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【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)

2024-02-18 06:37:57 | 古代史
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2022-03-05 11:13:47に掲載しましたが図のリンクが切れていましたので修理しました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)

2018-11-25 22:11:21に掲載しましたが、その後分かったことなども入れて少しだけ改訂します。お付き合いください(*^▽^*)

むかしむかし、ある処にお爺さんとお婆さんが住んでいました。
お婆さんは川へ洗濯に、お爺さんは山へ柴刈りに!

お婆さんが川上から流れてくる大きな桃に驚いて、
ヨイショと持ち上げた拍子に、プッとこいたので、
お爺さんは柴を刈らずに草刈った?( ^)o(^ )


すんまへん、どこかで聞いたくさいギャグだった(*´ω`*)

いや、どうも桃太郎の話そのものは古代まで遡れず、中世後期に細川幽斎が創作したのではないかと言う説がある(前田晴人「桃太郎と邪馬台国」講談社現代新書,2004,pp.132-136)。でも桃太郎の話の下地になったと思われるものが、吉備に伝わる以下の鬼退治の伝承のようだ(pp.137-139)。

第11代垂仁天皇の頃、半島から飛んできて備中新山に住みついた百済王子「温羅(うら)」の身長が何と一丈四尺(約4.24m)。ランランとした虎のような眼で、髪は真っ赤に燃えるような鬼の風貌。体力も絶倫、性格は凶悪。西国から都に貢物を乗せた船を襲い、婦女子まで略奪するので、人々は温羅の住処の岩屋山を鬼ノ城(きのじょう)と呼んだ。
鬼ノ城(きのじょう)(岡山観光Webより)

朝廷は武勇で知られた第7代孝霊天皇の皇子イサセリヒコを派遣した。皇子はまず吉備の中山(備中一之宮吉備津神社)に陣を布き、防戦のために楯築山(倉敷市矢部の双方中円形墳丘墓)の山頂に石の楯を置いた。温羅は皇子と矢戦をするのだが、両者の矢はすべて空中で当たってしまい中々勝負がつかなかった(吉備郡生石村の矢喰宮でその矢を祀っている)。だが、温羅が油断したところ、その左目に矢が当たって川が血で真っ赤になった(その川を血吸川という)。そこで雉に変身して逃げたので、皇子は鷹となって追いかけたら、今度は鯉に変身して川に隠れた。皇子は鵜になって、鯉を噛んで捕まえた(その場所に鯉喰宮がある)。温羅は「吉備の冠者」という自分の名前を皇子に献上したので「吉備津彦」と名乗ることにしたとのことだ。皇子は温羅の首を刎ねて備前の首村に晒したが、何年も大声で呻くので、犬飼武に命じて犬に喰わせたのだが、髑髏になっても泣き止まず釜殿(吉備津神社)の竈の下に埋めても十三年間も唸り声が近くの里に鳴り響いたそうな
(詳しくは吉備津神社の温羅退治の伝説鳴釜神事を参照)。

この伝説に出てくる吉備津彦だが、「日本書紀」では崇神天皇十年九月に四道将軍の一人として西海に派遣され、翌十一年四月に地方の敵を平らげた様子を天皇に報告したとある。四道将軍の話は卑弥呼の跡を継いだ女王台与と大国主(狗古智卑狗=久々遅彦)の倭国をヤマト政権が滅ぼして、出雲から越などの大国主傘下の国々をヤマト政権が鎮撫し平定した時の話だ。だから、女王が西晋に朝貢した266年以降で、呉が西晋に滅ぼされる280年の後にヤマト政権が西晋の追討を怖れて台与と久々遅彦(大国主命)の子ホムダワケを応神天皇として即位させたころの話なのだ(【付録】参照)

