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悲劇の女王台与のはなし(その1)

2020-03-14 20:08:25 | 古代史
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これから何回か女王台与を中心に書こうと思います。疑問点などありましたらご遠慮なくコメントください(*^▽^*)

「魏志倭人伝」に登場する台与は卑弥呼の宗女であり、247年かその翌年くらいに13才で女王に立てられた実在人物だ。関裕二さんは「記紀」の神功皇后のモデルとなった人物だと推理している。縄文海人ムナカタ族がその当時北部九州の宗像付近から出雲・伯耆・因幡・越などの日本海沿岸部を支配していたということを【検証】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`)で述べた。台与が西晋に献上した青い大勾玉は、珍しい糸魚川産の天然青ヒスイと考えられ、越を支配していたからこそ献上できたものと推理した。

糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉


「日本書紀」神功皇后紀では三十九年・四十年・四十三年に「魏志倭人伝」の卑弥呼の朝貢記事などを載せ、神功皇后は卑弥呼かも知れないとしているが、六十六年ー「この年は晋の武帝の泰初二年である。晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて貢献したと記している。」とあり(宇治谷孟「全現代訳 日本書紀(上)」講談社学術文庫833,1988,p.208)、この女王は卑弥呼の死後に立った台与なのだ。ただし、台与の朝貢は武帝の泰初二年ではなく泰始二年(266年)が正しい。

また神功皇后の名は気長足姫(おきながたらしひめ)で、父は開化天皇玄孫・息長宿禰王とあり、後の近江の豪族息長氏の祖であることから台与は近江も支配下に置いていた一族だと推理した。そして仲哀天皇の熊襲征伐にあたり、神功皇后は敦賀を出発して天皇と落ち合った場所が豊浦津(とゆらのつ、下関市長府)とある。また皇后の妹の名が豊姫で、さらに神功皇后が豊浦津で拾った如意の珠は、山幸彦が竜宮城で貰った潮満玉と潮干玉を連想させる。山幸彦の妻が豊玉姫で神武天皇の祖母に当たるとして、トヨという名が神功皇后の周辺に纏わりついているのだ。

正始八年(247年)に倭国への二人目の魏使の張政が到着した時すでに卑弥呼が死んでいた。男王が立って殺し合いになり約千人が死んだ後にこの張政の進言で台与が女王に立てられた模様だ。

張政は266年に台与が朝貢するまで倭国に滞在したから台与の倭国が滅亡するまでの経緯を全て知っていたはずだ。勿論、彼の上司の帯方郡太守も、その上の皇帝補佐役の司馬懿(179 - 251年)まで日本建国の真相を報告されていたと思う。張政は司馬政権の指示で倭国に滞在し、265年に司馬懿の孫司馬炎(武帝)が西晋を建てたので、その翌年に台与の使者を伴って帰還したということなのだ。帯方郡址の墳墓から太守張撫夷という塼が発見されているので、東夷の倭国を約二十年間に渡り手なずけた功績で太守に出世したということなのだ。

古代史の謎を推理する(^_-)-☆



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まだ続きは決まってませんが近日中につづきを書く予定です。

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