刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

なぜ、古代の都は奈良なの?(@_@)

2025-03-22 12:10:54 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )

 

大和の名前の秘密と大和朝廷発祥の謎!山に囲まれた奈良盆地が古代に栄えた理由
古代ずんだミステリー@YouTube

@katumoku10
いい話題を有難うございます。いろいろと勉強になりました。

ただ、多くの皆さんが誤解されているのは、記紀神話は江戸時代に作られたもので、神武東征は神話の延長なのです。藤原不比等が権力を握っていたので、都合の悪い史実を誤魔化すために、建国時代の史実を神話にして誤魔化し、人代もかなり歴史が改ざんされていることが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から分かりました(詳細は「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )」参照)。

ヤマト王権が三世紀初頭に造られた纏向遺跡で成立したということは、最初の前方後円墳の纏向石塚古墳から分かります。それまでは、奈良盆地に王墓といえるものはありませんし、奈良盆地で戦争の痕跡も見当たりません。

それでは何故、奈良盆地が都とされたのかは、長い倭国の歴史を話す必要がありますが、簡単に説明しますね。いろいろとありましたので疑問点は遠慮なく質問してください(;^ω^)。

それは、邪馬台国連合倭国が九州から中国西部・四国西部にできて、それまでの狗奴国(旧奴国)の王都だった吉備(上東遺跡)が危険になったから、倭国に対抗するために奈良盆地の纏向遺跡に遷都したのです。

吉備の王が宋史 王年代紀19代奴国王とされた天照大神尊です(物部氏の歴史書先代旧事本紀の饒速日命)。神武東征神話では先に降臨していたニギハヤヒですが、その子孫がヤマト王権を作ったことを示唆しています。先代の奴国王で兄の素戔嗚尊スサノヲが、宮廷楽師らの反乱で殺されて、北部九州の倭国が奪われた事件があったのです。

それでニギハヤヒですが、反乱を逃れて王子イタケルと共にイザナミの出身地の出雲・米子方面に逃れたのです。イタケルは出雲王になってその三代の子孫が日本建国で大活躍しましたが、日本書紀は日向三代の神話で誤魔化しています(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。

ニギハヤヒは父伊弉諾尊(十七代奴国王)の家来だった吉備の勢力が裏切って師升の倭国に出入りして交易で儲けていたので、退治して吉備で奴国を再興しました(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。ニギハヤヒ大王は亡くなって倉敷市楯築王墓に葬られています。楯築神社のご神体がシナの三皇神話の筆頭の天皇伏羲と同じ人面蛇体の亀石だったので天皇のルーツだと分かりました。日本書紀は吉備津彦の話で誤魔化していますが、平安時代に吉備津彦を伊弉諾尊と一緒に皇祖神として特別な神階を贈って祀っていますので分かりました。今上天皇はニギハヤヒ大王の末裔です(詳細は「【刮目天の古代史】中国文化の本家は日本だった?!」参照)。

二世紀末になって後漢の衰退で半島が混乱したので、倭国は楽浪郡との交易ができずに衰退していました。一方、出雲王八束命(イタケルの息、記紀神話のニニギ)はスサノヲ(新羅の脱解王のモデル)の縁故で辰韓の鉄を手に入れて、鉄のネットワークを作り日本列島に展開していた縄文海人ムナカタ族を束ねる王となって隆盛になっていました。大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて、半島の鉄を持ち込み、鉄製武器を製造する鍛冶集落群を造りました。

狗奴国の官狗古智卑狗(豊岡市久久比神社祭神の久々遅彦、王の襲名、八束命の子日高彦、記紀のホホデミ・山幸彦)が菊池川中流域に最前線基地(山鹿市方保田東原遺跡など)を築き、山陰や畿内の兵士を集めて、倭国の領域(筑紫平野・佐賀平野など)の集落を襲い、倭国を滅亡寸前まで追い詰めていました。しかし遼東太守の公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返します。師升の子孫の倭国王難升米が菊池川の集落を急襲して、油断していた日高彦が戦死してしまいました。

日高彦の右腕で玄界灘の海運を指揮するムナカタの族長赤坂比古(和邇氏の祖、伊聲耆)が、大活躍していた王を喪って途方に暮れていたところ、倭国王に懐柔されました。不弥国(宗像市田熊遺跡群)で生まれた娘の市杵島姫(卑弥呼)は宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三女神社(日本書紀の宗像三女神降臨伝承地)に疎開していました。卑弥呼に憑依した太陽神の神託によって政治を行うことを条件として、狗奴国を裏切り倭国側についたのです。赤坂比古は半島南部の鉄を入手し、倭国は対外貿易によって隆盛になったので、九州・中国西部・四国西部(後に東部讃岐・阿波まで全域)の勢力が赤坂比古の傘下になりました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

そのために、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の開化天皇)は、主に東国に展開している旧奴国の勢力を集めるために、防御性の高い奈良盆地東部の纏向遺跡に王都を遷したのです。その後の経緯がありますが、三世紀末に狗奴国王(記紀の崇神天皇)が倭国を滅ぼして列島を統一し、日本が建国されたのです。詳細は「【【必見!】考古学と民俗学からわかる日本の建国!」をご参照ください。

長々とお邪魔しました。

 

【関連記事】

【検証18】倭国大乱の痕跡だ!
(クリックで拡大)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


 

 

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

 


任那(みまな)の正体は?(@_@)

2025-03-20 14:21:18 | 古代史

いつも、ありがとうございます。
よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

#2024-08-10 12:46:21に記事にしましたが、その後分かったことを入れて本文の末尾に青字で追加しました。よろしければ、またお付き合いください(;^ω^)


#前回の記事「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」(注1)で以下の記事について述べましたが、原論文を当たってDNA解析について調べましたので記事にします。さらに時々参考にさせていただいているkawakatuさんのブログ「民俗学伝承ひろいあげ辞典」に「大伽耶王は大王と自称?/秦氏と葛城氏は金官伽耶の王の一人(2024年08月02日12:37)」という記事の中で『【独自】泥岩層から出土した大伽耶初の「大王」の痕跡…1500年の謎を解くか』というハンギョレ新聞の記事(2024-07-09 07:56)を紹介していただきましたので標記の件について考えてみます。kawakatuちゃん!おおきに( ^)o(^ )
よろしければ、お付き合いください(#^.^#)

古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
2022.06.23 THURSDAY 川勝康弘@ナゾロジー
オーストリアのウィーン大は古代朝鮮(4~5世紀)の「伽耶」の古墳において、日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたと発表。伽耶で当時の倭国人はいったい何をしていたのでしょうか?



