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【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 

2017-07-12 09:40:16 | 古代史
<世界遺産>福岡「沖ノ島」登録決定 構成資産8件一括で
07月09日 18:11 毎日新聞

 ◇ユネスコの世界遺産委 国内で文化遺産17件の計21件に

 ポーランドのクラクフで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は9日、福岡県の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を世界文化遺産に登録することを決めた。ユネスコの諮問機関は、日本政府が推薦した構成資産8件のうち4件を除外するよう勧告したが、逆転で一括登録が認められた。これで国内の世界遺産は文化遺産17件、自然遺産4件の計21件となる。

 宗像市の沖約60キロに浮かぶ沖ノ島は、4〜9世紀に航海の安全と大陸との交流の成功を祈願する祭祀(さいし)が営まれ、その跡がほぼ手つかずで残る。戦後の学術調査で大陸からもたらされた銅鏡や武器、装身具などの奉献品約8万点が出土し、全て国宝に指定された。宝物の多彩さから「海の正倉院」と呼ばれる。島そのものが神体とされ、立ち入りは原則禁止されている。

 ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)は今年5月、沖ノ島を「古代祭祀の記録を保存する類いまれな収蔵庫」と評価し、周辺の3岩礁「小屋島」「御門(みかど)柱」「天狗(てんぐ)岩」と合わせた「宗像大社沖津宮(おきつみや)」を世界文化遺産に登録するよう勧告した。

 しかし、沖ノ島を望む大島にある宗像大社の「中津宮」や九州本土にある「辺津(へつ)宮」、祭祀を担った豪族の墓とされる「新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群」など、古代から現代まで続く沖ノ島の信仰を裏付ける4件は「世界的な価値は認められない」として除外を求めた。

 勧告を受け、文化庁や福岡県などの地元自治体は「宗像大社は3宮で一つで、考古学的な価値と信仰の価値は不可分」と訴え、世界遺産委の21の委員国に8件での登録を粘り強く要望した。その結果、委員国から信仰の価値を評価する意見が相次ぎ、一括登録となった。

 世界遺産を巡っては、富士山が2013年に世界文化遺産に登録された際にも、イコモスが構成資産の三保松原の除外を勧告し、日本政府が再度説明して三保松原も含めて登録された。【伊澤拓也


日本関係者「うれしさで泣きそう」=逆転登録に満面の笑み―世界遺産
(時事通信) 07月09日 20:05

兎に角、全部認められて本当によかった(●^o^●)

沖ノ島は下の図にある周囲4kmほどの孤島で、「縄文前期以降、ほぼどの時代の遺物も少量ながら発見されてはいるが、それらは漁労活動や航海の途中にたちよった程度のもので、とりたてて祭祀遺跡はのこしていない。これにたいして、目を見張るような祭祀遺跡物は四世紀ごろから急に目立ちだし、五~六世紀の奉献品が豪華で、遣唐使派遣の中止される九世紀末までつづく。」(「列島の地域文化」日本の古代2、森浩一編、中央公論社、1989、p.41 )


「魏志倭人伝」で記述された図中の島伝いの「倭人伝ルート」が厳しい玄界灘を渡る半島へのメイン・ルートだ。当時の手漕ぎの刳り舟の時代に、何故、より厳しい神湊から沖ノ島経由で半島に行く「海北道中」ルートが使用されたのか。何故、4世紀から大和朝廷が海人集団の長である宗像君に沖ノ島祭祀をさせたのかよく分かっていない。4世紀後半以降の解明は、「風土記」や「日本書紀」などによってある程度進んでいるが、それらの文献や伝承の内容が編纂当時の政治権力などによりかなり歪曲・ねつ造されているという認識の下で導いた、通説と異なる刮目天の仮説を検証しながら謎を解明しよう。

縄文時代には、玄界灘が穏やかな6月から7月に産卵や子育てで沖ノ島に上陸した二ホンアシカを捕まえるために、主に北九州沿岸部の人々が来ていたことが知られている(「宗像大社・古代祭祀の原風景」正木晃、NHK Books1119, pp.23-31).


弥生時代には中期に製作された瀬戸内海系土器片がわずかに発見されるが、西暦50年頃から出土量が増え、遠賀川流域から周防灘の地域の特徴を持つ土器片、対馬・壱岐で多く見られる土器片や朝鮮半島で発見される無文土器片も出土している。しかし、渡航目的はよく分かっておらず、縄文時代からの推測でアシカ猟と考えるのが自然であるが、それを裏付ける骨や貝殻の綿密な調査は行われていないらしい。(前掲書, pp.31-32)。

沖ノ島の祭祀は上記のとおり4世紀後半から5世紀までは巨岩の上で行われ、6,7世紀は岩陰で、7世紀後半は半岩陰・半露天、祭祀が終了する9世紀末か10世紀初頭までは露天祭祀だった。(前掲書, pp.35-39)。

さて、宗像君が奉斎する宗像三女神(タゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメ)はアマテラスとスサノヲの誓約(ウケイ)で生まれたとして「古事記」も「日本書紀」も共通しているが、下の表のとおり、その伝承はバラバラで、何が本当なのかを分からなくしているのが面白い。特に、「日本書紀」は何かを必死に隠そうとしているとみて取れる。



宗像三女神は、元々は倭人である海人族が航海の安全と豊漁を祈願するために祀った女神であり、半島南部の東側では海娘神などと呼ばれ特に若い、未婚の女性神が祀られていることが多いらしい(「玄界灘の島々」任藤権、海と列島文化第3巻、小学館、1990,pp.124-125)。同書によれば半島南部の西側では男神が祀られることが多いとある。那の津(博多)で住吉三神を祀る奴国王族(注1)や志賀島でワタツミ三神を祀る安曇族と(注2)、三女神を祀る宗像君が支配する宗像海人族(鐘崎海人)とは同じ海人族でも少し違うようだ。

鐘崎海人は「和名抄(倭名類聚抄)」にある筑前宗像郡海部(あま)郷に比定される鐘崎や中津宮のある大島に住む海女たちで、アワビなどを獲り、時には壱岐・対馬や響灘から山陰の海岸や北陸の輪島などに移動して漁労採集を行っていた模様だ(同書、伊藤彰,pp.393-395)。男性は海士・白水郎と呼ばれる海人族であり、「魏志倭人伝」にも「倭の水人好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕え、文身(イレズミ)するも亦た以って大魚水禽を厭(おさ)えんとしてなり」とあるとおりだ(「倭国伝」藤堂明保ら、講談社学術文庫2010、p.96)。


ここで関裕二さんが指摘する「ムナカタ(宗像)の子はスミヨシ(住吉)でその子がウサ(宇佐)」という宗像大社の不思議な伝承がアタマをよぎる(「海峡を往還する神々」関裕二、PHP文庫、p.188)前にも述べたが、住吉大神は関さんはスサノヲだと推理している。だとすればスサノヲはイザナギが父で、母はイザナミだ。そしてウサは宇佐神宮の祭神応神天皇(ホンダワケ)だから、応神がスサノヲの子?と言うことになる。ところが、既に刮目天は『宋史』「日本国」に記載された「王年代紀」からスサノヲは第17代奴国王伊弉諾尊(イザナギノミコト)の子で、1世紀末から2世紀初頭頃に帥升らによって奴国を追放された素戔嗚尊(第18代奴国王)だとつきとめているので、応神天皇は奴国王直系の子孫だと言える。だからスサノヲの母伊弉冉尊(イザナミ)がムナカタの一族だと考えると伝承のとおりだ。

「日本書紀」では応神天皇は仲哀天皇(注3)と神功皇后の子ということになっているが、これも関裕二さんが指摘するとおり、仲哀天皇が崩御した晩に神功皇后と住吉大神に夫婦の密事があったという伝承が住吉大社にあり、その晩皇后と一緒に居たのは武内宿禰であるから、彼が住吉大神=スサノヲの血を引く王だ。さらに関さんの神武=応神説から推し進めると、仲哀天皇は狗奴国に集まった尾張の王であり、武内宿禰は出雲・丹後・但馬・丹波を支配下に置いた出雲王大国主命(大己貴命オオナムチノミコト)だと分かる。神功皇后は近江・越を支配する女王であり、邪馬台国の卑弥呼の跡を継いだ宗女台与(トヨ)だというのが関さんの女王トヨ=神功皇后説だ。

