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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

国譲り神話の史実は?(^_-)-☆

2023-12-08 22:18:46 | 古代史
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2021-02-18 14:24:49に記事にしましたが、その後いくつもの発見をして内容を少し改訂しました。よろしければお付き合いください(;^ω^)

前回のブログから藤原氏が氏神とする春日大社の四柱の春日神の正体を見ていってます。もう一度述べますが、天児屋根命 (アメノコヤネ)が中臣氏・藤原氏の祖神で、比売神が天児屋根命の妻ということになっています。春日大社の創建については下のとおりです。

奈良・平城京に遷都された和銅3年(西暦710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる[要出典]とする説もあるが、社伝では、神護景雲2年(西暦768年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命(タケミカズチ)、香取の経津主命(フツヌシ)と、枚岡神社(ひらおかじんじゃ)に祀られていた天児屋根命(アメノコヤネ)・比売神(ヒメガミ)を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

卑弥呼の霊がこの比売神こそ宇佐八幡の比売大神卑弥呼だと伝えてくれていました。考えてみれば、アメノコヤネは、『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神に岩戸から出てもらう働きをし、ニニギの天孫降臨に際しても随伴したと書かれていますからヤマト建国の功労者です。その妻も祀るのであれば、彼女にも立派な業績があったと書かれるはずです。その妻の名前も出さないのですから、名前を出せない誰か別の重要な女性を隠して妻として祀ったと分かりますね(;一_一)

それで本題ですが、高天原は大国主に何度も国譲りをするように働きかけていたのですが、すべて失敗に終わりました。そこで、日本書紀では高皇産霊尊(タカミムスビ)が神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、最初、フツヌシを派遣すべきだという意見があったのですが、タケミカズチが自ら志願しました。以下、日本書紀にある大国主(大己貴神)の国譲りの場面を日本書紀・日本語訳「第二巻:神代・下」より引用します、ルビの部分など若干変更しています。

二柱の神は、出雲の国の五十田狭(いたき)の小汀(おはま)に降りられて、十握(とつか)の剣を抜いて、逆さに大地に突き立てた。そして、その先に膝を立てて座り、大己貴神(おおなむちのみこと)に尋ねた。

「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この地に君臨しようと思っておられる。そこで、我ら二人を平定に遣わされた。 お前の心はどうか、お譲りするか、否か」

そのとき大己貴神は、「私の子どもに相談して、御返事いたしましょう」と答えた。

このとき、その子である事代主神(ことしろぬしのかみ)は、出雲の美保の崎(みほのさき)にいて、釣りを楽しんでいた。
あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。

そこで、熊野の諸手船(もろたぶね)に、使者として稲背脛(いなせはぎ、諾否を問う係)を乗せて向かわせた。
そして、高皇産霊尊の言葉を事代主神に伝え、その返事を尋ねた。

そのとき、事代主神は使者に対し、「今回の天つ神(あまつかみ)の言葉には、父上は抵抗しない方が良いでしよう。私も仰せに逆う ことは致しません」と言った。そして、波の上に幾重もの青柴垣(あおふがき)をつくり、船の側板を踏んで、 海中に退去してしまわれた。使者は急ぎ帰って、これを報告した。

大己貴神は、その御子の言葉を二柱の神に告げ、「私が頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましよう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしよう。今、私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」と言われた。

そこで国を平定したときに用いられた広矛を、二柱の神に奉り、「私はこの矛をもって、事を成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私は幽界(ゆうかい、死後の世界のこと)に参ります」と言い、言い終ると共に隐れてしまわれた。


ところが古事記では、大国主の子は事代主の他に力自慢の建御名方神(タケミナカタ、「先代旧事本紀」では事代主の弟)が出てきてタケミカズチに勝負を挑みます。しかし、タケミカズチに敵わず、諏訪の地に逃げて、そこから出ない約束で許されたとあります。タケミナカタが諏訪大社の祭神ですが、この話は別の記事でします。そして大国主は「私の子供の二柱の申すとおりに、私は背きません。この葦原中国(あしはらなかつくに)は、仰せの通りに、ことごとく献上致しましょう。ただし、私の住む所は、天つ神の御子が皇位をお継ぎになる立派な宮殿のように、地底の磐石ばんじゃくに宮柱を太く立て、大空に千木(ちぎ)を高々とそびえさせた神殿をお造り下さい。そうすれば、私は遠い遠い幽界に隠退しましょう。また、私の子供の百八十神(ももやそかみ)たちは、八重事代主(やえことしろぬし)が、神々の前後に立ってお仕え申したならば、背むく神はありません」と言った。とあります(古事記・現代語訳「上巻」葦原中国の平定より引用)。

出雲大社の本殿は高さ16丈(約48m)という社伝があり、平成12年・13年の発掘調査で出土した直系1.4mの宇豆柱を3本を金輪で束ねていたようで、社伝どおりの建物が存在したことが分かりました(笹生衛「出雲大社の謎 古代に存在した巨大神殿のルーツに迫る」國學院大學メディア2018年2月28日更新)。ということは、国譲り神話は実際に起こった史実をもとに創作されたことが証明されたということです。これ以外にも、三輪山大物主大神の祭祀や天照大御神を皇居から伊勢神宮に遷す話などを考えても大国主が実在人物で、大国主の支配した国がヤマトに奪われた話は史実だと分かります。