「鬼ノ城」築造に関する史料は全く出てこないとのことだが、出土する遺物から7世紀中ごろの朝鮮式山城だとわかっている(葛原克人「古代を考える 吉備」吉川弘文館、2005,pp163-166)。この温羅伝説はヤマト政権による最初の吉備平定という設定になってはいるが、あり得ない話だ。どういうことかと言うと、ヤマト王権は吉備の影響が色濃いのだ。例えば、三世紀頃の築造と言われている箸墓古墳(全長280メートル)では吉備をルーツとする「宮山型特殊器台を出土しており、<中略>他に、西殿塚古墳(219メートル)、天理市の中山大塚古墳(120メートル)、橿原市の弁天塚古墳(およそ100メートル以上)などの比較的大型で前方部が撥形で最古式の前方後円墳から宮山型特殊器台が出土している。」とあることから分かる(Wiki「特殊器台・特殊壺」より)。

その「箸墓古墳」の被葬者は、邪馬台国大和説での卑弥呼とされる大物主の妻「倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)」だが、「日本書紀」ではイサセリヒコ(吉備津彦)と異母姉弟と言う設定になっている。しかし、ヤマト政権が攻め滅ぼしたはずの吉備に発祥の円筒型特殊器台が纏向に存在するのは全く説明できない話なのだ。むしろ、祭祀が吉備のモノであることから、上で述べた通り吉備の支配者の子孫が三世紀に纏向でヤマト王権を打ち立てた大王、つまり開化天皇と崇神天皇だと考えるのが自然なのだ。第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの、いわゆる欠史八代は通説では架空と考えられているから、イサセリヒコやモモソヒメの話も創作だと直ぐわかる。しかし、全く白紙からの創作ではなく吉備の支配者の子孫の史実に基づくものなのだ。

何故、こういう話が作られたのかについて疑問に思われるかもしれないが、日本建国前夜(二世紀前半)の饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の吉備平定の話が、吉備津彦の鬼退治の話にすり替えられたのだ。そしてニギハヤヒの話から、卑弥呼が旧奴国王族を裏切って、沖ノ島経由の半島の鉄素材が旧奴国王族の国に全く供給されなくなったために、ニギハヤヒ直系の子孫の開化天皇・崇神天皇や出雲や越や尾張などの旧奴国の王族らが大和(纏向=狗奴国)に集まった三世紀初頭の話を隠す目的で作られたものなのだ。初代神武天皇よりも前に天磐船(あめのいわふね)でヤマトに降臨したニギハヤヒの話は日本書紀の創作なのだと分かる。「日本書紀」の編纂には百済の史官が入っていたらしく、四世紀に建国された百済の王子である温羅を吉備津彦の伝承に登場させているのだ。わざと時代が合わないようにして、ニギハヤヒを祖とする物部氏・尾張氏の日本建国で活躍した話を抹殺するために作られたのだと分かる(注1)。日本書紀編纂の大きな目的のひとつが、藤原氏が建国時代に活躍した祖先をもつ有力氏族を中央政権から排除して、権力を独占するためなのだ(注2)。

すでに「日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )」で述べたが、二世紀初頭の奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺されたスサノヲ大王「王年代紀」第18代王素戔嗚尊の弟で、奴国を脱出したニギハヤヒが出雲から庄原市を経由して吉備(倉敷市付近)に入り、在地の勢力を平定して、奴国を再興して第19代王天照大神尊とされた人物なのだ(注3)。当時は海岸線はかなり内陸部まで入り込んでおり、高地性集落が築かれていたが、その築造目的は「温羅伝説」から、近海の船舶の往来を見張るためだとわかる。吉備の近海の豊富な海洋資源や瀬戸内海航路をニギハヤヒが支配することにより、一大勢力を築いたものと考えられる(注4)。吉備は瀬戸内中央部の潮流が変化する場所なので、潮待の人々が集まる場所でもある。弥生中期頃から土器製塩が西日本に先駆けて行われていた(近藤義郎「吉備考古点描」河出書房新社1990、p.11)。

古代吉備の推定海岸線 - 弥生中期~古墳期を想定 -☆岡山 古代吉備の地勢復元 より)

またヤマト王権発祥の纏向遺跡では、倉敷市の楯築墳丘墓の亀石に施された模様と同様の「弧文と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品、板状製品(弧文円板・弧文板)など五点がこれまでに発見されている。<中略>家ツラ地区出土の弧文板は、三世紀後半の三輪山の祭祀に用いられたと考えられているが、もうひとつの弧文円板は石塚古墳の周溝から発見されており、葬送儀礼に用いられたとする見方もある。」とある(大和王権発祥の地─纒向 より)

そして、首長霊が宿るモノが神社の御神体だから、楯築神社の御神体の亀石に彫られた人面はニギハヤヒであるはずだ(注1)。重さ30㎏を超える辰砂(朱)が木棺の底に敷き詰められ(上掲書、P.11)、ひと振りの鉄剣と27個の碧玉の管玉、ヒスイの勾玉、メノウの管玉、数百個の碧玉製の小形細身の管玉、ガラスの大小の小玉などが副葬品として棺に入れられ、手篤く葬られた模様だ(上掲書、P.115)。



楯築王墓の「主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分だけでも高さ・幅とも1メートルあまりで20個ほどの列石がめぐらされ」ている(Wiki「楯築遺跡」)。「その立石群のほぼ中心に主埋葬があることを考えると、やはり外の世界から画する役割を二重にも三重にも持った石列の一種であろうと私どもは考えています。」(上掲書、P.110)これは大国主命(久々遅彦)が祭祀を行った安心院町の「佐田京石」と同様のストーン・サークルだ。さらに備前一宮「吉備津彦神社」の境内の池の中の小島にもすこし小ぶりだがストーン・サークルがあった(注5)。

吉備津彦神社のストーン・サークル(吉備津神社・吉備津彦神社・吉備中山を貫く謎の古代祭祀線 より)

ニギハヤヒの子孫たちが使用した首長霊祭祀場だろう(^_-)-☆

新天皇の即位の礼の後に初めて行われる新嘗祭を大嘗祭と呼び、宮中祭祀で最も重要な儀式なのだが、『吉野裕子氏は、「大嘗祭」(弘文堂)のなかで、大嘗祭が“蛇の呪文”に彩られていること、この信仰の原型が物部氏のものに似ていて、しかも物部氏が重用されていることについて、「物部氏の祭祀そのものが天皇家によって踏襲されたことも考えられる。この場合も、祖神の蛇の呪力を担うものとしての物部氏に対する記憶は、そのまま祭祀における物部氏の重用につながるのである」とされるが、残念ながら、これだけで大嘗祭と物部氏の関係のすべてを語ったことにはならないと思う。(注6)
というのも、天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが、大嘗祭の本質であった気配が濃厚だからである
』(関祐二「消された王権・物部氏の謎 オニの系譜から解く古代史」 (PHP文庫)2002,pp.106-107)。

日本書紀では本当の皇祖神(真)天照大神ニギハヤヒを吉備津彦の話で隠してしまったが、実は列島に天変地異が起こるたびに大和朝廷は皇祖神天照大神尊ニギハヤヒ大王やヤマトを怨んで不幸な死に方をした高貴な方々の祟りを畏れ、丁重に神階を上げて、所領も捧げて謝っているから、歴史の真相が分かってしまう(^^)/。通常の神社の祭神に対しては、最高位である正一位までの位階だが、4柱だけが特別扱いで、一品、二品という品位を授与している。その4柱の一人が備中一之宮の吉備津彦だから、いかに朝廷にとって重要人物かが分かるのだ。吉備津彦こそ吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いた皇祖神(真)天照大神ニギハヤヒだと大和朝廷が白状していることになるのだ(注7)。

【参考記事】
日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )


【関連記事】
弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!(^_-)-☆

(注1)その翌年の崇神天皇十二年九月には天皇に背く者どもをすべて平定し、人民の戸数を調べる役を吉備津彦に仰せつけて、百穀も良く実り、家々に人や物が充たされ、天神地祇ともに天下が平穏になったので、崇神天皇はハツクニシラススメラミコトとして誉められたとある。纏向遺跡でヤマト政権を樹立した、吉備で奴国を再興した天照大神尊ニギハヤヒ大王の直系の子孫が崇神天皇ということなのだ。崇神天皇の父開化天皇が纏向遺跡に王都を遷した人物で、210年頃築造された最初の前方後円墳の纏向石塚古墳の被葬者かと推理している。しかし、Wiki「纏向石塚古墳」によれば、「墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出された。その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったことから、後円部の埋葬ではないか、あるいは削平のおよばない深淵部に埋葬施設があるものと考えられる。」とあり、3世紀末まで活躍した崇神天皇との間がかなりあるので、あるいは開化天皇が一旦吉備楯築王墓で埋葬したニギハヤヒ大王を纏向の地で改葬したのかも知れないと考えている。移った地で祖先を改葬し、元の墓を「捨て墓」とすることは縄文時代からの祖霊信仰で見られる風習らしい。

(注2)日本書紀よりも早く完成したと言われる古事記も、実際は古事記の序文を書いたと考えられている多人長によって日本書紀の後に作られたと考えている(詳細は「日本の神話だけ他の国と何かが違う…?(@_@)!」参照)。

(注3)広島県庄原市本村にある「蘇羅比古神社」の御祭神は火遠理命(ホオリのミコト)=山彦、別名空津彦とあるが、天磐船(あまのいわふね)で大空を駆け巡り、虚空(そら)見つ(大空から見て良い国だと選び定めた)日本(やまと)の国とおっしゃって降臨したニギハヤヒのことばから考えると、ニギハヤヒが逗留した場所と推理している(志村裕子、「先代旧事本紀(現代語訳)」批評社、2013,p.145)。

また、【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)の表1で見たように、弥生後期(二世紀前半から三世紀初頭)に岡山市・赤磐市に鉄鏃が比較的多く見つかっている。ニギハヤヒと在地の豪族との戦闘が行われたことを示すものと考えられる。

(注4)弥生中期に見られる瀬戸内海沿岸部の高地性集落は、倭国大乱の前だから、戦争と言うのではなく、慣れない海に迷い込んだ舟を監視して、温羅のような連中が海賊仕事をしていたのだろう。上の図のとおり現在の吉備児島湾は島だったと言われており、吉備の内陸部まで海だった模様だ。

(注5)吉備津神社と吉備津彦神社のある吉備中山の岩石群について吉備中山(吉備津神社、吉備津彦神社)に調査結果が示されている。山全体に磐座が見られ両神社の奥宮とされている。

吉備津彦神社のストーン・サークルの小島の隣の小島にも外周を岩で囲んだ中に亀島神社(かめしまじんじゃ)があった。何と御祭神が市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)となっている。卑弥呼がこんなところに居た。下の図に示したように「先代旧事本紀」と「海部氏勘注系図」に依れば、ニギハヤヒと市寸島比売命が夫婦のようだ(志村裕子「物部氏と尾張氏の系譜(4)」季刊邪馬台国123号、2017、p.161)。でも三女神多紀津姫と大国主との間の天道日女命と饒速日から生まれた天香山命が、市寸島比売とニギハヤヒの間の姫と結婚して尾張氏祖になっていると異母兄弟どうしの近親婚の話だが、実際にはあり得ない話だろう。日向三代の系図でも鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ)尊が母親の妹(叔母さん)と結婚して神武天皇が生まれたという「日本書紀」の話もそうだけど、スサノヲ直系の大国主(久々遅彦)と台与との間の子が応神天皇=神武天皇と関祐二さんによって突き止められているので、宗像三女神と饒速日尊の話も歴史改ざんということだね。政治的な思惑で作られた古代史の歴史書をそのまま信じると訳が分からない話になってしまうということでしょう。つまり、考古学・民俗学・技術史などの知見に加えて、記紀に反する伝承なども考慮して、歴史書のどこがウソで、どこまでが事実を反映したものかを考えないと、史書編纂当時の権力者の罠に陥ることになるということだね。(*^▽^*)


