いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
本記事は2017-11-15 15:52:48にアップした「半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆」より一部改訂して掲載したものです。
最近は遺伝子による日本人のルーツ探しが活発になり、母系のルーツでは以前からミトコンドリアDNA解析が行われ、父系についてはY染色体DNA解析が行われています。そして核DNAに対するゲノムワイドな解析が行えるようになり、新たな段階になったのですが、現在のところまだサンプルが少ない問題があるようなので、その成果から全て解明されるまでには至っていません。
古代史研究においては、民族は気候変動の影響などで移動し、民族間の抗争もあり、父系のルーツをY染色体DNAで調べるのは有効です。すでにいろいろな書物に掲載されるようになっていますが、毎年見直される遺伝子系譜学国際協会ISOGGの表記をそのまま使っているので、混乱が生じます。そこで、Wiki「日本人」に記載されたY染色体DNA分析の結果について、脳科学者中田力氏の「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書943に刮目天が加えた以下の考察に基づき、東アジアの民族の父系ルーツを推定しました。こうすることにより、民族のルーツがより明確になります。その結果を図に示します。

(左クリックで拡大)
【縄文人系(D1a2a=旧D1b=D-M55)】
本土日本人男性の約40%に見られ、アイヌの80%、沖縄で60%と高頻度を占める。中央アジアから日本列島に到達したハプロタイプD1の中から3.8-3.7万年前に誕生したと考えられている。「最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期のうちに起こった。・・・・温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。・・・・旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。・・・・旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。」
このハプロタイプを持つ人々が約1.5万年前から約2,300年前(紀元前4世紀)まで日本列島固有の縄文文化を作った。
(Wiki「ハプログループD」より)
C型縄文人系(C1a1=C-M8)
日本列島固有のハプログループであり(済州島に一体見つかっている)、「崎谷満はC1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとしている[7]。その渡来年代は定かでないが、現存系統の拡散開始は約12,000年前であり、縄文時代の開始とほぼ一致している。すなわちハプログループC1a1は日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。」とある。
(Wiki「ハプログループC」より)
北方アジア人系(C2=C-M93)
約5万年前に中央アジアまたはシベリアまたは東アジア北部(アルタイ山脈〜モンゴル高原付近)で発生したと推定され、北東アジア、中央アジア(カザフスタン)、北アメリカ北西部におけるアルタイ系民族(チュルク系民族、モンゴル系民族、ツングース系民族)やナデネ系民族に高頻度。
(注)モンゴロイドの南方起源説によると広大なスンダランドはモンゴロイドの故郷とする説がある。(2019.2.23 赤字追加)
遼河人系(N1)
2万年前から2.5万年前に東アジアでハプロタイプNOから分かれたと推定されるNは、ユーラシア北部、シベリア、北欧まで広く分布している。さらにNから分かれて、8,200年前ころに遼河文明を開いたN1の一部が日本列島に進出し、三内丸山遺跡との関連も言われている。図中の日本民族においてN は0.8%であり、その中の何%がN1かは分からないが、図ではNを遼河人系とした。
原始夏人系(O1a、旧O1)
約3万年前に中国南部でハプロタイプNOから分かれたと推定され、このハプロタイプの人々が長江下流のデルタ地帯において紀元前3500年ころから紀元前2200年ころの良渚遺跡にみられる長江文明を築いたと、中田さんは推理している。さらに中田さんは、高度な文明を築いた人々が一夜のうちに消え去った痕跡があり、大洪水に見舞われたと考え、北上した良渚文化のこの集団が3,900年前(紀元前1,900年)ころに黄河中流域で興した、シナ大陸最初の国家が夏王朝であるとの説が有力としている。この人たちは、海を渡って台湾に移住した集団が先住民の約90%を占めるが、さらに台湾を拠点として、フィリピン、インド洋から太平洋の広い地域に及ぶオーストロネシア語族へと広がり、マダガスカルにまで到達する船の民と見ている。
