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【葦嶽山の秘密】能ある鷹は爪で指す?の巻!(;^ω^)

2024-06-11 13:16:33 | 古代史
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先月、米神山で大国主に会ってきた!で記事にしましたが、大分県宇佐市安心院町の米神山を下山して、日本ピラミッド葦嶽山に行くために予約した広島県庄原市の宿に急いで車で向いました。高速道路で5時間くらいかかりましたが、予定よりもかなり遅れて、18時過ぎにようやく到着しました。温泉で疲れを落として、翌朝9時に、葦嶽山登山に初めて挑戦しました。

下の葦嶽山のルート案内図にある山頂に近い駐車場から登り始めました。問題なかった左ひざのサポータを前日痛めた右ひざに嵌めましたが、最初の急な坂を30分くらい登ったところで痛みを強く感じ、これ以上進めないと判断しました。また大国主大神の杖のおかげで何とか車にたどり着けましたので、帰宅することができました。下の図の右にある山頂から直ぐの天狗岩の鼻先が240度の方角に向いていると前方の山影から判断していましたので、それを確かめるのが目的でした。奴国宮廷楽師帥升(正しくは師升)らの反乱で亡くなったスサノヲ大王を祀る場所と推理した福岡県春日市熊野神社の方向です(詳細は「倭国王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。1週間くらいして右ひざの調子が元に戻りましたので、両ひざのサポータなどを準備して、先週、再挑戦しました。今回も、割と山登りに適した天気でしたのでラッキーでした。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)



8:40ころ駐車場を出発しました。前回は現在撤去されている「奴国乃大王」の鳥居のあった場所を確認したいためにあのキツいルートにしましたが、ネットで赤いガラス製?の鬼子母神が石のベンチの上にあったのを再度確認しました。葦嶽山前方の山(781m)の山頂付近です。鬼子母神としましたが子安観音か、あるいは慈母観音が正しいかも知れません。いずれにしても乳児のスサノヲを抱いた母イザナミを表しているのではないかと思います(^_-)-☆
日本ピラミッド空撮映像
(詳細は「日本ピラミッドの謎?(@_@)?(2024-02-02 20:20:02)」参照)

そこで、今回の往復ルートは、ハイキング用のメインルートにしました。前回のような急登の箇所はなく、比較的ゆるやかな階段をひたすら登って行くだけですから、さほど疲れませんでした。15分くらい登るとなだらかな尾根道に出ましたので、そこで小休止しました。ウグイス嬢にしきりに何か話しかけられましたが、言葉が通じないのが残念でした。こちらも負けずにホーホケキョ!そしたらもっとやかましくホーホケキョ・ケキョ!・・・なんか心が通い合った楽しい気持ちで、ちょっとの間、安らぎを覚えました(;^ω^)

平坦な小径を少し歩くと、前回のルートとの合流地点があり、それを横目に進むと山頂への少しキツイ階段になりました。しばらく行くと見えてきました。あの鷹岩です。


(鷹岩:南側より撮影)

早速、背中の方(北側)に回って、頭部の向きを測定しました。コンパスの矢印を頭部の向きに合わせ、コンパスを水平にして磁針が磁北と重なるようにダイヤルを回すと177度でした。広島県庄原市の磁北は西偏7.0度ですので、ほぼ170度になります。宿に戻って気づいたのですが、参考にした磐座学会の平津豊氏のレポート「葦嶽山ピラミッド2」(2018.5.6)には鷹の嘴の方角が120度で、「冬至の日の出」の方向という説明でしたので50度も異なります。測定したときには気づきませんでしたが、頭頂部の方向と、鷹の嘴の方角がずれていたということのようです。鷹岩の測定を終えて、はやる気持ちを抑えながら、山頂に向いました。

山頂部に到着しました。直径5mほどの山頂スペースに、かつてはストーンサークルがあったのが官憲に破壊されたようで、現在はわずかな痕跡しかないので、はっきりしません。取り合えず景色を少し楽しみました。

(日本ピラミッド葦嶽山の山頂)

天狗岩へは西側に小径があると聞いていたので、赤いリボンの目印のある小径を見つけて進みました。しかし、5mほど下りましたが、それらしき岩が見当たらないのでさらに進みました。急な下り坂になったので、あらかじめ用意してきた10mの登山用ロープを取り出して、丈夫な木の根にロープを回してカラビナで固定しました。さらに5mほど下がってもまだ小径が続いているようでしたので、伸び上がって様子を見たところ天狗岩らしきものが見当たりません。これ以上進むのは、帰りが辛いのでとても残念でしたが、天狗岩の調査を断念し、山頂に戻ることにしました。


(葦嶽山山頂の天狗岩・烏帽子岩への小径)

坂をロープを握って降りるときには気づきませんでしたが、木で覆われた岩が左手にちらっと見えたので、その岩の上部に登って行って、覆っていた小枝をかき分けると天狗岩の鼻のような感じです。しかしとても短くて、50cmくらいでした。米神山の1.5m以上はある石柱と同じくらいと考えていましたので少しがっかりしました。早速、コンパスを出して方向を計ると、何と300度近くあり、さらにガックリきました。余りのショックで、しっかり写真を撮るのさえ忘れてしまいました。


(木に覆われた天狗岩の鼻)

平津氏のレポートに烏帽子岩(えぼしいわ)の方角300度が「夏至の日の入り」という説明があったのを思い出し、天狗岩の鼻も同じ向きのようでした。この小径は多分山頂から50mも下の烏帽子岩にもつながっているのでしょう。天狗岩の方角は予想外の結果でかなり落胆しました(*´Д`)

巨石群のある鬼叫山の方位岩を確かめに行こうと思い、山頂から足を一歩踏み出しましたが、滑りやすい坂道だったので気力が失せてしまいました。次の予定もあるので、今回は自重して、「帰ろ、帰ろ!」。即、帰還を決心しました。

期待した成果が得られなかったので本当に落胆しましたが、怪我しないように気を引き締めて駐車場に向けて下り始めました。鷹岩が見えました。最初に鷹岩の後ろ(北側)から見たときには右側(西側)に30cmくらいの、鷹の爪のような岩の突起があるのに気づきましたが、頭部の方位測定をしているうちに鷹の爪のことは忘れていました。もう一度鷹の爪を見て、閃きました!もしかしたら?早速コンパスを出して測定したところ、ナント!鷹の爪がほぼ240度の方向に向いていました(注)。バッチリです!( ^)o(^ )


(鷹の爪:鷹岩の北側)

一気に疲れが吹っ飛んだ気分です。じゃあ、天狗岩の鼻先の300度は何なんだ?と考えながら駐車場まで下りて行きました。11:35でしたから約2時間の行程でした。サポータのおかげで、ひざの痛みなど全く感じませんでした。烏帽子岩の300度と鷹岩頭部の170度を考え続けながら次の宿に向いました。おかげで、ETCカードを挿さずに庄原ICから中国自動車道に入るチョンボまでしました。慌てて直ぐにカードを挿入しましたが、手遅れでした(;^ω^)モタモタして後ろについていた乗用車の方にご迷惑をおかけしてしまいました。朝、コンビニでお昼用に買ったおにぎりとサンドイッチを、本村(ほんむら)パーキングエリアで食べながら、ずっと考え続けていました。

予約した次の宿というのは、例の狗古智卑狗の霊ラインで大発見した、豊岡市竹野町の「誕生之浦」の石碑と猫埼半島の根元の「五社大神宮」の近くです(詳細は「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。中国自動車道の福崎JTから播但道路をひたすら走り、予定の17時チェックインに余裕で間に合いました。翌日の朝6時前には宿を出発し、五社大神宮のある小山に登り、大国主の父の日高彦の居城跡を見て、小山を居りて石碑を撮影してきました。今回は奴国大王スサノヲの霊ラインの話ですので、また、別の記事でご報告したいと考えています。

さて、春日市熊野神社から葦嶽山山頂に引いた直線をさらに北東に伸ばすと、豊岡市気比の銅鐸出土地に行きあたりますので、車で向かいました。豊岡市内を流れる円山川の東側にある気比川の右岸にありました。車一台が通れる石橋が架かっているのですが、前方にゲートがあって、車は通れないと判断し、石橋の入り口に止め歩いて様子を見に行きました。そうしたら、自由に開閉できるアームが付いていましたので、開けて川岸を右手に少し行くと見えてきました。

