刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】ウソはいつかバレる?(@_@)

2024-10-07 00:13:01 | 古代史

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長屋王の変の真相と謎!藤原氏との対決と祟り
むらくも歴史チャンネル@YouTube

とても参考になる動画をありがとうございます。
天武天皇の後に高市皇子が即位していた証拠が見つかり、藤原不比等が暗殺して文武天皇を15歳で即位させたと推理しています。ですから持統天皇も存在しないということなのです。それを誤魔化すために前例として推古天皇皇極・斉明天皇も創作しましたが、これらもフェイクであることが、天智天皇の出自を調べて分かりました(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

ということで、持統の後の女帝元明天皇元正天皇聖武天皇の娘孝謙・称徳天皇もすべて架空の女帝ですので、史実を誤魔化したと分かります。ですから、藤原四兄弟長屋王(本当は親王で、即位していたかも?)やその後の政権抗争の史実は続日本紀の内容とかなり異なるはずです。

大きな流れは藤原四家の権力闘争で最終的に南家の仲麻呂を倒した北家の勢力が天智天皇中大兄の孫光仁天皇そしてその子の桓武天皇を立てることによって平安遷都して終了したということだと思います。おっしゃるとおり、この辺りを今後証拠を固めて、もっと詰めていく必要がありますね。日本の古代の真相究明はまだこれからですよ。どうもお邪魔しました(;^ω^)

@user-ukiy
父、鎌足と中大兄のせいなんです、
不比等、皆んなにあやまれw

@katumoku10
平安時代末期ころは、日本書紀の神話は、全く異なるナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀と呼ばれるものに変貌していたのです(斎藤栄喜「読み替えられた日本神話」など参照)。

古事記は祭祀関係の氏族によって細々と読み継がれていたのですが、江戸時代になって国学者本居宣長が発掘して大絶賛しました。その影響を受けた神道家平田篤胤が記紀神話に基づく復古神道を提唱したのです。それが幕末の志士たちに人気になり、明治新政府は、神仏分離令を出したら全国的に廃仏毀釈の運動が起こり、神を祀っていた寺院が打ち壊され、無理やり僧侶は還俗させられたのです。日本版文化大革命でした。

国家神道が創設されて学校で国史が教えられるようになって、記紀神話が日本古来からの伝承だと洗脳されたので、戦後の日本人も何となく日本の歴史だと思わされてきたのです。今、ようやく日本書紀のトリックが解明されてきましたので、本当の古代史はようやくこれから分かってきますよ(^_-)-☆

不比等も不都合な歴史を隠すために神話まで創作したのですが、何でこんなに長くウソがバレなかったのか自分でも不思議に思っているはずですね(;^ω^)

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

日本神話が隠した大きな秘密?(@_@)?

以下の図は藤原不比等が神話を創作して史実を隠した事実を示しています。神話の神と実在人物の対応関係が分かります。日本書紀が隠したかった大きな秘密のひとつは藤原不比等が権力を握るために天皇を弑逆した史実で、もうひとつは天智天皇と藤原氏の出自だったのです(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」・「天智天皇とは何者だ?( その1 )( その4 )」参照)。

 

 

 

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【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆

2024-10-06 15:17:27 | 古代史

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#2024-07-09 00:00:04に記事にしましたが、その後分かったことを入れて、本文末に(注)を追加しました。よろしければまた、お付き合いください(;^ω^)



和歌山県橋本市隅田(すだ)八幡神社所蔵の青銅製で径19.9cmの人物画像鏡です。その周縁部の漢字48字の銘文に古代大王名などの人名が記されています。古代史解明のための重要な資料ですので国宝に指定されています。

金石文の内容はwiki「隅田八幡神社人物画像鏡」によると、
癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。」です。

癸未年を443年とするか503年とする説がありますが、諱に「斯麻(三国史記・三国遺事では斯摩)」を持つ百済の武寧王(在位:502年 - 523年)が作らせたと見るのが妥当ですので、503年説が正解だと思います。

