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【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)

2018-01-25 20:58:11 | 古代史
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纒向遺跡(まきむくいせき、纏向遺跡)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。

3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地と推定される。邪馬台国の中心地に比定する説があり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。


丁度、邪馬台国の卑弥呼が女王に共立された時期に作られた遺跡で、図のとおり大型建物群・住居群、古墳群と矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な2本の巨大水路(纏向大溝)などで構成されている。建物の多くは「堀立柱建物」だから、「階層のランクが高い人たちが集住していたことを示すのかなと思います。地べたに寝ていない、と私はよく言うのですが(笑)、床の上で寝るようなランクの人たちがいたということですね。今でいう知事クラスなのか外務大臣クラスなのか外交官クラスなのかわかりませんが、少なくとも各地域の首長の命を伝えるような人たちがやって来ていたのでしょう。」と橋本氏が述べている(「松木武彦×橋本輝彦特別対談 ここまでわかった!纏向遺跡」『歴史REAL 邪馬台国』洋泉社MOOK、2017.11.19 p.19)。
(『歴史REAL 邪馬台国』洋泉社MOOK、2017.11.19 p.4より)

そして、建物に関する橋本氏の発言と関連する外部から持ち込まれた土器は、Wikによれば、全体の15~30%と他の遺跡と比較して極めて多く(上掲書、p.17 脚注)、内訳は下の表のとおりだ。注目は、邪馬台国時代に大陸との交流の入り口である北九州地域の土器が纏向遺跡でほとんど発掘されていないということだ(注1)。
                              。
搬入土器の出身地割合wiki「纏向遺跡」より)
伊勢・東海系  : 49%
北陸・山陰系  : 17%
河内系     :10%
吉備系     :7%
近江系     :5%
関東系     :5%
播磨系     :3%
西部瀬戸内海系 :3%
紀伊系     :1%


この事実は邪馬台国大和説を完全に否定する非常に重要な証拠だ!

もしも邪馬台国が大和の纏向にあったならば、魏志倭人伝では、「女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず(つまり、「倭の王が使いを遣わして、魏の都や帯方郡、また、各韓国に行かせるときや、また、帯方郡の使いが倭国に行くときはみな、港で荷物をあらため、文書・贈り物などにあやまりががないかを確かめて、女王に差し出す。不足や食い違いは許されない。」(藤堂明穂ら「倭国伝」講談社学術文庫、p.110より)とあり、女王への文書・贈り物を届ける使者に随行して伊都国から纏向へ届けたり、使者を伊都国まで送り返すために、大率やその部下らが行き来しなければならないということだ。(赤字の部分は2018.2.21に加筆・修正)

その痕跡がないのだ!

つまり、大陸との玄関口の北九州の国々(伊都国、奴国、不弥国、末蘆国)と纏向は交流していないということだから、邪馬台国は大和には存在しないということになる。

ということはむしろ、当時の日本列島の中でも特に突出した巨大な政治都市である纏向こそ、魏志倭人伝に「その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。」と書かれた邪馬台国に敵対する狗奴国の可能性が最も高い。

すでに【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆で以下のように記述したとおり、「日本は古の倭の奴国」だ。

日本書紀完成から260年も後になるが、雍熈元年(984年)、日本の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した『王年代紀』がシナの正史『宋史』「日本国」に記載されている(第4話 何故、「日本書紀」は歴史を隠す?付録参照)。その中で、記紀で神代とされた神武天皇以前に、初代天御中主(アメノミナカヌシ)として23代の王が筑紫の日向宮に居たことが明らかにされ、奴国王を指すものだとわかる。古事記でも最初の神は「天御中主」ということである。「中」はナーガ=蛇を意味し、蛇神を祀る種族であるため、西暦57年に後漢光武帝より奴国王に与えられた金印の紐(つまみ)が蛇のデザインであることからも初代奴国王だと分かる。さらにヤマト王権の発祥地纏向遺跡のある三輪山の「大物主大神(=大国主命)」も御神体は蛇であり、ヤマトを作ったことが日本書紀に書かれていることからも、「日本は古の倭の奴国」というシナの歴史書に見られる記述に間違いない。

「狗奴国」は「犬コロの奴国」という蔑称であり、外交・政治の実権を握っていたと思われる伊都国男王が名付けたものだろう!「伊都国」だけが好字で他の国名はおおむね卑字をあてられていることからも想像がつく。

ヤマトが狗奴国なら、旧奴国王族の国ということを意味するのだ。

そして、倭国女王卑弥呼の後ろ盾である魏が、女王に黄憧(魏の正規軍の黄色い軍旗)を与えるわけだから、邪馬台国連合倭国と敵対する狗奴国が、魏と敵対する大勢力である呉の同盟国であったと考えてもいいのではないだろうか(注2)。

さらに纏向が魏志倭人伝のとおり邪馬台国の南にあるという狗奴国であるならば、邪馬台国への方角の謎も完全に解ける。

つまり、魏志倭人伝は女王国(邪馬台国)を会稽東冶の東の海上に置く目的であったので、末盧国の上陸地点で東を南に90度回転させて邪馬台国へのルートを記述したということになる(参考記事)。







以下の話は刮目天の仮説だが、ヤマト建国のややこしい話は、107年に後漢に朝貢した倭王帥升らが奴国王を追放したことから始まる(注3)。

それから7,80年経って後漢朝廷の混乱で半島支配が衰え、韓人・濊人らが暴れたころ、旧奴国王族に繋がる倭人も倭王に敵対し、第一次倭国大乱が始まった。

しかし、遼東太守の公孫氏が半島の混乱を抑え、204年に帯方郡を設置するころには交易の混乱が少し落ち着いたので伊都国に居た帥升王の子孫の倭王が、倭国周辺の敵対勢力だった旧奴国王族に繋がる宗像族を懐柔し、宗像の姫「卑弥呼」を女王として共立したと考えている。

それによって、それまで半島東南部の鉄を沖ノ島経由の海北道中ルートで旧奴国王族の支配する国々(出雲から丹後・越・近江・尾張などへ、あるいは宗像から瀬戸内海経由で吉備・大和へ)に供給していたのが断たれた。そのために纏向の地に各地の王たちが集まったと考えられる【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎)。

纏向の大型建物の中では、上の外来系搬入土器が示す地方連合体の首長(王)らや将軍たちが集まり、倭国攻略の軍議をしたり、倭国懲伏の祈祷など祭祀を行ったのだろう。

外来土器から尾張勢力が最も優勢で、次いで山陰・北陸勢力が有力勢力と分かる。そして、祭祀を司るのは古墳群に多く見られる円筒型特殊器台(注4)から考えて吉備勢力だと分かる。(注5)。

「先代旧事本紀」によれば、尾張氏はニギハヤヒの子天香山命(アメノカグヤマノミコト)を祖とし、吉備を本拠地としたと思われる物部氏の祖宇麻志麻遅命(ウマシマジノミコト)もニギハヤヒの子で天香山命とは母神を異にする兄弟神ということだ(注5)。

神武天皇が大和に入る前にすでに天孫降臨していたニギハヤヒは、奴国を追放された第18代奴国王スサノヲの後を継いだ、吉備を支配していた第19代奴国王の天照大神尊で、その直系のウマシマジ(=ハツクニシラススメラミコト崇神天皇=狗奴国王 卑弥弓呼)が旧奴国王族を纏向に集め、第一次倭国追討軍を派遣したと考えている。記紀では仲哀天皇(尾張王)と神功皇后(近江・越の女王トヨ)と武内宿祢(出雲・丹後・但馬・丹波の王=住吉大神スサノヲ直系の大国主命=狗奴国の官 狗古智卑狗)の熊襲征伐の話としている。

その後は下の図のとおりだ。

以上のことを考えると邪馬台国の位置は、奴国(博多付近)から東(実際は北)へ百里の糟屋郡湊川河口付近(不弥国内)から舟に乗って南(実際は東)に約1、300里(約100㎞)である宇佐市となる。宇佐市を流れる駅館川を遡った安心院町が、(第一次)倭国大乱時代に「卑弥呼」が匿われていたと思われる邪馬台国だ。

魏志倭人伝にある「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。」という記述からも、該当する場所は宇佐市から(東を北に読み替えて)周防灘を隔てた防府市や山口市周辺の弥生遺跡を指すと考えられる。不弥国から東に舟で約100キロ行った所からこの記述に該当するような場所は他に見あたらないので、邪馬台国は宇佐市だと言える!(●^o^●)

  
【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆ より)

【補足】『後漢書』「巻85 東夷列伝 倭の条」には「女王国から東へ、海を渡ること千里余りで狗奴国に至る」と明記されている。編纂者范曄(はんよう、398年 - 445年)は「三国志」の著者陳寿よりも後の西晋(265年 - 316年)が滅んだ後の南北朝時代の宋(南朝、420年 - 479年)の人で、432年以降に「後漢書」が成立されたといわれている。
『中国の1里はどの時代も三百歩、約四五〇メートルと決まっているのに「魏志倭人伝」に限ってその十分の一の短い里が使ってあると解釈し、・・・』(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社、1994、p.37)とあるとおり、魏志倭人伝の1里=約80m(狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐、そして壱岐から末盧国までの実測と照らすとかなり誤差はあるが、周代に使われていた短里だと主張する説もある)というのは不自然だ。これは以前述べたとおり、あるべき位置(会稽東冶の東の海上)に女王国(邪馬台国)を置きたい作為なのだ。岡田は同書で、『倭人伝の中でいちばん信用のおける魏朝中国と倭国女王との交渉の記録を見ると、魏の官吏が中央政府の命令で倭国に旅行したのは、二四〇年の梯儁(ていしゅん)と二四七年の張政の二回である。かれらはそのつど、報告書を中央政府に提出したにきまっているが、これが陳寿の利用した原資料なのである。』(p.21)と述べている。また、「魏の都の洛陽を中心にして、東方の「親魏倭王」の都の邪馬台国と、西方の「親魏大月氏王」の都のカーピシーが対称の位置に来るようにでっちあげたものである。」と述べている(p.89)。刮目天もそれらの説を採用している。

だから、范曄の時代には間違いなく1千里は約450kmであり、しかも方角の作為も既に滅んでいる西晋の朝廷に遠慮することなく女王国(邪馬台国)から東1千里という正しい記述をしたと考えている。

つまり、纏向遺跡が狗奴国ということなのだ!(2018.1.28作成)。


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【参考記事】
【新説】邪馬台国はここだ!(その2)陳寿の事情
【新説】邪馬台国はここだ!(その3)伊都国男王の陰謀
【新説】邪馬台国はここだ!(その4)邪馬台国への道(若干の修正と説明のメモを末尾に加えました。2018.1.27)
【新説】邪馬台国はここだ!(その5)女王の居城は?


(注1)このWikiの記事に対して、「九州関係は皆無に近いということである。全体が123個ということは、1%未満だと最大限で1個あった可能性しか考えられない。」という指摘もある(羽黒熊鷲、「纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告」

(注2)そのような中で呉の元号の入った銅鏡が二枚発見されている。238年銘のものは山梨県鳥居原狐塚古墳から、244年銘のものは宝塚市安倉 高塚古墳からだから、近畿から東は呉と同盟関係であったことの傍証になる。

また、倭人は春秋の呉の民であるので、日本の漢字の発音で春秋時代の呉音がかなり浸透していることからも、孫氏の呉と同盟する素地はあったと思われる。

(注3)帥升らが後漢安帝に献上した160人もの奴隷は、おそらく奴国王族を含む臣下たちだったのだろう。護送に必要な兵士まで考えると、かなり大掛かりな船団を組織したようだ。卑弥呼が親魏倭王の金印を貰った時の献上品(生口男女10人と班布2匹2丈)と比べると、相当立派だ。後漢から倭王と認めさせるための朝貢だったことは明らかだ。すでに、奴国王は「漢委奴国王」金印を貰っているから、奴国王ではなく改めて倭王として朝貢したことを示している。つまり奴国王を追放して倭王となったということだ。

(注4)特殊器台・特殊壺(とくしゅきだい・とくしゅつぼ)は、弥生時代の後期後葉に吉備地方で生まれ、華麗な文様を施し、丹で赤く塗るなどの装飾性に富んだ大きな筒型・壺型の土器で、首長の埋葬祭祀に使用された。これらの特殊土器類が発達し変遷して円筒埴輪の発生や成立に関係した。特殊器台型土器・特殊壺型土器とも言われる。(Wiki「特殊器台」より)

西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混入していた。


(注5)弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)に見られるもので、二つの突出部を持つ円形墳丘墓であり、前方後円墳のルーツとも考えられている。

しかし、【検証2】前方後円墳のルーツ で述べたが、橿原(かしはら)市の瀬田遺跡で発見された弥生時代終末期(2世紀中ごろ~後半)とみられる円形の墓が周囲の溝に水が張られ墳丘墓への通路が造られたのでこちらがルーツと考えられる。

円形墳丘墓は宗像大社周辺でよく見られ、近畿でよく見られる方形周溝墓とタイプが異なる。おそらく、宗像周辺の円形墳は吉備の物部氏の墳墓ではないだろうか?なので、瀬田遺跡も吉備の物部氏と関係するのかもしれない。河内からの外来土器も三番目に多く、纏向が物部氏の影響下にあったであろうことは、日本書紀や先代旧事本紀にあるニギハヤヒまたはその子孫が最初に大和盆地を開拓したことを示すものかもしれない。

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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2 コメント

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巻向でしょう (九州説を否定したい訳じゃないですけど)
2018-09-02 03:55:24
代官のような大率を置いていた九州は、邪馬台国の直轄ではなく人員をあまり動員できなかったのではないでしょうか。
記紀による初期天皇の年齢操作を考慮すると、実在性があるとみられるハツクニシラススメラミコト(崇神天皇)はどうやらトヨの後の王のようですが、崇神天皇、垂仁天皇、欽明天皇、雄略天皇の王宮のあった場所は記紀では磯城とされており、この地は山辺(ヤマベ/ヤマト)、巻向、大市ともいいますから、邪馬台国の都があったんじゃないでしょうか。
時代を3世紀ほど降り、大和を訪れ聖徳太子とも謁見した使節の情報に基づく隋書倭国伝に、既に大和とは邪馬台国のことだと記されているので、巻向に邪馬台国の都があったと考えるのが自然だと思いますよ。
返信する
Re:巻向でしょう (刮目天 一)
2018-09-02 12:44:14
コメントありがとうございます。
ひとつひとつ回答させていただきます。
>代官のような大率を置いていた九州は、邪馬台国の直轄ではなく人員をあまり動員できなかったのではないでしょうか。

その根拠は何でしょうか?大率は魏志倭人伝に伊都国に駐在して統治の任にあたり、中国でいう刺史のようなものとあり、女王に送られて来た文書や貢物をチェックして、誤りがないか確かめて女王に差し出す役目ですから、大率自身は伊都国に居るのでしょうが、その部下が付き添い人夫とともに女王のもとに確実に届けることになると思います。纏向から北九州の土器が発見されていないのは纏向が女王国でない決定的な証拠だと思いますよ。その他にも、纏向遺跡の出土物について、鉄鏃や絹や墓のことも倭人伝の記述と異なるし、卑弥呼の墓も、もしも前方後円墳であればそのような記述になっていないと、前方後円墳ではないと考えるのが普通でしょう。

>この地は山辺(ヤマベ/ヤマト)、巻向、大市ともいいますから、邪馬台国の都があったんじゃないでしょうか。

纏向遺跡は当時の一大勢力が北部九州の倭国(邪馬台国)に敵対して集まった政治都市ですから旧奴国=狗奴国でしかないと推理しています。これにより、「日本書紀」が必死に隠した日本建国の様々な謎が解けますよ(拙ブログ参照)。

>時代を3世紀ほど降り、大和を訪れ聖徳太子とも謁見した使節の情報に基づく隋書倭国伝に、既に大和とは邪馬台国のことだと記されているので、巻向に邪馬台国の都があったと考えるのが自然だと思いますよ。

わたしの推理では、女王トヨを滅ぼした大和国(狗奴国)王卑弥弓呼(=崇神天皇)は後ろ盾の呉が280年に滅んだので、邪馬台(ヤマトゥ)国と呼ぶことにしないと魏の後継の西晋から追討されると怖れたからだと推理しました。だから、台与(神功皇后)と狗古智卑狗(武内宿祢=大国主)の子ホムダワケを大和に呼び寄せ、祭祀王応神天皇として即位させたというのが真相だと突き止めましたよ。

隋の煬帝の使者はそういう日本建国の真相を知りませんから邪靡堆ヤマト(ゥ)という発音の都「大和」を「魏志」にいう邪馬台国と記述したということですよ。

こういうまじめなご質問は大歓迎です。疑問点をお送りください。よろしくお願いいたします。
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