魏志倭人伝には、卑弥呼が死んだ247年の後に、女王に替わって男王が立ったが、国中が従わず、千人くらいが殺されるまで戦った結果、卑弥呼の宗女の台与を立ててようやく国が収まったとあります。これが史実であることは卑弥呼の死の前後の考古学の成果から推理できました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

少し時代を戻しますが、狗奴国の大王卑弥弓呼は、奴国宮廷楽師の師升らのクーデターで宋史王年代紀第18代王素戔嗚尊(スサノヲ)が殺されましたが、滅亡した奴国を吉備で再興し、ヤマト政権の基礎を築いた人物がスサノヲの弟ニギハヤヒだと推理しています。先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)ですので、宋史王年代紀第19代王天照大神尊と推理しました。倭国王難升米は師升王の一族で、倭国大乱で大活躍していた狗奴国の官狗古智卑狗が戦死して、玄界灘を活動域として半島南部の鉄を狗奴国勢に供給していたムナカタ海人族赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の父)を懐柔し、狗奴国と対立していました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

狗奴国王は鉄の供給を止められて劣勢になり、勢力を盛り返すために各地に散っていた旧奴国の勢力を纏向に王宮を造り呼び寄せて、祈祷などを行い、倭国打倒の計画を練りました。倭国征討軍の主将と推理した尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)はニギハヤヒを祖とする一族で、岡山市の伊福部連(尾張連の一族)の居住地と言われる場所に尾針神社があります。纏向遺跡で発掘された外来土器の半分ほどが東海地方のものですので、尾張王が狗奴国側の有力者だったと考えられます。



また、スサノヲの王子イタケルの子孫の出雲・丹波王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久久比神社の祭神、棟上げ式の祭神でイタケルと同じ木霊)は代々、日本海沿岸を主な根拠地とする縄文系ムナカタ海人族などを配下にして、半島南部の鉄素材を仕入れて、出雲や丹後半島などで鉄製品を作り狗奴国側に供給し、ニギハヤヒ直系の狗奴国(旧奴国)の大王を助けた人物です。魏志倭人伝では王よりも前に登場する狗奴国の官狗古智卑狗です。纏向遺跡の外来土器では東海地方の次に多いのが山陰・北陸のものなのです。



狗奴国による倭国討伐軍の史実が、記紀神話では仲哀天皇の熊襲征伐の話になっています。神の神託を疑い突然崩御した仲哀天皇が倭国追討軍の主将で、尾張王乎止与命をモデルにしたのです。神功皇后は近江・北陸を支配下にしていた縄文海人ムナカタ族の族長息長宿禰王(大国主の国造りのパートナー少彦名、吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺墓の被葬者と推定)の娘で13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)です。姫巫女として従軍していた模様です。そして、神功皇后の傍らで寄り添っていた白髪の老人武内宿禰が久々遅彦だと推理しました。武内宿禰が三百歳を超えるということは、久々遅彦が代々出雲・丹波を治める王の襲名だったということです。これは偉大な祖先の名前を首長が引き継ぐことにより祖霊と霊的に一体になって偉業を達成できるという首長霊信仰によるものです。

記紀では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子としていますが、本当の父は大国主久々遅彦(倭国大乱で戦死した先代狗古智卑狗の子)だと推理しています。日本書紀の仲哀天皇は、その父ヤマトタケルが亡くなって38年後に生まれた計算になりますから、杜撰な作り話と分かります。つまり、仲哀天皇もヤマトタケルも、どちらも架空の人物なのです。ヤマトタケルは大国主久々遅彦が日本建国の真の主役であることを隠すために登場させた架空の英雄だったのです。

そして仲哀天皇の祖父でヤマトタケルの父の景行天皇についても、本当は仲哀天皇の後の話だと突き止めています。三世紀後半のヤマト政権が大国主と台与を殺して倭国を奪った際のヤマト勢の進軍ルートが、景行天皇の九州征伐の伝承に一致することが分かりました。これを裏付けるように景行天皇のルートから鉄鏃・銅鏃が出土しています(注)。つまり、景行天皇は仲哀天皇の祖父ではなく、史実を誤魔化すために登場させた仲哀天皇と同様、架空の天皇なのです。そしてその正体は尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)だったのです。父乎止与命の仇討ちで九州遠征を行い、苦難の末に成功させたのです。(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。建稲種命は平定した九州を卑弥弓呼大王の配下の物部勢に任せて、纏向遺跡に凱旋します。大王は直ぐに、建稲種命に大国主の傘下を鎮撫する命令を出します。建稲種命は東海遠征の途中で戦死して沼津市高尾山古墳に葬られました(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。後を継いだ尾張王がほとんどの地域を平定し、ヤマトが列島を統一してヤマト政権が生まれました。