圧倒されるような大きさの岩の下部に出土した銅鐸の説明看板があります。これを見て、奴国宮廷楽師らに殺された原因を推理した内容が間違っていないと確信しました。スサノヲ大王の霊ラインが教えてくれました( ^)o(^ )


(気比銅鐸出土地と銅鐸)

スサノヲは父伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の跡を継いだ第18代奴国王です。母は縄文海人ムナカタ族の族長の娘だと宗像大社の秘密の伝承から分かります。国生み神話は奴国王とムナカタ族長レベルの婚姻によって、列島の特産品の対外交易を奴国王が抑えることにより、倭国をさらに隆盛にするための政略結婚だったと思います。すでに伊弉諾尊の父沫名杵尊(あわなぎのみこと)が後漢の光武帝に西暦57年に朝貢して有名な国宝金印を賜ったと考えています。糸島市伊都国に楽浪郡などから倭国の珍しい品物(玉類、水銀朱、倭錦、アワビの塩漬けなどの海産物など)を買い付けにやって来るシナ人の華僑を三雲遺跡番上地区に居住させ、奴国王に倭人との交易を保障させるために冊封体制に組み込んだということです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社)。スサノヲ大王はおそらく立派な髯をのばした縄文系の風貌だったと思います。ムナカタ族の部下と共に半島南部に鉄素材を入手するために出かけ、対価としてガラス製品や玉類を丹後半島の遺跡で製造していたと考えています。

こういうことで、奴国王でありながら王宮を留守にすることが多く、奴国の伝統祭祀は司祭帥升たちに任せきりで、たまに戻ってくると縄文式のバカでかい銅鐸を取り入れろと命令して、また出かけたので、師升らは困ってしまい、反乱を計画したと推理しました(詳細は「【刮目天の古代史】謎を解明する<倭王帥升の謎>」参照)。

縄文時代から弥生時代へと時は流れてゆきますが、当時の人々の日常生活は太陽の動きに従って行われますので、太陽の運行は、その当時の人々の生活の指針であり、太陽そのものは信仰の対象だったと考えられます。しかし、弥生後期に倭国を支配する奴国の大王が殺されたクーデター事件によって、一気に人々の闘争本能が呼び覚まされたのだと思います。恨みを晴らしたいという強い執念が原動力となり、時代は強いリーダーを求めたのです。現在人が重機を用いたとしてもとても困難と思われる場所に、意味のある方位に巨石群を設置する原動力は、祖神に対する人々の強い信仰心でしょう。

二世紀後半の倭国大乱の時代には、亡くなった偉大な大王の霊をその後継者が身に纏うことによって、さらに偉業を達成できると人々は期待し、信じたようです。これを米神(首長霊)信仰と呼びます。これが天皇即位の儀礼にも取り入れられています。

弥生後期では自然の地形を一部利用する弥生墳丘墓を造り、墳頂で死者を弔い、首長権継承の儀礼を多くの人々が参加して大々的に執り行ったようです。三世紀の古墳時代にはわざわざ平地で大規模な定形型墳墓(前方後円墳など)をより大きな手間をかけて造成するようになります。後継者は墓の大きさによって権力の大きさを可視化することができます。

この古墳時代に繋がる騒乱の時代には人々は怨念の連鎖反応で感情が爆発したのだと思います。このような過酷な時代には、現代人にはない、研ぎ澄まされた霊的な感性によって何百キロも離れた地点から父祖・大王の霊が直線的に空中を飛ぶのを心の目で捕らえる能力があったようです。そうでなければ、このような人工的な巨石群を作れないのではないかと考えています。



300度などの話を調べているうちに時間が経過してしまいましたので、続きがありますが、一旦ここで打ち切ります。
この霊ラインの話、信じるか、信じないかは、アナタ次第です(#^.^#)

(注)鷹の爪と見立てた岩が短いので、どこを起点にして爪の先の方角を計るかが精度に影響しますので正確な測定は困難でしょう(;^ω^)

【関連記事】
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王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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