刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼は伊勢神宮に眠っているのか?(@_@)?

2022-05-31 00:00:18 | 古代史
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前回の動画「卑弥呼の墓 日本古代史(桂川光和)@YouTube」の議論ががとても興味深いので、以下のようなのコメントをしました。お付き合いください(^◇^)

<その1>
M F
この事が事実だとしたら、なぜ日本書紀や続日本紀などの日本の歴史書に卑弥呼に関する記述がまったくないのだろう。たまたま抜け落ちたのだろうか。そういうことも含めてミステリー。実に興味深い。

日本古代史(桂川光和)
日本書紀が編纂された時代になると、天皇は神武に始まる男系の血筋を引くことが条件となる。私が卑弥呼とする宇那比姫も、天豊姫も男系の血筋を引かない。だがこの人たちの子だもは神武につながる。
その系図
 

刮目天
@日本古代史(桂川光和) さん 度々失礼します。神武天皇はいつ即位したとお考えですか?ヤマト王権成立は3世紀であることは考古学の成果から分かっています。その時代にヤマトに九州から土器が運ばれていません。神武東征神話は虚構です。日本建国の史実を隠す目的だったと推理しています(^_-)-☆

<その2>
jun Karino
卑弥呼は伊勢神宮に眠っていますよ

日本古代史(桂川光和)
ぜひ実証してください。そうしないとあなたの説は永久に仮説のまま。

無職独身子供部屋おじさん ねろ
眠っている(埋め墓)?祀られている(参り墓)?

刮目天
伊勢神宮内宮の祭神は男神です。江戸時代まで多くの人が知っていました(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)。謡曲「三輪」にも登場します(「能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆」参照)。

「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更なにと磐座や・・」

(the能.com   演目事典:三輪(みわ)より)


明治になって記紀に基づく国史教育をされたので、ほとんどの日本人は記紀神話は日本民族のアイデンティティと思わされています。

ところが、7世紀の人々は奴国と呼ばれた博多の地を儺県(なのあがた)と呼んでいました。儺の意味は鬼やらい・神やらいです。高天原神話のスサノヲ追放劇を意味しますから、高天原は奴国王が支配する倭国のことだったと知っていたのです(注1)。107年に後漢安帝に160人もの生口を献上した倭国王帥升(正しくは回土(うぃと)国王師升)の倭国乗っ取りの史実でした(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

大和と北部九州の奇妙な地名の一致も新唐書・宋史に書かれた「日本は古の倭の奴国」であったことを意味しています。前方後円墳の祭祀属性も北部九州・吉備・出雲のものだと分かっています。倭国大乱は奴国宮廷楽師だった師升らのクーデターが原因だと突き止めました。詳しくは拙ブログ「刮目天 【検証22】難升米という人物は?(その1)(その2)(その3)」「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」などをご参照ください!

(注1)wiki「追儺」によれば「追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)に行われる宮中における年中行事。鬼(疫鬼や疫神)を払う儀式[1]、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事。儺(だ、な)[2]あるいは大儺(たいだ、たいな)、駆儺。鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、儺祭(なのまつり)、儺遣(なやらい)とも呼ばれる。」とあり、鬼とは主に、疫神のことを指すようです。



また、日本神話で「神やらい」とは高天原を追放された乱暴者の神スサノヲの神話のことです。古事記では「神逐(かんやらい)」、日本書紀では「逐降(かんやらひ)」と書かれます。

疫病退治や無病息災のために「茅の輪くぐり」が行われますが、スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた、備後国の蘇民将来(そみんしょうらい)の逸話が起源です。つまり、日本における「儺」の意味「鬼やらい」は疫病神スサノヲの高天原追放の神話「神やらい」に由来すると考えられます。

儺県(なのあがた)は「日本書紀 仲哀紀」に登場するだけですが、7世紀末から8世紀初頭にかけて編纂作業が行われたわけですから、当時の編纂に携わった学者らは奴国が神やらいの舞台だと知っていたことを意味します。高天原神話は藤原不比等の命に従ったこの人たちの創作なのだと分かります。

一方、日本建国で活躍した祖先を持つ豪族たちは当然史実が伝承されて、歴史の真相を知っていたと考えられます。983年に東大寺の僧奝然(ちょうねん938?―1016 俗姓秦氏)が宋の太宗に献上した王年代紀に初代王天御中主から筑紫日向の宮に居た23代までの王の名前が記録されています。スサノヲは第18代王素戔嗚尊とされており、その先代の17代王が伊弉諾尊、次の19代王が天照大神尊となっています。女王とは書かれていません。神話のアマテラス女神はスサノヲの姉で先に高天原の支配者となっていますから、天照大神尊は女神とは別の男王です。初代神武天皇から64代円融天皇まで正史に書かれた天皇を列記して、女帝は分かるように記されています。

奝然上人が高天原神話を説明せずに、神武天皇の前の歴代王は後漢から金印を賜った奴国王の時代だと説明したので、その後新唐書宋史において倭国から日本国へ国号が正式に認められ、「日本は古の倭の奴国」と正しく記されたわけです。

(茅の輪くぐり神事 三つの輪 – 宮地嶽神社 より)


【おまけ】<その3>
刮目天
お邪魔します。

現存する最古の歴史書は天武天皇が編纂を命じたので、ほとんどの方が天皇家の歴史書だと考えておられますが、日本書紀が完成したのは崩御後30年以上経った720年です。時の権力者であった藤原不比等が、藤原氏が権力を握り続けるために史実を改ざんして完成させたものだと、不比等の事績を分析して判明しています(「神話が隠した不自然な史実」参照)。

江戸時代までは、例えば天照大御神は男神で、その正体はヘビだと文化人たちや庶民まで知られていました。しかし、明治になって記紀に基づく国史が教育されるようになり、戦後の多くの日本人も何となく日本の歴史だと思い込んでいるのです。

戦前、津田左右吉が日本書紀の虚構を指摘しても、多くの研究者らは天皇家の歴史書と信じているので、荒唐無稽な部分に対して好意的に解釈しています。それでも、いまだに謎だらけです。現在までの文献研究や考古学や民俗学の成果から、ほとんどデタラメな歴史書だったことが判明しました。

