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日本ピラミッドの謎?(改訂版)

2020-09-28 00:00:14 | 古代史
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2018-06-12 22:37:32 に掲載した記事に新たな知見を加えて(鬼叫山の後の部分)、全体を整え改訂します。
最後までお付き合いください。

葦嶽山ピラミッド
Report 2010.11.13 平津 豊  Hiratsu Yutaka

「日本ピラミッド」葦嶽山の謎

今回のトピックは題名の日本ピラミッドの話だが、ムー度100%の超古代文明の話ではなく、日本の古代史の謎に関係しているのではないかというヒントがそこにあったので、飛びついた。少し長めの取材旅行だった(いつものようにGoogleMapやネットサーフィンなので、旅費がかからない。でも現場を見てないので思い違いがあったら、是非指摘してくださいね)(*^▽^*)

昭和9年(1934年)に酒井勝軍(1874-1940)という人が書いた「太古日本のピラミッド」の写しを見ることができる。葦嶽山を見て、その山頂に在るとする複様内宮(ふくようないぐう)式のストーン・サークルを持つピラミッドだと叫んだ(口絵参照)(*^▽^*)。その成立年代を「竹内文書」から何と二万三千年前と断定しているようだが、根拠はよく分からない(五九頁)。



ストーンサークルはイギリスのストーンヘンジなどに見られるが、日本では縄文後期(4千年から3千5百年前)の大湯環状列石が知られている。日本にも実は178ヶ所ある、ストーンサークル。しかもその4割があるのは…秋田県ということだが、酒井勝軍も秋田県出身なので、多分小さいころから親しんできたので、オカルトの世界にはまったようだね(*^-^*)

酒井が言うピラミッドの条件の一つである葦嶽山の山頂に置かれた列石はかなり風化して、太陽石も現在は存在しないようなので、複様内宮式の磐境(いわさか)は本当にあったのかちょっと心配だ( ^)o(^ )

もう一つのピラミッドの条件として、ドルメン(供物台)のある拝殿が在ることなのだが、下の案内図にある通り、葦嶽山の北側に巨石群が置かれていて、ピラミッドを遥拝する場所なのだろう。一体どうやって持ってきたのだろうか?大変な作業のようだが。

奥に方位石というのがあって東西の溝が正確に置かれているようなので、どうやって設置したんだろうか?(*^。^*)

そして古代史解明のヒントその1!

その拝殿がある場所が、鬼叫山(ききょうざん)というからムー度満点なんだ( ^)o(^ )

自然物を、精霊が宿る聖なるモノとして祭祀の対象とするのは縄文時代からだが、富士山のような秀麗な山は信仰の対象になるのは分かる。しかし、815mの葦嶽山が祭祀の対象となるには何かがなければならない。頂上を何処から見ても三角形というのは少しだけいいかなと思うが、周辺には同じような山、もっと高い山があって、小さいながらピラミッドだからといって信仰の対象になるはずない!というのが一番の疑問だった!

そこに現れたもう一つのヒントが、何と、登山道の途中のピラミッドを遥拝できる鳥居があって、その神額に、驚くことに「奴国大王」と書かれていることなんだ!そんなに古い神額ではなさそうだが、誰が作ったのだろうか?(*^▽^*)
日本ピラミッド空撮映像

奴国の大王がこの庄原市とどういう関わりがあるというのか?

庄原といえば、その北部の奥出雲・伯耆との境に『古事記』「国生み神話」で伊弉冉(イザナミ)尊が火の神カグツチを生んだために亡くなられて葬られたという比婆山があった(注1)(^_-)-☆

いや、それだけでなく庄原市は西隣の三次市と同様に、出雲と瀬戸内を繋ぐ要衝であり、三次市は、弥生中期から見られる四隅突出型墳丘墓の発祥地じゃないか?弥生後期には、庄原市にも営まれるようになった。その地の首長墓として大型化し、出雲市の西谷墳墓群の出現に繋がっている。そして、重要な点は、吉備に特有の特殊器台・特殊壺が発見され、吉備との強い繋がりを示していることなのだ。

庄原は日本海の出雲と、後のヤマト王権成立に大きな役割を果たす瀬戸内海の吉備とを結ぶ重要な場所。

ということは?
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?で見たように、第18代奴国王スサノヲが帥升(正しくは師升)によって追放された後に、半島南東部の鉄素材を沖ノ島ルートで、出雲から東国の首長間のつながりによって供給して次第に力を蓄えたのが、出雲・吉備を含む東国の旧奴国の勢力だ。首長の権力が強大化することにより、首長墓にそれが反映され古墳時代が起こったと考えている。吉備がヤマト王権成立に指導的役割を果たしたのは、スサノヲの死後、奴国王を引き継いだ弟の天照大神尊(ニギハヤヒ)なのだ。

スサノヲの高天原追放については、例によって「日本書紀」では幾つも説を並べて立て、何が本当なのか分からなくしているが、「古事記」と一致する話が信ぴょう性があるのだと思う(実は「古事記」の方が後に作られたものなのだ、日本神話の正体は?(その1))。

高天原から神々によってスサノヲが「神やらひ」される時の様子だ。たくさんの捧げものをすること、つまり全財産の没収。加えて、髪の毛や手足の爪を剥がされる残酷な刑罰を受けたとある。

「日本書紀」ではスサノヲが高天原を追放された後に、子のイタケルとともに一旦半島に渡り、その後出雲に降り立ち、そこでヤマタノオロチ退治の話になる。しかし、できるだけ真相を暴露したい「古事記」では、スサノヲが半島に行く話は消えているので、直接出雲に降り立ったことになっているのが正解だ。果たして、生きて奴国を脱出できたのだろうか?

しかし、それまで悪事ばかりのスサノヲの唯一の武勇伝が「出雲国風土記」に無いことから、オロチ退治の話はフィクションと考えられる。状況から考えて、スサノヲが生きて脱出できる可能性は低いので殺されたと考えてよいと思う。「日本書紀」の中では、母が死んで葬られた根の国、つまり出雲と伯耆の境の比婆山に行きたいと父イザナギ大王に泣きつき、勝手にしろと追いやられたという話もあり、スサノヲが本当は、殺されたことを示唆するものだったのかも知れない。

スサノヲが師升らに捕まったことを知り、スサノヲの部下のアヅミ族のひとりが脱出する際に「漢委奴国王」の金印を宮殿の保管場所からこっそり取り出して、志賀島に埋めたようだ。イタケル王子とニギハヤヒはムナカタ族の手引きで命からがら逃亡し、ようやく出雲に落ち着き、そこで今後のことを相談したのだと思われる。

まだ若いイタケル王子はムナカタ族とともに、父スサノヲが開発した半島南部の鉄を確保するために、沖ノ島経由で玄界灘を渡ったと思われる。そして入手した鉄素材から農具・漁具や武器を製造する冶金工房を丹後半島で整備し、上述のとおり取り敢えず、奴国再興を決心したニギハヤヒに鉄製武器を供給した模様だ。瀬戸内海航路の重要な潮待ちの場所で、弥生中期後半には塩田が造られている吉備を手に入れようと、鉄製武器の軍団を整えて向かったようだ。吉備を襲撃するに先立ち、葦嶽山に立ち寄って、山頂にストーンサークルを築き、葦嶽山のすぐ横の鬼叫山に巨石を運び祭壇を築き、スサノヲの死を悼み、奴国再興を誓ったのだろう。

鬼叫山で、ニギハヤヒらが泣き叫びながら、師升らを呪い、大声で喚きながら復讐を誓った様子が瞼に浮かんでくる( `ー´)ノ

ニギハヤヒは吉備の在地の豪族との抗争の末、吉備を平定し、支配権を握ったのだろう。その伝承が桃太郎の鬼退治の元ネタになったようだ。どうも藤原不比等がニギハヤヒの痕跡を消す工作をしたと思われる。葦嶽山の麓の蘇羅比古神社(庄原市本村町)の名前蘇羅比古(そらひこ)は「そらみつヤマト」と謳ったニギハヤヒを連想させるものなのだ。しかし「日本書紀」に合わせて、地元とどういう関係があるのか分からない日向三代の神話のホオリノミコト(山幸彦)と孫の神武天皇が祭神とされて、さらに十三柱もの配神もオールスターの顔ぶれだから、如何にも本当の祭神蘇羅比古ニギハヤヒを隠すために配祀したようだ(注2)。

さらに、備中国一之宮吉備津神社(岡山市北区吉備津)に残された本当はニギハヤヒの伝承を、凶悪な百済王子温羅(うら)を破った、第七代孝霊天皇の皇子イサセリヒコ(大吉備津彦)の話を創作して書き変えたのだと推理している(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)。孝霊天皇は欠史八代の天皇で、実在人物ではないことはすでに明らかにした(古代史の謎を推理する)。

吉備津彦に名前を変えられたニギハヤヒが備後国一之宮吉備津神社(福山市)でも祀られていることから、葦嶽山で祭祀を行って吉備入りしたニギハヤヒの移動ルートが想像できる。ニギハヤヒは出雲の斐伊川を上って奥出雲から西条川で比婆山を経由して庄原に入り、中山峠を通った模様だ。中山という地名は奴国と同じナーガ(龍蛇)神に因む名前の山なのだ。さらに帝釈峡に出て、一気に高梁川方面に向かわず、南下して備後国一之宮(福山)に入ったのだろう。そこで軍勢を一旦整えて海岸沿いで倉敷に出て、足守川上流の鬼ノ城(総社市奥坂)付近の在地豪族を襲撃したのだろう。当時は福山から倉敷は海だったようだから、夜陰に紛れて奇襲したのだろう。温羅との戦闘の模様は備中国一之宮吉備津神社の伝承があるから、大体想像できるよ(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*))。



そういえば、古墳が多数あることでも知られている吉備中山の西麓に鎮座する備中国一之宮吉備津神社。同じ中山の北麓に備前国一之宮吉備津彦神社が寄り添うように造られている。両社の祭神の吉備津彦は奴国大王ニギハヤヒだということが分かるのだ。


御領の古代ロマンを蘇らせる会 吉備ドライブ② より


そして備前一之宮は実は吉備津彦神社の他にも二社もあるようで、その一つがなんと、石上布津魂(いそのかみふつのみたま)神社だから吉備津彦の正体が物部氏と関係あることが直ぐに分かる。「日本書紀」にスサノヲがオロチを退治した天十握剣(あめのとつかのつるぎ)がこの神社から奈良県の石上(いそのかみ)神宮に遷され主祭神のひとつ布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)となったという話があり、吉備津彦がニギハヤヒだとばれてしまう。なので、もう一社安仁(あに)神社が後で作られたのだろう。祭神を神武の兄の五瀬命として唯一名神大社とされているからニギハヤヒの話を誤魔化すためだと直ぐに分かるんだ。そういえば鬼叫山の巨石群にも神武岩というのがあるが、これもカモフラージュだよ(^_-)-☆

葦嶽山に日本ピラミッドを作って祭祀を行ったのは奴国の大王ニギハヤヒに決定だ(^◇^)

皇祖神天照大神は女神ではなく物部氏の祖ニギハヤヒのことだった!


【参考記事】
「日本ピラミッド」葦嶽山の巨石探索1-12
2015年12月7日から2016年1月12日まで12回連載されています。日付はトビトビで辛いですが、内容豊富です(#^.^#)

日本の葦獄山のピラミッドはオーパーツ?古代文明の名残りか?
2016/2/10 2017/5/27 世界の不思議


(注1)もう一か所、安来市伯太町に比婆山に比定される場所がある。その隣の米子には宗形神社があり、九州の宗像大社の本家だという説があるようだ。

刮目天は宗像大社の伝承「ムナカタの子はスミヨシ。その子はウサ」から、住吉大神(スミヨシ)は海を治める奴国の大王スサノヲと同一であり、スサノヲの母イザナミは卑弥呼と同族の宗像海人族と考えている。したがって、庄原市の比婆山よりも水運の便の良い比婆山久米神社奥宮がイザナミの陵墓である可能性が高いと考えている。しかし、九州の宗像大社か伯耆の宗形神社のどっちが本家かは分からないが、発祥地、つまり元祖は九州の鐘ヶ崎だろう。卑弥呼は元祖宗像のイチキシマ姫かな(^_-)-☆

(注2)蘇羅比古神社(そらひこじんじゃ)の御祭神は、天津日高日子穗穗手見命と神倭伊波禮毘古命。品陀和気尊・倭健命・大倭根子日子賦斗邇命・志那都比古神・志那都比賣神・宇迦之御魂神・大山祇神・手力男神・須佐之男神・奧津比古神・奧津比女神・大国主神・陣具大神を配祀する。神社と古事記 より)

奧津比古神は山神社の祭神ですから、大山祇神のこと。大山祇も大山咋も正体は大国主でしたでみたとおり、奧津比古神は大国主の分身です。ですからペアの奧津比女神は、稲荷神社の祭神宇迦之御魂神の正体の台与ということです。

志那都比古神・志那都比賣神もペアですから大国主と台与のことだと思います。『古事記』において、イザナギとイザナミによる国産み、島産みが終わった後、神産みの十番目に生まれた風の神。神名の「シナ」は「息が長い」という意味。風は神の息から起きると考えれら、風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。そのため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになった。「神社と古事記 シナツヒコ」にありました。息長氏は台与の実家です。縄文海人ムナカタ族の一族ですよ。



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日本の歴史の始まりはこうだ(その4)

2020-09-26 00:13:19 | 古代史
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前回の続きですが、スサノヲ(素戔嗚尊)の弟ニギハヤヒ(饒速日尊)と王子イタケル(五十猛)はムナカタ族に助けられ、師升らのクーデターを逃れました。

「日本書紀(神代上一書第四)」によると、スサノヲが追放されて「その子である五十猛神を率いて、新羅の国に降りられ、曽尸茂梨(ソウル)にお出でになった。そこで素戔嗚尊は、「この地には私は居たくないのだ」と不服の言葉を言われて、土で舟を造り、それに乗って東の方に渡って、出雲の国の簸(ひ)の川の上流にある、鳥上の山に着いた。」とあり(日本書紀・日本語訳「巻第一:神代・上」より)、そこでヤマタノオロチの話につながります。

「古事記」にも、「出雲国の肥の河(簸の川=現在の島根県東部を流れる斐伊川)の川上、名を鳥髪(島根県仁多郡の鳥上村、現在は奥出雲町の一部)という地に降りました」とありますが(【古事記】(原文・読み下し文・現代語訳)上巻・本文 その弐より)、スサノヲらがソウルに行く話が消えていますので、「日本書紀」のそれは作り話でしょう。そしてスサノヲのオロチ退治は、出雲神楽(島根県出雲市)だけでなく石見神楽(島根県浜田市)や庄内神楽(大分県由布市)の人気の演題として現在までの残っていますし、「出雲の国風土記」にはありませんので、天皇家の三種の神器のひとつ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の長い由緒を述べるために作られたフィクションではないかと思います。スサノヲはすでに師升に殺されたはずですから(;´Д`)

イタケル王子はムナカタ族に育てられて山陰から丹後半島までを支配する出雲・丹波王となったようです。イタケル直系の子孫が代々久々遅彦(狗古智卑狗)を襲名し、半島南部の鉄素材を入手して、丹後半島などで鍛冶工房を整備して鉄器を製造したと考えています。「日本書紀」では、「はじめ五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種をもって下られた。しかし、韓地には植えないで、すべて持ち帰って筑紫からはじめて、大八洲の国の中に播きふやして、全部青山にしてしまわれた。このため五十猛命を名づけて、有功(いさおし)の神と称する。紀伊国にお出でになる大神はこの神である。」と言うことで、「木の神」とされています(日本書紀・日本語訳「巻第一:神代・上」より)。鍛冶炉の燃料となる大量の木材を確保するために植林も行ったということでしょう。

久々遅彦は兵庫県豊岡市の久々比神社で祀られており、イタケルと同様に木霊とされ上棟式の祭神とされています(注1)。その地に日撫(ひなど)という変わった名前の地区があります。また、米原市にも日撫(ひなで)神社があり、ご祭神は少彦名命、息長宿禰王、応神天皇という変わった取り合わせです。少彦名命は大国主と国造りした神で、息長宿禰王は神功皇后の父です。神功皇后は大国主久々遅彦が女王にした台与をモデルとして創作された人物です。応神天皇の母ですが、父親は仲哀天皇ではなく武内宿禰=住吉大神であり大国主です(ヤマトタケルの正体は誰?)。仲哀天皇はヤマト勢の有力者の尾張王をモデルとする架空の天皇です。先述のとおり、スサノヲの子イタケルの子孫が代々久々遅彦を襲名して、最後の久々遅彦(スサノヲの五・六世孫)がヤマトに国譲りした大国主です。大国主は卑弥呼の死後、尾張王との内戦に勝利し、十三歳の台与を女王に立てて魏を後ろ盾にすることにより倭国を支配した人物です。また後で述べますが、三世紀末に大国主久々遅彦と台与の倭国は狗奴国ヤマトに滅ぼされます。ヤマト政権は大国主と台与の祟りを最も畏れることが分かります。大国主・台与と最初の女王卑弥呼は「日本書紀」を完成させた藤原不比等が権力を維持するために一番隠したい日本建国の史実の主役なのです。

一方、ニギハヤヒが出雲から吉備に入る途中に日本ピラミッドのひとつ葦嶽山(広島県庄原市本村町)で祭祀を行った形跡があります。山頂にストーンサークル(複葉内宮式磐境)を築き、さらにその横の鬼叫山に多数の巨石を運び、祭壇を造ってスサノヲの追悼を行い、師升ら裏切り者への復讐を誓ったのだと推理しました(日本ピラミッドの謎?)。実は庄原市本村町に「蘇羅比古神社」がありました。祭神は天津日高日子穗穗手見命と神倭伊波禮毘古命の二柱で、ホオリノミコト(山幸彦)と孫の神武天皇ですから、「日本書紀」の日向三代の神話に合わせていますが、庄原市との関係は皆目わかりません。また配神は余り聞きなれない神も含め十三柱も祀っていますが、ほとんど「日本書紀」の神々のオールスター揃い踏みという感じで、如何にも怪しげです(注2)。

ところが、ご存知のとおり「そら見つ」が「やまと」にかかる枕詞ですのでソラヒコという神社名から直ぐにニギハヤヒが思い浮かびます。つまり、神武よりも先に天磐船に乗って天孫降臨したニギハヤヒが山上からヤマトの景色を見て、「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」と感嘆した故事が日本の国号の起源と知られています(Wiki「ニギハヤヒ」より)。日本建国の史実を誤魔化すのが「日本書紀」の真の編纂目的と分かっていますので、藤原氏の命令で祭神や配神を変えられた蘇羅比古神社の本当の祭神はニギハヤヒだと直ぐに分かります。配神の中でも目を引くのが大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)で第七代孝霊天皇のことです。温羅を退治して吉備津彦と云う名前を貰ったイサセリヒコの父ですので、祭神名を強権で変更した藤原氏に反発したニギハヤヒゆかりの人がヒントを残したのかも知れません(卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろうで述べましたが、建国の史実を示唆する神社名を不比等によって変更させられたとみています)。

ニギハヤヒは、イタケルらの援助で鉄製武器を手に入れて、吉備を平定し、奴国大王に即位し(第十九代天照大神尊)、ヤマト政権の基礎を築いたと推理しています。「先代旧事本紀」に登場する物部氏の祖天照国照彦天火明櫛玉饒速日命のことです。倉敷市の足守川や岡山市の旭川下流域の弥生後期の集落から鉄鏃などが大量に出土しています(川越哲志「弥生時代鉄器総攬」電子印刷2000,pp.91-97)。吉備の児島辺りは早くから製塩が行われており、瀬戸内海航路で九州と近畿を結ぶ中間に位置し、潮待ちのために人々が集まる場所ですので、奴国を再興するために在地の豪族から支配権を手に入れました。その話が桃太郎の鬼退治の元ネタと言われる吉備津彦の話になりました(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)。

後期後葉(二世紀初頭)に起こった奴国のクーデター以後、従来の対外交易に使われていた伊都国・壱岐・対馬から楽浪郡への対外交易ルートを師升王が抑えてしまったので、久々遅彦は不弥国(うみこく、宗像市から新宮町の沿岸部)から沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を入手し、鉄製品の農耕具・漁具や鉄製武器を製造しました。九州以東の列島各地の首長は、鉄製品を入手するために出雲・丹波王久々遅彦との血縁などのコネが必要となりました。これによって各地の部族内での首長の権力も拡大し、首長の資質の父子相伝が行われ、血統による支配構造が確立されたものと考えられます。

それにより部族内の祭祀も首長の祖霊が特別な地位を持つようになり、首長霊祭祀が部族の中心的な儀礼となります。首長の権力の大きさを誇示するために大型の墳墓が全国的に出現するようになり、古墳時代を迎えたのだと考えられます。最初に日本海沿岸に発生した大型四隅突出型墳墓丹後地方などの方形貼石墓がその後の古墳の原形となりました。三世紀初頭に大型方墳に祭祀用と思われる張り出し部を取り付けた前方後方墳が近江から東海、そして河内平野に造成されるようになり、近畿地方、関東地方へも普及するようになりました。祭祀儀礼を同じくすることにより、首長の系列化が進んだと思われます。

時代を元に戻して、弥生後期後葉の出雲地方に見られる大型四隅突出墓「西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混入していた」wiki「四隅突出墓」にあり、吉備などとの繋がりを示しています。山陰東部と北陸や内陸部の福島辺りまでがムナカタ海人族を率いるスサノヲ大王を祖とする久々遅彦の支配域と考えられます。



後期後葉の同じ時期の吉備では直径約43メートル、高さ4、5メートルの円墳に方形通路のような突出部を双方に取り付けた全長72メートルの楯築王墓が造られています。木棺の底に厚く朱が敷かれ、鉄剣と大量のガラス小玉、土製の勾玉などの副葬品や円筒型特殊器台などで飾られ、墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫帯がめぐらせてあります。吉備で勢力を蓄えてヤマト王権の基礎を作ったニギハヤヒ大王の墳墓だと考えられます。

墳丘に建てられた楯築神社の御神体の弧帯文様が彫られた亀石が中国神話の天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。纏向遺跡で出土する弧文円板や円筒型特殊器台と葬送儀礼が共通しますから、ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の起源が楯築王墓と考えられます(【検証2】前方後円墳のルーツ?)。

(注1)Wiki「上棟式」によれば、「祭神は屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)、手置帆負命(たおきほおいのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)および当地の産土神である。」とあります。屋船豊宇気姫命は豊受大神であり、女王台与のことです。手置帆負命は「古代の建築技術者、また笠・矛の製作専門技術者。」、彦狭知命も「古代の建築技術者、また盾の製作専門技術者。」ですから、専門技術者集団を率いる大国主久久遅彦を指すとも考えられます。「屋船」は宮殿を意味する古語です。上棟式は、大国主と台与が宇佐市安心院町佐田で国造りに先立ち宮殿を造る時に神へ成功を祈願した故事に由来するものでしょう(大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?)。

(注2)蘇羅比古神社(そらひこじんじゃ)の御祭神は、天津日高日子穗穗手見命と神倭伊波禮毘古命。品陀和気尊・倭健命・大倭根子日子賦斗邇命・志那都比古神・志那都比賣神・宇迦之御魂神・大山祇神・手力男神・須佐之男神・奧津比古神・奧津比女神・大国主神・陣具大神を配祀する。神社と古事記 より)

奧津比古神は山神社の祭神ですから、大山祇神のこと。大山祇も大山咋も正体は大国主でしたでみたとおり、奧津比古神は大国主の分身です。ですからペアの奧津比女神は、稲荷神社の祭神宇迦之御魂神の正体の台与ということです。

志那都比古神・志那都比賣神もペアですから大国主と台与のことだと思います。『古事記』において、イザナギとイザナミによる国産み、島産みが終わった後、神産みの十番目に生まれた風の神。神名の「シナ」は「息が長い」という意味。風は神の息から起きると考えれら、風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。そのため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになった。「神社と古事記 シナツヒコ」にありました。息長氏は台与の実家です。縄文海人ムナカタ族の一族ですよ。


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再び、女性天皇はなぜダメなのか(^_-)-☆

2020-09-24 22:36:58 | 古代史
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特番『女系天皇はなぜダメなのか?』 ゲスト:国史啓蒙家 小名木善行氏
2020/09/19 松田政策研究所チャンネル


征服王が世界の王室の起源というのは正しいと思いますが、日本だけが助け合い精神で天皇ができたというのは事実ではありません。確かに従来の、現存する最古の正史「日本書紀」は正しい歴史だという考え方に従えば、そのような解釈も正論なのでしょうが、日本の建国の過程を考古学の成果に基づき調べていくと「日本書紀」が、従来思われていたいたような正しい歴史ではないということが明確になりました(古代史の謎を推理する)。

アマテラスは創作された女神でしかなく、実在していません。

アマテラス女神が創作だという事実はねずさんを始めとして、ほとんどの日本国民にとって受け入れがたい非常にショッキングな事実だということはわかりますが、なぜこの事実を受け入れられないのか、その理由は明らかです。

これは、明治政府が西洋列強の日本植民地化に抵抗するために国民意識の統合から記紀神話に基づく国家神道を創設し、国民教育によって国民に深く浸透させたからです。

平安時代まではかなりの人々が建国の歴史を知っていた模様です。建国時代に不幸な死に方をした人物(大国主・台与・卑弥呼)が祟ると信じていたので、天変地異や疫病が起こる度にゆかりの神社に勅使をおくり、神階を上げて鎮魂の祈祷を行っていました。日本の神道、仏教導入・神仏習合・修験道などもすべて怨霊の鎮魂から生まれたと突き止めました。室町時代くらいまでは日本建国の真相を知っていた人がいました。能楽の観阿弥・世阿弥も真相を伝えるのがひとつの目的です(能楽が建国の真相を伝える?能楽「翁」は大国主のサンバだった?)。江戸時代まで天照大神は男性神という事実に気付いていた荻生徂徠などの文化人・知識人も居ましたが、明治時代以降、すべて「記紀」に基づく皇国史観に塗り替えられたので、神話と歴史が区別できなくなってしまったからなのです。

そのために、アマテラス女神の存在が女系天皇を容認する根拠ともなっている弊害には言及されていないのでしょう。

つまり、現存する皇室は、アマテラス女神を初代の女性天皇と見ることも出来るので、他に適当な皇嗣がいないのなら内親王をアマテラス女神と見なし、すでに歴史上8名も居る9番目の女性天皇に即位してもらい、すでに臣籍降下した旧宮家に適当なお相手がいないならば、一般男性と結婚し、子を儲けて次の天皇にしても、国民統合の象徴としての天皇を存続させれば憲法上問題はないと単純に考える根拠になってしまっているのです。

これが女系天皇容認論の正体でしょう!(注1)

しかし、持統天皇の前の二人の女帝も、アマテラス女神の創作と同様に、鵜野讃良(うののさらら、持統天皇、天武帝皇后、天智帝皇女)の皇位簒奪を正当化するための「前例のねつ造」だということが、万葉集研究家の渡辺康則氏によって明らかにされました。持統天皇の後に女性天皇が五名いますが、天皇の宮中祭祀を完全には行えないのです。間違った前例によってですが、即位したことにしています(注2)。

ヤマトの大王(天皇)が三世紀末に最初に即位してから

皇祖神の霊と一体化し

国家の安泰・国民の安寧を祈る
祭祀王なのです(勿論、奴国王だった皇祖神は全て男性です)。

ですから皇統の男系男子以外には天皇(祭祀王)になれないのです。

かつて未婚の女性皇族の斎王・斎院制度がありましたが

祭祀王である男性の天皇(ヤマトの大王)とは儀礼上の役割が違うのですから、

女性は役割として斎王(巫女)になれても天皇(祭祀王)にはなれないのです。

ですから、8名の女性天皇は皇統譜からすべて削除すべきなのです。

したがって、次の世代は悠仁親王殿下のおひとりしかおられないので、殿下の重圧を少しでも軽減するために、旧宮家の8名の男性の中から皇族に復帰していただくのが最良でしょう。


(注1)反日国家や反日日本人の工作によって、世界最古の皇室を破壊したい目的もあるのだと思います。女系天皇の正体は、結婚した一般男性の子供が次の天皇になるので、易姓革命なのです。したがって、もしもそれが反日国家をルーツとする男性であれば、天皇の権威を利用して合法的な日本乗っ取りの謀略ということも警戒しなくてはなりません。

(注2)宮中祭祀においては今なお伝統を重んじ、「何人たりとも常に清浄な状態でなくてはならない」とされる。

賢所で祭祀に携わる内掌典は、外出時には下界の「穢れ」を宮中に持ち込まないよう専用の衣服に着替える[10]。死も「穢れ」とされるので、内掌典は拝命時、身内が危篤に陥った際にはまだ命のあるうちに宮中を離れるようあらかじめ厳命される[10]。身内の訃報を宮中で聞いた内掌典は「穢れ」となるので、着ていた着物などは全て処分しなければならないという[10]。そして、女性特有の出産や月経も、神道においては「穢れ」である。月経は「まけ」と呼ばれ、最も穢れた状態とみなされる[10]。

さて、天皇は「祭祀王」であり、歴史的に見るとその最も重要な務めは神事であったとされる。しかし、女性であるがゆえの「穢れ」が定期的に生じるのを避けられないがために、江戸時代の女帝たちは、天皇の本質的部分である祭祀を、不安定、不十分な形でしかおこなえなかった[11]。
とあり(wiki「女性天皇」宮中祭祀より)、

女性差別の問題ではなく、男女の役割の違いと理解すべきです!

【関連記事】
女性天皇は「記紀神話」の呪いだった



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日本の歴史の始まりはこうだ(その3)

2020-09-23 02:23:51 | 古代史
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日本列島の水田稲作はすでに述べたように紀元前十世紀後半に北部九州で始まり、前九世紀ごろには環濠集落が見られます。集落に有力者が出現するようになるのが、一般の人と区別して墓に葬られるようになることから分かります。理由はよくわかりませんが、武器で殺傷された人の墓が見られることから抗争もすでにこの頃から始まった模様です(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書2015,pp.66ー71)。

前八世紀後半になってようやく西部瀬戸内、山陰西部や鳥取平野、河内平野、徳島平野、伊勢湾岸地域などにも水田が見られるようになり弥生前期後葉(前六世紀頃)までに各地で水田・畑作農耕が広がっていきます(藤尾、pp.72-80)。江南にルーツを持つ水田稲作民で海洋民族でもある安曇族が遠賀川式土器を持って各地に広がり、徐々に在地の縄文系の人々も彼らと交流し水田稲作を始め、遠賀川系の土器を作るようになったと考えています。下の図は安曇族ゆかりの地をプロットしたものですが、この他に四国や中国西部などにも安曇族が進出していることはナーガ(龍蛇)神に因む地名(那珂、那賀など)によって分かります(日本は古の倭の奴国だ古代日本は海人国家だった)。



すでに縄文時代から玄界灘・日本海沿岸部を拠点とするムナカタ海人族が列島太平洋沿岸や沖縄・南西諸島や半島南部などとの物流を担っていた模様で、紀元前十一世紀頃から江南出身の呉(倭)人や越人とも半島南部で交流はあったようです。

後漢から金印を貰った奴国は列島内の産品の対外交易を管理する必要からムナカタ海人族の部族長一族と婚姻関係を結ぶことにしました。第十七代奴国大王の伊弉諾尊と縄文系ムナカタ海人の姫伊弉冉尊との婚姻によって両者の文化の融合が急速に進み、日本民族が本格的に形成され始めたのだと思います。日本の始まりとなるこの事件は国生み神話として記憶されたのだと思います。

恐らく、それまでの奴国の大王は北部九州に留まって、主に部下のアズミ族が列島各地の資源(木材、朱や塩など)を求めて図のように日本各地に集落を作って、その土地の産物を奴国の交易センターに運んでいたのでしょう。伊弉諾尊はムナカタ族やアズミ族の案内で、自ら積極的に壱岐や瀬戸内海や日本海沿岸を視察し、各地の開発を命じたのではないでしょうか。

そして伊弉諾尊と伊弉冉尊から生まれたスサノヲ大王は母方のムナカタ族と共にしきりに半島南部に渡り、製鉄冶金工房で板状鉄製品を素材として入手して、列島内の適所に鍛冶工房を整備したと考えられます(新羅の脱解王が奴国大王?)。

弥生後期前葉に(一世紀末ころ)急に大型化した銅鐸(IV式:突線紐式)が近畿地方で広がりました。それまでの銅鐸の利用法は、木の枝に吊るし、銅鐸内部に木などで作った舌を紐で引っ張って音を出して「聞く」目的でした。鳥栖市の安永田遺跡からも銅矛の鋳型と共に銅鐸の鋳型が見つかっていますので、奴国の祭祀で使用していたものと考えられます。恐らく徐福に同行した冶金工人によるものでしょう。

ところが、スサノヲ大王の時代になって、この小型の「聞く銅鐸」から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的の「見る銅鐸」へと変化したということです。農耕・稲作祭祀における穀霊信仰にどういう変化が生じたのかは定かではないですが、この頃に近畿で祭祀様式に急激な変化が起こっているということです。


滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土_突線紐V式銅鐸


スサノヲについては記紀神話でかなり多く語られています。縄文系の風貌をして、乱暴者で、母イザナミの死を嘆き、イザナギから見放される泣き虫のキャラクターが定着しているようです。しかし女神アマテラスは創作ですので、高天原を追放される話は奴国の人々に乱暴を働らいたのでスサノヲの身に何らかの異変があったことを示唆しています。

スサノヲが伝統的な奴国王家の祭祀に縄文系の「見る銅鐸」を持ち込み宗教改革をしようとしたのではないでしょうか。宮中の祭祀を取り仕切る司祭師升らの、見た目もとても奴国大王とは思えないスサノヲへの反発から、クーデター事件が起こったと考えられます(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)。師升らはスサノヲが留守の間に仲間たちと打ち合わせて、いつもの旅行から宮殿に帰還した警戒心の全くないスサノヲ大王を捕らえたのでしょう。

師升は奴国王の金印が手に入ればそのまま倭国王として振る舞えると考えたのでしょう。金印の在りかをスサノヲに白状させようと、髪をむしり、手や足の指の爪を剥がす拷問をした模様です。拷問して財産を没収した様子が記紀に描かれています。スサノヲも金印の在りかが分からないので、師升はスサノヲを殺してしまったようです。

恐らくスサノヲの側近のアヅミ族のひとりが、スサノヲが捕まったことを知り、素早く金印を王宮の保管場所から持ち出して、奴国を逃亡する途中で志賀島に埋めたものが江戸時代になって発見されたのでしょう。イタケル王子やスサノヲの弟ニギハヤヒもムナカタ族の手引きで素早く丸木舟で脱出したようです。二人はこの後の物語に登場する重要人物です。

結局、師升は金印を手に入れることが出来なかったのでしょう。後漢から倭国王として認めてもらうために、捕らえた奴国王族や部下を160人、素潜りなどの特技のある奴隷ということにして、大船団を組んで後漢安帝に献上するために洛陽まで朝貢しましたから大変な苦労でした。107年のことです。これによって、約五百年間続いた由緒ある奴国王の支配する倭国から、新たに師升王が支配する倭国の時代に変わりました。

このクーデターは日本の歴史上かなり重要な事件ととらえることが出来ます。約一万四千年前に揚子江下流域で発生した長江文明の流れを汲む奴国王イザナギと、約一万六千年前に日本列島で起こったと言われる縄文文明の流れを汲むイザナミ姫が結婚して、前述のとおり二人の間に生まれたスサノヲが奴国王となったのですが、宗教改革を行おうとしたために事件が起こったのだと考えられます。それによって二つの文明が衝突して新しい日本文明が生まれたということです。その結果、列島内部に相当大きな軋轢が生じ、二つの異なる民族がひとつになるためにおよそ百年間の日本で最初の戦乱の時代が訪れることになります。この時代の記憶が日本民族の心の大きな傷として残され、はるか先の二十一世紀の現代にも少なからず影響しているようです。争いのない世界だった縄文時代のままでいた方が日本人は幸せだったでしょう。日本は近代化し物質的には豊かになったかも知れませんが、日本が進化したとか、進歩したなどと胸を張ることはとてもできないような気がしますね(;一_一)。


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日本の歴史の始まりはこうだ(その2)

2020-09-20 10:34:32 | 古代史
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ここで、弥生時代を特徴づける古代の鉄については、幅広く相当深い情報がありますのでとても十分にまとめきれませんが、重要だと思う点についてまとめてみましょう。専門用語が出てくるので難しく感じるかもしれませんが、古代史の解明で特に大事なポイントですので、どうぞ最後までお付き合いください(^◇^)


弥生中期初頭「前4世紀前葉に可鍛鋳鉄系の鉄器が現れても200年ほどはノミ、刀子(とうす)などの小鉄器がほとんどで、その用途も木製品の細部加工に用いられるのが主で、開墾や大量の木材の加工に鉄器が用いられたわけではない。石器が主で鉄器が保管する関係が200年ほど続いたものと考えられる。
 なお、前3世紀(中期前半)になると北部九州に軟鉄系の鍛造鉄器が現れ始める。鉄器が本格的に使われるようになるのは九州北部でも前2世紀以降(中期後半)からである。まず武器では剣が鉄器化したことが、殺傷人骨の残された傷の痕からわかる。鉄の先端が骨にあたっても石剣や青銅剣のように切先が折れずに骨をえぐることができるため、殺傷能力が増したと思われる。」
とあります(藤尾慎一郎「弥生時代って、どんな時代だったのか?」朝倉書店2017、pp.84-85)。

更に、弥生中期に現れた奴国の大都市比恵・那珂遺跡では鉄製品が大量に見つかっており、「特に開墾用の鉄製鍬先の装着率が100%をほこり、これぞまさしく生産力を可能とした直接の証拠とされる鉄器(打鍬、鉄刃農具と呼ばれている)である。」とあり、前述のとおり北部九州では中期末に穂摘鎌を除いてすべて鉄器化するとあります(【検証9】奴国時代の話(その2))。

この時期から北部九州で板状鉄製品が見られますが、すでに述べたように半島南部からのものです。「朝鮮半島南部では前4世紀中頃から九州北部の弥生土器が出土するようになり、中には鍛冶遺構で見つかる場合もある。」とあり(藤尾p.68)、西日本で鉄器が現れる時期と一致しており、倭人が半島南部に渡って入手していたことを示しています。また前3~前2世紀(弥生中期中葉~末葉)には半島南部慶尚南道の勒島遺跡で高温鍛冶作業が行われ、鉄器の素材となる板状鉄製品を作られていたとあり、高温炉での精錬工程が存在した可能性もあると指摘されています。

北部九州では弥生中期末葉に竪穴遺構を工房とした鉄器生産が開始されており、さらにこの頃「誕生する鍛冶工人は、三韓人による直接技術指導を受けたとしても、その内容をそのまま厳密に維持することはできず、みずからの趣向を反映させた、いわば弥生的な鍛冶技術を生み出したこととなる。」と指摘されています(村上恭通「古代国家成立過程と鉄器生産」青木書店2007,p.291)。しかし鉄戈に関しては、半島南部から招いた鍛冶工人によって長さ50cmほどの長いものまで後期初頭まで生産していたとあり、「鉄戈消滅の時期を境に、大陸からの生産技術の影響がなくなり、その後の北部九州は自力での維持ないしは変容を見せるしかなかった」と指摘されています(村上p.292)。

中期末葉ではまた、日本海沿岸部や瀬戸内海沿岸部などへ技術伝搬が起こり始めます(村上、p.293)。「ただし、日本海沿岸の人々が直接大陸におもむいたというのではなく、その交渉の舞台は北部九州にあったのだろう」と他の研究者の論文を引用しています(村上p.293)。しかし、日本海沿岸の縄文海人は日本列島周囲を活動範囲としており、勒島でも活動した形跡が見られるます(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?)。縄文海人ムナカタ族が丹後半島の拠点集落(奈具岡遺跡)などへ鉄素材を運び、奴国の人々が鍛冶工房を営んだと考えられます(新羅の脱解王が奴国大王?)。松山平野や徳島平野などでも拠点集落では鉄器の保有量は豊富とあります(村上、p.294)。江南をルーツとする北部九州の海人アズミ族が朱を求めて立ち寄り、集落を営んだと考えられます。瀬戸内航路だけでなく四国の太平洋側の高知への航路も集落も、鉄器と共に中期後葉に見られる青銅祭器(中広形銅矛・中細形細剣)が出土していることからアズミ族が作ったと考えられます。

また中期末葉以降、日本海沿岸部を除く近畿以東の地方などでも出土するようになりますが、「鏨切り製鉄鏃、板状鉄斧、鉇(やりがんな)、鑿など扁平な製品が卓越し、それに鋳造鉄斧や重厚な板状鉄斧のような舶載鉄器が稀に加わる。また、農具の鉄器化は見られない」とあります(村上、p.97)。

弥生後期になると全国に普及していきますが、北部九州・中九州・東九州で出土する量が最も多く、次いで中国地方や北陸です。その他の地域と比べると圧倒的に多く、ヤマト王権の起こった奈良県ではほとんど見られませんので、土中で腐食してなくなったという「見えざる鉄」という説もあります。しかし、後でまた述べますが、ヤマト勢が鉄の流通を制限していた「北部九州から鉄の覇権を奪い取り、日本国家形成へと進んでいったとのシナリオが最近では 広く語られるようになってきた。」とあり(和鉄の道2011 1.「幻の鉄器の時代 鉄器は出土しないが、急速な鉄器化」との考えに疑問符)、本格的な鉄の普及は古墳時代に入ってからだというのが正しいと思います。

後漢末期(弥生後期後葉、二世紀後半)において「三国志 魏書東夷伝弁辰条」に「国は鉄を出(い)だし、韓・濊・倭皆従いて之を取る。諸(もろもろ)の市買(しばい)には皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如(ごと)くして、又以って二郡(楽浪・帯方郡)に供給す」とあります(藤堂明保等「倭国伝」講談社学術文庫2010,p.85)。

「半島南部へ渡った倭人の積極的な鉄製品の入手活動があって、開放的であった弁辰側のマーケットの存在を示唆しているが、弁辰側が惜しみなく鉄を与えたわけでない。そして技術に対しては製鉄、精錬、鋳造、鍛造のいずれをとっても厳しく管理されていた。」とあります(村上p.293)。北部九州での弥生時代の鉄戈を除く鉄製品は、始まりのタイミングを考えると主として前210年頃来日した徐福に同行した青銅器の冶金技術者が、その後は主としてその弟子たちが鍛冶技術を継承して生産したと考えられます。

弥生後期の段階では専門技術者から教えられた一般の人々が鍛冶工房で働きだすと思われていますが、後で述べる倭国大乱期における熊本県北部の方保田東遺跡、西弥護免遺跡などの鉄鏃(鉄製の矢尻)を生産する遺跡は軍事拠点と考えられます(【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚))。下図に示す淡路島の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)でも矢尻が多数出土していますので、生産者は兵士ではないでしょうか?



【参考記事】
鉄と鋼
弥生時代鍛冶工房に関する基礎論


次は日本民族が誕生するきっかけとなった国生み神話になります。
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