刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その4)終焉の地か?

2023-01-30 10:53:56 | 古代史
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大国主久々遅彦の父で、二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱で大活躍した先代狗古智卑狗の墓についてすでに調べ(その1)(その2)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?まで記事にしました。ここで茶臼塚古墳の墳頂に置かれた大日如来の石祠によって、約80kmも離れた、大国主が最初に国造りした豊葦原瑞穂の国(宇佐市安心院町佐田地区)と父の霊を呼び込むための祭祀場とした米神山の山麓に造られたストーンサークル(環状列石)である佐田京石や数々の巨石祭祀遺構の存在と、茶臼塚古墳との関係が霊ラインで連結されていることを知って驚きました。さらにこのラインを延長すると、なんと米神山からさらに約400km先に父の王宮で高野御子と呼ばれた大国主久々遅彦が生まれ育った場所(兵庫県豊岡市竹野町鷹野神社・五社大明神)を発見できたのでとても驚きました(「【刮目天の古代史】2022年の大発見!」参照)。

このように茶臼塚古墳の位置はとても重要なポイントなのですが、その築造年代は熊本:古墳マップ「茶臼塚古墳」によれば、四世紀後半から五世紀初頭の築造とされています。この墓域は津袋古墳群と呼ばれ、茶臼塚古墳の東側に小町塚古墳という元の直径が23.7mだった円墳があり、五世紀ころに築造されたとあります。さらにその北側に直径13.5mの円墳頂塚古墳があります。円墳は和邇氏のものだと考えられ、少し小振りですので、先代久々遅彦と同様にこの地で戦死した、先代の配下の武将の墓と考えられます。茶臼塚古墳よりも後で造られた古墳の可能性もありますので、この武将の子孫の和邇氏が造営したのかも知れません。

ということで、茶臼塚古墳が造営されたのは四世紀前半であれば応神天皇が祖父の墓を築造したことになりますが、四世紀後半ということならば次の宇治天皇(うじのわきのいらつこ)の御宇ですので、曽祖父の終焉の地に方墳を作り、和邇氏の祖の武将たちにも円墳を作ったと考えられます。時期的には同時ではないかもしれませんが。

しかし、そうであるならば、なぜ、大国主が父の墓を造らなかった?という疑問が起こります。

すでに大国主久々遅彦が卑弥呼の死後の内戦に勝利して最初に父の終焉の地に訪れたことは間違いありません。どこか近くに別の墓があるのかも知れないと、いつものようにGoogleMap探索をしていましたがそれらしい場所は見つかりませんでした。大国主は、父の終焉地の正確な場所が分からなかったのかも知れません。そうでしたら、巨石信仰を持つ大国主ならばどこかでストーンサークルなどの巨石遺構を造り、鎮魂の祈祷をしたと考えられます。ということで、米神山の月の神谷の不思議な石柱群を動画で教えていただいた超古代巨石文明研究家猿田彦氏からまたヒントを頂きました。有難うございます(^^♪



猿田彦氏の発見された菊池渓谷のストーンサークルではないかと思います。茶臼塚古墳から東に約20kmほど行った場所で、阿蘇山に向かう菊池川の上流です。当時の人々は川を丸木舟で移動しますので、阿蘇を経由して卑弥呼の墓のある宇佐市安心院町三柱山に向かったと思います。その途中の菊池渓谷は現在公園になっており、素晴らしいホームページに以下のような説明がありました。

菊池渓谷は、菊池市街地から東へ約 17km、阿蘇外輪山の北西部の標高500m~800mの間に位置し、約1,193haの広大な面積からなる”憩いの森”です。
 菊池川の源をなす菊池渓谷は、うっそうとした天然生広葉樹で覆われ、その間をぬって流れる淡水は、大小さまざまな瀬と渕と滝をつくり、その変化に富む渓流と,美しい森林とがおりなす姿は絶景です。
 また、天然クーラーと称され、夏の平均水温は13度と低く、身を切るような清流は避暑地として最適であり、渓谷ぞいは、川のせせらぎと小鳥のさえずりで、楽しい夢をさそい、秋は渓流に映える紅葉がすばらしく、春は新緑、冬は全山に霧氷の花が咲くなど四季を通うじて訪れる人々の心をなごませてくれるところです。


ガイドマップが貼られておりその中の広河原という開けた場所に、一番奥の橋が架かっていますが、このすぐ横に、槻(けやき)の木が巨石を包み込んでいる包岩槻が見られます。そこに太陽石と思われる大きな岩あり、外周の直径50mほどの二重のストーンサークルがあることを猿田彦氏が発見されました(動画32:01~)。

その広河原の片隅に水天宮があります。いわゆる水の神様の水神様です。総本社は久留米市の水天宮とされ、初代奴国王の天御中主(あめのみなかぬし)が主祭神です。ですから、龍王・龍神つまり歴代奴国王の霊を身に纏う大国主やその父狗古智卑狗のことも示唆しています。

ということはここで大国主が父の霊を弔う祭祀を行ったと考えられますので、さらに想像を膨らますと、菊池市うてな遺跡を居城としていた父狗古智卑狗が倭王難升米の急襲を受け、丸木舟で菊池川をさかのぼって落ち延びようとしたところ、菊池渓谷の広河原付近で追手に追いつかれて討たれたのがこの場所だったのかも知れませんね。だから、この場所にストーンサークルが見つかったのは龍神(歴代奴国王の霊)のお導きかも知れません。信じるか信じないかはあなた次第です!またかあ?って聞こえてくるようですが(#^.^#)

そして、時が過ぎ、大国主の孫の宇治天皇が、倭国大乱の英雄の曽祖父の墓に相応しい、広大な鹿本平野を見渡せる一本松公園に、丹波(タニワ)地方で盛行した方墳を造営したということではないでしょうか。石棺があったとしても遺骨などはなかった可能性があります。ここは調査記録を入手できれば何かわかるかも知れませんね。



【関連記事】
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!

大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?
猿田彦大神の石碑のなぞ?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その22)
7.記紀と日本人の信仰の謎⑧
サルタヒコは大国主の分身ですよ(^_-)-☆


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富雄丸山古墳の被葬者は?(^_-)-☆

2023-01-28 11:27:55 | 古代史
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以前、「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」でご紹介した日本最大の円墳としている奈良市富雄丸山古墳で驚くものが発掘されたと報道されました。

発掘調査成果
(1)造出し上段で粘⼟槨を確認し、蛇⾏剣・鼉⿓⽂盾形銅鏡が出⼟円丘部側の被覆粘⼟中には、鼉⿓⽂盾形銅鏡1⾯と蛇⾏剣1本が副葬されていました。
鼉⿓⽂盾形銅鏡は⻑さ約64 ㎝、幅約31 ㎝で蒲鉾状に棺蓋を覆う被覆粘⼟の形状に合わせ斜めに⽴てかけられていました。背⾯中央に鈕があり、その上下には倭鏡に認められる鼉⿓鏡の図像⽂様が確認できます。ほかにも鋸⻭⽂を中⼼とする⽂様があり、類例のない銅鏡です。表⾯が平滑に研磨されており、倭鏡⼯⼈が製作したとみられます。
鼉⿓⽂盾形銅鏡をブロック状の粘⼟で埋めてその上に⽔平⾯を作り出し、⻑さ約267 ㎝の蛇⾏剣が副葬されていました。⽇本最⼤の鉄剣でもあり、蛇⾏剣としては最古例です。
刃部幅は約6㎝ですが、蛇⾏しているため部分的に残存する鞘の幅は復元で約9㎝あります。柄頭・柄⼝・鞘⼝・鞘尻には有機質の装具痕跡が残存していました。


超豪華な副葬品です。古墳時代前期後半(4世紀後半)の古墳ですから、この時代の大王かそれに次ぐ人物のものですから、被葬者を考えてみたいと思います。

まず古墳の形状は先に述べたように奈良市は直径109mで日本最大の円墳としています。しかし、これよりも大きい円墳が三つも九州にあることは以前の記事「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」のとおりです。奈良市の動画でコメントしたとおりです。卑弥呼、その弟赤坂比古と父の先代赤坂比古の順で日本三大円墳としました。つまり三つともムナカタ海人族和邇氏の祖の墓です。和邇氏の首長墓は巨大円墳なのです。富雄丸山古墳も、下図のとおり、小さな作り出しが付いていますが今のところ日本で四番目に大きいものです。


そしてwiki「和珥氏」によれば、和珥氏(わにうじ)は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。とありますから、地名が奈良市丸山町ですので、和邇氏とかかわりがあると思います。丸山は和邇氏の墓という意味なのでしょう。

和邇氏は藤原不比等が隠したい日本建国で活躍し、7世紀まで天皇に皇后や妃をだした超有力な豪族だったのです。ムナカタ海人族であることを知られると、不比等らが日本書紀で隠したおおきなウソがバレるので、恐らく和邇という氏(うじ)も不比等が作ったものかもしれません。たぶん、墓が丸いのと、山陰地方で鮫をワニと呼んでいたので、海人族をこの氏族名にしたのでしょうか?玄界灘を主な活動域とする縄文系海人族で、国生み神話のイザナミはスサノヲやニギハヤヒを生み、比婆山に葬られています。比定地は出雲と伯耆の二か所ありますが、後者安来市伯太町の比婆山の可能性が高いと思います。つまり、米子市宗形神社を本拠地としていたムナカタ族なのです。和邇氏の祖先代赤坂比古の娘卑弥呼は先代久々遅彦(狗古智卑狗、大国主の父)の姉または妹を母とするので、大国主とはいとこである姫巫女(ひめご)と推理しています。

そして、富雄丸山古墳の富雄(トミオ)は「長髄彦(ナガスネヒコ)の正体も?」で説明したとおり、「トビ(蛇)の尾」という意味だと思います。つまり大国主の子孫ということでしょう。大国主の子ホムダワケが初代祭祀王応神天皇で、その子で母が和邇氏宮主宅媛(みやぬしやかひめ)である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を示唆しています。

wiki「菟道稚郎子」によると
概要
菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。

郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。

『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。


とあり、郎子の遺言で散骨するようにしたとあるので、宇治市莵道丸山の宇治墓(丸山古墳)を陵墓にしたということなのかもしれません。しかし、すでに「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」で述べたとおり仁徳天皇に皇位を継承させるために皇太子だった郎子が自殺するなど、あり得ない話です。ですから、全くそっくりな話を神武天皇崩御後の事件として創作しています。真相は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)」で述べたとおり、応神天皇崩御後に宇治天皇として即位し、壬申年(372年)に崩御し、仁徳天皇が即位したと推理しています。


富雄丸山古墳の周辺を捜索して霊山寺(奈良市中町)という鳥居のある珍しいお寺を見つけました。霊山寺の奥の院で弁財天を祀っています。つまり宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼なのです。霊山寺の縁起から、どうも和邇氏の子孫の右大臣小野富人(遣隋使・小野妹子の息子)の開基ということのようです。その他に大国主を祀る神社もいくつか発見しています。

これだけ関連するものが出てきましたので、恐らく富雄丸山古墳の被葬者は応神天皇の後に即位した宇治天皇(菟道稚郎子)だとみてよいと思います。不比等や藤原氏が懸命に隠そうとしましたが、地元の人々の心までは隠すことはできないということなのでしょう(^_-)-☆
本日から2日間、第6次発掘調査の現場を公開するそうですのでお近くの方はどうぞ!( ^)o(^ )

【関連記事】
日本書紀とは何だったのか?
不比等は何の目的で古代史を改ざんしたのか?
消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?

【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆
令和五年(2023年)の大発見第1位です。考古学的にはこの発見が最大の話題だったと思います。
富雄丸山古墳はこの時代(4世紀後半)の他の古墳と比べて全く異様です。
巨大円墳に造り出しがあり、墳頂はすでに盗掘にあっているようですが、造り出しに被葬者があったために空前絶後の超豪華な副葬品二点が出土し、さらに今回青銅鏡が3面出てきました。卑弥呼の鏡といううわさもあります。
また竪櫛がでてきて女性的だという意見が解説した考古学者から出ました。しかし、この時代の古墳に副葬された竪櫛は女性の持ちモノとは限らず、男性の頭部に副えられた例もあり、葬儀に使ったものかも知れません。もしも被葬者が女性であれば耳飾りや首飾りの玉類が大量に出るはずですから、被葬者は男性と見られます。
墳頂の主体部に遺骸の痕跡が無ければ、最初から遺骸はなかったと考えられます。つまり、本当の被葬者を隠すために造り出しが作られたと考えられます。被葬者は大王クラスの人物で、何らかの理由で造り出しに隠されて埋葬されたと考えられます。



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古墳はなぜ造られた?(^_-)-☆

2023-01-26 21:15:08 | 古代史
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糸島市公式チャンネル@YouTube チャンネル登録者数 591人 7,867 回視聴 2022/02/17

福岡県糸島市は、前方後円墳が60基以上点在し、前方後円墳が密集する地域です。
なかでも国指定史跡である一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳は、玄界灘沿岸で最大規模を誇る古墳で、石室や副葬品などから、ヤマト政権とのつながりをもちながら、玄界灘の制海権を掌握する北部九州を代表する大首長墓と考えられています。
この二つの古墳は、現地保存されており、いつでも見に行くことができます。
今回、そうした保存活用の一環として、一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳の歴史的な重要性をまとめた紹介映像『玄界灘を見据えた巨大古墳-一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳』(7分47秒)を作成しました。


刮目天
興味あるいい動画をありがとうございました。九州の前方後円墳は、3世紀末の日本建国の戦いで纏向遺跡を王宮とした旧奴国(狗奴国)勢力が九州を支配したときから作られています。こちらで見られた大型円墳は4世紀以降のムナカタ海人族和邇氏のものだと思います。

実は日本最大の円墳は径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の墓で、和邇氏の祖宗像三女神イチキシマヒメのものです。卑弥呼の父先代赤坂比古の直径約120mの円墳奥城古墳とともに宇佐市安心院町三柱山にあります。直径約140mの円墳が鳥栖市愛宕神社古墳で、卑弥呼の弟赤坂比古のものです。その横にある九州最古級の前方後方墳赤坂古墳が尾張王オトヨノミコト(記紀の仲哀天皇)のもので赤坂比古に討たれたので、3世紀末に尾張王建稲種命(記紀の景行天皇)が父の敵討ちで、九州遠征して赤坂比古を討って日本を建国したと推理しました。詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。現存する最古の正史「日本書紀」は天皇の歴史書ではないということに気づくと古代史の謎はほとんど解けますよ(^_-)-☆


巌流島男さん(6 か月前)
古墳時代とは、倭国大乱で多くの人民が火山の噴火が無い近畿地方に北部九州から移住し、その人口を支えるために土地改良事業に勤しみ多くの水田を作った時代。.土地改良事業により大量の土砂が出たので廃物利用してお墓を作った。土地改良事業を行う場所がなくなり近畿地方の古墳時代が終わった。古墳は権力者が無理やり作らせたお墓ではありません。

刮目天
古墳時代に先駆けて出雲地方から主として日本海沿岸部に四隅突出型墳丘墓や葺石のある方形墳丘墓が作られ始めました。これは、半島南部の鉄交易システムができて首長の序列化が進んだために、首長の権力が増大し、首長墓が大型化したことによると分かってきています。古墳はその考えを受け継ぎ、首長継承の儀式のために創られたと考えています。半島南部、北九州、出雲・伯耆・因幡・丹波・若狭から北陸、上越などを活動範囲とするムナカタ海人族が日本の建国で活躍しました。

倭国大乱は紀元前4世紀から続く倭国を支配した奴国が奴国宮廷楽師らの反乱によって滅び、旧奴国(狗奴国)の王族が出雲地方に逃亡して鉄の交易で隆盛になって、一方二世紀末の半島の混乱で楽浪郡との交易が途絶え衰退した伊都国に王宮を持つ師升の一族の倭国との戦争だったことが鉄鏃・銅鏃の出土状況から判明しました。詳しくは拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。魏志倭人伝にイト国が伊都国と書かれたことから謎が解明されました。「伊都国の意味がヒントだった?」もご参照いただけると邪馬台国や日本建国の過程が分かりますよ(^_-)-☆


大規模古墳は大王墓やそれに次ぐ王墓であることは確かだと思います。宇佐市安心院町で径百余歩の卑弥呼の墓は、鎮魂のために日本最大の巨大円墳で葬られたと考えられます。また、記紀で神功皇后とされた女王台与は九州遠征した尾張王建稲種命(記紀で景行天皇とされたニギハヤヒの子孫)に討たれ、糸島市平原王墓に埋葬されましたが、子の応神天皇が纏向遺跡の箸墓で改葬したと推理しています。これも鎮魂のためだと考えています。

そして父である大国主久々遅彦を桜井市茶臼山古墳で改葬したと推理しています。茶臼山古墳が箸墓の後に造られたと考えられますので、やはり茶臼山古墳も父の鎮魂が第一の目的だと思われます。応神天皇を大王とした狗奴国王(記紀の崇神天皇)が崩御した後に、茶臼山古墳を造営したのであれば首長継承の儀式を行ったのかも知れません。茶臼山古墳が大国主久々遅彦のものであるという根拠は、その地が外山と書いてトビと呼ばれ、前回記事にしたように鳥見山(登美山)の北側に築かれており、古墳の南側に等彌神社(とみじんじゃ)があるので、前回の記事「長髄彦(ナガスネヒコ)の正体も?」で述べたにしたトビ・トミ=奴国大王大国主を祀っていることから分かります。

wiki「等彌神社」では「本社にあたる上津尾社の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存在する。」とあります。饒速日命という説は先代旧事本紀で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とされていることからだと思われますが、大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)はアマテラス女神のことで藤原不比等の創作です。本当の伊勢神宮内宮の祭神天照皇大神は応神天皇の父大国主久々遅彦のことなのです。伊勢の外宮が豊受大神、つまり大国主の妃で応神天皇の母の女王台与なのですから。ですからここでも藤原氏が大国主を隠すために主祭神をすり替えたと見ています。

纏向遺跡で最初に造営された前方後円墳の石塚古墳ですが、当初纏向遺跡を造営した最初の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の開化天皇)の墓かも知れないとしていましたが、主体部に遺骸はなかったという報告がありますので、纏向の最初の大王が、倉敷市楯築王墓に埋葬された奴国19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王をここで改葬して、大王を引き継ぐ儀式を行ったと考えています。それにしたがって図を修正しました。



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古史古伝のなぞ?(#^.^#)

2023-01-24 18:51:35 | 古代史
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22,544 回視聴 2022/09/30 ぞくぞく家族団らんチャンネル@YouTube

いつもいい話題を提供していただいている方の興味深い「九鬼文書」の解説動画です。

いわゆる古史古伝と呼ばれる文書がいくつかありますが、wiki「古史古伝」によれば、

1 本自体が私有され非公開である、などの理由で史料批判がなされる予定がなく、史料として使えないものも多い
2 超古代文明について言及されている
3 日本のものの場合、漢字の伝来以前に日本にあったという主張がある神代文字で綴られている
4 日本のものの場合、上代特殊仮名遣に対応してない(奈良時代以前の日本語は母音が8個あったが、5母音の表記体系である)
5 成立したとされる年代より後(特に近代以降)の用語や表記法が使用されている

等々の理由で古代史研究における歴史学的な価値は非常に低く、古代からの伝来である可能性もまずないと考えられている。しかし、古史古伝は種類が多く1〜5の特徴もすべての古史古伝に共通しているわけではなく、それらの諸点についての度合いは各書ごとに様々である。

とあります。「九鬼文書」は
古史古伝のうちのひとつ、古代出雲王朝の正統性を主張する偽書。九鬼家の遠祖で天児屋根命(アルアメノコヤネノミコト)の時代に記録された神代文字の原文を、藤原不比等が漢字に書き改めたもので、九鬼氏が保管したとされる。天児屋根命は、記紀で皇孫邇邇芸能命(ニニギノミコト)と共に高天原から高千穂に降り立った天津神である[1]。
とあり、藤原氏寄りの内容になっていること自体、藤原氏のための歴史書である日本書紀との関係を考えてしまいます。
なので、いつものとおり以下のようなコメントをしました( ^)o(^ )

刮目天
考古学によって確認されていない文書は信ぴょう性がないです。

実は「日本は古の倭の奴国」と分かる日本の神代に対応する王年代紀(新唐書、宋史)が存在します。

その最初の部分には初代王天御中主から二十三代の王が筑紫日向宮にいて、最後の王の4男神武天皇が大和州橿原宮に都を遷したと記されているので、シナ人もこれによって日本の神代は奴国の時代と認定し、国号を倭国から日本に変えたというのが史実だったのです。

実際は18代王スサノヲが107年に後漢に朝貢した倭王帥升(正しくはイト国王師升)に殺されて奴国は滅んでいます。志賀島で発見された国宝金印がその事実を示す物証となっています。

19代王が天照大神尊とあり、クーデターを逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒだと推理しています。吉備を平定し奴国を再興し、楯築王墓に葬られています。奴国王であることを示す物証が墳頂の神社のご神体亀石(弧帯紋石)です。纏向遺跡の前方後円墳の副葬品に見られる弧帯紋や円筒形特殊器台などが吉備の影響を強く受けていることを示しています。



ニギハヤヒの子孫が魏志倭人伝の狗奴国王卑弥弓呼(記紀で、崇神天皇とされた人物)です。このように日本の神代にあたる時代はすでに考古学によって分かっているのですが、多くの研究者や国民は、日本書紀が天皇の歴史書だと思い込んでいるので、物証を理解できないのです。これに気づけば、日本の建国まで解明できます。

詳しくは「【刮目天の古代史】古代史推理する」などを参照してください。お邪魔しました(#^.^#)


なぜ、このような偽書と思われるものが幾つも作られるのか?その理由は、やはり現存する最古の正史や最古の歴史書が、政治的な理由によって真実を述べていないためだと思います。没落したのは仕方ないとしても真実まで葬られることに抵抗があるのだと思います。そのため歴史を消された豪族たちの子孫にはなんらかの伝承があったのだと思います。真相を暴露すると藤原氏に分かると大変なことになるので、藤原政権に遠慮して伝承があいまいになっているのもあるかも知れませんし、真実をそのまま記述するのはまずいかもしれないということで荒唐無稽な話にしたのかもしれません。でも、日本書紀に反する伝承は、すでに住吉大社や宗像大社の伝承のように、検討の価値はあるとは思いますが、考古学などの証拠が欲しいということです( ^)o(^ )

【関連記事】
「日本国」へ、八百年も掛かったのか?東大寺の僧が宋に献上した「王年代紀」によって、日本の神代は国宝金印の奴国王の時代だったとシナが認識したので国号が倭国から日本に変更されたのです(^_-)-☆



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【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆

2023-01-23 00:20:16 | 古代史
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2021-08-01 14:23:06に掲載したものを少しだけ見やすくし、関連記事も付け加えましたので、疑問点や分かりにくい箇所などをコメントしてください。Gooアカウントのない方はメッセージを、公開希望の有無を添えてお送りください。よろしくお願いいたします(#^.^#)

基本的な考え方から検証・成果まで述べた古代史を推理する(^_-)-☆(2021-01-16 09:01:58)を、項目ごとに内容を見やすくするように改訂しました。どうぞ、お付き合いください。このページもこれから改訂していきますので、よろしくお願い致します。

さて、本題ですが、謎の古代史にはまったきっかけは、古代に限らないのですが、

権力者は権力を維持するためにウソをつく傾向があるということが分かり、

通説とは異なり、権力者の書いた正史にはデタラメがあると知ったからです(^_-)-☆

だから正史が何のために書かれたのかを追求すると日本の古代の謎が解明できます。

ハッキリ言って真相を隠ぺいするためです。
誰がやったのかは「日本書紀」完成当時の権力者の藤原不比等です。
権力の正統性を主張しながら天皇家も貶めて、
藤原氏にとって都合の悪い事実(出自や悪行)を消すためです。
詳細は「日本書紀とは何だったのか?」を参照してください。

通説では「古事記」が712年に完成し、720年に完成した「日本書紀」よりも早いとされていますが、フェイクです。(詳しくはこちらで(*^▽^*))。

「古事記」も藤原氏の顔をうかがいながら真相を少しだけ入れて、
「日本書紀」などで消された真相を遠回しですが、暴露するためです。

だから、記紀をもとにストーリーを作り上げてもダメで、
「日本書紀」の歴史改ざんの目的を推理し、
史実や実在人物はシナの歴史書をベースに、
考古学や民俗学などの知見を利用し、
「記紀」に登場する人物とのアナロジー(類推)によって
真相を表す仮説が生まれます。


その仮説は、様々な考古学の発見などの事象を用いて検証され、
仮説の詳細化や修正を行って理論化、
つまり歴史の真相を表すストーリーにすることができますよ。
このような科学的なアプローチによってはじめて古代妄想の弊害から私たちが救出されます。


今のところ私の仮説は実証的な検証の途上ですが、大枠は固まってきました(【科学的な手法で得られた一般化理論】参照)。
よろしければ、拙論への批判を頂けると検証作業が進みますので、ご興味のある方はどうぞよろしくお願い致します(^_-)-☆

なお、ウソが満載の「日本書紀」や「古事記」やシナの歴史書に基づいて仮説を立てて何が分かる?という疑問が起こるでしょう。

しかし、これらの歴史書をすべて排除して、考古学の事実だけで歴史を書くことは出来ません。
考古学は歴史学の代用にならないと岡田英弘先生が指摘しているとおり、歴史を書くには文献が無くてはなりません。
ですから考古学でその文献の信ぴょう性も検証しながら歴史を書き表すことになります。

つまり、これらの歴史書には真実に基づく部分もあるし、その真実を隠ぺいするために改ざんされている部分もあります。
人間は全く無から有を作り出せませんので、何等かの歴史的事実に基づき、不都合な部分を隠し、権力者にとって都合のよいように歪曲・改ざんし、デタラメが書かれたと考えることが出来ます。ですから、権力者の目的を推理して、検証によってウソの部分も明らかにできます。勿論ウソを全て暴くことはできませんが、考古学や民俗学などの知見によって一定の事実が解明できると考えています。

そして、以下の手法によって古代史を推理した結果、

従来の謎だった部分が解き明かされることにより、

その仮説推論は正しいと考えることが出来そうです。

どれだけ多く謎を解明できるかが、その仮説推論の精度を表し、

対立する仮説間の優劣を決めることになります。

優れた仮説によって数多くの謎が解明され、

それが歴史の真相だと考えられるということなのです(^_-)-☆



【古代史問題の科学的解決手法

①問題の観察・事象の把握・・・古代史の分野での未解明の事象は何かを把握することから始まる。例えば、「邪馬台国はどこなのか?」「ヤマト王権はどのように成立したか?」など。

②通説・諸説への疑問点の考察・・・例えば、上で述べたように「倭国大乱は何故起こったのか?」「どのような敵対勢力が女王を共立したのか?」についてどのような答えがあるかを検討する。

③仮説の設定・・・例えば「吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だ」というピンポイントの仮説ではなく、できるだけ問題となる時代を包含する仮説が望ましい(何故ならピンポイントの仮説は検証作業で推論として得られるから)。また、神が与えたとか、反証できないものは適切な仮説とは言えない。刮目天は「新唐書」・「宋史」に書かれた「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」ということを最初の仮説にした。(2023.1.24 赤字追加)

④関連する事象に対する仮説の検証・・・仮説によってどういう結果が導かれるのかを予想する。関連する事象を探し、この仮説によって矛盾なく説明できるかどうか確認する。

⑤検証結果の判定・・・満足する検証結果が得られたならば⑦に移り、それ以外はー>⑥ー>④->⑤のループを繰り返す。

⑥仮説の詳細化・変更・拡張・修正・・・新たな謎の解明に使われた推論が仮説となり、全体に組み込まれる。仮説の詳細化や、仮説の時代的な適用範囲の拡張によって新たな発見が得られる可能性がある。しかし、検証を進めるとこれまでの検証結果と矛盾するので仮説を変更・修正しなければならない場合もあり得る。変更と修正の違いについては、前者は仮説のある一部分だけの変更にとどまり、すでに行った他の検証の結果に影響を及ぼさない小規模なもので、後者は他の検証とその結果に影響する大規模なものとして区別できる。よほど重大な事実誤認がない限り、仮説が根底から覆されることはなく、部分的な変更・修正になる可能性が高い。(2023.1.24 赤字追加)

⑦仮説から一般化理論へ・・・検証作業を通じて組み立てられた仮説推論(abduction or retroduction)が、研究対象とする時代の出来事を包括的に説明できる一般化理論となる。これは従来確立された理論を矛盾なく包摂でき、今後新たに出現した関連事象をも説明できないといけない。そのための検証は常に行われることになる。このような検証を一定程度繰り返すことにより、この仮説が確からしいと自信を感じるようになれば、C.S.パースのいう科学的信念になる(「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」参照)。
ここで確立された一般化理論に基づき、連続する次の時代の歴史解明も可能となる(「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)(その3)」参照)。

【科学的な手法で得られた一般化理論】
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(連載中)





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邪馬台国探究のための哲学と方法は?(その1) (その2)
古代史の盲点はここだ(その1) ・(その2)
「魏志倭人伝」の行程記事を信じて正しく解釈しても誰も邪馬台国にたどり着けないのはなぜか?
なぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )考古学の成果はすでに解明を可能にしている。

【参考図書】
赤川元昭 「仮説構築の論理」白桃書房 2021


【議論】
古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その1)(その2)(その3)(その4)
アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!( ^)o(^ )
一つの事象にいくつもの解釈あり!


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