刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)

2023-02-25 13:37:25 | 古代史
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週刊文春の安倍元首相暗殺事件についての記事がようやく出て、さっそく読みました。奈良警察の不手際で済む問題ではなく、これまで多くの日本国民が信頼していた司法に対する不信感が募り始めているので、これは日本社会の危機的大問題です。このまま、真相がよく分からない状態で捜査を打ち切り裁判になるので山上被告を殺人罪に問えない可能性があると思います。様々な妨害を受けながら真相究明を行っているジャーナリストの山口敬之氏の動画を見ています。
山口敬之が文春「疑惑の銃弾」第三弾先取り解説!【山口インテリジェンスアイ】山口×さかき 文化人放送局@YouTube
【文春砲第三弾】なぜ奈良県警は捜査しないのか?できない理由が...【山口インテリジェンスアイ】山口×さかき 文化人放送局@YouTube

この中でさらに驚くことを知りました。岸田首相は最大派閥の長の故安倍元首相とのいくつかの約束で総理総裁の座に就けたのですが、安倍元首相は自民党が分断されることを恐れてのことだったようです。当然、日本国民も分断され、世の中が酷いことになるのは米国オバマ政権の失敗を聞いていますので実証済みです。暗殺された半年後には早速その約束を反故にしてLGBTを法律化しようとしていますので人間性を疑っています。すでに防衛という国家の最優先事項の財源を、必要のないどころか、最悪の増税で賄い、国民経済を破壊する民主主義の世界に類を見ないおぞましい政権だと憤りを感じていました。さらに皇位継承問題でも伝統国家の日本を根底から壊そうとするかも知れないと危惧しています。尊敬するチャンネル桜の水島社長のお話がありました。今回は、その女性天皇問題の元になる「日本書紀」の女神アマテラスの虚構について別の切り口から考えてみたいと思います。どうぞ最後までおつきあいください。


【直言極言】亡国の女性天皇論から目覚めよ[桜R5/2/24]
新日本文化チャンネル桜@YouTube

今回は、御成年後の御公務で国民の目に触れる機会の多くなった敬宮愛子内親王殿下を利用し、「女性天皇」から皇統断絶を画策する勢力の陰謀に警鐘を鳴らすと共に、残念ながらそれと知らずに乗せられている保守勢力へも注意喚起させていただきます。
出演:水島総(新党くにもり代表・国守衆全国評議会議長・頑張れ日本全国行動委員会幹事長)


皇統を継ぐことになっている男性のご皇族がいるにもかかわらず、最近の世論調査で日本国民の8割以上が女性天皇を待望し、8割近くが女系天皇さえ容認するという結果が出て愕然としました。古代史を研究して、天皇陛下の真の役割が分かり、女性天皇など歴史上存在しないことも、更には女系天皇の根拠になりかねない女神アマテラスまでもが創作だったことも判明しました。

多くの日本人は、現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が、天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校で習ったし、そのように信じて疑いません。日本の古代史が謎に包まれている理由は、これらの文献やそれ以外の文献間の不整合や考古学や民俗学などの成果との矛盾があるにもかかわらず、天皇の歴史書が正しいとして、謎の原因を徹底追及せずに放置していたからなのです。

天武天皇が編纂を命じたことは事実と思われますが、日本書紀は崩御から34年も後になってから完成しました。その時の権力者は藤原不比等でした。考古学によって三世紀の奈良県桜井市纏向遺跡でヤマト王権が成立したことが分かっていますが、不比等は藤原氏の千年の栄華を望み、建国時代に活躍した豪族の史実が不都合なので、日本神話を創作し、人代の歴史も大幅に改ざんしたことが、考古学や民俗学などの成果から判明しました。詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。

不比等が史実を隠す最大の理由は、天武天皇の皇后とされる鵜野讃良(天智天皇皇女)と組んで行った不比等本人のヤマト大王家に対する悪行によって権力を奪取した事実を隠し、正当化するためだと推理しました。

鵜野の孫文武天皇(天武天皇の皇子で、早世した草壁の子珂瑠、異例の15歳で即位)に皇位を継がせる正統性のために、高天原の最高女神アマテラスを創作し、皇孫ニニギノミコトの天孫降臨神話を創作しました。鵜野を高天原広野姫天皇(持統天皇)として即位したことにしたのです(注1)。

お伊勢参りは江戸時代から始まる庶民の娯楽のひとつとして知られています。伊勢神宮内宮の創建は垂仁天皇26年と日本書紀にありますが、皇大神宮は文武二年(698年)に成立したことが「続日本紀」に「十二月乙卯、多気(たけの)大神宮を渡会(わたらい)郡に遷す」とあることから判明しています。筑紫申真「アマテラスの誕生」(講談社学術新書)に詳しくありますので、これを参考にして推理することにします。

この多気大神宮は、内宮・外宮に次ぐ社格の滝原神宮のことで皇大神宮の別宮で揺宮(とうのみや)と呼ばれています。もとは宮川の上流にあったと「伊勢国風土記」逸文にあります。鎌倉時代中期に伊勢国出身の神道家度会行忠(外宮祠官、伊勢神宮禰宜)により編纂された「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」に垂仁天皇の皇女とされる倭姫命が天照大神を奉じて各地を巡幸し伊勢に鎮座するまでの伝承が記されています。伊勢神道の経典である「神道五部書」の一つとされています。宮川上流は住み心地が悪いので今の皇大神宮のある五十鈴川上流の宇治に引越ししたとなっています。この滝原神宮の祭神は元々アマテラスではなく川の神でした。宮川上流でも五十鈴川上流の宇治でも川の神を伊勢大神(いせのおおかみ)として祀っていた場所で女神アマテラスを祀るようにしたとのことなのです。

そして、前回の記事「丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった」の話に戻ると、丹後半島が最後の奴国王スサノヲとその子孫の代々久々遅彦と呼ばれたムナカタ族の王の根拠地だったわけです。天橋立の西にある籠神社(このじんじゃ)が元伊勢と呼ばれる伊勢神宮の元宮で、由緒書に「神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号で四年間ご一緒にお祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。」とあります。そして、この神社の社家に残された「海部氏系図(あまべしけいず)」があり、御祭神は「彦火明命ひこほあかりのみこと)、別名を天照国照彦火明命ともいい天孫邇邇藝命の兄弟神。天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神様」とあります。



つまり、倉敷市楯築王墓の被葬者と推理したニギハヤヒ大王のことです。宮廷楽師師升らの反乱を逃れて、ムナカタ族の支援を受けて吉備を平定し、奴国を再興した天照大神尊です。その子孫の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の開化・崇神天皇)が三世紀に桜井市纏向遺跡に都を作り、四道将軍を派遣して日本を建国しました。史実はニギハヤヒの子孫の尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮祭神)がまず九州に遠征し、大国主・女王台与などを討ち、ヤマトに戻って丹波などの大国主の勢力を武力で鎮撫したことが古墳時代初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況から判明しました。この大国主の本拠地の丹波は尾張王の配下の海部氏の祖が占領したのだと分かります。

