刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

景初三年問題が謎を解く鍵でした!(^_-)-☆

2021-07-31 12:00:10 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)7月31日(土曜日)
通巻第7003号
(読者の声2)貴紙通巻第7001号に(読者の声4)として卑弥呼の遣使の年が景初3年であるとの再反論が寄せられました。
帯方郡太守の任期の前後という細かな点を問題としておられますので、考えられる可能性について検討した上で、景初3年説は成り立たないことを論じたいと思います。
まず、再反論者さまは、東夷伝序文から「景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」と主張されますが、「さらに」とされた箇所は原文では「又」であって、必ずしも前後関係を示すものではありません。
つまり景初年間の出来事として大軍を派遣して公孫淵を誅殺した話と、密かに海を越えて軍を派遣し楽浪・帯方両郡を収めた二つの話を、「又」で繋いでいるのです。
序文という大掴みに概要を述べる箇所では、重要度が大きい方を先に述べることは普通であり、公孫淵の誅殺が先に書いてあるから前後関係がこれで決まりとするほどのものでは無いと考えます。
念のため当該箇所の原文は「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡。」となっています。
また、「魏書 東夷伝 韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉?を送った」ことについて述べられます。これは公孫淵誅殺後のことであると理解されている様です。
原文には「景初中、明帝、密遣帶方太守劉?・樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡」とありますから、前文同様、この文からは景初何年のことか確定はできませんが、明帝は景初3年早々に死去していますから、景初元年か景初2年のことであるのは間違いありません。
公孫淵誅殺は景初2年8月(都に知らせが届いたのは9月)のことですから、帯方太守劉?を海路派遣したのは、誅殺前とも誅殺後とも受け取ることができます。従って、普通に読めばどの様に読むことができるか判断しなければなりません。
公孫淵誅殺後に派遣したのであれば、何故わざわざ海路で密かに派遣する必要があるのでしょうか。
行く手を遮るものがいなくなったのですから、何も密かに海路で派遣する必要はなく、白昼堂々と陸路を行けば良いのです。
「海を越えて密かに派遣する」というのは、公孫淵に気付かれないように「密かに」海路で派遣し、韓を平定し退路を断った、と理解するのが普通では無いでしょうか。
魏は陸上の戦いでは強くても、水上の戦いはそれほど得意ではありません。
それゆえ、長江を隔てた孫権に手を焼いているのです。そのような魏の軍を苦手な海路で派遣するのですから、公孫淵に気付かれないように密かに行う必要があったのです。
明帝の周到な準備を窺う事ができます。おそらく背後固めは景初元年中には完了していたと思われ、景初2年になって討伐軍が派遣されることになったのです。
密かに背後を固めた後、正面から大将軍司馬宣王の軍勢が進軍したと、読むのが普通では無いでしょうか。
その後(景初2年6月に)卑弥呼の使いが来た時は太守は劉夏に代わっていました。劉?が劉夏に代わった事情についてはよく分かりません。再反論者さまの論によれば、9月に公孫淵誅殺の報告が届いた直後くらいに韓平定の軍を別に派遣したということですが、公孫淵が滅亡すれば慌てて韓を平定する必要はなく、ゆっくりと司馬宣王の帰還を待てば良いだけであり、この時点で密かに別軍を派遣して韓を平定する意味は戦略的にも政治的にも、何より経済的にも無いのでは無いでしょうか。
 陳寿の文は簡潔であるため、解釈に幅が出るところは少なくありませんが、前後などの関係をよく読み解けば、難しくひねった箇所など無いと言って良いと思っています。
勝手な理解をして、難解で読み解けないので自己流の解釈を行う人たちが絶えませんが、反論者さまは良いところまで読み込まれていると思います。折角そこまで読み込まれているのであれば後一歩だと思います。
今一度冷静に思い込みを離れて読み直されることをお勧めしたいと思います。
  (高柴昭)


貴誌第7003号(読者の声2)に景初三年説への反論が再度寄せられました。「東夷伝 序」に「景初年間(二三七 - 二三九)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中国の支配下に入ってその命令に従うようになった。」(今鷹真・小南一郎・井波律子訳「三国志Ⅱ」世界古典文学全集24B筑摩書房1982、p.295)とある文章中で「さらに」と訳されている原文には「又」とあり、これは時間の前後関係を表すものではないと主張されています。また「公孫淵誅殺後に派遣したのであれば、何故わざわざ海路で密かに派遣する必要があるのでしょうか。」と主張されていますが、御自分で「そのような魏の軍を苦手な海路で派遣するのですから、公孫淵に気付かれないように密かに行う必要があったのです。
明帝の周到な準備を窺う事ができます。おそらく背後固めは景初元年中には完了していたと思われ、景初2年になって討伐軍が派遣されることになったのです。」
とその答えを出されています。「ひそかに」と記された意味はおっしゃる通りなのかもしれませんが、卑弥呼の遣使(難升米)が写本に景初二年六月とあるからといって、それ以前に楽浪・帯方二郡を落したという根拠にはできません。もしも難升米が面会したのが、この時明帝が送った帯方郡太守劉昕(りゅうきん)だったならば、景初二年説は成り立つかもしれませんが、劉昕(りゅうきん)ではなく別の人物劉夏(りゅうか)ですので、おっしゃる通り、どういう経緯で劉夏に交代したのか貴説では全く説明できないからです。

