刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

発想の転換は「ちゃぶ台返し」ではないですヨ!(その2)

2024-09-30 00:01:41 | 古代史

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新・私の本棚 刮目天ブログ 邪馬台国への道?( ^)o(^ )  2/2

*良い歴史家 

それにしても、動揺する刮目天一氏の論考で、笵曄「後漢書」「倭条」(以下「倭条」)尊重で忘れた頃の「倭人伝」回帰は、読者の視点が激しく動揺するので、不満です。

拙論考に動揺されているのは先生ではないですか?今まで無視してきたヒントを持ち出すのは反則だから不満だとおっしゃるお気持ちはよく分かります。しかし、魏志倭人伝の記事から万人が納得できる邪馬台国の場所を決められないのが事実ですよ。范曄後漢書にはきちんと「自女王国 東度海千余里 至狗奴国」というヒントが書かれているのですから無視することはできませんよ。劉宋(南の宋)の范曄は、直接ではないと思いますが、倭の五王の使者から倭国の情報を入手した可能性が高いのです。そうでなければ、魏志倭人伝の文章をこのように書き換えることは不可能ですから分かります(^_-)-☆(2024.10.9 青字追加訂正)

 刮目天一氏は、径150㍍の古墓(直径約150mの日本最大の円墳)が卑弥呼の冢と最終結論されているようですが、今更ながら、御再考いただけないものでしょうか。ちなみに、「日本一の大墳墓」は、三世紀時点では、大変不穏当です。

刮目天は発見しただけで、自分で「三柱山古墳」を造ったのではないのですよ。不穏当とおっしゃるのが「日本一の大墳墓」ということなら、そうではなく、日本最大の円形墳墓ですよ。世界一の大墳墓は堺市百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵でしょう(#^.^#)

*東方の海 地理解釈の不思議
 卑弥呼の墓の東方の「海」として、「倭地」は「倭人」なる「大海」中の洲島で、末羅と伊都は同じ島でも、伊都の東西南方は、不明です。

当時の魏の人々は不明でしょうが、倭人や現代日本人には地理情報はありますから不明ではないですよ(^_-)-☆

「倭人伝」の道里行程は、郡を発し対海から伊都に「到」り、終点というのが「到」です。まことに簡潔適確であり、伊都以降と見える、奴、不弥、投馬は、満足な報告・連絡・相談がない余計者と明記されているのです。

伊都国が最初の魏使梯儁の目的地であったことは明らかです。卑弥呼は政治を男弟に任せているわけですから。というのも、後で述べますが、本当の倭国王難升米が、政治的な理由から、太陽神の神託を告げるムナカタ族の姫巫女を倭国を統治する邪馬台国の女王ということにしたということなのです。そのことは魏使梯儁は太守から伝えられて承知していたと推理しています。

 奴と不弥は、伊都と地続きでも、南の投馬は、陸地が途切れたと見え、倭人伝語「水行」で軽舟で対岸に渡るとしても、渡し船に二十日乗り続けるのは有り得ないので何もわからないのです。中国史料「倭人伝」のこの部分は無根拠と見える戸数を含め史料欠落で別扱いとされているので、後生東夷の勝手な書き込みは論外です。

よく分かりませんが、先生は当時の魏の人になったつもりで解釈すべきだとおっしゃるわけですかね?

しかし普通の現代日本人は、当時の倭人以上に日本列島の詳しい地理情報を持っていますが、それを使うのは反則なのですか?

でもなぜそのように言われるのか全く理解できませんよ(;^ω^) 

邪馬台国の本当の場所にはご興味はなくて、当時の倭国を知らない魏の人々が魏志倭人伝を読んで、どのように理解するかだけにご興味があるということなのでしょうか?本当の場所と魏の人が理解する場所が異なっているから問題が未だに解決されていないのですよ( ^)o(^ )

本当の場所というのは、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から推論して得られた場所のことと考えているわけです。真実は神の領域だと思いますので、推論でしかないのですが、科学的な根拠に基づいているわけですから、偏見のない万人が納得しやすいということなのです。

書かれた内容と異なる場合は事実に基づき判断するのが実証的で科学的なのです。不明なままにしておけということは科学的な探求を放棄するということなのですよ(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」参照)。