大国主の生誕地と推理したお隣の豊岡市竹野町の誕生之浦に、大国主神話で国譲りをさせたタケミカズチが上陸した地点との伝承がありますので、尾張勢の上陸地点だと分かります(詳細は「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。ですから、丹後半島と豊岡市の竹野(たかの)という地名はもとは高野だったのを、文武二年(689年)に伊勢神宮を創建した時に竹野と変えたのだと推理できます。

そして、滋賀県守山市伊勢町・阿村町・栗東市野尻にある伊勢遺跡の特徴は、守山弥生遺跡研究会「国史跡 伊勢遺跡」に以下のように説明されています。

伊勢遺跡の面積は約30万㎡で、弥生時代後期としては 国内最大級の遺跡です。規模の大きさだけではなく、大型建物が計画的に立ち並び、祭祀空間を持つ遺跡は、この時期、他では見られません。建物には中国に源流を持つ当時の最新の建築技術が用いられています。また、遺跡からの生活遺物もほとんどなく、ここが、特異な場所であったことが推定できます。」さらに5種類の建築様式が見られ、「伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます。」とあります。

ということは伊勢神宮外宮の創建も、五世紀末の雄略天皇のころに独り身ではさみしいという天照大神の神託で豊受大神を呼び寄せたのではなく、内宮創建よりもさらに古くから伊勢遺跡を造った勢力が出雲や伊勢湾に進出して同じ様式の社殿を造っていたと推理できます。琵琶湖沿岸部は息長氏の祖であるムナカタ海人族の根拠地だったと考えています。つまり記紀で神功皇后とされた女王台与の一族なのです。外宮の祭神豊受大神がこの地で祀られていたようです。ですから、伊勢の地に呼び寄せられたのは大国主(高野御子)の方だったのです。

天皇家はいかなる重大な機会においても、アマテラスオオカミを大化の改新よりも前にはまつるならわしがなかったのである、という事実です。つまり、敏達六年(五七七)以後大化元年(六四五)にいたるあいだは、まだやっぱりアマテラスは誕生していなかったのです。
 ついでながら述べておきましょう。大化の改新の後、孝徳・斉明・天智の三人の天皇がつづいて立ち、そのあいだ政治の実際は中大兄皇子=天智天皇がとるのですが、ただの一度もアマテラスをまつったり、伊勢神宮をまつったりしたという事実が、『日本書紀』の記事のなかには出てこないのです。
」(筑紫上掲書 p.73)

ここで斎王制度についてまた発見しましたが、今回はとりあえずここまでにしますネ。


(注1)皇后だったことも怪しいのですが、皇后が皇位を継いだという前例も創作しました。推古天皇と皇極(斉明)天皇(宝皇女)です。しかし、万葉集研究家渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」(大空出版)で女性天皇として存在していないことが判明しています。万葉集には天武帝と額田王の歌しか残されてはおらず、天武天皇と持統天皇は同じ陵墓(檜隈大内陵)に入り、仲の良いおしどり夫婦のような印象付けを行っているようです。天武天皇と天智天皇は兄弟でもありません。天武天皇は大悪人とされた蘇我氏の系統で、実は蘇我馬子とされる用明天皇の子孫です。天智天皇は用明天皇に殺された敏達天皇の子孫で、飛鳥・奈良時代は、日本建国時代と同様に史実が隠されて、皇統もほとんど改ざんが行われています。

しかし、不比等の歴史改ざんの目的が分かると、記紀から怪しい箇所が分かり、物証を探すことによって推理できます。例えば、高市皇子の子長屋王が長屋親王と書かれた木簡の一部がその広大な邸宅から出土しており、高市皇子が即位していたことの物証です(ここで、宗形天皇とします)。しかし、記紀には現れないので、記紀を信じて長屋王は特別待遇だったというのが定説のようになっています。日本書紀では高市皇子の母宗形徳善娘尼子娘(あまこのいらつめ)が身分が低いため即位できなかったとして太政大臣だったことにしています。ところが4世紀から6世紀まで天皇の妃を数多く出している和邇氏がムナカタ族だったことは天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵島姫神(イチキシマヒメ、卑弥呼と推理)であることから分かりますので、宗形氏が身分が低いという日本書紀の嘘がバレてしまいます。

応神天皇の皇太子だった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が和邇氏の祖日触使主(卑弥呼の弟赤坂比古と推理)の女宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の子で、兄の仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したという美談?を創作しています。そしてこのようなあり得ない話もよくあるんだよということで、神武天皇崩御後の皇位継承でそっくりな話も前例として創作しています。ですから、宗形天皇の存在を隠すためのデタラメな話だと分かります。そして菟道稚郎子が仁徳天皇に殺された宇治天皇として即位していたと推理できます。先日豪華な出土品で話題になった奈良市富雄丸山古墳の被葬者であると推理しました(詳細は「富雄丸山古墳の被葬者は?」参照)。空白の四世紀と倭の五王の謎も古事記から推理して解明できました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)~(その3)」参照)。

【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?



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丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった(^_-)-☆

2023-02-21 21:30:43 | 古代史
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大丹波チャンネルで赤坂今井墳墓というスサノヲとその子孫が支配した丹後半島の弥生墳丘墓に関する、とてもいい動画を見つけたので、ついいつもの通り不躾な長いコメントをしてしまいましたが、Up主様からハートマークを頂きました。どうも有難うございます。この方の話が上手で楽しめますので、ゆっくりとご覧ください。ちょっと長めですが、どうぞおつきあいください(#^.^#)

GoogleMapより


弥生王墓の重要性について(書籍紹介もかねて)

大丹波チャンネル@YouTube


刮目天
とてもいい情報をありがとうございました。参考になりました。
実は最近、大国主命と記紀神話で呼ばれている人物の生誕地を発見したのですが、お隣の豊岡市竹野町の鷹野神社・五社大明神・誕生之浦でした。竹野町をこちらでも「たかの」と呼ぶそうですね。大国主命は高野御子と呼ばれていましたので、空海が大国主の鎮魂のために高野山を開基しました。こちらと同様、もともと高野という地名だったようですが、建国時代の不都合な歴史を隠した藤原氏によって神社名・祭神名・由緒や地名まで書き換えられています。


記紀神話で高天原を追放された乱暴者の神スサノヲの子孫であることも間違いないのですが、実はスサノヲは最後の奴国王(宋史 王年代紀 第18代)で北部九州の倭国の王だったのです。スサノヲは国生み神話で知られる伊弉諾尊と伊弉冉尊の子供で、伊弉諾尊は先代の奴国王でした。初代の奴国王は日本で最初の王墓と知られる吉武高木遺跡の墓に葬られている天御中主(あめのみなかぬし)で実在人物です。名前は龍蛇神(ナーガ=奴)を信奉する海人族の王という意味で、記紀神話でも高天原に最初に登場する神になっています。那珂、那賀、長柄、中山などの地名はアズミ族(江南出身の倭人)が拓いた場所の地名になっています。天御中主は紀元前473年に滅んだ呉の王族で、日本に水田稲作技術を紀元前10世紀に伝えた江南の倭人の王夫差の一族だと推理しました。



伊弉諾尊の父沫名杵尊(アワナギノミコト)が57年に後漢光武帝から「漢委奴国王」の金印を貰った王です。光武帝はシルクロードの終点を珍しい宝石を産出する日本列島と考えていたので、楽浪郡から華僑を送り、奴国にある日本最大規模の交易センター比恵・那珂遺跡群(最盛期は吉野ヶ里遺跡の4倍、魏志倭人伝にある二万余戸の大集落)で糸魚川のヒスイの勾玉や青ガラス釧などの列島各地の珍しいものを手に入れる目的で、倭人との交易を保証してもらうために冊封体制に組み込んだのです(詳細は岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎)参照)。


そのために王子伊弉諾尊(イザナギノミコト)と、北九州から山陰・北陸を主な活動域とする縄文系ムナカタ海人族の姫伊弉冉尊(イザナミノミコト)と結婚させました。その史実を記紀では国生み・神生み神話にしたのです。そして子のスサノヲが王位を継ぎ、半島南部から鉄素材を独占的に仕入れて、糸魚川などからヒスイなどを仕入れて丹後半島で玉造り工房を作らせたと推理しました。スサノヲは玉造の工具の鉄針なども弥生後期の途中ケ丘遺跡で造らせて管玉などを作っていたようです。王宮を留守することが多く、たまに奴国に帰還したら縄文系のバカでかい「見る銅鐸」を伝統祭祀に導入するよう宗教改革を行おうとしたと推理しました。そのため困った奴国の宮廷楽師らが反乱を計画し、スサノヲが戻ったところを捕らえて、金印の在りかを白状させるために拷問までした模様が古事記にあります。結局金印はスサノヲの部下のアズミ族が逃亡する途中で、志賀島に隠してしまったので、金印の在りかを白状しないスサノヲは殺され、倭国王として後漢に認められるために160人もの生口(スサノヲの部下)を献上したと推理しました。107年に安帝に朝貢した倭王帥升(正しくは倭のイト国王師升)です。

スサノヲの王子イタケルとスサノヲの弟ニギハヤヒはムナカタ族の手助けで脱出しました。イタケルは米子市宗形神社で育てられたと思います。成長して、スサノヲのコネで半島南部の鉄を入手し、鉄の交易システムを作って各地の首長を傘下にして、子孫が代々ムナカタ海人族の王として旧奴国(狗奴国)勢力を隆盛にしました。魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗です。豊岡市久々比神社の祭神久々遅命として祀られ、イタケルと同じ木の霊ですので、日本全国の上棟式の祭神とされています。イタケルかその子孫の久々遅彦の墓がご説明していただいたように当時の日本一の副葬品を伴う赤坂今井墳丘墓だと考えています。大国主の父先代久々遅彦は豊岡市に王宮を築いたものと考えています。


二世紀後半の倭国大乱は、後漢の宮廷の宦官と豪族の権力争いで政治が乱れ、天候不順で苦しむ農民をさらに苛政で苦しめたので黄巾の乱などが起こり、王朝は急速に力を弱めました。三国志の時代に突入します。楽浪郡でも韓人や濊人が暴れたので、師升王の一族の伊都国男王の倭国は楽浪郡との交易が途絶えて衰退していました。一方大国主命の父先代久々遅彦は、半島の鉄素材を大分県大野川流域から阿蘇山麓に持ち込み、鉄製武器を製造する鍛冶工房を数多く造り、熊本県菊池川上流の方保田東原遺跡やうてな遺跡を最前線基地として、そこから倭国の佐賀平野・筑紫平野を襲撃して倭王難升米を苦しめていました。弥生後期の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて倭国大乱の痕跡を発見しました(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

ところが、遼東太守の公孫氏が半島の混乱を抑え、204年楽浪郡の南に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、菊池川上流を急襲して大将の先代久々遅彦を討ったと推理しました。王を失って途方に暮れた玄界灘を支配するムナカタ族先代赤坂比古を難升米が懐柔し、先代赤坂比古の姫巫女卑弥呼が告げる太陽神の神託によって政治を行う条件で狗奴国を裏切って倭国側についたと推理しました。ですから本当の倭国王は難升米で、魏の司馬懿が公孫氏を討ったので、魏に朝貢するために帯方郡に出かけて、太守劉夏と司馬懿の功績を持ち上げるための談合をしたのです。ですから、卑弥呼を倭国女王とし、帯方郡から万二千余里の位置に邪馬台国があるとして、ライバルの孫権の呉を挟み撃ちにする東夷の大国という設定にしたのだと推理しました。卑弥呼は宇佐神宮の比売大神・宗像大社の三女神のイチキシマヒメとして祀られていますが、元は不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡群)で生まれましたが海の近くは物騒なので、野麻国(ヤマコク、和名抄の野麻郷は宇佐市安心院町)に疎開して、要害堅固な山城で生活していました。宮室が三女神社です。墓はそこから西に五百米のところに造られた径百余歩(約150m)の日本最大の円墳です。247年はもう古墳時代初頭なので古墳でいいと思います。



一方、ニギハヤヒはムナカタ族の支援で、倭国と交易していた吉備の勢力を討って、吉備で奴国を再興しました。19代天照大神尊で、倉敷市楯築王墓の被葬者です。墳頂の神社のご神体の亀石(弧帯文石)が人面蛇体の龍蛇神なのですから直ぐに分かりました。その子孫の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の開化・崇神天皇)が纏向に王宮を構え各地に散ったニギハヤヒの子孫やムナカタ族の王久々遅彦など各地の首長を集めて、恨みのある難升米や裏切った卑弥呼を討つ相談をしたと推理しています。発見された大量の桃の種は、呪詛するために用いたのではないかと思います。ヤマト王権成立まで、まだまだ、続きがありますが、ここでやめておきます。よろしければ拙ブログ【刮目天の古代史】をご参照ください。どうもだらだらと失礼しました(#^.^#)






奈具岡という地名はナーガ=龍蛇神に由来すると思います。玉作りは途中ヶ丘遺跡に一部移ったようですが、この集落は弥生後期まで存在したようです。
【関連記事】
新羅の脱解王が奴国大王?
倭人の脱解王の伝承はスサノヲの史実がもとになったものだと推理しています。後を継いだ新羅王(まだ新羅は建国されていないと思いますので辰韓の王ですが)はイタケルの子孫の久々遅彦(襲名)だと考えています。代々、ムナカタ海人族を率いて半島南部から北九州、山陰、北陸などを活動して鉄の交易ネットワークを作り、各地の首長(部族長)を傘下にして、狗奴国を隆盛にしました。各地の首長は久々遅彦に妃を出して血縁で強く結ばれていましたので、それぞれの部族の中で首長の権力が高まり、大型の四隅突出墳丘墓など、立派な首長墓が築かれるようになりました。狗奴国王卑弥弓呼大王の勢力によって滅ぼされた最後の王が大国主命と呼ばれた久々遅彦です。(#^.^#)



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真の応神天皇陵を推理する!(^_-)-☆

2023-02-18 20:51:28 | 古代史
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以前から思っていますが、歴代天皇などの陵墓は日本書紀などを基に治定されて宮内庁が管理しているので、本当はどなたの墓か、ほとんどよく分かりません。初代応神天皇は、奈良盆地の外の大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)とされており、5世紀初頭築造のようです。しかし応神天皇は、4世紀前半に崩御されているので応神天皇陵ではありません。初期ヤマトの大王墓を見つけようと調査していますが、纏向遺跡を中心とする「おおやまと古墳群」の景行天皇陵とされている渋谷向山古墳を分かり易く紹介していただいている動画を見つけて、景行天皇は日本書紀で創作された天皇ですので、思わず不躾な長いコメントさせていただきました。それにもかかわらずUp主様からいいお返事までいただき、心から感謝いたします。皆さんも、まだでしたら是非ご覧ください。どうぞ、お付き合いください(#^.^#)


『世界の墳丘から』gotas1975@YouTube


刮目天
良い動画をありがとうございます。大変参考になります。
実は、景行天皇は藤原不比等が建国時代に活躍した豪族の史実を隠すために日本書紀で創作したフェイクの天皇だと突き止めています。景行天皇の九州遠征のルートが、古墳初頭(三世紀後半)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べてほとんど記述通りだったことを発見しました。つまり、247年の卑弥呼の死後に、纏向の狗奴国王卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)が派遣した倭国討伐軍が到着し、倭国王(倭国王帥升の子孫の伊都国の男王難升米)が逃亡したので、討伐軍の大将の尾張王ヲトヨノミコト(記紀の仲哀天皇)が狗奴国を裏切って倭国王に立ったと推理しました。それに不服だったムナカタ海人族を率いる人物が尾張王を討って、魏使張政の進言で卑弥呼の宗女として13歳の台与を女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切ったと推理しました。ヲトヨ王は九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳に葬られたと推理しています。このムナカタ族の王は卑弥呼の倭国(九州・中国西部・四国など)に加えて山陰・北陸・関東など列島主要部をほとんど版図にしたので、記紀で大国主命と呼ばれた狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦)です(襲名、記紀の武内宿禰、奴国宮廷楽師師升らに殺された最後の奴国王スサノヲの子孫です)。父の仇討ちで大国主たちを討つために九州遠征したのが尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)で、記紀では仲哀天皇の祖父景行天皇としています。


なぜ尾張王と分かるのかですが、纏向遺跡の外来土器の半数が東海のものです。そして尾張王はニギハヤヒ大王の子孫で鏡造を得意とする部民を抱えて、御所市高尾張から尾張に移住したので、元々半島南部の鉄の元締めだった狗古智卑狗(久々遅彦)の鉄交易ネットワークから外れていた模様で、鉄鏃ではなくもっぱら銅鏃を使っていたもようです。尾張軍が遠征したルートから銅鏃が出土し、景行天皇のルートと一致したこと分かりました。尾張のS字甕の出土からも分かります。青谷上寺地遺跡でも、無防備の住民を虐殺した武器も銅鏃なので父の恨みを晴らすために、憎い大国主側の集落を襲ったと推理しています。詳しくは拙ブログ「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」に述べました。弥生後期後半から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて整理していますので、よろしければ以下の記事をご参照ください。
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有

建稲種命の尾張勢は九州遠征を成功させ、北部九州の占領を物部勢に任せて、直ぐに纏向に戻り、さらにヤマトタケルの東国遠征ルートや崇神天皇の四道将軍の4つのルートを遠征したことも分かりました。記紀は崇神天皇から景行・仲哀天皇・神功皇后の約400年の話に引き延ばしていますが、史実は日本建国の三世紀末の建稲種命の尾張・物部勢の遠征だと突き止めました。建稲種命は帰路に水死したという伝承がありますので、尾張で葬られたと思いますが、大和でも改葬して尾張王継承の儀式を行っていると思います。地元の長久手市には景行天皇社がありますし、ヲトヨノミコトは記紀神話のカグツチとされて秋葉神社の祭神となっていますが、愛知県に特に多いです。渋谷向山古墳は4世紀後半築造とありますので景行天皇陵ではないと思います。狗奴国王崇神天皇の墓は行燈山古墳でいいのかも知れません。どうもお邪魔しました。

すでに、「空白の世紀と倭の五王(その1)から(その3)」で推理した隠された天皇を含めた初期天皇の系譜は下図のとおりです。


下の図は、岡山市埋蔵文化財センター特別講演会の豊岡卓之「大和の初期前方後円墳 -おおやまと古墳群の 70 年間の研究成果の紹介-」講演要旨(2019.1) から引用した「おおやまと古墳群」の図に上の推理した結果やこれまでの検証結果に基づいて赤字で加筆した図です。


応神天皇崩御年を334年と推定しましたので、景行天皇陵とされてきた古墳群の中で最大の全長300mの前方後円墳である渋谷向山古墳が応神天皇陵になると考えられます。大国主と台与を討ったので南九州に逃れたと思われるホムダワケ(応神天皇、記紀崇神紀の大田田根子)を探し出してヤマトの祭祀王にした狗奴国王卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)の陵墓は、恐らくその前に築造された巨大前方後円墳の行燈山古墳ではないかと考えています。もしかして、次に大きな西殿塚古墳であるかもしれませんが、その場合行燈山古墳の被葬者が分かりません。西殿塚古墳は記紀で景行天皇とされた建国の最大の功労者の尾張王建稲種命かも知れません。年代的には三世紀後半から末築造とあります。しかし、伝承から東国遠征の帰路で水死したと考えられますので、葬儀は尾張で行われたと思いますが、後継者の尾張王のお披露目のために纏向で巨大前方後円墳を築造して改葬したのかも知れません。その場合には遺骸はないと思われますので、陵墓を調べればわかるかも知れません。しかし、宮内庁治定では五世紀後半の継体天皇皇后で、仁賢天皇皇女の手白香皇女(武烈天皇の姉)とあり、明らかに時代が合いません。調査して欲しいと思います。

応神天皇の後に即位した宇治天皇(ウジノワキノイラツコ)は372年に崩御し、ヤマトの大王として前方後円墳に葬られておらず、和邇氏によって富雄丸山古墳(巨大円墳)に葬られたと推理しています(詳細は「富雄丸山古墳の被葬者は?」参照)。仁徳天皇に殺されたのかも知れません。仁徳天皇はその5年後に崩御しましたが、おおやまと古墳群には葬られていないようなので、仁徳天皇の子である和邇氏腹の住吉(すみのえ)天皇は父をヤマトの中で葬儀を行わなかったのかも知れません。奈良盆地の外かも知れません。堺市大仙陵古墳は五世紀築造ですから仁徳陵ではありません。今後、仁徳天皇から倭の五王までの陵墓を探して行きたいと思います。

なお、wiki「纏向編年」に歴年代が記されていたので、参考にして土器編年と歴年代を見直して、おおやまと古墳群の刮目天の仮説による歴年代に修正しました。wikiと歴年代が異なるのは基準年の取り方の相違からだと思います。ご意見など頂ければ幸甚です。(2023.2.21 紫字で修正)

【関連記事】
空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)から(その3)
【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`)


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【刮目天の古代史】証拠は何だ?

2023-02-16 15:49:03 | 古代史
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多くの方は決定的な物証が見つかれば事件や問題が解決すると何となく考えているかと思います。しかし、例えば卑弥呼がもらった親魏倭王の金印がある場所で見つかった場合に、たとえそれが本物であったとしても、その場所が卑弥呼が居た邪馬台国である物証にはならないことは直ぐに分かります。金印は人間が簡単に持ち運びできるものなので、その場所に卑弥呼の宮室らしいものが見つかって、卑弥呼の巨大な円墳も近くに見つかれば、推論のひとつとして邪馬台国である可能性が極めて高いと言えるわけです。ですが、邪馬台国と決めつけるには、なぜそこにあるのかなど背景となることも調べる必要があります。

つまり証拠となるもの、物証というものは問題に関する仮説に依存しています。なぜそこにあるか?何を意味するものなのか?などを誰が見ても一様に明確に教えてくれることはほとんど期待できないからです。つまりその物証と呼ぶものは人によって様々な解釈ができるわけですから、一概に物証と決めつけるわけにはいきません。ですから、仮説が事実であることを説明できる数多くの物証を探し出す作業が必要です。そして事件や問題を矛盾なく説明できる仮説の裏付けとなる個々の物証の全体が証拠となります。

謎に満ちた日本の古代史の解明に取り組もうと思ったきっかけをお話しします。歴史学者や考古学者の方たちが三世紀の倭国のことを書いた「魏志倭人伝」に描かれた大規模集落を割と簡単に邪馬台国だと自信ありげにテレビで主張して、こちらも引き込まれてしまいます。大きくは大和説(纏向遺跡が有力)と九州説(筑紫平野説や山門説などが有力とされる)で分かれて論争しています。しかし、これらの有力候補地は考古学の成果などの事実で少し検証すれば直ぐに「魏志倭人伝」の記述と合致しないことがあると気づきます。であれば、なぜ合致しないかについて徹底的に理由を追求する必要があるのですが、納得できる説明がありません。

なぜ、合致しないのかは、「魏志倭人伝」そのものに問題があるからかも知れないと思うはずですが、多くの方はそうは考えず、「魏志倭人伝」には正しく書かれているはずだから、正しく文章を解釈すれば解決するという思い込みがあるからだと気づきました。

このような思い込みは712年に完成したといわれる現存する日本最古の歴史書「古事記」や720年に完成した正史「日本書紀」についても、天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書という学校での刷り込みがあり、おかしな記述も変な理屈をつけて好意的に解釈しているので、考古学の成果と合致していない謎をしっかりと解明しない状態で放置され続けてきた感じでした。人によっては考古学の成果の方を否定して、伊都国や奴国は通説と違う場所だから文章は正しかったという方もいますので、それじゃあほぼ定説となっている糸島市伊都国の遺跡や福岡市の奴国の遺跡は何だったのかについて、納得のいく説明はありません。

このような例を見て、本当に疑うべきは考古学の成果から得られる結果ではなく歴史書の方だと東洋史家岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎)と人気古代史作家関裕二氏の多数の著作にはまって、気づかされたこともあり、そのような視点でより科学的に謎の古代史解明に取り組もうと思ったわけです。

そこで、考古学の成果のひとつひとつは「こうだ!」とは明確に語りません。ですから、最初は思い付きでも夢に卑弥呼が現れた!でも何でもいいですから取り合えず、その時代を跨ぐ一連の事実と思われる既知の事象群を説明することができる可能性のある仮説を真っ先に考える必要があるのです。

そして、自分が組み立てた仮説には誤りがあるかも知れないという謙虚な姿勢で、はっきりとした誤りを探すまじめな一連の検証作業が必要です。

もしもこの仮説が正しければこういう結果が得られるはずだと想定して、関連する考古学の成果などの物証を調べることで、これらが想定どおりか否か分かります。この仮説検証の過程で、仮説を変更・修正などする必要も出てきます。仮説は個々の物証から妥当な演繹的推論によって成り立つものです。そういう一連の科学的な手法で構築された仮説は万人が認めることができる定説になると期待できるのです。

ということで、前置きが長くなりましたが、このような発想で検証を重ねてヤマト王権の成立過程の可能性が高いと思われる仮説が得られましたが、今回その仮説の根拠となる証拠について時代ごとに整理してみましたので、ご確認ください。

一つ一つの物証は、この仮説が思い浮かばないと別の仮説が生まれるかもしれないものです。でも、刮目天が提案する仮説であれば全体が矛盾なく説明できるということなのです。もしも、重大な事実誤認や見落としなどがあれば、別の結果となることも否定できません。あるいはこれらの物証をすべて矛盾なく説明できる仮説が別に存在するとしたら、それは別の解です。いくつかそういう別の仮説があれば、どの仮説が優れているかは、その仮説によって従来謎とされた事柄がどれだけ解明できるかによって評価できます。いろいろと考えていただけると歴史の真相に近づくことができます。

非常に煩雑な話ですので、もっとご理解いただけるように参考記事などをこれから追加するなどして完成させようと考えている未完成品ですので、適宜追加して更新していきたいと思います。まことに恐縮ですが、その中でよく分からないと思われる個所があれば遠慮なく教えてください。私が失念している個所もあるかも知れません。よろしければお付き合いください。どうぞよろしくお願い致します(#^.^#)

【ヤマト王権の成立過程に関する証拠】

A. 奴国時代(紀元前四世紀初頭から二世紀初頭まで)
A-1 初代王が存在した証拠は?
・日本最初の王墓(吉武高木遺跡)

【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?参照
A-2 奴国王が呉王の末裔だという証拠は?
・呉王(子爵)の玉璧の破片出土(奴国王墓・伊都国王墓・朝倉郡夜須町峯遺跡に見られ、奴国王が王族に与えたと推理している)
(図は串間市、王の山古墳出土の玉璧ですが、奴国王のものが、様々な混乱で結局被葬者が入手した可能性が高いと思います)
A-3 奴国王が倭国王だという証拠は?
・須玖岡本遺跡王墓「巨石下甕棺墓」

・官営工場須玖タカウタ遺跡での青銅器製造と各地へ武器型青銅器の配布

・弥生時代最大の大規模な交易センター(比恵那珂遺跡群、最盛期の規模は吉野ヶ里遺跡の4倍といわれ、列島各地から交易のために人々が集まっている。十進法が使われている。)

・57年後漢光武帝より国宝金印「漢委奴国王印」を授けられた(華僑の倭人との取引を保証させるため)

【検証9】奴国時代の話(その2)参照
A-4 奴国王スサノヲが宮廷楽師らに殺された証拠は?
・107年の倭王帥升(倭イト国王師升)の朝貢
・国宝金印の志賀島での発見
A-5 「日本は古の倭の奴国」の証拠は?
・王年代紀の存在

・北部九州と大和の地名の対応

・比恵・那珂遺跡への畿内系土器の流入


B.伊都国時代(二世紀初頭から)
B-1 師升が宮廷楽師だった証拠は?
・125年銘の室見川銘板の出土

B-2 難升米が師升一族の王という証拠は?
・難(儺)升が鬼払い(奴国王を殺)した宮廷楽師師升を意味する文字
B-3 ニギハヤヒが楯築王墓の被葬者である証拠は?
・楯築神社御神体(人面蛇体の亀石)

B-4 倭国大乱の証拠は?
・首長墓の盛行(古墳時代への歩み)

・弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況


B-5 狗奴国の官狗古智卑狗がムナカタ海人族の王だという証拠は?
・豊岡市竹野町(鷹野神社、五社大明神、誕生之浦の碑など)

B-6 狗古智卑狗が菊池川上流で戦死した証拠は?
・山鹿市茶臼塚古墳(墳丁の大日如来の石祠)

・御宇田神宮様式の猿田彦大神碑


C.邪馬台国時代(247年まで)
C-1 卑弥呼がムナカタ海人族和邇氏の祖だった証拠
・和邇坐赤阪比古神社

・東大寺山古墳の中平銘鉄刀(倭王が公孫氏から貰ったものを赤坂比古に下賜した)


卑弥呼の宮室が宇佐市安心院町三女神社の証拠は?
・宮ノ原遺跡と三女神社西側V字溝から銅鏃出土

・三柱山古墳(径百余歩の巨大円墳)と奥城古墳(父赤坂比古伊聲耆の大円墳)

C-2 狗奴国王が纏向遺跡に居た証拠は?
・最古の前方後円墳纏向石塚古墳(円筒型特殊器台・弧帯文などの吉備のニギハヤヒ大王ゆかりの副葬品)

・唐古・鍵遺跡と纏向遺跡の変遷


C-3 難升米が帯方郡太守に倭国の地名・人名などを書いて教えた証拠は?
・弥生時代に文字が一部使われていた証拠(弥生後期の福岡市雀居遺跡出土の木製組机一式、出土した硯の欠片など)

・イト国を伊尹に因む伊都国と書いて教えた人物は師升の子孫の難升米以外に居ない!
・魏少帝より難升米に詔勅と黄憧が渡されたので、倭国の軍事を握る王(卑弥呼の政治を補佐する男弟とした)

C-3 卑弥呼が日食のために暗殺された証拠は?
・247年3月24日日没前の日食

・墓の遥拝所の地名「ヒカケ」

・和邇氏の祖が日触使主(卑弥呼の弟の赤坂比古)

C-4 卑弥呼の死後に立った男王が尾張王だった証拠は?
・纏向遺跡の外来土器の約半数が東海のもの

・鳥栖市赤坂古墳(九州最古級の前方後方墳は美濃平野で盛行した)


D.大国主・台与時代(247年ー270年頃)
D-1 大国主が倭国王になったという証拠は?
・一柱謄宮・妻垣神社の伝承は大国主と台与の話と推理


D-2 大国主が宇佐市安心院町に居た証拠は?
・佐田京石、米神山月の神谷の石柱群など大国主が最初に国造りした豊葦原の瑞穂の国


D-3 大国主が列島の大部分を倭国にした証拠は?
・博多遺跡と同種の高温鍛冶の遺跡群は大国主が傘下に羽口の技術を伝えた

D-4 大国主が高良山で戦死した証拠は?
・高良大社と神御石、ピラミッド型祇園山古墳

D-5 台与が伊都国で戦死した証拠は?
・平原王墓の副葬品(女王の棺桶の上に鉄大刀)


E.ヤマト時代(270年頃から)
E-1 狗奴国が青谷上寺地遺跡の住民を虐殺した証拠は?
・銅鏃による民間人殺害
E-2 尾張王建稲種命が大国主・台与を討った証拠は?
・景行天皇の九州遠征のルート上で尾張勢が使う銅鏃が出土

・青谷上寺地遺跡

E-3 狗奴国が列島を統一した証拠は?
・弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況


E-4 ヤマトの初代祭祀王が応神天皇だという証拠は?
・箸墓(母の神功皇后台与を纏向遺跡で改葬)

・桜井茶臼山古墳(父大国主を外山=トビで改葬)






最後までお付き合い、どうも有難うございました。(^◇^)
分かりにくい箇所がありましたらご指摘ください!
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不比等はイエス様に匹敵する?(@_@)

2023-02-14 23:22:06 | 古代史
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2023-02-13 18:02:36に記事にしましたが、さっき、意外といい返事が来たので、文末のとおり回答しました。よろしければどうぞ(^_-)-☆

BBC制作のプロパガンダ放送「【解説】 なぜ女性は天皇になれないのか」(2019年4月26日)にすでに七か月前にコメントしたのですが、それに今頃返事が来たので、びっくりしました。

内容は結構感情が籠っているように感じました(;´Д`)。女系天皇を目指す集団だと思いますが、不比等をえらく持ち上げているのです。天皇を無権力の君主にしたという功績を持ち上げているようなのです。結果的にそうなっているだけなのですが、すでに説明した不比等の目的を理解しようとしません。

無理もないことです。古事記も日本書紀も天皇の歴史書だと学校で習ったことが染みついているから、気に食わない異説を抑えるための反論というか、口調から「黙れ!」に近いご意見と感じましたが、さらに古事記についての間違った認識についても指摘しました。発狂してしまうかも知れませんが本意ではありません。事実は事実として受け止めていただかないと、嘘をついた側や嘘を利用したい勢力によって日本が壊されるかもしれませんので、日本人として目を覚ましていただきたいと思い、再度反論しました。長いですが、お付き合いください(#^.^#)


【解説】 なぜ女性は天皇になれないのか
BBC News Japanチャンネル登録者数 37万人35,477 回視聴 2019/04/26

天皇陛下の退位を受け、皇位継承者を男性に限っている日本の制度への議論が再燃している。
世界で最も歴史ある皇室を持つ日本だが、制度が変わらなければ、その未来は危ういかもしれない。
BBCの大井真理子記者が説明する。


刮目天(7 か月前)
多くの日本人は日本書紀が天武天皇の命令で作られたから天皇の歴史書だと思っていますが、思い込みですよ。崩御して30年以上たった後に藤原不比等によって完成させられています。彼は皇后鵜野讃良(持統天皇、高天原広野姫天皇=女神アマテラス)と組んで、文武天皇(天孫降臨のニニギノミコト)の外戚として権力を振るい、大宝律令を制定して、日本神話を創作しました。神祇祭祀を独占し、建国時代に活躍した豪族を中央から排除して藤原氏だけが繁栄する制度を作り上げました。藤原氏は、邪魔者をすべて謀略で抹殺しています。ですから、それを正当化するための総仕上げが日本書紀の完成だったのです。不比等はそれを見て、安堵して亡くなりましたが、子孫たちが有能な悪党ばかりで、平安時代など誰も平安と呼べる世の中ではなかったようです。穢きこの世から月に帰ったかぐや姫の話は不比等(車持皇子)を揶揄する話でした。
江戸時代まで、多くの文化人や庶民まで、伊勢神宮の祭神が女神ではなく男神で正体は三輪山のヘビだと知っていました。謡曲「三輪」に何を今更磐座や!とあります。
しかし、明治になって記紀に基づく国史の国民教育をしたので、戦後の日本人も何となく日本の歴史だと思っています。
ところが、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇と、飛んで光仁天皇(天智の孫、桓武天皇の父)より後の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていませんでした。明治になって江戸時代の二人の女性天皇の肖像画を作り、仏事に掲げるようになったとのことです。
つまり、女神アマテラスも、すべての女性天皇も不比等の創作だったのです。
光仁天皇から歴代天皇は奴(ナーガ=龍蛇神)国大王天照大神尊ニギハヤヒの男系男子です。未婚の皇女は奈良時代から南北朝まで伊勢神宮と加茂神社の斎王制度がありました。神の妻なのです。役割が異なるということで、女性差別でも何でもありません。詳しくは拙ブログ「刮目天 日本は女系天皇の国なのか?」または関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」を参照ください。


torotoro tonarino
>多くの日本人は日本書紀が...歴史書だと思っていますが、思い込みですよ。
  そりゃ唐に向けた日本の取説だよ。だからその時代のシナ語で書いてある。それ以上の意味はない。重要なのは古事記の方で、こちらはシナ人には読めない言葉で書いてある政治思想書だ。そのテーゼは「権力の無い君主」だ。西亜ではその約七百年前、イエスが「神の定めにのみ従え。それよりほか汝は自由である。」と述べた。イエスの思想は大流血の代償として欧米近代制度の根本理念になり、現代全欧米の法はこれに基づく。他方、日本は最小の流血で近代を成し遂げた。何故できたのか。イエスの「民の自由」の影絵を不比等が「王の無権力」としてイキナリ国家制度にブッ込んであったからだ。

あなたにかぎらず、教科書からも「藤原氏の専横」を耳タコで聞かされるわけだが、そもそも天皇に権力はないんだからそうなってアタリマエやん。それが不比等の制度設計だ。後醍醐天皇を最後の例外として、天皇はこうして、誰に権力があるのか「知らす」権威を持つことだけが仕事になった。そこに落ち着いたのは、無権力の君主と万世一系はワンセット、というのが不比等の設計だからだ。それは人間心理に基づいている。「あんたの『せい』で一族殺された。死ね」とシナの皇帝一族は鏖しにされた。「イヤ、オレの『せい』じゃねーカラ」と言うためにこそ「絶対無権力」が「絶対必要」だった。権限に責任がついてくるのは自然現象であって、現代社会でも完全に同じである。権限がある以上絶対逃げられない。どこかに恨みが残るものだ。安倍晋三も同じ目にあった。

  河合隼雄「中空構造日本の深層」や猪瀬直樹「ミカドの肖像」が描いた「無責任構造」は、そもそもそれが必要だからそう設計してあるだけだ。
  不比等からすりゃ権威と権力の分離が読み解けてないんだから、「何を今更...だまりゃっ!!! w」なわけ。

  戦国時代には天皇無権力は確立していた。これを見たオランダ人が欧州に「無権力の君主」つまり立憲君主を持ち込んだとオレは思っている。
  彼らは1600年、関ヶ原の年にスペインから独立した。そのまま共和制にするのが、普通国王の暴政に苦しんだ人々のセンスだろうが、
  独立オランダは民主主義国家だったのに、結局わざわざ王を「雇った」のだ。
  鎖国中もオランダだけが貿易を許された理由を歴史家は「わからん」らしいが、オランダ人は「ほーらおんなじでしょ」って家康に言ったんだろう。
  同じ価値観を持つ民はお付き合いできる。今ロシアに対峙する我々が言うことと同じだ。

というかそれがそもそもそれが古事記に書いてあることだ。それ無しでだれが「国譲り」なんかするね。だいじなのは神話ジャネーから。「知らす」と言う仕事は、武家の時代には征夷大将軍になり、その後明治政府への宣旨となり、終戦の詔勅となった。この間、天皇の仕事には全く変化がない。要するに不比等の制度は、21世紀の今でも現役だ。イエスの思想が現役であるように。古事記は昔話では全くなく、我々自身が日々拘束を受けているファクトである。

言い換えれば、不比等は人類史上イエスと双璧をなす思想家であり、今一人、二千年を見通す時代のアヴァンギャルドだった。なぜ近代法に天皇がぴたりと嵌まるのか、これを不思議に思わないのは迂闊すぎる。これこそ現代日本人が考えるべきことだ。要するに神話なんぞどうでも良い。余計な話だ。趣味でやるのは止めないが、現代の我々が必要とするのは国家の根本理念であって、そこから我々が現代の法体系を導くことだ。それを憲法というのだ。我々はまだそれをきちんと作ったことがない。明治憲法よりはマシ、と言う程度だ。不比等の思想に基づくメッセージを現代の言葉によみがえらせる必要がある。余計な話をしている場合ではない。古事記や日本書紀は歴史でも神話でも娯楽でもない。日本で発行されている「世界古典全集」に日本人の著作はないが、入れるとしたら古事記だろう。もちろん古典全集に入っているのはすべて思想書であるから、神話の注釈なんかしてはいけない。古いから古典なのではない。教科書だから古典なのだ。「典」はそもそも教科書という意味である。


刮目天
@torotoro tonarino  >それ以上の意味はない。重要なのは古事記の方で、こちらはシナ人には読めない言葉で書いてある政治思想書だ。そのテーゼは「権力の無い君主」だ。

それ以上の意味があると述べているんですが、受け付けないようです。
更にもう一つ、あなたが勘違いしているのは、この古事記の話です。
古事記は現存する日本の最古の歴史書だと学校で習っていますが、それも違います。九世紀の宮廷で日本書紀を講義をしていた多人長(おおのひとなが)という学者が突然出してきたものなのです。他の文書に元明天皇が太安万侶と稗田阿礼に命じたはなしも、完成した記録も全くないのです。太安万侶は墓誌によって実在人物と分かりますが、稗田阿礼は姓(かばね)を持たない人物ですから、天皇のお傍に居た人物ではありません。安万侶にも歴史書編纂の実績などありませんし、位も高くないので天皇が彼らに命じるはずないのです。序文の内容から人長が書いたものと分かります。詳しくは岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎)などにあります。古事記が何の目的で書かれたのか考えないと騙されますが、日本書紀に沿いながら所どころ違えているのです。それは日本書紀が隠した歴史の真実に気づかせる目的なのです。例えば、天皇の崩年干支や享年が違っていますが、人長の意図を考えると空白の四世紀や倭の五王の謎も解けてしまいました(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。これによって最近、貴重な発見があって話題沸騰の奈良市富雄丸山古墳の被葬者も日本書紀が隠した天皇のひとり「宇治天皇(ウジノワキノイラツコ)」のものだと分かりました(「富雄丸山古墳の被葬者は?」参照)。その他にも、大国主命と呼ばれた、最後の奴国王スサノヲの子孫でムナカタ海人族の王が日本建国の本当の主役であることを示唆するために大国主神話を追加したのです。国譲り神話は三世紀の日本建国の史実を隠すために不比等が創作した神話で、活躍したタケミカズチはヤマトタケルのモデルとなった尾張王建稲種命(熱田神宮の祭神)が正体なのですが、ちゃっかり藤原氏の氏神として春日大社で祀っています。それは歴史を隠した祟りを恐れてのことだと思います。卑弥呼も比売大神として祀っているのだと推理しています。卑弥呼は宇佐神宮、宗像大社、厳島神社その他でイチキシマヒメとして祀られていますよ(^_-)-☆日本最大の巨大円墳の宇佐市安心院町三柱山古墳に卑弥呼が葬られたことも突き止めています(古墳マップ「三柱山古墳」参照)。(2023.10.28 赤字訂正)

万葉集も同じ目的で、不比等が隠した歴史を解く暗号が隠されています。万葉集研究家の渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」(大空出版)にあります。二人目の女帝皇極(斉明)天皇(宝皇女)もフェイクだということが、お相手の軍王(いくさのおおきみ)が聖徳太子とされた豊浦天皇(蘇我蝦夷)だったことから突き止めています。ですから、舒明天皇もフェイクなので、天智天皇と天武天皇は兄弟ではありません。天智天皇(中大兄)は大和で即位した大王ではないのです。蘇我馬子とされた用明天皇に殺された敏達天皇の子孫です。ですから隋書に男の大王アメノタリシヒコが使者を遣わせたとあり、推古天皇も存在していないのです。持統天皇を存在したことにするために二人の女帝の先例を創作したのです。

その他にも、懐風藻や先代旧事本紀、古語捨遺、扶桑略記などなど、日本書紀の内容と異なる部分があるのは日本書紀が隠した歴史の真相を、藤原氏にその意図を気付かれないように暴く目的だったのです。詳しくは関裕二「古代史 不都合な真実」(じっぴコンパクト新書)をご参照ください。

日本人の心と和の精神は日本人特有の素晴らしい文化です。それは1万年以上続いた縄文時代に列島で生きた縄文人と紀元前十世紀に日本に水田稲作を伝えた江南の倭人の混血したのが日本民族だったからなのです。倭人は人類の始祖神である中国神話の人面蛇体の天皇伏羲と泰皇(人皇)女媧の末裔で、夏王朝を建てた禹王の流れを汲む呉太伯の後裔の呉王の子孫の天御中主(あめのみなかぬし)を皇祖神とする天皇を戴く人々なのです。ですから日本民族の本当の神話は中国(なかつくに)神話だったのですよ。五千年の伝統を持つ現存する世界最古の王朝なので、不比等や人長が天皇陛下を「権力の無い君主」としたわけではないのですよ。詳しくは「日本人はもともと「和の精神」だった!(その1)から(その3)」をご参照ください。現代人が間違った思いから、長い年月をかけて私たちの祖先が培った伝統を破壊すると日本は日本でなくなりますよ!日本が日本であるのは神々の子孫である天皇陛下を戴く日本人が存在するからなのです。そして地球が平和な星になるとしたら世界中の人々が日本人の心と和の精神を理解したときだと分かりますよ(^_-)-☆


この日本人の大井真紀子記者がなぜBBCで放送するのか不思議です。天皇陛下のお仕事が、憲法で定められた国事行為や日本国の元首として外交に携わることしか見えていないようです。これらは女性皇族でも代行が可能だとは思いますが、天皇陛下の最も重要なお仕事が日本国の安泰と日本国民の安寧を皇祖神に祈る宮中祭祀だと理解していません。これは長い伝統によるもので、皇祖神と霊的に一体となれる皇族の男系男子が行うものなのです。そこの理解がないと女性差別や男女同権の話になり、憲法や皇室典範などの法制で何とかなると重大な思い違いしているのが原因です。女系天皇は、その後の天皇家がお相手の男性の家系に変わるということで、いわば易姓革命ということなのです。いろいろな人が手を上げてお婿さんになるかも知れません。外国人かも知れません。でもその時日本人は賛成派と反対派できっと分断されてしまいますから、日本が日本でなくなりますね。(;´Д`)

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torotoro tonarino

@刮目天 >天皇陛下を戴く日本人が存在するからなのです。 あなたの信仰なんかどうでもいいし、あなたの書いていることは陰謀論と少しも選ぶところはなく、ホントでもウソでも、誰も困らん。だが「国譲り」が嘘だった困るだろう。その政治が現代の天皇にも直結しているからだ。いつ書かれたかなんかより、話し合いで自分の国をプレゼントするやつが居たと書いてあるんだよ。普通に考えればそんなふざけた話あるわけない。それ説明しないで古事記を読んだことになると考えるヤツの言うことなんか誰が信じるよ。そこなんとかしなさいよ。その岡田英弘さんとやらはそのいちばん大事なところがスルーなんだろ。だからあなたも何も書けないわけで。


刮目天
@torotoro tonarino  勿論、日本書紀も古事記も必要な個所はしっかり読まないと仕事になりませんよ。陰謀の話ではなく史実の話をしているのですよ。そこが理解できないようですね(;´Д`) だったら稗田阿礼が実在人物だという証拠、太安万侶が712年に完成したという証拠を出してくれたら陰謀論だったってことになるんですけど、出せないよね(^_-)-☆

国譲り神話ですが、大国主を纏向の狗奴国ヤマト勢が討って日本を建国したという史実も証拠を出してブログで説明しているので「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」を見てくれたら分かりますよ。GoogleMapを公開しているから!

この史実を不比等は大国主の国譲りという神話でごまかし、多分2,30年間くらいの出来事を崇神天皇から景行天皇、仲哀天皇、神功皇后の約400年間の話に引き延ばして創作していることが分かりますよ。仲哀天皇は成務天皇48年に31歳で皇太子になったと書いているんだけど、仲哀天皇の父の日本武尊は景行天皇43年に薨去しているので、おかしいと思いませんか?書かれているものは考古学の成果などの物証などで検証しないと騙されるということです。いままでそれが不十分だったのですよ。刮目天の古代史を勉強してくれたら日本という国に対する見方が変わるかも知れませんよ( ^)o(^ )



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