そして、「晋書 四夷伝倭人条」「宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶」とあります。つまり卑弥呼の帯方朝見は司馬懿が公孫氏を平定したからだと明記されています。刮目天は漢籍の専門家ではないですが、上記「三国志東夷伝序」の「又」とあるのは時間の前後関係を表していると「三国志」の翻訳者が深く考えて「さらに」と書いたのだと考えられます。すでに述べましたように「晋書 宣帝紀」にも「正始元年[二四〇年]春正月、東倭が複数の通訳を介して朝貢してきた。焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、みな使者を遣わして来貢した。皇帝はこの威風を宰相の功によるものとし、宣帝に増封した。」とあります(「晋書 高祖宣帝懿紀」訳出担当 田中愛子/辰田淳一より)。卑弥呼の朝貢は、明帝ではなく司馬懿の功績であると魏の朝廷の人々は認識していたと考えられますから、司馬懿による景初二年八月の公孫氏滅亡後の景初三年六月に難升米が帯方郡に行ったと考えるのが正しいのです。お陰様で、これによって「邪馬台国問題」の謎が解明できるので非常に重要な議論でした。お付き合い心から感謝いたします。
(刮目天)

【参考記事】
「魏志倭人伝」の真相とは?!2021-07-29 11:25:03 

【邪馬台国問題】魏志倭人伝は信用できるのか?(;´Д`)
邪馬台国への行程記事は司馬懿の功績を曹魏第一とするために、司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と倭国王難升米が談合して作られたものだと推理しました。帯方郡より東南万二千里の海上から魏のライバルの呉を挟み撃ちする位置に邪馬台国があるとして、邪馬台国への行程を以下の図のように改ざんしました。卑弥呼を倭国の支配者ということにして、自ら女王卑弥呼の男弟という設定にしたのも魏の朝廷の人々の注目を集めるためですよ(^_-)-☆ 

投馬国へ水行してみませんか?( ^)o(^ )倭国王難升米はパートナー赤坂比古の居城(宮ノ原遺跡)を邪馬台国(女王が住むヤマ国という意味)としました。そこへの実際の行程を基にして、戦略上重要な位置(呉の都の建業の東方海上)に持って行くために東を南に方角変更し、水行・陸行の日数を実際の10倍などにした行程だったと分かるのですよ(^_-)-☆



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

「魏志倭人伝」の真相とは?!

2021-07-29 11:25:03 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)7月29日(木曜日)
通巻第6999号  <前日発行>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(読者の声3)私の投稿に対して、景初2年は誤解で、景初3年が正しいとする反論が投稿されました。
 その論によれば、「景初二年六月はまだ戦争中で勝敗が決着していません」「景初二年六月に卑弥呼が魏に使いを送ることはできません」とのことです。もし卑弥呼の遣使が、戦い済んだ翌年であったのならば、帯方郡の太守劉夏が、わざわざ護衛をつけて使者を都まで送り届ける必要がありません。
倭人伝には「太守劉夏、吏を遣わし、将(ひき)いて送りて京都に詣らしむ」と記載されています。平時であったのならば、なぜそこまでする必要があるのでしょうか。
都へは早馬を出しておき、卑弥呼の使いは自分たちだけで行けば済むことです。戦いの最中だからこそ、護衛をつける必要があったのです。
また、景初3年早々に明帝が亡くなり急遽喪が発せられました。
もし景初3年に派遣されたのだとしたら、喪中の遣使ということになります。弔問使ならばともかく、実に間が抜けた遣使ということになります。卑弥呼は魏が喪中であることも知らない間抜けだったのでしょうか。
更には、卑弥呼の使いは年内は魏にとどまっています。喪中に何のために留まったのでしょうか。仮に、喪中であったことを知らなかったとしたら、失礼を詫びて喪礼を済ましてすぐに帰国するのが普通です。
留まった挙句、返礼の贈り物は(喪中で渡されなかったため)持ち帰らず、喪が明けた翌年(正始元年=240)に、魏使が卑弥呼のところまで届けることになったのです。
このように、景初3年の派遣とするのは一見尤もらしく見えますが、少し踏み込んで考えるとチグハグで説明がつかないことが理解できると思います。
卑弥呼の使いは明帝を励ますために遣わされ、戦況を見極めるために留まっていたのです。明帝に不測の事態が起こらなかったら豪華な返礼品を携えて意気揚々と帰国したはずでした。
反論者さまの投稿のように、日本書紀を初め古い時代の史書に景初3年とするものがあることは事実ですが、これは早い時代から戦中の派遣は無いという思い込みがあったことを示していると考えます。
現存するのは書写されたのもとは言え、原文には景初2年とあるのですから、安易に書き間違いと思い込まず、慎重に吟味をすれば、このような誤解は解消するはずです。
残念ながら各種の年表など多くの資料は当然のように景初3年と記載されており、それに依拠する通説が少なく無いのですが、世人を迷わすものだ考えています。
  (高柴昭)

貴誌第6999号(読者の声3)に景初三年説への反論が寄せられていますが、前回述べましたように景初二年六月の時点では勝敗が決しておらず、もしもその時に大夫難升米が帯方郡に行ったとすれば、面会した太守は公孫氏側の人物になります。しかし「魏志倭人伝」には難升米は魏側の太守劉夏と面会したとありますから、公孫氏滅亡後の景初三年六月のことだというのが明白な事実なのです。