これらの事件は倭女王が西晋に朝貢した266年から西晋によって呉が滅ぼされた280年までの話です。この日本建国の戦いは、記紀では崇神天皇の四道将軍や景行天皇の九州遠征、仲哀天皇の熊襲征伐、神功皇后による応神天皇即位までの約350年の話として引き延ばして誤魔化していたのです。



藤原不比等はこの日本建国の史実が不都合なので、これを隠すために国譲り神話を創作したのです。神話の英雄タケミカズチが尾張王建稲種命です。尾張王の史実を隠すために、大国主に殺された乎止与命の話は、イザナミが火の神カグツチを生んだために死んだのでイザナギに斬られる神話としました。秋葉神社の祭神ですので、愛知県や静岡県西部に数多く見られます。尾張王の史実は徹底的に隠されていますが建稲種命の仇討ちの話は、子供向けの民話で現代まで語り継がれています(詳細は、「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

ですから、日本建国の過程について、記紀の話でそのまま仮説を作っても、事実、つまり考古学の成果とは合致しないのです。

ということで話が長くなりましたが、国譲り神話で藤原氏の祖神たちの活躍は尾張氏(建稲種命)・物部氏(フツノミタマ)のものを、言葉は悪いですが、ちゃっかりと盗んだのです。でも、申し訳ないということで二柱の神(タケミカズチ・フツヌシ)を藤原氏の氏神としてしっかりと祀っているのだと分かります。ご苦労様です(;^ω^)





(注)この時代の銅鏃は、鉄鏃が普及していない東海地方に見られるものですから景行天皇も尾張王だと推理できます。愛知県長久手市には景行天皇神社がありますから多分この尾張王建稲種命を祀ったものでしょう。豊田市にある猿投神社(さなげじんじゃ)も元の祭神がサルタヒコだっとwikiにあり、社名もサルタヒコを投げたということから、大国主サルタヒコを尾張王建稲種命(景行天皇)が討った史実を示唆するものでしょう。

また、福岡県東部から銅鏃が出土していないことから鉄鏃を使う別動隊が倭国中枢部の奴国(福岡市)・伊都国(糸島市)を襲った模様です。主力の尾張王建稲種命は、先に高良山に立て籠もった大国主を攻めて殺した後に、奴国・伊都国へ向かったと思われます。大国主の墓は久留米市祇園山古墳と比定しています。景行天皇は浮羽からヤマトに帰国していますが、別動隊と合流して台与を伊都国で追い詰めて殺したのかも知れません。台与は剣を持って立ち向かったので、男勝りの女傑神功皇后のモデルとされ、糸島市平原王墓の石棺の上に素環頭太刀が置かれたのです。この戦いの後に、物部氏が宗像周辺や筑紫平野を占領し続けた模様で物部系の地名が残っています。別動隊は物部勢でしょう。ですから、尾張勢はヤマトに凱旋し、その後故郷に帰ったものと考えられます。


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【邪馬台国問題】魏志倭人伝は信用できるのか?(;´Д`)

2023-12-07 11:45:54 | 古代史
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前回の動画に続き、とてもいい内容の動画が出てきましたので、早速コメントしました。別の方からも動画にコメントがありましたので、議論しました。よろしければ、どうぞ(#^.^#)


刮目天
いい解説をありがとうございます。前回の動画にもコメントしましたが、これだけ長い間、多くの人が邪馬台国を見つけようとしても確定していないということは、魏志倭人伝の内容に何らかの誤魔化しがあると考えてもいいと思います。そのヒントはこの動画でも指摘されていました。

帯方郡から東南万二千里に女王が都とする邪馬台国があるという記述です。洛陽から大月氏国の首都カーピシーまで万六千三百七十余里で、その戸数十万戸と分かっています。そこで、邪馬台国が、洛陽から楽浪郡まで五千余里を加えて、万七千余里にあれば、司馬懿が合計十五万余戸の倭国の女王を朝貢させたその功績は曹真のものを越えられます。しかも魏のライバルの呉を東方海上から挟み撃ちできる位置としたので、邪馬台国は戦略的にも同等以上に重要な国になります。

曹真は直ぐに病死してその跡を継いだ曹爽が大将軍として魏の最大の実力者でしたが、司馬懿はそれと並ぶことができ、謀略で曹爽を追い落として魏の実権を握ったのです。

西晋の史官陳寿は西晋の基礎を築いた宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を書いたのです。
陳寿は著作郎ですが、勝手に文章は作らないと考えていいと思います。目的に合う文章を宮廷の書庫から探して撰定し史書を編纂するのが仕事です。ですから、魏志倭人伝には司馬懿が書かせた卑弥呼を絶賛する詔書をほぼ全文書いています。司馬懿は少帝曹芳の太傅(後見人)で録尚書事に就き、詔勅や人事まで口出しできる立場になっていました。

司馬懿は明帝が帯方郡太守にした劉昕に替えて、部下の劉夏を太守にしました。劉夏は、倭国王に朝貢を促しました。景初三年(239年)6月に大夫難升米が朝貢のために派遣されましたが、難升米は約半年帯方郡に滞在しましたから、その間に劉夏と談合して司馬懿に都合の好い邪馬台国への行程記事などを創ったと考えられます。しかも、倭国を女王が支配する大国としたものと考えると、邪馬台国問題の謎が解けます。