越人系(O-M95、旧O2a)
「現存の全てのO-M95の最も近い共通祖先は約10,800年前にさかのぼると推定されていてかなり古いが、現在からおおよそ6,000年前~5,000年前(即ち紀元前4千年紀)の間に多くのサブクレードを生み出していると見られるため、その頃に中国のある地方から東南アジアへ分布を広げたのかも知れない[1]。この分布拡大は稲作の拡散[12]年代と一致しており、稲作を携えたO-M95に属すオーストロアジア人が中国南部から東南アジア、南アジアへ移住していった歴史が推定される。」とあり、O1b1から分かれたグループである。
さらに、紀元前600年頃 - 紀元前334年に存在した越は、「春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。」このハプロタイプO-M95の人々が「広東から南にかけて展開し、東南アジアの稲作民の祖となったが、呉城文化以前の対応する新石器時代の遺跡ははっきりしていない。」と中田さんは述べているが、その末裔が越を作ったと考えている。弥生文化や日本語と強い関係が知られるインド南東部タミル地方インド洋沿岸部に約20%程度存在することが下図から分かる。(2020.5.30 青字追加)
(GaneshPrasad Arunkumar et.al. " A late Neolithic expansion of Y chromosomal
haplogroup O2a1-M95 from east to west " 2015 Institute of Botany, Chinese Academy of Sciencesより)
O1b2系統[殷(商)人系(旧O2b*)は倭人系O-47z(旧O2b1)を除いたグループ]
28,500年前にシナ大陸で発生したと推定されるハプロタイプO1b2から、さらに12,100年前
に分かれて、日本列島と朝鮮半島に高い頻度で見られるが現在、大陸には存在しない。中田さんによれば「O1b2の拠点は、現在の江蘇省北部から山東省にかけてと考えられ、大汶口文化、山東龍山文化の担い手であった可能性が極めて高い。このグループは日本の成立と深い関係にある」と述べている。また山東龍山文化の担い手が3,600年前頃に夏王朝を滅ぼし、殷(商)王朝を打ち立て、黄河の中・下流域を支配した。」とある。その時、夏王朝の集団は故地長江下流域に戻り、越人の先祖となるO-M95の中に溶け込んだので、越は夏王朝の後を継ぐという考え方がある。越の支配層が原始夏人系O1aであり、被支配民が越人系O-M95であったと推定している。
またこの殷(商)を建てた集団から分離したサブクレードO-47zの集団が約1万年前ころに長江流域(湖南省周辺地域)で水田稲作を始めた人々であると言われる。その後裔で、水田稲作をしながら漁労も行う海洋民族である江南の呉人が、後に日本列島(当初は北部九州の玄界灘沿岸部)や朝鮮半島南部に居住地を移して倭人と呼ばれたと考えられる。
夏王朝の王族は姫氏(O1a)であるが、その一族が後に殷周革命によって周王朝を建て、「商(殷)の祭祀を天皇の祭祀とする、日本という国家成立の序曲であった。」と中田さんは述べている。周の先王「古公亶父」の末子季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、「わが家を興すのは昌であろうか」という父の意を量った長男太伯とその弟虞仲が、季歴に後を継がせるため荊蛮の地(長江下流域)へと自ら出奔し、そこで呉を興した。従って呉王族のハプロタイプは原始夏人系O1aで、被支配民がO-47zの集団だった。倭人が太伯の後(太伯には子がなかったので、虞仲の末裔)と『魏略』逸文(『翰苑』巻30)や『梁書』東夷伝に記されているが、倭人の支配層である呉王族のことである。
刮目天は、紀元前473年に越によって滅ぼされた呉の王族が半島南部を経由して福岡県早良平野に集落(吉武高木遺跡)を築き、最盛期(紀元後1世紀)には筑紫平野まで直接支配下に置いた奴国の系統だと考えている。初代王が天御中主(あめのみなかぬし)として『古事記』や『宋史』「王年代紀」に記載され、記憶されていると考えている。この仮説が正しければ、万世一系の天皇家は、現代日本人男性の3.4%を占める原始夏人系O1aのハプロタイプである可能性があります。しかし、武家社会を築いた平氏や源氏は天皇の子孫ですので、現代日本人男性の3.4%しかいない原始夏人系O1aではなく、紀元前二千年ごろに始まる夏王朝から四千年もの長い時間経過の中で、現代日本人の約25%の倭人のもの(Oー47z)に変わっている可能性が高いと思います。
しかし、現在の皇室の男子は龍蛇神ナーガを信奉する呉王族だった天御中主の血筋であることは、それまでの祖霊信仰から、二世紀中ごろからの古墳時代前夜で、男系男子の王位継承を伴う米神(首長霊)信仰に発展しているので分かります(「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。米神信仰というのは偉大な父祖の霊を引き継いで首長となって偉業をなすことができるという血統信仰です。米神(首長霊)を身に着けるための儀式を行い、父王と同様に臣下を服属させる儀礼を大々的に行うために、古墳が造成されたと考えています。三世紀末ころから列島各地で盛行した前方後円墳の形式は、主としてヤマト王権に臣下として服属する証として中央に示すためだと考えています。(2022.10.22 赤字修正・追加)
一方、殷周革命によって殷(商)が滅ぼされたが、すでに紀元前1,126年に殷(商)の王族箕子が民を連れて朝鮮で最初の国を興した。紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が、箕子朝鮮を滅ぼして衛氏朝鮮を興した。『後漢書』には朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。前二世紀末、前漢の武帝の遠征で王家は滅亡した模様。王家・臣民の末裔が現在の朝鮮民族の1/3を占める殷(商)人系である。(2022.6.7 赤字追加)
シナ人系(O2、旧O3)
3万から3.5万年前にシナ大陸においてハプロタイプOより分かれ、現在のシナ大陸と朝鮮半島に多数を占める。日本にも約16%見られ(Nonaka et al. 2007)、特に九州では26%と多い(Hammer et al. 2006)。中田さんによれば、「長江中・上流域に留まり大渓文化を開いたグループと、北上して黄河中・上流域に移動し、仰韶文化、馬家窯文化などを開いたグループがあることが知られている。」とある。後者が黄河文明で、仰韶文化は黄河中流全域に存在した新石器時代の文化、馬家窯文化は黄河最上流部の甘肅省や青海省に存在した新石器時代後期の文化です。

ハプログループO (Y染色体)より作成(図を一部改変)
【参考記事1】
半島の古代史だ(漢四郡まで)
【参考記事2】
半島はシナの一部だった(^◇^)
【参考記事3】
日本人の起源を探る 3~スンダランド海洋航海民の誕生(2019.2.24 追加)
それぞれのルーツとなる人種の名称については議論があるかも知れませんので、ご異論や疑問などがありましたらコメントをお願いします( ^)o(^ )
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

本記事は2017-11-15 15:52:48にアップした「半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆」より一部改訂して掲載したものです。
最近は遺伝子による日本人のルーツ探しが活発になり、母系のルーツでは以前からミトコンドリアDNA解析が行われ、父系についてはY染色体DNA解析が行われています。そして核DNAに対するゲノムワイドな解析が行えるようになり、新たな段階になったのですが、現在のところまだサンプルが少ない問題があるようなので、その成果から全て解明されるまでには至っていません。
古代史研究においては、民族は気候変動の影響などで移動し、民族間の抗争もあり、父系のルーツをY染色体DNAで調べるのは有効です。すでにいろいろな書物に掲載されるようになっていますが、毎年見直される遺伝子系譜学国際協会ISOGGの表記をそのまま使っているので、混乱が生じます。そこで、Wiki「日本人」に記載されたY染色体DNA分析の結果について、脳科学者中田力氏の「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書943に刮目天が加えた以下の考察に基づき、東アジアの民族の父系ルーツを推定しました。こうすることにより、民族のルーツがより明確になります。その結果を図に示します。


【縄文人系(D1a2a=旧D1b=D-M55)】
本土日本人男性の約40%に見られ、アイヌの80%、沖縄で60%と高頻度を占める。中央アジアから日本列島に到達したハプロタイプD1の中から3.8-3.7万年前に誕生したと考えられている。「最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期のうちに起こった。・・・・温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。・・・・旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。・・・・旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。」
このハプロタイプを持つ人々が約1.5万年前から約2,300年前(紀元前4世紀)まで日本列島固有の縄文文化を作った。

C型縄文人系(C1a1=C-M8)
日本列島固有のハプログループであり(済州島に一体見つかっている)、「崎谷満はC1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとしている[7]。その渡来年代は定かでないが、現存系統の拡散開始は約12,000年前であり、縄文時代の開始とほぼ一致している。すなわちハプログループC1a1は日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。」とある。

北方アジア人系(C2=C-M93)
約5万年前に中央アジアまたはシベリアまたは東アジア北部(アルタイ山脈〜モンゴル高原付近)で発生したと推定され、北東アジア、中央アジア(カザフスタン)、北アメリカ北西部におけるアルタイ系民族(チュルク系民族、モンゴル系民族、ツングース系民族)やナデネ系民族に高頻度。
(注)モンゴロイドの南方起源説によると広大なスンダランドはモンゴロイドの故郷とする説がある。(2019.2.23 赤字追加)
遼河人系(N1)
2万年前から2.5万年前に東アジアでハプロタイプNOから分かれたと推定されるNは、ユーラシア北部、シベリア、北欧まで広く分布している。さらにNから分かれて、8,200年前ころに遼河文明を開いたN1の一部が日本列島に進出し、三内丸山遺跡との関連も言われている。図中の日本民族においてN は0.8%であり、その中の何%がN1かは分からないが、図ではNを遼河人系とした。
原始夏人系(O1a、旧O1)
約3万年前に中国南部でハプロタイプNOから分かれたと推定され、このハプロタイプの人々が長江下流のデルタ地帯において紀元前3500年ころから紀元前2200年ころの良渚遺跡にみられる長江文明を築いたと、中田さんは推理している。さらに中田さんは、高度な文明を築いた人々が一夜のうちに消え去った痕跡があり、大洪水に見舞われたと考え、北上した良渚文化のこの集団が3,900年前(紀元前1,900年)ころに黄河中流域で興した、シナ大陸最初の国家が夏王朝であるとの説が有力としている。この人たちは、海を渡って台湾に移住した集団が先住民の約90%を占めるが、さらに台湾を拠点として、フィリピン、インド洋から太平洋の広い地域に及ぶオーストロネシア語族へと広がり、マダガスカルにまで到達する船の民と見ている。
越人系(O-M95、旧O2a)
「現存の全てのO-M95の最も近い共通祖先は約10,800年前にさかのぼると推定されていてかなり古いが、現在からおおよそ6,000年前~5,000年前(即ち紀元前4千年紀)の間に多くのサブクレードを生み出していると見られるため、その頃に中国のある地方から東南アジアへ分布を広げたのかも知れない[1]。この分布拡大は稲作の拡散[12]年代と一致しており、稲作を携えたO-M95に属すオーストロアジア人が中国南部から東南アジア、南アジアへ移住していった歴史が推定される。」とあり、O1b1から分かれたグループである。
さらに、紀元前600年頃 - 紀元前334年に存在した越は、「春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。」このハプロタイプO-M95の人々が「広東から南にかけて展開し、東南アジアの稲作民の祖となったが、呉城文化以前の対応する新石器時代の遺跡ははっきりしていない。」と中田さんは述べているが、その末裔が越を作ったと考えている。弥生文化や日本語と強い関係が知られるインド南東部タミル地方インド洋沿岸部に約20%程度存在することが下図から分かる。(2020.5.30 青字追加)

haplogroup O2a1-M95 from east to west " 2015 Institute of Botany, Chinese Academy of Sciencesより)
O1b2系統[殷(商)人系(旧O2b*)は倭人系O-47z(旧O2b1)を除いたグループ]
28,500年前にシナ大陸で発生したと推定されるハプロタイプO1b2から、さらに12,100年前
に分かれて、日本列島と朝鮮半島に高い頻度で見られるが現在、大陸には存在しない。中田さんによれば「O1b2の拠点は、現在の江蘇省北部から山東省にかけてと考えられ、大汶口文化、山東龍山文化の担い手であった可能性が極めて高い。このグループは日本の成立と深い関係にある」と述べている。また山東龍山文化の担い手が3,600年前頃に夏王朝を滅ぼし、殷(商)王朝を打ち立て、黄河の中・下流域を支配した。」とある。その時、夏王朝の集団は故地長江下流域に戻り、越人の先祖となるO-M95の中に溶け込んだので、越は夏王朝の後を継ぐという考え方がある。越の支配層が原始夏人系O1aであり、被支配民が越人系O-M95であったと推定している。
またこの殷(商)を建てた集団から分離したサブクレードO-47zの集団が約1万年前ころに長江流域(湖南省周辺地域)で水田稲作を始めた人々であると言われる。その後裔で、水田稲作をしながら漁労も行う海洋民族である江南の呉人が、後に日本列島(当初は北部九州の玄界灘沿岸部)や朝鮮半島南部に居住地を移して倭人と呼ばれたと考えられる。
夏王朝の王族は姫氏(O1a)であるが、その一族が後に殷周革命によって周王朝を建て、「商(殷)の祭祀を天皇の祭祀とする、日本という国家成立の序曲であった。」と中田さんは述べている。周の先王「古公亶父」の末子季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、「わが家を興すのは昌であろうか」という父の意を量った長男太伯とその弟虞仲が、季歴に後を継がせるため荊蛮の地(長江下流域)へと自ら出奔し、そこで呉を興した。従って呉王族のハプロタイプは原始夏人系O1aで、被支配民がO-47zの集団だった。倭人が太伯の後(太伯には子がなかったので、虞仲の末裔)と『魏略』逸文(『翰苑』巻30)や『梁書』東夷伝に記されているが、倭人の支配層である呉王族のことである。
刮目天は、紀元前473年に越によって滅ぼされた呉の王族が半島南部を経由して福岡県早良平野に集落(吉武高木遺跡)を築き、最盛期(紀元後1世紀)には筑紫平野まで直接支配下に置いた奴国の系統だと考えている。初代王が天御中主(あめのみなかぬし)として『古事記』や『宋史』「王年代紀」に記載され、記憶されていると考えている。この仮説が正しければ、万世一系の天皇家は、現代日本人男性の3.4%を占める原始夏人系O1aのハプロタイプである可能性があります。しかし、武家社会を築いた平氏や源氏は天皇の子孫ですので、現代日本人男性の3.4%しかいない原始夏人系O1aではなく、紀元前二千年ごろに始まる夏王朝から四千年もの長い時間経過の中で、現代日本人の約25%の倭人のもの(Oー47z)に変わっている可能性が高いと思います。
しかし、現在の皇室の男子は龍蛇神ナーガを信奉する呉王族だった天御中主の血筋であることは、それまでの祖霊信仰から、二世紀中ごろからの古墳時代前夜で、男系男子の王位継承を伴う米神(首長霊)信仰に発展しているので分かります(「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。米神信仰というのは偉大な父祖の霊を引き継いで首長となって偉業をなすことができるという血統信仰です。米神(首長霊)を身に着けるための儀式を行い、父王と同様に臣下を服属させる儀礼を大々的に行うために、古墳が造成されたと考えています。三世紀末ころから列島各地で盛行した前方後円墳の形式は、主としてヤマト王権に臣下として服属する証として中央に示すためだと考えています。(2022.10.22 赤字修正・追加)
一方、殷周革命によって殷(商)が滅ぼされたが、すでに紀元前1,126年に殷(商)の王族箕子が民を連れて朝鮮で最初の国を興した。紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が、箕子朝鮮を滅ぼして衛氏朝鮮を興した。『後漢書』には朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。前二世紀末、前漢の武帝の遠征で王家は滅亡した模様。王家・臣民の末裔が現在の朝鮮民族の1/3を占める殷(商)人系である。(2022.6.7 赤字追加)
シナ人系(O2、旧O3)
3万から3.5万年前にシナ大陸においてハプロタイプOより分かれ、現在のシナ大陸と朝鮮半島に多数を占める。日本にも約16%見られ(Nonaka et al. 2007)、特に九州では26%と多い(Hammer et al. 2006)。中田さんによれば、「長江中・上流域に留まり大渓文化を開いたグループと、北上して黄河中・上流域に移動し、仰韶文化、馬家窯文化などを開いたグループがあることが知られている。」とある。後者が黄河文明で、仰韶文化は黄河中流全域に存在した新石器時代の文化、馬家窯文化は黄河最上流部の甘肅省や青海省に存在した新石器時代後期の文化です。

ハプログループO (Y染色体)より作成(図を一部改変)
【参考記事1】
半島の古代史だ(漢四郡まで)
【参考記事2】
半島はシナの一部だった(^◇^)
【参考記事3】
日本人の起源を探る 3~スンダランド海洋航海民の誕生(2019.2.24 追加)
それぞれのルーツとなる人種の名称については議論があるかも知れませんので、ご異論や疑問などがありましたらコメントをお願いします( ^)o(^ )
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

さて、この地図を見ると、現代の地図で人々の動きを推察しているが、Wikipedia海面上昇によれば、
およそ2万年前の最終氷期以降、海水準は大規模氷床の融解の結果120m以上上昇した(年平均6mm)。
急激な海水準の上昇が1万5千年前から6千年前までの間に起こり90m(上昇率は平均10mm/年)上昇した。
つまり、現在の地形とは異なるもので、縄文人が形成された時期、大陸と沖縄・九州は繋がっていたのでは?と素人考えで思いました。
又お邪魔します。
おっしゃるとおり氷河期の日本海沿岸部の状況は現代の地理とは違います。ネットで資料を調べてみました。Japan Knowledge 日本の氷河時代によれば以下のとおりです。https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=283
「2万年前の最寒冷期かつ海面最低下期における日本列島の古地理は、当時の状況を物語る化石や地形など多くの資料と、その時代を決定する炭素14法(年代測定)、広域テフラtephra(火山砕屑(さいせつ)物)により、かなりよく復原されている。
当時の海面低下量は約140メートルから80±5などさまざまに推定されているが、目安としておよそ100メートルとすることができよう。
100メートルの海面低下が生じると日本列島周辺の大陸棚はかなりの面積にわたり陸化する。
北海道は樺太(からふと)(サハリン)、国後(くなしり)島と陸続きとなり、津軽海峡は幅は狭いが存続していた。本州は瀬戸内海の陸化により四国、九州と接続する。九州の西方も広く陸化するが、100メートルの海面低下ではまだ対馬とは接続せず、対馬海峡と朝鮮海峡は幅が狭くなって存続したことになる。」
16,000±100年前の縄文時代早期で今よりも100m海面が低下していたとしても日本海は完全に湖になっていたわけではないようですね。ですからそれ以前の大陸と完全に陸続きになっていた時代に後の日本列島にやって来た旧石器人たちは閉じ込められたことになりますね。大体4万年くらい前から約4400年前(縄文中期)の話です。ユーラシアの様々な地域から陸続きの南北のルートを伝ってやってきたようです。メインとなる人々は今の東に住む人々とは違い、どこから来たのか謎のようで、彼らが最初に土器を作ったとあります。(関裕二「縄文文明と中国文明」PHP新書p.70より)
表題の件ですが、私の知人に「台湾原住民と瓜二つの人」が何人かいます。ひょっとして、台湾原住民のながれかと思いましたが、ハプログループからでは、殆ど関係ない・日本本土(九州)との行き来から・「日本人種」と、の事らしいようで、?が消えません。片山一道さん
https://www.athome-academy.jp/archive/culture/0000001087_all.html
からは、台湾と沖縄は「目の前・たやすく渡沖できた」と思われるのですが、どうなんでしょうか??
いつもありがとうございます♪
おっしゃるとおり台湾原住民は
もとは長江文明を作ったかた達の子孫原始夏人系だと考えています。添付していただいたポリネシア人は台湾から拡散した人々のようですね!わたしの仮説が正しければ天皇陛下と同じY染色体DNAのタイプですよ。日本民族にわずか3パーセントほどですから貴重な人々ですねでも長い間日本列島に住む 考え方も言葉も同じ日本民族の一員です!顔付きは色々あって、色々なDNAが混ざっているので適応力のある民族だと思いますよ^_^
でも台湾有事は間違いなく日本の有事ですね!外交部の報道官はチンピラヤクザのようなセリフを安倍さんに浴びせましたが、マフィア国家だと自分からばらしているようですね!日本人は早く正気に戻らないと酷い目に遭いそうですよね!マスメディアが乗っ取られているので、ネットが頼りですね‼︎今後ともよろしくお願いします!
私は↓を書いた輩です。
http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/24157b60bd38d158da4d598e5b2336c1/1375447620
訂正版↓(大して変わっていないし、間違えている)
https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/24157b60bd38d158da4d598e5b2336c1/1669168628
中田氏の説については『徐福が連れて行った貴族の臣下に、チベット族である羌族が多く含まれており、日本にDタイプのY遺伝子を持つ男性が多いのはその為である』(日本にいるDタイプとチベット族のDタイプは異なる)と書いてあったので却下です。
それに現在では天皇のY遺伝子は、D1a2a1b(D-IMS-JST022457)と推定されています。
それにしても天皇のY遺伝子がDタイプだと言うことは凄いことなので、現在これを元に色々妄想している処です。
まずはご挨拶という事で。
ご紹介いただいた2枚の図は、おっしゃる通りで、わたしの記事を理解いただければ誤りだと分かります。最初の図は古い表記で、後の図は新しい表記ですが、長江河口から日本列島に来た倭人はO1b2の中のサブクレードのO-47zです。それを除いたO1b2*は殷(商)人です。BC11Cに半島北部にやって来た箕子朝鮮の人々ですね(^_-)-☆
中田さんのそこの記述は間違いでしょう。徐福はBC219に列島に来ているのはほとんど間違いないと思いますが、龍神が奴国王ですから徐福は倭国に招へいされたと推理しています。青銅器の冶金技術者だけでなく宮廷の祭祀を司る楽師も連れてきています。弥生後期の107年に後漢安帝に朝貢した帥升はその子孫だと見ています(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ!」参照)。徐福が連れてきた集団は、徐福と同じ山東半島の斉国の琅邪郡出身でしょうからシナ人O2(旧O3)か殷(商)人系O1b2*で、おそらくその混血でしょう。
それから、天皇家の血筋ですが、確か東山天皇の血筋の方のY染色体DNAから縄文人だということになっているようですが、日本人のルーツを解明するとそれは間違いだといえます。
天皇家は初代奴国王天御中主の子孫です。天御中主は高天原に最初に降り立った神と記紀神話にありますが、BC473に滅んだ呉の王族が半島南部に逃れて、福岡市早良平野に降り立った人物です。高天原は奴国王が支配する北部九州の倭国のことでした(^_-)-☆
ですから、周の先王の子である呉の太伯の後裔です。周は夏王朝の流れですので、中田氏は長江河口の原始夏人O1aとしています。
宋史王年代紀第17代奴国王イザナギの時に縄文海人ムナカタ族の王女イザナミと結婚していますから、そこから縄文系と王族レベルで混血して縄文人のゲノムがかなり入っていると思います。詳しくは「ナーガ(龍蛇神)を祀る海人族が日本人のルーツだった」などをご参照ください。
また、いろいろと情報を教えてください(#^.^#)
すみません私が地図で間違えていると言った箇所は、アンダマン島のDタイプ色で、後は民族の位置が違うかな程度と思っていますが、間違い箇所は何処でしょうか?。
私は先祖が菅原道真だとの言い伝えがあり、菅原道真は天照大御神の子である天穂日命の子孫であることになっていますが、とある本に「菅原道真は大国主神の直系で大国主神は北の方の国からやって来た」と記述が有ったので、自分の先祖は大陸の北の方からやって来たかも知れないと思ってDNAを調べて見ました。結果はD-CTS1982、Dタイプでした。
天穂日のY-DNAは定かでは有りませんがD-CTS220の情報も有り、Dタイプの可能性があります。そして天皇がDタイプの説はむしろ欧米の方が定説になっており、それは源家等天皇を出自とする子孫程、自分のDNAを調べようと方が多く、その結果だと思います。又、竹田恒泰氏は自分のDNAが何であるかは言いませんが、天皇が半島や大陸から来たことは言下に否定し、縄文どころか岩宿時代を熱っぽく話されているのを見ると、竹田恒泰氏も自分のDNAを調べて話しているのだなあと思っています。
若し天皇家が周の国の血を引いていれば、代々伝承され日本書紀等にも誇らしく載せてある筈ですが、神代の話は噴火の事か?と思えれる話ばかりです。これらの事から天皇のY-DNAは99%Dタイプだと思っています。
長江河口から列島と半島南部へO1b2とあるところです。先にその説明をしましたよ(^_-)-☆
また頂いた二番目の図のオンゲというのはアンダマン諸島ニコバルですが、wiki「日本人」#Y染色体ハプログループによる近隣集団との比較の表にありますが、O-M95が100%です。このハプロタイプは日本人にはほとんどありませんが(1%以下)、東南アジアからアッサム地方やスリランカとさらにインド大陸の東南部に多いです(詳細は「「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」」参照)。わたしは越人と考えています。越が呉を滅ぼした後、同じ稲作の民族なので呉人も吸収していましたが、BC306に楚(O2)に滅ぼされて越人は填地や東南アジアに逃散し、そこの呉人は同族の倭人を頼って日本列島に逃げてきたと推理しています。日本の越(こし)は越人に由来する地名で、縄文系の人々に越人の鳥の文化を伝えています。米子の東の角田遺跡から頭に羽を着けた羽人(うじん)が丸木舟に乗っている線刻画の土器が出土しています。また、唐古・鍵遺跡の線刻土器に鳥の格好の巫(かんなぎ)と巫女の絵があり男性は祝(はふり)と呼ばれてます。
そのシャーマン王ですが、先日吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺が話題になりました。日吉神社にヒントがあると考えて、早速、現地で確認したところ被葬者が判明しました。近江を根拠地としたシャーマン王息長宿禰王です。女王台与をモデルとする神功皇后の父とされた人物です。詳細は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」をご参照ください。推理したとおりの人物で間違いないと思います(^_-)-☆
そこに、菅原道真のことも書いていますのでご参照ください。大国主久々遅彦の一族だと推理しています。YーDNAは奴国王天御中主の子孫ですから原始夏人O1aと考えています。
天皇陛下の血筋をDNA検査で調べるというのも不敬に当たるので、竹田恒泰氏が本当に調べておられても公表できないのでしょうね。天皇家は室町時代から戦国時代くらいまで、かなり不遇だったようですからその時に入れ替わっているということも考えられます。でも、もしも刮目天の推理どおりのYDNAでなかったとしても、天皇家は日本の象徴となる由緒ある家系であることは間違いないですよね(^_-)-☆
それから、日本書紀ですが、天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと、ほとんどの日本人は思い違いされています。完成したのは崩御して34年後です。時の権力者は藤原不比等です。妃の鵜野讃良と組んで皇統を簒奪したと推理しています。持統天皇もすべての女帝もフェイクだと推理しています(詳細は「天皇陛下の本来の仕事とは?!」など参照)。
日本神話は、江戸時代にできた新しいものなのですよ。それまでの神話は、全く異なるもので、史実から伝承されている神話になっていましたよ。ここが分かると謎の多い古代史の真相を解明することができるのです。拙ブログをご参照ください!
とてもいい議論ができ、どうもありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします(#^.^#)
同じアンダマン諸島でしたので、オンゲ族とニコバル族を混同していました。
ニコバルは100%越人ですが(11名中)、オンゲ族は100%D1(23名中、ただし、縄文人D1a2aとチベットに多いD1a1を除いたグループ)です。
お詫びして訂正いたします(^^;)
「日本語の意外な歴史」
http://www.jojikanehira.com/
彼の知識も凄いですね。刮目天樣と合うかもしれません。
でも私にとって、この手の話は妄想を広げる事が楽しいので有って、あまり知識を増やしすぎると現実世界に戻されてしまうので、知識はそこそこに、後は感ピュータでやってます。
又、妄想をぶつけにやって来るかもしれませんので、その節は宜しく。