 以下、伊都城内部ないしは至近に「邪馬壹国」城があると明解です

後で述べますが、先生は陳寿に騙されたようですね(;^ω^)

 このあたりが、司馬懿の指示とすると何とつまらない「おっさん」(士誠小人 「孟子」)かと呆れます。帝詔で言う「中国」なる天下世界の中心から見ると、「倭人」は、天地果つるところ、萬里の彼方の蜃気楼であり、現地がどうなっていようと、正史夷蕃伝の隅っこであって、正史として何の意味もないのです。

魏志倭人伝こそが陳寿が書きたかった話だということは上で述べました。文書の目的を理解せずに文章を解釈しても、著者の真意から外れた、明後日の答えしか浮かばないということなのですよ!それが盲点だったわけです(*´Д`)

*「倭条」の凱歌 万二千里創唱の勲功
 「倭条」は、「大倭」王は「邪馬臺国」なる「城壁に囲まれた聚落」に居ると明記しますが、城の東方近傍に渡れる「海」があるとは言えません。前世の「倭条」に郡使到来はなく、郡使が到着する以前「倭地」の地理は不明です。

城壁ではなくて城柵があって兵士が厳重に警護していたとありますね。地理は不明?誰のこと言ってるのですか?

魏志倭人伝は「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」つまり、女王国の東は海と明記されており、千里ほど海を渡るとまた倭人が住んでいる国があると教えてくれているのですよ。もしも九州内に邪馬台国があったならば、周防灘に面した場所を言っているとしか考えられないですよ。魏の宮廷人ではなくて、現代日本人だから分かるのですよ( ^)o(^ )

先生はそれが反則だと言っているようですね!(@_@)

 「倭条」で、樂浪郡端は、大倭を去る万二千里です。当時は、宣王司馬懿の前世であり、劉宋での編纂時点では「悪辣な手口で天下を奪った果ての西晋が王族総出の内乱で滅んで中原を失い、逃亡先で再興の東晋も失地回復できずに滅んだ後に劉宋が興隆」していたのに、霞の彼方の罰当たりな司馬懿の面目を保とうとして「倭条」で過大な道里を創造したとは、怪談と思いませんか。

司馬懿にそんな未来のことが分かるはずないですよ。ただ魏の朝廷の権力をつかみたいので曹魏第一等の功労者になるためにいろいろと工作したと推理できるのです。公孫淵が司馬懿との戦いに敗れて命乞いしても、すべての廷臣まで斬首し、さらに遼東の15歳以上の男子七千人も虐殺して首をうず高く積み上げた「京観」を作って恐れられたのです。これは単に司馬懿が残虐な性格だというのではなく、倭国王や周辺の異民族への見せしめだったと推理できます。そのために、公孫氏に朝貢していた倭国王は司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏に朝貢を促されて、早速自ら郡に参上し、司馬懿のために行程記事の内容を考えたという推理はつじつまが合います(詳細は「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)」参照)。

*余傍の国のこだわり 史料を踏み付けた二次創作
 ここで、無意味な現代地図を持ちだして「倭人伝」地理記事を二次創作していますが、折角の論証から脱線する運びの「すじ」は悪いと申し上げます。
 目下の様子では、刮目天一氏は、司馬懿の威光を忖度して、現代版の「倭人伝」を創作しているように見えますが、氏の偉才の無駄遣いのように見えます。

1700年前までの古代の日本列島の地形はそれほど変わってはいないと思いますので、読者のご理解のために地図を載せただけなのですから、勝手な創作などしていません。二次創作というのは全く当たりませんよ。まさか、当時の日本列島は現代とは地形が異なり、南北に延びていたと思っているのではないしょうね?

当時の倭国について何ら情報のなかった魏の宮廷人が魏志倭人伝を読んで邪馬台国の場所を探索しているわけではないということに早くお気付きになって欲しいものです(;^ω^)

*丁寧な史料評価の勧め
 「倭人伝」の記事を厳選された取り組みのために、「みずてん」ならずとも大事な記事まで否定されたのは勿体ないところです。折角の満漢全席ですから、卓袱台(ちゃぶだい)返しせず一皿一皿、叮嚀に評価してほしいものです。

*基本の基本 受け入れがたい真理
 諸兄姉は、「倭人伝」道里行程記事を、正始郡使の調査報告と決め込んでいるようですが、曹魏帝国が大量、高貴な下賜物を送り出すためには、行程概要と所要日数の事前申請と承認/皇帝裁可が、当然、必須の大前提なのです。

違います。上で述べたとおり、「倭人伝」道里行程記事倭国王難升米と帯方郡太守劉夏の談合により、司馬懿の裁可を得て決定された内容だと推理しているのです。ウィト国の地名を伊都国と書くことができるのは107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升、正しくは倭の面(回の俗字 の誤写)土国王師升の子孫の伊都国男王難升米しかいないのです(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。

曹魏帝国以下おっしゃることは正しいと思います。女王のことも邪馬台国への行程記事も、上で述べたように景初三年(239年)六月に倭国王難升米が帯方郡太守劉夏と十分時間をかけて談合して、最終的に皇帝の補佐役だった司馬懿が決めたものだと推理しています(詳細は邪馬台国問題】景初二年か景初三年か?( `ー´)ノ」参照)。

倭国大乱の倭国に敵対する狗奴国の勢力で、玄界灘を支配するムナカタ族赤坂比古(和邇氏の祖)の娘の姫巫女市杵島姫が卑弥呼だと推理しています。宇佐神宮の真ん中の一番立派な二之御殿に祀られている比売大神なのですよ。倭国王が赤坂比古を懐柔したと推理しています(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)

したがって、卑弥呼は倭国を統治する女王ではないのですが、伊都国に倭国の王都があったのでは司馬懿にとって近すぎるので不都合なのです。帯方郡から万二千余里も離れた呉の東方海上に倭国女王が居たことにして、司馬懿のライバルの曹真の功績を上回るものにしたのです。そして、女王は人に会わないとしているのですから、上で述べたように、魏使は伊都国に到着して、卑弥呼の弟とした男王難升米に面会すればよかったのです。ただ、卑弥呼の死後にやって来た張政はいろいろと事件があったので、現地で卑弥呼の墓を見たと考えています。

最初に宇佐説を学説にされた富来隆先生は、魏志倭人伝の「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」を重要な根拠とされています。九州説でこれに合致するところは周防灘に面する場所に限られますので、伊都国や奴国あたりでは邪馬台国というには、この文章を無視するほかありません。無視する理由が合理的かどうか検討が必要です。

先生のように、訳の分からない理屈で、不都合な文章を無視するのはダメでしょう(;^ω^)

 正史は、勝手に書き上げられるものではなく、天子が嘉納した文書の積み重ねの収録なので、先ずは、正始帯方郡使の派遣上奏の際の現地地理報告が先行して、後代の正始帯方郡使の調査報告などは、先行資料の抜け落ちを補完できても、既に公文書となった記事は一切上書きできないのです。よろしく、ご確認ください。

先行史料の王沈「魏書」に景初三年の劉夏と難升米の談合の後に倭国に訪れた魏使梯儁の報告書に書かれた邪馬台国への行程記事があったはずですので、上で述べたように、行程記事などは司馬懿が指示して自分の功績を曹魏第一等のものにするための潤色というかデタラメだったのです。それに気づいた陳寿は恐らく、自分で想像した場所に、先生のような後世の史家が行くように先行史料から文章を抜き出したのだと推理できるのです。

でも、その場所には卑弥呼の墓はないし、邪馬台国のその他の条件にも当てはまらないので陳寿の想像も間違っていたということなのです( ^)o(^ )

決め手となる大事な邪馬台国の条件「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」を合理的な理由なしに、勝手に無視したらダメですよ( `ー´)ノ

現在までのところ卑弥呼の墓の有力な候補は「三柱山古墳」だけですが、他に有力な候補が見つかった場合には、様々な比較検討が行われると思います。

#以上です。たいへんお疲れ様でした(#^.^#)

最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

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発想の転換は「ちゃぶ台返し」ではないですヨ!(その1)

2024-09-29 14:37:39 | 古代史

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#いつも文献史学の立場から貴重なご意見を頂戴しているTOYOurDAy先生から拙ブログ「邪馬台国への道?( ^)o(^ )」にまたご意見いただきましたので、お返事いたします。ちょっと長いですが、よろしければお付き合いください(#^.^#)

 

新・私の本棚 刮目天ブログ 邪馬台国への道?( ^)o(^ )  1/2

*揺れる依拠史料

 「西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれた」とは、当時の出来事を知らないでのことと思います。既に叮嚀に「教育的指導」を出しているので、ここでは「ズル」させていただきます。

折角の「教育的指導」も理解できないことは直ぐに忘れてしまいがちですが、先生も拙論がご理解いただけなかったようで普通の「落第生」という訳の分からない感想を述べておられるようで、お気の毒です。だから、もう一度簡単に概略を述べますので、今度はしっかりと覚えておいてくださいネ!( ^)o(^ )

倭人伝の「行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けない」と勿体ない早とちりの結果、べたべたの「倭人伝」不信論、改竄主義では、史学の正道を外れるので、そっぽを向かれ痛々しいのです。

それはおっしゃるとおりでしょう。史学は文献が正しく書かれていることが前提ですから、改ざんされているなどと言われても困る気持ちはよく分かります。しかし、史実が改ざんされることはよくある話なのですよ。特に権力者が書かせた正史は、普通、その権力の正統性を主張するのが目的なので、都合の悪い話は隠すか、日本書紀のように神話まで創作して隠した上で、人代の歴史も改ざんしていることが、考古学や民俗学などの成果から分かったのです。シナの古代史の場合、三国志も同時代史なので史実が改ざんされている可能性があるのです(詳細は「文献内容は真実とは限らない?( ^)o(^ )!」参照)。

ちゃぶ台返し」に聞こえて不愉快な気持ちは分かりますが、こじれた邪馬台国問題の解決には根底から発想の転換が必要なのですよ。

いかなる文書も目的があって執筆・編纂されるというのはご理解できますよね(#^.^#)

西晋の史官陳寿は立派な学者なので、後世の史学者のために真実を書き残したという性善説に立ったご理解は、恐らく世界でも日本くらいではないでしょうか?マッカーサーが日本人は12歳の少年のようなものと言ったことと、ある意味通じるのかも知れませんね。

ここまで丁寧にご説明差し上げても「魏志倭人伝の中の邪馬台国への行程記事を正しく解釈すれば、万人が納得する邪馬台国に到達できる」と頑固に考えておられるようでとても残念です(;´Д`)。

しかし、「早とちり」とおっしゃられても、江戸時代の新井白石から三百年以上経過した現代でもどこにあったのか、九州説と畿内説に分かれて論争は続いていて決着していませんよ。もうそろそろ、頑迷固陋の史学者から脱して、魏志倭人伝の真の目的について気づいて科学的な解決法を考えないといけませんね。生意気なことを申し上げて恐縮ではありますが(;^ω^)

釈迦に説法ですが、三国志編纂当時の状況について一応ご説明させてください。

陳寿は元は蜀の官吏だったのですが、蜀が滅ぼされて、当時の西晋の朝廷の実力者張華が陳寿の才能を認め、その引き立てで陳寿は著作郎という役職に就いたのです。それ故陳寿は、張華の顔を立てるために三国志を編纂し、創業者司馬懿の功績を上品に持ち上げるのが任務だったと推測できます。特に魏のライバルの呉が健在だったその当時の戦略上最重要だった東夷の大国の倭国を魏に朝貢させた司馬懿は、その功績によって西晋の成立の基礎を作るための大きな権力を手に入れた訳ですから、西晋の宮廷人たちは三国志の中の特に倭人を手なずけた司馬懿の英雄譚に拍手喝采したことは容易に想像できます。陳寿の死後に張華が三国志を公認するように働きかけて勅令を持って正史の資格が与えられたとあります(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994,P.70)。

勿論、すでに宮廷書庫にある公文書を抜き出して、その目的に合うように編さんするのが著作郎の仕事なので、陳寿がその公文書を書き換えることなどはしないと思われます。しかし、陳寿が必要と思われる内容だけ取捨選択しているのは確かです(例えば、先行史料「魏略」にあった「倭人は太伯の後」は目的に合わないので割愛している)。司馬懿のライバルだった曹真の功績である親魏大月氏王の朝貢のことを記すべき西域伝を三国志に載せるのは政治的に憚れたからだと推理できます。洛陽から万六千三百七十里にある大月氏国よりも遠いとして書かれた倭国について、もしも真実が書かれていたら司馬懿よりも曹真の功績の方が上だったことが魏の宮廷の人々にバレるからです。洛陽から楽浪郡まで五千余里なので邪馬台国まで万七千余里とした理由なのです。より遠く離れた東夷の大国が皇帝の徳を慕って朝貢させたのは司馬懿の最大の功績ということになるのです。史書を解釈するには、文書に書かれていない背景を理解しないとダメな好い例ですね(^_-)-☆

 

*二つの異議「径百余歩」との確認

 折角なので、足を止めて、叮嚀に説き起こすことにします。「径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)」「東側が海に面している」などの条件との提言ですが、氏の「大日本邪馬臺国」観で、解釈がズレているので、異議を唱えなければならないのです。

「大日本邪馬臺国」観って何ですか?意味不明です(;^ω^)

*「径百余歩」の確認 「平方里」、「平方歩」の正解
 「径百余歩の冢」自体は「倭人伝」記事のとおりですが、直径150メートルとする「思い込み」は、残念ながら誠実な研究者が陥りがちな陥穽です。
 原因は、中国史書を、歴史的な「常識」に立って科学的に解釈するのを怠り、現代東夷の「常識」で解釈する誤謬です。いえいえ、それは、世上に溢れる「邪馬臺国」論者が、ほぼ例外なしに墜ちる/既に墜ちて井蛙になっている「泥沼」であり、氏を個人攻撃しているのではないのです。

*中国の常識「九章算術」 古代の「必読書」
 「九章算術」なる幾何「教科書」に従うと、これは、円形用地の表現であり、数に強い陳寿の「方百歩内接円」書法と見れば、「方百歩」面積は百「平方歩」十歩(15㍍程度)角であり、内接円は直径十歩です。

 専門書「九章算術」は、「歩」、「里」を土地寸法や道里の単位と土地の「面積」単位とに共用しても読者は判別しますが、史書では「方百歩」、「方四千里」等と表記を変え、合計計算に巻きこまれるのを避けています。

いろいろとお教えくださり有難うございます。しかし卑弥呼の墓には「方百歩」とは書かれておらず、「径百餘歩」、つまり直径が百余歩とあるのですから、おっしゃるとおり、1歩=約1・5mですから、直径約150mの円形墳墓で間違いないと思います。そして、何より、それに相当する卑弥呼のものと思われる円墳「三柱山古墳」を発見したのです。直径10m程度の円形墳墓ではなく、15倍ものサイズの円形墳墓はやたらあるわけではないですよ。(#^.^#)。

*大いに冢を作る
 女王埋葬で採用されている「冢」は、「倭人伝」既出の在来工法で、近隣の通い程度の軽微さです。ただし、「大いに」としたのは、「大人」葬礼と格違いと示したのであり、参列者(徇葬者)百人です。

 準備のない急拵えなのは当然ですが、「盛大に封土した上で葺き石を延々と野越え山越え手渡しで大動員搬送する大墳丘墓」と無縁です。

急造の円墳と考えたのは、魏志倭人伝に正始八年(247年)帯方郡の新任の太守に卑弥呼が使者を送ったとあり、その年の記事に二人目の魏使張政が来た時には卑弥呼はすでに死んでいたとあるからです。何年もかかる古墳時代の段築工法ではなく、単に土を盛り上げただけのものなのです。

円墳と呼ぶか、円形墳丘墓と呼ぶかは丁度、弥生時代終末期と古墳時代初頭の境の時期なのでどちらでも構わないと思います。弥生墳丘墓は普通、自然地形を利用するもので、平地に土を運んだものが古墳と呼ばれているようです。

卑弥呼の墓の有力な候補と考える直径約150mの「三柱山古墳」は急作りで葺石もない、周囲の土を運んで20mほど盛り上げて、墳頂部に箱式石棺を埋めたものだと思われます。周囲の地形図を見ると自然地形を利用していた可能性は高いですから円形墳丘墓というのが正しい表現かも知れませんね。

このサイズの円形墳丘墓あるいは円墳は今のところ日本最大です。卑弥呼の父の赤坂比古の墓が宮ノ原遺跡の北側の「奥城古墳」ですが直径120m高さ約13mの円墳です。卑弥呼より先に亡くなった正始四年の正使伊聲耆(イセギ)と推理しています。現在ブドウ園の展望台になっています(詳細は「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」参照)。

「奥城古墳」も「三柱山古墳」も安心院家族旅行村建設の工事中に偶然発見されたようで、副葬品などはよく分かりませんが、「三柱山古墳」の墳頂部近くに石棺の蓋のような石板がありました。石棺の石材は古墳の南側に第8石棺として置かれているようです(詳細は「卑弥呼の墓は今?」参照)。

「三柱山古墳」が卑弥呼の墓の有力な候補であることは、倭国大乱の痕跡や卑弥呼に関わる遺構、遺物や地名が残っていたから推理しているのです(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」・「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。

先生は伊都国の近傍に邪馬台国があったと主張されているようですが、墓はどこですか?

もしも大型の鏡など多数の副葬品が見られた平原王墓が卑弥呼の墓だとお考えでしたら、大きな間違いです。

あの墓は卑弥呼の後の女王台与のものだと推理しています。底に水銀朱が敷き詰められている割竹形木棺ですから、古墳時代初頭の卑弥呼の死の少し後(270年頃)の墓です。東南に向けられた被葬者の股に日向峠から昇る朝日が当たることを原田大六氏が発見し、女神アマテラスの墓と主張されましたが、女神アマテラスは日本書紀で創作された神ですし、股に太陽の光が差すということは太陽神の妻の意味なのです。応神天皇を産んだ神功皇后とされた大国主の妻の台与なのです。箸墓古墳で改葬されていますが、大国主の妻ヤマトトビモモソヒメという伝承です(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆」参照)。(2024.9.30 青字訂正 ひもろぎ逍遥「平原遺跡(1) 伊都国の日の巫女(みこ)が眠る墓」2010年 11月 25日より)

(つづく)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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仲哀天皇の謎?( ^)o(^ )

2024-09-28 11:58:56 | 古代史

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【幻の古事記英雄伝説】日本武尊から神功皇后をつなぐ仲哀天皇|「天の下治らしめしき」は神聖な表現 地図をなぞって日本古代史を考える@YouTube

いい話題をありがとうございます。仲哀天皇の謎を解くと三世紀後半の日本建国の話が分かってきますよ(^_-)-☆
仲哀天皇は大神の神託を信じないために崩御して、その後に神功皇后と武内宿禰が活躍し、応神天皇の即位に導きます。日本書紀のこの話を関裕二さんは卑弥呼の死後に内乱があって、その勝者が宗女台与を卑弥呼の後の女王に立てた話だと推理しました。

応神天皇は、日本書紀では仲哀天皇と神功皇后の皇子としていますが、仲哀天皇は景行天皇六〇年の翌年に即位した成務天皇の四八年に31歳で立太子とあり、父の日本武尊は景行天皇四〇年薨去ですから、仲哀天皇は父が死んで38年後に生まれた計算になります。杜撰な作り話ですから応神天皇の本当の父で内戦の勝利者で列島の大半を傘下とした大国主命を隠すための架空の天皇の話だとわかりました。
つづきがありますが、長くなったので後でブログにします。よろしければご参照ください。失礼しました。(#^.^#)

仲哀天皇は纏向遺跡を王都とする狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)と同じ、吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王(日本書紀は吉備津彦として隠した)の子孫の尾張王乎止与命(オトヨノミコト)と突き止めました。三世紀前半の纏向遺跡の外来土器を調べると東海の土器が半数近くになりますから、狗奴国王の親族で実力者だと分かりました。その乎止与命が倭国遠征軍の大将となり北部九州に押し寄せた話が仲哀天皇の熊襲征伐の話なのです。