卑弥呼は人前に出ませんから、政治を補佐する男弟がいたとされていますので、男弟が二人の魏使と面会しています。しかも、二人目の張政は難升米に詔書を直接渡し、魏の正規軍の軍旗「黄憧」まで渡しているので、難升米が男弟とされた本当の倭国王だと分かります。ですから、二人の魏使は伊都国に居た倭国王難升米に面会すれば任務完了なのです。

ということで、劉夏が書かせた行程記事の内容が記録された最初の魏使梯儁の報告書を陳寿が見つけて行程記事などを書いたのだと分かります。

そこで倭国が、女王が統治する国というのも創作ですが、すべて創作とするのは考えにくいです。卑弥呼という漢字は難升米が書いたものですが、姫巫女あるいはヒメゴで実在人物と考えています。卑弥呼が居た場所が邪馬台国とされた場所です。これは卑弥呼が登場する前の倭国大乱の痕跡を発見して推理できます(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。倭国大乱がなぜ起こり、卑弥呼の正体についても推理できます。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください(;^ω^)

@nnkk8888
15 時間前
魏志倭人伝の内容が信頼ができないのならば、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国があったともなかったとも、どこでも強弁できるようになるので議論そのものが無意味だと思います。
あと、畿内説の場合、魏志倭人伝の文章は信頼できず書いてある事はほぼ間違いだとするのに、墓の大きさの径百歩だけは正しいとするのが不思議です。


 @noel8446
しかも、あの記述なら円墳と考えるのが自然なのに
前方後円墳の円部分の事を言ってるんだ、と強引すぎ😂


 @user-nh4yb8zd6g
だから、議論そのものが無意味って事なんですよ。
アカデミズムの世界では考古学的アプローチで鉄器文化の研究を進める手法が主流で、魏志倭人伝はかなり前から問題にされてないです。
邪馬台国〇〇説は素人やテレビしか興味無いテーマで、ぶっちゃけどうでもいいんです。


 刮目天
すべてウソを書く理由があるのなら別ですが、この場合考えにくいです。書物には書き残す目的があり、書かれた内容を事実、つまり考古学や民俗学などの成果で検証すれば、誤魔化した部分が推理できますよ。詳しくは【刮目天の古代史】古代史を推理するをご参照ください(;^ω^)

 @hir-pk9fo
その通りで一応信じてるだけで卑弥呼は居なかったかもしれないとも思ってます


 刮目天
@hir-pk9fo さん 千人の侍女に囲まれて多くの兵士によって厳重に護衛されて大集落に居る倭国の女王は現在までの考古学の成果からは見つかりません。でも女王卑弥呼のモデルとなる人物はいたかもしれません。

纏向遺跡の箸墓は4世紀築造ですから卑弥呼のものではないです。ヤマトトビモモソヒメの伝承も卑弥呼に合致しません。

北部九州説では糸島市平原遺跡の女王墓が超豪華な副葬品から卑弥呼の墓の候補ですが、径百余歩の円墳ではないし、大規模な集落ではないので該当しません。

吉野ヶ里遺跡には卑弥呼の墓とよべるものがありません。

朝倉説の長田大塚古墳は魏志倭人伝にある規模の円墳ですが、これも三段築で時間をかけて作った4世紀から6世紀築造のものです。古墳の上にカグツチを祀る秋葉社がありますので、卑弥呼ではないです。

卑弥呼の墓に該当する日本最大の直径約150ⅿの巨大円墳「三柱山古墳」が宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の近くで見つかっています。宗像三女伸の降臨伝承地三女神社があります。不思議なことに二の鳥居の神額に二女神社とあるのです。地元では「さんみょうじんじゃ」と呼ばれています。「三は妙だ!女は少ない!」という謎かけだと分かりました。宇佐神宮の比売大神は宗像女神イチキシマヒメです。
ムナカタ海人族は倭国大乱期に沖ノ島経由で半島南部の鉄を出雲地方から狗奴国側に供給した人たちです(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)から(その5)を参照」。

イチキシマヒメは族長赤坂比古(和邇氏の祖、天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)の姫巫女で太陽神のお告げによって重要な判断をしていたようです。「三柱山古墳」の周囲にはいろいろと卑弥呼に関わる遺跡や伝承がありますから、最有力の候補ですよ。詳しくは「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」を参照してください(;^ω^)

【参考記事】
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
倭国大乱から日本建国の戦いまでの痕跡を発見しています。
ヤマト王権成立過程はこれらの事実から推理しました(^_-)-☆

【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)
邪馬台国問題解明の哲学・考え方はこちらでどうぞ!


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遂に解明⁉魏志倭人伝から読み解いた『邪馬台国』の本当の場所?( ^)o(^ )

2023-12-05 18:28:19 | 古代史
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とてもいい動画を見つけました。今回の動画は以前、拙ブログにいいコメントいただいた理工系古代史研究家青松光晴氏の著作「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国へ」をもとにして制作されたようです。
これで決まりかのような興奮させるタイトルで、邪馬台国北部九州説ですが、どうでしょうか?(;´Д`)
この本の最終章に邪馬台国位置比定の考古学的根拠が書かれていることが目次から分かります。
1.鉄、2.鏡、3.勾玉(まがたま)、4.銅矛(どうほこ)、5.絹
6.三種の神器出土遺跡①(吉武高木遺跡)
7.三種の神器出土遺跡②(三雲南小路遺跡)
8.三種の神器出土遺跡③(井原鑓溝遺跡)
9.三種の神器出土遺跡④(須玖岡本遺跡)
10.三種の神器出土遺跡⑤(平原遺跡)
11.まとめ ~ 遺跡、出土物からみても邪馬台国はここだ!!
1から5は人が持ち運びできるものですから、邪馬台国の決め手にはなりません。6から10は遺跡ですが三種の神器が邪馬台国の決め手のようです。しかし、決め手になるのはやはり卑弥呼の墓だと考えています。墓の周辺の遺跡や伝承だと思います。ですので、いつものとおり、コメントさせていただきました。よろしければお付き合いください(;^ω^)


今回は、遂に解明⁉魏志倭人伝から読み解いた『邪馬台国』の本当の場所について紹介させて頂きます。
今回の動画は、青松光晴様の許可のもと動画を作成させて頂きました。


これだけ長い間時間をかけて多くの方が研究しても確たる話がないのは何かがおかしいと考える必要があると思います。つまり古代史解明の基本的な考え方が間違っていたということです。

多くの皆さんは魏志倭人伝は3世紀ごろの日本のことが書いてあるので、正しく解釈すれば邪馬台国も卑弥呼の墓も見つけられると考えてやっていますが、正しく解釈することの意味がよく理解できていません。だからいまだに正しい答えが見つけられないのです。

魏志倭人伝は、西晋の基礎を作った魏の実力者司馬懿の功績を称えるのが目的の政治文書なので、書いてあることが事実と食い違う理由を考えれば、真相に近づけます。



同様に日本の現存する最古の歴史書が天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと思わされてきましたが、正史「日本書紀」の完成は崩御して34年後なのです。その時の権力者は藤原不比等ですので、天皇の歴史書を借りて藤原氏が権力を握り続ける正統性を述べる文書だったのです。

それよりも前に完成したとされる古事記は9世紀に日本書紀を講義していた学者多人長が突然表に出してきたもので、正史に古事記が完成した記録もありませんし、正史やその前の歴史書で引用・参照した痕跡もありません。

多くの方は記紀が天皇の歴史書だと信じているので、偽書だと認めることができないでいます。だから真相が謎のままなのです。

不比等は日本が建国される卑弥呼の時代の史実が都合が悪いので、史実が隠されているのです。驚くと思いますが、日本神話は建国の史実を誤魔化すために不比等が創作したものですよ。証拠はいくらでもあります。



ですから、編纂者の目的や意図を考えて、真相を推理して、仮説を構築し、事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証すると、蓋然性の高い仮説が得られます。そのような科学的な手法で推論を重ねると、ヤマト王権の成立過程が分かります。その中で倭国大乱やその結果生まれた邪馬台国の場所も分かるのです。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。

ちなみに、卑弥呼の墓は判明しています。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」をご参照ください(#^.^#)
お邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】
投馬国へ水行してみませんか?


日本の古代史が謎な理由?
富雄丸山古墳の被葬者は日本書紀が隠した天皇のひとりでした( `ー´)ノ



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【金印贋作説】亀井南冥は冤罪でしょう!(^_-)-☆

2023-12-01 19:54:55 | 古代史
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金印贋作説に関するとてもいい動画を見つけましたので早速コメントしました。古代史を解明するには、いくつもある事実(考古学や民俗学などの成果や文献)について、それぞれ数多くの解釈・諸説・仮説が登場します。それだけを議論すると何が本当か訳が分からなくなるので、古代史が謎のままなのです。ですからその時代の歴史を矛盾なく説明する仮説をアブダクションにより構築し解明できることを示しました(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」参照)。よろしければ、お付き合いください(#^.^#)



詳しい解説をありがとうございます。とても参考になります。

金印贋作説で数多くの関係者を示されておられましたが、関係者が多いと互いの利害関係から偽造が発覚するリスクが多くなりますが、偽造説を裏付ける証言がありませんので推測となります。そして、南冥のパトロンの豪商が莫大な資金(偽造や工作に小判百両は超えると考えられます)を出したとするのならば、豪商が金印偽造によってもたらされる利益が供与した資金を上回るもののはずですので、具体的な資金回収計画があったことを示す必要があろうかと思います。そして、当時の邪馬台国問題が知られていたとありますが、だったら偽造するのならば卑弥呼が賜った「親魏倭王」の金印の方がインパクトがあります。何故そうしなかったのか?などを考えると、逆に光武帝の金印であったことから本物である可能性が高いと思います。

范曄後漢書に「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」とあるだけですので、印面に「漢倭奴国王」ではなく「漢委奴国王」と彫られていることからも本物の可能性が高いと思います。

真実を知っている当時の人間が他界している以上、すべての解釈や仮説は推論のレベルでしかないのですが、分かっている事実(考古学や民俗学などの成果)によって仮説を検証すると、最も蓋然性の高い仮説が得られます。その仮説から逆算すると志賀島出土の金印は本物である可能性が極めて高いと分かりました。よろしければ、その詳細は拙ブログ「【決定版】金印贋作説を討つ!」をご参照ください。

最後に、蛇鈕のヘビをミズチだとおっしゃられていたのは素晴らしい見解です。ミズチは「日本の神話・伝説で水と関係があるとみなされる竜類か伝説上の蛇類または水神。」とwiki「蛟」にあります。




奴はナーガ=龍蛇神のことです。

奴国王の初代は記紀神話で高天原に登場する最初の神「天御中主」です。天はアマ=海、中=ナーガ、主=王で江南の龍蛇神を信奉する海人族の王という意味なのです。地名で那珂・那賀・中山・長柄などなどはすべてナーガに因むものです。そして新唐書・宋史の王年代紀に初代奴国王と記されており、宋史には二十三代の王名のみ列挙され、筑紫日向宮に居て、最後の王の四男の神武天皇が大和州橿原宮に遷ったと書かれているのです。詳しくは「王年代紀は記紀神話を正した!」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)



【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)


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国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?(^_-)-☆

2023-11-29 06:24:41 | 古代史
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当初は(その3)あたりでこのシリーズ終わる予定だったのですが、いろいろと出てきましたので続けたいと思います。新たな発見で、その前に書いたことと矛盾するところも出てきて、修正もしながらやっていますので、よろしければ戻ってもう一度読んでいただき、おかしなところを指摘していただくと助かります。それでは、前回予告した西谷墳墓群についてみていきます。いつもの駄文で恐縮ですが、どうぞお付き合いください(;^ω^)

西谷墳墓群は出雲市大津町にある弥生時代から古墳時代まで長期間営まれた30基以上の墳墓と横穴墳墓群です。特に、弥生時代後期後葉(二世紀末)に出現した大型の四隅突出型墳丘墓が多くの人々から注目を集めています。方形台状墳丘墓に首長やその一族が葬られ、四隅が拡げられて、そこから人々が墳丘に登り、儀礼が行われたと分かるものです。この形式の首長墓が日本海沿岸部などに拡散する、地形を利用した大型弥生墳丘墓です。弥生時代の終末期(三世紀前半)そして古墳時代初頭(三世紀後半)から平地に、さらに大規模な古墳が造られるようになりますので、古墳時代の発祥を議論する上で特に重要な遺跡です。



下図は平成10年度調査報告書から引用した西谷墳墓群の分布図ですが、6基の四隅突出型墳墓に赤丸を付けています。葬祭に使われた土器の形式から3号墓・1号墓が二世紀後半、2号墓・4号墓が二世紀末ころ、9号墓・6号墓が三世紀前半に造られたとされています。ただし、9号墓は「編年に有効な壺形土器の口縁部などが出土しておらず時期の確定は難しい」とwiki「西谷墳墓群」にあります。



最初の2号墓の写真の手前に見えるのが3号墓の北西の端部で、そこに見られる立石が2列になっている様子が見えます。2号墓も2列あります。1号墓・4号墓・6号墓は立石が1列です。そして、9号墓だけは3列も配石がありますので、特に丁寧に作られた墓だと分かります。そして、最大のサイズの9号墓が東西42m×南北35m、次が3号墓で東西40m×南北30m、2号墓が東西24m×南北35m、そして4号墓が東西34m×南北27mです。首長クラスの墓は立石が2列以上のものと考えると、4号墓は大きくてもランクが一つ下になると考えられます。

2号墓は全体の4分の3が破壊されていたそうで、3号墓は木槨の中に木棺が納まっていたので、恐らく同じ形式と考えられ、攪乱された土の中から朱の塊が出土しているので、木槨の土壙の底に砂利と赤色粘土もしくは赤色顔料が敷かれていたと考えられています。4号墓についてはその記述がないので、やはり王よりもランクが下の有力者の墓と考えて良いようです。

3号墓の復元模型が出雲弥生の森博物館で展示されています。手前に新しい王と王妃が座っており亡くなった王妃の墓の上で儀式が行われている様子も、すべてしっかりと考証されて忠実に示されています。奥の柱が見える部分に王の棺が埋められています。四隅に柱を立てる作業の様子が示されています。模型の右側に見える展示物が王の墓の断面を示したもので木槨で囲われた木棺の底に朱が敷かれて、その上に王の遺体がある様子が分かります。


