刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼は一体、誰でしょう?( ^)o(^ )

2024-06-15 21:30:02 | 古代史
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#いつもYouTubeをパトロールしていますが、とてもよくできた動画を見つけました。多くの研究者も古代史ファンもほとんどの方は「一次史料は正しい、正しく解釈すれば真実が分かるはずだ!」という一種の信仰のようなものではないでしょうか。魏志倭人伝や記紀を聖書のように見ているようなので、刮目天のような聖書を疑う異端者は嫌われるのですかね(;^ω^)
露骨に嫌悪される方も居ますが、有難いことにこのUp主様は心の広い方のようで、高評価を頂きました( ^)o(^ )
何度も同じような趣旨でいろいろな動画にコメントしていますので、
わたしの読者のみなさんは、ソロソロ飽きているかも知れませんが、
まだ気づかない方に、ケンカにならないように、優しくそっと教えて下さると有難いです(^^♪
よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)。



いい動画をありがとうございます。
魏志倭人伝には卑弥呼が倭国大乱を止めさせたり、倭国を統治した女王というように書かれているのですが、日本の歴史書に書かれていないので正体が分からないのですよね(;^ω^)

現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が天皇の歴史書だと信じているので古代史が謎なのですよ。
天武天皇が編纂を命じましたが、日本書紀は崩御34年後に完成しています。

また、712年に完成したとされる古事記について正史に記録はないですし、日本書紀で参照した痕跡すらないのですよ。

日本書紀は当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書なのです。
古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られることないように暴露する暗号書だったのです。

また、魏志倭人伝が何のために書かれたのか、どういう史料をもとにしたのかが分かると、
史料の信ぴょう性は考古学や民俗学の成果から編纂者の目的を考えて、ウソを見抜いて古代史を推理できますよ。

ちなみに、卑弥呼は宗像女神イチキシマヒメ、
魏志倭人伝にあった墓は宇佐市安心院町三柱山古墳だと分かりましたよ(^_-)-☆

詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。失礼しました(;^ω^)



@user-qb5nd1dn2y
邪馬台国と卑弥呼の真実は永久に明らかにならないでしょう!?
なぜなら邪馬台国と卑弥呼の研究だけで飯食ってる学者さんが大勢いるから


みなさん思い込みが強すぎて分からないのですよ。
古代史に謎があるのは文献と事実、つまり考古学や民俗学の成果との不一致が理由なのです。

思い込みが無ければ事実から文献の信ぴょう性を議論するのですが、
まず文献を信じることで書かれていることを好意的に解釈しようとするから謎のままなのですよ。

ウソを見破るには事実で検証する姿勢が必要ですね。

こういう正しいやり方で古代史を推理しましたので、よろしければ刮目天の古代史をご参照ください(^_-)-☆

【関連記事】
魏志倭人伝の真実?
陳寿も邪馬台国の位置を知らなかった!
西晋の史官陳寿は創業者司馬懿の嘘が分かっていても、司馬懿の書かせた魏使の報告書をそのまま引用せざる得ないのです。でも陳寿すら邪馬台国がどこにあったのか分からないまま、想像した場所に読者を誘導したようです。だから、陳寿の文章を信じた現代の研究者も結局正解に至らないのです。実は、邪馬台国への行程記事は本当の倭国王難升米が、都合の好いように書いて教えたものだったのですから、当時の倭人すら女王卑弥呼はどなた?や邪馬台国の場所すら分からなかったのだと思います。ですから考古学や民俗学などの成果から推理すると、魏志倭人伝や記紀のどこにウソがあるのかが分かってくるのですよ(^_-)-☆

神話が隠した不自然な史実(;一_一)
もしも天皇の歴史書だとすると、自分の祖先のとんでもないスキャンダルまで書くはずないですよ!日本書紀は天皇でない別の権力者の都合の好い作り話だと容易に気づけるヒントが満載なのですよネ!( ^)o(^ )

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻( ^)o(^ )

2024-06-14 21:03:33 | 古代史
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#前回「【葦嶽山の秘密】能ある鷹は爪で指す?の巻!」でご報告したとおり、実際に葦嶽山に登り、この日本ピラミッドが奴国大王スサノヲの霊を祀る祭祀場だったことを確認しました。

スサノヲを葦嶽山で最初に祀った人物は「日本ピラミッドの謎?(@_@)?」で述べたとおり、奴国のクーデターを逃れた弟のニギハヤヒと推理しています。この山頂でストーンサークルを造ってスサノヲを弔う祭祀を行い、裏切り者の吉備の勢力を討ったと推理しています。吉備津彦として隠されたニギハヤヒ所縁の場所にはストーンサークルが見られます(詳細は「備後・吉備のストーンサークルと日本ピラミッド葦嶽山」参照)。ニギハヤヒはまだ幼いスサノヲの王子イタケルを伴って、かつての部下の宮廷司祭師升らに恨みを晴らす誓いをしたと思われます。拝殿があるのが鬼叫山(ききょうざん)ですから、雰囲気が分かりますね(*´Д`)

父伊弉諾尊の代に瀬戸内海航路の要衝の吉備を任された勢力が奴国を裏切って師升の倭国に出入りして交易している情報を得たので、ニギハヤヒはムナカタ族の支援を受けて吉備を平定し、奴国を再興しますので、スサノヲの跡を継ぐ奴国大王天照大神尊(先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)とされます。このニギハヤヒの伝承が「桃太郎の鬼退治」として民話になっています(詳細は「【大発見!】日本の天皇のルーツだ!」参照)。

葦嶽山山頂付近や鬼叫山の巨石群の設置には多大な労力と時間が費やされますので、この時にニギハヤヒ自身が造ったのか、あるいは後に、イタケルの子孫の出雲・丹後王国三代の王である八束水臣津野命(以下、八束命と略記)・日高彦・高野御子が造ったのかよく分かりません。スサノヲ大王終焉の地である奴国の丘の北側の熊野神社を鷹岩の西側突起の「鷹の爪」が指していることを考えると、米神山では大国主高野御子が大々的に月の神谷の石柱群を父の終焉地に向けていることを突き止めていますので、なぜ誰でもがはっきりと分かるように鷹の頭か顔をスサノヲの終焉地に向けなかったのだろうか?という疑問が残ります。

そう考えると、「奴国乃大王」の鳥居と同様に、藤原政権の時代かそれ以降にスサノヲ大王の縁者らが遠慮しながら設置したのかも知れません。その秘密を解く手がかりは鬼叫山の方位岩などの方角かも知れないので、さらなる調査が必要だと考えています。

いずれにしてもスサノヲの終焉の地から葦嶽山への霊ラインを延長すると豊岡市気比の銅鐸出土地に誘導され、スサノヲの代表的な活動拠点が豊岡市気比であったことが分かりました。今回は、スサノヲの足跡を早足で辿ることにしましょう(^_-)-☆

豊岡市気比からは前回見たように銅鐸が4点出土しており、この地でスサノヲによる縄文系の祖霊祭祀が行われたと分かります。そこから約200m川上の地点に五十茶狭沙別命(イササワキノミコト)を祭神とする気比神社があり、社伝によると、和銅2年(709)の創祀だそうです(注)。また、現在の気比川河口から500mのところに戎岩(恵比須岩)があります。鳥取県から丹後半島の西海岸までの東西約120km、南北約30kmのエリアが、山陰海岸ジオパークとなっていて、2000万年まえからの日本列島の形成が分かる天然記念物があります。きれいな石の柱(柱状節理)のある玄武洞、気比の戎岩や砂岩が波で浸食された多数の奇岩や珍しい生態系が残されており、ユネスコに登録されています。その東側の小山の上にも気比神社がありますのでスサノヲが王宮とし滞在したのでしょう。その他、京都府京丹後市にかけてスサノヲに関係する史跡や神社が下の図のとおり、数多くあります。今回の旅行では全部回り切れませんでした。新たな発見があるかも知れませんので、また行きたいと思います( ^)o(^ )



それで、本題ですが、すでに八束命の国引き神話でお話ししたとおり、「新羅の岬」は項浦(ポパン)市虎尾岬だと推理しました(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。対馬から海流に乗って容易に?到達できる岬はここでしょう。その東側にかつての新羅の王都のあった慶州市があります。新羅が成立するのは四世紀ころですが、それ以前の原三国時代から盛んに製鉄が行われていたのが慶州市隍城洞遺跡です。高慶秀「韓国における祭祀遺跡・祭祀関連遺物-沖ノ島祭祀の位置づけのための比較検討資料-」(平成23年「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅰ 抜刷)にも紹介されていますが、製鉄炉、溶解炉、精錬・鍛錬鍛冶炉などの遺構が見られ、四~五世紀において製鉄が本格的な体制で行なわれたようです。13世紀末に成立した「三国遺事」に見られる昔氏の始祖脱解尼師今が治めた辰韓斯盧国です。新羅の第四代王で在位:57年 - 80年とされています。倭国の東北一千里の多婆那国で誕生したという伝承です。スサノヲとほぼ同じ年代ですのでスサノヲがモデルの伝承と考えていいと思います(詳細は「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。

ずっと気になっていた葦嶽山の天狗岩の方向が分かりました。300度よりもわずかに小さかったと思います。今度行ったときにはもっと正確に測ってきたいと思います。


<クリックするとMyMapにジャンプします>


MyMapで見ると分かりますが、最高倍率に拡大してもかなり精度よく遺跡などを通過します。三点をGoogleMapの最高精度で正確に通るように設定するのはかなりしんどいですよ。つまり霊ラインはその人物にゆかりのある地点三点を恣意的に引こうとしてもなかなか難しいのですよ。ですから、偶然ではない、何かがありますので、霊ライン上に新たな発見ができるかもしれないと、毎日嵌っています。時間がいくらあっても足らない感じですよ(;^ω^)
ご興味がわけば一緒に古代史の冒険をしませんか!
勿論、信じるか、信じないかはアナタ次第ですが(#^.^#)

(注)気比大神の正体がスサノヲであることは「すべては古事記の中に」に詳しく在ります。応神天皇が大神と名前を取りかえた「名易え」説話が古事記にありますが、これは応神天皇がスサノヲの子孫の大国主の子であることを暗示しています。古事記が藤原氏に隠された史実を暴露するための暗号書だと分かる例のひとつです。

また敦賀一宮気比神宮の例祭「敦賀まつり」は敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の盛大なまつりですが、「長まつり」と呼ばれています。「長」はナーガ(龍蛇神)です。気比神宮の祭神を仲哀天皇としていますが、日本書紀で創作された天皇です。卑弥呼の死後に倭国王に立った尾張王ヲトヨノミコトをモデルとした天皇ですから応神天皇の本当の父ではないのです。気比神宮のご祭神気比大神はナーガ(奴)国大王スサノヲなのですよ(^_-)-☆


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【葦嶽山の秘密】能ある鷹は爪で指す?の巻!(;^ω^)

2024-06-11 13:16:33 | 古代史
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先月、米神山で大国主に会ってきた!で記事にしましたが、大分県宇佐市安心院町の米神山を下山して、日本ピラミッド葦嶽山に行くために予約した広島県庄原市の宿に急いで車で向いました。高速道路で5時間くらいかかりましたが、予定よりもかなり遅れて、18時過ぎにようやく到着しました。温泉で疲れを落として、翌朝9時に、葦嶽山登山に初めて挑戦しました。

下の葦嶽山のルート案内図にある山頂に近い駐車場から登り始めました。問題なかった左ひざのサポータを前日痛めた右ひざに嵌めましたが、最初の急な坂を30分くらい登ったところで痛みを強く感じ、これ以上進めないと判断しました。また大国主大神の杖のおかげで何とか車にたどり着けましたので、帰宅することができました。下の図の右にある山頂から直ぐの天狗岩の鼻先が240度の方角に向いていると前方の山影から判断していましたので、それを確かめるのが目的でした。奴国宮廷楽師帥升(正しくは師升)らの反乱で亡くなったスサノヲ大王を祀る場所と推理した福岡県春日市熊野神社の方向です(詳細は「倭国王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。1週間くらいして右ひざの調子が元に戻りましたので、両ひざのサポータなどを準備して、先週、再挑戦しました。今回も、割と山登りに適した天気でしたのでラッキーでした。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)



8:40ころ駐車場を出発しました。前回は現在撤去されている「奴国乃大王」の鳥居のあった場所を確認したいためにあのキツいルートにしましたが、ネットで赤いガラス製?の鬼子母神が石のベンチの上にあったのを再度確認しました。葦嶽山前方の山(781m)の山頂付近です。鬼子母神としましたが子安観音か、あるいは慈母観音が正しいかも知れません。いずれにしても乳児のスサノヲを抱いた母イザナミを表しているのではないかと思います(^_-)-☆
日本ピラミッド空撮映像
(詳細は「日本ピラミッドの謎?(@_@)?(2024-02-02 20:20:02)」参照)

そこで、今回の往復ルートは、ハイキング用のメインルートにしました。前回のような急登の箇所はなく、比較的ゆるやかな階段をひたすら登って行くだけですから、さほど疲れませんでした。15分くらい登るとなだらかな尾根道に出ましたので、そこで小休止しました。ウグイス嬢にしきりに何か話しかけられましたが、言葉が通じないのが残念でした。こちらも負けずにホーホケキョ!そしたらもっとやかましくホーホケキョ・ケキョ!・・・なんか心が通い合った楽しい気持ちで、ちょっとの間、安らぎを覚えました(;^ω^)

平坦な小径を少し歩くと、前回のルートとの合流地点があり、それを横目に進むと山頂への少しキツイ階段になりました。しばらく行くと見えてきました。あの鷹岩です。


(鷹岩:南側より撮影)

早速、背中の方(北側)に回って、頭部の向きを測定しました。コンパスの矢印を頭部の向きに合わせ、コンパスを水平にして磁針が磁北と重なるようにダイヤルを回すと177度でした。広島県庄原市の磁北は西偏7.0度ですので、ほぼ170度になります。宿に戻って気づいたのですが、参考にした磐座学会の平津豊氏のレポート「葦嶽山ピラミッド2」(2018.5.6)には鷹の嘴の方角が120度で、「冬至の日の出」の方向という説明でしたので50度も異なります。測定したときには気づきませんでしたが、頭頂部の方向と、鷹の嘴の方角がずれていたということのようです。鷹岩の測定を終えて、はやる気持ちを抑えながら、山頂に向いました。

山頂部に到着しました。直径5mほどの山頂スペースに、かつてはストーンサークルがあったのが官憲に破壊されたようで、現在はわずかな痕跡しかないので、はっきりしません。取り合えず景色を少し楽しみました。

(日本ピラミッド葦嶽山の山頂)

天狗岩へは西側に小径があると聞いていたので、赤いリボンの目印のある小径を見つけて進みました。しかし、5mほど下りましたが、それらしき岩が見当たらないのでさらに進みました。急な下り坂になったので、あらかじめ用意してきた10mの登山用ロープを取り出して、丈夫な木の根にロープを回してカラビナで固定しました。さらに5mほど下がってもまだ小径が続いているようでしたので、伸び上がって様子を見たところ天狗岩らしきものが見当たりません。これ以上進むのは、帰りが辛いのでとても残念でしたが、天狗岩の調査を断念し、山頂に戻ることにしました。


(葦嶽山山頂の天狗岩・烏帽子岩への小径)

坂をロープを握って降りるときには気づきませんでしたが、木で覆われた岩が左手にちらっと見えたので、その岩の上部に登って行って、覆っていた小枝をかき分けると天狗岩の鼻のような感じです。しかしとても短くて、50cmくらいでした。米神山の1.5m以上はある石柱と同じくらいと考えていましたので少しがっかりしました。早速、コンパスを出して方向を計ると、何と300度近くあり、さらにガックリきました。余りのショックで、しっかり写真を撮るのさえ忘れてしまいました。


(木に覆われた天狗岩の鼻)

平津氏のレポートに烏帽子岩(えぼしいわ)の方角300度が「夏至の日の入り」という説明があったのを思い出し、天狗岩の鼻も同じ向きのようでした。この小径は多分山頂から50mも下の烏帽子岩にもつながっているのでしょう。天狗岩の方角は予想外の結果でかなり落胆しました(*´Д`)

巨石群のある鬼叫山の方位岩を確かめに行こうと思い、山頂から足を一歩踏み出しましたが、滑りやすい坂道だったので気力が失せてしまいました。次の予定もあるので、今回は自重して、「帰ろ、帰ろ!」。即、帰還を決心しました。

期待した成果が得られなかったので本当に落胆しましたが、怪我しないように気を引き締めて駐車場に向けて下り始めました。鷹岩が見えました。最初に鷹岩の後ろ(北側)から見たときには右側(西側)に30cmくらいの、鷹の爪のような岩の突起があるのに気づきましたが、頭部の方位測定をしているうちに鷹の爪のことは忘れていました。もう一度鷹の爪を見て、閃きました!もしかしたら?早速コンパスを出して測定したところ、ナント!鷹の爪がほぼ240度の方向に向いていました(注)。バッチリです!( ^)o(^ )


(鷹の爪:鷹岩の北側)

一気に疲れが吹っ飛んだ気分です。じゃあ、天狗岩の鼻先の300度は何なんだ?と考えながら駐車場まで下りて行きました。11:35でしたから約2時間の行程でした。サポータのおかげで、ひざの痛みなど全く感じませんでした。烏帽子岩の300度と鷹岩頭部の170度を考え続けながら次の宿に向いました。おかげで、ETCカードを挿さずに庄原ICから中国自動車道に入るチョンボまでしました。慌てて直ぐにカードを挿入しましたが、手遅れでした(;^ω^)モタモタして後ろについていた乗用車の方にご迷惑をおかけしてしまいました。朝、コンビニでお昼用に買ったおにぎりとサンドイッチを、本村(ほんむら)パーキングエリアで食べながら、ずっと考え続けていました。

予約した次の宿というのは、例の狗古智卑狗の霊ラインで大発見した、豊岡市竹野町の「誕生之浦」の石碑と猫埼半島の根元の「五社大神宮」の近くです(詳細は「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。中国自動車道の福崎JTから播但道路をひたすら走り、予定の17時チェックインに余裕で間に合いました。翌日の朝6時前には宿を出発し、五社大神宮のある小山に登り、大国主の父の日高彦の居城跡を見て、小山を居りて石碑を撮影してきました。今回は奴国大王スサノヲの霊ラインの話ですので、また、別の記事でご報告したいと考えています。

さて、春日市熊野神社から葦嶽山山頂に引いた直線をさらに北東に伸ばすと、豊岡市気比の銅鐸出土地に行きあたりますので、車で向かいました。豊岡市内を流れる円山川の東側にある気比川の右岸にありました。車一台が通れる石橋が架かっているのですが、前方にゲートがあって、車は通れないと判断し、石橋の入り口に止め歩いて様子を見に行きました。そうしたら、自由に開閉できるアームが付いていましたので、開けて川岸を右手に少し行くと見えてきました。

圧倒されるような大きさの岩の下部に出土した銅鐸の説明看板があります。これを見て、奴国宮廷楽師らに殺された原因を推理した内容が間違っていないと確信しました。スサノヲ大王の霊ラインが教えてくれました( ^)o(^ )


(気比銅鐸出土地と銅鐸)

スサノヲは父伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の跡を継いだ第18代奴国王です。母は縄文海人ムナカタ族の族長の娘だと宗像大社の秘密の伝承から分かります。国生み神話は奴国王とムナカタ族長レベルの婚姻によって、列島の特産品の対外交易を奴国王が抑えることにより、倭国をさらに隆盛にするための政略結婚だったと思います。すでに伊弉諾尊の父沫名杵尊(あわなぎのみこと)が後漢の光武帝に西暦57年に朝貢して有名な国宝金印を賜ったと考えています。糸島市伊都国に楽浪郡などから倭国の珍しい品物(玉類、水銀朱、倭錦、アワビの塩漬けなどの海産物など)を買い付けにやって来るシナ人の華僑を三雲遺跡番上地区に居住させ、奴国王に倭人との交易を保障させるために冊封体制に組み込んだということです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社)。スサノヲ大王はおそらく立派な髯をのばした縄文系の風貌だったと思います。ムナカタ族の部下と共に半島南部に鉄素材を入手するために出かけ、対価としてガラス製品や玉類を丹後半島の遺跡で製造していたと考えています。

こういうことで、奴国王でありながら王宮を留守にすることが多く、奴国の伝統祭祀は司祭帥升たちに任せきりで、たまに戻ってくると縄文式のバカでかい銅鐸を取り入れろと命令して、また出かけたので、師升らは困ってしまい、反乱を計画したと推理しました(詳細は「【刮目天の古代史】謎を解明する<倭王帥升の謎>」参照)。

縄文時代から弥生時代へと時は流れてゆきますが、当時の人々の日常生活は太陽の動きに従って行われますので、太陽の運行は、その当時の人々の生活の指針であり、太陽そのものは信仰の対象だったと考えられます。しかし、弥生後期に倭国を支配する奴国の大王が殺されたクーデター事件によって、一気に人々の闘争本能が呼び覚まされたのだと思います。恨みを晴らしたいという強い執念が原動力となり、時代は強いリーダーを求めたのです。現在人が重機を用いたとしてもとても困難と思われる場所に、意味のある方位に巨石群を設置する原動力は、祖神に対する人々の強い信仰心でしょう。

二世紀後半の倭国大乱の時代には、亡くなった偉大な大王の霊をその後継者が身に纏うことによって、さらに偉業を達成できると人々は期待し、信じたようです。これを米神(首長霊)信仰と呼びます。これが天皇即位の儀礼にも取り入れられています。

弥生後期では自然の地形を一部利用する弥生墳丘墓を造り、墳頂で死者を弔い、首長権継承の儀礼を多くの人々が参加して大々的に執り行ったようです。三世紀の古墳時代にはわざわざ平地で大規模な定形型墳墓(前方後円墳など)をより大きな手間をかけて造成するようになります。後継者は墓の大きさによって権力の大きさを可視化することができます。

この古墳時代に繋がる騒乱の時代には人々は怨念の連鎖反応で感情が爆発したのだと思います。このような過酷な時代には、現代人にはない、研ぎ澄まされた霊的な感性によって何百キロも離れた地点から父祖・大王の霊が直線的に空中を飛ぶのを心の目で捕らえる能力があったようです。そうでなければ、このような人工的な巨石群を作れないのではないかと考えています。



300度などの話を調べているうちに時間が経過してしまいましたので、続きがありますが、一旦ここで打ち切ります。
この霊ラインの話、信じるか、信じないかは、アナタ次第です(#^.^#)

(注)鷹の爪と見立てた岩が短いので、どこを起点にして爪の先の方角を計るかが精度に影響しますので正確な測定は困難でしょう(;^ω^)

【関連記事】
日本ピラミッドの謎?(@_@)?

熊野信仰の秘密?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その24)


銅鐸祭祀は何故、消えた?

備後・吉備のストーンサークルと日本ピラミッド葦嶽山

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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【大発見!】日本の天皇のルーツだ!(*^▽^*)

2024-06-03 17:23:04 | 古代史
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#2021-01-05 17:00:16に記事にしましたが、若干見直しして、神階についても調べましたので注記しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

すでに、倉敷市の楯築遺跡に祀られた神社のご神体が亀石と呼ばれる人面蛇体の石だったことを発見してとても驚いたことをlight77g様より前回の記事にコメントいただいて思い出しました。今回は、この話題にしますね。最後までお付き合いください(#^.^#)

纏向遺跡に出現した初期前方後円墳のルーツと見られる楯築遺跡の王墓が、この人面蛇体の亀石によって天孫(奴国王族)のニギハヤヒ大王のものに間違いないと確信しました。詳しくはこちらでどうぞ(^_-)-☆

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?