古事記も712年成立とされていますが、ご存知のとおり、その時代に編纂が命じられたり完成されたという記録が序文以外に一切ありません。また稗田阿礼という姓(かばね)を持たない人物が天皇の御側にいたとは考え難く、実在人物ではないようです。また編纂した太朝臣安万侶が実在人物であることは墓誌の発見で分かりましたが、実績のない人物に天皇が編纂を命じるなど考えられない話なのです。九世紀に朝廷で日本書紀を講義していた安万侶の子孫の多人長(おおのひとなが)が突然、古事記の存在を表に出したものなのです。序文は人長が書いたと考えられています。原古事記の存在も言われていますが、基本的に日本書紀の内容に沿って書かれていますので、ほとんどデタラメな内容です。ただ、日本書紀と少し違えた部分があるので、歴史の真相をそれとなく暴露するのもその目的の一つだと考えられます(岡田 英弘「倭国の時代」ちくま書房 参照)。

記紀はデタラメな歴史書ですが、当時の人々の考え方などを知る貴重な資料であることは間違いありません。また、記紀を全て排除したら歴史の真相を知ることができません。藤原氏によって史実が改ざんされたのであれば、不比等の目的を考察し、考古学などの成果から真相を解明することが可能です。このような考え方から、事実に基づく科学的な推論手法について、拙ブログ「刮目天 古代史の謎を推理する」で解説しましたのでよろしければご参照ください。

邪馬台国問題についても似たような構図で、西晋の史官陳寿が撰した魏志倭人伝のもとにした二人の魏使の報告書が、政治的な理由で一部改ざんされたことも、上の方法で日本の建国史を解明して分かりました。

邪馬台国大和説は考古学の成果と矛盾しますので、残念ながらご主張される墓は卑弥呼のものではありません。卑弥呼は記紀神話で宗像三女神とされ、宇佐神宮で比売大神として祀られているムナカタ海人族の姫巫女(通称ヒメゴ)だと分かりました。宇佐市安心院町三女神社を宮室とし、247年3月24日に北九州を中心として日没前に起こった日食のために殺害されて、宮ノ原遺跡西側の直径約150mの急造りの円墳に葬られたと推定しました。詳しくは拙ブログ「刮目天 【発見!】卑弥呼の墓」をご参照ください。是非、疑問点などお寄せ下さい。

突然、不躾な長文のコメント、どうも失礼しました。




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古墳の学術調査は墓荒らし?(;一_一)

2022-05-23 20:13:05 | 古代史
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このところお世話になっているぞくぞく家族団RUNチャンネル様のとてもいい動画で分かりましたが、かなりの人が古墳の調査を嫌っているようです。マグマ大使も強硬に反対しているので、またコメントしました。地上の人間の人智を越えているので分かってもらえるかはわかりませんが、お付き合いください( ^)o(^ )

後藤幸久
だって天皇家のお墓なのですもの現王朝のお墓ですよ、静安にお眠り頂かなければなら無いのです天皇陵は全て掘り返しては行けません。

長山雄二
天皇家のものではありません、国民の財産です。

本質家
@長山雄二
日本のものですよ。
国民が大事にするべき日本の歴史と伝統の一部で墓暴きなどはとんでもないです。


刮目天
@本質家 さん 学術調査を墓暴きと一緒にして欲しくないですよ(;一_一)
わたしのブログに書きましたが、応神天皇が三世紀末の初代ヤマトの祭祀王(初代天皇)でその次の仁徳天皇は日本書紀にあるような聖帝でもないし、記紀に書かれた事績の存在自体が疑問視されます。

そして仁徳天皇陵と言われるものは5世紀の天皇のものの可能性が専門家から指摘されています。
4世紀前半の応神天皇陵もオオサザキ大王の陵墓も大和盆地にある可能性が高いのです。

多くの日本人は明治時代に記紀の内容を国史として教育されたので戦後の日本人も日本の歴史と考えている人が多いです。

しかし江戸時代までは、例えば伊勢神宮の祭神天照大御神は男性神でその正体はへびだと考えられていました。
女神にした神話を作ったのは藤原不比等だったと分かってきました。
藤原氏が権力を維持するために歴史をねつ造したことが分かってきました。
拙ブログ(「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?(;一_一)?」「神話が隠した不自然な史実(;一_一)」など)を参照ください。




筑紫申真「アマテラスの誕生」(講談社学術文庫)関裕二「古代史の正体」(新潮新書)などもいいです。

ウソの歴史に騙されて本当の歴史を知らないと日本を失いかねないことにもなります。
例えば、女性天皇や女系天皇について国民の8割近くが容認・期待していると報道されていますが、伝統国家の日本消滅を狙う反日国家の工作かも知れません。

記紀には女性天皇が存在したように書かれていますが、不比等のフェイクだと分かっています。
京都にある天皇家の菩提寺では天智天皇から歴代天皇をお祀りしていますが、明治になるまで女性天皇は祀られていませんでした(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)2016、p.243)。

ですから、謎の多い7世紀までの古墳については徹底的に学術調査して真相を解明すべきなのです。
丁重に調査させてもらって、その後、必要に応じて当時の状態を復元するか、適切な場所で合祀したらいいと思います。
神道では神は墓にはいません。神奈備とされる山や磐座などの自然物や神社です(注1)。

現代の個人の墓とは違うことをご理解ください(/・ω・)/

【関連記事】
日本神話の正体は?(その1) ~(その3)
アマテラス大神はヘビだった?
江戸時代まで民衆も伊勢の神が誰だか知っていたようです(^_-)-☆
能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆
江戸時代まで猿楽と呼ばれた能楽を大成した観阿弥・世阿弥は秦氏だった。そう言えば奝然(ちょうねん)上人も秦氏だった。どうも秦氏は歴史の真相を暴露したくて仕方がない氏族だったようです(^_-)-☆
「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)
奝然上人は南宋に日本の王年代紀を献上した東大寺の僧です。これによって後漢の光武帝が金印を与えた奴国王の倭国が神話の高天原で、「日本は古の倭の奴国」と理解されて、ようやく日本という国号がシナに正式に認められましたよ(^_-)-☆