以前に述べたとおり記紀編纂当時の権力者である藤原不比等と持統天皇はヤマト王権成立の本当の歴史を隠すために、神武天皇の話を創作した。神武は鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と玉依姫の子であり、ウガヤフキアエズは彦火火出見尊(山幸彦)と海神の娘である豊玉姫の子で、玉依姫は豊玉姫の妹、彦火火出見尊は天照大神(アマテラス)の孫の瓊々杵尊(ニニギ)と大山祇神の娘である木花之開耶(コノハナサクヤ)姫の子であるとしている。瓊々杵尊・彦火火出見尊・鸕鶿草葺不合尊を日向三代として書かれている。

しかし、刮目天は物部氏族伝承の「先代旧事本紀>(せんだいくじほんぎ)籠神社(このじんじゃ)宮司家の海部氏系図などから天照大神が男性神であり、第18代奴国王素戔嗚尊の跡を継いだ天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)だと考えている。スサノヲが追放された後、吉備を支配して力を蓄えた第19代奴国王天照大神尊だ。その次の正哉吾勝速日天押穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)の後が日向三代で、神武=応神の父ウガヤフキアエズが大国主命であり、23代目の奴国王と言うことになる。

吉備で勢力を蓄えた天照大神ニギハヤヒの子ウマシマジが邪馬台国連合倭国に対抗して、ヤマトの三輪山山麓の纏向に尾張・近江・出雲・丹波などの旧奴国王族を糾合して政治都市を建設したと推理している(注4)。

ヤマト王権の基を築いたのがスサノヲ・天照大神兄弟の子孫だ。

海北道中(沖ノ島ルート)で半島南部の鉄素材を宗像海人族が出雲・吉備などへ細々と供給していたので、それで作った貴重な鉄製工具を用いて日本海沿岸や東国が開発され、それらの国々が力を蓄えて、盟主としてヤマト王権が発展したのが事実だろう(図参照)。



実はこの時期に山陰から越にかけて四隅突出型墳丘墳(注5)が盛んに作られた。そして主として近江から東国にかけて前方後方墳が作られた。【検証2】で述べたとおりトヨが占領したことにより北九州でも作られた。さらに吉備から纏向に移った天照大神の子孫のヤマト王権は各地の首長に対して恭順の印として前方後円墳を作らせた。祭祀の形式を同じくすることで連合体を作っていったと考えるのが妥当だ。

したがって、沖ノ島祭祀は、海北道中ルートで鉄素材を供給した宗像海人族の当時の功績を称えるとともに、その後に裏切り者としてヤマト王権が追討した宗像の姫卑弥呼のヤマト王権への祟りを抑えるために始められたと推理できる。

またヤマト王権が次に追討した悲劇の女王台与(トヨ)の呪いを封じる目的で、ヤマト王権を発展させた神のような立派な功績を残した神功皇后という伝承を創作し、宇佐八幡神宮をはじめとしてゆかりの各地で祀った(注6)。

同様に、ヤマト王権は出雲王国を奪ったので大国主命の祟りを封じる目的で「雲太・和二・京三」で知られるとおり、日本一豪壮な出雲大社を作った。国譲り神話では大国主命の息子タケミナカタがタケイカズチに力比べで負けて、諏訪に逼塞することで許されたが、その名前からも母親が宗像系であることがわかる。

その後の卑弥呼と宗女トヨの呪いを封じ込め、半島政策(注7)や遣唐使派遣の事業の成功を祈願して、道主貴(ミチヌシノムチ)とする宗像三女神として、奥津宮・中津宮・辺津宮において宗像氏に祀らせたというのが真相だろう。全国の宗像神社で祀られる宗像三女神のうち、タゴリ姫とタギツ姫が大国主命の妃という神婚伝承があるので二人の姫がトヨ女王と推理できる(注8)。そうすると卑弥呼は厳島神社の祭神イチキシマ姫に対応することになる。つまり卑弥呼は七福神のひとり弁財天だったんかね(*⌒▽⌒*)

倭王帥升が奴国王スサノヲを追放したことから始まり、その子孫の伊都国の男王と海北道中ルートを抑える宗像海人族とが和解して、倭女王卑弥呼が共立された。卑弥呼は親魏倭王としてヤマト王権狗奴国と対立し、狗奴国が派遣した討伐軍のスサノヲ(大国主命=武内宿彌)と台与(トヨ=神功皇后)がヤマトを裏切って北九州から日本海沿岸部を支配する倭国を作った。なので、再度ヤマト勢が倭国を滅ぼして大倭国(大和国)を作ったという厄介な事実を隠す目的で、様々な伝承を創作したのだと考えている。

それでも何故、そんな史実と異なる伝承を残さなければならないのかという疑問が起きる!それはヤマト王権に怨みを抱いて亡くなった高貴な人々が鬼神となって国家に災いを起こすと信じられていたからだ。鬼神の呪いを封じるために神社で祭神として祀った!そして天変地異が発生する度に祟りを鎮める祈祷を行ったと言うことだ!

それでも天変地異は発生するので、皇祖神スサノヲに繋がる蘇我氏が最初に仏教を導入した。その後、空海がシナから直接輸入した真言密教が霊験があると信じられた!つまり神道も仏教も全て怨霊の呪いを封じて国家を鎮護する目的で導入されたと言うのが真相だった!

科学技術が発展した現代日本では最早不要だと考える人がいるかもしれない!しかし、科学で解明できないものもある!さらに、火山列島の日本は自然災害が頻発する!自然災害などから復興するには国民が力をあわせ、助け合わなければだめだ!

そのためには長い歴史とその中で培われた伝統・文化を大切にする日本民族でまとまることが必要だ!

修羅場では外国人がどういう振る舞いをするかよく知られていることだ。
だから日本では多文化共生は素晴らしいなどというきれい事は通用しない


そういう日本国民の統合の象徴になれるのは国民を大御宝とし、国家鎮護と国民の安寧をひたすら祈り続けてきた天皇陛下とご皇室以外にない!

日本国民は古代からそのことをよく理解していたから、王朝交代やシナのような易姓革命などは決して起こらなかったのだ!

皇祖神に最も近い血筋の男系男子の天皇陛下だけが国家国民のために怨霊を抑える霊力があると信じられてきた。

ひたすら国民を思い、ご祈祷して頂くことこそ伝統を重んじる日本国民の願いであり叡智であると思う!

今進行している皇位継承問題に国民ごときの口出しを許す驕慢な国民主権そのものが大間違いなのだ!

また、反日国家の暴虐はこのように日本人が劣化したことが原因だ!

日本政府が占領政策として反日国家を育成した!皇祖神の祟りとも云える!

憲法が占領期に不正に押し付けられた本当の目的を知れば、欺瞞の日本国憲法を廃止すること以外に日本を救う手段はないと日本人なら分かるはずだ(*´Д`)

