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抹殺された尾張氏の謎(その1)

2024-04-05 18:20:10 | 古代史

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#2022-02-04 11:58:53に記事にしましたが、どういう訳か図のリンクが切れてしまっていたので修理しました。よろしければ、お付き合いください(#^.^#)

#2023.9.16 この記事を書いた時点では仲哀天皇とされた尾張王の名前が乎止与命(ヲトヨノミコト)で、同様に景行天皇とされた尾張王が熱田神宮祭神建稲種命(タケイナダネノミコト)とは気づいていなかったようです。従って、下の本文の中で仲哀天皇と景行天皇のそれぞれの和風諡号タラシナカツヒコ(足仲彦尊)とオオタラシヒ(大足彦尊)で書いていましたので、それぞれ乎止与命と建稲種命に改訂しました(^_-)-☆

いつもフォローしている古代からの氏族系譜調査の達人の以下のブログで表記のテーマについてコメントのやり取りをさせていただきました。いつも分かりやすいように心がけてはいますが、千年以上もかけて複雑に絡み合っていますので、当方の表現力不足のために分かりにくいところもあるかと思います。こちらが思い込みで書いているところもあるかも知れませんので、疑問点がありましたらご遠慮無用でコメントいただけると助かります。どうぞ、お付き合いください。

日本古典全集の中の 久里 卑弥呼は日巫女 ??
2022-02-02 九里【九里】を探して三千里


九里氏が縄文系か? (katumoku10)
やっぱり卑弥呼が気になるのならクリ氏とつながりがあるのかも知れませんよ(^_-)-☆
(卑弥呼は)和邇氏の祖先ですが、日本建国の残された大きな謎が尾張氏なのですよ。歴史から抹殺されました。
今、わずかなヒントを頼りに解きほぐそうと頑張っていますが、少し明かりが見えてきました!
延喜式神名帳に登載されている「尾張国山田郡和爾良神社」の候補が七つもあるんです!そしてこの神社、何と読むか、ビックリ仰天です。ワニラ神社じゃなくてカニラ神社だったのですよ(^_-)-☆
春日市和爾良神社の主祭神は宗像氏と同じアタカタスですから間違いなく和邇氏ですけど!何でカニと読む?どうおもいます?例のサルカニ合戦と関係ありますよ。(^_-)-☆


下の拙ブログでもコメントのやり取りをさせていただきましたので、要点のみ。
サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?
kunorikunori様
臼・牛糞・蜂・カニ・鉄砲玉 だとすると、栗は鉄砲玉であったかもしれません!
もしかすると、投擲武器に栗が、いや、鉄か何かの塊が使われていたのでしょうか?
いや、そのあたりにある石ころですよね。

刮目天
おっしゃる通り鉄砲玉は栗の別名でしょうね。はじけて鉄砲のような音がしますから。ということは、あの時代には鉄砲は無かったので、元は栗で、栗を鉄砲玉と変えたのは火縄銃が種子島に伝来した後ですね(^_-)-☆
イガ栗をぶつけられたら痛いですよね。
あの当時は土器の投げ弾を革ひもか蔓などで回して投げたようです。どこかにありましたが、結構命中精度も高かったようです。卑弥呼の居た宮ノ原遺跡でも見つかっています「本当に卑弥呼の墓なのか?」の図参照)。あんなのがアタマにあたったら頭がハゼますよ。イガ栗も痛いですが、こちらは気絶するか死んでしまうでしょうね(*´Д`)


ということで、親(タラシナカツヒコ、仲哀天皇)がサル(大国主久々遅彦)に殺された子カニ(建稲種命、記紀の景行天皇)の助っ人に、鉄砲玉、つまり栗がいて、桃太郎(ニギハヤヒ、伝承では吉備津彦)でも家来はイヌ・サル・キジが一般的になっているようですが、実は元は、栗、臼、蜂、牛の糞のようなのです(詳しくは拙ブログの付録参照)。つまり、子カニのこれらの助っ人は饒速日(ニギハヤヒ)大王の直系の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ、崇神天皇)の部下の物部勢(ニギハヤヒ大王の家来だった江南系倭人アズミ族や出雲の縄文系海人ムナカタ族)だと考えています。栗が、九里氏の祖で、臼と蜂は今のところ分かりませんが、牛の糞は牛頭天王スサノヲの時代からいつもスサノヲに付き添って、金魚の糞のように動いていた家臣という意味ではないでしょうか。

さて、「尾張国山田郡和爾良神社」の七つの候補のどれが当たりかについては、名古屋神社ガイドに名古屋市名東区猪高町猪子石原の和爾良神社について詳しく解説されていて、とても興味深いです(注1)。結論は明確ではありませんが、それぞれの神社の創建時期などから考えて長久手市長湫宮脇の景行天皇社ということのようです。景行天皇社については長久手市郷土史研究会の資料によれば、
祭 神 大帯日子於斯呂和気命 (おおたらしひこおしろわけのみこと・景行天皇)
由 緒 書紀による第12代・景行天皇を祀り、承和4年(837)に創建されました。同年の棟札が残っており、平安時代の「延喜式神名帳」に記載の山田郡の「和尓良神社(かにらじんじゃ又はわにらじんじゃ)」であるといわれています。天保3年(1832)に景行天皇社の神主が出した書状に「鎮座の旧地ハ・・(中略)・・字神井堀南麓ノ字和尓原ナリ」とあり、その地は現在の蟹原(地名)と思われます。一方、尾張誌(1835)には「往古は根神といふ地にあり」と記されており、創建から時を経て、蟹原の高根に建てられた社を「根神」と呼ぶようになったと思われます。現在も、根の神蟹原は長久手市内の地名で、隣接しています。
とありました。創建当時の地名は「和尓原(ワニハラ)」と呼ばれていた模様です。

景行天皇社が遷される前の場所である根の神と蟹原の二つ地区を調べると、弥生時代の遺跡は見つかっていないようですが、蟹原に道了山大雄院という曹洞宗の寺院がありました。ここは福井県の永平寺、鶴見の総持寺に次ぐ格式のある神奈川県南足柄市の大雄山最乗寺(応永元年1394年創建)の別院で、ネットには30年くらい前に創建されたとありました。曹洞宗ですから本尊は釈迦牟尼仏なのですが、観音堂におそらく最乗寺の創建に関わり、守護者と尊崇される道了尊がその化身とされる十一面観音像があるのではないかと思います。また、道了尊は最乗寺を護るために天狗に化身したとされますので、最乗寺と大雄院の境内には天狗の像や大きな高下駄と団扇が置かれています(「天狗の正体もヤッパリ」参照)。

そして、ここでも驚く発見をしました。なんと、ピラミッドがあります。そうです、そうです、そうですよ。大国主のシンボルなんです(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。そして十一面観音像は女王台与の本地仏ですから(「「日本書紀」編纂の真の目的?」参照)、蟹原の地は二人を討った日本書紀では景行天皇とされている尾張王建稲種命に関係しています。



平安時代までは大国主・台与の倭国を滅ぼし日本建国を成し遂げた尾張王に因む社名だと思いますが、ここに元の景行天皇社があったのでしょう。延長五年(927年)にまとめられた『延喜式』で「尾張国山田郡和爾良神社」として隠されたので、江戸時代頃に地元の人々の努力で現在の場所に遷されて景行天皇社の名称にしたということでしょう。遷された現在の場所付近が弥生時代後期の壺が採集されている宮脇遺跡ということではないかと思います(注2)。

では、なぜ当時の朝廷が、日本書紀で景行天皇とされた尾張王建稲種命を祀る神社を和邇良神社と書いたのでしょうか?

文字の意味を考えると、和邇が良いということは尾張が悪いという意味ですから、倭国征討軍の大将の尾張王乎止与命(記紀の仲哀天皇)が狗奴国王を裏切って倭国の男王に立ったので、征討軍の副将大国主久々遅彦に寝返った和邇氏の祖の赤坂比古が討ったという史実を表しているのだと思います(「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」参照)。しかし、地元の人々が「カニラ」と呼んだのは、本来の社名を強引に変えさせられていますので、親を殺されたのだから尾張王建稲種命(景行天皇)が敵討したことは悪くないと暗に主張したのだと思います。

しかし、本来ならば日本を建国した尾張王建稲種命はヤマトの英雄として称賛される資格はあったのですが、親の仇とは言え大国主と女王台与を討ったことは、二人の祟りが怖ろしいので、大和朝廷は二人の子ホムダワケ(応神天皇)を纏向に呼び寄せて丁重に祀らせました。だから、尾張王を日本書紀で景行天皇とすることによって表向き称賛しましたが、尾張の功績は正史で隠されてしまったわけです。それどころか、尾張王の本当の名前まで隠されてしまったようです。

じゃあ、どこかに本当の人物が隠されているのか?推理しました。次回「抹殺された尾張氏の謎(その2)」に回すことにします(*^-^*)

【参考記事】
【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)





(注1)この神社ガイドによると、名東区の和爾良神社は『延喜式』神名帳(927年)の山田郡和爾良神社の論社のひとつ。
 他の論社は6社あり、和爾良神社(春日井市上条町)、朝宮神社(春日井市朝宮町)、両社宮神社(春日井市宮町)、天神社(春日井市牛山町)、神明社( 名古屋市名東区本郷)、景行天皇社(長久手市長湫宮脇)が候補として挙げられている。7社も論社がある式内社は名古屋ではこの神社だけだ。それだけよく分からないということを示している。すでに失われた可能性も高い。
とあり、『愛知縣神社名鑑』(神社庁)によれば正式には「ワニラ」だそうです。

(注2)「I-G-2号窯跡」愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第 129 集2 0 0 5「長久手町が昭和 55(1980)年に行った遺跡分布調査によれば、内万場遺跡で旧石器時代の剥片石器、権道寺北遺跡で縄文後期の深鉢の胴部、宮脇遺跡で弥生後期の壺形土器の胴部などが採集されているが、遺構を確認するまでには至っていない。また古墳時代中期までの様相も不明な部分が多く、今後の解明が待たれる。」とあります(p.3)。宮脇遺跡の場所ですが、恐らく現在の景行天皇社に隣接する地区と思われます。


ここまでお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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