、その後の「新唐書」(1060年成立)から正式に「日本」と認められた事実を無視できません(「日本国」へ、八百年も掛かったのか?)。

太宗は日本の天皇が万世一系であることにいたく感嘆し、奝然を篤くもてなしています。遣唐使廃止からシナとの正式な交流は廃止されていますので、第64代円融天皇(959~991年)の時代に奝然は私的に渡ったと言われているようですが、帰国後罰せられるどころか、東大寺の別当(長官)に昇進し、宋の五台山の釈迦像を模彫させ持ち帰った「三国伝来の釈迦像」を嵯峨野の釈迦堂に納め、死後は五台山清凉寺という名称の寺院とされ発展していますから、正式に奝然上人の功績は高く評価されていたと考えられます。従って、渡航の前に朝廷とも打ち合わせていたと推理できます。

『王年代紀』によれば、日本書紀の神代とある高天原の時代は、筑紫日向宮を構えた初代天御中主に始まる23代の王が統治する国だとシナが理解したのです。伊弉諾尊は第17代、次が素戔嗚尊、そして第19代天照大神尊と続きます。残念ながら王名しか記載されていませんが、それでもアマテラス女神に追放されたはずの弟スサノヲの神話は虚構であると分かります。

先に述べたようにアマテラス女神の神話は持統天皇をモデルに創作されたものだということは、伊勢神宮の天照大御神に神階が与えられていないことからも分かります。代わりに吉備津神社の吉備津彦に、数ある神の中で四柱の神しか持たない特別な神階が贈られているのです(注2)。つまり、クーデターで殺されたスサノヲ大王のあとに、吉備を平定してヤマト政権の基礎を築いた弟ニギハヤヒが第19代天照大神尊なのです。先代旧事本紀に記された物部氏の祖天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊のことで、倉敷市の楯築王墓の被葬者、楯築神社のご祭神だと突き止めました。日本書紀では吉備津彦として隠しましたが、朝廷から贈られた神階から本当の皇祖神天照大御神が男神だとバレてしまいました(*^^)v

ですからアマテラスの岩戸隠れも、卑弥呼の日食によって殺された伝承に基づいて作られた創作です。つまり卑弥呼は実在人物ですが、神話の女神アマテラスは日本書紀の中で創作された神なのです(日本書紀よりも先に完成されたとする古事記も、拙ブログで何度も述べていますが、後追いであることは、後でまた述べます)。

神話が作られた目的は、建国時代に活躍した人物たちをおとぎ話の世界に閉じ込めてその真相を隠し、活躍した氏族の正統性を奪って藤原氏の権力を維持するためだと分かります。先述のとおり、「日本書紀 神功皇后紀」では、魏志倭人伝や晋起居注からの引用が四件見られ、最初の三件は卑弥呼の遣使などの記事で、最後のものは台与の朝貢の記事ですから、日本書紀の編者はシナの正史を読み、713年には風土記編纂を各地に命じていますし、有力氏族の伝承もかき集めているはずです。ですから、編纂者らは日本建国時代を理解していたと言えます。神功皇后も建国の真相を隠すための創作なのです。そのモデルも卑弥呼の後の女王台与だということも突き止めました。

日本神話は民族によって長く伝えられた伝承ではなく、作られた政治的な創作物なのです。

関裕二さんは「古代史不都合な真実」(じっぴコンパクト新書 2018)の中で日本書紀が藤原氏のために書かれたことを指摘しています。中大兄と鎌足の出会いなど藤原氏の立場から描かれていますし、天皇家すらバカにしている内容も見られると指摘しています。以前に述べましたように、日向三代の神話で、神武天皇の祖母と母が実の姉妹で近親婚のワニの一族というトンデモナイ記述もあり、他にも雄略天皇や武烈天皇の悪行など天皇家の立場で書かれたものでないことは明白なのです。

何でこのようなインチキなものが正史となって1300年も生き続けたのかについても後で述べますが、藤原不比等が藤原氏の権力を維持するために書いたインチキな歴史書であり、細かく見ると、藤原氏の疑わしい出自もついでに隠すために神話に遠い祖神の話を随所に登場させているから分かります。

ですから、あの手この手の筆法で、このような偽りの歴史書「日本書紀」で隠された、日本建国で本当に活躍した氏族は真実を何とか後世に伝えたいという動機で、古事記や万葉集なども作られたと分かってきています。有力氏族は密かに家伝を隠していたと思いますが、貴族だけでなく民衆も平安時代くらいまで日本建国の真相を口伝えである程度理解していた模様です。先述のとおり、天変地異が起こる度に朝廷が神社の御祭神に、神階を上げ、田や民を寄進しており、民衆もそのような神社を詣でお祈りしていることから分かります。

しかし、日本書紀の記述は全く当てにならないから古代史解明から完全に無視すべきという立場は取っていません。

歴史の歪曲や捏造、史実の隠蔽があってもその中に史実を読み解くヒントが隠されている貴重な史料だからです。

藤原不比等の目的を推理すれば、日本書紀で書かれた内容に反する伝承などによって真相が浮かび上がってきます。


古事記との違いもヒントになります。住吉大社や宗像大社の伝承は謎を解くカギになることを関裕二さんが指摘しています。関さんの著書は非常に読みやすいし、引き付ける魅力がありますので、まだでしたら是非お読みください。関さんにはまった時期には本屋で見ると直ぐに買ってしまい、自宅の本棚に同じものが並ぶ失敗を何度かしています(´・ω・`)



神功皇后の子ホムダワケが応神天皇として即位しますが、応神天皇こそヤマトの初代祭祀王でした。それをまた、誤魔化すために応神天皇の分身として神武天皇を登場させて、同様の九州からの東征神話にしています。しかし、卑弥呼が247年頃に死んで葬られた円墳も見つかり、三世紀末に纏向でヤマト王権が成立したことが確かな事実として認められていますから、紀元前660年に神武天皇が即位する神話は作り話というのが間違いのない事実なのです。当時の纏向遺跡の外来土器を見ても九州のものはその1%にもなりませんから、九州から人々が大和に来て日本が建国されたという説は、全く事実に合わないことが証明されています。



また、岩戸隠れの日食の話に戻しますが、古代日本で観測される皆既日食や金環食や部分日食について、すでに述べました通り、地球自転時間遅れΔTというパラメータが古い時代ほど大きく、その変動もかなり激しいので、記録にない時代のものは実際に日本で見られたのかさえも確認できない話なのです。

高柴様が主張されるBC273年9月6日にあった日食の記憶が岩戸隠れの神話に使われたという説も、アマテラス女神がその時代に生きていた実在人物であった証拠があれば別ですが、その後にも皆既日食は何度かあったかも知れませんので、神話と一致するからと言って、その日食だけを取り出して、誰が見ても岩戸隠れの神話の日食だと言われても到底信じられません。

もしも、アマテラス女神が卑弥呼と関係のない実在人物だということであるのならば、

神武天皇も実在人物なのでしょう。

だとすれば、神武天皇はBC660年に大和橿原宮で即位していますから、

BC270年に岩戸隠れされた皇祖神天照大御神は神武天皇の子孫ということになりますが

どこかオカシくないですか?(´・ω・`)

だからその矛盾を解消するためには何らかの理屈が必要になるはずです。

でもその理屈はそれのために作ったものですので、

そのような理屈が、誰が見ても正しいなどと言えるはずないのは明らかでしょう!

日本書紀が正しい歴史だと考えて、つじつまの合うような推論を考えてみてください。

でもそれは恐らく、日本書紀の内容を書き換える話になるはずですから、

是非、自己無撞着なシナリオを頑張ってください!

「新日本書紀」として発表されたら如何でしょうか?

いや、それもやっぱり変だな(;´Д`)


【関連記事】
卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか?

通常、皆既日食は欠け始めてから元に戻るまで7・8分程度と言われていますので、真っ暗になったとしても元に戻るので、すぐに不安感が消えると思われます。それに対して日没帯食は翌朝日が昇るまで不安が継続しますので、不吉な現象としてはよりインパクトがあると思います(^_-)-☆


(注1)Wiki「日本書紀」に日本書紀の記述の信ぴょう性について、史料批判上の見地から、後代における日付の捏造、大化の改新の詔の内容の書き換え、『隋書』、『晋書』との対応、稲荷山古墳鉄剣銘文との対応、『上宮記』『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』との関連、百済三書との対応、高句麗の建国について、と項目を立てて指摘されています。

