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【検証18】倭国大乱の痕跡だ!

2021-07-09 22:01:40 | 古代史
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二世紀初頭に奴国宮廷楽師師升らのクーデターで奴国が滅亡してから三世紀末に初代天皇(ヤマトの祭祀王)が即位して日本が建国されるまでに、大きな戦が三回あったと考えています。最初の抗争については、魏志倭人伝に「倭国はもとは男王が居たが、往(とど)まるとこ七・八十年であり、その後乱れ、何年も攻伐し合っていた」とあります。范曄「後漢書」には「桓帝(146年~167年)から霊帝(~189年)の時代にかけて倭国大いに乱れ、互いに攻伐し合って、何年も君主が居ない状態になった」と、より詳しく記録されています。魏志倭人伝の記述と異なる范曄を信じない方は、それほど大乱ではなかったのではと想像しているようですが、実際はどんな状況だったのでしょうか?

すでに、【検証6】倭国大乱の実相は?で見たように、倭国というのは師升王が奴国最後の大王スサノヲから奪った領土です。奴国王直轄地の福岡平野・奴国王族の伊都国王の糸島平野、小郡・朝倉などの筑紫平野に加えて佐賀平野が主な領域ですが、唐津付近や長崎県の壱岐や大村・島原半島なども人口は少ないと思われますが、倭国の領域ではないかと考えています。

それ以外の土地はほとんど反倭国の旧奴国王族やそれに従う縄文系の人々の支配下だと考えています。何故そう言えるかですが、古墳時代中期か後期まで列島内で本格的な鉄の製錬は行われておらず、半島の鉄素材を輸入して、列島各地の鍛冶工房で鉄製品を生産していました。ですから、列島各地に鉄素材を供給する力を持った人々と、当時のハイテク冶金技術を持って農機具などの製品を生産する人々、そして鉄製品の流通を支配する人々の首長が各地への配分を決めて権力を持っていたと考えられます。各地の部族長などは、これらを支配する首長、つまり大王の傘下に加わり、それぞれの部族内で権威と権力を高めたのだと考えられます。これが、首長墓の大型化に繋がり、古墳時代の幕開けとなります。日本列島はこの大きなうねりのような動きに乗って建国されたのです。

弥生時代の半島の製鉄遺跡は主に慶尚南道と京畿道に発見されています(関 清「東アジアにおける日本列島の鉄生産」日文研叢書巻 42、pp.311-326)。紀元前108年、前漢武帝は真番郡と楽浪郡を置いてそれぞれの地域の鉄を管理したと考えられます。しかし、武帝が拡大政策をやり過ぎて財政的に疲弊して、すべての地域を直轄管理できなくなったので、前82年に真番郡を廃止しています。

その後を受けて主な供給先である列島への鉄素材の供給を奴国大王が抑えたのだと考えられます。スサノヲ大王の時代には製鉄の現場に直接乗り込んで、奴国が独占的に供給・流通を抑えるように交渉したと考えています。紀元前から奴国は慶尚南道の倭人たちと同族のようですから、繋がりが深く、その中心都市である釜山市の莱城遺跡で発掘される土器の9割以上が北部九州の弥生中期前半の土器だそうです。ですから、古くから奴国が半島南部の鉄の製錬工房の秦人らと関係を深めて、列島への鉄素材の供給を支配し、対価として列島内の珍しい産物を入手して楽浪郡の華僑らと交易することによって隆盛になったのでしょう。(注1)

そういう地盤があったので、奴国が滅亡した後もスサノヲ大王の血を引く久々遅彦が鉄素材と製品流通の利権を持って奴国の復興に寄与したものと考えられます。

下の図は、弥生後期後半の列島内の鉄鏃・銅鏃の出土状況を示したものです。北部九州が倭国の領域でそれ以外は旧奴国側の支配下として記号の色分けをしています。「住居」で発見された鉄鏃・銅鏃は主として、集団戦の準備のために竪穴住居の床に炉を作って鉄あるいは青銅製の矢尻を製造していたことを表しています。「墳墓」で発見されたものは、主に戦闘で矢傷を負った兵士らが埋葬されたものでしょう。環濠や溝で発見された鉄鏃・銅鏃は集落を外部から攻撃した勢力のものと考えられますから、明かに「戦跡」でしょう。ただし、地域的に戦跡のほとんど見られないところで出土したものは大規模な集団戦の痕跡ではないと思われます。仲間割れか何かの小規模な抗争を意味し、倭国や列島のかなりの領域を巻き込んだ大乱とは関係ないものではないかと推理できます。