(注1)別のスレッドのやり取りです( ^)o(^ )
本質家
日本では先祖の墓を大事にして墓暴きなどはしないので皇室の陵墓を暴くような事はしません。
出来れば埋葬者がはっきりしていなくて誰のものかわからない、朝鮮半島南部の日本特有の前方後円墳をきちんと発掘するべきです。
この動画はちょっとと言うかかなり残念だと思います。

刮目天
本質家さん 縄文時代から墓に対する考え方が火葬が一般化する現在と違っていたようです。埋め墓(捨て墓とも言われる)と詣り墓の両墓制というのがあって、「遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗の一つである。」と説明されています。

最初の前方後円墳とされる石塚古墳はたとえ石棺はあっても遺骸はなかったのではないかと考えられます(注2)。わたしは吉備の楯築王墓から吉備津彦とされた奴国第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王を改葬したのかも知れないと思っています。(2022.5.25 赤字追加)

伊都国で狗奴国(ヤマト)軍に殺された女王台与(神功皇后のモデル)が平原王墓に葬られ、後で台与の子が祭祀王(応神天皇)として大和に呼ばれて箸墓を築いたと推理しています。高良山で戦死した、応神帝の父であった大国主狗古智卑狗(兵庫県豊岡市久々比神社の祭神久々遅命、上棟式の祭神で第18代奴国王スサノヲの王子イタケルの直系の子孫で、山陰・北陸の縄文海人ムナカタ族の王、代々襲名)も桜井市の茶臼山古墳で改葬したと推理しています。

これら二柱に卑弥呼(宇佐神宮比売大神、宗像女神イチキシマヒメ)を加えた人物が、ヤマト朝廷が最も畏れる三柱の神ですが、建国の史実を隠すために藤原氏によって日本神話が作られたので、あからさまにできないので様々な別名で祀っています。
でも朝廷は天変地異や災害などが起こるとこれら三柱の神の祟りとおびえ、ゆかりの神社に勅使を送り、神階を上げて、食封などもささげて丁重に鎮魂の祈祷をしていますので、分かってしまいました。

記紀に記載された陵墓とされた天皇の古墳はほとんどフェイクだと推理しています。
神道において、墓の中には神霊は居ません。神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域である神奈備に住んでおられます。大国主は三輪山や各地の龍王山などに居ます。台与は白山などです。卑弥呼は宇佐の妻垣神社奥宮の一柱騰宮(磐座)や稲積山などです。

天皇家の菩提寺は京都にあり、天智天皇からの歴代天皇をお祀りしています。古墳を学術調査することは不敬でも何でもないと思います。ただ歴史の真実を暴いてほしくないと考えているからではないでしょうか?

(注2)wiki「纏向石塚古墳」によれば、「墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出された。その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったことから、後円部の埋葬ではないか、あるいは削平のおよばない深淵部に埋葬施設があるものと考えられる。」とあります。後円部の削平作業でそのような報告書が残っているなら最初から埋葬施設や遺物はなかったと分かります。そうでないのなら、後円部に石棺などの埋葬施設が置かれないという説は、他に例があるのでしょうか?また、深淵部に埋葬施設があるという説についても初期の古墳では墳頂上に石棺などを埋めて置かれていますので考えにくいと思います。古墳の墳頂部に高射砲などの砲台を作ろうという発想ですから、もともと古墳という考古学上の重要な遺物という認識がなかったし、戦争末期の切羽詰まった状況だったので、重機で削平作業中に石棺や木棺が出てきても気にせずに工事をしたのではないかとも考えられます。


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マグマ大使が奇怪カルデラから降臨?(@_@)?

2022-05-21 00:00:11 | 古代史
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前回の記事でご紹介した仁徳天皇陵に関するいい動画のコメントの続きです。またお付き合いください(*^▽^*)



本質家
@刮目天
俺のイメージだと弥生時代から日向と四国が大和王権の基になって、奇怪カルデラの爆発で北九州と朝鮮半島南部の文明圏が出来たと思います。

四国の対岸の出雲地方や広島には元から文明圏があって、
神武東征は14代仲哀天皇の時代の神功皇后の三韓討伐のが250年位だとすれば、
継体天皇が古事記で527年没なので、
紀元0年辺りの事だと思われて、
3世紀の纏向遺跡で出土する土器は、
既に移動した後なので出雲や四国のものになっているはずです。

朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、
三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。


刮目天
@本質家 さん わしのアタマが破局噴火しそうですよ!

界カルデラの最近の爆発は7300年前となっていますが、ヤマト王権の成立は3世紀後半の話ですよ!

時代が相当離れていますが、あなたのイメージではそんな時間差は関係ないのですかね(;´Д`)

7300年前に文明が北九州と半島南部に生まれたというあなたの奇怪な説は、すべての考古学者のアタマを噴火させると思いますよ。文献と考古学の成果から紀元前12世紀から始まる箕子朝鮮の青銅器文化からの半島の様子は分かっています。それ以降の古代史で界カルデラ噴火の影響はないと思いますよ(拙ブログ「半島の古代史(漢四郡まで)」参照)。

出雲地方は四国の対岸ではないですが、神武東征はいつ頃の話ですか?記紀神話が正しいとすると前660年に即位したことになっていますが、その頃は弥生前期ですから、どこにも王墓が見られませんよ。

列島最初の前4世紀、弥生中期初頭の王墓が吉武・高木遺跡です。宋史 王年代紀の初代王天御中主、二代目天叢雲尊、三代目天八重雲尊の三人の王墓です。天叢雲尊の墓から三種の神器が出ています。他の墓の副葬品から、王と王妃と王子たちの集団墓地になっていることが分かります。従来は弥生最初の早良王国としていましたが、天は海、中はナーガ=龍蛇神ですから、ナーガを信奉する部族の長(海神)で初代奴国王です。


(図のK117初代王天御中主 M3二代目天叢雲尊 M2三代目天八重雲尊 の墓と推定)


4代目が天弥聞尊で、天孫降臨の元ネタになった王です。祖父から三種の神器を渡されて、須玖岡本遺跡に王宮を作り、子孫らが博多に列島内の交易センター比恵・那珂遺跡群を作り取引税を取って隆盛にしたと推理しています(拙ブログ「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