「魏書 東夷伝 韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、すでに前回ご紹介した「東夷伝 序文」に「景初年間(二三七 - 二三九)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書 公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝はそれを知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたということですので、景初二年六月よりも後の話なのです。

 この景初二年か三年かの問題は、単なる「三国志」原文の誤写かどうかという軽い問題ではなく、「魏志倭人伝」がどういう政治目的で書かれたのかを証明するための非常に重要な話なのです。反論者様は明帝の功績を寿ぐために卑弥呼が遣使したという思い込みから、景初二年説に固執していますが、それが誤解であることをご理解いただいたと思います。

「魏書少帝紀」に「景初三年(239年)正月丁亥朔(ついたち)(十二月一日)、明帝が重体となった。」とあり、さらに、「魏書明帝紀」に『(景初)三年春正月丁亥の日(一日)、太尉司馬宣王が、〔遼東から〕帰還して河内に到達すると、明帝は早馬によって彼を召しよせ、寝室の中に引き入れて、手を取り、「私の病気はひじょうに重い。後の事は君にまかせる。君はよって曹爽とともに幼い息子を輔佐せよ。私は君に会えたのだから思いのこすことはない。」と告げた。宣王は頓首して涙を流した。その日、明帝は嘉福殿において崩御した。時に三十六歳であった。癸丑の日(二十七日)、高平殿に埋葬した。』とあります。(今鷹真・井波律子訳「三国志Ⅰ」世界古典文学全集24A 筑摩書房1977、p.110)

また、「魏書少帝紀」に(景初三年二月)丁丑の日(一月二十一日)に司馬懿の功績を大いに誉め、天子を善導する役「太傳(たいふ)」に除すという詔勅を下したとあります。この時点の曹魏の実力ナンバーワンは大司馬(軍のトップ)である上記の曹爽でした。すでに病死した曹魏第一の功労者曹真の子です。ですから司馬懿は倭の遣使によって曹真の功績を超えるものにしたいという政治目的から、明帝崩御後に、明帝が任命した帯方郡太守劉昕を自分の部下の劉夏に代えたと推理できます。

 倭国を懐柔するようにとの司馬懿の命を受けた劉夏は、倭国に遣使を促し、景初三年六月に帯方郡に来た難升米らを洛陽に護衛を付けて送りました。司馬懿にとっては、自らの功績を最大限にアピールする最も重要なチャンスですから、幼い皇帝の補佐役になった司馬懿は、たとえ明帝の喪中であっても、卑弥呼の遣使を絶賛する詔勅を景初三年十二月に作らせたのだと推理できます。その詔勅を全文掲載する「魏志倭人伝」は、司馬懿を曹魏第一の功労者として顕彰するために作られた文書だということです。曹真の功績であるはずの大月氏の朝貢記事は明帝紀に簡単に書かれていますが、「三国志」に西域伝を意図的に載せていませんので、陳寿の偏向が見て取れます。

「晋書 宣帝紀」にも卑弥呼の朝貢を司馬懿の功績として魏の少帝から封邑を加増されたという記事が載せられています。陳寿の「魏志倭人伝」は司馬懿を顕彰するために西晋の朝廷の人々に向けて作られた文書で間違いないのです(渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書 2012,pp.33-65に詳しい)

 ですから、魏の朝廷の人々に司馬懿の功績を理解させるために、帯方郡太守劉夏と、前回述べましたように、漢字を読み書きできる倭の大夫難升米が談合して作った邪馬台国への行程記事に基づいて、陳寿が「魏志倭人伝」を書いたのだと推理できます。このような政治文書のフェイク記事を素直に読んで、いくら正しく解釈しても万人が納得できる邪馬台国の場所へはたどり着けなかったということなのです。

 ということで、従来の発想では邪馬台国問題を解決できないということですから、ここで新しい発想として、邪馬台国への行程記事は一度横において、ヤマト王権成立過程を仮説推論(アブダクション)によって科学的に解明する手法を採用しました。それによって邪馬台国問題だけでなく弥生時代前期末から古墳時代初頭の歴史問題もほぼ解明できました。その詳細は拙ブログ「古代史を推理する」をご覧ください。
(刮目天)


【参考記事】

伊都国の意味がヒントだった?(@_@)


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

漢字を読み書きできた弥生人とは?

2021-07-28 03:22:36 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)7月27日(火曜日)
通巻第6996号  
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  
(読者の声4)卑弥呼が使いを派遣した政治的理由について触れられておりましたので、三国志を普通に読めばどのように理解できるのかをお伝えしたいと思います。
 卑弥呼が使いを派遣した景初2年(238)6月は、魏の明帝が遼東付近の公孫氏に対して、乾坤一擲の攻勢をかけた時でした。遠路に大軍を派遣するのは費用がかかり過ぎるという群臣の反対を押し切っての派遣でした。
 思い切った明帝の決断でしたが、内幕は必ずしも一枚岩ではなかったのです。それだけに、遠路、使いを派遣してきた卑弥呼の心意気は心強く感じられたのだと納得できます。
 これこそが、魏志に特筆された理由であり、不相応とも思える、質・量ともに優れた返礼がなされた背景です。これは三国志を普通に読めば、理解できることであり、満足に三国志を読んでもいないと思われる多くの通説をそのまま受け取って論評されるのは、的外れのそしりを免れないと思われます。
  (高柴昭)