日本書紀で住吉大神に仲哀天皇が殺された話ですが、山陰や丹後半島を根拠地とする縄文海人ムナカタ族を束ねた王久久遅彦(豊岡市久久比神社の祭神で上棟式の木の霊ですからイタケルの子孫、魏志倭人伝の狗古智卑狗、先代は倭国大乱の英雄で倭国王難升米に菊池川の集落で討たれた日高彦で大国主の父)が住吉大神です。狗奴国軍の副将として参加して、倭国王に立った乎止与命と内戦になり、殺した史実だと推理しました(^_-)-☆。

日本武尊も本当の建国の英雄を隠すために登場させたた架空の人物なのです。父乎止与命の敵討ちで尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)が大国主命を討った話が景行天皇の九州遠征の話としています。大国主は高良山で討たれて祇園山古墳に葬られたと推理しています。そして九州を崇神天皇の一族の物部勢に支配を任せて纏向遺跡に凱旋しました。建稲種命は直ぐに東海道遠征を命じられて、途中で、日本武尊と同様に戦死しました。沼津市高尾山古墳に葬られたと推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。その後、日本武尊の遠征の話は後を継いだ尾張王尻綱根命らのものでしょう。丹後半島や出雲や能登半島・上越にも遠征しています。この話は崇神天皇紀の四道将軍の話とも重なることが考古学の成果から判明しました。

三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、景行天皇の九州遠征ルート、日本武尊の遠征ルートそして四道将軍のルートに沿って矢戦の痕跡が見つかりました。日本書紀の崇神天皇四道将軍から景行天皇までの約二百年の話に引き延ばして史実を隠したことが判明しました。詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。(#^.^#)

【関連記事】

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)

国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!

大国主に国譲りさせたのが鹿島神宮祭神タケミカズチですが、史実は大国主を討って日本を統一した建国の英雄建稲種命です。父乎止与命(おとよのみこと)は、国生み神話に火の神カグツチとして登場させています。イザナミが生んだために死んだので、怒ったイザナギに斬り殺されて多数の神が生まれる話になっています。タケミカズチはカグツチの子という話から分かりました。カグツチは秋葉神社の祭神です。愛知県やその近県に多数ありますよ(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)



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本来、中国(なかつくに)は日本の古称だぞ!( `ー´)ノ

2024-09-27 20:42:08 | 古代史

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#今日はいろんなことがあった一日でした。

スーパースター大谷翔平選手の大活躍でドジャースを地区優勝に導いた記念すべき日でした。NリーグのMVPは間違いないところですね。まだ先のワールドシリーズ優勝目指して期待が膨らむ興奮の日でした。

一方、日本の運命を決めるような重要な自民党の総裁選が行われて、党員票で圧倒的に勝利する高市早苗総理を期待しました。

1回目の開票結果は1位になったのですが、決選投票でガーン! 現在の激動の世界で日本国民の安全を護りきる、しっかりとしたリーダーが出てこないと、あの国がまた蘇って、日本国民だけでなく人類が地獄を見ることになるのではないか?(;´Д`)

この先の不安で、とても暗い気持ちになっていたところ、ブログ仲間の記事が勇気を与えてくれました(^_-)-☆

早速コメントさせていただきました。よろしければお付き合いください(#^.^#)


中華人民共和国を中国と言っては、いけない理由です。
yoshikazu blog 2024-09-27 08:43:00

私が中華人民共和国を中国と言わないで支那や中華人民共和国と言っている理由は、中国の意味に関係しているんです。

#つづきは是非、ブログの本文をお読みください。

いい話題を有難うございます(#^.^#)
中共さんを中国と呼ぶのは絶対におかしいですよね( `ー´)ノ
覇権主義のマフィア国家ですから”世界の中心になれる徳”のない、易姓革命が必ず起きる一過性の王朝です。最近の天変地異を見ていると、もう王朝交代の季節ですよ(;´Д`)