結果、8人中6人のDNAが現代の韓国人に類似する要素を多く持った遺伝子だった一方で、残りの2人のDNAは日本の縄文人に近い遺伝子を多く持っていることが判明しました。

現在の韓国人の遺伝子は非常に均質性が高く遺伝的に孤立しており、縄文人に特徴的な遺伝子を持った人々はほとんど存在しません。

そのため研究者たちは、古代の朝鮮半島に住む人々は、現代に比べて遺伝的多様性が大きかったと結論しました。

それでは、かつては存在したはずの縄文人の遺伝子は、なぜ現代の韓国人にはみられなくなってしまったのでしょうか?

この疑問について研究者たちは、現在の韓国人の祖先を構成する、中国北部出身の集団が原因であると述べています。この集団は朝鮮半島の海岸線に沿って勢力域を拡大したと考えられており、伽耶などの地域に住んでいた縄文人の遺伝子を持つ人々は最終的に排除・吸収された可能性があるようです。

これは中国北部出身の集団は衛満率いる燕人の武装集団のことでしょう!衛満は箕子朝鮮を滅ぼし、半島北部先住の縄文人男性を皆殺しにした可能性があります。半島南部は倭国の勢力圏でしたので、縄文人と江南系の倭人との混血が進んだと考えています。

上の大成洞古墳の人骨の顔復元図に原論文からmt-DNAハプロタイプ(赤字)とY-DNAハプロタイプ(緑字)を追加しました。

左側の二人の墓の王の父系のルーツは縄文人系D-M55(D1a2a)のひとつ下のグループのD1a2a1です。釜山獐項遺跡の8号人骨にも見られました。

右側のグループの殉葬された男性O1b2a1a2a1b1 (O-PH40)は日本で1.4%と少ないのですが、倭人系O-47z(現代本土日本人男性の約25%)に入ります。王とされた人物のY-DNAはOまでしか分かっていませんが、上で書いたように燕人衛満の勢力は半島南部まで来ていませんので倭人系O-47zの可能性が高いと考えられます。

あるいは、もしも原始夏人系O1aであれば呉王族ということになり紀元前四世紀初頭の天御中主と同じ父系のルーツとなります。ただし、天御中主を祖とする天皇家が原始夏人系であるとすると現代日本本土男性の3.4%ですから少なすぎるようなので、どこかで男系が断絶し倭人系の有力者から養子を迎えて倭人系に入れ替わった可能性が高いとは思います。縄文系の王がいたことが分かったので天皇家が縄文系である可能性もないとは言えませんが、先の縄文系の王の殉葬された女性がひとりですのでその可能性は低いと考えています。

そして、ハンギョレ新聞の記事に「大伽耶は、約1500年前に慶尚道西部と全羅道東部にかけて繁栄し、新羅と競合した強力な小国家だった。大伽耶の人々が最高首長を当時の新羅のように「大王」と呼んだことが推定できる遺物が出土した。」とあるので、562年に洛東江流域の加羅諸国が新羅に併合される前の伽耶地方には大王と呼ばれる人物が居たということです。



この大王が呉王族に繋がる人物なのか分かりませんが、①天御中主一行が九州に上陸した後の半島南部の有力者の子孫であるか、あるいは②天御中主の子孫の奴国王が弥生中期中葉にはBC219年の徐福の来日による青銅器製造技術導入と比恵那珂遺跡群の交易センターの拡大整備によって隆盛になりますので、紀元前82年の前漢の武帝が設置した真番郡の廃止後に、奴国王が半島南部に人を派遣して伽耶地方の支配を任せたのかもしれません。②であれば、おそらく伊都国と同様に奴国の王族でしょう。

三世紀の魏志倭人伝でも「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とあるので半島南部の紀元前二世紀末から四世紀にかけて存在した弁韓は倭であると認識されていたのですから、春日市須玖遺跡の奴国王が支配する倭国の一部と考えていいと思います。狗邪韓国は弁韓の一国で、慶尚南道金海の付近の金官伽耶(金官国)ということのようです。

任那が半島南部のどこなのかについてはwiki「任那」によると金官国とする狭義と「日本書紀」で見られる「任那四県」「任那日本府」などの関連する地域を指す広義がありますが、毎日新聞の記事(2015年8月11日)によれば以下のとおりです。

森公章によると、現在(2015年)は任那は百済や新羅のような領域全般ではなく、領域内の小国金官国を指す場合が多く、それらの複数の小国で構成される領域全般が加耶と称すという学説が有力視されているという。

しかしこれは倭国と倭国の支配者が王都とする奴国の関係と同様で、それぞれ伽耶(弁韓)を支配する王の都が任那ということではないかと思います。勿論、広い意味の伽耶としても使われることもあるのでしょうが(;^ω^)

そうすると「任那」という漢字の意味を考えると、「那」は天御中主の「中」と同じ意味で、ナーガ=龍蛇神ですから龍蛇神天御中主を倭の奴国に送り出して任せた国のことです。

つまり任那は龍蛇神天御中主の古栖という意味ではないかと思います。

任那(みまな)の発音ですが、nin・na ->nimuna -> mimuna ->mimana と変化したと考えられますよ(^_-)-☆

上述のとおり任那は金官国(現、慶尚南道金海市)のことで、金海市大成洞遺跡から鉄製品の素材となる鉄梃(てってい)が多数出土しています。歴代奴(龍蛇神)国王つまり三世紀以降の倭国王は六世紀に日本列島内で製鉄ができるようになるまでは、主として金官国の鉄資源に頼ったので、高句麗の侵攻から任那を守ることが最も重要な戦略だったと考えられます。

四世紀前半はスサノヲ系大王(応神・宇治天皇)は辰韓にコネがあったので慶州市皇城洞遺跡の鉄が供給されていましたが、高句麗の広開土王が百済に奪われていた楽浪郡などを奪還し(391年)、百済と新羅を制圧し、新羅を支配下に置いたので、任那・伽耶の鉄資源を護ることが倭国の最も重要な国家戦略でした。百済と同盟して高句麗・新羅の侵攻を食い止めるために百済に対して盛んに軍事支援しました。

五世紀には「倭の五王」が南朝の宋などへ朝貢して、半島支配の主導権を得て高句麗の南下政策を抑えるために冊封体制に入りました。同盟国の百済が高句麗に押されていましたので、六世紀初頭には百済を強化するために武烈天皇は出兵しました。新羅を抑えて、百済王(東城王)を排除し、倭国と関係が深い馬韓伯済国の倭人嶋君を百済武寧王に据えて、任那四県を割譲し、百済との関係を強化しと推理しました(詳細は「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。(2025.3.20 青字追加)



よろしければ、またポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

 

【関連記事】

天智天皇は何者だ?(その4)

武烈天皇が後継者を決めずに崩御したので、ニギハヤヒ・物部系の欽明天皇が九州の物部勢の後押しでスサノヲ・大国主系豪族を抑えてヤマトの大王につき百済支援を行いました。上で述べたように、その頃には倭国内で鉄を生産できるようになって任那・伽耶の重要性はなくなっていますが、百済を通じた対外交易ルートを確保するために百済との関係を重視したようです。

欽明天皇が崩御してヤマトの大王となった敏達天皇も百済を強化する目的で、武寧王の子孫の百済王(恵王・法王)を次々と暗殺して、押坂彦人大兄皇子を百済武王にしたのですが、後を継いだ義慈王が唐・新羅連合に討たれて百済が滅亡します。天智天皇は百済復興のために軍船を白村江に送りましたが、敗北して倭国は半島から完全に撤退してしまいました。新羅が半島を統一したので、百済や任那・伽耶の倭人はほとんど倭国に引き上げて半島との関係がほとんど終わりました。

人気古代史作家関裕二氏が推理したとおり藤原鎌足は最後の百済王義慈王の王子扶余豊璋だと考えていますので、藤原不比等はこのような藤原氏の出自が権力を維持するために不都合なので、日本書紀で歴史を改ざんしたと考えています。

 

 

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


新羅の脱解王が奴国大王?
辰韓の鉄を支配したのはスサノヲとその子孫だった


中国神話は日本人の神話だった?



最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


【日本人必見】女神アマテラスは血塗られた皇祖神!(;´Д`)

2025-03-20 03:51:34 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

#2022-01-18 02:51:43に記事にしましたが、相変わらず秋篠宮家バッシングと愛子天皇待望のYouTube動画を見かけます。かなりの日本国民が女性天皇や女系天皇までも受け入れている世論調査の報道がありました。ご皇室は中傷に対して公式に反論できない、そういう意味で弱い立場に置かれていますので、見つけたらその都度YouTubeに問題を報告しています。

やはり古代史を研究して、その成果を皆さんにご披露する一番の目的は、日本という大切な伝統国家の本当の歴史をご理解いただきたいからです。古代史の真相を知らないと、日本を存続させたくない勢力により、いろいろな策謀で日本国民が混乱させられるからなのです。女性天皇というのは藤原不比等が権力を維持するために、権力を握る過程で行った悪事を隠ぺいする目的で日本書紀の中で創作したと推理しています。

また、多くの国民が、30年もの長い間、子供が増えない、経済成長しない国にする誤った政策を、財務省主導の日本政府が行ってきたことに気付きました。物価高にあえぎ、苦しみ、問題に気づいた多くの国民が、財務省解体デモを行い、各地で大規模化しているにもかかわらず、大手メディアはほとんど報道しようとしません。政府は、都合の悪い情報を制限するためにSNS規制を計画しているとも聞きます。上の皇室問題を利用する可能性もありますので、日本国民の言論の自由を守るために、問題を正しく切り分けてネット規制には断固反対せねばなりません。

ということで、女性天皇の虚構についてご理解を深めていただきたいので、末尾にいくつか関連記事を追加して、再度この記事をアップします。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

よろしければポチっとお願いします(^^;)


「皇位継承問題」たなざらし 政治は議論を避けるな 社会学的皇室ウォッチング!/18=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉 1/17(月) 16:44配信
 岸田文雄首相は1月12日、安定的な皇位継承を議論する有識者会議(座長=清家篤・元慶應義塾長)の最終答申に沿った報告書を国会に提出した。だが、これから国会で活発な審議が展開するわけではない。自民党を中心とした与党は、今夏の参院選前の議論には及び腰であるためだ。報告は事実上、たなざらしになる公算が大きい。

 これまで何度か触れたとおり、最終答申は、(1)女性皇族が結婚後も皇室に残る案(2)旧宮家の男系男子が養子として皇籍復帰する案――の2案を軸とした。以下、「女性皇族残留案」「旧宮家復帰案」と呼ぶ。

 NHKが1月8~10日、全国2150人を対象に実施した世論調査によると(回答1219人)、「女性皇族残留案」については賛成65%、反対18%だった。

 一方、「旧宮家復帰案」については、賛成41%、反対37%だった。他の報道機関の調査が出そろわないと分析しづらいが、少なくとも世論は分裂している。


安定的な皇位継承ということで、日本国民は今、上の二案のどちらかを選ぼうとしています。

しかし、間違うと日本を消滅させる怖ろしい選択をすることになります。

「(1)女性皇族が結婚後も皇室に残る案」内親王が即位する、いわゆる女性天皇・女系天皇まで容認する選択となります。もしも結婚相手が皇族でない場合には、皇室と血のつながりのない一般男性との間に生まれた皇子が次の皇位を継承するということになりますので、現在まで続いている皇室とは別の家系、お相手の男性の血筋に入れ替わることになります。これは王朝交代あるいは易姓革命を目指すということになります。

しかし、そのような皇子が天皇に即位しても多くの国民が受け入れることが出来るのであれば、良いのではないかという発想でしょう。確かに日本国憲法 第一条に「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定されていますので、多くの国民は天皇の地位を国民が決められると考えているようです。

しかし、日本国の長い歴史の中で①どのようにして天皇が生まれてきたか、②天皇の役割とは何か、③皇位はどのように継承されて来たのかを正しく理解していると思っているならば、このような憲法の条文を受け入れることはできないと思います。

多くの日本国民は現存する最古の正史「日本書紀」の内容が日本の歴史だと思わされていますが、それは考古学や民俗学などの学術的成果とかけ離れた内容だということも、多くの歴史家も国民も分かっています。日本の始まりはまだ誰も分かっていないのですから、現在研究中のテーマなのです(注1)。

①については、初代天皇とされる神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)が九州の日向から東征し、紀元前六六〇年に奈良県橿原宮で即位されたとあるので、それを史実だとしたい人々は、一年を春と秋で二年と数えることなどによって納得しようとしています(「神武天皇はいつ即位した?」参照)。奈良県桜井市纏向遺跡の発掘によって考古学的に分かっているヤマト王権が成立した三世紀に建国されたことにできないかと努力されています。しかし、当時の倭国の様子を記述した魏志倭人伝には女王卑弥呼が邪馬台国に居たので、神武天皇とどういう関係で邪馬台国がどうなって、ヤマト王権がどのように成立したかという問題さえ、解決されていません。有識者も分かっていないはずです。

次に②ですが、これは三世紀から二十一世紀までの歴代の天皇陛下の事績を理解すると、時代によってその役割が変わって行った部分もありますし、変わらない部分もあるはずです。現行憲法に規定される国事行為は戦後の話ですし、その前は明治憲法に規定される役割でしたが、更にその前の役割は何だったのでしょうか?八世紀の奈良時代に大宝律令が成立すると、基本的には政治は左大臣など朝廷の人々が合議で決めた内容を天皇が承認する役割ですから、現在とあまり違わないと思っても、それ程間違いはないと思います。

しかし、それよりももっと大切な役割があります。国家の安泰と国民・臣民の安寧を皇祖神に祈る、宮中祭祀です。
これが天皇の役割の本質であって、他のことは摂政を置くなりしてもこなせますが、天皇の行うべき宮中祭祀は天皇以外の者は出来ないのです。

最後に、③ですが、基本的に皇祖神の男系の男子が天皇に即位することになっています。これは血がつながった皇祖神から天皇が受け継いだ霊力を使って宮中祭祀を行うためです。大嘗祭において皇祖神と霊的に一体となる儀式をした天皇でないと皇祖神が宮中祭祀における天皇の願いを聞き入れないからだと考えられます。

二十一世紀の現代にそのような非科学的な話は信じられないという方は仕方ないですが、これは日本人の伝統的な神道、神への信仰なのですから、誰もそれを否定することはできません。日本という国は、神道や日本式仏教への信仰を持つ日本人によって現代まで存続しているのですから、日本人である限りそれを受け入れてもらわないと困ります。現代の日本人もその両親もその祖先もこの信仰を大切にして生きてきたのだと思うからです。伝統国家の日本は現代の無神論者の国ではないし、神道や日本式仏教を受け入れない人々が、日本を支配すべきではないのです。

さて、その皇祖神ですが、現代日本人は「日本書紀」や「古事記」の神代に現れる天照大神という女神だとほとんど思っているようですが、それは明治政府がこれらの歴史書で皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山として、国家が他の神道と区別して管理する国家神道を創設し、神代から始まる国史教育を国民に行ったからです(注2)。

しかし、江戸時代までは天照大神が男神であると知っていた人々もかなりいましたから、女神だと思う人は「日本書紀」や「古事記」にあるからなのです。江戸時代の多くの庶民は、ヘビがその正体だと思っていたようです(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)。

最新の「日本書紀」研究で色々分かって来ています。672年、天武天皇が壬申の乱に勝利して、律令制定と正史編纂を命ずる詔が発令されましたが、それらの完成前の686年に崩御されます。皇后鵜野讃良(持統天皇)が、自分の子の草壁皇子を即位させようとして、恐らく皇太子だった大津皇子を藤原不比等と組んで謀殺し、皇太子にしました。しかし草壁皇子は27歳の若さで病死します。そこで、鵜野讃良は草壁皇子と妹の阿陪皇女(元明天皇)との間の幼子珂瑠(かる)皇子(文武天皇)を即位させようと考え、天武天皇の長男で母親(宗形徳善の娘、尼子娘)の身分が低いので即位できないとされた高市皇子を太政大臣に就け、皇后が即位します。696年、高市皇子が40歳前半の若さで薨去すると、翌年持統天皇は退位して、珂瑠皇子を文武天皇として即位させます。

以上は「日本書紀」の内容ですが、高市皇子の長男長屋王を長屋親王と墨書された木簡が発見され、高市皇子が即位していたと考えられます(注3)。つまり、鵜野讃良は即位しておらず、持統天皇も存在していなかったということになります。それでは皇位継承可能な天武天皇の皇子がまだいるにも拘らず、文武天皇が何故、即位できたのかが問題になりますが、鵜野讃良と藤原不比等の謀略で皇子たちの内紛を煽ったことで実現した模様です。

そして、これらのことを正当化するために「日本書紀」でアマテラス女神が孫のニニギノミコトに大国主の豊葦原の中つ国を支配させるための天孫降臨神話を創作しました。つまり、アマテラスが鵜野讃良で、その孫の文武天皇がニニギノミコトということになります(「神話が隠した不自然な史実」参照)。


いくら皇后と言えども女性が天皇(ヤマトの大王、つまり祭祀王)に即位するなどあり得ないと当時の人々は知っていましたので、「日本書紀」で前例として推古天皇と皇極(斉明)天皇を創作しました。推古天皇が創作であることは「隋書」の推古8年(600年)の遣隋使の記事でアメノタリシヒコという男性天皇であったことから分かります。また、皇極(斉明)天皇も、万葉集研究家の渡辺康則氏が「聖徳太子は天皇だった」(青空出版)で架空の天皇であることを突き止めています。文武天皇の皇子の幼い首(おびと、聖武天皇)を即位させる前に、阿陪皇女と文武天皇の姉氷高(ひだか)がそれぞれ元明天皇と元正天皇として即位したように書いています。

しかし、「天皇家の菩提寺といわれる泉涌寺(せんにゅうじ)では、天智のあとはすぐに飛んで光仁・桓武と続く天皇が祀られており、持統・元明・元正という持統の縁者でさえ祀られていない。」とあります(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)2016、p.243)。また江戸時代の仏事に掲げる天皇の肖像画に明正天皇(第109代)と後桜町天皇(第117代)のものがないので明治になって作られたと分かっています。



つまり、推古から後桜町までの女性天皇というのは、すべて存在していないということでした。

奈良時代から南北朝時代まで、未婚の皇族の女性には斎宮制度がありました。女性は祭祀王ではなく巫女なのです。天皇(ヤマトの祭祀王)にはなれません。

ですから、(2)旧宮家の男系男子が養子として皇籍復帰する案以外に選択できないということなのです。

「日本書紀」のフェイクに騙されると日本は消滅します!
是非、関裕二さんのこの本をお読みください!

GHQの占領政策基本法を憲法として不法に押し付けられた歴史の事実を日本国民がしっかり理解しないと、日本と言う国家は存続できませんよ!(注4)。

よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )

(注1)刮目天はすでに仮説を検証して、その仮説でほぼ間違いないと考えていますが、それが真実かどうかまでは分かりません。今後、この仮説を棄却すべき検証結果が出てくれば一部を修正すればいいと考えていますが、全面的に棄却することはないという感触です。つまり、科学的な信念になりつつあるということです(「【刮目天の古代史】古代史を推理する」「アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!」参照)。

(注2)戦後、GHQは戦争中の日本人の強さが国家神道によるものだと考え、二度と白人国家に逆らわない様にするために日本国憲法を押し付けました。つまり、日本を弱体化させ、最終的に亡ぼすのが目的です。しかし、多くの日本国民はそれに気づいておらず、GHQに押し付けられた憲法を70年以上に渡り一言一句変えずに来ています。GHQに押し付けられたことすら認めようとしませんから、このような皇位継承の問題を国民がやっているわけです。早く、本来の日本人に戻らないと、日本の行く末はとても危ういと思います。



(注3)宗形氏の身分が低いというのはウソだと思います。4世紀から6世紀の后妃に同じ縄文海人ムナカタ族の和邇(わに)氏がなっています。イザナミ、卑弥呼、台与もムナカタ族の姫巫女です。第18代奴国王スサノヲの母はイザナミです。吉備でヤマト王権の基礎を作った第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒの父母もスサノヲと同じ、第17代奴国王イザナギとイザナミですし、現在の天皇陛下はその血筋です。「日本書紀」では鵜野讃良が天照大神を乗っ取り、本当の皇祖神を隠しました。長屋王は藤原氏によって濡れ衣を着せられて謀殺されました。関さんに詳しくあります。

(注4)用心棒の米国は国民が分断され、すでに民主主義は崩壊しています。弱体化した米軍が日本国民のために戦うことが出来るのか本当に心配すべきです。

日本は自ら武器を取って戦わないと、国を失うとどういうことになるのか真剣に考えるべき時期に来ています。
平和を護りたければ戦争に備えるというのが世界の常識です。
敵が喜ぶ非核三原則を即刻廃棄して、核武装して敵基地攻撃能力を持てば、敵も易々と攻めてくることが出来ません。

そういう覚悟を示すことが必要なのです。
国を失うと、国民の人権を護る仕組みが消えます。
日本人の若者の臓器が盗まれても何も言えず、ただ殺される運命が待っています。
どんなホラー映画よりも怖ろしい現実の世界が目前に迫っているのです。

だから、そうならないようにあらゆる手段を講じる必要があります。
国家の安全保障をまともに考えられない、国を売る政治家や商人やマスメディアに政治を操られると、
日本国民は酷い目に遭います。日本は地上から消滅します。

ジェノサイドは現在過酷な目に遭わされている気の毒なウイグル人だけの問題ではなく、
日本人や多くの国の人々が直面する問題ですよ!

さっさと覚悟を決めて、今行われている「人道に対する罪」への非難決議をして、
自由世界の危機に適切に対処しましょう。

また、日本政府の財政健全化は政府の黒字化ですから国民の赤字化を意味します。
需要不足のデフレ期に緊縮財政政策すると国民が貧乏になり、安全保障の対策が打てません!
実はこの問題もGHQが作らせた財政法が根底にあります。

こんなバカげた罪務症の財政破綻プロパガンダの議論を止めて、
国民を豊かにして、国防安全保障・経済安全保障の政策をする時間帯です。
一刻も無駄にできませんよ。

ヤマト騙しの罪務省デマから日本を救うMMT!


【吉田茂という反省】地位保全のために国を売って…押し付け憲法にひれ伏した「東京帝国大学法学部」の教授たち
日本国民が憲法改正する前に必ず読むべき本です。
対談・吉田茂という反省
憲法改正をしても、吉田茂の反省がなければ何も変わらない 二人の近現代史家が熱く語る
著者 阿羅 健一 (著),杉原 誠四郎 (著)


【関連記事】

不比等はイエス様に匹敵する?(@_@)

BBC制作のプロパガンダ放送「【解説】 なぜ女性は天皇になれないのか」(2019年4月26日)にコメントしたのですが、反論が来ましたので議論しました( ^)o(^ )

なぜ皇位継承が男系男子だけなのか?
アマテラス大神はヘビだった?