 貴誌第6996号(読者の声4)で、卑弥呼の魏への最初の遣使が「魏志倭人伝」に景初二年(238年)六月とあるので、これを正しいと誤解されています。しかし、景初二年か景初三年の誤写であるかはいろいろと議論されましたが、「三国志」をしっかりと読めば景初三年が正しいことは明らかです。
 景初二年正月に魏の明帝は詔勅を下し、司馬懿(「三国志 魏書明帝紀」では司馬宣王)に遼東(太守公孫淵)を攻撃させました。「丙寅の日(九月十日)司馬宣王が、襄平において公孫淵を包囲し、大いにこれを撃ち破って、公孫淵の首を都に送りとどけ、海東(遼東)の諸郡は平定された。」(今鷹真・井波律子訳「三国志Ⅰ」世界古典文学全集24A 筑摩書房1977、p.108)ですから景初二年六月はまだ戦争中で勝敗が決着していません。「東夷伝」の序にも以下のとおり明確に書かれていますので、景初二年六月に卑弥呼が魏に使いを送ることはできません。
 「公孫淵が父祖三代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(中国と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中国の地へ使者のやってくることも不可能となった。景初年間(二三七 - 二三九)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中国の支配下に入ってその命令に従うようになった。」(今鷹真・小南一郎・井波律子訳「三国志Ⅱ」世界古典文学全集24B筑摩書房1982、p.295)
 さらに「日本書紀 神功皇后紀」に引用された「魏志倭人伝」の記事にも景初三年とありますし、「梁書 倭伝」にも景初三年と明記されていますから、卑弥呼が魏に最初に使いを送ったのは景初三年(239年)で間違いありません。
 西晋の史官陳寿が三世紀末に完成させた「三国志」の原本はすでに残っていません。南宋の時代に版本が登場するまでの期間は写本が作られましたが、結構誤写のある写本によって現在私たちが読むことのできる「三国志」の版本が作られたようです。

 例えば、現在の「魏志倭人伝」には邪馬台(臺)国をすべて邪馬壹国とされていますから、邪馬台国はなかったという主張をされている方も居られます。しかし、原本を見たと考えられる五世紀の范擁の「後漢書」に「邪馬台国」と正しく書かれています。
 安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版 2003, pp.181-182)によれば、「古代の日本語では、母音が二つつづくのは、かなり厳重に避けられていた。」とありますので「yamai」や「yamaichi」という言葉は「古代の日本語の音韻の特徴からみて、ありそうにないことである。」とあります。それでも古代日本語の「い」は「ゆ」に近い音であったとして、倭人が「やまゆ」と言ったのを、中国人が「邪馬壹」と記すことはあるが、古文献のなかにも現在地名でも「やまゆ」という地名は見当たらないようである。」とあります。「やまゆ」の意味は「山のいで湯」とも取れますが、「魏志倭人伝」には「南して邪馬壹国に至る。女王の都とするところなり。」とあり、邪馬壹国の登場は一度だけで、後は全て女王国です。邪馬台国は、ヤマ(国)に住む女王(台)の支配する国という意味ですから、どちらが相応しいかは明らかです。
 そして、「魏志倭人伝」に登場する倭国の国名や人名などは、上で述べられたように倭人の発音を中国人が聞いて漢字に変換する際、韻書(発音引きの漢字辞書)に並べられた漢字グループの最初の文字から機械的に選んだとされたというのが通説でした。それは日本に漢字が伝わるのが、五世紀初頭とされていたということもあるでしょう。

 しかし最近、北部九州の弥生中期の遺跡から硯(すずり)の破片が発見され、従来石鍬などとされた約50点が硯であったと分かったと報道されました(「糸島の弥生遺跡に硯工房か 出土の石製品約50点」今井邦彦、朝日新聞デジタル記事2021年5月1日 9時30分)。また、福岡空港の雀居遺跡で弥生後期の木製組合わせ机が見つかっていますから、「魏志倭人伝」の時代にはすでに漢字を読み書きできた倭人が居たと考えられます。


 従って、漢字の書けない倭人が中国人に教えたのではなく、倭人が直接書いて教えたと考えるのが良いようです。何故なら、男王や一大率が居たとされる伊都国だけが「好字」で、卑弥呼をはじめ他のほとんどの国名や人名などは「卑字」が多用されているからです。ちなみに伊都国は「孟子 尽心上篇」に登場する夏王朝末から殷王朝初期にかけて活躍した政治家伊尹(いいん)に因む国の名前です。孟子を読む教養人である、ある倭人が「魏志倭人伝」に登場する国名・人名等を、漢字の読めない倭人をバカにして、魏の役人に書いて教えたものであると推理できます。これによって、邪馬台国問題だけでなく日本建国の過程まで完全に解決します。「卑弥呼神社」が存在しないのも当たり前でしょう!卑弥呼は比売大神の名前で日本全国の五万とある八幡神社で祀られています。詳しくは拙ブログ「古代史を推理する」「倭王帥升は何者だ?」「【わかった!】室見川銘板のなぞ」などをご参照ください。
(刮目天)

【参考記事】伊都国が鬼払いの発祥地か? 「日本書紀」に旧奴国を儺県(なのあがた)と呼んだのも!