すでに、日本の最初の神様が天御中主(あめのみなかぬし)で、天は海を表し、中はナーガ=龍蛇神を表すので、ナーガを祀る海人族の首長を意味することは日本の歴史の始まりはこうだ(その1)で述べました。つまり、倭人のルーツは江南の呉出身の農耕・漁労民族です。この倭人の最初の王が天御中主なのですから、越に滅ぼされた呉の王族です。

三国志を編纂した陳寿は、同じ時代の魚豢(ぎょかん)が記した「魏略」を参考にしていることが知られていますが、「魏略」には重要なことが書かれていました。「聞其旧語自謂太伯之後(倭人に)昔の話を聞くと太伯の後裔と言っている」と書かれています。多分、魏使の報告書からの引用でしょう。

すでに日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!で以下のとおり説明しました。

周の先王「古公亶父」の末子季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、「わが家を興すのは昌であろうか」という父の意を量った長男太伯とその弟虞仲が、季歴に後を継がせるため荊蛮の地(長江下流域)へと自ら出奔し、そこで呉を興した。従って呉王族のハプロタイプは原始夏人系O1aで、被支配民がO-47zの集団だった。倭人が太伯の後(太伯には子がなかったので、虞仲の末裔)と『魏略』逸文(『翰苑』巻30)や『梁書』東夷伝に記されているが、倭人の支配層である呉王族のことである。

Y染色体DNAハプロタイプO-47zは江南出身の稲作・漁労の倭人のものです。陳寿はすでに述べたように司馬懿の功績を書くことが目的ですから、倭人の王が周王朝とつながる姫氏という由緒は余計なものとして省略しましたが、昔から日本は姫氏国という伝承はあったようです。

そして周王朝は殷周革命により殷(商)王朝(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)を滅ぼしましたが、中国最初の夏王朝を滅ぼしたのが殷(商)の湯王です。夏王朝は一説では中国神話の五帝とされる禺(う)によって建国されたと伝えられています。黄河中・下流域の二里頭文化(にりとうぶんか)の担い手が夏人ですが、夏人がどこから来たのかが重要です。これについては次のような説が有力です。

中国(なかつくに)神話では伏羲と女媧(じょか)が人類の始祖神です。

長江文明が一夜にして消え、生き残った伏羲と女媧の夫婦が黄河流域で文明を興こしたという伝承です。三皇の筆頭が天皇伏羲です。その後、五帝の最後の禹(う)が治水を行って夏王朝を興したという伝説になっています。脳科学者の中田力さんは長江文明から夏王朝を興した人々を原始夏人(Y染色体DNAハプログループO1a)と呼びました。



日本建国にあたりヤマトに国譲りした大国主命が祀られている出雲大社は有名ですが、驚くことに、そのとなりの出雲国二ノ宮佐太神社が「神在りの社」と呼ばれています。神無月に全国の神様が元々はここに集まっていたという伝承がありますが、その先触れとして二匹の夫婦の龍蛇神が黒ヘビの姿で浜に上がってくると伝えられています(「米神山で大国主に会ってきた!」参照)。


出雲大社に龍神と蛇神が祀られていた?!で検索してください!

佐太神社の御祭神がサルタヒコなのです。三輪の大物主大神(大国主大神の和魂)もヘビですから、サルタヒコの正体が大国主だと分かるわけです。そして、大国主のペアは神功皇后台与です。サルタヒコのペアのアメノウズメは台与のことですよ(^_-)-☆

サルタヒコは天狗のような容貌ですがサルと呼んでいるのは、示すヘンに申(サル)という字が「神」だからです。大和朝廷にとって神と言えば真っ先に大物主大神(大国主)のことなのです(「天狗の正体もヤッパリ」参照)。

「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!

注連縄は二匹のヘビが交わった状態を意味し、人面蛇体の天皇伏羲と女媧であり、サルタヒコとアメノウズメでもあり、さらに大国主と台与を表しています。アソツヒコ・アソツヒメなど列島各地に現れる夫婦神も大国主と台与なのです。

そして、新天皇の即位の礼の後に初めて行われる新嘗祭を大嘗祭と呼び、宮中祭祀で最も重要な儀式なのですが、『吉野裕子氏は、「大嘗祭」(弘文堂)のなかで、大嘗祭が“蛇の呪文”に彩られていること、この信仰の原型が物部氏のものに似ていて、しかも物部氏が重用されていることについて、「物部氏の祭祀そのものが天皇家によって踏襲されたことも考えられる。この場合も、祖神の蛇の呪力を担うものとしての物部氏に対する記憶は、そのまま祭祀における物部氏の重用につながるのである」とされるが、残念ながら、これだけで大嘗祭と物部氏の関係のすべてを語ったことにはならないと思う。というのも、天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが、大嘗祭の本質であった気配が濃厚だからであるとあります(関裕二「消された王権・物部氏の謎 オニの系譜から解く古代史」 (PHP文庫)2002,pp.106-107)。

新唐書・宋史にあるとおり、日本は、古(いにしえ)の倭の奴(ナーガ=龍蛇神)国で間違いないということです。

Wiki「神階」によると、六国史終了時点で以下の四柱にだけ特別な神階「品位」が与えられていることにより、日本の建国の真相がわかります(括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名)。

一品
伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神、八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
二品
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)


伊佐奈岐命は国生みの神ですから皇祖神といえばこの神になります。

次に八幡神ですが、前回述べたように応神天皇の父大国主狗古智卑狗が隠された祭神です。八幡比咩神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼のことです。伊都国に居た倭王難升米によって日蝕のために殺されたので、ヤマト勢が直接手をかけたわけではないと推理してますが、狗奴国ヤマトが倭国に押し寄せるタイミングでしたので、ヤマトに恨みをもって亡くなったと考えられているので特別に丁重に扱っていると考えられます。履中天皇紀でも宗像三女神が天皇や皇后に祟る話が見られますので、祟る女神なのです(「空白の世紀と倭の五王の謎?(その2)」参照)。

ここで、国生みの神イザナミや応神天皇の母台与が出てきませんが、八幡比咩神は卑弥呼を含めた三人の宗像の姫神の総称だと考えると納得できます。宗像大社の伝承に「ムナカタの子がスミヨシ、その子がウサ」とありますから、スミヨシはイザナミの子のスサノヲの子孫で住吉大神の大国主狗古智卑狗です。大国主の子が宇佐八幡大菩薩応神天皇ということを暴露した伝承なのです。

そしてワンランク下げられてはいますが、吉備津彦こそ、伊弉諾尊・伊弉冉尊の子で大和朝廷の基礎を作った饒速日尊(ニギハヤヒ)と突き止めました(宋史 王年代紀第十九代王天照大神尊、先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で物部氏の祖神)。前回も述べた通り現在の天皇家の祖神ということで丁重に祀られていると分かります。大和朝廷が手にかけたわけではないので祟られることはないでしょうが、吉備津彦の正体がニギハヤヒだということは秘中の秘でした。多分、建国の真相を隠したい藤原不比等がニギハヤヒを隠したのですから、朝廷としてはお隠しして大変申し訳ないということではないでしょうか(注)。関裕二上掲書の吉野裕子氏・関裕二氏のご意見から見て宮中儀礼ではしっかり祀られているのだと分かります(^_-)-☆(2024.6.3 赤字追加)

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(注)wiki「伊弉諾神宮」によると、朝廷は伊弉諾神宮伊佐奈岐命に対して、天安3年(貞観元年859年)1月27日に無品勲八等から一品勲八等としました(日本三代実録)。さらにwiki「吉備津彦」によれば、備中国吉備津神社吉備津彦命神は従四位下(『続日本後紀』承和14年847年10月22日条)から貞観元年(859年)1月27日に二品まで昇っています。

貞観の前の天安元年(857年)は、京の治安が乱れ、翌年、京中で洪水が起こるなど大きな被害があって、8月27日に文徳天皇が崩御されたので、同日清和天皇がわずか9歳で即位し、貞観に改元されました。神階の昇叙理由を表向きは即位の際の恩典としていますが、皇祖神を疎かにしたからと考えたからでしょう。特に、ニギハヤヒ大王を吉備津彦という名前にして隠したことに対する祟りを怖れ、他の三柱の皇祖神と同じ特別な神階を差し上げたと考えられます。しかし、その後も富士山や阿蘇山など各地の火山が噴火し、地震や津波が頻発しました。朝廷は皇祖神たちの祟りに震え上がったのではないかと思います。

なお、宇佐神宮の二柱に対しては『続日本紀』巻十七 天平勝宝元年(749年孝謙天皇)に「八幡大神禰宜尼大神朝臣杜女拝東大寺。天皇。太上天皇。皇太后。同亦行幸。…(略)…。因奉大神一品。比咩神二品。」という記事が見られます。八幡大神は応神天皇とされていますが、正体はその父大国主大神です。比咩神は宇佐神宮の比咩大神宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼で、上記のとおり最終的に一品になっています。


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国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!(^_-)-☆

2024-06-02 16:08:07 | 古代史
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6/9(日)までの期間限定)【日本神話】学校が教えない日本誕生秘話〜謎を解く鍵は天皇すら入れない禁域?三橋TV

とてもいい動画をありがとうございます。

国譲り神話は二世紀から三世紀にかけて起こった日本建国過程を反映したものというのは正しいです。ご指摘のとおり、二世紀後半の出雲市神庭荒神谷遺跡の土中埋納された青銅祭器の出土と西谷墳丘墓の大型四隅突出型墳丘墓の出現とその後の日本海沿岸部への拡散が出雲王国の存在と繫栄を意味し、そして三世紀後半から始まる古墳時代の前方後円墳の全国的な盛行が出雲王国の滅亡を示します。纏向遺跡でヤマト王権が成立した証拠です。



クリックすると、王や妃など人物の様子が見れますのでどうぞ(^_-)-☆


しかし、その他の考古学や民俗学の成果から、国譲り神話と史実は内容が異なることを発見しています。高天原から天孫降臨したとされるヤマトの勢力が出雲王国を討ったことは事実ですが、大国主に国譲りさせた英雄のタケミカズチ神とフツヌシ神はそれぞれ、尾張氏と物部氏の祖神で、実在人物です(下で説明します)。

ところがこれらの神を藤原氏は氏神として春日大社などで祀っていますから、八世紀初頭の権力者だった藤原不比等が日本書紀の中で国譲り神話を創作し、遠い太古の神話の時代から藤原氏の祖神が活躍したことにして、藤原氏の権力の正統性を主張するためだったことが分かりました。

つまり、日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのですが、完成は720年ですから崩御の34年後だったのです。現存する最古の正史日本書紀は天皇の歴史書ではなく、勝者藤原氏の歴史書だったということなのです。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、九世紀の学者多人長が突然表に出してきたもので、正史にその記録はないですし、日本書紀で引用した痕跡もありません。実は藤原氏に改ざんされた史実を、藤原氏に悟られないようにして暴露する暗号書だったことが分かりました。これにより、吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺や豪華な副葬品が出土した富雄丸山古墳の被葬者が判明しました(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】少彦名命の石棺だ」「富雄丸山古墳に何故葬られたのか?」参照)。

少し長くなって恐縮ですが、隠された史実の概略は以下のとおりです。

日本海沿岸の縄文海人ムナカタ族を束ねた出雲・丹後王国の王久々遅彦(107年に後漢に朝貢した帥升に殺された最後の奴国王スサノヲの子孫、豊岡市久久比神社祭神、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、代々襲名、出雲・丹後王国三代の王は記紀神話の日向三代として隠されています。詳細は「消された出雲・丹後王国の謎!(その1)(その2)」参照)が247年の卑弥呼の死後の内戦に勝利して列島の大部分を支配下にした倭国王ですので、記紀で大国主命と呼ばれた人物です。13歳の姫巫女台与(近江・越を支配下にするムナカタ族息長宿禰王・少彦名命の姫巫女、記紀の神功皇后のモデル)を外交上女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国(旧奴国)の卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇、吉備で奴国を再興したニギハヤヒ大王の子孫、ニギハヤヒはスサノヲの同母弟、母はムナカタ族の姫イザナミ)を裏切って対立します。

270年頃に、大国主勢に討たれた父乎止与命(ヲトヨノミコト、ニギハヤヒ大王の子孫、記紀の仲哀天皇)の仇討ちのために建稲種命(熱田神宮祭神、記紀の景行天皇で、英雄ヤマトタケルのモデル)が九州遠征し、苦難の末に大国主・台与の倭国を滅ぼして、日本を統一します(崇神紀の四道将軍の遠征ルート上から戦闘の痕跡の鉄鏃・銅鏃を発見しました。その詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください)

さらに280年に西晋によって呉が滅ぼされたので、纏向遺跡の狗奴国王卑弥弓呼大王が西晋に滅ぼされることを怖れ、大国主と台与の子ホムダワケ(崇神紀の大国主大神の鎮魂のために呼び寄せられた大神の子大田田根子)を探し出して両親を祀る祭祀王に立てました。これが初代応神天皇です(神武天皇は日本書紀の中で建国の史実を隠すために創作された応神天皇の虚像です)。そして纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼び卑弥呼・台与の後継国とすることによって滅亡の危機を回避したということなのです。

藤原不比等やその子孫によって史実は隠され、歴史が歪曲・改ざんされていますが、事実、つまり考古学や民俗学の成果に基づいてアブダクションという第三の推論法を使って一定程度史実を復元することができました(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」参照)。長々とお邪魔しました(;^ω^)

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国譲り神話の史実は?
こちらでも同様の内容を記事にしていますので、ご参照ください(#^.^#)

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魏志倭人伝で狗奴国王よりも先に紹介された狗奴国の官は大国主だったのですよ(^_-)-☆



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10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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