刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

抹殺された尾張氏の謎(その2)

2024-04-05 09:53:10 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

#2022-02-07 20:19:46の記事の図のリンクが切れていましたので修理しました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

#昨日2022-02-06 00:44:45にこの記事をアップしましたが、蟹江町をあま市と間違って書いてしまいましたので、お詫びして訂正いたします。また、日本建国に関わる人々の図について、(注4)に補足を追加しました。ご確認ください。なお、この図は現在までの調査で判明したものですので、今後も追加変更を加えるつもりです。いろいろと疑問点などお寄せ下さい。どうぞよろしくお願い致します。

以下に、前掲のkunorikunori様のブログでのコメントのやりとりのつづきを要点のみ書きます。
和邇良神社という名を聞いて、
近江にある伝承を思い出しました。
迦邇米雷王が神功皇后の祖父となる。
迦邇米雷王の息に息長宿禰王(気長宿禰王)

蟹と米「和邇氏(丸邇氏)の伝承(1)追記」



刮目天
良い情報をありがとうございます。早速チェックしてみました。
しかし、この系図は信ぴょう性がないと思います。
崇神天皇と彦坐王(ワニ氏遠祖の姥津命の妹の姥津媛(ははつひめのみこと)との間に生まれた第9代開化天皇の皇子)とその子が四道将軍のひとりとしてタニワに派遣された丹波道主というのはすべて饒速日の子孫ということで尾張氏ともつながりますが、神功皇后台与の父息長宿禰は卑弥呼と同じ縄文系ムナカタ族の支族ですよ。また日本武尊は架空の人物ですし、応神天皇までの人々は崇神天皇と同時代人ですから、やはり、建国の史実を大和朝廷が隠すためにいろいろと工作しているようですね!
(コメント内の黒字は後で補ったものです。以下同様)

そういう目で見ると、神功皇后台与の祖父とされる迦邇米雷王ですが、カニは尾張氏(注1)、雷は大国主に国譲りさせたタケミカズチ、つまり大国主と台与を父王の仇で殺した尾張王オオタラシヒコオシロワケですから日本書紀の景行天皇を示唆しています。

そして、尾張国造の祖で「先代旧事本紀」の乎止与命(おとよのみこと『新撰姓氏録』では小豊命)の子の建稲種命ということです。つまり、乎止与命は大国主と台与とさらに和邇氏の祖赤坂比古(卑弥呼の弟、先代が卑弥呼の父、「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」参照)に殺されたタラシナカツヒコで日本書記の仲哀天皇ということになりそうですよ。卑弥呼の弟(赤坂比古)も建稲種命に敵討され、鳥栖市の愛宕神社古墳に葬られています。愛宕権現ということですが、タケミカズチの父カグツチやカグツチの母イザナミと習合したりしているようです(「火の神カグツチの正体ってか?」参照)。カグツチ秋葉神社祭神として、全国で祀られていますが、愛知県の数が一番多いです。

そして、乎止与命って女の名前のようですが、違うと思います。名前に「乎」が付くのは奇妙ですので、意味がありそうです。漢文では「トヨによって」の意味にとれますから、「誅殺された」が略されていると思います。これは、シナの諡法で仲哀天皇としたのが春秋公羊伝にある斉の哀公の故事に因むものだと思うからです(注2)


十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」
「おわはり」と読めますね。

刮目天
古事記では十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」はイザナギがカグツチを斬った剣です。日本書紀では、天之尾羽張神の子タケミカヅチ(カグツチを斬った剣の血のしずくから生まれたとも)が大国主に国譲りを迫ったのですから、尾張と関係が大有りですよ(笑)。つまり、仲哀(カグツチ)・景行(タケミカズチ)の話は尾張氏だという暗示で、古事記は真相をそれとなく暴露したもののようですね(^_-)-☆
そして神武東征の折に高倉下(アメノカグヤマ)がこの剣を献じたことになっていますが、現在どこに祀られているのでしょうかね?鹿島神宮?

あ、先ほどの迦邇米雷王の米ですが、尾張氏の遠祖の建斗米命(たけとめのみこと、ニギハヤヒの5世孫)に見られますが、どうなんでしょうかね?


その後、「米(め)」が「目」とすれば頭目の意味かも知れないと分かりました(古代史探訪「迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)②」2021年 11月 20日より)。「迦邇米」はカニの頭(かしら)、つまり尾張王を意味するかもしれません。そうであるなら、迦邇米雷王は尾張の雷王ですからタケミカズチ(景行天皇)を示唆しています。「日本書紀」で孫の仲哀天皇の妃にした神功皇后の祖父として景行天皇の別名を当てたデタラメな系図だと思われます。息長氏は台与の一族で、卑弥呼の一族の和邇氏とともに天皇の妃を出した縄文海人ムナカタ族を祖とする一族であることを隠すために創作された系図だと考えられます。

台与の父である息長宿禰は、古事記神話では大国主の国造りのパートナーの少彦名(スクナヒコナ)のモデルではないかと考えています。大国主の分身サルタヒコが巨漢ですから、息長宿禰が小柄だったことでスクナヒコナとされたのではないかと想像しています( ^)o(^ )

そして藤原氏・中臣氏が行った尾張隠しの最大の仕掛けがヤマトタケル伝説の創作です(「ヤマトタケルの正体は誰?」参照)。尾張氏はデタラメな伝説の尾ひれ背ひれの作り話で訳分からなくされて力を失い、他の有力な豪族と共に朝廷の中枢から追い落とされてしまいます。

尾張には一之宮とされる一宮市の大神神社(祭神は大物主大神)の他に真清田神社も一之宮としていますが、このような場所はいくつかあるようですが、理由がありそうです(注5)。真清田神社の祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)ですから、尾張氏の祖のニギハヤヒのことです。だから尾張の人々が一之宮だと主張する気持ちが痛いほどわかりますね。(2022.2.16 赤字訂正・追加)

それに対して一之宮ではないですが尾張で格別に尊崇を集めてきた熱田神宮の主祭神は熱田大神で草薙神剣を御神体とする天照大神としています。相殿神に、天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命となっています。神社由緒書によれば、景行天皇四三年に「日本武尊、伊勢の国・能褒野(のぼの)にて薨去(こうきょ)草薙神剣を熱田の地に祀る」とあります(注3)。(2022.2.12 赤字追加)

ヤマトタケル妃宮簀媛命(みやずひめ)が創始したとありますが、wiki「熱田神宮」によれば「熱田神宮の創建はずっと時代が下った仲哀天皇元年であるとも646年(大化2年)であるともいわれる。」と曖昧です。相殿神に景行天皇が祀られず、代わりに宮簀媛命の兄の建稲種命となっているのです。建稲種命はヤマトタケルの東征に従軍し、帰路、水軍を率いていた建稲種命がめずらしい海鳥を見つけて、ヤマトタケルに献上しようと、捕まえようとして駿河の海に落ち水死し、ヤマトタケルが嘆き悲しんだという話になっています。

すでに、ヤマトタケルは、日本建国の史実を隠すために日本書紀に登場させたスーパースターであることは分かっています(「ヤマトタケルの正体は誰?」参照)。ですから、実際に東征を行った人物は尾張王の建稲種命であることは直ぐに分かります。そして建稲種命が父の仇討で九州遠征した史実は景行天皇として隠されたということも上で述べています(注1)。

今回の推論で、日本建国の史実に登場する主要な実在人物がすべて判明しました。記紀などの登場人物との関係も分かりましたので、図にまとめました(注4)。「日本書紀」は天武天皇が崩御して約30年後に完成しましたが、朝廷が苦心した様子が良く分かりますね(;一_一)

(その3)「尾張と言えばカニだ~わ!」につづく>

【参考記事】
【検証19】日本建国のための戦いだ!

(左クリックで拡大)

(注1)愛知県海部郡蟹江町のマスコット・キャラクターがカニ、常滑市尾張多賀神社の神の使いがカニです。伊勢湾の名古屋市付近の海岸には昔から多くのカニが生息していたようです。(2022.2.7 赤字訂正)

熱田神宮は元々は建稲種命の居館があった場所ではないかと思います。(その1)で蟹原の元の地名は和邇原(わにはら)で、当時の海岸線からかなり離れた高台ですのでカニが上がってくることはなかったのではないかと思います(「わにはら」の地名の由来は応神紀に千字文を伝えた王仁に因む模様で、名東区和邇良神社の解説参照)。しかし、熱田神宮の付近は当時の海岸線に近いので多くのカニが生息していたはずです。「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」で尾張氏配下の海部氏がカニが多く居た海辺の蟹江に住んでいたことに因んで尾張氏をカニに準えたとしましたが、建稲種命の居館のことだったようですね( ^)o(^ )。
と書きましたが、調査したところ、名古屋市内のほぼ全域でカニが見られますので、蟹原にも沢山のカニが居たと思われます(「尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

(注2)wiki「春秋公羊伝」によると『春秋』の注釈書であり、『春秋左氏伝』・『春秋穀梁伝』と並んで、春秋三伝の一つとされる。『公羊伝』は斉の地に栄えた学問と考えられており、「復讐説」などの春秋学の根幹となる思想を解明した。とあります。天皇の諡号は中国戦国時代に成立した『逸周書・諡法解』に定められた諡法に従うことになっています。

wiki「淡海三船(おうみ の みふね)」によれば、「神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を選定したともいわれる」とあり、「聡明で鋭敏な性質で、多数の書物を読破し文学や歴史に通じていた。」と評されています。

仲哀天皇の諡号については、以下の春秋公羊伝の荘公四年に斉の襄公が九代前の祖先の仇に復讐するために今の紀侯を滅ぼしたことが許されるのかどうかについて議論している文章があり、その中に「哀公亨乎周,紀侯譖之(斉の哀公が周王により煮殺された。これは紀侯の讒言による)」から「哀」の諡を撰したものと考えられます。
「紀侯」は木の霊五十猛(イタケル)の子孫大国主久々遅彦によって仲哀天皇が殺されたという話と言うことであれば、淡海三船は尾張王が大国主に殺された史実を理解していたということでしょう。

また、「門脇禎二によれば、諡法においては「仲」の字は配すべからざる語であり、漢風諡号としては異例であるとされる[1]。」とあり、「仲」は次男の意ともありますが、日本武尊(ヤマトタケル)の次男かどうかははっきりしませんし、ヤマトタケルの死んで37年して生まれた計算になるので、杜撰な作り話です。従って、通説では仲哀天皇の存在自体が否定されています。

また、景行天皇については、諡号解に「景」には
・仁義に基づき世を良くした。(由義而濟)
・仁義を広め、国を強化した。(布義行剛)
・深く配慮の行き届いた政をした。(耆意大慮)

という意味があり、立派な行いをした天皇という諡になります(崔浩先生の「魏晋南北雑学」「諡」講座 より)。上の公羊伝で述べられた通りですので、やはり三船は恐らく建国の史実を理解していたようです。

(注3)「天孫降臨と草薙剣の謎?」に述べましたが、ヤマトタケルは実在しませんので、草薙神剣も存在しないはずです。その元となるスサノヲのヤマタノオロチから出てきた天叢雲剣というのも作り話です。しかし、王年代紀第二代王天村雲尊から第四代王天彌聞尊(ニニギノミコト)に伝えられた剣が存在するのかも知れません。被葬者を天村雲尊と推定した吉武高木遺跡の三号木棺墓から銅剣が出てきていますので、このようなものが伝わっていればそれが本物の天叢雲剣でしょう(^_-)-☆

(注4)実在人物と考えていますが、名前は記紀などにあるものですので、実名ではないかも知れません。

四道将軍のひとりで、北陸道を攻めた大彦命は、埼玉県行田市で発見された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に「乎獲居臣上祖名意富比垝(ヲワケの臣、オオビコを上祖とする)」とあるので、実在人物と思われます。しかし、大彦命の年代は崇神天皇時代ですので、孝元天皇の皇子の開化天皇と兄弟とするのは時代が合いませんので間に何代か居るように改訂しました。また、四道将軍のひとりで東海を上った子の武渟川別は古事記では建沼河別命とあり、尾張氏を示唆する名前になっています。ヤマトタケルの東征ルートとも重なり、尾張王建稲種命のことだと考えています。

また、丹波(たにわ)に向かった丹波道主ですが、これを上祖とする有力氏族が分かりません。また、吉備を攻めた吉備津彦の名前は時代を遡るニギハヤヒを隠すために使われていますから、これら二人の将軍は別の人物かも知れませんので、この図に載せませんでした。吉備の方は尾張王建稲種命が九州遠征の途中で攻めたのかも知れませんね。(2022.2.7 追加)

(注5)「一之宮」について思い違いで「他にない」と書いていましたが、間違いでしたので赤字で訂正しました。Wikiによれば、『現在、一宮の起源は「国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある」とするのが通説になっている。・・・通説では11世紀から12世紀にかけて成立したとされる。・・・民衆の一般的な崇敬を基にして起こった神社への等差的観念が「一宮」の選定と言う形になって現れ、それ故に官製の正式な文献に記録されなかったとしている[7]。』とあります。(2022.2.16 追加)


ここまでお付き合い、ありがとうございます。続きもよろしくお願いいたします( ^)o(^ )
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。