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その4)

2021-07-24 22:33:34 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

ここまでお付き合いありがとうございます。
今回がこの検証の最終回です。最後までよろしくお願いします。


前回(その3)で玉杵名邑(たまきなのむら、熊本県玉名市)で土蜘蛛の津頰(つつら)を殺したところまで書きました。天皇はさらに阿蘇に行きます。
「十六日に阿蘇国(あそのくに)に着かれた。
その国は野が広く遠くまで続き、人家が見えなかった。
天皇は、
『この国には人がいるのか』
と問われた。
そのとき、二人の神である阿蘇津彦(アソツヒコ)と阿蘇津媛(アソツヒメ)が、たちまち人の姿になり、やって来て言われた。
『私たち二人がおります。どうして人がいないことがありましようか』
それでその国を名づけて阿蘇(あそ)という。」

あ、そ~?!ダジャレじゃん(´ω`*)
「日本書紀」の編者もいい加減に馬鹿らしくなってきたようです。夫婦の神がよく登場しますが、大和朝廷が最も畏れるのが大国主狗古智卑狗(久々遅彦)と台与ですから、色々な神の名で登場させます。「道祖神もやっぱり」で見たように、それぞれの土地に神が存在するとして、二人の正体を隠すためですから、分かってしまえば笑えますね。


(クリックで拡大)

阿蘇に行く途中で西弥護免遺跡の倭国勢を攻撃した模様です。ここは大国主が軍需工場としたところです。大量の鉄鏃が出土しています。阿蘇では下山西遺跡を攻撃した模様です。尾張勢の銅鏃が墳墓から見つかっています。

「秋七月四日、筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに)の三毛(みけ、福岡県三池)に着いて、高田の行宮(たかたのかりのみや)にお入りになった。」
(途中省略)
「七日、八女県(やめのあがた、福岡県八女市)に着いた。
藤山を越え、南方の粟崎(あわのさき)を望まれた。
詔みことのりして、
『その山の峯は、幾重も重なって大変麗しい。きっと神は、その山におられるのだろう』
と言われた。
時に、水沼県主猿大海(ミヌマノアガタヌシサルオオミ)が申し上げるに、
『女神がおられます。名を八女津媛ヤメツヒメといいます。常に山の中にお出でです』
それで、八女国(やめのくに)の名はこれから始まった。」


「八月、的邑(いくはのむら、福岡県浮羽)に着いて食事をされた。
この日、食膳掛が盞うき(酒杯)を忘れた。
当時の人は、その盞を忘れたところを名づけて浮羽(うきは)といった。
現在、『的(いきは)』というのは、それが訛ったものである。
かつて、筑紫(つくし)の人々は、盞(うき)を浮羽(うきは)といった。

十九年秋九月二十日、天皇は日向(ひむか)から大和にお帰りになった。」


というように、のんびりした記事になっていますが、実はこの辺りから倭国の中枢部ですから大国主が直接指揮して、久留米市の野畑遺跡でも戦闘が行われた模様です。おそらく大国主は大分県で尾張王を相当痛めつけたので、ここまで尾張王らが攻めてくるとは予想していなかったのかも知れません。大国主は劣勢になったので高良山に立て籠もって戦闘したのではないかと考えています。しかし、恐らく70歳以上の年齢ですから体力的にもたず、この辺りで戦死したのだと思います。

大国主の亡骸は丹後地方で見られる葺石付きの方墳の祇園山古墳に葬られたと推理しています。男女の骨が見つかっているので、女性の方は大国主に最期まで連れ添ったお気に入りの妃だったのでしょう。台与は当初は一緒に戦って、伊都国に息子のホムダワケ(後の応神天皇)と一緒に逃げたと考えていましたが、台与は最初から伊都国に居たのかも知れません。ホムダワケは前回(その3)の(注2)で述べたように、夜陰に紛れて小舟で筑後川を下り、有明海から大隅正八幡神宮に落ち延び、隼人に匿われたと考えています。

尾張王オシロワケは大国主を討ち取った後、浮羽郡の長島遺跡でも戦ったようです。その後、景行紀には日向から大和に帰還したとありますが、先代尾張王タラシナカツヒコ(仲哀天皇のモデル)が葬られた赤坂古墳に参拝したはずです(注2)。そして小郡市の三国の鼻遺跡でも戦跡がありますし、福岡市に北上して井尻B遺跡にも戦闘の痕跡があります。さらに伊都国に入り、武器を自ら持って奮戦する台与を殺して、平原王墓に葬ったと推理しました。女王の棺の上に素環頭大刀が載せられていました。この台与の戦いぶりから神功皇后の女傑のイメージができたようです。

何度も同じことを繰返して恐縮ですが、景行天皇のモデルとなった尾張王建稲種命の九州遠征は、先代尾張王(仲哀天皇のモデル)が大国主(狗古智卑狗)に殺されたので、その仇討が第一の目的だったのです。そして尾張王建稲種命が大国主を殺すことにより、結果として狗奴国ヤマトが倭国を手に入れたわけです。尾張王建稲種命がヤマトを裏切らずに、その成果をヤマトの卑弥弓呼大王に差し出したのは、恐らく大王直属の物部勢が尾張王建稲種命の軍勢にかなり加わっていたからではないでしょうか。建稲種命自身は父王の恨みを晴らした時点で目的を達成したので、伊都国の台与を殺す場面には立ち会わなかったのかも知れません。つまり台与を殺したのはその後の主導権を握った物部勢(尾張勢と共にニギハヤヒ大王を祖としていますので、同族です)ではないかということです(【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?)。ですから、その後の物部主導のヤマト政権は台与の崇りを畏れ、対外交易の拠点を伊都国から西新町遺跡に遷したと推理しました(【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?)。

ということで、景行天皇の熊襲を征伐する話は、大国主が支配していた倭国を尾張王建稲種命が討伐した史実を誤魔化すために作られた話だと推理しました。そして「日本書紀 神代(下)」の大国主の国譲り神話は、この史実をさらに神話の時代にまで遡らせて真相を誤魔化したものです。日本建国の本当の主役である尾張氏の活躍を景行天皇の熊襲征伐という話にして、日本建国の歴史から尾張王建稲種命の活躍を抹消し、藤原氏の権力の正統性を主張するためにチャッカリと藤原氏の祖神に活躍させました。考古学的に矛盾する神武天皇の東征神話など何重もの作り話を作ったので、日本建国の真相が誰にもわからないようにしました。

この景行天皇紀でも(その2)で土蜘蛛退治を三柱の神に祈願する踏石(ほみし)の占いの話を載せました。三柱の最初は志我の神で、これは志賀大神(しがおおかみ)つまり住吉三神です。この神は女王台与をモデルとして「日本書紀」に登場させた神功皇后に常に寄り添って助けた神です。忠臣の武内宿禰でもあり、その正体は大国主です。次は直入物部の神でヤマト建国の基礎を築いたニギハヤヒ大王のことです。そして最後に直入中臣の神を登場させています(注1)。つまり藤原不比等の祖神です。

国譲り神話では、高天原の要求に中々従わないので、物部氏の祖神経津主命(フツヌシ、下総国香取の神)と中臣氏の祖神神武甕槌(タケミカズチ、常陸国鹿島神宮祭神)が派遣され、タケミカズチが大国主の力自慢の次男タケミナカタを投げ飛ばし、大国主に国譲りさせた功労者としています。中臣氏の祖神として物部の祖神フツヌシと共に春日大社でも祀っています。藤原不比等は、日本建国の真の功労者である尾張王建稲種命の功績を奪うために景行天皇の話と同時に、国譲り神話を創ったというのが真相でしょう!

【参考記事】国譲り神話の史実は?愛知県長久手市に景行天皇社があります。そこから東に10キロ離れた豊田市に猿投(さなげ)神社があります。現在の主祭神は大碓命 (おおうすのみこと)ですが、「近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説があった。元々は猿投山の神を祀ったものとみられる」Wikiに有ります。大国主の分身がサルタヒコだと突き止めています。大国主の息子タケミナカタを投げ飛ばしたタケミカズチが景行天皇のモデルの尾張王建稲種命だったと分かります。つまりタケミナカタも大国主の分身なのですよ(^_-)-☆

なお、本文中の「日本書紀」の記述は「日本書紀・日本語訳「第七巻:景行天皇 成務天皇」を使用させていただきました。

(注1)物部の神と中臣の神の前に「直入」と書いたのは何故なのか?これらの神が直入郡に元々居たのかという想像してしまいますが、違うでしょう。豊後国風土記の中に直入郡の地名由来が以下のように書かれています。
「昔、郡の東の桑木村(くはきのむら)には桑が生えていた。その高さは極めて高く、枝も幹も真っ直ぐで美しかったので、俗に直桑村(なほくはのむら)と呼ばれた。これを後の人が直入郡と改めたのがこれである。」

しかし、これでは「直入」となった理由が良く分かりません。「単刀直入」というような意味からではないでしょうか?つまり、景行天皇が速見村の行宮で速津媛から土蜘蛛の情報を聞いて早速、直入郡球覃郷(くたみのさと)に入って土蜘蛛退治に取り掛かったということで郡名を付けたのか?、土蜘蛛退治を、全く筋違いの大国主にまで単刀直入にお願いしたのか?あまり重要な話ではなかったですが、重要なのは直入郡入りしたのは物部と中臣だったということを読者に印象付けたいためでしょうか?

でも、完成当時の人々はみんな尾張氏の先祖建稲種命の活躍を知っていたと思いますので、後世の読者に向けてでしょうね。不比等は後世には「日本書紀」で創作された歴史に置き換わることを確信していたのでしょう。後世のことまで考えたというのは、不比等の想像力は大したものですね。千三百年も経過した現代でもすべて謎のままでしたから(@_@)

(注2)鳥栖市の牛原原田遺跡の住居跡付近で鉄鏃が見つかっています。これは尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀では仲哀天皇)がヤマトを裏切って倭王に立とうとしたことで大国主狗古智卑狗らと内戦になった時の戦跡と考えています。千人ほど殺されたとあります。卑弥呼の弟赤坂比古の手によって鳥栖市に追い詰められて殺されたと推理しています。
 また二子塚遺跡の戦跡は、後期後半の第一次倭国大乱で難升米王が先代狗古智卑狗を攻めた時の痕跡ではないかと考えています。


最後まで面倒な話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
またどこかでミスっているかも知れませんので、お気づきの点をお教えください。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その3)

2021-07-23 09:54:38 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

尾張王オシロワケ(景行天皇のモデル)は直入郡の土蜘蛛(大国主の配下)に撃退されてしまい、海部郡宮浦(佐伯市米水津大字宮野浦に比定)に退却し、軍勢を立て直すために日向国に向かいます。景行十二年十一月、日向国の高屋宮を行宮とされたとあります。


(クリックで拡大)

「十二月五日、熊襲を討つことを相談された。天皇は以下のように詔された。『聞くところによると、襲(そ)の国に厚鹿文(アツカヤ)、迮鹿文(サカヤ)という者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十梟帥(ヤソタケル)と言っている。勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては、敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし、多勢の兵を動かせば、百姓たちに害となる。兵士の威力を借りないで、ひとりでにその国を平定できないものか。』

ー人の臣が進み出て、『熊襲梟帥(クマソタケル)に二人の娘があります。姉を市乾鹿文(イチフカヤ)といい、妹を市鹿文(イチカヤ)といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。沢山の贈物をして手下に入れるのがよいでしよう。梟帥の様子をうかがわせて不意を突けば、刃に血ぬらずして、敵を破ることもできましょう』と言ったので、天皇は、『良い考えだ』と言われた。」

天皇は姉を召して、偽りで寵愛すると、「熊襲の従わないことを気になさいますな。私に良い案があります。一人二人の兵を私につけて下さい」と言い、家に帰って父の熊襲梟帥に強い酒を出し、寝ているところを殺してしまった。天皇はそれを聞くと、不孝を憎み、姉を殺し、妹は火国造(ひのくにのみやつこ)に賜った。」
という話です。百姓たちに迷惑をかけないようにということは良いのですが、このような謀略の話はあまり誉められませんね。(注1)

実際にはあり得ないようなヘンテコな話ですから、作り話と直ぐに分かりますが、話を元に戻して、「十三年夏五月、ことごとく襲(そ)の国を平定した。
高屋宮(たかやのみや)にお出でになること、すでに六年である。」


「十七年春三月十二日、子湯県(こゆのあがた、宮崎県西都市)にお出でになり、丹裳小野(にものおの)に遊ばれ、この国を日向と名づけ、さらにこの日、野中の大石に登って、都を偲んで歌を読まれた。」とあります。

え?計算が合ってますか?!高屋宮には十二年十一月に到着したので六年ではなく、高屋宮には約四年間滞在したことになります。「日本書紀」のミスでしょう!(早速、てれびとうさんから正解コメントいただきました。有難うございます)高屋宮には御刀媛(みはかしひめ)という美人が居たので妃にされたとあります。だから、ここで四年以上過ごされて子湯県にやって来たという話です。図では襲(そ)の国から都城市を経由して西都市に行くルートを描きました。

しかし、尾張王建稲種命(タケイナダネ、記紀の景行天皇、仲哀天皇の祖父)の史実は、前述のとおり、豊後の倭国勢(土蜘蛛)の掃討に失敗して、海部郡宮浦まで撤退させられ、日向に向かったようです。到着した高屋宮の候補地は上の地図に描きましたが、複数あります。一つは西都市岩爪、二つ目は宮崎市村角町、そして三つ目は鹿児島県肝属郡です。天皇が襲(そ)の国の討伐を目的とするならば肝属郡が最適ということで図に示しました。

それでもオシロワケの本当の目的地は倭国の中枢部ですから、四年以上も高屋宮に滞在するなどどうかしています。おまけに、鹿児島県国分市の襲(そ)の国まで行く必要は全くありません。「日本書紀」では尾張王建稲種命の本当の目的を誤魔化すために熊襲討伐という目的にしたから、襲(そ)の国を遠征のルートに入れたのではないでしょうか。

襲(そ)の国の城山山頂遺跡では、「43基の竪穴住居跡が検出されている。ここからは,在地の土器に混ざり畿内地方に見られる布留式土器が出土しており,古墳時代における南九州と畿内大和勢力との関わりを知る上で極めて重要な遺跡である。」とあります(22907_1_上野原遺跡.pdf p.15)。しかし、鉄鏃も戦跡も見当たりません。ヤマト勢が来た模様ですが、今回の尾張王建稲種命の遠征ではないと考えています(注2)。

ですから、尾張王建稲種命が滞在した高屋宮は鹿児島ではなく西都市の高屋神社ではないかと推理しています。というのも、ここの川床遺跡の墳墓群から66個もの大量の鉄鏃が出土しています。土蜘蛛との戦いで負傷した兵士たちがここで亡くなって葬られたのではないかと考えられます(注3)。そしてヤマトから援軍を呼び寄せて、軍勢を立て直すために、この地で足掛け六年過ごされたというのが、現存しないのですが、原風土記の伝承にあったので、「日本書紀」の編者はそれを書き写したのではないでしょうか。他にも例がありますが、算数があまり得意でないし、注意力も足らないようです(今回は刮目天がミスしましたが、例えば仲哀天皇は父ヤマトタケルが死んで34年後に生まれた計算になりますから杜撰な話なのです(^_-)-☆)(2022.12.31 赤字追加)

「十八年春三月、天皇は京に向われようとして、筑紫(つくし)の国を巡幸された。」とあり、夷守(ひなもり、小林市)を経由して、(途中省略)「夏四月三日、熊県(くまのあがた)にお着きになった。」とあります。そこに熊津彦(クマツヒコ)兄弟の弟熊(オトクマ)が反抗的だったので兵を遣わして討たれたとありますが、ここも戦闘の痕跡は見当たりませんし、鉄鏃も出土していません。だから熊襲が反抗したというのは「日本書紀」のウソではないでしょうか!