ご存じのとおり、中国の本当の意味は「なかつく」=「ナーガ(龍蛇神)のくに」だということにほとんどの方が気づいていませんね。

龍蛇神は長江文明の天皇(スメラミコト)のことですからね!
中国(なかつくに)三皇五帝神話の筆頭の天皇伏羲が人類の始祖神ですけど、その末裔が日本の天皇陛下だったのですからね(^_-)-☆

【関連記事】

シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由

yoshikazu blogの中で、とても参考になる記事を紹介していただきました(#^.^#)

【刮目天の古代史】天皇の称号の起源?(^_-)-☆

弥生時代後期(二世紀前半)に、ニギハヤヒ大王が吉備を平定し、三世紀に成立したヤマト王権の基礎を作りました。八世紀に作られた日本書紀は吉備津彦として隠しましたが、奈良時代に八幡大神(大国主)・八幡比売神(卑弥呼)そして平安時代に伊弉諾尊だけにしか贈られていない品位という特別な神階を備中吉備津神社の祭神吉備津彦に贈っていることから、その正体が人類の始祖神である天皇伏羲の末裔ニギハヤヒ大王だったことがバレてしまいました。下の図はその物証のひとつです(^_-)-☆

中国の本家は日本だった?!

吉備や出雲は日本建国で活躍した奴(龍蛇神)国王の子孫ニギハヤヒ大王らが活躍した地域だったので中国(なかつくに)と呼ばれたのですよ(^_-)-☆

中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)

日本書紀で創作された日本神話は、藤原氏が権力を握りつづけるために八世紀に創作された神話だったのですよ。古来から伝承されていた本当の神話は中世日本紀に見られた中国(なかつくに、龍邪神国)神話だったのです(^_-)-☆

最後まで読んでいただき、感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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邪馬台国への道?( ^)o(^ )

2024-09-26 19:24:26 | 古代史

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いい解説をありがとうございます。


呼子が上陸地点だと、糸島方面へはそのまま船で行くのが合理的です。魏の船は威厳を保つために大型船が考えられます。長期に停泊するので博多湾に向かうはずです。そうすると陸行の記述と合いませんので、大型船の長期停泊可能な伊万里湾に入ったと考えられます。そこから陸路で唐津方面に出て、おっしゃるように背振山系の南から山越えして伊都国三雲遺跡に向ったと考えると、三雲遺跡から奴国まで東南百里とすれば伊万里から五百里という表現は比率的にあっています。

でも方角は伊万里からやはり北東です。90度狂っています。方角がなぜ狂っているのかは明らかです。

帯方郡から東南万二千里に女王の都の邪馬台国があって、魏のライバルの呉を東海上から圧迫する戦略上重要な位置にある戸数15万戸以上の大国としたいから東を南にするためなのですね。

後に、伊万里を起点に西側を北松浦半島、呼子側を東松浦半島と呼ぶようになっているので、白村江の敗戦ころに敵の地理感覚を混乱させるために魏志倭人伝に習って地名をつけたと推理しています。長崎県や佐賀県、大分県、山口県(北浦海岸)までそういう間違った方角の地名が散見されますね(^_-)-☆

魏志倭人伝は西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれたものだと推理できますから、距離や戸数もかなり過大に書かれていると思います。不弥国から里数ではなく日数表記したのは得意の十倍水増しだと推理しています。ですから行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けないです。

ですから、邪馬台国の場所は考古学や民俗学成果から推理する以外にないのですが、決め手は径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)と東側が海に面しているなどの条件ですね(^_-)-☆

邪馬台国の場所も卑弥呼の巨大円墳や卑弥呼に関わる遺跡・遺物や地名から特定していますが、詳しくは「刮目天の古代史 卑弥呼の墓は見つかってるよ!」や考古学・民俗学的根拠を示した「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)

考古学や民俗学の成果から卑弥呼の宮室は宗像三女神の降臨地の伝承がある安心院町三女神社と分かったので、逆に、どのようなトリックをしたのかを推理したのが以下の図です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった?」「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。

【参考記事】

北浦海岸の名前の謎、判明 2015-02-08 09:34:45 日本の歴史と日本人のルーツ

混一彊理歴代国都之図 2015-02-08 09:38:32 日本の歴史と日本人のルーツ

 

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