このころ畿内には王墓など見つかっていないと思います。畿内では唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡などの拠点集落にも王墓は見つかっていません。弥生中期初頭に四国や広島や出雲に王墓があったとは聞いてませんよ。列島内では北部九州が先進地帯です。

3世紀の纏向遺跡で出土する土器は、既に移動した後なので出雲や四国のものになっているはずです。」とありますが、どういうことですか?纏向遺跡では外来土器の約半分が東海のもので、山陰・北陸で17%、讃岐・阿波で3%ですよ。拙ブログに図で示していますので、参照してください。

朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。」ですが、纏向の外来勢力が東海です。纏向遺跡は狗奴国の拠点で、卑弥弓呼王は吉備で奴国を再興した第19代天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫ですが、東海の中心勢力もニギハヤヒ大王の子孫の尾張王だと推理しています。この尾張王が大将となって山陰・北陸・近江のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(兵庫県豊岡市久々比神社の祭神久々遅命で棟上式の祭神です。木の霊イタケルの直系の子孫が代々王となったと推理しています)が副将として倭国を討伐するために九州に遠征したと推理しています。



少し時代を巻き戻しますが、倭国は第18代奴国王スサノヲを殺して奴国を乗っ取り、王宮を伊都国に定めた奴国の宮廷楽師帥升(正しくは師升)の子孫の難升米が王となっていました。二世紀末に半島が混乱し、楽浪郡との交易ができずに衰退していました。

一方、狗古智卑狗は半島南部の鉄素材をスサノヲ大王のコネで入手し、スサノヲノ弟ニギハヤヒに鉄製の武器を供給します。ニギハヤヒはムナカタ族の支援で吉備を平定して、奴国を再興して、隆盛になり、ヤマト政権の基礎を築きました。楯築王墓の被葬者です。

このころから鉄素材や製品を入手するために狗古智卑狗との関係を築き、各地の首長の系列化が起こり、首長の権力が強まり、首長霊信仰が始まります。出雲に最初に四隅突出型墳丘墓がで、東に広がり、古墳時代の幕開けになります。

倭国大乱は先に説明したとおりですが、倭国王難升米が玄界灘を支配する赤坂比古率いるムナカタ海人族を懐柔して、その条件として太陽神のお告げを姫巫女(卑弥呼)より聞いて政治判断することで赤坂比古と合意したと推理しました。原因は狗古智卑狗の戦死だと推理しました。墓は方保田東原遺跡とうてな遺跡を見下ろす丘にある風車公園の茶臼塚古墳だと分かりました(拙ブログ「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」参照)。



赤坂比古の裏切りで狗奴国に鉄素材が供給されなくなって衰退することになるので、吉備から卑弥弓呼王が西に対して堅牢なヤマトの纏向遺跡に王宮を作り、各地の王族を集めたということです。

ですから、あなたの説「朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。」はわたしの推理とは異なります。三韓は4世紀に成立しますので、神功皇后の三韓征伐は日本書紀の虚構です。神功皇后は13歳で女王にさせられた台与をモデルとして史実を誤魔化すために登場させていると分かりました。

本質家
@刮目天
一つの可能性を言わせてもらうならば、藤原氏は確かに大化の改新で蘇我氏を打ち滅ぼしましたが、その後平安時代を作って安定した日本にしています。

神武東征については大阪の過去の地形によって、記紀の記述が裏付けられているので事実としてみた方がよく、遺跡などの状況から見てもわかるのです。

蘇我氏と言うのは秦氏と共に大秦寺と言う景教勢力で、大和王権が東に勢力を広げる中で日本を騙して、朝鮮半島を唐に献上した可能性が高いのです。

635年に唐で景教の布教が許可されて645年に大化の改新で、日本勢力だった百済が滅ぼされた660年の後、663年に白村江の戦いで明らかにおかしいのです。


刮目天
@本質家 さん 事実に基づいて言わないと相手にされませんよ(*´Д`)

最近の研究から大化の改新はフェイクだと分かって来ています。すでに中央集権化がすすめられていた証拠が見つかったからです。乙巳の変も皇極(斉明)天皇も架空の話だと万葉集研究家の渡辺康則氏が「聖徳太子は天皇だった」で解明しています。

関裕二氏は聖徳太子が蘇我入鹿だとしましたが、実は入鹿も架空の人物です。聖徳太子は蝦夷とされた人物だと渡辺氏が推理しています。渡辺氏は中大兄は皇子ではなく天皇に即位していないと突き止めています。刮目天はニギハヤヒ直系の子孫だと推理しています。蘇我氏はフェイクで記紀で武内宿禰とされた狗古智卑狗の子孫でヤマトの大王(天皇)です。その一族は石川氏というのが正しいかと思います。

景教が日本に輸入されたとしていますが、それによって大化の改新とどうつながるのか全く分かりませんよ(;´Д`)

本質家
@刮目天
ちょっと根本的におかしいのが、歴史書に嘘があると言うのは確かですが、魏志和人伝などについての検証をせずに、藤原氏だけを貶めていませんか?

663年の白村江の戦いで負けて、壬申の乱があった後に天武天皇が、大陸に日本の正当性を示す為に作って、遣唐使は何事もなかったかのように続いています。

古事記の内容を見れば本来は書かなくても良いことまで書いてあって、藤原氏が正当化する為と言うよりは大和王権を正当に示したのです。

ちょっとこれだけは確認しておかないといけないのですが、任那日本府の表記通りに朝鮮半島南部に前方後円墳がありますが、それを何だと思いますか?


