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【わかった!】アメノタリシヒコの正体!(^_-)-☆

2024-08-04 23:18:06 | 古代史
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本題に関連して、すでに「隋書にある倭王の謎?」に記事にしました。開皇二十年(600年)に倭国王アメノタリシヒコが隋の高祖文帝(楊堅)に倭国の政治理念を「俀王以天為兄以日為弟(天は倭王の兄、日は倭王の弟)」と述べ、さらに「天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟(天が未だ明けざる時に出でて政(まつりごと)を聴き、跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務(政務)を停め、我が弟に委ねむと云ふ)」と説明した一見不可解な話ですが、結論は以下のとおりでした(塚田敬章「隋書俀(倭)国伝」より引用)。

実は、このことは倭国の史実に基づく倭王の政治理念ではないかと考えられます。107年に後漢に朝貢した奴国宮廷楽師帥升(正しくは師升、詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)らに奴国王スサノヲが殺され四百年以上続いた筑紫の奴国が滅ぼされました。奴国を脱出した弟ニギハヤヒが、師升の倭国とも変わらず、交易によって潤っていた裏切り者の吉備の在地勢力を倒し、奴国を再興しました。そして兄神スサノヲの霊力によって弟のニギハヤヒ大王の子孫である倭王(大王、オオキミ)が師升の子孫を倒し、大和(大倭)で政権を打ち立てました。纏向遺跡の旧奴国は魏志倭人伝では狗奴国とされました。

隋書では高祖文帝(楊堅)が崩御した後の煬帝の大業三年(607年)にアメノタリシヒコは「日出處天子致書日没處天子無恙云云日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや、云々。)」という有名な手紙を送っています。日本書紀から推古天皇(在位:593-628年)の皇太子の聖徳太子だとされています。聖徳太子の父用明天皇(生年不詳 、 崩御:587年5月21日?)は即位元年(585年?)春一月一日の記事に、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后としたとあります。そして、四人の皇子を産んだとあり、
一番目を厩戸皇子(うまやどのみこ)という。
またの名を豊耳聡聖徳(とよとみみしょうとく)という。
あるいは豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)という。
あるいは法主王(のりのうしのおおきみ)という。
この皇子は初め上宮(かみつみや)にお住みになった。
のちに斑鳩(いかるが)に移られた。
推古天皇の御世に皇太子となられた。
すべての政務を統括して、天皇の代理をされた。
そのことは推古天皇紀にある。
(「日本書紀・日本語訳「第二十一巻 用明天皇 崇峻天皇」より)
とありますから、聖徳太子は推古天皇の皇太子だが、政務を統括し、天皇の代理の実質的な大王(おおきみ)なので、隋書(656年完成)を読んでいるはずの日本書紀の編纂者は倭国大王アメノタリシヒコは聖徳太子のことだという布石をしたようです。

しかし、推古天皇は、日本書紀で天武天皇皇后だったとする鵜野讃良(持統天皇)が即位する前例として創作した最初の女帝ですので、架空の天皇と突き止めています。ですから、上の文章も虚偽と考えています。そうすると、隋と交流した倭国王アメノタリシヒコはいったい誰なのか?ということなのです。

聖徳太子の正体については、すでに「天智天皇とは何者だ?( その1 )」で、万葉集研究家渡辺康則氏の蘇我蝦夷が聖徳太子で蘇我馬子とされた用明天皇の後に即位した豊浦天皇だという説を紹介しています。

もしも、聖徳太子とされた豊浦天皇が開皇二十年(600年)のアメノタリシヒコだとするとスサノヲ・大国主の子孫の本当のヤマトの大王ですので、「天を兄、日を弟」と言うはずはありません。ということは、ニギハヤヒ大王の子孫と推理した敏達天皇が年代的に、アメノタリシヒコの可能性があります。敏達天皇は日本書紀では、生年538年?〈宣化天皇3年?〉、即位が572年4月30日<37歳>?で崩御が585年9月14日<47歳>?とこれも確実ではないようです。もしも、敏達天皇が開皇二十年(600年)まで生きていても、63歳ですからおかしくはないと思います。つまり開皇二十年(600年)に隋の高祖文帝に使者を送ったアメノタリシヒコは、ニギハヤヒ系大王(龍蛇神国の大王)敏達天皇だったと考えられます。

隋書の開皇二十年(600年)のつづきの記事に、「王の妻は雞彌と号す。後宮は女、六、七百人有り。太子を名づけて利歌彌多弗利と為す。城郭無し。内官は十二等あり。一は大徳と曰ふ。次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信。員は定数無し。軍尼一百二十人有り。なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如くなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。」(塚田敬章「隋書倭国伝」訳より)とあるので、聖徳太子の官位十二階は中央集権化したヤマトの大王(雄略天皇か、その後の用明天皇以前のスサノヲ系大王)によってすでに制定されていたと考えられます。ですから、これが本当だとしたら十七条憲法も同様だと思います。

また、アメノタリシヒコの大業三年(607年)の手紙で、自分自身も隋の皇帝も共に天子としたので煬帝を怒らせていますが、上述のとおり、天は兄スサノヲ大王のことなので、天子はスサノヲの子孫という意味なのです。

そうすると、開皇二十年(600年)のアメノタリシヒコと大業三年(607年)のアメノタリシヒコは同じ名前ですが、違う人物でないとつじつまが合いません。つまり、600年から607年の間に政変があって、ニギハヤヒ系の大王(敏達天皇)からスサノヲ系の大王(蘇我馬子とされた用明天皇)に倭国王が入れ替わったことを意味します。

