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新・私の本棚 刮目天ブログ 邪馬台国への道?( ^)o(^ ) 2/2
*良い歴史家
それにしても、動揺する刮目天一氏の論考で、笵曄「後漢書」「倭条」(以下「倭条」)尊重で忘れた頃の「倭人伝」回帰は、読者の視点が激しく動揺するので、不満です。
拙論考に動揺されているのは先生ではないですか?今まで無視してきたヒントを持ち出すのは反則だから不満だとおっしゃるお気持ちはよく分かります。しかし、魏志倭人伝の記事から万人が納得できる邪馬台国の場所を決められないのが事実ですよ。范曄後漢書にはきちんと「自女王国 東度海千余里 至狗奴国」というヒントが書かれているのですから無視することはできませんよ。劉宋(南朝の宋)の范曄は、直接ではないと思いますが、倭の五王の使者から倭国の情報を入手した可能性が高いのです。そうでなければ、魏志倭人伝の文章をこのように書き換えることは不可能ですから分かります(^_-)-☆(2024.10.9 青字追加訂正)
刮目天一氏は、径150㍍の古墓(直径約150mの日本最大の円墳)が卑弥呼の冢と最終結論されているようですが、今更ながら、御再考いただけないものでしょうか。ちなみに、「日本一の大墳墓」は、三世紀時点では、大変不穏当です。
刮目天は発見しただけで、自分で「三柱山古墳」を造ったのではないのですよ。不穏当とおっしゃるのが「日本一の大墳墓」ということなら、そうではなく、日本最大の円形墳墓ですよ。世界一の大墳墓は堺市百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵でしょう(#^.^#)
*東方の海 地理解釈の不思議
卑弥呼の墓の東方の「海」として、「倭地」は「倭人」なる「大海」中の洲島で、末羅と伊都は同じ島でも、伊都の東西南方は、不明です。
当時の魏の人々は不明でしょうが、倭人や現代日本人には地理情報はありますから不明ではないですよ(^_-)-☆
「倭人伝」の道里行程は、郡を発し対海から伊都に「到」り、終点というのが「到」です。まことに簡潔適確であり、伊都以降と見える、奴、不弥、投馬は、満足な報告・連絡・相談がない余計者と明記されているのです。
伊都国が最初の魏使梯儁の目的地であったことは明らかです。卑弥呼は政治を男弟に任せているわけですから。というのも、後で述べますが、本当の倭国王難升米が、政治的な理由から、太陽神の神託を告げるムナカタ族の姫巫女を倭国を統治する邪馬台国の女王ということにしたということなのです。そのことは魏使梯儁は太守から伝えられて承知していたと推理しています。
奴と不弥は、伊都と地続きでも、南の投馬は、陸地が途切れたと見え、倭人伝語「水行」で軽舟で対岸に渡るとしても、渡し船に二十日乗り続けるのは有り得ないので何もわからないのです。中国史料「倭人伝」のこの部分は無根拠と見える戸数を含め史料欠落で別扱いとされているので、後生東夷の勝手な書き込みは論外です。
よく分かりませんが、先生は当時の魏の人になったつもりで解釈すべきだとおっしゃるわけですかね?
しかし普通の現代日本人は、当時の倭人以上に日本列島の詳しい地理情報を持っていますが、それを使うのは反則なのですか?
でもなぜそのように言われるのか全く理解できませんよ(;^ω^)
邪馬台国の本当の場所にはご興味はなくて、当時の倭国を知らない魏の人々が魏志倭人伝を読んで、どのように理解するかだけにご興味があるということなのでしょうか?本当の場所と魏の人が理解する場所が異なっているから問題が未だに解決されていないのですよ( ^)o(^ )
本当の場所というのは、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から推論して得られた場所のことと考えているわけです。真実は神の領域だと思いますので、推論でしかないのですが、科学的な根拠に基づいているわけですから、偏見のない万人が納得しやすいということなのです。
書かれた内容と異なる場合は事実に基づき判断するのが実証的で科学的なのです。不明なままにしておけということは科学的な探求を放棄するということなのですよ(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」参照)。
以下、伊都城内部ないしは至近に「邪馬壹国」城があると明解です。
後で述べますが、先生は陳寿に騙されたようですね(;^ω^)
このあたりが、司馬懿の指示とすると何とつまらない「おっさん」(士誠小人 「孟子」)かと呆れます。帝詔で言う「中国」なる天下世界の中心から見ると、「倭人」は、天地果つるところ、萬里の彼方の蜃気楼であり、現地がどうなっていようと、正史夷蕃伝の隅っこであって、正史として何の意味もないのです。
魏志倭人伝こそが陳寿が書きたかった話だということは上で述べました。文書の目的を理解せずに文章を解釈しても、著者の真意から外れた、明後日の答えしか浮かばないということなのですよ!それが盲点だったわけです(*´Д`)
*「倭条」の凱歌 万二千里創唱の勲功
「倭条」は、「大倭」王は「邪馬臺国」なる「城壁に囲まれた聚落」に居ると明記しますが、城の東方近傍に渡れる「海」があるとは言えません。前世の「倭条」に郡使到来はなく、郡使が到着する以前「倭地」の地理は不明です。
城壁ではなくて城柵があって兵士が厳重に警護していたとありますね。地理は不明?誰のこと言ってるのですか?
魏志倭人伝は「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」つまり、女王国の東は海と明記されており、千里ほど海を渡るとまた倭人が住んでいる国があると教えてくれているのですよ。もしも九州内に邪馬台国があったならば、周防灘に面した場所を言っているとしか考えられないですよ。魏の宮廷人ではなくて、現代日本人だから分かるのですよ( ^)o(^ )
先生はそれが反則だと言っているようですね!(@_@)
「倭条」で、樂浪郡端は、大倭を去る万二千里です。当時は、宣王司馬懿の前世であり、劉宋での編纂時点では「悪辣な手口で天下を奪った果ての西晋が王族総出の内乱で滅んで中原を失い、逃亡先で再興の東晋も失地回復できずに滅んだ後に劉宋が興隆」していたのに、霞の彼方の罰当たりな司馬懿の面目を保とうとして「倭条」で過大な道里を創造したとは、怪談と思いませんか。
司馬懿にそんな未来のことが分かるはずないですよ。ただ魏の朝廷の権力をつかみたいので曹魏第一等の功労者になるためにいろいろと工作したと推理できるのです。公孫淵が司馬懿との戦いに敗れて命乞いしても、すべての廷臣まで斬首し、さらに遼東の15歳以上の男子七千人も虐殺して首をうず高く積み上げた「京観」を作って恐れられたのです。これは単に司馬懿が残虐な性格だというのではなく、倭国王や周辺の異民族への見せしめだったと推理できます。そのために、公孫氏に朝貢していた倭国王は司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏に朝貢を促されて、早速自ら郡に参上し、司馬懿のために行程記事の内容を考えたという推理はつじつまが合います(詳細は「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)」参照)。
*余傍の国のこだわり 史料を踏み付けた二次創作
ここで、無意味な現代地図を持ちだして「倭人伝」地理記事を二次創作していますが、折角の論証から脱線する運びの「すじ」は悪いと申し上げます。
目下の様子では、刮目天一氏は、司馬懿の威光を忖度して、現代版の「倭人伝」を創作しているように見えますが、氏の偉才の無駄遣いのように見えます。
1700年前までの古代の日本列島の地形はそれほど変わってはいないと思いますので、読者のご理解のために地図を載せただけなのですから、勝手な創作などしていません。二次創作というのは全く当たりませんよ。まさか、当時の日本列島は現代とは地形が異なり、南北に延びていたと思っているのではないしょうね?
当時の倭国について何ら情報のなかった魏の宮廷人が魏志倭人伝を読んで邪馬台国の場所を探索しているわけではないということに早くお気付きになって欲しいものです(;^ω^)
*丁寧な史料評価の勧め
「倭人伝」の記事を厳選された取り組みのために、「みずてん」ならずとも大事な記事まで否定されたのは勿体ないところです。折角の満漢全席ですから、卓袱台(ちゃぶだい)返しせず一皿一皿、叮嚀に評価してほしいものです。
*基本の基本 受け入れがたい真理
諸兄姉は、「倭人伝」道里行程記事を、正始郡使の調査報告と決め込んでいるようですが、曹魏帝国が大量、高貴な下賜物を送り出すためには、行程概要と所要日数の事前申請と承認/皇帝裁可が、当然、必須の大前提なのです。
違います。上で述べたとおり、「倭人伝」道里行程記事は倭国王難升米と帯方郡太守劉夏の談合により、司馬懿の裁可を得て決定された内容だと推理しているのです。ウィト国の地名を伊都国と書くことができるのは107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升、正しくは倭の面(回の俗字 囬の誤写)土国王師升の子孫の伊都国男王難升米しかいないのです(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。
曹魏帝国以下のおっしゃることは正しいと思います。女王のことも邪馬台国への行程記事も、上で述べたように景初三年(239年)六月に倭国王難升米が帯方郡太守劉夏と十分時間をかけて談合して、最終的に皇帝の補佐役だった司馬懿が決めたものだと推理しています(詳細は「【邪馬台国問題】景初二年か景初三年か?( `ー´)ノ」参照)。
倭国大乱の倭国に敵対する狗奴国の勢力で、玄界灘を支配するムナカタ族赤坂比古(和邇氏の祖)の娘の姫巫女市杵島姫が卑弥呼だと推理しています。宇佐神宮の真ん中の一番立派な二之御殿に祀られている比売大神なのですよ。倭国王が赤坂比古を懐柔したと推理しています(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)
したがって、卑弥呼は倭国を統治する女王ではないのですが、伊都国に倭国の王都があったのでは司馬懿にとって近すぎるので不都合なのです。帯方郡から万二千余里も離れた呉の東方海上に倭国女王が居たことにして、司馬懿のライバルの曹真の功績を上回るものにしたのです。そして、女王は人に会わないとしているのですから、上で述べたように、魏使は伊都国に到着して、卑弥呼の弟とした男王難升米に面会すればよかったのです。ただ、卑弥呼の死後にやって来た張政はいろいろと事件があったので、現地で卑弥呼の墓を見たと考えています。
最初に宇佐説を学説にされた富来隆先生は、魏志倭人伝の「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」を重要な根拠とされています。九州説でこれに合致するところは周防灘に面する場所に限られますので、伊都国や奴国あたりでは邪馬台国というには、この文章を無視するほかありません。無視する理由が合理的かどうか検討が必要です。
先生のように、訳の分からない理屈で、不都合な文章を無視するのはダメでしょう(;^ω^)
正史は、勝手に書き上げられるものではなく、天子が嘉納した文書の積み重ねの収録なので、先ずは、正始帯方郡使の派遣上奏の際の現地地理報告が先行して、後代の正始帯方郡使の調査報告などは、先行資料の抜け落ちを補完できても、既に公文書となった記事は一切上書きできないのです。よろしく、ご確認ください。
先行史料の王沈「魏書」に景初三年の劉夏と難升米の談合の後に倭国に訪れた魏使梯儁の報告書に書かれた邪馬台国への行程記事があったはずですので、上で述べたように、行程記事などは司馬懿が指示して自分の功績を曹魏第一等のものにするための潤色というかデタラメだったのです。それに気づいた陳寿は恐らく、自分で想像した場所に、先生のような後世の史家が行くように先行史料から文章を抜き出したのだと推理できるのです。
でも、その場所には卑弥呼の墓はないし、邪馬台国のその他の条件にも当てはまらないので陳寿の想像も間違っていたということなのです( ^)o(^ )
決め手となる大事な邪馬台国の条件「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」を合理的な理由なしに、勝手に無視したらダメですよ( `ー´)ノ
現在までのところ卑弥呼の墓の有力な候補は「三柱山古墳」だけですが、他に有力な候補が見つかった場合には、様々な比較検討が行われると思います。
#以上です。たいへんお疲れ様でした(#^.^#)
最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)