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古事記・日本書紀の正体は?(@_@)

2024-10-05 16:12:38 | 古代史

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古事記日本書紀が編纂されるに至った経緯と本当の理由とは!?
進撃の信政2nd
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とてもよく整理されていたので最後まで拝見させていただきました。有難うございます。
しかし、残念ながら記紀に関するご主張は誤りだということが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています。

日本書紀の中で創られた神話は、藤原氏にとって不都合な史実を隠ぺいする目的だったことが分かりました。また人代についても不比等やその父鎌足らが行ったヤマト王権に対する蛮行を隠すために歴史を改ざんしたのです。そして、藤原不比等は権力を握り、藤原氏にとって都合の好い大宝律令を制定させて、藤原氏が神社行政を握りますので、神社の由緒、祭神、社名までことごとく創作した神話に合わせて変更させています。

近江八幡市日牟禮八幡宮に不比等がわざわざ出かけて社名を変えさせた証拠が、不比等の歌として残っていました。卑弥呼を隠すためでした(^_-)-☆

(日牟禮(ひむれ)八幡宮 滋賀観光ホームページより)

しかし、当然、史実を隠されたことを不満に思う人々がいます。本当の祭神を摂社や末社や小さな祠でひっそりと祀っているのです。古史古伝についても、藤原氏に発覚した際の保険のために日本神話に沿う部分も作って、荒唐無稽な話の中で真実を伝えようという努力がされているという見方が正しいのです。

おっしゃるとおり、日本書紀よりも先に作られたことにした古事記は9世紀に突然表に出てきたのものです。正史に古事記の記録はありません。日本書紀が古事記を参照した痕跡もありません。古事記は日本書紀が隠した史実を、日本書紀の内容に沿って藤原氏に悟られないようにして暴露する目的の暗号書だったのです。

建国時代の事実と古事記の日本書紀と異なる部分を参考にすると暗号が解け、史実が浮び上がってきました。高天原神話のもとになった2世紀・3世紀の史実や空白の4世紀と倭の五王の謎や富雄丸山古墳の被葬者も判明しています。

皆さんは記紀が天皇の歴史書だと洗脳されているので、折角の史実にも気が付かないのです。

例えば、日本の最初の王墓は紀元前4世紀初頭の福岡市吉武・高木遺跡です。弥生前期末から中期初頭の三代の王墓が見つかっています。宋史 王年代にある初代天御中主・二代目天村雲尊・三代目天八重雲尊とそれぞれの王妃や王子たちの墓があり、二代目王の墓からは三種の神器が揃って出土しているのです。そして4代目天爾聞尊(あめのににぎのみこと)から糸島平野・福岡平野を平定して春日市須玖岡本遺跡に王都を遷した史実が、天孫降臨神話の元ネタだったことが分かりました。つまり、日本の皇祖神とされた奴国王の史実が浮かび上がって来ました。

新唐書にある「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」というのが正しかったと判明したのです。

これによってその後の日本の歴史と隠された古代史の謎はほとんど解明できました。不比等が隠さねばならなかった史実も分かってきました。

よろしければ「刮目天の古代史」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

 

【付録】古事記が暴露した主な史実について

(1)新唐書・宋史が記した王年代紀で示した初代奴国王天御中主を、日本書紀で高天原に最初に登場する神として古事記でも登場させ、日本書紀の神代七代前に五代の別天神を紹介することによって、神代の高天原の神々が、宋史王年代紀に記載した倭国を支配した奴国王のことだと示唆した(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

(2)高天原を追放された乱暴者の神が、八百万の神々に髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされ、全財産を没収されて追放されたと書くことによって、107年に後漢に朝貢した倭の伊都国王師升が第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った史実を示唆した(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

(3)日本書紀の神武東征神話が真の初代応神天皇の即位の史実を誤魔化す話であることを示唆した。日本書紀で登場するナガスネヒコの別名をトビヒコと明かすことにより、トビヒコの正体の大国主がヤマトのニギハヤヒ大王の子孫に殺された後に大国主の祟りにより、大国主の子(応神天皇)が祭祀王として纏向遺跡に呼ばれてヤマト王権が成立した史実を示唆した(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

(4)日本建国の主役であったスサノヲの子孫の出雲・丹後王三代の王八束命(出雲国風土記の神八束水臣津野命の略称)・日高彦(大国主高野御子の父)の正体を日本書紀は日向三代の神話で隠したことを示唆する神名を与えた。八束命は淤美豆奴神(オミズヌノカミ)とした。またその子日高彦(穂高彦)を天之冬衣神(アメノフユキヌ)としたが、冬の季語がホダ(木切れ)なので八束命と日高彦が木霊イタケルの子孫であることを暗示した(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。

(5)空白の四世紀の謎を解明するためのヒントを与えた。仁徳天皇が、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ、宇治天皇)を暗殺して皇位を奪った史実や卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)の孫の菟道稚郎子の妹八田皇女と仁徳天皇の子住吉仲津彦(住吉天皇)が即位した後、異母兄弟たち(履中天皇・反正天皇)に暗殺された史実に加えて、倭の五王の系譜を示唆するために日本書紀と異なる崩年干支を記載した(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明した(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

(6)日本書紀が隠した天智天皇の真の系譜に気付かせるヒントを与えた。日本書紀が天智天皇の祖父とした押坂彦人大兄の妃糠手姫皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)が、日本書紀が天智天皇の母とした宝皇女(タカラノヒメミコ、皇極・斉明天皇)と同じ名前の宝王(タカラノヒメミコ)だったことを明かすことで天智天皇(中大兄、中津王)の真の母が糠手姫皇女であったことを示唆した(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

【関連記事】

秦氏と古事記の関係?

古事記を作った多人長(オオノヒトナガ)が多氏の祖神を神武天皇の皇子カムヤイミミとしたのは、本当の初代応神天皇の皇太子菟道稚郎子(宇治天皇)の子孫で、秦氏(武内宿禰の長男波多八代宿禰の子孫)と親戚のような関係(多分、出雲国意宇郡を王都とした八束命の子孫で同族)だったことを示唆していますよ(^_-)-☆

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