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【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?(;一_一)?

2022-05-22 00:40:41 | 古代史
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最近この動画仁徳天皇陵に入れなくなった驚愕の理由…調査で発見された歴史を覆す埋葬者の正体【都市伝説】【ミステリー】【ぞくぞく】
115,924 回視聴 2022/05/17 ぞくぞく家族団RUNチャンネル@YouTube 
をアップしていただいお陰で話題に事欠きません。そして、今回もタイトルのとおり、古代史を揺るがす大発見をしてしまいました。ウップ主様には心より感謝いたします。どうぞ最後までお付き合いください(*^▽^*)



刮目天
とても興味深く拝見しました。
仁徳天皇の陵墓ではない可能性が指摘されています。
実在人物ではなく仁徳天皇は偶像かも知れません。

日本建国を解明して、応神天皇を初代天皇(ヤマトの祭祀王)と考えており、崩御後に後継者を決めるための抗争があったと考えています。菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)の話など不可解で日本書紀は信用できませんよ。当時の実権を持っていた大王はニギハヤヒ大王直系の王で、物部氏と尾張氏が支え、そして、応神帝の両親大国主と台与の一族(葛城氏などと息長氏)そして卑弥呼の一族(和邇氏)が有力で、応神帝の皇后や妃を出しており、これらが二つに分かれて相続争い・権力争いをしていたと考えています。



大仙陵古墳は、これらの抗争が一段落して生駒山・金剛山・葛城山系の西側の無防備な場所に都を置くことができるようにした大王(倭の五王のだれか)だと思います。民のかまどの煙が立っていなかったのは、長引く騒乱の為でしょう。応神陵も大和のはずですから虚偽かも知れませんね。もっと陵墓の発掘調査をしてもらわないと日本書紀の内容は真相には程遠いと思いますよ。日本書紀は藤原不比等が藤原氏のために作ったデタラメな歴史書だったからですよ(^_-)-☆


さて、wiki「菟道稚郎子」によれば、郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。とあり、上で述べた不可解な話というのはWikiによれば次のとおりです。

郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。

『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。


なぜこのような謎があるのかを、よくよく考える必要があります(;一_一)

日本書紀は知られたくない何かを隠そうとしているようです。

上の図のとおり、神武天皇と応神天皇のそれぞれ崩御後の話がよく似ているのです。天皇が崩御すると弟が皇太子になっていたのを不満に思った兄が反乱を起こします。しかし、反乱した兄が殺され弟が即位しないで、その弟か兄に皇位を譲る話になっているのです。

古事記もそうなっていますが、神武天皇崩御後のことが少しだけ異なります。古事記は歴史の真相を日本書紀と少し違う話で、それとなく暴露しようとする意図があるようです。神武の皇子に『古事記』では「日子八井命」(他文献では「彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)」等とも表記される)という、その事績が分からない人物を挿入しています。これがなければ応神天皇の皇子たちの話とほとんど同じです。つまり古事記は、宇治天皇に気付くようにそれとなく導いているようです。応神天皇は初代のヤマトの祭祀王だと突き止めました。だから、神武天皇の神話は史実を誤魔化すために作られたものなのです(「正しい建国史を知ろう!(^_-)-☆」参照)。(2022.5.22 赤字追加)

ではなぜ、日本書紀が宇治天皇を隠さねばならないかを考えてみると、本当は表に出ていない別の人物が天皇だった事実を隠すために、宇治天皇の存在が邪魔だったと気付きます。

さあ、一体その人物はどなたでしょうか?

実は、「日本書紀だけでなく続日本紀までもが?(*´Д`)」で紹介した長屋親王説、つまり父の高市皇子が本当は天皇だったと思われる話です(注1)。

日本書紀と続日本紀からは、以下のように考えられています。

686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉天武天皇が崩御されて、皇太子だったと思われる大津皇子を、皇后鵜野讃良が藤原不比等と謀り、自害に追いやりました。皇太子だったとされる皇后の子草壁皇子は689年に病死してしまいました。そこで、皇后が草壁の幼い子珂瑠(軽、かる)が成人するまで持統天皇として即位しました。結局701年に持統天皇が譲位して、当時15歳という先例のない若さで文武天皇が即位する話になっています。

ところが、高市皇子が天皇に即位しているとしたら、通説のこの話は少し違うものになります。鵜野讃良と不比等は草壁皇子に即位させる(皇太子とする)条件で、大津皇子謀殺の代わりに高市皇子に即位させたのかも知れません。ところが高市皇子は持統天皇10年7月10日(696年8月13日)に薨去したとされています。生年ははっきりとしないようですが、四十そこそこの若さで他界したとあります。そこで、高市皇子が即位すると草壁皇子が薨去したために、優秀な長男長屋王を皇太子にしようと考えたので、二人は天皇を弑逆した可能性が考えられます。(2022.5.27 赤字追加)

高市皇子は天武天皇の長男で、壬申の乱でも父を助けて活躍した人物ですが、母が宗形徳善の娘で、その位が低いために即位できないとされています。ところが、応神天皇の皇子菟道稚郎子の母は和邇氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘なのです。和邇氏はムナカタ海人族で、卑弥呼の弟の赤坂比古の子孫です。赤坂比古が日触使主のことではないかと考えています。ですから菟道稚郎子が皇太子となっているということから、高市皇子の母が身分が低いために皇位に付けないというのも怪しい話です。

ですから、宇治天皇として即位したことを隠す理由は、宗形氏の一族が天皇であったことを知られないため。つまり高市皇子が即位していた事実を隠ぺいするために作った話だと考えられます。

そして、応神天皇の皇后仲姫命は景行天皇の孫品陀真若王の娘としていますが、景行天皇は実は尾張王建稲種命のことなのです。和邇氏の祖赤坂比古が、卑弥呼が難升米に暗殺されたことを知り、副将として倭国追討軍に参加していたムナカタ海人族の王狗古智卑狗に投降したと考えられます。そのため難升米は半島に逃亡し、無傷で倭国を手に入れた景行天皇の孫の仲哀天皇とされた尾張王乎止与命(おとよのみこと、「先代旧事本紀」の尾張国造の祖で『新撰姓氏録』では小豊命)が狗奴国を裏切って倭王に立ったと推理しました。そのために、狗古智卑狗のムナカタ族と内戦となって、赤坂比古が直接乎止与命を討ったと推理しています。乎止与命の墓が鳥栖市赤坂古墳です。九州最古級の前方後方墳です。



ですから、父の敵討ちで九州に遠征した尾張王建稲種命が赤坂比古を討ち、赤坂比古は鳥栖市愛宕神社古墳に葬られたと推理しています。直径約140mの大型円墳です。この史実を隠すために建稲種命を景行天皇としたわけです。景行天皇の孫の仲哀天皇は父のヤマトタケルが薨去して38年後に生まれた計算になりますから、直ぐバレる杜撰な作り話なのです( ^)o(^ )(2024.4.21赤字修正)

ということで、皇太子だった菟道稚郎子が宇治天皇に即位している可能性が高いので、仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したという話は真っ赤なウソだと分かります。つまり、聖帝とされた仁徳天皇大鷦鷯(おおさざき)の母仲姫命は尾張王建稲種命の孫ですから和邇氏とは仇同士なのです。大山守皇子も母は仲姫命の同母姉ですから尾張氏の系統でした。応神天皇崩御後の抗争は建国時代の確執だったようです。

日本書紀が隠した歴史の真相はこれから必ず明らかになるのだと思います(^_-)-☆



【付録】


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(注1)高市皇子の長男長屋王は、「官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。」(wiki「長屋王」より)とあるが、同wikiの以下の長屋親王説にあるとおり、長屋王は親王宣下を受けているので、高市皇子が天皇に即位していたと考えられる。ということは持統天皇も即位していないことを意味する。

【長屋親王説】
長屋王の邸宅跡から発掘された木簡に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったこと、『日本霊異記』の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、在世時には長屋親王と称されていたとする学説もある。長屋王と吉備内親王の間の子供達が外祖母にあたる元明天皇によって二世王の待遇(元来は天武天皇の三世王)を受けていることなどから長屋王に対しても特別待遇がされていた可能性もある。通常の律令解釈によれば、親王は天皇の息子または孫に対して天皇から親王宣下を受けない限り名乗れなかったとされる。


つまり、桓武天皇の命により編纂され、最終的に延暦16年(797年)に成立した続日本紀も藤原氏に不都合な史実を隠ぺいしたと考えられる。京都の天皇家の菩提寺の泉涌寺では明治時代になるまで、天智天皇から江戸時代までの女性天皇を誰一人祀っていないことが知られている(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)2016、p.243)。

最初の女帝とされた推古天皇は、隋書に倭の大王が男であることが明記されているから、フェイクであることは明らか。また、次の皇極(斉明)天皇も、万葉集研究家渡邊康則氏が「聖徳太子は天皇だった」(青空出版)で実在しないことを突き止めているから、すべての女性天皇はフェイクだったと考えられる。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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