すでに仁寿四年(604年)に文帝が崩御して煬帝に代替わりしていますが、アメノタリシヒコ敏達天皇が新皇帝へ祝賀の使者を送った記録がないのです。ですから、倭国の政権交代に多少の混乱が続いたので、政情が沈静化した時期にアメノタリシヒコのまま用明天皇が遣使したと考えられます。とすれば敏達天皇崩御は604年の直前と推理できます。604年ならば敏達天皇は67歳で崩御ということです(^_-)-☆

結局、アメノタリシヒコは二人いたということなのです(^_-)-☆

下図は日本書紀に記された継体天皇の後の27代安閑天皇から37代斉明天皇までの系図です。


上述のアメノタリシヒコ敏達天皇の皇太子「利歌彌多弗利」はワカタラシヒコの間違いだと思います(注)。皇太子ワカタラシヒコは押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)のことでしょう。

「雞彌(キミ)」は敏達天皇の皇后広姫のことです。息長真手王の娘となっていますが、息長真手王は息長氏とあるだけで両親は不明です。継体天皇の曽祖父の意富富杼王(おおほどのおおきみ、生没年不詳)の弟息長沙禰王の子という文献があるとwiki「息長真手王」にあります。意富富杼王は、応神天皇の皇子稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の子ですが、その母息長真若中比売は、架空の人物である日本武尊の曽孫なのです。恐らく息長真手王もニギハヤヒ大王の子孫の尾張氏の系統だと考えられます。記紀の神功皇后のモデルの倭国女王台与が息長氏の祖であることを隠すために創られた系図だと思います(下図の左側の継体天皇の系図参照)。

仲哀天皇の皇后が気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)ですから息長氏と尾張王はかなり親密な関係ではあったようです。共に前方後方墳を営んでいますから分かります。

(「空白の世紀と倭の五王の謎?(その3)」より)

武烈天皇は皇太子を決めずに崩御したので、有力豪族の大伴金村や物部麁鹿火などの推戴を受けて、応神天皇の五世孫の継体天皇を即位させたとなっています。

しかし、大伴氏は大国主・応神天皇系大王に従う大倭(ヤマト)の豪族ですが、物部氏はニギハヤヒ大王の子孫なのですから当時は敵対関係にありました。

もしも和解して継体天皇が即位したのであれば、直ぐに大倭(ヤマト)入りして即位儀礼を行うはずです。ところが507年に58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、その後19年間は大倭(ヤマト)入りせず、ようやく526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷ったとあります。極めて不自然なのです。また、崩年についても日本書紀では、531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に史上初の生前譲位し、同日に82歳で崩御したとあります。古事記では43歳と大きく異なります。継体天皇を迎えた場所も日本書紀は越前、古事記では近江と異なります。

天智天皇とは何者だ?(その2)」で述べましたが、天智天皇はヤマトでは即位していないので、その前例として継体天皇を創作したのではないかと考えています。日本書紀はおかしな話を隠すために必ず前例を創作するようです(^_-)-☆

ですから、スサノヲ・大国主・応神天皇系のヤマトの大王は武烈天皇から安閑・宣化天皇に皇位継承されたと考えられます。そこにニギハヤヒ大王系の欽明天皇が吉備・筑紫の物部勢などを後ろ盾にして大倭(ヤマト)に乗り込んできたので、スサノヲ系のヤマトの大王を継承した用明天皇が欽明天皇の次の敏達天皇を討ってヤマトの大王を復活させたと推理しています。

ですから日本書紀では用明天皇の一族に「我れ蘇(よみがえ)り」という意味の蘇我氏(うじ)を与え、しかも「どこの馬の骨か?」と言わんばかりに「馬子」と名付け、そして、その子をヤマト朝廷にまつろわぬ者「蝦夷(えみし)」という名前を付けて不比等たちは楽しんだようです(^^♪

しかし蘇我氏がもしもランクが下る渡来人ならば、はっきりと分かるように言うはずですが、そうしていませんので、れっきとした大王の血筋だったのでしょう。蘇我氏は和風諡号や諱に豊(トヨ)が付きますので近江の台与(トヨ)の息長氏(縄文系ムナカタ海人族)に繋がっている応神天皇・台与の子孫だと考えられます(;^ω^)

一応、おおざっぱな推論ですので、今後詳細を詰めていきたいと考えています。越前地方で大人気の継体天皇が架空の天皇という新説はご当地の方にはショックかも知れません。たいへん申し訳ありません。すでに明らかにした建国の歴史からの推理ですので、どうかお許しくださいネ。またよろしくお願いいたします(#^.^#)

(注)第10代崇神天皇の次の垂仁天皇もニギハヤヒ大王系のヤマトの大王です。そして、次の景行天皇・成務天皇・仲哀天皇は尾張王だと推理していますのでニギハヤヒ系の王です。景行天皇の和風諡号が大足彦尊(おおたらしひこのみこと)、成務天皇が稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)で、仲哀天皇が足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)なのです。

タラシヒコはニギハヤヒ系の王のようですが、奴国(龍蛇神国)王の意味ではないかと思います。ですから奴国大王スサノヲの子孫の用明天皇もそのままアメノタラシヒコを名乗ったのだと考えられます(^_-)-☆

ちなみに新唐書日本伝で紹介された日本の王年代紀で奴国王の初代が天御中主で、姓はアメ(天)氏、「尊(みこと)」を号とするとあります(^_-)-☆

なお、成務天皇の宮は志賀高穴穂宮で現在の滋賀県大津市穴太とされています。ヤマトの大王ではありません。天智天皇とされた中大兄の宮も近江大津宮なのです。


最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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