(注6)以下の考察から分かるように亀石は頭が人間で体が蛇を表している。弧帯紋は蛇のようだ。古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王伏羲(ふっき・ふくぎ)と一致する。(人面考察)
 顔の法量タテ 17.5㎝×ヨコ 15.0㎝
 この施帯文石には頭部すなわちヒトの顔らしきものが浮き彫りにされている。【写 10】もちろん誰の顔なのかは分かろうはずがない。この顔も当初はもっとはっきりしていたことであろう。意識的にであろうか、後のいたずらなのか、目の部分が最もダメージを受けるように叩き壊されている。さらに「頭」の反対側は常識的な意味で「尻」としなければならないが、実はここだけはおり、「帯」が描かれておらず、意識的に空白として残されているのが注目される。【写11】【註3】
顔の下部、つまり顎下はまるで前垂れのような表現になっている。つまり帯と理解するのなら、それはここから始まっているし、そうであれば顔を持つ蛇神か龍神の化身のようでもある。その線の数は12本の線刻である。帯を含めて蛇神と理解するならここは首と云うことになろうか。 尻の左右の蛇へびの目(40 年ほど前のテレビのチャンネル切り替えロータリーつまみのようなものをここでは一応蛇の目と呼んでおく)の周辺の渦巻きだけは何故か中央線の描き方が違って、片切刃の刃物で刻んでいる。
(臼井洋輔「施帯文石(亀石)展開図作成と考察」)

古墳時代前夜弥生最大の王墓 楯築弥生墳丘墓  松木武彦 国立歴史民族博物館教授 50,877 回視聴 2014/12/07
松木さんは楯築王墓の被葬者と北部九州の王墓(須玖岡本・三雲南小路)の関係について以下のような見解を出していました(「ヤマト王権はいかにして始まったか」学生社、2011、pp.141-144)。

「まず、楯築には鏡がありません。紀元前1世紀の北部九州の人たちの間では、鏡が権威を象徴するものだったようですが、楯築ではあえて鏡を入れていません。だから、楯築に葬られた人は、北部九州の王たちとは系譜が異なる権威を持っていた人物と考えられます。
 楯築のもう一つの特徴は墳丘が大きいことです。<途中省略>このように見たこともないような飾りというか、墳丘の装飾物が楯築で初めて生み出されるのです。<途中省略>その被葬者の権威は、北部九州の王の系譜はどうも引いていないようです。楯築の被葬者は王とよんでいいと思いますが、王には必ず王の物語があります。その王がどれだけ偉いか、どこで生まれてどのような系譜を引き、どんなことをしたかという物語や神話が必ずあるのですが、北部九州の王たちとは別の物語の中にこの楯築の王は位置づけられたと考えられます。楯築から始まる王の由来が出てきたように思います。」


まさに松木さんがご指摘の通り、楯築の王墓はヤマト王権の偉大な始祖王にふさわしい墳丘墓と言えます。北部九州の王墓に副葬された破砕された璧は周王朝の子爵呉王の系譜を、また破砕された鏡は呉王に繋がる地位を表すと考えられます。また3世紀から4・5世紀にかけて古墳に副葬される鏡も、ヤマトの始祖王に繋がる系譜かヤマト王権への従属を表すものでしょう。

そして、楯築神社の御神体の亀石が人面蛇体であることから、楯築王墓の被葬者が、一度滅んだ奴国大王の系譜をもち、吉備を平定して新たにヤマト王権を興した始祖王であって、周の先王朝「夏王朝」の人面蛇体の始祖神「天皇伏羲」に匹敵する偉大な始祖王だということでしょう。ですから鏡が副葬されていないからと言って北部九州の王とは別の系譜ということではないと言うことです。逆に北部九州の王と関係がないないのならば、この吉備の楯築王墓の被葬者が「天皇伏羲」とどうして繋がるのか、その関係を全く説明できません。

「日本書紀」が必死に隠した日本建国の真相が1300年後にようやく明らかになったということになります(^_-)-☆

(注7)Wiki神階に依る、六国史終了時点の品位の一覧。神名は神階授与時の表記で、括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名。
一品
伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神、八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
二品
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)


天平勝宝元年(749年)東大寺大仏建立への八幡大神の託宣により朝廷が贈呈した神階が宇佐神宮の応神天皇に一品、比売大神に二品(応神天皇の一之御殿、神功皇后の三之御殿より中央の比売大神の二之御殿の方が立派ですけど)だったが、後に一品に格上げされた模様だ。この八幡比咩神(比売大神=宗像女神)こそ卑弥呼(ひめこ)なんだと大和朝廷が告白しているんだ(^_-)-☆

【付録】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




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