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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆

2021-09-18 00:32:45 | 古代史
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すでに2019-09-14 14:14:20に記事にした「狗古智卑狗」について、その後の検証により明らかになったことを加えて、改訂します。最後まで、よろしくお願い致します。


出雲大社にある大国主の銅像

「魏志倭人伝」は西晋の史官陳寿によって二世紀末から三世紀前半の倭の様子を伝えられたものですので日本の古代史研究において第一級の貴重な史料です。その内容は倭国の地理と女王の住む邪馬台国への行程を記述する部分、当時の倭人の風俗などと、最終段の倭国と魏の外交交渉記録から構成されています。これらは、主として二人の魏使梯儁(ていしゅん、240年)と張政(ちょうせい、247年)の報告書や魚豢「魏略」(ぎょかん「ぎりゃく」)などの先行文献に基づくものと考えられます。

しかし報告書にあった邪馬台国の位置については、当時の魏のライバルであった呉を抑え込むために、戦略的に重要な意味がありました。倭国に朝貢させた当時の魏の実力者司馬懿(しばい、後に西晋宣帝の諡が贈られる)の功績が魏第一のものであると朝廷の人々に思わせる政治的な目的のために、邪馬台国への行程記事が事実とかなりかけ離れたものになっています。また、そのつじつま合わせから風俗記事にも中国南部の海南島付近と同じような風俗という文章も見られますが、最終段の倭国との外交交渉の内容についてはそれを改ざんする理由が特に見当たらないので史実とみてよいと思います。

つまり、卑弥呼の死(247年ころ)の後に「更めて男王が立つが、国中服せず。更に相誅殺す。当時、千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壹(臺=台)与(注1)、年十三なるものを立てて王と爲す。国中遂に定まる。」は本当に起こった出来事と考えられます。

ここで景初三年(239年)六月に朝貢のために帯方郡へ訪れた大夫難升米には魏から正規軍の黄色い旗を授けられているので、倭国の軍事を預かる人物です。ですから難升米が卑弥呼の男弟であり、伊都国男王だと推理できます(詳しくは、「【検証22】難升米という人物は?(その1)(その3)」参照)。ですから元から倭国王でしたから改めて倭王に立った男王ではありません。

丁度その時期に北部九州で日没の頃に日食(伊都国では珍しい日没帯食)が見られ、狗奴国の軍勢が押し寄せる情報が難升米王に入った時期と重なります(当時の高地性集落はひとつには狼煙による情報伝達のために作られたと考えられます)。難升米王は、太陽神を祀る卑弥呼の不謹慎から起こった不吉な前兆と考えて、卑弥呼を暗殺したと推理しました。それによって倭国側についていた玄界灘を支配するムナカタ族は難升米王を見限って、北部九州に到着した狗奴国軍に降参したので、難升米王は逃亡し、倭国軍は壊滅したと考えられます。そこで狗奴国軍を率いた大将が狗奴国王を裏切って倭王に立ったので、狗奴国軍の内部で内戦になったと推理しました。

一方、現存する日本最古の正史「日本書記」は、壬申の乱(672年)で勝利した天武天皇が編纂を命じたのですが、その完成(720年)の約30年前にすでに崩御されています。時の権力者藤原不比等が、藤原氏にとって不都合な日本建国の真相を隠し、藤原氏の権力維持のために書き替えたと分かってきています。すでにほぼ完成していた内容をすべて削除して、全くねつ造したものを新たに創作することはかなり困難ですので、歴史の真相と思われる、すでに完成していた史実をベースに改ざんしたと考えられます。



上述の狗奴国軍の内戦の史実は、仲哀天皇の熊襲征伐の話に書き替えられたと関裕二氏が指摘しました。「日本書紀」の記述では、仲哀天皇は父親のヤマトタケルの死の37年後に生まれたことになります。それ故、父のヤマトタケルや祖父の景行天皇との関係も怪しく、仲哀天皇の話は真相を誤魔化すための歴史改ざんと見ていいと思います(注2)。

「日本書紀」の仲哀紀では、住吉大神の「熊襲を撃つよりも海の上に金銀などがある新羅を討て。わしを祀れば新羅は服従し、熊襲も従う」との神託を信じないために突然崩御されたとあります。卑弥呼の後に立った男王が仲哀天皇に対応します。その後卑弥呼の宗女で十三才の台与が女王に即位したわけですから、卑弥呼と同じムナカタ海人族の姫巫女の台与が神功皇后に対応すると考えられます。常に神功皇后に従う武内宿禰に対応する実在の人物が男王を討って台与を女王に立てたという推理です。

日本建国に関わる四人のキーパーソンとみられる人物(神武天皇・崇神天皇・神功皇后・応神天皇)に対して「神」の文字が付く漢風諡号が八世紀に贈られています。当時の朝廷の人たちは日本建国の真相を大体知っていたと思われます。応神天皇と神武天皇は時代が全く異なりますが、どちらも九州からヤマトに乗り込み最終的に呪術を使って勝利し、ヤマトで天皇に即位するということですから、二人は同一人物と考えられます。「日本書紀」の編者が真相を誤魔化すために、初代天皇の話を時代の異なる二人の似たような話として作ったと考えられます。神武と応神の子供たちの内紛もそっくりの構図ですが、史実を誤魔化すためだと思います。詳しくは後日述べる予定です。

神武天皇が祀る皇祖神天照大御神ですが、記紀神話では高天原を支配するアマテラス女神としました。しかし、この女神は天武天皇の崩御後に優秀な皇子たちを追い落として皇位を奪った皇后鵜野讃良(うののさらら、持統天皇)の正統性を主張するために、実在の天照大神尊とすり替えたものなのです(持統の前の二人の女性天皇も前例を創作したものです)。本当の天照大神尊は、二世紀初頭に帥升(正しくは師升)ら宮廷楽師たちのクーデターで殺された「宋史 王年代紀」に記載される第十八代奴国大王素戔嗚尊の跡を継いで、吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いたスサノヲの弟ニギハヤヒ天照大神尊のことです。

関裕二氏はまた、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた応神天皇(ホムダワケ)の本当の父親が、住吉大社に残された「モガリに皇后と住吉大神に夫婦の密事があった」という記紀の内容に反する伝承から、皇后に常に寄り添っていた武内宿禰を示唆する伝承だと推理しました。つまり海の神である住吉大神こそ、神功皇后を傍らで常に助けた三百歳の老人である武内宿禰ということになります。

更に、「日本書紀」の崇神紀7年に、大物主大神(大国主大神)がその子供のオオタタネコに自分を祀らせれば国も収まるという崇神天皇へ与えた神託があります。これが、住吉大神が仲哀天皇に下した神託、「海外(わたのほか)の国有りて、自ずから帰伏(まいしたが)ひなん。」とよく似ていることから、住吉大神と三輪山の大物主大神(大国主命)は同一神かもしれないと、これも関氏が指摘しています(「日本書紀」が隠し通した『天皇の正体』、廣済堂文庫、2010,p.202)。つまり、住吉大神と武内宿禰と大国主命(大物主大神)はすべて同一人物ということです。

ここでまた「魏志倭人伝」に戻ると、邪馬台国への行程記事と邪馬台国の南に在る女王が治める21カ国の国名紹介の直後に「其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智卑狗有り、女王に属せず。」と書かれています。中段の「倭国の風俗記事」の後の最終段の中に「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。」と男王の名前が紹介されました。男王よりも先に紹介された狗奴国王に仕える狗古智卑狗は狗奴国の実力者のようです。

そうすると「日本書紀」の仲哀天皇の熊襲征伐の話と「魏志倭人伝」に書かれた史実との対応を考えると、実際は狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤写か?)が邪馬台国への征討軍を派遣し、狗古智卑狗が征討軍に従い、重要な役を演じたと考えられます。

ここで卑弥弓呼王は、吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いた奴国大王ニギハヤヒの直系の物部氏の祖だと推理しました。つまり、纏向遺跡のあった場所が旧(狗)奴国ということです。上述のとおり玄界灘を支配するムナカタ族が旧(狗)奴国を裏切って倭国側についてしまいました。卑弥呼(姫巫女)が伝える太陽神の神託に従う縄文系の海人族です。その為に、沖ノ島経由の半島南部の鉄素材の供給が止まってしまいました。

そこで、卑弥弓呼王は都を吉備から纏向の狗奴国に遷し、列島各地に展開している旧奴国王族らを纏向に集めました。「日本書紀」でハツクニシラススメラミコトとされた崇神天皇のモデルになった人物ということです。卑弥弓呼大王が卑弥呼の死(247年頃)の直前に派遣を決定した倭国征討軍の構成ですが、下に示した纏向遺跡へ外部から搬入された土器の出身地割合から次のように推理できます。



伊勢・東海系の土器が半分近く占めるので、倭国征討軍の主将は東海地方を支配する人物と考えられます。つまりタラシナカツヒコ(仲哀天皇)は尾張王だったと考えられます。「先代旧事本紀」によれば尾張氏は物部氏と同族で、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命を祖としています。吉備の楯築王墓に葬られたニギハヤヒ大王と推理しました。岡山市北区に祭神を天火明命とする尾針神社があり尾張氏の出身地と考えています(注3)。

次に北陸・山陰系と近江系の土器を併せると22%になるので、出雲から丹後半島あたりまで支配する出雲・丹波王が狗古智卑狗だと推理できます。武内宿禰のモデルです。それに従う近江・北陸から越(新潟)方面までの日本海沿岸を支配したムナカタ海人族の姫巫女が台与(卑弥呼と同じ縄文海人の一族で、母系がイザナミ)となります。記紀の神功皇后のモデルと推理できます。

「古事記」に武内宿禰が琴を弾いて神功皇后に神がかりさせて住吉大神の神託を仲哀天皇に伝えたとあります。富来隆氏によれば、狗古智卑狗の発音は、このような神事(カジリ)に使う琴が前漢時代(紀元前二世紀から一世紀)に空侯(クウコ)と呼ばれることから空侯ツ彦(クコツヒコ)かもしれないと指摘しています。そうすると狗古智卑狗「空侯ツ彦」はカジリに使う琴によって武内宿禰と一致します。

尾張王が倭王難升米を蹴散らして、卑弥弓呼大王を裏切り倭王に立とうとしたので、それに反発した狗古智卑狗らと内戦となったということです。尾張王をはじめ多数の兵士が戦死し、結局狗古智卑狗が勝者となって台与を女王に立てて倭国を支配したと推理しました。狗古智卑狗は卑弥呼の倭国(九州・四国・中国西部)を手に入れ、さらに元々山陰から越までの日本海沿岸部などを支配したので、後世に大国主と呼ばれたのは狗古智卑狗のことだと分かります。

また狗古智卑狗の読みから兵庫県豊岡市の久々比神社の祭神久々遅命(ククノチノミコト)とも考えられます。記紀の垂仁紀に登場する、口のきけなかったホムチワケ皇子の話に出てくる鵠(クグヒ、こうのとり)が神社名になっています。これは真相を誤魔化すための作り話だと直ぐに分かります。久々遅命(ククノチ)は木の霊です。現代でも行われる建物の棟上げ式の祭神です。「日本書紀」・「先代旧事本紀」によると木の神であるスサノヲの子の五十猛命(イタケルノミコト)とも属性が一致し、大国主久々遅彦(狗古智卑狗)が奴国最後の第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ大王)の直系の子孫だと分かります。

Wiki「五十猛命」によれば、『古事記』では高天原を追放されたスサノヲとともに新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に天降ったのだが、スサノヲがこの地吾居ること欲さずと言ったので、一緒に埴土船で渡って出雲斐伊川上の鳥上峯に至った。五十猛神は天降る際に多くの樹木の種を持っていたが、新羅には植えずに全てを持ってきて、九州からはじめて大八洲国に植えたので、日本列島は青山に被われるようになったという神話になっています。

また神奈備「大屋毘古と五十猛について」 の中で以下のように指摘されています。

「素盞嗚尊が埴土で船を造ったが、埴土は製鉄の原料であり、鉄器を作り、造船したと云う意味。出雲の砂鉄の産地の船通山の麓に、伊我多気神社・鬼神神社が鎮座、ここは韓鍛冶の神としての五十猛を祀っている。真弓常忠氏の名著『古代の鉄と神々』では、延喜式1~15の神社を韓鍛冶の齋祀る神としている。」

以上のことから狗古智卑狗は、神功皇后を助けた武内宿禰であり住吉大神でありも大国主命のモデルともなった実在の人物だということです。

二世紀初頭に、最後の奴国王スサノヲが師升ら宮廷楽師のクーデターで敵に捕まった際、恐らくまだ幼いイタケル王子は、スサノヲの弟ニギハヤヒと共に部下のアズミ族かムナカタ族が手引きして逃亡したと考えられます。最初、イタケルはスサノヲ大王と繋がりのある半島東南部ソシモリに逃亡し、そこから海流に乗って出雲か米子に漂着したのではないでしょうか。

スサノヲの母イザナミの実家である米子のムナカタ族に引き取られて成長したのだと考えています。沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を入手できたのはスサノヲのコネだったのでしょう。丹後半島で鍛冶製鉄によって様々な鉄製品を製造し、倭国の領土である北部九州を除く列島各地に供給したと考えています。

鉄製の武器をスサノヲの弟ニギハヤヒに供給して吉備平定を助け、代々出雲・丹波王狗古智卑狗(久々遅彦)としてヤマト王権の基礎作りに貢献したと考えています。また、倭国を攻撃するために、熊本県の阿蘇山麓や大分県大野川流域に鍛冶工房の集落を多数つくり、熊本県菊池川の流域に最前線基地を造って、倭国大乱で活躍したのは大国主の先代の狗古智卑狗(久々遅彦)です。

つまり狗古智卑狗の名はイタケル直系の子孫の王の襲名なのです。玄界灘や日本海沿岸を支配する縄文系海人ムナカタ族の王として、奴国の再興、つまりヤマト建国に活躍した狗奴国の官ですから、記紀では五代の天皇の大臣として仕えた三百歳の老人武内宿禰のモデルとなった人物なのです。「古事記」では大国主命はスサノヲの六世孫とありますが、事実に近いと思います。

日本建国は、大国主久々遅彦に殺された尾張王(タラシナカツヒコ、仲哀天皇)の子(オオタラシヒコオシロワケ、景行天皇)が物部氏の祖の助太刀で仇討し、大国主とその妃台与を殺し、大国主のすべての版図を尾張王らが武力で鎮圧して完成しました。記紀では景行天皇・日本武尊や崇神紀の四道将軍の遠征として伝えています。また、神代では出雲の国譲り神話として、藤原不比等の遠祖タケミカズチに活躍させて、本当の建国の父尾張王の功績を奪う神話を創っています。タケミカズチを鹿島神宮や春日大社でちゃっかりと祀っています(「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照)。

また、記紀では神武天皇に反抗したナガスネヒコを殺して神武の即位を助けたニギハヤヒの話があります。ナガスネヒコは、ニギハヤヒの妃カシキヤヒメの実兄で、ニギハヤヒが降臨する前から大和・河内を支配していた人物ということです。ニギハヤヒは大国主を殺した尾張王の祖ですから、ナガスネヒコは大国主久々遅彦なのでしょう。大和・河内は元々は久々遅彦が開発した土地だったことを示唆しています。

すでに「本当は怖い七福神の謎」で、日本建国の過程で倭国王(伊都国男王)難升米に殺されたムナカタ海人族の姫巫女「卑弥呼」と狗奴国大王卑弥弓呼が追討軍を送り、実際に殺した「大国主久々遅彦」と「神功皇后台与」の霊を大和朝廷が最も畏れたと推理しました。これら三柱のヤマトを怨んで亡くなった貴人が祟り、天変地異などの災害を起こすと考えたのです。

ご皇室との関係が深い宇佐神宮ですが、祭神の八幡大神は建国の真相をあからさまにできないので、応神天皇としています。しかし真の八幡大神は応神天皇の本当の父大国主久々遅彦(狗古智卑狗)だと推理しています。宇佐神宮は大国主狗古智卑狗と神功皇后台与と比売大神卑弥呼の三柱を祀るために創建されたものでしょう。(宇佐神宮の前身は比売大神卑弥呼を祀るために造られたと推理していますが、その詳細は「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。

また、新羅王子アメノヒボコが垂仁天皇の時代に来日し、丹波に住み着いた話が「日本書紀」に残されていますが、「天日矛」と書かれ、日本の神として豊岡市の出石神社の祭神として祀られています。三世紀はまだ半島に新羅は建国されてはおらず、その前身が辰韓ということです。その住人の多くが、江南出身の海人アズミ族や列島出身の縄文海人ムナカタ族(注4)です。紀元前十世紀あたりから前者が倭人と呼ばれていましたが、半島南部で縄文人と混血して、その後縄文系も倭人と呼ばれたと考えています。言葉も倭人の言葉が使われていた模様です。

「三国史記 新羅本紀」第4代脱解王の時代から倭人が辰韓での製鉄を支配していました。恐らく奴国王スサノヲがムナカタ族やアズミ族の部下を連れて弁韓・辰韓から列島に鉄素材を供給するシステムを作ったので、その子孫である久々遅彦(狗古智卑狗)がそれを引き継いだということなのでしょう。脱解王はスサノヲ大王がモデルだと考えています(「新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆」参照)。

大和朝廷などによって幾つもの粉飾された伝承が作られて訳が分からなかった二世紀から三世紀の日本建国の真相がようやく解明されたと考えています。

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【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆



鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有

(注1)壹与か臺(台)与かがよく問題になっていますが、邪馬壹国と邪馬台国で答えが出ています。倭人語では母音が重なる発音はしなかったからヤマイチ国もヤマイー国も存在しないのです(安本美典「倭人語の解読」勉誠出版平成15年,p.15)。ではなぜ邪馬壹国と書かれているのかですが、恐らく「臺」の意味が皇帝を指す場合もあるので、東夷の女王に「臺」を用いるのは魏の皇帝に対して不敬になるので似た字「壹」をあてたというのが正解だと考えています。ですから「魏志倭人伝」の原本は残っていないのですが、原本から書かれていてもおかしくないと思います。でも范曄は魏の皇帝に気兼ねなく「後漢書 東夷列伝倭条」で邪馬臺(台)国と正しく書いてあるので、「臺」で間違いないです。邪馬台国の意味はヤマコクに居城(宮室)を持つ女王(臺)が支配する国という意味になります。それでも重母音を避けて邪馬壹(ヤマユィ)国と主張するならば、その意味は例えば「山のいで湯」の国ということですから、九州山地に数多くある温泉のある場所を指すことになります。しかし、意味的には邪馬台国か邪馬壹国のどちらが相応しいか明かでしょう。

(注2)「日本書紀」に成務天皇48年に31歳で皇太子となったと書かれており、仲哀天皇の父のヤマトタケルが、祖父の景行天皇40年に薨去したと書かれています。その20年後成務天皇は景行崩御後に即位したので、仲哀天皇は父のヤマトタケルが亡くなって20+17=37年後に生まれたという計算になります。つまり、景行天皇から仲哀天皇のまでの話が史実に基づく部分があるとしても、その年代も親子関係も全く信頼できないということなのです。

(注3)Wikiによれば、尾針神社の創建は不詳ですが、一帯は古くは「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地であったとあります。それでも刮目天はニギハヤヒを吉備を平定した奴国大王としているので、ニギハヤヒを祖とする尾張氏は吉備出身ということになります。伊福部氏は因幡にも関係があり、尾張王らの丹波・出雲遠征に従って、住み着いたのかも知れません。尾張王(景行天皇)に従って九州遠征を行った物部一族も北部九州に土着しています。特に宗像付近に物部氏が根を張ったようですが、ムナカタ族の再興を抑えるためだと思います。石見の物部神社も出雲のムナカタ族の再興を抑えるためです。新潟県の弥彦神社付近も同様の目的で尾張氏が土着したと考えています。

(注4)ムナカタ族は列島出身の、縄文時代からの海人族で列島や半島だけでなく、長江河口やもっと南部の越人の地域まで活動して、蛇や鳥を神とする越の文化を取り入れたと思われます。紀元前四世紀に楚によって越が滅ぼされると越人の集団の一部が出雲方面に避難して伝えた可能性もあります。米子市の角田遺跡に鳥の羽根飾りを付けて舟を漕ぐ羽人を描いた土器片が見つかっています。若狭湾東部の敦賀から北陸・新潟までの地名を越と呼ぶのも越人が入植したことを示すものと思われます。


最後までややこしい話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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「申」をなぜ「サル」と読むの?

2021-09-10 17:52:29 | 古代史
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「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!(2020-11-28 19:54:00)に以下のように書きました。

「申」は「いなびかり」を示す字という説明のようです。

『漢書』律暦志によると申は「呻」(しん:「うめく」の意味)。果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされる。
後に覚え易くするために動物の猿が割り当てられた。(Wiki「申」より)

しかし、この説明では良く分かりません。「申」を「サル」と読むのはやはりサルタヒコと関係があるのかも知れませんね。どなたかお詳しい方がおいでなら、お教えください(#^.^#)

これに対して、テレビとうさんからいいコメントを頂きました。

申⇒猿 (テレビとうさん)
2021-09-07 07:39:50
「後に覚え易くするために動物の猿が割り当てられた。」

この「後に」は、いつの事か判りますか?

私の感では「江戸時代」のような気もしますが。
🐵


Re:申⇒猿 (刮目天)
2021-09-07 08:43:21
おはようございます。Wikiにそのように書かれていますが、申は十二支のひとつですね。古代中国で始まった十二支は、早い時期に動物が充てられていたのだとすると相当古いですね。
日本では、720年に完成した日本書記で神の中の神であるサルタヒコが登場しますから、申をサルと呼ぶのは8世紀よりも古いのではないかと思います。猿楽は飛鳥時代に秦河勝が始めたといわれています。やはり、干支が日本に伝わった時期でしょうか。弥生時代後期の伊都国王は孟子を読んでいると推理していますから、その時期には十二支も伝わっているのかも知れませんね。また、何かありましたら、よろしくお願い致します(*^-^*)


これに対して、テレビとうさんから更に謎解きに繋がる以下のいいコメントを頂きました。

申⇒環 (テレビとうさん)
2021-09-07 18:52:44
調べてみると、秦の時代の竹簡で、

/wiki「生肖#歴史」

「…申、環也。…酉、水也。」と書いてあり、「環」が何を意味するのかは分かりませんが、「酉」はツボの中の水(酒)を意味する事から考えると、「環」は水以外の環境、例えば「大地」を意味するようにも思えます。

また、イナズマ⇒申から、自然現象の畏怖を表していたのかも知れません。ここから「神」は理解できるのですが、「サル」に辿り着くことが出来ませんでした。

以上、報告まで。


とのことなので、早速/wiki「生肖#歴史」を調べました。生肖(せいしょう)ということばをはじめて知りました(@_@)

その成立時期は従来、後漢の王充『論衡』にあることから後漢頃とみなされていた。

しかし、湖北省雲夢県の睡虎地秦墓から1975年に発見された竹簡(睡虎地秦簡)のうち卜占に関する『日書』の部分に十二生肖の記述が見つかり、紀元前200年代の秦の時代には既に成立していたことが分かった。

『日書』には次のようにある。

「子、鼠也。…丑、牛也。…寅、虎也。…卯、兔也。…辰、(原文脱落)。…巳、蟲也。…午、鹿也。…未、馬也。…申、環也。…酉、水也。…戌、老羊也。…亥、豕也」

(訳:子とは鼠(ねずみ)である。…丑とは牛である。…寅は虎である。…卯は兎である。…辰は(原文脱落)。…巳は蟲(むし、へびか?)である。…午は鹿である。…未は馬である。…申は環である。…酉は水である。…戌とは老いた羊である。…亥は豕(ぶた)である。)
比較すると「子鼠・丑牛・寅虎・卯兔・亥豕」は現在と一致し、「巳蟲・申環・酉水」も現在の蛇・猿・鶏と関連すると考えられている。ただ、「午鹿・未馬・戌老羊」というところに鹿が入り、その代わり、犬がない。順序も異なっていた。


これを見ると、十二支に生肖が当てられていないのは「申環・酉水」の二つだけのようです。この時代では「申」は「イナズマ」の意味ですし、「酉」も「トリ」の意味ではないようです。

そこでまず「環」を調べると、普通は「リング、ワ」の意味ですが、古代中国の天文関係では「光環」「行星環」を意味し、土星や天王星などの惑星の周りの環のことのようです。ですから、「申(イナズマ)は環也」というのは、中国の占星術では「イナズマ(申)は天体の運行(環)で起こる現象だ」と言う意味ではないかと思います。

そこで、中国の天文学・占星術で用いる二十八宿というのがありますが、これは天球を28個のエリア(星宿)に不均等分割したもので、天の赤道付近の28の星座(中国では星官・天官といった)のことです(wiki「二十八宿」より)。



左上の図が本来の二十八宿を表す図です。右の図と下の表は二十八宿にそれぞれ生肖が当てられています。ここで、四象は「青竜・朱雀・白虎・玄武である。古代中国天文学では「四神」ということが多いが、後世の風水では四象と呼ぶ。」とあります(Wiki「四象(ししょう)」)。七曜は「肉眼で見える惑星を五行と対応させた火星・水星・木星・金星・土星と、日(太陽)・月(太陰)を合わせた7つの天体のことである。七曜星とも言う」とあり(Wiki「七曜(しちよう)」)、四方向にそれぞれ七つの星宿が割り当てられています。その中の金星、日(太陽)、火星にそれぞれ四つの星宿が当てられ、全部で十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の名前の星宮が割り当てられています。

その中の「西方白虎」の七宿の六番目「火星」が觜火猴(申宮)、七番目「水星」が参水猿と呼ばれています(オリオン座のそれぞれラムダ星とゼータ星に対応します)。猿・猴(こう)はどちらもサルです。百度百科「觜火猴」によると「玉帝麾下暗藏两大神猴」とあり、觜火猴と参水猿は道教の最高神「玉帝」に仕える両大神とされていました。これでようやくサルが神と関係づけられました。

玉帝(玉皇大帝)は「中国道教における事実上の最高神で、天界または宇宙の支配者であり、その下の地上・地底に住むあらゆるものの支配者でもある[1]。現在も庶民から篤く崇拝されており、民間信仰や、東南アジアなどの華僑の間では最高神として扱われる。」とあります(Wiki「玉皇大帝」より)。



この図の中央上部に玉帝が描かれています。玉帝の左側が觜火猴で、右側が参水猿でしょう。

そして、二十八宿のひとつである觜火猴に申宮が当てられていることから、十二支の原形を示した『日書』の一部の生肖が割り当てられていない(…申、環也。)の申(イナズマ)がサルと関係づけられたので、「申」を「サル」と呼ぶようになったのだと思います。サルは神の使いどころかサル大神として日本に入ってきたのでしょう。だからサルタヒコ大神が登場するのだと思います。

またもう一つの(…酉、水也。)についても同様に、十二星官の酉宮が二十八宿の昴日雞に当てられているので「酉」を、「雞」はニワトリですが、「トリ」と呼ぶようになったのだと思います。

つまり、最初に二十八宿に生肖が割り当てられており、十二支が二十八宿の十二星宮に割り当てられたことで、十二支にすべて生肖が当てられるようになったということでしょう。(2021.9.11 赤字追加)

いつごろからそうなったかが問題です。Wiki「二十八宿」によれば「考古学上、二十八宿の名称が整った形で発見されたのは、1978年、湖北省随県で発掘された戦国時代初期(紀元前5世紀後半)の曾侯乙墓(曾国の乙侯の墓)から出たものが最古である。そこで発見された漆箱の蓋には青竜・白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があった[1]。」とあります。

ここで、Wiki「玉皇大帝」によれば、玉帝は最初から最高神ではなかったとあり、六朝時代(建康または建業に都をおいた三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称)、『上帝(昊天上帝、天帝とも)が古くから天の主催者として信奉されてきた。道教では「太元」を神格化した元始天尊、次に「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、その後これらに「老子」を神格化した道徳天尊(太上老君)を加えた三柱(「三清」)が最高神とみなされていった[2]。

「玉皇」という名称は古くは六朝の道士・陶弘景の『真霊位業図』の中にみられるが、その地位はあまり高くなく、(途中省略)玉皇大帝が本格的に最高神とされるようになったのは北宋である。』
とあります。北宋は960年から1127年の王朝です。しかし、中国版のWiki維基百科「玉皇上帝」によれば、『「玉皇」這個名稱比太上老君出現要晚一些,魏晉時期有「玉皇道君」與「高上玉帝」兩位大神。』つまり「玉皇大帝」という名前は、太上老君よりも後に登場し、魏晋朝では「玉皇道君」と「高上玉帝」という大神がいたとあります。ですから、両大神をまとめて玉皇大帝(玉帝)としたということですから、すでに三世紀ごろには偉大な神として登場していたということだと思います。

Wiki「二十八宿」「日本における最初の二十八宿図は、7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神の図と共に見つかっており[2][3][4][5][6][7]、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことを伺わせる。」とあります。

そして、申(猿)楽の祖と伝わる秦河勝は、生没年不詳ですが、七世紀、聖徳太子の部下として活躍した人物ですから、その時期にすでに「申」を「サル」と呼んでいたということです。ということは、大国主久々遅彦を分身のサルタヒコ大神として隠したのは、藤原不比等ではなく、秦河勝かも知れません。

何故、大国主命などの神が隠されなければならないのかですが、久々遅彦(狗古智卑狗)を狗奴国ヤマトの卑弥弓呼大王(ヒコミコ、崇神天皇)の命令で尾張王(オオタラシヒコオシロワケ、景行天皇)が殺害したことによって、日本の建国が達成されたわけですが、一方でヤマト王権にとって不都合な面もあったのでしょう。

つまり、落雷や地震・津波・疫病などの災害や、ヤマトの後ろ盾の呉が滅ぼされて、西晋に追討される恐れが生じたのは、大国主をはじめとする、建国の過程で殺された貴人(台与と卑弥呼)たちの祟りだとして怖れたからです。

ですから、大国主やオオモノヌシ、オオナムチ等々の数多くの別名を作り、サルタヒコや事代主、オオヤマツミなどの分身も数多く創作して、その真相を隠して鎮魂の祈祷などを行ったのだと推理しました。これはヤマト王権や朝廷に従う豪族やその部民もですから、朝廷の神祇祭祀だけでなく、民間信仰で大国主やサルタヒコなどの久々遅彦の分身が別々の神として信仰の対象になったと考えられます(注)。民間信仰は当時の先進的な文化を取り入れて活躍した秦氏などの渡来人の影響かも知れません。その後の神仏習合や修験道も根本は同じだと考えています。

【関連記事】
「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!
古代史のカギを握る神々の正体?
天狗の正体もヤッパリ(^_-)-☆
本当は怖い七福神の謎(;一_一)

(注)日本書紀で無視された大国主命の神話は、古事記の編者とされる太安万侶の一族で、古事記を世に出した九世紀の多人長(おおのひとなが)が集めた可能性があります。多人長は朝廷で日本書紀を講義していた人物で、古事記の序文を書いた人物と見られています。古事記が日本人に知られるようになったのは江戸時代の本居宣長からですが、すでに民間信仰や説話などによって人々は建国の真相の一部が伝承されていたようです。明治以降に記紀に基づく国家神道が創設され国史が学校教育でされるようになり、多くの日本人は記紀の内容が日本の歴史だと思うようになっています。しかし、神話や古代天皇の事績などは考古学的には否定されるので、謎となっています。それを科学的に探求しようというのが刮目天の立場ですから、通説とは違うものになっていますが、弥生時代から古墳時代初頭のヤマト王権の成立過程は以下のようになっているのだと推理しました。

【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆


最後までややこしい話にお付き合い、ありがとうございます。
今回は不慣れな道教とか占星術の話ですので、もしも間違って理解していたり、理解不足な点がありましたら、ご指摘ください。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆

2021-09-06 21:27:14 | 古代史
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2021-08-01 14:07:01に公開した記事に<秦氏と能楽の謎>の記事があったのを追加しました。お好きな記事からどうぞ(*^-^*)

「日本は古の倭の奴国」仮説により解けた謎

<正史と記紀神話の謎>
正史は正しい歴史なのか?|д゚)
「魏志倭人伝」を聖典のように考えている研究者が多いが、シナの正史も権力者の正統性を主張するための政治文書なので、どこに歴史の改ざんがあるのかを見抜く必要がある。編纂者の陳寿は史官として当然、権力者にとって不都合な真実を隠したが、歴史家のプライドから「魏志の筆法」として真相解明のヒントを後世に残した。だが、すでに恐らく隋・唐代あたりから現代まで関係史料の原本が戦乱などで散逸し、ほとんど残っていないので、その知識で「魏志倭人伝」をいくら正しく読んでも正解は得られないことは、二十一世紀になっても邪馬台国の場所が確定しないことから証明されている。史書に書かれたものが事実かどうかも考古学などでしか検証できないので、上の科学的な手法によって歴史の真実を推理し、検証して解明するしかないということに気付く必要がある。
日本神話の正体は?(その1) (その2) (その3)<お勧め記事>
史書の中に隠された史実?(^_-)-☆
見ようとすれば「正史」のウソを見抜ける!(*^▽^*)
ヤマトタケルの正体は誰?(^_-)-☆
誤解と幻想の古代史(*^▽^*)
「日本書紀」編纂の真の目的?(;´Д`)
アマテラス大神はヘビだった?江戸時代まで民衆も伊勢の神が誰だか知っていたようです(^_-)-☆
あの諏訪大社の神様も?
ヤマタノオロチの正体もか?
「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!<お勧め記事>


<卑弥呼の謎>
卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)<人気記事>
本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)
卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆
卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか?(^◇^)
卑弥呼の日食が古代史の謎を解くカギ?卑弥呼の死の前後の様子を推理しました。
卑弥呼が見た日食はこれだ(*^▽^*)
卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)
卑弥呼はどのように隠された?(;´Д`)
卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)<お勧め記事>
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)
【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆卑弥呼が日食で殺されたことを示唆するムナカタ族の神社か?
誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)<お勧め記事>
「卑弥呼」神社は五万とあるよ(^_-)-☆
卑弥呼は「ひめこ」と読む?(*^。^*)
弁天様が卑弥呼だよ(^_-)-☆

<邪馬台国の謎>
邪馬台国はヤマタイコクと読まない?(*^。^*)
誤解と幻想の邪馬台国(´・ω・`)<お勧め記事>
シリーズ【新説】邪馬台国はここだ!(その1~5)
シリーズ 邪馬台国 水行陸行の謎?(その1~6最終回)
范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆<お勧め記事>
「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)
邪馬台国問題で短里説はこじつけだ(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
邪馬台国は別府だったのか?!(*^▽^*)

<天皇の謎>
神武天皇はいつ即位した?<お勧め記事>
誤解と幻想の神武東征(^◇^)
万世一系のご存在こそ人類最高の叡智だ!(^_-)-☆
日本が世界の奇跡である理由は?(^_-)-☆
なぜ、ヤマトの大王を天皇としたのか?( ^)o(^ )<お勧め記事>
女性天皇は「記紀神話」の呪いだった(;´Д`)<お勧め記事>
再び、女性天皇はなぜダメなのか(^_-)-☆
【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)
日本の未来のためにご皇室を護ろう!(^_-)-☆

<日本建国の謎>
「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)<お勧め記事>
何故、大和をヤマトと呼ぶのか?<お勧め記事>
【祝】日本建国(令和二年)<お勧め記事>

<倭王帥升の謎>
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)<人気記事>
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆<お勧め記事>やっぱり師升は奴国の司祭だった。
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆<お勧め記事>

<消されたニギハヤヒ大王の謎>
日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )<お勧め記事>鬼叫山で師升たちに復讐を誓ったのは誰だ!
天照大神を男神とする説(^_-)-☆江戸時代の文化人たちは突き止めていた(^_-)-☆
謎の月読神の正体はヤッパリ(^_-)-☆吉備津彦の話で誤魔化してもばれてしまいました(*^▽^*)<お勧め記事>

<大国主と台与の謎>
狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆<お勧め記事>ヤマトを造成した三輪山の神だ!「魏志倭人伝」では狗奴国の官で王よりも先に紹介された実力者でした。大国主でしょう(^_-)-☆
悲劇の女王台与のはなし(その1)(その2)(その3)(その4)<お勧め記事>
本当は怖い七福神の謎(;一_一)<お勧め記事>大和朝廷が最も畏れた神々だった?!
古代史のカギを握る神々の正体?(^_-)-☆
大国主はトビヘビだった(^◇^)
武内宿禰の正体は大国主狗古智卑狗だよ!( ^)o(^ )
大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v
道祖神もやっぱり(^_-)-☆
大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)<お勧め記事>
天狗の正体もヤッパリ(^_-)-☆
御許山の佐用の神の正体は?(^_-)-☆
あの諏訪大社の神様も?(@_@)
庚申塚もそうだったの?

<秦氏と能楽の謎>New
正史のウソを朝廷が告白?(^_-)-☆東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に見せた日本の王年代紀によって、「日本が古の倭の奴国」だったということを告白したので、以後の中国の正史に倭国ではなく日本として記述されるようになった。
箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v箸墓の被葬者はヤマトとトビ(へび=大国主)を怨んでいたはずとみんな思っていた
能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆江戸時代まで猿楽と呼ばれた能楽を大成した観阿弥・世阿弥は秦氏だった。そう言えば奝然上人も秦氏だった。どうも秦氏は歴史の真相を暴露したくて仕方がない氏族だったようです(^_-)-☆
能楽「翁」は大国主のサンバだった?(*^。^*)
能「弓八幡」は何を伝えたかったのか?

<その他の謎>
半島の古代史だ!(漢四郡まで)
新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆
日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆<お勧め記事>
古代日本は海人国家だった(^_-)-☆
どうして日本の古代王墓に墓誌がない?(^_-)-☆
弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?(^_-)-☆


【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆
【刮目天の古代史】仮説を検証する!(^_-)-☆



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変わる弥生時代観!(^_-)-☆

2021-09-04 14:25:54 | 古代史
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弥生時代に10進法利用か 基準10倍の分銅発見 国内初
毎日新聞 2021/9/2 西部朝刊

 福岡県春日市の須玖(すぐ)遺跡群・須玖岡本遺跡の出土物から、弥生時代中期(紀元前2世紀~同1世紀)とみられる石製の分銅「権(けん)」(最大長5センチ、最大幅4・15センチ)が新たに確認された。1日、市教育委員会が発表した。朝鮮半島南部で発見された権と共通の規格で作られたとみられ、基準となる権(約11グラム)の約10倍の重さだった。同規格の弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初。市教委は「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」と話している。
 遺跡群からは2020年、国内最古級となる弥生時代中期前半~後期初め(紀元前2世紀~紀元1世紀)の権8点が確認された。これらは韓国・茶戸里(タホリ)遺跡の基準質量の▽3倍▽6倍▽20倍▽30倍――にあたり、権に詳しい福岡大の武末純一名誉教授(考古学)は10進法が使用されていた可能性を指摘していた。今回の発見で、その可能性がより高まった。
 武末名誉教授によると、これまで古墳時代に10進法を使用していたと考えられる事例はあったが、弥生時代に関してはそうした観点での研究はなかったという。
 須玖岡本遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「奴国(なこく)」の王墓とされ、同遺跡を含む須玖遺跡群は青銅器やガラス、鉄器などの生産工房跡も多数確認されている。当時の先端技術都市として「弥生のテクノポリス」と称される重要遺跡だ。市教委は「権は材料の調合のために正確な計量が必要だった青銅器の製造などに使われていたと考えられる」と説明している。武末名誉教授も「10進法の使用は奴国の先進性を裏付けるものだ」と話している。【上村里花】




辰砂(朱)や塩などの取引に天秤と権(分銅)を利用したと考えられます。中国ではすでに紀元前211年に秦始皇帝が度量衡の統一を行っていますので、その後の中国と周辺国との交易では秦帝国と同じ10進法を用いていると考えられます。珍しいものが産出される東夷の倭国にわざわざ楽浪郡から華僑が来ていたと考えられますので、倭人との交易のために、通訳を介せない場合も何とかして交渉する必要がありました。

既に2015年に以下の内容の記事も報道されていました。「武末氏によれば、これまで海村と内陸副葬地帯の接点があった韓国の茶戸里(タオリ)遺跡から筆、板に書いた文字を消す消しゴム代わりの「書刀(しょとう)」、てんびんの分銅が出土していた。
 加えて、勒島(ヌクト)(韓国)、原の辻(長崎)、田和山(島根)、青谷上寺地(あおやかみじち)(鳥取)の各遺跡から、石硯や研ぎ石なども出土しており、日本や朝鮮半島にあった海村では、交易の場で文字が使用されていた可能性が高まったという。」
古代日本と朝鮮、文字使い交易か 下関でシンポ 産経新聞 地方版 2015/9/6 07:06

さらに、最近の北部九州での硯や木製組机などの発見から弥生時代にすでに漢字が使用されていたと考えられるようになっています。


奴国は王族を伊都国王として派遣し、伊都国の集落を交易センター(市場)として華僑との交易の管理に当たらせていたと考えられます。ある場合は、華僑がこの市場に出入りする倭人に欲しいものをリクエストすると、それを華僑が手に入れるまでに時間が必要です。そこで取引の内容を記録し、倭国王がその取引を保証することにより契約が成立する制度があったと考えられます。伊都国の王都とされる三雲遺跡の番上地区で楽浪郡の土器が集中して見つかっており、華僑の居住区と推定されます。

つまり、西暦五七年に後漢光武帝が「漢委奴国王」の金印を与えた奴国王には、倭国でのこのような華僑と倭人との取引を保証させるためだと分かります。ですから、奴国に対する従来の、列島内に数多く存在する国のひとつという位置づけは全く誤りです。奴国王は倭国で円滑な交易を人々に与えるシステムを管理する倭国の大王なのです(【検証9】奴国時代の話(その2))。

また、三世紀の倭国の様子を記録した魏志倭人伝には「収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之」とあり、租税として取り立てた物品を収める倉庫があり、国々には市場があり、倭人たちは物々交換で交易しています。それを監督する役職が大倭です。おそらく取引税を徴収していたと考えられます。例えば取引される物品の何割かを租税として徴収していたと考えられます。

弥生時代に漢字が使われていたという事実によって、室見川河口で発見された延光四年(125年)などの漢字その他の文字が書かれた銅製銘板「室見川銘板」が偽物という鑑定の根拠が崩れました。これが日本最古の金石文になるかと思います(【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆)。

ですから、刮目天が推理した「魏志倭人伝の行程記事は漢字を知る倭人が魏の役人に書いて教えた内容に基づき、魏・倭両国の政治的な目的で邪馬台国への行程や戸数などが改変された」という仮説を支持するものとなっています。

つまり、景初二年八月に公孫氏が魏の将軍司馬懿によって滅ぼされたので、景初三年六月に帯方郡を訪れた倭国大夫の難升米が司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と朝貢の件で会談しました。そこで、話された内容は、女王が統治する倭国が、孫呉を東の海上から圧迫する位置に在る東夷の大国という設定にすると言うことでした。それによって、倭国のことを知らない魏の朝廷の人々に司馬懿の功績が曹魏第一のものと理解させるためでした。倭国王は魏を後ろ盾として敵対する旧奴国勢力の台頭を抑える目的だと推理できます(【検証22】難升米という人物は?(その1))。

従って魏志倭人伝のこのような政治的な目的を無視して、真実を隠した行程記事をいくら真面目に読んで、正しく解釈しても邪馬台国へは誰もたどり着けなかったということなのです。

そして邪馬台国が見つからないために、卑弥呼神社がないのは卑弥呼が存在しなかったからだという短絡的な説まで登場することになって、邪馬台国問題はとても混乱しています。しかしよく考えれば、中国の正史は外交記録に基づき編纂されますので、実態はどうであれ倭国女王とされた人物の存在を完全に否定することはできません。また、卑弥呼といういわゆる卑字がそのまま神社名になるはずもありません。ですから、文献に書かれた内容の信ぴょう性については、考古学の成果などで確かめながら、推測する以外に手段はありません。

従来から、ある考古学の成果を文献に基づいて評価するのが通常の古代史解明の手法です。しかしその文献の、真実を書いたものではない可能性のある部分については、当然このような手法は使えません。ですから、それを考慮しないと様々な仮説が登場して、検証もされないと仮説は淘汰されず、一体どれが古代史の真相かを知ることができません。まさに現在の混迷した状況です。

そこで、その時代の出来事を包括する仮説を立てて、その仮説によって予測された内容と一致する数多くの事象を探して、個々に仮説の検証を繰り返し、仮説の詳細化・修正・拡張を行うことにより、その時代の歴史を推理する科学的な仮説推論(アブダクション)の手法が有効だと分かりました。詳しくはこちらでどうぞ!

【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆



【検証16】3世紀後半の伊都国だよ(*^^)v



【参考記事】
第3の推論法「アブダクション」とは
RtomyL 2018年10月20日 08:31


古代中国における四則演算の成立 度量衡制度が数学の生みの親である 
宮田 義美 2018 年 9 月 20 日



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鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有

2021-08-23 16:07:08 | 古代史

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弥生時代後期後半と終末期~古墳初頭のデータを公開いたします。以下のリンク(1)及び(2)をクリックしてください。

(1)後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)

(2)終末期~古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)

ご興味のある皆様と意見交換し、有意義な議論によって研究を進展させるのが目的です。

ご疑問に思ったこと、その他ご質問を歓迎します。

なお記号などの詳細は以下の記事をご参照ください。

【検証18】倭国大乱の痕跡だ!

(左クリックで拡大)

(左クリックで拡大)



【検証19】日本建国のための戦いだ!

(左クリックで拡大)

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)

(左クリックで拡大)

【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆




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