刮目天
@本質家 さん 魏志倭人伝の内容についても検証して全体のストーリーができているのですよ。
事実で検証し、矛盾する内容があれば修正する科学的な手法を使っているのです。

天武天皇は蘇我の大王家だと推理しています。
即位してもいない天智天皇が派遣したことになっていますが、天武天皇の事績だと推理しています。
斉明天皇の遣唐使は蘇我蝦夷とされた天皇だと推理しています。
遡って、遣隋使は蘇我馬子とされた用明天皇と次の天皇だと考えています。
推古女帝もフェイクです。持統天皇もフェイクですがその前例を創作するために推古・皇極(斉明)を登場させています。

古事記は9世紀の学者で日本書紀を講義していた多人長が作った偽書です。
しかし、当時の人の考え方が分かるので、貴重な資料です(詳細は岡田英弘「倭国の時代」ちくま文庫参照)。

ヤマト王権が三世紀末に成立し、国内の混乱を収めて朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために倭人の将軍たちを派遣し、任那日本府を作ったのです。前方後円墳の被葬者たちは全て倭人だと見ています。

高句麗に追われて半島で再興した百済は馬韓の伯済国から出たとされており、元々奴国王の配下だった倭人だと推理していますので、日本人男性のY染色体DNA分析結果から考えて関裕二氏の鎌足百済王子説は正しいと思います(拙ブログ「渡来人は異民族とは限らない?」参照)。

関裕二「古代史の正体」(新潮新書 2021.4)は日本書紀の虚構の内容がよくまとめられていますので、刮目天の日本建国史と合わせてご参照頂くと目が覚めると思いますよ。よろしくお願いしますね(^_-)-☆。

本質家
@刮目天
ちょっと失礼なのですが事実と言うのは当時の国際情勢なはずで、238年に魏の司馬懿が漢の楽浪郡の残党の遼東公孫氏を倒してます。
ところが軍を進めたのに、朝鮮半島南部と新羅は放置をして朝鮮半島統一をしていないので、どう見ても北九州・朝鮮半島南部とワイの新羅は柵封されていたのです。

だから280年から290年に書かれた魏志倭人伝で陳寿は、北九州の地形までは実際に同定出来たが、三韓討伐で朝鮮半島南部を取った大和王権には行けなかったのです。

刮目さんの論点では北九州が日本を支配していた勢力となりますが、出雲や日向・四国を説明できなくなって、明らかに3世紀に大和王権が急にできたわけではないのです。


刮目天
@本質家 さん 先に、どっかで書かなかったかな?わたしのコメントをよく読んでくださいよ。

ちょっと細かく言うと司馬懿が公孫氏を景初二年(238年)8月に遼東郡で破って、公孫氏の首を刎ねて、明帝に報告しています。それを受けて明帝は密かに準備していた船団を出動させて楽浪郡と帯方郡の残党を掃討しています。

12月に明帝の病気が重くなり、司馬懿は明帝に面会して、曹叡(明帝)は子の曹芳(少帝)の大傳(後見人)になるように遺言し崩御します。司馬懿は半島に明帝が派遣した太守らを自分の息のかかった人物(帯方郡は劉夏)に交代させ、公孫氏の支配下だった倭国を懐柔させるよう命じたと推理しています。

翌年6月に倭国王難升米が帯方郡に出かけて劉夏と面談しました。12月には司馬懿は尚書省を掌握して、倭女王への詔書を作ったので、難升米を洛陽に呼び寄せて歓待したと思います。東夷を平定した功績を第一等のものと朝廷の人々に理解させる演出を整えたということです。

これによって、司馬氏が政権を掌握して、司馬懿の死後265年に魏の帝位を孫司馬炎が禅譲されて西晋が建国されたという経緯があります。魏志倭人伝は司馬懿の功績を西晋の朝廷の人々に理解させるために編纂されたのですよ(^_-)-☆



だからそういう一連の仮説で事実を調べると矛盾なく説明できるのです。

仮説に合致しない場合は修正しなくてはいけませんが、三国志の内容からみて記述の誤写を正しくしたくらいで特になかったと思います。行程記事はそのまま読めば事実と違う内容ですから、虚偽だと簡単に見抜けますよ。

でも多くの方は三国志や魏志倭人伝が何のために編纂されたかの政治的な理由をあまり考えないので、細かい字句の解釈の話に終始して、大筋を読めなかったのですよ。いわゆる、「木を見て森を見ず」ということです(^_-)-☆

本質家
@刮目天
刮目さんは答えてくれていませんが、朝鮮半島南部にある大和王権方式の前方後円墳は、いったい何だと思いますか?
帥升と倭の五王は朝貢しているのでどう見てもつながって、大和王権が隋に対等外交を求めた事とは、一切繋がっていないのはなぜなのか?

特に400年代の倭の5王については、しきりに朝鮮半島南部の王としての承認を求めているが、後の任那などを見れば大和王権の支配地域だったのになぜか?

答えは北九州の勢力と大和王権は別で、日向・四国勢力と出雲勢力が統合して東に勢力を広げて、北九州勢力は大陸と新羅と内通するしかなかったと言う事です。


刮目天
@本質家 さん 前方後円墳の被葬者はヤマト政権から派遣された人物だとどこかで書きましたよ。墳形から多分、物部氏かその支族だと考えていますが、まだ人物は特定できていません。

それで、107年の師升王と4,5世紀の倭の五王の話や7世紀初頭の遣隋使の話をいっぺんに出されるとは、また、わしのアタマは奇怪カルデラの破局噴火ですよ。

キミは噴火で地上に降り立ったマグマ大使か?時間を超越しているようだね!

じゃあ、さきにわしが説明したことも理解できないのはある意味、納得だ!(;´Д`)

早く地上の人間の論理に慣れてくれないと、これ以上議論できないですよ!

いつぞやはわしのこと親身になって心配してくれたので、ありがたかった。
だから身内のような感覚です。
君は古代史をやるよりももっと宇宙の解明とかそういうことの方が向いて言うと思いますよ。
素粒子論で新しい時間概念の理論ができそうだから、人類に貢献できる思うよ。頑張ってみない?(^_-)-☆

本質家
@刮目天
ちなみに成甲書房の朴甲東と言う人物を知っていますよね?


