刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

誤解と幻想の古代史(*^▽^*)

2020-09-08 20:24:26 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へにほんブログ村

古代史解明の魅力って何だろうか?単に分かっていないからという人もいるのかも知れませんが、日本人のルーツ、つまり自分たちのご先祖がどのようにして伝統的な文化や国家を作り上げ、現代の日本人がどういう経過で出来上がったのかを知りたいという知的欲求が一番かもしれません。

自然現象相手の理系の仕事を長くしてきた刮目天が古代史の謎に挑戦したきっかけですが、多くの方が定説と考えていることや通説がどうも怪しいと気付いたからです。

ヤマト政権が成立するのは三世紀に突然現れた纏向遺跡の発掘で明らかにされています。その当時の日本(倭)のことが詳しく書かれた通称「魏志倭人伝」正しくは「三国志 巻三十・魏書三十・烏丸鮮卑東夷伝倭人伝」や、現存する日本最古の歴史書と言われる「古事記」の真の編纂目的が、東洋史家の岡田英弘先生の「日本史の誕生」によって分かったことがきっかけでした。とても衝撃的で、目からうろこでした(^_-)-☆

多くの研究者は『「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国への行程記事を正しく解釈すればたどり着くはず』という思いから、いろいろと文章を解釈しているのですが、各人が正しいと考える解釈でも全体として方角や距離で矛盾点があり、一つの場所ではだれも納得しないのです。いわゆる九州説と畿内説やその他の説が乱立している実態があります。どうしてこんなことになっているのでしょうか?

この疑問は、何故、このような行程記事が書かれたのか? 行程記事のどこが怪しいのかを真面目に考えることで解けます。実際、多くの研究者が二・三百年も考えて答えが出ないことで、正しく解釈すれば正しい結果を導くということが間違いであることはすでに証明されているのです。人間というのは一度染みついた考えからは、自分の頭だけでは簡単に脱け出せない特徴があるようです(´・ω・`)

「魏志倭人伝」の邪馬台国は、帯方郡の東南方向に万二千余里で、魏のライバルである呉を、その東方海上から圧迫する位置に在ると書かれています。西晋の史官陳寿にとって一番書きたかったことは、そのような女王が統治する東夷の大国を、西晋の礎を作った魏の将軍司馬懿が味方にしたことでした。魏の戦略上、最大の功績だということで、司馬懿を称賛するのが「魏志倭人伝」の真の目的だったのです。

しかし、陳寿が行程記事などを勝手に創作したのではなく、元は司馬懿の命令で倭国を手なづけるために帯方郡に派遣した太守劉夏が倭国王難升米(伊都国男王)と談合して修正した魏使梯儁(ていしゅん)らの報告書に基づくものだと推理しました(「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ)。

つまり、邪馬台国への行程記事は倭国のことを知らない魏の宮廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせだったから解決しなかったのだと分かりました。ついでに人々の注目を集めるために、倭国を女王様が統治するエキゾチックな大国という設定で倭国の国々の戸数なども二人の談合で決めたことだと推理しました。だから、正始元年(240年)の梯儁が伊都国までしか行ってなかろうが、邪馬台国まで行っていようがいまいが、どこに上陸しようが、全く関係ないというエレガントでない話なのです(;一_一)。

こういう話ですから、行程記事は一旦脇に置いて、「魏志倭人伝」に書かれた魏と倭国の交渉記事や考古学などの成果からヤマト王権の成立過程を推理することで、問題が解決できると考えたわけです。

その推論の内容は「古代史の謎を推理する」に詳しく述べていますが、その推論の結果、実は「魏志倭人伝」の記述と矛盾するので無視されて来た范曄「後漢書 巻八十五東夷列伝倭伝」の中に「女王国から東へ海を千余里(約450km)渡ると狗奴国に至る」という記事が正しかったと分かりました。また、狗奴国は考古学・民俗学などから纏向遺跡だと推理し、宇佐市安心院町三女(さんみょう)神社が卑弥呼の宮室だと分かりました。

つまり卑弥呼は戦乱期には物騒な宗像市付近の海に面した不弥(うみ)国から要害堅固な野麻(やま)国(宇佐市安心院町)に疎開してきた縄文海人ムナカタ族の姫巫女だということです。やま国に棲む女王(台)のクニが邪馬台国の意味でした。実際に多くの人々から邪馬台国と呼ばれたわけではなく、台(臺)の意味が分かるシナ人か倭国の王・大夫などの教養人しか分からないシナの歴史書にだけ登場する地名だと思います。

このような推理によって、卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の円墳も見つかり、日本建国時代の多くの謎も解明されるので、ここで行った日本建国のシナリオは大筋でほぼ間違いないと考えています(下の図、年表)。

従来、卑弥呼は倭国を統治する権力を持った女王様と考えられていましたが、

実は倭国王に太陽神の神託を告げる縄文海人族の姫巫女だったのですよ(誤解と幻想の卑弥呼)!



また712年に完成したと言われる「古事記」が実は九世紀の学者多人長(おおのひとなが)が、古代の氏族名鑑「新撰姓氏録」で多氏の出自が低くされたことに反発し、すでに存在していた「原古事記」をもとに書き変えたものだとだ分かりました。残念ながら「原古事記」は残っていません。しかし、人長は「日本書紀」に基本的に倣って書いていますが、「日本書紀」に見られない部分は「原古事記」にあったのではないかと推理しました(古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4))。

さらに、前回述べたとおり、現存する日本最古の正史と言われる「日本書紀」が何故編纂されたか、その真の目的を関裕二さんによって知ったことも重要な点でした。「日本書紀」の内容は、史実を反映した部分はあるのですが、完成当時の権力者藤原不比等によって、真相を隠すために史実が隠蔽され、相当改ざんされているのです(「日本書紀」編纂の真の目的?)。

具体的には、編纂者が「魏志倭人伝」などを読んでいることは、神功皇后紀の中で四カ所引用されて、神功皇后が卑弥呼なのか台与かもしれないとわざと思わせる記事から分かります。つまり、意図的に歴史をねつ造しているということが分かります。また、中臣鎌足が中大兄を見出す場面などは藤原氏寄りの記述になっています。中大兄・鎌足らが乙巳の変で殺した蘇我入鹿は聖徳太子の子山背大兄一族を滅ぼした悪人だったとしました。だから聖徳太子が大聖人であればあるほど蘇我氏が大悪人になる構図だと関裕二さんが指摘しています。また、日向三代の神話は天皇家の先祖は近親相姦のワニの一族だと嘲笑し、さらに雄略天皇の悪行や武烈天皇に至っては言葉にできないほどの酷い話が書かれています。

このように「日本書紀」は天皇家さえ貶めるデタラメな内容で、

天皇家のための歴史書ではないのです。

随所で藤原氏にとって都合のよい歴史になっていることが分かります。


以上のことから「正史は正しい歴史だ」というのは思い込みでしかなく、

正史は『権力を維持するための、「かくあるべし」の理念で書かれた政治文書』なのだと分かります。


くどいようですが、大事なことですので再度書きますが、

すでになぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )で述べたように、

現在までの考古学の成果によってヤマト王権の成立過程を

十分に解き明かすことが出来るようになっていました。

ですから、「魏志倭人伝」に登場する倭国の人物に、

「日本書紀」や「古事記」や記紀神話に沿った神社伝承などから人物を類推し、あてはめて、

日本建国の真相をかなり明確にすることが出来ました。勿論、考古学などで検証しました。

記紀神話は民族が長い間伝えてきた民族の物語ではないのです。

上で述べた考古学などの成果を無視する神武東征などの神話は

真の日本建国の歴史を誤魔化すために藤原不比等が創作したフィクションだったです。

考古学などの成果を無視して

「日本書紀」を素直に史実が投影された歴史と信じることは、

単なる古代妄想でしかないということなのです。

邪馬台国畿内説も、神武東征説も、邪馬台国東遷説も、九州王朝説なども

すべて考古学などの成果、つまり事実を無視したおとぎ話でしかないのですよ(^◇^)!


【関連記事】
古代史の謎を推理する

日本建国の真相はこれだ!(^_-)-☆




通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。お陰様でブログ・ランキングが上がってきています。
とても張り合いが出ます。よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へにほんブログ村
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。