【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )

古代史の謎は決して歴史ロマンではないのです!ここが分からないから古代史が謎のままなのです!( ^)o(^ )


ちょっと情報満載で長くなりすぎましたが、最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


【刮目天の古代史】四世紀のヤマト政権と東アジア情勢

2025-03-19 00:00:01 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

 

#すでに「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」で推理したが、三世紀の日本の建国の史実と古事記の暗号を解いて、謎を解明しました。これによって四・五世紀のヤマト王権内部の抗争が具体的にどういうものなのかは分かりましたが、その深層は当時の東アジア情勢に深く関わっているようですので、今回はヤマト王権の対外交渉について推理してみたいと思います。すでに「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」で見たとおり、かなり複雑な部分があるので、思い違いなどがあればご指摘ください。それでは、お付き合いください(#^.^#)

纏向遺跡を王都とする狗奴国(旧奴国)の卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)は、狗奴国を裏切り西晋に朝貢していた大国主と台与の倭国を滅ぼして列島を統一しましたが、西晋が呉を滅ぼしたので、次に西晋に狗奴国が滅ぼされることを怖れたました。そこで、卑弥弓呼大王は大国主の祟りと考え、大国主と台与の間の子ホムダワケ(崇神紀の大田田根子)をヤマトの祭祀王として呼び寄せ、応神天皇に即位させて邪馬台国の後継国ということにするために狗奴国をヤマトと呼ぶことにしたのです。

ヤマト盆地はもともと大国主系の豪族が領地としていたので、吉備・出雲においてニギハヤヒ大王と関係の深かった、武内宿禰の子孫、つまりスサノヲ・大国主系の豪族葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)が活躍して、武内宿禰の子孫を呼び戻したと考えています。

ニギハヤヒ・物部系の豪族は狗奴国王家(物部氏の祖)が石上神宮(布留遺跡周辺)に留まり、その他のニギハヤヒ・物部系豪族は吉備・尾張、河内などの建国前の根拠地に戻りました。また、三世紀後半の建国の戦いによって筑紫・出雲・阿波・科野・毛野などの大国主系豪族の根拠地を台頭を抑えるために周辺を占領し、地方政権として国造りを行い、中央のヤマト政権の配下として各地に割拠していたと考えています。また、鳥越憲三郎「弥生の王国」(中公新書1994、p.180 図64 河内・大和の物部一族)に示された九州遠征で遠賀川流域などを占拠していた物部支族の一部(馬見・当麻・十市・久米物部など)を大和盆地や河内・和泉・摂津などに呼び寄せたようです。

さて、266年に大国主と台与が朝貢した西晋は皇族内の抗争である八王の乱(291-311年)によって急激に衰退しました。その中で諸王が傭兵として用いた北方アジアの異民族が力を持つことになり、匈奴の劉淵が漢(後の前趙、304-329年)を建国し、氐族が成漢(304-347年)を建てました。西晋は316年に漢によって滅ぼされた後に、北方アジアの諸民族がシナ全土で次々に建国しては滅亡する五胡十六国の時代になりました。西晋の皇族の司馬睿は江南に遷り、東晋(317年 - 420年)を建てました。439年に鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏(386 - 534年)が華北を統一するまでを五胡十六国の時代です。五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの民族のことです。

東晋の武将劉裕(武帝)に帝位が禅譲された宋(南朝 劉宋、420 - 479年)と北魏が並立する南北朝時代になります。五世紀までの上図には見えませんが、北魏は西魏(匈奴系の宇文部)・東魏に分裂し、西魏の大将軍楊堅(隋文帝)が代わった北周の軍権を握り581年に隋を建国します。さらに隋が宋の後継国の陳を滅ぼして中国を統一する589年まで南北朝時代が続きます。

紀元前二・三世紀までの韓半島については「【刮目天の古代史】弥生時代渡来人の正体?(^_-)-☆」で述べたとおり、主に倭人や韓人が縄文時代から半島に渡っていた縄文人と混血しています。原三国(馬韓・弁韓・辰韓)から百済・新羅が建国され、半島北部を高句麗が占領する「三国時代」に至る以前の状況は、「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」で説明したとおりです。

満州南部から発し、紀元前四世紀 - 494年に半島東北部にあった扶余の神話に登場する槀離タクリ・カウリ)国人の解慕漱(かいぼそ)が扶余を建国したとの伝説がありますが、塚田敬章「魏志夫餘(扶余)伝と夫餘史」に扶余の祖先は呉公子夫概とありますので、その子孫の秦の捕虜となって長城建設に従事していた堂谿氏系の呉人(倭人O-47z)や楚人(シナ人O2、旧O3)が秦王朝末期(紀元前206年頃)の混乱で半島北部に逃亡し、ツングース族の貊(はく、北方アジア系C2)と混ざり合って扶余が建国されたようです。さらに紀元前一世紀ころに扶余から分かれた楚人らが、玄菟郡付近(半島北東部)に移り、高句麗が建国されたと考えています。

遼東地方から遼西地方では西晋(265-316年)の末期に鮮卑族(北方アジア系C2)の慕容部が勢力を拡大させて後に前燕(337 - 370年)を建てます。堂谿氏系の倭人の集団(後の百済人)も同じころと思われますが、扶余から分かれて前燕の支配する地方に移住した模様です。

「晋書」によれば、341年、慕容皝(ぼよう こう)に高句麗が大敗し、王都の丸都(がんと、現在の中国吉林省集安県北の山城子)まで侵入されたので、「百済はこの隙をついて高句麗の北に進出し、扶余を侵略したのだろう」と坂田隆「古代の韓と日本」(新泉社1996、pp.17-18)にあります。したがって百済は340年頃に堂谿氏系倭人によって遼西・遼東地方で建国されたと考えられます。この頃に倭人国家として隆盛だった
倭国を後ろ盾にして敵対する高句麗に対応するために天理市石上神宮に伝来する泰(和)四年(364年)に作ったという鉄製の七支刀を倭国王に贈ったと考えています。倭国王旨に献上したと金象嵌されているので、百済を建国した近肖古王(余句)が宇治天皇に贈ったと考えています。「旨」の発音が「治」と同じ[zhi, ji]ですので、宇治天皇を暗殺した仁徳天皇が石上神宮に奉納したと思われますが、近肖古王が仁徳天皇に贈ったものなのかも知れません。

「晋書」では、355年高句麗第16代王故国原王(ここくげんおう)は、慕容皝の後を継いだ慕容儁に恭順の意を示したので、「征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王に封じられた。」とあります。さらにwiki「故国原王」に「369年に2万の軍隊を率いて百済を攻めたが、雉壌(黄海南道白川郡)の地で敗れている。そして371年10月には逆に百済の近肖古王が兵3万を率いて高句麗に攻め込み、故国原王は防戦に努めたが、10月23日、流れ矢に当たり戦死した。」とあります。「魏書」百済伝には百済の(余)須が高句麗王釗(しょう)を殺してさらし首にしたとあり、釗は故国原王の諱とあります(wiki「故国原王」)。「晋書」では372年百済王余句(近肖古王)が東晋から鎮東将軍・楽浪太守に冊封されています。

『宋書』・『梁書』・『南史』・『通典』は一致して、”晋・宋代、百済は遼西あたり、すなわち現在の中国の遼寧省西部・河北省東部あたりに存在した」とありますから(坂田p.14)、四世紀後半の百済は現在の平壌あたりまで支配していた大国になったのです(注1)。

高句麗第17代小獣林王(しょうじゅうりんおう)は国力の回復に努め、仏教を導入しました。377年には前秦に朝貢し、百済とは互いに攻撃し合っていたが、378年に北方の契丹に侵略されて、8部族を奪われ、384年に死去しています。弟の故国壌王(ここくじょうおう)が跡を継ぎ、「後燕の支配下の遼東に攻め入り、一度は遼東郡・玄菟郡を陥れるが、半年と立たずに奪い返された。・・・半島内では百済に攻め入られ、390年には都押城(黄海北道中和郡)を破られるなど、劣勢に陥った。」とあり、391年に死去しました(wiki「故国壌王」)。

高句麗は広開土王(好太王)になると隆盛になって半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁辰)をしきりに窺いますので、倭国のヤマト政権(住吉天皇)はその支配地の弁韓(伽耶)の鉄を確保するために半島に軍を送り、高句麗と対立しました。

その頃の記録が現在の中共吉林省の広開土王碑文に書かれています(注2)。四世紀末から五世紀初頭の半島の様子が分かります。そのような中でヤマト政権は半島の利権をどのようにして確保するかが大きな課題でした。主な利権のひとつである辰韓の鉄(慶州市の隍城洞遺跡)を脱解尼師今(奴国王スサノヲがモデル)の子孫訖解泥師今から金氏の奈勿麻立干が支配するようになったのですが、当初はヤマトの大王(住吉天皇)とは良好な関係だったと考えています。しかし、吉備や北部九州に拠点を築いていたニギハヤヒ・物部系豪族は辰韓とは疎遠なので、任那(金官伽耶、初代奴国王天御中主の故地)の鉄を確保するために、独自の判断で兵力を半島に送った可能性があります。

その背景には、上述のとおり、三世紀の日本建国で大国主が狗奴国の有力者だった尾張王(記紀の仲哀天皇)を斬り、狗奴国を裏切ったことで狗奴国大王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)と深刻な対立が起こり、最後は尾張王建稲種命率いる狗奴国勢(尾張・物部)が大国主らを討って日本を統一した経緯があります。そして、狗奴国王が大国主の子応神天皇を倭国王に建てて両勢力が一旦は和解したのです。後の時代に「ヤマト(邪馬台国)」を「大和」と書いた所以です。

しかし、応神天皇崩御後に即位した宇治天皇(卑弥呼の弟赤坂比古の孫)の後ろ盾で和爾氏の勢力が拡大して、ニギハヤヒ・物部系豪族を圧迫したので、反発が起こりました。尾張王建稲種命の子孫の仲津姫が生んだオオサザキ(仁徳天皇)が宇治天皇を暗殺して皇位を奪ったと推理しています(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。それでも、仁徳天皇はヤマト政権内の大国主系豪族の反発を抑えるために皇太子を宇治天皇の妹八田皇女が生んだ住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)とし、崩御後に住吉天皇が即位したと推理しています(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)」参照)。

ヤマト政権内のスサノヲ・大国主系豪族とニギハヤヒ・物部系豪族が、新羅と百済をそれぞれ強力に支援して、半島情勢の影響を受けて政権内での対立が激化した模様です。そのような中でヤマトの大王として兵権を握り、半島に進出する必要に迫られましたので、413年に東晋の冊封体制に入り、大王の権威を高めるために住吉天皇が遣使したと見ています。420年に東晋が有力者の劉裕に帝位を禅譲し南朝の宋(420年 - 479年)が建国されます。主に劉宋との外交活動を行うことになったのが「倭の五王」ですが、次回以降に述べる予定です。

よろしければ、またポチっとお願いします(;^ω^)


(注1)「梁書」百済伝では「呉はみずから百済郡を設置した。」とあり、「日本書紀」雄略天皇紀でも「百済国から来た貴信が呉国の人」とされているとありますので、百済は呉人(倭人)が建てた国なのです。さらに「南史」百済伝および「通典」百済条にも「みずから百済郡を置く」とあります。「日本書紀」雄略天皇紀二十年条所引「百済記」に蓋鹵王(こうろおう、455-475)の乙卯(475年)の冬に狛(高句麗)の大軍が来て、ついに王城が陥落して尉礼(いれ、現在のソウル)を失うとあるのでこの百済郡は韓半島南部のことだと分かります(坂田上掲書pp.27-31)。

(注2)高句麗故国壌王の子の好太王(広開土王、即位391年 - 412年)が、ようやく勢力を盛り返して、「396年には漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。」とあります。高句麗の勢いを怖れた新羅第17代王奈勿尼師今(なもつ にしきん、在位:356年 - 402年、金氏)はすでに392年に王族を人質として送っています。

また、「しかし丁酉年(397年)、百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。(399年)庚子年(400年)高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の王都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き任那・加羅まで後退する。高句麗軍が追撃すると倭国傘下の安羅軍が新羅の首都を陥落させた為、402年に新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送り国交を結んだ[9]。甲辰年(404年)になると帯方界で倭軍の攻撃を受けるが撃退した。丁未年(407年)には後燕に侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。

このような南方での勢力拡張策とともに西側への侵攻も図っている。当時高句麗の西方にあった慕容氏の後燕国に使節を派遣するなど友好関係を維持したが、庚子年(400年)に後燕王慕容盛が蘇子河流域にあった高句麗の南蘇城と新城に侵攻して来ると、好太王は後燕に対する反撃を敢行した。この時、遼東城(遼寧省遼陽地級市)
を含めた遼河東岸地域を侵略した。

このほかにも、壬辰年(392年)には北方で契丹を征伐し、男女500人を捕らえるとともに契丹の捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻した。庚戌年(410年)には東扶余を屈服させることで北と東に領土を拡大し、西は遼河、北では開原から寧安、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。

また内政の整備にも力をつくし、長史・司馬・参軍など中央官職を新設し、歴代王陵保護のために守墓人制度を制定した。癸巳年(393年)には平壌に9寺を創建して、先代の故国壌王にならって仏教を奨励した。在位22年にして412年に39歳で死去した。
」とあります。王の功績を記念して414年に子の長寿王によって好太王碑(広開土王碑)が作られました(wiki「好太王」)。

【関連記事】

【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?

馬韓の伯済国の倭人斯摩(百済武寧王)が502年に百済を乗っ取ったのは武烈天皇と強いつながりがあり、事前の盟約があって、倭国軍が支援したのかも知れませんね(^_-)-☆

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


【刮目天の古代史】弥生時代渡来人の正体?(^_-)-☆

2025-03-18 16:56:15 | 古代史

いつもありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

#2025-03-15 09:02:13に記事にしましたが、五世紀の韓半島南部(伽耶地方)の大成洞古墳の被葬者が韓国人に近い遺伝子を持つとされたが、mtDNAとY-DNAを調べたところ日本人に近いことが判明したので、末尾に図を追加しました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

【日本人のルーツ三重構造説の新たな考え方】縄文、弥生、古墳の三重構造はどのようなバランスで成り立ち今の日本人となって行ったのか?
進撃の信政2nd@YouTube

@osamakeiko
弥生人が米の出来ない中国東北地方から来て、米の出来ない日本の東北地方に移動しているのは納得できない。

@shingekisecond

ありがとうございます😊
仰る通りでこの3重構造説の問題は弥生系が北東アジアとしている点なんですよね。

水稲用の稲は長江より南の東南アジアから入って来ているとすればやっぱりそっち方面からの人もいたはずなので、その辺りも踏まえながら見ていく必要はあると思います。

弥生が東南アジアとか古墳が東アジアと云うのもあくまでその辺りが発生地点というだけで、その後日本に入って来るまでの間に移動もしているはずなので、その点も考慮した方が良いかもしれませんね😊

@katumoku10
​ @shingekisecond  さん おっしゃるとおりです。

金沢大学の弥生時代人サンプルは実は縄文系つまり北方アジア祖先のものなので、弥生時代人のサンプルとしては不適正であることが分かっています。

弥生時代に水田稲作を日本に伝えたのは当時の半島の縄文人(YーDNA D-M55)と東アジア人はもっと詳しく云うと倭人(YーDNA O-47z)の混血だということが分かっています。

東大のデータでも東アジア人が弥生時代に入ってきていることになっています。

ただし東大の場合、東アジア人と北東シベリア系集団の混血としていますので、その点はまちがいだとおもいますけど。当時は民族集団は父系の集団で動いていたようなので、Y-DNA解析結果と古代史書や考古学の成果などとの親和性が良いです。詳しくは「日本列島に集まった人々とは?で、斎藤成也教授の三段階モデルが説明できています(wiki「日本人」核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史 参照)。

史書を考慮するので、ADMIXTURE解析よりも日本人のルーツが明確になりますよ。
東大の結果:https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10527/

【関連記事】

【刮目天の古代史】倭人とは?(^_-)-☆




日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

【参考記事】

45. 土井ヶ浜遺跡の人骨DNA解析結果 

丸地三郎@YouTube

藤尾慎一郎「数値年代とDNAがもたらすこれからの弥生文化研究」
考古学雑誌Vol.105No.2、2023,pp.89-103

 

全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴 理化学研究所 研究成果(プレスリリース)2024年4月18日

補足説明

11.ADMIXTURE分析
人々の遺伝的背景が、異なる集団からどのように来ているかを調べる方法。これを使うと、個人のDNAが異なる地理的または民族的集団からどの程度混ざっているかを推定できる。


古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
2022.06.23 THURSDAY 川勝康弘@ナゾロジー
オーストリアのウィーン大は古代朝鮮(4~5世紀)の「伽耶」の古墳において、日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたと発表。伽耶で当時の倭国人はいったい何をしていたのでしょうか?


結果、8人中6人のDNAが現代の韓国人に類似する要素を多く持った遺伝子だった一方で、残りの2人のDNAは日本の縄文人に近い遺伝子を多く持っていることが判明しました。

現在の韓国人の遺伝子は非常に均質性が高く遺伝的に孤立しており、縄文人に特徴的な遺伝子を持った人々はほとんど存在しません。そのため研究者たちは、古代の朝鮮半島に住む人々は、現代に比べて遺伝的多様性が大きかったと結論しました。

しかし、かつては存在したはずの縄文人の遺伝子は、なぜ現代の韓国人にはみられなくなってしまったのでしょうか?

この疑問について研究者たちは、現在の韓国人の祖先を構成する、中国北部出身の集団が原因であると述べています。この集団は朝鮮半島の海岸線に沿って勢力域を拡大したと考えられており、伽耶などの地域に住んでいた縄文人の遺伝子を持つ人々は最終的に排除・吸収された可能性があるようです。

中国北部出身の集団は衛満率いる燕人の武装集団のことでしょう!箕子朝鮮を滅ぼし、半島北部先住の縄文人男性を皆殺しにした可能性があります。半島南部は倭国の勢力圏でしたので、縄文人と江南系の倭人との混血が進んだと考えています。

原三国時代の弁韓(伽耶地方)は倭人が多数住んでいたことが上の結果からも分かりました。渡来系弥生人は江南の倭人(Y-DNA O47z)と縄文人(D-M55)の混血ですから、上で示した藤尾先生の結果からも分かるように、すでに弥生時代後期からほとんど現代日本人と同じ構造になっていたと推定できます。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング