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何故、大和をヤマトと呼ぶのか?

2021-12-15 00:31:06 | 古代史
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2018-02-18 12:44:44に記事にしましたが、若干追加して再度掲載します。お付き合いください。

安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版)によれば、現代日本語と今から千二百年以上前の日本語の大きな違いは、現代の5つの母音(a,i,u,e,o)に加えて、ï、ë、öの合計8個の母音を区別して用いていたということだ(p.38)。

山門(ヤマト、yamato)と邪馬臺(ヤマトゥ、yamatö)はそのために最後の部分の発音が明確に違うようだ(前者が甲類のト、後者が乙類のトゥ)。ちなみに「ヤマタイコク」というのは新井白石が最初にそう読んだようだが(同書p.165)、ヤマトゥが正しい発音だ。

海への入り口は水門・湊(ミナト)であって、山地への入り口が山門(ヤマト)という、どちらも甲類のト(to)。どちらも地形を表す普通名詞なので、日本各地にそういう地形に基づく地名があっても何ら不思議なことではない。実際、邪馬台国九州説の筑後山門や肥後国山門郡、針間の国の山門(播磨国風土記)などが見られる。

しかし、「邪馬台」は「山門」と確実に区別して発音されていたわけだから、地名が「山門」だから「邪馬台国」だということにはならないのだ。

万葉かなで書かれた「大和(夜摩苔や夜麻登などと書かれている)」と「邪馬台」との音が一致するのは、「見方によってはふしぎなことではないだろうか」と安本氏も指摘している(同書p.165)。

つまり、大和は明確に山門とは異なり、固有名詞「邪馬台(ヤマトゥ)」を意味するのだ。そう考えると大和をヤマトと呼んだ経緯がヤマト王権の成立と関係すると容易に思いつく(「大和」は厳密には「ヤマトゥ」と発音するが、通常「ヤマト」と書かれているので、ここでもそれに倣っている)。

三世紀初頭、纏向遺跡に出現した狗奴国が滅ぼした倭国の女王台与(「日本書紀」の神功皇后のモデル)と大国主命久々遅彦(「日本書紀」の武内宿禰のモデル、スサノヲの子イタケル直系の子孫で、山陰・北陸などの縄文系ムナカタ海人族を率いる出雲・丹波王、狗奴国の官 狗古智卑狗)との間の子供「ホムダワケ(応神天皇)」を纏向に呼び寄せ、ヤマトの大王(祭祀王)とした狗奴国(ヤマト政権)側の事情があったということだ。

つまり、魏の帝位が禅譲された西晋によって280年に呉が滅ぼされたのだが、狗奴国は呉という大きな後ろ盾を失ったので、次は西晋に滅ぼされることを狗奴国王卑弥弓呼(ヤマトの大王、奴国最後の王スサノヲの弟で吉備を平定し、奴国を再興した19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の直系の子孫、記紀では崇神天皇)は怖れたはずだ。臣民もみな動揺したので、倭国女王として西晋に朝貢した台与の後継者として応神天皇を即位させたと推理した。

「日本書紀」では、三輪山の大物主大神(大国主命)が祟って、疫病で民が半分ほど死んでしまい、大神の子のオオタタネコを呼び寄せて祀らせろとの大神の神託に崇神天皇が従ったので国は平静に戻ったという話になっている。「日本書紀」の神武東征や応神即位のための神功皇后の東征は、日本建国の史実を誤魔化すための藤原不比等の創作なのだ。オオタタネコの話の方が上の推理した史実に近いことは考古学の成果から分かる。つまり、三世紀の纏向遺跡から九州の土器がほとんど出土しないことから、九州の大軍勢が纏向に押し寄せて攻め滅ぼしたという事実はないことが分かるのだ。ヤマト王権の成立過程については以下の図のとおり推理している。



日本の国号だが、シナの朝廷では後漢以来、大宝元年(701年)第八次遣唐使粟田真人によって「日本」と改称を要請するまで「倭国」で通っていた。大国主と台与が支配した列島主要部を纏向遺跡の狗奴国が全て支配下に置いたので、粟田真人のシナへの説明によれば「倭国」から「大倭国」へと改称したのだろう。ニギハヤヒ大王の直系の子孫ら(物部氏・尾張氏ら)によるヤマト政権は、応神天皇を即位させ、それまで敵対していた大国主や台与にゆかりの列島各地のほとんどの部族を懐柔した。そしてヤマト王権への従属の証として、各地の部族の首長らは前方後円墳を導入し、三角縁神獣鏡による祭祀様式を受け入れたと推理している。

いずれにしても、三回の大乱を経験した後は大きな内乱は起こらず、ヤマト政権は「言向(ことむ)け和(やわ)する」ことで大きな和の国が生まれたという意味で大和国としたのだ。ただし、「大倭」がこのように「大和」と書かれるのは、随分と後のようだ。『日本の歴史において、「やまと」の表記が「大和」に統一されたのは757(天平宝字元)年頃と考えられており、同年発布された「養老律令」が「大和」表記の普及に大きな影響を果たしたと考えられています。』とある(『「大和」という言葉の使用は七世紀からで、それまでは存在しなかった? 〜ヤマト政権のアイデンティティ』 Japaaanマガジン 歴史・文化 湯本泰隆@2021/12/12 より引用)。

ということで、西晋の朝廷に対して、魏に朝貢した女王卑弥呼の宗女で、西晋に朝貢していた女王台与の国を、台与の子の応神天皇(ホムダワケ)が継承した国だと理解させる目的で、纏向の大倭国の王都「大和(ヤマト)」を「邪馬台(ヤマト)」と発音するようにしたのだと推理している。

国号を日本と変更したときには、「旧唐書」に見られるようにシナ人は全く別の国かなと戸惑ったようだ。しかし、日本は古の倭の奴国で、都を筑紫の日向宮から大和(邪馬台)に王宮を遷したことが分かって納得してもらったということで、以降のシナの歴史書には「日本」と明記されるようになったのだ(「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`))。

初代応神天皇以降、スサノヲ・大国主とニギハヤヒの直系の子孫による権力争いが起こり、ヤマトの大王はこの二系統から出ることになる。いずれの系統も第十七代伊弉諾尊が皇祖神となるが、天智天皇の孫の光仁天皇から今上天皇まではニギハヤヒ系の天皇となっていると推理している。巷に氾濫する何とか王朝説などというのは、この大和国「日本」においてあり得ないのだ(^_-)-☆

【参考記事】
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有

(左クリックで拡大)

(注1)「三角縁神獣鏡のうち、銘文中に魏の年号が記された鏡が4面ある。島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡、群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳、兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳、山口県周南市竹島御家老屋敷古墳の3古墳から出土した同型の「正始元年」鏡3面である。これらの鏡4面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式である。」とあるが(wiki「三角縁神獣鏡」より)、これらは280年に呉が滅んだ後に呉の工人が日本に逃亡し、ヤマト政権が邪馬台(ヤマト)国の後継国であることを示すために、卑弥呼が魏の朝廷から与えられた鏡であると主張する目的で作らせたフェイク鏡だと推理している。当時の三角縁神獣鏡はシナ大陸では出土していないので、日本で作られたものなのだ。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
邪馬台 (テレビとうさん)
2021-12-15 08:15:29
>>(a,i,u,e,o)に加えて、(ï、ë、ö)の合計8個<<

「ï、ë、ö」では無く、或いは、も含めて「wi(ウイ:ゐ),we(ウエ:ゑ),wo(ウオ:を)」の様な気もしますが、どうでしょう?

YaMaTwo(ヤマトウオ)
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Re:邪馬台 (刮目天 一(はじめ))
2021-12-15 09:17:32
いつも、いいコメントありがとうございます。
「大和(ヤマト)」の発音は「ヤマトヲ」と「ヤマトウ」の中間ということで「ヤマトゥ」としました。
ウムラウトを使った表記にされてますが、弥生人の言葉を直接聞いて表記したわけではないのですが、それがおっしゃるものが近いのかもしれません。
「ゐ」、「ゑ」は戦前まで使われていましたが、「い」や「え」と違う発音のようですからね。「を」は「お」と区別できますし、今でも使われていますからね。
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