**********************************
(注1)住吉三神はスサノヲを指すので、旧奴国王族の末裔であるヤマト王権成立後に創祀されたものと考えている。また、『隋書』「倭国」に「倭王の姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩鶏弥(大王、おおきみ)というもの、使いを遣わして闕に詣(いた)らしむ。」とある。『宋史』「日本国」に日本の僧が献上した「王年代紀」が以下のとおり書かれている。「初めの主は天御中主(アメノミナカヌシ)と号す。次は天村雲尊(アメノムラクモノミコト)と日(い)う、其の後は皆「尊」を以って号と為す。次は天八重雲尊(アメノヤエクモノミコト)、次は天弥聞尊(アメノニニギノミコト)、・・・、次は彦瀲尊(ヒコナギサノミコト)、凡そ二十三世、並びに筑紫日向宮に都す。彦瀲尊の第4子は神武天皇と号し、筑紫の宮自り大和州樫原宮に入居す・・・」とあり、倭王が天氏(アメウジ)であると分かる。天は海を意味し、海神を祀る海人族であると考えている。筑紫日向宮は、博多西部の早良平野と伊都国のあった糸島との間に高祖山日向峠があり、その付近を王宮としていたと思われる。ただし、王宮は固定ではなく、弥生時代初期は吉武・高木遺跡、中期に須玖岡本遺跡に置かれた模様。、後期には那の津と須玖岡本遺跡の間に直線道路が建設されて、さらに運河も併設されている(那珂遺跡)。奴国の最盛期は糸島市の井原鑓溝遺跡あたりに王宮を移したようで、最大版図は朝倉地区までだろう。そこを記紀では高天原と呼び、故地を懐かしんで大和盆地にも同じ位置関係の同一地名を採用している。その旧奴国を倭王帥升の一族が乗っ取り、邪馬台国連合になっても伊都国で内政・外交の実権を男王が握っていたと考えている。


(注2)安曇族は海人族の中で最も広く日本列島を動き回り、水田稲作の適地や鉱物を探索したと考えている。日本各地にゆかりの地名を残している(例えば安曇野、渥美半島や滋賀など多数)。邪馬台国の安心院町も元は安曇族の拓いた土地だ。ワタツミ三神は海神「豊玉彦」・「竜王」と呼ばれているので、歴代奴国王のことだと思われるから、安曇族は元々奴国王族の配下の海人族と考えている。

(注3)仲哀天皇は『日本書紀』では父の日本武尊(ヤマトタケル)の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあって、実在には疑いが持たれている(Wiki「仲哀天皇」より)。しかし、神武天皇に逆らってニギハヤヒに殺されたナガスネヒコがトヨ(神功皇后)とスサノヲ(武内宿禰)に殺された足仲彦(たらしなかつひこ=仲哀天皇)の跡を継いだ尾張王であると考えるので、ヤマトタケルの子のヤマトの大王ではないが実在の尾張王だと考えている。

(注4)「魏志倭人伝」では「狗奴国」と蔑称され、卑弥呼に敵対する男王が「卑弥弓呼(ヒミヒコ)」で官は「狗古智卑狗(クコチヒコ)とされる。その男王が「先代旧事本紀」にあるニギハヤヒの子ウマシマジで「日本書紀」の第10代崇神天皇だ。「狗古智卑狗」は熊本の菊池彦ではなく冨来隆氏が宇佐神宮の摂社の伝承から指摘した「木々遅命(ククチノミコト=武内宿禰)」と考えている。武内宿禰が大国主命ということになる。

(注5)これが四隅突出型墳丘墓だ!館内に展示された四隅突出型墳丘墓の巨大ジオラマ

(注6)6世紀から7世紀にかけて活躍した蘇我氏の一族の推古天皇の和風諡号は豊御食炊屋姫尊、王都は神功皇后と仲哀天皇が倭国追討で落合った場所と同じ豊浦宮としている。日本各地に豊橋など豊のつく多く地名は倭の女王トヨにちなむものだ。貞観年間に大地震が発生すると大和朝廷は神功皇后の祟りと考え、各地のゆかりの神社で位階を追贈している。

(注7)記紀では神功皇后の三韓征伐としているが、倭の五王の事跡を隠すために創られたと考えている。その時期は半島支配の正統性を主張するためにシナの官位を貰っていたので、冊封体制に組み込まれていた事実と帥升からトヨまでの倭国の歴史を消すために創作された。

(注8)宗像三女神についても、「古事記」には大国主命がタギリヒメを娶り、「播磨国風土記」ではオキツヒメは伊和大神(=大己貴=大国主命)が娶り、「先代旧事本紀」でもオオナムチが辺津宮の高津姫神を娶ったという神婚伝承が残されている。「出雲国風土記」でも宗像姫神と大国主命の子が賀茂大神(アジスキタカヒコネ)だとして、「新撰姓氏録」で宗像氏は出雲神大国主6世孫の吾田片隅命(アタカタスミノミコト)としている。
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