「日十」を「日下(くさか)」つまり日本(ヤマト)と読み替えると、「ヤマトの大王の癸未の年八月」と読めます。「男弟王」を継体天皇の諱「乎富等、袁本杼(ヲホド)」とする説がありますが、「男弟」は「ヲオト」であり完全に一致しません。また、日本書紀によれば、継体天皇の在位は507年ー531年ですので該当しません。そして継体天皇は越前などに本拠地があり、新羅系と考えられますので反百済の大王のはずですから、百済王から鏡を贈られる理由が分かりません。単なる外交儀礼なのかも知れませんが、それにしては河内直(かわちのあたい)は百済王権に仕えた倭系百済官僚です。河内は物部氏と強い関わりがありますので親百済ではない継体天皇に贈る銘文に書く内容でもないと思います。

武烈天皇の在位が499年ー506年になり該当します。「三国史記」によれば502年に倭軍が新羅を攻め、その結果新羅王が薨去したとありますので、百済武寧王は武烈天皇に感謝の意味で鏡を贈ったと考えるのが妥当と思われます。

また、「中国の史書『梁書』武帝紀では、武烈天皇4年にあたる壬午年(502年)4月、(天監元年4月戊辰条)に「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」を進号されたと記載されている」とありますので、この「三国史記」の記事を裏付けるものでしょう。

wiki「倭の五王」によれば、倭王「武」は478年(昇明2年)に宋に『上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする』と記録されています(『宋書』順帝紀、夷蛮伝)。また翌年479年(建元1年)には南斉の高帝の『王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号』(『南斉書』東南夷伝)とあります。

この時の倭王「武」は雄略天皇ですが、489年に崩御しています(【関連記事】「空白の世紀と倭の五王の謎(その3)」図参照)。

武烈天皇の和風諡号は「小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)」ですので、雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)と仁徳天皇(大鷦鷯天皇)の和風諡号から作られたものになっています。武烈天皇も倭王武としたのはよく分かりませんが、武烈天皇が倭王「武」として朝貢したか、シナの王朝に朝貢していた雄略天皇と似た名前なので「梁」の武帝が武烈天皇を倭王「武」と解釈したのではないかと思います。(2024.10.7 赤字追加)

それから「男弟(ヲオト)王」という名称ですが、魏志倭人伝の卑弥呼の政治を補佐する人物を連想します。武烈天皇も姉の姫巫女が発する太陽神の神託に基づく政治形態でしたので、男弟王と呼んだのではないかと思います。父仁賢天皇には七人の皇女がおり、武烈天皇が唯一の男子だったのですが、武烈天皇の同母姉に手白香皇女(継体天皇后)と橘仲皇女(宣化天皇后)がいましたので、どちらかが姫巫女だったのではないかと思います(琉球神道のヲナリ神、詳細は「誤解と幻想の卑弥呼」参照)。

武烈天皇は日本書紀では泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや、桜井市出雲に比定)を都として、悪逆非道の異常行動が記録されていますが、古事記には一切ありませんので、継体天皇を登場させるための日本書紀のデマのようです。「意柴沙加(おしさか)の宮」は桜井市忍阪と考えると、桜井市出雲とは1kmも離れていませんので、神社を探しました。

忍坂坐生根神社(おしさかにますいくねじんじゃ)は式内大社で、旧社格は村社です。創建年代は不詳ですが、天平2年(730年)の『大和国正税帳』に「生根神戸」とあります。現在の祭神は少彦名神とされていますが、延喜式神名帳などに祭神が「生根神」とあり不詳です。

桜井市出雲の泊瀬列城宮跡付近に十二柱神社があり、境内には武烈天皇社の祠と「泊瀬列城宮跡」の石塔がありますが、古い形式でもなさそうです。武烈天皇(男弟王)が「意柴沙加の宮」に居たとすると、悪逆非道とされた武烈天皇ゆかりの忍坂の村民が朝廷に憚って「生根神」として祀ったのかも知れません。(;^ω^)

武烈天皇の父は億計天皇(仁賢天皇)で、履中天皇の長子市辺押磐皇子の第二子です。安康天皇が暗殺された後の後継者争いで父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されたため、弟弘計天皇(顕宗天皇)と共に身を隠しています。従って、武烈天皇は親新羅派の雄略天皇と敵対する親百済派の天皇と考えられますので、銘文に不明な個所はありますが、武烈天皇として矛盾はないようです。

ですから武烈天皇は実在人物と見ていいと思います。億計天皇・弘計天皇と同母姉の飯豊女王の話は作り話っぽいので、はっきりとは言えませんが、雄略天皇崩御から武烈天皇即位までの十年間はヤマトの大王は空位だったようです。高句麗が台頭し、半島情勢が不穏だったので、半島の鉄資源を確保するためにヤマトの豪族らが合議で、反雄略天皇の勢力と和睦するために武烈天皇をヤマトの大王に即位させたと考えています。だから、和邇氏・息長氏系の雄略天皇(注)と尾張系(ニギハヤヒ大王系)の仁徳天皇の名前を武烈天皇に付けたではないでしょうか(#^.^#)(2024.10.6 赤字追加)

(注)雄略天皇の祖父住吉仲津皇子は、父が尾張腹の仁徳天皇ですが、母が和邇氏八田皇女ですから反尾張系だったです。つまり和邇氏の祖で、三世紀後半に卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主)が尾張王ヲトヨノミコトを討ったので、尾張王建稲種命に父の仇で討たれました。従って、三世紀末に応神天皇が即位して和邇氏系と尾張系の豪族が和解はしても、確執がありますので五世紀の雄略天皇は厳しい半島情勢に対応するために強いヤマトの大王を目指し、尾張氏と同族の吉備のニギハヤヒ大王の嫡孫(欽明天皇の父)を討ち、中央集権化しようとしたと推理しています。その過程で皇位継承権のある親族までほとんど討ってしまったのです。武烈天皇の登場で両者はまた和解したのですが、後継者を決めずに武烈天皇が崩御したので、吉備から九州に逃亡していたニギハヤヒ大王の直系欽明天皇が九州に拠点を置く物部系氏族の支援でヤマトの大王に立ちます。その史実を隠すために欽明天皇の父として継体天皇を登場させて、筑紫の磐井の乱の話を創作したと推理しています。

継体天皇は架空の人物だと推理しています。(2024.10.6 青字追加)


【関連記事】
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
馬韓の伯済国の倭人斯摩(百済武寧王)が502年に百済を乗っ取ったのは武烈天皇と強いつながりがあり、事前の盟約があって、倭国軍が支援したのかも知れませんね(^_-)-☆

「三国史記」によれば、高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った際に、百済の蓋鹵王の命令で子の文周が新羅に救援(羅済同盟)を求め、兵1万を率いて都に戻った時には蓋鹵王は処刑されていたので、直ちに王位につき熊津(忠清南道公州市)に遷都したとあります。「日本書紀」では、雄略天皇21年(477年)3月に久麻那利(こむなり、熊津を指す)を百済の汶洲王に下賜して百済を復興をさせた、と記しているので、ヤマトの親新羅派も百済を支援していました。百済と新羅が本格的に反目しだすのは、この後のようです。武寧王の百済乗っ取り事件(502年)が関係しているのではないかと考えています。

空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)




(左クリックで拡大)


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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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古事記・日本書紀の正体は?(@_@)

2024-10-05 16:12:38 | 古代史

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古事記日本書紀が編纂されるに至った経緯と本当の理由とは!?
進撃の信政2nd
@YouTube


とてもよく整理されていたので最後まで拝見させていただきました。有難うございます。
しかし、残念ながら記紀に関するご主張は誤りだということが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています。

日本書紀の中で創られた神話は、藤原氏にとって不都合な史実を隠ぺいする目的だったことが分かりました。また人代についても不比等やその父鎌足らが行ったヤマト王権に対する蛮行を隠すために歴史を改ざんしたのです。そして、藤原不比等は権力を握り、藤原氏にとって都合の好い大宝律令を制定させて、藤原氏が神社行政を握りますので、神社の由緒、祭神、社名までことごとく創作した神話に合わせて変更させています。

近江八幡市日牟禮八幡宮に不比等がわざわざ出かけて社名を変えさせた証拠が、不比等の歌として残っていました。卑弥呼を隠すためでした(^_-)-☆

(日牟禮(ひむれ)八幡宮 滋賀観光ホームページより)

しかし、当然、史実を隠されたことを不満に思う人々がいます。本当の祭神を摂社や末社や小さな祠でひっそりと祀っているのです。古史古伝についても、藤原氏に発覚した際の保険のために日本神話に沿う部分も作って、荒唐無稽な話の中で真実を伝えようという努力がされているという見方が正しいのです。

おっしゃるとおり、日本書紀よりも先に作られたことにした古事記は9世紀に突然表に出てきたのものです。正史に古事記の記録はありません。日本書紀が古事記を参照した痕跡もありません。古事記は日本書紀が隠した史実を、日本書紀の内容に沿って藤原氏に悟られないようにして暴露する目的の暗号書だったのです。

建国時代の事実と古事記の日本書紀と異なる部分を参考にすると暗号が解け、史実が浮び上がってきました。高天原神話のもとになった2世紀・3世紀の史実や空白の4世紀と倭の五王の謎や富雄丸山古墳の被葬者も判明しています。

皆さんは記紀が天皇の歴史書だと洗脳されているので、折角の史実にも気が付かないのです。

例えば、日本の最初の王墓は紀元前4世紀初頭の福岡市吉武・高木遺跡です。弥生前期末から中期初頭の三代の王墓が見つかっています。宋史 王年代にある初代天御中主・二代目天村雲尊・三代目天八重雲尊とそれぞれの王妃や王子たちの墓があり、二代目王の墓からは三種の神器が揃って出土しているのです。そして4代目天爾聞尊(あめのににぎのみこと)から糸島平野・福岡平野を平定して春日市須玖岡本遺跡に王都を遷した史実が、天孫降臨神話の元ネタだったことが分かりました。つまり、日本の皇祖神とされた奴国王の史実が浮かび上がって来ました。

新唐書にある「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」というのが正しかったと判明したのです。

これによってその後の日本の歴史と隠された古代史の謎はほとんど解明できました。不比等が隠さねばならなかった史実も分かってきました。

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【付録】古事記が暴露した主な史実について

(1)新唐書・宋史が記した王年代紀で示した初代奴国王天御中主を、日本書紀で高天原に最初に登場する神として古事記でも登場させ、日本書紀の神代七代前に五代の別天神を紹介することによって、神代の高天原の神々が、宋史王年代紀に記載した倭国を支配した奴国王のことだと示唆した(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

(2)高天原を追放された乱暴者の神が、八百万の神々に髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされ、全財産を没収されて追放されたと書くことによって、107年に後漢に朝貢した倭の伊都国王師升が第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った史実を示唆した(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

(3)日本書紀の神武東征神話が真の初代応神天皇の即位の史実を誤魔化す話であることを示唆した。日本書紀で登場するナガスネヒコの別名をトビヒコと明かすことにより、トビヒコの正体の大国主がヤマトのニギハヤヒ大王の子孫に殺された後に大国主の祟りにより、大国主の子(応神天皇)が祭祀王として纏向遺跡に呼ばれてヤマト王権が成立した史実を示唆した(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

(4)日本建国の主役であったスサノヲの子孫の出雲・丹後王三代の王八束命(出雲国風土記の神八束水臣津野命の略称)・日高彦(大国主高野御子の父)の正体を日本書紀は日向三代の神話で隠したことを示唆する神名を与えた。八束命は淤美豆奴神(オミズヌノカミ)とした。またその子日高彦(穂高彦)を天之冬衣神(アメノフユキヌ)としたが、冬の季語がホダ(木切れ)なので八束命と日高彦が木霊イタケルの子孫であることを暗示した(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。

(5)空白の四世紀の謎を解明するためのヒントを与えた。仁徳天皇が、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ、宇治天皇)を暗殺して皇位を奪った史実や卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)の孫の菟道稚郎子の妹八田皇女と仁徳天皇の子住吉仲津彦(住吉天皇)が即位した後、異母兄弟たち(履中天皇・反正天皇)に暗殺された史実に加えて、倭の五王の系譜を示唆するために日本書紀と異なる崩年干支を記載した(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明した(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

(6)日本書紀が隠した天智天皇の真の系譜に気付かせるヒントを与えた。日本書紀が天智天皇の祖父とした押坂彦人大兄の妃糠手姫皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)が、日本書紀が天智天皇の母とした宝皇女(タカラノヒメミコ、皇極・斉明天皇)と同じ名前の宝王(タカラノヒメミコ)だったことを明かすことで天智天皇(中大兄、中津王)の真の母が糠手姫皇女であったことを示唆した(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

【関連記事】

秦氏と古事記の関係?

古事記を作った多人長(オオノヒトナガ)が多氏の祖神を神武天皇の皇子カムヤイミミとしたのは、本当の初代応神天皇の皇太子菟道稚郎子(宇治天皇)の子孫で、秦氏(武内宿禰の長男波多八代宿禰の子孫)と親戚のような関係(多分、出雲国意宇郡を王都とした八束命の子孫で同族)だったことを示唆していますよ(^_-)-☆

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邪馬台国は今、ブドウ園?

2024-10-04 10:14:33 | 古代史

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【邪馬台国の女王】卑弥呼は99.9%福岡県にいた!?【データサイエンスで解き明かす古代史】
レイの謎解き日本@YouTube

魏志倭人伝は三世紀の倭国のことが正しく書かれているはずだから、正しく解釈すれば分かるはずというのは思い込みだったのです。邪馬台国の行程記事には政治的な理由でウソが書かれていると見抜けないから、江戸時代から三百年かかっても解決しないのですよ(#^.^#)

行程記事は意図的に邪馬台国を帯方郡から東南万二千余里で魏のライバルの呉を東海上から挟み撃ちする東夷の大国としたいために政治的に創られたものなのです(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」「「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)」」参照)。

ですから、魏志倭人伝に描かれたその他の邪馬台国の条件を調べれば決定できますが、残念ながら安本先生の手法では邪馬台国を見つけられません。鉄製品や絹織物や玉や鏡など人が容易に運べるものですから、決め手にはなりません。

それよりも、魏志倭人伝に描かれた以下の地理的条件に合致する場所を見つければいいのです。
①倭国は温暖で冬でも生野菜が食べれて裸足で生活できる場所
②「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」とあるので九州説なら周防灘に面した福岡県東部だけでなく、大分県豊前地方も該当します。それ以外は該当しません。列島内の纏向説やほとんどの場所は不適合。
③急造りの径百余歩の冢(直径約150mの円形墳丘墓/円墳で、ただ土を盛り上げただけの塚)の存在
④墓の周辺に弥生後期から古墳初頭の城柵のある集落(要害堅固な山城)。卑弥呼は人前に出ず、奴婢百余名が殉葬とあるので千人の奴婢が居る大集落というのは潤色の可能性が高い!纏向遺跡には防御施設は見られない。

これらの条件に合致する卑弥呼の墓を発見しました。

(クリックするとGoogle Mapにジャンプ)

大分県宇佐市安心院町「三柱山古墳」です。周辺に卑弥呼の伝承や遺構・遺物など数多くあります。

卑弥呼は宇佐神宮の比売大神・宗像女神市杵島姫と推理しました。

考古学や民俗学などの成果でいくつも検証して推理しています。

詳しくは「刮目天の古代史 卑弥呼の墓は見つかってるよ!」「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。お邪魔しました。

【補足】西日本有数の生産量を誇る ~安心院ぶどう~(宇佐市公式観光サイト)

ぶどうの栽培に適した気候は、次のような条件を満たしています。
  • 平均気温が10~20℃程度
  • 日照時間が長く、年間日照時間が1300時間程度
     
  • 適度な降水量で、夏に雨が少ない
     
  • 昼夜の寒暖差が大きい
     
  • 冬季は氷点下にならない温暖な気候

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「継体持統」によって架空の天皇を示唆したのか?(@_@)

2024-10-02 22:56:50 | 古代史

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#先ほどコメントを頂き、話の人間関係がかなり複雑で分かり難いようなので、応神天皇から倭の五王までの系図の下に、ちょっと煩雑な系図ですが追加しました。よろしくお願いいたします(^_-)-☆

徹底的に隠蔽!?ニギハヤヒはヤマト王権の初代統治者
むらくも歴史チャンネル@YouTube


いい話題をありがとうございます。
おっしゃるとおり、日本書紀は完成当時の権力者の藤原不比等が主導して、藤原氏に都合の悪い建国時代の史実を神話に閉じ込めて、人代の歴史もかなり改ざんしたことが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しました。

神社伝承ですが、建国時代に活躍した豪族を衰退させるために創作した神話に合わせて祭神・由緒・社名まで変更させています。

さらに、明治になって国家神道が創設されて記紀神話に合うように徹底して変更されてしまいましたので、表の神社伝承を信じると訳が分からなくなります。地元の人たちが祀る摂社や末社に本当の祭神が隠されています(例えば、京丹後市奈具神社の末社(新羅神社)で本当の祭神スサノヲが祀られています。詳細は「乱暴者の神スサノヲは実在人物だった?!(^_-)-☆」参照)。

ですから記紀のストーリーで仮説を組み立てても事実に合いませんので、不比等の意図を読んでなぜウソをついたのかを考えて、仮説を作り、事実で検証してゆくと真相らしいものが見えてきました。

ニギハヤヒは本当に徹底的に隠されているのですが、ヒントとなる事実から鬼退治した吉備津彦として隠された楯築王墓の被葬者だということが判明しています。ニギハヤヒの子孫がヤマト王権を成立させ、今上陛下の祖天智天皇がニギハヤヒの嫡流だと分かりました。

よろしければ「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」・「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)」「天智天皇も天武天皇もアメノタリシヒコの孫?(@_@)」などをご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

折角ですから、何故隠されたかについてもう少しだけ説明します(#^.^#)

京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺は、天智天皇と飛んでその孫の光仁天皇から今上天皇までの歴代の天皇を仏式でお祀りしているのですが、天武天皇やその子孫の文武天皇、聖武天皇などは祀られていないので、天智天皇と天武天皇はルーツが違うと分かりました。「天智天皇も天武天皇もアメノタリシヒコの孫?(@_@)」で述べたように天智天皇はニギハヤヒ大王の系統であり、天智天皇と兄弟とされた天武天皇は、実はニギハヤヒ大王の兄のスサノヲ大王の五世孫の大国主高野御子の系統だったのです。兄弟というのはそれぞれの出自を隠くすための作り話だったのです。しかし、スサノヲとニギハヤヒの両親は記紀神話で国生みの神とされた伊弉諾尊と伊弉冉尊ですから、日本には二つの異なる血筋の王朝があったわけではないのです。だから、両系統の大王を天皇と呼んでいるのです。

日本の最初の皇祖神は天御中主だったことは記紀神話が伝えるところですが、「【刮目天の古代史】天皇の称号の起源?(^_-)-☆」で述べたように初代の倭の奴(ナーガ、龍蛇神)国王だったのです。新唐書・宋史が記したとおり「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」だったということです。

そして、第十八代王スサノヲの時に宮廷祭祀を司る師升(107年に後漢に朝貢した倭国王帥升)らの反乱でスサノヲが殺されて奴国が滅びました。スサノヲの弟ニギハヤヒとスサノヲの王子イタケルが出雲に逃亡し、イタケルの子孫は二世紀末の倭国大乱で活躍しました。ニギハヤヒは吉備の裏切り者らを征伐し、奴国を再興し、第十九代王天照大神尊として倉敷市楯築王墓に葬られました。

このスサノヲとニギハヤヒの子孫が活躍して三世紀末にヤマト王権が成立する過程について、付録に推理の概略を書きますのでご参照ください(;^ω^)

第15代応神天皇が、三世紀後半の建国の戦いで戦死した両親(大国主と台与)を祀る初代のヤマトの祭祀王です。その史実が不都合な藤原不比等によって初代神武天皇の話が創作されたので多くの方は誤魔化されていますが、神武天皇は応神天皇の史実を誤魔化すための虚像なのです。だから初代ヤマトの大王の史実はまったく異なるのです(;^ω^)

それで、応神天皇の時代は、今までの経緯で敵対していたスサノヲ・大国主系とニギハヤヒ大王系の豪族の殺し合いの結果になったので、それぞれの陣営の確執を水に流そうということで、応神天皇の皇后に尾張王建稲種命の孫仲姫命(なかつひめのみこと)をつけ、卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主)の娘を妃につけてバランスを取りました

しかし、それぞれに皇子が生まれると、後継者問題が当然起こりますから、それぞれの皇子たちを後援する豪族らの対立がエスカレートして、折角、応神天皇即位で成立した大きな和(ヤマトを大和とする所以)が簡単に壊れてしまいました。

応神天皇は和邇氏腹の菟道稚郎子を皇太子にしたと記紀にありますので、当然二代目の大王(宇治天皇)に即位しましたが、半島南部の鉄資源も支配した和邇氏が権力を握るようになりました(注1)。

尾張氏の版図にも宇治天皇の威光を使って、尾張氏の祖建稲種命に和邇氏の祖神赤坂比古が討たれた恨みから和邇氏が押しかけて領土を浸蝕しています(名古屋市名東区和邇良(ワニラ)神社を地元では反発してカニラ神社と呼んでいます(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。それに怒った仲津姫の子オオサザキが宇治天皇を暗殺し、仁徳天皇に即位しました。宇治天皇の墓が大和盆地の富雄丸山古墳だと推理しました。仁徳天皇は大和盆地には大国主系の豪族が支配していますので、生駒山系の西の集落に遷都したと考えられます。仁徳天皇はこのことを反省し、菟道稚郎子の妹の子住吉仲津彦(すみのえのなかつひこ)を後継者としますが、また諍いが起こり、大国主系なのですが、尾張氏と親交の深い葛城氏系の履中・反正兄弟に暗殺され、殺し合いの悲劇が息長氏腹の雄略天皇が皇位継承候補をほとんど抹殺し崩御するまで続きます(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。

そこで、ヤマトの豪族らは話し合って履中天皇の孫武烈天皇をヤマトの大王に即位させたと推理しています。ですから雄略天皇の後は空位だったと推理しています。しかし高句麗が台頭していて半島情勢が厳しくなり半島南部の鉄資源を新羅に奪われそうになったので、北部九州の物部氏は百済を支援し、武烈天皇は出兵して新羅を抑えて、任那・加羅を百済に割譲します。この時代はヤマトの大王の権力は地方豪族、特にニギハヤヒ系物部氏の支配下の北部九州などには及ばなかったと考えています。(2024.10.3 赤字修正)

これは、ニギハヤヒ大王の嫡孫の天智天皇の時代まで続きます。天智天皇は応神天皇の子孫のヤマトの大王ではないのですが、独断で外交を行っていますので、九州王朝説の誤解が生まれることになりました。ヤマトの大王の天武天皇(用明天皇=蘇我馬子の孫)が天智天皇の後継者大友皇子を討ってようやく中央集権が実現されました(壬申の乱は相当脚色されていると考えています)。藤原不比等は天武天皇崩御後に即位した高市皇子(宗形天皇)を暗殺して権力を握り、大宝律令を制定して日本列島を支配したと推理しています。

なぜなら高市皇子の長男長屋王が親王とされていた物証が見つかり、高市皇子の母宗形氏が身分が低いために即位できなかったという日本書紀のウソがバレてしまったからです。日本の建国から活躍した和爾氏は宗形・宗像氏だったのです。それは天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵島姫卑弥呼だったことから判明しました(^_-)-☆

そして、不比等は天智天皇の出自を隠すために、その曽祖父の欽明天皇(ニギハヤヒ大王の嫡孫)が九州の物部勢を使ってヤマトを支配した史実を誤魔化すために継体天皇や磐井の乱を創作したと推理しています(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

高市皇子が即位していたら持統天皇は存在しませんので、これが日本書紀の最大の秘密であると推理しています。

また、武烈天皇が後継者を決めずに崩御した後に登場させた継体天皇は、ニギハヤヒ大王の嫡孫の欽明天皇が、応神天皇の子孫ではないにもかかわらずヤマトの大王に即位した史実を隠すための架空の天皇だったようです。天智天皇は欽明天皇の嫡孫なのです。その出自を隠すのも大きな目的だったわけです(^_-)-☆

大友皇子の曾孫の淡海三船が天皇に贈った漢風諡号に用いた「継体持統」というシナの古典の熟語は、共に架空の天皇であったことを示す淡海三船のヒントだったのですよ(^_-)-☆

 

(注1)ニギハヤヒ大王系の物部氏が支配していた九州の、北東部にあった卑弥呼の居城に近い宇佐市の集落群を和邇氏が支配下にして稲積山で卑弥呼を祀っていました(卑弥呼に縁のある辛嶋氏が祀っていたようですが、奈良時代に宇佐神宮に遷されます。この頃沖ノ島祭祀が始まります)。しかし、卑弥呼の居城安心院町宮ノ原遺跡は物部系の水沼氏が支配したと推理しています(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)。

【付録】ヤマト王権成立の概略(推理)

イタケルの子八束命は、祖父スサノヲ(三国史記の新羅第四代脱解王のモデル)のコネで半島南部の鉄を入手し、日本海沿岸部のムナカタ族を束ねて隆盛になります(詳細は「消された出雲・丹後王国の謎!(その1)八束命の話」参照)。八束命の跡を継いだ日高彦(狗奴国の官狗古智卑狗)は二世紀末に半島が混乱して衰退していた倭国に対して、菊池川に前線基地を築き、倭国の佐賀平野・筑紫平野などの集落を攻撃し、福岡平野や糸島平野の王宮三雲遺跡まで押し寄せて滅亡寸前まで追い詰めます(詳細は「消された出雲・丹後王国の謎!(その2)日高彦の話」参照)。

ところが204年に公孫氏が半島を平定して帯方郡を設置したので倭国は息を吹き返し、油断していた日高彦を難升米(師升の孫)が討ってしまいます。王を喪って途方に暮れていた日高彦の右腕だったムナカタ海人族の赤坂比古(和邇氏の祖)が懐柔され、卑弥呼の太陽神の神託によって政治を行う条件で狗奴国(旧奴国)を裏切ってしまいます。赤坂比古は九州と中国西部・四国を傘下にしたので、強勢になります(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

それによって吉備の狗奴国王卑弥弓呼(ニギハヤヒ大王の子孫、記紀の開化天皇)は纏向遺跡に王宮を建設し、畿内や東国の旧奴国勢力を集め、連日作戦会議と裏切り者の倭国王や赤坂比古らを呪詛し、祭祀に明け暮れます。238年公孫氏が魏の太尉司馬懿に滅ぼされ、倭国は魏を後ろ盾にして益々繫栄したので、代替わりした卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)は倭国追討軍を送る決心をします。ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王乎止与命(おとよのみこと、記紀の仲哀天皇)を大将とし、日高彦の子高野御子(記紀の武内宿禰)を副将として大軍で倭国に向います。

その情報を倭国王難升米が知った直後の247年3月24日日没ごろに北九州で皆既日食が起こります。伊都国では深い食ですが、太陽が欠けながら海に沈む珍しい日没帯食が見られたので、難升米は太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎だったために起こった不吉な現象と考え、卑弥呼を暗殺します。

そして狗奴国の大軍が倭国に到着しますが、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古は戦意を喪失したので、倭国王は魏を頼って倭国を再興するために金印を持って半島に逃亡したと推理しました。

無傷で倭国を手に入れた尾張王は、捕らえた魏使張政に唆されて狗奴国を裏切り倭国王に立ちます。それを不服とした高野御子が反発し、千人が殺し合う内戦となります。赤坂比古が、先代赤坂比古が王としていた日高彦の御子高野御子に味方して尾張王を討ち、高野御子が勝利します。またしても張政の進言で卑弥呼の宗女台与(近江・北陸を拠点とするムナカタ族息長宿禰王の13歳の姫巫女、記紀の神功皇后)を外交上女王に立て、狗奴国を裏切って倭国王に立ちます。畿内と東海の狗奴国の勢力を除き列島主要部が高野御子の傘下になったので、記紀神話で大国主と呼ばれます。大国主の倭国は半島の鉄を入手し、高温鍛冶炉の技術を導入して、玉類や倭錦などを作って魏と交易して繁栄します。

父を殺された恨みで尾張王建稲種命(記紀の景行天皇、日本武尊のモデル)らは大国主傘下の交易都市青谷上寺地遺跡などを襲い、無防備な住民を百人くらい虐殺しています。そして大国主らの根拠地の九州に遠征して、苦難の末に大国主を高良山で、赤坂比古を鳥栖市で、そして女王台与を伊都国で討って恨みを晴らします。記紀の景行天皇の九州遠征の話にしています(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)。

建稲種命は九州の支配を従軍した狗奴国王の一族(物部氏の祖)に任せて纏向に凱旋します。狗奴国王はさらに東国などの大国主の傘下を武力で平定するよう命じますが、東海遠征の途中で戦死し、沼津市高尾山古墳に葬られます(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。尾張王を継いだ尾綱根命が尾張勢を率いて東海道・北陸道・丹後半島・出雲などを遠征して、列島主要部を平定します。記紀の崇神天皇の四道将軍の遠征の話になっています。

狗奴国王はようやく倭国を統一したところ、280年に西晋が呉を滅ぼしました。西晋に朝貢していた台与の倭国を滅ぼしたので、西晋に討たれることを怖れて、大国主と台与の子を探し出して、ヤマトの祭祀王にします(崇神天皇紀の大田田根子の話)。応神天皇を卑弥呼・台与の邪馬台国の後継者ということにして纏向遺跡の狗奴国をヤマトと呼ぶことにしました。父大国主の子孫や部下の大伴氏・和邇氏・息長氏などを大和盆地に呼び寄せ、母台与を箸墓で、父大国主を桜井茶臼山古墳で改葬し、卑弥弓呼大王(崇神天皇)が亡くなった後に、ヤマトの大王に即位します。下の図に、ヤマト王権の成立過程と建国に関わった人々の系譜を示します。

 

 

 

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