刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆

2020-12-08 16:15:07 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

本記事は2017-11-15 15:52:48にアップした「半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆」より一部改訂して掲載したものです。

最近は遺伝子による日本人のルーツ探しが活発になり、母系のルーツでは以前からミトコンドリアDNA解析が行われ、父系についてはY染色体DNA解析が行われています。そして核DNAに対するゲノムワイドな解析が行えるようになり、新たな段階になったのですが、現在のところまだサンプルが少ない問題があるようなので、その成果から全て解明されるまでには至っていません。
 古代史研究においては、民族は気候変動の影響などで移動し、民族間の抗争もあり、父系のルーツをY染色体DNAで調べるのは有効です。すでにいろいろな書物に掲載されるようになっていますが、毎年見直される遺伝子系譜学国際協会ISOGGの表記をそのまま使っているので、混乱が生じます。そこで、Wiki「日本人」に記載されたY染色体DNA分析の結果について、脳科学者中田力氏の「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書943に刮目天が加えた以下の考察に基づき、東アジアの民族の父系ルーツを推定しました。こうすることにより、民族のルーツがより明確になります。その結果を図に示します。


(左クリックで拡大)


【縄文人系(D1a2a=旧D1b=D-M55)】

本土日本人男性の約40%に見られ、アイヌの80%、沖縄で60%と高頻度を占める。中央アジアから日本列島に到達したハプロタイプD1の中から3.8-3.7万年前に誕生したと考えられている。「最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期のうちに起こった。・・・・温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。・・・・旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。・・・・旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。」

このハプロタイプを持つ人々が約1.5万年前から約2,300年前(紀元前4世紀)まで日本列島固有の縄文文化を作った。
Wiki「ハプログループD」より)

C型縄文人系(C1a1=C-M8)
日本列島固有のハプログループであり(済州島に一体見つかっている)、「崎谷満はC1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとしている[7]。その渡来年代は定かでないが、現存系統の拡散開始は約12,000年前であり、縄文時代の開始とほぼ一致している。すなわちハプログループC1a1は日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。」とある。

Wiki「ハプログループC」より)

北方アジア人系(C2=C-M93)
約5万年前に中央アジアまたはシベリアまたは東アジア北部(アルタイ山脈〜モンゴル高原付近)で発生したと推定され、北東アジア、中央アジア(カザフスタン)、北アメリカ北西部におけるアルタイ系民族(チュルク系民族、モンゴル系民族、ツングース系民族)やナデネ系民族に高頻度。
(注)モンゴロイドの南方起源説によると広大なスンダランドはモンゴロイドの故郷とする説がある。(2019.2.23 赤字追加)

遼河人系(N1)
2万年前から2.5万年前に東アジアでハプロタイプNOから分かれたと推定されるNは、ユーラシア北部、シベリア、北欧まで広く分布している。さらにNから分かれて、8,200年前ころに遼河文明を開いたN1の一部が日本列島に進出し、三内丸山遺跡との関連も言われている。図中の日本民族においてN は0.8%であり、その中の何%がN1かは分からないが、図ではNを遼河人系とした。

原始夏人系(O1a、旧O1)
約3万年前に中国南部でハプロタイプNOから分かれたと推定され、このハプロタイプの人々が長江下流のデルタ地帯において紀元前3500年ころから紀元前2200年ころの良渚遺跡にみられる長江文明を築いたと、中田さんは推理している。さらに中田さんは、高度な文明を築いた人々が一夜のうちに消え去った痕跡があり、大洪水に見舞われたと考え、北上した良渚文化のこの集団が3,900年前(紀元前1,900年)ころに黄河中流域で興した、シナ大陸最初の国家が夏王朝であるとの説が有力としている。この人たちは、海を渡って台湾に移住した集団が先住民の約90%を占めるが、さらに台湾を拠点として、フィリピン、インド洋から太平洋の広い地域に及ぶオーストロネシア語族へと広がり、マダガスカルにまで到達する船の民と見ている。

越人系(O-M95、旧O2a)
「現存の全てのO-M95の最も近い共通祖先は約10,800年前にさかのぼると推定されていてかなり古いが、現在からおおよそ6,000年前~5,000年前(即ち紀元前4千年紀)の間に多くのサブクレードを生み出していると見られるため、その頃に中国のある地方から東南アジアへ分布を広げたのかも知れない[1]。この分布拡大は稲作の拡散[12]年代と一致しており、稲作を携えたO-M95に属すオーストロアジア人が中国南部から東南アジア、南アジアへ移住していった歴史が推定される。」とあり、O1b1から分かれたグループである。

さらに、紀元前600年頃 - 紀元前334年に存在したは、「春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。」このハプロタイプO-M95の人々が「広東から南にかけて展開し、東南アジアの稲作民の祖となったが、呉城文化以前の対応する新石器時代の遺跡ははっきりしていない。」と中田さんは述べているが、その末裔が越を作ったと考えている。弥生文化や日本語と強い関係が知られるインド南東部タミル地方インド洋沿岸部に約20%程度存在することが下図から分かる。(2020.5.30 青字追加)
GaneshPrasad Arunkumar et.al. " A late Neolithic expansion of Y chromosomal
haplogroup O2a1-M95 from east to west " 2015 Institute of Botany, Chinese Academy of Sciences
より)

O1b2系統[殷(商)人系(旧O2b*)は倭人系O-47z(旧O2b1)を除いたグループ]
28,500年前にシナ大陸で発生したと推定されるハプロタイプO1b2から、さらに12,100年前
に分かれて、日本列島と朝鮮半島に高い頻度で見られるが現在、大陸には存在しない。中田さんによれば「O1b2の拠点は、現在の江蘇省北部から山東省にかけてと考えられ、大汶口文化、山東龍山文化の担い手であった可能性が極めて高い。このグループは日本の成立と深い関係にある」と述べている。また山東龍山文化の担い手が3,600年前頃に夏王朝を滅ぼし、殷(商)王朝を打ち立て、黄河の中・下流域を支配した。」とある。その時、夏王朝の集団は故地長江下流域に戻り、越人の先祖となるO-M95の中に溶け込んだので、越は夏王朝の後を継ぐという考え方がある。越の支配層が原始夏人系O1aであり、被支配民が越人系O-M95であったと推定している。

またこの殷(商)を建てた集団から分離したサブクレードO-47zの集団が約1万年前ころに長江流域(湖南省周辺地域)で水田稲作を始めた人々であると言われる。その後裔で、水田稲作をしながら漁労も行う海洋民族である江南の呉人が、後に日本列島(当初は北部九州の玄界灘沿岸部)や朝鮮半島南部に居住地を移して倭人と呼ばれたと考えられる。

夏王朝の王族は姫氏(O1a)であるが、その一族が後に殷周革命によって周王朝を建て、「商(殷)の祭祀を天皇の祭祀とする、日本という国家成立の序曲であった。」と中田さんは述べている。周の先王「古公亶父」の末子季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、「わが家を興すのは昌であろうか」という父の意を量った長男太伯とその弟虞仲が、季歴に後を継がせるため荊蛮の地(長江下流域)へと自ら出奔し、そこで呉を興した。従って呉王族のハプロタイプは原始夏人系O1aで、被支配民がO-47zの集団だった。倭人が太伯の後(太伯には子がなかったので、虞仲の末裔)と『魏略』逸文(『翰苑』巻30)や『梁書』東夷伝に記されているが、倭人の支配層である呉王族のことである。

刮目天は、紀元前473年に越によって滅ぼされた呉の王族が半島南部を経由して福岡県早良平野に集落(吉武高木遺跡)を築き、最盛期(紀元後1世紀)には筑紫平野まで直接支配下に置いた奴国の系統だと考えている。初代王が天御中主(あめのみなかぬし)として『古事記』や『宋史』「王年代紀」に記載され、記憶されていると考えている。この仮説が正しければ、万世一系の天皇家は、現代日本人男性の3.4%を占める原始夏人系O1aのハプロタイプである可能性があります。しかし、武家社会を築いた平氏や源氏は天皇の子孫ですので、現代日本人男性の3.4%しかいない原始夏人系O1aではなく、紀元前二千年ごろに始まる夏王朝から四千年もの長い時間経過の中で、現代日本人の約25%の倭人のもの(Oー47z)に変わっている可能性が高いと思います。

しかし、現在の皇室の男子は龍蛇神ナーガを信奉する呉王族だった天御中主の血筋であることは、それまでの祖霊信仰から、二世紀中ごろからの古墳時代前夜で、男系男子の王位継承を伴う米神(首長霊)信仰に発展しているので分かります(「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。米神信仰というのは偉大な父祖の霊を引き継いで首長となって偉業をなすことができるという血統信仰です。米神(首長霊)を身に着けるための儀式を行い、父王と同様に臣下を服属させる儀礼を大々的に行うために、古墳が造成されたと考えています。三世紀末ころから列島各地で盛行した前方後円墳の形式は、主としてヤマト王権に臣下として服属する証として中央に示すためだと考えています。
(2022.10.22 赤字修正・追加)


一方、殷周革命によって殷(商)が滅ぼされたが、すでに紀元前1,126年に殷(商)の王族箕子が民を連れて朝鮮で最初の国を興した。紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が、箕子朝鮮を滅ぼして衛氏朝鮮を興した。『後漢書』には朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。前二世紀末、前漢の武帝の遠征で王家は滅亡した模様。王家・臣民の末裔が現在の朝鮮民族の1/3を占める殷(商)人系である。(2022.6.7 赤字追加)

シナ人系(O2、旧O3)
3万から3.5万年前にシナ大陸においてハプロタイプOより分かれ、現在のシナ大陸と朝鮮半島に多数を占める。日本にも約16%見られ(Nonaka et al. 2007)、特に九州では26%と多い(Hammer et al. 2006)。中田さんによれば、「長江中・上流域に留まり大渓文化を開いたグループと、北上して黄河中・上流域に移動し、仰韶文化馬家窯文化などを開いたグループがあることが知られている。」とある。後者が黄河文明で、仰韶文化は黄河中流全域に存在した新石器時代の文化、馬家窯文化は黄河最上流部の甘肅省や青海省に存在した新石器時代後期の文化です。



ハプログループO (Y染色体)より作成(図を一部改変)

【参考記事1】
半島の古代史だ(漢四郡まで)

【参考記事2】
半島はシナの一部だった(^◇^)

【参考記事3】
日本人の起源を探る 3~スンダランド海洋航海民の誕生(2019.2.24 追加)


それぞれのルーツとなる人種の名称については議論があるかも知れませんので、ご異論や疑問などがありましたらコメントをお願いします( ^)o(^ )
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング