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国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?(^_-)-☆

2023-11-29 06:24:41 | 古代史
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当初は(その3)あたりでこのシリーズ終わる予定だったのですが、いろいろと出てきましたので続けたいと思います。新たな発見で、その前に書いたことと矛盾するところも出てきて、修正もしながらやっていますので、よろしければ戻ってもう一度読んでいただき、おかしなところを指摘していただくと助かります。それでは、前回予告した西谷墳墓群についてみていきます。いつもの駄文で恐縮ですが、どうぞお付き合いください(;^ω^)

西谷墳墓群は出雲市大津町にある弥生時代から古墳時代まで長期間営まれた30基以上の墳墓と横穴墳墓群です。特に、弥生時代後期後葉(二世紀末)に出現した大型の四隅突出型墳丘墓が多くの人々から注目を集めています。方形台状墳丘墓に首長やその一族が葬られ、四隅が拡げられて、そこから人々が墳丘に登り、儀礼が行われたと分かるものです。この形式の首長墓が日本海沿岸部などに拡散する、地形を利用した大型弥生墳丘墓です。弥生時代の終末期(三世紀前半)そして古墳時代初頭(三世紀後半)から平地に、さらに大規模な古墳が造られるようになりますので、古墳時代の発祥を議論する上で特に重要な遺跡です。



下図は平成10年度調査報告書から引用した西谷墳墓群の分布図ですが、6基の四隅突出型墳墓に赤丸を付けています。葬祭に使われた土器の形式から3号墓・1号墓が二世紀後半、2号墓・4号墓が二世紀末ころ、9号墓・6号墓が三世紀前半に造られたとされています。ただし、9号墓は「編年に有効な壺形土器の口縁部などが出土しておらず時期の確定は難しい」とwiki「西谷墳墓群」にあります。



最初の2号墓の写真の手前に見えるのが3号墓の北西の端部で、そこに見られる立石が2列になっている様子が見えます。2号墓も2列あります。1号墓・4号墓・6号墓は立石が1列です。そして、9号墓だけは3列も配石がありますので、特に丁寧に作られた墓だと分かります。そして、最大のサイズの9号墓が東西42m×南北35m、次が3号墓で東西40m×南北30m、2号墓が東西24m×南北35m、そして4号墓が東西34m×南北27mです。首長クラスの墓は立石が2列以上のものと考えると、4号墓は大きくてもランクが一つ下になると考えられます。

2号墓は全体の4分の3が破壊されていたそうで、3号墓は木槨の中に木棺が納まっていたので、恐らく同じ形式と考えられ、攪乱された土の中から朱の塊が出土しているので、木槨の土壙の底に砂利と赤色粘土もしくは赤色顔料が敷かれていたと考えられています。4号墓についてはその記述がないので、やはり王よりもランクが下の有力者の墓と考えて良いようです。

3号墓の復元模型が出雲弥生の森博物館で展示されています。手前に新しい王と王妃が座っており亡くなった王妃の墓の上で儀式が行われている様子も、すべてしっかりと考証されて忠実に示されています。奥の柱が見える部分に王の棺が埋められています。四隅に柱を立てる作業の様子が示されています。模型の右側に見える展示物が王の墓の断面を示したもので木槨で囲われた木棺の底に朱が敷かれて、その上に王の遺体がある様子が分かります。


クリックすると、王や妃など人物の様子が見れますのでどうぞ(^_-)-☆



王の木棺の中に短剣と管玉の首飾りがあったようです。その右上に同様の少し小さいものがありますが、幼児のものとされています。王・妃・王子または王女が同時に亡くなったのでしょうか?だとすると感染症が死因なのかも知れません。王妃の墓からは碧玉製管玉、ガラス製品(小玉、垂玉、管玉、勾玉など)が大量に出土しています。そしてこの台状面に他に6個ほどの土壙墓があるので奴婢などを殉葬したのかも知れません。また、封土の上に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰・丹波(丹後半島)・北陸地方の土器も見られます。下の図は北陸系土器として島根県のホームページにありましたが、壺の右側に突起が見えます。素人考えですが三韓土器に耳がある壺があるので似た感じです。辰韓(新羅)のものだったらバッチリ国引きの証拠ですが、残念ながらやはり違うようです。しかし、3号墳王墓(第4主体)に伴う土器の「内訳と割合は山陰系土器約 61%,丹越系土器約 21%,吉備系土器約 14%,系譜不明土器約4%である。」とあるので系譜不明の中にあるのかも知れません(「西谷3号墓発掘調査報告書本文」、2015,p.223)。もしも浦項地域の土器が出雲にないのならば、浦項市虎尾岬から在地の人が出雲に渡ってはいないということですから、出雲の人が対馬経由で半島南部の鉄素材を持って来ていたということになります。(注1)(2023.12.2 赤字追加)



そして、2号墓からはガラス腕輪や、吉備の特殊器台・特殊壺などが出土している。とあるので、女性の墓と考えられます。上述のとおり、二世紀後半の3号墓よりも少し新しい二世紀末と考えられています。

さらに、3号墓・2号墓と少し離れた東側の、最も丁寧に作られた9号墓ですが、規模も最大ですので特別な被葬者だと考えられます。墓の上に三谷神社が在ります。健磐龍命(たけいわたつのみこと)、亦の名を阿蘇津彦命とあります。この神は景行天皇の熊襲征伐に登場します。天皇が阿蘇山に登ってみたら、ここには人が居ないじゃないかとつぶやくと、突然私たちが居ますよと阿蘇津彦命と阿蘇津姫命の二人の神が現れました。そこで、天皇は「あ、そう?!」と言ったのでここを阿蘇と名付けたそうです(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)から(その4)」参照)。日本書紀の編纂者らはダジャレで楽しんでいたようです。史実と違う話を無理に作るように権力者の藤原不比等に命じられたので、コノハナサクヤヒメなどと適当な名前の姫を登場させて、笑いながら作業した様子が目に浮かびますね(#^.^#)

阿蘇津彦命と阿蘇津姫命は、大国主と妃の台与のことです。至る所に登場するペアの神様の正体です。民間伝承でも道祖神の中に男女ペアの石像などが見られますが皆、大国主と台与のことなのです(詳細は「道祖神もやっぱり(^_-)-☆」参照)。

ということで大国主が三谷神社の祭神ですが、大国主の墓はすでに見つけています。戦死した場所は久留米市高良山です。その西麓にある祇園山古墳というピラミッド状の立派な方形墓です。夏に行ってきましたが、草に覆われて登るのも大変でした。しっかりと整備して欲しいものです。それから初代応神天皇が両親の祭祀を纏向で行うために造った古墳が桜井茶臼山古墳と箸墓古墳です。箸墓の被葬者「倭迹迹日百襲姫命」はヤマトとトビ(大国主)を恨んで、何度も何度も唱えるお姫様という名前なのです。たった十三歳で女王ということにさせられて、最後はヤマト勢に殺された悲劇のヒロインなのです(詳細は「悲劇の女王台与のはなし(その1)から(その4)」参照)。だから卑弥呼の墓ではありませんよ(^^;)。

ですから三谷神社の祭神の大国主が9号墓の被葬者ではありません。社伝によれば「新宮氏の先祖が紀州熊野から勧請した」とあり、9号墳の南側の上来原の三谷 山上にあったのが、いつのころか古墳の上に遷されたとあります。戦国時代のこの神社の記録があるそうで、それ以前のことになります。

新宮と言えば熊野三山ですから熊野信仰は平安中期から始まったようで、イザナギ・イザナミとスサノヲを祀っています。大国主はその末裔です。古代人は、新たに王となった人物は偉大な祖先の霊魂を引き継いで偉業を達成できるという信仰があったのです。これを米神信仰と呼びます。大国主が最初に国造りを行った宇佐市安心院町佐田地区にあるストーンサークル佐田京石と米神山に因む祖霊信仰です。それを一般化すると首長霊信仰という意味になります(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」、「古代史のカギを握る神々の正体?」「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」など参照)。
 
ちょっと長くなって恐縮ですが、社伝の続きです。「元禄十三年(一七〇〇)それまで同地池ノ内にあ った式内阿須利神社を当社に合祀した」のですが、「明治五年、神社制度の改正にあたり、 阿須利神社がふたたび独立社として大津町山廻の 地に遷されることになってため、当社は一時廃社 となり、その後地区民の陳情により、同十三年無 格社として再興した。」とあります。

その阿須利神社の説明書には「創祀年代は不詳。
式内社・阿湏利神社に比定されている古社で、『出雲風土記』に「阿須理社」とある神社。

『雲陽誌』には、出雲の振根が弟・飯入根を殺した時、血(汗)が流れて池中に入り、阿世利という、とあり、
また、八岐大蛇が、この池に入って「あせった」ためと、「あせり」という名となったという話もある。

以上の話の通り、本来は上来原の池の内の杓子山に鎮座していた。貞享の頃、その地に高瀬川が開設され、土砂が流入する地となり、三谷の三谷神社境内に、やむなく遷座

明治になり、神社整理のため廃社となった大津町の龍王社跡地に遷った。さらに、大津町で廃社となった八幡宮を合祀し、現在の状態になった
。」とあり、西谷墳墓群の北西約1kmの龍王という地名だったそうです。祭神が豊玉彦なのです。(2023.11.30 赤字訂正)

まあ、そういう事情で三谷神社に遷座したというのは分かりますが、「やむなく遷座」ですか?本来の場所に鎮座していただきたいという地元の人々の気持ちが何となく伝わってきませんか? この9号墓の被葬者は、(その4)にも述べたとおり、藤原政権が厳しく監視した最も隠したい神様のひと柱なのですから、被葬者がどなたかもうお分かりですよね(^_-)-☆

この最も立派な9号墓を造った人物は大国主の父、倭国大乱で大活躍した英雄で、倭国王師升の子孫難升米に討たれた狗奴国の官狗古智卑狗だと思います。この地で父の八束命を葬り、王位継承の儀式を行ったのだと思います。

さて、それでは3号墓の被葬者ですが、これも(その3)で大国主の系譜を調べましたからお分かりだと思います。この出雲の地を治めた八束命の父五十猛命(イタケル)とその妃、古事記によれば木花知流比売ということになります。八束命はやはりイタケルの子だったようです。八束命が国引きしたスサノヲ大王ゆかりのムナカタ海人族を呼び寄せて葬儀を行ったのでしょう。吉備の人々も来ています。クーデターを逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒがムナカタ族の支援で吉備を平定して隆盛になり、奴国を再興したのです。その子孫が纏向遺跡を造りヤマト王権を成立させたのです。ニギハヤヒ大王が奴国王を継承し、天照大神尊(王年代紀第19代)と呼ばれ、倉敷市楯築王墓に葬られています。イタケルよりも先なのか後なのかは今のところ分かりません。

そうなると2号墓の被葬者も分かります。出雲市氷川町の万九千神社(まんくせんじんじゃ)で神様を送り出す祭りをしますが、主祭神は櫛御食野命(クシミケヌノミコト)スサノヲです。大穴牟遅命(大国主)、少彦名命と 八百萬神が一緒に祀られています。そして境内に立虫神社(たちむしじんじゃ)という変わった名前の神社がありますが、祭神が五十猛命(イタケル)、大屋津姫命(オオヤツヒメ)抓津姫命(ツマツヒメ)で、二人のヒメはイタケルの妹、抓津姫命は大屋津姫命の妹です。父スサノヲに連れられて紀ノ國などで木の種を撒いた神様です。しかし、スサノヲは師升らに殺されていますので、三人の王子・王女はムナカタ族に助けられて奴国を脱出し、出雲の地で暮らしたということです。立虫神社が先にあったという説がありますから、それが正解だと思います(^_-)-☆(2023.12.3 赤字修正)

ということで今回の推理でいろいろと分かりましたので、大国主の系図を推定したものを下に示します。
記紀が天皇の歴史書だと思わされたままでしたら、藤原政権の八束命隠ぺい工作は見抜けませんから、西谷王墓の被葬者は永遠の謎でしょう(;^ω^)(2023.11.29 赤字追加)



(注1)松本岩雄先生(八雲立つ風土記の丘所長)「弥生時代史にみる東アジアとの交流」第 5 回市史講座ミニレポート:平成 30 年 8 月 18 日(土) に以下の記述があります。

 韓国の勒島(ヌクト、古代の弁韓諸国の地域にある島)では、九州の弥生中期の土器、楽浪郡の土器、中国の銭が一緒に出土しており、貿易拠点だったのではないかと考えられるそうです。この勒島の土器は出雲市の山持遺跡からも出土しており、九州北部から山口・島根(出雲地域)への分布が見られるそうです。
一方、出雲地方と楽浪郡(現在の平壌周辺)との繋がりもみられました。九州北部と出雲地域で楽浪郡の土器などが見られることから、
(1)楽浪郡との直接交流、(2)中継地を経由、という二つの説があるそうです。土器の移動については、(1)土器の作成者が運んだ、
(2)交易者が運んだ、(3)地元の人が持ち込んだ、(4)地元の人が他地域の土器を真似て作った、など様々な説があり、より詳しく検討する必要があるそうです。

<中略>
 さらに、階級の成立を考える上で重要な出雲市の西谷墳墓群を挙げられました。この遺跡の埋葬遺構からは大量の水銀朱が出土しており、三号墳には 4cm にわたる朱の層ができていたそうです。これらは中国の朱の成分に酷似していることが分かりました。当時の朱の価値を検討したところ、「生口(奴隷と推定)10 人分」にも及ぶそうです。この他、ローマ帝国内で生産された硝子の管玉、朝鮮半島産鉄製剣がもたらされていたことが分かってきました。こうしたものを入手できる財力を持った有力階級が成立していたことが分かります。


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国引き神話は史実だった?(その4)徹底的に隠された神だった?(;´Д`)

2023-11-26 12:35:08 | 古代史
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2023-11-25 19:44:05の記事に八束命に関する大事な情報を書き洩らしたので本文中に紫字で追加しました。よろしければご参照ください(;^ω^)

前回で国引き神話について終わるつもりでしたが、八束命に関して分かってきたことを追加で記事にしました。お付き合いください(^_-)-☆

国引きを終えた八束命が「終え!」といって綱を置いた場所がヒントでした(^_-)-☆
wiki「国引き神話」に「志羅紀の三埼を引いた綱は薗の長浜(稲佐の浜)に、三穂の埼を引いた綱は夜見の嶋(弓浜半島)になった。」とありました。「薗の長浜」が稲佐の浜から砂丘が続いている長い砂浜と見過ごしていましたが、どうも違いました。「長浜」はナーガ(龍蛇神)の浜という意味でした。(その1)で今回発見した「北門の良波」の比定地で見つかりました。対馬市豊玉町仁位(ニイ)の波良(ハロウ)という場所にある「波良波神社(ハラヘノカミノヤシロ)」はその説明の中に「濱殿神社」の場所ともいわれているとあります。つまり、長い浜という地形の意味だけではなく長浜は人物名なのです。ですからその人物はやはり八束命でしょう!

そして、濱殿神社のご祭神が大綿津見神、別名が豊玉彦命なのです。綿津見(わたつみ)は海の神霊を表します。志賀神(しかのかみ)という別名もあります。綿津見神(わたつみのかみ)は記紀神話のイザナギのみそぎにより生まれた三神として登場します(底綿津見神、中綿津見神、上綿津見神)。日本書紀では実在人物ではないように装うため三つの神に分けるのが得意ですが、住吉三神はスサノヲ、宗像三女神はイチキシマヒメ卑弥呼です。後で二女神を大国主の妃、その正体を台与とする誤魔化しが古事記や先代旧事本紀でやられています。これは藤原氏にばれないようにするためのカモフラージュだと見ています。三神には、騙されないようにしましょう(^_-)-☆

日本書紀ではさらに、創作したアマテラス女神の孫のニニギノミコトに高天原から、大国主から奪った地上の豊葦原中国を支配させるための天孫降臨神話を創りました(注1)。そのニニギノミコトの妃が絶世の美女コノハナサクヤヒメということで、大山祇神がその父です。つまり大国主ですから時代が合いませんので、日本書紀の創作です(「大山祇も大山咋も正体は大国主でした」参照)。



ニニギノミコトはおかしなことに出雲ではなく日向の高千穂の峰に降りました(注2)。ニニギノミコトの子は日本書紀では彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、古事記では 火遠理命(ホオリノミコト)とされていますが、山幸彦・海幸彦神話の山幸彦のことです。ご存じのとおり兄海幸彦から借りた釣針を失くした弟山幸彦が、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられた海神豊玉彦の綿津見神宮(竜宮城)に行き、そこで歓待されて娘の豊玉姫を娶ります。釣針も見つかり、豊玉姫を連れて地上に戻り、兄に返したのですが、兄と諍いが起こるので、豊玉彦に貰った鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を使って切り抜け、結局兄を屈服させて従わせたという話です(注3)。

また、豊玉姫のお産の様子を見ない約束を彦火火出見尊が破ったので、豊玉姫がワニの姿に戻って海に去った話と、さらに妹の玉依姫が残された赤子鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の面倒を見て、成人して二人が結婚して神武天皇が生まれる話までが日向三代の神話の世界です。現実にはとてもあり得ない話です(注4)。

話しを元に戻して、八束命が濱殿と呼ばれ、長浜が八束命の別名であることの一例を、大分市長浜神社で見つけました。市内の夏祭りの祭礼が長浜神社では7月5・6・7日の三日間だそうで、例年この期間に雨がふるので「雨の長浜様」と呼ばれているそうです。すでに述べたように、師升に祖先スサノヲを殺され、倭国を奪われた恨みがあるので、八束命は復讐の相談のためにスサノヲとゆかりのあるムナカタ族を出雲に呼び寄せたのが国引き神話となったと考えています。大分県大野川沿岸から阿蘇山麓にかけて半島南部の鉄を持ち込み、鉄鏃などの鉄製武器を大量に生産する鍛冶集落を造る戦略だったのです(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

ところがこの大分市の長浜神社の祭神は少彦名神となっています。しかし、この神が登場するのは八束命の孫の大国主の時代ですから、後で藤原氏によって祭神がすり替えられたと考えられます(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」参照)。すでに述べたとおり、藤原氏は権力を維持するために都合の悪い日本建国の歴史を隠したからなのです。この大分市長浜神社の由緒に「豫州長濱大明神」が登場します。そこで、愛媛県で長濱神社を検索しましたが見当たりません。大洲市に長浜という地名があるので長浜神社を探しましたが、見当たりません。大洲市長浜の住吉神社に祭神が不明の摂社はありましたが確認できませんでした。どなたか「豫州長濱大明神」にお心当たりがありましたらご一報ください(;^ω^)

また、(その1)で「北門の良波の国」に比定した対馬市豊玉町仁位和多都美神社の境内社波良波神社の横に濱殿御子神社(はまどのみこじんじゃ)があり、御祭神が彦火火出見尊と豊玉姫とありましたから、ニニギミコトと濱殿が一致します。由緒書には「濱殿とは、大綿津見神の別の名である。御陵は、仁位の浜地区に鎮座する濱殿神社の地にあったと伝えられており、本殿付近から古代の箱式石棺が発見されている。その御子神という意味で、娘である豊玉姫命と彦火火出見尊が其々祀られている。」とありますので、濱殿つまり八束命は対馬で亡くなったようです。(2023.11.26 紫字追加)

それで、出雲の長浜神社に戻ります。この神社の通称が妙見神社なので驚きました。奴国の初代王天御中主が妙見菩薩と習合します。平安時代の「延喜式神名帳」には記載がないとwiki「天御中主神」にありますが、日本書紀の一書にこの神が高天原に登場するので、平安時代初期に成立した「新撰姓氏録」に天御中主神を祖神とする氏族が載っています。本当の皇祖神ナーガ(龍蛇神)のはずです。中世になって道教の最高神天帝と習合し、北極星ですから北斗七星への信仰が起こり、さらに仏教の妙見菩薩に習合する妙見信仰になります。幕末の復古神道で天御中主神が最高神とされます。「【刮目天の古代史】楯築遺跡は帥升の墓か?」で述べたように、水天宮でも天御中主神が祀られていますが、幕末からとwiki「天御中主神」に説明されていますが、水神は龍神ですから最初から初代奴国王(龍蛇神)として祀っていたのではないかと思います。天御中主神を表す妙見菩薩が八束命の本地仏ですから、八束命は龍蛇神国の中興の祖と位置づけられる、多くの人々の尊崇を集めた、日本で最も重要な神様のひと柱と考えられます。ですから藤原氏が必死になって隠したのだと考えています。八大龍王としても祀られていますが、八束命に所縁のある人々が藤原氏に気付かれないように祀っているのかも知れません。

次回は、弥生後期後半の出雲地方で最も重要な遺跡のひとつである西谷墳墓群について考えて見たいと思います。


(注1)史実は、天武天皇の皇后で持統天皇とされた鵜野讃良(ウノサララ)の孫軽皇子(天武天皇皇子で鵜野の子の草壁の子)を即位させたことの正統性のために考えた神話だったのです。皇后というのも持統天皇というのも全部ウソです。詳しくは「日本の古代史が謎な理由?」参照)

(注2)宮崎県とされていますが、この話のもとネタは初代天御中主の子天村雲尊が孫の天爾聞尊(アメノニニギノミコト)に早良平野から周辺の糸島平野・福岡平野を平定させるために三種の神器を渡した故事から来ていることを突き止めています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。天爾聞尊の降臨地高千穂は早良平野と糸島平野の間にある高祖山(たかすやま、416m)の日向峠のことでしょう。

(注3)「海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神ホデリ(火照)の末裔が、阿多[6]・大隅[7](現在の鹿児島県本土部分)に居住した隼人とされる[8][9]。」とありますが、隼人は熊襲や土蜘蛛と同様に日本書紀の創作と考えられます。
つまり、wiki「隼人」によれば、「隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。」とあります。

そこで、「阿多」は縄文海人ムナカタ族の祖神阿田賀田須命(アタカタスノミコト)に因む名前と考えられます。愛宕神、愛宕権現も同様で、卑弥呼の弟赤坂比古(和邇氏の祖)と考えています。海幸彦との諍いから服従するまでの話は、まだ子供だった大国主の父久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、古事記の天之冬衣神)が倭国王難升米に討たれて、卑弥呼の父先代赤坂比古狗奴国を裏切り、全財産を没収して大国主少年を追放した話が「因幡の白兎」とされたと突き止めていますので、これが海幸彦が山幸彦との抗争の話に対応します。そして、大国主が成人して卑弥呼の死後に弟赤坂比古を傘下にして列島の大部分を手に入れた史実が霊力のある玉で兄を屈服した話になったのではないかと考えています。

(注4)しかし、史実を考える冷静な立場でこれらの神話を考えると、編纂者は初代天皇がワニの近親婚で生まれた一族だと貶める話なのですから、このような神話を教えられた日本人が、これが本当に、天皇が編纂した正史なのかと疑わないのは、天皇の起源となる神話という洗脳によるものなのでしょう。でも、日本神話が政治的に創作されたものと気づかないと、困ります。現政権が本当に日本の未来と日本国民のためにやってくれているのか考えることもできない想像力の低下が起こっているようです。このままでは日本は終わりますよ(;´Д`)






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国引き神話は史実だった?(その3)神無月/神在月の由来か?(^_-)-☆

2023-11-23 02:11:41 | 古代史
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八束命が祖父スサノヲに所縁のムナカタ族を集めた神社が分かりましたので紫字で追加しました。昨日赤字で追加した文の下です。よろしければ見てください(;^ω^)


旧暦10月は神無月(かんなづき)といいますが、全国の神様が出雲に集まり、神議(かむはか)りを行うとのことです。ご存じのとおり、出雲だけは神在月(かみありづき)と言います。出雲大社をはじめとして各社で神在祭などの多くのお祭り・行事があるようです。出雲大社では今年(令和五年)11月22日の「神迎祭」から神々をお見送りする11月29日の「神等去出祭(からさでさい)」まで行われます。出雲大社では「神迎祭」の翌日の「神在祭」の後に「龍蛇神講大祭」が斎行されます。出雲地方はこの頃になると強い風が吹き、海は「しけ」となり、風に乗って産卵のためにセグロウミヘビが漂着し、神の使いとして海岸ごとに漂着したウミヘビが各神社に奉納されます。出雲地方では神々の先導役との伝承があり龍蛇様と呼ばれているそうです(*)

初代天御中主に始まる奴国王が龍蛇神ナーガであるので、ウミヘビの姿に変えて奴国大王が出雲の地に来るということは、王年代紀第18代王スサノヲのヤマタノオロチ伝説を思い浮かべると思います。でも、このヤマタノオロチの話は記紀にありますが、出雲国風土記では語られていないのです。スサノヲはすでに107年頃、奴国宮廷楽師師升らの反乱によって殺されています。ですから、スサノヲは出雲でオロチ退治はできません。

では何でそのような伝承があるのかですが、日本建国の史実を隠すための藤原不比等の創作と考えています(注1)。狗奴国が日本を統一してヤマト政権が成立しますが、ヤマトは大国主と台与に加えて、狗奴国軍の倭国到来が原因で殺された卑弥呼の、三柱の祟りを最も恐れました。後の藤原政権でも同様で、特にこの三柱に様々な別名の神名を与えて各地の神社で祀っています。

特に、大国主の国譲りは実際は出雲の地だけではない列島主要部すべてなのですが、大国主の祖父八束命や古事記で天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)とされた父久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)に所縁のムナカタ海人族の根拠地だったので大国主久々遅彦の史実を隠すために出雲神話が創作されたのです。日本書紀では建国の英雄ヤマトタケルを創作し、本当の主役であった大国主久々遅彦を隠しましたが、古事記を創作した九世紀の学者多人長は大国主の末裔なので、藤原氏に気付かれないようにいろいろと誤魔化しを入れて、大国主神話を挿入したのだと推理しています。

古事記では大国主の系譜を以下の図のように説明しています。図中、実在人物と分かる神を四角の枠で囲っています。そして、すでに推理した事件が起こった年とその年齢から目安として生まれ年を計算して図に書き入れました。父が30歳の時に跡継ぎが生まれたと仮定してます。あくまでも目安です。



そして、この計算で行くと、八束命の父は五十猛神(イタケル)となりますから、間に置かれた神様はダミーのようです。そして、(その2)で述べたようにイタケルの妃木花知流比売(コノハナチルヒメ)の父大山津見神は大国主の分身です。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメのペアからニニギノミコトは、古事記の目的から考えて、イタケルがモデルと気づかせるためだと推理しています。コノハナチルヒメを祀る神社も見当たりませんから、妃の名前は架空のものだと思います。しかしイタケルの妃はムナカタ族の祖神アタカタスの一族と考えられますので、カモフラージュのためでしょう。

同様に日河比売の父淤加美神(オカミノカミ)も大国主の分身と考えています。そして、八束命の祖父とされた布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売を祀る神社も見当たりません。氷川神社の祭神はスサノヲ・イナダヒメと大国主です。また、八束命の両親とされる深淵之水夜礼花神(ふかふちのみずやれはなのかみ)と妃の天之都度閇知泥神(あめのつどへちねのかみ)ですが、父は豊岡市白藤神社の祭神とありますので、大国主とその父にゆかりの土地ですが、八束命を祀る神社は出雲とその周辺ですので、腑に落ちません。創建は683年(白鳳12年)とありますので、実在人物ではないようです。母もよく分かりません。もしも実在人物だったならごめんなさい(;^ω^)

それから、台与と卑弥呼がありますが、二人ともムナカタ海人族ですので図の系譜は誤魔化しだと分かります。ということで、実在の登場人物のイメージができたところで、やはり八束命はイタケルの子と考えるとすっきりします。八束命を祀る出雲市の神社は下の図の長浜神社富神社(とびじんじゃ)です。この地を根拠地としていたのだと思います。Shrine-heritager"長浜神社"および”富神社”によれば、両神社は733年に成立した出雲国風土記に記載された出雲社(いずものやしろ)の論社であり、また927年成立の延喜式神名帳にある出雲神社(いずものかみのやしろ)の論社とあります。これらの神社のどちらかに奴国王スサノヲの後継者八束命が各地のムナカタ海人族の族長らを呼び寄せて、恐らく祖父スサノヲを討った裏切り者の師升らに復讐するための戦略を相談をしたと考えられます(具体的な戦略の詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。(2023.11.29 赤字修正)

出雲国風土記で出雲社は出雲郡の条で出てきます。長浜神社は神門郡にあるので明らかに違います。出雲郡富(とび)村の富神社社伝によると八束水臣津野命が神名火山(かんなびやま)(仏経山)の三条に立ち国引きを思いつかれてその大事を成し遂げられた後 神門水海に近い この豊かな土地に鎮座し出雲社としたとあります」。ですからみんなを集めた神社は現在の出雲大社ではなく、富神社でしょう(「【刮目天の古代史】出雲大社は新しい名称だった!」参照)(2023.11.30 紫字追加)

それでは各地の豪族が、実際問題として出雲にやってこれたのかどうかを検討してみました。気象庁のホームページから日本海の海流の様子がわかるので、図を引用し少し加工しました。



図中に基本的な海流としてサハリンからシベリア南東部沿岸を南向きに流れるリマン海流(寒流)を青線で、東シナ海から対馬と壱岐の間を流れる対馬海流(暖流)を赤線で描きました。対馬と半島南部の間にも流れていますが、この流れとリマン海流が半島の沖でぶつかり大きな渦流が発生します。この図は2023年11月上旬の平均海流ですが、細かく見れば年や季節によって異なります。

しかし、この図で浦項市虎尾岬の沿岸は北方への流れがありますが、東に進路をとって漕ぐと山陰方向への流れがありますので、最初に頑張れば比較的楽に出雲に到着できそうです。対馬市豊玉町からは東側の流れが遅いので容易に対馬海流に乗って出雲にも行けると思います。隠岐の場合は、たまたま今年の11月上旬は出雲との間に強い流れはないようですので楽勝でしょう。しかし、対馬海流が出雲との間に流れている場合は流れを横切る腕力が必要になるはずです。能登半島からは(その2)で述べたとおり、岸に沿って美保関に行けると思います。

しかし、丸木舟を手漕ぎで行くには一日十キロから三十キロと海洋専門家の長野正孝氏が「古代史の謎は「海路」で解ける」(PHP新書2015)で述べています。珠洲市から出雲まで五百キロはありますから、四・五十日はかかりそうです。一・二キロくらいでも車で行くわれわれ現代人に比べると古代の人は偉いですね( ^)o(^ )



ということで、神在月の起源は八束命の国引きだと思いますが、後の時代に縁結びの話になりますので、大国主と妃の台与を祀ることから変わっていったと考えています。神社のしめ縄もヘビの交尾、つまり夫婦の龍蛇神(大国主と台与)を表しているのでしょう。佐太神社の神在祭はお忌祭りだそうですから二柱の鎮魂のようです。


「二匹のヘビが乗っています(*)

【関連記事】
【刮目天の古代史】出雲大社は新しい名称だった!

(*)出雲大社に龍神と蛇神が祀られていた?!「龍と蛇の秘密・謎と由来・意味・歴史」』で検索してください(#^.^#)

(注1)247年、卑弥呼の死後に倭国討伐軍の大将として狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に派遣された尾張王乎止與命(オトヨノミコト、記紀のカグツチ)が倭国に到着したので、倭国王は半島に逃亡したと推理しています。乎止與命は無傷で倭国を手に入れたので魏使張政に唆(そそのか)されて、狗奴国を裏切り倭国王に立ちました。そこで副将だった大国主久々遅彦が了承せず、千人ほど死ぬ内乱が起こりました。それに勝利した大国主が13歳の台与を卑弥呼の後継者として女王に立てて、結局狗奴国を裏切り、魏を後ろ盾にして対立しました。この史実を日本書紀で隠す目的だったと推理しました。その後、尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神、記紀の景行天皇の九州遠征、創作された建国の英雄ヤマトタケルのモデル)が父の仇で大国主・台与らを討ち、その後列島を統一します(注2)。

ところが、その直後280年に、すでに魏から帝位を禅譲された西晋が、恐らく狗奴国の後ろ盾だった呉を滅ぼし三国志の時代は完全に終わりました。卑弥弓呼大王崇神天皇は倭国女王を討ったために、仕返しで西晋に滅ぼされることを怖れて、二人の間の子オオタタネコ(記紀の応神天皇)を探し出して、両親の鎮魂のために祭祀王(初代天皇)にし、狗奴国の王都纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにしたと推理しました。

(注2)藤原不比等はこの史実から大国主の国譲り神話を創作しています。前回(その2)で見たように、藤原不比等は藤原氏の氏神として大国主に国譲りさせたタケミカズチ神を春日大社などで祀っていますが、日本統一で活躍し、駿河で戦死した尾張王建稲種命の霊を祀っているのです(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。





あ、そうだ・そうだ!冬の日本海は風が強くて、波高4m以上6mの「しけ」や6mから9mの「大しけ」さらに9m以上の「猛烈なしけ」も起こります。これも気象庁の波浪情報で分かりますが、3月くらいから11月くらいまではかなり4m以下の日が多いようです。過去二十年くらいのデータが手に入りますので、統計を取ろうとしましたが、結構大変なので断念しました。どなたかご興味のある方は統計を取っていただくと助かります。よろしくお願いいたします(#^.^#)

夜中の2時を過ぎましたのでここで取り合えず、アップしておきます。スイマセン、いつものとおり、後で修正したり、追加する予定ですので時々またのぞいてみてくださいネ(;^ω^)

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国引き神話は史実だった?(その2)

2023-11-21 16:44:38 | 古代史
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2023-11-20 03:28:56の記事で、八束命が盟主だという話ですが、少し言葉足らずだったので説明を追加しました。(2023.11.21 追加)

(その1)では国引き神話の出発地について考えてみました。通説と違う場所がありますが、考古学などの成果から確認したので可能性は高いと考えています。今回はそのつづきです。到着地について、もう一度下の図を見ながら順番に確認していきましょう(注1)。



(1)出発地:志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき) [浦項市虎尾岬]
   到着地:去豆(こづ)の折絶(をりたえ)から 八穂爾(やほに) 支豆支(きづき)の御埼
      [許豆神社ー>日御碕神社

出雲市の十六島湾の東側の奥が去豆(小津町)です。三国史記 新羅第四代王脱解は倭国の東北千里のタバナ国出身の倭人とあり、奴国王スサノヲがモデルだと考えています。脱解王の子孫が新羅(当時は辰韓)の王となっています(詳細は「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。スサノヲの王子イタケルの子孫八束命が盟主とされるのは、奴国大王スサノヲの嫡流だからなのでしょう(注2)(2023.11.21 赤字修正)

小津町には上のリンク先の地図にありますが、異なる祭神の許豆神社が五社もあります。例によって藤原氏が日本建国の真相を隠すために要所要所でカモフラージュしていますので、ここでもやられていると考えています。祭神がウカノミタマ(稲荷神)は女王台与ですし、エビス(事代主)は大国主の長男ですが、これもカモフラージュで大国主の分身なのです。これらの中に祭神をスサノヲとする「北宮」と呼ばれる神社がありますから、これが国引き神話の許豆神社だと考えられます。

そして、八穂爾支豆支の御埼の日御碕神社も日沈宮(下の宮)の主祭神が天照大御神とありますが、神の宮(上の宮)の主祭神が素盞嗚尊(スサノヲ)ですので、やはりこちらが本命でしょう。脱解王スサノヲの子孫がこの地に滞在して、鍛冶製鉄の技術を八束命の部下に伝授したのではないかと考えています。この周辺には有名な遺跡、荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡西谷墳墓群があります。

(2)出発地:北門(きたど)の佐伎(さき)の国 [隠岐市海士町]
   到着地:多久(たく)の折絶から 狭田(さだ)の国 [多久神社ー>佐太神社

多久神社は出雲市多久町と松江市鹿島町にありますが、前者は大船大明神とされており、多伎都彦命と天御梶姫命が祭神で、猿田彦命と鈿女命が合祀されています。大国主と台与の分身ですし、この神社の位置は折絶ではありません。

後者は鹿島町つまり、大国主に国譲りさせた藤原氏の氏神タケミカズチ神に因む地名となっています。すでに大国主の生誕地にも鹿島という地名がつけられて、誕生之浦の石碑もタケミカズチの上陸地点だとすぐに分かる言い訳していますので、大国主の生誕地だとバレました(詳細は「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。ここも同様に、藤原政権により命名された地名ですし、湾入している鹿島町古浦からさらに奥に入ったところにありますので「多久の折絶」に該当します。主祭神は天甕津比女命(あめのみかつひめのみこと)で、八束命の子赤衾伊努意保須美比古佐倭気命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)の妃として出雲国風土記秋鹿郡伊農(いぬ)郷と出雲郡伊努(いぬ)郷に登場します。水戸神(港湾の神)だそうで、いろいろと話があるようです。しかし熊崎神社のスサノヲが明治四年に合祀され、配神とされていますので、こちらの松江市鹿島町多久神社が本命だと思います。(2023.11.22 赤字追加)

そして佐太神社の主祭神は猿田彦大神(さるたのひこおおかみ)ですが、天孫降臨のニニギノミコトを先導した教導の神ともいわれており、初代応神天皇を神託によって即位させた大物主大神つまり大国主の史実と同様なのです。サルタヒコはアメノウズメとペアです。アメノウズメは、応神天皇の母神功皇后・女王台与の分身なので、サルタヒコも大国主の分身です。いつもこの二人のペアが様々な別名で祀られています。正体を隠すつもりでも余りにもやり過ぎているので、分かってしまいます。ただし、現存する最古の歴史書が天皇の歴史書だと洗脳されていると無理ですが(詳細は「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!」「「申」をなぜ「サル」と読むの?」「古代史のカギを握る神々の正体?」参照)。そして、南殿に素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱が祀られていますので、こちらが本命の神様ですが、また後で説明します。

(3)出発地:北門の良波の国 [対馬市豊玉町仁位]    
   到着地: 宇波の折絶から 闇見(くらみ)の国 [長見神社ー>久良彌神社

wiki「国引き神話」に「宇波をかつての手染(たしみ)郷とされる松江市手角(たすみ)町、闇見を久良弥神社のある松江市新庄町」とあるので、この地区に神社を見ると藤原氏の氏神を祀る春日神社があります。つまり上述のタケミカズチを祀っているのですからに宇波にあった神社が別に移されているはずです。近くに有名な武蔵坊弁慶の生誕地とされる長見神社がありました。国譲りと弁慶とは関係ないと思いますが、祭神がニニギノミコトと木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)です。ニニギは王年代紀第四代天爾聞尊が祖父の第二代王天村雲尊から三種の神器を渡されて、早良平野から糸島平野・福岡平野の平定を命ぜられ国土を拡張した史実から作られた神話だと突き止めています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。社名も「長」はナーガ(龍蛇神)つまり奴国大王の意味です。「見」は「海」かも知れません。

次回説明する予定の古事記による大国主の系図にありますが、八束命の祖イタケルの妃が木花知流比売(このはなちるやひめ)という、とてもまじめに付けた名前とは思えないです。なので、これも古事記の目的である、正史で隠された真相を藤原氏に分からないようにそれとなく暴露しているのではないかと気づきます。絶世の美女の木花開耶姫命の父は大山津見神(おおやまつみ)ですが、これも大国主の分身と突き止めています(詳細は「大山祇も大山咋も正体は大国主でした」参照)。長見神社でスサノヲの王子イタケルが祀られているのを隠すためにニニギノミコトとしたと考えられます(注3)(2023.11.26 赤字追加)

久良彌神社の祭神は闇於加美神(くらおかみのかみ)・速都牟自別神(はやつむじわけのみこと)とあり、前者は水神、龍神、つまり奴国王・龍王ですが貴船神社の祭神ですから大国主の分身です(詳細は「貴船神社のご祭神の正体は?」参照)。後者は志那津比古(シナツヒコ)とありますので、シナツヒメとペアで登場する神ですから志那津比古は大国主の分身なのです。久良彌神社に明治四十五年に日御碕社の素盞鳴尊が合祀されているので、元はスサノヲを祀っていたので戻したと考えています。同時に、諏訪神社(建御名方命)を合祀したとありますが、これも大国主の分身だと考えています。

(4)出発地:高志(こし)の都都(つつ)の三埼 [珠洲市] 
   到着地:三穂(みほ)の埼 [美保神社

能登半島からやって来るのですから、当然当時は丸木舟ですので、海岸に沿って出雲に来たはずです。最初に突き当たる美保神社で決まりと思ったのですが、祭神は事代主と妃の三穂津姫命で、それ以外に配神、境内社、摂社の情報がありません。この二柱は大国主と台与の分身だと考えていますので、八束命の時代の後ですからこの神社ではないはずです。そこで、国土地理院の地図に鳥居のマークがあるのですが、神社名が載っていないのでGoogleMapで確認して、ようやく探し当てました。美保関町七類明島神社(めいじまじんじゃ)です。説明書きは以下のとおりです。

美保関町七類の惣津地区の入り口にある砂州で繋がった島の上にあります。現在は質留比神社の境内社になっていますが、社殿は存続しています。 詳細は不明です。

 一の鳥居の扁額に「住吉神社」とあり、以前には「住吉神社」と呼ばれていた時期があったと思われます。
 神社の少し下に平場があり、以前に相撲が行われていたのはこの場所かもしれません。

 「小島の中腹に、昭和四十七年頃までは広場があり、・・・奉納大相撲が開かれていたとのことです。」(島根半島四十二浦巡り)
 「質留比神社 境内社 明島神社(海津見命)」(神国島根)
 出雲風土記:
 主祭神:海津見命わだつみのみこと


質留比神社(しちるいじんじゃ)を調べると明治になって国吉明神から名前を変えたとあります。国吉明神がなんと、天児屋根命、つまり藤原・中臣氏の祖神なのです。住𠮷大神は伊弉諾尊から海を任されたスサノヲですから、ここでいいと思います。念のために弥生時代の遺跡をチェックしました。明島神社から南西に直線約3kmに縄文から古墳時代のサルガ鼻洞窟遺跡(さるがはなどうくついせき、崎ヶ鼻洞窟遺跡)があります。ただし島根県遺跡データベースには「散布地その他の墓と」あるだけで、残念ながら、遺物など詳細は分かりません。

(注1)ここで、「八穂爾(やほに)」はwiki「国引き神話」の注[3]に『諸伝文には「八穂米」とあるが内山真竜「出雲風土記解」にしたがい、ここでは「米」は「爾」の略字の「尓」の誤りと考え、「八穂爾」とする』とありますが、「良波」の例もあるので、「八穂米」が正解かも知れませんが、よく分かりません。また「折絶(をりたえ)」というのは注[4]「湾入した海岸の最奥部の意」とあります。

(注2)イタケルの妃(古事記の木花知流比売、ただし、その父オオヤマツミは大国主の分身と見ている)がイザナミ(記紀の押媛と推理)の父阿田賀田須命(アタカタスノミコト、ムナカタ族の祖神、記紀の天足彦国押人命、ただし、第5代孝昭天皇皇子とされるのは誤魔化しと見ている)の王族であるので八束命がスサノヲの嫡流とみなされていたと考えられます。したがって、以下の三国史記の新羅王の系図にある脱解王スサノヲの新羅で生まれた昔氏の王族は庶流ということになります。



(注3)対馬市豊玉町仁位和多都美神社の境内社波良波神社の横の濱殿御子神社で御祭神が彦火火出見尊と豊玉姫とありましたから、濱殿、つまり豊玉彦は豊玉姫の父ですが、彦火火出見尊の父だとするとニニギミコトということになります。(その4)に記事にしていますが、その前に(その3)から順にご参照ください!(^_-)-☆(2023.11.26 青字追加)

(つづく)

最後の美保神社には参りました。すっかり騙されたので、思った以上に時間がかかりましたので、残りの話は(その3)に回すことにします。また、よろしくお願いいたします(#^.^#)

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国引き神話は史実だった?(その1)

2023-11-18 02:28:09 | 古代史
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今回の記事は前から気になっていた国引き神話です。出雲の道の駅「大社ご縁広場」に下のような立派なレリーフがありますので、その写真をGoogle Mapからお借りしました。


ここに登場する神様は八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと、以下、八束命という)です。古事記によれば大国主の祖父淤美豆奴神(おみづぬのかみ)ということで、倭国大乱の英雄で魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦)の父ということになります。兵庫県豊岡市久久比神社祭神で木の霊ですから全国の上棟式の祭神、スサノヲの王子イタケルの子孫です。

その八束命は出雲国風土記意宇郡の最初に登場します。出雲は最初は小さな国だったので八束命が余った土地に綱をかけて引っ張ってくるという話になっています。全部引き終えて「おえ!」って叫んだので、意宇郡という地名になったそうです。しかし、国土そのものを引っ張り寄せることは、当然ですがそれは神様でも無理?いや、日本の神様は人間ですから(;^ω^)

ですから八束命が縄文海人ムナカタ族を束ねる王として、各地に分散していた部族を出雲に集めて、傘下にした史実を神話にしたものだと考えています。伊都国を王都とする倭国王師升に祖先のスサノヲ大王(第18代奴国王)が殺されて倭国を奪われた恨みを晴らすのが大きな目的だと思われます。半島南部の鉄を支配したスサノヲ大王の末裔ですので、そのコネで鉄を狗奴国側に供給しましたが、鉄の交易ネットワークを作って隆盛になったと考えています(「新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆」参照)。倭国大乱は、半島の混乱で倭国が楽浪郡との交易が廃れて衰弱していた時期に狗古智卑狗(久々遅彦)が活躍しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。久々遅彦は日本海沿岸の部族を統合する王の襲名と考えています。八束命がその基礎を造ったのだと考えられます。

wiki「国引き神話」に以下の4カ所から国を引っ張って、それぞれの到着地は以下のとおり、まとめられています。

(1)出発地:志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)
   到着地:去豆(こづ)の折絶(をりたえ)から 八穂爾(やほに) 支豆支(きづき)の御埼
(2)出発地:北門(きたど)の佐伎(さき)の国
   到着地:多久(たく)の折絶から 狭田(さだ)の国
(3)出発地:北門の農波(ぬなみ)の国     
   到着地: 宇波の折絶から 闇見(くらみ)の国
(4)出発地:高志(こし)の都都(つつ)の三埼
   到着地:三穂(みほ)の埼

到着地については出雲国内ですので、その比定地については調べられているようです。問題は、出発地です。以下のように検討した結果を先に図に示します。到着地については後で説明しますが、比定地となる神社を示しています。



どこの豪族なのかについてはっきりしているのは、まず(2)の北門の佐伎の国は隠岐の海士郡佐作郷(あまぐんさきごう) です。隠岐産の黒曜石が有名です。島根県の資料によれば、島根県を中心に中国地方から兵庫県・滋賀県の遺跡で見つかっています。ウラジオストック・ナホトカの1万8千年前の遺跡や朝鮮半島からも出土していますので、縄文時代よりも前から海人族が日本海を丸木舟で渡って交易していたのでしょう。

次に(3)も北門とあるので隠岐のことだとすると、隠岐は島後(どうご、隠岐の島町)と島前(どうぜん)と呼ばれる西ノ島町などの島々に分かれます。(2)の海士郡は島前の中ノ島(海士町)にあります。ですから(3)は隠岐道後ではないかと考えられますが、隠岐の黒曜石は島後島が原産地として知られているので、海士郡佐作郷の豪族が隠岐の島全域を支配していたようです。それを裏付けるものとして、上の図にしました弥生後期後半の出雲を発祥とする大型四隅突出型墳丘墓が拡散していて、④隠岐島後島隠岐の島町大城遺跡が見られます。ですから、北門は隠岐に限定されるものではなく、「越後付近もしくは石川県と解釈する説もある」とあります。(2023.11.19 赤字訂正)

しかし、(4)の出発地:高志の都都の三埼は能登半島の珠洲市のことです。この時代の遺跡として珠洲市粟津カンジャバタケ遺跡があります。縄文から弥生時代を含む古代から中世にかけての集落跡です。だいじょう寺畑遺跡は縄文時代から古代・中世にかけての墓があります。また古墳時代の円墳がいくつか見られますので、卑弥呼を祖とするムナカタ海人族の和邇氏のものと考えられます。

ですから(3)の出発地の北門は韓半島への入り口という意味と考えると、対馬が浮かび上がってきます。北門の農波ですが、wikiの注[5]に諸伝文には「良波」とあるが千家俊信「訂正出雲風土記」にしたがい、ここでは「農波」とする。とありますので、「良波」も視野に入れて探しました。ありました。豊玉町仁位ハロウ遺跡です。弥生後期後半から終末期にかけて対馬の中心地だったようです。広形銅矛や小型内行花文仿製鏡などが出土しています。対馬の人々は魏志倭人伝にも南北に移動して交易して暮らしているとあります。和多都美神社 境内に波良波神社(はらへのかみのやしろ)があります。祭神は海神豊玉彦ですから、記紀神話の日向三代を思い出します。姉豊玉姫と妹玉依姫の父親ということです。長くなるので別の記事で述べたいと思いますが、八束命のことなのかも知れません(^_-)-☆。

最後になりましたが(1)の出発地はwikiには「新羅国」とあるだけです。「新羅の岬」ということで半島の南東部を探しました。ありました。ちょっと不気味な写真ですが、韓国最東端にある浦項市虎尾岬がそれです。

浦項地域の墳墓は支石墓、周溝墓、土壙墓、石棺墓などがあります(朴栄九・平郡達哉訳「(翻訳)朝鮮半島東海岸地域青銅器時代墳墓の変遷」島根大学法文学部紀要12号、2016,p.54)。これらは縄文海人ムナカタ族のものと同じ形式です。原三国時代の集落のある慶州市の城洞遺跡では本格的な製鉄遺構があります(西谷正「韓国考古学の新世紀」韓国研究センター年報Vol.2,p.4)。半島南部で出土している弥生土器は見られませんが、上図のとおり鹿骨製アワビオコシ文化圏ですから出雲と交流があったと考えられます。(2024.6.9 赤字訂正)


つづく

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