(クリックで拡大)

このような見方で、この図を見ると大規模な集団戦は主として北部九州で起こっていることが直ぐに分かります。そして、倭国を攻撃していたのは、後で詳しく見ますが、出土状況から主として熊本県北部を流れる菊池川流域の集団だと考えられます。それを支えるのは阿蘇の鍛冶工房群と、さらに大分県側の竹田市、豊後大野市など大野川流域の鍛冶工房の集落だと分かります。

鉄鏃の素材は、半島南部の狗邪韓国から海北道中ルートで運び込まれた板状鉄斧です。阿蘇の集落では湖沼鉄(褐鉄鉱)による小規模な製鉄も行われたと考えられてはいますが、やはり大量の鉄製武器を作る必要があるので、メインは半島の鉄素材です。そして、兵士や武器製造に従事する専門工人は列島各地からやってきていると考えられます。菊池川流域の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡では山陰や畿内の土器が見つかっています。九州の外の出土地を見ると山口県、岡山県、鳥取県、高知県、香川県などで多く出土しています。やはり戦場に近いので緊張感を持って鉄鏃が作られていることを表しているようです。なお、「その他」として計上したものは、土器だまりなどの土坑、食糧貯蔵用のピットなどで見つかったものや、出土位置の不明なものです。中には戦跡に数えるべきものがあるかも知れませんが、主戦場とかけ離れている孤立した場所では大乱を直接表すものではないと思われます。

そして北部九州の戦跡を細かく調べてみました。

(クリックで拡大)

先述の方保田東原遺跡から多くの兵士が丸木舟にのって菊池川を下り、有明海に出て佐賀県の倭国側の環濠集落を襲ったようです。さらに奥に進み、佐賀県と福岡県の県境あたりでも激しい戦闘が行われたようです。難升米王かその先代の倭国王が伊都国の三雲遺跡に王宮を造っていたと考えています。その王宮も含めて福岡市西部の遺跡でも戦跡が見られます。倭国は誰が統治者か分からない程の大乱だったことを示しているようです。しかし、三雲遺跡とその周辺の戦跡は終末期のものである可能性もあります。つまり、247年3月24日の日食によって卑弥呼が暗殺された後の、狗奴国の追討軍が王宮に押し寄せた痕跡かも知れません。しかし野方中原遺跡にこの時代の明確な戦跡もありますから、ここまで狗奴国勢に攻めこまれたのは確かでしょう。

しかし、驚くべき大発見がここでありました。北部九州は列島内の他所に比べて鉄製品が数多く出土していますので、この大乱ではすべて鉄鏃が用いられていたと考えていたのですが、何と糸島半島と福岡市西区と東区の遺跡で銅鏃が住居内で造られていました。倭国王は半島が混乱していたので、楽浪郡との交易が出来なかったようです。鉄素材が不足していたので青銅器を溶かして銅鏃を作っていたのだと推理できます。

さらに、狗奴国側の最前線基地の集落方保田東原遺跡とうてな遺跡の溝で鉄鏃と一緒に倭国勢の銅鏃が発見されました。これだけならば戦況は一進一退だったのかも知れないと思われますが、しかし倭国側が前線基地を攻略して、恐らく主将として戦闘を指揮していた大国主の先代の久々遅彦が戦死したその痕跡だと推理しました。