(注2)神階のうち、皇族だけに贈られる位階と同じ品位(ほんい)が四柱だけなのです。淡路伊弉諾神宮伊弉諾尊、宇佐神宮八幡大神がそれぞれ一品(いっぽん)で、八幡比咩神(比咩大神、宗像三女神)が最初は二品でしたが最終的に一品、備中吉備津神社吉備津彦が二品を贈られています。伊弉諾尊は皇祖神ですから分かります。八幡大神は応神天皇となっていますが、何故十五代天皇だけ一品なのか、他の二柱も全く謎でしょう。

八幡大神は本当は応神天皇の父大国主のことだと考えています。首長霊信仰から大国主と応神天皇は一体なのです。八幡比咩神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼であり、台与も含まれると考えられます。台与は大国主との神婚伝承のある宗像三女神(タギツヒメ、タギリヒメ)、豊受大神、正一位稲荷神(宇迦之御魂神、うかのみたま)、白山比咩命、豊岡姫、淀姫などとして全国で祀られ、尊崇されています。そして吉備津彦の正体が天照大神尊ニギハヤヒでした(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)

ニギハヤヒの神階が二品で止まったのは、ニギハヤヒはヤマトを怨んで死んだ神ではないからだと思います。伊弉諾尊の皇子ですので、差をつけたのだと思います。


通説と違うところもありますので、疑問点をお寄せください(^◇^)
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古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その2)

2020-08-17 19:33:16 | 古代史
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高柴昭様の三つの疑問の一点目への回答です。

1)倭人伝の「卑弥呼以死」を、殺害されたとしておられますが、「三国史記」などの記述も併せ考えれば、当時卑弥呼はかなり高齢であったと考えられ、その死は老衰による自然死と考えるのが妥当と見ています。
「卑弥呼以死」については殺害説の場合、不吉だからとして殺しておいて、なぜ大きな冢を作るのか合理的な説明ができないのではないでしょうか。
殺された遺族などが密かに葬るのならば理解できますが、倭人伝には「大作冢」とあり、大々的に冢を作ったと読むことができます。


「三国史記」新羅本紀では卑弥呼の遣使が173年ですから、卑弥呼は247年ころ、つまり74年後ころに死亡したことになります。おっしゃるとおり、もしも二十歳代後半か三十歳代前半で女王になったとしたら百歳を超えていることになります。そうであれば老衰による自然死説も成り立ちそうですが、医療などのない時代にそこまで生きたのか、疑いも生じます。

「三国史記」は高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰し、1145年に完成した正史で、新羅成立を紀元前57年としています。半島の古代史だ!(漢四郡まで)で述べていますが、その時代は原三国時代(馬韓・辰韓・弁韓)に当たりますので、通説では新羅成立を古く見せるために時間軸を古い方に引き伸ばしたものとみられています。「三国史記」の卑弥呼遣使の記述の173年の時期は「三国志 韓伝」や「後漢書」などから後漢の半島支配が緩み、相当混乱した時期にあたりますので、通説では「三国史記」のその記事も信用されていません。

「後漢書」によると倭国が乱れた時期が桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)とあるので、通説では女王になるのが二世紀末と考えられているようです。しかし、公孫氏が半島を平定し、帯方郡を成立させたのが204年ですので、卑弥呼はその直後に三十歳前後で女王に共立されたと推理しました。ですから、そこから43年後ころの卑弥呼の死亡推定年齢は73歳前後となります。

誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)にも述べましたが、卑弥呼は当時の一般人と比べるとぜいたくな食事をしていたと思われますが、毎晩温泉にも浸かり、かなり健康な生活をしていたと思います。当時は現代のような健康を害するような食品はほとんどない自然食品ですので、まだ老衰で死亡する年齢だとは考えにくいでしょう。何らかの病気で死ぬ可能性はありますが、余り人前には現れないので、感染症はかかりにくいとは思います。滋養強壮に効くスッポン料理も食べていたようですし、濁り酒も飲んでいたようです(#^.^#)



しかしながら、以前にも述べましたが、当時の状況は、敵の狗奴国が倭国討伐軍を出す時期ですので緊迫した状況です。そこに不吉な予兆とみられる日食を伊都国男王(倭国王難升米)が見たことにより殺されたという推論の方がその後の出来事を考えると死因を病死などと考えるよりも可能性は高いと考えられます。

卑弥呼の死後に男王が立ち、それに皆服さず内戦になって、その後卑弥呼の一族の13歳の台与が女王を継承する魏志倭人伝の記事とも整合性が取れます。つまり、女王が老衰で死亡したからいきなり男王が立って内戦になるのは不自然です。それならば先に台与が女王を継ぐ方が自然かも知れません。すでに卑弥呼の男弟(伊都国男王)がいるわけですから内戦には直結しませんから内戦になるシナリオを別に考えなければなりません。

卑弥呼が伊都国男王に殺されたと考えると、卑弥呼を元々支えていたムナカタ族は相当落胆したと想像できますので、倭国の結束が乱れ、狗奴国軍が侵攻して、倭国が瓦解したと考える推論が容易にできます。それ故、倭国を占領した狗奴国軍の内部で内戦が起きたと推理できます。

ですから、新たに別のシナリオを作るよりも、すでに分かっていることから自然に推理できるものの方が、より確からしいシナリオだと考えられます。


次に、卑弥呼の墓ですが、径百余歩(約150m)の円墳と言うかなり大きなものだと思います。同じ時期の纏向箸墓古墳は前方後円墳ですが、後円墳部分と同じ大きさですから、纏向狗奴国の大王に匹敵する大きさの墓です。

殺害した伊都国男王としても、すでに述べた理由があって生贄として卑弥呼を殺したのですが、卑弥呼が恨んで祟られることも恐れたと思いますので、卑弥呼の魂を慰めるために大きな墓を築き、奴婢百余人を殺して一緒に周囲に埋葬したのだと思います。殉葬は口封じの意味もあったかもしれませんが、大掛かりなことをしましたのでその情報はすぐに卑弥呼の一族に漏れたのでしょう。

「殺された遺族などが密かに葬るのならば理解できますが」とありますが、ひそかに葬るならばそのような人手と手間のかかるこのような大きな墓を造るはずありません。卑弥呼の墓を造らせたのは権力者としか考えられません。したがって暗殺を命じた伊都国男王難升米としか考えられません。

当時の人々は、持衰(じさい)と同じ理由で殺しておきながら、殺された人の崇りも恐れるからと考えられます。特に、王などの位の高い貴人が不慮の死で亡くなった時には祟ると考えていたようです。

平安時代には天変地異が起こるとそういう貴人が鬼となって祟ったために起こったと人々は考えていたようです。朝廷はゆかりの神社に対して、神階を上げて、田や民を贈り、丁重に鎮魂の祈祷を行っていますから分かります。科学が発達した現代人は迷信と笑うかもしれませんが、それが古代から受け継がれた日本人の心なのです。現代の日本人でも、神社で手を合わせ、無病息災や日本の安泰を、皇祖神などが祀られている神社でお祈りするのはその名残りでしょう。

以上見たように、卑弥呼の死因が老衰か病死か殺害されたか、誰によって殺害されたかの推理は前後の状況に依ります。卑弥呼が病死や老衰などで死んだのならば、次に起こったことを、より複雑な話を作らないと説明することはできませんから、そのような理屈はアドホックな屁理屈とみられ、推論の妥当性や信頼性を欠きます。

起こった結果から原因を推理するアブダクションの手法は、ひらめきや思い付きであっても説得力を持つものです。

そしてその推論が正しいか、単なるこじつけなのかどうかは、

その推論によって、それまで謎であったことが解明される事実によって判断されます。

より妥当な推論により、より多くの謎が解明できます。

【関連記事】

卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

古代史の謎を推理する(^_-)-☆




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古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その1)

2020-08-14 18:35:42 | 古代史
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前回のブログ卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか?で紹介させていただいた「卑弥呼の日食」の議論から、本日(8月14日)まで、愛読している宮崎正弘先生のメルマガ(読者の声)上で、古代史解明に関する論証手法と結果が皆様にどうすれば受け入れられるか考える良い機会を与えて頂きました。高柴昭様は「科学の目で見えてきた日本の古代」を掲載されている独自の邪馬台国論を展開されている古代史研究者です。まずは、大変な労力をおかけしてお付き合いいただいた高柴昭様と、緊迫した国際情勢の分析でお忙しい中、拙論の掲載にご協力いただいた宮崎正弘先生に改めて心からお礼申し上げます。一応、メルマガ上での議論はこれで終結しましたが、高柴昭様があげて頂いた拙論へのご疑問をここでご披露させていただき、刮目天が提唱する新しい古代史の解明手法について皆様にご理解賜ることを願って、数回に渡り掲載する予定です。一般的な手法とは異なりますので、色々と疑問が生じると思います。ご興味のある皆様と、ここで色々建設的な議論をさせていただけると解明が進むと思います。最後までお付き合いのほど、どうぞよろしくお願い致します。

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)8月12日(水曜日)
       通巻第6615号  <前日発行>
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(読者の声2)貴誌6613号(読者の声1)日食と天照大神(再反論)を高柴昭様より頂き、心より感謝いたします。
 247年3月24日北九州で皆既日食、北部九州一帯で深い食が見られたという当方の主張はお認め頂いたと考え、その上で、以下の二点を問題にされているのだと思います。
1点目は、部分日食では、岩戸隠れの神話の内容と違い過ぎるから247年の日食とは結びつかない。
2点目は、卑弥呼暗殺命令を出した伊都国男王が「海に沈む深い食の異様な夕日を見たはずです。とても不吉な現象だと感じたと思います」という推理が、記紀神話とは無関係な(刮目天の)個人的な感想であり、「日食=天照大神=卑弥呼」の論証として成り立たない。

まず、1点目ですが、日本の神話は「日本書紀」完成時の権力者藤原不比等にとって建国の真相を正史に残すことが不都合なので創作されたものと考えています。
その詳細については前回拙ブログを紹介させていただいていますので、そちらをご覧ください。高柴昭様は神話の内容に近いことが現実に起こったはずだとのお考えならば、いつの日食が岩戸隠れの神話になったとお考えなのでしょうか? 当方は、卑弥呼が247年の日食が原因で殺された事件に基づく伝承から、神話の作者が適当に連想して作ったものだと考えています。ですから、神話どおりの日食でなくてもよいのです。

卑弥呼は実在人物ですが、女神アマテラスは元々「日本書紀」の中で作られた神であり、持統天皇をモデルとしていますが、実在人物そのものではありません。古事記の神話は、日本書紀と多少違いがありますが、基本的に日本書紀に倣って作られていると考えています。

2点目ですが、ここでは卑弥呼が殺されたのは何故かを推理しています。つまり倭国に狗奴国が押し寄せてくる情報と丁度重なって不吉な現象と考えられる日食を伊都国男王が見たという前提で、男王の反応を推量して、卑弥呼殺害を部下に命じたと推理しています。

神話から連想される皆既日食とは異なりますが、夕日に沈む部分食を見て衝撃を受けた伊都国男王によって卑弥呼が殺されたと推理したわけです。

論理学上の論証法にはご存知のとおり、演繹法と帰納法がよく知られていますが、結果から原因を推理する仮説的推論(アブダクション)の手法が古代史の解明に有効だということに気付きました。

従来、古代史解明においては、しばしば個々の史実に対してどういう理由で起こったのかなどの問題を、通常は演繹法的に論証する作業が行われます。しかし厳密な意味で公理は存在しませんから、実際は仮説に基づく推論でしかないのです。ですから仮説の数だけいくつもの答えが考えられ、一つには絞り切れないのだと思います。邪馬台国の位置の問題が解決しないのも同様な事情です。

しかし一連の経時的な史実について、予め設定した仮説に基づき原因を推理し、考古学や民俗学などの成果を用いて科学的に検証を繰り返し、仮説の拡張や修正や詳細化をすることにより、その間の史実を矛盾なく説明できる仮説群を見つけることが出来ます。

このような論証法で日本建国の歴史を解明していますので、卑弥呼の日食による死は日本建国の物語の中の一コマとして矛盾なく説明できるものとなっています。ですから、現在分かっている史実から考えると、そういうことが起こっていたのは確からしいという結論が得られるわけです。しかし真実は神様しか知りませんので、それが真実だとは断言できませんが、余ほど大きな事実誤認がない限り大丈夫だろうと考えています。もう少し詳しい説明は拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。

 ということで『個人的な感想だから「日食=天照大神=卑弥呼」の論証としては成り立たない』というご批判は当たらないと考えます。


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)8月12日(水曜日)弐
       通巻第6616号  
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(読者の声2)日食と天照大神(再反論2)。刮目天一様より、また反論を頂きましたので再反論2として見解を述べさせて頂きます。
 まず、刮目天一様の論には多くの仮定が見られ、それを「仮説的推論」として古代の解明には有効だとしておられます。古代の解明には物証などが不足しているため、いわゆるミッシング・リングを埋めるため、仮説を導入することが有効であると思われる場合もあることは否定しません。

しかしながら、その場合、その仮説を導入するに際しての合理的な説明が必要で、刮目天一様の多くの仮定は合理的な説明が殆どなされていないため、思いつきの域を出ていないと言わざるを得ません。

 私はそれがどの程度真実に近い仮定であったとしても、仮定を重ねることにより真実に到達する確率はその積の程度のものになると考えています。具体的には、たとえ確率70%の仮定でも、二つの仮定に基づくのであれば確率は0.7x0.7=49%となり5割を切ってしまいます。また、仮定が3つ4つと増えるに従って真実から遠ざかっていくものであると考えています。

 今回の刮目天一様の反論で言えば、日本書紀は藤原不比等の創作 従って神話通りの日食でなくても良い、「卑弥呼が247年の日食が原因で殺された」「岩戸隠れ」神話は卑弥呼殺害伝承から神話の作者が適当に連想して作ったもの、「女神アマテラスは元々「日本書紀」の中で作られた神、「女神アマテラスは持統天皇がモデルだ、「古事記の神話は、基本的に日本書紀に倣って作られている、「不吉な現象を見て伊都国男王卑弥呼殺害を部下に命じた、など、仮説の羅列と言っても過言ではなく、大きなものだけで8つの仮定が導入され、しかもその一つ一つの仮定に対する合理的な説明がないことから、思いつきとするのが妥当でしょう。

 大きく譲って、それらの仮定が一つ70%の確率があったとしても、全体では1%あるかどうかという程度の正確性と言わざるを得ないのです。それを「余ほど大きな事実誤認がない限り大丈夫だろうと考えています」とまで自信を持って言われる大胆さには驚愕いたしますが、到底頷くことはできないものです。

 仮定の一つ一つに反論は可能ですが、膨大なスペースが必要となりますので、次の3点だけに絞ってポイントを述べさせて頂きます。

1) 倭人伝の「卑弥呼以死」を、殺害されたとしておられますが、「三国史記」などの記述も併せ考えれば、当時卑弥呼はかなり高齢であったと考えられ、その死は老衰による自然死と考えるのが妥当と見ています。

2)「神話通りの日食でなくても良い」とは暴論も極まったというべきで、何百年に渡って神話として伝承された事実を曲げて、一人の人が創作したとしても多くの人々に容易に受け入れられるはずは無く、無理を通り越した自己撞着と言わざるを得ません。古代の多くの人々に強い印象を残した日食があったからこそ、長い間に渡って伝えられてきたのであり、それだけのインパクトがある皆既日食は、BC273年9月6日に中国大陸に始まり、北部九州から四国を経由し近畿南部から太平洋に抜けた、広範囲に渡る文字通りの皆既日食ならば該当し、私は、岩戸隠れ神話はこの日食を元に脚色されたものと考えています。もしそうであれば、卑弥呼は天照大神とは全く結びつきません。この日食を外して、わざわざ該当しにくい日食に固執して論を展開するのは我田引水の誹りを免れないものと言わざるを得ないでしょう。

3)「古事記の神話は、基本的に日本書紀に倣って作られている」との仮説が提示されていますが、史書記載の通りとした場合、古事記の成立(712年)は日本書紀成立(720年)よりも古いため、日本書紀成立以降に古事記が成立したとするか、或いは採録された説話は古事記の方が新しいと論証されない限り、貴説は一気に確率ゼロまで陥落することになってしまいます。
(高柴昭)


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)8月13日(木曜日)
       通巻第6617号  
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(読者の声4)
古代史解明にあたり採用した論証方法の仮説的推論(アブダクション)について、確率論を用いて反論されていますが、当方の説明が誤解を与えたのかも知れませんが、確率論によるご批判は全く当たりません。時系列的に配置された史実群について仮説に基づき共通の原因の推論を重ねるわけですから、個々の史実について考えられ得る原因が複数あるのが普通ですが、一連の史実を全体として見た時にはその原因を合理的に説明できる仮説は絞られてきます。つまり、ある史実が起こりうると考えられる原因が複数あるとしても、その一つ前の史実が起こる、複数の考えられる原因の中で、共通する原因の数は少なくなります(もしもそれがゼロならば、二つの史実に因果関係がないという結論になります)。

したがって高柴昭様が主張するような、個々の仮説を採用する確率の累積が、全体から検証によって得られた仮説の妥当性を評価する指標にはなりませんし、「また、仮定が3つ4つと増えるに従って真実から遠ざかっていくものであると考えています。」という主張も全く当たりません。

 また、アブダクションを提唱したC.S.ピアスは「理論のすべての説明的内容はアブダクションに由来するものであり、それは、驚くべき現象や複雑な現象を単純で経済的な方法で説明するために、新しいアイデアや外部のアイデアを推測するものである」と述べています(Scientific Method 5.3 Pragmatic Model

ですから、高柴昭様の感じたような「思い付き」との印象は当たっていますが、それによってその仮説を棄却する理由にはなりません。仮説は検証によってのみ棄却されます。

さらに、「正史」は正しいものと考えられる方にとっては、「正史」の記述から逸脱する仮説は、合理的でないとの意見を持たれるのだと思います。しかしながら、以前にも日本神話について意見を述べさせていただきましたが、古代の「正史」は権力者の権力を維持するために編纂された歴史書ですので、権力者にとって不都合なことは書かれませんし、歴史の歪曲・改ざん、事実の隠蔽もあり得ます。疑うべき理由のある内容については考古学などで科学的に検証する必要があります。詳しくは、古代史の謎を推理する <正史と記紀神話の謎>をご参照ください。

 以上のことをご理解いただけると、ご提示された三点の反論についても、申し訳ありませんが、全く的外れなものであることに気付かれると思います。しかし折角ご提示いただいた疑問については、多くの方のご理解のために拙ブログにて意見を述べさせていただこうかと現在思案中です。

ということで、これに関するここでの議論は終了させていただき、今後は拙ブログにてお願い致します。どうぞよろしくお願い致します。
  (刮目天ー)


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)8月14日(金曜日)
       通巻第6618号  
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(読者の声1)日食と天照大神(最終反論)
 私の再反論に対して刮目天ー様から、またご意見がありました。「仮説は検証によってのみ棄却されます。」とのことで全く同意です。前の反論ではあえて述べるのを控えましたが、確率的に高いか低いかではなく、検証に耐え得るかどうかが仮説の生命であると考えます。
 と言われる一方で、私から指摘しました3つの疑問点については、一言の説明もなく「的外れである」とのご見解を述べられました。

これでは検証に値せず、正面からの説明はできないから逃げた、と見られても仕方がないでしょう。疑問に対して真摯に向き合うことから検証が始まることを述べて、この議論は終わりたいと思います。
最後に指摘した問題点について私の見解を述べておきます。
1)「卑弥呼以死」については殺害説の場合、不吉だからとして殺しておいて、なぜ大きな冢を作るのか合理的な説明ができないのではないでしょうか。
殺された遺族などが密かに葬るのならば理解できますが、倭人伝には「大作冢」とあり、大々的に冢を作ったと読むことができます。
貴説と倭人伝の記述は明らかに矛盾しており、貴説は成立しないと考えます。
2)BC273年の誰が見ても文句の言いようがない明らかな皆既日食をあえて無視する理由も述べられず、「的外れ」との一言では、それこそ的外れと申し上げておきます。
3)先に完成していた「古事記」が、後にできた「日本書紀」に倣って作られる、というご意見はまさにSFの世界であり、独り善がりという感想を贈らせて頂きます。
また、折角の貴ブログへのお誘いですが、建設的な議論にはならないと予想されますので、遠慮させて頂きます。
  (高柴昭)


以上のようなやり取りでしたが、折角上の3点のご意見を寄せて頂いたので、この場で回答いたします。しかし建設的な議論にはならないとの予想のために、拙ブログへご訪問頂けないようなので、とても残念です。気が変わったら、またよろしくお願い致しますね(*^▽^*)。
ということで、次回以降でそのご意見への回答を述べたいと思います。

【関連記事】
古代史の謎を推理する



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