クリックすると、王や妃など人物の様子が見れますのでどうぞ(^_-)-☆



王の木棺の中に短剣と管玉の首飾りがあったようです。その右上に同様の少し小さいものがありますが、幼児のものとされています。王・妃・王子または王女が同時に亡くなったのでしょうか?だとすると感染症が死因なのかも知れません。王妃の墓からは碧玉製管玉、ガラス製品(小玉、垂玉、管玉、勾玉など)が大量に出土しています。そしてこの台状面に他に6個ほどの土壙墓があるので奴婢などを殉葬したのかも知れません。また、封土の上に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰・丹波(丹後半島)・北陸地方の土器も見られます。下の図は北陸系土器として島根県のホームページにありましたが、壺の右側に突起が見えます。素人考えですが三韓土器に耳がある壺があるので似た感じです。辰韓(新羅)のものだったらバッチリ国引きの証拠ですが、残念ながらやはり違うようです。しかし、3号墳王墓(第4主体)に伴う土器の「内訳と割合は山陰系土器約 61%,丹越系土器約 21%,吉備系土器約 14%,系譜不明土器約4%である。」とあるので系譜不明の中にあるのかも知れません(「西谷3号墓発掘調査報告書本文」、2015,p.223)。もしも浦項地域の土器が出雲にないのならば、浦項市虎尾岬から在地の人が出雲に渡ってはいないということですから、出雲の人が対馬経由で半島南部の鉄素材を持って来ていたということになります。(注1)(2023.12.2 赤字追加)



そして、2号墓からはガラス腕輪や、吉備の特殊器台・特殊壺などが出土している。とあるので、女性の墓と考えられます。上述のとおり、二世紀後半の3号墓よりも少し新しい二世紀末と考えられています。

さらに、3号墓・2号墓と少し離れた東側の、最も丁寧に作られた9号墓ですが、規模も最大ですので特別な被葬者だと考えられます。墓の上に三谷神社が在ります。健磐龍命(たけいわたつのみこと)、亦の名を阿蘇津彦命とあります。この神は景行天皇の熊襲征伐に登場します。天皇が阿蘇山に登ってみたら、ここには人が居ないじゃないかとつぶやくと、突然私たちが居ますよと阿蘇津彦命と阿蘇津姫命の二人の神が現れました。そこで、天皇は「あ、そう?!」と言ったのでここを阿蘇と名付けたそうです(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)から(その4)」参照)。日本書紀の編纂者らはダジャレで楽しんでいたようです。史実と違う話を無理に作るように権力者の藤原不比等に命じられたので、コノハナサクヤヒメなどと適当な名前の姫を登場させて、笑いながら作業した様子が目に浮かびますね(#^.^#)

阿蘇津彦命と阿蘇津姫命は、大国主と妃の台与のことです。至る所に登場するペアの神様の正体です。民間伝承でも道祖神の中に男女ペアの石像などが見られますが皆、大国主と台与のことなのです(詳細は「道祖神もやっぱり(^_-)-☆」参照)。

ということで大国主が三谷神社の祭神ですが、大国主の墓はすでに見つけています。戦死した場所は久留米市高良山です。その西麓にある祇園山古墳というピラミッド状の立派な方形墓です。夏に行ってきましたが、草に覆われて登るのも大変でした。しっかりと整備して欲しいものです。それから初代応神天皇が両親の祭祀を纏向で行うために造った古墳が桜井茶臼山古墳と箸墓古墳です。箸墓の被葬者「倭迹迹日百襲姫命」はヤマトとトビ(大国主)を恨んで、何度も何度も唱えるお姫様という名前なのです。たった十三歳で女王ということにさせられて、最後はヤマト勢に殺された悲劇のヒロインなのです(詳細は「悲劇の女王台与のはなし(その1)から(その4)」参照)。だから卑弥呼の墓ではありませんよ(^^;)。

ですから三谷神社の祭神の大国主が9号墓の被葬者ではありません。社伝によれば「新宮氏の先祖が紀州熊野から勧請した」とあり、9号墳の南側の上来原の三谷 山上にあったのが、いつのころか古墳の上に遷されたとあります。戦国時代のこの神社の記録があるそうで、それ以前のことになります。

新宮と言えば熊野三山ですから熊野信仰は平安中期から始まったようで、イザナギ・イザナミとスサノヲを祀っています。大国主はその末裔です。古代人は、新たに王となった人物は偉大な祖先の霊魂を引き継いで偉業を達成できるという信仰があったのです。これを米神信仰と呼びます。大国主が最初に国造りを行った宇佐市安心院町佐田地区にあるストーンサークル佐田京石と米神山に因む祖霊信仰です。それを一般化すると首長霊信仰という意味になります(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」、「古代史のカギを握る神々の正体?」「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」など参照)。
 
ちょっと長くなって恐縮ですが、社伝の続きです。「元禄十三年(一七〇〇)それまで同地池ノ内にあ った式内阿須利神社を当社に合祀した」のですが、「明治五年、神社制度の改正にあたり、 阿須利神社がふたたび独立社として大津町山廻の 地に遷されることになってため、当社は一時廃社 となり、その後地区民の陳情により、同十三年無 格社として再興した。」とあります。

その阿須利神社の説明書には「創祀年代は不詳。
式内社・阿湏利神社に比定されている古社で、『出雲風土記』に「阿須理社」とある神社。

『雲陽誌』には、出雲の振根が弟・飯入根を殺した時、血(汗)が流れて池中に入り、阿世利という、とあり、
また、八岐大蛇が、この池に入って「あせった」ためと、「あせり」という名となったという話もある。

以上の話の通り、本来は上来原の池の内の杓子山に鎮座していた。貞享の頃、その地に高瀬川が開設され、土砂が流入する地となり、三谷の三谷神社境内に、やむなく遷座

明治になり、神社整理のため廃社となった大津町の龍王社跡地に遷った。さらに、大津町で廃社となった八幡宮を合祀し、現在の状態になった
。」とあり、西谷墳墓群の北西約1kmの龍王という地名だったそうです。祭神が豊玉彦なのです。(2023.11.30 赤字訂正)

まあ、そういう事情で三谷神社に遷座したというのは分かりますが、「やむなく遷座」ですか?本来の場所に鎮座していただきたいという地元の人々の気持ちが何となく伝わってきませんか? この9号墓の被葬者は、(その4)にも述べたとおり、藤原政権が厳しく監視した最も隠したい神様のひと柱なのですから、被葬者がどなたかもうお分かりですよね(^_-)-☆

この最も立派な9号墓を造った人物は大国主の父、倭国大乱で大活躍した英雄で、倭国王師升の子孫難升米に討たれた狗奴国の官狗古智卑狗だと思います。この地で父の八束命を葬り、王位継承の儀式を行ったのだと思います。

さて、それでは3号墓の被葬者ですが、これも(その3)で大国主の系譜を調べましたからお分かりだと思います。この出雲の地を治めた八束命の父五十猛命(イタケル)とその妃、古事記によれば木花知流比売ということになります。八束命はやはりイタケルの子だったようです。八束命が国引きしたスサノヲ大王ゆかりのムナカタ海人族を呼び寄せて葬儀を行ったのでしょう。吉備の人々も来ています。クーデターを逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒがムナカタ族の支援で吉備を平定して隆盛になり、奴国を再興したのです。その子孫が纏向遺跡を造りヤマト王権を成立させたのです。ニギハヤヒ大王が奴国王を継承し、天照大神尊(王年代紀第19代)と呼ばれ、倉敷市楯築王墓に葬られています。イタケルよりも先なのか後なのかは今のところ分かりません。

そうなると2号墓の被葬者も分かります。出雲市氷川町の万九千神社(まんくせんじんじゃ)で神様を送り出す祭りをしますが、主祭神は櫛御食野命(クシミケヌノミコト)スサノヲです。大穴牟遅命(大国主)、少彦名命と 八百萬神が一緒に祀られています。そして境内に立虫神社(たちむしじんじゃ)という変わった名前の神社がありますが、祭神が五十猛命(イタケル)、大屋津姫命(オオヤツヒメ)抓津姫命(ツマツヒメ)で、二人のヒメはイタケルの妹、抓津姫命は大屋津姫命の妹です。父スサノヲに連れられて紀ノ國などで木の種を撒いた神様です。しかし、スサノヲは師升らに殺されていますので、三人の王子・王女はムナカタ族に助けられて奴国を脱出し、出雲の地で暮らしたということです。立虫神社が先にあったという説がありますから、それが正解だと思います(^_-)-☆(2023.12.3 赤字修正)

ということで今回の推理でいろいろと分かりましたので、大国主の系図を推定したものを下に示します。
記紀が天皇の歴史書だと思わされたままでしたら、藤原政権の八束命隠ぺい工作は見抜けませんから、西谷王墓の被葬者は永遠の謎でしょう(;^ω^)(2023.11.29 赤字追加)



(注1)松本岩雄先生(八雲立つ風土記の丘所長)「弥生時代史にみる東アジアとの交流」第 5 回市史講座ミニレポート:平成 30 年 8 月 18 日(土) に以下の記述があります。

 韓国の勒島(ヌクト、古代の弁韓諸国の地域にある島)では、九州の弥生中期の土器、楽浪郡の土器、中国の銭が一緒に出土しており、貿易拠点だったのではないかと考えられるそうです。この勒島の土器は出雲市の山持遺跡からも出土しており、九州北部から山口・島根(出雲地域)への分布が見られるそうです。
一方、出雲地方と楽浪郡(現在の平壌周辺)との繋がりもみられました。九州北部と出雲地域で楽浪郡の土器などが見られることから、
(1)楽浪郡との直接交流、(2)中継地を経由、という二つの説があるそうです。土器の移動については、(1)土器の作成者が運んだ、
(2)交易者が運んだ、(3)地元の人が持ち込んだ、(4)地元の人が他地域の土器を真似て作った、など様々な説があり、より詳しく検討する必要があるそうです。

<中略>
 さらに、階級の成立を考える上で重要な出雲市の西谷墳墓群を挙げられました。この遺跡の埋葬遺構からは大量の水銀朱が出土しており、三号墳には 4cm にわたる朱の層ができていたそうです。これらは中国の朱の成分に酷似していることが分かりました。当時の朱の価値を検討したところ、「生口(奴隷と推定)10 人分」にも及ぶそうです。この他、ローマ帝国内で生産された硝子の管玉、朝鮮半島産鉄製剣がもたらされていたことが分かってきました。こうしたものを入手できる財力を持った有力階級が成立していたことが分かります。


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