その直前の、204年に遼東太守の公孫氏が半島の混乱を鎮めて楽浪郡の南側に帯方郡を作りました。窮地にあった倭国王難升米は早速、朝貢し支援を求めたのだと推理できます。公孫氏の支援を受けた倭国側は勢いを取り戻し、菊池川流域の狗奴国の前線基地を破壊し、大活躍していた大将まで討ち取ったので、海北道中ルートを支配していたムナカタ族は途方に暮れたと思います。そこで難升米王がすかさず彼らへ懐柔工作を行ったものと推理できます。難升米王は戦略的に重要な鉄供給ルートを断てば狗奴国は衰退せざる得ないと考えたと思います。ムナカタ族は王族卑弥呼が巫女として太陽神の神託を告げて政治を行う方式でしたが、難升米王は伝統的な倭国の祭祀にこれを取り入れる譲歩をしたものと考えられます。

それまでの倭国では死者の埋葬は、主として甕棺が用いられていたのですが、急に衰退して、縄文系と考えられる石板を組み合わせた箱式石棺に変わっていますから、当時としては伝統を捨て去る大改革をしたのではないかと推理しました。つまり、倭国王難升米は伝統的な祭祀儀礼に、縄文系の姫巫女による太陽神の神託を取り込む戦略的な譲歩をしたのだと思います。難升米王は、公孫氏との交渉を成功させました。後に魏の帯方郡太守とも交渉し親魏倭王の印綬を授けられましたから極めて優秀な人物だったと考えられます。魏志倭人伝から卑弥呼が二十代後半か三十才あたりで女王に共立されたと考えられますから、その男弟であるとした難升米は、卑弥呼よりも年下ですので戦略眼のある柔軟な頭の持ち主の優れた若者だと考えられます。(注2)

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(注1)この地域にはシナ人が秦の始皇帝の圧政から逃亡してきたという伝承があり、中には、鉄の製錬・冶金技術などを持っていたシナ人たちが製鉄に携わっていたはずです。

12世紀中頃に完成した「三国史記」の新羅第四代王脱解尼師今は倭人です。さらにその孫が第九代王伐休、さらにその孫が第十代から十二代王で、脱解王の子孫が新羅の王だったと記録とされているので、弥生時代後期の列島への鉄素材供給はこれらの倭人の王たちが仕切っていたと考えられます。

脱解王は倭国の東北千里にあった多婆那(たばな)国の出身とされています。すでに弥生中期から丹後半島の奈具岡遺跡などで玉造りを行っており、その鉄製の工具なども、半島南部の鉄素材を入手して、ここの鍛冶工房で生産していたようです。同様な遺跡が峰山町の途中ヶ丘遺跡で、弥生後期まで鍛冶工房での鉄製品の生産などは続いていました。スサノヲ大王の子孫が狗古智卑狗(久々遅彦)として代々、玄界灘と日本海沿岸部を主要な活動域として物流を担っていた縄文海人族を束ねる王となっていたと考えています。魏志倭人伝では狗奴国の王卑弥弓呼よりも先に登場させてた狗奴国王の最有力の臣下です。狗古智卑狗は代々、スサノヲ大王直系の子孫で、縄文海人の王が襲名したと考えています。 脱解王はスサノヲ大王がモデルで、脱解王の後継者は丹後半島周辺を拠点としていた狗古智卑狗がモデルではないでしょうか。「日本書紀 垂仁紀」に新羅王子の天日矛(アメノヒボコ)が帰化する話がありますが、天(アメ)氏は奴国王の姓と考えられます。これも狗古智卑狗をモデルとして創作されたものでしょう。ですから、脱解王の出身地の多婆那国というのは丹波の奴国を意味するのだと考えられます(丹後半島の付け根辺りから丹波(たにわ)と呼ばれたようです)。

(注2)東大寺山古墳に副葬された中平年銘鉄刀は公孫氏から難升米の先代倭国王に贈られたものかも知れません。この古墳は卑弥呼を祀る和邇氏のものだと考えられ、魏の司馬懿に公孫氏が滅ぼされたので、ムナカタ族の族長に難升米が与えたものが伝世されたものかも知れません。
中平紀年銘鉄刀は卑弥呼のものか?


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次は、終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況に基づき推理していきます。
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