刮目天
@本質家 くん ボク知らない!( ^)o(^ )



冗長な話を最後までお付き合い、ありがとうございます。
マグマ大使が相手ですから、まだまだ、続いてますが一旦ここまでにしましょう(*´Д`)
面白いと思われる方は動画のコメント欄を覗いてみてください。よろしくお願いします(/・ω・)/

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記紀に基づく想像は古代妄想だった?(;´Д`)

2022-05-20 00:44:11 | 古代史
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仁徳天皇陵に関するいい動画を見つけました。ほとんどの方が記紀が日本の歴史書だと考えているようだとこの動画へのコメントからも分かります。そこで、コメント入れさせてもらいました。お付き合いください(*^▽^*)




本質家
@Blayz Bleay
元から北九州と朝鮮半島南部に日本文明圏があって、そこは新羅と一緒に大陸に朝貢していたが、日向・四国の大和王権はそうではなかったと思います。
鉄は最初北九州と朝鮮半島南部の日本文明圏が大陸から得ていたと思いますが、稲作などは日向・四国が南西諸島方面から伝えられたと思います。
そしてその2代勢力になる前から出雲にも勢力がいたが、これは神武東征で大和王権勢力に帰依して、200年年代半ばの三韓討伐で朝鮮半島南部が大和王権になったのです。
日本人が当時の黄河に行ったかどうかですが、日本自体が豊かで実り多かったので、畑作中心の貧しくて寒い地方に行ったとは思ません。


刮目天
@本質家 さん 日向は宮崎県ですか?ヤマト王権は3世紀末に纏向遺跡で成立していますが、そのシンボルである前方後円墳のルーツは寺沢薫氏の研究ではっきりと分かっています。主に吉備と北部九州と出雲です。



纏向遺跡では九州の土器がほとんど出土していません。あっても1%以下です。四国の讃岐と阿波の土器は三世紀初頭は見られましたが、中頃には消えています。考古学の成果から北部九州にあった倭国と纏向遺跡に居た勢力や集まってきた勢力とは対立する関係だと言えます。四国の勢力は三世紀中頃に倭国に着いたと見られます。


弥生後期後葉(二世紀末から三世紀初頭)の倭国大乱期に大分県大野川から阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の鍛冶集落が数多く作られ、熊本県山鹿市の方保田東原遺跡、菊池市のうてな遺跡に倭国に敵対する勢力が集まり、佐賀平野筑紫平野などを襲撃した倭国大乱の痕跡を発見しました(拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。方保田東原遺跡には山陰や畿内の土器が集まっており、狗奴国の最前線基地です。倭国に対抗する勢力ですから、纏向遺跡が狗奴国の本拠地だと考えられます。



(左クリックで拡大)


そして、古墳時代初頭(三世紀中頃)から東海や畿内の勢力が九州に集まってきます。記紀の景行天皇の九州遠征のルートに鉄鏃・銅鏃が出土し、環濠や溝で発見されたものは矢戦の痕跡と見られます。また崇神天皇紀の四道将軍のルートやヤマトタケルのルート上にも見られるようになり、日本列島が狗奴国と敵対する倭国の勢力になっていて、それを統一する様子が見られます(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。



つまり、日本書紀の話は日本建国の史実を隠蔽するために史実を改ざんしたものだと分かりました。

日本建国に纏わる大国主の国譲りも神武東征も神功皇后の東征も藤原不比等が創作したもので、建国の真相が考古学の成果から分かりましたよ。

ですから、記紀の話に基づく想像は、事実に基づかない妄想なのですよ( ^)o(^ )

詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」にありますので、ご参照されてから疑問点を教えてください。よろしくお願いします(^◇^)


最後までお付き合い、ありがとうございます。
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魏志倭人伝の渡海ルートは間違い?(@_@)

2022-05-18 13:08:07 | 古代史
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魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆にWAJINみならい様から今回もよく整理されたいいコメントを再度頂きました。どうも、ありがとうございました。回答が長くなったので、ブログ記事にしました。ただし、ご質問は先のブログのコメント欄に全文載せていますので、詳しくお知りになりたい場合はご参照ください。長いですが、お付き合いください(*^▽^*)

それでは、ひとつひとつ見て行きましょう。
1.先に貴殿説の疑問点を述べます。
a. 1日漕げば千里進めると記録したのは、信憑性はあるのでしょうか。海と陸を並走して距離を測るなどは、実現不可と思うのですが。
  この場合の里程は、長里ですか、短里ですか。
  長里なら日に430kmにもなります。短里なら、一寸千里法で直に測れば良いでしょう。
1日漕ぐ測量方法は、海流や風の影響も強く誤差を生じ非現実的です。
  1日漕いだら1000里とする新規格なら、山岳を挟む陸地は測れないことになります。


海洋技術の専門家の遠澤先生が「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」(成山堂書店)の中で、渡海千里は1日(昼間一杯)の櫂走の距離としていると主張されている説に従っただけです。

長里か短里かとのご質問ですが、魏の時代にあった里制は1里約434mだけです。短里制はなかったということです。魏志倭人伝は出発地と到着地の間の里数はあっても、それらの具体的な場所まで明記されていません。ですから、考古学の知見から書かれた国の出発・到着場所を推定するほかないですが、考古学から分かっている国の各区間の1里当たりの実際の距離が一定ではありません。

例えば伊都国(三雲南小路遺跡)から奴国(比恵・那珂遺跡が中心都市)の距離はGoogleMapで徒歩ルート23.3kmですが、魏志倭人伝には百里と書かれていますから、1里あたり約233mとなります。短里制を主張される方は1里当たり約76mですから3倍くらいになります。短里で百里(約7.6km)は今宿五郎江遺跡くらいまでですので、まだ伊都国内です。奴国の中心都市には全く届きません。



ですから、魏志倭人伝で短里を用いたという主張は、正しく書かれているはずだからという単なる思い込みの妄説なのだと分かります。

これを認めないで、考古学の成果が間違っているという議論は科学的ではありませんよ(「魏志倭人伝をシナ人が読んで邪馬台国が分かるの?(@_@)」参照)。

では、なぜそんなデタラメな里程が書かれたのか考えると、魏志倭人伝の他の部分も考察し、西晋の基礎を築づいた司馬懿の功績を称えるための政治的な意図で行程を過大な里数にしていると結論できるのです。詳しくは拙ブログ「魏志倭人伝の真実」などに詳述しているので、是非ご理解ください。これが分からないと話は堂々巡りになるだけですから。

b. 帯方郡から狗邪韓国の7日渡航は無理かもです、地乗り航法で1日千里は無理でしょう。黄海には黄海暖流が左巻きに流込んでおり、郡からは逆流につき地乗り航法となる。日40kmと多めの潮流としても狗邪韓国へは14日はかかるでしょう。

遠澤先生は専門家ですから海流や潮流を考慮して帯方郡から狗邪韓国まで大雑把に7日、7千余里だと推定しています(前掲書p.120)。



c. 御説では狗邪韓国から不弥国まで3日とありますが、対馬と壱岐は直行できなかったので、無理でしょう。

狗邪韓国から不弥国までを3日とは言ってません。九州の上陸地点末盧国までが三度の渡海で三千余里ですから3日というのが遠澤先生の推理です。対馬と壱岐間が直行できないという貴説は採っていません。後でまた説明します。

不弥国が確定していないので諸説ありますが、奴国(比恵・那珂遺跡群)から不弥国(ウミコク、水行の出発点は新宮町と考えています)まで百里16.4kmですから、これも短里制ではないと分かります。

d. 末盧国からの、500里や100里などは、どのように測ったのでしょうか。1里のロープを使う手がありますが、短里76.6mのロープを作ること自体難しい上に、川や山・曲折道の直線距離は測れません。
不弥国が新宮か宗像としても、末盧国から、伊都國・奴国の距離は合わないようですが、伊都國と奴国の場所が分からないです。


陸行は歩きです。中国では右足を出して左足が着地するまでの長さを1歩として(時代によって規定された長さは多少違う)、300歩で1里と決めていましたから、歩数を数えるのが最も簡単です。

e. 不弥国(宗像として)から豊津までは関門海峡廻りですか、又は仮遠賀湾経由で直方辺りから遡上する曳舟ですか。いずれにしろ2日では無理でしょう。
10倍説はよく聞きますが、戦略上の理由とは言え無理筋、何か根拠があると嬉しいです。
  関門海峡が安全に通れるようになったのは明治からで、陸続きだったところが浸食によってできた海峡。大型船は無理、小型船も岩礁が見え隠れする穴門を通る危険航路だったのですが、それでも通過できたのでしょうか。


不弥国から投馬国(中心地は京都郡みやこ町節丸字在馬・豊津付近)まで水行2日と推理しました。長野正孝「古代史の謎は海路で解ける」を参考にして、福間ー赤間、遠賀川河口ー関門海峡は潮流を利用して可能だと思います。だから魏志倭人伝の水行20日は実際の日数を10倍した過大な日数だと推理しています。卑弥呼のいた場所が宇佐市安心院町三女神社とわかったので、そこから難升米がどういうトリックをしたのかを推理したのです。



ただし、魏の船ではなく、丸木舟です。魏使は伊都国の男王(卑弥呼の政治を輔佐する男弟とした)=倭国王難升米に面会するだけで仕事は果たせます。鬼道で人々を惑わし、ほとんど人に会わない卑弥呼が女王という設定は、難升米と帯方郡太守が談合して、魏の朝廷の人々の注目を集めるためのフェイクですが、太陽神のお告げを伝える役目の巫女ですからその通りだと考えています(注1)。

また、行程記事の末盧国からの方角は、実際は東ですが、呉(会稽郡東冶県)の東方海上に東夷の大国があるとするために南としています。倭女王を魏に朝貢させた功績は魏で第一等のものとして、すべて司馬懿の功績だと主張する為なのです。

f. 安心院が邪馬台国ですか、魏にとっては舟は命、舟から離れたくなかったので、安心院までの陸行は曳舟とするのも一案かもしれません。
ただ、倭国連合は出雲の交易圏で、宇佐は瀬戸内海の交易圏かと思うのですが。単に卑弥呼の里ということだったのでしょうか。


倭国王が倭国大乱を鎮めるために、敵対する玄界灘を支配するムナカタ海人族を懐柔した時の条件として、太陽神を祀る姫巫女(通称ヒメゴ)のお告げを聞いて政治判断をするという条件があったと考えています。倭国大乱期は卑弥呼が居た宗像の王宮は海に面しているので物騒ですから宇佐市安心院町に疎開してたと推理しました。記紀神話で葦原中つ国の宇佐嶋に降臨した宗像三女神としていますが、その主神イチキシマヒメのことで、宇佐神宮の比売大神です。

安心院町の卑弥呼の宮室まで駅館川を倭人が丸木舟で遡行するのですが、川幅が広い箇所は櫂走だと推理しています。支流の川幅の狭い浅瀬になると人力で曳行でしょう。二番目の魏使張政は倭人の舟に乗って行き、卑弥呼の墓を見た可能性があります(注2)。

g. 水行10日陸行1月を帯方郡から邪馬台国までの日数とは言っておらず、なにも示していません。

これは水行10日陸行1月は帯方郡から邪馬台国までの日数のことだとする説に対する意見を述べた次第です。

h.「呉の東の海上」ではなく、隋書には「会稽の東にあり儋耳と相近し」とあるので、紹興市の真東の種子島でしょう。一寸千里法で観測すると同緯度になります。

范曄「後漢書」では会稽東冶とあり、邪馬台国は台湾の東方向です。中国正史で倭人の文字の初出は「漢書」地理志です。「楽浪郡の(南の)海上に倭人有り」と紹介されていたので、風俗も似ていることから海南島に近いとしたかったからだと推理しています。范曄は邪馬台国と正確に書いていますので、これが正しいと思います。倭国の地名や人名などは漢字を読み書きし、シナ語も話せる教養人の難升米が劉夏と談合して、漢字で書いて教えたものだというのが、伊都国と書いてその意味を理解していることから分かるのです(「【検証22】難升米という人物は?(その1)」参照)。邪馬台国もヤマコクに住む台(女王)の国という意味なのです。だから、邪馬壱国は版本の元となった写本の段階で書き換えられたと推理できます。原本に忠実に読むべきと主張される方がいますが、版本は原本ではないので、今となっては残っていない原本の内容を推理する以外にないのですから、この考えも妄説なのです。

なお、野上道男「『周髀算経』の一寸千里法記述における論理的破綻」によれば、「結論として「栄方陳子問答」の一寸千里法は、太陽の大きさや日影長を観測せず、しかも『淮南子』の方法を改竄開陳するときに、いくつかの誤りを犯している、と判断される。」とあります。日影長から緯度差は知ることができますが、実際に使われた証拠はあるのですか?

2.女王国の世界観

女王国は邪馬台国のことと談合によってそうしたのです。実際は難升米が軍事を掌握している人物でした。魏は倭女王を差し置いて難升米に正規軍旗「黄幢」を直接授けていることからも倭国王であったと分かります。卑弥呼はムナカタの姫巫女であって、統治者でも女王でもなかったのです。すべて司馬懿の功績を持ち上げるための演出だったのです。多くの研究者はこのことを見抜けないから、魏志倭人伝は正しく書かれているはずだとして、苦しい解釈に終始して邪馬台国問題が解決しなかったのです。ですから、編纂者の意図を読んで、考古学などの成果によって文献の信ぴょう性を評価し、真相を科学的に推理してすべてが分かったのです。この手法を拙ブログ「古代史の謎を推理する」に詳しく述べていますので、どうかご理解ください。

魏志倭人伝の性格から島嶼などの周囲の長さもかなりいい加減なものだと分かります。

侏儒國、裸國、黒齒國などについては魏使が実際に行ったのではなく、下の図に示しましたが、倭人などからの伝聞や漢書地理誌などの書いたものからの記事のはずです。



3.倭国連合の交易について

縄文時代からムナカタ海人族が宗像から半島南部、山陰・北陸、そして瀬戸内、太平洋沿岸、沖縄などで黒曜石や貝輪などの取引で活発に活動していました。紀元前10世紀ごろから江南出身の倭人が半島南部(韓国辺り)に水田稲作技術を持ち込み、半島の縄文人と交流していました。混血が始まっていたかもしれません。半島の北部は前12世紀殷(商)王朝末期に王族の箕子の一族が入って青銅器文化を持ち込みました。箕子朝鮮は前三世紀まで続きます。縄文人も倭人も箕子朝鮮と交流していたと考えられます。

「倭国大乱の後の、卑弥呼の時代には、狗邪韓国の西の勒島から壱岐に直行する、つまり対馬をパスする新ルートもあった。」とありますが、もしもその痕跡があるならば、恐らく海流によって漂着したのだと思います。当時の航海技術では、できるだけ島影を見ながら航海するのが基本ですから。魏志倭人伝に瀚海と書かれた対馬海峡についても同様です。できるだけ島影が目視できる季節や天候を選んで渡航するはずです。

4.私の自説(と言っても、皆さんの説を纏めただけですが)
(9)比定地区のルート案(3点)

①九州説1(投馬國と邪馬壹國には行かなかった説)
 往路 郡→勒島→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國 (奴国・不弥国も訪問無し)
 復路 伊都國→五島→対馬→狗邪韓國→郡
 この場合、日程はなく単に里程での説明、投馬國と邪馬壹國の日程は倭からの伝聞であろう。

②九州説2(投馬國Uターン説)
 (水行20日) 郡→狗邪韓國→対馬→投馬國(出雲)
 (水行10日陸行1月) 投馬國→(Uターン)→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國→(御笠川?遠賀川?曳舟)→邪馬壹國(甘木田川吉野ヶ里?)

  日程は倭からの伝聞の可能性があるので、数日は異なると見た方がいいかもです。

③近畿説(奈良)
 (水行20日) 郡→勒島→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國→投馬國(出雲)
 (水行10日陸行1月) 投馬國→宮津→(曳舟)→須磨→摂津→邪馬壹國(奈良?) (復路に五島→対馬→狗邪韓國に立寄り)


貴説ではいろいろと新しいルートの存在を主張していますが、室町ー江戸時代の朝鮮通信使も釜山ー対馬ー壱岐から九州に上陸して帰路も同じなのです(wiki「朝鮮通信使」によれば、一部対馬から直接に赤間関を目指すルートもあったとありますが)。航海技術は少しは進歩しているのかも知れませんが、魏志倭人伝の三世紀でも、季節と潮流などを見て航海しますので、貴説のようなそんな迂回するようなルートは採らないと考えています。

あなたは皆さんの意見でと言ってますが、貴説の根拠となる文献・資料を知りたかったのです。papaチャンネルにあるのでしたら時間を教えてください。でも、タイトル画面を見ただけで判断したら悪いかも知れませんが、その面白い説は、科学的な考察になっているのか疑問ですよ(*´Д`)

すでに最初のあなたのコメントへ回答したとおりですが(Re:魏志倭人伝)、あなたへの以下の質問を最後にしました。これについてご見解が得られていないので、分からないというご回答でよろしいのでしょうか?

Q.もしもあなたの説が正しいならば、そのようなコースを示唆する行程記事に何故しなかったのですか?誰の意図ですか?

魏志倭人伝が政治的に作られた文書だと言えますので、行程記事などはフェイクですが、実際はどうだったのかをいろいろと検討されることは必要だと思います。あなたの主張するような新たな発見ができるかもしれませんから。でも、従来の妄説を鵜呑みにしては間違いますよ。

参考資料 (気が向いたら参考して下さい)については上で述べた部分は、これ以上言及しませんが、参考にさせていただきます。どうも有難うございました( ^)o(^ )


(注1)唐古・鍵遺跡の土器に描かれた縄文系の巫女は下半身を露出していますから、トランス状態になるためだと考えられます。神が巫女に憑依するためですから、巫女は神の妻だと考えています(「卑弥呼の正体?(@_@)」参照)。伊勢神宮と賀茂神社に独身の皇女が斎王となる制度が奈良時代から南北朝時代までありましたから、女性天皇というのは藤原不比等のフェイクだと考えています。京都にある天皇家の菩提寺でも女性天皇は祀っていないと分かりました。女性は巫女ですから天皇の役割はできません。これは男女差別ではないのです。

(注2)玄界灘を支配するムナカタ族の族長は4世紀から6世紀まで有力氏族とされる和邇氏の祖の先代の赤坂比古であることが和邇坐赤坂比古神社から分かりました(「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。卑弥呼の父親で、最初は安心院町宮ノ原遺跡で卑弥呼と暮らしていましたが、先に他界して直径約120mの卑弥呼の墓よりも少し小さめの円墳「奥城古墳」の被葬者だと推理しています。鳥栖市愛宕山神社を王宮として周辺を支配していたと考えています。

卑弥呼の死後ヤマト政権から三女神を祀るように命じられた水沼氏は赤坂比古の支族だと考えられます。宮ノ原遺跡の大平古墳から三角縁神獣鏡の破片が出土していますので、水沼氏がその被葬者だと推理しています(「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)。



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