「十一日、海路から葦北(あしきた、熊本県葦北郡芦北町)の小島に泊り、食事をされ」「五月一日、葦北(あしきた)から船出して火国(ひのくに)に着いた。」とあります。夜になっていたのですが不知火に導かれて八代県(やしろのあがた)の豊村に到着しました。

「六月三日、高来県(たかくのあがた、島原市)から玉杵名邑(たまきなのむら、玉名市)にお出でになった。時に、そのところの土蜘蛛の津頰(つつら)というのを殺された。」とあります。島原市の今福遺跡の溝から銅族が8個も見つかっていますから、ここを攻撃した尾張勢のものだと思われます。玉名市の塚原遺跡では鉄鏃が22個ほど見つかっています。出土状況をすべて確認できていないのですが、大体は住居跡のようです。しかし、この記事どおりの戦闘があったのかも知れません。

今回はここまでにしておきますが、景行天皇の熊襲退治というのは尾張王建稲種命の史実を隠すために作られたと考えています。特に、島原市の今福遺跡から尾張勢のものと思われる銅鏃が多数溝から見つかったことは、実際に尾張王が島原市まで遠征した証拠と考えていいと思います。

次回は阿蘇への攻撃から、いよいよ大国主の倭国勢の本拠地である筑紫平野、そして王都としていたと思われる伊都国での戦闘まで見て行きたいと思います。

なお、本文中の「日本書紀」の記述は「日本書紀・日本語訳「第七巻:景行天皇 成務天皇」を使用させていただきました。

(注1)景行四十年の日本武尊(ヤマトタケル)の熊襲討伐でも、童女に化けて宴会で川上梟帥を隠した剣で刺し殺した話とも似ています。「日本書紀」には他にも同じような騙し討ちの話がよく出てきます。前回の鼠石窟と鍛冶屋の大将が朝鮮語で同じような発音ということですので、朝鮮人を差別しているのではなく、こういう謀略話の好きな百済人が「日本書紀」編纂チームに入っていた可能性があります。

刮目天は関裕二氏の藤原鎌足百済王子豊璋説を支持していますが、現代人のY染色体DNA分析結果から、百済人の正体は北東アジア系の扶余族ではなく倭人の可能性が高いと考えています(「渡来人は異民族とは限らない?」)。つまり鎌足の子不比等もどちらも謀略にたけた百済人ではなかったのかという話です。大陸や半島の人々は日本列島の人々とは自然環境や人々の民族的な構成が異なり、異民族をどのようにあしらうか長い歴史の中で体得しているのだと思います。ですから、人の好い日本人は謀略によって簡単にやられるのかも知れません。

日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

(クリックで拡大)

(注2)霧島市隼人町にある鹿児島神宮はかつて大隅正八幡宮と呼ばれており、「社伝によると和銅元年(708)の建立で、『延喜式』には、鹿児嶋神社の名で薩摩、大隅、日向の中で唯一の大社として記載されている。平安時代に、宇佐八幡宮が九州各地に別宮を作った頃に、八幡神が勧請され、それによって、「八幡正宮」と呼称されるようになったと考えられている。」とあります。神宮寺として弥勒院も造られ八幡宮の中でも特別な存在のようです。関裕二さん「鹿児島神宮は、「正八幡」で、「内の方が本当の八幡」といっているように、隼人と八幡は、むしろつながっていたはず。」とツイートされています(@bekkabou 2016年12月21日)。

次回の高良山の決戦で大国主の倭国軍が尾張王に敗北し、幼いホムダワケだけが有明海から霧島市まで小舟で落ち延びたのではないかと考えられます。つまり、崇神紀のオオタタネコが三輪山のオオモノヌシ(大国主)の神託によって『日本書紀』によると、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)、すなわち和泉国大鳥郡陶器荘(現・堺市東南部の陶器山からその西方にかけて)[7]から纏向に呼ばれた話は(Wiki「大田田根子」)、実は、大隅正八幡宮から大和に呼ばれて初代祭祀王(応神天皇)に即位されたのではないかと考えています。

(注3)川床遺跡の説明(tnomuraのブログ)によると、円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。とありました。

200人ほどの戦死者です。狗奴国勢の墓ですので北九州の様式ではないと思います。円形周溝墓は前方後円墳の原型とも言われる橿原市瀬田遺跡や赤穂市東有年・沖田遺跡などでも見られるものです。方形周溝墓は弥生前期に畿内や東海で発祥し、盛行した様式です。物部氏や尾張氏の指揮官クラスの墓ではないかと考えられます。また、土壙墓は敵の矢で負傷して亡くなった兵士のものでしょう。(2022.12.31 追加)


最後まで込み入った話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング